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完全版/映画紹介「俺は君のためにこそ 死ににいく」/特攻の母/鳥濱トメ/石原慎太郎/大西瀧治郎/特攻隊/HIROMI's CHANNEL
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【感涙】「特攻隊の母、鳥濱トメ」お孫さんが語る感動エピソード
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富屋食堂と知覧特攻平和会館 ; Opens a new tab 富屋食堂は[特攻隊の母]として慕われた「鳥濱トメさん」の食堂でした。富屋旅館は戦...
((14) Pinterestから)
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「麦の穂青し」③終
知覧特攻基地と言えば、「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見て、“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメさんが有名ですが、地元の知覧高等女学校の生徒たちが特攻隊員を献身的にお世話したことも記憶に留めておく必要があります。
本書には、知覧高女なでしこ会が刊行した『群青 知覧特攻基地より』の「まえがき」が引用されています。
本書の第二部「征く人、送る人」の第二章「さらば、祖国よ」から、「知覧の少女たちが見た別れ」の箇所を、少々長くなりますが引用いたします。なお、文中に出てくる『空から轟沈』の唄はご存じない方が多いと思いますので、Youtubeから貼り付けました。
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知覧基地に関しては、地元の知覧高等女学校の生徒たちによる特攻隊員に対する献身的なもてなしが、多くの特攻隊員につかの間の安らぎを与えたことはよく知られています。
知覧高等女学校の生徒たちがなぜこのようなもてなしをするようになったかのいきさつは、「知覧高女なでしこ会」が昭和51年に刊行した『群青 知覧特攻基地より』の「まえがき」に、永崎(旧姓前田)笙子が次のように記しています。
「昭和20年3月27日、知覧高等女学校の三年生進級を前にして、突然、私たちは勤労動員学生として、各地から知覧基地へ集結された特攻隊員の身の回りのお世話をすることになりました。敗色濃い戦局だったために、軍だけでは隊員たちを受け入れるゆとりもなく、その態勢も整っていなかったのでしょうか。激しい空襲のさなかを自宅から基地まで、遠い人は二時間もかかって通い、三角兵舎の掃除、食事の用意、洗濯、そしてつくろいものなどの雑用係として、14、15歳の少女だった私たちがあたることになったのです。最初18名だった女学生も、手が足りなくなって次第に増員されるようになりました」
戦争末期のこの時期、日本軍には余力というものが全くなくなり、青壮年は根こそぎ軍隊にとられ、本来なら下級兵士や軍属がすべき雑用を、知覧基地では14、15歳の少女に任せるはかなかったのです。その期間は昭和20年3月下旬から6月下旬までの3ヶ月足らずですが、この聞に昼間出撃した特攻隊員を飛行場で直接見送るという稀有の体験を少女たちは重ねることになったのです。その点を永崎は次のように記しています。
「多くの隊員は到着して4、5日間を基地の三角兵舎ですごして出撃されましたが、なかには、たった一夜だけの滞在で��ただしく出撃された方もいらっしゃいました。それは、つかのまの出会いではありましたが、長い歳月を経た今でも、心の奥底に多くの隊員たちの思い出が生き続けているのは、平和な時代には想像もできないような異常な戦争体験だったからでしょうか。泣きながら桜の小枝をうち振って出撃を見送ったときの光景など、折にふれ鮮烈な思い出としてよみかえってまいりました」
彼女たちは今で言えば中学二、三年生の純情で清潔で多感な少女でした。その少女たちが、「生き神様」と呼ばれ、明日には特攻散華するかも知れぬ、一死殉国の若者たちの身の回りの世話をし、共に語り、共に笑い、共に心を通わせたのですから、その印象は生涯消すに消されぬほど鮮烈なものであったに違いありません。
