#murasaki20220801
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habuku-kokoro · 2 years ago
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2022 年8月1日開演17時 初演
紫式部ー雲隠れー
原作 稲坂良比呂 原案 島崎藤村(夏草より『天の河』) 脚本 スミダガワミドリ 音楽・演出 神尾憲一 振付 源川瑠々子 京劇指導 張春祥
場所 観世能楽堂
演者 紫仙女 源川瑠々子 前口上(紅仙女) 柳志乃
解説 稲坂良比呂
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habuku-kokoro · 2 years ago
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プログラム 〜公演に寄せて〜
2022 年8月1日開演17時 初演
紫式部ー雲隠れー
原作 稲坂良比呂 原案 島崎藤村(夏草より『天の河』) 脚本 スミダガワミドリ 音楽・演出 神尾憲一 振付 源川瑠々子 京劇指導 張春祥
場所 観世能楽堂
演者 紫仙女 源川瑠々子 前口上(紅仙女) 柳志乃
解説 稲坂良比呂
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habuku-kokoro · 2 years ago
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ひとり文芸ミュージカル 『紫式部―雲隠れ―』 トークセッション 源川瑠々子(紫仙女) × 馬場紀衣(文筆家・ライター)
ひとり文芸ミュージカル 『紫式部―雲隠れ―』 トークセッション
源川瑠々子(紫仙女) × 馬場紀衣(文筆家・ライター)
ひとり文芸ミュージカル『紫式部―雲隠れ―』の初演が2022年8月1日、観世能楽堂にて行われた。紫仙女を演じた源川瑠々子さんに作品の魅力、役への思い、振り付けの秘密、そして舞台の裏話をたっぷり語っていただいた。
馬場 舞台を終えてみて、いかがですか。
源川 まず、ほっとしました。舞台の間はそれしか考えてないので、終わると途端に人間に戻るというか。
馬場 どのくらいの期間をかけて舞台の準備をされたんですか?
源川 今回は新作だったので二カ月くらいかかりました。でも「ささめごと源氏物語―紫式部雲隠れ―」を原作者の稲坂良比呂先生と神尾憲一先生と私とでお話したのは何年も前なんですよ。
●紫式部という一人の女性について
馬場 『紫式部―雲隠れ―』を演じてみて、紫式部のイメージは変わりましたか?
源川 正直な話、『源氏物語』のストーリーは知っていましたけど紫式部についてとなると、どんな人なのかは詳しく知らなかったんです。当初は暗いイメージだったんですけれど、役を演じるにあたって調べていくと、本当にそうなのかなって疑問を抱くようになりました。
馬場 紫式部を訪ねて福井県越前市へ行ったんですよね。どんな発見がありましたか?
源川 「紫ゆかりの館」へ行って越前の空気に触れたり、そこで書かれた歌を詠んだりしたことで、すごくイメージが変わりました。紫式部は平安時代の女性としては規格外というか、才女だったということもあるけれど、近寄りがたいとイメージされがちです。でも越前へ行ってみたら、果たしてこの自然がそういう人間を作るかな?って。越前の人たちは紫式部をとっても大事になさっていて、一人の作家としてというよりも、一人の女性を大切にしていたというのが発見でした。
●舞台のテーマは「癒し」 
源川 今回テーマにしていたのは「癒し」だったんです。『源氏物語』は1000年以上も憧れの世界として皆さんの支えになってきた物語。コロナ禍での舞台ということもあって癒しを与えられたらな、って思っていたんですけれど……でも、いざ舞台に立ったら癒しを与えるなんておこがましいなって思わされました。 (笑)
それに、やっぱり能ってすごいなって思ったんです。神に捧げる舞であることを忘れたら能じゃないっていうのを本で読んだことがあるんですけども、まさにそうだなと。与えるっていう言葉を考え直した方がいいなと思いました。
馬場 瑠々子さんのおっしゃった「癒し」は、今回の舞台にぴったりの言葉だと思います。能が神様へ捧げるための舞台なら、踊り手が見ているのは観客ではないことになる。観客も踊り手を通して同じものを見ているわけだから、今回、瑠々子さんと観客は一緒になって癒しを作ったのかな、と思いました。瑠々子さんが一方的に癒しを与えるというよりも、皆で癒しを形にしていく行為そのものが今回の舞台だったのかなって。
源川 もう、まさにそうなんですよ。私が与えるというよりも、逆に皆さんからいただいたと感じました。あの空間においては、一人が与えるとかそういう問題じゃなかった。
●物語の面白さを瑠々子さんが引き出してくれた
源川 『乙姫-おとひめさま-』(2021年8月 無観客無配信上演)も観てくださっている馬場さんだから、ぜひ聞いてみたいことがあって。どうでしたか? 2作品目の「ひとり文芸ミュージカル」を観てみて。……好きな作品ですか?
