#頭ケ島の集落
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)5月22日(水曜日)
通巻第8261号 <前日発行>
エルドアン、クーデター準備情報に先制攻撃
米国亡命のギュラン師が反政府運動の黒幕?
*************************
トルコで再びクーデター未遂があった。
エルドアン大統領は新たなクーデター準備の動きに予防的先制攻撃をしかけ、「共謀者は米国在住のギュレン師の支持者だ」とする声明を発表した。
2024年5月14日のことだった。
トルコの法執行機関はアンカラ治安総局と高官らの自宅を強制捜査し、複数の警察官が拘留された。またイェルリカヤ内務相臣は、トルコ国内62ケ所を大規模に手入れし、ギュレン師と関係がある544人を拘束したと発表した。
ギュレン師とは何者なのか?
1941年生まれのギュレンは、1960年代後半に『ヒズメット運動』を創設した。穏健なイスラム教、教育、社会奉仕を重視しており、160 ケ国以上で学校や文化センターを展開した。この遣り方はヒズボラ、ハマスの組織化と似ている。
ギュレンとエルドアンとには蜜月時代があった。
「イスラム主義福祉党」の党員だったエルドアン大統領は2001年に「正義発展党」(AKP)を共同で設立した経緯がある。ギュレン師のヒズメット運動は穏健なイスラム教と宗教間対話に重点を置いた。エルドアン大統領とギュレン師は、軍と司法制度に深く根付いた世俗体制には反対という���通点があった。イスラムへの回帰、アタチュルク以来の急激な近代化には距離を置いたのである。
近代化よりイスラム回帰を穏健な方法で行うとし、イスラムによる統治を推進する目的が共通していたのだ。両者の蜜月関係、協調態勢はしばらく続いた。ギュランは有権者を動員し、国家機構のなかに支持者を増加させ、AKPを支援した。
一方で、エルドアン政権は学校や報道機関などギュレン師関連機関の設立を認め世俗イスラム国家を嘗てのイスラム体制へ回帰させようとする姿勢を鮮明にしていた。トルコのすべての大學キャンパスにモスクを建てた。
摩擦が生じたのはエルドアン大統領への過度の権力集中がおき、司法、警察、メディアにおけるギュレン師の影響力と対立がおこった。関係は悪化した。
エルドアン大統領は、ギュレン派が政府を弱体化させるためにさまざまな画策を展開したと非難した。ギュレン支持者らは警察や司法から大規模に粛清された。エルドアン大統領はギュレン運動への弾圧強化に方向を転じた。
ギュレン師は1999年以来、米国ペンシルベニア州で亡命生活を送っている。
エルドアンはギュレンに関連する報道機関、学校、企業を閉鎖し、ギュレン支持者の数千人を公職から追放した。
▼エルドアンはギュレン派の弾圧に方針を転換
エルドアン大統領はギュレン師が政府転覆を目的とした闇の組織を主導していると非難し。テロ組織を率いたとして起訴に踏み切った。そして米国にギュレン師の引き渡しを求めた。トルコと米国の関係が悪化した。
経済的困難と社会不安が不満をさらに高めた。失業率の上昇、インフレ、クルド人問題やシリア難民危機など問題が一斉に吹き出し、エルドアン政権は不安定となり、体制に不満を持つ政治的雰囲気が醸し出された。
2016 年 7 月 15 日の夜を迎えた。
軍が行動を起こした。大規模なクーデターとなって、ギュラン派の軍閥がイスタンブールの橋、アンカラの政府庁舎、報道機関などの主要な機関やインフラを掌握し、戒厳令を布告した。
アメリカはこのクーデターの予兆を知っていた。しかしエルドアンには知らせなかった。オバマ政権はエルドアンを憎んでいた。
リゾートのマルマリス島で休暇中だったエルドアンに危機を知らせたのはロシアの諜報機関である。
エルドアン大統領は危機一髪でクーデター部隊の急襲を逃れた。イスタンブールに現れたエルドアンはCNNに出演し、クーデター陰謀者に抵抗するために街頭に出よ、と国民に呼びかけた。数千人の国民が町へ出て軍と対峙し、7月16日朝までに反乱は鎮圧された。
エルドアン大統領はクーデター支持者とされる人物の大規模な粛清を開始した。
その対象は十万人以上に及んだ。反革命である。軍人だけでなく、数千人の裁判官、公務員、教師、警察官も含まれていた。政府は非常事態を宣言し、国家への脅威とみなされる個人を逮捕、拘束、官吏は公職を解雇するなどの権限をエルドアン大統領に与えた。クーデター未遂により、エルドアン大統領はさらに権力を強化することができた。
その後も、地下でギュレン主義者のエルドアン大統領打倒の動きが続いていた。西側諸国はクーデター未遂を非難した。しかし米国はギュレン師を引き渡さず、トルコと西側の関係は悪化した。
▼ぎくしゃくとNATOとトルコの関係は軋んだ
トルコと西側諸国との緊張は継続し、トランプの登場で一時的に雪解けとなったが、バイデン政権でまた悪化した。トルコはNATOの枢要なメンバーであり、NATO海軍はトルコのイズイミールに本部を置く。だから欧米にとってトルコはじつに扱いにくいうえ、エルドアンはロシア寄りの姿勢を強くしている。
2023年6月には、トルコがスウェーデンのNATO加盟に反対した。理由はクルド人武装組織「クルド労働者党」(PKK)がスウェーデンに拠点を持っているが、スウェーデン政府の対応が生ぬるいと批判し、対策の強化を求めていた。PKKは欧州連合(EU)と米国からテロ組織に指定されている。
トルコはNATO加盟国として、新規加盟に関して拒否権をもっている。スウェーデンはしぶしぶクルド族への締め付けを強化した。
最後まで反対したのはハンガリーで、土壇場での加盟承認との引き替えはスウエーデンのSAABジェット機のリースだった。
トルコは通貨下落によるインフレに襲われ、コロナ禍で観光客も激減した。国内の経済問題などが、新しい、複雑な政治環境を生み出した。現在のトルコはクルド族問題も抱えており、治安は悪化し、政治的、社会的、経済的問題は深刻である。
かくして2016 年と 2024 年のクーデター未遂は、経済的不安定、社会的緊張、政治的闘争が爆発的に組み合わさり、次の危機を招きかねないと、「中東研究センター」所長のムラド・サディグザデ(HSE大学客員講師)がRT(5月21日)に寄稿している。
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各地句会報
花鳥誌 令和5年5月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
厨女も慣れたる手付き雪掻す 由季子 闇夜中裏声しきり猫の恋 喜代子 節分や内なる鬼にひそむ角 さとみ 如月の雨に煙りし寺の塔 都 風花やこの晴天の何処より 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 長すぎるエスカレーター早春へ 久 立春の市の算盤振つてみる 要 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ きみよ 伊達者のくさめ名残りや南部坂 眞理子 慶應の先生眠る山笑ふ いづみ 豆源の窓より立春の煙 和子 供華白く女優へ二月礼者かな 小鳥 古雛の見てゐる骨董市の空 順子 古雛の��の子の部屋へ貰はれし 久
岡田順子選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ 同 大銀杏八百回の立春へ 俊樹 豆源の春の売子が忽と消え 同 コート脱ぐ八咫鏡に参る美女 きみよ おはん来よ暗闇坂の春を舞ひ 俊樹 雲逝くや芽ばり柳を繰りながら 光子 立春の蓬髪となる大銀杏 俊樹 立春の皺の手に売るくわりんたう 同 公孫樹寒まだ去らずとのたまへり 軽象
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
敬な信徒にあらず寒椿 美穂 梅ふふむ野面積む端に摩天楼 睦子 黄泉比良坂毬唄とほく谺して 同 下萌や大志ふくらむ黒鞄 朝子 觔斗雲睦月の空に呼ばれたる 美穂 鼻歌に二つ目を割り寒卵 かおり 三����路のマネキン春を手招きて 同 黄金の国ジパングの寒卵 愛 潮流の狂ひや鯨吼ゆる夜は 睦子 お多福の上目づかひや春の空 成子 心底の鬼知りつつの追儺かな 勝利
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月6日・7日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
潮騒を春呼ぶ音と聞いてをり かづを 水仙の香り背負うて海女帰る 同 海荒るるとも水仙の香の高し 同 坪庭の十尺灯篭日脚伸ぶ 清女 春光の中神島も丹の橋も 同 待春の心深雪に埋もりて 和子 扁額の文字読めずして春の宿 同 砂浜に貝を拾ふや雪のひま 千加江 村の春小舟ふはりと揺れてをり 同 白息に朝の公園横切れり 匠 風花や何を告げんと頰に触る 笑子 枝川やさざ波に陽の冴返る 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月8日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
雪を踏む音を友とし道一人 あけみ 蠟梅の咲き鈍色の雲去りぬ みえこ 除雪車を見守る警備真夜の笛 同 雪掻きの我にエールや鳥の声 紀子 握り飯ぱりりと海苔の香を立て 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
東風に振る竿は灯台より高く 美智子 月冴ゆる其処此処軋む母の家 都 幽やかな烏鷺の石音冴ゆる夜 宇太郎 老いの手に音立て笑ふ浅蜊かな 悦子 鎧着る母のコートを着る度に 佐代子 老いし身や明日なき如く雪を掻く すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
朝光や寺苑に生るる蕗の薹 幸風 大屋根の雪解雫のリズム良き 秋尚 春菊の箱で積まれて旬となる 恭子 今朝晴れて丹沢颪の雪解風 亜栄子 眩しさを散らし公魚宙を舞ふ 幸子 流れゆくおもひで重く雪解川 ゆう子 年尾句碑句帳に挟む雪解音 三無 クロッカス影を短く咲き揃ふ 秋尚 あちらにも野焼く漢の影法師 白陶 公魚や釣り糸細く夜蒼し ゆう子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
犬ふぐり大地に笑みをこぼしけり 三無 春浅しワンマン列車軋む音 のりこ 蝋梅の香りに溺れ車椅子 三無 寒の海夕赤々漁終る ことこ 陽が風を連れ耀ける春の宮 貴薫 青空へ枝混み合へる濃紅梅 秋尚 土塊に春日からめて庭手入 三無 夕東風や友の消息届きけり 迪子 ひと雨のひと粒ごとに余寒あり 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
浅春の眠りのうつつ出湯泊り 時江 老いたれば屈託もあり毛糸編む 昭子 落としたる画鋲を探す寒灯下 ミチ子 春の雪相聞歌碑の黙続く 時江 顔剃りて少し別嬪初詣 さよ子 日脚伸ぶ下校チャイムののんびりと みす枝 雪解急竹はね返る音響く 同 寒さにも噂にも耐へこれ衆生 さよ子 蕗の薹刻めば厨野の香り みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月14日 萩花鳥会
水甕の薄氷やぶり野草の芽 祐子 わが身共老いたる鬼をなほ追儺 健雄 嗚呼自由冬晴れ青く空広く 俊文 春の園散り散り走る孫四人 ゆかり 集まりて薄氷つつき子ら遊ぶ 恒雄 山々の眠り起こせし野焼きかな 明子 鬼やらひじやんけんで勝つ福の面 美惠子
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令和5年2月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
吹雪く日の杣道隠す道標 世詩明 恋猫の闇もろともに戦かな 千加江 鷺一羽曲線残し飛び立てり 同 はたと止む今日の吹雪の潔し 昭子 アルバムに中子師の笑み冬の蝶 淳子 寒鯉の橋下にゆらり緋を流す 笑子 雪景色途切れて暗し三国線 和子 はよしねまがつこにおくれる冬の朝 隆司 耳目塗り潰せし如く冬籠 雪 卍字ケ辻に迷ひはせぬか雪女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
指先に一つ剥ぎたる蜜柑の香 雪 大寒に入りたる水を諾ひぬ 同 金色の南無観世音大冬木 同 産土に響くかしは手春寒し かづを 春の雷森羅万象𠮟咤して 同 玻璃越しに九頭竜よりの隙間風 同 気まぐれな風花降つてすぐ止みて やす香 寒紅や見目安らかに不帰の人 嘉和 波音が好きで飛沫好き崖水仙 みす枝 音待てるポストに寒の戻りかな 清女 女正月昔藪入り嫁の里 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月17日 さきたま花鳥会 坊城俊樹選 特選句
奥つ城に冬の遺書めく斑雪 月惑 顔隠す一夜限りの雪女郎 八草 民衆の叫びに似たる辛夷の芽 ふじほ 猫の恋昼は静かに睨み合ひ みのり 薄氷に餓鬼大将の指の穴 月惑 無人駅青女の俘虜とされしまま 良江 怒号上げ村に討ち入る雪解川 とし江 凍土を突く走り根の筋張りて 紀花 焼藷屋鎮守の森の定位置に 八草 爺の膝捨てて疾駆の恋の猫 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
古玻璃の奥に設ふ古雛 久 笏も扇も失せし雛の澄まし顔 眞理子 日矢さして金縷梅の縒りほどけさう 芙佐子 梅東風やあやつり人形眠る箱 千種 春風に槻は空へ細くほそく ます江 山茱萸の花透く雲の疾さかな 要 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 ぽつねんと裸電球雛調度 要
栗林圭魚選 特選句
紅梅の枝垂れ白髪乱さるる 炳子 梅園の幹玄々と下萌ゆる 要 濃紅梅妖しきばかりかの子の忌 眞理子 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 老梅忌枝ぶり確と臥龍梅 眞理子 山茱萸の空の広さにほどけゆく 月惑 八橋に水恋うてをり猫柳 芙佐子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
師を背負ひ走りし人も雪籠 雪 裏庭開く枝折戸冬桜 同 天帝の性こもごもの二月かな 同 適当に返事してゐる日向ぼこ 一涓 継体の慈愛の御ん目雪の果 同 風花のはげしく風に遊ぶ日よ 洋子 薄氷を踏めば大空割れにけり みす枝 春一番古色の帽子飛ばしけり 昭上嶋子 鉤穴の古墳の型の凍てゆるむ 世詩明 人の来て障子の内に隠しけり 同 春炬燵素足の人に触れざりし 同 女正月集ふ妻らを嫁と呼ぶ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
能舞台昏きに満ちて花を待つ 光子 バス停にシスターとゐてあたたかし 要 空に雲なくて白梅すきとほる 和子 忘れられさうな径の梅紅し 順子 靖国の残る寒さを踏む長靴 和子 孕み猫ゆつくり進む憲兵碑 幸風 石鹸玉ゆく靖国の青き空 緋路 蒼天へ春のぼりゆく大鳥居 はるか
岡田順子選 特選句
能舞台昏きに満ちて春を待つ 光子 直立の衛士へ梅が香及びけり 同 さへづりや鉄のひかりの十字架へ 同 春の日を溜め人を待つベンチかな 秋尚 春風や鳥居の中の鳥居へと 月惑 料峭や薄刃も入らぬ城の門 昌文 梅香る昼三日月のあえかなり 眞理子 春陽とは街の色して乙女らへ 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
ポケットの余寒に指を揉んでをり 勝利 黒真珠肌にふれたる余寒かな 美穂 角のなき石にかくれて猫の恋 朝子 恋仲を知らん顔して猫柳 勝利 杖の手に地球の鼓動下萌ゆる 朝子 シャラシャラとタンバリン佐保姫の衣ずれ ひとみ 蛇穴を出て今生の闇を知る 喜和 鷗外のラテン語冴ゆる自伝かな 睦古賀子 砲二門転がる砦凍返る 勝利 小突かれて鳥と屋や に採りし日寒卵 志津子 春一番歳時記の序を捲らしむ 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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#nagasaki #長崎 #五島列島 #上五島 #頭ケ島 #頭ケ島天主堂 #頭ケ島教会 #頭ケ島の集落 (頭ヶ島天主堂) https://www.instagram.com/p/CGtaj5lhfUs/?igshid=omj16hxsodll
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ダ-ティ・松本 不健全マンガ家歴30年[-α]史 ●はじめに この文章は同人誌「FUCK OFF!7」において書かれたものをベースにして逐次増補改定を加えていき、いずれ歴史の証言として、[というほど大袈裟なものでは無いが…]一冊の本にまとめたいという意図のもと、近年どんどん脳が劣化していくダ-松の覚え書きとしても使用の予定。事実関係は間違いに気付き次第 訂正。同人誌発表時のものも今回自粛配慮して、実名、エピソード等を削除した箇所有り。有り難い事に某出版社よりすでに出版打診があったがまだまだその時期ではない、マンガを描く事が苦痛になったら活字の方も気分転換にいいかも…。 /*マークは今後書き加える予定のメモと心得たし。 ●前史/修行時代・1970 さいとうプロの短くて濃い日々…… 1968年に上京。数カ月後東京は戦場に。熱い季節の始まりだった。 2年後親元を飛び出し友人のアパートに転がり込む。場所は渋谷から井の頭線で駒場東大駅下車、徒歩5分。地図で見る��現在の駒場公園あたり。昼間でも裸電球を付けなければ真っ暗という馬小屋のような部屋。数メートル先には当時の建設大臣の豪邸が…。前を通りかかるだびに警備のおまわりがじろり。 いつまでも友人に迷惑もかけられないのでとりあえずアシスタントでも…と手元にあったマンガ誌をひっくり返し募集を探す。幸いさいとうプロと横山まさみち氏のところでアシ募集があり両方応募。どっちか一つ通れば…と思っていたら何と両方受かってしまい、双方に条件を聞く。当時高円寺 のアパート、風呂無し4畳半の部屋で相場12000円の時代。前者一ケ月の給料10000円、後者20000円との事。給料の方がボロアパートの家賃より安いとは…!どう考えても前者は食う方法がないと判断し、後者さいとうプロへ入社。 ここに居たのはたったの半年に過ぎないけれど今思えばこれだけで本が一冊描ける位の濃い半年だった。しかしこのあと2X年分も書かねばならないことを思えば今回はいくつかのエピソードを書くだけに留めよう。 ダー松が入った時は小池一夫氏[クビ?]、神田たけ志氏や神江里見氏、きしもとのり氏[現・松文館社長]等と入れ替わりの時で、きし氏の女遊びの凄さと神江氏の絵のうまさは伝説になっていた。現在「亀有」「ゴルゴ」が歴代単行本の巻数の多いベスト1、2位だが[ともに100巻を越えた]、3位は神江氏の「弐十手物語」[70巻以上]だという事は知ってる人は少ないだろう。 当時の制作部は、さいとうたかを[以下ゴリ]をトップに石川班[ゴルゴ13、影狩り]、甲良班[バロム1]、竹本班[シュガー、どぶ等]の3つに分かれ、それぞれのキャップにサブ・チーフが一人づついて、ヒラが2~6人いるというシステムで総16名。独立し現在も活躍中の叶精作、小山ゆう、やまさき拓味の3名がそれぞれの班のサブ・チーフ。ダー松は石川班で左右1メートル以内に叶氏とゴリにはさまれ、のんびり出来ない状態で、はなはだ窮屈。叶氏はほとんどマンガ家になりたいとも思った事のなかった人で、設計事務所みたいなところで図面を引いていた人がなぜマンガプロダクションに来たのか不思議だった。格別マンガ好きというわけでもなかったせいか現在まで全ての作品が原作もので、オリジナルは一本もな��のはそのせい?祭りなどの人がうじゃうじゃ出てくる群集場面が得意。 やまさき氏は大の競馬好き、現在競馬マンガを多く描くのは当時からの趣味が生きたというべきか。もう一つの趣味である風俗についてはここでは書くのは差し控えよう。小山氏は後日ここの事務の女性と結婚するが、当時はつき合っているとは誰も知らず、スタッフの一人がやめる時その女性に交際を申し込んだら、茶店に呼び出されて小山氏からと凄まれたと聞いたが嘘か本当かは不明。 ここでの生活は新入り[ダー松を含めて3名]は朝の9時前に会社に行き、タイムカードを押し、前日のごみをひとまとめして外に出し、トイレ掃除をして、16人分のお茶を2Fで入れて制作部のある3Fへの狭い階段をふらふら昇り、机ごとに置いて歩き、終れば、一息ついて買っておいたパンと牛乳を3分で食べて、やっとそれから仕事。