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notenoughtoplay · 4 years ago
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a letter of sorts vol. 17 あらゆる面で吠えつづける星たち(未完の散文)
(2021年3月24日、以下の文に記したバンドの最初のドラマーが亡くなったことを日本時間同月25日の朝SNSで知りました。心よりご冥福をお祈り申し上げます)
 サチュロスのダンス!      すべての奇形が舞い上がる          ケンタウロスに  リードされ      乱舞する音だけのコトバ  ガートルード      スタインの作品--しかし          ただのおふざけで  芸術家に      なれるわけはない  夢は      追い求める! (「画家たちに捧げる」ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、原成吉訳)
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 回想からはじまる話だ。回想は第164回芥川賞を受賞した宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読み終えたことでひき起こされた。面白かった。よくいわれている表現の巧みさ見事さもさることながら、構成が非常によくできていた。とりわけ「書かない」部分の選択に舌を巻く。書く部分を緻密に描いて、書かない部分、読者に想像力を使ってもらう箇所の選び方も緻密で、周到だった。その筆頭にあげられるのは「推し」である彼の苗字に(この字からいってきわめて自然な読み方である)ルビがふられているのに名前の読み方はわからない点だが、他にも姉との関係性、たとえば小さい頃のテレビなどの「推し」につながる思考の部分や、どんなテレビ番組を一緒に見てきたかも全く描かれないので想像するしかない。あと、主人公の背丈。これを書かないことで似たような体験を持つ女の子たちはみな感情移入しやすくなる。これが少しでもヒントになることが書かれていればぐっと感情移入の母数は限定されてしまう。とても緻密な構成に唸らされた次第である。そういえばちょっとSNSでは「推し」をどう訳すかが話題となったが、たとえば「推し」の彼の下の名前の読みは、当然のことながら表意文字であらわされる言語では翻訳家が音を「定義」しなければならない。これはなかなか難儀な作業に思える。  主人公の進路がどんどん苦境に陥ってきて姉と妹の口論の描写が増えていくところで、ふとイングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』を思い出した。ベルイマンで姉妹の出てくる映画といえば『沈黙』だけど、ぞっとするような静けさではなく激しさが伴ってるから、『ペルソナ』のビビ・アンデションとリブ・ウルマンの論争にならない口論。きつい陽射しに映される口論。『推し、燃ゆ』読み終えてこれも『ペルソナ』と同じだ、炎上ではじまり日に照らされて終わる点では同じだ、と思った。死ぬほど虚しい陽光に照らされて。  物語を書かれた宇佐見りんさんとはまるで世代が異なるのだから当然だが当方には「推し」が何を以て「推し」とするかなんて考えたことなかったし思ったこともなかった。それがふと考えざるを得なくなったのは『推し、燃ゆ』を読み終えて数日後にあなた真空管を見ていた時だ。    あなた真空管。いまこの文をお読みになっている方で真空管を見たことある人はどのくらいいるのだろうか。自分がものごころついたとき、さすがにラジオやステレオには入っていなかったがテレビは1台真空管を使ったものが現役だった。19型の家具調カラーテレビだった。「家具調」テレビというのものに対しても説明が要るけれどももう説明もしんどいし検索すればわかるだろうから省く、ともかく真空管を使っていた。真空管は寿命が短くてすぐ切れた。切れるたびにテレビを動かし裏側を表に出してくっついてるボール紙をネジ廻しで外して新しいのと替えていた。50年かそこら前までテレビの裏側というのは必要上簡単に開くようにできていたのだ。いま自分のすぐ手元にある、洋書屋で立ち読みを何度もされて表紙から数ページがパカパカになってバーゲン品として売られていたものを愛用してる英語辞典「長男」でtubeと引いてももはや真空管のことは載ってない。かわりに(?)8番目の意味として載ってるのは  technical: the part of a television that produces the picture on the screen  とあって、これはどう考えてもブラウン管のことであるが今の十代いや二十代でも若い方はブラウン管���わからないかもしれないだろうがやはりここで説明は面倒なので話を先に進める。