特攻隊員でもっとも若い者は16、17歳であり、少女たちより二、三歳上に過ぎないのです。そうした若者たちが日本を救うために明日にはその身を敵艦上に爆裂させるかもしれないという切迫した状況が、少女たちを深く感銘させ、その感銘がまた少女たちの献身を引き起こしたのです。いわば特攻隊員の自己犠牲の崇高な精神が彼女たちに無償の奉仕という対価を求めぬ純粋な献身行動を呼び起こしたとも云えるのです。
そして永崎はさらにこう続けます。
「皆様の遺書や書簡を読ませていただき、あらためて現実の出来事のように、ありし日のあの方、この方をしのび、多くの若者を失ったあの戦争とはいったい何だったのだろうかと、新たな感慨に胸が締め付けられる思いでございます。生と死の狭間のなかで苦悩しながら、永遠の平和を願い、国の護りに殉じていった若い人々のために心から涙を流した愛惜の日々は、私たちの頭から生涯消え去ることはないでしょう」
大東亜戦争は日本史上最悪の出来事でした。死者の総数は310万人を超え、日数でならすと一日に約2,300人の死者が出た計算になります。これほどの大悲劇はありません。ただその大悲劇の中で、唯一清冽な想い出を歴史に刻んでくれたのが特攻隊の若者たちの愛と勇気に満ちた身の処し方であり、このことは日本史がつづく限り、民族の誇りとして語り継がれてゆくに違いありません。
戦争を経験せずに真の平和はあり得ないとされています。まだ逆に平和を獲得するのが戦争だという考えもあります。しかし戦争と平和の問題は個々に独立した概念として把握されるべきではなく、常に歴史の連続性の中で確認されねばならぬ最重要な国家的課題であり、永崎もその点を���のように説いています。
「いま私たちが手にしている平和が、数多くの人生とかけがえのない青春の上に築かれていることを忘れ、自分の利害だけで、権利ばかりを主張して責任を果さない風潮が一般的になったと、よく人々から聞かされるようになりました。こんなとき、平和を願い、すべての私情を断ちきって短い人生を終えていった特攻隊員を、その出撃直前まで目のあたりにしてきた人々の中から、『歴史の証言として何かを残すべきではないか』という声がもちあがりました。それもある思想的な立場からの作為のもとに粉飾されたり、無意識のうちに変ってしまったものではなく、その時、その状況の中で真剣に綴られた生のままを残したほうがよいのではないかということでした」
この群青というタイトルには、特攻隊員が出撃して征った沖縄の青い海や空がイメージされていることば確かですが、それよりも平和な時代の限りなく優しい海や空の青を思い描き、祖国防衛戦争にその尊い命を捧げた特攻隊の若者たちの自己犠牲の崇高な精神を、日本民族がつづく限り、永遠平和のために未来永劫語り継いでゆこうという強い意志がこめられているに違いありません。それゆえ永崎は次のように記してこの「まえがき」を閉じています。
「本書は、還らざる方々の魂の証と、ささやかながら私たちの心の軌跡をまとめたものです。特攻隊に関する本は少なからず出版されていますが、数ある太平洋戦争史の大河の流れの一しずくとして、心ある方がもし拾いあげてくがさるならば、これにこした喜びはありません」
本書が他の特攻関連の本と一線を画するのは、陸軍特別攻撃隊の若者たちと知覧高女の乙女たちの清楚で涼やかな心の交流が全編の至るところににじみ出ていることにあり、本書を心読すれば、当時の青春はこれほどまでに純粋で美しかったのかと強い感動に襲われるに違いありません。本書は特攻隊員の壮烈な遺書・遺稿を掲載しながら、それが壮烈であればあるほど、知覧高女の乙女たちの精神のたたずまいの美しさが際立ち、巧まずして平和の尊さを読む者の心に深く静かに訴えかける、稀有の鎮魂の書となっているのです。
本書には、知覧高女の乙女たちの見た特攻出撃の光景が哀切に描かれています。たとえば永崎笙子は満開の桜の中を出撃して征く特攻隊の哀しいまでに美しい光景を次のように記しています。
「ある日、私たちは当番兵から、徳之島前進の特攻機におにぎりを二個ずつ積むように言われました。徳之島前進というのは、航続距離の短い特攻機のために、徳之島を中継基地として出撃するため、知覧基地を飛び立って徳之島へ集結することを意味します。
ただ、おにぎりを配るだけでは、どうしても私たちの気持ちをあらわすことができないような気がして、機中の隊員の方に桜の小枝を差し上げましたところ、隊員の方にたいへん喜ばれ、『ありがとう、ありがとう』と何度もくりかえしいわれました。その様子から、『時がくれば何の未練もなく散っていく桜のように、武士のいさぎよさを見た』と言った人もいました。それ以来、私たちは出撃する特攻機の操縦席を、桜の花で飾るようになりました。当時、知覧は桜の花盛りでした」
