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yoshinekyoko-chan · 2 years
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kachoushi · 7 months
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅲ
花鳥誌2024年3月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
 『年代順虚子俳句全集 第二巻』明治三十九年の項に「四月中の作句と覚ゆるもの」とある中の一句。『ホトトギス』には同年七月号に載る。「さくら狩」は和歌以来の言葉で、いささか俗な「花見」に比べて、雅趣のある言葉だ。「鷹狩」同様、花を求めて歩く意がある。筵を敷いて眺める「花見」が「静」だとすれば、「さくら狩」は能動的な含意を持つ。星野立子はこう解釈する。
 桜を見に山に分け入りました。桜の名勝地吉野とか鞍馬でしょうか。山道を辿っていると百姓家か、由ある人の住居か、ある家の垣根が長く続いているあたりに出ました。どのような人が住んでいることかと思いながら通り過ぎました。桜狩というのですから花を見る目的で山路を歩いているのでありましょう。その山人の垣根づたいも一再ならずあったかも知れません。兎に角、山に住んでいる人の家の垣根づたいを過ぎ去ってなお奥の方へ分け入りつつある時の情景であります。
 散在する山間の桜なればこその「狩」である。そして、立子がほのめかすように、「山人」という言い方に一種の軽い「謎」があって、家の主人をあれこれ想像する気分も受け取れる。
 謡曲の世界を背景に見ようとする向き(清崎敏郎「研究座談会」)があるのは、脇が桜を訪ね、桜にちなんだ精霊のシテが山人の仮の姿で現れるような能を想定したのであろうが、そのような曲はない。「狩」の言葉の持つ雅趣が、そういう踏み込んだ解釈を提示させる事情は理解できる。
 中七の「垣根づたひや」という言い回しには、軽い浮かれた感じがあり、そこに山間に「一花所望」とばかり、花を求めて逍遥する気分の楽しさを感じ取ればよい。句全体もア行音が繰り返され、リズムがいい。
 なお、1番「美しき人や蚕飼の玉襷」は他者を詠んだ「他」の句。2番「山寺の宝物見るや花の雨」は自分を詠んだ「自」の句。3番「芳草や黒き烏も濃紫」は、「他」、そしてこの句は「自」ということで、虚子は意識して配したか。自他の区別は虚子が親しんだ連句の発想である。四句「や」が入った句が続いた。
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
 大正二年二月十一日、三田俳句会で発表されたものである。この句会は岡本癖三酔(廉太郎)が起こしたもの。『ホトトギス』には同年三月号に載る。『贈答句集』の前書には、「大正二年・俳句に復活す」とあって、小説に転じていた虚子のいわゆる「俳壇復帰」を象徴する句として位置付けられてきたが、実態は、陰影に富んでいる。
 虚子が遠ざかっている間、河東碧梧桐の活動は旺盛で、俳句の流れは碧梧桐によって、古典的世界を離れ、詰屈な文体に新奇の題材を衒った新傾向俳句が流行していた。周囲からも、当時隆盛の自然主義の影響もあって、俳句はいずれ季題中心の世界から離れると考えられていた。虚子は、当時「負け組」と捉えられていたのである(拙稿「明治末年の俳諧史―池田常太郎『日本俳諧史』をめぐって」『連歌俳諧研究』一三三号)。
 しかし実際は、大方の予想に反して虚子が平明にして余韻ある俳句、古典文芸としての俳句を主張し実践することで、後の『ホトトギス』王国を築くに至ったということになる。その時の虚子の戦略は、日露戦争後の不況と青年の「煩悶」を前提に、村上鬼城・飯田蛇笏・原石鼎ら不遇の若者の主観的俳句を拾い上げるとともに、地方の中間層を開拓して俳句の大衆化に向かうという二つの路線を用意していたようだ。作家の発掘と俳句愛好者の「市場」開拓という双方を兼ねる複眼が、虚子の戦略であった、ということになる(拙著『近代俳句の誕生』「Ⅳ 大虚子への道程」)。
 掲句へ戻ろう。強くとも、駘蕩たる春風から湧いてくる「闘志」とは、単純な情熱ではないだろう。争いを好まなかったように見えるが、虚子に「比類のない勝負師の魂」を見て取ったのは山本健吉(「俳人虚子」『俳句』昭和三十四年五月)だった。勝ち負けは、彼の脳裏に常にあり、彼に盾ついた者は、たいてい最後に敗れ去り、虚子は黙殺による勝利を、常に収めている。だが、そのような意識は、ほとんど表面に現したことがないのは、自制力が強かったからだ、とも言っている。