そのときPCをひらいてあなた真空管で音楽の動画を検索しそして見ていたのだ。洋楽のライヴ映像だったが1980年代の洋楽ではなくもう少しあとの頃のだった。横の、いわゆる「この動画をご覧になる方次はこちらはいかがでしょうか」の候補の一覧にそのバンドは挙がってきたのだった。曲目はそのバンドの曲ではない。そのバンドの活動時期からほぼ15年前のクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイバル(CCR)の曲をカヴァーしているものであり、このカヴァーは聴いたことなかった。この曲はアメリカがベトナム戦争参戦時に書かれた、作者であるCCRのジョン・フォガティにとって切っても切れない曲でもある。その、サムネイルといわれてるが足の親指というより幕の内弁当のスミッコにある栗きんとん1個分の大きさくらいのリンクにカーソルをもっていってどんっとタップした。  このバンドはアルバム2枚出して解散した。幸か不幸か、1枚めのあとに「推し」だった人以外全員当時その人のプロデューサー兼マネージャーだった男がメンバーを入れ替え、というかクビにして2枚めが作られたのですぐこの映像は1stアルバムの頃だとわかる。いまから36年前、1985年のライヴ。このバンドの映像は以前も検索したことがあるが、見始めると明らかに以前にみたときとは違う思いがあった。率直に言うと何かが弾け飛んだような感じがした。何故かはわからない。『推し、燃ゆ』の終盤のライヴのシーンを思い出したからかもしれない。「推し」だった人のバンドの来日公演はなかったので観ることはかなわなかったし、恥ずかしながらこの人が来日した直近の、8年前の公演にも行けなかった。ソロになってから来日したとき、たしか27年前の2月末に一度行ったきりだ。    ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★  2021年2月13日夜の地震、専門家のあいだでは東日本大震災の余震という見解の多い大きな横揺れが自分の部屋にも来た。読書が好きな方は積んだ本が、音楽が好きな方は積んだコンパクトディスクが倒れて落ちてきた、という方々も多いのではないか。それはある年代以上の人だろうか。10年前の震災のときはラックからたくさんCDが落ちてケースが割れたりした。今回の大きな揺れでは積んだCDは落ちなかった。CDを最近聴いてなくて、周囲に要塞のように買った本が積まれてしまっているからだ。要塞というより、事故のあとの建屋のほうがイメージは近いかもしれない。つまりコンクリートで固めているように外から本で中のCDを囲んでいる。流れでそうなってしまっ��のだ。  揺れが続いて文庫本が落石のはじまりのような音で2冊落ち、3冊8冊14冊って落ちてきた。おさまったかな、余震くるんじゃないかなと思ってそのままにしていて、多分1時間後くらいだ、落ちてきた文庫本の中でいちばん上にあった一冊を拾いあげた。そのときはもう、前の段落にしるした一件があってから一週間は経っていて、「何をみてもその人を思い出す」、のべつかつて「推し」だった人のことを考えている状態になっていた。  その一冊の、以前自分が、いわゆる独立系zineのひとつから文章の依頼を受けたとき、このエッセー集の中から引用させていただいた、その文を開いた。引用したのは「B子ちゃん」が出てくる箇所だった。そして、その前の「A子ちゃん」の箇所に目が入った。くりかえしになるが、何をみても「推し」だった人を思い出す状態になっていたときだ。       A子ちゃんはふとって、髪がたくさんあって、いい顔立で、しかし眉根がちょっと悲しげに寄っていて、おとなしい子だった。     (幸田文「こども」)    あらまぁ。そっくりじゃないか。「おとなしい子」以外おしなべてそっくり、自分が高校の頃「推し」だった人、その人がハイティーンを過ぎた頃にそっくりじゃないか。    ここに気づいてから、気づいた自分を省みた。そしてちょっと恥ずかしくなった。海外にも日本にも、何年もゴシップにあがりつづける人から今なにしてるのかわかんない人まで好きなミュージシャンはたくさんいる。が、どういうわけか、まったく客観視できない人はひとりだけだ。そもそも『推し、燃ゆ』を読み終え、誰が自分の「推し」といえる人だったのか中学高校の頃を思い返し考えたとき。なんでこの人しか思い出さなかったのだろう。  ソロになってからのこの人のアルバムははいつも発売日に買ってた記憶がある。でもバンドの頃はレンタルで借りて、あとから輸入盤を買ってた。