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歌をお題にした小説。読みながら聞く体で構成。
「初恋の弔い」
木の葉から雫が滴り落ちる。頭上の緑から溢れ出たかのような水滴が僕をぽたぽたと打つ。寝ころんだまま手のひらを広げて葉から零れた露を受け止める。それは通り雨の始まりみたいにぽたぽたと僕に降り注ぐ。しかしいつまでも、通り雨は始まらない。
眼前には藍色の空を背に生き生きとした緑が浮かんでいる。雲が棚引き、その向こうで白い月が朧気に光る。鈍い輝きなのに吸い込まれてしまう。誘われている。露も風も雲も僕も。雨雲はもう旅立ってしまって、こちらへ戻って来そうにない。��むらの露は磨かれた宝石みたいに整った曲面をさらして輝いている。月光が輝かせている。掌の上の雫は潰れてただの水になっていた。背に雨上がりの冷たさが染み込んでいく。
ふわ��、と小さな光が舞う。一つ、また一つ。ほう、と点滅する小さな灯り。すう、と昇っていくそれは空の向こうにまで行きそうに思えるけれど、そんなに高くまで行く前にすっと消えてしまう。僕などいないかのように蛍が舞う。儚げな灯りも、強い灯りもふわふわと漂っている。光っては消える。蛍は死人の魂だという。
子供の頃は高い山だと思っていたのに、大人になってから登ってみたら別段高くはなかった。よくある話。山が縮んだんじゃない。僕が大きくなっただけ。雨上がりの山の空気は透き通っていて肺の奥を通り抜けて爪先まで循環する。空気そのものが呼吸をしているみたいだ。僕は空気によって呼吸をさせられている。ただここにいたからそれに巻き込まれている。自然の一部になっている。土には独特の温もりがある。それを僕は背で、腰で、尻で、脚で、腕で感じる。形あるものはすべていずれ土へ還る。微生物に分解され、土になる。土の中では虫が育つ。蛍の幼虫が眠る。死人の魂は蛍になるというのは本当なのだろう。
露がつやつやと輝く。蛍の光を、月光を受けて。月光は月の放つ光ではない。太陽の反射だ。月そのものが光っていないから、こんなにも妖しげに光るのだ。月は人攫いだ。僕をどこか遠くへ攫う。花火の火薬の匂い、祭り囃と遠い灯り、朝顔の花に注ぐ陽光、蝉の声、青白い月、蛍の燈、軽い足取り、白くなって浮かんでくる。僕と君。あの頃、夏は心躍る存在だった。不意に溢れてきた思い出の破片は薄っぺらくて夢か幻みたいで、いっそ本当にそうなら良かった。
何もない大人になってしまったよ。つまらない大人だ。何者にもなれなかった。どこにも行けなかった。何も成し遂げられなかった。何も学べなかった。何も成長しなかった。何も得られなかった。昔はあんなに将来の夢がたくさんあったのに、何も残ってない。ただ呼吸をしているだけ。ただ血を巡らせているだけ。ただ僕が僕であるだけ。
そっと、僕に向かって君の手が差し出される。僕より温かかったあの手のひら。にゅっと視界の端に伸びてきたそれは、直視しようとするとそこにはない。目の端でしか見ることができない。顔は見えない。手しか無いのかもしれないけれど、それは間違いなく君だと分かった。蛍が目の前を横切っていく。弱い灯りは女の子、強い灯りは男の子。今のはどっちだろうか。そ��な話を遠い昔にもした気がする。ここで小さな手の君と蛍を見た。白い、遠い、朧気な記憶。僕らはまだ何者にもなれたし、どこにでも行けた。何でも成し遂げられたし、何でも学べたし、いくらでも成長できた。僕らの手のひらは空で何でも得ることがで���た。何でも残すことができた。未来へ繋ぐことができる希望が溢れていた。
蛍は死人の魂だと君が言っていた。夢みたいな話だと思った。僕らはあの日夢の中で蛍を眺めたんだろうか。あの風景が夢にも思える。それともあっちが現実で、こっちが夢だろうか。
何者にもなれなくても、せめて遠くへ行きたかった。誰もいないところが良かった。もう誰の話もうんざりだし、僕が誰かに聞いて貰いたい話もなかった。一人にして欲しかった。誰とも会いたくなかった。君以外には。
向日葵が日を追うように、蛍は月を追って死ぬんだよ。月は火葬場の煙を集めているから。土に還った命も集めようとしてるんだよ。あの日の君が言う。靄の向こう側で、僕よりも早く山を登りきった君が振り返って言う。すっかり息が上がってしまった僕はまだのろのろと坂道を歩いているのに、君はいざ蛍を見つけると楽しそうに手を広げて突っ込んで行き、草むらに倒れ込む。仄暗い話をしてきた直後なのに、何がおかしいのか、楽しいのか、笑い声が聞こえる。君はどんな顔をしていただろう。どんどん靄が濃くなって思い出せない。
