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#lincoronazionedipoppea
jkimisyellow · 7 years
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@salzburgerfestspiele has been so real. It might have been just a short week, but it was filled with great music, dear friends, and unforgettable memories. … 1. Rehearsal of #lincoronazionedipoppea at the historic #felsenreitschule with #HanaBlazikova #SirJohnEliitGardiner and @monteverdi_choir_orchestras 📷: @carlo.vistoli 2. Lovely brunch with #RAORejectsClub founding member @christinagansch who sings Servilia in #LaClemenzadiTito with #GoldaSchultz 3. In front of Mozart's statue with my love @baashulya 📷: @davinaviolin 4. Glow-in-the-dark teeth photo with @baashulya and @tonghenry at #Mexxx #monteverdi450 #salzburgfestival #debut #nerone #speranza #orfeo #singerlife #countertenor #opera #baroqueopera (at Salzburger Festspiele | Salzburg Festival)
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eggenburgprinzessin · 6 years
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[モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』、そしてクレンツィス+ムジカエテルナ ベートーヴェン・チクルスもいよいよスタート!]
今年の音楽祭もいよいよクライマックス。この時期になると一日二本立ての日が続くから、聴き手としての体力と感性のキャパシティも大いに試されることになる。 こちらのカレンダーでは宗教上の祝日の8月15日(聖母昇天の祝日)、まず午後3時から「モーツァルトの家」劇場にてモンテヴェルディのオペラ『ポッペアの戴冠』。指揮はウィリアム・クリスティ、演奏はレザール・フロリザン、演出はヨーロッパでも超左派の革新的演出家、オランダのヤン・ロワース。 モンテヴェルディの『ポッペア』はここ数年、日本にいても鑑賞の機会がとても多かった。モンテヴェルディが昨年が生誕450年の記念イヤーだったこともあるし、古楽オペラの中では比較的演奏時間が短いので、舞台に載せやすい、ということもあるだろう。とりわけ昨年秋、鈴木優人指揮のバッハコレギウム・ジャパンの公演は、長くくっきりと印象に残るような、素晴らしい演奏だった。日本には優れた古楽演奏者がいるので、いい演奏に出会う機会も多くなるが、しかし、この『ポッペア』に関しては、たとえ音楽が素晴らしくても、なかなかそのストーリーを追うのが大変だ。つまり、私たちがモラルとして持っている「善は勝つ」的な価値観が一切通用しない、悪人がハッピーエンドになるプロットなので、それをどう捉えるかに戸惑うわけだ。ネローネ(ネロ)帝は部下オットーネの妻ポッペアに恋し、ポッベアも女帝の地位が欲しいこともありネローネに執心している。哲学者セネカにそのアンモラルをつかれると、ネローネは直ちに自ら命を絶つように命じ、妃オッターヴィアは流刑にし、ポッペアを殺めようと図ったオットーネも国外追放し、邪魔者をすべて追い払ったのちに、ふたりの愛のアリアの中にポッペアが戴冠するのである。 これはヘンデルの縺れまくるあらすじのレベルをはるかに超えて、とても現代人には理解しがたい世界なので、よくある演奏会形式で淡々と歌っていくのが無難な落とし所と言えるだろう。 私自身も、『ポッペア』を観るときはあまりいろいろ考えないようにしていたのだが、たまたま昨秋、バッハコレギウムの演奏を聴く直前に、ボッカッチォの『デカメロン』をつれづれに読んでいた。ペスト流行時のフィレンツェで、疫病を避けて田舎にこもった男女10人がそれぞれ1日に1話ずつ10日間小話を語るという一種の箱物語で、その話の内容は、言ってみれば中世風与太話なのだが、この物語集には、それこそ『ポッペア』風のストーリーがザクザク埋まっている。年寄りのもとに嫁いだ若く美しい妻が、うまく夫を追い払って若い恋人とハッピーエンドなどはワンパターンか?