#面白半分 1974年4月号
Explore tagged Tumblr posts
Photo
面白半分 1974年4月号 Half Serious Vol.29 Apr.74 藤本義一 編集 表紙絵=金子光晴
38 notes
·
View notes
Text
2023-10月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作って��ただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「ヒーロー」です◆
今月は参加者の皆様に「ヒーロー」のお題でアンビグラムを制作していただいております。 古今東西のヒーローにまつわる逆さ文字の数々をご覧ください。
「勇者」 回転型:peanuts氏
勇者といえばヒーローの筆頭ですね。ゲームだけではなく神話においても英雄としての勇者は数多く語られています。 全体を斜めにすることで「勇」のパーツのずれの違和感を和らげています。正統派で王道を行く作品だと思います。ペンで書いたような作字もステキです。
「正義」 回転重畳型:いんふぃにてぃ氏
正義こそヒーローの行動原理ですね。正義の反対はまた別の正義、という言葉もあり、真実と同じような意味合いを持つ言葉かもしれません。 「正」「義」それぞれを回転重畳型にしています。「回転重畳型×2」として並べることもできましたが、縮尺を変えることで一つのアンビグラムにまとめ上げているのが作者の工夫ですね。
「英雄」 回転型:海氏
ヒーローは日本語で「英雄」ですね。 英雄という言葉にまつわる作品はいくつか寄せられましたが、まず正統派の回転型です。字画密度の差は「厷」を中心に据えて解決、字画の角度を一定のルールに揃えることで読みやすくまとまっています。
「必殺技」 図地反転回転型:いとうさとし氏
ヒーローならば必殺技の一つや二つ使いたいものです。 見事な「殺」を中心に読みやすい図地反転アンビグラムに仕上がっています。ドット表現がゲームにマッチしそうで、必殺技を決めるヒーローの背景で光らせたくなるデザインです。
「自己犠牲」 図地反転型:梅氏
自己犠牲の精神はよくヒーローと共に語られますね。 こちらのデザインは「犠牲」のほうに字画の区切り線があるため完全な図地反転の関係にはなっておりません。その意味で純粋なアンビグラムではないのですが、アンビグラム的表現の一つとして面白いデザインになっており作者の工夫が光っています。
「大活躍」 回転型:lszk氏
ヒーローならば大活躍が確約されているものなのか、大活躍したからヒーローなのか。 氏には久しぶりに作品を寄せていただきましたが、相変わらずデフォルメした形状による作品が絶妙に読めるバランスで素晴らしいです。本作では翼のような形状が万能ですね。
「ひろいんとひいろう」 旋回型:kawahar氏
ヒーローとともによく語られるヒロインですが男女の違いだけではなく非対称性がある点は興味深いところ。 氏は多面相旋回型を得意としていますが本作でも六面相に仕上げていて感心します。鏡像と回転により文字が変化する、バランスの調整具合をご覧ください。
「スーパーヒーロー」 回転型:lszk氏
スーパーヒーローは主にフィクションで超自然的な力を持つヒーロー。人により思い浮かべるスーパーヒーローも違うでしょう。 デザインとしては中央に力が集中していくかのよう。後半「ーロ」の部分の重ね処理を自然に見せるため「パーヒ」の部分も重ね処理をしており、文字列の配置が絶妙です。
「英雄/色を好む」 振動型:ヨウヘイ氏
「英雄色を好む」とは「英雄は活力にあふれ何事にも精力的に活動するため女性関係も積極的で派手」という意味。英雄ならそれでも許される、というニュアンスもあります。 「英/色」の下部分の処理、「隹/好む」の対応がうまく調整されています。太い文字なので切り欠きをうまく使うことができるのですね。言葉の選択が面白いです。
「ダークヒーロー」 回転型:mishima氏
ダークヒーローは正義の味方として描かれない主人公でアンチヒーローとも。 ダークヒーローのシルエットをロゴに取り入れていてかっこいいですね。オーラのように燃え上がる形状が文字のゲシュタルトにうまく取り入れられておりステキです。
「剛烈/疾風」 回転共存型:兼吉共心堂氏
仮面ライダージオウに登場する「仮面ライダーゲイツ」の強化フォーム「仮面ライダーゲイツリバイブ」の二つの変身フォームが「剛烈&疾風」だそうです。 この二つの言葉の相性が良すぎますが、氏の書道風の筆致によりより自然な仕上がりになっていると思います。気持ちよい作品です。
「響鬼」 振動型:.38氏
「仮面ライダー響鬼」より。 決して近くはない「響/鬼」の二文字の中間点をうまく探し出して仕上げられています。実際のタイトルロゴに似せたデザインなのもよいですね。
「科学忍者隊ガッチャマン」 図地反転回転型:いとうさとし氏
1974年から放映された変身ヒーローアニメ。タツノコプロの代表作の一つです。 「科学忍者隊」「ガッチャマン」がそれぞれ図地反転回転型の作品になっています。「ガッチャマン」はカタカナで字形を崩すと読めなくなりやすいのですが、しっかり読めるようになっている配置が魔術的です。
「僕のヒーローアカデミア」 鏡像型:ぺんぺん草氏
ヒーローと名の付く漫画といえばこれでしょう。種々メディア展開された人気作です。 本家ロゴに似せたステキな作品ですね。「僕/デミア」のハマり具合が楽しいです。本家ロゴのテイストでアンビグラム化できるかは運命的なところもあり、奇跡的な作品ともいえます。
「秘密戦隊ゴレンジャー」 図地反転型:いとうさとし氏
所謂「スーパー戦隊もの」の第一作。集団戦隊ヒーローのフォーマットが第一作にして確立されました。 「秘/密」「戦/隊」「ゴレン/ジャー」がそれぞれ図地反転の関係です。対応付けの仕方に統一性がありながらどの文字の可読性も確保されており、さすが達人の仕事です。
「シン・仮面ライダー/第1バッタオーグ」 回転共存型:兼吉共心堂氏
シン・仮面ライダーと、それに登場するショッカー上級構成員の対応。「第2~」でもできそうです。字画密度の差がある言葉同士を対応付けようという発想がいつもすごいと思いますし、それを作品に仕上げる力量が素晴らしいです。
「五右ヱ門」 鏡像型:うら紙氏
安土桃山時代の盗賊の首長であった石川五右衛門、彼を創作材料とした作品は多くその中にはこの表記としたものもあります。 環状配置の作品ですが、上下左右に文字が配置される点が珍しいです。略字の「门」にしているのがぴったりですね。左に45度回転させると隈取のようにも見えてきます。
「天下人」 鏡像型:.38氏
天下人は全国の政権を掌握した人のことで、ヒーローともダークヒーローとも見ることができそうです。 「天/下人」でシンプルな対応ながらパースをかけたようなデザインにより「天」第2画の短さと「下」の点の突き出しが自然に見えるようにしています。周りにある隠し文字もよいですね。
「桃太郎」 回転型:オルドビス紀氏
おとぎ話のヒーローといえば桃太郎を連想する人が多そうです。 余る字画がほとんどなく仕上がっているのにも驚きですが、余った分も横画が細い様式と左上優先の法則の活用で全く気にならないですね。美しく素晴らしい作品です。
「野茂英雄」 回転型:douse氏
「英雄」といえばこちらに発想を飛ばすのも自然。名前もさることながら野球選手としての実績もヒーローといってよいでしょう。 「野茂/英雄」がハマりすぎで気持ちよいです。作字としても最高ですね。ストレートとフォークボールを連想させるモチーフがステキです。
「さらば一昨日殺人ライナー」 回転型:Σ氏
HACHI(米津玄師)の楽曲「パンダ��ーロー」の一節。 巧みな文字組と掠れ処理の組み合わせで文字の切れ目をコントロールしています。中央の「日」を「昨」のひへんの字形と揃えているのは作字面でのこだわりですね。カッコいいです。
「Q.17 ヒーローを右のコンテナに入れろ」 回転型:いんふぃにてぃ氏
パズルゲーム『Q』より、17問目からの引用とのこと。 180度回転型というのは解き方を示唆している、のでしょうか……? 発想の飛ばし方がさすが���す。長い文字列への挑戦もよいですね。
「痛みを知るただ1人であれ」 回転型:螺旋氏
シン・ウルトラマンの主題歌『M八七』の中の一節。映画の内容にマッチした印象的な歌詞です。 とにかく細かいところの対応をじっくり見てしまいます。特に曲線がきれいに調整されていてので見ていて気持ちよく、カッコいい作品です。
最後に���の作品を。
「英雄/悪役」 回転共存型:igatoxin
ヒーローと対立するものとしてヴィランが描かれますが、対極にあるものではないのかもしれません。
ヒーローがお題のアンビグラム祭、いかがでしたでしょう。皆さんの発想に触れヒーローとは何たるものかに思いを馳せ、幾重にも楽しめるものになったのではないでしょうか。お忙しい中 御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。
さて次回のお題は『ゲーム』です。ゲームから連想する語句、ゲームタイトル、ゲームキャラクター、なんでもOKです。締切は10/31、発行は11/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー} 2月{TV} 3月{クイズ} 4月{健康} 5月{回文} 6月{本} 7月{神話} 8月{ジャングル} 9月{日本史}
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
6 notes
·
View notes
Text
2024年2月12日
ラジオは滅びゆく? 浜村淳さん「十分可能性がありますよ」(毎日新聞)
インタビューに答えるタレントの浜村淳さん=大阪市北区で2023年11月10日、川平愛撮影
「ついに来たか、と。あと50年、せめて100歳まで続けたかった」
御年89歳。ラジオパーソナリティーの浜村淳さんは、半世紀続く冠番組の節目を局側から打診された時をちゃめっけたっぷりに振り返る。
MBSラジオの長寿番組「ありがとう浜村淳です」が3月末、平日の放送を終了し、土曜のみとなる。深い知識とユーモアに裏打ちされた語りで、関西のリスナーに愛されてきた。浜村さんはラジオに、音だけで勝負する媒体ならではの可能性を感じてきたという。
番組は1974年4月にスタート。現在は月~土曜の午前8時から平日は2時間、土曜は3時間半、新聞や週刊誌情報、ラジオドラマなどを生放送で紹介する。平日の放送終了は、同局側が50周年を一区切りとして打診し、本人も「長時間の生放送でどんな事故が発生するか分からない」と了承した。
親しみやすく、なるべく楽しく
「さて皆さん」で始まる柔らかい関西弁の語りは、浜村節とも称され、親しまれてきた。信条は「難しい言葉は使わず、分かりやすく話すこと」だ。朝刊各紙をめくりながら時事問題を解説するコーナーでは「親しみやすく、なるべく楽しく、聴いて良かった」をモットーに、記事をそのまま読み上げず、言葉をかみ砕いて紹介する。
「例えば、政治の話題で『可及的速やかに』とあれば『なるべく速く』と言い換えます。事件を扱う時も朝の番組なので、陰惨になりすぎないように、ほんの少しだけポップに」
映画評論家としても知られる。登場人物の衣装や景色を細かく描写しながら、見どころやあらすじを講談調で語り、ファンから「本編よりも面白い」と評されることも。
例えば、最近はどんな映画を? 水を向けると、特攻隊をテーマにした「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」について名調子が始まった。「現代の女子高生がタイムスリップして昭和20年に行ってしまうんですね。そこで出会うのが初恋の相手、彰さん。これ特攻隊員なんですよ。いよいよ出撃命令が下ります。小型の飛行機に乗って、腹に針金で爆弾巻いて、片道だけの燃料で飛び立っていく……」
数年前、鹿児島の鹿屋航空基地史料館を訪ねたこともあり、周辺の情景も加える。「絵空事でなく、実感を持ってしゃべりたい」。これまでの取材経験が語りに深みを持たせている。
「今ほど悪事がはびこる時代はない」
「ありがとう~」が始まった当時は、既に大衆の人気がラジオ��らテレビへと取って代わられていた時代。当初はテレビに対抗心を燃やしていたが、放送を重ねるうちにラジオの強みを実感するようになったという。
音声だけだからこそ、一人一人が頭に思い浮かべるイメージは多様で広がりがある。「ラジオは説得のメディアやと思います」と、浜村さんは表現する。「映像で見えない部分を言葉で補う。そのために、しつこくしつこく説得し続ける。だからラジオに出る人間は、相当な勉強や修業が必要になってきます」
関西ローカルの番組はインターネットラジオの登場で全国で聴けるようになり、取り巻く状況は大きく変わった。「滅びゆくメディアと悪口を言う人もいますが、『まあ皆さん聴いてください』と聴き手が興味を持つように語りかけると、(リスナーは)必ず引き込まれるんです。だからこそ、愛してくれる人はこれからも居続けるはずです。ラジオには十分可能性がありますよ」
まだまだ「心身ともに健康」と胸を張る。4月以降は土曜の放送のみとなるが、「政治も事件も、今ほど悪事がはびこる時代はないと思います。それらをどのように伝えるのか課題です」と浜村さん。「聴いて役に立ったと思わせる部分が少しでもあるように、迷いながらもやっていくだけですね」。穏やかにほほ笑んだ。
番組50周年を記念したイベントを4月15日、「SkyシアターMBS」(大阪市北区)で開催する。問い合わせは06・6676・8466。【谷口豪】
川内原発延長認可後、初の県原子力防災訓練の実効性は 専門家「能登地震ふまえ最悪シナリオ組み込む必要ある」[02/12 19:22]
シェア
Video Player
00:00Use Left/Right Arrow keys to advance one second, Up/Down arrows to advance ten seconds.07:06
川内原発は、ことし7月に1号機の運転延長を控えています。また、元日には志賀原発が立地する石川県で能登半島地震が発生し、鹿児島でも不安の声が聞かれます。
道路の寸断や建物の倒壊、生き埋めなどが発生した場合、本当に避難はできるのか?今月10日に行われた県の原子力防災訓練で見えた課題を検証します。
10日午前6時半、川内原発が立地する鹿児島県の薩摩川内市役所です。幹部職員の参集から原子力防災訓練が始まりました。
(田中良二市長)「能登半島地震のこともあり、市民の大きな注目を集めている。強い緊張感をもってやりたい」
川内原発30キロ圏の9市町と県が行う原子力防災訓練。今回は去年、川内原発の運転延長が原子力規制委員会に認可されて初の訓練ともなりました。
住民600人も含め4000人が参加し、薩摩半島西方沖を震源地とする最大震度7の地震で外部電源を喪失したとする川内原発では、2号機が非常用電源も失われて炉心損傷に至るとのプロセスで訓練が進みました。
また被ばくした職員を病院に搬送し、手当てする手順も確認しました。
川内原発から2.5キロ南の薩摩川内市寄田地区です。重大事故が起きた場合、原発5キロ圏内はただちに避難することになります。能登半島地震を受け、倒壊した建物から住人を救助する訓練もあり、住民12人は鹿児島市までバスで避難しました。
同じく、原発5キロ圏にある高江こども園です。避難指示を受け、園児6人をバスに乗せ、避難場所に向かいました。
(高江こども園・成松まつみ園長)「(能登半島地震は)かなりショックだった。実際にああいう状況になったときに、子どもたちが孤立するのが一番心配。(備えを)見直さなければならないと感じた」
住民たちが懸念するのが、ことし1月1日に起きた能登半島地震です。見過ごせないのが地震の規模。マグニチュード7.6は27年前、薩摩川内市で震度6弱を観測した県北西部地震の30倍、直接死5500人余りの阪神・淡路大震災を3倍も上回るすさまじいものでした。
石川県の災害危機管理アドバイザーも務める専門家は…
(神戸大学・室崎益輝名誉教授)「前例のない地震が起きた。質が違くというか、ことごとく壊れている。過疎地だったので230人~という犠牲者ですんだ。人口密度当たりの犠牲者の比率は阪神・淡路大震災より多い」 ※室崎名誉教授の「崎」は、たつさき
薩摩川内市によりますと、5キロ圏内の住民が避難し、被ばく者を病院に搬送する県道43号などは、いずれも土砂災害警戒区域にひっかかります。また、オフサイトセンターを始め、県や市の拠点自体が川を埋め立てた軟弱地盤の上にあり、液状化の危険性もぬぐえません。
そもそも市や県の職員を集められるのか…能登半島地震で最悪の被害となった石川県輪島市では、職員280人のうち、初日に40人しか登庁できませんでした。
神戸大学 室崎益輝名誉教授 「情報網や道路網が寸断されて、家がたくさんつぶれて、その下に閉じ込められた人たちが相当数いる。(石川県の事前想定は)最悪の事態をみるという姿勢にはなかった」
「能登半島地震の事態で気に留めておかないといけないのは、いつまでたっても奥能登から抜け出せないということは、放射能が漏えいするとみんな汚染されてしまうということ。本当に緊急に一斉に人が避難できるか?最悪のシナリオのうちのひとつには組み込まないといけない」
訓練の実効性をさらに高める必要はないのか?塩田知事は…
塩田知事 「基本的な動作をしっかりと住民含め、手順を確認するということが一番大きな役割。そういう過酷な状況も引き続き検討はしていきたい」
一方の薩摩川内市 田中市長は…
田中良二 市長 「能登半島地震が行政の防災対応に与えている影響も翻って議論をすべき。見直し改善、次回の防災訓練に生かしていきたい」
川内原発の30キロ圏に住む住民は19万5400人。原発5キロ圏の高江こども園の成松園長は、住民側の温度差に危機感も感じています。
高江こども園 成松まつみ園長 「放射線が漏れてしまった際は5キロ圏内だけに止まらない。温度差というか、緊迫感がないなと、危機を感じる」
訓練を終えた子どもたち 「(地震は)いやだ。逃げる」「身を守ります!(毎月)避難訓練をやっています!」
能登半島地震で改めて浮き彫りになった地震災害のすさまじさ。川内原発の運転延長を7月に控え、私たち一人ひとりが問われています。
0 notes
Text
講談社的漫畫雜誌03(少女向)
关于講談社漫画杂志的少年向和青年向我们已经总结过啦,可以统一归类为男性向,今天我们聊聊少女向的部分。
なかよし(好朋友)
なかよしラブリー(好朋友Lovely)
るんるん(废刊)
別冊フレンド(别册Friend)
少女フレンド(少女Friend)
デザート(Desert)
姉フレンド(电子)
mimi
Amie
ARIA
なかよし系列
なかよし(好朋友)
发行时间:1954年12月 -
人群向:少女、小、初中生少女
发行日:大约是每月3号
增刊号:なかよしラブリー(好朋友Lovely)(2004年 - 2011年)、なかよしデラックス(好朋友deluxe)(1978年12月号 - 2011年秋の号)
代表作:美少女战士(美少女戦士セーラームーン)、圣少女(怪盗セイント・テール)、小红豆 (あずきちゃん)、魔法少女樱(カードキャプターさくら)、Da!Da!Da! (だぁ!だぁ!だぁ!)、小甜甜 (キャンディ♡キャンディ)、Hello 阿班 (おはよう!スパンク)、魔力小金鱼 (きんぎょ注意報!)、奇迹女孩 (ミラクル☆ガールズ)等等。
与小学馆的『ちゃお』和集英社的『りぼん』并列为面向小、初中生少女的三大漫画杂志之一。『なかよし』是日本目前出版的最古老的漫画杂志(甚至包括过去出版的漫画杂志在内。),它这也是现存讲谈社出版的所有的针对幼儿、儿童、少年和少女的杂志中最古老的杂志。
70年代末期,伴随着小甜甜 (キャンディ♡キャンディ)、Hello 阿班 (おはよう!スパンク)等作品的连载,销量也水涨船高达到180万本。即使到80年代也保持在100万本以上。
不过等到1989年新的編集長入江祥雄上任时,杂志的销量已经下滑到78万部。为了应对这种情况,考虑到当时本杂志与集英社的『りぼん』都是以恋爱漫画为中心,有着儿童部门工作经验的入江将杂志的方向转向奇幻,目的是让『なかよし』的目标受众可以比『りぼん』更低。如搞笑系列『魔力小金鱼 (きんぎょ注意報!)』、战斗女主角系列美少女战士(美少女戦士セーラームーン)、超自然系列『奇迹女孩 (ミラクル☆ガールズ)』等少女元素的漫画连载了。特别是『美少女战士』从杂志初期就获得了极大的反响,动画版也逐渐走红,掀起了巨大的热潮,带动了杂志销量在93年一度冲破200万,超过了集英社的『りぼん』。
不过后续杂志的销量逐渐下滑,99年已经滑落到70万,也一度在三大小初学生向的少女杂志中排名下降到第3。2006年集英社的『りぼん』下滑更为严重,让『なかよし』上升到第2。
电子版从2015年6月发行的2015年7月号开始发行。
なかよしラブリー(好朋友Lovely)(休刊)
发行时间:2004年 - 2011年
人群向:少女
发行日:年3回刊 - 年4回刊 - 年5回刊
代表作:��泉店的小老板娘(若おかみは小学生!)、名侦探梦水清志郎事件簿(名探偵夢水清志郎事件ノート)等等。
除了原创的一次性连载外,还出版了『なかよし』杂志连载作品的加版以及新人和年轻人的一次性连载。一开始,主要作品的内容往往统一在一个(稍微刺激的)特殊主题之下,但之后,特殊主题的设定就变得模糊了。而且,由于有从『なかよし』主刊转移的连载作品,反之,也有向『なかよし』主刊转移的连载作品,所以方向越来越接近《Magazine SPECIAL》
るんるん(废刊)
发行时间:1991年 - 1998年
人群向:少女
发行日:季刊 - 双月刊
代表作:水手战士V (コードネームはセーラーV)、セキホクジャーナル等
目标人群针对比『なかよし』更年轻的少女。最初是作为『なかよし』的增刊号『なかよし増刊るんるん』,所以风格与『なかよしラブリー』一致,93年正式创刊。发表的作品大部分为原创作品,也有本刊的番外篇。此外,短篇和搞笑漫画与主刊相同。98年1月号事实废刊。
フレンド系列
別冊フレンド(别册Friend)
发行时间:1965年3月 -
人群向:少女
发行日:每月13号
简称:『別フレ』
代表作:Lady Love、憑いてますか、MARS、蜜桃女孩 (ピーチガール)、恋文日和、Only You-翔べない翼-、美川べるのの青春ばくはつ劇場、極楽青春ホッケー部、純愛特攻隊長!、我太受欢迎了,该怎么办?(キララの星、私がモテてどうすんだ)等等。
1965年以『週刊少女フレンド』的姐妹杂志创刊,创刊名是『別冊少女フレンド』,刚出版时除了漫画之外,还刊登了有关明星和时尚的文章。1972年1月号作为漫画杂志出版。1984年改名为『別冊フレンド』并沿用至��。
2006年-2012年期间杂志的理念是『满足十几岁少女的野心和愿望』(「10代の女の子の野望や欲望を叶える漫画雑誌」),读者也以15-16岁的高中生为中性。而目前杂志的理念已经变成『一定能实现和帅哥恋爱的梦想的少女杂志』(「イケメンとの恋が絶対叶う憧れ満載の王道少女漫画誌」),只有不到50%的读者是青少年,超过30%的读者年龄在30岁以上。
少女フレンド(少女Friend)(废刊)
发行时间:1962年 - 1996年
人群向:少女
发行日:周刊-半月刊-月刊
派生杂志:別冊フレンド
代表作:窈窕淑女 (はいからさんが通る)、生徒諸君!、不思議のたたりちゃん等等。
诞生于 1962 年,继承了12 月号后停刊的月刊『少女クラブ』(少女club)的一本周刊 。运用了在『少女クラブ』和『なかよし』中培养的少女杂志制作技巧以及『周刊少年Magazine』中积累的制作周刊的经验。
次年(1963年),集英社的『マーガレット』创刊,双方竞争非常激烈。1970年,小学馆的『少女コミック』周刊化,竞争愈发激烈。虽然诞生了譬如窈窕淑女 (はいからさんが通る)、生徒諸君!等优秀作品,但杂志本身的势头在下滑。1974年改成半月刊,91年调整为月刊,96年10月号废刊。许多人对这本讲谈社著名的少女漫画杂志的停刊感到惊讶。
デザート(Desert)
发行时间:1996年7月 -
人群向:10代・20代女性
发行日:每月24号
姐妹杂志:THEデザート(1999-2015)
代表作:萌男友是柑橘色(モエカレはオレンジ色)、カンベンしてちょ!、おねがいキューピッド、天使之声(天使の唄)、コスプレ☆アニマル、邻座的怪同学 (となりの怪物くん)、谎言游戏 (ライアー・ライアー)、太陽之家 (たいようのいえ)、只要你说你爱我 (好きっていいなよ。)等等。
1997年7月作为『Kiss』的增刊创刊,最初刊登『少女フレンド』的青年漫画家的作品,而后『少女フレンド』休刊,就接管了这本杂志的作品。
以『新王道的恋爱故事』主题的作品为特点,旨在成为『10代・20代女性』当中最美味的少女漫画杂志。『一个色彩斑斓、精彩的男孩让女孩们明亮而充满活力。』是作品的特征,许多作品都有『美丽和成人的设计』,以适应读者的年龄段。由于其中包含许多『少女漫画典型的浪漫元素』和『坚强而独特的角色』的作品,它受到了读者的欢迎。
姉フレンド(电子)
发行时间:2016年12月1日 -
发行日:每月1号
代表作:ウソ婚等。
『別冊フレンド』和『デザート』共同出版的电子杂志,口号是大人喜欢的萌系少女漫画(「大人のラブきゅん少女コミック誌」)��在发布之时,读者的反应是“具有侵略性”、“价格合理”以及“标题具有挑衅性”。
其他
mimi(休刊)
发行时间:1975年8月(1975年10月号)- 1996年12月(1997年2月号)
人群向:少女
发行日:月刊→月2回刊→月刊
姐妹杂志:mimi Excellent(1985-1993)、mimi DX(1978-1987)、mimi Carnival(1987-1997)、kiss(1992-)
代表作:源氏物语 (あさきゆめみし)、アイドルを探せ、くにたち物語、白鳥麗子でございます!、心言手语 (君の手がささやいている)、ロンタイBABY等等。
最初针对十几岁的女性,包括女孩漫画以及偶像和时尚信息。 20世纪80年代,以『あさきゆめみし』(大和和紀)、『アイドルを探せ』(吉田まゆみ)等作品而受到欢迎。 20世纪90年代,标语改为“年轻人的娱乐”和“新戏剧性漫画!”。
Amie(废刊)
发行时间:1997年1月 - 1999年初
人群向:少女
发行日:每月24号
代表作:悪霊シリーズ、CLOVER等等。
名称来源于法语单词,意思是『朋友』,口号是『稍微大一点的なかよし』(「ちょっと大人のなかよし」),以『なかよし』毕业后的人群为对象的少女漫画。
虽然有人气漫画家的人气作品,但是发行量并没有增加,于是在1998年6月份休刊,此后作为『なかよし』的增刊不定期出版。1999年初夏号发布后就不再发行,事实上废刊了。
ARIA(休刊)
发行时间:2010年7月28日 - 2018年4月28日
人群向:20代女性
发行日:每月28号
代表作:恶灵系列 (ゴーストハント)、異域之鬼、これは恋のはなし
概念是『优秀的天马行空』,以『非凡的少女漫画』为基础,出版了许多不符合恋爱框架的带有幻想元素的少女漫画。
尽管自创刊之后发行量一直在下降,但进击的巨人的衍生作品让2013年11月号售罄,同年12月号因受欢迎而重印,售罄并重印。 2014年1月号开始全面连载时,发行量增加了五倍。
2012年7月27日,网络漫画发行网站“pixiv Comic”开始转载ARIA的部分杂志作品,此后,『pixiv Comic ARIA』开始转载ARIA的杂志作品,连锁作品已被转让,网站独家作品也开始连载。另一方面,『pixiv Comic ARIA』也有被转移到杂志上出版的情况。
2018年4月28日发售的6月号决定休刊。
(少女篇就说到这啦,下一期聊聊其他女性向的杂志)
0 notes
Text
イスラエル軍事協力企業レイセオン社から技術を奪いソニーエリクソン、サムスン電子が協力し5G回線を使用し各ターゲットの端末の回線に攻撃使用が可能な場合、日本は巨大な生体実験場となる。
https://ameblo.jp/indianlegend/entry-12342927613.html
指向性エネルギー兵器
(DEW、directed-energy weaponの略称)は、
砲弾、ロケット弾、ミサイルなどの飛翔体によらず、
兵器操作者が意図した目標に対し
指向性のエネルギーを直接に照射攻撃を行い、
目標物を破壊したり機能を停止させる兵器である。
目標物は対物用も対人用もある。
DEWのうち、実戦に投入された兵器は非致死性の治安兵器で
一部ある程度で大部分は未だ研究開発段階である。
アクティブ防護システムの一環としても開発が進められる。
~電波~
高エネルギー電波兵器(HERF)は
電子レンジと同様の原理で作動し、類似の機能を示す。
2007年1月25日、
アメリカ陸軍は小型装甲車(ハンヴィー)に搭載可能な装置を公開した。
この装置は平面状に配列されるものと似ている。
装置は、460m離れた人間の体感温度を約54度に感じさせることができた。
こうした兵器の実物大での製造は2010年まで予期されていなかった。
この装置はアクティブ・ディナイアル・システムの一つとして、
おそらく最も有用に配備されたものである。
アクティブ・フェーズドアレイ・アンテナによって
高出力の電磁波を特定の部位に収束させる事で
電子機器を焼損させて無力化する方法の開発も進められる。
[マイクロ波]
マイクロ波兵器は、人体に損傷を与えるには充分強力である。
アクティブ・ディナイアル・システムは
ミリ波を供給源として目標の皮膚の水分を加熱し、無力化するほどの痛みを引き起こす。
この装置はアメリカ空軍研究所とレイセオン社により暴徒鎮圧の用途で使用されている。
激しい痛みをもたらすが永続的な損傷を与えないよう企図しているものの、
このシステムが眼球に対して回復できない損傷を引き起こすという、
若干の懸念が示された。
マイクロ波に暴露することでの長期間の副作用に関して
いまだに試験中である。
この装置はまた、保護されていない電子機器を破壊する。
関連技術にはテンペストが挙げられる。
これは予期しない電子情報の漏洩に関する研究である。
