#<悪の凡庸さ>を問い直す
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misasmemorandum · 10 months ago
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『<悪の凡庸さ>を問い直す』 田野大輔
小野寺拓也 編著
アーレントがアイヒマンに対して言った<悪の凡庸さ>と言う言葉の意味と一般の人々が理解している所について。一般で誤解されて使われているのは、アーレントがこの言葉を使った論文を一般の人々向けではなく学者内を対象にして書いたので説明が足りなかった。アーレンとは<悪の凡庸さ>を<根源悪>と対比させて使っているそうだ。私個人としてはbanalityの邦訳に凡庸と言う単語を使ったのが最初の間違いなんだと思う。「ありふれた、つまらない」、陳腐なんだよ。最初に邦訳した人が陳腐では格好がつかないと思ってなんとなく難しいような単語にしたのかなと思う。自分のやったことを誇張して嘘ばかり言っていたアイヒマンのようにだ。人��の見栄っ張りなところが出てしまうよな。
この<悪の凡庸さ>、SNSなどでの歴史修正的意味合いでは、「一人ひとりは凡庸な人間だから悪くないんだ(p184)」とされてるらしい。なんてことでしょう!!だ。やっぱ、無知の痴、だ。<悪の凡庸さ>と言う概念はアーレントの説明不足も相まって学者の間でも解釈が分かれるところでもあったりするようだが、これはあかんで、ほんま。
田野大輔は、 ホロコーストの加害者が単に上司の命令を実行しただけでなく、多かれ少なかれ自分の意思で迫害に加担したことは、[明らかにされている]。アイヒマンのような中央官庁の官僚たちはもちろんのこと、現場で虐殺を実行した部隊のメンバーたちにも自由裁量の余地はあった。...彼らはさまざまなーー誰もが抱くという意味では「凡庸」な動機から自発的に任務の遂行を選[んだ。この選択は]上下間の責任転嫁によって促進されていた。(p65)
と言い、対象人種を憎んでいなくても、「妬みや物欲、傷心への期待などといったさまざまな動機に突き動かさ(p66)」れる。これが<悪の凡庸さbanality of evil>だと言う。今のいわゆるネトウヨもこれに近いだろう。
思想史研究家の百木漠は
組織人としてはきわめて優秀でありながら、自分の行いを他者の視点から省みることができず、自分の言葉で自分の思考を表現することができず、物事を徹底して「浅い」次元でしか考えられないという異様さこそ、アイヒマンの<悪の凡庸さ>の正体だったのだ。(p116)
と言う。
最後に、哲学研究者の三浦隆宏が、哲学者の古田徹也の『いつもの言葉を哲学する』からの引用
しっくりくる言葉を探し、類似した言葉の間で迷いつつ選び取ることは、それ自体が、思考というものの重要な要素をなしている。逆に言えば、語彙が減少し、選択できる言葉の範囲が狭まれば、その分だけ「人を熟考へ誘う力も弱まる」ことになり、限られた語彙のうちに示される限られた世界観や価値観へと人々は流されやすくなる。カッコ内はオーウェルの『1994』から
現代社会に警鐘��鳴らす本だった。
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ari0921 · 9 months ago
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<正論>自虐教育は日本の没落を招く 
麗澤大学特別教授、元空将・織田邦男
「汚染水」「強制連行」
報道によると日本教職員組合(日教組)が開催した教育研究全国集会(教研集会)で、東京電力福島第1原発から放出される処理水を「汚染水」とした教材を使用した授業例が発表されたという。「日本の資源・エネルギーと電力」と題する中学校の授業で、原発事故や廃炉工程を取り上げた教材には「汚染水の放出を強行」と記載したという。
福島の場合、自然界にもあるトリチウム以外の放射性物質を除去した処理水である。海洋放出については、国際原子力機関が「国際的な安全基準に合致」し、人や環境への影響は「無視できる」との報告書を公表している。
原発で生じたトリチウムを含む排水の海洋放出は、中国を含む全世界の原発で恒常的に行われている。中国は「核汚染水」と呼んで日本を非難するが、外交的手段として非難しているのであり、その不合理さは当の中国が一番理解しているはずだ。日本政府は「科学的根拠に基づかない主張」と抗議している。学習指導要領は教員に対し、科学的観点での指導を求めている。だが教員はなぜ、こういう中国側に立った非科学的教育を実施するのだろう。
また小学校教員が漫画「はだしのゲン」を教材として「アジアへの侵略や強制連行」について取り上げ、広島への修学旅行の事前学習を行ったことが発表された。「はだしのゲン」は、史実かどうか未検証の行為も描かれており、教材の適切性を巡っていまだに議論が割れているものだ。そもそも歴史をこれから学ぶ児童に対し、いきなり「アジアへの侵略や強制連行」を教えることが適切な教育と言えるのか。
迷惑するのは子供たち
これであることを思い出した。約40年前、筆者は米空軍大学に留学した。その際、同じ留学生の英空軍将校に質問をしたことがある。「英国ではアヘン戦争をどのように教えているか?」と。一瞬、彼から���みが消え、飲んでいたビールジョッキを置いて、筆者を凝視して静かに答えた。「義務教育では教えていない」。彼は続けてこう言った。「なぜ、義務教育でアヘン戦争を教える必要があるのか。義務教育での歴史教育は、子供に対し先人が示した気概を教え、国家との一体感を育成し、大英帝国のために尽くそうという志を育むのが目的だ。アヘン戦争は英国の歴史の中でも義務教育の題材としてはふさわしくない」と。これを聞いて目から鱗(うろこ)が落ちる思いがした。英国人の誇り高さの源泉はここにあるのかと。サッチャー政権が、教育の立て直しに懸命になっていた頃である。
同じ時期、米国ではレーガン大統領が米国教育の現状に危機感を抱き、教育の立て直しに躍起になっていた。彼はこう言った。「もし非友好的な外国勢力が米国に対して今日のような凡庸な教育をするように押しつけたとしたなら、それは戦闘行為に相当するとみなせるものだ」
「汚染水」教育の結果、「総理の怠慢」「首相退任してほしい。責任をとれ」といった生徒の意見がみられたそうだ。また児童が「日韓併合で連れてきて働かせる」とメモを取る様子が自慢げに発表されている。事実誤認や未検証の行為を子供たちに教育し、堂々と教研集会で発表するという屈折した心理。レーガン流に言うならば、このような教育は「戦闘行為に相当する」だろう。
迷惑するのは子供たちである。「青少年を見れば、その国の未来が見える」と言われる。こういう自虐教育がいまだに行われている現実を知り、将来を憂慮せざるを得ない。
国への誇りを失えば
戦後教育は敗戦のトラウマから「国家」や「公」より、「個」「私」を優先した。国家と歴史、民族と文化を貶(おとし)め、国歌、国旗を拒否し、祖先、両親への敬慕、師弟の礼節まで、あらゆる伝統的価値観に背を向けた。マルクス史観の影響を受け、権威、権力の否定が底流にある。
国際連盟事務次長を務めた教育者、新渡戸稲造は米国で名著「武士道」を著し、日本人の高邁(こうまい)な精神を紹介した。美術史家、岡倉天心はニューヨークで「茶の本」を出版し、日本の伝統文化について広く紹介した。かつて日本人は日本に対する誇りを持ち、強烈なアイデンティティを保持していた。海外で優れた日本の文化や伝統について紹介し、命懸けで日本のために情���を燃やした。報道のような自虐教育が続けば、日本に誇りを持つ日本人は育たない。
欧米にこんな言葉がある。「英国人を自慢しているやつは英国人だ。ドイツの悪口を言っているやつはフランス人だ。スペインの悪口を言っているやつはスペイン人に決まっている」。かつて世界を席巻したスペインはなぜ没落したのか。子供たちに対しスペインはインカ、マヤを滅ぼした悪い国だと自虐教育を続けた結果、スペイン人から誇りが消えた。これが没落の主因だという。決して人ごとではない。(おりた くにお)
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kimmurakamiyunyan · 5 months ago
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繋がれた部屋 3/
 物語を読んでいる彼女の息遣いは海に似ていた。遠���地平線を眺めればそれは静かだし、手の届かない何らかの意味を含んでいる気がする。しかし、波打ち際にあるなら、それは単に体感となる。体感は波を介して遠く地平線に繋がっている。そう感じた時すでに船は漕ぎ出されている。これまでにも誰かに読み聞かせをしてもらったことはあるかもしれないが、覚えていない。覚えていないことをないことにもできないので、もしかして船を漕いでいたかもしれない。彼女が私に施した読み聞かせは、いつかあったかもしれない船を乗り継がせた。いつしか、届く範囲が広がって、そちこちで波打ち際のような体感を得る。それなら、遠く眺めていた地平線は波を介さずとも、端から手が届いていたことになる。繋がっているのではない、既にある。肉声という、読み聞かせにおいて私が得たことは、そのように大海を内に秘める芳醇な出来事だった。
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 出来事と私は思う。物語はそれ自体が体感で経験になりうる。言い換えれば、言語はそのような置き換えが可能なのだ。
 彼女が最初に読んでくれた物語は、蛇と猫の物語だった。主人公は夢の中で蛇と出会う。手に乗るほどの��小さな白蛇だ。目と舌が赤い。舌は二枚あり、二枚舌である。蛇は意地の悪い設問を投げかけるが、もう一枚の舌には選択肢が用意されている。ある種の問答を感じさせるが、主人公から突起した知恵の象徴と見て良さそうだ。蛇は二枚の舌を転がしながら、主人公の旅を鼓舞する。蛇との旅はなかなかハードで、主人公が夢から目覚めて現実を過ごすとき、それは並列して感じる。現実における主人公の生活が凡庸だからかもしれないが、それだけではない。経済が書かれていないのだ。主人公の日常からは周到に経済が拭われ、主人公の成長は夢にあっても、現実にあっても、社会といった共同体には置かれず、その凡庸な生活は不思議と非凡さを纏う。そして、そこに猫があてがわれる。
 猫といっても実際の猫ではない。それは、主人公が錯覚している架空の猫だ。主人公が出会う人々は、主人公の視点を借りて猫になる。皆、耳や尻尾、髭などが生えている。それは仮装パーティーさながらの、トラやキジ、はたまた白や黒、三毛といった様相だ。人々は生えた耳や尻尾、髭などを垂らしてみたり、膨らませてみたり、広げてみたりする。それらは、主人公には気ままに感じられた。その気ままさは、感情の発露というより、むしろそのようでしかあり得ないものとして主人公に受け止められ、主人公はそれを事象として夢判断の材料に使う。生活から経済が拭われたように、ここでは心理といったものはいっさい拭われ、きれいに排除される。主人公はその時々の猫の事象を積み重ねて判断するが、それは亀卜など卜占を思い起こさせた。そうして、夢の舵を切る。
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 その舵切りは、まるで他者を借りた主人公の自由発想だった。ちょっとした思い付きのように、出会う人々に見える耳や尻尾、髭などを、錯覚のうちに撫で付け修正する。パッケージでもし直すように。すると、また夢を見て、夢の蛇と旅をする。しかし、全編にわたって、何を修正し、何が修正されたのか作者は書いていない。おそらく、それが作者の言いたかったことなのだろう。修正というものが、蛇の舌に用意された選択肢だったとして、私たちは選択そのものを生きるほかなく、今においては他の選択を生きることはできない。つまり、私たちは常に選択のその後を生きているのだ。今とは選択肢と共にはあるが、完全な一択の結果と言える。作者はそのように書き分け、書き含めたのかもしれない。主人公は生涯をかけて蛇と旅する夢を見、舵を切り、夢の修正をし続ける。それは、現実の修正でもある。生涯内容の変わらない夢と現実が繰り返し反転するなら、どちらが現実かわからない。それも作者が書きたかったことなのだろう。
 私はそのようにこの物語を聞いたのだが、彼女は違った。彼女は、夢判断の材料そのものが現実だと言った。材料とは主人公が気まぐれに感じている猫の事象だ。事象こそが現実で、物語が夢と現実としているのは、潜在意識と顕在意識だと。私たちが日常的に夢と現実と見ているものは単に搾りかすで、私たちは搾りかすを生きているのだと。彼女は何を躊躇うもなく確信して物語に意見しながら、フレッシュの人参ジュースを作り始めた。何のことはない人参を適当なサイズに切って、ジューサーに放り込んだが、この適当なサイズに切った人参が、彼女の言う事象ということだろうかと私は考えた。スイッチを入れると、ジューサーの一方からは人参ジュースが、一方からは文字通り搾りかすが出た。彼女は私と人参ジュースを飲みながら、残ったジュースと搾りかすで何か作ろうと献立を考えた。彼女の意見を鑑みれば、人参はカットされることで事象を経て、彼女を動線にジュースと搾りかすとして夢と現実を行き交い、献立により修正するのだろうか。
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 物語の終わりに、主人公はその生涯を閉じる。主人公が死を悟るとき、猫の事象が人々から消える。死の悟りは、まるで意図のようだった。意図を単に引き伸ばしただけなのだと言わんばかりの語り口だ。そして、主人公はやっと終わったと呟き、人生を引き上げる。そのとき最後の夢を見る。生涯にわたった蛇との旅の終わりに、主人公は蛇の赤い舌に巻き取られ、飲み込まれる。まるで、蛇が身籠るような書きぶりだったから、それは再生だったのかもしれない。主人公は蛇の体内に溶け、蛇もまた溶けゆく。残ったのは蛇の二つの目玉だけだ。その二つの赤は絡み合いながら昇天し、主人公の世界は消滅する。世界は主人公と共にあったのだ。それが作者が考える世界と主体なのだろう。
 読み終わった本を閉じると、さっそく彼女は人参ジュースを作り出した。私は彼女の動きを目で追いながら、読み取った物語の上に、彼女の意見を上書きした。彼女にそう話すと、入り口と出口みたいだねと笑った。その時には漠然と、彼女の意見を出口と考えたが、今思えばそちらが入り口なのかもしれなかった。どちらにせよ、それは交点を経てようやく直線になるような、そういう種類の物語だったのかもしれない。
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straycatboogie · 1 year ago
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2023/08/19
BGM: Pavement - Summer Babe (Winter Version)
今日は早番だった。仕事が終わり、夜に松下育男『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』を読みかけていたのをようやく読み終える。以前は恥ずかしながら、なんでもかんでも本を買い込みそして泣きを見たものだったがそんなムチャな物欲も失せてきたようだ。ボーナスが入ったということで澤田直によるフェルナンド・ペソアの評伝や阿久津隆の日記の新刊を買いたいとも思ったのだけれど、優先順位というかいちばん古く「欲しい」「自分に必要だ」「繰り返し・末永く読むだろう」と思ったのはこの松下育男の講演集だったので、あらためてグループホームにボーナスを半額渡した後交渉してみることにする。奥歯に違和感があるので歯医者にも行きたいし、いろいろお金の管理の悩みは尽きない。そう言えば昼だったか(昨日のことだったかもしれないが定かではない)、元ペイヴメントのドラマーのゲイリー・ヤングが亡くなったとのニュースを聴く。ぼくはペイヴメントは『クルーキッド・レイン』くらいしか知らないのだけれどこのアルバムは好きで、折に触れてよく聞く。脳のコリをほぐして、リラックスさせてくれる(「人生は思ったより『甘い』かもしれない」とも思わせてくれる)効果があると思うのだ。ゲイリー・ヤングが在籍していた頃のアルバムも虚心に聴き込みたいと思った。合掌。
松下育男の本から、ぼくはあらためて「詩を書くとはどういうことか」を学んだような気がする。とはいえこの本、悪く言えば実にあっさりしているというか松下育男の主張がいい意味でも悪い意味でも暑苦しさがない。押し付けがましくないので、一度読んだだけではあっさり「流して」「スルーして」しまう怖さがある。したがって、リルケや保坂和志の詩や文学論を読むように何度も読み返したいと思ったのだった。脱線するが、ぼくが思う「最近の本」はそうした「繰り返し染み込ませるように読ませる」面白さとは真逆の「一度読んだだけでパッと掴ませるインパクト」を重視したものが多い印象を受ける。見開きでキャッチーなフレーズが1行だけドンと載っていたり、ゴチックで強烈なフレーズがさらに強調されていたり。もちろんそうしたアフォリズム的な面白さも本の面白さではあるのだけれど、ぼくは歳をとったせいかそんな「強烈さ」よりもあっさりした中に(語義として矛盾してるかな?)「コク」「旨味」がある本をこそ好んでしまうのだった。その意味で、どうやって出会ったのかは忘れたのだけれどこの松下育男の本やあるいは谷川俊太郎などとの出会いは幸せだったと思った。
そんなわけで、繰り返し読み込みたいと思い始める……今の段階でぼんやり思うのは、松下が「生きていくために/ただ書いている詩が/あっていいと思う」と書き記しているそのセンシティブさ、真面目さについてだ。この詩人にとっては「生きること」と「書くこと」が直結している。「よく生きる」ことと「よく書く」ことがつながっている。ぼくはひねくれ者・あまのじゃくなので、極端なことを言えば言葉の断片をシルクハットか何かの中に入れてかき混ぜて作るようなものも詩だと思うし、あるいはマニュアルにごくクソ真面目に沿って作るようなオートメーション化されたものも詩だと思う。だけど、ぼくはそんな「心のない」詩の書き方ができない。これはでも、「仏作って魂入れず」が嫌いとかいう美学の問題ではなくぼく自身の不器用な書き方として「どうしたって書いていると自分の思いを(悪い意味でも)込めてしまう」ということなのだと思う。音楽に例えると、ぼくは小室サウンドや小西康陽だって聴く。だけど、ぼくが書いたり聴いたりするのはそんな洗練とはほど遠い詩や文章なのである。トム・ウェイツのようなエレジーめいた叙情……と記してしまうとカッコつけすぎかな。
よく書くことはよく生きること、よく生きることがよく書くこと……と書くとなんだか武者小路実篤的な朴訥な美学ということになり、「そんな『小市民的美徳』『道徳教育』みたいな話がつまらないから小説を書きたいんだ」と思っていたかつてのぼくのような人間をさらに敬遠させることにつながるかもしれない。そう、かつてのぼくも(はっきり思い出せない���ど)宮台真司言うところの「終わりなき日常」が退屈で、そこから刺激を求めてファンタジーやぼくなりのサイエンス・フィクション的な世界(もっと言えば筒井康隆的なぶっ飛んだ虚構の世界)に憧れを抱いていたのだった。でも、今は太陽が東から昇り1日が始まり、ご飯を食べると旨く仕事をすると上司に無視されて……といった日々の凡庸な繰り返しの中にある「光」について書きたいと思うようになったのだった。そして、松下の本はそうした単純な中に深みを備えた日常や人生を祝福さえしているように感じられた。それはしかし、世界をあられもなく愛するからではないとも思う。詩を書くこと、世界をとらえること、生きることの無力を噛み締め、「それでも」書こうとしているその意志の毅然とした強さゆえのことではないかと思った。
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hasujohk · 2 years ago
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戦争責任者の問題
伊丹万作
アップしたらタイトル文字化けしちゃったけど↑開いたら読めます😅
戦前の映画監督・伊丹万作氏による約80年前の戦後すぐに書かれた手記だそうです。誰がだましたとか誰にだまされたとか。
今って戦時中かよとたびたび思ってたけど、この文章読む限り全く今と一緒やん!!😱と戦慄しました。戦争=コロナ騒動、国民帽=マスク!!(つけるも外すも強要はあかん)
(文中より)
つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
…ここに書かれている事を一体どれぐらいの方が自覚できるのか。凡庸な悪。何年過ぎても同じか?