と思うほど繰り返し出てきて、そして、この類の話を聞いている美しい淑女たちが大喜びで、「それはそれは歯が抜けるほどお笑いになりました」とあるのである。これを読んでいると、なんというか、近世以前のヨーロッパには、現代とは違った笑いのツボがあるのではないか、と思えてきた。ボッカッチォとモンテヴェルディの間には200年の時代差があるにせよ、『デカメロン』の物語のパラダイムは、何度聴いても謎だった『ポッペア』のストーリーに接近するヒントを与えてくれるような気がしたのだ。 もしかしたら、ギリシャの人々が、都市の円形劇場で、とんでもない悲惨な内容の神話劇を見てはカタルシスを得ていたように、中世やルネサンスの人々もまた、受け入れがたいほどぶっ飛んでいるオペラや音楽劇の「逆さまの世界」に「歯が抜けるほど」爆笑しながら憂さ晴らしをしていたのでは?…そう思うと、ポッペアの歌詞やレシタティーヴォの言葉のひとつひとつが改めて味わい深く思えてきた。 こういう視点もまた、もしかしたら「無理やりこじつけ」のひとつのパターンなのかもしれないが、古い物語を無理に現代風に解釈しようとせず、これはこれで昔の人のお楽しみ、という風に向き合うおうとすると、意外と毒々しくなく綺麗に収まってくるのがこの作品ではないかと思う。 さて、今日の『ポッペア』には、この類の繊細な切り口ははなから期待できそうもなかった。作品のプロモーションフィルムでは、演出のロワースが攻撃的な口調で「この作品にはセクシュアリティとエロティシズムを読み取るしかない」みたいなことを言っていて、なんだかひどい「ポッペア」になりそうだ、などとも思っていた。 ネローネは、かの有名なネロ帝で、興味本位の歴史秘話が古くから多く語られ、猟奇的なエピソードが一人歩きしがちな皇帝である。歴史の業界では、いまは、どのような人物、事件に関しても、従来語られたイメージを覆す慎重な分析が常識になってはいるが、演出家の世界ではまあそういうのは通用しないのだろう。舞台イメージをちらっと見たら、もうそこは、1960年代のハリウッドが作った古代ローマの空想世界のように、ズバリ酒池肉林であった。 もうとにかく舞台がうるさい。全曲を通して、ロワースが率いるダンス集団、ニードカンパニーのダンサーたちが踊りまくっている。中央にお立ち台があって、そこに、磁石で動く自動人形のように、結局終幕まで、ダンサーが交代で終わりのないピルエットの回転を続けていた。そしてそのダンスたるや、犯したり傷つけたり、ダンサーも最後は血まみれで、なんだか見ていてげんなりした。セネカが死のうという時に、歌手の足元に若い男性がひとりゴロゴロ音を立てて転がってきたのは、もうもはや謎である。 クリスティとレザールフロリザンはさすがに見事な演奏だった。写真のように、舞台の前にオーケストラピットがあって、中央にそれを渡る通路があり、客席側に張り出した前舞台へと繋がっている。通路でオケピが分断される形だが、こうして形成された二つの空間に、チェンバロを一台ずつとリュート、テオルベ、チェロによる通奏低音を置き、そして、旋律を導く楽器として、右側にはオーボエ二本、左側にはバイオリン二本という配置をしていた。いわば、ほぼ同じ編成のアンサンブルが左右に二つ、相似をなして向き合っているのだ。クリスティは左側のチェンバロで弾き振り、そして、右側のピットではベノワ・ハルトワンがもう一台をジャカジャカ鳴らして華やかだった。奏者もさすがうまくて、ひとつひとつの楽器が、輝き出るような音���で鳴っていて、本当に良かった。 オペラ全体としては、原色ケバケバの、泥沼の悪人物語として仕上げているから、ソニア・ヨンチェヴァのポッペアは、夫を捨て邪魔者を容赦なく追い払う、ごく分かりやすい烈女である。ヨンチェヴァの声と歌唱は以前から古楽向けではないと思っていたけれど、今回のような大きな劇場で、しかもダンサーの入り乱れる中でこの役を歌うには、危なげなところがなくてなかなか良かった。元々の女王様キャラなので、「烈女」というイメージにもピッタリ合っていた。 ネローネ役のケイト・リンゼイは、ちょっとイッちゃってる雰囲気の、ドラッグ中毒の両性具有的ロックスターみたいな独特のキャラクターを作っていた。ネローネとポッペアはソプラノ同士の「女の子カップル」になるから、お色気烈女のヨンチェヴァと、この危ない中性的なネローネが、危ういけれどチャーミングなカップルとしてそれなりにうまく釣り合っていたと思う。リンゼイの声が個性的。どちらかといえば声帯を開いて大きな声を出すヨンチェヴァとは対照的に、細く伸びのいい独特の声で、喉を回して歌う箇所などは思わず聴き惚れた。 セネカのレナート・ドルチーニとアモーレのレア・デザンデレがなかなか聴かせる歌唱をみせ、そして、ポッペアの乳母、アルナルタのコントラルト、ドミニク・ヴィスがコミカルな演技と歌いで客席を惹きつけた。 音楽は極上、歌手も悪くはないのだが、全体に、歌として聞かせるというよりは、物語を語って聞かせるような演奏になっていて、極力歌手に「歌わせないように」指示しているかに思える場面も多かった。『ポッペア』は何度も観ているので、演出が多少ひどくてもさらっと聴いて楽しめるかもという気持ちでいたが、休憩含めて三時間半あまり、じっくり聴いて、ただただしんどい『ポッペア』であった。                                                          ***