しかし新入りの3名の内1人折茂は常に遅刻なのでいつも佐藤と2人でやっていた。佐藤も遅れる時はダー松1人で。辞めてから10年位、16人分のお茶を持って階段をふらふら歩きお盆をひっくり返す夢をよく見たものだが、実際ひっくり返したのは折茂と佐藤の2人で、よく茶碗を割っていた。 たまには夕方6時には帰れるが、普通は夜10時までで、アパートに帰って銭湯に行けばもう明日にそなえて寝る時刻、このくり返しの日々。週1日は徹夜で明け方に帰り、その時は当日の昼12時出勤。休日は日曜日のみで忙しい時はそれも取り消し。つまり休みは月3日。[これで給料2万円!]そんな日々の繰り返し。 夕方までは皆和気あいあいと仕事していたが、ゴリが夕方6時頃に「おはようさん」と現れると、全員無駄口がたたけなくなり、仕事場はシーンと静まり返り、以下その日が終わるまでは疲れる時間がただひたすら流れるのみ。 当時石川班は「ゴルゴ13」と「影狩り」を描いていたがゴリは主人公の顔と擬音のみ。マジックで最後に入れる擬音はさすがに入れる位置がうまいと感心。ゴルゴの顔はアルバムに大小取り混ぜてコピーがとってあり、忙しい時は叶氏がピンセットで身体に合わせて「これが合うかな~」といった感じで貼り付けていた。 その頃すでに「ゴルゴ」は近々終わると噂されていたが、現在もまだ続いているとは感嘆ものだ。 ゴリと石川氏が「ゴルゴ」の最終回の終わり方を話しているのを聞いたら、何ともつまらない終わり方。しかしあれから20年以上も経つ事だし、きっともっといい終わり方を考えてあるだろうなと思っていたら、先日TVで本人が最初から考えてある終わり方だと言うのを聞き、がっくり。企業秘密だろうから書かないが、作品の最初の方に伏線が数度出ているのでわかる人にはすぐわかる筈。 辞めた小池一夫氏とさいとうプロに何があったかは知らないが、漏れ聞く話では結構もめ事があったみたいだ。 「子連れ狼」で「ゴルゴ13」と同じ設定の回があった時、「小池のガキャー訴えたるー!」とゴリが吠えていたものだが、結局たち消え。さいとうプロ作品で脚本を書いた本人が辞めた後、他の作品で同趣向の作品を書いても著作権は脚本を書いた原作者のものだと思うがどんなものだろう。その回のタイトルは忘れたが、ある場所に居合わせた人々が武器を持った集団の人質となり、その中に素人だと思われていた主人公、実は殺しのプロフェッショナルがいて、次々とその集団を殺していく、といったプロットで、ミッキー・スピレーンの短編に同じような作品があり、本当に訴えていたら恥をかいたと思うが・・・。 そういえば事務の方には山本又一郎という男がいたが、後年映画プロデューサーとして 「ベル薔薇」や「太陽を盗んだ男」等を創る事になるが、この野郎が生意気な男で当時皆に対して10歳は年上、といった感じの振る舞いだったが後日俺と一つしか年が離れてなかった事を知り、そんな若造だったとは、と皆怒ったものだ。以来奴の事を「マタさん」から「クソマタ」と呼ぶようになる。 さて半年後に先輩たちが積もり積もった不満を爆発させる反乱事件が勃発し、2年は居るつもりでいたここでの生活も、辞めるか残るかの選択を迫られる。残ればさいとうプロの現体制を認める事となるので、ダー松も退社。 しかし反乱グループとは別行動をとって一人だけの肉体労働のアルバイター生活へ突入。超ヘビーな労働の製氷工場、人使いの荒い印刷所、命綱もない高所の足場で働く建設現場等々。トラックの助手をしていた時は運ちゃんが「本宮ひろしって知ってるか?うちの息子の友達でさぁ、昔、おっちゃんメシ食わしてくれーなんて言ってきたもんだが、今は偉くなっちゃってさー、自分のビル建てたらしいよ。赤木圭一郎みたいにいい男なんだ。」とうれしそうに話してくれたが、運ちゃんには悪いがそいつは今も昔も一番嫌いなマンガ家なんだ。あの権力志向はどうにかならんか。天下を取る話ばかりだもんなぁ。 ところで後日、単行本の解説で高取英が「さいとうたかをのヤローぶっ殺してやる!」とダー松が言ったなどと書いているが、小生はそんな危ない事言った覚えはないのでここできっちり訂正しておきます。 「会社に火ィつけてやる!」位��言ったかも・・・[嘘] 。 悪口は言っても別に怨みなど無い。ところでアシスタントとしてのダー松は無遅刻、無欠勤以外は無能なアシだったと反省しきり。理想的なアシスタントとはどんなものか、それはまた別の機会に。 *入社試験はどんな事を? *さいとうプロには当時ほとんどろくな資料は無かった? *ハイジャックの回の飛行機内部の絵は、映画「大空港」を社内カメラマンが映画館で写してきたものをもとに描く。 *当時のトーンは印刷が裏面にしてあり上からカッターでけずったり出来ない。 *トーンの種類は網トーンが数種、それ以外はほんの3、4種類位しかなかった。 *仕事中のB.G.M.はアシの一人が加山雄三ばかりかけるので大ひんしゅく。好評だったのは広沢虎造の浪曲「次郎長三国志」、初代桂春団次の落語。眠気もふっとぶ位笑えた。 ダ-松が岡林信康の「見る前に跳べ」をかけてるとゴリは「何じゃー!この歌は!」と怒る。名曲「私たちの望むものは」はこの男には理解不能。 ●1 9 7 1 ~ 1 9 7 4 持 ち 込 み & 実 話 雑 誌 時 代 当時は青年劇画誌全盛時代で、もともと望月三起也氏や園田光慶氏のファンで活劇志向が強く、 主にアクションもののマンガを描いて持ち込みに行っていた。今のようにマンガ雑誌が溢れかえって、山のようにマンガ出版社がある時代ではなく、数社廻るともう行くところがない、という状態で大手では「ビッグコミック」があっただけで 「モーニング」も「スピリッツ」も「ヤン・ジャン」も当然まだない。テーマを盛り込んだ作品を持って行くと編集から「君ィ、うちは商売でやっているんだからねぇ」と言われ、アクションに徹した作品を持って行くと「君ぃ、ただおもしろいだけじゃあねぇ」と言われ 「おい、おっさん!どっちなんだ?」とむかつく事多し。この辺の事は山のように書く事があるが、有りすぎるのでパス。 *そのうち書く事にする。 ただ金属バットで頭をカチ割って脳みそをぶちまけてやりたいような奴が何人もいたのは事実。今年[’97]「モーニング」に持ち込みに行って、断られた奴が何万回もいやがらせの電話をかけて逮捕された事件があったが、そのうちトカレフを持って殴り込みに行く奴が出てくるとおもしろい。出版社も武装して大銃撃戦だぁ!などと馬鹿な事書いてどうする!とにかく持ち込みにはいい思い出が何もない。そんな中、数本だけ載った作品は渡哲也の映画「無頼」シリーズの人斬り五郎みたいな主人公がドスで斬り合う現代やくざもの��この頃の渡哲也は最高!]、ドン・シーゲルの「殺人者たち」みたいな二人組の殺し屋を主人公にした『汚れたジャングル』、陽水の「傘がない」が好きだという編集さんの出したテーマで車泥棒とブラックパンサーの闘士とのロード・ムービー風『グッバイ・ブラザー』、拳銃セールスマンを主人公にした『ザ・セールスマン』、等々10本ちょい位。 さてその頃並行してまだエロマンガ専門誌といえるようなものがなかったような時代で、実話雑誌という写真と記事ページからなる雑誌に4~10ページ位を雑誌の味付けとして描かせてもらう。当時、お手本になるようなエロマンガなど皆無で、エロ写真雑誌を古本屋で買ってきてからみのポーズを模写。マンガで裸を描く事はほとんど初めてで、これがなかなか難しいのだがエロシーンを描くのは結構楽しい。当時出版社に原稿持って行き帰りにグラフ誌をどっともらって帰るのが楽しみだった。SM雑誌の写真ページも参考になる。なお当時のペンネームは編集部が適当につけた池田達彦、上高地源太[この名前はいけてます。また使いたい]等。その数年後、逆にマンガが主で記事が味付けというエロマンガ誌が続々と創刊される。 *さいとうプロをやめたあと編集や知人に頼まれて数人のマンガ家の所へ手伝いに行く。秋田書店「漫画ホット」で『ジェノサイド』を連載中の峰岸とおる氏の所へ行き、仕事が終わったあとまだ売れてない頃の榊まさる氏も交え酒を飲む/川崎のぼる大先生のところへ数日だけ/3000円たこ部屋/小山ゆうオリオンププロ *当時のアルバイトは記憶によると時給150~200円位/大日本印刷市ヶ谷駐屯地/坂/ *一食100円/どんなに貧しい漫画家もみかん箱の上で書くやつはいない/TV萩原サムデイ *ろくでなし編集者 ●1 9 7 5 ~ エ ロ マ ン ガ 誌 時 代 に 突 入 実話誌は意外とエロは抑え目で描くように口すっぱく言われていたのだが、以前活劇っぽい作品を描かせてもらってたが潰れてしまった出版社にいた児島さんが編集する「漫画ダイナマイト」で打合せも何にもなしに好きに描かせてもらい、ここでエロマンガ家としての才能[?]が開花する。描いてて実に楽しく眠る時間がもったいない位で、人に睡眠時間が必要な事を恨んだ程。出来る事なら一日中休まず描いていたい気分で完全にはまってしまう。 初の連載作品「屠殺人シリーズ」はこの頃から/『漫画ポポ』。中島史雄氏は大学時代にこの作品を見ていたとの事で、トレンチコートにドクター・ペッパー模様のサイ��ンサーつきマグナム銃で遊戯人・竜崎一也が犯しまくり殺しまくり、サディスト、マゾヒスト、殺人狂、まともな奴が一人も出てこない性と暴力の祭典。ちなみにタイトルページは描かないでいい、との事でどうするのかと思っていたら編集部が中のワンカットを拡大してタイトルページを創り、1ページぶんの原稿料をけちるというせこいやり方だった。けちるといえば、原稿の1/3にCMを入れる際、原稿料を1/3削った会社もあり。 ●1 9 7 6 ~ 後に発禁仲間となる高取英と出逢い、『長編コミック劇場』で「ウルフガイ」みたいのをやろうと、怒りに震えると黒豹に変身してしまう異常体質の主人公を設定し、獣姦のイメージで「性猟鬼」なるエロマンガをスタート!しかしその号で雑誌が潰れる。この路線は今でもいけそうな気がするがどんなものだろう。 この頃の珍品に「快楽痴態公園」がある。タイガースに11-0とワンサイドで打ちまくられ、怒ったジャイアンツファンのおっさんが公園でデート中の女をずこずこに犯りまくり、その間にジャイアンツは9回裏に12-11とゲームをひっくり返してしまうのである!その時のジャイアンツの監督はもちろんミスター長嶋、先発堀内、打者は柴田、土井、高田、王、張本等々がいる。タイガース監督は吉田、ピッチャー江本、キャッチャーフライを落球する田淵、そしてあの川藤もいる。解説は牧野…… ●1 9 7 7 ~ 上記2作品を含む初の単行本「肉の奴隷人形」が久保書店より発行。後にリングスの会場で逢った佐竹雅昭氏はこの本が一番好きとの事だった。 「闇の淫虐師」もこの年スタート。一話完結でバレリーナ、バトンガール等々、毎回いろんな女たちをダッチワイフのごとくいたぶりまくるフェチマンガとして1979年まで続け、単行本は「堕天使女王」「裂かれた花嫁」「エロスの狂宴」「陶酔への誘い」「終りなき闇の宴」の全5巻。ちなみに今年「闇の淫虐師’97」を『コミック・ピクシィ』にて発表。いつか『闇の淫虐師・ベスト選集』でも出したいところ。 [’98に実現、’99には続刊が出る] ●1 9 7 8 ~ 久保書店より第2弾の単行本「狂った微惑人形」。収録作品の「犯された白鳥」は持ち込み時代に描いた初のバレリーナもの。結構気に入っていた作品なのに、後年再録の際、印刷所の掃除のおばさんが捨ててしまい、この世にもはや存在しない不幸な子となる。[’99に宝島スピード・ブックに本より直接スキャンして収録] エロ、グロ、ナンセンスの会心作「恍惚下着専科」を発表。サン出版より同名の単行本発行。また同出版より「コミック・ペット/堕天使画集」として今までの作品を続々単行本化。全10巻位。これは今でも古本屋で流通しているとの事で、まだまだ世間様のお役にたっているらしい。 この年、「堕天使たちの狂宴」を描いていた『漫画エロジェニカ』が発禁処分、来年でもう20年目となる事だし、当時の人たちと集まってその大放談を収録し「発禁20周年特集号」でも創ってみようかと計画中。さて当時の秘話としてもう時効だろうから書いてみるけど、前述の『堕天使画集』に「堕天使たちの狂宴」は収録される事となり、当然修正をガンガン入れて出版されるものと覚悟していたら、米国から帰国後出来上がった本を見ると発禁になった状態のまま再録されている!以下桜木編集長との会話 ダ/いや~、いい度胸してますね。 編/だって修正してあるじゃない。 ダ/その修正状態で発禁になったんですよ 編/・・・・・ ダ/・・・・ 以下どんな会話が続いたのか失念…… それにしてもサドの「悪徳の栄え」の翻訳本は発禁後20年以上して復刻されたけれど、「堕天使たちの狂宴」は半年もしない内に単行本になっていたとはエロ本業界とは何といいかげんな世界!しかし作品そのものは、今見るとリメイクする気にもならないどうという事もない可愛い作品で、結局あれもあの時代の姑息な政治のひとかけらに過ぎなかったのだろう。いい点があるとしたら一つだけ、それまでのエロマンガになかった瞳パッチリの少女マンガ的ヒロインを登場させた事位か。今の美少女エロマンガは本家の少女マンガもかくや!という位眼が大きいが当時としては画期的だったかも。 ●1 9 7 9 ~ この年の「淫花蝶の舞踏」は「堕天使たちの狂宴」よりずっといい/『漫画ソフト』。今年出た「別冊宝島/日本一のマンガを探せ!」でベスト2000のマンガがセレクトされているが、ダー松の作品の中ではこの作品が選ばれている。教師と生徒、二人の女たちが様々な男たちの手によってに次々ともてあそばれ、闇の世界を転々として再び巡り会う時、女たちは蝶と化し水平線の彼方に飛び去り、男たちは殺し合い血の海の中で屍と化す。ダー松作品にはこのように男根が女陰の海に飲み込まれてに負けるパターンが多い。[性狩人、遊戯の森の妖精、美少女たちの宴、人魚のたわむれ・・等々] この年からスタートの「性狩人たち」シリーズ[劇画悦楽号]はバレエ、バイオレンス、SEXの三要素がうまくからみあい、それぞれが頂点まで達する幸福な神話的作品だ。ここから派生した路線も多く、美少年路線は’83の「聖少女黙示録」へ。身体障害者路線は’80の「遊戯の森の妖精」、’84からの「美姉妹肉煉獄」へと繋がる。’81���最終話「ハルマゲドンの戦い」ではせりふなしで24ページ全てが大殺戮シーンという回もあり、中でも一度やりたかった見開きで銃撃戦の擬音のみという事も実現。こんな事がエロマンガ誌で許される時代だった。ちなみにこの回は[OKコラルの決闘・100周年記念]だが、何の意味もない。単行本は最初サン出版より、その後久保書店より「白鳥の飛翔」「少女飼育篇」「ヘラクレスを撃て!」「眼球愛」「海の女神」の全5刊。現在入手出来るのは後の3刊のみ。[「海の女神」も最近在庫切れ] この年出た「人魚のたわむれ」の表題作は性器に{たこ}を挿入するカットを見た編集長が「・・・[沈黙]・・・頭おかしいんじゃ・・ブツブツ・・気違い・・・ブツブツ・・・」と呆れてつぶやいていたのを記憶している。たこソーニューは今年出た「夜顔武闘伝」で久しぶりに再現。なおこの作品は’83にマンガと実写を噛み合せたビデオの珍品となる。水中スローモーションファックがなかなかよい。 ●1 9 8 0 ~ なぜか「JUNE」の増刊として作品集「美少女たちの宴」がサン出版より出版され、その短編集をもとに脚本化し日活で映画が創られる事となる。[「花の応援団」を当てたこの映画の企画者・成田氏は日活退社後「桜の園」等を創る。]その際、初めて映画撮影所を見学し、せこいセットがスクリーン上ではきちんとした絵になってるのを見て映画のマジックに感心。タイトルはなぜか「性狩人」で、’96にビデオ化された。監督・池田敏春のデビュー第2作となり現在までコンスタントに作品を発表しているが、出来のいい作品も多いのになぜか代表作がない。初期の「人魚伝説」が一番いいか。 この映画に合わせて「美少女たちの宴」を2~3回のつもりで「漫画ラブラブ」で描き出すがどんどん話がふくらみ、おまけに描いてる出版社が潰れたり、雑誌が潰れたりで雑誌を転々とし条例による警告の嵐がきた「漫画大飯店」を経て、「漫画ハンター」誌上で完結したのは’83になる。この作品でクリトリスを手術してペニスのように巨大化させるという人体改造ものを初めて描く。 この年の「遊戯の森の妖精」は身体障害者いじめ鬼畜路線の第2弾!森の中の別荘に乱入したろくでなしの二人組が精薄の少女の両親達を虐殺し、��行の限りをつくすむちゃくちゃな作品で、雷鳴の中、少女の性器に男達のペニスが2本同時に挿入されるシーンは圧巻!しかしこのとんでもない男達も少女の性のエネルギーに飲み込まれ、朽ち果てていく・・・。 ●1 9 8 1 ~ 美少女マンガ誌のはしり「レモン・ピープル」誌創刊。そこで描いたのが「白鳥の湖」。虚構の世界のヒロインを犯すというコンセプトは、アニメやゲームのヒロインをずこずこにするという今の同人誌のコンセプトと同じかも。バレエ「白鳥の湖」において���魔に捕われたオデット姫が白鳥の姿に変えられる前に何にもされてない筈がないというモチーフにより生まれたこの作品は、悪魔に男根を植えつけられたヒロインが命じられるままに次々と妖精を犯して歩き悪魔の娘となるまでを描くが、あまり成功したとは言えない。ただ人形サイズの妖精をしゃぶりまくり淫核で犯すアイデアは他に「少女破壊幻想」で一回やっただけなのでそろそろもう一度やってみたいところ。「ダーティ松本の白雪姫」はその逆をいき、犯す方を小さくした作品で7人の小人が白雪姫の性器の中にはいり、しゃぶったり、処女膜を食べたり、と乱暴狼藉![ちなみに両者をでかくしたのが同人誌「FUCK YOU!3」の「ゴジラVSジュピター」]この童話シリーズは意外と好評で続いて「ダーティ松本の赤い靴」を上記の単行本に描き下ろして収録。童話は結構残酷なものが多く、この作品も切られた足だけが荒野を踊りながら去って行くラストは原作通り。 *近年童話ブームだがこの頃もっと描いておけば「こんなに危ない童話」として刊行出来たのにとくやまれる。 「2001年快楽の旅」もこの本に収録。快楽マシーンを逆にレイプしてしまう、珍しく映画「2001年宇宙の旅」風のSF作品。 掲載誌を決めずに出来る限り多くのマンガ誌で描こうというコンセプトで始めたのがこの年スタートした「怪人サドラン博士」シリーズ。「不死蝶」シリーズや「美少女たちの宴」シリーズの中にも乱入し、「漫画ハンター」最終号では地球をぶっ壊して[その際地球は絶頂の喘ぎ声をあげ昇天する!]他の惑星へ行ってしまう。今のところ10誌位に登場。いつかこのサドラン・シリーズだけ集めて単行本化したいところ。ちなみに「サド」と「乱歩」を足して「サドラン博士」と命名。作者の分身と言っていい。 [後年、「魔界の怪人」として全作品を収録して刊行、04年現在品切れ中] この年描いて’82の単行本『妖精たちの宴』に収録の「とけていく・・」はレズの女たちが愛戯の果てに、肉体が溶けて一匹の軟体動物と化す、タイトルも内容も奇妙な作品。作者の頭もとけていた? ●1 9 8 2 ~ 1 9 8 3 ’83年に「美少女たちの宴」が完結。全てが無に帰すラストのページは真っ白のままで、このページの原稿料はいりません、と言ったにもかかわらず払ってくれた久保書店、偉い![明文社やCM頁の稿料を削った出版社=某少年画報社なら払わなかっただろうな……と思われる……]この作品以外は短編が多く、加速度をつけてのっていく描き方が得意のダー松としてはのりの悪い時期に突入。また10年近く走ってきてだれてきた頃でもあり第一次落ち込み期と言っていい。マンガがスタンプを押すように描けないものか、などとふとどきな考えまで湧いてくる。思えば���本の作品には、いったい何本の線を引いて出来上がっているものなのか。数えた馬鹿はいないだろうが数千本は引いている筈。一ヵ月に何万本とペンで線を引く日々・・うんざりする筈です。 この頃のめぼしい短編をいくつか書くと、少女マンガ家の家に税務調査にきた税務署員が過小申告をネタにねちねちいたぶるが、アシスタントに発見された署員は撲殺される。そして板橋税務署は焼き討ちにあう、といった作品「[タイトル失念]xx税務調査」。[後日読者よりこのタイトルを「色欲ダニ野郎」と教えていただく。ひどいタイトル *編集者のつけるタイトルはその人のセンスが実によくわかる。しかしサイテ-の題だなこりゃ…。 果てるまで「おまんこして!」と言わせながら処女をやりまくる「美処女/犯す!」はラスト、狂った少女が歩行者天国の通行人を撃ちまくり血の海にする。「嬲る!」はパンチドランカーとなった矢吹ジョーが白木葉子をサンドバッグに縛りつけ、殴って、殴って、殴りまくる。段平おっちゃんの最後のセリフ「・・ブスブスくすぶっちゃいるが・・・」「打てッ!打つんだ!ジョー!」「お前はまだ燃えつきちゃいねえ!」とはエロ・ドランカーの自分自身に向けて発した言葉だったのかも。