【S/D】家族の思い出
クリスマスにアナ雪短編「家族の思い出」パロ。
再会して初めてのクリスマスです。アナ雪っぽい事情で成人まで離ればなれに育てられてました。両親は亡くなり、ディーンは王様、サムは王様の弟です。「パイとエールと」よりも前の話です。
☆
サムと一緒に過ごせる初めてのクリスマスだった。冷たいクリスタルが濾過した朝日を浴びて目を覚ました瞬間、今日は忘れられない日になるだろうという予感がした。死んだ石みたいな無機質なノックの音と、哀れなカスティエルの声がして寝台から抜け出す時を告げられた(おれが専任の従者を拒んだせいで、キャスは王の相談役兼宮廷侍従長兼おれの目覚まし係、この時期はクリスマスに城で開かれる食事会の装飾から運営を一手に任されている。一か月くらい寝てないんじゃないか? もっともあいつが寝ているところを見たことはないけど)。
寝不足の相談役の手前、いつまでも寝台で手足をぬくぬくさせているわけにはいかなかった。おれは自分でひげをあて、用意されていた服に着替えて部屋を出た。多忙なキャスが待っているわけはなかったがドアの前には人影があった。ぶつかりそうになった背中を支えてやろうとして、逆に腰を掴まれた。それで誰かわかった。この城でおれより背の高い男はそうそういない。
「あ――ごめん。キャスに聞いたらもうすぐ出てくるはずだっていうから、待ってたんだ」
おれは一歩離れた弟を見上げた。
戴冠式のときに着ていた王大弟の正装もよく似合っていたが――
「マント?」 金のヒイラギ葉で留められた黒のベルベット。広い肩から足元へ水のような光沢が流れ落ちている。「おまえ、マントなんか着けてんのかよ。王様のおれが着けてないってのに?」
サムはぷっとふき出した。きれいに撫でつけられた髪がひと房耳に落ちて、冬の朝の森のような香りがこぼれる。「あんたこの間の狩りでマントで足がもつれて、ルーガルーに噛みつかれそうになったってボビーに文句を言っただろ。ボビーが家政長にあんたの剣幕そのまま伝えたもんだから、すっかりマント嫌いの王様ってことになってる。気づいてなかった?」
「寒くなけりゃマントなんて無用だ、邪魔なだけだし」 薄くて防寒には向かない儀礼用の手袋を脱いで両手を擦りつける。「気が利かねえ奴らだ、今日こそマントが必要だろ。城の中にルーガルーが出るかよ?」
「寒いの? いいよ、僕の着て」
留め金を外そうとするサムを慌てて止める。「いいんだ、おまえが着てろ」
「何遠慮してんの、手もこんなに冷たいじゃないか。いいから着てなよ、あとでキャスに言ってちゃんとディーンに合ったの用意させる」
ベルベットのマントが肩にかけられ、サムから移った熱気で背中がすっかり包まれた。サムはヒイラギの留め金を喉元で慎重に留め、それから少し右肩のほうへ留め具の位置をずらした。「これで剣が抜きやすくなるよ」と笑う。今日ほど帯剣すべきでない日もないのに。
また指先同士が触れた。サムは何の意図もないようにおれに触れることができる。そのことが少し――少し、悲しい――なんだって? なんだこれは? 女々しいったらありゃしない。
今度は自分からサムの手を握って、おれは実態のない感情が”無い”ことを自分自身に確認させようとした。サムの手を握ったからといって世界がひっくり返るわけじゃないし、たとえおれの世界がひっくり返ったとしてもサムの世界までひっくり返ってくれるわけじゃない。だから握った手から熱以外の感覚を拾うべきじゃない。いたわりや愛情ならともかく、悲しさや――切なさなんて。切なさ? 全く、十三歳の女の子じゃあるまいし。サムの手を握って胸が痛くなるべきじゃないんだ。
だというのにおれは熱くなっていくのを止められなかった。
サムがゆっくりと重なった手を自分の唇のほうへ引き寄せた。おれはじっとそれを見ている。もがくように息を吸うと、またあの香りがいっぱいになって胸が圧迫された。サムが俺の指の腹にキスをする――そしておれがしたように、深く息を吸い込んだ。
「新しい雪の香りがする」
おれは薄く笑う。「雪解けの水で顔を洗ったからな」
「ディーンは雪に似てる。積もったばかりの雪。まだ誰にも踏み荒らされてない雪原みたいだ」
「……おれは――まだ――樫の木に似てるっていわれたほうが嬉しかったかな……」
「窓を開けて、朝日を浴びてきらめく一面の雪景色を見た時のような感動だよ、わかる、ディーン。あんたを見るたびに、僕は感動するんだ」
サムの声は、ゆっくりとして、押し殺したように低かった。長い廊下にささやきだけが響く。
飢えた目に見つめられた。
「サム、おれは、おれも――」
彼のその言葉はおれに世界がひっくり返ったことを教えてくれた。きざったらしい言葉をどこで覚えてきたのかはちょっと気になるが、おれと違って市井で過ごす時間の多かったサムだからその辺は人並みの経験があるんだろう。サムのそっちの過去については、キャスも何も報告してこなかったし、おれもあれこれと口を出すつもりはなかった。むしろスマートな恋愛遊戯が出来るほうが安心できた。いずれおれに何かあったときには――この感覚は不可解な力に目覚めてからというものずっと心の奥深くにあった――弟がこの国を継ぐ。その時には洗練された口説き文句のほうが剣や大砲よりも役に立つはずだ。
まあ、それはともあれ――いずれ引き上げられるとしても、いま、転覆した船に一緒に乗っているとわかった相手を、おれは万感の思いで抱きしめようとした。が、その前に指の付け根を噛まれた。
「あっ、いっ――サ……ム!」 ただびっくりして名前を叫ぶ。サムの赤い舌がへこんだ皮膚の上をたどるのが見えた。これは現実なのか? まだおれは夢の中にいるんだろうか?