俗謡に「富士と桜の日本によくぞ男と生まれける」とありますが、日本男子にとって桜ほどふさわしい花はありません。『仮名手本忠臣蔵』に「花は桜木、人は武士」とありますが、特攻隊の若者たちも自分は現代の武士であると堅く信じていましたから、この言葉には大いに魅かれましたが、これ以上に特攻隊員が共感したのは「花は散り際、武士は死に際」という言葉でした。ひとたび出撃した特攻隊員に残されたことは存分に戦って潔く死ぬことだけであり、それゆえ死に際の見事さを彼らは切に願ったのです。
また彼らは出撃前の壮行会では必ず「同期の桜」を歌いました。「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ、国のため」という文句ほど、彼らの特攻魂をたぎらせ、かつまた彼らに清冽な詩情を与える文句はありませんでした。そして彼らは「散るのは覚悟」と歌いきることによって、特攻死というものが決して恐怖であるばかりでなく、華と散ること、即ち散華の美学と直結することを理屈としてではなく、感覚として理解できたのです。
さらに桜についていうなら、彼らが好んだ句は「散る桜、残る桜も散る桜」であり、「風吹かば、かねて覚悟の桜かな」でした。桜の花が真に美しいのは満開の時よりも花吹雪となって散り急ぐ時であり、宗宮亮平(陸軍特別攻撃隊飛行第六十六戦隊、昭和20年6月6日、出撃戦死、少年飛行兵、岐阜県、20歳)という若者は、日記の最後に、
「身を清廉潔白に保ち、若桜の一陣の春風に散るが如き最期を遂げたきものなり」
と記して出撃して征きました。特攻隊の若者たちがいかに潔い死を望んでいたか、この清冽な一文を読めば誰でも納得がゆくでしよう。知覧高女の乙女たちが贈った一枝の桜ほど若い特攻隊員たちを元気づけたものはなく、特攻機の操縦席に桜を持ち込んだ彼らは、桜と共に散華できることを無上の喜びとし、日本武士の誇りを胸に敵艦めがけて突入して征つたに違いないのです。
そして永崎は眼前に見た特攻出撃の光景を次のように記しました。
「4月12日
今日は晴れの出撃、征きて再び帰らぬ神鷲と私達をのせた自動車は誘導路を一目散に走り飛行機の待避させてあるところまで行く。途中『空から轟沈』の唄の絶え間はない。先生方と隊長機の擬装をとってあげる。腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかった。本島さんの飛行機���ブンブンうなりをたててゐる。どこまで優しい隊長さんでせう。始動車(当時の飛行機は発進のときプロペラの回転が自動でできず、始動車によって始動した機が多かった)にのせて戦闘指揮所まで送られる。うしろを振り返れば可憐なレンゲの首飾りをした隊長さん、本島さん、飛行機にのって振り向いていらっしやる。桜花に埋まった飛行機が通りすぎる。私達も差上げなくてはと思って兵舎に走る。途中、自転車に乗った河崎さんと会ふ。
桜花をしっかり握り一生懸命駆けつけた時は出発線に行ってしまひ、すでに滑走しやうとしてゐる所だ。遠いため走って行けぬのが残念だった。本島機が遅れて目の前を出発線へと行く。と隊長機が飛び立つ。つづいて岡安、柳生、持木機、九七戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機もにっこり笑った操縦者がちらっと見える。二十振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。一生懸命お別れのさくら花を振ると、にっこり笑った穴沢さんが何回と敬礼なさる。パチリ……後を振り向くと映画の小父さんが私たちをうつしてゐる。特攻機が全部出て行ってしまふとぼんやりたたずみ、南の空を何時までも見てゐる自分だった。何時か目には涙が溢れ出てゐた」
知覧高女の生徒たちは、こうした別れを毎日のように体験したのです。彼女たちにとって特攻出撃は勇壮なものであると同時に、お世話した若者たちとは二度と会えぬことが定められた惜別の哀しみに満ち満ちたものでもあったのです。
さらに永崎は出撃にまつわる次のような親子の哀切な別れも記しています。
「ある日のこと、搭乗したばかりの特攻隊員のところへ息せききって走りよる初老の男の方がいらっしゃいました。ふたことみこと言葉を交してから着ていた羽織の紐をもぎとると、それを隊員に差し出し去した。二人は手を固くにぎりしめたまま、身じろぎもしないで思いをこめた眼差しを交していました。その様子から��その男の方が隊員のお父様であることがわかり、胸があつくなりました。
