#2018、孤児のミューズたち
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【劇評】メタ構造によって時空をつなぎ、作品の主題を浮き彫りにする優れた潤色・演出
劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』 片山 幹生
〔写真提供:劇団螺船企画公演制作(以下、同)〕
【作者と作品について】
日本の観客にとってはほとんど未知の存在であるカナダの劇作家の作品を、学生劇団が上演することは、それ自体が果敢な挑戦だと言える。劇団螺船の企画公演『2018、孤児のミューズたち』は明治大学の学生によるミシェル=マルク・ブシャール(1958-)の作品を翻案したものだ。
ブシャールはカナダのフランス語圏ケベック州の劇作家である。ブシャールは現代のケベックを代表する劇作家の一人だが、日本ではそれほど知られている存在ではない。彼の代表作『やせっぽち』(1987)は15か国で上演された。この作品は日本でも2002年以降、スタジオライフが『LILIES』というタイトルでたびたび上演している。また2011年初演の『農場のトム』は、『トム・アット・ザ・ファーム』の邦題で2013年に��ザヴィエ・ドランによって映画化された。
『孤児のミューズたち』は1988年にケベック州のモンレアル(モントリオール)で初演された。日本では2007年にスタジオライフがシアターΧでこの作品を上演している。
作品の舞台となっているのは、作者の故郷であるケベックの北方にあるサン=ジャン湖畔の町だ。時代はブシャールの子供時代、カナダのフランス語系住民であるケベック人が民族意識に目覚め、英語系住民の政治・経済的支配から自立しようとした「静かな革命」が進行する1960年代半ばである。しかし劇の登場人物である4人兄弟(3姉妹と男兄弟1人)は、時代からも、そして母親からも取り残され、孤立した存在である。原作は三幕に分かれ、一幕がイエス・キリストの復活を祝う復活祭の一週間前、二幕が復活祭前日の土曜日、三幕が復活祭当日の朝に設定されている。
邦題『孤児のミューズたち』の原題はLes Muses orphelines(英語タイトルはThe Orphan Muses)であり、「orphelines(孤児の)」は、「Muses」にかかる形容詞である。母親に見捨てられた(父親は第二次大戦で戦死した)4人兄弟の「孤児」が芸術・学術の女神である「ミューズ」となる物語であることをタイトルは示唆している。
【『孤児のミューズたち』梗概】 劇団螺船企画公演はこの戯曲を上演するにあたって原作にかなり大きな改変を加えている。劇団螺船企画公演で秀逸だったのは、原作の設定を生かした見事な潤色と演出のアイディアだ。それがどのようなものであったかを説明する便宜として、原作の概要をここで示しておこう。
小学生程度の知力しかない27歳の末娘のイザベル、真面目そうだが町のさまざまな男たちと長続きしない恋愛関係を持つ長女カトリーヌ、軍人となりドイツに赴任しているレズビアンの次女マルティーヌ、「作家」を自称しつつも一冊の本も書いていない女装癖のある長男リュックの4人が、町はずれの家に久々に集まった。彼らの父親は第二次大戦中にヨーロッパ戦線で死に、母親はスペイン人の愛人とともに子供を捨て失踪してしまった。その彼らを捨てた母親が、復活祭の日に20年ぶりに家に戻って来るという。ドイツで暮らし長らく家に戻っていなかったマルティーヌも、末娘の策略によって呼び戻され、4人は20年ぶりの母親との再会を待ち受ける。
兄弟の前に結局現れることはなかった母親は「ゴドー」の変種だ。末娘のイザベルには、母親の失踪は伏せられ、母親は死んだと伝えられていた。死んだことになっていた母の帰還が、イエスが一度死んだあとに復活する復活祭の日に設定されている。母はキリストのように復活したのか? 彼らの母親は、劇の最後で思いがけない姿で現れ出る。不在の母は末娘イザベルの身体を通して兄弟たちのもとに現れるのだ。そして束の間、その姿を見せたのち、消え去ってしまう。知的障碍を持ち、他の兄弟にその生活を全面的に依存しているように見えた末娘のイザベルが実は一番自立した存在であり、他の兄弟を家族の幻想の呪縛から解き放つ存在であったことが劇の最後で明らかにされる。
【劇団螺船企画公演『二〇一八、孤児のミューズたち』の書換え】 『孤児のミューズたち』はブシャールが生まれ育ったケベック州のサン=ジャン湖地方にある田舎町の家族の物語であり、時代はケベックのナショナリズム運動である「静かな革命」が進行していた1960年代半ばだ。劇評執筆にあたって英訳からの重訳である佐藤アヤ子訳(『孤児のミューズたち』彩流社、2004年)を読み返してみたが、戯曲の記述にはたいていの日本人が知らないケベック・ローカルの社会的コンテクストが反映されていて、最初のうちは手探りしながら慎重に読み進めなくては戯曲で描き出される状況がイメージしにくい。