馬場 『乙姫-おとひめさま-』のときもそうでしたが、昔話の住人でしかない乙姫や歴史上でしか知らない紫式部を一人の人間として目撃するという驚きと楽しさがあります。歌、身振りの中にたくさんの語りがありましたよね。物語の中では語られたことが全てだけれど、そうじゃない彼女たちを瑠々子さんは引き出してくれる。それが毎回楽しくて。家に帰って舞台を思い出しながら、もう一度『浦島太郎』や『源氏物語』を読み直したくなります。
源川 なんか、すごく嬉しい。 (笑)
やっぱり、感性が豊かでいらっしゃるからそういうところも感じてくださるんだと思うんですよね。馬場さんの中では一つの所作や動きが何倍にもなって語りかけてくるという、もう、そういう方が増えてほしい。 (笑) 
●振り付けに込められた意味
馬場 私はもともとバレエを踊っていた人間なので、すごく気になったんですが、今回の踊りはどこから来ているんですか?
源川 大きく分けると中国舞踊と舞楽です。『源氏物語』で光源氏が舞う「青海波」という舞楽があるんですが、海に対しての壮大さとか感謝の気持ちを海の波などで表したりするんです。舞楽は、雅楽とかの演奏といっしょにされる踊りです。 
馬場 手の動きがすごく面白くて、惹きつけられました。
源川 マニアックな話なんですけれど……平等院の鳳凰堂の中に飛天という天女たちが楽器を演奏したり踊っていたりする像があるんですけど、それのポージングを研究したりもしました。
馬場 要所要所、仏像の手にも似た振り付けでしたよね。
源川 仏像の手にも意味があるんですよね。お釈迦様の手にも、説法しますとか、あなたに対して心を開いていますとか。言ってみれば手話(メッセージ)になっているんですって。これからもっと掘り下げていきたいなって思っているところです。
●光源氏は女性達にスポットを当てるための光
源川 光源氏って結局は女性達にスポットを当てるための光の役割じゃないですか。スポットを当てるための主役であり裏方でもあるというか。そういう意味でも月の光だったり太陽の光だったり、天と地との繋がりが『源氏物語』の中に感じられるんですよね。
馬場 紫式部自身はこうした天上の物語をどのように読んだのでしょうか?
源川 越前を訪ねたことで中国との交流があったことが実体験として感じられました。想像ですけども、中国の書物もそこで手に入っていたりしたのかな、って。物語も聞いていたかもしれませんね。『源氏物語』には、楊貴妃のエピソードも出てくるんですって。
馬場 『長恨歌(ちょうごんか)』※ですか?
