#藤本壮介建築設計事務所 渡辺建築事務所 大本組
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2022建築レビュー#5
-建築レビュー#5(設計者:Carmody Groarke)発表者:池部(M1)講評者:伊藤-
建築レビュー第5回はCarmody Groarkeを取り上げた。
Carmody Groarkeは、ケビン・カーモディとアンディ・グロークらによって2006年に設立された建築事務所であり、��れぞれの名前を組み合わせた事務所名となっている。
ロンドンに拠点を置き、数々の建築賞暦のある建築家達です。
彼らのコンセプトは、「都市が抱える文化的問題を、空間・光・素材などの様々な文脈から意図的に追求し、解決するための建築デザイン」である。
今回は、彼らの建築作品を4つ取り上げて紹介する。
事例1『Manchester’s Science and Industry Museum』Manchester(2021)
ギャラリーは、1880年代に建てられた建築物であるニューウェアハウスの1階部分にある。今後数年間で、博物館は、既存の歴史的建造物やスペースと、ヴィクトリア朝の鉄道高架橋のネットワークとの間に、敷地全体の方向性とアクセスを強化することを目指している。
美術館のロウアーヤードからの新しいエントランスは、「パイナップルライン」とも呼ばれる新倉庫に線路が通っている歴史的な高架橋のアーチ型の下屋を修復し、このエリアを明るく心地よい空間に変え、来館者の方向性を明確にし、到着の気分を盛り上げるものとなっている。
新しいギャラリーは、グレートウェスタン鉄道によって1882年に建てられたニューウェアハウスのアーチ型の地下室の西端に位置する。一連の操作により、古いただの保管スペースであった空間は1つの空間に合併され、世界クラスの科学展示物を展開し、さまざまな巡回展を開催する博物館としての魅力を高めている。
ガラス繊維でできた高さのある壁は、外から内へと訪問者を迎え入れる。また、「頭上の貨物車の重量を支持するために設計された、ヴィクトリア朝の重い構造物の重さ」を軽減し、さらには歴史的建造物を永続的に維持していくためのメンテナンス作業をするために取り外しが可能になっている。新しいグラスファイバー製のパネルは一つ一つ手作業で鋳造され、周囲の風化したヴィクトリア朝のレンガ造りを引き立てるためにテラコッタ色に着色されている。
この新しいギャラリーは、広大な倉庫の1階部分の広さと特徴を生かして、鋳鉄とレンガの複合構造、高さ5mのアーチ型天井、そして上部の歴史的な鉄道路線とプラットフォームの形状に沿うように配置されている。ギャラリー内の歴史的建造物も復元され、元の倉庫の壮大さとスケールを体験しながら、新しい展示体験ができるようになっている。
事例2『The Hill House Box Museum』London (2019)
ヒル・ハウスは、チャールズ・レニー・マッキントッシュの最も重要な作品の一つで、スコットランドで最も高く評価されている建物の一つであり、20世紀初頭のヨーロッパの代表的な建築でもある。グラスゴーの西30kmに位置するヘレンズバーグにあるこの建物は、1902年に出版社のウォルター・ブラッキーとその若い家族のために建てられ、クライド川河口の南のパノラマビューを見渡すことができる。
★チャールズ・レニー・マッキントッシュ
スコットランドの建築家、デザイナー、画家。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもある。
この住宅は先鋭的なレイアウトと3次元的な空間進行を提案し、建築はスコットランド・バロニアルの絵画的な伝統の中に組み込まれながらも、マッキントッシュはヨーロッパの他の地域で起こっているモダニズムの現代技術の進歩にも明らかに影響を受けている。このように伝統と発明が混在した珍しい建築であったため、長期にわたる水害という根本的な問題が発生し、この家を存続させるために大規模な保存修復プロジェクトが必要となっていた。
