最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉
との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任���たフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母���いうこともあり、淑惠さんを支援する��とは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人に��ぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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踏歌
《踏歌图》轴,南宋,马远,绢本,设色,纵192.5厘米,横111厘米,北京故宫博物院。
一、马远《踏歌图》故宫博物院简介有值得思考和质疑之处?
“踏歌”是中国古代一个非常古老的习俗,村民们辛苦耕耘一年,终于迎来了丰收,于是全村的男女老幼,踏着节拍,边歌边舞,欢庆收获并感谢大自然的恩赐,就好像过年过节一样快乐热闹。
从���面上看,《踏歌图》像是一幅表现自然山川风貌的山水画,而实际是一幅描绘人间生活的风俗画。作者马远在图中安排了不多的几个点景人物,使画中的主题得到了充分的展示。画家并没有去描绘乡间踏歌盛况的全貌,而是选取了几个非常有代表性的乡民形象:一个中年村民,因为高兴多喝了几碗酒,步履蹒跚,摇摇晃晃,醉意十足,但是那个盛酒的葫芦却没有忘记,仍然好好地背在肩上;一个白胡子老汉,同样也喝了不少酒,一只手拄着拐杖,另一只手高高抬起,双脚离地,手舞足蹈,兴奋异常。他们的举止行为已与他们的年龄不相符合,所以显得特别滑稽可笑。
作者马远描绘了这几个成年人之后,觉得还不足以表达欢快纵情的气氛,特地在画幅的左下角安排了母子二人,他们回过身来,瞪着惊异的眼睛,看着自己的家人,平时家人的恃重和威严怎么都没有了?“插花野妇”微笑眺望。这两组点景人物相互呼应、相互衬托,把“踏歌”欢愉快乐的情绪推向了极致。
焦墨作树石,峭拔方硬。运用大斧劈皴法,气势纵横,“瘦硬如曲铁”的松树,“斜科偃蹇qiān”的“拖枝”,形成独特的风格,成为水墨苍劲的典型。图中局部南宋“行在”临安凤凰山宫阙、栈阁、游廊。
可是细看图中,作者只不过画了六个人,却能将气氛渲染得如此充分。从这六个临安郊外村民身上,完全可以感受到整个村庄中传出来的歌声、踏地的节拍声和欢快的笑声。画家马远“以一当十”、“以小见大”的艺术表现手法,实在是太高妙了。几个人物在图中所占的位置很小,但却最为引人注目。人物线条挺拔刚劲,人物动态活泼有趣,都显示了马远不凡的技艺。
二、宋代“踏歌”的特点:
1、宋代民间“踏歌”,延续了唐代的传统,广泛流行、广为人知。也成为宋代诗词表现的一个题材。从北宋初到南宋末三百多年年间,诗、词、笔记对“踏歌”的纪实描写很多:
南宋辞人张武子《西湖晚归》描写国都“行在”Cansay(杭州)西湖踏歌情景:帖帖平湖印晚天,踏歌游女锦相牵 。凤城半掩人争路,犹有胡琴落后船 。
由众多的宋代诗词可以了解到“春社、清明、七夕、秋社”宋代民间“踏歌”是群众性的歌舞文娱活动,在市井、田垄、宴会上都可举行。含蓄、严肃的宋代文士描写“踏歌”的展现了,他们性格中的活泼、奔放的一面。