やがて羽織の紐を乗せて特攻機は飛び立ちましたが、機影が開聞岳の向うへ消えたあとも、乱れた羽織姿のままで南の空をいつまでも見つめながら、悄然と立ちつくしておられました。親子のきずなを羽織の紐に託して永遠の別れを告げられたその情景に、私たちは思わずもらい泣きをしてしまいました」
特攻は見方を変えれば、すべて哀切な別れのドラマといえます。両親との別れ、兄弟姉妹との別れ、妻子との別れ、恋人との別れ、あるいは戦友や朋友との別れといったように、徹頭徹尾、特攻は愛と別れのドラマといえるのです。そしてさらに永崎はこの日の出撃光景を続けます。
「離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら隊別に三機編隊を組み、編隊を組みおえると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下をしました。そして、みんな一様に三回、翼を左右にふりながら最後の別れを告げると、急上昇して開聞岳の彼方へ消えていきました。
基地に残った隊員や整備兵たちは、いっせいに帽子を振り、私たちも桜の枝やハンカチを振って見送りました。機影が見えなくなってからも、私たちはしばらく呆然と立ちつくし、そのあとで急に襲ってくるはげしい悲しみに堰を切ったように泣きだしました。
でも私たちは涙のかわかないうちに、まだ次に到着される特攻隊の方々をお世話しなければなりませんでした。そんな悲しみに堪えながら三角兵舎へ戻ることがたびたびでした。寒々と静まり返った兵舎内に足をふみ入れますと新たな思いにかられて、とめどもなく涙が頬を流れ落ちました」
このように優しい乙女たちに見送られたことは、特攻隊の若者たちにとっても何物にも代えがたい喜びであったことでしょう。彼らにとっては、この別れが生きる喜びを感じた人生最後の体験となったのです。そしてこの離陸から長くとも二時間か三時間で彼らの人生は終わりを告げることになるのです。しかも彼らは心身ともに健康で、本来なら夢と希望に満ち溢れた二十歳前後の青年なのです。この一事を捉えても、特攻隊を美化したり、戦争を肯定したりすることが、人間性の尊厳を否定する不遜な考えであることが自ずと明らかになるのです。
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#鹿児島 から#レンタカー で#特攻隊 の基地があった#知覧 へ。 #知覧特攻平和会館 と#特攻の母 と言われた#鳥濱トメ さんの#富屋食堂 にも立ち寄る。 #特攻隊 が家族や友人、婚約者に宛てた手紙は涙無しには読めないし、残された人の幸せを願う内容は心打たれる。 直筆の遺書の書体からはそれぞれの人柄が良くわかった。 #なでしこ隊 #ダークツーリズム #負の遺産 #旅 #旅行 #japan #kyushu #kagoshima #chiran #tokko #darktourism #trip #travel (知覧特攻平和会館) https://www.instagram.com/p/B8lRAeKjcXw/?igshid=1v6d793glvroc
#鹿児島#レンタカー#特攻隊#知覧#知覧特攻平和会館#特攻の母#鳥濱トメ#富屋食堂#なでしこ隊#ダークツーリズム#負の遺産#旅#旅行#japan#kyushu#kagoshima#chiran#tokko#darktourism#trip#travel
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けん玉と玉子丼とわたし。 これ知覧でも食べれるのかな🤔 #特攻の母 #鳥濱トメさんの玉子丼 #知覧特攻基地 #軍指定食堂 #富屋食堂 #ホタル館 #靖國八千代食堂 #けん玉 #kendama #けん玉と食事 #kendamaandmeals (靖國八千代食堂) https://www.instagram.com/p/B8AdsaOJDg1/?igshid=euu66rg66bep
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特攻の母 鳥濱トメさんの玉子丼。知覧直送の新鮮な玉子は甘い味付けでシンプルながらもボリュームたっぷり。美味しくいただかせてもらいました。 #玉子丼 (靖國八千代食堂) https://www.instagram.com/p/CKY-E3_ltm_/?igshid=xco42pn5vhna
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鹿児島でダークツーリズム!「知覧特攻平和会館」「富屋食堂」で神風特攻隊の悲劇の歴史を知る!