修復の間、この家を視界から遠ざけるのではなく、より積極的な保存へのアプローチがとられている。最大15年かかるとされるこの保存修復の不可欠な要素として、このプロジェクトは、ヒルハウスを「芸術品」として収め、保護するための「大型の」仮設博物館を提案し、同時に、訪問者がこの家にアクセスできるよう維持することを提案している。
この安全で保護された建築作業の領域で、「博物館」は、ヒルハウスの周囲を高い位置からぐるりと囲む高架歩道によって、進行中の保存修復を一般の訪問者に体験してもらう仕組みになっている。博物館の囲いには、独立した木造の建物にビジター用の施設も設置される予定である。
新しい美術館の建築的アイデンティティは、抽象化された巨大なガーデンパビリオンで、その壁はステンレススチールのチェーンメイルメッシュで全体が覆われている。この半永久的な囲いは、雨に濡れた既存の建築がゆっくりと修復される間、元の家の基本的な「乾燥室」のシェルターとなる。この繊細な囲いは、昼夜を問わず、マッキントッシュの建築の象徴である風景を遮ることなく眺めることができるようにするものでもある。
事例3『Windermere Jetty Museum』Windermere(2019)
蒸気船博物館といいます。この新しい博物館は、湖水地方国立公園ウィンダミアの海岸に、国際的に重要な船のコレクションを収蔵している。蒸気船、モーターボート、ヨットなどの展示スペースがあり、その建築と湖に関するストーリーが語られています。この場所は、歴史的な砂利採取工場を再利用しており、船の積極的な保護プログラムによって、この場所の活動を継続している。人、船、水、そしてこの場所の絵のように美しい産業遺産の再解釈を提供する公園の風景の中で、訪問者が建物の中で体験することに重点を置いている。
一棟の大きな建物ではなく、平面が正方形の小さな建物たちは、そのコンテクストによりふさわしいスケールを生み出している。そのため、美術館は土地や水と地形的な関係を強く持っている。波止場は博物館の中心的存在で、湖を体験の中心にすえ、水面下でコレクションを展示する。メインエントランス、保存ギャラリー、解説、教育、カフェなど、来館者の動線を構成する他の建物は、すべて波止場の周りに集まっているが、洪水の危険性から逃れるために、基礎が高くなっている。保存修復工房は、作業船渠の水面近くに設置された独立した建物である。
この美術館の建築言語は、ウィンダミア湖周辺にあるヴォイジーの豪邸やブロードレイズハウスやチャールズ・ヴォイジーのブロードレイズハウスの大きく張り出した軒や、湖水地方の典型的な農業・工業建築から引用した、ヴァナキュラーな屋根の型式によって特徴付けられている。建物の形態はどこか親しみやすいものですが、張り出したキャノピーによって、建物の内部空間が全天候型のシェルターとして景観に溶け込み、特別なものとなっている。内部は、湖岸に面した大きな主室を中心に、付属空間と外部キャノピー空間が左右対称の断面構成でバランスよく配置されている。
美術館は、陸上と水上、さまざまな高台から四方八方から見られる。そのため、屋根と壁が形式的な構成において重要な地位を占めている。これらの要素に建築的な一貫性を与え、美術館の建物が全体��してまとまったものになるように、酸化銅が決定的に重要な素材として使用される。銅を折り曲げ、真鍮の留め具で規則正しく留めることで、高層部に独特の質感を与え、さらに時間の経過とともに風化していくことでその質感を高めている。非常に大きな窓とドアによって、ボートは容易に外と中を行き来することができ、建物と建物の間のミュージアム・ルートも明確に読み取ることができる。
自然な銅の外観は、モノリシック(巨大)なコンクリートの基壇とは対照的に、建物に軽快さを与えている。また、外装を包むじゃばらが水平方向に繰り返されることにより、美しい湖のコンテクストを表現している。
事例4『7 July Memorial』Hyde Park(2005)