 後に赤星水竹居の『虚子俳話録』(昭���二十四年)で、虚子はこうも振り返っている。
 私は自分の事は結局自分で解決せねばならぬと、いつも考えています。病気の時なんか苦痛をこらえながら、いっそう深くそんな事を感じます。
 俳壇復帰の直前、腸を病んで長期にわたり臥せっていたから、この句の成立に関連しては、考えておくべき問題である。こうした我慢強さが、何に由来するかと言えば、健吉の見るところ、それは自身を恃む気持ちの強さによる、ということなのである。
 水竹居も健吉も、この粘りと寡黙と忍耐強さを徳川家康のようだと比定している。
 なお、掲句と一対の次の句は、隆々とした力強い太い筆勢。特に「春」と「闘」は、力感に溢れ、一句の眼目となっている。
『虚子百句』より虚子揮毫
1 美しき人や蚕飼の玉襷
2 山寺の宝物見るや花の雨
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3 芳草や黒き烏も濃紫
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
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5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
6 葛城の神臠はせ青き踏む
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国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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shintani24 · 7 months
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2024年3月1日
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能登地震の倒壊家屋、元日のまま 「一歩一歩進むしかない」(共同通信 3月1日)
石川県輪島市の「輪島朝市」周辺に残る焼け焦げた車両=1日午前
発生から2カ月となる1日になっても、多くの家は倒壊したままで元日と変わらぬ光景が広がる。能登半島地震で大きな被害を受けた石川県ではいまだに1万人以上が避難所にいて、自宅に戻った人も断水などで不自由な生活を強いられている。「大変だけど一歩一歩進むしかない」。輪島朝市の焼け跡に早朝から手を合わせる人の姿も見られた。
朝市近くに住む主婦(77)は倒れかけた家屋を指さし「早くつぶしてくれないと危なくて」とつぶやく。道路には屋根瓦やくぎが散乱したままで「ちょっと歩くだけでも危険を感じる」。
珠洲市飯田町の浜田博司さん(80)は応急危険度判定で「危険」とされた自宅の再建をあきらめ、金沢市の賃貸住宅に家族4人で移る。「未練もあるが2カ月の避難所生活の大変さは体験しないと分からない」と話した。
津波の被害が大きかった珠洲市三崎町では地面が隆起した波打ち際に船や家電、布団などが残されたまま。川端国夫さん(73)は「崩れた建物も撤去してもらわないといけないが、いつになったら業者が来るのか」と力なく話した。
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石川6市町から1400人超転出 地震2カ月、人口流出に拍車の懸念(朝日新聞 3月1日)
6市町の転出者数
能登半島地震で特に大きな被害を受けた石川県内の6市町で、発災から2カ月で1400人超が別の自治体に転出していたことがわかった。転出には至っていないものの他の自治体に避難している被災者も多く、今回の地震をきっかけに人口流出に拍車がかかることが懸念されている。
1日時点で6市町に出された転出届の集計(速報値含む)によると、1月と2月の転出者数は計1449人。昨年同期の計602人に比べて2・4倍となった。地震が起きた元日時点の6市町の人口(11万9650人)の約1・2%にあたる。
1~2月の転出者は多い順に輪島市417人(前年同期196人)、七尾市405人(同200人)、珠洲市240人(同45人)、能登町163人(同57人)、志賀町129人(同82人)、穴水町95人(同22人)だった。
また、石川県は1日、2月1日時点の県内の人口は110万6278人で、地震発生の元日時点から1570人減になったと発表。内訳は死亡が出生を上回る自然減が1030人、転出が転入を上回る社会減が540人で、1971年4月の調査開始以来、自然減は過去最大、社会減は1月の数値としては過去最大だったという。