劇団螺船企画公演版[以下螺船版]で秀逸だったのは、何よりもまず原作戯曲の構造に踏み込んだ大胆な翻案のアイディアだ。
上演に2時間は必要だと思われるオリジナルの戯曲が、螺船版では70分に圧縮されている。螺船版では単に原作にあった場面やせりふが削除されているわけではない。まず作品の舞台を1965年のケベック田舎町から現代の日本(ただし東京ではないどこかの町)に移し替えた。登場人物はそれを演じる各俳優の本名のファーストネームがそのまま流用され、大学生である彼ら自身の延長線上にある人物として提示されていた。英訳からの翻訳であるせりふも現代口語演劇風に書き換えられていて、劇は現代の日本の若者である彼らの日常的なやりとりのなかで展開する。
現代の日本への置き換えの部分だけでも螺船版の潤色はよくできていた。原文から離脱することができない佐藤の翻訳では登場人物の会話には翻訳特有の不自然さやぎごちなさがあったのだが、螺船版ではそれが現代口語演劇スタイルに置き換わることで、現代日本の家族の風俗劇として違和感のないやりとりになっていた。また省略によって劇の本質的な部分が抽出され、作品のテーマが佐藤の翻訳版より明瞭に示されていた。
しかし螺船版潤色でより印象的で効果的だったのは、単に1960年代のケベックの風景を現代に日本に置き換えてしまうだけではなく、原作で劇中劇として提示されていた部分を敢えてそのま��、現代日本口語劇のなかに取り込むという発想である。
ブシャールの原作では、リュックが母親の失踪を題材に書いた小説『スペインの女王から愛する息子への手紙』が朗読される場面で、兄弟が母や母の愛人になりきって演じるという劇中劇的場面が戯曲全体の要としてあり、それが末娘のイザベルが母を演じ、他の兄弟たちに家族からの離脱と独立を促すという最後の場面につながっていく。原作を読んでいた私は、この劇中劇の場面で、それまで現代の日本の風景のなかで展開していた螺船版の舞台から、原作の世界が突然立ち現れる意外性に感動した。原作にあった劇中劇という構造を利用して、現代の日本と1960年代のケベックが、強引かつ説得力のあるやりかたで連結されるアイディアが素晴らしい。
中核となる現代劇の場面では音楽は一切使われていない。そこでのせりふのやりとりは、ぎりぎり無機的なやりとりに陥らない平板さが保たれていた。学生演劇でこのような翻訳劇を上演する場合、中途半端で稚拙な新劇風リアリズム演技よりも、感情過剰の演技ではなく、クールに抑えた演技演出のほうが効果的だろう。無表情でニュートラルな表現とそうではない感情表現のせめぎ合いが、演者と戯曲世界の距離感の不安定さを誠実に反映しているように見えた。そしてこの現代劇の内部で演じられる原作のエピソードを展開させた劇中劇は、BGMとともにファンタジックな虚構として提示される。劇中現実と虚構の対比が演出によって鮮やかに示されていた。
螺船版では、さらに劇の筋の本編の前後にプロローグとエピローグが付加され、それが作品全体の外枠を形作ることで、作品のメタ演劇的構造がさらに強調されていた。外枠では劇団螺船企画公演のメンバーが「素」の状態の自身を演じる。明大の演劇サークル学生という外枠のリアル、そしてブシャールの作品を現代日本の文脈に置き換えたリアル、さらにブシャールの原作部分の三層構造の行き来が効果的に構��されていた。
この外枠の設定は彼らが1965年のケベックでの物語を演じるにあたって必要なものだった。ただし「素」の部分を観客の前で再現しなくてはならない外枠の演出はうまくいっていなかった。「素」を人前で演じることは難しい。外枠設定の意図はわかったのだが、「素」を演じながら、「素」を人前で晒すことに抵抗を感じる学生俳優の照れが出てしまい、観客としては若干居心地の悪い時間になってしまった。
おそらく作品の潤色・演出の大野叶子は、『孤児のミューズたち』を自分たちがとりあげるにあたって、作品のサイコドラマ的な要素を重視したのだと思う。サイコドラマとは自分以外の役割を演じることで問題解決と人間関係の改善を試みる精神療法用の一つである。
劇の登場人物たちは、リュックの物語を通して、かつての母を演じることで閉塞した家族関係から抜け出るきっかけを獲得した。人は何か自分以外のものを演じ、他人となることで、自分自身が抱えている問題を客観的に認識することができる。主宰の大野叶子に終演後に少し話を聞いたのだが、螺船版『孤児のミューズたち』は彼女の学生演劇の集大成となる公演とのこと。もしかすると他者を演じることで自分たちを束縛していた家族という幻想からの解放の過程を描いた『孤児のミューズ』たちの登場人物に、学生という身分から離脱し、社会人という新しい世界に入る自分たちの姿を重ねていたのかもしれない。