2005年7月7日、午前8時50分頃、ロンドン地下鉄トンネル内の3カ所でほぼ同時に地下鉄の車両が爆発し、同日午前9時47分頃ラッセル広場近くのタビストック・スクエアを走行中のダブルデッカーバス、デニス・トライデント・2型1台が爆発した。
カーモディ・グロークは、この最悪な同時爆破テロによって亡くなった犠牲者の遺族と協力し、恒久的な追悼記念碑を設計した。
ハイドパークに位置するこの記念碑は、新しい公園の小道にあり、ロンドン最大の公共の場所の1つで静かな熟考の場を提供する。爆撃によってもたらされた唯一無二の集団的損失は、記念碑の性格を物語っている。
52本の850kgステンレス鋳造の垂直柱は、それぞれが失われた52人の命のうちの1つを表し、爆弾の4つの場所を表す4つの連結されたクラスターの開いたパターンに配置されている。
各石碑は、オープンキャストプロセスによって引き起こされた表面のユニークなマークと、失われた各生命の日付、正確なタイミング、場所を説明する目の高さで運ばれた碑文によって特徴付けられる。
問者は石碑の間を歩き、その意味を深く考えるように勧められる。プラークは道の端にあるバームにあり、各犠牲者の名前を記録している。
抽象的な建築の言語を通して、記念碑は家族のための和解の象徴であると同時に、爆撃の壊滅的な影響を何世代にもわたって恒久的に思い出させることを意図とする。
私はCarmody Groarkeの設計について、コンセプト(文化的問題を、様々な文脈から意図的に追求し、解決するための建築デザイン)からは分からなかった、人が建築の重要な部分に介入し視線を大切に設計している建築家であると感じた。非日常を体験する空間として既存の壮大なスケール感を生かした新規部分の挿入が行われていると感じる。また、既存部分を生かした新旧の差がはっきりとわかる新たな素材の挿入も魅力的に感じるが、それだけでなく考えられた構造デザインがより既存を引き立たせているのではないかと感じる。
山中は、写真の良さを差し引いて何が印象深さに繋がっているのかを疑問視し、既存の部分と新規の部分が常に同時に存在している点が面白いと述べた。また、元の建築により少ない手数で新しいものを共存させることで洗練されたものになっていると捉えている。
『Manchester’s Science and Industry Museum』では蒲鉾状のアーチ状の天井の造形を新しい建築が引き出していること、カートディの操作がシンプルであり、このような操作を行うことにより、元々の既存の時より特徴的な部分の魅力を感じさせると述べた。
The Hill House Box Museumはマテリアルの数が増えないということが重要であり、コンバージョンなどではなく、自分達の中で二項対立の関係を作り出していると捉えた。
Windermere Jetty Museumに関しては、屋根の高さ勾配、窓の高さが一緒という同じ操作しかしていないことによって湖畔の魅力を引き立たせている。また、最少の建築操作しか行っていない、
つくり切らないという設計が魅力的であると述べた。
引用
Carmody Groarke HP https://www.carmodygroarke.com/
Archi Daily Carmody Groarke | ArchDaily
Carmody Groarke: Architects of the Moment Carmody Groarke: London's Architects of the Moment | PORT Magazine (port-magazine.com)
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はじまりへの旅
京都を離れる前に訪れたい場所がある。それは京都ではない。かつて京都が都となる遥か以前に人々が「みやこ」と呼んでいた諸地域。すなわち「古都」である。奈良をはじめとする古都の多くは、京都周辺に点在しており、地元に帰ってはなかなか足を運ぶのが難しい。是非このときに足を踏みいれたいと思い、訪問した。