「ディーンが本物の雪でなくてよかった」 サムは笑って――でも真剣な目でいう。「もう指先まで熱くなってる。雪だるまだったらあっという間に溶けちゃうだろうね」
エロティックな雰囲気に”雪だるま”なんて子供っぽい言葉が混じると、ますます現実感がなくなってくる。
「ああ、ディーン……」
キスされるんだと気づいた。おれは弟とキスをする。この瞬間のために今まで生きながらえてきたような気がした。
「間が悪いのは承知の上ですが陛下、それに王弟殿下」 キャスの声が近くで聞こえた。「そろそろお仕度を終えて頂きませんと。もう城門内に民たちが集まっています。鐘を鳴らさないとみんなごちそうにありつけない」
二人分の吐息で唇が湿った。サムは凍り付いたように数秒間動かなかったが、グレーがかった碧眼を閉じて手を放し、おれから距離をとった。
王たるもの慌てふためく姿など見せるわけにはいかないし、キャスに対して取り繕う余地があるとも思っていない。それでも気まずさを拭えなくて、マントの裾を揃えるふりをして俯いた。
「陛下、それは――そのマントはふさわしくない。丈が長すぎますし色も合いません。そもそもマントは嫌いなはずじゃ? それは王弟殿下の衣装に合わせたものですね。マントが入用なら女官長に用意させます。確か毛皮の裏打ちされた白のビロード織があった、鐘付の衣装にはそちらが合うでしょう」
キャスの顔をみなくても、眉間に力が入った怪訝な表情でいるのがわかる。かしこまった口調とは裏腹に表情は開けっ広げなんだ。彼が空気を読まないのはほとんどが天然だが、もしかしたら今回は計算されているのかもしれなかった。というのは、これまでもサムと転覆しかかった雰囲気の時はあったが、いずれの時も直前になってこいつがやってきて、ぬけぬけとお行儀よく間に入ってくれていたからだ。全く頼もしい右腕だった。
おれはため息をつきかけて答えた。「いや、これでいい――サム、行くぞ。広間の上のバルコニーから一度外に顔を見せよう。おれが鐘塔に登ってるあいだ、みんなに愛想を振りまいていてくれ。もしおれが落ちてきたらキャッチしろよな」
「陛下、しかし――それだと衣装の色が合いません」
「いいんだよ、キャス。おれは黒が好きなんだ」
サムを先に行かせておれは答えた。
キャスは少し声を張って、サムの背中に向けていった。「では王弟殿下、殿下には別の外套をご用意したほうがよろしいかな」
サムは足を止め、振り返っておれを見た。
「いらないよ。今日はもう、熱いくらいだから」
クリスマスの伝統について話題が上った。民たちが普段食べられないごちそうを気がすむまで腹の中に入れて、それぞれの伝統を果たしに帰路に着くころ、おれたちはようやく座って食事することができた。一切れだけ残ったレモンパイを見つけたサムが、嬉しそうにおれの皿に乗せる光景を見て、おれはまだおれたち家族が家族だったころ、サムが今そうしてくれたように、マムがおれたち兄弟の皿に、手作りのパイを切り分けてくれたのを思い出した。
「マムは狩りの腕は天才的だったけど、料理の腕はいまいちだったよな。自分でもわかっていたのに、クリスマスのごちそうだけは作るってきかなくて、結局、おれたちと親父が食べる分だけ作ってもいいことになった。おれがパイ好きになったのはそのせいさ。マムに「何が食べたい?」ってきかれるたびに、パイが食べたいって言い続けてたんだ。なんでかっていうと、パイなら厨房のコックが調理した肉やら果物を生地に乗っけて焼くだけだから、失敗が少ない。つまり――パイ好きにならざるを得なかったのさ。もちろん今は本当に好きだ。肉詰めパイもいいけど、やっぱりこのレモンクリームのたっぷり乗ったパイが最高だ。一口食べただけで天国にいける」
王家の伝統としては取るに足らない小さな行事だ。それでもおれが憶えている唯一の家族の伝統だった。サムも憶えているといい、でもおれのパイ好きの理由には驚いていた。しばらく黙り込んだサムはパイの上に乗ったクリームをすくってなめた。
「その伝統はこれからも続いていくかな?」 サムはいう。
「さあな。マムはもういないが、この先料理好きな王か王妃が現われれば続くんじゃないか」
「それじゃあ続くっていうより再開するだけだろ」
「じゃあおれかおまえが作るか? おれはいいけど厨房が嫌がる。おまえはおれよりもっと嫌われ者」
「ひどいな」
「マムが生地を練るのを見るのが好きだった。何度か火の番をしたこともある。おれが居眠りしたせいで焦げたパイを食べた年もあったな、おまえはすごく小さかったから憶えてないだろうけど……」
「ディーン」 サムの右手がおれの左手の上にかぶさった。「今なら厨房も空じゃないかな」
おれはサムが何をいっているのかわからなかった。まじまじとやつの顔を見つめていると、そのまま手を引っ張られていつの間にか立ち上がっている。「サミー? まさかおまえ……」
「パイを焼こうよ。伝統を続けたいんだ」
もちろん厨房は空じゃなかった。サムが手を一振りすると、うたたねしていた火番の小僧は椅子から転げ落ちる勢いで部屋を出て行った。