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hyouset · 2 years ago
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まだうまく言葉にできないけどなんだかすごく苦しかった
今日も今日とて文章を書こうと思う。今日は最近類を見ないくらい気分が悪い。別にそんなこともないか。そんなこともないけれど、色んなものが大きすぎるように思えてしまう。
突然思い出したことを書く。高校の時のことだ。高校の時、僕は勉強ができなかった。どれくらいできなかったかというと、高二か高三のとき数学のテストで二点を取るくらいには勉強ができなかった。一回じゃない。流石に一桁は一回だけだったけれど、赤点は日常茶飯事だった。赤点程度では驚かなかった。先生に「高校変えるのも一つの手だよ」みたいなことを言われたこともある。高一のときの数学Aの先生だ。占いができる先生だった。だからか、生徒から人気があった。手相占いだった。見てもらったクラスメイトが「〇〇年に一度の手相だ」か「〇〇っていう武将、もしくは経営者と同じ手相だ」って言われていた。あれは本当だったんだろうか。さすがに嘘ってことはないかもしれない。生徒を占いでちょろまかして虚栄心を満たそうとする教師はさすがにダサすぎる。多分、本当に見���たんだと思う。クラスのぱりぴ、いやぱりぴは表現が雑すぎる、クラスの比較的陽気な人はもちろん、そんなに陽気ではない人、要するにおとなしい人も何人か見てもらっていた。確か進路に関わることだったと思う。それが何かになったかは知らない。多分何にもならなかった。というかうちの高校は付属校だったから占うと言っても「どの学部がいいですか?」程度の規模でしか見てもらえない気がする。そこに意味はあるのだろうか。
話が逸れたけれど、書きたかったのは成績のことだ。僕は成績が悪かった。成績が悪いとか勉強ができないと書くたびに、山田詠美さんの『僕は勉強ができない』という小説が頭をちらつく。秀美くんという男の子が主人公の小説だ。小説の冒頭で秀美くんが机に乗って自分の名前を言ってから「僕は勉強ができない」と決め台詞みたいに言う。(ちなみに机の上に乗るというのは机の上に立っているわけではない。机の上で体を滑らせる感じだったと思う。足で乗ると滑るのとではかなり印象が違うと思ったので、補足)それで周りの生徒は騒ぐ。騒ぐというか「よっ、秀美」みたいな空気になる。確か学級委員を決める投票のシーンで、立候補していた優等生より秀美が学級委員の方がいいと、クラスメイトたちが騒いでいた、そういうシーンだったと思う。いやよく覚えていない。そこまで嫌な感じのシーンだっただろうか。その学級委員に立候補した優等生は作中でけっこうボロボロな言われようだった。ちょっと前に付き合っていた女の子に裏でダメ出しをされたりしていた。辛い。その女の子がその優等生の物足りなさについて話していた相手が秀美くんだった。秀美くんはモテモテって感じの男の子とはまた違ったけど、周りの女の子に放っておかれることがない、そういう男の子だった。常に女の子の方から話しかけるってことではないけど、秀美くんが話しかけたら、女の子の方は何か真理のようなことを言ってくれる。そこで真理を言うのはまあ小説だからなのだけれど、現実世界にも打ち明け話をよくされる類の人間はいると思う。男女問わず。それは別に、口が固そうな人ではない。多分、そこに口の固さは関係ない。いやなくもない。なくもないけれど、きっと最優先事項ではない。というか打ち明けている時点でもうそれは絶対に秘匿されるべき話からは外れる。僕は打ち明け話をよくされる人ふたりにそのことについて直接聞いたことがある。なぜそんなに打ち明けられるのか。そうしたらその人たちは同じことを言った。「そんなに親身になって聞いてないから」誠実には答えるけど、めちゃくちゃ感情移入したりはしない。僕だって別に感情移入したりはしない。この違いは何か。いや違う。これではまるで僕が人から打ち明け話をされたいみたいだ。実際そういう部分はある。でもちゃんと想像したら、それがただしんどいだけだろうことが分かる。というか多分、打ち明け話には色んなバリエーションがある。僕はすべての打ち明け話を聞きたいわけではない。打ち明け話を聞きたがっている時点で厚かましいのにそのうえ選り好みまでするなんてどこまでおこがましいんだろう。ちょっと自分が言っていることがどんどんダークサイドに落ちてきた気がする。
今日はやばい。今日は精神的にわりとやばい。少し前なら何も書かなかった(書けなかった)と思う。でも今日は書いている。これが習慣の力か。すごい。
今日は人と話した。話しただけじゃない。手紙を渡したりもした。なんていうか、正のエネルギーで人と関わった。大まかに言うと三人と関わった。一人は今日でバイトを辞められた方、もう一人は、バイト先でよくお昼などをご一緒する方、もう一人は母親。今日で辞められる方には手紙を、よくお昼をご一緒する方にはその方のライブの感想を、母親には今日誕生日だったからプレゼントを、それぞれ渡した。有形無形色々だけれど、相手に喜んでもらいたいという思いがどの行為にも含まれていたのは間違いない。これがきつかった。自分は別に、欺瞞でやったわけじゃない(と思う)。なのにしんどい。苦しい。今、かなりやってしまった思う。とにかく手を動かして言葉を書くことで流れを生み出そうとしてるから「やってしまったと思う」と書いた。この言葉が自分の感覚を正確に表しているのかは分からない。一つ言えるのは、自分はバイト先とか母親との関わりで何か明らかに割り切れていないものを抱えていて、それをなんとか外に出そうとしていること。的確な言葉を探そうとして手を止めることは、何かと矛盾している。その矛盾が何かは分からない。最近は、自分が感覚的に正しいと思っていることは後付けで論理的にも正しいものにすることができるということを思う。いやそんなことを言ってもつまらない。それではムカつく友達が喜ぶだけだ。そんなことはどうでもいい。そろそろ話を戻そう。
正のエネルギーで人と関わった、というのはかなり的を射ている。端的に言えば、自分は正のエネルギーで人と関わって、今、心の内奥にブラックホールみたいなものができている。いやブラックホールとも違う。ブラックホールは黒いけど(本当に?)今胸のうちにあるものは白い。白くてぐるぐるしている。マックシェイクとかそんな感じ。この例えが出るのは今自分がマクドナルドにいるからだ。23時前なのに人が多い。「食べないなら帰れ」みたいなことを言われた。ほとんど全員がパソコンなり参考書なりを持ち込んで作業をしている。だからその注意はほぼ全員に向けられた。そこからは我慢比べの形相を呈した(嘘です)。我慢比べの形相は嘘だけれど、お互いに様子を伺ったのはあったと思う。僕が見たかぎり、対面のテーブルに座っている人たちはほぼ全員が周りを見る素振りさえ見せなかった。慣れてるんだろうか。こういうときは屈せず居座り続ければいいと。そうすれば道は開けると。経験からそう知ったんだろうか。まあそんなことはどうでもいい。いや、どうでも良くはないけれど、こうして文章を打っているうちにそれなりに人が減った。かなり自己中なことをしてしまったと思う。でも僕はどうしてもここを出たくなかった。わがままかよ。
純粋にクズなことを今日はたくさん書いている。でもクズさについて掘り下げるのはよりクズな気がするので話を戻す。正のエネルギーの話。正のエネルギーがあるということは、負のエネルギーもある。自分は、負のエネルギーで人と繋がりたいと思っているのかもしれない。では負のエネルギーで人と繋がるとはどういうことか。たとえば、誕生日を祝い合うことは違う。相手がやっていることを見るなり聞くなりして「すごい」と言うことも違う(相手がやっていることに興味を示すなということではない)。めちゃくちゃ凡庸なイメージを言うと二人でタバコの煙をくゆらせるみたいなそういうことだけれど、それはちょっと見るからにだ。でもどうしても二人で幸せになるイメージは湧かない。ここで二人と書いたのは人と人が繋がる最小単位が二人だからだ。具体的な誰かを思い浮かべているわけではない。
今日は昨日とか一昨日より中身がない気がする。昨日と一昨日に中身があったかは知らない。逃げるな。ちゃんと言え。昨日、一昨日には中身があった。書きながら何かを掴み取っている感覚があった。今日はない。なぜだろう。自分のなかで何一つとして整理できていないからだろうか。とにかく、自分は今日、正のエネルギーで人とつながった。それがクソだった。クソは言い過ぎかそれとも言い過ぎという言葉で逃げることによって本質を見失うか、どちらだ、どちらでもない、もっと劇的じゃない、シンプルでいい、全然違う言葉、そもそも繋がってはないか、あれだ、今、自分が感じているクソさは、相手が今自分が感じているような虚無感を感じていない前提にある。相手も、自分と同じように「嘘をついた」みたいな感覚を持っているのかもしれない。だとしたらそこには希望がある。
社交辞令を使うのが自分だけだと思うから話がこじれる。いや社交辞令ではない。それは社交辞令じゃない。自分が言っているのは、あくまで本音なんだ。自分が本音と解釈できるくらいまで濃度を上げた嘘だ。本当にそうか。そうだったらくそだ。これは割と認めたくない。でも認めざるを得ないかもしれない。
今日で辞められる方に対して、自分は手紙を書いた。それなりに長い手紙だ。パソコンで打って、後から手書きで書き直した。前からハンバーガーの匂いがする。話を戻す。字数を数えると二千字くらいあった。字数がすべてではないけれど、ひとつの指標にはなる。ある程度熱を込めて書いた。書いているうちは熱が篭っていた。書き終えた後も、それなりにやり切った感じがあった、と思う。もし、ビリビリに破り捨てられていたら、自分は満足したと思う。「嘘ばっかついてんじゃねえ、もっと自分を見つめ直せ、死ね」と言われていたら、自分は手紙を書いたことを後悔しなかったと思う。結果は逆だ。「ありがとう」という旨のラインをもらった。その「ありがとう」がどこまで本音か分からない。実際、僕が書いたことに対してどう思っているかは分からない。「きも」と思っている可能性もある。どうかそうであってほしい。そうであってほしいは言い過ぎか。「どうでも良くなってきた」と書こうかと思ったけれどそんなことはない。そんなはずはない。これは自分��とってそれなりに重要な問題だ。
一つ言えるのは、自分は「ありがとう」を想定して手紙を書いたということ。要するに、「ありがとう」が狙える範囲内でしか書かなかったということ。いなくなることに対して手紙を書こうと思えるような相手がいなくなるんだから、そこに生まれる言葉は綺麗事だけじゃないと思う。もちろん嫌いだったわけじゃない。いなくなることが寂しい相手だ。そこに何かしらの穴が空く相手だ。でもその「穴」の形を伝える言葉は、果たして「ありがとう」と言われるような言葉なんだろうか。怒らせればいいってもんじゃない。さっき「死ねって言われたかった」みたいなことを書いたけど、それがいいとも限らない。でもなんていうか、「ありがとう」は凡庸だ。ありがとう的な瞬間があるのは本当だし、ありがとうがゼロの環境よりありがとうで溢れている方がいいと思う。いや、溢れてるは嫌だけどでもそれは自分の今の精神状態の問題で、やっぱりあるかないかならあった方がそれは絶対いいと思う。
というのは結局ポリコレというか「ありがとうがなくていいと思うのはお前が恵まれてるからだ」的な言葉から自分を守るためで、そういうものはいらない。でも今の自分では、一旦自己弁護してからその弁護はいらないと言う形でしか、強さ��示せない。強さ? それは強さか? 強さではない。外に向けての強さだ。「強いね〜ヨシヨシ」してもらうための強さだ。してもらうなそんなもん。
話を戻すと、正のエネルギー、ありがとう、その辺の話だ。ありがとうを生み出そうとすること、そうだ、自分は本気で言葉を紡ごうとした。そこで発する言葉に嘘がないようにしようとした。でもその嘘のなくし方は結局、セルフコントロールの域を出ていなかったのかもしれない。嘘をなくす方法は二つある。一つはマインドコントロール、もう一つはすべてを蹴散らすこと。自分は後者をやっていない。自分が許せる範囲で自分に麻酔を打ち、麻酔がまだ効いていない範囲に対して吠えていた、のかもしれない。
自分が怖い選択肢に対して「いや、そもそも自分それやりたいと思ってないし」と思うことがある。そこには自分を騙している意識すらない。生存本能として、本気で自分はそれをやりたくないと思っている。でも本当はそうじゃないんじゃないか。ここは多分、慎重に行った方がいい。雑に言葉を使うと間違う。「人と繋がるためにはこうした方がいい」と思うこと。「相手を傷つけないようにしよう」と思うこと。「嫌われないようにしよう」と思うこと。「相手のことを思いやる」こと。「誰かの役に立つ」こと。誠実に言葉を使うこと。相手を否定すること。肯定すること。肯定も否定も傲慢だ、でもそういうことじゃない。
自分は性格が悪いということだろうか。本音を出したら相手をディスるような言葉しか発せないということだろうか。でも冷静に考えていくと、ほとんどすべての他者に対して、「これは違う」と思っていることがあるような気がする。「これは違う」と思ったうえでそれを言う状況と言わない状況、いや違う、「これは違う」と「ここが良いな」は表裏みたいなもので、自分は常にそのどちらかの面を使って人と接している(のかもしれない)。否定と肯定を一つの面に共存させることができない。というか否定とか肯定とかそういう雑なものの見方から脱することができていない。余計なジャッジは消したい。
ということともまた違う。それらしい結論を用意するな。でもなんだろう。自分は納得できない。「否定か肯定、自分はどちらかしかできません」みたいなクソ以下の結論では自分は満足できない。ここでさっき思っていたことを書く。自分は今日、自転車を取りに行きながら「自分は七割くらいの距離感でしか人と繋がれないんじゃないか」と考えていた。少なくともその時の思考はそっちを向いていた。自分は関わるすべて、なんなら街ゆく全ての人と繋がりたいと思うけれど、それは十割の繋がりなんじゃなくて、七割くらいの繋がりなんだと思う。少なくとも今は。
というのはまじで現時点、「点」での自分の思考であって、そこからどう流れていくかは別の話だ。
点はマジで点でしかなくて、2秒で別の場所に移る。
絶対に肯定されない感情とはどういうものがあるだろうか。
絶対に肯定されない感情はない。というかいつまでも肯定されるか否定されるかの次元で考えてるから話がよく分からなくなる。ポテトを買ってきた。ポテトを待ってる間に思い出したことがあったのでそれを書く。ある方が書いてらっしゃった「もっとバトりたい」という言葉と、その付近に書かれていた言葉たちについてだ。読んだ直後は、けっこう頭の中にあった。その頃自分は、自分の本音をどれだけ相手を否定せずに伝えられるかを考えていた。でも今はそれが、少し違うのではないかと思える。自分の中にある怒りを殺しているのなら、それは全部じゃない。内容が同じでも、それは全部じゃない。丁寧な言葉にしている時点で、意味は同じでも何かをこぼれ落としている。だからこそ、人は恋人には怒るのかもしれない。何かをこぼれ落とさないようにするために。