これらの装置には様々なサイズがあり、ハンヴィーに搭載されるほどのものも含まれる。
ヴィジラント・イーグルは空港防御システムである。
これは航空機へと発射される投射体に、高周波数のマイクロ波を指向するものである。
この兵装システムは、
ミサイル探知および追尾サブシステム(MDT)、指令および制御システム、
そして走査アレイから構成される。
MDTは多数のパッシブ式の赤外線カメラを固定装備している。
指令および制御システムはミサイルの射点を特定する。
走査アレイは地対空ミサイルの誘導装置を妨害するマイクロ波を照射し、
これを航空機から逸らす。
ボフォースHPMブラックアウトは高出力マイクロ波兵器システムで、
商用オフザシェルフ(COTS)電子機器を、距離を置いて破壊可能であるとされている。
この装置は人体に影響はないと述べられている。
[使用と効果]
人体に対して電磁波兵器を使用するとき、劇的な効果を作り出せる。
レイセオン社のアクティブ・ディナイアル・システムでは
急激な灼熱感が引き起こされ、または距離にもよるが、
個人や複数の人々に、
不安、恐怖、強い倦怠感や混乱などのより巧妙な影響を生み出す。
こうした兵器の軍用としての3つの長所は以下の通りである。
個人または集団が、彼らがこうした装置で照準されていても、
必ずしもそれを理解するわけではない。
マイクロ波の波長は他の無線周波数のいくつかに似ており、
容易に建築物などの素材を透過する。
この波長には特別なアンテナを用い、その効果により、
個人または市や国といった広範囲の双方を照射できる。
こうした兵器の軍用や強制執行としての使用可能性には以下のものが含まれる。
敵兵力または民衆に激しい不安感や急迫の危機感を与え、
闘争よりも逃走するように影響を及ぼす可能性。
反抗や非協力的態度に伴う激しい不安感や恐怖よりも、
わずかな協力的態度でも肉体的に大きな幸福感を伴う方が非常に望ましいということを、
捕虜とした敵兵員に理解させる能力。
耐え難い倦怠感を、すでに疲労した敵兵力に与える能力。
長期間にわたり、敵兵力から正常で連続した睡眠を奪う能力。
敵の親しい兵員達の間に、間接的に思い込みを与える可能性。
これはある兵士の言動を
(その兵士が聞きつける奇妙な声や音は、しかし他の誰にも聞こえない)
精神的に不安定として真剣に取り上げないというものである。
こうした感覚、声、奇妙な音や夢は、
特別なマイクロ波型式の波長のアンテナにより、ある程度の精密さで敵に強要できる。
〔マイクロ波で脳内に音を発生させる兵器『MEDUSA』:「サブリミナルメッセージも」〕
(2008年7月8日 WIRED)
米軍が初期開発に資金を拠出していた、
マイクロ波を使って脳内に音を作り出す非殺傷型兵器。
しかしその完成品は、筆者が『New Scientist』誌で報じたとおり、
戦場での活躍が想定される一方で、
ショッピングモールで利用される可能性も秘めている。
このプロジェクトは、
「耳に聞こえない音を使った暴徒の抑止」
(Mob Excess Deterrent Using Silent Audio)の頭文字を取って『MEDUSA』と呼ばれる。
少々取って付けたような名前のMEDUSAは、
長距離音���装置(LRAD)やその類似装置など、
単に音を投射するだけのものとは異なる
[LRADは、約270メートルの効果範囲にある対象に向けて大音量・高周波数の音声ビームを発射し、攻撃の意欲を無くさせることができるという]。
ソニーとサムスン電子
日本との関係
「東芝#DRAM」も参照
1986年、東芝半導体事業本部長川西剛[注 4]は国際担当専務の仲介で李秉喆会長や幹部総出のVIP歓迎を受けて建設途中の半導体工場を視察し、見返りに当時世界最大容量1メガビットDRAMを開発中の最新鋭大分工場を見学[17]させている。1986年、三星電子も1メガビットDRAMを開発し、東芝大分工場生産ラインを統括担当する製造部長をスカウトして大分工場と同等設備を有する製造工場を建設している[15]。
1987年5月にアメリカと日本へ研究所を設立し、1988年に半導体事業売上高9億5百万ドルで半導体メーカー売上高ランキング18位になる。
1988年、日本の半導体企業は半導体企業トップ10社中6社を占めるが、1991年バブル崩壊による資金繰悪化でメモリー事業撤退や工場閉鎖など大掛かりにリストラすると、三星電子は韓国政府のバックアップを受けて東芝、松下電器、三洋電機、シャープ、NECなどからリストラされた日本人技術者を高給でヘッドハンティングし、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めた結果、最新技術を得る[15]。
1992年、東芝とサムスン電子はフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結する。1993年、サムスン電子は韓国初の6メガバイトフラッシュメモリを開発する。1995年、東芝とサムスン電子は64メガビットフラッシュメモリ技術の共同開発で提携する[15]。
半導体メーカー売上高ランキングでは1991年は14億7千3百万ドルで12位、1995年は83億2千9百万ドルで6位、2002年から2011年まで米国インテルに次ぎ2位である。
2000年代から現在まで
Samsung Galaxy
1990年代までの韓国国内におけるサムスン電子の位置づけは、主要企業の中の一社に過ぎなかったが、上述の半導体事業での躍進などもあって2000年代以降は韓国国内の事業規模や韓国経済に与える影響面などは圧倒的なものを持つようになり、また、世界の電機メーカーの中でも有数の大企業に成長した。
特に1997年のアジア通貨危機は、国家経済の危機とは裏腹にサムスン電子を強力な企業に成長させるきっかけとなった。通貨危機で韓国の大企業30社のうち16社���破綻し、サムスン電子も韓国政府から公的資金が注入される事態となり、倒産寸前にまで追い込まれたが、破綻を避けるために広範な構造改革の断行や効率的な経営計画の実行などにより、サムスン電子は半官半民の韓国の将来をかけた企業として、グローバル企業への成長を加速させた[18]。インターネット・バブル崩壊後の2000 - 2003年にもサムスン電子は純益伸び率5%を記録した。
また、サムスン電子は、1990年代から半導体で得た莫大な利益を、2000年代前半当時としては次世代産業であったLCD事業や携帯電話事業に大規模に投資を行い、さまざまな製品の世界市場でシェアを伸ばした。またマーケティング活動とコマーシャル活動を大規模に行っている。例としては、1996年には「TOPスポンサー計画」を通じてオリンピックの公式パートナーになり、1998年には長野冬季五輪の公式スポンサーとなり、2000年代以降は継続してオリンピックのスポンサーを務めている[19]。
2009年に、サムスン電子は売上高基準でドイツのシーメンスと米国のヒューレット・パッカードを超え、世界最大のIT・家電メーカーとなった[20][21]。2009年のサムスンのシェアは、薄型テレビと半導体メモリで世界第1位[22][23]、携帯電話が世界第2位[24]、白物家電でも上位を占めている。また、同年には、2020年の目標として売上高4,000億ドル達成を目指すビジョン2020を掲げた[25]。これを実現するために、既存のセット・部品中心の情報、通信、AV事業(Infotainment)に、ソフトウェアとソリューションを中心とした医療/バイオ、環境/エネルギー、利便性/癒しなど暮らしの質を向上させるライフケア(Lifecare)を新たな事業領域に盛り込み、「21世紀型のビジネス構造」への変身を図っている。
2010年、自社で生産したExynosマイクロプロセッサをスマートフォンに搭載。さらに新規CPUコア(マングース)の独自開発に着手。テキサス州オースチンやカリフォルニア州サンノゼを拠点に研究開発が進められていたが、2019年に開発中止が発表された[26]。
ソニーとサムスン電子は、合弁で液晶パネルを製造するS-LCDを韓国の忠清南道に設立していたが、2011年、ソニー側が、合弁会社の株式を全てをサムスンに売却する形で合弁を解消した[27]。
2018年8月、2020年までの3年間に設備投資と研究開発費の合算で180兆ウォンを投資することを発表。既存のメモリー、��機ELパネルのほか、次世代通信規格(5G)に対応した通信インフラ設備やバイオテクノロジー、人工知能、自動車部品といった新規事業の育成にも乗り出すことを示唆した[28]。
2018年10月24日、NECと5G向け基地局の技術開発と営業で提携すると正式に発表した[29]。
2018年5月、韓国検察当局はサムスンバイオロジクスの粉飾決算疑惑の捜査を開始。2019年6月6日までに、証拠隠滅を指示した容疑でサムスン電子の副社長3人を相次いで逮捕した[30]。
2019年9月30日、中国のスマートフォン製造拠点である恵州工場を閉鎖。中国国内でのシェアの低下や製造コストの増加が問題となっていた。スマートフォンの製造は、閉鎖までにインドやベトナムなどの製造コストの低い国の工場に振り分け進められていた[31]。
沿革
1969年1月 - 三星電子工業(株)設立。
1969年12月 - 三洋電機の韓国でのジョイントベンチャーとして三星三洋電機を設立(1977年三星電子に合併)。
1970年1月 - NECの韓国でのジョイントベンチャーとして三星NECの設立。
1970年11月 - 白黒テレビ「P-3202」を試生産。
1973年 - 三星三洋電子設立(現・サムスン電機)。
1973年12月 - 三星家電工場を竣工。
1974年 - 三星電子東京事務所が開設
1975年 - 三星ジャパン株式会社 設立
1977年 - 三星電気(株)を吸収合併。
1978年7月 - アメリカに現地販売法人「SEA」を設立。
1980年3月 - 韓国電子通信株式会社を買収。
1980年9月 - ポルトガルの最初の現地生産法人「SEP」竣工。
1982年6月 - ドイツに現地販売法人「SEG」設立。
1982年9月 - ポルトガルの最初の現地生産法人「SEP」竣工。
1982年12月 - 韓國電子通信、三星半導体通信株式會社に商号変更。
1983年 - 三星電子株式会社 東京支店 開設
1984年2月 - 三星電子(株)と改称。
1984年 - 光州電子(株)を合併。
1984年 - 11月にイギリスに現地販売法人「SEUK」設立。
1984年12月 - アメリカに現地生産法人「SII」設立。
1987年5月 - 海外の研究所(アメリカ・サンタクララ、日本・東京)を設立。
1987年9月 - オーストラリアに現地販売法人「SEAU」設立、カナダに現地販売法人「SECA」設立。
1987年10月 - イギリスに現地生産法人を竣工、生産開始。
1987年 - 李健熙(イ・ゴンヒ)が2代目会長に就任。
1988年 - 三星半導体通信(株)を吸収合併、第二創業宣言「21世紀に超一流企業に」。
1988年10月 - フランスで販売会社「SEF」設立、タイに現地生産法人「TSE」設立、メキシコに現地生産法人「SAMEX」竣工、生産開始。
1988年11月 - にサムスン半導体通信を吸収合併。
1989年8月 - マレーシアに現地法人を設立。
1992年2月 - チェコスロバキア(当時)に現地生産法人を設立。
1992年7月 - 中国・天津にVTR生産法人を設立。
1993年 - 李会長がフランクフルトで「新経営」宣言 量より質の経営へ。
1994年11月 - 障害者のための工場、無窮花(ムグンファ)電子設立。
1996年3月 - アメリカ・テキサス州オースティンに半導体工場を着工。
1997年1月 - 第2創業を宣言。
1997年 - アジア通貨危機で従業員の30%を削減。
1998年 - 日本サムスン設立。
2000年10月 - 中国に通信技術研究所を設立。
2004年4月 - ソニーと合弁で液晶パネル製造会社S-LCD設立。
2004年4月 - 東芝と光ディスク装置の合弁会社 東芝サムスンストレージテクノロジーを設立。
2004年12月 - サムスン電子とソニー、相互特許使用契約の締結。
2007年11月 - 家電販売で日本市場から撤退。ソフトバンクモバイル向け携帯電話の製造・販売は継続される。
2008年4月 - 複数の違法行為の責任をとって李健熙会長兼CEOが辞任。
2008年11月 - 本社をソウル特別市中区太平路から同市瑞草区瑞草洞へ移転
2010年3月 - 李明博の恩赦により李健熙が会長に復帰
2016年11月 - オーディオ機器・車載インフォテイメント関連企業のハーマン・インターナショナルを約80億米ドルで買収。
2017年2月 - 全国経済人連合会(全経連)に脱退届けを提出。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%B3%E9%9B%BB%E5%AD%90
ソニーとサムスン電子はレイセオンから告訴されていた。
積層半導体の製造に関するレイセオン社の特許請求は、自明性のために適切に無効にされた、と連邦控訴裁判所は裁定した。
行政上の有効性の課題を決定する特許庁である特許審判委員会は、特許が先行技術に先行するというレイセオンの主張を正しく拒否しました。米国連邦巡回区控訴裁判所は4月2日を裁定しました。
先例のない決定は、レイセオンが特許侵害で訴えたソニー株式会社とサムスン電子株式会社の勝利です。レイセオンは、デジタルカメラやスマートフォンで使用されているソニーとサムスンの光検知モジュールが侵害されていると主張しています。
グーグル直訳すみません。
https://www.docketbird.com/court-documents/Raytheon-Company-v-Samsung-Electronics-Co-Ltd-et-al/Text-of-Proposed-Order-Proposed-Order-to-Terminate-Stay/txed-2:2015-cv-00341-00126-001
COME NOW, Plaintiff Raytheon Company (“Raytheon”), and Defendants Sony Corporation, Sony Corporation of America, Sony Electronics Inc., Sony Mobile Communications (USA) Inc., Sony Semiconductor Corporation, Sony EMCS Corporation, Sony Mobile Communications Inc., and Sony Mobile Communications AB, (collectively, “Sony defendants”), OmniVision Technologies, Inc. (“OmniVision”), and Apple Inc. (“Apple”), Samsung Electronics Co., Ltd., Samsung Electronics America, Inc., and Samsung Semiconductor Inc. (collectively, “Samsung”) (Sony defendants, OmniVision, Apple, and Samsung collectively, “Defendants”) (collectively, “Parties”) hereby jointly file this Joint Report and Joint Motion to Terminate Stay and Dismiss. The Court, having considered this request, is of the opinion that the Parties’ motionto terminate stay and dismiss Plaintiff’s claims against Defendants with prejudice and Defendants’ counterclaims against Plaintiff as moot should be GRANTED.IT IS THEREFORE ORDERED that Plaintiff’s claims for relief against Defendants are dismissed with prejudice and Defendants’ counterclaims against Plaintiff as moot. IT IS FURTHER ORDERED that all fees and costs shall be borne by each party incurring the same.Case 2:15-cv-00341-JRG-RSP Document 126-1 Filed 06/08/18 Page 1 of 2 PageID #: 3094
〈原告レイセオン会社(「レイセオン」)、および被告ソニー企業〉今すぐ来なさい アメリカ、ソニーエレクトロニクスInc.、ソニーモバイル通信(米国)Inc.、ソニー半導体企業、ソニーイーエムシーエス企業、ソニーモバイル通信Inc.、およびソニーモバイル通信AB ,(集合的に「ソニー被告」) OmniVision のソニー企業 従って、テクノロジー,Inc.(「OmniVision」)、およびアップルInc.(「アップル」)、サムスン電子Co.,Ltd.、サムスン電子アメリカ,Inc.、およびサムスン半導体Inc.(集合的に「サムスン」)(集合的のソニー被告、OmniVision、アップル、およびサムスン、「被告」)(集合的に「パーティー」)は、このジョイントリポートとジョイント動作をターミネート滞在と解雇に一緒にファイルする。 法廷は、この要求を考慮し、パーティーのmotiontoが終わるという意見をもっている 人民集会がGRANTEDであるはずであるので、原告に対する先入観および被告の反訴を持つ被告に対して原告の主張を延期し、解雇する 。被告に対するリリーフについての原告の主張が先入観および被告の反訴によって原告 として 未解決 に対して退けられるそれであるTHEREFORE ORDERED。すべての料金とコストが2 PageID#の個々のパーティーを招くthe same.Case2時15分-cv-00341-JRG-RSP文書126-1ファイリング06/08/18ページ1により負担されることとするそれであるFURTHER ORDERED:
1 note
·
View note
Text
About a girl
1
【翻译by宵 严禁转载】
......这,本该是不怎么值得在意的小意外。不过就是说梦话轻声唤了以前恋人的名字而已——这一个月,弥生常常做和那天早上一样的梦。然后醒过来时一定会满身大汗。讨厌的梦。说不定都能称作是噩梦。
弥生坐到凳子上,趴倒在吧台。她的脖子上是带有挂锁的项链。用别针固定住小洞的T恤上,套着皮夹克。还有镶着花边吊袜带的皮短裤,简直如穿着捆绑用具一样紧紧包着身体。
……为何身为执行官的自己,会在这种地方呢。头昏昏沉沉的。脸挨着的桌子上是酒瓶。是薄荷杜松子酒的气味。
「——起来了啊,美月(Mitsuki)。今天你的演奏也很不错哟」
吧台对面经营Live House的女性来搭话了。妙龄的玉体带着一些圆润,然而她的声音却沙哑得厉害。
「......美月?」
一瞬间,她还以为是在叫其他的人。
「你又在打瞌睡啦?」
「......啊,嗯。醒了」
「真的吗……」
「没事,已经,完全清醒了」
弥生脑子深处还阵阵刺痛着,她一边皱着眉头,一边抬起了头。
美月——这是现在,六合塚弥生所使用的假名。然后,她想起来自己身处何地了。离废弃区划很近的高円寺的Live House——“Nachtigal”。
这是给西比拉非公认乐队提供演出场所的无限接近违法的地方。从舞台看过去的左侧面,是弥生所在的吧台处。天花板上悬挂下来的架子上,陈列着五颜六色的酒瓶,像是隔开客席区与调酒区的格子。允许西比拉非公认艺术家的这类Live House里,起纠纷也不是什么怪事,所以运营方也备有一些防卫措施。每天夜里都有地下艺术家演奏的地方,可不是什么轻松的娱乐设施。
今晚的演奏已经全部结束,观众也已全部清出场。好像,本来自己应该是在和侃侃而谈说受到自己影响要开始学吉他的女孩子观众聊天的。不过,这之后的记忆就断片了。
「你刚才睡着了哟」
女性嗤笑道。
「……我睡了多久?」
「20分钟……左右吧。你倒是与外表不相符,不怎么能喝酒呢」
「一喝就困。这样喝的话也不能演奏了所以在控制着不喝」
「意外地挺娇生惯养」
「……也不是这样哦」
弥生寻找着自己的吉他。是Fender的Telecaster。沙色渐变的琴身喷上了黑漆。一路陪伴自己过来十年以上的搭档,微微靠在墙壁上。
「对了,有收场工作,我得去帮忙」
「老早就结束了哟」女性扬起下巴,另一边留下的乐队成员围坐成一圈在吵吵闹闹。「嘛,都演奏得那么精彩了,有什么关系。我们的外援。——对了,给你这周的工钱,拿出终端来」
弥生用自己的便携终端靠近吧台上放着的支付终端。确认全息投影上的汇款金额。比以往稍微多了一点。或许是看到了她惊讶的神色,女性先一步说明道。
「后天的份我也先加进去了哦。一般情况下,以Live House为据点演出的乐队的外援都是光想着赚钱的家伙,不值得信任,你却比较特别。倒不如说,多亏了你,想在我们这里演奏的乐队都多起来了。这,是信赖的证明哦。」
信赖吗,弥生微微歪了下头。要是知道身为执行官的自己隐藏了身份进行着潜入搜查的这个事实,她会有什么反应呢。
嘛,肯定不会有什么好反应吧。
「我去打个招呼」
「那帮人正在捣蛋呢,和他们扯上关系的话色相会浑浊的哟」
「事到如今说什么呢」
弥生离开了吧台。清水混凝土风的站席,就这样变成了参加乐队的庆祝会场。高脚圆桌零零星星地排列着,上面放着空酒瓶和还残留着泡沫的啤酒杯,还有稍微打湿的高脚杯,但是庆典参与者的兴趣,完全集中在箱子里塞着的燃烧瓶、火药和玻璃片,还有混着小螺丝钉被塞进小容器里做成的土炸弹这类东西。
「蠢货,这样做没法当成武器用吧」
「……但是,我在地下论坛搞到的《腹腹時計》(1)上面,就说是这样做的……」 (注1:《腹腹時計》:(from Wikipedia)1974年出版,是一本记载了炸弹制作方法和游击队战法的教程书,由引发了三菱重工爆炸事件等连续企业爆炸事件的日本极左组织——东亚反日武装战线的狼班地下出版。)
「要真按照一个世纪以上前的参考书来做的话,该怎么办啊,蠢货!听好了,燃烧瓶的制作方法,是这样的啊」
「……哈啊」
简直像是指摘新人弹吉他的方法的前辈一样,划分今天live座位的男人正在摆弄手里的瓶子,一步步组装成燃烧瓶。他的身边,是个应该只有十几岁的少年,下宽脸,细眼,孩子气的脸上浮现着不满的表情。以自己方式努力积累的知识被全盘否定,想必很烦躁吧,不过他已经变得顺从了。
这一个月内,这已经是弥生无数次见到的光景。他们在西比拉社会下失去了居所而彷徨,开始从事反西比拉抵抗活动。然后因色相恶化被街头的扫描器捕捉到。用公安局的执行工具来测定犯罪系数,即时量刑的结果,好的话被送往隔离设施——坏的话,就会被处理(清除)。要是这样的话,按道理该对少年说,赶快滚回家去,然而这不是自己该做的事。
(今天那帮人,也没出现……吗)
弥生决定,向卖力制作燃烧瓶的男人打个招呼后就回家。
已经不早了。而且对被要求和自己同行的她也不好意思。话说,那孩子在哪里——?
「呐——」
「哦哦,美月啊」男人停止了手上的活,抬起头。「今天的演奏也最棒了。简直是,最近啊,好像还有乐队因为希望你来表演,故意说缺人的。嘛,这样观众也会高兴吧」
男人戳了戳旁边的少年。今天弥生,确实是作为故意缺人的男子乐队的吉他手而出演的。本来的吉他手,是这个少年。与年龄不相符地有高超的技巧,却被人说演奏太过自大,被排除在外了。
「……嗯,谢谢」
「怎么了。看你情绪不高啊。去多喝几杯啊。虽然工钱不高,不过酒随你喝。现在这年代很少见的哦,不是代替饮料而是真正的酒」
男人递来了酒瓶。确实,这��店摆放的,是真正的酒精类,不过也就仅此而已。反正是仿制的私造酒,味道很差。和已经去世的同事因一些机缘而分给自己的真正的酒,味道根本不同。
明天一定会宿醉吧,虽然这样想着,但也不能不接受别人递给自己的酒。不该做出异常的举动。如果被怀疑,会对潜入搜查造成阻碍。
「――我说,你们啊,别老让美月喝酒哦」
然后,身材娇小的女子插了进来。身着添加了粉色线条的灰色连帽卫衣,染着一头黄发。涂着浓眼影。尽管她化了亮闪闪的光泽明艳的浓妆,说话的音调却留有一些稚气,仍是10代中期样子的少女。
她用纤细的手猛地一下夺过酒瓶,向坐在地上的少年扔了过去。少年没能好好接住,酒瓶哐啷一声掉在地板上,里面的酒飞散四溅。
「喂,这瓶子很宝贵的啊,臭小鬼」
男人面露不悦,瞪着少女。
「比起这个,要是美月搞坏了身体才是问题吧?」少女好像完全不介意一样地娇声说道,然后望向吧台。「毕竟要是没有很多客人为了想听美月的演奏而来的话,垃圾的数量也会减少呢」
嘛是这样没错,Live House的主人用沙哑的声音回答道。这个Live House,对出入的反西比拉抵抗组织成员无偿提供作为武器素材的空瓶,不过也只是施舍他们要废弃的份罢了,所以原本消费的酒数量减少的话,能提供给他们的瓶子数量也会减少。
「――就是这样,美月要回家了,这之后,你们就自己慢慢玩吧?」
「你以为你是经纪人啊」
「实际上,我就是」少女好像在担心弥生一样,抬起头看她。「脸色,很苍白哦。真的不休息不行」
「……好像醉得很难受」弥生附和着她的话。
「你这不行啊。好了好了,回去吧」
弥生背起她刚才帮自己拿来的吉他盒。
连接地上的楼梯间的墙壁上,Live通知和乐队成员征集的招贴新旧混杂,像是诉说着一段历史的地层一样重重层叠。
虽然这是个能使用全息投影广告,以及通过虚拟社区(2)针对目标客户进行直接营销的时代,像这样怀旧的告知手段,作为一种形式美而留存着。不,正因如此,在Live House进行演奏这个行为本身,就是怀旧主义的产物吧。 (注2:即CommuField,PP1第4话中用户使用虚拟形象游走的网络社区)
无论是出演方的乐队也好,还是动员的观众也好,净是被这个时代排斥的人。无法适应西比拉社会——,又或者是失去了居所,虽说如此,也没法成为废弃区划的暴徒(法外之徒),是一群在边缘徘徊的人。
Live House位于面朝轨道线路的混居大楼地下。到最近的车站只能步行。弥生和少女手牵着手,行走在没有路灯的昏暗的轨道线路边。
黑暗没有对视野造成不便。空气被冬日寒冷打磨抛光得透明。夜空中的月亮,像是想从天空中俯瞰地面而睁开的巨人之眼,巨大而苍白。
据说从前,都市因凝集的人们的活动,连夜晚也被照耀得灯火辉煌,吐出的生活的热量或是气体笼罩了天空,而现在使用化石燃料的车辆得以肃清,人口也降至过去的十分之一左右,这22世纪夜晚的天盖,终于夺回了星辰与明月。
在旁边的铁路上,不知延伸至何处,由一节节车厢连成而不见尽头,如钢铁蛇一般的,无人驱动的货物列车在疾驰。强大的风压形成的风,吹乱了头发,所以弥生用手梳理。于是她感受到了手背上的水滴。
是雨滴。月亮还是不变地从空中俯视着,所以说不定是阵雨,然而降雨很麻烦,这点不会改变。
「明明说降水概率是50%的」少女叹了口气。「这之后好像降水概率会更高,出来了真是正确选择」
「……谢谢你,要是我和那些人一起外出了,就危险了」
少女和弥生两人,都因降雨,全身的图像上出现了闪烁(噪点)。
全息投影,对人类的视觉能实现完全的容姿上的欺骗,然而唯一被称作其天敌的,就是降雨等坏天气。既然投影使用的机器和投影到的地方不同,空气中产生的水滴就会让光发生折射,全息投影就会产生块状噪点。
确认周围没有人影,弥生仅仅解除了自己的全息投影。她操作着左手腕上戴着的执行官设备,皮衣风的投影就瞬间消失,取而代之的是穿着黑色长裤和西装的样子。清晰锐利的鼻梁,端丽的容貌少有妆感,光泽柔顺的黑发前面剪成齐刘海,后面则扎成马尾。
回到了公安局刑事科一系执行官的样子的弥生,开启了无线通信,进行定时报告。
《猎犬2号呼叫牧羊犬1号。已与协助者一起从潜入场所离开。现在准备返回》
《牧羊犬1号,了解》通信另一头年轻女性的声音——一系监视官常守朱好像担心着的语调。《六合塚小姐。辛苦你了。回去路上请小心。好像也开始下雨了,在这个时期要是淋湿了会感冒的》
通信结束。
那时,少女握着弥生的手更用力了。全身的全息投影被雨水渗透,身体渐渐僵硬的她的手,好像因冻僵而发抖,然而这不是因为夜晚空气的寒冷。而是恐惧着更大的东西而颤抖。
「一定要小心啊,要是被人发现你是公安的话,就全完了」
「……我知道」弥生在没有其他人的小路上,将这个幸存的少女——未来的手,握得更紧了。「――你和你的孩子,我们一定会守护的」
事情的开端,是一个月前——在河岸边发现了尸体和失去意识的少女。
通过公安无人机的自动报警功能被送到附近急救医疗设施的少女,一恢复意识,就要求向公安局报警。到访病房的,是被命令追踪调查河岸边发现的尸体的公安局刑事科一系的常守朱监视官。以及执行官六合塚弥生,共计两人。
然后少女要求道――「救救我的孩子」。
少女自称叫未来,但没有说姓——是没法说出来。尽管她对施加在自己和被发现的尸体身上的暴力行为做出了仔细的证言,而另一方面,关于她自身的事情,却有着很多缺漏。
不仅仅是姓氏,还有家族成员、出身地以及上的学校、交友关系等都不记得了。在医院的检查记录也没有找到。少女发生记忆混乱或错误的可能性很高——担任精神护理的心理医生,向弥生等人说明道。
原因很明确。和被发现的尸体一样,少女全身都留有被施加过偏执暴力的痕迹,侧头部和后头部处,受到了使用方形木材之类的钝器导致甚至给头盖骨造成裂缝的强力打击。在病房一开始见到未来的时候,她的脸的样子很凄惨。嘴唇被切掉,鼻子被打烂,眼皮肿起,脸上布满被打得青黑的,或者可以说是红黑的斑块。
弥生到现在,每当想起那时未来的样子,心情都会变得很糟糕。
因执行官的工作关系,也见过不少被弄成那样的女性,然而在远远超出它们的凄惨的伤痕面前,她的心中积淀了对少女使用暴力的那帮人的厌恶。就算说是憎恶也不为过。