サムは博識で、彼にしか読めない本もこの城にあるくらいだが、パイのレシピは読んだことがないようだった。粉まみれになって憤然とするサムからは、朝に嗅いだような森の香りはしなかった。代わりに砂糖の甘い香りとサム自身の匂いがした。それは幸福の香りだった。おれは笑いながら粉だらけの髪を指ですいてやって、保存庫から練ってあるパイ生地を取り出した。そんなものがあるのかとまたサムは憤慨した。
おれがめん棒で生地を伸ばすのをサムは小さな木のスツールに座ってじっと眺めていた。昔のおれを真似しようとしたのかは知らない。だけどあの頃のおれを同じ気持ちにサムがなっているならいいと思った。
いちごとベリーを二人でたっぷり中につめて、生地をパイ用のオーブンに入れた。ごうごうと薪が燃える音以外は、ほとんどの使用人に休暇を出している夜の城は静かだった。
「これからは毎年、二人でパイを焼こう」
「厨房のかわいそうな小僧を追い出してか?」
サムは笑った。少し後悔するように吐息が多かった。
「あの子、キャスに報告するかな?」
「あの子はコックに報告する。コックは女官に報告して、女官が軍寄りだったら��ビーに、内務寄りだったら家政長に報告する。家政長はキャスに報告するだろうけど、ボビーが報告するのはおまえ」
「じゃあ賭けよう」
「何に?」
「僕に毒を盛るのがボビーか、キャスか」
蔵まで行けば口当たりのいいエールがあるのがわかっていたが、この場を離れたくなかった。
厨房に足を踏み入れる前に脱いでおくべきだった黒いマントの裾が白く染まっている。
外は雪が降っている。蝋燭の火が隙間風に揺れる。けれどオーブンの熱がなくともおれは温かかった。今日はずっと、風すさぶ鐘塔に立ったときでさえ。
「来年も、再来年も、その次の年も、ずっと」
サムの言葉におれはマントの中から手を出した。見なくともその手を取ってくれると信じていたし、その通りになった。おれたちはオーブンの中で燃える薪が伝統を焼き上げるのを待つあいだ、手を繋いでいることにした。それ以外の何もしないが、それ以上の何かが確かになった。
朝になれば太陽が雪を照らし、春になれば雪原の雪も解けて海原へ流れていく。
「メリー・クリスマス、サミー」
サムが答える前におれは目を閉じた。朝に予感した通り、今日は忘れられない日になる。
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【S/D】アナ雪パロまとめ
アナ雪2の制作ドキュメンタリー面白かった。みんなで一つのものを作るって素敵だなって素直に感動しちゃった。一人でコツコツ作り上げるのも素敵だけどさ、それとはまた違うよね。
アナ雪は大好き。2でアナが超進化を遂げたのでもっと好きになった。また兄弟パロ書きたいな。
3話あるけど全部で12000字くらいなのでまとめました。
<エルサのサプライズパロ>
弟の誕生日を祝うため、城や城下にまで大がかりなサプライズを仕込んだディーンは、過労で熱を出してしまった。キャスたちの協力もあって無事にサプライズは成功したものの、そのあとで何十年ぶりくらいに寝込むことになってしまった。
(これくらいで熱を出すなんて、おれも年をとったもんだな。そりゃ、ここのとこ狩りもあって、ろくに寝てなかったけど……。昔はそんなこと、ざらだったのに。こんなていたらくじゃ、草葉の陰から親父が泣くな)
「ディーン」 スープ皿を銀の盆に乗せて、弟のサムが寝室にやってきた。「寝てた? ちょっとでも食べれそう?」
「食べるよ。腹ぺこだ」
まだ熱のせいで頭はもうろうとしていて、空腹を感じるところまで回復してないことは自覚していたが、弟が持ってきた食料を拒否するなんて選択肢は、ディーンの中にないのだ。
サムは盆をおいて、ディーンが体を起こすのを手伝ってやった。額に乗せていた手ぬぐいを水盆に戻し、飾り枕を背中に当ててやって、自分の上着を脱いで兄の肩にかけてやる。
兄がスープをすするのを数分見つめてから、サムは切り出した。
「ディーン、今日はありがとう」
「うん」
「兄貴に祝ってもらう最初の誕生日に、こうやって世話が出来て、本当にうれしいよ(※何かあって兄弟は引き離されて大人になり、愛の力で再びくっつきました)」
「おまえそれ、いやみかよ。悪かったな面倒かけて」
「ちがうよ」 サムは少しびっくりしたように目を広げて、それから優しく微笑んだ。「本当にうれしいんだ。まあ、サプライズのほうは、あんたの頭を疑ったけど。ワーウルフ狩りで討伐隊の指揮もしてたってのに、よくあんなことやる時間あったな? 馬鹿だよ、ほんと。ルーガルーに噛まれたって、雪山で遭難したときだって、けろっとしてるあんたが、熱を出すなんて……」
「うーん」 ディーンは唸った。弟の誕生日を完璧に祝ってやりたかったのに、自分の体調のせいでぐだぐだになったあげく、こうやって真っ向から当の弟に苦言をされると堪えるのである。
「でも、そのおかげかな。こうやって二人きりでいられる」
「看病なんてお前がしなくていいんだぞ」
気難し気に眉を寄せてそっぽを向きたがるディーンの肩に手をおき、ずれてしまった上着をかけ直してやって、サムはまた優しく微笑んだ。「ずっと昔、僕らがまだ一緒にいたとき、あんたは熱を出した僕に一晩中つきそって、手を握って励ましてくれた」