大森凡世(かずよ)能登町長は朝日新聞の取材に「ショックだ。生活の場を少しでも早く提供しない限りはこの状況は変わらない」と危機感をあらわにする。
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衆院予算委に臨む岸田文雄首相=2024年3月1日午後5時36分、岩下毅撮影
予算成立にこだわる岸田首相、弱体化を懸念か(朝日新聞 テーマ特集:岸田政権)2024年3月1日
新年度政府予算案をめぐる1日の審議は深夜に及んだ。年度内成立が確定する2日までに衆院を通過させようと自民が強行し、野党が抵抗したためだ。誰よりも2日の通過にこだわったのは岸田文雄首相本人だった。
1日の衆院本会議は、拍手とヤジ、双方が飛び交う騒然とした雰囲気となった。
「予算審議は円満にやってきたのに、強行するなんてありえない」
立憲民主党の山井和則氏の衆院本会議での「演説」は、記録が残る1972年以降最長の2時間54分間にわたった。小野寺五典・予算委員長(自民)の解任決議案を説明する場だが、国会混乱の発端は裏金問題にあるとして、裏金作りに関わった自民議員を一人ずつ読み上げて指弾した。
自民の強行に対し、野党はそろって批判した。日本維新の会の馬場伸幸代表は「原因は与党にある」と指摘。国民民主党の玉木雄一郎代表も「上半身は謝っているけれど、下半身は蹴飛ばしているような対応だ」と首相の姿勢を批判した。
ただ、この日深夜、立憲は態度を軟化させ、2日の採決に応じた。
強行は首相の強い意向とされる。年度内の自然成立のめどが立たないまま衆院を通過すれば、その後の参院審議でも野党の攻勢にさらされる可能性がある。自民幹部は「何か一つでも問題が起きて審議が止まれば、とたんに見通せなくなる」。野党側は、二階俊博元幹事長や萩生田光一前政調会長らの参考人招致を求めており、こうした要求にも応じざるをえない可能性が出る。
首相自ら衆院政治倫理審査会(政倫審)に出席したり、政倫審と同時並行で予算委を開催したりするなど異例の対応が続いたことも、予算案の年度内成立を確定させたいとの強い思いの表れだ。
そこまでして自然成立にこだわるのはなぜか。首相周辺は「年度内成立ができなければ、政権の統治能力が問われ、内閣支持率がさらに下がりかねない」と危機感を漏らす。参院中堅が「ここまで自然成立にこだわるのは、政権の弱り具合を首相自らが認識しているからだ」と指摘するように、自然成立が確定できなければ政権の弱体化に拍車がかかる。
とはいえ、こうした事態を招いたのも首相自身だ。強行姿勢を続ける首相に対し、自民重鎮はこう指摘した。「判断が遅すぎる。派閥解散にしてもそう。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)もそう。対応がすべて後手に回っている」(三輪さち子)
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繰り返す「在日特権」論は100年前のドイツと同じ 社会保障の行き詰まりを「あいつらのせい」に転嫁(東京新聞)2024年3月1日
根強く繰り返される「在日特権」という言説。だが、税制面で���特権について国税庁は2月28日、国会で「ない」と明言した。昨年11月には自民党の杉田水脈衆院議員が「実際には存在します」とX(旧ツイッター)に投稿するなど、保守系国会議員やネット右翼らの「ある」という主張はやまないが、政府が公式に否定した格好だ。杉田氏を含む裏金議員の問題が問われた政治倫理審査会開催の日に、本当の特権は誰にあるか考えてみた。(岸本拓也、西田直晃)
◆国税庁が国会できっぱり否定
「国税当局が、対象者の国籍や特定の団体に所属していることをもって特別な扱いをすることはない」
「在日特権」について「ない」と答弁した国税庁の田原課税部長=衆議院インターネット審議中継の動画から
在日コリアンらへの憎悪をあおる悪質なデマとして知られる「在日特権」について議論された28日の衆院予算委員会分科会。高橋英明氏(日本維新の会)が、税制面の優遇などがあるのかとただすと、国税庁の田原芳幸・課税部長はきっぱりと否定した。
高橋氏が「朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)とか、それに関わる法人個人にも一切の優遇措置はないのか」と重ねて問うと、田原氏は「繰り返すが、特定の団体なり、その会員に対して、特別な取り扱いをすることはない」と明言した。