京都=平安京(794年)に至るまで、日本の国家(律令国家)は幾たびも遷都を繰り返してきた。遷都の事情は個々に異なるものの、遷都の度に時の知識人たちは天皇に付き従って、都を転々としていった。しかし、いざ新都での暮らしをはじめた官人は時折、愛着のある古都を懐かしんでいたからであろうか、古典文学を顧みれば古語では「古都」を「ふるさと」と読む。
我々現代人にとっても京都や奈良はどこか特別である。それは各時代の人々が文章などに残してきた「古都を思う文化」を吸収したからに他ならないだろう。私に関しては言わずもがなである。古代の人々がどのような景色の下でいきて、文章を書いていたのかを知りたい。そういった「聖地巡礼」のような心地で私は古都を目指した。
だが、現実は非情である。当初の計画では7世紀の古都「飛鳥浄御原宮跡」から7世紀末の「藤原宮跡」を訪ねたのち、「平城宮跡」を訪問。そして、京都に戻るという計画であった。ところが、購入した「奈良・斑鳩ワンデイパス」の適用範囲が「近鉄の一部路線」に限られていたために縦横無尽な動きをすることができず、結局のところ神武天皇即位地とされた「樫原神宮」参拝をもって、飛鳥京の訪問は中止した。また、藤原京も日程的に困難であった。
最終的には近鉄線の「樫原神宮前」→「西ノ京」→「大和西大寺」各駅周辺の名跡を訪れるに留まった。しかし、久々にブログに書いてもいいような実りある旅であったと振り返るので、ここで書いていきたいと思う。
旅の始まりは北大路。市営地下鉄の陰鬱な暗闇を超えて、青空が見えたのは竹田駅である。ここで、近鉄電車に乗り換え、一路樫原神宮を目指した。樫原神宮は『古事記』並びに『日本書紀』において、初代・神武天皇が即位した樫原宮に建立された神社である。建立時期は1890年。明治年間における創建の意図は、過分に明治の王政復古的気風を受けたものであろう。明治時代には、天皇を統治権の総覧者とする立憲君主制国家の��設が急務であった。その際、日本国家は天皇の権威を高めるため、天皇による統治の正統性を弁証法的に証明する方法を選んだ。それは神話の地を現代において「聖地化」する試みである。それまで古びた社、石碑しかなかった場所に壮��な神社建築が次々と出現していった。こうした時代背景の産物こそが樫原神宮なのである。
まあ、簡単にいうと古い古文書に記された場所に石碑なり神社なりを立てて、今いる君主の先祖は昔からこの国を治めていたんだぞ。というのを国民に浸透させようと神社を立てたわけです。ですから、樫原神宮は古代からあったわけではなく、近代の事情で建てられた神社ということですね。
写真を見ても、非常に立派なつくりですが、新しい…近代以降の建立であることが分かります。
神社の参拝を終えると、雪が…
これは石舞台古墳なんか行けないなぁ…あとわずかですが…雪がひどい。
仕方なく、ここで撤退を決定。飛鳥浄御原から平安京まで巡る「日本のはじまりの旅」構想は瓦解した。
電車が出てしばらくすると、進行方向に青空がみえる。振り返ると、橿原方面は白い靄に包まれていた。とんでもないところだった。
西ノ京
西ノ京を降りると、すぐに薬師寺・唐招提寺の表示が。ここは平城京では五条のあたり。薬師寺は改修中と聞いていたので、金堂の改築が終わった唐招提寺を訪れることにした。唐招提寺といえば、皆さんご存知鑑真和上である。鑑真は唐代中国の高僧で、日本に仏教の戒律を伝えんとして渡海した。度重なる渡航は悉く失敗し、ついには視力を失う。五度目の挑戦でついに日本の地を踏んだ。日本の朝廷は鑑真に僧侶としての最高の位を与え、唐招提寺を与えた。「唐」から「招」いた僧侶に「提」供した「寺」ですから。
鑑真は日本の仏教にどれほどの影響を与えたのだろうか。空海や最澄が現れる半世紀ほど前の出来事。こんご調べてみようかな。
唐招提寺には鑑真の御廟がある。鑑真は唐を離れてしばらくのち、日本の地で亡くなった。日本の仏教の交流に寄与せんとする大義に生きた僧は、二度と故郷の土を踏むことは無かった。それも本望だったのだろうか。今の我々にはわからない。
鑑真の墓は、緑の苔と杉の木に守られながら今も静かにたたずんでいる。
唐招提寺は「講堂」と呼ばれるお堂がある。