だからその当時、少なくともアティテュード、こちらの態度面ではいちばん好きなバンドだったとはいえない。  いちばん歌をうたうのがうまい人だと今でも思ってるからだろうか。高校に入って洋楽を聴きはじめたときにできた雑誌の創刊号の新人特集に載ってて、バンドのデビューからずっと知ってるからだろうか。バンドが売れなかったからだろうか。ソロになってから大ヒット曲があるがその前から知ってるぞという所謂オタク心からだろうか。  どれもそうである気もする。しかし決定打ともなりえない。  『推し、燃ゆ』の主人公が推しの情報をルーズリーフに書き込む、あの一文に反応した気がする。  この人のバンドだけ他と違うのは、ノートを持っていたことだ。  それには理由があった。  僕の姉もノートを持ってつけているバンドがあった。ビートルズだった。姉がノートを書いていたとき、ビートルズはすでに解散してた。  姉のつけてたノートもさすがにそうだろうけど、自分のも引っ越しのときに捨ててしまったはずだ。いまは記憶を頼るしかない。  僕のノートは姉のと違って、バンドは現役の若手バンドだ��た。  ノートにつけていたのは日本語の歌詞だった。    「何をみてもその人を思い出す」話にもどる。たとえば、自分の���推し」だった人は、21歳か22歳の頃、こんな歌詞を書いてる。歌の中の人が、要するに「何をみてもその人を思い出す」心になっているときの曲のなかの一節。        Every trace, every vision      Brings my emotions to collision  この曲をはじめて聴いたのは17歳のときだ、だらしない高校生だった。そりゃそのときはこれがどれだけ詩的に優れた表現かなんてわからない。申し訳ないけどそこから34年たって、やっとわかることである。  この人はライヴの人だ。それはこのバンドやこの人のファンには誰でもわかっていることだ。ライヴの映像だけでなくテレビ出演の映像でもすべて生で唄っている。当時の洋楽ミュージシャンとして、これは珍しいことである。そして34~35年前はお金払ってでも観たかったライヴの映像が簡単にみられる。この人のファンには根強くて熱心な人が(やっぱり)いてたくさん投稿されてる。好きな曲を検索すると関連を察してくれて他のライヴもひっぱりだしてきてくれる。歩いていくと果物畑はどんどん広がっていって、バンドのものもソロになってからのものも38年前の実も31年前の果物も27年前のも12年前のも6年前のもバスケットに投げ入れていってそして味わう。  ソロになってからは正直いってそんなに聴いていない。でもバンドの曲はどれも唄える。いっしょに唄える。なんというか、こういういいかたも恥ずかしいが余裕をもって唄える。唄いながら、ノートに書いた歌詞を思い出してる。日本語のほうの歌詞。    34年前。1987年の2月か3月だった記憶がある。たしかTV雑誌のスミッコにあった新譜紹介欄で、このバンドのライヴのVHSソフトが発売されるのを知った。発売日に買った。それは輸入盤の表に日本語のシールをつけていただけのものだった(当時のことを知っている方はわかると思いますが、特に音楽関連のビデオソフトは日本盤はテープを包むようなプラスチックケースに入っていて、輸入物は簡易版というか、テープを差し込む紙ケースに入って売ってるものがほとんどだった)。��説も入っていなかった。これを夜家族がみんな寝てから、お湯を沸かして紅茶を淹れたり冷蔵庫からジュース持ってきたりして、誰もいない応接間のテレビでくりかえし観ていた。テレビにソニーのヘッドホンを挿して。まだ密閉型のヘッドホンなんて家庭用にはなかった(まだ費用をかけずに軽くする技術がなかったから。密閉型は重かったのだ)。たしかいちばん軽いヘッドホンのひとつだったはずだ。それをかけて60分近いヴィデオを通しで観ていた。7曲あるうち、2曲目に入っていたバンドのデビュー曲でブリッジ(サビ)のあと、3番からやたら客席が盛り上がるのが大好きだった。画面の中からはなんでそこまで盛り上がるのか全くわからない。でもそこが好きだった。なにしろあれだけ湧くんだからそんなフンイキ自体があったんだろう。そしてこっちも盛り上がってコードがひっぱ��れてヘッドホンがカサブタが取れるみたいに頭から抜けたりなんてことがよくあった。それを季節がかわっても何度も観ていた。  34年経って、その7曲は1曲ずつ分かれて、先述の「あなた真空管」にアップされている。自分の狭い部屋で、机にウィスキーのお湯割りをもってきて、PCに100円均一の店で買ったイヤホンを挿して、あなた真空管にアクセスした。どれか聴いてみようかと思って、最初に2曲目を聴いた。そしてブリッジのあと、歓声が盛り上がるところでお湯割りを吹いた。  盛りすぎだ。  浮いてる。途中の歓声だけ浮いてる。