耳を塞いで目を閉じていたら、君に会える気がした。何故今になってこんなにも僕は君に会いたいのか。会いたい人なんていなかったはずなのに。死んだ人のことは悪く言えないからだろうか。二度と手に入らないと分かったから惜しくなったのか。思い出は美化されるからか。違うんだよ。そのうちまた会えたら良いなと思っていた。結婚して子供を連れた君とばったり会って、不甲斐ない自分にますます嫌気がさすくらいが丁度良いと思っていた。それで良かった。そのうち、そんな未来があれば。そのうち。そのうちっていつだ。いつ来るんだ。一生来ないかもしれないし、明日来るかもしれない。だから何となく「そのうち」に期待できていた。何となく未来へ繋がる希望がまだ途切れていない気がしていた。そんなぼんやりとした期待は呆気なく砕け散った。もう永遠に来なくなってしまった。目蓋の裏で蛍が舞うのはただの飛蚊症か。ちかちか、不自然に光る蛍が暗闇を妖しげに彷徨う。幻でも良い。その向こうで君が手を伸ばす。坂道に息を切らせた僕へ手を伸ばす。僕はその手をとろうとする。そこで煙みたいに君は消えてしまう。幻ですら僕らに都合が悪い。君の伸ばした手も、僕の伸ばした手も届かない。届きやしない。白い月が目蓋を貫いて暗闇を照らしてしまうから夢を見ることができない。そのくせ僕はその光に見とれている。君に会えないのに。思い出というのは反芻する度に個人的な願望や思想が反映されてしまう。どうか僕の現実にあった過去を、儚い幻想になんてしないでくれ。掴もうとした思い出が指からすり抜け、色褪せて、霞んで、萎んで、汚れていく。
昨日もし君に会えていたら。
きっと君は僕になんて一つも期待していなかったけど、もしも僕が君の手を掴んでいたら。街の中に落ちて溶けてしまう君を引き留めることができていたら。連絡をとってみることくらい、その気になればいつでも出来たはずだ。
坂道の君の瞳の中に夜があった。その中で花火が見えた。花火大会なんてまだ先なのに。月のない夜空が広がっていた。月のない夜空に花火が映えていた。あれは本当に花火だったのだろうか。打ち上げ花火だと思っていたが、線香花火にも見えたし、彼岸花にも見えた。
もしも昨日君と出会ったなら、そこから全部上手くいっていた気がする。君は今も生きていたし、僕は何者かになれていた、なんて思えるほど僕は馬鹿になりきれない。そんな都合の良い「もしも」があるかよ。何言ってんだ。そんなわけがない。誰かすら分かってもらえなかったかもしれない。僕は君を救えないし、君はビルから街の中に飛び降りて死んだ。地面の染みになった。もしもなんてない。君を救えた僕はどこにも存在していない。存在しているのは何もできなかった僕だけだ。
あの日、僕は間違いなく君の手を掴んだ。君の手の感触が今も残っている。あの温もりも、柔らかさも。あれが空想なわけがあるものか。いつまでも息を切らせてへろへろの僕を、君はぴょこんと立ち上がって迎えに来た。あれが幻なら、きっと僕の人生そのものが夢なのだ。今度は僕の番だったのに。
露の中で月の光と蛍の灯りが輝く。その中で花火が見えた。花火大会なんてまだ先なのに。月のない夜空が広がっていた。月のない夜空に花火が映えていた。しかし夜空には月があるから、あれは月なのだろうか。いや、水面を横切る蛍なのだろうか。ああ、そうだ。両方なのだ。ただ静かに水面は光を受けている。君の瞳も光を湛えていた。水面も瞳も自ら光を発することはない。ただいっぱいに光を湛えて、溢れ出ている。
空が白みがかってくる。散り散りの雲が雨の名残を惜しんでいるのがくっきりと見えるようになってくる。もう梅雨も終わりだと昨日の天気予報で言ってた。朝が来てしまう。未来が今になる。もう良いよ。もう進まなくて良い。これ以上進んで何があるんだ。ただ終わりがあるだけだ。想いはまるで違うけれど、あの時の僕も似たようなことを言った気がする。もう良いよ。もう進まなくて良い。永遠に手を繋いだままで夜空と蛍を眺めたかったから。深刻そうに語る僕を、君は笑った。また来れば良い、と笑った。くすぐったくなって僕も笑ってしまった。それはひどく当たり前で、何の疑いも持たない未来だった。どうして無防備に信じることができたのだろう。こんなにも脆いものなのに。それを知らずにいたから笑っていられた。怖いものは知らなければ恐れなくて済む。しかし一度知ってしまったら、もう知らない頃に戻すことはできない。
飛び交う光がだんだん減ってきている。蛍も就寝の時間だ。空が明るくなって来たからだろうか。食事はしない虫なのに睡眠はとる。蛍の成虫は口が退化しているので物が食べられず二週間で死ぬ。��を彩る蛍は皆飢えている。ただ体に蓄えた養分をすり減らして死ぬ。過去にすがりついている消化試合の僕とよく似ている。
どんどん夜空から色が抜けていく。穏やかな陽光が近づいてくる。今日が昨日になり、明日が今日になる。
立ち上がると空の際は炎のような色をしていて、夏が来る前の街を燃やしているようだった。君を溶かした街はもう時が進まない。そのままで良い。
梅雨が終わる。夏が来る。
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