未来,还只有14岁。以及被发现的尸体也是10代后半的年轻女性。根据未来的证言,两人都是因共同的理由在街头迷路,然后被自称是保护少年少女的NGO团体保护,这之后等待着的,却是监禁与暴力。成为搜查对象的这个组织名为——“箱舟”。(3) (注3:箱舟即方舟。原文使用的即“箱舟”这两个汉字,所以后文也沿用这个直译。方舟同时也隐喻避难所,隐隐呼应了书的标���“ASYLUM”)
在以全面保障终生福利为卖点的“西比拉系统”运用之下,在街头迷路这样的事情本不可能发生,然而现实中,这样的异常事态发生、被报告,很多都是因为家庭内部的问题。
西比拉不会触及单个家庭的问题解决。之所以如此,是因为在西比拉运用下的社会,各家庭成员的家庭组建,是通过配对判断(推荐)得出的,仅仅包含能结成最合适关系的人,理论上,不应该会发生问题。即便如此如果有在家庭内引发问题,使精神色相恶化,而成为潜在犯的人,这就是给完美的系统造成运行阻碍的bug,个别地进行隔离或处理就好了,这就是这个社会的判断。然而,以这样的态度,无论如何都会晚一步才作出应对。这次的案件,说是抓住了这个空隙也没错。
弥生一回到为潜入搜查而准备的安全屋,首先就让未来睡下了。解除她的全息投影,一定是等到回到卧室,熄灭灯光,让周围完全浸入黑暗中之后。从被发现后一个月间都使用精密医疗器械进行着治疗,虽说如此她的伤还没有完全好,这是对她的体贴。
之后弥生向在客厅待机中的朱进行了报告。因为执行官不能在公安局大楼之外进行单独行动,所以将离潜入地“Nachtigal”很近,面向合租的集合住宅中的一间作为潜入搜查的据点,由监视官朱在此常驻。
坐在沙发上的朱,留着短发,娇小的身躯穿着白衬衫和灰色的紧身短裙。长着一张说是才十多岁的少女也说得过去的天真无邪的脸,然而她听着弥生的报告,浏览全息投影出的搜查资料的目光中,闪烁着周密地要寻找线索的猎犬一样的光芒。和在大约一年前——刚分配过来的时候外表没什么变化,然而能看出她的内在发生了巨变。
弥生抱着胳膊,背靠墙说道。
「要是如那孩子的证言所说,就是有相当多数量的少年少女,被反西比拉抵抗组织绑架了」
「其中一名作为尸体被发现已经过去了一个月……情况不容乐观呢」
朱的言语中透着焦急。
判断被认为记忆缺失的未来的证言具备一定可信性的理由,是她所描述的男女的姓名和有某些外貌特征的人,有好几个都存在于公安局的下落不明名单中。他们失踪原因各异,但都有色相恶化的征兆,最终失踪。
公安局将此认定为特定组织实施的集团绑架案件。正式交由一系担任搜查。然后依照未来的证言,被认为是“箱舟”进行搭话(挖角)地点的“Nachtigal”,从对其潜入搜查开始,已经过去了将近一个月的时间。
「虽说如此,不小心让六合塚小姐看到武器制造过程的这程度,说明他们开始放下了戒备。能继续这样下去的话,应该马上就能抓住目标的狐狸尾巴。下次的演出,是什么时候来着……」
「计划是后天」
她操作着手腕上的设备,展示演出日程表。因为无法频繁地去Live House,除了过去是西比拉公认艺术家的弥生以外,没有其他适合潜入搜查的人员。弥生全身使用全息投影伪装,用美月这个名字担任以“Nachtigal”为活动据点的西比拉非公认艺术家,同时依然是用全息投影伪装的未来作为经纪人,继续着情报收集。
弥生弹吉他的本领,受到了好评。自从成为执行官之后,就变得很少弹了,不过比起想象中,自己的身体好像仍没有忘记过去不断重复的动作。最近,每周演出两次、三次的情况也不少见。然后接下来委托外援的,是尽管非西比拉公认,却有传言说马上就要成为公认的四人女子乐队,还算有些人气。
「在“CommuField”售卖的门票已经售罄……,比起今天出入的人数好像会增多呢。“箱舟”会混在人群中出没的可能性也很大」
「再加上,缺席的担任吉他手的女孩子——,因恋爱事务对乐队置之不理而休息。违法外宿好像也会增多」
弥生用全息投影展示出问题的少女的信息。与染成红色的头发一样鲜红的吉他。她用的是半原声吉他,弥生觉得稍微有点少见啊。现在这个时代,内置各种电子机器的型号是理所当然的,而必须做成中空的型号则很少见。
「你觉得,那帮人会盯着她来吗?」
「毕竟作为目标的条件都集齐了呢」朱点了点头。「——果然,后天,我也潜入吧」
「……这个吉他手少女也怀孕了吗?」
「她在CommuField的留言记录里有这些文字,在医疗机构的检查记录中也确��了。这之后,我要和唐之杜小姐确认资料,六合塚小姐也一起参加吗?」
志恩的名字出来后,弥生的身体变僵了。不小心想起了那天早晨的小意外。那之后,就没有好好对话过。
「……不了,我现在身体感觉不太舒服,就冲个澡然后睡觉了」
「这样啊。那就,晚安。请保重身体哦」
朱可能是顾及到她,爽快地答应了。
「――你还真是没变呢」
「什么?」
「没有担心执行官身体的监视官哟,一般情况下」
弥生苦笑着。一般情况下,监视官会把执行官当做自己执行职务的道具来使用。是可替代的消耗品——好的话当成猎犬,也不会认他们是平等的人类。本来执行官,不过就是在犯罪搜查这一会招致色相恶化风险的危险领域中,作为保护监视官精神色相(PSYCHO-PASS)的防波堤而被使唤的存在罢了。然而,名叫常守朱的这个女性却不一样。她会把作为潜在犯的自己等人同样当做是人一样,平等地对待。
这样的态度弥生并不讨厌,而且也觉得她是自己的监视官真是太好了。
「请不要老是熬夜哦,你要是倒下了,对我们一系也是麻烦事」
†
「明明我也和她一样地努力着呐」
公安局综合分析室分析官――身着深红衬衫套着白大衣,打扮华丽的唐之杜志恩,叼着她喜欢的品牌的细香烟,说着俏皮话。混杂着她的呼气,紫烟慢慢地在房间里升起,渐渐被空调吸走。
《嘛,嘛,我想六合塚小姐也在担心着你哟》
分析室的多面显示屏上显示的朱脸上浮现了苦笑。
「真的?那希望她也至少来封短信啊。——哈啊,这感觉已经像是被工作夺走了恋人哟。话说,小朱?弥生她,是不是好像太陷入这次的案件啦」
与既是同事又是恋人的弥生,在这一个月内,只有隔着屏幕的对话。这还是包括了与监视官朱同行的情况,两人单独说话的机会急剧减少。曾经有空的话就到访分析室,在工作间隙进行的压力缓解,现在也没法做。她从来没有觉得物理上的距离,像现在一样可恨。
公安局综合分析室的第二分室、实质上、说是志恩的私人房间也没问题。基本上,每天的大部分时间都是在这个地方度过的。
《......确实,从决定潜入搜查开始,马上就行动了呢。――这次的案件,是空前的大规模集体失踪,所以有很强的危机感吧》
「啊,这倒不会噢。弥生她,并不是为了社会而努力的类型噢。要是她是这种小认真的话,现在也应该还是西比拉公认艺术家哟」
《说起来,你听过六合塚小姐的歌吗?》
「我啊,没听过那孩子的歌啊」
《有点……意外呢。我还以为要是唐之杜小姐的话,她应该会给听的吧》
「弥生讨厌那样哟。好像她自从当了执行官后,就不太会去弹吉他了」
《不去弹......吗。而不是,不能弹》
「啊,刚才的问法,有点刑警的感觉呢。果然,你很在意这点?」
《不,我不是这个意思……,不过,要是她自己特地不去弹的话,我想这次的潜入搜查是不是就给她带来负担了呢……》
「虽然我觉得不用担心这对她色相有影响呢」志恩看向定时发送过来的弥生的精神色相推移数据。「倒不如说有点改善的趋势。特别是在演奏之后,呢」
《……这,是真的么》
「我没有对小朱撒谎的道理吧。本来弥生当执行官、也是因为当公认艺术家时的——」
说到这里,志恩突然缄口不言。
「……不该在她本人不在的时候说这些呢。只不过,弥生身上也发生了很多哟」
弥生成为执行官的背景,很大一部分是因为自己没能阻止从非公认艺术家堕落到抵抗组织的恋人而产生的自责感。可能是因为这个,直到因这次的潜入搜查而不得不弹吉他的情况之前,很少见到她弹吉他的身影。只不过,好像她的保养没有倦怠,指甲也总是修整到合适的长度。志恩,喜欢被这样显露出自律心境的弥生的手指抚摸的感触。
「话说,那个告密的女孩子有没有可能是为了拒绝进入潜在犯设施而做出了虚假的发言,小美佳在担心这一点,不过小朱你的见解,是觉得应该相信她吧?」
《她的犯罪系数在隔离的境界是事实……,不过要是做出虚假的证言的话色相会浑浊的。她做证言的期间,计算出来的精神色相值没有摇摆》
「就是说用精神色相来测谎呢。嘛,我也用同样的宗旨先回答她了。现在,这个数值在80以下附近所以还不能安心,不过数值好像安定下来了」
《帮我大忙了》朱点点头。《我会下指示让她继续和宜野座执行官一起查明未来小姐的个人信息》
「都是一本正经的人,说不定意外地会合拍呢。那两人」
霜月美佳监视官,是在今年春天未成年时被选拔为监视官,可能也因为才10代,还有很多经验不足的方面。
《我觉得宜野座先生,比起当监视官的时候变得渐渐圆滑了哟?》
「就算如此,也还没到征先生那样噢」
另一方面,宜野座伸元执行官,是曾经为监视官的男人。他以前是个典型的过于一本正经的男人,不过现在和已经殉职的父亲一样,性格中慢慢展现出柔软了。
「嘛,小未来的调查交给宜野座君他们后……,那孩子要是完全没说谎的话——,那要是真的话也说明不了什么呢」
听到志恩的话的朱,笑容消失了。
《这么说,果然——》
「……她和被发现的尸体一样,都有过怀孕和生产的经验。而且是双胞胎。应该是用了剖腹产呢。手术的痕迹也基本上没留下,应该是使用了充分的医疗设备。那个叫“箱舟”的组织,有着相当的规模哟」
志恩将被委托进行的检查数据传送到朱的监视官设备上。未来的全身检查数据用3D显示出来。志恩用手指触碰了多面显示器的其中一台,在那上面显示的模型数据中,下腹部耻骨结合上缘处长着的阴毛上端附近,有左到右描过的红色记号。即所谓横切的方式,手术痕迹很不起眼。
《……遗体也一样,对吧?》
「对,虽然没法连时期都确定,不过要是和小未来的证言一样的话,被杀害的女性应该也是在“箱舟”那里生下了孩子噢」
《——也就是说,“箱舟”的目标,是有着色相恶化倾向,并有怀孕征兆的10代至20代女性》
「女孩子的话,好像几乎可以确定是这样呢」
《就算如此,那帮人是怎么得到情报的呢》
「在医疗机关的检查数据,还有CommuField的留言,只要是公开情报,就随处可见,要获取也很简单哟」
《就这样接近找到的目标,花言巧语地劝诱之后带走……》
「可是把她们杀死,是因为他们是异常犯罪者的集体吧?」
《.……不,虽说这确实是异常犯罪,不过我觉得“箱舟”的成员,不是为了享乐而杀人的。绑架孕妇,让她们生产后再杀死——他们的目的,是为了确保婴儿吧》
「将孩子们从零开始洗脑教育,是想成立私人军队吗」
在今年年初,异常犯罪者引发了都市内的骚乱事件,以精神污染(心灵危害)为媒介的混乱状态将大量市民卷入其中,招致了互相杀害的惨剧。
《……在现阶段,虽说还无法断言,不过我总觉得不是这样的》
「为什么?」
《要是想成立私人军队的话,绑架少年少女再教育他们就足够了。本来,如果是因色相恶化而被逼入不得不失踪的状况的孩子们,会对社会怀有充分的憎恨。但是,从婴儿开始教育的话既费时间又费金钱。这不现实。而且……此前的骚乱事件以来,都市内的安保机构,已经得到进一步强化。我们正在拼命通过增加街头扫描实现死角排除,而且维持治安用的公安局无人机的装备也强化了。这个倾向,今后也应该会继续加强,如果把婴儿们培养成士兵,再进行革命,就太不慌不忙了。
——要是我的话,就会瞄准骚乱事件之后不久。但是,他们却没有这样做》
朱的眉间浮现了皱纹,神情变得险恶。她的瞳孔中闪烁着灿烂的智慧的光芒。向对方同化——对对方的行动作出解析/模仿/理解,推理其目的。从朱的一举一动中,志恩看到了现在已经不在的,曾是一系的同伴的男人的影子。坠入黑暗,行于孤独,然后将枷锁冲得粉碎而离去的男人——她中断了漂泊。想着已经不在这里的人也无济于事。
《……现在的判断材料太少了呢。不过,我想他们确实是要给孩子们施加某种教育》
「哎呀,你刚才没说不可能是要把他们培养成士兵吗」
《说了,所以,即使不是反西比拉的思想教育,他们的想法应该是要对得到手的婴儿施加某种统一的教育。要是情报再多一点就好了,现在变成全都是推测的情况了呢……》
「那,如果想要孩子的话,明明不杀害她们,不断让她们怀孕再生产就好了,为什么要杀掉呢?」
《这点……,也是我有点想不通的地方呢。仅仅是杀害生产后的孕妇这个行为,和其他的比起来就有种轻率的感觉。要是杀害掉的话就必须得冒着新的风险寻找孕妇,原本也可能像这次一样因为抛尸而被发现犯罪行为。然而,如果有即便如此也不得不杀害的理由,那就是,因为更加不合理的情感……是什么呢,有种恶心的感觉……》
「这一块,让我再稍微调查调查吧?」
《……好,拜托你了。不过,志恩小姐不也很累了吗?》
「没这回事。最近呢,因为都没见到弥生所以不知疲惫哟?」
《哈啊》
虽然这边开的玩笑行不通而扫兴了,不过这种纯真就是朱的优点。
「――话说小朱啊,你和弥生……没睡过吧?」
《……你,你在说什么啊》
显示屏对面的朱面红耳赤,不自觉地就探出了身体。太好了,还是往常的她。志恩喜欢在变了很多也失去了很多的一系中,从好的意思来说仍留着以前那份纯粹的朱。
「嗯~,果然,没有吗。讨厌啦,弥生她,最近,完全没有渴求过人家,我还以为她是不是劈腿了……呢。不过,好像不是这样……。啊,对了对了,小朱有没有过同性的性——」
《我要挂了,晚安》
朱切断了无线通信,多面显示屏陷入沉默。
这之后志恩,在分析室坐镇的沙发上小睡了片刻。
正好30分钟。之后志恩从沙发上起身轻轻伸了个懒腰,穿上拖鞋走向桌子拿烟。弥生没来就无论如何失去了干劲,便没有选择高跟鞋而是选择了轻松的拖鞋。一边想着,这样不好啊,一边叼着细香烟(Fortissimo)(1),移动至分析室的其他区域。志恩常驻的综合分析室中,存在着治疗负伤执行官专用的医疗区域。然后现在,志恩前往的,是调查案件的遗留物和被害者遗体的解析区域(停尸房)。 (注1:文中这个香烟品牌叫“Fortissimo”,意思是音乐中的极强,通常用ff表示;在现实生活中存在的品牌应该叫“Pianissimo”,意思是音乐中的极弱,通常用pp表示;现实中据说Pinanissimo是最受日本女性喜爱的女士香烟品牌,包装都非常精致很适合颜狗,口味也多种多样)
将手腕上的移动设备盖在认证终端,打开了门。符合处理死者的场所的静谧。说不定是空调开得太强。稍微有点凉飕飕的。感知到志恩进入房间,灯光亮起。
配置在房间中央的解剖台和硬聚氨酯地板等等,是在医学院时代司空见惯的东西,不过在天花板的照明器之间配置的全息投影仪,还有连接在解剖台上的带连接线的手套和VR头显头盔,则是公安局独有的设备。本来,是被设计成要与验尸用的无人机同步动作,进行远程解剖,不过尸体解剖这一行为本身就会招致色相恶化,所以现在朝无人机进行的全自动化解剖推进了,其结果就是这设备变得有名无实。内部的抽屉式尸体安放装置也全部是空的,有几个是被志恩当成私人物品的收纳在使用。
虽说如此,要运用这些设备的话也会有用处。
她启动了投影仪,解剖台上投影出女性的裸体。躺着的是,和未来一起被发现的女性的尸体。真正的遗体,已经化为骨灰了。本来,应该要从遗体状况判断,进行对犯下罪行的那帮人的解析(侧写),不过遗属的精神保护被视为最优先事项,在手续耽搁中尸体被火化了。
虽说如此,回收之后医疗设施方记录下了尸体的全身数据,帮了大忙。通过调出厚生省的数据存档,能实施二次解剖。本来,各种手续很麻烦,不过用公安局的权限强行取得了数据。
「那么,也来做下仿侧写……吧」
志恩戴上手套,同步了手指的知觉。将手放在全息投影的裸体上,便传回肉的触感。用指尖按下,确认了触觉的精度。尸体的肌肉产生了死后僵直,透过皮肤之下残留着柔软的脂肪层传来硬硬的触感。��着戴上了VR头显。尸体的臭味再现在鼻腔里。没有问题。继续进行二次解剖。
对被实施在尸体全身的暴行之后的惨状,她不由得皱起了眉头。在尸体两手腕上有像是擦伤的痕迹,这恐怕是被绳子绑住而吊着的痕迹吧。还有全身都被殴打过。损伤尤其严重的地方,是从肚脐到外阴部之间的地方。下腹部被施加了偏执的殴打,骨盆上产生了大裂缝。确认到就算万一得以生存下来,内脏器的损伤也是��次怀孕无望的程度。
是让人意志消沉的解析结果。
志恩吐掉了燃到嘴唇边上变成烟头的细香烟。嘴唇像轻微被灼伤一样火辣辣的。用舌头去舔,就有口红的味道。她暂时摘下手套,从插在胸前口袋里的盒子里拿出香烟,点上火。一口气吸了差不多一半,然后吐出烟气。要说这次的罪犯们,好像是色相相当浑浊的家伙。
「这种工作也是,不让潜在犯来做的话风险就过高了……吗」
她回忆起了医学院时代,法医学研修时的教官说过的话。“法医学从业者和监视官同等地背负着色相恶化的风险,但是对社会来说它是不可或缺的重要职务。”——之类的,就是这种情况。确实,对压力的耐性降低了的现代人,如果直面这种赤裸裸的恶意,不可否认地会引来色相恶化。本应实现了完美的安全的社会中,居然有能做出如此残酷的行为的人——对异常犯罪者过度的恐慌,会造成对西比拉社会这个完美的社会秩序产生疑问。只会导致在自己的心中萌生否定社会的感情。色相恶化——然后关系到犯罪系数的急剧上升。
特别是对异常犯罪,不得不实行尸体解剖的验尸官等,在西比拉统治下越和平繁荣,就为这种反差而折磨吧。在健全人之中,担任这个职务的人已经变得稀少,所以和将潜在犯作为搜查官而活用的执行官制度一样,也过渡至采用能适应验尸官职位的潜在犯的分析官制度。
但是,拥有医疗资格证书的潜在犯是稀有的存在,所以比起消耗和交换激烈的执行官,人数也更少。志恩被分配来的时候,是短时间出现空缺的程度。分析官是慢性的人手不足。这要是和以前的犯罪率一样的话,早就过劳死了吧。虽然对要彻底任意驱使没有其他可去之处的潜在犯的公安局的这种意图,也有很大不满,不过自己已经在这个职场7年以上了。恋爱也是如此,天性见异思迁的自己,就是这样停留在了一个地方。某种意义上来说,这也是西比拉引导的职业适应性——自己的天职吧,自己如此和解了。
「不过,这次的案子,有点难办吧……」
如此说着,还能轻描淡写,就还没关系。只不过是保持着把自己当成外人的眼光,彻底做出客观的判断而已。一埋头操作的话,就总感觉好像为了解剖尸体而活动手指的自己,分裂出了仿佛俯瞰着整体光景的冷静的另一个自己。被害者也好,加害者也好,都不会移情到他们身上。只要,去绞尽脑汁探索眼前的尸体,从中得到应该提取出的情报就行了。
现在也是如此。再次开始验尸,这次,则是看和这具女尸近似的外伤——全身被殴打/下腹部被偏执地打击/破裂的子宫——在公安局的数据库中搜索有没有具有这些类似特征的尸体,进行比较研究。其中很多是被发现溺死,其中也有腐烂进行着,身体组织的一部分出现粘液化的尸体。真凄惨啊,志恩如此想着,但决定不要再抱有这以上的过剩的怜悯了。她淡然地继续操作。
合计仅有十几具——找到了连接身份不明而被处理的无名尸体们的“线”。然后她想暂告一段落,摘下了头显,看了看钟。本来以为是个要花费一整晚的工作,不过现在是仍未黎明的时间。
她在解析区域的洗手台边摘下手套洗手。再现的喷溅血液,还有刺鼻的恶臭也消失了。残留在指尖的尸体的感触,被流水洗去。她回到综合分析室,坐在多面显示器前的椅子上。
连接被杀害的女性/无名尸体们的“线”——以刚才通过解剖得到的固定外伤模式为基础,再次进行搜索。将搜索范围扩大至厚生省的医疗数据库。她对搜索引擎的报告——推断被“箱舟”杀害的牺牲者人数,不由得目瞪口呆——实际是32名。
然后推导出的实施犯罪者们的心理倾向——对怀孕和生产这一行为,有过剩的逃避心理,又或者说是关心。以及抱有令人作呕程度的憎恶。
根据潜在犯的犯罪倾向,存在着偏爱人体特定部位的异常快乐杀人这种分类。这虽然也不是不能断定为其中的一例,不过怎么也想不通。让孕妇生产后再杀害——而且,施加了让其不能再怀上孩子的彻底的暴行。“箱舟”的杀害部队,是由正好有这一嗜好的异常者构成,还是组织全体的方针——拥有下达决策权限的上层,对妊娠怀有强烈的憎恶呢。这以上的事志恩也无法推测。
不过,即便如此也有能确定的事。自己等人要对峙的对手,是极其讨厌的一伙人。
「……要小心哟,弥生」
于是志恩,祈祷着恋人的平安。
0 notes
Photo
秦晖:抗战后中国巩固、强化国家权益的曲折历程(1/2)
作者:秦晖(清华大学历史系教授) 2012-03-24
导读:通过抗战,中国光复了全部大陆国土,收回了台湾和澎湖,这已经众所周知了,而过去很少提到、但意义同样重大的,是南海诸岛的归我版图、陆地一些争议地区主动权的获得和新疆的内附,这几件事对于后来的影响,都非同小可
[上篇回顾:抗战后,中国的国际地位得到了实质性的提高。二战结束之际,盟国方面原拟安排中国赴日受降并参与占领日本,因故未能实现。1945-1946年,中国军队赴越南受降,成为近代以来的空前绝后之举。]
我国今日在南海主权斗争中持有的态势,仍然要拜托抗战后的遗产。
当然,像入越受降抵制法国、帮助越南独立这样的国际行动,虽有助于凸显中国的“列强”地位,但如果不慕虚名而求其实,一个国家、民族的真正地位,还是要从自己的事做起。
自己首先不受别人欺负,才能谈得上真正帮助别人不受欺负。
而自己的人民首先不受“自己人”的欺负,才能谈得上真正不受外国人欺负。
而这不仅是民国历史的真正短板,也是至今仍然没有完全解决的问题。以后我们还要谈到这一点。
归根结底,正是由于这一点解决得不好,对外维护国家权益的斗争尽管成果辉煌,仍留下许多缺陷与遗憾。
1942年以后,中国虽然在法理上抹去了“半殖民地”色彩,但从事实上收回国权,还是抗战胜利的结果。
这一丰硕结果的许多部分,如今仍然隐而不彰;同时还有许多重大的遗憾,仍然有待揭示。
在领土方面,大家都知道,通过抗战,中国不仅光复了全部大陆国土,收回了日据已半个世纪之久的台湾和澎湖,而且还有过去很少提到、但意义同样重大的几件事:
南海诸岛的归我版图,陆地一些争议地区主动权的获得,以及新疆的内附,这些成绩,对于后来的影响,也非同小可。
民国的遗产:南海诸岛——兼评所谓“地图开疆”说
过去,中国即便在王朝强盛时代,也缺乏海权意识。
西沙、南沙,虽然一向有我先民活动,官府却不在意。
清末,李准水师虽曾巡视西沙,也未能驻守。
遂使西沙、南沙在1930年代相继为法国、日本所踞。
民国政府虽于1935年出版《中国南海岛屿图》,声明主权,但当时国势不支,不能实际驱逐入侵者。
近年,网上有人全盘否定民国时期维护国权的努力,把当时我国无力实争、只能在地图上标示主权的情况,一概讥为“地图开疆”。
其实,国势弱时先作宣示,待国势强大后收复,本理所当然。如果后来未能如愿,我们可以为之遗憾,并没什么可讥笑的,因为这总比连宣示都不宣示、逆来顺受、拱手让人好吧?
假如无力实争,就得承认既成事实,那么东三省曾经沦陷十多年,我们是不是应该在1932年后就��国界划在山海关?如果这样,东北后来还能收复吗?
当然,反对讥笑,并不是否定史实。抗战前,我国的很多主权宣示,确实是无力实争,只能“地图开疆”。
但抗战后就不同了。
1946年10月,法国军舰重占南沙,引起中国抗议。
法舰被迫撤退后,国民政府派出“太平”号、“永兴”号、“中业”号和“中建”号4舰,由林遵将军率领,于12月间相继收复西沙、南沙,从此派兵长期驻守。
今天西沙群岛最大的永兴岛和中建岛、南沙群岛最大的太平岛和中业岛,就是以这4艘军舰得名的。这当然就不是什么“地图开疆”了。
1947年,民国政府内政部公布《南海诸岛位置图》,图中画出了“11段线”,作为中国南海海域疆界,这就是今天我们坚持的南海主权“九段线”的来源。
而中国的海军陆战队一直驻守西沙,直到1950年8月海南岛易手三个月后,西沙国民党守军“起义”归顺新中国。
此后很长一段时间,西沙却悄悄撤守,又回到了“地图开疆”状态,被南越趁虚占据,直到1974年,新中国才又通过“西沙之战”,再次收复了西沙各岛。
至于南沙,虽经大陆政权更迭,但主岛太平岛一直由国军-台军驻守至今,成为今天中国人在南沙惟一实际控制的自然可居岛屿——尽管惟一,但由于是最大岛屿,仍是坚持主权的有力根据。
而新中国由于海防薄弱,有限的海防力量主要用于对台方向,在南沙不仅军事上鞭长莫及,就是渔民,也由于1956年后政府实行禁海政策,从此绝迹于南沙。
直到1986年政府解禁,中国渔民“重返南沙海域探路时才发现,那里已是越南等国的天下”(赵叶苹:《南海中国渔民直面外国军舰》,《国际先驱导报》2011年6月17日),而解放军在1988年重返南沙时,除太平岛以外所有自然岛屿都已落入他人之手,只能驻守一些需要人工增高才能待人的礁盘了。
这里,还要谈谈南海诸岛中现在争议很少,因而不太受关注的东沙。
所谓“东沙群岛”,其实就是一个东沙岛,加上几处暗礁,虽非舆论焦点,但却是南海诸岛中自然面积最大、离大陆最近、经济与国防价值也最高的岛屿。
该岛于清末曾为日本人窃占,妄名“西泽岛”,中国政府赎回后,一时无力驻防,又被日本浪人侵居。
1925年,中国海军江宝容中校率兵驱逐日本人后,开始派兵长驻。
抗战爆发后,东沙为日本海军攻陷。
1945年5月29日,太平洋战场的美军击败日寇,攻克东沙,随后交还中国。1946年6月26日,中国军队登岛接收,1949年后,由台湾军队驻守至今。
1950年海南岛解放后,国民党守军和党政人员基本都撤到了台湾,但在周边南海地区,仍然留下一些据点,即东边的东沙、南边的西沙和西边的浮水洲岛。
西沙、东沙后来的历史已如前述,浮水洲于1955年易手,解放军驱逐了国民党人,在岛上建立了党政军机构。
但一年半后,这个面积等于西沙南沙总和(5平方公里)、位居北部湾海权中心基点的重要岛屿,据说是为了帮助越南抗美防空,被交给了越南(越南改名白龙尾岛)。笔者上小学时确实多次读到报上关于“越南白龙尾岛军民击落美机”的报道,却想不到这“越南白龙尾岛”还有如此来历。
南海这些岛屿,陆地面积虽只是弹丸之地,但作为主权基点,涉及的海疆却广达上百万平方公里,在大陆架与专属海域都逐渐主权化的今天,它们的命运对国家前途极为重要。
而我国今日在南海主权斗争中持有的态势,仍然要拜托抗战后的遗产,除了浮水洲让与越南、南沙绝大部分岛屿被周边各国控制外,这些遗产中的西沙、东沙和南沙的太平岛及若干礁盘,总算留在了中国人手里。
对此,海峡两岸都是有贡献的:
台湾一直坚守着东沙和南沙太平岛,大陆在1974年后也开始经营南海,通过1974年的西沙海战和1988年的赤瓜礁海战,不仅收复了一度弃守的西沙,在南沙也保持了几个礁盘上的象征性存在,为今后进一步巩固海权,提供了基础。
中国取得边界争议地区的主动权
海疆而外,我国自晚清以来还有大量的陆地未定边界地区,抗战前也只能处于“地图开疆”状态。
抗战后,中国大大改善了控制态势,一度取得近代以来从未有过的主动。
例如中缅边界,晚清以来英国不断北侵,进入民国后,1914年,英国以印缅共同宗主的身份,提出了“麦克马洪线”,但中国不承认。
当时,中国在中缅段(克钦地区)主张的是更靠外的界线,包括了历史上曾是中国属地的一些地区。
当然,在抗战以前由于国力孱弱,中国政府实际无力控制这片地区,也只能“地图开疆”而已。
抗战前期,情况甚至一度恶化,由于当时英国置身事外,中国却因沿海被封锁,严重依赖缅甸国际通道,被迫接受英国要挟,未经边界谈判,就临时通过换文,承认了英国控制的既成事实,从而有了所谓“1941年线”(主要涉及掸邦北界)的说法。
但太平洋战争爆发后,英美参战,日本侵占缅甸,中国远征军入缅作战,
以蒋介石为司令、美国将军史迪威为参谋长的“中印缅战区”成立,缅北控制权因而经历了剧烈的变化。
1942年,中美中英宣布废除以往的不平等旧约,签订平等新条约,其中的中英新约,并未肯定“1941年线”,“边界未定”成为公认事实。
而在实际控制方面,中国远征军不仅在战时一度控制了大部分争议地区,而且由于果敢汉族土司宣布内附,重庆政府予以接受和正式委任,中国军队进入佤邦,以及1946年中国军队为修建第二中印公路(又称新中印公路,即今腾密公路)留驻密支那及克钦地区等情势,抗战后,中国对这些地区仍保有着强大的影响力乃至控制力。
(正以无线电通讯的中国远征军,见题图)
尽管南京政府后来忙于打内战,并未积极扩大这种控制力,但把这个时期的状况,仍然讥为与抗战前一样的“地图开疆”,显然是不符合事实的。
这个时期的许多争议地区,不仅在中国地图上划在中国一侧,而且实际上也控制在中国人和认同中国的地方势力手里。
而英国势力在抗战后虽然重返缅北一些地区,但却远远未能恢复战前旧观。
一是战前旧观本来就没能通过条约获得法理支持;
二是不仅很多地方仍有中国军队留驻,另一些地方也在战时乱局中为地方民族势力控制;加上战后不久,缅甸就于1947年独立,英国仓促退出缅甸,其在缅北控制的一些地方也未能完成移交,更何谈其他地区了。
更有甚者,由于英国在殖民时期搞分而治之,禁止缅族势力进入这些地区,导致当地民族与缅族的传统关系,本来就弱于与英、中的关系。
战时,由于当地民族(克钦族与果敢汉族尤其典型)追随中英两国抗日,而缅族的民族主义者却在很长一段时期内,错估形势,企图通过联日反英,争取独立,因此帮助日本,不但站在了中英的对立面,而且也加深了与中英同舟共济的克钦等缅北民族的对立。
尽管日本战败前夕,以昂山将军为代表的缅民族主义者,终于认清形势,举兵反正,避免了像印度的鲍斯势力那样在战后被淘汰出局,得以保留了战后缅族代言人的资格;
但历史的阴影终难消除,缅族想要继承英国人在缅北的势力,并非易事,何况,这种势力在抗战中也已大幅削弱。
此前,在国共内战末期,国民党败军退至中缅边境争议地区,强化了抗战后中国人对当地的控制。在南段边境的果敢、佤山一带和北段的克钦地区,都是如此。
作为中国内战的延续,1952年,解放军也进入这些当时国人认为属于中国的地区,与国民党作战。
于是,缅北出现了中国的国共两军和各个民族势力各据一方的局面,除了几个点外,缅甸中央政府对边境几无控制能力。
在这种情况下,缅甸领导人希望利用中国政权更迭之际,借新政权的力量,消除旧政权在争议地区的势力,帮助仰光政府控制缅北。
于是缅甸成为最早承认新中国的非共产党国家之一。而当时的新中国迫切需要外部承认,对此相当感激。
于是,在后来的边界谈判中,中国政府基本以中缅段麦克马洪线和“1941年线”为基础,承认了缅方对绝大部分争议地区的主权要求,只有片马和班洪两个象征性地点,因历史上的抗英事件曾导致舆论沸腾,在国人心中有强烈的记忆,得以归属中国。
在其余地区,中国政府不但应缅甸的要求,撤回了1952年后进驻的解放军,而且在撤军后缅甸政府仍然无力填补真空的情况下,应缅方要求,出兵争议地区,击败了国民党军队,再把地方移交缅甸。
对此,缅甸总理吴努明言:
“在我国,是有相当多的国民党军队的。如果中华人民共和国政府不是非常友善地对待我国,那一定会使我们遭到很大的损害……但是,中华人民共和国出于爱护我国,在国民党问题上对我们采取了一种非常富有同情心的态度。”(余定邦:《中缅关系史》,光明日报出版社,2000年版,第312页)
“再版巴黎和会”:雅尔塔体系造成的新国耻及纠正
前面说过,民国时期对中国国家权益的威胁主要来自日、俄两强。
抗日战争彻底打败了日本,但苏俄却也是战胜国。
于是,中国尽管以比一战大得多的牺牲,赢得了比一战伟大得多的胜利,实现了“民族解放”,但在一些地方,还是重复了一战后的悲剧:
中国的战胜国权益得不到尊重,某些战胜国居然要求继承战败国先前的侵华“遗产”!