あとから付けたのがまるわかりである。歓声というよりもうこれは陥穽に近い。なんで昔はわからなかったのかわからない。これでこの7曲は振り返りづらくなった、ということだけは記しておく。どうしても盛ってるところで笑ってしまうのだ。ライヴ自体は変わらず昔を思い起こさせるのだが。いくら盛り上げたところでバンドは売れなかったね、という点も含め悲しささえおぼえる。  そして、もちろん34年経って歓声を盛ってるのがわかった理由は、自分の耳が良くなったからではない。あまたのデバイスの、種々の面における精度があがっただけのことである。  「あなた真空管」にあがっているその人のいくつかの(いくつもの)ライヴ映像や音声、そこにつけられたコメントを読んで感じるのは、とりわけバンド時代の記録へのコメントに対して、その人を単独の「ソロミュージシャン」としてより「バンドのフロントウーマン」としてもっと長いこと観ていたかったという気持ちが強く表れていることだ。  実際、いま当時のバンドのときのライヴを観るとこの人の当時のある種の「引き受け方」には、あの年ごろですごいなと素直に感心してしまう。その人は昨年、新譜を出したときに受けたインタビューで曲を書くときに若い頃の自分のヴィデオを何度も観たと言っている。自分のその時の気持ち、その時どうなりたかったかを思い出そうと。それをふりかえり「野生のエナジー」だったと言っている。これを読んだときは今もその人の、自分の大好きな部分は変わってないんだなと思ってうれしかった。そして、結果的にバンド時代の最後のシングル曲となってしまった歌の詞の一節を思い出す。  「どんな台風でも目のなかに入れば、そこには静かな夜がある」  34年前の、先ほど触れた頃より少し前。1987年になったばかりのときに自分がテレビを観てた話。日本のテレビでおそらく唯一、(さっき触れたライヴの一部がヴィデオクリップになっていたものを除けば)このバンドのライヴが、オーディエンスのいたライヴがOAされたとき(注1)。1987年1月1日の未明だった。それはMTVのライヴ特番だった。  先述のとおり高校生だった。いちおう中継先とこっちで時差があることくらいはわかっていた。わかっていたはずだ、自信はないが。でも日本とアメリカのどっちが先に新しい年を迎えるかなんてことは全くわかっていなかった。だから、あれは元日になって午前1時前後だったかもっと遅くだったか、テレビ朝日(当時、MTVの番組を流してた)���画面から「推し」だった人がHappy new yearって言ったときああ向こうも年が明けてるんだなと、今思い出したら恥ずかしさで笑うしかないような記憶も残っている。そして、あの中継、ライヴの中継自体を衛星生中継なんだと思っていた。うちにあるビデオデッキで録画はしていた。けれど3倍モードだった。テープに出費できるほどお金をもってなかったのだ。  最初に画面がステージに切り替わったときにその人が何か言っていたのだ。Happy new yearっていう前に。"Welcome to ...kon"。...の部分が日本のだらしない高校生の耳ではききとれない。会場はスタジオじゃなくてどこかのライヴハウスなんだろうか、そこの名前だろうか。なんて思っていた。先述のとおり、このバンドは2枚出したアルバムのメンバーがまったく違っていて、このときは86年にセカンドアルバムを出したときの5人である。5人が2曲(アルバムからの2つのシングルカット曲)つづけて披露し、中継は終わった。このとき複数のバンドが出演したが自分の好きなバンドはひとつだけだった。だから画面をみていてこのバンドが登場したことに気づいた時にスタンバイ状態から一時停止ボタンをはずして録画したはずだ。あとで録画したテープをかけてみると"Welcome to..."と言いだすところで始まっていた。これまた何度も、3倍モードのテープを観ていたのだ。34年前。  その映像もいま「あなた真空管」でみることができる。実は今回ほぼ35年ぶりに自分が観たライヴ映像はほとんどが10年前後まえに投稿されたものだ。だからほぼ25年ぶりにライヴの映像を見つけ耽溺する機会もあり得た。自分の怠慢なのかもしれない。ただ、笑われてもしょうがないが35年くらい経たないとわからないこともある。  いま見直すと、その人は、ここではっきりと、  「サテリコンへようこそ」と、言っている。  申し訳ないけれど、34年経ってやっとわかった。    satyrikonの訳。(中略)サテュロス劇は、ディオニューソスに従うコロスとして登場するサテュロス(Satylros)たちにちなんで、そのように呼ばれる。サテュロスは山野に住む精霊(ダイモーンdaimon)で、顔と姿は人間であるが、身体は毛におおわれ、馬の耳と尾、ときには馬の足をもつものとしてあらわされる(のちにはさらに山羊の要素をもつようになった)。     (「詩学」アリストテレース、松本仁助・岡道男訳より、「サテュロス劇的なもの」の注釈から)    いまグーグルにsatyrikonと入力し検索すると「もしかして:satyricon」と表示され、フェリーニの映画の原作となった(伝ペトロニウス作の)物語が大きく出てきて、同時に映画のソフトを「おすすめ」される。前段の引用のような語義(?)は上位には出てこない。並記されるのならまだしも、ひとつしか出てこない。それはきっと、これでひとつ映画のソフトウェアが売れるかもしれないという具体的な「要素」、売り上げのための要素と結びついているからだろう。ここでいうsatyrikon (satyricon) は自分が捜している意味と違うと思うので、もうひとつ別の文献から引用する。    ディオニューソスの随伴者として、もっとも通例現われるのは、かの山羊脚をしたサティール(正しくはサテュロス)の群れである。しかし彼らは本来は特別にディオニューソスに縁故の者ではなくて、ただ山野に群れる生類の精にすぎない。ヘーシオドスも、「ロクでなしの、わけのわからない所業をするサテュロスたち」と呼んで、ニンフらや、クーレーテスの兄弟分にしている。(中略)  その姿は通例山羊の角や耳、長い尾に、蹄(ひづめ)のついた脚をもち(アッティケー州では、馬の尾をつけ、馬的であるのが特徴)、毛ぶかく、鼻は低く、くちは大きく、しばしば興奮した男性器をもつ、ふつうは若い青年男性の精霊である。しかしその心性はもっと素朴に野性的で、遊戯をこのみ、色情的でとくにニンフたちをからかったり、ふざけたりして喜ぶ。要するに野育ちの自然児で、深いたくらみや強い力もなく、積極的な悪とは全然かかわりのない、愛すべきいたずら者、というのがギリシアの都会人の空想する、このサテュロスであった。  彼らは群れて、あるいはディオニューソスやその他の山野の神に伴って、跳ねまわり踊り狂う、そして笛や笙(しょう)をこのんで奏でる。このような姿と性徴とをもって、かれらは春ごとに悲劇と併せて上演される、サテュロス劇に舞唱団(コロス)となって現われた。     (『ギリシア神話』呉茂一)    自分が「推し」だと思ったその人はここで自分と自分のバンドをサテュロス、愛すべきいたずら者に譬えていたのだ。いま、とてもはっきりと聞こえた。  Welcome to satyricon.  って。恥ずかしいけどいまから10年前ではわかっていなかったと思う。  その映像では4曲披露されてる。これは"MTV New Year's Eve R&R Bowl 1987"の映像なので、1986年12月31日のステージということになる。で、自分が34年前にテレビで見たのはここでの2曲目と4曲目(!)なので、あのときの映像は「2曲つづけて」ではなかった。何回も自分に笑ってしまうが、あの時点で最初から録画されたものを流していたことに、そのときは気づきもしなかった。この動画を投稿した人は几帳面な人なのか、3曲目の一部は途中でカットされてて(しかもいっしょけんめいつなぎを目立たなくさせている跡があって、それもつらい)、4曲目は途中で終わってる。当時のMTVの中継がこんな形で途中で切れちゃったとは思えないので録画してたテープが終わりになってしまったのか、もうテープがボロボロになっているので出すのを控えたのかどちらかだろう。あのときのテープを持っていればとも思うしあのとき標準モードで録画しておけば……と思ったりもして、なんにしても34年は長いものだ���思う。  結果、自分の中で「推し」だった人の、"Welcome to satyricon."を反芻するだけだ。  同じ日の別の動画もみることができた。これはその時のアンコールだったのだろうか、「石鹸とスープと救いの歌」の映像だ。この歌は「推し」だった人の歌のうまさが最も感じられる歌であり自分には思い入れの強い歌だ。自分たちをサテュロスにたとえた人らしいいいライヴであり歌なんだけど、このステージのほぼ10年後にオランダのテレビでオンエアされたらしいドキュメンタリー(これも今回発見した)で彼女は「私のプロデューサー兼マネージャーは私をスプリングスティーンにしようとした」と言っていて、それを踏まえて見るとそれなりに悲痛でもある。(「すべてやってみた、やってみたけど……なんにもうまくいかなかった」。)途中でなにか別の歌を挟んでいる。なんかきいたことあるなと思って、やっとわかった。ヴァン・モリソンが作って自分のバンドで唄い、それをジム・モリソンがドアーズのステージで唄って、その形式に則ってパティ・スミスが唄いつづけているあの曲だ。自分の「推し」だった人は地縁(?)的にはドアーズの系譜を、表象としてはパティ・スミスの系譜を継ぐ人のようにも思える。    誰があの文を書いたのだろう。