何の変哲もなく、他の建築と調和のとれた建物に見えるが、この建物は大変貴重である。今から1200年前、都が長岡京に移り、平城京の建築の多くは移築され、奈良から姿を消した。その後、長岡京、平安京と平城京以来の建築は移築されていくが、戦乱・災害・老朽化による崩壊で悉くが歴史の渦に消えていった。ほとんどが現代には残っていない。
しかし、ただ一つ残っている建築がある。
それが「講堂」だ。
古代の日本では「朝議」の名の通り、朝早くに政治に関する儀式が行われていた。今でいえば職員朝礼であろうか。その際に役人が待機する建物が「東朝集殿」である。現在の姿になった由来は知らないが、恐らく唐招提寺を建設する際に移築された見られる。鎌倉期に改修が行われ、形は平城京の頃とは異なるが、柱や雰囲気はやはり古代の特徴をとどめているのだそうだ。
私はお堂に入った。お堂の柱の間に立って、しばし目をつむる。朝焼けの霧も漂う宮殿で、寒さに袖を引きながら朝議を待つ官人たちの姿が目に浮かぶ。目を開けば、官人たちの姿は仏像に代わっている。あの頃生きた人々の見た風景の一部を体感することができた。
西ノ京を後にして、大和西大寺へ。
日差しの暖かさとは裏腹に風は冷たく、手はかじかんでしょうがない。
近鉄線沿いを歩くと、現代的なビルディングが目に映る。国立奈良文化財研究所。その新館の建設が佳境を迎えている様子だった。灰色のコンクリートと透明なガラスの重層構造は、歴史分析にかける研究機関らしさを覚える。
平城宮跡資料館。
歩いてすぐ、資料館が見えてきた。入館すると、ボランティアのおじいさんがパンフを進め、解説を開始する。足下には現代の奈良を捉えた航空写真に平城京の境域を示す条坊図が刻まれていた。上級ほど平城宮に近く、下級役人ほど遠い位置に暮らしていた���うで、朝陽ののぼる前から朱雀大路を歩き、朝議の始まる前に出勤する。現代の公務員も真っ青の生活をしていたらしい。冬は寒い日もあったろうにな。
資料館内には、復元の進む大極殿院の模型が展示されている。
この写真は模型の写真であるが、今後、これが公園内に再建されるそうだ。すでに復原を終えた第一次大極殿と一体をなす施設として、その周辺の回廊、そして、門などが復原されるという。第一次大極殿だけでも180億円、回廊も合わせるとその3倍以上の建設費がかかるという。
私はこういった文化財事業には賛成で、公共事業として実施される限り価値ある事業であると思う。ただし、実施する以上は決して妥協してはならないと思う。幾年にも渡る研究の成果をもって復原を行う以上、それをないがしろにするようなあらゆる費用節減の取組は無粋である。これからこの地を訪れる次世代が、古代に思いを馳せることができる不滅の記念碑を作り上げてほしいものである。もっとも、国の税金は無駄に使ってはならぬ。完璧な再現こそ、意義がある。妥協した再現はそれこそ税金の無駄だ。
資料館を出て、しばらく歩くと「大極殿院復原情報館」へ
ここでは復原に関する事業が紹介されています。国、文化庁主体ですから、もちろん無料で周知活動が行われています。
第一次大極殿とその内部。映画「ラストエンペラー」における即位式を思い出す風景です。奈良朝は漢風諡号など、中華文化圏の色彩を帯びた天平文化が花開いた時代。私は中華風の世界観が奈良にはあると思います。
この後、第二次大極殿の基壇の上に立つ。私はこの風景こそが、古代史を愛する者にとっての「浪漫」ではなかろうかと思う。失われた建築に思いを馳せつつ、彼方には再現された建築を拝むこともできる。まさに醍醐味の基壇であるといってよい。
東院庭園は改修工事が行われていたが、従来の美しさ。しかし、寒さも著しく、私の足取りは帰路へと向かっていた。
さらば平城京。今度は大極殿院の再現後に訪れたい。
2015年に訪れたときともまた違う平城京がそこにはあった。
我々の始まりの地を巡る旅はまだ終わらない。今後も続く発掘と研究が新たなる物語を紡いでくれることであろう。
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