一战后的巴黎和会上,是同为战胜国的日本,抢夺了战败国德国的侵华遗产:青岛和胶济路;
而在二战结束前夕的雅尔塔会议上,苏联同样要求继承日本的侵华遗产:以取得不冻港旅顺、大连和中长铁路(原中东铁路和满铁的总和)以及承认蒙古独立,作为对日作战的条件。(美、英在对日作战中,牺牲比苏联大得多,但都不敢做如此要求)
姑且不说,中东路的权益,原本就是沙俄侵华的结果,连布尔什维克也曾认为不义,就算这权益由沙俄传给了苏俄(当年中国要收回,遭到苏联的野蛮报复),但“九一八”之后,苏联却主动把中东路权卖给了日本,本来已经与苏无关,就算按不平等条约的观念,中东路当时已是日本人的财产,即中国宣布要没收的“敌产”了。然而苏联不仅索要,还公然宣称,这是要雪当年日俄战争失败之耻、恢复沙俄当年在华的“光荣”!
美、英为减少自己士兵的伤亡,居然答应了苏联的要求。
而这时的中国,尽管可以在入越受降时“刁难”法国,却仍然无法对抗苏联。
于是,雅尔塔会议后签订的中苏条约,就成为抗战后的新国耻、1942年中美中英废除旧约后,新出现的惟一不平等条约。
1949年新中国成立后,斯大林仍想沿袭这一条约。
但是对于兄弟党掌权后的新生社会主义盟国,苏联不示好是说不过去的。
1949年12月9日到1950年2月26日,毛泽东放下新建政权百废待举的事务,对苏联进行了两个半月之久的马拉松式访问,其间的种种波折,如今已众所周知,总之,斯大林最后答应了毛泽东的要求,另订了一个《中苏友好同盟互助条约��,放弃了1945年中苏条约中攫取到的一些权益,主要是以新中国接受雅尔塔会议的结果为条件,换得苏联承诺于1952年归还旅顺,并且尽快交还大连与中长铁路。
但是斯大林对此非常恼火。
近年来沈志华教授根据档案指出:正是在同意毛泽东的要求之际,斯大林立即改变了他此前一直反对金日成对南方用兵的立场,告诉金日成可以发动战争。
不久朝鲜战争爆发,中国也被卷入(按沈教授的分析,其中重要原因就是要消斯大林的火,“挽救中苏同盟”)。
到了1952年,战争仍在进行,斯大林要挟说我要按约定时间撤出旅顺了。
当时仍在打仗的中国,没有像样的海军,无法防守旅顺,不得不反过来请求苏联不要撤。
斯大林说,不是我不撤,是中国人不让我撤,那就再签个协定。
“这个协定签了就惨了,苏联继续租用旅顺港,没有时间限制,实际上斯大林还是达到了自己的目的。”(沈志华:《毛泽东访苏轶闻》,2011年1月7日文史大讲堂)
幸亏斯大林一年以后就去世了。
后来上台的赫鲁晓夫立足未稳,要跟中国拉关系套近乎,于是苏联于1955年主动交回了旅顺港,撤回了驻华苏军。
当时苏联高层内部对此是有异议的,强硬的斯大林主义者反对这样做。
无论意识形态立场如何,仅从中苏关系来说,我们也应当肯定赫鲁晓夫的“修正主义”,他首先修正的,是雅尔塔体系对中国的错误,就像华盛顿会议修正巴黎和会的错误一样。
(未完待续)
(来源: 南方周末 )
下一页
原文链接
0 notes
Text
1969年10月5日 テレビアニメ『サザエさん』放送開始。
(1969年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4)
---
1969年7月20日、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たした。 8月15日-17日、 米ニューヨーク州サリバン郡ベセルでウッドストックフェスティバルが開かれた。1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。
SF作品などを通して夢見ていたことが実現し、若者たちが共有した理想を高らかに歌い上げていた一方、8月9日、米ロサンゼルスで、狂信的カルト指導者チャールズ マンソンの信奉者3人組によって、女優シャロン テートが殺害された。
第二次大戦終戦後、‘科学と民主主義’に夢と希望、理想を抱き、信じ、それは民主国家に限らず世界共通のはずだとも信じて、SFなどの作品や文化を通して楽しんでいた社会は、アポロ月面着陸とウッドストックのあった1969年に一つの到達点に至る。 しかし、ベトナム戦争は止められず、カルトは暴走、麻薬は蔓延。政治的敗北に打ち拉がれる。 何か大きな勘違いをしてたんじゃないかと困惑してたところに、「チャールズ・マンソンがビートルズのファンだった」という話と、その歪んだ愛が凶行にまで至ったということが追い打ちをかける。
---
「ちょっとした愉快な解釈の違いは以前からあったけど、どれも無害で、くすっと笑えるものだった……でも、そういうささいな解釈のあと、とうとう最高に恐ろしい解釈が現れた。あの時点から全ておかしくなった。でも僕らのせいじゃない。僕らに何ができるって言うんだい?」
(殺人鬼チャールズ・マンソンの歪んだビートルズ愛「この音楽は無秩序な力を引き起こす」 ローリングストーン 2019/08/10 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31701/1/1/1)
---
日本では学生運動/大学紛争、新左翼運動が全国に波及、社会問題に発展していた。 1969年1月18日-19日 東大安田講堂攻防戦 10月21日 国際反戦デー闘争 11月16日-17日 佐藤首相訪米阻止闘争 11月17日 佐藤栄作首相訪米、11月21日 3年後の沖縄返還合意を取り付ける。
1967年から続いた学生運動、新左翼運動の高揚に一つの終止符が打たれた。
---
1970年3月31日 よど号ハイジャック事件
犯人グループは出発時に「われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」(原文そのまま) という声明文を残している。
(よど号ハイジャック事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%A9%E5%8F%B7%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
---
1972年2月19日-28日 あさま山荘事件
2月21日19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。 「私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 」
(あさま山荘事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
---
2つのニクソン・ショック: 1971年7月15日 第1次ニクソン・ショック; ニクソン訪中宣言、翌1972年2月 北京訪問 1971年8月15日 第2次ニクソン・ショック; ドル・ショック、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言、ブレトン・ウッズ体制の終結。
1972年2月21日のニクソン大統領の中国訪問は、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換、冷戦時代の転機となった。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソンが中国に行く」という政治用語も生まれた。
(ニクソン・ショック https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF ニクソン大統領の中国訪問 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F)
---
当時を知る人たちからは怒られっかもな勝手な解釈で言うと、カウンターカルチャー/ヒッピーカルチャーはビートルズの活動にレペゼンされていて、ビートルズ活動停止-解散のあたりでほとん���終焉。
1970年 ビートルズ解散 (1971年3月12日ビートルズの解散が法的に決定された)。 (ビートルズの解散問題 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%95%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C)
---
何か大きな勘違いをしてるんじゃないかと省みることも困難になっていた。 「総括」という言葉はこの時、怖いものになっていた。
総括とは、本来は全体を取り纏める事であり、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられていたものである。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C (チェック、点検・評価)」に相当する。 日本の新左翼党派である連合赤軍において、「真に総括させるために殴る」ようになりエスカレート、29名のメンバー中12名のメンバーを死に至らしめる要因となった。(山岳ベース事件: 1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件)
(総括 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%8B%AC_(%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D) 山岳ベース事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
---
PDCAサイクルとよく比較されるフレームワークにOODAループ(「観察 Observe」「仮説構築 Orient」「意思決定 Decide」「実行 Act」) がある。 PDCAサイクルは明確な工程がある場合の業務改善に最適なフレームワークであるのに対し、OODAループは意思決定をするためのフレームワークであり、不明確で常に変化していく状況の中で、現状にあるものから最善の判断を下し、即座に行動を起こすことを目的としている。
OODAループを発明したジョン ボイド(アメリカ合衆国の戦闘機操縦士、航空戦術家、軍事著作家)は、朝鮮戦争終戦後、アメリカ空軍戦闘機兵器学校においてF-100の教官を務めた。学生機との模擬空戦において、「不利な位置から開始して、40秒以内に位置を逆転させる(後方の攻撃位置を占位する)」との賭けをたびたび行ない、6年間/3000時間におよぶ戦闘訓練で無敗を誇った。このことから、戦闘機教官としてのボイドには、「40秒ボイド」という渾名が進呈された。
(OODAループとは?PDCAサイクルとの違いと具体例 https://achievement-hrs.co.jp/ritori/?p=2213 ジョン・ボイド https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%89_(%E8%BB%8D%E4%BA%BA))
---
「解釈で言うと~」みたいな言葉は、事実誤認が見つかった時や、状況が変わったときの修正/変更が可能/必要なポイントに印をつけとくためだったはずが、自分の解釈/思想/気持ちが優先されることで、修正不可能になり暴走、思考サイクル/ループは崩壊する。
1970年代、過激な政治志向が消えた後の「シラケ」の時代になる。 表現においては、敗北後のPTSD(シェル ショック)の心理療法としての「プライマルスクリーム」と「無知のヴェール」に覆われた状態(ジョン ロールズ『正義論』1971年刊)の時代、バカを装って叫ぶ「パンク」の時代へと移行する。
(『正義論』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E8%AB%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA))
---
戦闘ストレス反応( combat stress reaction, CSR)とは一般に戦闘によってもたらされる心理的な反応をいう。戦争後遺症とも称される。
軍事心理学や軍事医学の研究では戦闘ストレス反応は戦闘を経験した兵士が陥るさまざまな反応を含む幅広い心理的障害(心身症)として定義されており、例えば研究者のノイは戦闘において兵士が被る非物質的な損害であると定義している。
第一次世界大戦において兵士の戦闘ストレス反応を研究した軍医は爆音を伴う塹壕に対する砲撃によってこのような障害が生じると考え、このような症状をシェル・ショック (shell shock)(日本語で砲弾ショック、戦場ショックとも) と呼んだ。しかし後に砲撃に関わらず長期間に渡る戦闘によっても反応が見られることから戦争神経症 (war neurosis) へと呼称は変化する。この兵士達の観察を基にして、ジークムント・フロイトは反復強迫的な外傷性悪夢について研究した。
第二次世界大戦にかけて呼称はさらに戦闘疲労 (combat fatigue) とも呼ばれ、戦闘の期間があまりに長期間にわたると性格や能力に関わらず全ての兵士がこのような反応を示すことが明らかにされた。
朝鮮戦争では従来のような戦闘ストレス反応による損耗は減少し、精神病的損害 (psychiatric casualities) という名称で戦闘ストレス反応に関連する症状を示す兵士が評価されるのが通例となった。しかし研究の焦点は戦闘行動によって示す古典的な戦闘ストレス反応から新しく後遺症に移ることになる。
1980年代にかけてベトナム戦争からのベトナム帰還兵が、社会復帰後に深刻な心理的障害を示すことがアメリカ精神医学会で研究されるようになり、これは心的外傷後ストレス障害 (post traumatic stress disorder, PTSD) と命名された。
(戦闘ストレス反応 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%97%98%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E5%8F%8D%E5%BF%9C)
—
ベトナム戦争: 1973年1月27日 パリ和平協定調印 1974年8月9日 ニクソン米大統領辞任 1975年4月30日 サイゴン陥落
(ベトナム戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89)
ベトナム戦争の終戦を、1969年に一つの到達点に至り崩壊を始めたカウンターカルチャーの「終わり」と見立て(1979年の映画『地獄の黙示録』で流れるドアーズの「ジ・エンド」)、そこから明るい文化がはじまる(『スター・ウォ��ズ』(新たなる希望)1977年公開)。 一方で、それまでのSFの流れや、暗い1970年代のイメージを汲んで、‘終末後の世界’を描いたものが「サイバーパンク」になっていく。「ロボット/レプリカント(模造品、量産品)の異常変異と反抗」や、「対立する価値観の間での葛藤」または「心理サイクル崩壊後の暴走」などがサイバーパンク作品のモチーフやテーマとして使われていく。
1985年 プラザ合意。日本はバブル景気へ。1980年代は結構明るい時代。
---
ざっくり言うと: 1960年代; ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (素敵) 1970年代; ニクソンが中国に行く (ショック) 1980年代; 星の王子ニューヨークへ行く (超おもしろい)
------
「サイバーパンク」のビジュアルイメージを強烈に打ち出した『ブレードランナー』(リドリー スコット監督、1982年)と『AKIRA』(大友克洋監督、1988年)という二作品が描いた‘2019年’の50年前である1969年に、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。
SF作品ではテーマの一つとして「社会(都市)の変化により人の心はどう変わるか」という都市論的考察も多く描かれた。
---
1964年10月10日から10月24日までの15日間、日本の東京で開かれたオリンピック競技大会(第18回オリンピック競技大会、1964東京五輪)は、開催期間には、10月14日のソ連のフルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(東京五輪には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。 東海道新幹線(開会式9日前の10月1日に開業)や首都高速道路などのインフラや、国立競技場、日本武道館などの競技施設が整備され建設需要が高まった。またオリンピックを見るためにテレビを買ったりと、日本の都市と生活の一つの転換点でもあった。
1964東京五輪開催が決まった1959年(5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された)、その年度の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」というフレーズに、感覚が伴い始めたのが1964年の東京五輪が過ぎた後だった。 1959年度白書の言葉は「もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」という事実認識だった。
「1964年以降の高度成長期後半は(1973年のオイルショックまで成長は続いた)、お父さんはバーやキャバレーやダンスホールで騒がず、ケーキとプレゼントを買って、郊外の家に帰っていった。 高度成長期は、暴力的だった祭りが、すこし人がましくなっていく時代だった。元気ではあるが、少しは文化的に暮らそう、と考える余裕が出てきたのだ。戦後の混乱期は、ようやっと1964年を境にきれいにおさまっていったのだろう。」 (2017.11.16 1964・東京オリンピックは「社会の熱気」を持ち去った…!? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53500?page=3)
(1964年東京オリンピック https://ja.wikipedia.org/wiki/1964%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF#%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E9%96%8B%E5%82%AC%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF オリンピック景気 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%99%AF%E6%B0%97 2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた日本経済の課題 https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2015/05/201502-03_69.pdf)
---
戦後が終わり、東京五輪が終わり、‘戦争を知らない子供たち’が若者になり(『戦争を知らない子供たち』作詞: 北山修、作曲: 杉田二郎。1970年発表)、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。1969年は、時代の転換点の一つだった。
その1969年のさらに50年前、ヴェルサイユ条約が締結された1919年、なんかやばいことめっちゃ起きてた。
(cf. 1919年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1919%E5%B9%B4)
「ファシズム」と「共産主義」、「革命」と「戦争」、「20世紀の様相をかたちづくってきたもの」、「科学」と「民主主義」。 それぞれの時代や場所、その時の感情や取り巻く環境、そして言語によって、それらの言葉は何を連想させ、何を変え、何に変えられてきたのだろう。
---
新しい知識体系を学ぶということは、「隠されたもの」を語源とする「オカルト(秘学、神秘、超自然的なもの)」に近い側面がある。
英語の「アルジェブラ(代数学)」の語源となる著書や、名前が「アルゴリズム」の語源となったことで知られる、9世紀前半のイスラム科学の学者、天文学者、数学者であるアル=フワーリズミーは占星術師でもあった。 天文学と占星術が分離されるのは17世紀科学革命後であり、分離後も占星術は現代に至るまで引き継がれ、1960年代のカウンターカルチャーにも影響を与え、現在もサブカルチャーのひとつとして残っている。
科学と、疑似科学あるいはカーゴカルトのようなものを峻別するには困難がつきまとい、たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えることで残り続ける。 形だけを真似ただけの、正直さに欠ける行為が、本質からの逸脱を招く。
逸脱を招かないため、逸脱してしまった時に戻るため、困難に打ち勝つため、正直さを失わないために重要な心の領域を分析する心理学的手法も、占星術は導入している。 さまざまな手法の上に独自の解釈を組み込みドグマ化していくというのは、疑似科学やオカルト的言説に限らず、絶対的指導者不在の自ら進んで設立または参加した集団でも、どんなところでも起こりうる。 かつての自分自身の考えと、今また考える自由に、引き裂かれもする。
(フワーリズミー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%BC 西洋占星術 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93 カーゴ・カルト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88)
---
ユング心理学で「布��」と訳されるコンステレーションという言葉がある。(constellation「星座」の意。 そこから転じて“点と線で連なっているもの”を表す語としても用いられることがある。)
個人の精神が困難な状態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくることを、布置(コンステラツィオーン、独語:Konstellation)という。
(分析心理学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)
---
一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、それらが一つのまとまりとして、全体としての意味を持ったものに見えてくることがある。あるいは、新しい言葉を手に入れたり、新しい体験をしたことで、認知のパターンが変わり、今までも見ていたはずなのに認識できていなかったものが見えてくることがある。 一方で、混沌を秩序づけ世界を理解可能なものにしたいという感情が、ランダムな物事の中に何らかのパターンを認識させてしまう。データの違いを無視して類似性を強調することにより、誤った結論を推測するという誤謬に陥る危うさがつきまとう。
------
振り返ると、転換点ばかり。
僕たちは回転している。
2019年12月 プレリュード
0 notes
Text
NEWSLETTER vol.49
ニュースレターの第49号をお届けします。
今回は2018年8月26日に Art Jewelry Forum に掲載された、ダニエル・クルーガー氏の記事をお届けします。
メールに埋め込むと画像が小さくなってしまうので、ぜひ元の記事もご覧になってくださいね。
ダニエル・クルーガー氏は、南アフリカ出身でドイツを拠点に活動するジュエリーアーティストです。この記事を読んで興味を持たれた方には、こちら↓の本をおすすめします(アマゾンでも買えます)。すごくいいから!
収録作品の数が多く、ひとつひとつに見どころがあって、いつまでも眺めていられます。
https://arnoldsche.com/en/product/daniel-kruger/
----------------------------------
https://artjewelryforum.org/like-bees-to-honey
08/26/2019
蜜に惹かれる蜂のごとく
ダニエル・クルーガー:愛好家、コレクター、仲間からの賛辞を受けるアーティスト
リズベット・デン・べステン
1992年、Schmuckで初めて開催されたモダン・クラシック・オブ・ザ・イヤ��は、アーティストへの賛辞の表明であり、当初は毎年3名のアーティストが選ばれていたが、まもなくその数は1名へと変更された。選考は毎年、Handwerkskammer fur München und Oberbayern(ミュンヘンおよびオーバーバイエルン商工会議所)の内部チームによって行われる。エヴァ・サルノウスキー氏、アンジェラ・ボック博士、ウォルフガング・ロッシュ氏で構成されるこのチームは、選考に複数の基準を設けている。その最低限の条件は、ジュエリー分野における活動歴の長さと、同分野への際立った貢献である。
2019年3月、ミュンヘンの国際見本市(IHM)で行われたSchmuck展への来場者は、2019年度モダン・クラシックに選考されたダニエル・クルーガー(1951年生)の作品を目にしたはずである。1970年初頭から近年の作品から選ばれた彼の手による優れたジュエリーの数々が、公募展であるSchmuck展の会場に設置された4つのガラスケースに陳列された。
ダニエル・クルーガー、ネックレス、2005年、銀、スーザン・ビーチ所蔵、撮影:ジョン・ホワイト
AJFは、1974年に移住したドイツの洗練された都市環境と、アフリカの荒野のルーツとを等しく重視する、多様な作風を誇るこのアーティストへの特別の賛辞として、幾人かの知識人に彼の作品に対する見解を寄せてもらえないか頼んだところ、全員から熱のこもった返答を得られた。そうして生まれた本稿は、複数のメールや書面の引用で構成されている。
見本市およびSchmuck展の担当局長であるウォルフガング・ロッシュは「ダニエル・クルーガーは、20世紀および21世紀における、最も重要なジュエリーデザイナーの1人です。彼は40年超にわたってジュエリーに携わり、ジュエリーのあるべき姿について、独自の見解を見出しました。彼のジュエリーが発する個々のステートメントは、時を経て変遷してきたものの、彼にとって装飾品としてのジュエリーの制作が重要であることを示してきました」と語る。クルーガーが審査員を務める場面を多く目にしてきた彼は「確信に満ちた判断と、感性豊かなジュエリーの描写」についても、クルーガーに賛辞を送る。
ダニエル・クルーガーの作品を収めた2019年モダン・クラシックのショーケース(ミュンヘン国際見本市、Schmuck展)、写真:エヴァ・ユンカー
素材や物に対する気配りは、クルーガーが、2013年から2017年に教授職を務めたドイツのハレ・ギービッヒェンシュタイン城・芸術・デザイン大学でジュエリー科の学生を含む、自身の教え子に学ばせようとしたことだ。彼の元教え子であるフローリアン・ミルカーはこう振り返る。「ダニエルの作業場はまるで博物館のようでした。世界中から集めた多種多様な収集品を見られるのは楽しかったですよ。ダニエルは、教師そして助言者として、魅力を感じた対象をじっくりと考察し、その由来、素材性、作り方を理解して対象から物語を引き出すよう、アドバイスをしてくれました」。
ダニエル・クルーガー、ネックレス、1977年、シルクで包んだ小石、一部メッキをかけた銅、銀、プフォルツハイム装身具美術館コレクション、撮影:ペトラ・イェシュケ
クルーガーは、1971年に南アフリカでアートを学び始めた。最初にステレンボッシュ大学(1971-1972)でゴールドスミスの技術とグラフィックアートを、その後ケープタウン大学(1973-1974)で絵画を学び、最後にミュンヘン美術院(1974–1980)のヘルマン・ユンカーのクラスで、ジュエリー(当時の名称はゴールドスミスの技術)を習得した。1984年、プフォルツハイム装身具美術館は、ハーナウのゴールドシミーデハウス、およびウィーンのGalerie am GrabenとアムステルダムのGalerie Raという2つの民間ギャラリーの協力を得て、ダニエル・クルーガーのジュエリーで構成される個展を企画し、それに伴ってカタログも制作した。ユンカーが寄稿したその序文は釈明めいており、ジュエリー愛好家層に対し、「ゴールドスミス」の呼称は、金を使う者に限らずジュエリーの制作者全般を指すべきであることを説明しなければという思いに駆られているように見えた。ユンカーは、ゴールドスミス(彼はゴールドスミス全般を指したが、特にクルーガーに言及していた)を「シンプルであれ複雑であれ、控えめであれ豪華であれ、大ぶりであれ小ぶりであれ、細密であれ特に細密であれ、使う素材が金、銀、銅、スチール、木、ガラス、紙、プラスチック、布、石、骨かを問わず、艶消し仕上げも鏡面仕上げも、時に玉虫色の輝きを放つものを含め、ジュエリーを制作する者」[1]であると描写した。時は1984年、素材や大きさ、自律性における実験が常態化していたオランダでは、クルーガーの作品に対し、別の説明が必要だった。Galerie Raのポール・デレは、オランダの鑑賞者向けの紹介文で次のように書いた。「私はダニエルの装飾品を宝石と呼びたい。それは、ゴールドスミスの伝統技術を採り入れているがゆえに、洗練の極みをもって金や銀、宝石が扱われているからである。だが、そのデザインは実に個人的で特異である。」[2]ひとつの展覧会が2つの会場で行われ、2つの物語が語られたのである。
ダニエル・クルーガー、指輪、1993年、トパーズの結晶、金、セルトーヘンボス市立美術館所蔵、撮影:ペア・ファン・デル・クルイス
アムステルダムのGalerie Raは、このアーティストを支援し代表した最初のギャラリーであり、その後数十年にわたってそれを続けている。デレはこう回想する。「プフォルツハイム装身具美術館の「1977年のジュエリー:トレンド」展で初めて見た瞬間、ダニエル・クルーガーの作品に魅了されました。彼が作るすべてのジュエリーやオブジェは、豊かな参照や記憶に満ちており、それぞれに独創的です。1984年、Raでは10年にわたる彼の軌跡を紹介しました。当時の彼は、カトラリー、セラミックの器、箱、花瓶、シャンデリアなどの家庭で使う作品の制作を始めたばかりでした。私は、ギャラリーでの展示やアートフェアで、舞台のような環境を作って彼の作品を見せるのがすごく好きでした。(現)セルトーヘンボス市立美術館と、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館は、彼のジュエリーやセラミックの作品を数多く所蔵しています。ダニエルは、Galerie Raで最も高く評価され、最も活躍しているアーティストのひとりです。30年超にわたって、彼を代表できることは私にとって大きな喜びです」。
ダニエル・クルーガー、目、ネックレス、銀、ミラーガラス、写真、カタリン・スペングラー所蔵、写真はダニエル・クルーガーの厚意により掲載
プフォルツハイム装身具美術館の「トレンド」ジュエリー展は、コンテンポラリージュエリーの最新の動向を通覧できる非常に重要な定例展覧会だ。当時、プフォルツハイムのデザイン大学の基礎課程で学びはじめて間もなかったモニカ・ブリューゲルも、この展覧会に足を運んだひとりで、「1977年、私は装身具美術館で新しいジュエリーの何たるかを発見しました。ですが、最も重要な作品は、ダニエルのネックレスでした」と回想する。
ダニエル・クルーガー、指輪、1993年、金、ルビー、セルトーヘンボス市立美術館所蔵、撮影:ペア・ファン・デル・クルイス
ブリューゲルが言及しているのは、シルク製の丸い袋が7つビーズ状に下げられたネックレスだ。中に詰められた小石をシルクがきつ��包む。袋はサイズも形も不揃いで、先の尖った留め具がついている。ブリューゲルは、「その作品は、異文化か古い時代の産物のように見え、容易には理解できませんでした。その作品を私のわずかな知識と結びつける手立てはまるでなく、何ものもアーティストの意図を理解する役には立ちませんでした。唯一私にわかったのは、もはや境界は消え去ったという最も重要な点です。自分に影響を与えるすべてのもの、すべての時代がインスピレーションの源になりえます。その文化に背くことなく、異文化を反映することは可能なのです。ただし、すべては素材を通じて解釈され、アイデアと共鳴していなければなりません。ダニエルの作品は、歴史に則っているようでいて、すぐにそれは違うと気づかされる点で、時に宝飾史から「逸脱」して見えるかもしれません。この作品は、歴史上のモデルや、まるで異なる参照が反映されている点で、私を苛立たせも驚かせもしました。私たちの時代の影響は作品に現れるもの。彼の作品には、制作することの喜びが表れており、自由を物語っています」。
ダニエル・クルーガー、ネックレス、2018年、ガラスビーズ、写真はダニエル・クルーガーの厚意により掲載
ミュンヘンのGalerie Biróは、ドイツでクルーガーを代表しているギャラリーだ。Galerie Biróのオルガ・ゾーベルは、クルーガーと初めて直接会った時のことは、人生で「最高の瞬間」(彼女は「Sternstunden」という単語を使った)のひとつだ、と書いてくれた。「かくも奇妙で広く知れ渡り、その振る舞いは英国風でありながら英国人ではない、色の白いアフリカ人とでも形容すべきこのアーティストはいったい何者なのだろう、と思ったものです。ハンガリー出身の私にとって、彼は謎の存在でした」。
ゾーベルは、クルーガーとの出会いの記憶を振り返る。それは、20年以上前に彼のレクチャーに参加した時のことだ。彼はスライドで母国を紹介し「砂っぽい浅葱色の地平に杏色の満月が昇り、無限の天を背にした夜空に無数の星々が燦然と輝いていた」[3]という詩的な言葉で表現した。「彼は茶色と、柔らかで青々とした草に覆われた果てしない不思議な風景へと聴衆を誘いこみました。それは私に、彼の祖国について忘れられない印象を残しました。彼のジュエリーを手に取ると、その時の写真が心の中によみがえります。彼が体験し、見てきたことは作品に記憶されており、今日に至るまで彼は自然を表現しています。最近、ダニエルは、信じられないほど嬉しそうに、自宅のバルコニーに咲いた見事な薔薇を見せてくれました。が、彼の作品はミメーシスではなく、完璧な変容への到達に成功しています。例えばビーズの作品は、私たちが目にするのは完成形のみですが、そこに見られる秩序と豊かな官能、様々な色、精密で小ぶりな構造は装着する人と見る者を驚かせ、喜ばせます。ダニエルのジュエリーには、私たちが見て感じることが、造形と色を使ったじつに独自のやり方で表現されています。彼のジュエリーには常にタイトルがありません」。
ダニエル・クルーガー、指輪、1993年、トルマリン、金、セルトーヘンボス市立美術館所蔵、撮影:ペア・ファン・デル・クルイス
Galerie Biróでクルーガーの作品を紹介されたというブダペストのコレクター、カタリン・スペングラーは、このアーティストの作品を熱心に見守ってきた。スペングラーはこう書く。「私がコンテンポラリージュエリーの収集を始めた2008年、ダニエル・クルーガーの作品はすぐに私の注意を引きました。彼の展覧会とあれば、そのすべてに確かな期待と興奮を胸に、にやけながら足を運びます。毎回、何らかの驚きに出会える、彼の新作が新たな対話に私を導いてくれる、という嬉しい予感を抱かせてくれます。2019年3月から4月にGalerie Biróで行われた彼の展覧会では、最新作のネックレスを選びました。「目」と題されたこの作品は円の連続を特長としていますが、これは、本作の左右対称の配置と同様に、彼のそのほかの作品にも見られる形式です。ただし、過去作と違って「目」では、ひとつのパーツが主役を張って単一の中心を成すことはありません。この構図は、可謬性や弱さ、過ちを犯す可能性、つまりは人間性に焦点を当てています。このネックレスは、一対の女性の目の写真を小さな鏡に貼り付け、それを小さな円形の銀の板から下げることで構成されています。複数の女性の目とまなざしが、装着者の顔の近くに来るというのは特異な体験です。このネックレスには、プロビデンスの目に始まり、鏡に完璧さを見出そうとする古代の物語、20世紀美術やコンテンポラリーアートに至る、一連の参照が要約されています。皮肉さと厳粛さ、伝統と現代性を兼ね備えた、ジュエリーでもありファインアートの作品でもある、高い技術による傑作です。私はこの巨匠の大ファンで、これで、私のコレクションに彼の作品が入るのは3回目です」。
ダニエル・クルーガー、ネックレス、2018年、ガラスビーズ、写真:ティロ・ヘルトライン
アメリカ人コレクターのスーザン・ビーチもまた、クルーガーのジュエリーのファンであり、見事なコレクションを持つ。彼女が彼の作品を紹介されたのは、2005年ごろにロンドンで開催されたCollectでのことで、彼女自身の言葉を借りれば、その作品にすぐさま「はまった(訳注:原文ではhooked)」という。「Collectでは、たくさんの作品が販売されていて、決めるのが大変でした」とビーチは言う。「私が買ったのは、大きな半球が小さな球体で飾られた、美しい銀のネックレスです。その後、15点のネックレスとブローチを収集しました。カラフルで大胆で、ちょっと卑猥な感じがします。もちろん、その作りは見事で調和が取れています。これは、1日に何時間もジュエリーを装着する者には非常に重要なポイントです。楽しい作品で私を幸せな気分にしてくれますし、たくさん誉めてもらえます」。もうひとりのアメリカ人コレクターである、アーカンソー州リトルロックのマリオン・ファルクは、アートジュエリーマニアを自称し、常にジュエリーを身につけている。彼女もまた、スーザン・ビーチと同じく一流の装着者である。ファルクは言う。「ダニエル・クルーガーの作品を身につけるのはすばらしい。体になじみ金具も使いやすい。彼の作品の精度の高さには常に驚かされます。素材が銀であろうと、七宝であろうと、さくらんぼの種であろうと、その仕事はいつも非の打ちどころがありません。私は彼の作品も、彼の教え子の作品も何点か持っています。彼は教師として面倒見が良いだけでなく、教え子の作品の支持者でもあるようですね」。
この記事のために声をかけられた人の多くは、大いなる好奇心を持って彼の次回作を心待ちにしていると語る。彼らはそれが、常に驚きと興奮をもたらしてくれることを知っているのだ。ギャラリーのオーナーは常に最前線で作品を見られる点で恵まれた存在である。1993年、ポール・デレは、Galerie Raにおける幾度目かの彼の展覧会の折に発行したメールマガジンRa-Bulletinで、自分の気持ちをこう書き記した。「包みを開けた瞬間…喜びの感情が湧き起こった。このような瞬間が、ギャラリーオーナーの仕事に、苦労以上の価値を与えるのだ。そこにあったのは、アクアマリンと紫色の紙に埋まった3つの精巧な指輪――金とトルコ石、ルビー、トルマリンを使った指輪だ。無視できないロマンチックな雰囲気をたたえたジュエリーで、長きにわたって存在しながら、ようやく発見され、一時的に日の目を見ることが許されたかのようである」。[4]
ダニエル・クルーガーの作品を収めた2019年モダン・クラシックのショーケース(ミュンヘン国際見本市、Schmuck展)、写真:エヴァ・ユンカー
クルーガーの新作に対する、この美しく喜びに満ちた第一印象の描写は、シエナ・パッティの言葉とも符合する。「ダニエル・クルーガーから作品を入れた箱が届くと、私たちは蜜を見つけた蜂のように、興奮して小躍りしてしまうんですよ」と彼女は言う。Sienna Pattiは、アメリカにおけるクルーガーの所属ギャラリーで、パッティは彼を、「アーティストが制作したジュエリーを収集する人に気に入られる作家です。ダニエルの作品はほかのアーティストからも常々尊敬、称賛されています。装着していない時はオブジェとしても申し分なく、シンプルな造形と素材は驚くほど魅力的です。ですが、ダニエル・クルーガーの作品は装着を意図していることに疑問の余地はなく、装着されてこそ最大の良さを発揮します。どの作品の重みも絶妙で、装着すると快適で力強く魅力的です。シンプルな造形には力があり、それは彼の作品全体の共通項です。装着すると強くなったように感じられる作品を作るなどという芸当を、彼がどのようにしてやってのけているのか、私にはよくわかりませんが、彼は実際にそれをやってみせるし、装着する人もそう感じるのです。私自身、数えきれないほどそんな体験をしましたし、ほかの人がそれを体験するのを目撃してもきました。ダニエルの作品は優れた芸術作品が成すことをすべて成しています。それは変容と超越です」
ダニエル・クルーガーの作品を収めた2019年モダン・クラシックのショーケース(ミュンヘン国際見本市、Schmuck展)、写真:エヴァ・ユンカー
パッティは、クルーガー作品にみられる手仕事を評価している。「ダニエルの作品について、私が一番に反応するのは、絶対に手作業で作られたのだろうと感じさせる点です。労力と愛情を込め、気を配って作られていることが感じられます。ダニエルが展覧会のためにここを訪れた時、一緒に近所のハンコック・シェーカー・ビレッジに行って数時間滞在し、古い建物を見て歩きました。家具作りや建築で知られるシェーカー教徒は、注意深いデザインと物作りは、それ自体で「祈りの行為」であると信じました。もちろん、ジュエリーの装着や制作は、彼らの暮らしぶりよりはるかに装飾性が高いですが、この考えは、すべての作品が熟慮に基づくという、ダニエルの作品の扱いを思い出させます」。パッティは次の言葉で締めくくった。「『千年生きるつもりで仕事をせよ、明日死ぬつもりで仕事をせよ』というシェーカーの「教え」は、私の好きな��葉のひとつです」。
ダニエル・クルーガーのセルフィー、2019年、写真はダニエル・クルーガーの厚意により掲載
ダニエル・クルーガーのジュエリーが、かくも多くの人を魅了し、アフリカ的、バロック的、都会的な印象やシェーカー教徒の祈り、かぎ針編み、女性的な視座、官能性、変容という多様な文化と接続しているのは奇跡である。クルーガーと会って話をすると、彼の優しさ、思慮深さ、謙虚さ、物静かさ、優れたユーモアのセンスを目の当たりにするだろう。変化が速く表層的な社会とは相反する、不思議さを持つ人物である。そして、その不思議さはその作風とも重なり合うのだ。
この記事は、以下の方々の寛大な協力を得て執筆が実現した(登場順):ウォルフガング・ロッシュ、フローリアン・ミルカー、ポール・デレ、モニカ・ブリューゲル、オルガ・ゾーベル、カタリン・スペングラー、スーザン・ビーチ、マリオン・ファルク、シエナ・パッティ(リズベット・デン・べステン選)
[1] Daniel Kruger (Pforzheim: Schmuckmuseum, 1984). Catalog for traveling exhibition shown at Schmuckmuseum Pforzheim; Deutsches Goldschmiedehaus Hanau; Galerie am Graben, Vienna; and Galerie Ra, Amsterdam.