そんなことを言いながらサムが手を握ってきたので、しかもディーンの利き手を両手で握ってきたので、ディーンは急に落ち着かなくなったが、すぐにその思い出の中に入り込んだ。「ああ……おまえはよく熱を出す子だった。おかげで冬は湯たんぽいらずだったな」
「一緒に眠ると怒られた。兄貴に病気をうつしてもいいのかって、親父に叱られたよ」
「おれは一度もおまえから病気をもらったことなんて」
「ああ、あんた病気知らずだった。王太子の鏡だよな、その点は」
「その点はって」
「僕はその点、邪悪な弟王子だったんだ。あんたに熱がうつればいいって思ってた。そうしたら、明日になっても、一緒のベッドに入っていられる。今度は僕があんたの手を握ってやって、大丈夫だよ、ディーン、明日になれば、外で遊べるようになるさって、励ましてやるんだって思ってたんだ」
「……そりゃ――健気だ」
「本当?」
「うん……」
「こうしてまた一緒にいられて、すごく幸せなんだ」
「サミー」
(キスしていい?) サムは兄の唇を見つめながら、心のうちで問いかけた。息を押し殺しながら近づいて、上気した頬に自分の唇の端をくっつける。まだふたりが幼いころ、親愛を込めてよくそうしていたように。
ディーンはくすぐったそうに笑って顔をそむけた。「なんだよ、ほんとにうつるぞ。おまえまで熱出されたらキャスが倒れる」
「もう僕は子供じゃない」 サムは握った手の平を親指で撫でながら言った。「だからそう簡単に病気はうつらないよ。そもそも兄貴の熱は病気じゃなくて過労と不摂生が原因だからね」
「悪かったな」
「僕のために無理してくれたんだろ。いいんだ、これからは僕がそばで見張ってるから」
「おー」
目を閉じたディーンの顔をサムは見つめ続ける。
やっと手に入った幸福だ、ぜったいに誰にも壊させない。兄が眠りについたのを確認すると、握った指先にそっとキスを落とす。彼がこの国に身を捧げるなら、自分はその彼こそに忠誠と愛を捧げよう。死がふたりを分かつまで。
<パイとエールと>
公明正大な王と名高いサミュエル・ウィンチェスターが理不尽なことで家臣を叱りつけている。
若い王の右腕と名高いボビー・シンガー将軍は、習慣であり唯一の楽しみである愛馬との和やかな朝駆けのさなか、追いかけてきた部下たちにそう泣きつかれ、白い息で口ひげを凍らせながら城に戻るはめになった。
王は謁見の控えの間をうろうろと歩き回りながら、臣下たちの心身を凍り付かせていた。
「出来ないってのはどういうことだ!」 堂々たる長身から雷のような叱責が落ちる。八角形の間には二人の近衛兵と四人の上級家臣がおり、みんなひとまとまりになって青ざめた顔で下を向いている。
「これだけの者がいて、私の期待通りの働きをするものが一人もいない! なぜだ! 誰か答えろ!」
「おい……どうした」 ボビーは自分の馬にするように、両腕を垂らして相手を警戒させないよう王に近づいた。「陛下、何をイラついてる。今日は兄上の誕生日だろ」
サムは切れ長の目をまんまるに見開いて、「そうだよ!」と叫んだ。「今日はディーンの誕生日だ! ディーンが天界に行っちゃってから初めての誕生日で、初めて王国に戻る日だっていうのに、こいつらは僕の言ったことを何一つやってない!」
手に持っていた分厚い書冊を机に叩きつけた。ぱらぱらと何枚かの羊皮紙が床に落ちて、その何枚かに女性の肖像が描かれているのをボビーは見た。頬の中で舌打ちして、ボビーは、今朝、この不機嫌な王に見合い話を持ち掛けた無能者を罵った。
まだ手に持っていた冊束を乱暴に床に放り投げて、すでに凍り付いた家臣たちをさらに怯えさせ、サムは天井まである細い窓の前に立った。
ひし形の桟にオレンジ色のガラスが組み込まれている。曇りの日でも太陽のぬくもりを感じられる造りだ。サムがそこに立つ前には、兄のディーンが同じように窓の前に立った。金髪に黄金の冠をかぶったディーン・ウィンチェスターがオレンジの光を浴びて立つさまは、彼を幼少期から知る……つまり彼が見た目や地位ほどに華美な気性ではないと知るボビーにとっても神々しく見えたものだった。
ディーンがその右腕と名高かったカスティエルと共に天界に上がってしまってからというもの、思い出の中の彼の姿はますます神々しくイメージされていく。おそらくはこの控えの間にいる連中すべてがそうだろう。
「兄が戻ってくるのに、城にパイ焼き職人が二人しかいない」
「ですが、それで町のパン焼き職人を転職させて城に召し上げるというのは無理です……」 家政長が勇気を振り絞った。しかしその勇気も、サムのきつい眼差し一つで消えた。
「全ての近衛兵の制服を黒に染めろといったのになぜやらない!」
二人の近衛兵は顔を見合わせたが、すぐに踵をそろえて姿勢を正した。何も言わないのは賢いといえなくもない。
「何で黒にする必要がある?」
ボビーの問いにサムは食い気味に答えた。「ディーンが好きだからだよ! ディーンは黒が好きだ、よく似合ってる」