以前、あの元バレーボール選手の大林素子さんが主演を務める舞台「MOTHER マザー~特攻の母 鳥濱トメ物語~」を観てから、ずっと行きたいと思っていた鹿児島の現在は南九州市内にある知覧という場所。
知覧は第二次世界大戦末期、太平洋戦争中に沖縄戦が始まった後は、神風特別攻撃隊が出撃する本土最南端の知覧飛行場があった場所。
今回せっかく鹿児島を訪れたので、鹿児島市内からだとちょっと遠いけど、友人3人でレンタカーを借りてちょっと遠出してみた。
神風特攻隊に関する資料館「知覧特攻平和会館」
澄み渡る青空の中、開館時間ちょうどくらいに到着した「知覧特攻平和会館」は、人気もなくて凛とした空気が張り詰めていた。
お寺の庭先に資料館があって、綺麗な庭園の中にも戦闘機や像などが展示されている。
悲劇の舞台になる場所が美しいのはなぜだろう。
外には映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の撮影にも使用…
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北影雄幸著「空は一片の雲を留めず 麦の穂青し」(勉誠出版)を読みました。
本書には、「十死零生」、「生別=死別」という制約下における征く人と送る人の別れの万感が込められた手記があります。軽い気持ちで読み飛ばすわけにはいかないため、思ったよりも時間がかかってしまいました。
年の瀬ともなると、ほぼ毎日のように人身事故で電車が止まったというニュースを耳にします。70数年前の純真な若者が辿った運命に思いをはせれば、ホームの端に佇む人の選択も変わるのではないでしょうか?
また、なんとか詐欺や煽り運転などで貴重な生命を浪費している人たちも、「十死零生」に殉じた若者たちの心情を知れば、生き方が変わるのではないかと思います。
決して戦争賛美や軍国主義を推奨するわけではないが、ほんの70数年前の若者が民族の存続を信じてその身を捧げたことを、道徳教育などに生かすことができれば、人生を無駄に浪費する人が減少することを���待できるのではないかと思料します。
以下に、本書の目次と「まえがき」の一部を引用して紹介いたします。
【目 次】
まえがき
第一部 特攻隊員の感謝のことば
第一章 両親への想い
両親への感謝
両親への不孝のお詫び
父への感謝
母への感謝
第二章 家族への想い
兄への感謝
姉への感謝
弟への感謝
妹への感謝
第三章 妻や恋人への想い
妻への感謝
恋人への感謝
第二部 征く人、送る人
第一章 静かなる出撃光景
壮行会の感激
特攻基地へ進発の出陣式
特攻出撃直前の壮行会
神風特攻隊の出撃光景
陸軍特攻隊の出撃光景
回天特攻隊の出撃光景
第二章 さらば、祖国よ
祖国日本との別れ
熱い戦友愛
戦友との別れ
知覧の少女たちが見た別れ
第三部 永遠の愛と哀しみ
第一章 両親の愛と哀しみ
父の愛と哀しみ
母の愛と哀しみ
第二章 家族の愛と哀しみ
兄の愛と哀しみ
姉の愛と哀しみ
弟の愛上艮しみ
妹の愛と哀しみ
まえがき
特攻隊員というと鍛え上げられた精神と肉体をもった屈強な兵士と思いがちですが、その主力は十八、九歳から二十三、四歳の若者であり、飛行機の操縦ができるという点を除けば、町のどこにでもいる青年であり、決して特別に優れた能力を持つ人間ではなかったのです。ことに海軍の飛行予科練習生、通称予科練の出身者や、陸軍の少年飛行兵出身者は早い者なら十六、七歳で戦場に立ちます。まだ少年ともいってもよい年頃です。しかしそれにも関わらず、郷土とそこに暮らす愛しい人々を守るために、彼らは惜しげもなくその命を祖国日本に捧げました。自分の命を捧げて悔いぬほどの大きな価値がそこにはあったのです。
そしてここに大きな悲劇が生まれました。十死零生の特攻出撃には基本的に生還ということはあり得ません。特攻機がひとたび離陸すれば、この世のあらゆるものに別れを告げなければなりませんでした。家族や親類との別れ、戦友や友人との別れ。あるいは恋人との別れ、さらには故郷との別れ、祖国との別れ等々、特攻にはあらゆる別れが派生します。要するに特攻の哀しみとは別れの哀しみであり、しかもその別れは、生別が死別をかねる絶対的な別れだったのです。
そのため特攻は犬死であり、無駄死であるという考えが当時からありました。しかしこの考えは、死は損で生は得であるとする損得勘定に基づくものであり、生命尊重以上に価値あるものがこの世にあることを認めぬ功利主義者の自己弁護以外の何物でもないのです。
特攻隊の若者たちはこの生命尊重以上に価値あるものを守るためにその尊い命を捧げたのです。
彼らにとって生命尊重以上に価値あるものとは、祖国であり、郷土であり、さらにそこに暮らす愛しい人々であり、彼らはそれらを守るためになら命を捨てることさえ惜しみませんでした。損得勘定に長けた者にはこのような祖国愛や郷土愛、同胞愛というものの真義が分かりませんから、損得をはるかに超えたところにある、特攻という純粋で崇高な行為を理解することすらできないのです。