在日特権は、在日コリアンが、日本社会で優越的な「隠れた特権」を持っているとする言説で、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などが主張してきた。内容はデマにあふれ、ネットの検索動向を示すグーグルトレンドによると、14年をピークに世間の関心は薄れていった。
◆杉田水脈氏の「存在する」発言で再燃
しかし、特定民族などへの数々の差別発言で知られる自民党の杉田水脈衆院議員が昨年11月、X(旧ツイッター)で在日特権は「実際には存在します」などと投稿して批判を受けると、その言葉がにわかに注目された。
ただ、これまでも特権の存在は、ことごとく否定されてきた。在特会がやり玉に挙げてきた在日コリアンらに認められている「特別永住資格」もその一つ。1991年の出入国管理特例法で定められ、一般の永住者と違い、入国審査時の顔写真の撮影や指紋採取などが免除される。
韓流ショップや韓国料理店が並ぶ新大久保で、旭日旗などを掲げてデモ行進する在日特権を許さない市民の会(在特会)=2013年3月17日、新宿区で
これらは特権なのか。特別永住者について議論された2014年10月の参院内閣委員会で、山谷えり子・国家公安委員長(当時)は「特別永住資格は特権ではなく、法律や通達に基づくもの」と答弁。当時、在特会関係者と一緒に写真撮影したことが問題視された山谷氏でさえ、特権とは言わなかった。
◆特別永住資格には「歴史的な背景がある」
改めて出入国在留管理庁に聞くと、担当者は「歴史的な背景がある話で、優遇や特権と呼ばれるものとは性質が異なる」と話した。
日本は1910年に日韓併合で朝鮮人を「日本国民」にして、労働力として日本で炭鉱労働などに従事させた。しかし、終戦後の52年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、在日コリアンらの日本国籍は剝奪された。
すでに日本に生活基盤のある在日コリアンらが引き続き暮らせるよう韓国政府と議論。その子孫を含め、安定的な生活が送れるように整備されたのが特別永住資格だった。先の担当者は「日本への定住性が強いことや、日本国籍を失わせてしまったことへの配慮は必要で、結果的に一般の永住者と違いが生じた」と説明した。
生活保護を巡っても在日コリアンが「優遇」されているとの主張もあった。改めて、厚生労働省保護課に尋ねると、担当者は「特別永住者だからゲタを履かせることはない。日本人と同じように、支給要件に合致すれば出すし、しなければ出さない」と否定した。
◆「荒唐無稽なデマ、口にする国会議員がいることに驚き」
在日特権は存在しない。政府があらためて示す見解に対し、ジャーナリストの安田浩一氏は「そもそも、この文言をまだ持ち出す人がいることに驚き。荒唐無稽なデマに過ぎないのに。ましてや国会議員が口にするのは異常としか言いようがない」と絶句する。
その上で、在日コリアンの置かれた現状について、「現実には多くの在日コリアンが日本国籍を取得している。優遇措置が存在するなら、わざわざ日本国籍を取得する必要はない。むしろ、日本人と同様に税金を払いながらも、外国人参政権がなく、政治参画の機会すら持てない。そちらのほうが問題だ」と指摘。「マイノリティーがこうした差別を訴えると、『不当な利益を求めるな』という主張が横行しがち。現代における差別扇動の典型的な表現だ」
◆差別のために妄想とデマを寄せ集める、レイシストの作法
ネット右翼の中には、過去に一部の自治体が行っていた在日コリアンへの税の減免措置を「特権だ」と決め付ける言説もある。安田氏は「植民地時代に国籍を一斉に剝奪され、終戦直後には社会保障から排除された無権利状態だった。行政による必要な措置であり、それは特権でも何でもない。在日コリアンを差別したいがために、あらゆる妄想の産物やネット上のデマを寄せ集め、形式的な理由をつくり、武装して差別の正当化を図る。それがレイシストの作法だ」。
今回も、国税庁が在日特権を公式に否定したにもかかわらず、いぜんネット上には、「実質的に特権まみれ」「通名悪用すればいくらでも悪さできる」「ナマポ(生活保護)在日に優先してんじゃん」といった書き込みがあふれる。こうした排外主義的な動きの源泉に何があるのか。
「ヘイトは愛国心の発露ではなく、『政府は私を大事にしてくれるのか』という不安感の裏返しでは」と語るのは、駒沢大の山崎望教授(政治理論)。「社会保障や安全保障の行き詰まりを考えたとき、国に見捨てられる恐れが潜在意識の中にある。その点が日本人と関係のない人々の排除に向かっていく」