「ディーンはベージュだって好きだろ。ブラウンもブルーも、赤も黄色も好きだ。やつは色になんて興味ない」
「それに注文したはずのエール! 夏には醸造所に話を通していたはずなのになぜ届いていない!」
項垂れる家政長の代わりに、隣に立つ財務長が答えた。「あー、陛下。あの銘柄は虫害にやられて今年の出荷は無理ということで、代わりの銘柄を仕入れてありますが……」
「その話は聞いた! 私はこう言ったはずだ、ディーンは代わりの銘柄は好きじゃない。今年出荷分がないなら去年、一昨年、一昨々年に出したのをかき集めて城の酒蔵を一杯にしろと!」
「そんな、あれは人気の銘柄で国中を探してもそれほどの数はありません……」
「探したのか?」 サムは、背は自分の胸ほどもない、老年の財務長の前に覆いかぶさるように立ち、彼の額に指を突き付けた。「国中を、探したのか?」
財務長の勇気もこれで消えたに違いなかった。
ボビーは息を吐いた。
「みんな出て行ってくれ。申し訳ない。陛下にお話しがある。二人だけで。そう。謁見の儀の時間には間に合わせる。ありがとう。さっさと行って。ありがとう」 促されるや、そそくさと逃げるように控えの間から去っていった六人を丁寧に見送り、ボビーは後ろ手に扉の錠を下ろした。
「どうなってる」 ボビーの怖い声にもサムはたじろがなかった。気ぜわしそうに執務机の周りを歩き回る足を止めない。
「最悪だ。完璧にしたかったのに!」 床に落ちた肖像画をぐちゃぐちゃにしながら気性の荒い狼みたいな眼つきをしている。「ディーンの誕生日を完璧に祝ってやりたかったんだ! 四年前、僕らがまた家族になれたあとに、ディーンが僕にしてくれたみたいに!」
「四年前? ああ、城じゅうに糸を張り巡らせて兵士の仕事の邪魔をしまくってくれたあれか……」 ボビーは口ひげを撫でて懐かしい過去を思い返した。「しかしあの時はディーンが熱を出して……結局は数日寝込むことになっただろう」
「完璧な誕生日だった。僕のために体調を崩してまで計画してくれたこと、その後の、一緒にいられた数日間も」
「あのな……」
「いろいろあって、あの後にゆっくりと記念日を祝えたことはなかった。ようやく国が落ち着いたと思ったら、ディーンは天界に行っちゃった。いいんだ、それは、ディーンが決めたことだし、僕と兄貴で世界の均衡が保てるなら僕だって喜んで地上の王様をやるさ。滅多に会えなくなっても仕方ない。天界の傲慢な天使どもが寛大にも一年に一日だけならディーンが地上に降りるのを許してくれた。それが今日だ! 今日が終われば次は一年後。その次はまた一年後だ!」
「わかっていたことだぞ」 ボビーはいった。「べったり双子みたいだったお前たちが、それでも考えた末に決めたことだ。ディーンが天界にいなければ、天使たちは恩寵を失い、天使が恩寵を失えば、人は死後の行き場を失う」
「これほど辛いとは思わなかった」
サムは椅子に座って長い足を投げ出し、希望を失ったかのように俯いた。
「なあ、サム。今日は貴重な一日だよな。どうするつもりだった。一年ぶりに再会して、近衛兵の制服を一新した報告をしたり、一晩じゃ食べきれないほどのパイの試食をさせたり、飲みきれない酒を詰め込んだ蔵を見せて自慢する気だったのか?」
「いや、それだけじゃない。ワーウルフ狩りの出征がなかったら、城前広場を修繕して僕とディーンの銅像を建てさせるつもりだった」
「わかった。そこまで馬鹿だとは思わなかった」 俯いたサムの肩に手をあて、ボビーはいった。「本当に馬鹿だな。サム、本当にディーンがそんなもの、望んでると思うのか?」
「ディーンには欲しいものなんてないんだ」 サムは不貞腐れたように視線を外したままいった。「だからディーンはディーンなんだ。天界に行っちゃうほどにね。それだから僕は、僕が考えられる限り全てのことをしてディーンを喜ばせてあげなきゃならない。ディーンが自分でも知らない喜びを見つけてあげたいんだよ」
「ディーンは自分の喜びを知ってる。サム、お前といることだ。ただそれだけだ」
サムの迷子のような目がボビーを見上げた。王になって一年、立派に執務をこなしている姿からは、誰もこの男の甘えたな部分を想像できないだろう。
もっとも、王がそんな一面を見せるのは兄と、育ての親ともいえるボビーにだけだ。
「……それと、エール」
「ああ、焼き立てのパイもな」 ボビーは笑う。「職人が二人もいればじゅうぶんだ」
サムはスンと鼻をすすって、ボビーの腕をタップして立ち上がる。
「舞踏会の用意は?」
「すんでるよ。ああ……サム、中止にするわけにはいかないぞ。もう客も揃ってるし、天界のほうにもやると伝えてある」
「わかってる。頼みがあるんだ……」
ディーンがどうやって地上に戻ってくるか、サムは一年間毎日想像していた。空から天使のはしごがかかって、白い長衣をかぶったディーンがおつきの者たちを従えてしずしずと降りてくるとか。水平線の向こうからペガサスに乗って現れるとか。サムを驚かせるために、謁見の儀で拝謁する客に紛れ込んでくるかもしれない。
そのどれもがあまりに陳腐な空想だったと、サムは反省した。
謁見の儀を終えると、ディーンは何の変哲もない、中級貴族みたいな恰好で、控えの間に立っていた。