たとえば戦時中、女子青年団員であった松元ヒミ子という女性は戦後、特攻隊を回顧して次のように述べています。
「日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当り精神を持ったひたむきな若者や一途な少年たちだけだと、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬に流れる涙にこびりついて離れませんでした。
三十八年たったいまも、その時の土ほこりのように心の裡にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な十九歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた、『お母さん、お母さん』と薄ぐらい竹林のなかで、日本刀を振りまわしていた姿です。……立派でした。あンひとたちは……」
この末尾の「立派でした。あンひとたちは……」という言葉が特攻隊のすべてを象徴していると言ってもよいでしょう。またある女性は苛烈だった戦争の日々を思い出してこう述べています。
「出撃前日の夕方、特攻隊の若い方が川岸の土手に坐って、じっと夕焼けを見ていました。燃え上がるような夕焼けでした。ふるさとのご両親やご家族のことを思い出していたのでしょうか、肩がふるえているようでした。若い身空でご自分の命と引き換えに、お国を守ろうと覚悟されていたのです。私は遠くからそのお姿を拝見し、思わず両手を合わせて頭を垂れていました。いま思い出しても、胸が張り裂ける思いが致します」
また神風特攻隊に所属した喜多村祥夫(昭和二十年七月一日、出撃戦死)の妹・坂本順子は母と子の哀切な別れを手記に次のように記しました。
「とにかく兄は、体の弱い母が面会に来てくれるはずはないとあきらめて一人で本を読んでいるところへ母の来た知らせを受けて狂喜したという。母を連れて『志賀島』という島へ行き、その頃では夢のようだった刺身の盛り合わせ料理を母と兄嫁にごちそうした。
妹の私が面会に来ないのをくり返し残念がったという兄に、私は今なお、とり返しのつかない心の痛みを覚える。母も兄もその一日を生涯でいちばん短い一日だったと思ったに違いない。
帰隊の時間か容赦なくやって来て、兄は母の手を握り、肩を抱いて『いつまでも元気でいてください』と一言いうなりパッと後ろを向いて駆け出した。母が思わずその後ろ姿に手を合わせていると、ふり返った兄がまた、すごい勢いで戻ってきて『もったいない! 何をなさ��んです』。次の瞬間、母と兄はお互いの体をぶつけ合うように抱き締め、兄は母の顔の上に熱い大かな涙をボタボタと落としたと、母は帰るなり幾度も幾度も同じことをいって、そのたびに声をあげて泣いた」
特攻出撃は非常に勇壮なものですが、その蔭には送り送られる哀しみが常について回り、その哀しみがまた特攻を陰影深い民族的な叙事詩にしていることを忘れてはなりません。その意味からも特攻とは、戦火に咲いた哀切な詩情という外ないのです。
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<大林素子さん主演舞台 千秋楽レポート>戦後72年を飛び越えて『MOTHERマザー~特攻の母 鳥濱トメ物語~』10月21日(土)に千秋楽を迎え全公演を満員で終演!
[株式会社 エアースタジオ] 本公演は、大林素子さん(鳥濱トメ役)が初回から主演を務め今年で9年目。今年は、戦争を今一度考えるべき節目の年として迎えました。東京公演では、5日間で計8回公演行われ、各回で涙を流す来場者の様子が印象的で… Source: PR TIMES
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知覧に学ぶ会 『帰ってきた蛍 ~天空の誓い~』
東京思風塾でご一緒させて頂いております知覧に学ぶ会の北澤修さんから
10月19日(木) 14時受付14時半開始 世田谷山観音寺 ・鳥濱トメ顕彰会顧問 赤羽潤講演 ・「特攻平和観音堂」 特別法要 移動~六本木俳優座劇場 ・舞台『帰ってきた蛍 ~天空の誓い~』観劇 料金 8,000円 *法要お布施、赤羽顧問講演、舞台観劇料金込み
大東亜戦争末期、平均20歳前後の若者たちが故郷と愛する人々のため、たった一つしかない命を散らして「特別攻撃隊」として出撃していきました。特攻基地のあった知覧で、彼らに無限の愛情を傾けた富屋食堂の女将「鳥濱トメ」がいました。その、鳥濱トメの孫「赤羽潤」からお話を聴く。そして、特攻隊として散華した英霊の御霊を祀る「特攻平和観音」に手を合わせ、特攻隊と鳥濱トメの真実の物語を舞台で観る。奇跡の時間を共に分かち合いましょう。
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