トビー・フーパーばりの「淫魔のはらわた」は電気ドリルでアナルを広げてのファック!とどめにチェーンソーで尻を切断!いまだに単行本に収録出来ず。[’98の「絶頂伝説」にやっと収録]「からみあい」は夫の愛人の性器を噛みちぎる。「危険な関係」はアルコール浣腸をして火をつけ尻から火を吹かせる。この手は『FUCK YOU!2』の「セーラー・ハルマゲドン」で復元。そういえばこの作品の序章と終章だけ描いて、間の100章位をとばすやりかたはこの頃の「禁断の性獣」より。女性器にとりつき、男性器に変身するエイリアンの侵略により地球は女性器を失い滅亡する、といったストーリーで当時聞いた話では谷山浩子のD.J.でこの作品がリスナーの投書でとりあげられ、ダー松の名はダーティ・杉本と読まれたそうな。ヒロインの少女がひろ子という名前なのでこのハガキが選ばれたのかもしれないが、作者は薬師丸ひろ子からとったつもりだったのだが・・。[別にファンではない。] 「女教師狩り」は映画館で観客に犯される女教師とスクリーン上の同名のエロ映画の二本が同時進行し、一本で二本分楽しめるお得な作品。 ’83は’80に「漫画エロス」にて描いた「エロスの乱反射」の最終回の原稿が紛失したため単行本が出せないでいたのを、またまた「仏の久保さん」に頼んでラスト近くをふくらませて「漫画ハンター」に3回程描かせてもらい、やっと’85に出版。見られる事に快感を覚えるファッ��ョン・モデルが調教される内に、次第に露出狂となっていき、街中で突然裸になって交通事故を起こさせたり、最後はビルの屋上でストリップショー。そしてカメラのフラッシュの中に飛び降りていき、ラスト1ページはその性器のアップでエンド! 本格美少年・ゲイ・マンガ「聖少女黙示録」も’83。レズの姉たちの手によって女装に目覚めた少年がホモのダンサーたちに縛られなぶられ初のポコチンこすり合いの射精シーン。そして性転換して女となった主いるが、その中の’84の「白い肌の湖」はタイトルで解る通りのバレリーナものだがポコチンを焼かれた男が、一緒に暮ら人公が手術で男になった少女と暮らすハッピーエンド。この作品は単行本「美少女ハンター」に収録されてす二人の女と一人の男に復讐するエンディングがすごい!まず男の性器を切り取り、片方の女の性器にねじ込んだあと、その女の性器ごとえぐり取る。そしてその二つの性器をつかんだまま、もう一人の女の性器にフィストファック!のあげく、その二つの性器を入れたままの女性器をナイフでまた切って、ほとんどビックマック状態でまだヒクヒクうごめく血まみれの三つの性器を握りしめるとんでもない終り方!全くダー松はこんな事ばかりやっていたのかとあきれかえる。もう鬼畜としか言い様がない!しかし「ウィンナー」を二枚の「ハム」で包むなんて・・GOODなアイデアだ、又やってみよう。 ●1 9 8 4 ~ 「漫画ハンター」で「闇の宴」前後篇を描き、後日これをビデオ化。雪に包まれた六本木のスタジオで痔に苦しみながらの撮影。特別出演として中島史雄氏が絶妙の指使い、東デの学生時代の萩原一至が二役、取材に来たJITAN氏もスタジオに入ってきた瞬間、即出演で生玉子1000個の海で大乱交。カメラマンが凝り性で照明が気に入るまでカメラを廻さず、たった二日の撮影はやりたい事の半分も出来ず。撮影が終ると痔はすぐに完治。どうもプレッシャーからくる神経性だったみたいでこれに懲りてビデオは一本のみ。 この年の「肉の漂流」は親子丼もので、近所の書店のオヤジからこの本はよく売れたと聞いたが、一時よく描いたこのパターンは最近では「FUCK YOU!3」の「母娘シャワー」のみ。熟女と少女の両方が描けるところが利点。「血の舞踏」は久しぶりの吸血鬼もの。股間を針で刺し、噛んで血を吸うシーン等々いい場面はあるが、うまくストーリーが転がらず3回で止める。短編「果てるまで・・」は核戦争後のシェルターの中で、父が娘とタイトル通り果てるまでやりまくる話。被爆していた父が死んだ後、娘はSEXの相手を捜して黒い雨の中をさまよう。 またリサ・ライオンの写真集を見て筋肉美に目覚め、マッチョ女ものをこの頃から描き出す。しかしなかなか筋肉をエロティックに描くのは難しい��� ●1 9 8 5 ~ くたびれ果ててすっかりダレてきたこの頃、8年間働いてくれたアシスタント女史に代わってパワーのかたまり萩原一至、鶴田洋久等が東京デザイナー学院卒業後加わってダーティ・マーケットも第2期に突入!新旧取り混ぜておもしろいマンガをいろいろ教えて貰って読みまくる。「バリバリ伝説」「ビーバップハイスクール」「ペリカンロード」「めぞん一刻」「わたしは真悟」「Be Free!」「緑山高校」「日出処の天子」「吉祥天女」「純情クレイジー・フルーツ」「アクター」「北斗の拳」「炎の転校生」「アイドルをさがせ」「綿の国星」「いつもポケットにショパン」「バツ&テリー」「六三四の剣」永井豪の絶頂期の作品「バイオレンス・ジャック」「凄之王」「デビルマン」等々100冊以上とても書ききれない位で、う~ん・・マンガってこんなにおもしろかったのか、と感動! そこで眠狂四郎を学園にほうり込んで、今まであまり描かなかった学園マンガをエロマンガに、というコンセプトで始めたのが「斬姦狂死郎」。「六三四の剣」ばりに単行本20巻を目指すものの、少年マンガのノリは今では当たり前だが、当時はまだエロマンガとして評価されず、ほんの少し時代が早すぎたかも。’86に中断、今年’97に「ホリディ・コミック」にて復活!果たしていつまで続けられるか? →後に「斬姦狂死郎・制服狩り」、「斬姦狂死郎・美教師狩り」として刊行完結 前年末から始めた「美姉妹肉煉獄」は身障者いじめの鬼畜路線。盲目の姉とその妹を調教して性風俗店等で働かせ、娼婦に堕していく不健全・不道徳な作品で、肉の快楽にひたっていく盲目の姉に対し妹も「春琴抄」の如く己の眼を突き、自らも暗黒の快楽の世界にはいり、快楽の光に目覚めるラスト。 また、これからは女王様物だ!となぜか突然ひらめき「筋肉女」シリーズの延長としてフィットネス・スタジオを舞台に「メタル・クイーン」シリーズも開始。これは単行本2冊分描いたが、連載途中でヒロインの髪型を歌手ステファニーのヘア・スタイルにチェンジしたり、レオタードもたっぷり描けてわりと気に入っている。 10年近く描いた「美蝶」先生シリーズもこの年スタート!こうしてみるとマンガを描く喜びに満ちた大充実の年だったかも。 ●1 9 8 6 ~ この年は前年からの連載ものがほとんどだが、「エレクト・ボーイ」は空中でファックするシーンが描いてみたくて始めた初の超能力エロマンガ。コメディ的要素がうまくいかず2回で止める。この路線は翌年の「堕天使輪舞」で開花。 「夜の彷徨人」は自分の育てた新体操選手が怪我で選手生命を失ったため、その女を馬肉のごとく娼婦として夜の世界に売り渡した主人公という設定。しかし腕を折られ、女にも逆に捨てられ、そして事故によってその女を失ったあげく不能となってしまう。失った快楽を取り戻すため無くした片腕にバイブレーターを取りつけ、夜の街をさすらい次々と女たちをレイプしていくというストーリー。がっちり設定したキャラだったのにまったく話がはずまず、男のポコチンは勃起しないままに作品も不発のまま終る。 「斬姦狂死郎」が不本意のまま終わったため学園エロス・シリーズは「放課後の媚娼女」へと引き継がれる。当時見ていた南野陽子のTV「スケバン刑事・」とS・レオーネの「ウエスタン」風に料理。ラストの「男といっしょじゃ歩けないんだ」のセリフは一番好きな映画、鈴木清順の「東京流れ者」からのもじり。単行本は最初司書房から出て、数年後ミリオン出版から再販、そして’97久保書店より再々販ながら結構売れて今年また再版。この作品は親を助けてくれる有難い孝行息子といったところ。 ●1 9 8 7 ~ さいとうプロOBで那珂川尚という名のマンガ家だった友人の津田が「漫画ダイナマイト」の編集者になっていて、実に久しぶりに同誌で「堕天使輪舞」を描く。超能力エロマンガの第2弾。今回はエロと超能力合戦とがうまくミックスされ一応成功といっていい。この路線は「エレクト・ボーイ」とこの作品、そして’96の「夜顔武闘伝」も含めてもいいかも。一時、この手の作品は数多くあったが最近はめったに見かけない。しかし、まだまだこの路線には鉱脈が眠っているとにらんでいるがどんなものだろう。 ●1 9 8 8 ~ 「放課後の媚娼女」に続いて抜かずの凶一無頼控え「放課後の熱い祭り」を2年がかりで描く。’89に完結し司書房より単行本化。そして今年’97に改定してめでたく完全版として復刊!この頃が一番劇画っぽい絵で、たった2~3人のスタッフでよくこれだけ描き込めたなと改めて感心!エロシーンがちょっと少なめながら中島史雄氏がダー松作品でこの作品が一番好き、とお褒めの言葉を頂戴する。 TVで三流アマゾネス映画を見ている内、むくむくとイメージがふくらみ、昔から描きたかった西部劇と時代劇がこれで描けると、この年スタートさせたのが「不死蝶伝説」なるアマゾネス路線。昔々青年誌の創世期にあのケン月影氏がマカロニ・ウエスタンを描いていたことを知る人は少ないだろう。俺もあの頃デビューしていたらウエスタンが描けたのに、と思う事もあったが、このシリーズでほんの少しだけその願望がかなう。 この頃、アシスタントやってくれてた格闘技マニアの鶴田洋久に誘われ、近所の空手道場通いの日々。若い頃修行のため新宿でやくざに喧嘩を売って歩いたという寺内師範は、もう鬼のような人で、行けば地獄が待っていると判っててなぜ行く?と不思議な位休まず通う。体育会系はマゾの世界と知る。組手は寸止めではなく顔面以外は当てて可だったので身体中打撲のあざだらけ、ビデオで研究したという鶴田の体重をかけたムエタイ式��蹴りをくらい、右手が饅頭のように腫れ上がる。先輩たちの組手の試合も蹴りがもろにはいってあばら骨が折れたりで、なぜこんなヘビーな事をする?と思うが、闘う事によって身体の奥から何か沸き上がってくるものがある。スリランカの元コマンドと組手をやった時、格闘家の気持ちが少しだけ判るようになった。 ●1 9 8 9 ~ ’94まで続く「美蝶」シリーズでこの年は『ノスフェラトウ篇』を描き、シリーズ中これが一番のお気に入り。同人誌の「王夢」はこれが原点。 短編では「悪夢の中へ」はスプラッタ・エロマンガで久しぶりにチェーンソゥでお尻のぶった切り!はらわた引きずり出し、人肉食いちぎり!顔面叩き割り等々でラストに「ホラービデオの規制をするバカは俺が許さん!」などと書いているので、この年が宮崎事件の年か?世間は彼が日野日出志・作のホラービデオ「ギニーピッグ」を見てあの犯罪をおかした、としてさんざんホラービデオの規制をやっといて、結局見てもいなかったとわかったあとは誰一人日野日出志氏にもホラービデオさんにも謝らす゛知らんぷり。残ったのは規制だけで、馬鹿のやる事には全く困ったもんである。先日の「酒鬼薔薇・14才」の時も犯罪おたくの心理学者が、「これはマンガやビデオの影響です。」などと相も変わらずたわけた寝言をぬかしていたが、馬鹿はいつまでたっても馬鹿のまま。少しは進歩しろよ!お前だよ、お前!短絡的で幼稚な坊や、小田晋!よぅく首を洗っとけ!コラ! 「獣人たちの儀式」は退学者や少年院送りになつた生徒、暴走族、ヤクザ達が集まって酒盛りしながら女教師たちをずこずこにしてOB会をひらく不健全作品。編集長が「また危ない作品を・・・」とこぼしたものだが、岡野さん、田舎で元気にお過しでしょうか。この頃の「漫画エロス」には「ケンペーくん」だとか「アリスのお茶会」だとかおもしろい作品が載っていたものです。「爆走遊戯」は伝説のストーカー・ろくでなしマンガ家の早見純が一番好きな作品と言ってくれたが、なぜだかわからない。人の好みはいろいろです。以上3本は単行本「熱き唇の女神」に収録。 「ふしだらな女獣たち」はフェミニストの女二人が美少年をいじめる話。これは「氷の部屋の女」に収録。 ●1 9 9 0 ~ この年の「美蝶」シリーズは『ダンシング・クイーン篇』。マネキン工場跡でJ・ブラウンの「セックス・マシーン」にのせて5人プレイをするシーンや文化祭でのダンスシーン等々結構好きな場面多し。暗くて硬い作品が多いので、この「美蝶」シリーズは肩肘張らずに、かなり軽いノリでキャラクターの動きに任せて、ストーリーも、そして次のコマさえも先の事は何にも考えず、ほとんどアドリブで描いた時もある。 「不死蝶伝説」に続いてシリーズ第2弾「不死蝶」は2誌にまたがって2年位続ける。これも結構お気に入り���一遍。 ●1 9 9 1 ~ 1 9 9 3 「性狩人たち」の近未来版、といった感じの「夜戦士」は学園物が多くなったので、マグナム銃で脳天をぶっとばすようなものが又描きたくなって始めたミニシリーズ。全5話位。松文館より単行本「黒い夜と夢魔の闇」に収録。 この年から知り合いの編集者がレディス・コミックを始める人が多く、依頼されてどうしたものかと思ったが、エロなら何でもやってみよう精神と何か新しい世界が開けるかも、という事から’94位までやってみたものの結果的に不毛の時代に終わる。与えられた素材が体験告白物という事で、非現実的なものは描けないという事は得意技を封印して戦うようなもので苦戦を強いられ、これって内山亜紀氏がやまさき十三原作の人情話を描いたようなミス・マッチングで不発だったかな。今後、もしやることがあれば美少年SMのレディス・コミックのみ。そんな雑誌が出来れば、の話だが。 いくつかやったレディコミの編集の一人「アイリス」の鈴木さんは同じさいとうプロOBで、マンガ・アシスタント、マンガ家、マンガ誌の編集、そして今はマンガ学校の講師、とこれだけ多くのマンガに関わる仕事をしてきた人はあまりいないだろう。これでマンガ評論でもやれば全て制覇だが・・・。 この頃はいつもと同じ位の30~40本の作品を毎年描いていたが、レディコミは一本30~40枚とページが多く結構身体にガタがきた頃で、右手のひじが腱傷炎になり1年以上苦痛が続く。医者通いではさっぱり痛みがひかず、電気針で針灸治療を半年位続けてやっと完治。その後、住んでいたマンションの理事長を押しつけられ、マンション戦争の渦中に巻き込まれひどい目にあう。攻撃するのは楽だが、話をまとめるなどというのは社会生活不適格のダー松には大の苦手で「お前等!わがままばかり言うのはいいかげんにしろー!」と頭をカチ割りたくなるような事ばかりで、ひたすら我慢の日々で血圧がガンガン上がり、病院通いの日々。確実に寿命が5年は縮まる。あの時はマジで人に殺意を抱いたものだが、今でも金属バット持って押しかけて奴等の脳みそをクラッシュしたい気分になる時もある。いつかこの時の事をマンガにしようと思っていて、まだ誰も描いてない「マンション・マンガ」というジャンル、タイトルは「我が闘争」。え?誰も読みたくない? この間に出た単行本は「血を吸う夜」、「赤い月の化身」「熱き唇の女神」[以上・久保書店] /「牝猫の花園」「真夜中の人魚たち」[以上久保書店]、「美蝶/放課後篇」「美蝶/ダンシング・クイーン篇」「不死蝶/鋼鉄の女王篇・上巻」[以上ミリオン出版]。 ●1 9 9 4 ~ 1 9 9 5 ろくでもない事が続くのは厄払いをしなかったせいか、このままここにいたら頭がおかしくなる、と15年以上いたマンションから引っ越し。板橋から巣鴨へ移動し気分一新!以前からうちもやりましょうよ、と言われていた同人誌創りを��のうち、そのうちと伸ばしてきたものの遂に申し込んでしまい、創らざるをえなくなる。しかもそれが引っ越しの時期と重なってしまい大いに後悔する。しかしいろんな人にお願いして何とか一冊でっちあげ、ムシ風呂のような夏コミに初参加。これが運命の分岐点。レディコミもこの年で切り上げ、以下同人街道をまっしぐら。現在まで「FUCK OFF!」が9まで、「FUCK YOU!」が4まで計10+&冊創る。 ’95からダーティ松本の名前にも飽きてきたしJr,Sam名でも描き始める。 レディコミ時代は松本美蝶。あと2つ位違うペンネームも考案中。 この間の単行本「氷の部屋の女」「双子座の戯れ」[久保書店]、「黒い夜と夢魔の闇」[松文館]、「危険な女教師/美蝶」[ミリオン] ●1 9 9 6 ~ 美少女路線の絵柄もこの年の「夜顔武闘伝」あたりでほぼ完成、今後また少し変化させる予定。しかしこの作品は超能力、アマゾネス、忍法エロマンガとでも呼ぶべきか。「グラップラー刃牙」みたいに闘技場での勝ち抜き性武道合戦までいきたかったけれど、残念ながらたどり着けず。 「冬の堕天使」は久しぶりの吸血鬼もの。都営住宅で生活保護をうけている吸血鬼母子のイメージが浮かび、そこから漫画家協会・加藤芳郎を撃つ有害図書騒動のマンガへ。吸血鬼少年が光の世界との戦いに旅立つまでを描き、「闇に潜みし者」は時空を越えて近未来での戦い。その間を描く作品を今後創らなければ。 「FUCK CITY 2006」はクソ溜めと化した近未来のTOKYOを舞台に久しぶりにダーティ・バイオレンスが炸裂!ハード・エロ劇画と同人誌風・美少女路線の合体は果たしてうまくいったかどうか?30ページほど描き足して、’97、9月にフランス書院のコミック文庫にて発売。[「少女水中花」] 「放課後の媚娼女」と「人形愛」刊行。[いずれも久保書店刊]前者は以前、上下巻だったのを一冊にまとめて。後者は近作を集めた同人時代を経ての初単行本で、同人誌を知らなかった読者はショックを受ける。メタルフアンから以下のようなお手紙を受け取る。「これはジューダス・プリーストの『ターボ』だ。ラストの『眠れる森の少女』は『レックレス』にあたる。しかしジューダスもその後『ラム・イット・ダウン』や『ペイン・キラー』という傑作を世に出した事だし、今後を期待したい」という意のダー松のようなメタルファン以外は意味不明の激励をうける。 ●1 9 9 7 同人誌「エロス大百科シリーズ」スタート!いろんな項目別に年2刊づつ計100ページ位を別刊シリーズとして出し続ければ10年で1000ページになり、以前「谷岡ヤ��ジ1000ページ」という枕に最適の本があったが、これも一冊にまとめて枕にして寝れば、目覚める頃は3回夢精しているなんて事に・・・などとまだたった40ページの段階で言っても何の説得力もないか。飽きたら2~3号でSTOPするだろうし・・。[推測通り「毛剃り」「美少年SM」「女装」3号でストップ中]冬にはやおい系にも進出の予定。 今年出した単行本は厚くて濃いエロマンガを集めた久保書店MAXシリーズ第2弾!「放課後の熱い祭り/完全版」と「夜顔武闘伝」オークラ出版。ともに大幅描き足して25周年記念出版として刊行。ティーツー出版よりJr,Sam名で「昼下がりの少女」、9月にはフランス書院より「少女水中花」の文庫本が出る予定で現在、この同人誌と並行して描き足し中。「斬姦狂死郎」第2部も「ホリディ・COMIC」誌にて6月よりスタート!年内創刊予定の『腐肉クラブ』なる死体姦専門のマンガ誌にも執筆予定。 さてさて25年間、旅行の時を除いて、現在まで2日続けてマンガを描かなかった事はほとんどない。これはその昔、伊東元気氏というマンガ家とお会いしたとき「今月何ページ描いた?」との問いに、「今月仕事ないんでぜんぜん描いてません」と答えたら、「そんな事じゃ駄目だ。仕事があろうがなかろうが、毎月100頁は描かなきゃ。」と言われ、以後その教えを守り[描けるページ数は減ったが]、マンガは仕事ではなくなり、朝起きたら顔を洗うのと同じで生活そのものとなり現在に至る。 今は何でも描けそうなハイな状態で、以前はたまには外出しないと煮詰まってしまうので週いち位ガス抜きをしていたものだが、最近はせいぜい月いち休めば十分の「純エロマンガ体」。[純粋にエロマンガを描くためだけの肉体、の意。ダー松の造語] こうしてふり返ると、この路線はまだえぐり足りない、これはあと数回描くべし、なぜこれを一度しか描かない!等々、残り時間にやるべき事、やりたい事の何と多い事! 爆裂昇天のその日まで・・・ 燃 え よ ペ ン ! なお続きは 1997年後期 1998年 INDEX
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2021.3.30tue_Hokkaido
誰も止めてない日記を、自分が止めてしまわないだろうか、、うわあなんかこええええうおおおと ここに日記を書く誰もが一瞬よぎるのでは、、、いや、事前によぎりまくる人は断っているのかも、という思いがホワホワ浮かびながら今日を迎えました。今日は2021年の3月30日です。
私は今、北海道の端っこのみずうみのそばに住んでいる。 みずうみにはさんかくの山を連ねた中島という島と白鳥が浮かんでいます。 と書くとえらくメルヘンな感じですが、実際に最寄りのバス停やコンビニよりも近くに湖がまずあり、 徒歩圏内が国立公園という立地で、いやほとんど国立公園の中に住んでいるようなものかもしれません。