ひし形に桟が組まれた、長い半円の窓の前で。
「ディーン」
サムの声に振り向くと、ディーンは照れ臭そうな顔をして笑った。「サム」
二人で磁石みたいに駆け寄って、抱き合った。
ディーンの誕生日を祝う舞踏会は大盛況した。近隣諸国の王侯貴族までが出席して、人と人ならざる者の世の均衡を保つ兄弟を称え、その犠牲に敬意を表した。ディーンと彼に随行したカスティエルは、誘いのあった女性全員とダンスを踊った。そしてディーンは、しかるべき時間みんなの祝福にこたえたあと、こっそりとボビーに渡された原稿を読み上げ――それはとても礼儀ただしく気持ちの良い短いスピーチだった――大広間を辞した。
「どこに行くんだ?」 一緒に舞踏会から抜け出したサムに手を引かれて、ディーンは地下に向かっていた。「なあ、王様がいなくていいのかよ。まだ舞踏会は続いてるんだぜ」
「僕がいなくてもみんな楽しんでる。今夜は一晩中、ディーンの誕生日を祝っててもらおう」
「本人がいない場所でか?」
「ああ。本人はここ」
サムは酒蔵の扉を開いてディーンを招いた。「ディーン、来てくれ」
いくつかある酒蔵のうち、一番小さな蔵だった。天井は低く、扉も小さい。サムの脇をくぐるように中に入ると、まるで秘密の洞窟に迷い込んだように感じた。
「ここ、こんなだったっけか」 踏み慣らされた土床の上に、毛皮のラグが敷かれている。大広間のシャンデリアを切り取ってきたみたいに重々しい、燭台に灯されたろうそくの明かり。壁づたいに整列された熟成樽の上には、瓶に詰められたエール、エール、エール。
「パイもある」 どこに隠してあったのか、扉を閉めたサムが両手に大きなレモンパイを持ってディーンを見つめている。
ちょっと決まり悪そうな、それでも自分のやったことを認めて、褒めてくれるのを期待しているような、誇らしげな瞳で。
「誕生日おめでとう、ディーン」
二人きりで過ごしたかったんだ。そういわれて、ディーンは弟の手からパイを奪い取った。
パイは危うい均衡で樽の上に置かれて、二人はラグの上に倒れ込んだ。
<永遠>
誰がなんというおうと、おれたちが兄弟の一線を超えたことはない。
天使たちはおれの純潔を疑ってかかった。天界に昇る前には慌ただしく浄化の儀式をさせられた。”身持ちの固さ”について苦言をたれたアホ天使もいたほどだ。おれはその��礼に、女にモテモテだった自分を天使たちが勘違いするのも無理はないと思うことにした。
ああ、若く逞しい国王のおれと、いちゃつきたがる女は山ほどいた。でもおれは国王だ。心のどこかでは、弟に王位を譲るまでのつなぎの王だという思いもあった。だからこそ、うっかり子供でも出来たら大変だと、万全の危機管理をしていた。
つまりだ、おれはまだヴァージンだ。浄化の儀式は必要なかった。
女とも寝てないし、男とも寝てない。弟とは論外だ。
いつか、サムに王位を譲り、おれが王でないただの男になったら、女の温かな体内で果ててみたいと、そう思っていた。
でもたぶん、それは実現しない。なんというか、まあ……。
天界に行ってから、天使たちがおれの純潔について疑問視した原因が、女じゃないことに気がついた。そこまでくればおれだって、認めないわけにはいかない。
クソったれ天使たちの疑いも、あながち的外れじゃあないってこと。
おれと弟が一線を超えたことはないが、お互いに超えたいと思っていることはどっちも知っている。
ということは、いずれ超えるってことだ。それがどうしようもない自然の流れってやつだ。
どうしてそんなことになったのかというと、つまりおれたち兄弟、血のつながった正真正銘の王家の血統である二人がおたがいに意識しあうようになったのはなぜかということだが、たぶんそれは、おれのせいだ。おれの力だ。
おれは小さい頃から不思議な力があった。
それはサムも同じだけど、サムの力はウィンチェスター家から代々受け継いだもので、おれのほうはちょっと系統が違った。今では、それが天使の恩寵だとわかっているが、当時はだれもそんなこと、想像もしなかった。それでも不思議な力には寛容な国柄だから、おれたち兄弟は一緒に仲良くすくすくと育った。ところがある事件が起きて、おれは自分の力でサムを傷つけてしまった。それ以来、両親はおれの力を真剣に考えるようになり、おれたち兄弟は引き離された。
おれが十一歳のとき、もう同じ部屋で寝ることは許されていなかったが、夜中にサムがこっそりとおれの寝室に忍び込み、ベッドに入ってきたことがあった。
「怖い夢を見た」という弟を追い払うなんてできるはずがなかった。お化けを怖がるサムのために、天蓋のカーテンを下ろし、四方に枕でバリケードをつくって、ベッドの真ん中でふたり丸まって眠った。
翌朝、おれは自分が精通したのを知った。天蓋ごしにやわらかくなった朝日がベッドに差し込み、シーツにくるまっていたおれたちは発熱したみたいに熱かった。下半身の違和感に手をやって、濡れた感触に理解が追い付いたとき、サムが目覚めた。汚れた指を見つめながら茫然とするおれを見て、サムはゆっくりとおれの手を取り、指についた液体を舐めて、それから、おれの唇の横にキスをした。