あの一文、レコードレビューの中の、最後の句点を入れれば25字の文。あれがなかったらその人は自分の唯一の「推し」と思える人にはなっていない。逆にいえばあの25文字のおかげでその人の歌と歌詞を知ることができて、その人が綴って唄う言葉から自分で気づかないうちにいろいろ影響されているんだな、と35年経ったいま思う。  1985年の暮れに「ザテレビジョン」の別冊が出た。そこにテレビの記事はほとんどなくて、洋楽ミュージシャンと音楽の話がほぼすべてを占めている、今ふりかえるとすごく80年代を現している増刊号だった。中ほどに見開きのレコードレビューのページがあった。いま手許にその号がないから思い返すしかないが30枚ほどの1985年にリリースされた洋楽の日本盤が紹介されていた記憶がある。XTCの「スカイラーキング」やトッド・ラングレンの「ア・カペラ」、それからフランク・ザッパの「奴らか?俺たちか?」、あとはなんだっけ。自分がその中に、はじめて日本盤リリースされた2枚目のアルバム、プリファブ・スプラウトというバンドの「スティーブ・マックイーン」が載っているということを知ったのは翌年はじめてそのバンドの曲を聴いてからだ。それはさておき、そこにその人のバンドのレコードレビューもあった。いま記憶にあるのは最後の一文だけである。そして、少なくとも日本語で書かれた記事ではその人がソロになる前、バンドのフロントウーマンだった頃にこういった言及はされていなかったはずだ。みんなその人のヴォーカルがいいとかいった話しかしていなかったはずだ。あと(わりと今でもアタマにくるけど)かわいいとか。  そのレビューの最後の一文、  詩作面におけるユニークな才能にも注目したいところ。  このバンドのデビューアルバムは日本盤のライナーノーツにも歌詞の日本語訳はついていなかった。レコード会社が不要と判断したのだろう。時間がなかったわけではないと思う。それはなにかの事情、ここからは自分の話。先ほど引用した25文字を見てから、コピーした歌詞カード(これも日本盤のために、聞きとりにより記述されたもの)をもとに、自分が持ってたマルマンの表紙の厚いノートに、小学館プログレッシブ英和辞典を引きながら歌詞を訳しはじめた。これが自分が思い返す当時の「���業フロー」である。    例えばその人のポスターは探せば売ってたのかもしれないけど部屋に貼ってないし買ってない。その人のCDを発売日に買ったのはソロになってからで、バンドのときはレンタル屋で借りたのが最初だった。でもその人だけが「推し」に該当する人だ。それを辿ると、やはりあのノートしか思い浮かばないのである。その人はソロになって、キャリアを重ねるにつれてシンガーソングライターとして詩人として認められていった。だけどバンドの頃からその人の綴る歌詞は他のソングライターとはちょっと違っていて、そして際だっていた。    歌詞を訳しはじめてどうしても意味のわからない曲があった。石鹸とスープと救い、タイトルだけ訳せばそうなる。意味がつかめないのでちょっと英語の先生になりそこねた人に訊きにいく。    その頃、姉と自分が授業などで英語がわからないときに訊きにいく人がいた。その人は「英語の教師になりそこねた人」だった。
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(注1)実は、36年前デビューまもない頃バンドがプロモーション来日をしたときにTVK=テレビ神奈川の番組でスタジオライヴをやったのを見た記憶がなんとなくあるのだがよく覚えていない。その頃はまだそんなに注目していなかったし、なんか晩ゴハン食べながら不熱心に見ていた記憶しか自分に残っていない。 ※この話はまだまだ続きますが、ひと区切りとして載せておきます。※この話は事実にヒントを得て構成されたフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係がないように読まれれば筆者は困惑します。
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notenoughtoplay · 4 years ago
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a letter of sorts vol. 16 あらゆる面で吠えつづける星たち(未完の詩)
(2021年3月24日、以下の文に記したバンドの最初のドラマーが亡くなったことを日本時間同月25日の朝SNSで知りました。心よりご冥福をお祈り申し上げます)