『ポッペアの戴冠』終演後、一時間半で頭を切り替える。 20時開演で、お隣の「岩場の馬場」劇場では、今年最大の期待のコンサートシリーズ、テオドール・クレンツィス率いるムジカエテルナによるベートーヴェン交響曲全曲演奏チクルスが、いよいよ今日から開幕した。 クレンツィスとムジカエテルナは、ザルツブルクでは昨年、おなじ会場でモーツァルトの『皇帝ティートの慈悲』のピットに入り、即座に話題を独占した。ロシアのペルミから積極的にヨーロッパ中で客演して、時とともにどんどん人気が高まっているから、今年は、まだ出演歴の浅いオケとしては異例の四回連続演奏会が決まったところ、スケジュール発表になるやチケットの引きが殺到し、たちまち完売してしまったようだ。聞くところによると、今年の最難関チケットは、ドミンゴでもネトレプコでもなく、クレンツィスだったということだ。 とはいえ、チクルスの会場は今日だけがやや規模の大きい岩場の劇場で、あとの三回は少し小さいモーツァルテウムなので、祝祭大劇場での公演に比べると出回ったチケットそのものが少ないということもあるのだと思う。
チクルス初回は、楽聖最後の交響曲、第9番「合唱つき」からスタート。コーラスも、この若きマエストロのもとで歌っているペルミオペラ付きの合唱団をつれてきている。会場に入ってみると、開演前から皆すごい熱気で待ち受けている。そして、楽屋がないこの劇場、脇の通路から登壇したムジカエテルナ、皆頬を上気させ、初々しい。少しだけ遅れて舞台に上ったクレンツィスは相変わらずのオーラ感。脚にぴったりとしたレギンスのようなパンツ、そしてジャケットではなく、ふわりとタックをとったチャイナシャツの黒づくめである。 とにかくクレンツィスのタクトに目が釘付けだった。音楽の中に深く入り込み、まるで作曲家の精神が憑依してしまったかのようなエキセントリックさだが、見ていると、何をどうしたいのかが比較的よく分かる指揮ではある。オペラの時もそうだったが、棒は持たない主義らしい。そして、ムジカエテルナは全員が立ったままの演奏(最後の写真、譜面台の高さに注目していただきたい)。そこに生み出される独特のスヒード感があると言われるが、確かにかなりハイテンポで先へ先へと前のめりに進行するベートーヴェンだった。テンポも完全にクレンツィス独自のペースだが、各所にかなり個性的な作り込みをほどこしている。特に印象深かったのは、四楽章の「歓喜」のテーマを、チェロから奏ではじめて総奏に持っていくところ。チェロの導入を、極端に弱音にさせている。これは、蠢めく音のカオスの中から希望のメロディが流れ出すところなので、静かに旋律が響き始めるアイデアはいいのだが、ただ、この超弱音を、ふっと時々ゆるめて大きくさせたりしている。歓喜のテーマを奏でる音が、フーッと弱くなっては、またウワン、と妙に大きくなる。この眩暈のような作り込みがあまり好きになれず、また随所にこういうことを仕掛けているから、出来上がったベートーヴェンがあまりにクレンツィス色に染まりきっている。これは絶賛して受け入れるか、首をかしげるか、二つに一つのところだと思う。 クライマックスの合唱部分は、オケもコーラスもすきなくまとめてさすがに迫力だったけれど、クレンツィスの"Alle Menschen werden Brüder"は、人類の歓喜の歌ではなく、まさに、帝王のファンファーレとして響きわたった。両手を広げて”Freude”を導き出すクレンツィスは、まさに自らの勝利の響きを引き出しているようにしか見えなかったのだ。あまりにもユニーク。この演奏者については、もう、それしかないだろう。 「岩場の劇場」は音響���よくないので、まだ決めつけはできないが、ムジカエテルナもまだまだ若いオケだ。その響きには青臭く未熟な部分が多い。今日の第9番では、バイオリンは力強く美しかったけれど、低弦部は若干弱く、ホルン、トランペットはだいぶんバラバラしている。そして、全体に雑味を含む音色で、でもこの点は、クレンツィスのキャラクターと理想に合っているのかもしれない。 これはこれでこのオケの特質にもなってくるだろうが、ただ、いまのようにいろいろな形で情報が拡散されてしまう時代、クレンツィスとムジカエテルナのような、物質的な無駄を排除し、自己を研ぎ澄まして音楽と向き合うような芸術家が、安易に情報ソースに乗せられてどんどん拡大し、新しい時代の立役者にまつりあげられる過程が、なんだか空恐ろしかった。何も考えず、終曲を待って即座にブラヴォーを叫ぶ人たちは、本当のベートーヴェンがどんな作曲家で、どんな演奏がオーセンティックで、クレンツィスがそこから離れて何をしようとしているのか、そんなことには微塵の興味もないだろう。音楽が商売道具に利用される切なさを、クレンツィスとムジカエテルナのスターダムへの道のりに、感じざるをえないのである。 このチクルスを四回全て聴けるのは、特権ともいえるほどの幸運だが、会場がモーツァルテウムに変わったら、少しはじっくり聴けるかもしれない。明後日が楽しみだ。
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