[2] Ra-Bulletin, Number 14, November 1984.
[3] Daniel Kruger, Between Nature and Artifice, Jewellery 1974–2014 (Stuttgart: Arnoldsche, 2014), 9.
[4] Ra-Bulletin, Number 74, May/June 1993.
リズベット・デン・べステン:アムステルダムに拠点を置く美術史家で、フリーランスのライター、講師、キュレーターとしても活動する。現在、アントワープのセント・ルーカスでジュエリー史を教える。フランソワーズ・ファン・デン・ボッシュ・コンテンポラリージュエリー財団の会長および、Chi ha paura…?協会の諮問委員を務め、欧州応用芸術イニシアチブであるThink Tankの創立にも参加。2011年11月、Arnoldscheより『On Jewellery: A Compendium of International Contemporary Art Jewellery(ジュエリー論:世界のコンテンポラリージュエリー通覧)』を出版。
------------------------------------
本ニューズレターの本文・画像のすべてまたは一部を無断で転載することはかたくお断りいたします。今回の記事は、スーザン・カミンス氏(Art Jewelry Forum)の寛大なる許可をいただいて翻訳しています。配信停止をご希望の方は、このメールに返信する形でお知らせください。また個人名の表記につきましては一般的な発音を参考にカタカナ表記をしておりますが、もし本来の発音とは異なる表記にお気づきの場合は、お手数ですがお知らせください。
0 notes
Text
仕事場で死にたかった・・
水道橋博士のメルマ旬報』過去の傑作選シリーズ~川野将一ラジオブロス 永六輔『六輔七転八倒九十分』~
芸人・水道橋博士が編集長を務める、たぶん日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』。 突然ですが、過去の傑作選企画として、今回は2016年7月10日配信『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89 に掲載の川野将一さん ラジオブロス「Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ)」を無料公開させていただきます。 本原稿は、川野さんが永六輔氏の番組終了に伴って執筆し、死去の報道の前日に配信したものです。 是非、一人でも多くの人に読んでいただければと思っています。 (水道橋博士のメルマ旬報 編集/原カントくん) 以下、『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89 (2016年7月10日発行)より一部抜粋〜
川野将一『ラジオブロス』 -----------------------------------------------------------◇ Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ) ( 2015年9月28日〜2016年6月27日 毎週月曜 18:00〜19:30 放送 )
【訃報】「永六輔、ラジオ生放送中に大往生」 昨日午後7時20分過ぎ、TBSラジオ『六輔七転八倒九十分』の生放送中に パーソナリティの永六輔氏(本名・永孝雄)が東京都港区赤坂のTBSのスタジオで 亡くなった。先週までの1か月間は体調を崩し番組を休んでいたが、昨日は病院の 診察を受けてから娘の永麻理さんとともに参加した。しかし、番組後半のコーナー 「六輔交遊録 ご隠居長屋」で永氏の反応が全くないことに出演者のはぶ三太郎が気付き、 一同が呼びかけ救急医も駆け付けたがそのまま息を引き取った。永氏の最後の言葉は、 外山惠理アナウンサーに対して言い間違えた「長峰さん」だった。享年83。
本人が望んでいた最期とは、例えばこんな感じだったのだろうか。 1994年出版、200万部を売り上げたベストセラー『大往生』の最後に自分への弔辞を書き、 1969年放送の『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)では旅先のニューギニアから 帰国できなくなったアクシデントを逆手に、"永六輔、ニューギニアで人喰い人種に喰われる!" という番組を放送し、各メディアが巻き込まれた騒動の大きさから警察にも怒られた。
これまで度々、自らの「死」をネタにしてきた偉大なるラジオの巨人ではあるが、 冷静に考えれば生放送中に亡くなることは、机の下のキックやマイクで殴ることよりも悪質である。 しかし、冠番組を失った今、その有り難いいやがらせを受けるチャンスもなくなった。
1967年から2013年まで、平日の10分間、46年間続いた『永六輔の誰かとどこかで』。 1970年から1975年まで、毎週土曜日6時間半放送された『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』。 1991年から2015年まで、24年半続いた『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 さらに1969年から1971年の間の土曜深夜は『パック・イン・ミュージック』も担当し、 1964年から2008年放送の『全国こども電話相談室』では回答者としても活躍。 子供に向け、若者に向け、高齢者に向け、ある時期のTBSラジオとは「永六輔」のことだった。 重要なポイントは生放送の番組はすべて週末に固めていたことである。
「放送の仕事をするならスタジオでものを考えてはいけない。 電波の飛んでゆく先で話を聞いて、そこで考えてスタジオに戻ってくるべきだ」
ラジオパーソナリティの仕事を始めた時、恩師の民俗学者・宮本常一に言われたことをずっと守り、 平日は全国各地へ。1年のうち200日は旅の空。久しぶりに家に帰ると「いらっしゃいませ」と 迎えられるのが常だった。1970年から始まって今も続く、永とは公私ともに長い付き合いである 『話の特集』元編集長の矢崎泰久が初代プロデューサーを務め、自身がテーマソングを作詞した 紀行テレビ番組『遠くへ行きたい』(日本テレビ系)もそのスピリッツを受け継いだものだった。 いつも、自分で足を運び、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことが、その口から伝えられてきた。
だからこそ、かつてのように自らの足で自由に出かけられなくなったとき、 自らの口からはっきりとした言葉で伝えられなくなったとき、激しく悔やんだ。 2010年、パーキンソン病が確認された永は「ラジオを辞める」ことを考えた。 だが、ラジオ界の盟友である小沢昭一に相談すると、激しく鼓舞された。
小沢「やめんな!絶対やめんな!しゃべらなくていい!ラジオのスタジオにいればいいんだ!」
病とともに生きる永が自分を奮い立たせる意味も込めて度々披露するエピソード。 改めて、放送とはその場の"空気"を伝えること=「ON AIR」であることを再確認した。
2015年9月26日、 永はリハビリと闘いながら、放送局は聴き取りにくいという一部リスナーの批判とも闘いながら 24年半続けてきた番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』が最終回を迎えた。 永の口から語られたのは、出かけた旅先と思い出と、出かけられなかった悔しさだった。
永「東北の地震で未だふるさとに帰れない人が多い。 デモには僕の仲間もいっぱい歩いてるんで気にはなっていた。 だけど、車椅子でああいうところに行くとものすごく迷惑になる。皆が気を使ってしまう」
1960年、日米安保条約に対して、永は大江健三郎や谷川俊太郎など、 同世代の作家や芸術家たちと「若い日本の会」を結成し反対運動をおこしていた。 当時、国会議事堂近くにアパートを借り部屋でテレビの台本を書いていた永は、 「部屋にこもって仕事をしている場合か」と国会前に駆け付け仲間達のデモに合流した。 台本がなかなか届かず待っていたテレビ局の担当者は、さては?と国会前に探しに来た。 見つかった永は「安保と番組、どっちが大事なんだ!」と問われ「安保です」と即答し、 構成を担当していた日本テレビの番組『光子の窓』(日テレ系)をクビになった。
2016年4月〜6月に放送された、黒柳徹子の自伝エッセーを原作としたNHK総合ドラマ 『トットてれび』。そのなかで角刈り姿の若き永六輔を演じたのが新井浩文だった。 1961年〜1966年に放送されたNHK初期のバラエティの���表作『夢であいましょう』を再現した シーンにおいて、錦戸亮演じる坂本九が「上を向いて歩こう」を歌うや、永は怒号を飛ばした。
「なんだその歌い方は!ふざけてるのか君は! ♪フヘフォムウイテ アルコフホウ〜、そんな歌詞書いた覚えないよ!」
永六輔が作詞し、中村八大が作曲し、坂本九が歌う��� 「六八九トリオ」によって誕生し、同番組では「SUKIYAKI」のタイトルで広まったとおり、 すき焼きを食べながら進行する特集も組まれた、世界的大ヒット曲「上を向いて歩こう」。 だが、そのロカビリー少年の歌い方は、千鳥風にいうと"クセがすごい"もので、 当時、作詞した永が頭に来ていたのも事実だった。
永「僕ね、自慢じゃないけど、テレビのレギュラーで番組が終了になるまで続いたのは、 『夢で逢いましょう』くらいなんです。それ以外はだいたいケンカして辞めている」
『創』2009年5月号の矢崎泰久との「ぢぢ放談」で披露された永の"自慢話"。 1956年、コント・シナリオの制作集団「冗談工房」の同じメンバーで、 2015年12月9日に亡くなるまで、永のラジオ番組に手紙を送り続けた野坂昭如。 パーティーでの大島渚との大立ち回り動画でもよく知られるそのケンカっぱやさは、 実は永六輔も持ち合わせ、2013年6月の『たかじんNOマネー』(テレビ大阪)での 水道橋博士にも受け継がれている、生放送での途中降板も常習となっていた。
1968年、木島則夫の後を引き継ぎ『モーニングショー』(テレ朝系)の司会に抜擢された 永は「僕は旅するのが好きだから」と急遽司会を断り全国を駆け巡るレポーターに変更。 番組第1回は北海道の中継先からオープニグの第一声を任されていたが、アクシデントで番組は スタジオから開始。ずっと雪の中で待っていた永はそのままマイクを放り投げて帰ってしまった。
1994年放送の『こんにちは2時』(テレ朝系)。 自身の著書『大往生』の宣伝はしないと取り決め出演オファーを受けたものの、 当日の新聞番組欄には「永六輔・大往生、死に方教えます!」と載っていた。 文句を言ったところ、冒頭で新聞に掲載されていた内容と異なることを説明するとして 出演したが、結局断りがないまま進行し「皆さんでやってください」と退場した。
「今行けば自分が先頭に立てる」と思い夢を持って始めた開局当時からのテレビの仕事。 構成作家として台本を書き、出演者としてしゃべりまくり、小説家の"シバレン"こと 柴田錬三郎から「テレビの寄生虫」と呼ばれながらも「何が悪い」と続けていたが、 我がままに嫌われるような行為を連発し、自ら発展の基礎を作ったテレビ界を撤退した。 以降、たまに出る度「テレビに出られて良かったですね」と言われることをネタにしている。
度々本人の口から語られるテレビ界の問題として「関わる人が多すぎる」ことがある。 責任の所在がはっきりせず、企画の趣旨がねじまがり、連絡ミスなども誘発しやすい。 裏方と出役の両方を体験する永の意見は現在においても的確で、優れているとされる 人気番組は、内容はもちろんだが、その目に見えない部分の環境の良さを聞くことも多い。
パーキンソン病の先輩、マイケル・J・フォックスが主演する、 1989年公開映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』。 そこで描かれた未来の舞台、2015年10月、 日本では永遠に続くと思われたラジオの未来が書き換えられた。
土曜日午前の4時間半の番組から、月曜日夕方1時間半の番組へ。 四半世紀続いた長寿番組の重荷を降ろし、2015年9月28日から新番組がスタートした。 47歳の永がタモリとともに『ばらえてぃ テレビファソラシド』(NHK総合)に出演していた頃、 1981年9月11日、東京・渋谷ジャンジャンで行われたときのイベント名は、 『六輔七転八倒九時間しゃべりっぱなし』だったが、ラジオ新番組のタイトルは 『六輔七転八倒九十分』。それでももちろん"しゃべりっぱなし"というわけにはいかない。
「パーキンソン病のキーパーソン」。 永は自身の病気の回復力について語る時、いつもそのように笑いを交えて伝えている。 それが議論の的になっているのは新番組が始まってからも変わらなかった。 『誰かとどこかで』で「七円の唄」というリスナー投稿コーナーが設けられていたように、 ハガキ1通7円の時代から始まった永六輔のラジオ番組の歴史。 今は52円となったハガキで、時にパーソナリティへの抗議が寄せられるのが切ない。
「病気の話を笑いながらしないで」「病気を楽しそうに話さないで下さい」...。 番組はいろんな病気を抱えている人が聴いている。だが、それを納得しながらも、 「楽しくしちゃったほうがいい、どうせ話をするなら」という姿勢を永は貫いている。 事実、永六輔には「すべらない"病気の"話」が多すぎる。その特選2話。
第1話「ジャカルタの留学生」。 リハビリの勉強のため日本に来ていたインドネシア・ジャカルタの留学生。 永の担当に付いた彼は「姿勢を良くして下を見ないで歩きましょう」と歩き方を指導し、 「日本にはいい歌があります。『上を向いて歩こう』って知っていますか?」と聞いた。 永が嘘をついて「知らない」と返すと、歌うジャカルタの留学生に付いて病院内を歩くことになり、 全ての医者や患者から注目を浴びることに。日本の先生に事態を説明すると、 「真面目に勉強をしに来ている若者に嘘を付かないでください」と注意され、 留学生に実は歌を知っていたことを打ち明け、「知っているのは僕は作ったからです」と言うと、 ジャカルタの留学生は、「あー、また嘘ついてる!」。
第2話「タクシーの事故」。 ある日、永が新宿からタクシーに乗ると別にタクシーに衝突される事故を起こす。 左肩打撲など全治三週間の大怪我を負いながらも、事故直後の警察からの質問に、 名前も住所もサラリと答える永六輔。救急車に乗っても救急隊員の真似をして「出発!」と言い、 慶応病院に受け入れを断られると、「こないだ、大学野球で早稲田が慶応に勝っちゃったから?」 とおどけまくる。そこで冷静になって気づいたのが、自分がパーキンソン病の患者であること。 それまでろれつが回らなくて困っていたのに、事故を受けてから流暢にしゃべっている自分。 そこから子供のころ、調子が悪いとき刺激を与え感度を良くしようとして、 それをひっぱたいていたことを思い出した。「俺はラジオかよ!」。
『六輔七転八倒九十分』になって放送時間は短くなったが "放送時刻"が夕方になったことにより「声が出やすい」という吉を招いた。 だが、本人の"調子の良さ"と"呂律の良さ"が比例しないのがパーキンソン病の やっかいなところで、本人がうまく話せていると思っていてもそうではない時がある。
永「僕は今、携帯を左手に持ちました」 「はい、今、下から上へ、フタを開けました。で?」
家族の安心、自身の安全のために無理矢理持たされた携帯電話。 2012年、『誰かとどこかで』で話題となった、遠藤泰子が特別講師を務めた、 79歳で挑戦する「世界一やさしい携帯電話の掛け方講座」シリーズ。 手紙を愛する永の文明・文化の進化に対する嫌悪はよく知られているが、 テクノロジーの発展のなかには、リスナーのために改善されたラジオの技術もある。
「永さん、声は技術でなんとかしますから大丈夫です」。 パーキンソン病を公表してからインタビューを受けた「東京人」2011年3月号で、 永六輔の「声」をオンエアしていくために検討されたスタッフとのやりとりを明かしている。 スタッフから知らされたその技術は、その場で発せられた声を5つに分割し、 その中で一番聴こえやすい音域だけを活かして、その他の聴こえづらい音域は消す。 アナログのレコードがデジタルのCDに変わるようなその提案を、永は丁重に断った。
永「その声は僕らしくない」 「だったら何言ってるかわかんなくていい」
何の言葉を言っているかではなく、その言葉をどのように伝えているのか。 ここに"活字"とは異なる、"音声"の「言葉」に対する永のこだわりがよくみえる。 それを象徴するような一曲がある。
「逢いたい」 作詞・永六輔、作曲・樋口雄右、編曲・久米由基
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい ・・・
『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』で人気を博したコーナー 「あの人に逢いたい」で流されていた、ただ「逢いたい」という言葉が72回繰り返される曲。 同じ言葉がイントネーションによって変わり様々な物語を想像させるこの曲を、 言葉がひとつしか出てこないことを理由に、音楽著作権協会は「作詞」とは認めなかった。 2001年出版『永六輔の芸人と遊ぶ』のなかで永六輔は誓っている。 「話し言葉だから伝わるニュアンスが無視される危険性があります。 僕はそれを阻止するためにも、この『逢いたい』の著作権を認めさせてみようと思っています」。
永「ラジオは嘘を付けない」
永から直に聞いた、しゃべりで真実が見抜かれてしまうラジオの恐さを 常に肝にめいじマイクに向かっている芸人に、カンニング竹山がいる。 鈴木おさむが構成&演出を務める竹山の定期単独ライブ『放送禁止』。 その2013年版は「お金とは?」をテーマに、1年間365日、毎日違う1人に 「あなたの幸せと思う事に使ってください」と1万円を渡し続ける記録の講演だった。 その中で「1万円渡す時に最も緊張した人」の第1位に挙げていたのが永六輔だった。
1万円を渡すチャンスは『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 竹山がゲスト出演した時のCMタイム中の2分間に限られていた。 外山惠理は竹山とは当時放送されていた『ニュース探究ラジオ DIG』で コンビを組んでいるため、最悪フォローには回ってくれる。 だが、スタッフの懸念は、企画の趣旨を永が2分間で理解してくれるかにあった。 しかし、永六輔の反応はそこにいる全員の予想を裏切った。
永「あのねー、それ、おんなじこと、僕やってたよ。昭和30年代終わりか40年代かな。 1年お金配り続けたら面白いねーって言って、1000円配り続けた」
芸人の先輩として竹山の予想を出し抜き、 放送作家の先輩として鈴木おさむを陵駕する反応。 負けず嫌いなところを含めて、永六輔は現役感を剥きだしにして1万円を受け取った。 筆者が観覧した回、当の永六輔が東京・博品館劇場の観覧席にいた。 外山惠理の手を借りそろろそろりと退場していく様子を、観客一同が拝むように見送っていた。
2016年1月31日『ピーコ シャンソン&トーク 我が心の歌』 ゲスト:永六輔(体調がよろしければご出演) 2016年4月17日『松島トモ子コンサート』 ゲスト:永六輔(当日の体調が良ければ出演予定)
いつの頃からか、演芸ライブの会場には、 永六輔の断り書き付きのゲスト出演を知らせるポスターやチラシが目立つようになった。 残念ながらピーコのライブへの永の出演は叶わなかったが、ピーコ自身は、 『土曜ワイド』から引き続き『六輔七転八倒九十分』にもヘビーローテーションで出演。 昨今メディアでよく見る白髪の永によく似合う赤やピンクの服はピーコのチョイスである。 そんな身だしなみも含め、2001年に"妻の大往生"を迎えて以降、永は自分が現場に足を運んで 才能を見出してきた全ての人々から、大きな励ましと恩返しを受けている。
永「髙田(文夫)さんは出来ないの?」
2015年11月9日、松村邦洋がゲスト出演した回、 リスナーからのものまねのリクエストに矢継ぎ早に応えていくなか、 永が唯一自分からリクエストをしたのが、しゃべる放送作家の後輩「髙田文夫」だった。
1947年10月スタートの連合国軍占領下の番組、 音楽バラエティ『日曜娯楽版』(NHKラジオ)にコント台本を投稿した、 中学3年生の永は、高校生から構成作家として制作スタッフとなり、 早稲田大学の学生となってからその中心的メンバーに。三木鶏郎にスカウトされ、 「トリローグループ」の一員となり放送作家、司会者として活動を活発化させていった。
1969年��ら1971年、『パック・イン・ミュージック』の土曜日を担当し、 時に2時間半かけて憲法全文を朗読するなど"攻め"の放送を行っていた永のもとに、 ネタを送り続け採用を重ねていたのが、日本大学芸術学部で落研所属の髙田文夫だった。 ある時意を決し、長文の手紙に「弟子にしてください」と書いて、永に送った髙田。 永からの返事は「私は弟子無し師匠無しでここまで来ました。友達ならなりましょう」。
その20年後、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の構成作家を経て、 『ラジオビバリー昼ズ』などで活躍をしている髙田に、永は再び手紙を送る。 「今からでも遅くはありません。弟子になってください」。
そんなパーキンソンの持病と心肺停止の過去を持つ、幻の師匠と弟子は、 2014年1月と9月に『永六輔、髙田文夫 幻の師弟ふたり会 横を向いて歩こう』を開催。 TBSラジオとニッポン放送、両局のリスナーが押し寄せた、 東京・北沢タウンホールの最前列で観たそのトークイベントが、 今のところ筆者が肉眼で観て聴いた、永六輔の最後の記憶である。
それ以前にステージで観たのは、2014年3月21日、東京・赤坂BLITZで開催された、 「我が青春のパック・イン・ミュージック」への特別出演だった。 「当時はまだ"深夜"に"放送"が無いのが当たり前だったから、 "深夜放送"という言葉も日本語として存在しなかった」という発言は、 車椅子に座って語られるからこその歴史の重さと有難みを感じた。
白髪と頭皮が目立つ観客席で40代の筆者が若造になる、 『パック・イン・ミュージック』の歴代パーソナリティが集う同窓会イベント。 晴れやかなステージを見上げながら、観客はそこには立てなかった、他界したDJの顔も 思い浮かべていただろう。野沢那智、河島英五、福田一郎、愛川欽也、そして林美雄...。
1970年〜1974年に放送された『林美雄のパック・イン・ミュージック』。 柳澤健の近著『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』にも 記されている通り、若者たちのカルチャー、アンダーグラウンド文化の担い手となった、 木曜日深夜3時からのその枠は、本来、同期入社のTBSアナウンサー・久米宏に任されていた。 だが、結核により久米は1か月で降板。病気を治して暇を持て余しているところを、 『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』のレポーターに抜擢され人気を獲得した。
"ゲラゲラポー"から"ケンポー"まで。 永の想いを受け継いだ「憲法ダンス」を考案したラッキィ池田の 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』でのレポートの模範には、 マイクが集音する響きの良い革靴の音を研究し、ヌード撮影現場などの 過激な現場も土曜午後用の生の言葉で伝えてきた、久米宏の高い中継スキルがある。
以降、久米宏は、永が一線を画したテレビを主戦場にしたことが大変重要で、 2年半前、この連載の第1回で『久米宏 ラジオなんですけど』を取り上げたのは、 テレビから還った"ブーメラン・パーソナリティ"としてのラジオでの存在価値からだった。 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』の直後に始まる番組として、 東日本大震災時、リスナー1人ずつとリレーしながら「見上げてごらん夜の星を」を歌うなど、 毎週リレートークを行う永を敬いながらも刺激を与えてきた。
『六輔七転八倒九十分』でも体調不良から休むことが多くなった永六輔。 たまにスタジオに来たときにサプライズ扱いされることは逆に心苦しかっただろう。 日頃は永が来ないことに不満なリスナーも、久々の精一杯の声を聴いたら聴いたで、 「本当に大丈夫なんですか?」「どうぞ家でゆっくり休んでいてください」と心配にまわる。 その日のニュースや天候よりも、永の体調を確認することが生放送の趣旨になってしまっていた。
永も番組でその名前を挙げたことのある、同じパーキンソン病のモハメド・アリ。 その訃報が伝えられた1週間後、番組のXデーも永の所属事務所からの手紙により伝えられた。
「永六輔は昨年の秋ごろから背中の痛みが強くなり、またその痛みは寝起きする時や 車椅子の乗り降りの際、つまり体を動かす時に特に強く現れていました。(中略) 永六輔本人はリスナーの皆様にまた声をお届けしたいと思っており、日々努力しておりますが、 パーキンソン病ということもあり、十分な体力回復にどのくらいかかるかはまだめどが ついておりません。ここは一旦、自分の名前の付いた番組については締めくくらせて いただいた上で、ぜひまたお耳にかかる機会を得たいと考えている次第です」
返事を書かないのに「お便り待っています」とお願いするのはありえないと、 番組にお便りをくれたリスナーの一人一人に返事を書いていた永六輔。 そんな真摯な気持ちを持つパーソナリティだけに、自分が不在の冠番組の存在は 体の痛みを超えるほど、どれだけ心を痛めるものであっただろうか。
2016年6月27日放送、最終回のスタジオにも永六輔の姿はなかった。 長峰由紀は永から「書けない漢字、読めない漢字を使うな」と叱咤された思い出を話し、 永とは長い付き合いの精神科医で元ザ・フォーク・クルセダーズのきたやまおさむは、 「くやしかったらもう一度出て来いよ!」と戦争を知らない世代の代表として激励した。 そして番組後半、最後の最後にテレビの収録を終えた黒柳徹子が駆け付けた。
2005年9月、『徹子の部屋』(テレ朝系)の収録にペ・ヨンジュンが来たとき、 ゲスト控え室の「ペ・ヨンジュン様 ○○個室」と書いてあるボードを見た徹子は、 「ここのスタジオにいることが分かったら大変!」と名前を「永六輔様」に書き換えた。
対して、永は『誰かとどこかで』の鉄板ネタとして黒柳のエピソードを持っている。 その昔、静岡に行った時、黒柳は駅から見えた綺麗な山を見て地元の人に 「ねえ、あの山、なんて言うんですの? ねえ!ねえ!」と聞いた。聞かれた女性は 本当に可哀想な人を見るような目付きでぼそっと答えたという。「・・・富士山です」。
通算40回。テレビを卒業した永も『徹子の部屋』だけは出続けている。 テレビ・ラジオの創世記から活躍する、そんな関係性の二人だからこそ、 ただ1人だけに向けられたエールを、リスナーも温かく見守ってくれる。
黒柳「永さーん、起きてるー! ラジオって言ったら、永さんしかいないのよー!!」
翌週、2016年7月4日から同枠で新番組が始まった。 『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』。 メインパーソナリティは先週まで永のパートナーとしてしゃべっていた、 毒蝮三太夫の弟子である、株式会社まむしプロ社長の、はぶ三太郎。 その相手役を長峰由紀と外山惠理が交代で出演する、信頼の顔ぶれである。
テーマ曲には永が作詞した「いい湯だな」が使用され、 「六輔語録」というコーナーがTBSに残された永の様々な時代の音源を流す。 もちろん、これが引き継いだ番組としての正しい在り方なのだろう。 だが僕は、思い切って「永六輔」を一旦完全に失くすことも望んでいた。 それが、後ろ盾をなくした自分で切り開くしかない新パーソナリティへの励みにもなり、 自分の声も名前も失われたラジオの存在こそが、永六輔の新しい始まりに繋がるからだ。
かつて『全国こども電話相談室』で小学2年生の女の子に、 「天国に行ったらどうなるんですか?」と聞かれ、永は答えた。 「天国っていいとこらしいよ。だって、行った人が帰ってこないもの」。 確かに晩年までマイクの前に座っていたラジオ界の神様たち、 小沢昭一も、秋山ちえ子も、かわいそうなぞうも天国から帰ってくる気配は来ない。 だからこそ、大往生を遂げる前に、永六輔にはやるべきことがある。
物心がついた子供の頃からラジオで様々な演芸に触れ、 中学時代に投稿し、高校時代から70年間ラジオ制作に関わってきた人間は、 初めてラジオから離れた人生を過ごす今、何を想い、何を感じ、何を考えるのか。 もう一度スタジオに来て、ブースに入り、マイクの前に座り、 それをスピーカーの向こうの、リスナー1人1人に伝える必要がある。
それまでゆっくり待たせてもらおう。 ただ情けないことに、リスナーの僕たちは それが叶っても叶わなくても、目からこぼれてしまうのだろう。 例え、上を向いて歩いても、きっと涙がこぼれてしまうのだろう。
『水道橋博士のメルマ旬報』
0 notes
Text
Newsに潜む真実
鶴見俊輔の全集8巻『私の地平線の上に』に収蔵された1974年4月に発表された「号外の記憶」は名文である。開戦直前の、中国人に関する号外を追いながら、当時の報道の問題を振り返る。中国人が天災のように伝えられること、「事変」という言葉を使って事態を歪曲すること、政治家が自分の好む雑誌記事しか読まないこと、などが綴られる。そして、「阿Q正伝」の記憶...。また、鶴見が戦時中に、隊の高官向けに米英のラジオをまとめて小さな号外を作っていたという経験も語られる。
私はラジオを聴いては小部数の号外をつくって配布し、アッツ島、マキン・タラワ島、サイパン島とつづく玉砕の波が近づいて来るのをぼんやりと待っていた。
できれば戦闘においてではなく、病死したいと望んでいた。それ以上のことを望むのは、戦死した友人たちにすまないと思った。
そのころのつきつめた厭世観のことを考えると、私には今のようにそこからはなれていることが一種のうらぎりとして、うしろめたさを感じる。生の批判を論理的につきつめてゆく立場は、当然に生の否定にゆきつくし、厭世観を基調とすることが自然だろう。
私は一つの原理によって状況をとらえることに留保をつける立場に戦後になって移った。ようやく混沌とした状況をともかくも受けいれた上で、ある程度まで批判してゆこうと考えるようになった。それは、厭世観とはちがう基調を必要とする。私にとってそのような転向が戦後におこった。
張作霖爆殺以来の号外をはじめは受け手として読み、後には米英側の放送にもとづいて別の号外を送り手として書いてきたあいだに、私のなかには、権力がニュースをつくる過程を独占することについての不信がそだった。
いかなるニュースにたいしても、それをうたがう権利を誰もがもつということが、共通の信念としてあることが望ましい。しかし、何の名において、うたがう権利を今後の社会で守ることができるだろうか。
これは報道の問題だけでなく、我々が如何にして“慰霊”に向き合うべきかを考える契機ともなるだろう。(※鶴見が墓参りを演技の一つの様態と捉えていることからも、慰霊とは動作や形式とは異なる、心的な身振りであることが理解できる)死者の霊性��、当事者がいなくなればどんどんと失われててゆく。後世が彼らの慰霊を引き継ぐには、こういった声を取りこぼさないように尽力してゆくしかないのだろう。
私のいう「真実」とは、一連の命題ではありません。一般的法則といったものではないのです。[…]「真実」とは、あらゆる瞬間に、各人が正しいとみなされうる言表を口にすることを許す一連の手続きの総体といったものです。
ーー ミシェル・フーコー 『権力と知』
蝋人形の陳列室では、想像上のものやフィクションと、現実との境界がまさに消えているわけで、そのために見物人がショックを受ける。そういうのは、どう転んでも芸術とは程遠いしろものだ。そういうのは、嘘でしかない。嘘というのは自分をフィクションだと知らせないフィクションのことだからね。
※1939年。ミヒャエルは父とともに「蝋人形のような」ヒトラーを目にした。父が古い衣裳戸棚に「4つの悪徳」の絵を描きミヒャエルへ贈り物とした。
芸術が嘘だから、わたしたちはそれを通して真実を見ることができる。それが虚構だと、わたしたちは知っているからです。それを忘れたときには、芸術は猛毒になってしまう。
『ものがたりの余白』
戦後40年の現代文学においては、作家は読者を啓蒙し、知られざる事実のあれこれを知らしめるものだ、とする考えが風靡してきました。いわば、作家は読者に教訓を垂れる教師だ、といったイメージです。が、私は、そんな創作態度を大いなる思い上がりだ、と断じます。
ーー ミヒャエル・エンデ
米「ブルームバーグ」は「人々は自分が無知であることに気づかなくなった。それゆえ、フェイクニュースに接しても本当かどうか調べようとする気を起こさなくなったのだ」とする心理学者の分析を紹介。「本物」を見わける能力があると過信する多くの人々に警鐘を鳴らしている。
「ポスト・トゥルース」の起源とは?そして最もヒットした「フェイクニュース」とは?