東京造形大の前田朗名誉教授(人権論)は「『日本人が損している』『本来得られるはずの利益が得られていない』といった思い込みが背景にある。下に見ている旧植民地出身者に目を付け、そのいびつな感情を『あいつらのせいだ』と転嫁している。100年前のドイツでも、ユダヤ人に対して同じ見方をしていた。世界中どこでも起きうる現象形態だ」と話す。
◆「特権があって当然」という思いがあるからでは
本来なら、政治家はこうしたヘイトやレイシズムに歯止めをかける立場だ。だが、岸田文雄首相が22年に杉田氏を総務政務官に起用するなど、自民党内には、歯止めをかけるどころかヘイトを容認したり、拍車をかけるよう動きや発言が後を絶たない。
前田氏は「一部の地方議員にも排外的な言説をあおる動きがあるが、『差別するつもりはない』という言い訳がまかり通っている。歴史認識の違いで済まされてしまい、議論が成立しないまま、差別と迫害につながっていく」と危ぶむ。
2月29日から岸田首相らが出席して始まった政倫審では、「政治資金は非課税」といった政治家への税制上の優遇措置も問われている。安倍派から寄付された計1564万円が政治資金収支報告書に不記載だった杉田氏、同氏を重用した安倍晋三元首相の名を冠した安倍派の幹部らは裏金疑惑にまみれている。存在しない特権を唱えたり黙認したりしてきた側が、「政治家特権」を享受してきた。
山崎氏は言う。「政治家には『特権があって当然』という思いが多かれ少なかれあるのでは。特権を持っていい人、よくない人という線引き、奇妙なおごりや選民意識が見え隠れする。非常にゆがんだ意識だ」
◆デスクメモ 「在日特権」などのヘイト言説は、旧ツイッターなどで根強く使われる。根拠を示さず短く攻撃的に言い切ってしまう危うさ。旧ツイッターより8字少ない132字制限のこのメモを5年9カ月書いてきて、痛感している。自分はきょうで最後。今まで本当にありがとうございました。(歩)
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arakawalily · 2 years
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お料理一皿一皿、全てに魔法もかかっていました❣️楽しい謎解きを一部動画でご紹介❣️こんなにアートフルなフレンチレストランは初めての体験🇫🇷 @legiantokyo 渋谷の天空のフレンチレストラン🇫🇷レギャン東京さんへ❗️ レギャン東京は、最上cocotiビル最上階に位置し、彩り溢れる緑や木々に囲まれたスカイガーデンテラスから摩天楼を一望できる、大都会“TOKYO”とバリリゾート❗️産地にこだわり素材の旨味をしっかりと引き出した“五感で味わうフレンチ”コースです❗️ 落ち着きがありながら印象的な内装と美しい眺望はお祝いの席に最適ですビル最上階!五感で楽しむイノベーティブ・フュージョンレストラン! 『味覚』『視覚』『嗅覚』『聴覚』『触覚』の五感すべてで感じることができる芸術的なコースに舌鼓❣️ まず驚いたのがお品書きがイラストで暗号化されています。謎解きのようなメニュー❣️ 🌟五感を刺激するイノベーティブ・フュージョンプラン 12800円 【序章=prologue=】 奥多摩虹鱒のグジェールサンド 本を開けば始まるストーリー 洋書を模した箱を開けると、グジェールサンドとおしぼり。檜の香りのおしぼりで手を拭いてからいただくと虹鱒の風味に檜の香りが加わります。 【鏡開=kagamibiraki=】 ポルチーニ茸のポタージュ ポルチーニが濃厚に香る幸せのスープ 【晩冬=crystal of snow=】 蝦夷鹿のパテアンクルート 絵を仕上げる楽しさ❗️ ここに土を模した塩と雪を模した粉状のオリーブオイルで絵を完成させてくださいとのこと。 そしてお皿とは別にドライアイスが入ったポットにローズマリーを入れて、その香りとともにいただきます。 【途次=on the way=】 イトヨリダイのポワレ フレンチ王道のブールブランソースに柚子の香りが加わること益々芳醇に❗️ 【小休止=brief pause=】 季節のアサイーグラニテ  【熾火=charcoal fire=】 鴨胸肉の炭火焼きローストと黒トリュフリゾット縮緬キャベツと、備長炭蓮根 柔らかな鴨の旨味。表面はパリパリ香ばしいです。 