ここらは温泉も湧いていて対岸には活火山がありその裾野に温泉街があり、小さな温泉宿から一大リゾートまでが並び、春から秋にかけては毎晩花火が上がるような観光地や別荘地でもあるのだけれど、私が暮らしている地域はそのよそゆき旅気分から外れた地味な地域で、ハレとケでいうとケのほう。 今やみずうみは日常の風景でありシラフで眺める「いつものやつ」「お馴染みのアレ」です。 夕方16時にはひとけがなく、もちろんお店ももう閉まっている。散歩している人を見かけてもまばらで、だいぶディスタンスあり。コロナ以前から密とは無縁。たまに人と会わなすぎてちょっと心細いほど。 つまりは「最高の景色はありますけどまあまあの田舎」環境で生活している。
その昔、渋谷区に住んでいた。東京のまあまあど真ん中。 当時の住まいは明治通りから少し入ったところにあったので、最寄りの駅はJR恵比寿駅か東京メトロ日比谷線の広尾駅だった。住んでいたのは超ボロ家だったのに住所が立派すぎてしかも戸建住所だったから、住んでいる場所を誰かに聞かれた時、タクシーの運転手さんに広尾で下ろしてくださいと伝える時、気まずいくらいだった。20代の頃のこと。 電車に乗るより早く着くので、当時は銀座にも六本木にも表参道にも自転車でひょいひょいと出かけていた。 ホームセンターが大好きなのに都会すぎてジョイフル本田やコーナンなどは遠く、ネジひとつを買うにも渋谷の東急ハンズに行く方が近かった(もちろん自転車でセンター街を走り抜けてました)。 電車に乗るのは山手線の反対側の日暮里に布を買いに行く時か青春18切符で旅に出るときか、空港に行く時だけだったように思う。
思えば遠くに来たもんだ。 遠くっていうか、はずれっていうか。どんどん枠外に向かうこのくせはなんなのだろう。 寄り道というより、いつだってはぐれがちです。
毎日窓の外に見えるのはみずうみだけ。 そして背後には山林を背負っているので、正確には「みずうみの見える山暮らし」をしている。 名も無い山の中腹に建っていた中途半端な古家を改装し、オットとムスメと家族3人と湖畔で保護した猫1匹で生活している。 ここに居る本人たち及び本猫は楽しく暮らしていることは確かなのだけれど、 たまになんでここにいるんだっけ?とぽかんとすることがある。 ここは、別に地元ですらない。 移住というような大きな計画性や苦楽の物話を伴う��もなく、もっと軽率で野生の勘的な何か、というぼんやりした手がかりだけでここに辿り着きました、すいません。というのが正直な心情だ。 東京からUターンして地元の札幌に6年住んで、てんやわんやで子育てしながらお店まで開いたものの、そしてそこそこ順調だったのに店を閉めてまでとくに縁もない小さな町にすべりこんだ。札幌の街もお店もとても愛していたのに。
この町に越してきて最初は町が用意してくれた綺麗めの公営住宅に住んでいたものの、同じ町のさらに小さな集落の、山のどんづまりに建つ改装途中の家に移って寝泊まりし食事を作りはじめ、娘は山から学校に通い、我ら夫婦は山でデザインの仕事を続け、ミシンを踏んだり、床を貼ったり、合間に薪を割ったり水を汲んだり、これを書いたりしている。 我ながらはぐれすぎかもしれぬ、、、ねえ何してるの。と思う。
トイレを設置し、ネットや電気、ガスも通したけれど、肝心の上下水道は通っていないので、飲み水は違う山へ美味しい湧き水を2週間おきに汲みに行く。生活用水はお隣のおばあちゃんが同じ山の上から引いている水を使わせてもらっている。それもタンクで汲み、キッチンに運ぶ。これは毎日2〜3往復くらい。 給湯はコンロかストーブで。風呂と洗濯はいちいち山から下りて、公営住宅で。 という、ライフラインすらも欠けている家で、キャンプや田舎暮らしが大の得意ってわけでもない小さな家族が暮らすにはそもそも荷が重いはずなのに。 いつも「一般」からはぐれていくし、みんなの当たり前と自分たちの当たり前はズレている気がするし(何しろ蛇口をひねって水が出るってスゴイわあ、の地点に居ます)、でも「ふつう」という物差しももうよくわからない時世だし、何に軸を���わせるのかって言ったら山で暮らしている自分たちに合わせた生活や仕事をつくっていくしかなく、「ないことに慣れる」もしくは「ないならつくる」ほうがなんだか落ち着くようになった。自力であかりを灯せたら、どこに行っても楽しく暮らせるんじゃないかなとも思うようになりました。
ここで生きるスキルを上げるほうが良くね?この環境に沿う生活と自分たちを一致させていくほうが面白くて実は効率が良くね?という気に、だんだんなってきたのかもしれません。 頭の中と性質は歳をとってもさほど変わっていないのに、居場所はこんなに大きく変わって、これから自分たちはさらにどこまではぐれていくのかなあと思う。怖いような楽しみなような。
さて、この数日でやっと雪が解けたから、午後は歩いて山を降りて(下山)、娘のお友達のお家へ届け物に行こう。 そしてきらきら光るみずうみを眺めてから、坂道をゆっくり帰って来よう。 オットは明日、次の冬に備えて薪仕事の師匠と、間伐兼原木から薪集めするそうだ。おじいさんは山に芝刈りに、、、をも越えて、背後の山の中の樹を切り倒すらしい。ちなみにオットは木こりではなくグラフィックデザイナーです。 我ながらはぐれすぎかもしれぬ、、(以下略)。明日も晴れますように。
-プロフィール- 青山 吏枝 だいたい42歳 Toya,Hokkaido drop aroundデザイナー www.droparound.com @droparound_mw
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西表島にて、2020
皆さんこんにちは、ご機嫌いかがでしょうか?初めまして、初書きこの新入部員のテラヤマです。本来このブログはもっと早く公開させるべきものでした。公開が遅れた理由は私がそういう(ダラける)性質の人間であるという一言で説明できるでしょう。すみませんでした。それはさておいて、このブログで報告する活動内容は2月14日から18日の5日間かけて訪れた西表島遠征についての報告です。これはちっひによる声掛けにより、西表島で滝やマングローブをはじめとする広大で偉大な自然に触れ感動を味わいたいとの旨を抱き、ちっひ、小松、馬場、ソラ、イクロー、そして私テラヤマの6人の部員が集まり、知られざる新たなジャングル島に踏み入れ冒険するというお話です。 大まかな日程は、成田~石垣へ約3時間のフライトand ルートビア飲み放題決戦、2日目は石垣港より西表島までフェリーで約1時間の移動、ユツン川を上り滝上を目指す。3日目はイクロー合流、メインイベントであるカヤックでマングローブを見ながらツーリングandからピナイサーラの滝を目指す。4日目は浦内川を上り、マリュドの滝、カンピレーの滝を見に行くこと、そして最終日5日目は石垣島に戻り、各自観光し、22:30頃に成田着で解散。この大まかな行程計画の時制に基づき個人的に印象に残っていることを好きなように書き込んでいきたいと思います。どうかよろしくお願いします。※この文章は標準語で書かれています。
1日目 本来は12:30に集合だったのですがトラブルにより私がが遅れてしまいました。本当にひやひやしました。でも天候にも左右されずに無事南国に向け、飛行機は無事離陸しました。ついたのは18:30頃、さっそく外に出て感じたのはとにかく蒸し暑かったということ、それは北国出身の私にとっては言葉が通じる外国に来た気分でしてたが同時になんか心地悪かった。その後バス移動で石垣港へ・・・その周辺で夕食を兼ねた探検部の伝統行事が開催された。その名もルートビア飲み放題決戦、それはA&Wというローカルのファストフード店にて繰り広げられる根ビール(ルートビア)を一番飲めるやつを決めようという行事だ。特別な褒章はない。実はそのお店ルートビアが一度頼むと飲み放題!てなわけで各々立派なハンバーガーを片手に決しておいしくもないシップのにおいがしてちょっとバニラが香るコーラのような飲み物をぐびぐび飲み嫌な顔を随時見せるのだ。何がいいのか?これぞ若気の至りである。参考記録ではあるが前回大会では柴倉先輩が7杯を飲み干し優勝したらしい。その結果をたった1杯上回った馬場君が8杯で優勝、探検部記録を更新したが彼をはじめ他の部員も激しい頭痛などにより元気がなかったように思える。
みなさんお疲れ様でした。その後その晩は近くの公園でテントを立てて寝ました。 2日目 この日はフェリーの時間の関係で6時過ぎには宿泊していた公園を出発し港へ、その後1時間弱かけて西表島に向かいました。天候には恵まれているものの、高波というのもあって私は軽く船酔いをしてしまいました。
8時ころにようやく我々は東京から約2000キロ離れた西表島に上陸しました。西表島は島の半分以上が森林で囲まれており、エネルギッシュな滝や美しい海などの自然の他にもイリオモテヤマネコをはじめとする特別な生態系が存在する亜熱帯気候の島だそうです。この日のメインイベントはユツン川をトレッキングしながら登り落差が約30メートルあり、通称3段の滝とも呼ばれているユツンの滝を目指し、そこで自然の持つエネルギーを分け与えてもらうというものでした。港からバスに乗り、最寄りのバス停で下車しそこから40分ほど歩き川の入口に到着。準備完了、そこからいよいよ冒険が幕を開けました.
入山道を進んでいくにつれて普段の活動では見られないような亜熱帯性の植物やたまにひょ���っと姿を見せてくれる色鮮やかなトカゲなどに魅了されながら歩くこと約1時間、水が地にはねる音が徐々にはっきり聞こえるようになってきました。
隊員の皆が目標点に近づくにつれてテンション上がりまくり!道中での疲れが嘘みたいにうかがえなくなりました。
そしてついに目の前には名の通り3段に連なった落差が高い滝、個人的に人生ではこの滝よりも高く迫力のある滝を見たことはありました。しかし、晴れ上がった空に透き通りせせらぎを聞かせる水、本州とは季節違いの力強い緑の森、こんなにも絶対条件がそろった環境で見た滝は絶品でした。
せっかくなので隊員らは滝下に潜り込み水を存分に浴びたり、
滝上を目指していました。滝上ではイメージ通りの青い海が望むことができたり、
実際の滝の落差を見るなど非日常を存分に楽しむことができたと思います。
その後来た道を戻り、最寄りのバス停まで歩きバスに乗車、するとさっき乗せてくれた運転手で自称秋田県カリフォルニア州出身のファンキーなおっちゃんアゲイン。目的地までの乗車時間が長かったこともあり会話が生まれすぐに打ち解けることに成功!楽しいお話をありがとう!旅や遠征は人との交流があるからこそ面白いのか?と思うようになったきっかけになってくれました。下車後買い物を済ませた。この日はミトレアキャンプ場にてちっひによるコンビーフ入りのゴーヤチャンプルを食べて就寝、
施設はまるで屋根のないホテル同然と言えるくらいの充実してました。よく寝られました。
3日目 この日はカヤックに乗りながらマングローブを見た後途中でカヤックを降りてピナイサーラの滝を見に行くというのが計画でした。朝キャンプ場を出て、育朗君と待ち合わせをしました。実は彼、スケジュールの把握ミスで前代未聞の離島での合流、んでやねん!しっかりしてくださいね!彼と合流したのちの指定された場所でロビンソンの赤い車を待っていました。ロビンソンとはカヤックなどのレンタルショップ「ロビンソン小屋」を営み、過去には水曜どうに出演したこともある名物爺である。
ロビンソン小屋のハナさん(左)とロビンソンさん(右)
出典 https://makimaki13.hatenablog.com/entries/2011/07/1
あいにくにも天候は雨、そんな中彼の赤い車を待っているとロビンソン向来、ハンサムでよくしゃべる陽気なおじさんというのが第一印象でした。小屋まで我々隊員を送迎している途中、人生初脱輪をかましたり、相方のハナちゃんに圧倒されていたりとお茶目でカワイイなんて思ってました。
その後出発地点にでカヤックに乗り込み川を漕ぎ上がり開始した。天候は風雨で最悪である。漕いでも流される、本来の目的はきれいなマングローブを間近で見ることだったはずだが・・・必死で漕いでようやく終着点に到着、その後熱帯雨林をかけて滝を目指し1時間ほど歩きました。
悪天候であったがために非常に歩きにくく、イライラしていました。もしこれが観光だったらマジで最悪です。だけど突然これが冒険や探検である以上最高のスリルとコンディションだったのではないでしょうか?(私だけ?)そんなスリリングな道中を進むこと約1時間、轟音をたてる滝が目の前に立ちはだかっていました。 これがピナイサーラの滝なのです。
ピナイサーラは落差が54mと沖縄県内で最も落差がある滝であり、名の由来は顎鬚(ピナイ)が下がった(サーラ)ように見えるからということみたいです。つまり長い顎鬚のようだということでしょう。素敵なネーミングセンスだと思いませんか?知っての通りこの日は風雨、そのため増水し、水量が多く普段以上の迫力が感じられました。
私たちはあくまでも探検隊なので滝を見物して終わるわけにはいきません。
隊員たちはみな滝下の岩をよじ登り一番水が強く多く当たるところを探し命がけで水浴びに出ました。これ以上人生で水を浴びるために緊張したことはありませんでした。ようやく一番水が当たる場所に到達しホットしていると、 瞬く間にあり得ない勢いで圧力が真上に振ってきました。
びっくりするほど痛かったですが、爽快感は天候に恵まれていなくてもマジ半端なかったんすよ。レベルの高い非日常的経験ができたことで自然の大いなる豊かさを体感できたと思います。超気持ちよかった!! 気分が晴れ晴れとした隊員たちは雨の中さらに滝上を目指しさらに上りました。到着いてみると一見普通のゆるい瀬でしたが、地上が見えるところまで行き覗くと落差が激しく迫力がありました。
滝上では、流れる水の上で横にあるものもいれば、
大きな上海蟹を見つけるもの
眼鏡を落として焦っているものも1名いましたが運よくイクロー君が見つけてくれました。ありがとう。
ここでの私が思う探検部的収穫は大きめの上海ガニ(通称)1匹、黒い眼鏡1個、そして豊かな自然が見せつけるスリルの3つ。面白い収穫ができたと思います。 その後ロビンソンとお別れし、再びミトレアキャンプ場で取った蟹入りの鍋で体を温め、
部長&副部長コンビ
小松先輩の美しい雄姿
焚火をして就寝しました。 この日の活動で私が大きく感じたのは悪天候でのアウトドア活動は確かにリスクがあり気分も上がりにくいもです。しかし考え方を少し変えるだけでなんだかすごく楽しくなってくるということです。だからこの日は悪天候でもすごく楽しい探検ができて印象に残る日になりました。自然が与えてくれる可能性は無限大です。だからみなさん、ぜひ外に出ていきましょう!もし良ければ一緒に!
4日目 4日目は西表島を代表する川である浦内川を遊覧船で途中まで上り、下船後、マリュドの滝、カンピレーの滝の2つを見に行く計画でした。この日の天候は曇り8時までにはバスに乗り込み、チケットを購入して浦内川遊覧開始!浦内川は延長18.8㎞の県内最長の川でありで数多く種類のマングローブやマリュドの滝、カンピレーの滝が見られる二級河川だそうだ。またウラウチフエダイなどをはじめとする珍しい魚がたくさん見られる貴重な川でもあるそうです。色黒でロン毛のちょいと口調に癖がある船上スタッフの解説に耳を傾け川を上り始めました。彼の解説の中で、実はマングローブという植物は存在しないということ、昔は水田があったことなどといった意外な事実を教えてくれたことが非常に印象に残っています。約30分の乗船後、30分のトレッキングでようやくマリュドの滝を見ることができました。
名前の由来は丸い淀みというところから名付けられたそうで、その淀みの中にはサメが存在するといった伝説もあるそうで、非常に夢とロマンがある淀みだなぁと思いました。遠くから見たというのもあってそんなに迫力は感じられませんでした。しかしいつかはそのサメを見てやろうと思います。その後今度は2つ目の滝、カンピレーの滝に到着しました。
滝自体はそんなに大きなものではありませんでした。しかし周りには無数の甌穴がありました。 ほとんどがきれいな円形状をしたものでした。
また中にはとてもきれいな形をしたハート形の甌穴を発見! それもそのはず、このカンピレーの名前は神々が交流する場所、座る場所ということからの由来のようで実際女神を招いたという伝承があるそうです。もしかするとこれを見た隊員にもより楽しい日々が近いうちに訪れるかもしれない。
そう思わせるような非常に神聖な場所なのだと思います。本来はこの先の険しい道を上りマヤグスクに拝みに行く予定でしたが、時間の関係上カット。 道中のブランコに揺られる通称ちひろ、ハートが見れてよかったですね 今度は同じ浦内川でもマヤグスクに行くという一つの課題ができたので近いうちにチャレンジしてみたいと思います。もし行く機会があれば、ぜひハート上の甌穴を探して自分の運命をを期待しましょう!ご一緒に!
天然のブランコに乗る通称ちひろ、ハート形見れてよかったね!?
この日の宿泊先は急遽の変更で日本最西端である豊原バス停から歩いて40分のところに位置する南風見田キャンプ場、
最西端でっす!ちなみに私は本州最北端の県出身ですバス停でまた例のあの運転手とお別れしてから結構歩きましたが途中で夕日が沈む海やヤギ
見慣れない植物に触れながら歩いてキャンプ場を目指しました。
到着後キャンプ場の火場でタコライスを作る隊員たちがいる一方で場内の五右衛門風呂を一人で沸かす馬場君、
出来上がったタコライスは前回の反省を生かしてしっかりレタスが加わったことで非常においしく食べることができました。
一方火場で温まってしまったせいか、涙を流しながらも沸かしたお風呂に馬場君以外が入浴を拒否、かわいそうでした。ごめんなさい。
夜、時間が経つにつれて野郎たちは酒に飢えたのかまさかの白湯で飲み会をはじめ出しました。私の予想とは裏腹に相当盛り上がってしまいました。アルコールなしで盛り上げられるのは一種の才能かもしれない。そんな楽しい宴の一方、ちっひと小松先輩ら女子たち明日以降のスケジュールの調整に精を出していました。さすがだと関心してしまいましたが任せっきりの男性陣はもっと積極的な関わり合いをするべきだったと反省します、私も含めて。この日は居合わせたイタリア人女性ともお話ができてうれしかったです。やはり知らない人やものやことと関わるのは楽しいと改めて感じた瞬間でした。人間は常に���激を求める動物なのである。
5日目 最終日 とうとう最終日に差し掛かりました。この日の夜にはもう東京にいるなんて信じられなかったです。この日はキャンプ場を出て例のバス運転手が紹介してくれた忘れな石、バスで港へ向かい石垣島へ戻り観光し、その後空港に向かい夕方沖縄を離れるという計画でした。 朝準備が完了しバス停との中間距離に位置する忘れな石を訪れました。
今はきれいな海が臨んでおり有名な散策スポットになっています。忘れな石とは戦時中、奥に見える波照間島の島民が強制移住させられた地であり、当時マラリアが流行していたその場所で3分の2もの人が命を落としてしまったという負の遺産を忘れることなく継承していこうということが一つの目的だそうです。そんな今は朝日が差しこむ輝く海の周りを散策している私たち、少しは平和に対する関心を持つべきだと考えさせられました。静かで波の音が心地よい場所、素敵でした。
バスに乗り込み港へ、そこから正午前に西表島を離れました。
石垣島では皆が一緒にご飯を食べ、その後各自観光
女子チームの観光の様子
石垣島での観光を終えてお土産を手にし・・・ 飛行機に乗り込み完了。機内にて、気持ちわりぃ、今冷静にこのアングルから見ると
帰京したのは22:00過ぎ、西表島とは反対に都会では帰りの電車やバスに乗ろうと急いでいる人々の様子がうかがえました。私個人としてはそんな後者よりもやはり前者のような時間の流れがゆったりと感じられる環境が幸せだと感じるなぁと改めて確認することができました。最後は電車が遅れたりして最後まで疲れ切ったと思いますが何とか皆無事に帰宅ができたようで安心しました。企画者をはじめとする隊員、お疲れさまでした。そしてありがとうございました。 今回こうして偉大なジャングル島で自然に触れ、様々な価値観や経験ができたことはこれからの人生において大きなアドバンテージになったと思っています。また本来の企画が予定通りいかなかったという点は結構ありましたが、それをカバーするだけの代案の提案、柔軟な対応、理解ができていたことに大きな成長を感じることができさらに隊員のレベルアップがこれから期待できると信じてます。これからも「非日常的体験」を追求していきたいと思います。「西表島にて」以上で完。 テラヤマがお伝えしました。
※この文章は訛っていません。標準語で書かれていました。
第1回テラヤマ的 オ・マ・ケ 西表島編
最終日、バス停での最高で最低な髪形 メイビーインスパイアド バイ 布袋寅泰? 彼には尊敬するミヤジに似てると言ってやってくださいね!