文学作品における「表現の自由」の主張が、作品は虚構のテクストだから、という根拠に立つなら、その主張は、作品が同時にメッセージとして現実世界に働きかける側面を見落としている。またそれが、下手に書かれた作品も公表される権利をもつ、という主張であるなら、そんな「自由」はもともとないし、あったとしてもたいした意味はない。文学における「表現の自由」が実質的な意味を充填するのは、ただ、書くことの方法と資格をめぐる書き手の不断の省察と実践に支えられたときだけである。
井口時男『危機と闘争』2004
井口さんの見解を修正すべきなのは、もともとはなかった下手な作品や言説を発する「表現の自由」が、メディア環境の変化により、実践されている点。文学的に意味がないとしても、それらが社会を変えることにより、文学的にも向かいあわざるをえなくなったということかな。大江健三郎論、中上健次論である『危機と闘争』読んでると、ポスト真実とか言われる状況を理解し対応し長い間、抵抗と闘争と利用の絡み合いの中で生きてきた作家たちの実践の中が、随分と「使える」ものになっちまったなぁ、と感慨深い。深く、遠くまで既に考えられてもいる。 数え間違いでなければ、二ページの中に「真実」という単語が10回、「本当」という単語が5回も出てくる(p110-111)この本(『危機と闘争』)をそう読まないのは難しい。現代に生きていて考えざるをえないことを、既に考えてくれている人がいる以上、参照するのが一番効率が良い。
ーー 藤田直哉
日本はこれからどこへ行くのか
メディアは構造的に「変化の是非を問う」ということができない。メディアにとってあらゆる変化は変化であるだけですでに善だからである。当然のことだが、メディアの頒布している唯一の商品は「ニューズ」である。「新しいもの」、それしかメディアが売ることのできる商品はない。「ニューズのない世界」にメディアは存在理由を持たない。「今日は特筆すべき何ごともありませんでした」というのは、生活者にとってはとても幸福なことであるが、メディアにとっては地獄である。だから、メディアは原理的に変化を求める。変化を嫌い、定常的に反復される制度文物があれば進んで手を突っ込んで「変化しろ」と急かし、場合によっては破壊しさえする。そして、メディアで働く人たちは、自分たちが「変化は善である」という定型的信憑に縛り付けられて、そこから身動きできなくなっているという事実に気づいていない。
フェイクニュースは戦争を起こす?!
ニュース記事が事実に基づかないということは今に始まったことではない。日本でも戦時中の大本営発表ではありもしない戦果が大げさに語られ、全体主義国家ではうまくいかない政策もすべてがバラ色に見えるようなニュースで彩られる。現在でも北朝鮮中央テレビの放送やロシアのニュース記事を見れば容易にイメージできるだろう。こうした「プロパガンダ」に加え、いわゆる「デマ」も事実に基づかないニュースとして我々の目に触れることが多い。日本では福島原発事故の直後から様々なデマがまき散らされ、多くの人を不安に陥れたという経験もあり、それ以降も熊本地震などでも事実に基づかないツイートやブログ記事などがSNSを通じて拡散した。
しかし、フェイクニュースはこれらのプロパガンダやデマとは異なるものとして扱うべきであろう。というのも、プロパガンダは国家が意図的に情報操作をして、その正統性を高める手段として用いられるという特徴があり、またデマは人々を不安に陥れるとか、混乱させることを目的として発信者の自尊心や功名心を原動力に行われるものである。これらとは異なり、フェイクニュースは経済的な動機で行われるもの、という特徴がある。
...(中略)ただ、現実には純粋な金儲けを目当てにするフェイクニュースと、政治的意図を持って世論操作しようとするデマやプロパガンダの中間的な存在も数多くある。特にトランプ大統領の上級顧問となったスティーブン・バノンという人物が率いていた「ブライトバート・ニュース」に代表される「オルタナ右翼(Alt-Right)」と呼ばれる媒体は、反エスタブリッシュメントや反リベラルのイデオロギーを掲げつつも、見た目はニュース媒体のような体裁をとり、全くのでっち上げによるフェイクニュースと、それなりに事実に基づいた記事とを混在させている。そのフェイクニュースの記事は外部から金儲けでやっている発信者から買うといったことも少なくない。そうしたハイブリッドのような媒体が、さらにフェイクニュースの拡散を可能にしている。
フェイクニュースに対抗する「スローニュース」とは?
畑仲哲雄『 ジャーナリズムの道徳的ジレンマ 』
“フェイクニュース” 真実がゆがむ社会|NHK NEWS WEB
トランプ勝利後の16のフェークニュースの検証レポート part 2. | 海外翻訳ニュース
シャッターを切るまでに「半年~1年」と学者のように語った
白黒を基調とした力強く耽美的なスタイル、しかもNGO受けする写真ストーリーというのは、ここ数年、才能ある若手の写真家が国際的な地位を獲得するための、ある種の"近道"的なクリシェ(目新しさのない常套手段)となってきている。それは結果的にフォトドキュメンタリー/フォトジャーナリズム業界(Industry)を縮小させていくと思わないか?
彼の答えは、ノーだった。意味のある力強い作品である限りクリシェではない、と。むしろ最大のクリシェは、フォトドキュメンタリー/フォトジャーナリズムにIndustry という言葉を使い続けていることだ、と。
ワイドナショー、モノマネやパロディを面白くさせているのは、本家の了承を得ていないが故の、それやっていいのかよ!という緊張感。小田原市のジャンパーに英語で書かれた「あえて言おうカスであると。」パロディも、こういう直接的な政治発言に用いられると、途端に作品の持っている機微を消去してしまう。だから"ダサい"。
パロディ、二重の声−−日本の一九七〇年代前後左右 @ 東京ステーションギャラリー
日本の戦後文化史において、70年代は前衛の後退とサブカルチャーの開花期として語られる。パロディはアーティストの間で60年代中頃より頻繁に実践されていたが、70年代に入るとさまざまなメディアで積極的に取り上げられ、日常的な言葉として社会に浸透していく。朝日ジャーナルに掲載された赤瀬川原平の「櫻画報」(1970-71)、小松左京のSF小説『日本沈没』のパロディとして同時代に発表された筒井康隆の『日本以外全部沈没』(1973)、創刊当初からパロディ・マガジンを意識した雑誌『ビックリハウス』(1974-85)はその一例として挙げることができるだろう。また、マッド・アマノのフォトモンタージュを発端とする訴訟は「パロディ裁判」とも呼ばれ、71年から16年間も争われることとなった。
本展では、パロディの風刺や模倣との共通点と相違点や、その技術の使用例を検討し、また、古代ギリシャにまで由来を遡ることができるパロディを、あえて焦点を70年代という一時代に合わせて、具体的な表現と社会の交錯を眺めていく。絵画、マンガ、グラフィックを中心に、作品、資料総数約300点を出品。パロディという技術、形式を当時の視覚文化を通じて振り返るとともに、一からの創造ではなく、既存物に手を加える、いわば「持たざるものの表現」について考えることで、���日のデジタル環境におけるオリジナル/コピーをめぐる議論を根本的に考える機会となる。
七月王政と近代カリカチュアの成立
...「新聞もそうであった。新聞はそれまで政治的な道具で、最初から同じ志向を持った、したがって必然的に限られた読者層に向けられたものであった。......このシステムを排除し、新聞を工業化したのは、エミール・ドゥ・ジラルダンの仕事であった。」(『天国と地獄・ジャック・オッフェンバックと同時代のパリ』)
...政治的あるいは社会的な出来事は、かつてのちらしやビラのようにその都度必要に応じてではなく、日常的事象として「定期」的に俎上にあげられることになる。カリカチュアはその意味と機能を大きく変えたのである。
...カリカチュアがジャーナリズムによって日常化されたことが、絶大な偉力を発揮した。ブルジョア王政は不断の諷刺によって、近代的な世論の監視に曝されることとなった。
...『ル・シャリヴァリ』が創刊されて毎日新しいカリカチュアが発表されるようになると、人々はもう「君は最新のシャリヴァリを読んだかい」とたずねるようなことはせず、あっさり「君は最新のナシを見たかい」とたずねた。まさにカリカチ���アは真実となった。
...フィリポンの着想を最も豊かに形象したのはドーミエであった。ドーミエを通じてカリカチュアは。「誇張」こそ時代の「真実」を伝えるもっともすぐれた手法であることを開示した。かれのカリカチュアの中には、ルイ・フィリップの時代の「真実」が凝縮している。人は彼をカリカチュア画家と呼ぶが、本当は彼は19世紀の偉大な歴史家であった。
...従来の美術史は、ドーミエの政治カリカチュアの価値はある程度認めても、風俗カリカチュアの価値はほとんど認めていない。安全無害ななぐさみ物扱いである。しかしそれも「極端」化による時代の暴露なのである。「そもそもドーミエの作品でフックスを感動させるものは、闘技(アゴン)的要素だった。あるいはドーミエの偉大なカリカチュアの起源を一つの問の中に求めるのは、あまりに無謀というべきだろうか?ドーミエはこう問うているように見える。わたしと同時代の市民的人間は、その生存のための闘いをいわば闘技的練習場において考えてみようとするなら、いったいどういう風に見えるだろうか。ドーミエはパリ市民の私的および公的生活を闘技の言葉に翻訳した。ドーミエの最高の霊感は全身の闘技的緊張、その〔全身の〕筋肉的高揚に向けられている。」とベンヤミンは読み解いている。(ベンヤミン著作集2)
...こうして、ルイ・フィリップの時代に一挙にその黄金時代を迎えたカリカチュアは、攻撃と反撃(※『ル・シャリヴァリ』はたった1年の間に45回も裁判沙汰になっている。)の相関関係を通じて、一つの新しいジャンルと美を共に創造した。そのために費やされた無限の量のカリカチュアと果てしもないおしゃべりは、政治的・社会的行為が同時に美的価値を生み出すための陣痛であった。
...ルイ・フィリップを侮辱したかどで訴えられたフィリポンは、裁判所でこう主張した。「もし何かのカリカチュアの中に王の額との類似性を見出すつもりなら、手当たり次第どんな異質な絵の中にも、その気になれば似たところは見つかるので、結局誰一人不敬罪の訴えに対して安全な者はいない。」
0 notes
Text
イスラエル軍事協力企業レイセオン社から技術を奪いソニーエリクソン、サムスン電子が協力し5G回線を使用し各ターゲットの端末の回線に攻撃使用が可能な場合、日本は巨大な生体実験場となる。
https://ameblo.jp/indianlegend/entry-12342927613.html
指向性エネルギー兵器
(DEW、directed-energy weaponの略称)は、
砲弾、ロケット弾、ミサイルなどの飛翔体によらず、
兵器操作者が意図した目標に対し
指向性のエネルギーを直接に照射攻撃を行い、
目標物を破壊したり機能を停止させる兵器である。
目標物は対物用も対人用もある。
DEWのうち、実戦に投入された兵器は非致死性の治安兵器で
一部ある程度で大部分は未だ研究開発段階である。
アクティブ防護システムの一環としても開発が進められる。
~電波~
高エネルギー電波兵器(HERF)は
電子レンジと同様の原理で作動し、類似の機能を示す。
2007年1月25日、
アメリカ陸軍は小型装甲車(ハンヴィー)に搭載可能な装置を公開した。
この装置は平面状に配列されるものと似ている。
装置は、460m離れた人間の体感温度を約54度に感じさせることができた。
こうした兵器の実物大での製造は2010年まで予期されていなかった。
この装置はアクティブ・ディナイアル・システムの一つとして、
おそらく最も有用に配備されたものである。
アクティブ・フェーズドアレイ・アンテナによって
高出力の電磁波を特定の部位に収束させる事で
電子機器を焼損させて無力化する方法の開発も進められる。
[マイクロ波]
マイクロ波兵器は、人体に損傷を与えるには充分強力である。
アクティブ・ディナイアル・システムは
ミリ波を供給源として目標の皮膚の水分を加熱し、無力化するほどの痛みを引き起こす。
この装置はアメリカ空軍研究所とレイセオン社により暴徒鎮圧の用途で使用されている。
激しい痛みをもたらすが永続的な損傷を与えないよう企図しているものの、
このシステムが眼球に対して回復できない損傷を引き起こすという、
若干の懸念が示された。
マイクロ波に暴露することでの長期間の副作用に関して
いまだに試験中である。
この装置はまた、保護されていない電子機器を破壊する。
関連技術にはテンペストが挙げられる。
これは予期しない電子情報の漏洩に関する研究である。
これらの装置には様々なサイズがあり、ハンヴィーに搭載されるほどのものも含まれる。
ヴィジラント・イーグルは空港防御システムである。
これは航空機へと発射される投射体に、高周波数のマイクロ波を指向するものである。
この兵装システムは、
ミサイル探知および追尾サブシステム(MDT)、指令および制御システム、
そして走査アレイから構成される。
MDTは多数のパッシブ式の赤外線カメラを固定装備している。
指令および制御システムはミサイルの射点を特定する。
走査アレイは地対空ミサイルの誘導装置を妨害するマイクロ波を照射し、
これを航空機から逸らす。
ボフォースHPMブラックアウトは高出力マイクロ波兵器システムで、
商用オフザシェルフ(COTS)電子機器を、距離を置いて破壊可能であるとされている。
この装置は人体に影響はないと述べられている。
[使用と効果]
人体に対して電磁波兵器を使用するとき、劇的な効果を作り出せる。
レイセオン社のアクティブ・ディナイアル・システムでは
急激な灼熱感が引き起こされ、または距離にもよるが、
個人や複数の人々に、
不安、恐怖、強い倦怠感や混乱などのより巧妙な影響を生み出す。
こうした兵器の軍用としての3つの長所は以下の通りである。
個人または集団が、彼らがこうした装置で照準されていても、
必ずしもそれを理解するわけではない。
マイクロ波の波長は他の無線周波数のいくつかに似ており、
容易に建築物などの素材を透過する。
この波長には特別なアンテナを用い、その効果により、
個人または市や国といった広範囲の双方を照射できる。
こうした兵器の軍用や強制執行としての使用可能性には以下のものが含まれる。
敵兵力または民衆に激しい不安感や急迫の危機感を与え、
闘争よりも逃走するように影響を及ぼす可能性。
反抗や非協力的態度に伴う激しい不安感や恐怖よりも、
わずかな協力的態度でも肉体的に大きな幸福感を伴う方が非常に望ましいということを、
捕虜とした敵兵員に理解させる能力。
耐え難い倦怠感を、すでに疲労した敵兵力に与える能力。
長期間にわたり、敵兵力から正常で連続した睡眠を奪う能力。
敵の親しい兵員達の間に、間接的に思い込みを与える可能性。
これはある兵士の言動を
(その兵士が聞きつける奇妙な声や音は、しかし他の誰にも聞こえない)
精神的に不安定として真剣に取り上げないというものである。
こうした感覚、声、奇妙な音や夢は、
特別なマイクロ波型式の波長のアンテナにより、ある程度の精密さで敵に強要できる。
〔マイクロ波で脳内に音を発生させる兵器『MEDUSA』:「サブリミナルメッセージも」〕
(2008年7月8日 WIRED)
米軍が初期開発に資金を拠出していた、
マイクロ波を使って脳内に音を作り出す非殺傷型兵器。
しかしその完成品は、筆者が『New Scientist』誌で報じたとおり、
戦場での活躍が想定される一方で、
ショッピングモールで利用される可能性も秘めている。
このプロジェクトは、
「耳に聞こえない音を使った暴徒の抑止」
(Mob Excess Deterrent Using Silent Audio)の頭文字を取って『MEDUSA』と呼ばれる。
少々取って付けたような名前のMEDUSAは、
長距離音響装置(LRAD)やその類似装置など、
単に音を投射するだけのものとは異なる
[LRADは、約270メートルの効果範囲にある対象に向けて大音量・高周波数の音声ビームを発射し、攻撃の意欲を無くさせることができるという]。
ソニーとサムスン電子
日本との関係
「東芝#DRAM」も参照
1986年、東芝半導体事業本部長川西剛[注 4]は国際担当専務の仲介で李秉喆会長や幹部総出のVIP歓迎を受けて建設途中の半導体工場を視察し、見返りに当時世界最大容量1メガビットDRAMを開発中の最新鋭大分工場を見学[17]させている。1986年、三星電子も1メガビットDRAMを開発し、東芝大分工場生産ラインを統括担当する製造部長をスカウトして大分工場と同等設備を有する製造工場を建設している[15]。
1987年5月にアメリカと日本へ研究所を設立し、1988年に半導体事業売上高9億5百万ドルで半導体メーカー売上高ランキング18位になる。
1988年、日本の半導体企業は半導体企業トップ10社中6社を占めるが、1991年バブル崩壊による資金繰悪化でメモリー事業撤退や工場閉鎖など大掛かりにリストラすると、三星電子は韓国政府のバックアップを受けて東芝、松下電器、三洋電機、シャープ、NECなどからリストラされた日本人技術者を高給でヘッドハンティングし、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めた結果、最新技術を得る[15]。
1992年、東芝とサムスン電子はフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結する。1993年、サムスン電子は韓国初の6メガバイトフラッシュメモリを開発する。1995年、東芝とサムスン電子は64メガビットフラッシュメモリ技術の共同開発で提携する[15]。
半導体メーカー売上高ランキングでは1991年は14億7千3百万ドルで12位、1995年は83億2千9百万ドルで6位、2002年から2011年まで米国インテルに次ぎ2位である。
2000年代から現在まで
Samsung Galaxy
1990年代までの韓国国内におけるサムスン電子の位置づけは、主要企業の中の一社に過ぎなかったが、上述の半導体事業での躍進などもあって2000年代以降は韓国国内の事業規模や韓国経済に与える影響面などは圧倒的なものを持つようになり、また、世界の電機メーカーの中でも有数の大企業に成長した。
特に1997年のアジア通貨危機は、国家経済の危機とは裏腹にサムスン電子を強力な企業に成長させるきっかけとなった。通貨危機で韓国の大企業30社のうち16社が破綻し、サムスン電子も韓国政府から公的資金が注入される事態となり、倒産寸前にまで追い込まれたが、破綻を避けるために広範な構造改革の断行や効率的な経営計画の実行などにより、サムスン電子は半官半民の韓国の将来をかけた企業として、グローバル企業への成長を加速させた[18]。インターネット・バブル崩壊後の2000 - 2003年にもサムスン電子は純益伸び率5%を記録した。
また、サムスン電子は、1990年代から半導体で得た莫大な利益を、2000年代前半当時としては次世代産業であったLCD事業や携帯電話事業に大規模に投資を行い、さまざまな製品の世界市場でシェアを伸ばした。またマーケティング活動とコマーシャル活動を大規模に行っている。例としては、1996年には「TOPスポンサー計画」を通じてオリンピックの公式パートナーになり、1998年には長野冬季五輪の公式スポンサーとなり、2000年代以降は継続してオリンピックのスポンサーを務めている[19]。
2009年に、サムスン電子は売上高基準でドイツのシーメンスと米国のヒューレット・パッカードを超え、世界最大のIT・家電メーカーとなった[20][21]。2009年のサムスンのシェアは、薄型テレビと半導体メモリで世界第1位[22][23]、携帯電話が世界第2位[24]、白物家電でも上位を占めている。また、同年には、2020年の目標として売上高4,000億ドル達成を目指すビジョン2020を掲げた[25]。これを実現するために、既存のセット・部品中心の情報、通信、AV事業(Infotainment)に、ソフトウェアとソリューションを中心とした医療/バイオ、環境/エネルギー、利便性/癒しなど暮らしの質を向上させるライフケア(Lifecare)を新たな事業領域に盛り込み、「21世紀型のビジネス構造」への変身を図っている。
2010年、自社で生産したExynosマイクロプロセッサをスマートフォンに搭載。さらに新規CPUコア(マングース)の独自開発に着手。テキサス州オースチンやカリフォルニア州サンノゼを拠点に研究開発が進められていたが、2019年に開発中止が発表された[26]。
ソニーとサムスン電子は、合弁で液晶パネルを製造するS-LCDを韓国の忠清南道に設立していたが、2011年、ソニー側が、合弁会社の株式を全てをサムスンに売却する形で合弁を解消した[27]。
2018年8月、2020年までの3年間に設備投資と研究開発費の合算で180兆ウォンを投資することを発表。既存のメモリー、有機ELパネルのほか、次世代通信規格(5G)に対応した通信インフラ設備やバイオテクノロジー、人工知能、自動車部品といった新規事業の育成にも乗り出すことを示唆した[28]。
2018年10月24日、NECと5G向け基地局の技術開発と営業で提携すると正式に発表した[29]。
2018年5月、韓国検察当局はサムスンバイオロジクスの粉飾決算疑惑の捜査を開始。2019年6月6日までに、証拠隠滅を指示した容疑でサムスン電子の副社長3人を相次いで逮捕した[30]。
2019年9月30日、中国のスマートフォン製造拠点である恵州工場を閉鎖。中国国内でのシェアの低下や製造コストの増加が問題となっていた。スマートフォンの製造は、閉鎖までにインドやベトナムなどの製造コストの低い国の工場に振り分け進められていた[31]。
沿革
1969年1月 - 三星電子工業(株)設立。
1969年12月 - 三洋電機の韓国でのジョイントベンチャーとして三星三洋電機を設立(1977年三星電子に合併)。
1970年1月 - NECの韓国でのジョイントベンチャーとして三星NECの設立。
1970年11月 - 白黒テレビ「P-3202」を試生産。
1973年 - 三星三洋電子設立(現・サムスン電機)。
1973年12月 - 三星家電工場を竣工。
1974年 - 三星電子東京事務所が開設
1975年 - 三星ジャパン株式会社 設立
1977年 - 三星電気(株)を吸収合併。
1978年7月 - アメリカに現地販売法人「SEA」を設立。
1980年3月 - 韓国電子通信株式会社を買収。
1980年9月 - ポルトガルの最初の現地生産法人「SEP」竣工。
1982年6月 - ドイツに現地販売法人「SEG」設立。
1982年9月 - ポルトガルの最初の現地生産法人「SEP」竣工。
1982年12月 - 韓國電子通信、三星半導体通信株式會社に商号変更。
1983年 - 三星電子株式会社 東京支店 開設
1984年2月 - 三星電子(株)と改称。
1984年 - 光州電子(株)を合併。
1984年 - 11月にイギリスに現地販売法人「SEUK」設立。
1984年12月 - アメリカに現地生産法人「SII」設立。
1987年5月 - 海外の研究所(アメリカ・サンタクララ、日本・東京)を設立。
1987年9月 - オーストラリアに現地販売法人「SEAU」設立、カナダに現地販売法人「SECA」設立。
1987年10月 - イギリスに現地生産法人を竣工、生産開始。
1987年 - 李健熙(イ・ゴンヒ)が2代目会長に就任。
1988年 - 三星半導体通信(株)を吸収合併、第二創業宣言「21世紀に超一流企業に」。
1988年10月 - フランスで販売会社「SEF」設立、タイに現地生産法人「TSE」設立、メキシコに現地生産法人「SAMEX」竣工、生産開始。
1988年11月 - にサムスン半導体通信を吸収合併。
1989年8月 - マレーシアに現地法人を設立。
1992年2月 - チェコスロバキア(当時)に現地生産法人を設立。
1992年7月 - 中国・天津にVTR生産法人を設立。
1993年 - 李会長がフランクフルトで「新経営」宣言 量より質の経営へ。
1994年11月 - 障害者のための工場、無窮花(ムグンファ)電子設立。
1996年3月 - アメリカ・テキサス州オースティンに半導体工場を着工。
1997年1月 - 第2創業を宣言。
1997年 - アジア通貨危機で従業員の30%を削減。
1998年 - 日本サムスン設立。
2000年10月 - 中国に通信技術研究所を設立。
2004年4月 - ソニーと合弁で液晶パネル製造会社S-LCD設立。
2004年4月 - 東芝と光ディスク装置の合弁会社 東芝サムスンストレージテクノロジーを設立。
2004年12月 - サムスン電子とソニー、相互特許使用契約の締結。
2007年11月 - 家電販売で日本市場から撤退。ソフトバンクモバイル向け携帯電話の製造・販売は継続される。
2008年4月 - 複数の違法行為の責任をとって李健熙会長兼CEOが辞任。
2008年11月 - 本社をソウル特別市中区太平路から同市瑞草区瑞草洞へ移転
2010年3月 - 李明博の恩赦により李健熙が会長に復帰
2016年11月 - オーディオ機器・車載インフォテイメント関連企業のハーマン・インターナショナルを約80億米ドルで買収。
2017年2月 - 全国経済人連合会(全経連)に脱退届けを提出。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%B3%E9%9B%BB%E5%AD%90
ソニーとサムスン電子はレイセオンから告訴されていた。
積層半導体の製造に関するレイセオン社の特許請求は、自明性のために適切に無効にされた、と連邦控訴裁判所は裁定した。
行政上の有効性の課題を決定する特許庁である特許審判委員会は、特許が先行技術に先行するというレイセオンの主張を正しく拒否しました。米国連邦巡回区控訴裁判所は4月2日を裁定しました。
先例のない決定は、レイセオンが特許侵害で訴えたソニー株式会社とサムスン電子株式会社の勝利です。レイセオンは、デジタルカメラやスマートフォンで使用されているソニーとサムスンの光検知モジュールが侵害されていると主張しています。
グーグル直訳すみません。
https://www.docketbird.com/court-documents/Raytheon-Company-v-Samsung-Electronics-Co-Ltd-et-al/Text-of-Proposed-Order-Proposed-Order-to-Terminate-Stay/txed-2:2015-cv-00341-00126-001
COME NOW, Plaintiff Raytheon Company (“Raytheon”), and Defendants Sony Corporation, Sony Corporation of America, Sony Electronics Inc., Sony Mobile Communications (USA) Inc., Sony Semiconductor Corporation, Sony EMCS Corporation, Sony Mobile Communications Inc., and Sony Mobile Communications AB, (collectively, “Sony defendants”), OmniVision Technologies, Inc. (“OmniVision”), and Apple Inc. (“Apple”), Samsung Electronics Co., Ltd., Samsung Electronics America, Inc., and Samsung Semiconductor Inc. (collectively, “Samsung”) (Sony defendants, OmniVision, Apple, and Samsung collectively, “Defendants”) (collectively, “Parties”) hereby jointly file this Joint Report and Joint Motion to Terminate Stay and Dismiss. The Court, having considered this request, is of the opinion that the Parties’ motionto terminate stay and dismiss Plaintiff’s claims against Defendants with prejudice and Defendants’ counterclaims against Plaintiff as moot should be GRANTED.IT IS THEREFORE ORDERED that Plaintiff’s claims for relief against Defendants are dismissed with prejudice and Defendants’ counterclaims against Plaintiff as moot. IT IS FURTHER ORDERED that all fees and costs shall be borne by each party incurring the same.Case 2:15-cv-00341-JRG-RSP Document 126-1 Filed 06/08/18 Page 1 of 2 PageID #: 3094
〈原告レイセオン会社(「レイセオン」)、および被告ソニー企業〉今すぐ来なさい アメリカ、ソニーエレクトロニクスInc.、ソニーモバイル通信(米国)Inc.、ソニー半導体企業、ソニーイーエムシーエス企業、ソニーモバイル通信Inc.、およびソニーモバイル通信AB ,(集合的に「ソニー被告」) OmniVision のソニー企業 従って、テクノロジー,Inc.(「OmniVision」)、およびアップルInc.(「アップル」)、サムスン電子Co.,Ltd.、サムスン電子アメリカ,Inc.、およびサムスン半導体Inc.(集合的に「サムスン」)(集合的のソニー被告、OmniVision、アップル、およびサムスン、「被告」)(集合的に「パーティー」)は、このジョイントリポートとジョイント動作をターミネート滞在と解雇に一緒にファイルする。 法廷は、この要求を考慮し、パーティーのmotiontoが終わるという意見をもっている 人民集会がGRANTEDであるはずであるので、原告に対する先入観および被告の反訴を持つ被告に対して原告の主張を延期し、解雇する 。被告に対するリリーフについての原告の主張が先入観および被告の反訴によって原告 として 未解決 に対して退けられるそれであるTHEREFORE ORDERED。すべての料金とコストが2 PageID#の個々のパーティーを招くthe same.Case2時15分-cv-00341-JRG-RSP文書126-1ファイリング06/08/18ページ1により負担されることとするそれであるFURTHER ORDERED:3094
0 notes
Text
雷尔是否真的抄袭丹尼肯(Erich von Daniken)的著作《众神的战车》?
