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勤勉な巫女たち - 矢島翠
敗���の日、それまで戦士として疑いもない存在理由をもっていた日本の男性の性格は一変し、つやつやと栄養のいい顔をかがやかせて乗り込んで来た背の高いヤンキーたちの前で、彼の男性としての感覚は萎える一方だった。両性の権威や、役割を象徴していたさまざまな生活の装飾物が、空襲でいちどきに消えてしまった焼土の上には、むきだされた礎石のように、女たちのすがただけが目立った。彼女たちの子どもをつくる能力は、敗戦の打撃とはなんのかかわりもなかったし、日本の男性とは対照的に、彼女たちの女性としての感覚にも、少しも変るところがなかったのである。女であることの感覚に新鮮な緊張をあたえてくれる対象として、日本の男たちがその役を果せないほど無力になっていたにせよ、新たに、かぎりなくたくましい、カーキ色のシャツの男たちが、周囲にいた──。
戦争直後の日本映画が、戦後思想のたてまえを観念的な、性急な口調でヒロインの口を通じて語らせたのは、GHQの製作方針指令に従った面がもちろん強いだろう。だがそれ以後もずっと女性がスクリーンでたてまえの代弁者として描かれている伝統は、私にはミードが挙げた幻想の子宮の家の中の男たちの話を連想させる。あの八月の暑い日とともに失われた、自分が男性であるという確かな感覚を、ニューギニアの男たちが出産のまねで獲得するように、女性の肉体を借りた演技によって取りもどそうとする作者たち。
その最初の印象的な演技が、木下恵介の『大曾根家の朝』と、黒沢明の『わが青春に悔なし』だった。戦時中の思想弾圧で戯曲の筆を折られていた左翼作家久板栄二郎が、二作のシナリオを書いている。ヒロインはともにリベラリストの大学教授の家庭の女性である。『大曾根家─』の母親、杉村春子は、陸軍幹部である小沢栄太郎の義弟が象徴する“軍国主義”のために、子どもたちを次々と戦場や牢獄に奪われて行くあわれな被害者である。『わが青春─』の娘、原節子は、尾崎秀実を思わせるコミュニスト藤田進との「ギラギラした、目の眩むような生活」にとび込んで行き、夫が処刑されたあとは���押しかけ嫁」といった感じで、農村の藤田の実家で老父母につかえ、彼の妻であることをまっとうする。こちらは帝国主義に向ってたたかった堂々たる女闘士である。一方は徹底した被害者、一方は抵抗者。戦争にたいして少しも手を汚さなかった女性の、二つの理想型である。国策映画に協力せず、シナリオ・ライターのなかでは稀少価値ともいえる“きれいな手”を持った久板にその理想型をつくり出してもらうことで、監督から観客までふくめた男たちは、自分たちにとって必要だった“無垢”の演技をしおおせたのではないか。もし男性が主人公だったなら、藤田のようによほど英雄的な反戦主義者を持って来ないかぎり、幻想の無垢の状態は、これほどの説得性を持てなかったに違いない。
その代り、男たちの幻想を荷なって、スクリーンの女たちは、純潔で無垢な身がらのまま、戦中から戦後へと運ばれてしまった。日本の「肝っ玉おっ母あ」がその片鱗なりと描かれるには、六〇年代の今村昌平『にっぽん昆虫記』まで待たなければならなかった。「母」は無傷で、戦後を迎えたのである。
女は実際に奪われる一方の、徹底した被害者であるだけだったろうか。すべての母が、子どもたちの生命をまもろうとする本能的な反戦論者だっただろうか。私にはそうは思えない。女たちはある意味では、男たちより熱烈な愛国主義者だった。天皇のために散華する男の情念を支持し、その姿に陶酔したのは女たちだった。真珠湾攻撃の特殊潜航艇の若い“軍神”たちが出撃前に撮した記念写真が新聞に掲載されたあと、姉の女学校友達の間で、彼らの容姿が情熱的な話題になったことをおぼえている。いまの中学生のグループ・サウンズ熱と同じようなものだが、それよりもはるかにひそやかな憧憬にみちていた。『江田島』という題名の、海軍兵学校の生活を撮した写真集を姉が買ってもらうと、友達が入れ代り立ち代りわが家にやって来ては、廟の前で黙想する青年の顔に見入っては、胸をときめかせていた。戦争末期になると、さらに特攻隊の白いマフラー姿が対象になった。戦争の指導者たちにとって必要だった死に行く若者たちのイメージの美化は、若い娘たちの心を酔わせ、次々に登場する美しい死の行為者に対して、娘たちはより以上の美しさを求め続けていたのである。
あるいは、いつか浦山桐郎監督らとの話に出て来たことだが、日の丸の小旗をちぎれよと振って出征兵���を見送った、愛国婦人会の母たち。彼女たちは一夜で大曾根家の母親のように、兵士らを死にかりたてた者を糾弾する側に変り得たのだろうか。女は思想のたてまえをたちまち自分の本音と信じ込み、たてまえと情念をいっそくとびに結び付けてしまう。こうして皇国の巫女たちのかがやく眼差しや憑かれた口寄せもまた、兵士たちを死にかりたてる、大きな力の一翼となっていたのではないだろうか。
(「シナリオ」1968年)
矢島翠『出会いの遠近法』(1979年、潮書房)所収
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