※中国唐の詩人、白居易による長編の漢詩。唐代の皇帝・玄宗皇帝と愛妃・楊貴妃の悲劇を詠んでいる。
源川 そうです! そういうものも、エピソードとして『源氏物語』にふんだんにあるんですよね。昔の書き手の方たちって中国からの物語の影響を大いに受けていると思うんです。だから牛郎織女を紫式部が知らないはずはなくて。で、実際そう思わせるような箇所がある。
●「ひとり文芸ミュージカル」は唯一無二の存在
源川 私も、どういう風に見えているのか観てみたい。「ひとり文芸ミュージカル」って皆さんにどう観えているのかなって。
馬場 「ひとり文芸ミュージカル」は唯一無二だから。人に紹介する時、どう説明しようかっていつも困っちゃう……。
源川 馬場さんはどうやって紹介するんですか? (笑)
馬場 アヴァンギャルドだって、紹介します。 (笑)
非常に斬新で前衛的だよって。私がこれまで観てきたどの舞台とも違うし、私が経験した舞台にもない。客席でしか体験できない何かがあると思います。でも、こうして丁寧に舞台を振り返ってみると、気付きがとても多いです。
源川 私にとっても、ありがたい機会でした。こうしてお話しできたことでまた目標が出てきました。 いつもステージが終わると、終えての感想を書くんですけど、今回は出ていくときに「瑠々ちゃんお帰り!」みたいな感じがお客様から伝わってきた気がします。「瑠々ちゃんが来たー!」みたいな。 (笑)
す��我に返って「紫仙女に戻らないと!」という葛藤もありました。お客様の気持ちがダイレクトに伝わってくるのがライブの良さだと思う。まだ不完全燃焼のところもあるので、ここからまた皆様に育ててもらうこともあるかもしれません。
馬場 じゃあ、次にお会いするときは紫式部も少し変わっているかもしれませんね。
源川 それも、ちゃんと更新しとかないと。次に観るときは既に一回観ていますからね。ちゃんとしとかないと、ごまかせない部分があるので。そこが再演の難しさですかね。 (笑)
馬場 この次の舞台でもまた新しい発見がありそうです。この度は本当に貴重なお話、ありがとうございます。
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habuku-kokoro · 2 years ago
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能楽堂舞台に、新たな地平を視る 稲坂良比呂
<劇評>
能楽堂舞台に、新たな地平を視る
稲坂良比呂(劇作家・香文化研究家・省心会メンバー)
  ひとつの文学作品、描き出された真の心、生み出したひとりの作家_________その世界を読み取り読み取り、脳内いっぱいの情報を、削ぎ、省き、研ぎ、舞台に形象化する。それが創造を重ねてきた「ひとり文芸ミュージカル」。シンプルである故に余白あり、その余白に、観る者の心が自由に入りこめますことを。
 8月1日、東京銀座の夏の宵、観世能楽堂で初演成った『紫式部ー雲隠れー』は、憂き世情下、能楽堂1/3のみを客席とし、全席招待客のみの一回限りの公演でした。この時発信され、この空間に満ちたものは、何か?
 この舞台から見えるものは、まだ未完成かもしれませんが、新しい地平を拓こうとする創り手の、思いの力が熱量となって能楽堂に響いていました。
観客の心には、どのような響きだったのでしょうか?
それは、十人十色、百人百様であれば幸いです。この舞台は、紫式部と『源氏物語』を見つめ、気づき、翔び、削ぎ省き研いでみた形。つまり象徴とその余白です。その余白に、それぞれの感応をいただければ幸いです。
 『源氏物語』と紫式部、まずは一般的知識をお持ちの方、イメージはあっても本当は知らないという方、逆にご自身の『源氏物語』と紫式部像をお持ちの方と、お客様の数だけ、それぞれの言葉をいただける舞台でありたい、と思います。そして紫式部と『源氏物語』を、自分の言葉で語る人が、一人また一人と、増えて行くことを願うものです。
 私自身の体験から少々______40年前(1982年10月)、ニューヨークの国連本部(大ホール舞台)で、日本の伝統芸道「香道」が、初めての世界へ向けて、実演紹介。私はその構成・演出を担当。演目は『源氏物語』54帖を5種の香木の香りで設定する「源氏香」。言語、文化も異なる各国の人々から大きな反響を得、全米に報道。そして米国各大学への「源氏香」巡演へ。まず、NYはコロンビア大学。迎えてくれたのは、ドナルド・キーン教授。米国における日本文学研究の第一人者の、熱い『源氏物語』と紫式部愛に圧倒されました。西海岸、UCLAでは、ハンス・ベアワルド教授、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』と『源氏物語』こそ、世界が感嘆する日本人の美意識そのものであると、熱く語りました。現代、世界各所に紫式部を深く敬愛する研究者たちが数多くいます。
1941年、NYのタイムズスクエアの古書店で偶然手にした一冊の本で、一人のコロンビア大学の学生の人生が変わりました。本は、『源氏物語』、学生の名は、ドナルド・キーン。晩年、日本に帰化し、文化勲章も授賞。