またそれらしい言葉で内容以上の満足感を出そうとしている。そうじゃない。もうちょっと考えよう。でもこれがすべてかもしれない。その言葉が持っていた感情を別の感情に置き換えたり無くしたりした時点で、もうそれは同じものではない。怒りはぶつけてはいけないものか。汚い言葉は使ったらダメなのか。多分、冷静な怒りと我を失った怒りがある。前者なら大丈夫なのかもしれない。でも冷静に怒りを放つには、それなりのテクニックがいるような気が、する。
テクニックという言葉は嫌いだ。だから言い直す。「テクニック」という言葉を使ったのは、そこに俯瞰性を感じたからだ。自分の手綱を握ったまま怒っている。それは技術だ。でも、自分で手綱を握れている状態を、怒っていると呼べるのだろうか。でもそう思うのは、自分が真っ当に怒れたことがないからかもしれない。直近で自分が怒ったのは、けっこう前に母が僕の服を「ないなあ、ないなあ」と言っていたとき。数年前。服がなくて困っているとき母が純朴な声で「ないなあ」を連呼するとなんだかめちゃくちゃイラついてしまう。というか母親に探させるな。甘えるなゴミカス。あの時は母が服を洗濯して畳んでくれることのありがたみに気づいてなかった。今思えば自分は本当にただのゴミだった。ゴミだったけれど、ゴミだったからと言って過去の自分をなきものにするのは違うと思うから、ここに記しておく。僕は自分の服がないときに母に探してもらって、そのとき母が「ないなあ」を連呼するとめちゃくちゃイラついていた。ゴミだ。
本当に気づいているのか? それをありがたいと思っているのか? 乗っかれそうな条件が揃った途端に正しさに鞍替えするのは卑怯だと思う。お前はもっと間違いを大切にし��方がいいと思う。それは道徳的な意味ではない。もっと冷静に、できるだけ正確に形を捉えたいのなら、正しさに安住しない方がいいと思う。
「母親に服を洗濯してもらっていたことのありがたさに気づいていなかった、でも今は気づいている」これは、母親に服を探させた挙句、母親に苛立ちを募らせる自分を過去のものにするために書いた言葉だ。過去のものにしないとダメか? 本当に過去のものにできるのか? 過去のものにするべきなのか? 母親に服を洗濯して畳んでもらっておきながら服がなくなったら母親に探させて母親の純朴な声に苛立つ自分は本当に消すべきか? 今、現時点で持っている倫理観では、それは消すべきで、変えるべきだと思う。でもそれは倫理観だ。倫理とは何か。友達に薦められた本のタイトルだ。ついに読むときが来たかもしれない。いずれにしても今はまだ読んでいないので、その本に書いていることは抜きにして話す。
正しさに乗っかるのは人間のためだと思う。もっと正確な言葉を使うと、まだ正しいと自分の頭で理解し切れていない、実感としてまだ落とし込み切れていない正しさを前借りで使うのは、人間社会で生きていくためだと思う。多分、めちゃくちゃ当たり前のことを言っている。どうして人を殺してはいけないか、分からなくても、それはやっぱり殺したらだめだ。でもなんで? このなんでは理由が分からないからではなく、まだ自分のなかで落とし込み切れていない言葉を自明の事実のように扱うことで嫌悪感が生じるから言っている。やばい眠い。日が変わった。
「間違いによって死ねるか?」という言葉が今浮かんだ。間違いによって死ねるなら、それは一つの信念だ。でも死ねないんだったら、それはただのわがままだ。極端すぎるか、いや極端でもないか。すべてを冷静に正確に捉えようとすると同時に倫理的であることは可能か。(この「倫理的」という言葉の使い方はかなり曖昧なものだと思う)人を殺してはいけない理由は、正しく突き詰めて考えていけば最終的にちゃんと「殺してはいけない」に辿りつくようにできているんだろうか。多分できてない。というかそもそもで、「正しく突き詰める方法」がない。だとするとなんとなく欺瞞を抱えながら生きていくことになる。もう一度書くと、別に自分は、人を殺したいと思っているわけではない。でも、それと同じことがあらゆる場面で起こっている気がする。「納得してから動く」ことはほぼ不可能に近い。「納得に向けて動く」ことをそのまま仕事にしてしまうか、「納得はできていなけど動き続ける」を仕事にするか、どちらかだと思う。突然仕事の話になった。っでも生きていくために仕事が必要なら、そのどちらかになる必要がある。
ここで言う仕事をお金を稼ぐためのものと想定すると、苦しい。というか後者、「納得はできてないけど動き続けないといけない」には、お金を稼ぐため以外の理由がないと思う。こんな青臭いことを書くつもりではなかった。眠気があるからかもしれない。
「人を殺してはいけない」ことに現時点で正当な理由を見つけられていない、でもだからと言って、「人は殺してもいいかもしれない」を考慮に入れて思考するべきかは分からない。感覚的に、というか感情的に、人は殺してはいけないと思う。少なくとも今まさに殺人を働こうとしている人に対して「なんで殺すのか」とかそんなことは言わない。とりあえず止める。
「人は殺してはいけないと思う」という感情と、感情を排した冷静な「なんで人は殺してはいけないのか」という思考を、両立させる必要があるのだと思う、と書いてみたもののまったくこんなことが書きたいわけではなく何より頭がぼ��っとしてきたのでここで終わる。書きたいことを書き切れた気がしない。明日続きを書くか、もしかしたら今日中に何か書き足すか、分からないけれどとりあえず今はここで終わる。
また次回!!!
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innocent-3 · 4 years ago
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「獅子身中の虫鈴木貞一」より
…皇道派の連中は概して陰性な者が多かった。真崎(甚三郎)、柳川(平助)、小畑(敏四郎)、鈴木(率道)、秦(真次)などは蛇の肌に触るようなつめたい感じがした。荒木(貞夫)は秘書官と酒のみ競争するような茶目気があり、比較的陽気なところがあった。青年将校の信望を集めたのも、一つはそのせいであったと思われる。…
 皇道派の変わり種として、いま一人の珍しい人物を紹介しておこう。鈴木貞一である。第二十二期だから鈴木率道と同期だ。支那駐在から任満ちて参謀本部に戻ったが、肝心の支那班で「彼は支那班に置くような者ではない。もっとしかるべきところに」といって収容しない。他の部課でも「ああ、こちらにはいらないよ」とみな敬して遠ざける。頭脳もよし手腕力量ともに凡庸ではないが、どういうものか同期生から好まれない。同期生といえば同胞よりも親しい。血をすすりあった盟友だ。それから排斥されるんだから、よほどの大器に違いない。それを聞いた軍事課長の永田鉄山が「それじゃ、俺のところにもらおう」という。軍事課の者が「ゲテモノ食いもたいがいにしなさい。彼を抱えこんでは課長が食われますよ」と散々忠告したが「まさか」といって採った。
 駑馬も騎手が良ければ駛る。いわんや鈴木は千里の馬だ。騎手は古今の名手と来ているから、正に天馬天をいくごとく見えた。「鈴木はいいだろう」と永田は鼻をうごめかしていた。鈴木も永田の知遇に感じたか、御奉公第一と勤めているうち世の中が変わって来た。荒木が陸相としてその一党を率いて乗り込んで来た。永田と意気投合していた小磯(国昭)は軍務局長から次官に棚上げされた。荒木の髭の塵を払わねば立身出世かなわぬ雲行になった。永田は新軍務局長山岡重厚が素人だから、従来より一倍骨を折ってこれを補佐しているが、山岡は事務などはどうでもよい。永田の言動を厳重監視するのが役目である。
 永田は人からはゲテモノ食いなど冷やかされるが、どんな者でも一芸一能に秀でている者ならばりっぱに使いこなす。鈴木など好例であるが、その他の軍事課員も一癖も二癖もある。腕に覚えのある侍どもだ。大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタする者はない。それぐらいの面魂は持っているのである。ところで、某日、筆者が山岡を訪れた。その頃はすっかり仲よしになっていた。
「おい、珍しい物を見せようか」
 山岡は応接室から自室に引き返して持って来たのは汚い鞘に納められた短刀である。
「拝見します」
 と抜いてみるとさびついている。銘はない。むろん筆者にはわからない。「何ですか」ときくと「俺にもよくわからないが、関もので兼房あたりではないかと思う。物は大したものではないが、まあ窓をあけるぐらいの価値はあろう」と卓子の上に載せ、「問題はこれを持って来た者だ。誰と思う」わかりませんと答えると「貞一だよ、鈴木貞一だよ」と言って笑う。「彼が北京とか天津とかの古物屋のガラクタの中にあったのを発見して、掘出物ではなかろうかといって持って来たんだ。彼���平素刀などひねくりまわしているのかい」と愉快そうに笑う。山岡は皮肉屋である。彼には鈴木がどういう意味でこんなものを持参したかを知っているのだ。それを筆者に言わせて拍手しようという魂胆だ。山岡が刀剣以外には何の趣味も道楽もない木強漢であることは部内周知の事実だ。酒を持ちこんでも菓子折を持参しても何の効顕もない。もし、刀剣を持ちこめば相好をくずして喜ぶ。この点はまことに弱い。持ちこむといっても贈物ではない。鑑定だ。贈物となれば少なくとも山岡の所持している以上のものでないと喜ばないだろう。現に長光とか国安とか稀代の国宝級のものを持っている。それに匹敵する物は、まず手に入るものではない。そこで鈴木はこの山岡最大の弱点をついたのである。
 山岡が積極的に悪口を言わなくなれば、皇道派の連中は大抵信用する。面と向かっても罵倒するし、陰での批判など痛烈無比だ。皇道派とは因縁のない板垣征四郎を呼ぶに、まともに言ったことはない。「板(パン)」である。「板」がまた支那人にだまされてウンと金をとられた。「彼は板じゃなくて白(パイ)だよ。白痴だよ」という。金をとられたという事件の内容は忘れたが、おおむねこの類だ。彼の口に上らなかったのは武藤、荒木、真崎の三守護神くらいだが、それでも荒木については善意の悪口はのべていた。鈴木はその後も、長いもの短いもの幾口かを持ち込んでいた。山岡は役所でもろくな仕事はしていないんだから、役所に抱えて行って局長室に投げこんでおけばよいのを、わざわざ自宅に持参するところに彼の狙いがあった。かくて、皇道派のメンバーの一人の如く振舞うようになってから、永田に対する態度は次第に冷ややかになった。つめたくなるばかりではすまない。皇道派に永田の悪口を注進する。
 鈴木はしばらく新聞班長をしたことがある。上着の内ポケットがいやに硬直している。「機密費でもしこたま入れてるのかい」というと、「ばかを言え、これだ」と取り出したのは短刀だ。見ると月山貞一の作である。「僕と同名だし、なかなかいいできだろう」と得意である。 月山は帝室技芸員か何かになって、晩年は知られたが、日清戦争頃までは鍛刀の依頼者も少なく、やむなく古刀の擬物を打っていたと伝えられる。擬物でもすぐ発見されるようなものでなかったから、その技術は高い水準にあったらしい。それにしても贋物作りをするような人物は感心できない。それはそれとしても、何のために新聞班長が懐ろに短刀を呑んでいなければならないか。それほど彼の身辺は危険だったのか。真に護身用なら赤の他人に誇示するようなことはないはずである。また、手をのばせば届くところに、日本刀を仕込んだ軍刀を置いている。どこから見ても不必要だ。それを見せるキザな態度に筆者は、しばらく胸の悪くなるのを覚えた。
 斎藤内閣のとき、何かの要件で鈴木は高橋(是清)蔵相を訪れた。大いに気おって蘊蓄を傾けて老蔵相を説き、ことに陸軍予算のみならず、国家予算全体についても話したらしい。高橋は鈴木の階級も何も知らず、おそらくポストも知らなかったろうが、ともかく数字をならべて説くところがなかなか堂に入っている。感心して鈴木が出て行ったあとで、次官か秘書官かに「今来てしゃべって行った兵隊はあれは主計か」と尋ねたそうだ。この話が陸軍に伝わり鈴木の耳にも入った。「君は主計に間違えられたそうだね」というと怒るかと思いのほか、満悦である。大蔵大臣に主計と間違えられるほど、俺は数字にも明るいんだと誇りたいんだ。渋谷美竹町の彼の自邸は、佐官級としては過ぎたりっぱなものであった。応接室も広く、周囲に飾られている物はみな中国のものだ。新聞記者が行くと、なかなかの御馳走を出す。ウィスキーなんか本場物を幾種類か出し、時には上等の中国の酒を振舞う。酒好きの記者はしばしば鈴木邸を夜襲したらしい。そういうことをするのが弘報宣伝だと心得ていたのだ。
 さて、世の中はまた変わった。荒木が引っこみ林(銑十郎)が出て来た。その直後のことである。筆者は毎朝犬の運動のため、渋谷、駒場方面から方角違いの中野、杉並、八王子近くまで自転車で走りまわっていた。その途中に知りあいの家があれば、遠慮なく叩き起こす。仲には「どんなことでもきくから朝起こすのだけは勘弁してくれ」と泣きつく者もいた。家を出るのは薄暗い頃だから、運のわるい者はほんとうに夜半のつもりでいる。渋谷方面では永田も被害者の一人だ。しかし、その頃は旅団長をしていて、夜ふかしは少ないはずだから、帰途に垣根の外から「永田さん」と呼ぶ。美しい夫人が縁側に三つ指つくときは、まだ起きていない証拠だから素通りする。ところで、その朝は筆者の行ったのが少し遅くなってはいたが、珍しく庭に出て楊子をくわえている。そして先方から声をかけた。
「オイ、ニュースがあるぞ、こっちに入れ」
 永田がそんなことをいうのは稀有だ。「何ですか」と犬をつれて庭に入って縁に腰かけるとこういうのだ。
「鈴木貞一が来たんだよ。御近所まで参りましたからといってね」
「鈴木は美竹町ですぐ近所じゃありませんか。今まで訪ねなかったんですか」
「来るものか、そして省内の事情や何かをききもしないのにいろいろしゃべって行ったよ」
「閣下が軍務局長にでもなると見たんです��。ほんとうにそんな気配が感ぜられますか」
「いろいろの情報や脈引きに来る者はあるよ、だが御免だよ、毎朝馬に乗って軍隊のことばかり考えていればよい旅団長は、めったにやめるわけにはいかないよ、ことにこんな御時世ではね」
 林が就任すると間もなく、永田軍務局長説が出た。筆者は渡辺(錠太郎)から、林はつっかえ棒なしでは乗りきれない。永田は迷惑だろうが軍務局長になってもらわねばなるまい。林もその気でいる。しかし、実現するまでは新聞に書いてくれるなよ、書けば彼らが騒ぎ出すからと堅く差し止めされていた。しかし、部内でも永田出馬説がでるし、他の新聞にも書き立てている。そういう際だったので永田の真意を打診したのだが、やはり永田は出ないと言っている。けれども渡辺が強引に林を説得しているから、所詮出なければならなくなるだろう。渡辺のことは伏せておいたが、結局引っぱり出されるだろうことを話した。永田は「困る、困る」を連発して、憂鬱そうだった。