2、宋代宫廷教坊的“踏歌”表演程式化和专业化。
3、宋代宫廷教坊以“踏歌”歌法演唱歌曲,形成“踏歌唱”的歌曲类别和《踏歌》歌谱。
4、宋代长短句歌词中的《踏歌》曲调,存词不多,是文人士族酒宴自娱的歌词,内容常见,但体式腔格特殊,歌法特别。这种复杂体式《踏歌》与唐代《踏歌》曲调完全不同。
三、北宋末诗人张耒《田家三首》写出了农家丰收踏歌场景与《踏歌图》的描绘的场景和人物非常契合:
社南村酒白如饧táng,邻翁宰牛邻媪ǎo烹pēng。插花野妇抱儿至,曳杖老翁扶背行。淋漓醉饱不知夜,裸股掣肘时欢争。去年百金易斗粟,丰岁一饮君无轻。
野塘积水绿可染,舍南新柳齐如剪。去冬雪好麦穗长,今日雨晴初择茧。东家馈黍西舍迎,连臂踏歌村市晚。妇骑夫荷儿扶翁,月出桥南归路远。
四、南宋文人的踏歌是生活观念的表达:
南宋诗中出现的“踏歌”并不一定是纪实的,而是一种生活观念的象征。或者是某些是诗歌场景的比拟性刻画。有时还把前人的踏歌活动和歌词当作表现某种主题的典故,这时“踏歌”作为一种表现手段的性质就更为明显。例如:南宋诗人陆游创作的《自咏》“游戏人间岁月多,痴顽将奈此翁何!放开绳箠牛初熟,照破乾坤镜未磨。日落苔矶闲把钓,雨余篷舵乱堆蓑。明朝不见知何处,又向江湖醉踏歌。”南宋淳熙五年1178年陆游在四川任锦城参议主张抗金而被罢官,次年任福建常平茶盐公事。自此抗金理想破灭,在这时期他的诗中流露出许多表示厌倦宦游生活的情绪,《自咏》就是其中一首。诗中“游戏人间”表示厌倦宦游而隐逸于江湖。“踏歌”是寄情江湖的象征,看似悠然潇洒,实则与《诉衷情》“当年万里觅封侯,匹马戍梁州。关河梦断何处?尘暗旧貂裘。胡未灭,鬓先秋,泪空流。此生谁料,心在天山,身老沧洲。”一样都是体现了诗人身体日渐衰老,报国无望、无奈愤懑的心情,而不是文人自娱。
五、宋代民间踏歌活跃于南方地区:
北宋中期的文学家欧阳修 《寄梅圣俞》“楚地蛮乡”的踏歌:青山四顾乱无涯,鸡犬萧条数百家。楚俗岁时多杂鬼,蛮乡言语不通华。绕城江急舟难泊,当县山高日易斜。击鼓踏歌成夜市,遨龟卜雨趁烧畲。丛林白昼飞妖鸟,庭砌非时见异花。惟有山川为胜绝,寄人堪作画图夸。
北宋诗人秦观《秋兴九首.拟韦应物》的地方曲调记载:坐投林下石,秋声出疏林。林间鸟惊栖,岂独伤客心。物亦有代谢,此理共古今。邻父缩新醅pēi,林下邀同斟。痴儿踏吴歌,娅yà奼chà足讹é音。日落相携手,凉风快虚襟。
北宋诗人、书法家黄庭坚《戏咏江南土风》记载“踏歌”为“江南风土”:十月江南未得霜,高林残水下寒塘。饭香猎户分熊白,酒熟渔家擘蟹黄。橘摘金苞随驿使,禾舂玉粒送官仓。踏歌夜结田神社,游女多随陌上郎。
南宋辞人吴潜《青玉案.己未三月六日四明窗会客》:踏歌梦想江南市。也说明他对江南踏歌的印象深刻。
1937年张寿林的在北京大学研究院期刊的一篇文章中引用《宣和书谱》对“踏歌”的记载:南方风俗,中秋夜,妇女相持踏歌,婆娑月影中,最为盛集。又夷俗男女相会,一人吹笛,一人吹芦笙,数十人环绕踏地而歌,此谓之:踏歌。
六、踏歌的起源与发展
应歌而舞,踏地击节的歌舞起源于新石器时期的中国青海、甘肃等西北地区。
1973年在青海大通县孙家寨遗址出土的5000-5800年前马家窑文化彩陶盆上已���和后世“踏歌”同一模式的舞蹈动作。陶盆内壁彩绘舞人三组,每组五人,头有发辫或羽饰,臀有尾饰,相互拉手踏足而舞。直径28cm,高12.7cm,底直径11cm。