選考理由 とにかく彼らしく逞しいという点と良きムードメーカーだったため So kakkoii! お読みいただきありがとうございました!
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)5月16日(月曜日)弐
通巻第7335号
中国大都市ロックダウン続き、サプライチェーンはズタズタ
22年度GDP成長は3・9%と親中派の野村證券、IMFは4・3%
************************
有力シンクタンクの中国経済予測が出そろった。
全人代において李克強首相の掲げたGDP成長目標は5・5%だった。親中路線の野村證券が3・9%と最低、UBSが4.2%,ゴールドマンサックスは4.3%、そしてIMFは4・4%と、いずれも中国の公式目標より低い。
第一はロシアのウクライナ侵攻で西側のロシア経済制裁がじわり、中国に悪影響を及ぼし、ここに原油高、穀物高騰が加わる。ましてや米国の制裁が継続していて、経済は下降速度を増した。
食品は8%程度の値上がりとなっている。
第二に武漢肺炎の変異株が猛威を振るい、深セン、上海メガロポリス、西安、武漢、東北三省(とりわけ吉林省)の諸都市がロックダウンされた。
上海メガロポリスだけでも2500万人が不自由な生活を強いられ、六週間に亘るロックダウンは習近平への不満の声となって静かに市民の胸底に体積した。
流通、商業活動が止まり、食糧不足、係官の横暴、工場休業となって道路はがら空き、逆に上海港などで沖合待ち一ヶ月以上。対米輸出航路は平均で74日間の遅れを出している。港湾労働者も不足し、膨大なコンテナの処理が円滑にいかない。上海および無錫、杭州、蘇州などで外国企業の工場閉鎖は七割近く、生産、販売が劇的に落ち込んでいる。
あまつさえ吉林省と国境を接する北朝鮮で発熱が一晩に17万人とか、四月末から五月半ばまで52万人がいきなり感染し、死者もうなぎ登り、中国製のワクチンは効き目がなく、中国東北地方の経済回復は望み薄となった。
第三がサプライチェーン中断により、部品も調達できず、操業を再開しても、労働者は工場宿泊となるため出社率が悪い。生産ラインが止まったままである。テスラもトヨタもライン再開はかけ声だけ。
もっとも深刻な影響は95%のスマホを中国で生産するアップルで、納期遅れが2ヶ月。
アップルは上海、昆山、鄭州、成都、重慶、深センにiPhone工場があり、およそ95%が中国生産だ。それも委託生産しているのは鵬海精密工業(FOXCON)、ペガトロン、広達(グアンダ)電脳、コンパルなどである。とくにグアンダは、六月前までの生産再開は絶望視されている。
上海都市封鎖は外国企業に深刻な影響だが、中国企業とて例外ではなく、鳴り物入りだった半導体自制のSMIC(中芯国際集成電路)は納品遅れ、工場の拡張どころで名なくなった。
GAFAMの時価総額は25%の大暴落、世界の株式市場からGAFAMの時価総額360兆円が蒸発した(21年末の10兆ドルから22年5月11日は7・4兆ドルに)。アップルは世界株式時価総額トップをアラムコに譲ることとなった。小誌が予測してきたように「さようなら、GAFAM」の季節がやってきた。
四月の人民元建ての銀行貸し出しは17兆円台に留まって、じつに72%減。資金需要も消えたのである。
▲ピョートル大帝を尊敬するプーチンと永楽帝をめざす習近平と
こうした逆境のなかで気を吐くのが中露貿易だ。
制裁に加わらないばかりかロシア支援を強める中国は石油とガスをロシアから安く買いたたき、パイプライン加えて、トラックと鉄道輸送。また食品や機械、雑貨をロシアへ輸出している。船舶が利用できなくてもユーラシアを横断する陸のシルクロード=「鉄道」輸送が強みを発揮しており、「コンテナ鉄道」は重慶から2011年にドイツへと開通以来、武漢、成都、鄭州、西安から欧州23ケ国をつなぐ。大半がモスクワ経由である。
積み荷は食品、衣料品、医薬品、自動車部品、雑貨などとされるがコンテナに武器を積み込みロシア支援に活用しているようである。
とくに機関銃や弾丸、戦車、自走砲の部品などは偵察衛星の監査から漏れる。
プーチンはピョートル大帝とエカテリーナ女帝の再来を夢想するナショナリズムの強烈な帝国主義を目ざす。プーチンはスターリン、レーニンを問題視していない。
一方、習近平は毛沢東に憧れ、中華民族の夢を豪語してやまないが、それは明の永楽帝が築いた最大版図の回復を実現することであり、台湾ばかりか、尖閣諸島奪取という途方もない野心を研いでいる。
これまで中国はソ連時代からロシアを『兄貴分』としてきたが、ウクライナ情勢で立場を逆転させた。ロシアは弟分、中国が兄貴分で兄弟の杯は、やり直しとなるだろう。
ロシアのGDPは中国の十分の一以下であり、ロシアが誇った武器、宇宙船なども中国が技術をもぎ取った。
だがしかしプーチンは面子にかけても決して習近平の風下に立つことはない。したがって中国台頭への心理的反作用はますます欧米への挑発行為をエスカレートさせる危険性がある。
苛立ちとストレスはすでにプーチンの表情からも読み折れるほどにロシアは反動バネで、より挑発的な姿勢に傾きかねないのである。
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【日本100名城】【滋賀-彥根市旅遊】2017年大河劇「女城主 直虎」紀行,日本五大國寶城「彥根城」. 彥根喵七連拍
【 旅遊部落客專欄 / 小虎】
在日本47個州道府縣中,滋賀是目前我沒去過的四個縣其中之一;而滋賀我最想去的景點也非日本五大國寶城「彥根城」莫屬,雖然我更想看到、拍到日本三大櫻花城的「彥根城」,但可以追隨2017年大河劇「女城主 直虎」紀行的腳步,也是日本戰國迷的一大樂事。
彥根城最佳的旅遊景點非櫻花季不可,整個護城河上滿滿的櫻花,如果時間挑的好,整個護城河都是櫻花落瓣,美得亂七八糟。
借了好朋友郭小寶的照片給大家聞香一下,這城也是他一直推薦我要去的,除了櫻花多又美外,人潮也不像關西許多賞櫻景點那麼多人。
彥根城是日本五大國寶城,也是僅存的四座木造城堡之一,又名金龜城,是德川四天王之一的井伊直政領功後計劃建造,但1602年直政過世,長子井伊直勝(又名直繼)繼承父業,在1603年,彥根城才開始動工興築,1605年,城堡本體大至具有規模後,直勝才率領家屬與家臣進駐。
1614年,井伊直勝的弟弟井伊直孝由於兄長病弱,正式成為彥根城的第二代藩主。在1616年直孝開始進行外廓擴張的工程,並將城廓改造的更為堅固,且增建了御殿。彥根城約在1622年正式完工,一共花了近20年的建造時間。
只要對日本城稍有研究就會知道,日本戰國以來的城池除了毀於戰火外,大半數被拆於1871-1873年間的「廢城令」,除了唯一幸免於難的「姬路城」外,彥根城自然也不例外。BUT,彥根城在1878年,被當時的內閣總理大臣,大隈重信將彥根城從廢城清單中移除,並著手整修工程,也免去了彥根城被拍賣於民間的悲劇。並且在1951年的6月9日,整修之後保存良好的彥根城被指定為國家的特別史蹟,比知名的姬路城早了5年。
說到彥根城有兩號人物不得不提,其中自然是前頭提過德川四大天王的「井伊直政」,另一位則是日本末代藩主之一的「井伊直弼」,其子井伊直憲是彥根城最後一代城主。至於2017年NHK大河劇的主角「井伊直虎」井伊直政的堂姑及養母,據說也是日本第一個女性領主。
井伊直政為德川家重要的家臣之一,父親是遠江國人眾,今川氏家臣井伊直親。幼名是虎松及萬千代,官位是從四位下、兵部大輔、侍從。德川四天王和德川十六神將之一。是彥根藩(佐和山藩)的藩祖,眾多譜代大名中,石高收入最多。
後來爆發本能寺之變,因明智光秀謀反,當時在信長領地的直政陪伴家康等人安全地從堺重返三河國。後來直政從投降德川的武田遺臣當中,將武田家山縣昌景的赤備再次編成部隊,並引進武田軍的兵法,從此赤備成為井伊軍的象徵。
井伊直弼是彥根藩第十五代藩主,也是江戶幕府的大老在幕末、明治維新初期有著舉足輕重的地步,即便他的歷史地位毀譽參半。其一生最重要的三件事「安政大獄」、「日美修好通商條約」和讓他身首異處的「櫻田門外之變」。而他對於彥根藩最大的貢獻則是幕末一連串的改革和變法,在當時也有一派人稱他為「名君」。
江戶幕末在武士中推薦所謂的「尊王攘夷」基本上屬於相對鎖國的政策和井伊直弼等派主張的開國有著激烈的衝突,1858在其主導的安政條約(日美修好通商條約),分別與美國、荷蘭、俄國、英國、法國簽訂的不平等條約,在當時被稱為賣國賊,當然也有另一派的說法是他的開放讓日本有了重生的機會。但不管是「安政大獄」的翦除異己,還是賣國求榮的「日美修好通商條約」���都為他種下「「櫻田門外之變」的殺身之禍,進而結束了他充滿傳奇的一生。
歷史有時是要時間去證明其對於錯,即便對錯之間也全在於個人的主觀認知之上。
彥根城的月亮是琵琶湖八景:
1:「暁霧」-海津大崎の岩礁
2:「涼風」-雄松崎の白汀
3:「煙雨」-比叡の樹林
4:「夕陽」-瀬田石山の清流
5:「新雪」-賤ケ岳の大観
6:「深緑」-竹生島の沈影
7:「月明」-彦根の古城
8:「春色」-安土八幡の水郷
橋頭的入城處放著彥根市吉祥物彥根喵的出場時間表,想要一賭其可愛貌的遊客千萬要記住每場出場的時間表。
彥根城博物館是以復原江戶時代彥根藩政廳的表御殿,同時兼具博物館功能而設計建造的,於昭和62年(1987年)2月11日紀念市制50周年時開館。彥根是以彥根城為中心,繁榮的城下町,孕育了悠久的歷史、文化。在彥根的歷代藩主井伊家據傳保有大量反映這些歷史文化的美術工藝品和古文書等。其數量約達4萬5千件,包括象徵武士的盔甲、刀劍,還有能樂面具、能樂裝束、雅樂樂器、茶具、家具以及書籍、繪畫等,涉及各個領域。此外,還藏有彥根以及彥根藩的相關資料。
彥根城的建築有一個特別的地方,因為建城初期連年戰亂,此木造城堡的建材多由一些殘破的城守拆替而來,如西之丸的三重櫓台建材來自淺井長政的小谷城,天平櫓台建材來自豐臣秀吉的長濱城,太鼓門建材來自石田三成的佐和山城,天守閣建材則來自大津城的天守,也算是彥根城不同於別城的特色之一。
基本上彥根城算是平山城,所以算是相當好走,除了這一段小石梯外,幸得兩旁種植了巨大的櫻花等樹,散起步來算是清涼,即便是炎炎夏日。
從門口到城前走得快不到十分鐘可達,小路兩旁有許多可供休息的木椅,其間茶屋、冰室也提供了遊客休息消暑的選擇。
當然,也少不了買紀念品的小商店,走累了不妨進去參觀參觀,帶隻可愛的彥根喵回家吧!
鐘樓可能是我在日本城中相對比較少見的,特別查了一下它叫「太鼓門櫓」,這太鼓門櫓的建材則是回收自石田三成的佐和山城。有人說是因為在櫓內放置著太鼓,其太鼓聲音響亮,可以傳遞至很遠的地方去,因此得名。
彥根城列入日本文化財產的建物分別為:
國寶-天守、附櫓及多聞櫓
國家指定的重要文化財產有
天秤櫓
太鼓門及續櫓
西之丸三重櫓及續櫓
二之丸佐和口多聞櫓
馬屋
其中這座天守閣前的廊下橋國寶之一哦,這木橋在日本城中也算是相當相當少見的。
不過,猜想當初建它的功用應該也是防御之用吧,危險之餘也許可以斷橋求生?也利於守城、籠城之戰?
過了廊下橋便是天守閣前的廣場;廣場前有一個供遊客一起拍照的彥根喵人偶板,但我怎覺得有一點弱....。
天守閣前有一株櫻花相傳和築城的井伊直政有緊不可分的關系。
一般來說天守閣的入口都在正前方,少見像這樣從側面建了一個通道連結,感覺上像是從後門進出,特別有趣。
天守閣的內部上梁都是彎曲的,這也是木造古老天守的特色之一,一進天守閣就可以聞到淡淡的木頭香味。
一般來說在天守閣的四邊都會建立許多防禦工事用的箭孔,但彥根城的卻是鐵炮狹間���這可能和彥根建城較晚有關。
武者溜初看這個名字以為這木窗是武者落跑的地方XD,查了一下知,所謂的武者溜是武士守城、作戰待命的地方,也可以解釋成武者觀看外面戰況地方,這個建築方式僅存的十二天守閣都能看到。
以小虎到過七八個十二天守的經驗,這些僅存留下的老城多半都非常的陡...據說也是為了容易、方便守城和御敵之用。
當然這些藩主的城也建了許多機關,或者預留便於躲藏、甚至是落跑的建築,比方說彥根城的二個「千鳥破風」。
所謂破風就是像這樣的建築,裡面看是牆但其實這突出來的地方是一個隱藏的小空間,可以用來躲藏之用、彥根城的天守之上左右兩側各有一座。
彥根城的天守頂遠比我想像來的小上許多,四邊也沒有突出的陽台,想看四周的風景只能透過四邊的木窗,但安全性也相對來的高出許多。
透過四邊的木窗自然可以看到彥根市的風景,還有遠方的「伊吹山」。
天氣好時自然也能看到整個琵琶湖的絕色湖景,微風徐徐舒服的讓人想打個盹XD。
最後自然沒忘記和彥根喵在博物館有一個重要的約會。
彥根喵是彥根城為了2007年的「國寶・彥根城築城400年祭」所設計的官方吉祥物,經過名稱募集後,在2006年4月13日確定使用『ひこにゃん』這個名稱,而4月13日這天也被設定為彥根喵的生日。名字中的ひこ(hiko)為彥根城的「彥」字日語讀音,にゃん(nya-n)則為日語中形容貓咪叫聲的一個擬聲詞。
彥根貓的外型為一隻三頭身、身體微胖的白色貓咪,頭上戴著日本戰國時代的武士頭盔,其頭盔的設計構想自彥根藩第一代藩主井伊直政的紅色戰甲。而以貓咪作為設定,則源於彥根城第二代藩主井伊直孝與貓之間的相關傳說。
這傢伙實在太厲害,一直擺出討人喜愛的動作表情,最後還來個七連拍做為收尾..難怪是日本著名的吉祥物之一。
當真覺得日本人根本把吉祥物擬人化,當偶像在經營,退場走著走著還不時回頭揮手,進了屋還不斷露臉來個欲走還留....可愛到爆炸!
另一個欣賞彥根城的方法是做小船,船夫不時還會唱著當地的小調呢!