 昭和九年三月の異動で、永田は軍務局長となった。鈴木貞一は永田の下で羽ぶりをきかせたかったらしかったが、こんどは永田もそうはしない。陸大主事に追った。小畑幹事の下だからうまく行くはずだが、林陸相出現以来の鈴木の豹変振りが皇道派を痛く刺戟した。彼は何をするかわからぬという疑惑がある。俊敏な小畑がそれを見損ずることはない。新聞班長時代には千客万来だった鈴木邸にも、雀が門前に巣をかけるようになった。だが、それぐらいのことで尻尾をまくような鈴木ではない。小畑にはつとめて媚態を呈するとともに、新聞班長時代に開拓した政界という新分野に鎌首を突っこんで行った。侯爵井上三郎は砲兵大佐で現役を退き貴族院にいる。現役時代から接近している。西園寺公の秘書原田熊雄は以前から食い込んでいる。原田から近衛、木戸の方につながる。
 五・一五事件のあとではあり、政治家はみな陸軍のことを知りたがっている。それには鈴木は最もよい情報屋である。原田日記にも鈴木の名はところどころに出ているが、林が陸相辞任騒ぎをおこしたときでも、鈴木は原田に荒木、真崎らの動向を伝え、こういう風に西園寺公に報告してくれなど注文している。政友会の方では、五・一五事件が政治家のだらしなさに対する警告だったことなど忘れ、また軍部をのさばらせることが、いかなる結果を招来するかも慮らず、いたずらに政権をとりたい野心から、しきりに軍部の機嫌をとる。森恪などその第一人者だった。鈴木は森恪の存在を重視しないはずはなく、ここを窓口として政友会に近づく。かくて政界で流行児になった。現役軍人としているのもよし、退いて政界にいづるも不可なしと、彼の地盤は漸次強固になる。ここらの手腕は実に鮮やかなものであった。
 永田軍務局長時代であるが、小磯は第五師団長として広島にいた。筆者は満州からの帰途にはいつも小磯を訪問することにしていた。広島は急行列車が不便で、夜半でなければ通過しない。小磯は起きて待っている。大きな玄関を入ると上り口にりっぱな果物籠が置いてある。小磯は出迎えに出た夫人を顧みて「籠はまだ捨ててないじゃないか」となじっている。夫人は困ったという顔つきで笑っている。どうしたのかときいてみると
「その籠にはふれるな、けがらわしいんだ。名刺かなにかはさんであるだろう、それを見ればわかる」
という。電灯の光でのぞいてみると鈴木貞一の名刺だ。
「鈴木が広島を通過したが、次官の関係でお伺いできないから、閣下に宜しく伝えてくれといって、多分駅にいた憲兵にでも頼んだんだろう、俺の留守中に届けられているんだ。胸糞が悪いから捨ててしまえと言って置いたのに、まだそこに置いている」
 なるほどそれでわかった。その頃は小磯が中央部に出て、航空本部長になるかという噂がたっていた。その先物を買ったのだろうが、小磯としては次官、関東軍参謀長時代の鈴木の仕打ちには我慢ならぬものを感じていたのだ。
「捨てるのはもったいない。名刺さえ捨てておけば中身は上等な果物ばかりです。一つ食いましょう」
 と名刺を土間に捨てて、籠を持って応接室に入った。小磯は機嫌がわるい。
「そんなものを食うより、今夜は虎の肉を食おう。山下亀三郎が朝鮮か満州かで仕留めたと言って、虎の肉を送って来ているんだ。この方がさっぱりしとっていいよ」
 とさっそくすき焼きにして食ったが、肉が堅くてだめだった。それよりこの方がいいと、メロンや何かを食った。先物を買ってまた一儲けしようと考えたのだろうが、小磯は中央にもどらず、朝鮮軍司令官になった。果物は贈り損をしたわけだが、彼にもたまには目算違いがあった。…
(高宮太平『昭和の将帥』、1973年、190-197頁)
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silen--ce · 4 years ago
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数の力なんすけど、それ力っすよ
⛄ なんかひっかかるぞ。それでいいのだ。それがなくちゃいけない。でも"それ"がない。なにも"ひっかかってない"のだ。
そりゃよくないだろう。うん、よくない。よくないやい。 む。よくなくっても、しるかい。ふん。やるっきゃねえのさ。〝よくない、とわかっていても、やらなきゃいけないことはある〟のだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
⭐️ キャンセルカルチャーを超えていくには、どうしたらいいのか。付け焼き刃の反論では駄目だろうとハナから諦めているかもしれない。 アートとか、文学とか、批評とか、そう呼ばれていた���のの「力」ってもの。様々な違和感、いやなエナジーを、芸術の持続性にもっていくしかないのだろう。 ……そういえば「文学の力」とかいう言い方もきかなくなったな。
((ん、なんでそんなこと考えてるかって? そうねえ……やっぱいやだよね。おかしいだろう。人として重要ななにかが抜け落ちているって感じに見えるんだ。まあ世の中のいろいろね……。))
==========
🌜 首相の健康面とか、Amazon解約だとか、(一部の)人々の反応こそ僕には恐怖だ。 先日の某女帝本も読んでみたけど、ツッコミを入れなきゃいけない点はみんなが言っているのとは違う点にあるとおもった。子宮筋腫のくだりとか、どうかとおもった。 で、あの都知事選の前、冷静なツッコミを入れていたのはいわゆる「リベラル勢」ではなく三浦瑠麗氏であった。コロナ禍以降の三浦氏の情報発信はとても有益に受け取っていた。そこでこの騒動なので……なんというか、率直に悲しい。
「悲しい」とかいうナイーブな表明はなんの意味もない。そんな甘ったれた言明で意見を付け加えられると思っていられる無神経さが加害者(ヘイター)の証左だ。
おおそうか。 つまり、三浦氏はヘイトというわけで確定なのか。 その確定の自信、名指しして動じない信念こそ褒められるべきもの。 三浦氏は加害者。 君は被害者(の擁護をする正義側)。 僕は加害者を擁護しようとする悪人。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
🐼 三浦氏が問題視されている発言は主に二つ。 「徴兵制」と「北朝鮮スリーパーセル」発言だ。 前者は「安全保障」に関連した提言であり、批判したいなら同様に言説で対抗すべきだろう。(と思うんだけど、そうじゃないのだろうか。そして徴兵制についてはみんなそんなに詳しいのかな……。) 後者はワイドドショーでの発言で、朝鮮籍の(あるいはそこにルーツを持つ)人々への差別を煽っている、という批判がなされた。 僕も当時そう感じた記憶がある。根拠が聞き手にはよくわからず、不用意だなと。当時も彼女はそれについて釈明しない、という態度を貫いていたように思う。
三浦氏には「日本では安全保障の問題を(特に女性が)語ることがタブーだ。そこを変えたい」という考えがあるんだと思う。その点は僕も共感もできる、というか、個人的にはいままで全然考えていなかったこと自体への問いかけだと受け止めている。
いずれにせよ、発言それ自体は最近のものではないので、今回いきなりこうなって少し驚いた。「ヘイトは許さないのだ」といっても、スリーパーセル発言のあとも三浦氏はテレビやメディアで活躍しているので、な��Amazonのときだけ「許さなく」なるのか、と言えなくもない。(CMというものが特権的な意味をもっているのだろう)
今回の問題は「解約運動をハッシュタグの数の力で盛り上げている」ものだとおもう。 三浦氏への批判と、彼女をCMに起用した企業への批判がイコールで結びつき、具体的なサービスを解約しようという運動になり、そしてそれに異を唱える人もまた「差別の加担者」として弾劾していくというモーメントは、実際はあまりに凡庸で幾度となく反復している集団心理の発露にすぎないのではないか。 そうやって醸成された空気、個人に対する印象、風評というものは、とても大きいものであるはずだ。 個人の人生、家族、人間関係、仕事先、すべてに影響がおよんでくる。
「自分がおもう正しい未来」へと向かいたいとき、この〝やり方〟はフェアなのか。 そもそも「反論」する機会すらも与えられずに、SNS上でアングルがあっという間に形成される。 こんな社会こそ怖いとおもう。
三浦氏はいいことも言っている。(偉そうな書き方でスミマセン) たとえば、先日は朝生で「感染症のリスクの想定を間違えたら間違えたと認めるべき。そして国民も"間違いを認めること"を許さないといけない」と述べていた。「責任追及」ばかりが先に立ってしまいがちなこの社会で、こうした寛容の考え方はとても大事で、なくてはならないものだとおもえた。 人間はいいことも言うし、よくないことも言う。 「この人物と協同するものはみな否定する」という捉え方は、かなり究極のものだ。 よっぽどの理由がないかぎり、そのように個人を排除することこそ「差別」や「偏見」と呼ばれるものであったはずだ。 ツイッターで声を上げている人々は、どれだけその重みを感じているだろうか。 本人だけでなく、周囲の人々も非難される流れをつくり出す。 そういう言説の力を自覚しているのだろうか。 ハッシュタグの運動(連帯)というものは「軽い」とおもう。軽いからこそ誰でも気軽に参加でき、賛同でき、拡散できる。
SNS上では数こそ正義なのだ。
どうしようもないとおもう。
==========
🌲 ……追記…… こういうことを「はっきり」書かないほうがいいかもしれない。敵味方の構図をけっきょくつくることになるから。
でもそうとばかりいってられない状況もある。 同時に、友敵理論の限界、というか弊害もあるのも自明だ。 だから「アート」が必要、ということになるけど、そんなに「役に立つ」もんでもないはずで、不要不急、その価値を忘れずにいたい、ってなもんですね。
シンプルにいえば「そこまでするほどのもんなのか」と「それやる意味あんのか」と「お前がそんなに偉いのか」という言葉をいえば足りたかもしれない。
言論というのはかなりはじめから限界があって、その限界を意識していたいし、なにより自分自身の限界、無知、能力というものもある。それにして���、誰も何も言わなすぎだとおもうんですよね。
😣 😖 😲
……追記2…… (音楽だ〜芸術だ〜表現だ〜とかで抽象的に煙に巻く、みたいなことばっかりやってるのもどうかという思い) (その点では僕も「政治に目覚めた」バンドマンと近い……) (とはいえ、やっぱりここでこういう文章書いてるだけじゃだめなんすよね。このところ創作でも新しい手応えがあったりしてて。理想はシームレスに開拓していきたい。とにかく考えながらやっていくしかないですね。)
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watanabemitsuyoshi · 4 years ago
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狂信の凡庸さについて
 ベルギー映画界の巨匠、ダルデンヌ兄弟の監督最新作である『その手に触れるまで』は、イスラム教の聖典「コーラン」の極端な解釈に基づくカルト的教義の虜となり、「聖戦」と称して殺人やテロリズムに手を染める子ども・若者たちの出現という、ヨーロッパ諸国の抱える今日的課題に迫った作品である。
 本作品の主人公アメッドは、近所の商店の2階でモスクを開く導師に感化され、突如としてコーランの暗記・暗唱と定刻の礼拝、イスラム過激派の動画視聴に没頭しはじめる。アメッドの突然の変貌ぶりに、周囲の大人は戸惑い、時に諌めもするが、アメッドの態度はますます頑なになり、いっそう導師の語る「正しい教義」に傾倒していく。そして、導師のある発言を神の啓示であるかのように字義通りうのみにしたアメッドは、背教者を排除するための「聖戦」として、幼少期より世話になってきた教師イネスの殺害を企て、実行に移そうとする。
 アメッドはなぜ、異なる考えをもつ者の殺戮をも辞さないような過激思想の虜となったのか。本作においては、たとえば貧困や家庭背景といった成育歴における逆境体験がその遠因になっているかのような解釈はあらかじめ退けられる。アメッドの家庭において複雑な事情がないわけでないことは察せられるが、それは、多かれ少なかれどの家族も、その家族なりの事情を内に抱えながら生活を営んでいるという以上のものではない。アメッドの兄も導師のもとに通っているが、兄はアメッドほどの狂信ぶりを示すわけではない。
 アメッド自身、とりたてて聡明というわけでもなければ、とりたてて不器用というわけでもない。ただ、日々の暮らしの中で大人たちが時折見せる弱さや脆さ、不純さのようなものに対する漠然とした疑問を抱き、自分はそうはなりたくないと、純潔さへの憧れをそこはかとなく抱いている。それは、私自身を含め、少なからぬ大人が、若干の気恥ずかしさやほろ苦さとともに思い出すかつての自分の姿でもあろう。アメッドは特異な少年であるどころか、「自分より勉強ができない子には丁寧に教��てあげなさい」と促されればその通り親切に接してあげるような、母親が涙を流せばティッシュを差し出すような、朴訥で素直で、そしていささか世間知らずで未熟で、うぶな少年である。アメッドがなぜ…という疑問に対しては、どのように推測をめぐらしたとしても、「た��たまの巡り合わせ」であるという他ないのだ。強いて言うならば、  アメッドが示すのは、「狂信の凡庸さ」である。
 かつて政治哲学者ハンナ・アーレントが、ホロコーストの実務的責任者アイヒマンの裁判傍聴をとおして「悪の凡庸さ」を見出し、警鐘を鳴らしたとき、社会に与えたショックは大きく、その主張の受け入れがたさからくる非難も相次いだという。偏狭な教義に基づき殺戮行為を正当化するような思想に子ども・若者が取り込まれていくのが「狂信の凡庸さ」故であるという気づきもまた、社会的には受け入れがたいものかもしれない。
 しかし、身に覚えはないか。ある特定の「正しさ」に依拠��て、他の主張を退け、他者と出会う契機を閉じ、狭い殻の中での内的世界の平穏を守ろうとする身振りについて。とりわけ、自己形成の途上にある多感で繊細で独善が過ぎる一時期において、その不安定な自己を支える拠り所とする選択肢の一つとして、過激思想への導きが差し出されたとして、その導きによくわからないまま惹かれていく者が現れるのは驚くべきことではないのだ。
 狂信は他者を排斥し、現実世界との生身での接触を忌避する。ひとり部屋にこもり、執拗に礼拝を続け、「聖戦」の遂行にこだわるアメッドの姿は、他者との交流を通じて内に生じてくる諸々の感情をどう受け止めてよいのか戸惑い、怖れ、葛藤から目を逸らして殻に閉じこもろうとする心の動きと軌を一にしているように見える。しかし本作のクライマックスで、アメッドは抗いようもなく生身で現実の脅威に襲われることになる。もはや自らの弱さ、脆さを受け入れるほかない状況に直面したとき、アメッドが救いを求めて呼んだ名は、アラーではなかった。