1995年出土于青海省海南州同德县宗日遗址。高12.3cm,口径26.4cm。口沿内壁绘有两组手拉手的人像,分别为11个和13个人体图形,身上的穿着物被画成圆球状。整个画面用笔简洁,却生动地描绘出一幅原始人群集体“踏歌”的场景
《吕氏春秋.葛天氏之乐》的八段歌舞也是具有“踏歌”的意味。
西汉时期的称为蹋歌,西汉高祖时期有记载:蹋地为节,升菴(音安)引戚夫人侍儿贾佩兰歌上灵之曲,连臂践地以为节,践丑犯切,踏地歌也。杨雄“践凄秋,发春阳。”
东汉时期的公元79年编写的《白虎通.礼乐篇》记载“踏歌”:夫歌者,口言之也。中心喜乐,口欲歌之,手欲舞之,足欲蹈之。
南北朝时期梁武帝大通二年528年记载少数民族的酋长尔朱荣“与左右连手蹋地歌《回波乐》而出”。
唐代民间娱乐中的重大歌舞活动以“踏歌”为代表。人们手牵手,踏地击节,载歌载舞。所唱的歌曲是同一曲调,即兴填词,无限反复。民间踏歌常常夜以继日,通宵达旦,也出现了宫廷“踏歌”。
唐大中时期“有《葱岭西曲》仕女踏歌为队,其词言葱岭之民乐河、湟故地归唐也。”
《旧唐书中宗、睿宗本纪》记载唐睿宗李旦成为太上皇后在公元713年参加的一次彻夜的宫廷举行的大型“踏歌”活动:上元日夜,上皇御安福门观灯,出内人连袂踏歌,纵百僚观之,一夜方罢。唐代在民间“踏歌”基础上出现了皇家宫廷教坊所用的名为《踏歌》的队舞曲。
唐代的“踏歌”活动在皇家和民间都是普遍流行的。唐代中后期诗人刘禹锡《踏歌行》对民间“踏歌”也有生动的描写:春江月出大堤平,堤上女郎连袂行。唱尽新词看不见,红霞影树鹧鸪鸣。
北宋延续了唐代宫廷和民间“踏歌”,文学家王安石《秋兴有感》:宿雨清畿甸,朝阳丽帝城,丰年人乐业,垄上踏歌行。可见,北宋时代汴京秋季丰收举行民间“踏歌”。这首诗也被南宋的宁宗皇帝题写在《踏歌图》上。
南宋时代的诗人陆游《老学庵笔记》中记录了少数民族持续7天的“踏歌”的盛况:辰、沅、靖州(湖南怀化地区和靖州苗族自治县)----“醉则男女聚而踏歌。农隙时至一二百人为曹,手相握而歌,数人吹笙在前导之。贮缸酒于树阴,饥不复食,惟就缸取酒恣饮,已而复歌。夜疲则野宿。至三日未厌,则五日,或七日方散归。”
“踏歌”一直延续到明末清初时期,清代顺治时代的保和殿大学士、收藏家真定府梁清标在《洛阳春.元宵后雪 》:“才过传柑佳夕。晓窗飞雪。重重帘幕落梨花,总不碍、灯和月。潇洒柴门尘绝。又添春色。踏歌声罢灞桥诗,天未许、风光歇。”至今,部分地区“踏歌”仍然流行,每逢年节和重大礼仪活动都有“踏歌”活动。
七:释义
“踏”释义:“踏”这一舞蹈术语。唐人本以“踏”为简单之舞。“踏曲、踏歌”谓循声应节,以步为容也。亦作“蹋歌、打歌”。拉手而歌,以脚踏地为节拍。《后汉书.东夷传》、南北朝时代的葛洪《西京杂记》均有“踏地击节、连臂踏地为节”的记载。“踏”字究作何解?“踏”是与“蹴”、“践”互训(训诂学术语,以意义相同之字,相互训释。)的、描写足部舞蹈动作的词语。唐·李端《胡腾儿》诗描写胡儿舞蹈,既言“扬眉动目踏花毡,红汗交流珠帽偏”,又曰“环行急蹴皆应节,反手叉腰如却月”。这是“踏、蹴”二字互训之佳例。“踏、蹴、践”浑言则同,析言则异。在用于舞蹈时,三者皆用于描述前进舞步。若细分,“践”强调前行,而“蹴”稍有停顿之意。“踏”则在描写前进舞步时通用。
“踏歌”之“踏”要运用腿部力量,用力顿地。“踏地为节”在“踏歌”中是以歌声相配,贯穿始终的。(引述:姚小鸥先生相关论述,特此鸣谢!)