    紫式部から850年の空白を経て明治、二人の女性が魂の作を世に放ちます。歌の与謝野晶子(『源氏物語』の後継者でもある)と、小説の樋口一葉。紫式部の13年余に比し、一葉の僅か
13ヶ月の作家生活での早世も哀しい。『紫式部ー雲隠れー』この能楽堂舞台の余白に、晶子と 一葉の姿も浮かぶようです。
 この先『紫式部ー雲隠れー』は、色々な思いや、気づきが受け取れる舞台となりますように。 8月1日の観世能楽堂は、その第一歩の舞台であったと思います。
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habuku-kokoro · 2 years ago
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歌舞の菩薩・紫仙女――ひとり文芸ミュージカル「紫式部―雲隠れ―」を鑑賞して――  倉持長子
<劇評>
歌舞の菩薩・紫仙女
――ひとり文芸ミュージカル「紫式部―雲隠れ―」を鑑賞して――
倉持長子(国士舘大学専任講師・省心会メンバー)
――我は天女の使いなり
来たりて地塊の民たちに男女の哀れを読み聞かせ
道標たる生きがいを
与えし役目と思し召し…
 『源氏物語』では、雅かな王朝文化を背景に、卓越した美と天賦の才に恵まれた光源氏が数々の個性的な女君たちと恋模様を繰り広げる。と同時に、光源氏は逃れえないおのれの宿世の罪の深さに恐れおののき、常に宗教的救済を希求している。こうした明暗の両義性に満ちた『源氏物語』は、千年以上ものあいだ、読者に煌めく王朝絵巻への憧憬を抱かせ、一方に人間は業や罪から救われるのかという深い問題を突きつけてやまない。「これは本当に人間の創造物なのかしら」と懐疑的にならざるを得ないような、汲めども尽きぬ泉のような魅力と哀しみと謎とに満ちた奇跡の作品、それが『源氏物語』なのである。それゆえ、『源氏物語』が書かれた後、作者である紫式部は人間ではなく、『伊勢物語』主人公の在原業平とともに、愛欲の道に堕ちた者たちを救済する「観音」として崇め奉られていた。今回発表された新作・ひとり文芸ミュージカル「紫式部―雲隠れ―」もまた、『源氏物語』の作者・紫式部を生身の女性ではなく、人間を超越した存在である「紫仙女」として象っている。冒頭に挙げたように、本作品の序盤、紫仙女は自らについて、民たちに男女間の悲喜こもごもの情趣を伝え生きがいを与えるため、つまり教導するために地上に降り立った、「天女の使い」であると語っている。
今回、女優源川瑠々子さんが能舞台という神聖な空間で演じた「紫仙女」は、仮に才女紫式部として地上に一時姿を見せ、父子の情を味わい尽くし、文藻で人々を魅了し、当時の一大権力者藤原道長との恋を経験してさらにその感性と知性に磨きをかけ、遂にその才を十全なものとして物語を擱筆し地上を翔り去っていった。その姿は、まさに人間ならざる「仙女」としてこの世に「顕現していた」というにふさわしいものであった。「仙女」のオーラは、その身体から存分に発揮されていた。しばしば紫仙女が発する「ほやのう…」というぼんやりとした口ぶりが生み出すゆるやかな時間の流れ、一方に人間の本質を鋭く見抜くように右へ左へと目まぐるしく動くまなこ。特に印象的だったのは、第一に、いつまでも聴いていたいと心魅かれてやまない――もしや迦陵頻伽の声とはこのようなものかしら、と思われるような――美しい歌声であった。第二には、世阿弥による天女舞の名手・犬王に対する評「さらりささと、飛鳥の風にしたがふ」がごとく舞台を駆け巡る優美でしなやかな舞である。その神々しい姿は、まさに歌舞の菩薩のように鑑賞者たちを夢心地へ誘い、慰撫し、やわらかな風のように静かに消えていった。
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habuku-kokoro · 2 years ago
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紫式部―雲隠れーを拝見して 花千代
<劇評>
紫式部 ―雲隠れーを拝見して 
花千代 (フラワーデザイナー・省心会花部幹事)
瑠々子さんがすり足で橋ががかりから現れた瞬間、わたしは悟ったのでした。
能楽堂の設え、雰囲気、空気、すべてを纏われご自身と一体化した物語の紡ぎ手としての存在になられた、ことを。
三越劇場から初めて能楽堂に場を移しての前作『乙姫さま』では、劇場と違う寸法や見られ方に慣れていないためか、表現にややぎこちなさを感じたのですが、今回の雲隠れは新作というよりお能の演目になってもおかしくないような脚本であり、演者の成熟を目の当たりにして感激しました。
紫仙女が時空を超え語りかけるのは
「光には陰あり。陰は闇となり、人は闇の中で一条の救いの光を求め続ける、そういう物語を私は書いてみたい」の言葉。
世界がコロナで沈黙したこの3年間、私たちが求めていたのは、まさに一条の救いの光だったのではないでしょうか。
ひとり文芸ミュージカルというジャンルと能楽堂という場は新しいケミストリーを産みだしました。勝手に次のテーマは夕鶴?竹取物語?などと空想をして...(笑)
新作を楽しみにしています!