 本作ではアメッドのその後の顛末については描かれない。おそらく観る者に対して思考の余白を残してくれているのだろう。逆説的ではあるが、アメッドはこの局面において、はじめて信仰とは何かを知ることとなったのではないか。ほんらい信仰とは、弱さ、脆さの自覚のうえで、それでもなお生きていくための拠り所として、他者に赦しを乞い、差し伸べられる救いの手を信じることであるからだ。おそらくここに、「狂信の凡庸さ」を打開するヒントがあるようにも思われる。弱さ、脆さを抱えもつ凡庸な一人ひとりが、狂信に陥ることなく生きていけるとすれば、それはいかにしてか。問いはスクリーンに映るアメッドに対してではなく、それを観る私たちに向けて立てられるべきなのであろう。
※映画『その手に触れるまで』 http://www.bitters.co.jp/sonoteni/index.html
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2ttf · 13 years ago
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straycatboogie · 1 year ago
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2023/07/24
BGM: Primal Scream - 5 Years Ahead Of My Time
今日は遅番だった。朝、いつものようにイオンのフードコートに行きそこで詩を書く。そして詩作が終わったあと、ふとThreadsをいじりたくなる。だが、いったい何を投稿していいのかわからなくなる……思えばTwitterがイーロン・マスクに買収されて以降、ぼくはTwitterをぜんぜん使わなくなってしまった。別にイーロン・マスクに恨みがあるわけではなく、これに関してはただ「特にわけもなく」としか言いようがない。村上春樹なら「ソーシャルメディアなんてやめてディケンズを読みましょう」と言うのだろうけれど、ぼくは俗物なのでそこまで割り切れないでソーシャルメディアをいくつか使ってしまっている。挙げればFacebookやTelegram、あるいはLINE……だが、Twitterに関して言えば「シェアしたいことがない」「主張したいことも、まして世界に向けて愚痴りたいことも何もない」と言うしかないのだった。長文を投稿できるFacebookで日記を書き、友だちとTelegramやLINEなどでやり取りするとそれでぼくの中身は「空っぽ」になってしまうのでそれ以上アウトプットしたいこともなくなってしまう。下手に愚痴を言うと叩かれるかもしれないとも思い、なら何も言わないのも利口な態度ということかもしれないと思い沈黙してしまっている。
過去にぼくはTwitterの「フリーク」「ヘビーユーザー」だったことを思い出す。1日に100くらいつぶやいていたのではなかっただろうか。当時何をつぶやいていたのか思い出せない。あの頃は酒に溺れていた時期でもあったので、ずいぶんルーズ・無防備にあれこれ「吠えて」いたことは思い出せる。日本の政治に盾突いたり、会社の上司に噛み付いたり(だが、だったらその上司か誰かに「直で」「リアルで」訴えるか何とかすべきなので、Twitterで「吠えて」も何の解決にもならないのは言うまでもない)……まさに「狂犬」だったなと赤面してしまう。それで当然のこととして他人とトラブルになり、仕事にも差し障りが出るという事態にもなったっけ。誰から頼まれたわけでもなく、報酬がどこからか出るわけでもないのにどうしてそこまで「のめり込む」ことになったのかわからない。ただ、凡庸な言い方になるが結局は「承認欲求」「僕を見て、僕を褒めて(浅田彰)」という心理からだったのかなとは思う。リアルでぜんぜん一顧だにされない自分も、ネットならいっぱしの論客気取りで「物申す」ことができる……ということだ。ただ、ぼくはその心理を「そんなやつは弱虫だ」と切り捨てる気にもなれない。現実社会を相対化し「かき回す」ためのメディアとしてTwitterなどのソーシャルメディアが機能するのは、皮肉抜きで「大事なこと」だとも思うのだ。
あるいは意地悪く・冷笑的に言えば「でも、春樹だってソーシャルメディアは使っていないかもしれないけれど自己表現として小説を書いているじゃないか。あれは『承認欲求』とは関係ないのか」という話にもなろう。となると「承認欲求」、つまり「僕を見て、僕を褒めて」という心理がまったくの悪なのかという問題にもなる。ぼくはそうした「他人に理解されたい」気持ちが無条件で悪だとは思わない。かつてはぼくは孤高の一匹狼を気取ってずいぶん向こう見ずに生きてきたけれど、今は「自分は人によって支えられている」「人が居なくては自分は成り立たない」と思う。ソーシャルメディアは他人が読みうることが前提となる。そこに何か投稿する際、それは人に「必ず」読まれる(読まれたくないなら鍵をかけるべきなのだ)。ゆえに、他人を意識して(もっと言えば「他人に読まれたい」と思って)投稿しシェアすることは実にまっとうなことだとも思うのだった。だが、知られるようにそうして他人を意識して振る舞い続けると「SNS疲れ」が生まれ始める。ぼくもしんどい思いをしながらTwitterをやめることができず、投稿をストップすることもできずに苦労したことを思い出す。その頃と比べるとずいぶん自分は変わったものだ。
結局、ソーシャルメディアやひいてはインターネット自体に何を求めるかなのだろう。人によってはTwitterで「不特定多数」の「オーディエンス」相手に「演説」をかましたい人もいるだろう。それはそれで1つの使い方であり、ぼくはとやかく言う気はない。ぼくだってかつてはずいぶんやかましく「演説」したから……でも、今はそこまでして「演説」することで「目立とう」とも「フォロワーを増やそう」とも考えていない。もちろん、詩の読者が増えれば御の字ではある。だけど、たぶん断酒会で話を聞いてもらえるようになったりし始めた頃からぼくの中にあった「煮えたぎる」「承認欲求」は影を潜めた。「SNS疲れ」もなく、バズりたいとも思わなくもなり……それで「これでいい」のかもしれないなとも思う。やみくもに現状維持・是認をするのは「老い」の証拠であるとは思うけれどこればかりはしょうがない。ぼくは「Twitterをやめろ」「Twitterはバカバカしい」とは言わない。詭弁になるが、「バカバカしい」からといってやってはいけない理由にはならないとも思う。結局は心の赴くままに、自然に、自分が求めているものに耳を傾けて最善手を選び生きていくことが大事なのかなと思う。とはいえ気まぐれな発達障害者ゆえに、来月あたりThreadsで1日200くらい投稿するところまで「ハマる」こともありうるのだけど……。
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grossherzigkeit · 6 years ago
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たらいまわしの悪
「凡庸な悪」という言葉がある。  第2次世界大戦中にナチス・ドイツの、いわゆるホロコースト政策にかかわっていたアドルフ・アイヒマンという人物がいて、戦後に捕まって法廷で死刑を宣告されるのだけれども、その姿や物腰はちっとも「巨悪」を連想させるものではなく、むしろ小役人そのものであった。この状況を見た政治学者のハンナ・アレントは、本当の巨悪とは何か悪魔的な人物がなすものなのではなくて、こういうアイヒマンのような人物が、組織の中で思考停止の状態で上からの命令にそのまま盲従するところから生まれるのだと言い、そこから「凡庸な悪」という言葉が生まれた――というのがまあ、ごく教科書的な解説だろう。  その後この「凡庸な悪」なる言葉は、何か社会を上から論評してみたいインテリ諸氏にずいぶん気に入られているものらしくて、大きな組織犯罪などが起こると新聞や雑誌、ネットのブログなどに大量にこの「凡庸な悪」の2文字が躍る。たとえば2011年の東日本大震災における東京電力の原発事故に関しても、いい加減な組織管理の末に起こったものであり、またそれは東電全体を貫く怠慢体質にあったというので、「凡庸な悪」の見本だと叩く評論家などが多かったように記憶している。  ところで東日本大震災から7年以上もたった今秋、その原発事故をめぐり刑事責任を問われている東京電力の勝俣恒久元会長が、法廷で「責任は現場にある」と発言したのだそうだ。
東電元会長「責任は現場にある」 旧経営陣強制起訴 https://www.fnn.jp/posts/00404362CX
 社長や会長などというのは、常識で考えれば会社の最高責任者のはずで、責任者とは責任を取るためにいるものである。そういう人が、社の歴史においても前代未聞だったろう不祥事の責任を問う裁判において、責任を現場に押し付けようとしているわけで、何とも常識はずれな話ではある。  けれども、およそ現在の日本社会で社会人として働いた経験を持つものならば、この東電元会長の発言に呆れこそすれ、驚くことはそうないだろう。だいたいにおいて、“日本型組織”のトップとは責任を取らないものだからである。企業モノの小説や映画で、部下に責任を押し付けようとする上司は典型的なキャラクターとして出てくるし、さかのぼっても日本陸軍が、個々の戦場で敗北した責任を現場指揮官を自決させることで済ませ、参謀本部にいる高官たちの責任論には決してしようとしなかった話などは有名である。  実際に大きな不祥事が起こってしまうか否かは別として、だいたい日本型組織の各セクションで日々行われている作業とは、「いかに自分のところに責任が発生しないか」というロジックを組み立てるための、それ自体は何ら生産性のない根回し、アリバイ作成である。婉曲表現で延々と「自分は何も主導してはいない」などと訴える書類が作成され、会議では「自分としてはこれが無理だと思う理由」がクドクドと語られる。そしてそういう“甲斐”あって、何か不祥事が発生したとき、最も重い“責任”の圧がかかるのは“上層部以外”の場所である。ただ、その責任は単に押し付けられただけの話であって、現場をたたいても何も分からないし、進展もない。かつ、その不祥事の実際の責任は組織��体に巧妙に分散させられており、いきなり部外から眺めても誰が悪いのか、容易に構造が分からない。  筆者はかつて、ある2つの組織の、言うなればM&A交渉が大失敗して大変な揉めごとになった状況の取材に行ったことがある。そもそもの案件は、素人目には「Win&Win」で収まるはずのものだったようにしか思えず、何でこんなに揉めたのか自体がよくわからなかった。取材をしていくうちの見えてきたのが、典型的な“日本的組織”であった片方の当事者内で、「何かあったときに自分に責任が回ってきてはたまらん」と、各セクションが大変なアリバイ回避、責任分散工作を長々と行い続けていたことであった。そういう慣行に疎いもう片方の組織が「いったい、いつまでも何をやっているんだ」と不信の声を上げ始めたところから話がおかしくなり、かつその不信感に“責任”をもって返答する担当者も現れない中で、問題が雪だるま式に大きくなっていって、軌道修正不可能な事態にまでなってしまったのである。  その組織の最高トップに近い人を直撃したら決裁文書のコピーを見せられ、「自分のハンコは、捺印場所を示すワクから半分以上ハミ出すように押してある。これは私が最後まで本案件に不信感を持ち、反対していた証拠で、ゆえに私に責任はない」みたいな話を始め、筆者は吹き出してしまいそうだった。そして筆者はその“日本的組織”側当事者をずいぶんと取材したのだけれども、会う人会う人、小役人的人物ばかりで、全然「巨悪」は現れない。ただ、彼らがアレントの言う「凡庸な悪」かと言われると、これが全然違う。彼らは誰一人「思考停止」などには陥っていなかった。むしろ自分のセクションがいかにして“責任”を追わないで済むかということに、全身全霊で取り組み、知恵を絞り続けた跡ばかりがあった。また彼らは「凡庸」でもない。確かに小役人的ではあるけれども、責任回避の能力には極めて長け、減点評価型の組織で巧みに生き残り、それなりのポジションを得てきた人々という意味で、むしろ頭の切れる人々でさえあった。  そもそもアイヒマンが「思考停止」に“安心して陥って”、「凡庸な悪」たりえたのは、「偉大なる最高責任者、アドルフ・ヒトラー総統」がいたからこそであろう。そういう「責任者」なき日本においては、現場はその持てる能力のすべてを振り絞り、ただ「責任回避」を考え続ける。その結果として、「凡庸な悪」がなすのと同じような「巨悪」が現れる。ただ、それは決して「凡庸」な人々のなすことではないのだ。 「凡庸な悪」さえ生めぬ日本社会に立ちあらわれる、こういう現象を本当に何と呼ぶのであろう。「たらいまわしの悪」の根は深い。
2018年11月1日 小川 寛大
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hummingintherain · 3 years ago
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黄色い飴玉