彥根城:滋賀縣彥根市金龜町1-1, 電話號碼: 0749-22-2742,開放時間:08:30~17:00
門票:600日幣 交通:JR東海道本線、近江鐵道到彥根站(西口),步行約10分鐘。
彥根城官網 http://w ww.hikoneshi.com/jp/castle/
文章出自:小虎
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* 秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者 1984年12月の証言 部隊に着任して人体実験のことを知った時は非常にショックを受けました。 あそこにいた科学者たちで良心の呵責を感じている者はほとんどいませんでした。 彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。 ・・・・死にゆく過程で医学の発展に貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。 私の仕事には人体実験は関係していませんでしたが、私は恐れおののいてしまいました。 私は所属部の部長である菊地少将に3回も4回も辞表を出しました。 しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。 もし出て行こうとするならば秘かに処刑されると脅されました。 * 鎌田信雄 731部隊少年隊 1923年生 1995年1��月 証言 私は石井部隊長の発案で集められた「まぼろしの少年隊1期生」でした。 注: 正式な1期から4期まではこの後に組織された 総勢22~23人だったと思います。 平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで一般教養、外国語、衛生学���どを勉強させられ、 3時間しか寝られないほどでした。 午後は隊員の助手をやりました。 2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。 その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。 平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました ・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、実験用のネズミを30万匹買い付けました。 ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、 安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。 安達には2回行ったことがありますが、1~2日おきに何らかの実験をしていました。 20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、毒ガスボンベの栓が開きました。 その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。 竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。 気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて大丈夫だということでしたが、 風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、あわてて逃げたこともあります ・・・・ホルマリン漬けの人体標本もたくさんつくりました。 全身のものもあれば頭や手足だけ、内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。 初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、何日か食事もできないほどでした。 しかし、すぐに慣れてしまいましたが、赤ん坊や子供の標本もありました ・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、年齢、死亡日時が書いてありましたが、 名前は書いてありませんでした。 中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。 これはここで解剖されたのか、他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。 ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人がピペットやシャ-レを造っていて、 ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。 731部隊には、子どももいました。 私は屋上から何度も、中庭で足かせをはめられたままで運動している“マルタ”を見たことがあります。 1939年の春頃のことだったと思いますが、3組の母子の“マルタ”を見ました。 1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。 もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、 そしてもう1組は、これも白系ロシアの女で,6~7歳の男の子がそばにいました ・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。 解剖後に取り出した内臓を入れた血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。 それを経験してから1度だけでしたが、メスを持たされたことがありました。 “マルタ”の首の喉ぼとけの下からまっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。 これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、 それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。 正確なデータを得るためには、できるだけ“マルタ”を普通の状態で解剖するのが望ましいわけです。 通常はクロロホルムなどの麻酔で眠らせておいてから解剖するのですが、 このときは麻酔をかけないで意識がはっきりしているマルタの手足を解剖台に縛りつけて、 意識がはっきりしているままの“マルタ”を解剖しました。 はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、すぐに声はしなくなりました。 臓器を取り出して、色や重さなど、健康状態のものと比較し検定した後に、それも標本にしたのです。 他の班では、コレラ菌やチフス菌をスイカや麦の種子に植えつけて栽培し、 どのくらい毒性が残るかを研究していたところもあります。 菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。 片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして死んだ特攻隊員は、天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。 731部隊のある人から、「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」と聞きました ・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり日本全国から医者の先生方がやってきて、 自分たちが研究したり、部隊の研究の指導をしたりしていました。 今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、細菌学の研究のために部隊にきていました。 チフス、コレラ、赤痢などの研究では日本でも屈指の人物です。 私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。 チフス菌とかコレラ菌とかを低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。 航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が飛行機に乗り込んで、村など人のいるところへ細菌をまきます。 その後どのような効果があったか調査に入りました。 ペスト菌は、ノミを介しているので陶器爆弾を使いました。 当初は陶器爆弾ではなく、ガラス爆弾が使われましたが、ガラスはだめでした。 ・・・・ペストに感染したネズミ1匹にノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、 ノミが地上に散らばるというやり方です ・・・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤は、ダイオキシンです。 もちろん731部隊でもダイオキシンの基礎研究をやっていました。 アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。 朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、 この効果などを調べているのですが、このことは絶対に誰も話さないと思います。 アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って自分の軍隊を防衛できなくなると困るので連れて行ったのです。 1940年に新京でペストが大流行したことがありました。(注:731部隊がやったと言われている) ・・・・そのとき隊長の命令で、ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、 肺や肝臓などを取り出して標本にし、本部に持って帰ったこともありました。 各車両部隊から使役に来ていた人たちに掘らせ、メスで死体の胸を割って 肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、 明らかにペストにかかっているとわかる死体の臓器をまるまる持っていったこともあります。 私にとっては、これが1番いやなことでした。人の墓をあばくのですから・・・・ * 匿名 731部隊少佐 薬学専門家 1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から 昭和17年4月、731と516両部隊がソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で3日間、合同実験をした。 「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、4つのトーチカに1回2,3人ずつが入れられた。 防毒マスクの将校が、液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾をトーチカ内に投げ、 窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。 「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや脈拍を見るため体にコードをつけ、 約50メ-トル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、「死に至る体の変化」を記録した。 死が確認されると将校たちは、毒ガス残留を調べる試験紙を手にトーチカに近づき、死体を引きずり出した。 1回の実験で死ななかった者にはもう1回実験を繰り返し、全員を殺した。 死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。 「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。 この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。 ホスゲンを浴びせても死なず、ある軍医が血管に空気を注射した。 すぐに死ぬと思われたが、死なないのでかなり太い注射器でさらに空気を入れた。 それでも生き続け、最後は木に首を吊って殺した。 この人の死体を解剖すると、内臓が若者のようだったので、軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。 昭和17年当時、部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。 佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、 マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、凍傷になっていく状況を調べた。 婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。 婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、その子もこの実験に使われた。 その後しばらくして監獄をのぞいたが、5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。 死んだのだと思う。 * 山内豊紀 証言 1951年11月4日 中国档案館他編「人体実験」 われわれ研究室の小窓から、寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。 吉村博士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、一定の時間内に一定の距離を往復させ、 どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。 みていると彼らは日ましに痩せ衰え、徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。 * 秦正 自筆供述書 1954年9月7日 中国档案館他編「人体実験」 私はこの文献にもとづいて第一部吉村技師をそそのかし、残酷な実験を行わせた。 1944年冬、彼は出産まもないソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。 まず手の指を水槽に浸してから、外に連れだして寒気の中にさらし、激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。 これは凍傷病態生理学の実験で、その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。 日を改めてこれをくり返し実施した結果、その指はとうとう壊死して脱落してしまった。 (このことは、冬期凍傷における手指の具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた) その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。 *上田弥太郎 供述書 731部隊の研究者 1953年11月11日 中国档案館他編「人体実験」 1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。 すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、 一定の時間が経過してから取り出した手を、こんどは小型扇風機の風にあてていて、 被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。 残酷な凍傷実験を行っていたのである。 * 上田弥太郎 731部隊の研究者 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言 ・・・・すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、 足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる ・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい警備員が監視の目をひからせており、警備司令も覗いている。 しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを気にとめようともしない。 こうしたことは毎日の出来事であり、別に珍しいものではない。 警備員は、ただこの中にいる200名くらいの中国人が素直に殺されること、 殺されるのに反抗しないこと、よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ ・・・・ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。 彼らはこの中に入れば、その名前はアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。 私たちはマルタ何本と呼んでいる。 そのマルタOOO号、彼がいつどこからどのようにしてここに来たかはわからない。 * 篠塚良雄 731部隊少年隊 1923年生 1994年10月証言から ・・・・1939年4月1日、「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました ・・・・5月12日中国の平房に転属になりました ・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは 「関東軍司令官の許可なき者は何人といえども立入りを禁ず」と書かれた立て看板でした。 建物の回りには壕が掘られ鉄条網が張り巡らされていました。 「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」という注意が与えられました ・・・・当時私は16歳でした。 私たちに教育が開始されました・・・・ 「ここは特別軍事地域に指定されており、日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。 見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」というようなことも言われました。・・・・ 「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、 併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました ・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と車載用、駄載用、携帯用と分類されていました ・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので“ミクロコックス”と言われていました ・・・・細菌の中で1番小さいものも通さないほど性能がいいと聞きました ・・・・私は最初は動物を殺すことさえ直視できませんでした。 ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか青酸カリなどの毒物を注射して痙攣するのを直視させられました。 「目をつぶるな!」と言われ、もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです ・・・・私に命じられたのは、細菌を培養するときに使う菌株、 通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。 江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、瀬戸川班ではコレラ菌と言うように それぞれ専門の細菌研究が進められていました ・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。 大型の高圧滅菌機器が20基ありました ・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が4基ありました ・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。 この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。 ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは間違いありません ・・・・ここの設備をフル稼働させますと、1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。 1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです ・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました ・・・・ペストの感受性の一番強い動物はネズミと人間のようです。 ペストが流行するときにはその前に必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。 まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。 これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。 そうするとネズミは死にますが、 ノミは体温の冷えた動物からはすぐに離れる習性を持っているので、今度は人間につく。 おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います ・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を毒力試験の名のもとに行ないました ・・・・私は5名の方を殺害いたしました。 5名の方々に対してそれぞれの方法でペストのワクチンを注射し、 あるいはワクチンを注射しないで、それぞれの反応を見ました。 ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。 その方はインテリ風で頭脳明晰といった感じの方でした。 睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。 ペストの進行にしたがって、真黒な顔、体になっていきました。 まだ息はありましたが、特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました ・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。 特別班の班員はこの殺害したひとたちを、灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。 注:ノモンハン事件 1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近のノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。 ハルハ河事件とも言う。 4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力のソ連軍に日本軍は歯が立たず、 約17,000人の死者を出した。 ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。 あまりにみっともない負け方に日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。 731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。 参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、作山元治軍医大尉、 瀬戸尚二軍医大尉、清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。 (注:ハバロフスクの裁判記録に証言があります) * 鶴田兼敏 731部隊少年隊 1921年生 1994年731部隊展の報告書から 入隊は1938年11月13日でしたが、まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした ・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている監獄の7、8棟の中庭に、 麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。 不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、「“マルタ”だ」と言います。 しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。 するとマルタとは死刑囚だと言うんです。 軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、 「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・ 基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。 そこでは蚊、ノミ、ハエなどあらゆる昆虫、害虫を飼育していました。 ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、半分ぐらいまでおが屑を入れ、 その中にノミの餌にするおとなしい白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。 そうするとたいてい3日目の朝には、ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。 死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。 一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。 ノミの採取は月に1,2度行なっていました ・・・・ノモンハン事件の時、夜中に突然集合がかかったのです ・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。 「今からある容器を下ろすから、蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。 私たちは言われたままに作業をしました ・・・・基地に帰ってくると、��炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。 「何かやばいことをやったのかなあ。いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました ・・・・後で一緒に作業した内務班長だった衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、 あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです ・・・・いまだに頭に残っているものがあります。 部隊本部の2階に標本室があったのですが、 その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首がホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。 中国人の男性でした。 また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。 それもやはり中国人でした。 今もそれが目に焼きついて離れません。 * 小笠原 明 731部隊少年隊 1928年生れ 1993~94年の証言から ・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの標本室の掃除を命じられました ・・・・ドアを開けたところに、生首の標本がありました。 それを見た瞬間、胸がつまって吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。 標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。 すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。 全身が標本となっていました。 またその横にはガス壊疽の標本があり、太ももから下を切り落としてありました。 これはもう生首以上にむごたらしい、表現できないほどすごい標本でした。 拭き掃除をして奥の方に行けば、こんどは消化器系統の病気の赤痢、腸チフス、コレラといったもので 死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました ・・・・田中大尉の部屋には病歴表というカードがおいてあって、人体図が描いてあって、 どこにペストノミがついてどのようになったか詳しく記録されていました。 人名も書いてありました。 このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。 田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです ・・・・田中班と本部の研究室の間には人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました ・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました ・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを詰込んで投下実験を何回も行ないました ・・・・8月9日のソ連の参戦で証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。 10日位には殺したマルタを中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。 * 千田英男 1917年生れ 731部隊教育隊 1974年証言 ・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番・・・・以上10本頼む」 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付けられていた ・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。 