おれはサムを押しのけて、浴室に飛び込んだ。しばらくすると、侍女がおれを迎えに来て、両親のことろまで連れて行った。そこでおれは、これからは城の離れにある塔で、サムとは別の教育を受けさせると言い渡された。大事にはならなかったとはいえ、サムを傷つけた力には恐怖があったから、おれはおとなしくその決定に従った。結果として、サムがキスをした朝が、おれたちが子ども時代を一緒に過ごした最後の日になってしまった。
おれの変な力がなかったら、あのままずっと一緒に育つことができただろうし、そうならば、あの朝の続きに、納得できる落とし前をつけることもできただろう。おれはなぜサムがキスをしてきたのか、その後何年にわたってもんもんと考える羽目になった。サムによれば、彼もまた、どうしてあのタイミングでキスしてしまったのか、なぜすぐにおれの後を追わなかったのかと後悔していたらしい(追いかけて何をするつもりだったんだろう)。なんにせよ、お互いに言い訳できない状況で、大きなわだかまりを抱えたまま十年間も背中合わせに育ってしまったんだ。
再会は、おれの即位式だった。両親の葬儀ですら、顔を合わせていなかった。
喜びと、なつかしさ、罪悪感に羞恥心、後悔。それを大きく凌駕する、愛情。
弟は大きくなっていた。キャスに頼んで密偵まがいのことをさせ、身辺は把握していたけれど。王大弟の正装に身を包んだサムは、話で聞いたり、遠目にみたり、市井に出回っている写し絵よりもよっぽど立派だった。
意識するなって言うほうが無理だろ。
ところでおれは、もう人じゃない。
一日に何度も食べなくても、排泄をしなくても、死なない体になった。天使いわく、おれは”顕在化された恩寵”だそうだ。恩寵っていうのは天使の持ってるスーパーパワーのことをいう。つまりおれはスーパーパワーの源で、天界の屋台骨ってこと。
そんな存在になっちまったから、もう必要のない穴ってのが体には残っているんだが、おれの天才的な弟ならその使い方を知っていると思っていた。
そして真実はその通り。弟はじつに使い方がうまい。
「純潔じゃなくなったら、天界には戻れない?」 一年前から存在を忘れられたおれの尻の穴にでかいペニスを突っ込んだサムが尋ねた。
うつ伏せになった胸は狼毛のラグのおかげで温かいが、腰を掴むサムの手のひらのほうが熱い。ラグの下に感じる土床の硬さより、背中にのしかかっているサムの腹のほうが硬い。
ついに弟を受け入れられたという喜びが、おれをしびれさせた。思考を、全身を。顕在化されたなんちゃらになったとしても、おれには肉体がある。天使たちはおれにはもう欲望がないといった。そんなのはウソだ。げんに今、おれの欲望は毛皮を湿らせ、サムの手に包まれるのを期待して震えている。
「サム……あ、ア」 しゃっくりをしたみたいに、意思を介さず肛門が収縮する。奥までサムが入っていることを実感して、ますます震えが走った。「サム、そのまま……じっとしてろ、おれが動くから……」
「冗談だろ?」 押さえた腰をぐっと上に持ち上げながら、サムはいった。「どうやって動くんだよ。力、入らないくせに」
その通りだ。サムに上から押さえつけられたとたん、おれの自由なはずの四肢は、突如として意思を放棄したみたいに動かなくなった。
「そのまま感じてて……」 生意気な言葉を放ちながら、サムはゆっくりと動き始めた。おれの喉からは情けない声が漏れた。覚えているかぎり、ふざけて登った城壁から落ちて腕を骨折したとき以来、出したことのない声。「はああ」とか「いひい」とか、そういう、とにかく情けない声だ。
「かわいいよ。かわいい、ディーン」
「はああ……」
「あんたの純潔を汚してるんだよ、ディーン……。僕に、もっと……汚されて……」 サムの汗がおれの耳に垂れた。「もう天界には戻れないくらい」
まあおれは、かねがね自分の境遇には満足だ。天界にエネルギー源として留め��かれている身としても、そうすることを選んだのは自分自身だし、結局、やらなきゃ天界が滅んでしまう。天国も天使もいない世界で生きる準備は、国民たちにもだれにも出来ていない。
せっかくうまくいっていたおれとサムの関係が、期待通りにならないことは承知の上だった。おれたちは王族だ。自分たちの欲望よりも優先すべきことがある。おれは天界で腐った天使どもと、サムは地上でクソったれな貴族どもと、ともに世界を守れたらそれでいい。そう思っていた。サムも、そう思っているはずだった。
一年に一日だけ、地上に戻る許可を与えられて、おれが選んだのは自分の誕生日だった。
ほんとはサムの誕生日のほうがよかった。だけどおれの誕生日のほうが早く訪れるから。
サムに会えない日々は辛かった。想像した以上に永かった。
下腹をサムの手に包まれて、後ろから揺さぶられながら、おれはふと気配を感じて視線を上げた。酒蔵の奥に、ほの白く発光したキャス――今は天使のカスティエルが佇んでいた。
(冗談だろ、キャス。消えてくれ!)
天使にだけ伝わる声で追い払うが、やつはいつもの表情のみえない顔でおれをじっと見つめたまま動かない。
(取り込み中なの見てわかるだろ!?)