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habuku-kokoro · 2 years ago
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「ひとり旅ゆく紫式部」をみた 米田佐代子
<劇評>
「ひとり旅ゆく紫式部」をみた
米田佐代子(女性史究者)
 わたしが最初に源川瑠々子さんの「ひとり文芸ミュージカル」を観たのは『三毛子』でした。夏目漱石の『吾輩は猫である』が下敷きになっているのですが、登場するのは「吾輩」がひそかに思いを寄せるメス猫の「三毛子」。彼女が雑誌『青鞜』ならぬ『青足袋』をひろげ、あどけない表情で「元始、メスネコは太陽であった」と読みあげる痛快さに惹かれ、以来瑠々子さんのファンになりました。
次の『乙姫―おとひめさま』は、乙姫から「開けてはならぬ」と渡された玉手箱を開けてしまう浦島の物語ですが、それだけだったら乙姫はずいぶん残酷な女性か、竜宮の掟にしばられた「かわいそうな」姫とみられても仕方ない。しかしここでの乙姫は、「あなたがもうこの海底の都に帰ってこないのなら、わたしが出て行ってあなたとともに暮らしましょう」とうたい上げるのです。瑠々子さん演じる乙姫はただかわいいヒロインではなく、じぶんの意志で愛を切りひらく女性として描かれたのだと感動しました。
 そして今回の『紫式部―雲隠れ―』です。紫式部といえば「源氏物語」を措いては語れないとだれもが思うのに、「原案」として名指されているのは島崎藤村の詩「天の河」で、七夕がテーマです。牽牛織女も雨になれば会うことができない悲恋物語ですが、舞台にはそれも直接登場しません。紫式部ははじめから「仙女」として現われ、父に従って越前に赴き、やがて藤原宣孝と結ばれたのも束の間、乳飲み子を残して夫は世を去る悲劇から藤原道長に認められるいきさつが語られます。重要なのは彼女は決して道長の想い女として召されたのではないということです。紫式部は、時には思案に暮れながら「人のあわれを書きつぎ語りつぐ」ことをみずからの使命としてあの壮大な「源氏物語」を書き��した。そこに彼女の「個」として生きる思想が深く込められている、というのがわたしの今回の感想です。
 しかし、女性が「個」として生きることは、同時にだれの助けも借りず(あるいは得られず)、いわば「孤」として生きることでもあるとわたしは思います。平塚らいてうは『青鞜』を発刊して「新しい女」という非難を浴びた時、「誰も助けてくれない」嵐の中で、「自分ひとりの力と信念」だけを頼りに現実に立ち向かいました。紫式部もまた「個」として生きることの困難をいやというほど自覚しながら物語を紡いでいったのだと思います。劇中くりかえされる「ほやのぉ(そうねぇ)」という少しとぼけた独白は、彼女が誰にも倚りかからず、自問自答しながら自分ひとりの道を歩いていくキーワードではなかったか。瑠々子さんが演じた紫式部には、そのような女性像が投影されていたという気がします。
 わたしは、信州上田市郊外のクマやカモシカが出る山林の一角にらいてうの記念施設「らいてうの家」を建設して10数年館長を務め、この春退任しました。その経験から、らいてうを自然に溶け込んだ「やまんば」だと感じたことがあります。能『山姥』では、山姥は人を取って食う恐ろしい女ではなく自然の叡智の化身となってひとり山野を巡る女性として登場しますが、今回『紫式部』がいみじくも銀座の観世能楽堂で演じられたことに偶然ではない思いを抱きつつ、瑠々子さんが次の「ひとり文芸ミュージカル」ではさらに進化した女性像を提出してくださることを期待してやみません。
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