花をたっとぶにはたっとい花のたとえばなしから。    たっとい花を  そのたっとい花の名を  おぼえていよう  おぼえていなければいけない    その花を  そのたっとい花を  知らない人がいるなら  伝えなければいけない  たっとい花の名を伝え  たっとい花について伝えなければ    思い出してから  その日も次の日も  たっとい花のバンドの名を  SNSで検索してみる  毎日投稿は増えていく    誰かしら 世界のどこかで  たっとい花のはなしをしている  たっとい花のうたう歌が好きで  たっとい花のタップする足を思い出しながら聴く  たっとい花のうたう言葉が大好きだったのに    しばらく  それもずいぶんと長くしばらく  たっとい花のことを忘れていた    話題になった小説を読み終えて  ふとたっとい花のことを思い出した  たっとい花をたどって  トンネルの先の光に向かっていく
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 その人は唄った。  石鹸とスープと救いの歌を高らかに。  ひとつの才能はみんなへの贈り物とも。  運命は不親切で  ドアを閉めたカギは置いていかないとも。    表紙の厚いマルマンのノートに、  その人の歌を記してた。  「こんな気持ちが罪なら私は有罪になる」。  ノートはどっかにいっちゃったけど、  筆圧だけは残ってる。    そのレコードから36年。  その人は唄ってる。  偶々(ということにしておいてくれ)、  その人のことを、  その人の歌を思い出すことがあった。  偶々さがしてた歌の横にあった。  そしてそのまま、  さがしはじめた。  動画サイトにはデビュー前の録音もあって、  バンドの頃もソロになってからも、  38年分の歌声を聴けた。  思ったよりずっと、  簡単に聴けた。  その人のsinging、その人のsoul、その人のsaintliness。  いや、それは大げさだな。  では言いなおして、  その人のsinging、その人のsoul、あとその人のChristianity。  これは知っていた、多少なりとも知っていた。  昔は見る機会が少なくてわからなかったことを、  いまになっていくつも知ることができた。  その人のstep、その人のspoken words、  と、  昔は好きになれなかった、その人の (the hit) single。  気づいてから何度も聴いている。  長かったことに気づいてから。  そして、  長く忘れていたことを悔いあらためながら。  長かった分の反動だろうか、  その人のstageを見る。  次の日もその人のstageを見る。  次の日もその人のstageを聴く。  次の日もその人のstageをさがすために  こちらはstareしつづける。  それはその人の目ヂカラに負けたくないとか、  そんなつもりではない。
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 ポスターとかさがせばあったのかもしれないけど  買って壁に貼ってた記憶もない  発売日にレコードを買いに行ったのも  ソロになるまでなかったはずだ  ロッキンオンに載ってたピンナップは  切って持ってた記憶もあるけど  ケースに入れて下敷きにしてたとか  そんな記憶もない  (そもそもあの頃、もう下敷き使ってなかった気もするな)  FMステーションについてたカセットサイズの写真を  ケースの表に入れてたのは  最初は貸しレコード屋で借りてきたという  事象の現れでもあるわけで  僕はまぁそのくらいのファンでしかない  ほかのたくさんの大好きだったアーティストと  その人との違いは  その人のレコードには歌詞の訳がなくて  ノートを作らざるを得なかった  そんなノートを作らせたのも  雑誌が出て半年たってから  あの25文字に気づいたからだった。  誰があの25字を書いたんだろう。    ほかのたくさんの大好きだったアーティストと  その人との違いは  詞のノートを記した  それだけのことだ。    その人には失礼かもしれないけど  その人がバンドをギリシャ悲劇の幕間のサテュロスに譬えようが  母親との折り合いがいかに悪かろうが  厳密には自分はレズビアンで、とつぶやこうが  わりと僕にはどうでもよくて  (僕に人の感情も嗜好も厳密になど区切れないってことを教えてくれたのはあなたの詩と歌じゃないのってことくらいは思うけど)  その人が歌をとどけてくれれば  その人がstageで唄ってくれれば、  それでいい。  まぁ、そのくらいの水準のファン。    