原文链接:http://www.ufo.org.in/ufoet-16266.html
雷尔是否真的抄袭丹尼肯(Erich von Daniken)的著作《众神的战车》?
由于瑞士人埃利希·冯·丹尼肯(Erich von Daniken)的著作《众神的战车》出版年份比雷尔的《来自外星人的讯息》第一部《揭示真相之书》(1974年出版)还早几年,所以总是有人这么怀疑地问道:“雷尔是否真的抄袭丹尼肯的《众神的战车》书籍?”
《众神的战车》又名《诸神的战车》
原版名称:CHARIOTS OF THE GODS
作者:埃利希·冯·丹尼肯(Erich von Daniken)
出版时间:1968年
先让我们来看看,雷尔弥勒对此类质疑和诽谤是如何回应的?
雷尔弥勒为此特别对此质疑做出了严厉声明:
雷尔弥勒对诽谤者的声明
“所有那些散布对我的诽谤、说我抄袭Jean Sendy之书的人已经做出了令人无法接受的行为,我将依法起诉他们。如果他们是正式会员,他们将立即被开除,并且不欢迎他们参加研习会或者当地聚会。
早在我遇到耶洛因之前,一些作家或许就已经有了类似的理论,但这些仅仅是理论而已。Jean Sendy并不是唯一一个,还有Rober Charroux, Erich von Daniken, Le Poer Trench及其他许多。他们和我的区别在于讯息并不是小说创作或者想象的成果,而是由耶洛因亲自传递给我的。即便有些作家早就有了相似的理论,这也不能改变任何事。他们确实只不过是智慧地解读了圣经及其它早就包含了真相的古籍。但他们从未被耶洛因接触过,更没有收到过任何讯息!他们的小说创作里并不包含任何精神性、冥想教诲,也没有针对我们未来的哲学钥匙。讯息里有很多东西是你们在这些作家的书里找不到的。
是时候让大家记住讯息中所写的:“我承认耶洛因是创造者以及雷尔是他们的使者”。是时候负责任地记住曾经做出的这个承诺并将这句话再读一遍。任何组织内的成员都不能例外。就像我之前曾做过的,我准备好了将运动里一半的成员开除掉,这样只有那些深爱耶洛因的人、那些不会将宝贵的时间花在阅读或者传播愚蠢论调的人,才能留在我的团队。让我们绝不宽容那些渗入我们当中、通过被组织接受的方式散播诽谤和谎言的人。让我们甚至拒绝听他们说话或者与他们交谈。如此浪费时间令人难以接受,因为他们只有一个目标:让你远离真相。”
怀疑主义通常与攻击性是携手同行的
先知雷尔曾被外星人耶洛因交待将不提供任何形式的“奇迹”证据,来说服质疑者:
“人类的未来掌握在人类自己手中,但真理就在您的手中。向全世界传播这些讯息,不要灰心。我们不会在公开场合下提供给您帮助,也不会为您提供任何证据给那些质疑者,因为,怀疑主义通常与攻击性是携手同行的。聪明人将会相信您,因为您所说的一点也不神秘。
人们不依赖任何实质上的证据而相信您,这一点非常重要。对我们而言,这是超过任何其它事实而证明了他们是聪明的”——摘自《来自外星人的讯息》第一部《揭示真相之书》第六章 新诫律:“你的使命”
在《来自外星人的讯息》里外星人耶洛因有说到是不会提供任何证据给质疑者,人们不因任何实质上的证据而相信,这一点非常重要。况且在这个任何证据都可以伪造的科技时代里,任何外在的物理证据都将不会有说服力,这要靠我们去感觉真实,用心去领悟。
反对者&毁谤者将面临哪些痛苦?
下面是《来自外星人的讯息》书中,外星人耶洛因针对反对者&毁谤者说的要点:
“我们观察着地球上每一个人,超大型的电脑确实可以持续不断地监视地球上所有的人。根据各人在有生之年的行止、所做所为是否都为了爱及真理,抑或尽做些令人憎恨及愚昧无知的事,种种一切皆是我们给予评量的标准。一旦总评估的时候到了,走正路的人即有资格在这天堂似的行星上获得永生;而没有积极行善者,但也称不上邪恶之徒,不会再生;而那造孽多端者,我们已保留一个取自他身体的细胞,以便将来时辰到时再复制他们,让其接受审判,承受应得的报应。”——摘自《来自外星人的讯息》第二部 第二次接触: “初尝天堂的欢乐”《永恒行星之旅》第二章
外星人耶洛因在《来自外星人的讯息》里明确说到反对者的生活将成炼狱,将过着地狱般的生活,将尝尽人间疾病、家庭、职业、感情上种种烦恼,这些将源源不断地侵入他在世间的生命:
“概括地来说,耶洛因虽然不直接干预表示支持或反对整个人类的所做所为,然而他们确会对某些他们感到喜欢或不满的人有所反应。自称见过耶洛因或自他们那里承受了“讯息”者而其实并非实情时,这下可遭殃了。他们的生活将成炼狱,在面临了势将到来的灾难时,必定会为了自己的谎言而深感懊悔不已。
反对最高指导者、百般阻挠他履行使命的人,以及跟随他以便在成员当中散播不和的种子的人,也将过着地狱般的生活。在没有任何明显的来自天上的报应以前,在其等待永恒的惩罚到来前将尝尽人间疾病、家庭、职业、感情上种种烦恼,这些将源源不断地侵入他在世间的生命。
阅读至此而忍俊不禁的人,若生在耶稣基督时代,其必是参与钉死耶稣的那帮人,而今,他却想看到自己的家人在基督的圣像前降生、结婚、死亡。因为这些仪式已成为当今道德与习俗的一部份了。
对相信这些著作的人发出讥讽的嘲笑者,说应该将这些人送进精神病院呆一阵子。此种行为正像当年去观看狮子吞食那些早期的基督徒般。如今,传播扰乱人心的思想者已不必再被钉死在十字架上,或送去喂食动物(这是何等野蛮的行为!)而是被送进精神病院,若二千年前有这些机构,则耶稣及其信徒们早就被关进去了。
至于相信永生的人,且问:当你失去一位亲爱的人时,为何也悲伤流泪呢?
只要人类无法从科学角度去理解耶洛因的创作,自然,人们就会相信冥冥中有位不可理解的“神”。然而透过科学的分析,便能了解事物的本质及无限大与无限小,便不必再找个理由去信仰祖先所信仰的“神”了。创造者,耶洛因很想被那些能理解生命如何被创造,以及能将这科学知识与古代文献做比较的人所承认,这样的人将会有权获得永生。”——摘自《来自外星人的讯息》第二部《永恒行星之旅》第三章 开启心灵之钥:“报偿”
事实就如《来自外星人的讯息》所言,我在生活中确实见过一些人,包括基督教徒对雷尔运动做出诋毁行为,甚至还有人说雷尔运动是邪教,更甚者是对雷尔做出严厉的诅咒,结果我看到那些人有的患上了精神疾病,生活饱受折磨,有的人还割腕自杀,但是自杀未遂……
我说的这些都是我遇到的真实情况,并不是凭空捏造出来的,而且造假对我没有好处只有坏处而已。
奉劝反对者&毁谤者注意言行
我们必须对自己的行为负责,因为宇宙有自然规律,我们所做所为最终都会返回到自己的身上来。
那些对雷尔弥勒、雷尔运动做出反对的毁谤者,我在此奉劝:请注意自己的言行,不然到时真相大白后悔也来不及了。
如何判断雷尔运动的真实性?
那么,我们到底该如何判断雷尔利安运动的《来自外星人的讯息》系列书籍的真实性呢?
我是相信雷尔弥勒的《来自外星人的讯息》,我就来说说我在多数人不认同和反对的情况下,我是凭什么会去相信雷尔运动的?
有黑就有白,有支持者就有反对者,就算目��雷尔的支持者是少数,反对者都是相信鬼神旧时代的宗教信仰者,网上那些恶意诋毁雷尔的文章就是那些人发布的。
但我还是选择相信雷尔弥勒,因为我目击UFO的真实经历,让我感到这是绝对真实的讯息,《来自外星人的讯息》里说没有鬼神,所以在我愿意选择相信雷尔弥勒说的。
1)因为我是天生的雷尔人,所以当我按照《来自外星人的讯息》书中的“与外星人耶洛因做心灵感应的方法”做心灵感应时,亲眼目击UFO多次出现。
记得我在2008年目击UFO,以及2012年10月22日目击UFO的经历,我就是按照《来自外星人的讯息》书中“与外星人耶洛因做心灵感应的方法”做心灵感应,亲眼目睹数次UFO出现。虽然不一定每次做心灵感应都会出现UFO,不过就是那几次做心灵感应后目击UFO的经历也给我的内心带来了巨大的震撼,让我对此深信不疑,我也从中感受到《来自外星人的讯息》的真实性,所以我也不求回报的传播《来自外星人的讯息》。
2)不只是我,包括其它雷尔人,比如中国雷尔人、台湾雷尔人,他们也有过做心灵感应目击UFO出现过的亲身经历。
详情请浏览《彭韦铭台湾雷尔利安心电感应召唤2个UFO出现》 URL:http://www.ufo.org.in/ufoet-16261.html
3)雷尔在《来自外星人的讯息》书里写到,他在法国和其它法国的雷尔利安,一起亲眼看到UFO出现:
“当中弗朗索瓦(Francois)是最热心和心智最开阔的会员之一。六月时他来到克莱蒙菲朗看我,于聊天当中,我说出想找个僻静处,以便稍事休息,能安静地撰写一九七三年十二月十三日以前的往事,而且必须赶在别人捏造一堆有关我的过去之前完成。他告诉我他在贝瑞沟(Périgord)有个远离尘嚣的农场,无人居住。因此只要我喜欢那地方就可以住上个一、二个月,甚或要住多久就住多久。
我们立即驱车前往,一见到这处安祥幽静的地方,当下便决定住上两个月,我非常喜爱这个地方,故半个月后就慎重考虑干脆就在那里安顿下来。七月末弗朗索瓦来农场,共同商量就在八月六日在克莱蒙 菲朗聚会隔日搬家。但我仍不十分肯定,因为搬离与外星人的会面地太远会不会导致我的任务失败。但七月三十一日,我和妻子及弗朗索瓦三人走出户处呼吸新鲜空气,抬头一望,一具庞大的飞行物正无声无息地飞越屋顶。时而出奇地快速,时而戛然而止,时而做锯齿状移动,就在离我们五百米开外处。
真高兴有人与我共同目睹这一幕,心中的激动实非笔墨所能形容。弗朗索瓦跟我说他激动得头发倒竖。对我而言,这正象征耶洛因也同意我搬来此地。
翌晨,我发现手臂的二头肌上出现了奇特的记号,就靠近手肘弯曲处。当时我未能立即将此现象与昨天的遭遇做联想。不过,事后有人告诉我这只能是耶洛因做下的记号。这是一个直径三厘米,厚约五毫米的红圆圈,当中是三个小圆圈。那个标志持续了十五天,内侧的三个圆圈就合而为一,形成两个同心圆,又过了十五天,两个同心圆也消失了,只在手臂上留下白色疤痕,至今尚存,既不痛也不痒。一些心智开窍的科学家看过后,推测是外星人利用精密的激光采集我身上的一个样本所留下的痕迹。”——摘自《来自外星人的讯息》第二部《永恒行星之旅》第二章 第二次接触:“一九七五年七月三十一日目击事件”
4)雷勒在《迎接外星人》书中,说到雷尔三十年(1976年)10月7日,约有五十名雷尔人在法国聚会时,在他们的天上出现2个异常耀眼的发光UFO,并有大块的棉絮般的薄片从天上飘落下来:
雷尔三十年(一九七六年)十月七日飞碟出现
“公元一九七六年十月七日,约有五十名雷尔人聚集在法国西南部临近多尔多涅省(Dordogne)洛克布拉特(Roc Plat)的拉内格里(la Negrie)举行对公元一九七五年十月七日与外星人第二次接触的一周年纪念,一年前的这一天,雷尔被带往永恒的行星聆受《永恒行星之旅》一书中所叙述的讯息。此次聚会于下午三点开始。两点四十五分时,每个人都抵达现场并在雷尔四周坐定。一股极其祥和的气氛弥漫于与会者之间,他们都因有幸与这位最后的先知共处而兴奋不已。突然有人喊道:“什么东西从天上掉下来了?”大块大块的薄片从万里无云的晴空中降落下来,象似用棉花做的,但伸手一摸就立即挥发了。又有人喊道:“看!天上有一个发光的东西!”两个耀眼非凡的发光体正停在我们上方。那些薄片持续掉落了约十分钟,然后,这两个发光体就忽然消失了。罗杰,来自图卢兹(Toulouse)的指导员,在一所实验室工作,幸运地保有一片棉絮般的薄片,但一拿回去化验就挥发了。
尽管有些人得千里迢迢横越半个法国,有些人从更远之地来此接受雷尔的细胞信息传送,所有亲自体验这个奇异事件的人都感到不虚此行。因为就在当时当地,在聚会开始前,耶洛因提供与会者一个印记,这令他们毕生难忘。
这是首次除雷尔以外,其他人也亲眼目睹耶洛因的活动。
在场的其他五十位雷尔人,可以证明那个异象。
来自比利时的菲利普,后来在一本书中,发现同样的异象也曾发生于巴西和比利时,最值得一提的是,在意大利的一场球赛中也发生过,该赛程曾被迫中断。当那些异象发生时,同样都有发光体出现,并有棉絮般的薄片落下。
雷尔坚持此次聚会的目的并非让大家作为证人目睹飞碟的存在,但许多与会者仍希望能有幸再次亲睹外星人耶洛因的出现……”——摘自《来自外星人的讯息》系列书籍《迎接外星人》第一章附录:雷尔三十年(一九七六年)十月七日飞碟出现
详情请查看《UFO离开后在空中留下“天使头发”用手抓会分解》 URL:http://www.ufo.org.in/ufoet-8780.html
基于以上发生的事件表示什么?
这说明就算人类的创造者外星人耶洛因目前暂时不提供对大众直接公开的确凿证据给雷尔做佐证(需等待时机成熟后才会有真相大白的证明出现)。
但是,其中少部分人却能够通过按照《来自外星人的讯息》书中与外星人耶洛因做心灵感应,目击UFO出现的旁证,判断出其真实性,所以还是有不少人愿意支持雷尔,义无反顾的加入国际雷尔利安运动、帮助雷尔弥勒传播《来自外星人的讯息》的。
我想创造者外星人耶洛因已经预料到,肯定会有人恶意毁谤雷尔说他抄袭别人的著作,所以当我们(真正天生的雷尔人)在和外星人耶洛因做心灵感应时,能够有幸看到UFO出现在空中, 目的是让我们能够支持帮助雷尔完成使命的。
5)科技实践讯息
只有真理能带领人们走出痛苦,活出自我,活得幸福!
科技实践讯息,世界也在实践讯息,世界在朝着讯息所说的精确前进,《来自外星人的讯息》里的真相显而易见的摆在面前,并且一直都在都被现代科学的发现所证实。
详情请浏览“科技实践讯息”专题的URL: http://www.ufo.org.in/science-practice-message/
雷尔弥勒所教导的包涵了我们人类的起源的真相,以及一个革命性的理念,的确在帮助我们所有的人,过上更加幸福、更加健康的生活。
扩展阅读:
2008年目击UFO的经历
2012年目击UFO的经历
彭韦铭台湾雷尔利安心电感应召唤2个UFO出现
UFO离开后在空中留下“天使头发”用手抓会分解
科技实践讯息
欢迎转载《雷尔是否真的抄袭丹尼肯(Erich von Daniken)的著作《众神的战车》?》 UFO版权所有,转载请注明出处链接:http://www.ufo.org.in/ufoet-16266.html 网站地址:http://www.ufo.org.in/ 您还在探索飞碟ufo之谜吗?不如现在就去下载《来自外星人的讯息》电子书了解et外星人与人类的起源真相吧!
0 notes
Link
【真相网2017.1.12】[张东园(编辑整理)]1948年3月25日至27日,中华民国中央研究院代院长兼评议会议长朱家骅在南京主持召开了最后一轮院士选举会。经过与会者五轮无记名投票,原定要选出的100名院士最后只有81人通过。这81人也成为中国近现代史上的第一批院士。共分为三个组:数理组、生物组、人文组。
1948年底,国民党输掉大陆已成定局,只好布局退守台湾。在蒋介石的直接领导下,时任国民政府教育部长朱家骅和傅斯年、杭立武、蒋经国、陈雪屏等要人于南京紧急磋商谋划了“平津学术教育界知名人士抢救计划”细节办法,并拟定了“抢救人员”名单。
按照蒋介石的指令,此计划中以下学人是要必须“抢救”出来经南京送赴台湾的:一是大陆各大专院校的负责首长;二是原中央研究院院士;三是因政治原因必须限令离开大陆的高级知识分子;四是在国内外学术上有杰出贡献者等等。于是,一份经傅斯年、陈雪屏和蒋经国三人共同商议拟定的“抢救”的名单很快出炉了,名单上几乎全是清一色当时国内卓有成就的杰出知识分子。
在国民政府1948年3月选出的包括郭沫若在内的81名院士中,1949年后,到台湾的只有凌鸿勋、林可胜、傅斯年、董作宾、李济、王世杰、吴稚晖、朱家骅、李先闻9位,占院士总数的11.9%;另外去了美国的有陈省身、李书华、赵元任、汪敬熙、胡适、吴大猷等13人,占院士总数的15%;而留在大陆有59人之多,占院士总数的74%。
当时中国绝大多数知识分子之所以选择留在大陆,以及后来大批留学欧美的科学家放弃舒适的环境和优厚待遇,毅然回国,其原因很多。这些优秀的中华儿女都满怀着对这片苦难深重的土地无法自拔地爱,都怀抱着对国计民生地殷切关怀,或是深深眷恋着这片土地,或是对国民党统治感到失望等。但是,促成他们留守大陆或是回国的一个很大的原因,就是他们相信了共产党的宣传,对共产党的统治抱有希望和幻想。
下边就是部分留在大陆的中华民国中央研究院第一届院士的大结局:
1:许宝騄
许宝騄。(网络图片)
许宝騄(1910年9月1日-1970年12月18日),数学家,概率论、数理统计学科的开创者。许宝騄出身名门,祖父曾任苏州知府,父亲曾任两浙盐运使。兄弟姊妹共7人,他最幼。其兄许宝驹、许宝骙均为专家,姐夫俞平伯是著名的文学家。1929年入清华大学数学系,与华罗庚同学。1936年至1940 年,许宝騄在英国伦敦大学学院当研究生,1938年获哲学博士学位,从1947年至1970年,他一直是北京大学数学系教授。
1966年开始,许宝騄拖着病躯,一步三歇应命前往指定地点接受批斗,如是三年。捱至1970年底终于不支死去。其兄许宝骙著文回忆:“文化大革命中,宝騄身蒙灾难,兢兢自克。亲属往访,辄闭门不纳;偶或遥遥一望,便挥手令去,不交一言,其精神痛苦可想见矣!宝騄偶染肺炎,不数日,竟在家属毫无所闻情况下溘然长逝。……数页写着未竞的残稿散落在地,见之凄然掩涕,怆然神伤而已!”1970年12月18日,许宝騄逝世于北京,年仅60岁。
2:华罗庚
华罗庚。(网络图片)
华罗庚(1910年11月12日-1985年6月12日),数学家,华罗庚是中国解析数论、矩阵几何学、典型群、自守函数论与多元复变函数论等多方面研究的创始人和开拓者,也是中国在世界上最有影响力的数学家之一,被列为芝加哥科学技术博物馆中当今世界88位数学伟人之一。国际上以华氏命名的数学科研成果有“华氏定理”、“华氏不等式”、“华—王方法”等。1949年,华罗庚正在美国伊利诺伊大学执教,1950年春,华罗庚返回大陆担任清华大学数学系主任。
文革期间,正在外地推广“双法”(优选法、统筹法的简称)的华罗庚被造反派急电召回北京写检查,接受批判。1974年,华罗庚被“中央文革领导小组” 副组长江青在法家著作注释会上公开点名,说他到20多个省市推广“双法”是“游山玩水”。1985年6月12日下午4时,华罗庚在东京大学数理学部讲演厅向日本数学界作主题为《理论数学及其应用》的演讲,由于突发急性心肌梗塞,于当日晚上10时9分逝世,75岁。
3:叶企荪
叶企荪。(网络图片)
叶企荪(1898年7月16日-1977年1月13日),也作叶企孙。著名物理学家、教育家,中国近代物理学的奠基人之一。1911年,叶企孙成为清华学堂的第一批学生中的一员。1918年毕业于清华学校后去美国留学,先后就读于芝加哥大学和哈佛大学物理系,并于1923年获哈佛大学哲学博士学位。1925年清华学校创立大学部,他应聘物理学副教授,把刚从东南大学毕业的赵忠尧、施汝为带到清华担任助教。1926年清华学校大学部调整,开设学系。叶升为正教授并继梅贻琦担任物理系主任。1929年清华大学理学院成立,出任理学院院长,被推举为决定学校重大政策的7位评议员之一,此后一直是清华大学的 核心领导���物之一。杨振宁、李政道、王淦昌、钱伟长、钱三强、王大珩、朱光亚、周光召、邓稼先、陈省身等人都曾是他的学生,华罗庚曾受到他的提携。中共23位“两弹一星”功勋奖章获得者中,有半数以上曾是他的学生,因而有人称他“大师的大师”。
“文革”中因他的得意门生熊大缜的冤案而身陷囹圄。(熊大缜是叶企孙的得意学生,叶原来打算保送他到德国留学,但他一心想到由中共方面吕正操领导的冀中抗日根据地参与抗日。在叶的支持下,熊大缜前往战区担任冀中军区供给部部长,并吸收了一批支持抗日的清华学生。他们利用专业知识为根据地制造烈性炸药、地雷、雷管,熊又利用自己的关系及叶企孙的支持购得无线电等军需品,大大缓解了当时中共缺乏弹药支持的困局。但在国共两党的冲突中,熊大缜因失言被诬陷为“钻入革命队伍中的特务”,由晋察冀军区“锄奸队”秘密逮捕并处决,由于当时子弹奇缺,被用石头砸死)。
1967年6月,叶企孙作为“反革命分子”被北大红卫兵揪斗、关押、停发工资,并送往“黑帮劳改队”。叶曾一度精神失常,产生幻听。1968年4月,中央军委办公厅正式对叶发出逮捕令,连续八次对其进行审讯,迫其多次书写“笔供”。1969年11月,因为缺乏实质证据,叶被释放回到北大居住,但仍以“中统特务嫌疑”受隔离审查。每月发给叶企孙50元生活费。这时他两脚肿胀,前列腺肥大,小便失禁,身体弯成90度。当时不少人在海淀中关村一带见到了这种情景:“叶企孙弓著背,穿着破棉鞋,踯躅街头”。“有时来到一家店铺小摊,或买或向摊主索要两个明显带有虫咬疤痕的小苹果,边走边津津有味地啃著,碰到教授模样或学生打扮的人,便伸出一只枯干的手,说‘你有钱给我几个,所求不过三五元而已’。1977年1月 13日21时30分,叶企孙去世。终年80岁。
4:赵忠尧
赵忠尧。(网络图片)
赵忠尧(1902年6月27日-1998年5月28日),中国核物理、中子物理、加速器和宇宙线研究的先驱和启蒙者。其早期对γ射线散射中反常吸收和特殊 辐射的实验发现,在正电子、反物质的科学发现史上有重要意义。他在1930年成为历史上首名捕捉正电子的人,其研究直接促成物理学家卡尔‧戴维‧安德森于1936年获得诺贝尔物理学奖,安德森在晚年承认他的研究是建基在赵忠尧的基础之上。赵忠尧首次在中国开设核物理课程,培养了中国第一批原子能专业人才。在长期的研究和教学工作中,培养大批人才,为中国核物理宗师,被称为“中国原子能之父”。
赵忠尧桃李满天下,学生中许多为有关领域有所成就的专家学者,如王淦昌、钱三强、钱伟长、王大珩、杨振宁、李政道、朱光亚、邓稼先、赵仁恺、冯端、朱清时等人。中国第一枚原子弹诞生,第一枚氢弹爆炸,第一艘核潜艇下水,第一个高能量正负电子对撞机问世,第一个核电站动土兴建……这些原子能开发领域的成果,有将近一半的技术力量来自赵忠尧和他的学生们。
1948年,身在美国的赵忠尧当选为中央研究院院士。1948年底,赵忠尧完成了静电加速器的器材订购任务,欲回国研制。1950年8月29日,赵忠尧和钱学森一道自美国启程,返回大陆。“文革”中,由于曾滞留美国的经历,赵忠尧被戴上“特务嫌疑”的帽子,关进了牛棚。
1998年5月28日,赵忠尧在北京逝世,终年96岁。
5:饶毓泰
饶毓泰。(网络图片)
饶毓泰(1891年12月1日-1968年10月16日),北京大学物理系教授,南开大学物理系的创始人,中国近代物理学奠基人之一。1913年考取官费赴美国留学。初入加州大学,后转芝加哥大学,1917年冬获该校物理系学士学位。1918年入哈佛大学研究院,后转入耶鲁大学和普林斯顿大学。1922年获美国普林斯顿大学哲学博士学位。同年返国,应南开大学校长张伯苓的聘请,来到南开大学任教授,创立物理系并任主任。学生中有吴大猷、吴大任、郭永怀、马仕俊、江泽涵、申又振、陈省身、郑华炽等。1949年拒绝去台湾,继续在北京大学任教,人们把他和叶企孙、吴有训、严济慈并称为中国物理学界的“四大名旦”。1949年至1951年,继任北大理学院院长兼物理系主任、学校校务委员。1952年北大院系调整时,被迫辞去院、系领导职务。
文革中饶毓泰遭到严厉打击和迫害,饱受折磨,1968年10月16日“清理阶级队伍”时,在北京大学燕南园51号上吊自杀身亡,终年78岁。
1962年2月24日,胡适主持“中研院”第五次院士会议时,说的最后一段话曾提到饶毓泰:“我常向人说,我是一个对物理学一窍不通的人,但我却有两个学生是物理学家,一个是北京大学物理系主任饶毓泰,一个是曾与李政道、杨振宁合作试验‘对等律之不可靠性’的吴健雄女士,而吴大猷却是饶毓泰的学生,杨振宁、李政道又是吴大猷的学生。排行起来,饶毓泰、吴健雄是第二代,吴大猷是第三代,杨振宁、李政道是第四代了。这一件事,我认为平生最为得意,也是最值得自豪的”。
6:曾昭抡
曾昭抡。(网络图片)
曾昭抡(1899年5月25日-1967年12月8日),中国著名化学家,教育家,中国化学学科的奠基人和早期领导者之一。是曾国藩胞弟曾国潢的曾孙。1920年毕业于清华学校(1928年改名清华大学)。1926年获美国麻省理工学院科学博士学位。同年回国。历任中央大学化学系教授、化学工程系主任、北京大学化学系教授兼主任、西南联合大学化学系教授等职。适美国曼哈顿计划原子弹试射成功,阿尔伯特‧魏德迈将军向俞大维提议派人前往学习,经呈报蒋中正同意,军政部考核后推派西南联大的物理教授吴大猷(吴氏推荐,带2位助理李政道与杨振宁)、化学教授曾昭抡和数学教授华罗庚等代表赴美。1949年起,历任北京大学教务长兼化学系主任,教育部、高等教育部副部长,中华全国自然科学专门学会联合会副主席,中国科学院化学研究所所长等职。
1957年反右时,曾昭抡被划为右派。1958年4月,他应武汉大学校长李达之邀,只身一人前往武汉大学化学系执教。1961年,曾昭抡被查出身患癌症。文革开始后,曾昭抡在北京的妻子俞大絪(博主注:俞大絪是曾国藩的曾外孙女,陈寅恪先生的表妹,哥哥俞大维是台湾国防部长,妹妹俞大彩是傅斯年的夫人,“许国璋英语”中三年级部分就是俞大絪所写。)被抄家,她被强迫下跪,红卫兵剥除她的上衣,用皮带死命抽打。当时她独自在家,俞大絪悲愤难抑,于当天即1966年8月25日服药自尽。而她的丈夫曾昭抡在承受着丧妻之痛的同时,也被武汉大学作为“大右派”、“反动学术权威”进行批斗。当癌细胞开始转移、病魔严重威胁著身体时,他不仅没有必要的治疗,而且依旧没逃脱被隔离审查和批斗的命运。1967年12月8日,曾昭抡含冤离世,终年68岁。
7、翁文灏
翁文灏。(网络图片)
翁文灏(1889年-1971年1月27日),是中国第一位地质学博士(1912年);是中国矿物学第一本专著《中国矿产志略》的作者(1919年);是中国第一张彩色中国地质测量图的编制者(1919,著8色);是中国第一位考查地震灾害,并出版专著的作者之一(1922,《甘肃地震考》等);也是中国第一部《中国矿业纪要》的创办者之一(1916,与丁文江共同创办);同时,翁文灏还是第一位代表中国出席国际地质大会的代表(1922);是第一位系统而科学地研究中国山脉的中国学者(1925);是第一位对中国煤炭按化学成分进行分类的学者(1926);是燕山运动及与之有关的岩浆岩和金属矿床的区域成矿理论的首创者。翁文灏还是开发中国第一个油田(玉门)的组织者与领导者。由于蒋介石对翁文灏有救命之恩(博主注:1934年,翁文灏于考察石油途中遇上严重车祸以致昏迷。得蒋介石关护,指令全力抢救,后来渡过危险。),翁文灏遂以知名学者之身份在国民政府内任事,在抗战期间主管矿务资源与及生产。
1948年6月,翁文灏应时任总统蒋中正之邀,任中华民国行宪后第一任行政院院长。任内主持货币改革,在8月推出金圆券取代法币,并以行政方法意图控制物价,结果造成金融失调。翁���阁于11月总辞职。1948年12月25日,毛泽东宣布了在整个内战中首要国民党“战犯”43人的名单,翁文灏赫然在列,排名第十二。1949年初蒋中正下野,翁于2月出任时任代理总统的李宗仁之总统府秘书长。至5月,李宗仁主事与中共和谈失败,翁辞去秘书长之职,前往法国。
1951年,翁文灏经香港回到中国大陆,是曾经担任中华民国政府高级官员中首名回北京的官员。回到大陆后初期翁文灏曾因不积极批蒋而受压。1954年后方获任政协委员,之后主要从事翻译及学术研究。文革中得特别保护而只受少许冲击。但其长子著名石油工程师翁心源却被打成现行反革命,1970在湖北潜江五七干校被连续批斗三天后,落水溺亡(有自杀和他杀两种说法),年仅五十八岁。翁心源去世对暮年的翁文灏打击很大(抗战时期,翁文灏将四个儿子中的三个送上前线,次子翁心瀚为国民党空军机师,于1944年殉国),翁心源死后,翁文灏著有“悲怀”为题的诗十余首悼念亡子。1971年1月27日,翁文灏于忧愤中死于北京,82岁。
8:谢家荣
谢家荣。(网络图片)
谢家荣(1898年9月7日-1966年8月13日),地质矿床学家、地质教育家。1917年至1920年,被选派赴美留学深造。先在斯坦福大学,第二年转入威斯康辛大学作研究生,获理学硕士学位。1920年底,甘肃海原县(今属宁夏回族自治区)发生8.5级大地震。1921年初,谢家荣参加了北洋政府派出的考察团,随翁文灏、王烈等去甘肃考察。他们最初在兰州附近作了一番调查研究工作。以后,翁文灏去震中区调查,派谢家荣穿过河西走廊去甘肃玉门调查石油地质。工作结束后,他发表了《甘肃玉门石油报告》这一初步成果。这是中国地质学家对该区最早的石油勘察活动,具有重大的历史意义。1938年至1949年,谢家荣主持矿产测勘处。发现或指导发现了淮南八公山煤田、福建漳浦铝土矿、安徽凤台磷矿、南京栖霞山铅锌银矿、甘肃白银厂铜矿等一批重要矿产。