(君はここには残れない) キャスがいった。(たとえ弟の精をその身に受けても。君はもはや人ではないのだ)
(そんなことはわかってる) おれがいうと、キャスはやっと表情を変えて、いぶかしげに眉をひそめた。(君の弟はわかっていない)
(いいや、わかってる……)
「ディーン、こっち向いて」 キスをねだる弟に応えて体をひねる。絶頂に向かって動き始めたサムに合わせて姿勢を戻したときには、もう天使は消えていた。
わざわざ何をいいに来たんだか。あいつのことだから、もしかして本当に、サムのもらした言葉が実現不可能なものだと、忠告しに来たのかもしれない。
天使どもときたら、そろいもそろって愚直で融通のきかない、大きな子どもみたいなやつらだ。
きっと今回のことも、天界に戻れば非難されるだろう。キャスはそれを心配したのかもしれない。
お互いに情けない声を出して、おれはサムの手の中に、サムはおれの中に放ったあと、おれたちは正面から抱き合って毛皮の上に崩れ落ちた。
汗だくの額に張り付いた、弟の長い髪を耳の後ろにかきあげてやると、うるんだ緑の目と目が合った。
「離れたくないよ、ディーン」
「おれもだ」
サムはくしゃっと笑った。「国王のくせに、弱音を吐くなって言われるかと思った」
おれはまた、サムの柔らかな髪をすいてやった。
おれがまだ人だったころ、おれの口から出るのは皮肉や冗談、強がりやからかいの言葉ばかりだった。だれもがおれは多弁な王だと思っていた。自分でもそうだった。
でも今や、そうじゃなくなった。
おれは本来、無口な男だったんだな。
見つめていると、弟の唇が落ちてきた。おれは目を閉じて、息を吸い込んだ。このキスが永遠に続けばいいのにと思う。
願っても意味はないと知っているからな。
「驚いたよ」 天界へ帰るすがら(地上からは一瞬で消えたように見えただろうが、階段を上っていくんだ。疲れはしないけどがっかりだ)、キャスがいった。「きみたちは……意外とあっさり別れた。もっと揉めるかと思っていた」
「揉めるってなんだよ」
「ずいぶんと離れがたそうだったから」
「ふつうは他人のセックスをのぞき見したこと、隠しておくもんなんだぜ」
「のぞき見などしていない」 キャスは大真面目にいった。「のぞき見ではない。私は隠れてなどいなかった」
おれは天界への階段から転がり落ちそうになった。「おま……キャス……じゃあ、おまえの姿、サムには……」
「見ていただろうな。君とキスしているときに目があった」
「――あいつそんなこと一言も」
「今朝、私には警告してきた。次は翼を折ってやると。君の手の大きさじゃムリだと言ってやったが」
おれはため息を吐いた。
「次があると思っているのだな」
「もう黙れよ」
「一年に一度の逢瀬を、続けるつもりなのか。君はもう年をとらず、彼は地上の王として妻をめとり、老いていくというのに」
「なあ、キャス。おまえに隠してもしかたないからいうが、おれが天界にいるのはサムのためだ。サムが死後に行く場所を守るためだ」
キャスはしばらく黙ったあと、唇をとがらせて頷いた。「そうか」
「ああ、そうだ」
「きみに弟がいて世界は救われたな」
おれは足を止めて、キャスの二枚羽の後ろ姿を見つめた。彼がそんなふうに言ってくれるとは思っていなかったから驚いた。
キャスが振り返っていった。「どうした」
「べつに。おまえ皮肉が上手くなったなって。ザカリアの影響か?」
「やめてくれ」 盛大に顔をしかめてキャスはぷいと先を行ってしまう。
「お、待てよ、キャス。おまえのことも愛してるぜ!」
「ありがとう。私も愛してるよ」
たとえばサムが結婚して、子どもができ、平和な老後を迎えるのを、ただ天界から見守るのも素晴らしい未来だと思う。義務感の強いサムのことだから、十中八九相手は有力貴族の娘か、他国の姫の政略結婚だろうが、相手がよっぽどこじれた性格をしていない限り、いい家庭を築くだろう。あいつは優しいし、辛抱強くもなれる。子どもにも偏りのない教育を受けさせるだろう。安定した王族の指導で、王国はますます繁栄する。国王と王妃は臣民の尊敬を受け、穏やかに愛をはぐくみ、老いてからも互いを慈しみながら、孫たちに囲まれ余生を過ごすだろう。
愛と信頼に満ちた夫婦。サムがそんな相手を見つけられたらどんなにいいか。おれは心から祝福する。それは嘘偽りのない真実だ。
だけど、それは死が二人を分かつまでだ。
サムが死んだら、たとえその死が忠実な妻と手をつなぎ、同時に息を引き取るような敬虔なものだったとしても、彼の魂はもう彼女のものじゃない。死神のものですらない。おれだ。おれがサムを直接迎えにいく。
そしておれがサムのために守ってきた天国で、おれたちはまた、やり直すんだ。
おれが精通した十一歳の朝からでもいい。
ぎこちなかった即位式の午後からでもいい。
世界におれたちだけだったら、どれだけ早くたがいの感情に正直になれたかな。それを試すんだ。
だから今は離れていても、いずれは永遠に側にいられるんだ。
今は言葉だけでいいんだ。おれを汚したいといったサムの言葉が何物にも代えがたい愛の告白に聞こえたなんて変かな。サムの愛の言葉と、この体のどこかに残っているサムの精だけで十分なんだ。
また来年、それをおれにくれ。おまえが誰かいい女と結婚するまで。
おまえのための天国を作って、おれは永遠が来るのを待っている。
おわり
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