 わたしの兄は、黄色い飴玉を好んでいた。  いや、好んでいた、では軽いだろう。正しくいえば、偏愛していた。黄色、という色に強いこだわりがあったので、外観は重要だろうが、彼はあらゆる色彩の中で黄色がとりわけ好きだったのではなく、あくまでも、黄色い飴玉、という限定的な品をひどく愛した。更にいえば食べるのが好きだったというのでもない。兄には、黄色い飴玉の収集癖があった。  わたしと兄は八歳離れたきょうだいだったが、わたしが物心のはっきりつくころには既に執着していた記憶があるので、少なくとも小学生の頃には収拾を始め、成人を迎えて以降もなお続けていた。  わたしと兄にはそれぞれ小さな部屋が与えられており、彼の自室に入ると、部屋のすみずみまで掃除がいきとどいた、白と黒を基調として自然と背筋の伸びる部屋の中で、明瞭に目にとびこんでくるのが、飴玉の瓶詰めだ。黒いカラーボックスを二つ縦に並べ、その中で更に簡易な棚や箱を重ね、中にぎっしりと瓶が入れられている。  瓶の種類にこだわりはなく、大抵は手で捻って開けられる仕組みになっている。大きさはさまざまで、掌におさまるこぶりなものもあれば、抱いた背を観れば赤ん坊を抱えていると勘違いするような巨大なものもある。  中に入っているのはすべて黄色の飴玉だ。檸檬、パイナップル、りんごといった一般的な果実の味から、はちみつののど飴、不透明なバター飴、やや琥珀色にも近い美しいべっこう飴、明らかに過度な着色料を使用しているであろう発色を放つ飴玉など、国内外問わずあらゆる飴が詰められていた。もともと個包装された飴玉があれば、ラップのようなもので兄自身が包んで保存してある飴玉もあり、決して二つ以上の飴玉が接しないように工夫されている。また、溶けて変形してしまわないよう、季節を問わず室温は一定に保たれていた。  更に黄色い飴玉に関し、兄は特徴的な行動をする。兄曰く、飴玉の一つ一つに思い出が存在し、彼は家族に限らず、学校の友人を部屋に招き入れると、やがて一つだけ瓶の中から取り出し、飴に込められた物語をつぶやく。思い出といっても、彼自身のものに限らず、飴玉自身に宿る物語であったりもした。近所のスーパーで安売りされていたもの、道端に捨てられたもの、学童保育や友人の家で出されたおやつに紛れていたもの、子どもがかぶとむしをおびきよせる餌に使われようとしていたもの、尿を混ぜてかためたもの、砕いたクレヨンを混ぜてかためたもの、旅行先の駄菓子屋で買ったもの、砂漠のかたすみ――気の遠くなるだろう広大な砂漠にかたすみが存在するのかと尋ねると、境界は存在するのだと頷いた――に埋もれていたもの、誰も聞いたことのない名前の部族が成人の儀式のために作っていたもの、月光を集めて砂糖でとじこめたもの、朝焼けを砂糖でとじこめたものなど、一般に流通している普遍的なものから、幻想的なあまり創作としか考えられないもの、食品としては眉をひそめるものまで、多岐に渡る。話し始めると、誰も中断させられない。兄は、あらかじめ用意された文章を朗読するように、ひたむきに語る。そして、話し終わると、きまってその飴を口に放り込んだ。そして舌で十分に味わい、ほんのかけらが舌の表面に消えるまで辛抱強く待ち、自分の身体に黄色を浸透させた。  そうして物語を人に話す速度よりも、新たな飴玉が瓶に詰められていく速度がまさるので、順番待ちをしている飴玉が増えていく。時折ふらりと飴玉に引き寄せられるように旅行に出ていき、戻ってくると鞄の中から新しい飴がぎっしりと詰まった瓶を出して、満足げに微笑んでいた。  恐らく、彼にとって、あの飴玉は、スマートフォンやカメラに次々と保存されていく日常的な写真と同じようなもので、付随している話というのは日記文のようなものであった。個人的で、突飛で、時に冗長な語り口に、概ねは首をかしげ、いぶかしく彼を見た。部屋の外では、取り立てて特徴のない、角を立てない、穏やかで自己主張の薄い性格であった。凡庸な人間でありつづけた。ただひとつ、黄色い飴玉を見つければ、慣れた手つきでいつも手元に入れる癖を除いては。そして部屋に人を招き入れ、飴玉を中心にとうとうと喋るさまは、どこか機械じみてもいて、気味悪く思う者も少なくなかった。なにより、大抵の人にとって飴玉の物語は、残念ながら興味を持てない、退屈な話題だった。彼の部屋を訪れる者はほとんどいなくなった。  わたしは兄の話を聞くのが好きだった。偏愛、というほどではなく、単に好きだった。味気ない部屋の中に黄色い空間があるさまは、人形が並べてあるかのようなポップな雰囲気があり、愛おしさすら感じていた。  兄が大学進学と共に自宅を出るまで、わたしはなにか理由をつけたりつけなかったりしながら、彼の自室に足を運んだ。年が離れていたせいか、子どものようにかわいがってくれた。彼の部屋では、絵本に限らず、飴玉の話を聞いた。わたしにとって、昔話や絵本の話と同列に、兄の語る飴玉の物語が存在している。しかし、肝心の内容を、細かいところまで覚えていない。ぼんやりとした概略だけが、霧のように漂っているばかりだ。 「飴玉は舐めると溶けてなくなる。飴玉に込められていた逸話も、願いも、思い出も、伝説も、命も、食べてしまえば消える。だから記憶にはほとんど残らない。忘れるんだ」  兄はそう説明した。彼も、食べ終えてしまうと、その飴玉に関するあらゆる話はほとんど忘れていってしまうらしい。だから、面白かったな、という感想を抱いても、次の日の朝にはたがいに忘れている。黄色い名残だけが頭のすみにくすぶっている。  彼が実家を出た際には、勿論飴玉の瓶詰めも残さず持って出ていった。ベッドや学習机、本棚に時計、クローゼットなど、兄の使ってきたあらゆる家具や小物が残されたが、黄色い瓶詰めがすっぽりと消え去ると、色彩を失い、すっかり別物の部屋になってしまった。すべての飴玉が一瞬にして溶けてなくなったかのようだった。  帰省の際には、新しい飴玉を入れるための空の瓶と、御守り代わりのように、隙間なく飴玉を詰めた瓶を持って帰った。兄が帰ると、わたしは、彼の部屋に向かった。始まる瞬間はわからない。勉強を教えてもらっている最中の時もあれば、一緒にゲームで遊んでいる時もあれば、それぞれのスマートフォンの画面に黙って集中している時もある。ただ、あ、今、と気づく、空気のゆらぎのような予感が不意に到来するのだ。わずかに黄色い香りが肌をくすぐる。  すると、兄は、ぎっしりと詰まった瓶の蓋を開ける。そして中から黄色を一粒つまみあげ、脈絡もなく語り出す。わたしはその時行っていたすべてを放棄し、彼の指先を見つめ、口から放たれる言葉を逃さないよう耳をすませ、黄色い飴玉に秘められた思い出や創作話に没入する。そして語り終えると、兄は包装を丁寧に破き、ためらいなく口内に滑り込ませる。彼は味については一切語らない。表情を変えないので、おいしいのかまずいのかも傍からはわからない。彼が舌で感じているのは味ではなく、飴玉の色そのもの、あるいは物語そのもののようだった。  私は口のなかでうごめく舌の動きや飴の消えていく姿を想像しながら、兄は、わたしの知らない自室に招いた恋人に対してもそうして物語を聞かせ、飴の味が染み込んだ状態で口づけを交わすのかなと少しだけ考えることもあった。ちょうど多感な時期でもあったけれど、想像して、ほんの少しだけ恋人が羨ましくなった。彼は決して飴玉を他の人に舐めさせようとはしない。聞き手にとって、味は彼の声の中にしか存在せず、直接味わうことはできなかった。  そう、彼には恋人がいた。特に住む場所が離れて以降、兄の人間関係についてはよく知らないけれども、彼は、一度だけ、恋人の話をわたしにしたことがある。 「これは、僕の恋人が贈ってくれた飴玉だ」  彼はそう言った。わたしが中学生の時で、窓の外で蝉が鳴り続ける、夏休みの終わりぎわだった。帰省していた兄の部屋で、私はすっかりためこんだ宿題をしていた。わたしの部屋は誘惑物があまりにも多く、整然とした兄の部屋の方が集中できたし、せっかくならばできるだけ兄と過ごしていたかった。兄は嫌がりもせず、むしろ歓迎していた。  そして、宿題に疲れた頃、シャーペンを持つ手に、無音の合図が掠った。わたしは視線を上げた。ローテーブルを挟んで正面に座っていた兄は、黄色く輝く瓶を机上に置き、一粒だけ手に取っていた。なんの変哲もない、一円玉ほどの大きさの、透明なプラスチックの袋に包装された、飴玉だった。しかし、わたしは目を瞬かせた。これまでさまざまな飴玉を見て、語られ、今更常識を逸する説明に驚かなかったけれども、その飴玉は明らかに、黄色ではなく、桃色をしていた。これまで、たとえば濁っていることはあっても、広義では間違いなく黄色を集めていた。しかし、兄の差し出した飴玉は、少なくとも明らかに黄色ではなかった。 「彼女にとっては黄色い飴玉なんだ」  動揺が伝わっていたのか、彼は説明を加えた。 「色盲って言葉を知っているか」  わたしは曖昧に首をかしげた。 「僕たちが見る色は、人によって同じ色とは限らない。彼女は、青色の色覚が弱いらしい。だから、僕の部屋に置いてある瓶詰めも、すべて、桃色だとか、赤に近いものに見えている。黄色い夕暮れも赤く、青空は雲とまざってほとんど灰色に見える。彼女は絶妙に色の限られた世界を平然と生きていて、隠し、僕がそれを知ったのは、飴玉をプレゼントしてくれた時だ。彼女が渡してきた時にはあまりにも驚いて、なんの冗談だろうと疑った。既に何度か黄色い飴玉の話をしていて、僕の執着に関しても理解していると思っていた。だから、一種の嫌がらせか、いたずらかとも思った。しかし、どうやら本気だった。他愛もない瞬間ではあった。カジュアルな居酒屋から出る時、サービスで口直しの飴玉をもらったんだ。その時に、これ、好きだよね、と僕に善意で渡してくれた。それが、この、桃の味をしていそうな飴玉」 「兄さんは、怒った?」 「恥ずかしながら、少しね。まず、疑った。どういうつもりなのか相手の考えを想像しようとした。けれど、それよりも、これはだめだ、と、強く言ってしまった。おいしい料理を食べてお酒を飲んで、お互いほろ酔いであたたまっていたし、良かれと思ってやった行動だったから、驚いていた。僕はばかにでもされたような気分だったんだ。未熟だった。それで、これは黄色ではないと言うと、ようやく、彼女も気づいたようだった。気づくもなにも、彼女は、それが黄色だと決め込んでいたんだ。僕の部屋に並んでいたものとまったく同じ色をしていたから。そこで僕ははじめて、彼女が今まで黄色を認識していないのだと気づいた」 「うん」 「僕たちはそのまま家に帰って、確かめるように、瓶を手に取り、一つ一つの飴玉を指差して、彼女に尋ねた。やはり黄色という認識はなかった。それに限らず、彼女はあらゆるものを、僕とは違う色彩で見つめていた。グレースケールはわかるけれども、先天的に色弱だったらしい。とはいえ、昔は、もう少し多様な色を認識していたらしいけれども、年齢を重ねるごとに失われていった。僕にとっては驚愕だった。黄色の飴玉は、僕の中心に位置するものだったから」  僕は今になっても、何故兄が、飴玉の、黄色に執着するのか、理解はしていない。ただ、特別好ましいものが、人によってあらゆる分野で存在しているように、彼が唯一、誰にも譲らず強く執着してきたものであることに変わりはなかった。 「彼女の言う、青に対する認識が弱い、というのが、僕にはいまいち、想像ができなかった。赤と青と緑で光の三原色というだろう、そのうちの青を、うまく読み取れない。希有��ものらしい。完全に見えない、ということはないらしいのだけれど、どんな色もまったく同じようには見えない。真っ赤な色も完全な赤にはならず、青は褪せ、紫と赤の見分けはつかず、黄色を黄色と読み取れず桃色と同色になる」 「それは、兄さんにとっては少し、致命的だね」 「そう。でも、彼女は、黄色に見えなくても、僕が黄色といって、飴玉について語ることで、十分なんだと言う。そのままの色彩を受け取れずとも、黄色を受け取れるから」  聴きながら、わたしにとっての、飴玉の味と似ているような気がした。一度も兄の集めた飴を味わった経験はないけれど、兄さんの語り口から想像を膨らませる。 「でも、僕は彼女に少しでも、黄色い飴玉を知ってもらいたかった」  兄は長い息をついた。  すっかり殺風景になった部屋の、ローテーブルに置かれた飴玉の瓶詰めだけがやはり黄金に輝いていて、薄いカーテンも通り抜けて入ってくる真夏の光を強く反射していた。 「だから、僕はその日から、いつものように、飴玉について語った後、彼女にその飴玉を舐めてもらうようになった」  わたしは持ったままにしているシャーペンを置いて、彼の指先にある、桃色の飴玉と、やわらかい視線で見つめる兄の両方をじっと見つめた。 「彼女はそのたび、おいしいとか、まずいとか、短絡的な感想に限らず、飴玉にとじこめられている機微を敏感に捉え、僕に感想を伝えてくれた。僕にはないものだった。僕は、味にはあまり興味がないから。飴玉はいつか溶けるものだから、一種の供養として舐めて、あらゆる黄色と、そこに染込んでいた物語をまるごと呑み込むんだ。あらゆる黄色が彼女に溶けていった。勿論、視神経にはなにも影響を与えない。彼女が黄色を黄色と認識してくれるわけではないと、さすがに僕にもわかっている。けれども、彼女が飴玉を舐めるたびに、彼女のどこかが黄色に染まっているんじゃないかと思うと、僕はなんだか心が躍った。黄色を認識するにはなにも視覚に限らないのだということは、僕に衝撃を与えた」  どこか、支配欲に似ている、とわたしは思った。 「嬉しかったんだね」 「そうだね、嬉しかったんだ。初めての試みだったけれども、案外、嫌な感じはなかった。もう、いくつの飴玉が彼女の中に入っていったかわからない。残ったのは、もうこれだけになってしまった」  そう言って、兄は手元の、桃色の飴玉も入っていた瓶に触れた。瓶には、ぎりぎり蓋を閉められる程度まで飴玉が詰められている。わたしは息を殺し、身動き一つせずに、兄の瞳を見つめた。黄色を強く認識し、黄色い飴玉を偏愛する、彼の収拾を更に上回る速度で飴玉が消えたということなのだろうか。棚を窮屈に占領していた大量の飴玉たちが、ほとんど兄の恋人の中に溶けて、もうたった一つの瓶に収まる程度になってしまったというのだろうか。  それだけではなく、頑なにわたしに譲らなかった黄色い飴玉の味が、兄以外の人間が知っているというのが、どうしてもぴんとこなかった。 「やがて、彼女の体内に、腫瘍ができた。入念な検査をしなければ気付かないような内臓の深みだ。異様な倦怠感が長く続いたので、病院で検査をすると、写真に、素人目でもわかるような不気味で巨大な陰影があった。すぐに入院して、腫瘍について精査をし、手術が行われた。外科医の素晴らしい手技によって、巨大な腫瘍は摘出された。しかし彼女の腫瘍には、一つ、一般的に知られているどんな腫瘍とも明らかに異なる点があった。明瞭に、黄色を帯びていた。まるで、溶けた飴玉がそこに流れていって、かたまったように」  兄は桃色の飴玉を音もなく机に置いた。何度見ても、それは黄色ではなく、さりげなく、可愛らしい、凜とした桃色の砂糖菓子だった。わたしは話が終わったのだと理解した。兄は口も、瞼も重く閉ざしていた。瞼の奥にある瞳は、きっと暗闇しか見えていないだろうけれども、兄は、きっと暗闇の中でも、溶けて消えていこうとしている黄色の残滓を虚空に見出しているのではないか、と想像した。 「食べないの」  わたしは尋ねた。兄は飴玉から指を離したまま、幼い頃から繰り返してきたのと同じように包装を解こうともせず、黙り込んだ。 「食べてもいい?」  質問を重ねた。兄はにぶい瞼を開く。僅かに茶色がかかった黒い瞳がわたしを見ている。この兄の、かたくなに黄色く輝く砂糖菓子を探し続けた瞳を、恋人はどんな色彩として受けとめていたのだろう。  恋人はどうしているのか、まだ恋人として関係を結んでいるのか、黄色く彼女の一部を染めあげていき膨張した腫瘍をとりだして、彼女の病はどうなったのか、兄が彼女に物語と共に渡し続けた黄色の、その後について一切語らなかった。兄が終わりとすれば、もうその飴玉の内部に留められた物語は終わりなのだ。  瓶に詰められた、寂しげな砂糖たち。わたしはその中に、青を失った彼女が見たように、桃色を見出そうとして、できなかった。すべて、どこまでも、檸檬と同じ色をしていた。彼女の体内に生まれたものと、きっと同じ色をしていた。
お題箱にいただいたお題「瓶詰め」より構想
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thetaizuru · 3 years ago
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 わたしたちは詩のようなものを求めている。