4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。 つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・ *石橋直方 研究助手 私は栄養失調の実験を見ました。 これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。 この実験の目的は、人間が水と乾パンだけでどれだけ生きられるかを調べることだったろうと思われます。 これには2人のマルタが使われていました。 彼らは部隊の決められたコ-スを、20キログラム程度の砂袋を背負わされて絶えず歩き回っていました。 1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。 食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、飲むのは水だけでしたからね、 そんなに長いこと生きられるはずがありません。 *越定男 第731部隊第3部本部付運搬班 1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ- -東条首相も視察に来た 本部に隣接していた専用飛行場には、友軍機と言えども着陸を許されず、 東京からの客は新京(長春)の飛行場から平房までは列車でした。 しかし東条らの飛行機は専用飛行場に降りましたのでよく覚えています。 -マルタの輸送について ・・・・最初は第3部長の送り迎え、、郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、 間もなく隊長車の運転、マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。 マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、 それに領事館の4ケ所で受領し4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。 日本領事館の地下室に手錠をかけたマルタを何人もブチ込んでいたんですからね。 最初は驚きましたよ。マルタは特別班が管理し、本部のロ号棟に収容していました。 ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、手錠は外せるようになっていたものの、 足かせはリベットを潰されてしまい、死ぬまで外せなかった。 いや死んでからも外されることはなかったんです。 足かせのリベットを潰された時のマルタの心境を思うと、やりきれません。 -ブリキ製の詰襟 私はそんなマルタを度々、平房から約260キロ離れた安達の牢獄や人体実験場へ運びました。 安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、 彼らの頭上に、超低空の飛行機からペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。 マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、 頭を下げるとブリキが首に食い込む仕掛けになっていましたから、 マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。 むごい実験でした。 -頻繁に行われた毒ガス実験 731部隊で最も多く行われた実験は毒ガス実験だったと思います。 実験場は専用飛行場のはずれにあり、四方を高い塀で囲まれていました。 その中に外から視察できるようにしたガラス壁のチャンバ-があり、 観察器材が台車に乗せられてチャンバ-の中に送り込まれました。 使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、一酸化炭素ガスなど様々でした。 マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、 10人ぐらいの観察員がドイツ製の映写機を回したり、ライカで撮影したり、 時間を計ったり、記録をとったりしていました。 マルタの表情は刻々と変わり、泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、 観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。 私はこの実験室へマルタを運び、私が実験に立ち会った回数だけでも年間百回ぐらいありましたから、 毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。 -逃げまどうマルタを あれは昭和19年のはじめ、凍土に雪が薄く積もっていた頃、ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。 この実験は囚人40人を円状に並べ、円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、 感染具合をみるものですが、私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、 爆発の瞬間を待っていました。その時でした。 1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、彼らは一斉に逃げ出したのです。 驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、「車で潰せ」と叫びました。 私は無我夢中で車を飛ばし、マルタを追いかけ、 足かせを引きずりながら逃げまどうマルタを1人ひとり潰しました。 豚は車でひいてもなかなか死にませんが、人間は案外もろく、直ぐに死にました。 残忍な行為でしたが、その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に731部隊のことがバレてしまって、 我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。 -囚人は全員殺された 731部隊の上層部は日本軍の敗戦をいち早く察知していたようで、敗戦数ヶ月前に脱走した憲兵もいました。 戦局はいよいよ破局を迎え、ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、 石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、 「731の秘密は墓場まで持っていけ。 機密を漏らした者がいれば、この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、部隊は撤収作業に入りました。 撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。 大半は毒ガスで殺されたようですが、1人残らず殺されました。 私たちは死体の処理を命じられ、死体に薪と重油かけて燃やし、骨はカマスに入れました。 私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。 被害者は全員死んで証言はありませんが、部隊で働いていた中国人の証言があります。 *傳景奇 ハルピン市香坊区 1952年11月15日 証言 私は今年33歳です。 19歳から労工として「第731部隊」で働きました。 班長が石井三郎という石井班で、ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。 私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。 1 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で「ロ号棟」の中で いくつかの器械が血をかき混ぜているのを見ました。 当時私は若く中に入って仕事をやらされました。日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。 2 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき不注意から箱がひっくりかえって壊れました。 煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、 涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。 3 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の棒杭に繋ぐと、 しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。 壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち3頭を殺してしまったのを見ました。 4 ���2歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、 私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。 5 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た1200人以上の労工が 工藤の命令で日本人の兵隊に冷水をかけられ、半分以上が凍死しました。 6 工場内で仕事をしているとき動物の血を採っているのを見たし、私も何回か採られました *関成貴 ハルピン市香坊区 1952年11月4日 証言 私は三家子に住んで40年以上になります。 満州国康徳3年(1936年)から第731部隊で御者をして賃金をもらい生活を支えていました。 康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で 日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、モルモット、 それにサル等の動物の血を注射器で採って、 何に使うのかわかりませんでしたが、 その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを毎日見るようになりました。 その後康徳5年6月のある日私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、 ちょうど数を勘定していると銃剣を持った日本兵が何名か現れ、 馬車で煉瓦を運んでいた中国人を土壁の外に押し出した。 しかし私は間に合わなかったので煉瓦の山の隙間に隠れていると しばらくして幌をつけた大型の自動車が10台やってきて建物の入り口に停まりました。 この時私はこっそり見たのですが、日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、 足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。 1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、 自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。 ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には中国人をいつも外に出しました。 *羅壽山 証言日不明 ある日私は日本兵が通りから3人の商人をひっぱってきて 半死半生の目にあわせたのをどうすることもできず見ていました。 彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。 猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。
生体実験の証言 | おしえて!ゲンさん! ~分かると楽しい、分かると恐い~ http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_h/5899/
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3月の各地句会報
平成31年3月の特選句
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
平成31年3月2日 零の会
坊城俊樹選 特選句
生涯の友は利根なり春田打つ 節子 づかづかと御魂踏みつけ野に遊ぶ 淸流 大利根の風に雪解の匂ひあり 節子 春天に昇る香煙奇北墓所 孝子 寄せ墓の天辺にある暖かさ 久 鯱の渾身の反り春疾風 水翁 水攻の春泥なるか囲ひある 千種 犬吠の春潮遠き大河かな 伊豫 春昼や時刻表なき利根渡船 節子 光背は坂東太郎春仏 順子 筑波嶺の遥か古草踏む川辺 要 住職のダンスの手指春を呼ぶ 三郎 鳥の恋色めく空の下の句碑 順子 香しき艹や句碑うらら 萌 人の来て触れれば春の土となり あおい 利根堤ゆくは奇北か草青む 孝子 円墳の春の野としてふくらめる 伊豫 大利根に名乗り出でたる葦の角 もと 春光を集めて句碑の立ち上がる 水翁
伸悦選
円墳を丸刈りにして東風怒濤 俊樹 陽炎や平野切り裂き大河ゆく 眞理子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月6日 立待花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
鳶の輪の下啓蟄の大地あり 越堂 春愁の眉よせ給ひ半跏仏 越堂 背山出で滴たるばかり春の月 越堂 春泥に身の温もりの靴を脱ぐ 世詩明 毛糸編む女前髪より老いし 世詩明 早春の闇で眩しき人に逢ふ 輝一 春寒や散骨の舟動き出す 誠
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月7日 うづら三日の月句会
坊城俊樹選 特選句
雛に貸す座敷念入り塵拾ふ 由季子 紙雛に若き日思ひ独り言 由季子 晴天に老の耕し少しづつ 由季子 土雛に幾世の手垢あたゝかし 都 菜を刻む手元に春の香りあり 都 水温み羅漢うつとり足浸す 都
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月7日 花鳥さゞれ会
百官のつかまつるごと雛飾り 匠 藩侯の米研ぐ水の温みけり 匠 鳶鳴いて足羽三山笑ふなり 匠 漁りて耕し耕しもして五湖に住む 越堂 雛飾るどこへも行けぬ母の笑む 松陰 春やブキウギ猫踏んじやつて怒髪かな 数幸 風の意に触れ合ひ遊ぶ吊し雛 希子 下萌や慈母觀音の裳裾より 千代子 山笑ふ水琴窟の音にまで 千代子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月9日 枡形句会
栗林圭魚選 特選句
啓蟄や揺るるこの世に息を吐く ゆう子 春服をデビューさせたき日和かな 教子 島々のまどろむやうな春の海 美枝子 鮊子や母の余生のひと日づつ 百合子 思ひ切り剪られし木々も芽吹きたる 三無 春の泥小さき足と跳ね踊り 三無 いかなごや夕餉の皿に海の音 美枝子 鮊子煮エプロンの白母の味 多美女
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月11日 なかみち句会
栗林圭魚選 特選句
潮の香の日をたつぷりと白子干 秋尚 暮れのこるちりめんじやこの縮れかな 有有 摘草や話途中のまま離れ 秋尚 摘草や土の呟き聞きながら 三無 白子干銀色に目の光りたる 貴薫 鉄匂ふ工事現場の陽炎へる 美貴 白子干眼のぎつしりと売られけり 三無
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月11日 鳥取花鳥会
岡田順子選 特選句
藪椿石灯籠に紅映えて 俊子 春雷の間合に小さく息を吐く 都 春塵をなだめて雨の屋台引く 幸子 春近し野鳥図鑑を窓に置く 佐代子 松露掻く砂丘の風を手元まで 幹也 早春の息吹は杜の瀬音より 和子 風光る草食む山羊の乳房張り 栄子 雛飾りある窓口で買ふ切手 ���子 茎立や曲る方向それぞれに 史子 犬箱は吾の手づくりや雛祭る 益恵 大根を分厚く炊いて接待す 立子 水菜漬パリパリ音す一人膳 すみ子 ビー玉も回すよ春の洗濯機 美智子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月12日
萩花鳥句会
芽柳の雨粒光りつもつれつつ 祐子 海は凪ぎ山は笑うてゐたるなり 孝士 ロープウェイ満員御礼山笑ふ 美恵子 長崎に柳芽吹きてランタン祭 健雄 ときめきの種をまいてる老いの春 圭三 芽柳の影ゆらめきし藍場川 克弘
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月15日 芦原花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
父母の期待は重し大試験 孝子 小白鳥引きて水田の残りけり よみ子 鵜の瀬へと松明流る水送り 孝子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月17日 伊藤柏翠記念館
坊城俊樹選 特選句
口癖のかうして居れぬ春炬燵 雪 トランプの一人占ふ春炬燵 たゞし 春の雪傘に花吹く如くなり 富子 指広げ手より落ちたる雛あられ 富子 浦の子の海苔掻きと言ふ授業あり 英美子 雪女袂泣くため隠すため 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
薄紅梅散るうすら日のせせらぎに 久子 少しだけ駈けてみたしや水温む 貴薫 武蔵野のてつぺんとりし花辛夷 千種 古ひひな管楽の音はとうに絶え ゆう子 防人の越えし横山鳥雲に 秋尚 山茱萸の花蒼天へ黃を弾き 芙佐子 豪農の名残り丈余の椿垣 圭魚 水温むあぎとふ鯉のかんばせに 淸流
栗林圭魚選 特選句
名草の芽白き片鱗見せ始む 千種 武蔵野のてつぺんとりし花辛夷 千種 春蘭や土の湿りを諾へる ゆう子 風癖のまま雪柳咲きこぼれ 三無 春蘭や武蔵野の空淡々と 芙佐子 初桜心のつかへ解けゆく 久子 かたかごの花影淡く俯ける 芙佐子 満天星の芽立ちすつくと紅さして 淸流
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月20日 福井花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
縄跳びに飽いてふらここ揺らしては 和子 声継ぎ風をつなぎて鳥帰る 嘉子 鳥帰る眼下に街の花時計 嘉子 受験子の肩一つ押し送り出す よしのり 耕耘機田より上りて泥ちらす 美代 川一縷春光底にまで届く 美代 春愁の十一面の御ン面輪 雪
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月22日 鯖江花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
堂朧伏目に在す観世音 雪 不老てふ四百年の梅の香に 雪 腹巻きに涅槃団子を拾ひけり たゞし 涅槃図の大きな顔の寝釈迦かな たゞし 供へ物下げし寝釈迦の薄明り たゞし 春泥を千鳥に飛んで子ら遊ぶ みす枝 鳶の輪の下に啓蟄動くもの みす枝 敷石につまづき梅の香を乱す 信子 空重き越の峰々鳥帰る 信子 セーターと身の上話置き帰る 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月24日 花鳥月例会
坊城俊樹選 特選句
花の下唐変木がうづくまる 千種 眩暈して垂れ桜の中にゐる 光子 虫柱立ちて陽炎近くする 千種 空あをく古木の桜満ちたれば 和子 寂しいか寂しくないか花下を行く 千種 御柱に踏青されよとも祷る ゆう子 城門の開きて花を迎へたる 佑天 なによりも木霊へ献じたる桜 順子
岡田順子選 特選句
戦友を呼び合ふ花の木霊かな 小鳥 異国人持つピザまんの陽炎へる 小鳥 花巡り夢見し室の零戦機 小鳥 初桜橋懸りへの灯のごとし ゆう子 夜もすがら桜咲きをり引退す 公世 城門の開きて花を迎へたる 佑天 むすび食む黒の袴の卒業子 小鳥
栗林圭魚選 特選句
初花の木訥にあり饒舌に 俊樹 眩暈して垂れ桜の中にゐる 光子 水に触れさう初蝶の橋くぐり 炳子 花冷の手水に背筋正しけり はるか 八方へ光を溶いて雪柳 秋尚 白木蓮何も無かつたやうに咲き 七湖 娘の婚のきのふを語り花影に 順子 初花や首のスカーフ掻き合はす ゆう子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年3月28日 九州花鳥会
坊城俊樹選 特選句
古雛西に流るる潮に乗す 佐和 蛇穴を出づ西遊記読みをれば 睦子 亀を見て亀に見られて山笑ふ ちぐさ 涅槃図に見入る園児の足裏かな 志津子 雁風呂を焚くわが胸の人は去り 勝利 春はあけぼの解かるるための帯を締め 寿美香 西方は黄金夕焼里は花 勝利 春の海果てて西方浄土かな 桂 灯台の日の斑ゆらゆら水の春 佐和 妣の星光りて暮るる涅槃の日 阿佐美 西へ西へ星座傾け猫の恋 佐和 燎原の火は薄紅の桜かな 桂 老が老を待ちゐる港春の月 佐和 一島をたつぷり抱く春霞 寿美香 春泥のそのまま乾く耕耘機 初子 朧夜の片目で眠る深海魚 伸子 壱岐島は白虎の方位涅槃西風 ちぐさ
(順不同 特選句のみ掲載)
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さくら花鳥会
岡田順子選 特選句
啓蟄や育児日記を読み返す 実加 隅に置くリードオルガン木の芽吹く 登美子 単調に鍬に絡まる春の土 あけみ 畑打つや母の背中と押車 あけみ 水温む観音堂の手水舎も みえこ 卒業子手伝ふ母の掌 栄江 水温む胎児はぐると回るらし 登美子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年1月7日 武生花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
美容師を独り占めして初鏡 ミチ子 初句会句仇ばかり集ひけり 世詩明 神仏を身近にしたる三ケ日 越堂 映るものすべて過去とす初鏡 信子 真剣な手が宙を切るカルタ取り みす枝 しこしこと海鼠噛みゐる四日かな 昭女 雑煮喰ぶ大黒柱見上げつつ 時江 一と掬ひ掬ひに祈り紙漉女 みす枝 手毬唄今にも聞えさうな毬 雪 冬の日の納戸に喪服ととのへり 昭女 臘梅の香を確かめてゐる淑女 越堂 胼の手に受けし卵を落しけり ただし 助六にじつと見られし飾り凧 昭子
(順不同 特選句のみ掲載)
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平成31年2月11日 武生花鳥俳句会
城俊樹選 特選句
人となり自らなる懐手 雪 二十年前の話の初芝居 雪 坂昇る雪の白山見ゆるまで 昭女 春寒や問ひに応へぬ返書かな ミチ子 息白く猫にもありし謀 雪 手毬唄一ツ覚えの母の声 雪 節分と云ふ金剛の戸を開く 越堂 春霰たばしる九頭竜橋渡る 越堂 春一番さらはれさうなベレー帽 昭子 猫の目の青きバレンタインの日 ただし こぼるると云ふ色のあり竜の玉 雪 紅梅ややはらかき嬰よく笑ふ みす枝
(順不同 特選句のみ掲載)
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石
先日友人が、宮古の海岸で拾ったという小さな石を土産にくれた。四条イノダコーヒの奥、正装の老人が集まる赤く暗い席の片隅で。それは緑がかった不思議な灰色をしていた。これな、撫でてると落ち着くねん、と彼女。ただの石ころと言ってしまえばそれまでだが、今までもらった土産のなかでは一番嬉しかった。話を聞けば、震災の爪痕がまだ生々しく残る町で人々はみな明るかったとのこと。居酒屋「栄子」の栄子さんは店内の襖を指さし、腰あたりの高さに引かれた茶色い線をなぞりながら言ったそうだ――これ、つなみ。全てを楽しげに語る彼女はみずみずしい記憶そのものだった。ライブペイントの仕事で呼ばれたらしいが、それ以外も満喫できたようだ。海岸は今回もらったような石で埋め尽くされていたという。海と浜がひとつづきになって、春の太陽につぶつぶときらめく景色が目に浮かんだ。もらった石は仕事場のデスクの上に置いていて、気持ちを鎮めたいときにそっと触れている。ひんやりつるつるしていて、凪いだ海が指先から、時化た胸のなかにそっと入ってくる。そうしてぼんやり石を見つめていた時、それ何ですか? と隣席の同僚に聞かれた。友人の土産ですよと返したら、いい人ですね、と一言。そうなんです。いい石をくれる友人はなかなかいないのでとてもありがたい。ちなみに彼女の苗字には石の字が入っている。その他にも石が名前に付く友人は三人いて、みな私にいい思い出をくれる。やはり石と友人は大切にしよう。
*
石といえば、私は小学生時代はちょっとした鉱物マニアで、いつのころからか近所の地学会館に出入りするようになっていた。そしてそこで売られている奇石をなけなしの小遣いで買ったり、公園で拾った珍しい柄の石を持ち帰ったりしては家で眺めるのが好きだった。一年ほどかけて黄鉄鉱やヘマタイト、水晶、黒曜石、方解石、蛍石、トルコ石、テレビ石、砂漠の薔薇などを手に入れ、触りながらその美しさにうっとりしていた。アンモナイトや縞瑪瑙もあった。砂岩や珪石、桜石、石英、大理石など目立たないものも持っていた。ところが確か小学六年の時である。夏休みの自由研究の発表で、集めた石を教室の後ろに展示したところ、すぐに誰かに盗まれてしまった。綺麗なものばかりがなくなっていた。当時のショックと悲しみは今でも忘れがたい。最後まで誰かが名乗り出ることも目撃者もないまま事件は忘れ去られた。私は誰が盗ったかわかっていたので悔しかった。結局、その犯人は後に別件で社会的制裁を受けることとなったため、それで恨みは晴れた。一時は頑張っても無駄だと悟った私に代わり、今やそいつが賽の河原のシシュフォスというわけである。事件以降、私は鉱物に対する熱意を失った。ただ、本当の鉱物マニアにならなくてよかったなとも思う。薄暗い研究室で顕微鏡を覗き続けていたら、私の場合は、今に輪をかけてひどい石頭になっていただろう。それでも未だに石には反応してしまうのだが。
*
なぜ人は石を集めるのだろうか。その心理の根底には、石への無意識な信仰があるように思える。人は原始、巨岩を崇拝した。そこにどこからともなく神が降りてくるのだという。依り代となった岩は、日本では磐座(いわくら)と呼ばれる。神山や三輪山の頂には注連縄を張られた岩があり、山自体が信仰の対象となっている。京都の岩倉には、山住神社という岩そのものを祀った社があり、当地名の発祥となった。アボリジニのウルルやイギリスのストーンヘンジなどもそうで、神聖な地とみなされている。私は、崇拝といえば人を象ったものや社殿など偶像へのそれがまず真っ先に思い浮かぶが、そういった技術以前の対象は人そのものを含む自然物の他になかっただろう(人の手による簡素な道具をそこに加えるとすれば、時代がやや下ってからのことかと思う)。確かに、背丈を超えるような大きさの岩には存在感がある。いや、「感」などという曖昧なものではなく、厳然たる存在がそこに鎮座する。その重みには、物理的な理由以外の動かしがたさがある。その変化は、人間のライフタイムでは測り知ることができない。何があっても頑なその姿に、人は父祖のような威厳を見たのではないか。そしてそこに自らの理想を重ね合わせたのではないか。古代人の考えは推測するよりほかないものの、じっさい岩には人を引き付ける力があり、そんな岩のかけらは、釈迦の遺骨を刻んだ仏舎利のように、物神のひとつになり得る。小石をポケットに入れる行為は、自分の分身たる守り神に守ってもらうことなのだろう。時々取り出しては、変わることのない自分の礎を思い出すために。
*
ある時、鴨川の源流を探りたいと思って、愛車のシクロクロスを走らせて友人と雲ケ畑へと入った。岩屋山のふもとから祖父谷川を遡上し、舗装がなくなったので自転車を置いて徒歩で登る。その途上、狭まる川の向こうの崖に小さな滝を発見したので、真夏の登山で体が火照っていた私たちは、水を浴びようと石を渡り、対岸にたどり着いた。滝の下は踊り場のようになっていて、大人ふたりが立てるほどの広さがあった。薄っぺらいスニーカーでなんとかよじ登り、じゃぶじゃぶと頭から水をかぶって喉を癒す。その時、ふと目の端に何かを感じ私は横を向いた。すると苔むした岩肌には顔ほどの大きさの穴がぽっかりと開いていた。穴の奥は暗く、何かが潜んでいるような気がした。ちょっと怖いな、と友人は言った。私も、なぜかずっとは見ていられなかった。しばらくして、この内部の闇を静めるためにできるのは、洞の中に小石を置くことだと思った。言語以前の狂気を発し続ける、おどろおどろしいその口に舌を与え、いっそ祠にしてしまおう。そうすれば、自分に相対する無に意味が生まれ、祈りの所在がはっきりするだろうと考えたのだ。おそるおそる小さな丸石を置き、私たちはそこを後にした。そうしてところどころから湧く沢に源流を見定めたのち、迷いつつさらに北上していると知らぬ間に北山最高峰の桟敷ヶ岳に到達していた。山頂には惟喬親王がそこから都を眺めたと伝えられる岩がある。近くにあったベンチで小憩し、大反響するやまびこを楽しんでから、次の道を決めあぐねていたところ、京北側から登ってきたという人に出会った。地図を持っていないことを話すと、自殺行為ですねと言われ、丁寧に帰り道を教えてくれた。あとでわかったことだが、その先の京北へと続く道の名は石仏峠というそうだ。一度消失し近年になって再発見された幻の峠だという。考えてみれば、彼はひょっとすると何かの化身で、私たちが祀ったのは石仏のひとつだったのかもしれない。そして石を洞に祀っていなかったら彼の言う通りになっていたのかもしれない。空想としては面白いが、少しぞっとした。果たしてあの石はまだあるのだろうか。
*
試験勉強に倦み疲れ、誰の考えも援用せずに美について思案していたら、龍安寺の石庭が頭のなかに現れた。あの庭の魅力は石の配置で、どの角度から見てもある石が他の石を隠してしまい、一度に全十五個の石は見えないようになっている。また、短辺にある塀が手前から奥に向かって低くなるという、遠近法の錯視を利用した作庭がなされており、庭の形は白銀比の長方形になっている。作庭者が不明のため、石の配置の意味するものについては諸説ある。虎の子渡しの故事にちなむとか、禅の精神を示すとか、どこからどう飛躍したのかという感じだが、宇宙を表すとかいわれている。初めは私も宇宙なんぞ言いすぎだろうと笑っていた。しかし、考えを巡らせるほどに実はそれが解釈として正しいのではないかと思い始めた。というのも、もしその意図が本当であれば、一見ランダムながらごく適切に配置された石の群れは、あるがままにあるこの宇宙の一瞬とそのまま照応するからだ。私たちは何かしらの必然性があって存在しており、降り積もってゆく数々の「今」には確かな理由があるのだ。さらに、作庭者が不明であることにも宇宙発生の秘密とどこか共通するところがある。そうすると石庭とはいわば、四次元風景を切り取った三次元の写真ということになるのではないか。こんなことを言いながらも当時は石庭を画像でしか見たことがなかった。この仮説を確かめるべく、暇な私は龍安寺に向かった。鏡容池を囲む見事な回遊式庭園を過ぎて方丈に入り、いよいよ庭へ。観光客や修学旅行生でごった返すなか、なんとかぎゅうぎゅうに詰めて縁側の端に座る。人の声がうるさい。座禅や観想などできるわけがなかった。喧噪の中でぼんやりと見た石庭は石庭であった。けっこう広かった。ふーん、という感じで私はじっとしていた。試しに目をつぶってみると、なんとなく自分が見えない石のひとつになったような気がした。小一時間いて感じたのはたったそれだけであったが、それこそが宇宙なのだと自分を納得させて帰った。おそらくそれはあながち間違いではなかっただろう。常に、宇宙は容易く、世界は難しいのだ。