“杖”的释义:1、手杖。《说文解字.木》杖:持也。凡可持及人持之皆曰杖。《礼记.曲礼》:“大夫七十而致事。若不得谢,则必赐之几、杖,行役以妇人。适四方,乘安车。 自称曰老夫,于其国则称名。越国而问焉,必告之以其制。 谋于长者,必操几、杖以从之。长者问,不辞而对,非礼也。”2、拄杖。《礼记.王制》:“五十杖于家,六十杖于乡, 七十杖于国,八十杖于朝,九十者,天子欲有问焉,则就其室,以珍从。”杖家、杖乡﹑杖国﹑杖朝等均为古代的一种尊老礼制。3、礼仪用具。在北宋大型集体乐舞时会有持“竹竿子、引人杖”的礼仪用具,起到“参军色、喝探”的引导、“勾队”的指挥作用。
根据以上《礼记》中的持杖人年龄的记载,其中一位在六十岁以上,若“踏歌”这种大型集体活动需要指挥,那么这位可能就是一位指挥。而另一人可能在五十到六十之间。
“乌角巾”释义:北宋前及北宋的葛制黑色有折角的头巾,常为隐士所戴。北宋文士苏轼改良后则名“东坡巾”。唐·杜甫《南邻》诗:锦里先生乌角巾,园收芋栗未全贫。惯看宾客儿童喜,得食阶除鸟雀驯。秋水才深四五尺,野航恰受两三人。白沙翠竹江村暮,相对柴门月色新。仇兆鳌注:角巾,隐士之冠。《南邻》是用画面组成的一道诗,诗中有画,画中有诗,展现出来的是一幅山庄访隐士的场景。图中持杖戴乌角巾的老者应为“志在守朴 ”的隐士。正如西晋时期的嵇康《与赵景真书》描写的隐士生活:“夫处静不闷,古人所贵,穷而不滥,君子之美。故颜生居陋,不改其乐,孔父困陈,弦歌不废。”这是宋代文士倡导的“内圣”的时代共性的体现,即“所谓达能兼善而不渝,穷则自得而无闷”的君子操守。马远是文人士族画家也具备宋代文人的时代共性,也有一定的隐逸情怀。在《踏歌图》中描绘的这位就可能是一位在乡间德高望重具备指挥才干的又平易近人、甘贫守志、与民同乐的文人隐士,主持踏歌归来的路上,余兴未散,引伴踏歌的场景。
“平式幞头”的释义:北宋沈括《梦溪笔谈.卷一》记载:幞头一谓之四脚,乃四带也。二带系脑后垂之,二带反系头上,令曲折附顶,故亦谓之“折上巾”。唐制,唯人主得用硬脚。晚唐方镇擅命,始僭jiàn用硬脚。本朝幞头有直脚、局脚、交脚、朝天、顺风,凡五等。唯直脚贵贱通服之。又庶人所戴头巾,唐人亦谓之“四脚”,盖两脚系脑后,两脚系颔下,取其服劳不脱也。无事则反系于顶上。今人不復系颔下,两带遂为虚设。南宋马远《踏歌图》中两人佩戴平式幞头,即《梦溪笔谈.卷一》中的“四脚”幞头。
“帻巾”的释义:帻(音则)巾:在宋代,士人以上方可戴冠,帻是庶民戴的。帻是韬裹鬓发使之入帻中而不蓬乱,作为覆盖发髻之用。明代为网巾是由“帻”衍化而来。在宋代,帻只是施之于乐工、仪仗中用之。北宋孟元老《东京梦华录》:“宫架前立两竿,乐工皆裹介帻如笼巾,绯宽衫,勒帛。”依据《东京梦华录》的记载,这位头戴帻巾的人应该是一位乐工或者仪仗队员。其手持的“杖”,可能就是起到“喝探”引导、指挥作用的“踏歌”这样大型歌舞集会活动的礼仪用具。或者只是民间踏《竹枝》歌使用的竹竿子,这种竹竿子在少数民族祭祀中仍然使用。乐工在宋、元时期普遍存在甚至是有专门的乐户。为大型集会、祭祀活动伴奏。