 詩のようなものがあれば、わたしたちは「わたしたち」になれるのではないか、どこからともなくそんな声だけがこだましている。  わたしたちは「彼ら」なってしまっている。
 電車に乗っているときや、スーパーで買い物をしているとき、ある一人の他者は隣にいるもう一人の他者と何ら変わりがない。そうした他者たちが「彼ら」であり、「私」も「私たち」も「彼ら」の中に溶け込み、そうして日常性を作っていく。「彼ら」は私たち全てであり、その「彼ら」が日常性におけるあり方を規定する。「彼ら」は例外的なあらゆるものに監視の目を向け、見つけ次第速やかに平坦化する。  近代が始まり、「彼ら」の力が強大化していく。  近代は、アメリカ独立宣言、フランス革命、神聖ローマ帝国の滅亡で始まった。理性と自由の勝利によって切り開かれた時代のはずだった。工業の機械化、製品の標準化、娯楽の商業化、都市化、新しい文化、それらすべてが人々の生活を豊かにし、日常を彩ったはずだった。しかしそれらによって生まれた社会は、思考や心の伴わない危険なまでの均一性と順応性を良しとし、独自の判断や行動の自由を圧し潰し、人を奴隷化し、個を抹消するという現象を生み出した。  この現象は蒸気機関車のように加速していき、哲学者や文学者など多くの人々が「大衆社会化」とか「大衆効果」などの言葉で批判し、警鐘を鳴らしたが、自分たちも「彼ら」でありその機関車だ。汽笛はむなしく木霊した。
 ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883年-1885年)で「超人」という概念を説き、自由な精神を獲得し超人へ至る条件でもある「力への意思」という概念について考察し続けた。  フランスの心理学者ル ボンは『群衆心理』(1895年)で、群衆とは、その構成員すべてが意識的人格を完全に喪失し、操縦者の断言、反復、感染による暗示のままに行動するような集合体であり、産業革命以後の社会現象の特徴が、人びとをこうした群衆心理下に追いやるものであると論じた。  1914年から1918年の第一次世界大戦と 4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)の崩壊は 、事態を一層深刻化させ、不安と混乱を拡大させた。
 1913年、ウィーンに、ヒトラー、トロツキー、チトー、スターリン、フロイトが住んでいた。オ��ストリア=ハンガリー帝国の首都であり、19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上ドイツ民族全体の帝都でもあった。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなど多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」とも呼ばれる。  オーストリア=ハンガリー帝国が、多民族を統治するモデル国家であり、崩壊すれば後には混乱が残るだけであることは19世紀初頭から言われていた。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した一つの大国の崩壊が、中欧の政治的均衡を破壊し、ヒトラーへの道を開いたことは、振り返ってみれば必然的だったとも言われる。
 近代を貫いているのは「ダイコトミー(二分法、二項対立図式)」だ。  教会の知性に対抗する人々の理性が科学技術を発展させ、民衆の力が王権を倒したことで近代が始まり、旧来の体系から要素を取り出し新しいものとして利用可能にしていくことでテクノロジーを発展させた。しかし、ある時から徐々に、何か大事なものが失われているような不安が広がっていった。  これは創世記のカインとアベルに喩えられる。  アダムとイヴがエデンの園を追われた後に生まれた兄弟であるカインとアベルは、 ある日各々の収穫物をヤハウェに捧げる。農耕を行っていたカインは収穫物を、羊を放牧していたアベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めカインの供物は目を留めなかった。これを恨んだカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。その後、ヤハウェにアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の番人なのですか?」と答えた。これが人間のついた最初の嘘とされる。大地に流されたアベルの血はヤハウェに向かって彼の死を訴えた。カインはこの罪により、エデンの東にあるノド(「流離い」の意)の地に追放され、耕作を行っても作物は収穫出来なくなると伝えられた。   カインとは本来ヘブライ語で「鍛冶屋、鋳造者」を意味し、アベルとは「息吹、霊、命」転じて「儚いもの」を意味する。  「技術」と「芸術」や、あるいは新しい技術や新しい概念が生まれてから少しの期間とその後のそれが形骸化していく期間の対比が、カインとアベルになぞらえられた。
 ニーチェは『悲劇の誕生』(1872年)で、造形芸術をギリシャの神アポロン、音楽芸術をディオニュソスに象徴させ、悲劇を両者の性質をあわせ持った最高の芸術形態であるとした。アポロンに理性を象徴させ、ディオニュソスに情動を象徴させた。ワーグナーのファンだったニーチェはこの本の中で、ワーグナーが悲劇を復活させドイツ精神を蘇らせるとして、滅び去ったギリシア悲劇を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうるというロマン主義的な思想を持っていたワーグナーを喜ばせた。しかし後に両者は決別する。
 もともとは一つだったのに対立し乖離していく二つが、本の右ページと左ページのように、数式の左辺と右辺のように、再び調和しまとまるための何か、本の綴じ目や等号のようなものを多くの人が探したが、見つからなかった。時代に飲み込まれ、わたしたちは「彼ら」になっていき、誤った二分法に引き裂かれたり、いつの間にか転倒していた。4つの帝国の崩壊は、バベルの塔が崩壊する時の言語の混乱のようなものを世界に拡げた。  「彼ら」という言い方はハイデガーの『存在と時間』(1927年)からのものだが、ハイデガーはナチに入党する。第二次世界大戦後、ハンナ アレントによって「凡庸な悪」と呼ばれたような、「彼ら」の最悪な形態にハイデガー自身が加担したとして批判される。  ニーチェの「力への意思」という概念も、ニーチェの死後に遺稿を元にして妹のエリーザベトが編集出版した『権力への意思』(1901年)によってナチズムに通ずるものだと誤解され、また、ナチ党の支援者となったエリーザベトはニーチェの名をナチ党に利用させた。  現在日本で「反知性主義」と呼ばれている「アンチインテレクチュアリズム」は直訳すると「反主知主義」であり、反主知主義はニーチェの「力への意思」という概念を指した。誤解とナチが利用したことによりナチズムに通ずるものというイメージがついた反主知主義とアメリカのアンチインテレクチュアリズムは違うというニュアンスや、また、これはアメリカ独立とフランス革命の違いについての議論に遡り、1790年を近代保守主義の成立とする観点とも関連していたが、日本語の「反知性主義」では別にもうそんなのは関係ない無意味な言葉になり、「彼ら」の言葉になっている。  ニーチェが批判した主知主義とはソクラテスのことで、『悲劇の誕生』でニーチェは、ソクラテスの理論的世界観がギリシア悲劇を死に至らしめたと捉えた。ニーチェは、ソクラテスから「徳は知である。無知からのみ罪は犯される。有徳なるものは幸福なる者である」という形で、認識、行為、幸福を結びつける弁証法的思考は始まったとし、生の悲惨さを意識することのない楽天的な見方だと批判した。アポロン的なものとディオニュソス的なものという対立し矛盾しあう二つが奇跡的に結合したことで、苦悩や悲惨さを含む生と世界を肯定するという価値をもったギリシア悲劇に、ソクラテス的、合理主義的な原則が持ち込まれてしまったことで、不合理なディオニュソス的要素が切り離され、「機械仕掛けの神による詩的正義が解決する」という浅薄なものに堕落し、悲劇は死んだとした。  ニーチェは執筆当時の文化がソクラテス的な楽天主義のもとにあり、それを象徴しているのが科学の精神(近代科学)だと考え、近代科学の楽天主義は、空間や時間の法則が例外なく当てはまり、それによって世界の一切を認識できるという信念に支えられていると指摘した。  今年の、あるいは1960年代の世界各地の学生運動でもそうだったと言われる、「科学を信じる」と言う人たちの「科学」がマルクス主義(科学的社会主義)のことを指しているという状況は、ニーチェが楽天主義のもとにあると批判した当時の文化に似ている。今年の場合は悲観的なことをつぶやくスタイルだった。
 オーストリア=ハンガリー帝国出身の心理学者アルフレッド アドラーは、ニーチェの「力への意思」に影響を受け、自身の心理学に反映させた。  同じくオーストリア=ハンガリー帝国出身で、アドラーとの交流もあった科学哲学者カール ポパーは、 フロイトの精神分析やアドラーの個人心理学、「物事は一定の法則にしたがって歴史的に発展してゆく」というマルクス主義の歴史理論、人種主義的な歴史解釈を、疑似科学を伴った理論として批判し、科学の必要条件として反証可能性を提起した。  反証可能性を認めることによって、科学は真理を明らかにすることを放棄しているため悲観的だとも言われるが、絶え間なく真理へ接近し続けているため楽観的だとも言われる。また、ポパーによると、世界に科学への信仰が存在しているとしても、科学にとって信仰は不要である。反証可能性を肯定する立場は「懐疑主義的批判」とも呼ばれる。  ニーチェは、人間は、力への意思によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的な存在であると言った。
 ソクラテスを懐疑主義の始まりと見る見方もあり、また、ニーチェも、ソクラテスが刑死する直前に「アポロンに捧げる序曲」を作り「アイソポス(イソップ)の寓話」のいくつかを韻文に移したという逸話があることに注目し、そこに「ソクラテス主義と芸術の対立」とは別の可能性があることを見ている。
2021年10月 星ではなく、塔ではなく
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eternitycomenevermore · 3 years ago
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見たくて一〇年間働いた
出典:週刊求人タイムス vol.386 昭和57年4月29日
PHOTO●立木寛彦
森 敦
もり・あつし 明治45年熊本生まれ。作家。旧制一高中退。昭和48年『月山』で芥川賞受賞。最後の“放浪作家”と言われている。著書に『鳥海山』『浦島太郎の人間探検記』などがある。
 
 心ゆくまで月山を眺めていたい、それが森敦さんの願いだった。その夢を実現するために一〇年間働いた。つまり一〇年間働いて一〇年間遊ぶ、これが森さんのライフサイクルだ。その“月山”で芥川賞も受賞した。われわれは六日間働いて一日遊ぶ──。このライフサイクルの違いはそのまま現代人批評にもなっている。というと理に落ちるけれど、とまれ森さんの放浪・交遊譚に耳を傾けてみよう。
 
菊池寛に見習って“登校拒否”
『月山』がね、もう一〇年にもなるのにまだ売れてる。……文庫本が出てるのに、まだ売れてる。
 署名してくれって本がこんなに溜まってるんだけど、手がね……お酒を飲まないとよく書けないんで酒飲んで書いてるけど、ちっともはかどらない。
『月山』を書いたあとで、新井満という青年がジーンズみたいな着物を着て、ヨイショ、ヨイショとギターをさげてやって来た。で、
「ちょっと聞いてください」
 と歌い出したわけですよ、僕の前で。
 で、終わってから、
「これはなんの歌かわかりますか」
 というわけです。
「どうも聞いたような気がするな」
「そりゃそうです、森さんの書いた文章をそのまま歌ったんです」
 どうもそういう読者が多いね。
 その歌はレコードになって、あれはLPなんだけど一万五〇〇〇枚ぐらい売れてるみたいですよ。
 だからそのために『月山』がバレエになったり、日舞になったり、朗読になったり、芝居や映画になったりしたわけです。……で、いろんなことが僕のまわりに起こってきた。
 それもこれも五〇年前に菊池寛と出会ったりしたことがきっかけになっているのだけど……ま、そんな話でもしてみましょうか。だって作家の話を聞いてもしょうがないと思うんだよ、作家の頭なんてカラッポなんだから。……カラッポにするよう努めてるから。だけどせっかくだから昔のことでも思い出しでみましょうかね。
 あれはたしか一九歳の頃かな、日本女子大学というのが雑司ヶ谷にありまして、そこへ行くと女子大学生ばかりなんですが、別に女子大学生をどう思ったわけでもないけど、よく散歩したんです。環境もいいから。
 で、散歩してですね、ふと表札を見ると「菊池寛」と書いてある。それだけならなんということもないんです。別に入ろうとも思わなかった。
 ところが表札の傍に、
「新聞記者、雑誌記者以外のかたは執筆多忙につき面会お断わり」
 と書いてあった。
 それを見たから入って行ったんです。
 そしたら偶然、菊池寛が廊下に出て来てバッタリ会った。それが最初の出会いです。
 そのとき菊池さんに話したのは、僕は第一高等学校に入っていたのですけど、いい学校ではありますけど、まあ行かなくてもいいんじゃないかと、そんな気持になっていたので相談してみたわけです。すると菊池さんが、
「そうだそうだ、だから俺もやめたんだ」
 で、いきなりなにも聞かないで、
「七五円だね」
 なにが七五円だと思っていたら無雑作に七五円くれた。当時の七五円というのは大変な額ですよ、東京帝大を出た人の初任給が六五円の時代でしたから。
 それから僕を文学青年だと思ったのか横光利一を紹介してくれた。
 菊池寛が生前に最も信用していたのは、同輩では芥川龍之介で、後輩では横光利一だったんですよ。
“豪商”のような吉川英治
 横光さんも僕を作家志望の学生だと思ったんでしょうね、作家志望でもない者が訪ねて来るわけはないから。
 僕は作家志望でもなんでもなくて、むしろ当時の青年としては数学がよくできたほうで、いまでも机には数学の本が広げてあります。最近になって矢野健太郎さんとも対談したし、広中平祐さんとも対談しましたけど、そのとき広中さんは、
「私がこれまで研究してきたことは、つまりは森さんが、一言でおっしゃっていることです」
 なんていってくれました。
 ま、話は傍道にそれちゃったけど、とにかく僕は文学青年ではなかった。
 だけれども菊池、横光という二人の作家に作家志望と思われて、一九のとき毎日新聞に『酩酊船』という小説を書いたわけです。で、書いたあと思いきって学校をやめた。
 学校をやめるきっかけで書いたようなものですから、それからさらに書き続ける理由はなにもないわけです。