大胆な潤色だったが、原作テクストを相当深く読み込んで、解釈しないとこのようなテクストレジはできるものではない。潤色・演出を担当した大野叶子は、卓越した戯曲の読み手であり、他者のことばをしっかりと咀嚼し、自分独自の表現に変換する才能の持ち主だ。大学卒業後、一旦就職すると話していたが、また演劇の世界に復帰して欲しい。
私はケベックの現代戯曲作家として知られているムワワド、ルパージュ、ブシャールの三人のなかでは、ブシャールの戯曲が戯曲としての最も充実していて、普遍性が高いと考えている。今回、劇団螺船企画公演によって、日本におけるブシャールの戯曲上演の可能性を知ることができたのは大きな収穫だった。[2018年2月10日(土)19時開演の回、観劇]
●片山 幹生(かたやま・みきお) 1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
【上演情報】
劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』https://muses2018.tumblr.com/ 2018年2月9日(金)〜11日(日)
作:ミシェル=マルク・ブシャール(『孤児のミューズたち』佐藤アヤ子訳(リン��・ガボリオの英訳から)、彩流社、2004年)
潤色・演出:大野叶子
出演:荒田樹李(ジュリ/カトリーヌ)、加藤彩(アヤ/マルティーヌ)、柴田大輔(ダイスケ/ママ)、北村美玖(ミク/イザベル)
舞台監督:西脇慎一郎
舞台監督補佐:比嘉菜々美
演出助手:関口果穂
照明:新見友紀乃
音響:川越太郎、権田歩人
美術:権田歩人
制作:三浦彩夏
会場:演劇スタジオB(明治大学駿河台校舎14号館プレハブ棟)
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2018年7月8日
展示で飾る写真を焼きに暗室へ行った。1枚はポートレート、もう1枚は風景写真。友達が誕生日の日に街を歩いていて『ここいいね』と言った場所の写真で、とても気に入っている。これですべての写真が揃った。全暗室の作業は神経をすり減らす。それで感情が研ぎすまされる。『精神と時の部屋』と例える人もいる。
ある友人が、私が撮る写真は、どこかSFみたい、と言った。人からあまり感想を聞くことがない。嬉しかった。写真を焼いている間、ずっとその意味を考えていた。
そういえば先日、友人ふたりの座談会に行った時のこと。
西山さんがみんなにチョコレートミントを配っていた。それでイーサン・ホークというアメリカの俳優が書いた『痛いほどきみが好きなのに』という小説を思い出した。原題は『The hottest state』、こちらのほうがかっこいい。
主人公の恋人のサラは情熱的で、自由に生きる女性。サラがチョコレートミントを食べるシーンがあった。サラは誰のものにもならない、そういう女性だ。
座談会は『ヒロインズ』という本に出てくる不遇な人生を歩んだ女性達の話だった。サラはそれとは正反対だなと考えたり、でも『痛いほどきみが好きなのに』はイーサン・ホークの自伝的小説と言われているから、この小説のミューズとして書かれているサラももしかして『ヒロインズ』の女性達と同じなのかな、��考えてみたり。
サラは主人公である『僕』��最後に言った。
『私の働いているところを見てもらいたかったの。あなたは私のことを、間違った目で見ているような気がしたから。私は特別な人間なんかじゃない。ただの保育園の先生なのよ。』
複雑な思いになったけど、この小説の最後の一節がとても好きだ。
『一度だけ、僕は振り返って歩き去るサラを見た。彼女はまだ両手でスカートを押さえながら歩いていた。髪の毛は頭の上で踊っているようだった。肘に貼ってあるバンドエイドが見えた。
僕は前を見ると、坂を登りながら帰途に就いた。顔に当たる風がさわやかだった。僕はサンガーくらいの年頃に、お気に入りだった遊びを思い出していた。通りへ出て人込みの間を歩きながら、自分が孤児のつもりになる遊びを。それをするといつも気持ちが晴れた。僕はその遊びをまたやってみた。このイースト・リバーの川沿いで。』
夜中に友達がタンブラーに書いた文章を読んだ。フィクションとノンフィクションの間を漂っている、でも景色が浮かぶような、すばらしい内容だった。これから更新が楽しみだ。
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