動画サイトにはコメントをつける人がいるから、今もって  その人が愛されていることも  その人の歌を渇望する人がいることも  その人が悲しみを詩に昇華して  それを讃える人がいることも見える  そんな言葉を目にできる今は昔よりちょっといい時代かもしれない  でも35年は長い  ちょっと思い返すとつらいことがあって  この前その人が来日したときのライヴをみていないのだ  その頃もうTwitterははじめてたけど  観られなかったとかつぶやいてもない  あの時、たしか電車の中吊り広告  会場のライヴハウスの広告で知った  行けなかった理由など思い起こしてもみつからない  その時自分が失業してて  行くお金がなかったんだだけの話  だから忘れたかったんだ  少なくともその時は  だからその人のライヴには  いまだに27年前の晩冬の一度しか行ったことがない  あの頃はネットもなかったから  どの曲を演るかなんて調べようもなかった  だからあの時  演るわけないと思ってたバンド時代のテーマ曲を演ってくれて  うれしかった  出だしのコールに  僕も客席からレスポンスでこたえた  あそこで叫べるのはうれしかった  けど27年経つと感触もちょっとおぼえてなくて  その頃のライヴを聴きながら  ぼやけた画で心象返しを試みる    その人は生まれた「大陸」国より  「島国」で人気が高い人  「島国」とその近辺の大陸での大ヒット曲も  生まれた「大陸」国でヒットしていない  どうやら「島国」周辺の多数の人に  その人はナツメロの一発屋歌手と  いまだに思われてるらしい  でもその人は「大陸」の西端の  イイトコの出のひとなんだ  だからバンドのテーマ曲は  「エデンの東」だったのである  その人がなまじ歌がうまいもんで  みんな「歌手」だと思っちゃう  世の大勢は「シンガーソングライター」って  もっと歌がヘタでボソボソ唄うと思っちゃう    その人は世の中におけるふたつの術語  「歌手」と「シンガーソングライター」への  思い込みを可視化してくれる人  時に低く時に気まぐれに高い両者の垣根を  ときおりかるがる越える人    動画サイトで音だけ入った  その人の素晴らしいライヴを聴いた  そこに誰かがコメントつけてて  僕の気持ちをそのまま言ってた    「彼女がそこにいて、足で床をたたいて脚を揺らしてギターひっかきならす時。もうただほかにこんな人はいないよ!このライヴにはそこが全部入ってる!」    このコメントが好きな点は  「足」の話からはじまる点で  なにしろその人がバンドにいたときは  ライヴは観られなかったのだから  やむなく同じひとつのライヴをヴィデオでくりかえし観てたから  だいたいわかってはいたんだけど  言われりゃあの左足と右脚を  やはり思い出してしまうワケで    その人が厚底靴の左足で  床を(どんっどんって)たたいて  右足だけで踏ん張っているのに  しだいに脚だけが動き出すとき  ああ、やっぱりこの人はリズムギターを弾いてうたう人なんだなって  そのうたう姿をみながらこちらもひっそりと思うワケで    もう30年以上前だけど  その人がソロになってまもない頃  なんでそんな痩せてないといけなかったんだと思う頃だけど  深夜のジャズ番組に  それこそダロウェイ夫人ばりのパーティドレスで  ヴァン・ダイク・パークスと共演して  リトル・フィートのあの靴の歌をうたうとき  あのとき画面の下のほうに  わずかに足がうつってて、なんか  「クラリッサはそのとき、なにか居てもたってもいられないものを感じた」みたいな  歌に入る時に床をどんっとたたいたあの画が忘れられない  なにを唄ってもうまいんでよけいに忘れられない    そこから28年ほどたって  その人が��ント・パトリック・デーに  「島国」の教会の前でうたう動画をみた  「最近この曲うたってないんだ、  だってロックンロールじゃないもん」って言ってから  そのときから27年前の大ヒット曲を  ひとりギターを弾いてうたった  27年前とかわらない  というか27年前よりうまいんじゃないか  なんて思ったとき  その人の左足がどんっ、どんっ、どんっって  床をたたくのを見たときに  手前勝手に泣いてしまった  ほんとうに手前勝手に泣いてしまった    陸から陸へ  父から子へ  土でも砂でも  過ぎ去っていく    その人が36年前にうたった歌を  これも手前勝手に思い出す    誰があの25字を書いたんだろう。
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 これは長篇詩になっていく 35年分の詩になっていく 35年をぶつけるのに200行を越えちゃったけどぶつけるだけでは誰も読んでくれないので詩のかたちにしているだけ  この長篇詩はまだ続くけど 未完の経過をあげておく 終わりかただけは決まっているので 終わりもつけてあげておく その人のうたう姿が大好きだ その人の歌が大好きだ
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