“葫芦”释义:明药学家李时珍《金陵本-本草纲目.菜》记载为:壶卢。瓠hù瓜(《说文解字》)、匏瓜(《论语》)。时珍曰∶壶,酒器也。卢,饮器也。此物各象其形,又可为酒饭之器,因以名之。俗作葫芦者,非矣。葫乃蒜名,芦乃苇属也。其圆者曰:匏páo,亦曰:瓢,因其可以浮水如泡、如漂也。凡属皆得称瓜,故曰瓠瓜、匏瓜。古人壶、瓠、匏三名皆可通称,初无分别。故孙《唐韵》云∶瓠音壶,又音护。瓠,瓢也。陶隐居《本草》作瓠,云是瓠类也。许慎《说文》云∶瓠,匏也。又云∶瓢,瓠也。匏,大腹瓠也。陆玑《诗疏》云∶壶,瓠也。又云∶匏,瓠也。
《庄子》云∶有五石之瓠。诸书所言,其字皆当与壶同音。而后世以长如越瓜首尾如一者为瓠(音护),瓠之一头有腹长柄者为悬瓠,无柄而圆大形扁者为匏,匏之有短柄大腹者为壶,壶之细腰者为蒲芦,各分名色,迥异于古。以今参详,其形状虽各不同,而苗、叶、皮、子性味则一,故兹不复分条焉。悬瓠,今人所谓茶酒瓢者是也。蒲芦,今之药壶卢是也。
中国河姆渡遗址出土的葫芦皮和种子,距今6500-7000年。《诗经》中就有不少葫芦记载《豳风·七月》:“七月食瓜,八月断壶”,写的是春秋战国时期葫芦作为食物或制作盛器情况。
北宋诗人黄庭坚有诗《葫芦颂》曰:大葫芦乾枯,小葫芦行酤。一居金仙宅,一往黄公垆。有此通大道,无此令人老。不问恶与好,两葫芦俱倒。更明确而的指出北宋时代葫芦作为酒器,但并没有明确指出这个葫芦是“悬瓠”还是“蒲芦”,看《踏歌图》中是“蒲芦”。“小葫芦行酤”和“有此通大道”两句分析,“行酤”有打酒的意思,“通大道”来自于李白的《月下独酌》:“三杯通大道,一斗合自然。但得酒中趣,勿为醒者传。”可见,北宋时代葫芦用途划分并不明确。到李时珍所处的明代后期:悬瓠,今人所谓茶酒瓢者是也。蒲芦,今之药壶卢是也。才明确的划分开来。《踏歌图》中的葫芦可能是“行酤”的酒器。
八、踏歌图的题记与印章:在马远的这幅《踏歌图》的上方,题有五言绝句一首,这是南宋皇帝宁宗赵扩抄录北宋王安石的诗句。诗为:“宿雨清畿甸,朝阳丽帝城,丰年人乐业,垄上踏歌行。”这是南宋皇帝对太平盛世的企盼,供奉宫廷的画院画家马远即以此诗为题作画。钤:庚辰、御书之宝。
九、马远的绘画世家:曾祖:马贲bèn 北宋宣和画院待诏。祖父:马兴祖 南宋绍兴画院待诏。伯:马公显、父:马世荣 南宋绍兴画院待诏。兄:马逵-----马远 南宋光宗、宁宗画院待诏。子:马麟南宋宁宗画院祗候。
马远:字遥父,号钦山,南宋光宗、宁宗画院待诏“南宋四家”之一。
十、评价:1924年近代伟大的山水画大师、教育家黄宾虹先生评价马远山水画成就:世其家学,马远师李唐,下笔严整,用焦墨作树石,树叶夹笔,石皆方硬,以大斧劈皴带水皴甚古,全竟不多,其小幅或峭峰直上,而不见其顶,或顶壁直下而不见其脚。近山参天而远山则低,或孤舟泛月而一人独坐,此边角之景也。画松多作瘦硬,如曲铁状,间作破笔,最有丰致。古气蔚然-----墨气淡荡,洒然出尘。------马远所作笔意清旷,烟波浩渺,尤极其胜。-------该自王泼墨辈,略去笔墨畦qí疃tuǎn,乃发新意。随赋形迹,略加点染,不待经营,而神会自然,自成一家。宋李唐其不传其不传之妙,为马远父子师,乃远又出新意,极简淡之趣,号:马半边。
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