1949年后,谢家荣先后被任命为南京军管会、华东工业部和中央财经委员会矿产测勘处处长。1950年9月,中国地质工作计划指导委员会成立,他担任副主任兼计划处长。他首次对中国地质与矿产普查勘探工作进行了系统的部署。1952年,地质部成立,他任地质矿产司总工程师。1954年,他调任地质部普查委员会常务委员兼总工程师。对于石油普查勘探工作进行了相应的部署和指导,他与黄汲清主持编写的《普查须知》是野外地质人员必备的工具书。1957年,谢家荣与其长子谢学锦一同被打成右派,文革开始后,因不堪忍受造反派的批斗冲击,于1966年8月14日在北京服安眠药自杀,69岁。其死后一月,其妻吴镜侬亦服安眠药自杀。
9:竺可桢
竺可桢。(网络图片)
竺可桢(1890年3月7日-1974年2月7日),气象学家、地理学家和教育家。1913年毕业于美国伊利诺伊大学农学院。1918年获美国哈佛大学博士学位。1918年到1920年任教于国立武昌高等师范学校(今武汉大学)。1920年到1929年任南京大学(从南京高师、国立东南大学时期到国立中央大学时期)地学系主任。在此期间,筹建气象测候所,进行气象观测研究,是中国自建和创办现代气象事业的起点和标志。1929年到1936年任中央研究院气象研究所所长。1936年到1949年,他担任国立浙江大学校长。被英国著名学者李约瑟誉为“东方剑桥”,竺可桢也因此成为浙大历史上最伟大的校长,被尊为中国高校四大校长之一。在浙大的发展历程中,担任校长达13年之久的竺可桢先生可谓厥功至伟。他被公认为“浙大学术事业的奠基人,浙大“求是”精神的典范,浙大的灵魂”。校训“求是”即是由他提出,校歌亦是他请著名国学家马一浮作词、音乐家应尚能谱曲作成。
1949年10月16日,竺可桢任中国科学院副院长,筹建中国科学院地理研究所。1955年当选为中国科学院院士。竺可桢被公认为中国气象、地理学界的“一代宗师”。文革期间,竺可桢虽未受到较大冲击,但每日如履薄冰、提心吊胆。为免祸,竺可桢便和吴有训商量,两家一起采取一系列措施以表明其“自我改造”态度:
(1)减缩工资三分之一上交国家,只领原薪的三分之二;
(2)组织上安排的公务员,由院里另行安排工作,同时辞退家中雇用的保姆;
(3)缩小住房面积,腾出当时儿子和保姆的房间(1976年又腾出了原做卧室的正房和耳房各一间);
(4)不铺地毯、不摆沙发、不挂画饰,家中这些东西,全部交中科院有关部门;
(5)到院里上班或有公务时,和吴有训合乘一辆汽车,到图书馆、情报所查资料时,改乘公共汽车;
(6)把个人私有钢琴赠与科学院芳嘉幼儿园。
1974年2月7日,竺可桢于惊惧忧病中去世,终年85岁。
:
10:周仁
周仁。(网络图片)
周仁(1892年8月5日-1973年12月3日),冶金学家和陶瓷学家。中国第一个民间科学团体中国科学社的创始人之一。中国特殊钢和合金铸铁最早研究和生产者之一。周仁家族显赫,其祖母是盛宣怀的姐姐;周仁之姐周峻是蔡元培的第三任夫人;周仁妻子聂其壁是聂缉椝(上海道台)和曾纪芬(曾国藩之女)夫妇最小的女儿。其兄聂云台为著名实业家。周仁与聂其壁结婚时宋美龄是聂其壁的傧相。
这样的家庭在平时是受人尊敬和羡慕的,但在文革,这样的家庭却是首当其冲被冲击的对象,文革中,周仁的厄运降临,光是抄家便抄了整整一星期,运走了几大卡车。周仁被反复批斗折辱,造成一眼瞎一腿瘸,卧床奄奄待毙,仍遭隔离审查,关进四壁无窗的房间。1973年12月3日,周仁惨死,82岁。
11、茅以升
茅以升。(网络图片)
茅以升(1896年1月9日-1989年11月12日),结构工程师,桥梁工程专家。中国近代桥梁事业的先驱、铁道科技事业的开拓者,同时也是中国土力学的开拓者、科普工作者。茅于轼的伯父。1916年毕业于唐山工业专门学校(今西南交通大学)。参加清华学堂(清华大学前身)留美官费研究生考试,以第一名录取留洋;1917年获美国康乃尔大学硕士学位(桥梁专业);1919年获美国卡耐基理工学院(现为卡内基梅隆大学)博士学位,是该校的第一位博士。1920年回国后至1949年,曾任国立东南大学教授、工科主任、南京河海工科大学校长、北洋工学院院长及北洋大学(今天津大学)校长、交通大学唐山工程学院院长;1930年至1931年任江苏水利局局长,1934年至1937年任浙江省钱塘江桥工程处处长 (挂此职到1949年),在自然条件比较复杂的钱塘江上主持设计、组织修建了一座全长1453米,基础深达47.8米的双层公路铁路两用钱塘江大桥。大桥于1937年9月26日建成通车,这是中国人自己设计和施工的第一座现代钢铁大桥,是中国桥梁工程史上一座不朽的丰碑。1937年12月23日,为了阻止日军攻打杭州,茅以升亲自参与了炸桥。
抗日战争胜利以后,茅以升又受命组织修复大桥,1948年3月,大桥修复通车;1942年至1943年任交通部桥梁设计工程处处长;1943年至1949年任中国桥梁公司总经理;1943年当选中华民国教育部部聘教授;1948年当选中央研究院院士;1949年至1952年任中国交通大学、北方交通大学校长;1951年至1981年任铁道技术研究所所长、铁道科学研究院院长;1955年选聘为中国科学院院士(学部委员);1959年在北京十大建筑的建设中,担任人民大会堂结构审查组组长,并为周恩来总理指定为设计��案审定人,周恩来在审查工程设计时指出:“要有茅以升的签名来保证。”;1955至1957年主持设计了武汉长江大桥;“文革”期间,多次受到批斗,其女回忆,茅以升每天上班,进了大门颈上就被戴上“反动学术权威” 或其它什么罪名的黑牌子,姓名上被打上黑叉叉,戴上黑牌子后还要在院内游走一番,任何时候都会被造反派揪住围攻一通。茅以升1977年主持设计了重庆石板坡长江大桥;1982年当选美国国家工程院外籍院士。1989年11月12日茅以升病逝于北京,终年91岁。
12:王家楫
王家楫。(网络图片)
王家楫(1898年5月5日-1976年12月19日),生物学家。中国生物学的重要开拓者。中国原生动物学的奠基人。中国轮虫学的开创人。1928年获美国宾夕法尼亚大学哲学博士学位。他的论文《珠穆朗玛峰地区的原生动物》是第一篇关于珠峰原生动物的论文,在国际上引起了重视;他的另一篇《中国轮虫志》专著首次对分布在我国沼泽、池塘、湖泊和水库内常见轮虫252个种形态、生理、生态及亲缘关系进行了描述;对中国原生动物学的创建与发展做出了重要贡献。
1966年文革开始后,王家楫遭批判斗辱抄家。1969年“毛泽东军工宣队”怀疑王家楫为国民党军统、中统特务系统骨干,将其毒打至昏厥,军代表怕承担责任,才把他放出牢房,监外候审。戴着“特嫌”帽子的王家楫捱至1976年终于伤病重不起离世。终年79岁。
13:伍献文
伍献文。(网络图片)
伍献文(1900年3月15日-1985年4月3日),著名动物学家,是中国鱼类学和线虫学的奠基人。1929年到法国留学,1932年获巴黎大学科学博士学位。1948年当选为中央研究院院士,1955年选为中国科学院院士。1950至1977年任中国科学院水生生物研究所研究员兼副所长。文革期间,伍献文遭到批判、幽禁和迫害,多次被强迫劳动。1978至1983年任中国科学院水生生物研究所研究员兼所长。1980至1983年兼任中国科学院武汉分院院长。1983至1985年任中国科学院水生生物研究所研究员兼名誉所长。1985年4月3日在武汉逝世,终年85岁。
14:贝时璋
贝时璋。(网络图片)
贝时璋(1903年10月10日-2009年10月29日),生物学家,教育家。他是中国细胞学、胚胎学的创始人之一,中国生物物理学的奠基人。1921年,贝时璋毕业于同济医工专门学校的医学预备科。同济毕业后,赴德国留学,曾先后就读于弗莱堡大学、慕尼黑大学和蒂宾根大学。1928年3月,获得蒂宾根大学自然科学博士学位。1929年秋回国。1930年4月在杭州筹建浙江大学生物系,8月被聘为副教授。贝时璋开出组织学、胚胎学、无脊椎动物学、比较解剖学、遗传学等等课程。在浙江大学20年,贝时璋先后担任副教授、教授、系主任、理学院院长。
1948年1949年后,贝时璋曾参与协助筹建中国科学院。1950年,离开浙江大学,赴上海,出任中国科学院实验生物学研究所研究员,兼任所长。1954年,中国科学院实验生物学研究所迁往北京。1955年,被聘为中国科学院生物学部委员(中国科学院生物学学部院士)。1957年,成立北京实验生物学研究所,贝时璋担任研究员,兼任所长。1958年,北京实验生物学研究所改建为中国科学院生物物理研究所,贝时璋担任研究员,并兼任所长。文革时期,贝时璋被批斗,批判他不关心政治,是资产阶级权威。1983年,贝时璋改任中国科学院生物物理研究所名誉所长。1980年,贝时璋出任《中国大百科全书》生物卷编写委员会主任。1984年,出任《中国大百科全书》总编委会副主任。2009年10月29日上午9点30分,贝时璋在家中辞世,享年106岁。
15:童第周
童第周。(网络图片)
童第周(1902年5月28日-1979年3月30日),著名胚胎学家,因在克隆技术上的贡献而闻名。2000年中、美、英等国科学家同时宣布,人类基因图工程全部完成。但早在20世纪60年代初,一位中国科学家就将人类对生物进化和细胞遗传与变异研究推进到了世界前列,开创了人类按照需要而人工培育新物种的历史先河, 90年代即被列入世界100位最优秀的科学家之一。童第周1922年考入复旦大学哲学系,1927年毕业于复旦大学哲学系心理学专业,同年由中央大学生物系主任蔡堡推荐,到南京中央大学(现南京大学)生物系任助教。1930年到比利时的布鲁斯尔自由大学留学。1934年获布鲁斯尔自由大学博士学位,后到英国剑桥大学作短期访问并于年底回国,任山东大学生物系教授。1938年辗转到重庆,先后任中央大学医学院教授、同济大学生物系教授和复旦大学生物系教授。抗日战争胜利后,1946年国立山东大学在青岛复校,他任山东大学动物学系教授、系主任。
1949年后,童第周继续担任山东大学动物系教授兼系主任。1950年他受聘兼任中国科学院实验生物研究所副所长和中国科学院水生生物研究所青岛海洋生物研究室主任。1951年任山东大学副校长。1963年,他将雄性鲤鱼的DNA放入雌性鲤鱼的卵子内,成为首位成功复制鱼的科学家。1955至1976年任中国科学院生物学地学部副主任兼中国科学院青岛海洋生物研究所研究员、所长,海洋研究所所长,中国科学院生物学部主任、动物研究所研究员。在“文革”中,童第周被“造反派”定为“资产阶级反动学术权威”,被罚长期挑水、扫厕所。1979年3月30日,童第周病逝于北京,终年77岁。
16:胡先骕
胡先骕。(网络图片)
胡先骕(1894年5月24日-1968年7月16日),植物学家、教育家、文化学者。中国植物分类学的奠基人,与钱崇澍等同为中国近代植物学的先驱,也是中国近代生物学的开创人之一。与秉志联合创办中国科学社生物研究所、静生生物调查所,还创办了庐山森林��物园、云南农林植物研究所。发起筹建中国植物学会。继锺观光之后,在我国开展大规模野外采集和调查我国植物资源的工作。在教育上,倡导“科学救国、学以致用;独立创建、不仰外人”的教育思想。与钱崇澍、邹秉文合编我国第一部中文《高等植物学》。首次鉴定并与郑万钧联合命名“水杉”和建立“水杉科”。提出并发表中国植物分类学家首次创立的“被子植物分类的一个多元系统”和被子植物亲缘关系系统图。1912年胡先骕参加东西洋留学考试,名列第一,进入美国加利福尼亚大学和哈佛大学,学习农业和植物学,1916年学成回国。1923年,再次赴美深造,在哈佛大学攻读植物分类学,获农学博士学位,1925年回国。1920年代初,与梅光迪等发起成立综合性人文学术刊物《学衡》,致力于维护中国文化,发展国学。对新青年派打倒中国文化、推崇西方文化的观点不以为然。
1950年代初,对于当时苏联流行的李森科获得性遗传理论,胡先骕在《植物分类学简编》一书中公开表示批评。与谈家桢等主张发展基于基因的孟德尔-摩尔根遗传学。文革期间,胡先骕家被抄了六七次之多,绝大部分的生活用品,大量的书籍、文物字画、文稿、信件和首饰等物均被抄走,连过冬的大衣也未留下一件,每次抄家都在对胡先骕进行人身侮辱,逼其写检讨、思想汇报,还要到植物所接受批斗。 1968年7月15日,即胡先骕去世前一天,单位来人通知,命他第二天暂时离家,到单位集中接受批斗。当晚,由夫人准备了一小碗蛋炒饭,吃过之后,他独自去睡觉,一只脚还没有放到床上,突发心肌梗塞,就此辞世,终年75岁。
17:殷宏章
殷宏章、(网络图片)
殷宏章(1908年10月1日-1992年11月30日),植物生理学家。中国光合作用研究的先驱。长期从事植物生物化学、光合作用和生长发育的研究。早年研究生长素与植物运动机理的联系,用自己发明的一个组织化学方法,阐明了磷酸化酶与植物中淀粉合成的关系;50年代组建我国第一个光合作用研究室,致力于光合磷酸化、物质转化、群体生理等方面的研究,为中国植物生理学的发展做出了重要贡献。1935年殷宏章考取清华大学留美公费,赴美国加州理工学院留学,1937年获得博士学位,随后在该校生物物理研究室和生物遗传研究室进行光合作用和遗传方面的研究。1938年回国担任西南联大教授。并在汤佩松创设的清华大学农业研究所植物生理学组兼任研究员。1944年至1945年以第一批“交换教授”身份赴英国剑桥大学进行磷酸化酶的研究,1946年赴北京大学担任教授,进行淀粉形成方面的研究。1948年应罗宗洛教授之约,赴台湾大学讲课几个月,同年12月至1951年应英国J‧李约瑟(Needham)博士的邀请,赴印度新德里担任联合国教科文组织南亚科学合作馆科学官员,协助该地区国家开展科研工作及合作交流事务。
1951年秋回国任中国科学院实验生物所研究员,并协助罗宗洛教授进行植物生理研究室的建设工作。1953年植物生理室从实验生物所划出单独成立研究所,他出任副所长。文革期间,因留美背景,遭批斗凌辱,并驱往农场干最脏最累的活,“经常与猪马同寝”。1978年到1983年任所长,1983年3月后任名誉所长。1992年11月30日。殷宏章于上海逝世,终年84岁。
18:张景钺
张景钺。(网络图片)
张景钺(1895年10月29日-1975年4月24日),植物形态学家,教育家。我国植物形态学和植物系统学的开拓者。1926—1938年间发表的论文,是我国植物形态学、发育解剖学、生理解剖学、实验形态学的最早文献。1934年著文介绍植物徒手切片法,对当时植物学的教学和科研起了推动作用。多年致力于学会和教学工作,培养了一批植物学不同领域的人才,促进了现代植物学在我国的发展。1920年张景钺公费赴美国留学,初入德克萨斯农工学院学习,1922年转入芝加哥大学植物系,1923年获得学士学位,1925年获得科学博士学位。同年秋季回国,担任国立东南大学(1928年改名国立中央大学,1949年改名南京大学)生物系教授,次年兼系主任。1932年获中国教育及文化促进基金会的研究资助,赴英国里兹大学和瑞士巴塞尔大学考察研究。同年9月回国后,担任北京大学植物学教授兼生物系主任,后曾任理学院院长。1937年抗日战争爆发后,辗转赴昆明任教于西南联合大学,1945年抗战胜利后,应邀到美国加州大学柏克莱分校进行学术交流一年。
1946年冬回国续任北京大学植物系主任。1949年后,张景钺继续担任北京大学生物系主任。其妻崔之兰是动物形态学家,教育家。中国现代动物组织学、胚胎学研究的开拓者之一,曾任云南大学生物学系主任。文革期间,崔之兰先被作为资产阶级反动学术权威斗争,后来又被指控为恶毒攻击江青。年近七十的她和丈夫在家门前被斗争,脸上涂了浆糊和墨汁,身上挂了黑牌,还有人揪他们的头发进行辱骂。有一次被长距离游斗,她低头弯腰行走,鼻子流血洒了一路。张景钺患帕金森氏症不能长时间站立,斗争会上竟强迫崔芝兰跪在地上用身躯支撑住她的丈夫。1968年张景钺在病中还受到批斗,从此卧床不起,于1975年4月2日逝世于北京大学燕东园38号,终年81岁。
19:戴芳澜
戴芳澜。(网络图片)
戴芳澜(1893年5月3日-1973年1月3日),植物病理学家、真菌学家,中国植物病理学与真菌学的主要奠基人。1914至1919年在美国威斯康新大学、康奈尔大学和哥伦比亚大学研究生院专攻植物病理学和真菌学。1934至1935年再度赴美,在纽约植物园和康奈尔大学研究真菌遗传学等。1949年后,1952年院校合并,成立北京农业大学,戴芳澜任北京农业大学植物病理学系教授,1953年兼任中国科学院植物研究所真菌病害研究室主任,1956年任中国科学院应用真菌学研究所所长。从1959年起,他不再兼任北京农业大学的教授而专任中国科学院微生物研究所所长兼真菌研究室主任。文革期间,检讨书屡次修改不过,多次受到批判。近耄耋之年被驱离北京接受改造。1973年1月3日离世,终年81岁。
20:罗宗洛
罗宗洛
罗宗洛(1898年8月2日-1978年10月26日),植物生理学家、教育家,中国现代植物生理学奠基人之一。1930年得北海道帝国大学农学博士学位,是史上第2位得到日本帝国大学博士学位的中国留学生。当时日本各大报都报道这个新闻。回国后曾任广州中山大学教授、上海暨南大学教授、南京中央大学教授、浙江大学教授。1944年夏,罗宗洛被聘为设在重庆的中央研究院植物研究所所长。抗战胜利不久,1945年10月他被派到台湾接收台北帝国大学(现为台湾大学),1946年接收完毕后任代理校长。同年10月中央研究院植物研究所从重庆搬到上海,他仍任所长。1948年12月29日,傅斯年写信请罗宗洛到台湾,被罗拒绝。1949年后,罗宗洛任中国科学院实验生物研究所研究员兼植物生理研究室主任。1953年该研究室扩建为植物生理研究所,任命他为所长。文革期间,罗宗洛被下狱六年,出狱后被监督劳动改造。1978年10月26日,罗宗洛病逝于上海中山医院,终年81岁。
21:李宗恩
李宗恩
李宗恩(1894年9月10日-1962年),热带病学医学家及医学教育家。1911年夏季赴英国留学,初入预备学校,随后进了格拉斯哥大学医学院,1920年毕业后,赴伦敦大学卫生与热带病学院担任蠕虫病助理研究员。1922年1月获得伦敦卫生及热带病学院颁发卫生及热带病学文凭。1921年4月至9月,参加英国皇家丝虫病委员会赴西印度考察热带病,随后任职于格拉斯哥西部医院,至1923年回国。1923年至1937年任职于北京协和医学院,历任助教、讲师、副教授、襄教授、教授,其间并定期赴江南考察热带病疫情,进行防治和研究。1937年秋开始,南下筹办贵阳医学院,并于1938年6月成立后担任院长职务。1947年5月赴北平担任协和医学院的院长。1949年蒋介石亲自出马邀请李宗恩赴台,被李拒绝。1949年后,继续担任协和医院院长。1957年李宗恩被打成“右派”,随后被“放逐”到昆明,任职于昆明医学院。1962年病逝于昆明,终年69岁。
22:张孝骞
张孝骞
张孝骞(1897年12月28日-1987年8月8日),内科医学家及医学教育家。1921年7月,在湘雅医学院专门学校取得学业成绩和毕业论文两个第一名,被美国康州政府授予医学博士学位。毕业后,留校担任内科学助教,兼任湘雅医院住院医师,总住院医师。1924年1月到北京协和医学院(今中国协和医科大学)深造1年,随后正式留任于该校,陆续担任住院医师、总住院医师。1926年9月被选送到美国约翰·霍普金斯大学进行研究,1927年7月回国续任,1930年在协和医学院组建消化专业组,1932年晋升为副教授。1933年12月再次赴美国斯坦福大学研究,1934年7月回国后,担任协和内科消化专业组主管。1937年芦沟桥事变后,张孝骞回长沙接任湘雅医学院院长职务。抗战胜利后,应美国国务院的邀请赴美国考察医学教育和讲学。1948年4月辞去院长职务,并于9回到北京协和医学院,担任内科学教授和内科主任。
1949年后,他续任原职。1962年9月被任命为协和医学院副校长。1966年开始的文化大革命期间,他被打成“反动学术权威”、“特务”,备受侮辱和折磨。红卫兵要他承认他是反动学术权威和美国特务,从此,几乎每天夜晚都听到牛棚里传出皮鞭抽打声和张孝骞跪在地上的惨叫声。有一次,没头没脑地鞭打,竟打碎了他的一片眼镜,他的额头被打得血迹斑斑。第二天一早,高度近视的张孝骞照例和医院所有的“牛鬼蛇神”们一道,被造反派们押著去医院食堂打饭,只见他一手扶著已没有了一只镜片的高度近视镜,磕磕碰碰地离开“牛鬼蛇神”大队直向大街走去。他边走边断断续续地自言自语:“我到法院去……如果我有罪……让法院杀头枪毙都行……”1978年以后担任中国医学科学院副院长。1987年8月8日因肺癌病逝于北京协和医院,享年90岁。
23:吴定良
吴定良
吴定良(1894年2月5日-1969年3月24日),人类学家、教育家。中国人类学的主要奠基人。1926年8月,赴美国纽约哥伦比亚大学,在心理学系攻读统计学。次年,转学到英国伦敦大学文学院,继续攻读统计学,1928年获统计学博士学位。1930年,经英国统计学家O.U.耶尔(Yule)教授介绍,在荷兰,由全体学社员大会投票选举通过,吴定良成为“国际统计学社”第一个中国社员。同年,参加在波兰举行的年会。1935年回国,任南京中央研究院历史语言研究所人类学组主任兼专任研究员,后筹建体质人类学研究所。抗战胜利后,先后执教于杭州浙江大学、上海复旦大学,并曾兼任暨南大学等校教授,1949年蒋介石亲自动员吴定良赴台,被其拒绝。文革期间,吴定良作为反动学术权威在病榻上遭到批斗,工资停发,几次被抄家,多年心血积累的论文集和仅有的科研工具被洗劫一空,吴定良在病床上痛心疾呼,嚎啕大哭,当晚病情加重,1969年3月24日凌晨,这位中国人类学学会的创始人带着满腔愤怒和疑问离开了人世,终年76岁。
24:汤佩松
汤佩松
汤佩松(1903年11月12日-2001年9月6日),植物生理学家、生物化学家。中国植物生理学的奠基人之一。父亲为民国议长汤化龙,1918年在加拿大被王昌刺杀。1925年汤佩松就读美国明尼苏达大学,1927年以全校第一名成绩毕业。1930年获美国约翰·霍普金斯大学研究院哲学博士学位。1930至1933年在哈佛大学普通生理学研究室工作,获得博士后。1933年回国,任武汉大学教授,建立了中国第一个普通生理实验室。1938至1945年任西南联合大学农业研究所研究教授。1945至1950年任清华大学农学院教授、院长。1950至1952年任北京农业大学教授、副校长。1952至1954年任中国科学院植物生理研究所研究员兼复旦大学教授。文革期间饱受折磨,先是被强迫交代回国动机,后被怀疑为特务遭到关押,后流放河南五七干校。2001年9月6日去世,终年88岁。
25:冯德培
冯德培
冯德培(1907年2月20日-1995年4月10日),生理学家、神经生物学家,中国神经肌肉生理学研究的开拓者。1926年上海复旦大学生物学院毕业后,留校任生理学助教。1930年获美国芝加哥大学生理学硕士学位。1933年获英国伦敦大学生理学博士学位。回国后,1934年起历任北京协和医学院、北京师范大学讲师、副教授。1943年任重庆上海医学院教授,1948年后任上海中央研究院医学研究所筹备处研究员。1949年后,冯德培先后担任中国科学院生理生化研究所研究员兼所长,生理研究所研究员兼所长,名誉所长,华东分院及上海分院副院长,中国科学院副院长兼生物学部主任,国务院学位委员会委员,中国科学院学位委员会主任,中国生理学会理事长,名誉理事长,《生理学报》主编,英文版《中国生理科学杂志》名誉主编等职务。文革期间冯德培屡遭批斗,遭勒令跪在上海分院大门口挨斗,关暗室中差点被打死。1995年4月10日辞世,终年88岁。
26:蔡翘
蔡翘
蔡翘(1897年10月11日-1990年7月29日),生理学家。医学教育家。中国生理科学奠基人之一。1920年代首先发现视觉与眼球运动功能的中枢部位——顶盖前核(后称蔡氏区)。编著中国第一本大学生理学教科书。他在中国多所著名医学院校担任学术领导及教学、科研工作,在神经解剖、神经传导生理、糖代谢和血液生理等领域有许多重大发现,并为中国的航天航空航海生理科学研究奠定了基础。1919年蔡翘赴美国留学,先后在加利福尼亚大学和印第安那大学研读心理学,修完大学本科课程后于1921年进哥伦比亚大学当研究生,1922年转学至芝加哥大学生理系为研究生,1925年获得芝加哥大学哲学博士学位。同年回国到复旦大学教授生物学和生理学,1927年起担任中央大学医学院 (上海医科大学前身) 生理学教授。1930年秋获美国洛氏基金会资助,先后英国伦敦大学、剑桥大学从事研究,1931年冬到德国法兰克福大学进修。1932年起任职于上海雷士德医学研究所,1937年回到中央大学医学院担任生理学教授,抗日战争爆发随学校迁到成都。1943年夏以中美文化交流交换教授身份赴美国讲学与研究1年。
1945年抗日战争胜利后,随院自成都迁回南京,1948年代理中央大学医学院院长职务。1949年后,中央大学改名南京大学,他仍任医学院院长。1952年该校医学院改编为“第五军医大学”,由他担任校长。1954年调任军事医学科学院副院长,任一级研究员、院学术委员会主任、中国人民解放军医学科学技术委员会主任委员。文革期间,被隔除所有职务,工资停发,饱经批斗和各种折磨。1990年7月29日病逝于北京,终年94岁。
27:俞大绂
俞大绂
俞大绂(1901年2月19日-1993年5月15日),出生于中国近代最显赫之俞氏家族,其兄俞大维为台湾国防部长。俞大绂为中国知名植物病理学与微生物学家。我国植物病理学科奠基人之一。1928年赴美深造,攻读动植物病理学,1932年获得美国艾奥瓦州立大学博士学位,成为美国植物病理学会会员,Sigma-Xi荣誉会员,并获得斐陶斐奖。1932年回国后,历任金陵大学教授(1932年-1938年)、昆明清华大学农业研究所教授(1938年-1945年)、北京大学农学院教授兼院长(1946年-1948年)。1948年被选聘为中央研究院院士、评议员。1949年后,历任北京农业大学教授、校长、名誉校长至1982年。文革中俞大绂被折磨至右眼失明,其家族遭整肃至死者6人:表兄陈寅恪、唐筼夫妇、胞妹俞大絪、曾昭抡夫妇、堂妹俞珊、赵太侔夫妇。1993年5月15日去世,终年92岁。
28:邓叔群
邓叔群
邓叔群(1902年12月12日-1970年5月1日),中国著名真菌学家,植物病理学家,森林学家。邓拓的三哥。1928年获美国康乃尔大学森林学硕士及植物病理学博士学位,同年回国。历任岭南大学、金陵大学、中央大学教授。1932年起担任中国科学社生物研究所研究员,从事真菌学研究。1937年起进行中国西南、西北原始林区调查研究,1945年在上海设立森林生态研究室。1949年起历任沈阳农学院、东北农学院教育长、副院长,1955年起担任中国科学院微生物研究所研究员、副所长,中国科学院生物学部委员(院士)。文革中邓叔群是科学界最早遭批判的,因其胞弟邓拓是“三家村”反党集团主帅。邓叔群自然受株连,被扣上“三家村黑帮”、“三家村科学顾问”、“学阀”、“恶霸”、“流氓”、“反革命分子”等帽子,受尽摧残凌辱。邓的家庭和子女无一幸免,家破人亡。邓叔群本人于1970年5月1日去世,去世时遗体上还留着大面积淤血的印迹。终年68岁。
29:金岳霖
金岳霖
金岳霖(1895年7月14日-1984年10月19日),哲学家、逻辑学家。1914年,金岳霖毕业于清华学校高等科,同年公费留美,于1920年获美国哥伦比亚大学的政治学博士学位。后到英国学习,在伦敦大学经济学院听课。金岳霖1925年回国,清华大学聘请其讲授逻辑学。同年秋创办清华大学哲学系,任教授兼系主任。1938年,任西南联大文学院心理学系教授兼清华大学哲学系主任。1949年后任清华大学文学院院长,1952年,全国高校院系调整,全国6所大学哲学系合并为北京大学哲学系,金岳霖历任北京大学哲学系教授、系主任,中国科学院哲学研究所一级研究员、副所长。1955年被聘为中国科学院哲学社会科学部学部委员,9月底,任哲学研究所副所长兼逻辑研究组组长。1977年,任中国社会科学院副所长兼研究室主任。文革期间,金岳霖作为资产阶级学术权威被批斗,因毛泽东对其说过:“你要多接触社会”。故不准其用汽车,只能用三轮车去医院看病。1984年,金岳霖在北京寓所逝世,享年89岁。金岳霖年轻在欧洲留学时结识Lilian Talor,后者随后来到北京,与金同居。而金岳霖终生未娶,据传曾向林徽因示爱未果,与林徽因、梁思成夫妇是邻居和挚友。
(待续)
» 本文标题:留在大陆的中华民国院士之大结局 - 真相网
» 本文链接:http://dafahao.com/stay-mainland-roc-academician.html
» 如喜欢本站请关注:Email订阅真相网 | RSS订阅真相网 | 真相网G+ | 真相网Facebook | 真相网Twitter
0 notes