 なにも作家になろうと思っていませんから。
 ただ、そうしているあいだに作家たちとはずいぶん知り合いまして、川端康成さんと横光さんの二人に訓戒を与えられたこともあるんですよ。
 ある事件があって、ある業界誌みたいなものに若者の僕と今東光さんが暴れて押しこんできたと……そう、その業界誌みたいなものに記事にされたんです、写真と一緒に。そしたら二人がいうんですよ、
「今東光なんて、あんなものと一緒に写真を撮っちゃいかん」
 川端さんと今東光とは大変に仲が悪かったですから。
 中山義秀と会ったのも横光さんのところですね、早稲田大学で横光さんの同級生なんですよ。でも横光さんはよくこんなことをいってましたね。
「義秀は僕のことを同級生だと思っているけど、僕が義秀と同級になったのは、僕が一度早稲田をやめて、二度目に入ったときなんだ。だから僕は義秀の先輩なのにあいつは同輩と思ってる。どうも具合が悪い」。
 それから直木三十五とは、木挽町だったかな、あのあたりに芸者置屋があって、そこの二階が彼の仕事場だったんですよ。部屋には将棋や麻雀や遊び道具がみんな揃ってあって、横光さんや川端さんや、もちろん菊池寛も来て麻雀なんかやってましてね。
 だから僕はつい最近までそこを文藝春秋の倶楽部だと思ってた。最近ある人に聞いて直木三十五の仕事場だったと知ったんです。
 直木さんという人はものすごくお金を儲けたけど、また、ものすごくお金を使う人でもあったんです。だから、そこの家賃なんかも文春で払ってたかも知れないな。で、ものすごく痩せた人でね、ほんとに骨と皮でしたよ。
 あるとき、ある出版社の社長が、
「直木さん、このごろお痩せになりましたね」
 といったら、それまで原稿を書いていたのに急に血相を変えて、
「なにい」
 といったですね。慌てて菊池さんが、
「直木はこれでも太ったほうなんだ」
 このあたりが、菊池寛らしいところでね。直木さんはこのあと間もなくして死にました。
 そういえば吉川英治さんも来てたな。
 吉川さんは競馬が好きでしてね、菊池さんも好きで二人とも馬を持っていたし、僕の母親も競馬好きなもんだから、一緒に競馬場に行ったりして……。
 僕は、吉川さんってたいしたもんじゃないな、と思っていたからそれを母親にいったら叱られちゃった。
「あんな立派な人はありますか、関西の豪商のような感じをうけた」
 そういってましたよ。いま考えてみると、やっぱり品格はあったんでしょう。
 
後世に残る中島と梶井
 それから佐藤春夫さんはね、小日向町に住んでいて、門柱に菊池寛さんとはまったく逆のことを書いていた。
「多忙につき新聞記者、雑誌記者は面会お断り」
 それで、おもしろい対称的だなと思って訪ねてみたら会ってくれましてね。やはり僕を文学青年だと思って、
「日本でブラブラしていても親からなにがしかの金をもらうであろうから、その金でメキシコにでも行ってブラブラしとれ、そのほうが得だ」
 そういうんです。で、なにげなく机の上を見たら永井荷風の『つゆのあとさき』が置いてあった。それがすごく印象的で……そういうことを思い出すといまだに懐しいし、愉快であるね。
 佐藤さんと菊池さん横光さんは大変仲が悪かったけど、僕はそのどちらにも可愛がられた。どちらも大変によくしてくれましたよ。
 同じ年頃では檀一雄なんかね。檀一雄は僕が『酩酊船』を書いたとき訪ねて来まして……。いかにも恰好のいい青年でしたよ。もう、見ただけで凡庸な青年とは違うというのがわかりました。なにか、さっそうとした���ころがありましてね。
 で、二度目に来たときは青年と一緒だった。檀君がいうわけですよ、
「ここに秀才がおる」
 それが太宰治だった。
 すぐ三人で酒を飲みに行って滅茶苦茶に飲んだわけ。だからなにを話したのかは覚えていない。だけどそのなかに中原中也もいたっていうんですよ。ところが僕はその中原中也を憶えておらんのです。
 同郷の人では中島敦さん。彼は僕の中学の先輩です。
 中島さんという人は中学のころから伝説的な人で、山口じゃ中島さんを知らない人はいなかったですよ、一高にも一番だったかで入っているしね。その当時の一高ったら、いまの東大とはわけが違います。全国から二万人ぐらい受けに来て六〇人ぐらいしか入れないんだから。それの一番ですからね。
 戦前にフランツ・カフカを読んでいたのは中島敦のみじゃないですか。『李陵』とか『山月記』とか、あれはカフカの影響で書いたんです。おそらくそういうことを論じている人はいないと思うけれど、僕はほとんどそうだと思ってる。
 とにかく大変な英才で語学、漢学、なんでもできる。三三歳で亡くなったけど、惜しいことをしたと思いますね。
 中島敦や梶井基次郎は、もう後世に、残るのが決まったようなものではないですか。
 梶井さんは『青空』という同人雑誌をやっていましてね、病弱のように思われてるけどなかなか行動的で、同人の家は全部回ってましたよ、三好達治でも中谷孝雄でも。
 その『青空』の同人は全部偉くなったですね、ひとりの落ちこぼれもなく全員が文壇に出ちゃった。で、そのなかで一番早く出たのが北川冬彦なんです。
 北川さんは僕のことを「弟や」といってましてね、いまはもう歳とったから神経質じゃないけど、若いころはものすごくピリピリしておった。その北川さんが、
「森君とどうしてあんなに親しくなったのかわからない」
 そう書いているんです。その北川さんの縁で梶井さんとも関係ができたわけなんですが、同人のなかで梶井さんが大将というか親玉だってことは誰でも知っていたんです。梶井というのは大変なものを書いているというのは誰でもが知っておったです、その当時。
 それから立原道造というのは僕の同級生でした。……僕はそのころ、文学青年みたいに扱われていたけど、本当は文学青年なんて一格下のヤツと、こう、いつも思っていました。だから立原なんかはたいしたことねえや、と。
 ただ、よく東大の建築科に入れたな、とは思っていましたね、建築科は難しかったですから。
 堀辰雄さんとも、よくその話をしましてね、堀さんも「私も驚いてます」なんていってましたね。
 堀さんとは……横光さんが毎晩銀座を散歩して、いつも資生堂という喫茶店に行きまして、そこに必ず堀辰雄が来ておったから、横光さんと一緒に銀座に行くと嫌でも同席することになるわけです。
 堀さんと僕とは、いろんな意味で考えかたが違いましたね。だから立原が仲立ちしたりしまして……。
孤独ではなかった放浪生活
 いま一番親しいのは北川さんもそうだけど、小島信夫君ですね。きょうはまだ話していないけど、毎日電話で話さないことはないといってもいい仲です。
 ずいぶん古くからの知合いで、終戦後に彼が僕のところに訪ねて来て、それからずっと友達です。
 どうも彼は子供のときから僕の名前だけは知っていたらしくて。……というのは僕は子供のころに受験雑誌なんかに頼まれて演説なんかやっていたんです。それが速記となって雑誌に載って、それを小島君が読んでいたらしいんです。
 いまはもう、向こうのほうが偉くなっちゃっているけど。
 若い人では三好徹さんですね。彼は私が尾鷲の北山川という川でダム開発の仕事をしていたとき、そのダムを取材に来たんですよ、読売新聞の第一線記者としてね。
 で、僕がそこにいることを知って、近くの本屋から『文学界』を買って来て、自分の書いた小説を読んでくれ、と来たわけです。
 『遠い声』という小説でね、それがなかなかよかった。だからこれはなかなか見込みのある人間だ。偉くなるんじゃないかな、と思っていたらやはり偉くなったよ。
 だいたい僕を訪ねて来た人はみんな偉くなっちゃうんだな、どういうわけか。
 三好君は弥彦にも訪ねて来たし、いろんなところに師事するみたいにして訪ねてきたね。勝目梓君もそんな感じで訪ねて来た一人です。
 だから僕は一九歳のとき『酩酊船』を書いて、それから六一歳に『月山』を書くまでのあいだなにも書かなかったとはいえ、文壇的に孤独ではなかったんです。いろんな町や村を放浪しているときも淋しいなんて思ったことは、まったくなかったですよ。
 
一夜遊ぶために三日働く
 僕はね、一〇年働いたら一〇年遊ぶというふうにしてあるから、遊ぶときは徹底して遊ぶ。奈良なら奈良のとてもいいところに家を借りて、それからまたほうぼうを放浪する。そういう遊びなんです。
 奈良は瑜伽山に住んでいたんですが、奈良では一番いいところじゃないですか、大和平野の全容を見晴らすようなところでね。
 僕の住んでいたところは、いまは重要文化財かなにかになっているところです。それほど素晴らしい離れだった。それから新潟の弥彦に行ったのは雪が見たいという、ただそれだけのことですよ。
 弥彦は新潟でも雪の降らないとこらしくて、降っても二センチぐらいしか積もらないと地元の人から聞いてガッカリしたけど、僕が行ったその年だけは想像もつかないような豪雪でね、一晩で軒先まで積もったですよ。
 九〇歳になる人が、
「こんなに降ったのは記憶がない」
 というぐらいの大雪でね。
 それと、庄内に行ったのは鳥海山と月山が見たかったから。それもいろんな角度から見たかったから一〇か所ぐらい借家を替えましたよ。なに、移るのなんか簡単でね、トラックなんかに乗せてもらって、このへんがいいな、と思うところで家を探すんです。
 だから、かなり合理的ですよ。なんの不自由もない。どんな田舎でだって暮らせるね、あの月山でも暮らせたんだから。
 二十三歳ぐらいのとき、樺太まで行きましたよ、なんの動機もなく日本の果てまで行ってみようかな、と思っただけで。
 国境の町は敷香(シスカ)というんですが、その対岸にホタスという森があって、そこに北方民族が固まって生活しているわけです。
 そのときは敷香の宿に泊まるよりは愉快じゃないかと思って、オロチョン族とかヤクートとかツングースとか、そうした人たちとトナカイの群を追いかけながらテント生活をしてね。
 一〇年本当に働けば一〇年遊ぶくらいの金は貯まります。そのかわり中途半端な貯めかたじゃ駄目だな。
 僕は尾鷲で電源開発の仕事をしていたけど、働いてるときは優秀な人でね、しかもすぐ隣町の紀の本にも行ったことがないぐらい仕事一途。
 とにかく一夜遊ぼうと思ったら本気で三日働かないと駄目ですよ。金を使いながら金を貯めようったって、絶対に金なんか貯まりません。
 だから僕は奈良にいたときも伊豆にいたときも、東北にいたときも、お金はたくさん持っていましたよ。
 庄内に、月山におるときだって、お金は十分に持っていた。心ゆくまで月山が見たくて、それが目的で一〇年問働いたわけですからね。(構成・横川隆)
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syowaheysaymeji · 4 years ago
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2021.04.06
自分で言うのは野暮だけど、例えばDos Monosのライブ観たり音聴いたりして、明日からも生きる糧を得る、みたいなこと以外に、何か不満を感じて持ち帰って考えて欲しい。むろん音楽は作り手の自意識なんか関係なく純粋に素晴らしいのが良いところではあるけど、個人的には嫌いなところでもある。
他の二人もいるし、サンプリングしてるし、言語使うし、トラックとテーマ全部作ってるからって自分の作品なんて言うのはおこがましいのであって、常にやらせてもらってるという意識はある。でも、社会に対して疑問とか焦燥とか怒りとか絶望があるわけで、そうでなければこういう表現にはなっていない。
2年前に"バグ"だとか言ってデビューしたけど、あっという間に、社会にとってそれなりに小気味良く有益な文化的ポジションに成り上がりつつある気がする。適度に知的好奇心を刺激して、日常のスパイスになるような、そんなことがしたかったわけじゃないのに。その違和感からラジオは自主的にやめた。
トークやPodcastに出演したり、政治家とコラボするときだって、最低限そういう意志を盛り込んだつもりでいたけど、あんまりそこは残らなかった。理解されなかったわけじゃないけど、さして重要なこととみなされなかった。
一方的に批判するつもりは全くないけど、メンバーとも恒常的に価値観の相違が出てきて、正直耐えられなくなった。音楽的には惜しいので、そこに関して向上心があるうちは活動は続けたいと思うけど、裏側のいざこざを隠したまま馴れ合う様を外向けにコンテンツとして発信するのはもう絶対に嫌だった。
Dos Monosはもともと洗練を突き詰めるようなものではなかったわけで、知性も教養も大したことないし、悪意と渇望と焦燥、怒りと加害性がなくなれば、見かけがいくらコーティングされようと、とても凡庸で退屈な日本的マイルドヤンキー文化に仲間入りするだけ。そういうクソを再生産したくなかった。
救われて/報われて精神的に死ぬのではなく、敵を殺して構造を崩して生き延びつつ倫理的な問いに向き合いたい。それを諦めたら死んだも同然だったのに、何を血迷ったか、知識や話芸を洗練し、作品を優先して我慢するばかりで、真に大事なことを見失ってた。上手く立ち回るつもりで雁字搦めになってた。
自分のメンタルとか正直な気持ちなんてくだらないので、言わない方が音楽にとっていいのだと思ってた。いい音楽作ってれば全て残ると。けどそれは音楽の神秘化であり逃避でしかなかった。苛立ちの蓄積が祟って、プライベートな時間ではすっかり鬱が常態化してしまった。やっぱ人間はそんなに強くない。
この不全感は自分の力不足の問題であって、メンバーや観客や環境のせいにするのは逃げだと思ってたけど、最近は根本的にやり方を変えるべきだと思えてきた。 1stアルバムのリリパの時からずっと言ってるが、そのうちDos Monosは終わる。もちろんそれまでは本気でやるし、人生はその後も続く。
今現状進んでいるプロジェクトも沢山あるし、それもできるだけいいものにする。でも、上手く成功させるみたいなのは全然興味ないし、そういうところで評価されたくもない。
たとえ自分がどれだけ絶望しても、モチベーションになるのは、自分とは全く違う人格や背景や能力や知性を持つ他の誰かにとって、インスピレーションになるもの(/こと)を作り(/やり)たいということ。自分もそうやって世界の中で何かしらを引き継いでいて、その奇跡性にだけは感謝してる。
つくづく自分は贅沢かつ貧乏くさい悩みを抱えていると思う。それで最初のジレンマに戻るが、だからこそ音楽は素晴らしいと言いたくもなる。結果としてそんな自意識が全くなくなるから。でもその素晴らしさを享受していればいいほど社会は良くないと思ってる。政治的な問題が表面化した時以外も。
定義上仲間であるような人も、良かれと思って、もっとうまく流通する方法を考えろとか、喋りすぎない方がかっこいいとか(あるいは反対に上手く喋れていいとか)言ってくる。助言としては正しいけど、それを言わせる社会がおかしいという視点だけは絶対に忘れたくない。
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