*
上賀茂神社から少し下ったところにある大田神社には、カキツバタで有名な沼(沢)がある。尾形光琳の絵の題材にもなったといわれる場所だ。ここの水は雲ケ畑から地下を通って湧いていて枯れることがないとか、水の中に踏み入れると足が腐るとかいう伝説がある。紫の花が一斉に咲く毎年五月には多くの人が見物に押し寄せるが、それ以外の時期は白茶けた地味な水辺で、あまり人もいない。私は秋から冬ごろにこの沼を見るのが好きだ。こぢんまりとした侘しさがそこにはある。大学生の時は自転車で社家町を抜けてよく訪れていた。楕円形でごく浅い沼の中央には、土が盛り上がってできた島がぽつんとあり、草木に覆われている。山から注がれる水の流入口には「蛇の枕」と呼ばれる石がちょこんと顔を覗かせている。昔はこの石を叩いて蛇を怒らせ、雨乞いの儀式をしていたという。このあいだ、その島のことを考えていると、それが何やら亀のように思えてきた。水から浮かび上がって甲羅の天日干しをしている。頭はどこかわからないが、尾の部分には水の流れがあり、そこには蛇がいる――。ここまで考えて私はひらめいた。とするならば、この構造はまさしく玄武の姿そのものだと言える。玄武とは亀の甲羅と頭を持ち、尻尾が蛇になっている神獣のことで、都の北方を守護しているとされる。東には青龍、西には白虎、南には朱雀が相当し、合わせて四神と呼ばれる。調べてみると、上賀茂神社には玄武が祀られているという話があった。私は意外な象徴を発見して驚いた。これは偶然か必然か。水のようにさらさらした想念が途端石のように固くなった。興奮のあまりその観念を詩に書いた。なかなかうまくできたと思う。しかし真実はどこにあるのだろうか。蛇はいつからか人前に出てくることもなくなり、石に首をもたせかけてずっと眠っている。
*
これを書きながら寝た次の日の朝に、夢をいくつも見た。そのうち三つほどはまだ思い出せる。じっさいは夢にも満たない露のようなものだったが、その味は濃かった。起きると岩肌がしっとりと濡れていて、予想以上に高く上がった太陽に黒く濡れ輝いているのを見つけた。
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大人女子必見。開運の秋!? 江ノ島〜鎌倉〜葉山、パワースポットを巡る日帰りドライブ旅へ!第三弾【PeLuLu】
■平成最後の秋に運気アップを狙って、鎌倉近辺のパワースポットを巡るドライブ旅へ〜第3弾〜 気がつけば“平成最後の秋”ももう半ば。気持ちいい秋晴れが続き、ドライブにも最高な気候になりました!『Johnbull』PR担当のマリアさんと女性でも運転しやすい機能満載の〈トコット〉で、鎌倉近辺のパワースポットを巡ってきました! ペルル編集部が今季イチオシしているのが「開運の秋」。というのも、実は秋から冬にかけての過ごし方が年末から年明けの運気UPにつながるらしいのです。ということで、PeLuLu女子にも大人気な鎌倉近辺のパワースポット巡りのドライブ旅へ行ってきました。前回は少し寄り道をして、鎌倉駅周辺でショッピン���を楽しみました。 ■パワスポ巡りのお供は女性に嬉しい機能が充実したDAIHATSU〈トコット〉 自分らしさの表現:To Character 安心安全、運転のしやすや:To Comfortableness 使いやすさ:To Convenience この3つのワードの頭文字からつくられたネーミングの〈トコット〉。シンプルで飽きのこないデザインと充実の運転サポートシステムで、女性でも安心してドライブを楽しめる車です。日焼け対策も安心なUVカットガラスを使用していたり、安全運転をサポートしてくれるスマートアシスト機能搭載など、嬉しい機能が満載です。 バックドアはもちろん開け閉めラクラク。さらに後部座席を倒すと、さらにラゲージスペースが出現!ドライブ中、ついついお買い物しすぎても、たっぷり積めるから安心ですね。 「コンパクトで小回りがきくので、本当に運転しやすい!でも室内は広々としてゆったりとした乗り心地」とマリアさん。 まるで自分のお部屋感覚でリラックスしたドライブを楽しめる〈トコット〉で秋のショートトリップに出かけてみませんか? ■江ノ島や富士山を臨む絶景が愉しめる、恋愛成就のパワースポット『森戸(もりと)神社』へ 今回は鎌倉から車を走らせ約30分。リゾート地としても有名な逗子・葉山方面へ。海を臨み、晴れていると富士山と対面することもできる『森戸(もりと)神社』へ!森戸神社は正規名称を森戸大明神といい、起源は遡ることなんと約850年前。永暦元年(1160年)、平治の乱に敗れて伊豆に流��れた源頼朝公は、静岡県の『三嶋(みしま)大社』を深く信仰し、源氏の再興を祈願しました。それから数十年後、そのご加護によって天下を治めた頼朝公は、鎌倉に遡るとすぐに三嶋明神の御分霊を葉山の聖地に歓請し、長く謝恩の誠をささげたと伝えられています。このように歴史的背景の深く、由緒正しき神社なのです。 ■女性に嬉しいご利益がいっぱい! 森戸大明神には大山祗命(おおやまつみのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の二人の神様がお祀りされています。この神様は、良縁・子宝・安産・子育てと恋愛にまつわる様々なご利益を司っているそう。「森戸神社に参拝した後、恋愛成就した!」など恋愛に関する口コミが広がっているそうで、アラサー独身のPeLuLu編集部も是非あやかりたいところです……! ■なんとも愛でたい♡その名も恋し鯛みくじ! 神社の中でひと際存在を放っているのは、鯛をモチーフにしたおめでたいおみくじ。専用の釣竿で釣り上げ、ゲーム感覚で楽しむことができます。「狙いを定めて釣り上げることで、運命を掴む!」という意味も込められているのかも……!? 鯛のモチーフはおみくじと一緒に結びつけるもよし、お守りとして持ち帰るもよし。恋をしている方も恋がしたい方も、こ是非森戸神社に足を運んでみてくださいね! 取材の日はあいにくの雨模様でしたが、なんと一瞬の間だけ富士山を見ることができたのです!カメラに納める間もないほど、すぐに雲の中に隠れてしまったのですが、2019年はなんだか良い年になりそう……と気持ちが高まった一同だったのでした。平成も残りわずか、みなさんもいい締めくくりができるよう、パワースポットを巡ってエネルギーチャージしませんか? 森戸神社 〒240-0112神奈川県三浦郡葉山町堀内1025 電話:046-875-2681(午前9時〜午後4時) /046-875-6097 http://www.moritojinja.jp ■PeLuLu編集部的、イチオシスポット『R-OLD FURNITURE(アールオールドファニチャー)』 江ノ島電鉄の稲村ケ崎駅近くの線路沿い。古民家を改築した『R-OLD FURNITURE(アールオールドファニチャー)』という古道具屋さんへ。写真をご覧いただくとわかるように、お店のすぐ目の前に線路が……! 近くの電柱に取り付けられている青いランプが点滅すると、電車が近づいてくるサイン。なんだかこのラフな感じも鎌倉ならではの心の余裕を感じ、ちょっとしたアトラクション気分を味わえます。 「古くから伝わる物を大切にし、かっこよくクールに使っていく」店主、吉川淳也さんの想い 店名の「R」は『Revolution』『Relax』『Recycle』の頭文字を取っているそう。このお店には、店主の吉川さんの「大量生産・大量消費社会を見直し、古くから伝わるものを大切にかっこよくクールに使っていく」という想いがぎゅっと詰まっています。 店内にはアンティークの家具や古道具など様々な年代の様々なアイテムが並びます。そのどれもが古臭くなく、また年代モノ特有の仰々しさもなく、調和のとれた穏やかな空間が広がっています。骨董品と聞くと、高価かも……と尻込みする気持ちありませんか? アイテムにもよりますが、1万円以下の良心的価格帯の商品が豊富で、アンティークデビューにもオススメです。 ■自己流の使い方を見つられるのも魅力。気になった2アイテムをご紹介! 一つ目は昭和期に使われていた大ぶりなバスケット。おそらくランドリーバスケットとして使われていたとのこと。カバンやアウターなどのちょい置きに使ったり、アウトドアに持って行ったりと、いろんな使い方を想像して楽しむこともできます。 二つ目はユニークな亀の花留め(剣山のような役割を果たします)。甲羅部分が仕切りになっていて、思い思いに植物を挿すことができます。見た目も可愛いので置物として愛でたり、ペーパーウェイトとして使ってもよさそう! 古くから大切に伝わってきたアイテムを、現代のライフスタイルに合わせた使い方で愉しむことができたらなんだか粋ですよね。時代を超えたお気に入りを探しに、是非立ち寄ってみてくださいね。 R antiques 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎3-7-14 TEL 0467-23-6172 営業時間 12:00~日没 定休日: 月、火 http://r-kamakura.com マリアさんのファッションをチェック! ドライブコーデで重要なのは、お洒落さと楽ちんさの両立! お洒落上級者マリアさんのコーディネイトはお手本そのもの。今季のトレンドであるコーデュロイのコートとパンツを合わせ、その上から光沢感のあるドレスをレイヤーすることで上質なニュアンスをプラス。ラフになりがちなコーデュロイですが、上品な印象の絶妙な細畦で大人の女性にぴったりです! Johnbull Private labo コーデュロイシャツコート 2万9160円+税 コーデュロイパンツ 1万9440円 +税 リンクルイージードレス 1万9440円+税 photo:Kumagai Yoshitomo (PeLuLu編集部) 【関連リンク】 DAIHATSU〈トコット〉 https://www.daihatsu.co.jp/lineup/mira_tocot/index.htm あわせて読みたい * 【新車】ダイハツ・ハイゼット カーゴのMT車にも「スマートアシストⅢ」を標準装備。ほぼ全ての商用車に「スマアシ」を搭載完了 * 大人女子必見! 開運の秋!? 江ノ島〜鎌倉〜葉山、パワースポットを巡る日帰りドライブ旅へ!第二弾【PeLuLu】 * ダイハツから後付けのペダル踏み間違い加速抑制「つくつく防止 」が発売開始。2代目タント用は取付工賃込み約6万円 * 【新車】ダイハツ・タント/タントカスタムに装備を充実させたお買い得な特別仕様車「VS」シリーズを設定 * 8〜9割まで装着率が高まっているダイハツ・スマートアシスト装着車が累計販売台数200万台を突破 http://dlvr.it/QtL8Mv
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月23日(火曜日) 通巻第6552号
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集中連載「早朝特急」(17)
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第一部 暴走老人 西へ(17)
第十七章 南モンゴル、ウィグル、チベット
▲中国の残虐はチベットで顕著に露呈した
チベットのラサへは成都から飛行機で飛んだ。空港で驚いたのは大型機が次から次へと中国各地から到着し、観光ブームの頂点に湧いていた。空港からラサ市内までは一時間半ほど。渓流や水たまり、でこぼこ道を越えるので四輪駆動でないと、安定しない。
ラサ市内であちこちを見たが、ようすにチベット族は差別を受けて、ろくな職場がないこと、仏教寺院はありきたりで、とても僧侶達が真剣に仏典を勉強しているとは思えず、ひどく俗化していたこと。ポタラ宮殿は偉容を誇るが、内部はそこら中に公安デスクがあり、警戒が厳しく、広場ではうっかりすると物乞いがまといつく、それもじつにしつこい。
市内にアメリカ人女性が経営するバアがあって、スコッチを飲んだが、一杯程度では高山病にかかることもなく、最終日にうっかり四杯呑んだら、一晩中頭が痛くて眠れない。嗚呼、これが高山病というやつか、と貴重な体験をした。
ひとことで言うとチベットは完全に漢族の支配下にはいってしまった、表向きの寺院とは無縁の俗世である���知識人も僧侶も、ほとんどが粛清されたか、外国へ逃げたからだ。
チベットはいかにして侵略され、自由が失われてしまったのか、これまでにも多くが語られた。
ダライラマ法王にはノーベル平和賞が授与され、そのダライラマに感激したハリウッド俳優のリチャード・ギアはチベット仏教徒になった。エディ・マーフェイは若き日のダライラマを助ける映画の主演を演じた。ブラッド・ピットはエベレスト登山の冒険野郎が、ダライラマにひかれてゆく物語の映画に主演した。
ダライラマが訪米すれば大統領が面談する。わが日本は仏教国であるにも拘わらず、歴代首相が面会したことはない。
日本はいつの間にかサムライ精神を忘却の彼方へ葬り去った。
▲このチベットの惨劇が明日の香港の運命を襲うかも知れない
香港と台湾は過去の出来事を学んだ。とくに香港は『国歌安全法』がいずれ言論の自由を封じ込めることになると不安を募らせ、「第二のチベット」か、或いは「第二のウィグル」になるのではないか、不安が増すのも中国共産党がいかなる凶暴性を発揮してきたかを知り尽くしているからだ。
沈黙を続ければ、静かに侵略はすすみ、自由社会は消え、中国共産党の奴隷に転落するという悲劇的な地獄を迎える。
悲劇は繰り返されている。南モンゴル、チベット、そして現在の進行中はウィグル族への血の弾圧だ。
ペマ・ギャルポ『犠牲者120万人 祖国を中国に奪われたチベット人が語る侵略に気づいていない日本人』(ハート出版)の行間にもチベット人の悲劇、
その懊悩と悲惨な逃避行のパセティックな思いが滲み出ている。温厚で信仰心熱きチベットは中国にあっという間に侵略され、中国に味方する裏切り者も手伝って、120万もの同胞が犠牲となった。ダライラマ法王は決死の覚悟でヒマラヤを越えてインドに亡命政府をつくった。その深い悲しみ、暗澹たる悲哀、血なまぐさい惨劇、しかしこのチベットの教訓こそが、香港、台湾、そして日本がいま直面している危機に直結する。
「日本人よ、中国の属国に陥落し、かれらの奴隷となっても良いのか」とペマ氏は訴える。
チベットは「寛容の国」だった。
それゆえに「寛容の陥穽」に嵌って邪悪な武装組織、つまり中国という暴力団の塊のような、ならず者によって滅ばされた。日本は平和憲法という、寛容な国家の基本法を押しつけられてから七十四年も経つのに、未だに後生大事に墨守している。それが国を滅ぼす元凶であること、左翼の言う「平和憲法」擁護には騙されてはいけないことをペマさんは力説している。
百万人の強制収容所問題で世界を揺らすウィグルの悲劇もチベットのパターンを踏襲している。
▲ウィグル自治区で何が起きたか
十数年前に新彊ウィグル自治区を旅し、ウルムチから列車でトルファンへ入った。
途中のハミ駅で熟した瓜を買った。じつに美味い。トルファンでは干しぶどう、これもまた絶品だった。当時、中国で売り出したばかりの「長城」をいうワインはフランスのワインとまでは行かないけれどもなかなか乙な味だった。
江沢民時代の新彊ウィグル自治区は外国人にほぼ全域が開放されていて、かなり自由に写真撮影もできた。
ウルムチやトルファン市内の屋台に溢れる羊肉、皆がイスラム帽をかぶり、女性はスカーフが多かったけれども、顔を隠しているわけでもなかった。
観光名所のベゼクリク千仏窟は、いかにイスラムが仏像を破壊したかの廃墟跡を意図的に見せているような気がした。岩だらけの高台には孫悟空ワンダーランドとかのテーマパークも出来ていた。
ウィグル自治区の各地でコルランの普及率を調べたが、何処にも、それこそ一ケ所にもコルランを売る書店もなければモスクの受付にもなかった。田舎へ行くとモスクは閉鎖されたところが多く、そのモスクの周囲は物静かで人影もなかった。
コルラン販売の監視とモスクの出入りがチェックされている様子は呑み込めた。
▲留学生がおびただしく行方不明になった
2017年頃からエジプト留学から帰国したウィグル族の若者が当局に拘束されて行方を絶った。家族が心配して心当たりを捜したが、杳として行方がしれない。同様な「事件」が頻発していると在日のウィグル人組織が騒ぎだした。
2018年にはドイツやトルコの海外ウィグル人組織が騒ぎ出し、議会が動き、国際団体が調査に乗り出した。ついに国連の人権委員会で取り上げられた。
なかには家族が偽りの電話を強要され、父親が病気とかで外国へ電話をかけて急いで留学先から帰ると、有無を言わせずに強制収容所に放り込まれ、そのまま一年以上。
合計八千名のウィグル族の若者の留学帰りが収容所で「再教育」という名の下に洗脳教育を受けていた。いずれもイスラム圏への留学という共通点があった。
もともとウィグル族はイスラム教を篤く信仰してきた。無神論の中国共産党は、それ自体が一神教であるから異教徒は許容できない。
この弾圧の中心人物は陳全国(政治局員)だ。
2016年8月29日、陳全国が新彊ウィグル自治区の党委員会書記に任命された。直前まで陳全国はチベット自治区の書記だった。つまりチベット弾圧の責任者だったから、ウィグル自治区にはいっても民衆の弾圧、暴力支配など得意技だった。
陳全国は1955年に河南省に生まれた。武漢の大学をでて軍隊に入隊し、共産党へ入党して頭角を現し、2010年に河北省省長に就任した。異例のスピード出世である。その後、習近平の覚え��出度くチベット書記に栄転した。現在はトップ25の政治局員でもある。
同じ頃、重慶特別市書記だった孫政才が唐突に解任され、新たに陳敏爾が任命された。孫政才の解任理由は「薄煕来の腐敗体質の残滓を重慶市から積極的に排除できず、そのままに旧幹部等をのさばらせ、自らも汚職に励んだ」などとする冤罪だった。要は共産主義青年団の「希望の星」だった孫を潜在的ライバル視してきた習近平にとって、将来の独裁に邪魔になるから排除したに過ぎない。
陳全国も陳敏爾も習近平の子飼い、イエスマン若しくは茶坊主、行政手腕が無能でも、おべんちゃらがうまければ出世街道を驀進できる。阿諛追従の才能だけは秀逸なのだ。下手に理論家だったり戦略論をぶったりすると無学な習近平から逆恨みされるのだ。
ウィグル自治区の悲劇は、このときから一層無惨になった。
2009年に勃発したウルムチ暴動で、漢族が武器を持って手当たり次第にウィグル族を虐殺し、多くのウィグルの若者は隣のカザフスタンへ逃げた。その数は数万人と言われるが、そのうちの一万人ほどがシリアの軍事訓練基地へ送られ、ISのメンバー入りした。
かれらは漢族への復讐心に燃える。中国の諜報機関はシリア政府、同時にISにも武器を提供して巧妙に近づき、かれらの動向の情報収集に躍起となった。テロリストとして訓練され、中国に帰ってくることを怖れたからだった。
ISをスピンアウトした過激派は「漢族に血の復讐を。中国人を血の川へ投げ込め」などと煽動するヴィデオを作成し、ユーチューブで配信した。びっくり仰天の中国共産党はあらゆる手段を講じてでもウィグル族過激派の撲滅排除に乗り出す。
陳全国は新彊ウィグル自治区の党書記となるや、「宗教活動を厳密に規制し、イスラム文化の表現をやめさせ、辻々には検問所を設け、顔識別とAI機器を駆使して手配者の逮捕を強化し、さらに砂漠に次々と強制収容所を設営し、拷問による改宗を強要した」(『TIME』、2018年8月27日号)。
▲再教育センターとは監獄である
そうやってイスラムを学んできたウィグルの若者の洗脳教育を始めた。「改宗」できない者は独房にぶち込み、イスラム教徒が忌み嫌う豚肉を与え、しかも独房の狭い牢獄に三人も五人も入れてストレスを溜めさせる。睡眠不足とし、洗脳の効果をあげようと急いだ。それでも「直らない」ケースでは家族も強制収容所に入れた。出所してすぐに死ぬという悲劇が相次いだ。
米国の偵察衛星が収容所の数が急増していることを突き止めた。また強制収容所ばかりか、再教育センターもつくられ、家族全員のDNAや血液が収集されデータベースに入力された。デジタル全体主義の支配システムである。
トランプ政権はこのような人道に悖る人権無視の民族浄化を黙ってみることはなかった。
衛星写真の証拠を楯にして、これを対中政治カードとする。ゲイ・マクドゥーガル国連人権差別撤廃委員は2018年8月10日、国連委員会で「200万人のムスリムが強制収容所で再教育を受けているという報告がある」と爆弾発言した。
マクドゥーガルは「なかには髭を貯えていた、ベールを被っていた」などの理由で拘束されているケースも報告されているとし、「ウィグル族の民族的アイデンティティの喪失が目的だ」と中国を非難した。
またウィグル女性は漢族の男性としか結婚できないという規則を強要しているとの情報があり、そうなるとユーゴスラビアでおきた「エスニック・クレンジンング」(民族浄化)という悪夢の再来である。あの時、セルビアは欧米社会から猛烈な非難を浴び、孤立を怖れたセルビア国民はミロセビッチ、カラジッチという民族の英雄を国際法廷に送り込んだ。
中国は国連報告をただちに否定し、「あそこは強制収容所ではない、あれは職業訓練センターであり、ウィグル人の教育向上と雇用機会の増大をはかる目的だ。漢族も収容されている。われわれが警戒して取り締まっているのはテロリスト、分裂主義者、過激な宗教活動家だけだ」などと平然と嘯いた。
これはチベットにおける120万人の無辜の民と僧侶の虐殺を「農奴解放」と言ってのけた嘘の論理の適用である(チベットに農奴はいなかった)。
またウィグルの動きに触発されて隣の青海省、四川省、甘粛省、陝西省、寧夏回族自治区などではモスクの監視が厳格化され、とくに後者の回族自治区のモスクは「改修」を詐っての取り壊しが計画されたため信者がモスクに座り込み開始した。
イスラムは国境なき連帯のコミュニテイィであり、ウィグル族への苛烈な弾圧は口コミを通じて世界のムスリムに拡大した。トルコはこの時、中国を激しく批判し、旅行制限をだしたほど対立的だった。
ムスリムの中国敵視は米国の対中国認識とはレベルの異なる、感情的エトスが含まれているのである。
▲日和見主義だった欧米が中国に強硬となった
習近平時代となって強烈なイスラムへの弾圧が強まった。陳全国の悪名は世界にとどろき、「悪代官」と呼ばれる。収容されているウィグル人は百万人ともいわれるのに、イスラム同胞をかかえる国々は中国の人権抑圧を批判しない。米国も911テロ事件以来、「東トルキスタン開放同盟」を「テロリスト」とうっかり認定してからこれまでは黙りを決め込んできた。
その日和見的態度をがらりと変えたのがトランプ政権だった。
ペンス副大統領が正式にイスラムに言及し、ウィグル族の不当拘束を避難する演説を行ったのは2018年十月だった。2019年七月には日本を含む22ヶ国が中国政府を批判する声明に署名した。トランプ大統領はウィグル族をふくむ少数民族の代表者をホワイトハウスに招いて実情を聞いた(19年7月17日)。
しかし奇妙なことにイスラム国家のサウジもエジプトもカザフスタンもキルギスも右の署名には応じなかった。イスラム国家とは言え、みな独裁政治であり、おなじ独裁の中国とはたいそう馬が合うのだ。
だからイスラムはテロリストだという中国の嘘宣伝を楯にイスラム同胞への惨い弾圧には目を瞑ってきた。
▲イスラムの影響を抜き取るのが収容所の目的なのだ
福島香織『ウィグル人に何が起きているのか』(PHP新書)はウィグルへの突撃取材を試みたルポで、エティガール寺院の現場報告から始めている。
「美しいミナレットが特徴で、一日五回行われる礼拝の時間にはアザーンが流れるとガイドブックには書いてあるのだが、(中略)流れていなかった。寺院の屋根には五星紅旗が翻る。宗教施設に国旗を掲げることは2018年二月以降、義務化され��いるのだが、これほど不自然な光景もない」。
しかも寺院前広場はゴーカートなど子供遊園地に化け、戦車の乗り物もある。目抜き通りを歩くと「路上にはゴミ一つ落ちておらず、清潔だ(中略)が、どこかよそよそしい、この作り話めいた空気は何だろう。青いジャージに赤いネッカチーフの小学生たちが、中国語の童謡を唱いながら歩いていた。ああわかった。テーマパークだ」
タクシーにのっても監視カメラ内臓のため運転手と会話は弾まず、車内には「社会の秩序を乱してはいけない」などのポスター、どこもかしこにも監視カメラだらけ。
「人々は正直で親切だ。だが、人を含めて全部作り物のようだった。彼らは昔ほど陽気ではなかった」
福島香織さんの観察の目は鋭く、さらに牧畜が行方不明となっている現実をみた。どこにも羊の姿はなかったのだ。町からも村からも消えていた。ウイグルは「巨大な監獄」だった。それも「21世紀で最も残酷な監獄社会」だ。
所内では漢語の強制、豚肉を食べさせ、ウイグル族の文化的背景、イスラム教の影響を抜き取り、漢族風に洗脳する目的だったことは述べた。
中国語を教え、中国の法律を叩き込み、そのうえ中国共産党の獅子吼する「愛国」教育を徹底させた。その一方で、縫製、メカニカルエンジニアリングからホテルの清掃のやり方など教育、訓練した。
反抗したウイグル族が相当数、拷問され、収容所内で死亡した。
こうした事実はその後、亡命に成功したウイグル族女性によって米国議会の公聴会証言で明らかとなった。米議会は超党派で中国への批判を強めた。
トランプ政権は���イグル弾圧に用いられたとして監視カメラ、顔面識別、AI技術を製造するハイクビジョンなど中国企業の28社を[EL]リストに加え取引停止とした。ペンス副大統領の二度に亘る対中批判演説にはこれらの裏付けがあった。
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芥川龍之介「河童」と槍ヶ岳登山
芥川龍之介の晩年の作品「河童」は、「ある精神病院の患者」が「だれにでもしゃべる話」を、「僕」が「かなり正確に写したつもり」の「河童の国見聞録」である。あたかも『ガリバー旅行記』のようだ。
さて、「僕」が「だれにでもしゃべる話」は、「僕」が主語となって始まる。「僕」というのは、書き写した「僕」ではなく、「精神病院の患者」のことであろうが、「僕」という主語によって、二人はまるで同一人物かのようではないか。「人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうと」して、「僕」が「梓川の谷を案内者もつれずに登って」行くのは、「前に穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登っ」た経験があるからである。
事実、芥川には、「自ら薄鼠色のラシャ紙で装幀し、その表紙には、遠くアルプスの山々の見えるカットを配し」て仕立てた小冊子「槍ヶ岳紀行」(葛巻義敏編『芥川龍之介未定稿集』)がある。年譜によれば明治42(1909)年、中学校在学時に級友たち(中原安太郎、中塚葵巳男・市村友三郎ら)を誘って槍 ヶ岳に登撃した記録である。標高3000メートルを超える剣呑な槍ヶ岳に、17歳にしてよくも挑んだものだ。なにしろ明治35(1902)年に、日本の登山家としては小島烏水が初めて登攀していて、それからわずか7年後である。芥川少年の着眼と行動力に驚嘆するほかない。
級友たちと新宿駅に集合し、列車に乗って松本まで行く車内の様子や車窓からの景色などを事細かに記録し、翌日は島々村まで梓川沿いに歩いた様子、宿に着いてから、「日本アルプスのオーソリチー、老獵夫嘉門治君」がいなくて、その息子・嘉代吉を案内人に雇う交渉などを書き留めていている。だが、その翌日の日付はあって穂先への登攀についてまったく記述されていないのはなぜだろうか。
槍ヶ岳登攀の厳しさを描写しているのは、2年後の明治44年に書かれた回想文「槍ヶ岳に登った記」である。かつて手にした近藤信行編『山の旅』(明治・大正篇)に収録されていて、記憶にあった。巻末の「採録文について」に「明治四二年八月の登山記」とある。なお、11年後に「改造」(大正9年7月1日発行)に発表し、随筆集『梅・馬・鶯』におさめた「槍ヶ嶽紀行」は、この時の登攀を単独行にこしらえた山行記である。やはり「今夜宿る無人の岩室に辿り着くべく、懸命に急角度の傾面を登つて」行きながら、雷鳥を見かけるところで終わっている。
明治の頃の槍ヶ岳に今のように山小屋はあるはずもなく、「槍ヶ岳に登った記」の案内人が「赤沢の小屋ってなアあれですあ」と言うのは、「動物園の象の足と鼻を切って胴だけを三つ四つつみ重ねたらあの位になるかもしれない。その石がぬっと半起きかかった下に焚火をした跡」があり、それが標高2000メートル近くにある。“北アルプス登山の父”と称されるW・ウェストンや登山家・小島烏水も泊まった「赤沢岩小屋」である。芥川たちはここでビバークしたということか。あるいは、「槍ヶ嶽紀行」の記述に従えば、赤沢を過ぎて、やはり無人の「坊主岩小屋」に泊まったのだろうか。
翌早朝、芥川は「魚河岸へ鮪がついたように雑然ところがった石の上を……四つん這いになって猿のような形をして上る」ーー小島烏水「槍ヶ嶽探検記」に「大石は鮪の切味をぶちまけたる如くに乱堆し」とあり、「鮪」の比喩からみて、すでに芥川は烏水の探検記を読んでいたと推されるーーのだが、「途中で振り向いて見ると谷底まで黒いものがつづいて……黒いものは谷の底からなお上へのぼって馬の背のように空をかぎる」のである。「その中で頭の上の遠くに、……貝塚から出る黒曜石の鏃のような形をした」「槍の絶巓(ぜってん)」が見えたさまを叙しているが、「絶巓」に立った感想はのこしていない。
小島烏水「槍ヶ嶽探検記」の描写を借りれば、槍ヶ岳の最高点に立つと眼前にひらける山々の眺望は感動的である。西に「大屏風を截りて立てたるは笠ヶ嶽」、「向背相望んで立てるは、横嶽、高辻山、薬師嶽」、「正東には一万尺余の常念ヶ嶽あり」、「浅間山はこの銀に閃く霧の海より烟を吐ける」、「南の方我と隣りて比肩せる穂高山と、大いに隔たりて仁王立ちたる御嶽とは、乗鞍嶽を両腋に夾みて、三巨人相笑みて、我を招くが如し」であり、以下、甲斐駒ケ岳、鳳凰山、立山、富士山などが目に入る。「この間、欲弁已忘言(弁ぜんと欲して已に言を忘る)」ごとき興奮を綴っている。
では、芥川は果たして山頂に立ったのだろうか、と気になった。そこで少し調べてみると、槍ヶ岳登山を共にした同級の中塚葵巳男が、一校旅行部樅の会の追悼集『失いし山仲間』(昭和47年3月)に、芥川との槍ヶ岳山行を回想し、山頂では「お山は晴天。雲海眺望三百六十度満点。遠くは富士、浅間の烟。近くは初対面笠ヶ岳」と追憶している。
しかも、この文を眼にして、登山史研究者の山崎安治は、小島烏水『日本アルプス』の編者でもある近藤信行と同道で、聞き取りのために中塚を訪ね、「暗いうちに岩小屋を出発、快晴に恵まれ、午前中に槍ヶ岳の頂上に立った」ことを確認しているばかりか、すでに「芥川龍之介の槍ヶ岳登山」(『登山史の発掘』)にまとめているではないか。さすがというか、脱帽というほかない。
芥川は槍ヶ岳の黒い谷底を思い浮かべてだろうか、「僕」は濃霧のなかで河童と遭遇し、追い駆けているうちに、「深い闇の中へまっ逆さまに転げ落ち」たことから、「河童の国」の見聞録が始まるのである。
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