鴨とオレンジの香水をふりかけて❗️ 【有終=ending=】 天使のミルフィーユプレート さらに液体窒素で花を瞬間冷凍し、ミルフィーユに花びらをかけるという、楽しいプレゼンテーションでした❗️ 🍹ドリンク追加 1杯 1380円 自家製レモンスカッシュ 自家製ノンアルサングリア ミックスベリーヴァージンモヒート シンデレラ(シンデレラ気分になる魔法のカクテル🍸) #イノベーティブフュージョン #ザレギャントーキョー#supported#東京フレンチ#渋谷グルメ#レギャントーキョー #渋谷デート #渋谷記念日 #レギャン東京 #渋谷女子会 #渋谷フレンチ #東京グルメ レギャントーキョー#荒川リリー#lilystudio @legiantokyo (レギャントーキョー) https://www.instagram.com/p/CnHXWS-SYA2/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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chishiru61 · 2 years
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2022年に見た展覧会
0102 民藝の100年+MOMATコレクション@MOMAT 0108 ハリーポッターと魔法の歴史@TSG ★0108 白井晟一入門 第二部@渋谷区立松濤美術館 0108 ザ・フィンランドデザイン展―自然が宿るライフスタイル 0110 大英博物館ミイラ展@国立科学博物館 ☆0116 大・立石タイガー展 世界を描きつくせ!@うらわ美術館 ☆0116 大・立石タイガー展 世界を描きつくせ!@MOMAS 0116 梅津庸一展 ポリネーター@ワタリウム美術館 ★0122 久保田成子展 Viva Video!@MOT ★0122 クリスチャン・マークレー トランスレーティング/翻訳する@MOT ☆0122 ユージーン・スタジオ 新しい海@MOT 0128 ミケロ・バルセロ展@東京オペラシティアートギャラリー 0129 矢萩喜從郎 新しく世界に関与する方法@神奈川県立近代美術館 葉山 0129 フィリア―今道子@神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 0206 松岡コレクションの神髄@松岡美術館 0206 奇想のモード@東京都庭園美術館 ★0213 ミロ展 日本を夢見て@Bunkamura ザ・ミュージアム 0213 メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年 0227 グランマ・モーゼス展+ART/MUSIC@世田谷美術館 0305 木村伊兵衛と画家たちが見たパリ 色とりどり@目黒区立美術館 0306 ドレスデン国立古典絵画所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展 0306 特別展 ポンペイ@東京国立博物館 0312 建部凌岱展 その生涯、酔たるか醒たるか@板橋区立美術館 0325 兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~@京都市京セラ美術館 0325 挑む浮世絵 国芳から芳年へ@京都文化博物館 0326 ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント@名古屋市美術館 0327 GILBERT & GEORGE CLASS WAR, MILITANT, GATEWAY SELECTED WORK FROM THE COLLECTION@エスパス ルイ・ヴィトン東京 0401 はじまりから、いま。1952-2022@アーティゾン美術館 0415 上野リチ ウィーンから来たデザイン・ファンタジー展@三菱一号館美術館 0416 生誕100年 朝倉摂展@神奈川県立近代美術館 葉山 0416 山口蓬春と四季の移ろい@山口蓬春記念館 0416 山口勝弘展―『日記』(1945-1955)に見る@神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 0417 日本画トライアングル 画家たちの大阪・京都・東京@泉屋博古館 東京別館 0417 ダミアン・ハースト 桜@国立新美術館 0423 Chim↑Pom展:ハッピースプリング@森美術館 0423 2121年 Futures In-Sight展@21_21 DESIGN SIGHT 0425 Chim↑Pom展:ハッピースプリング ミュージアム+アーティスト共同プロジェクト・スペース 0430 アール・デコの貴重書@東京都庭園美術館 0430 東京の猫たち@目黒区立美術館 ☆0501 カラーフィールド 色の海を泳ぐ@DIC川村記念美術館 0502 没後50年 鏑木清方展+MOMATコレクション@MOMAT ☆0503 ふつうの系譜 京の絵画と敦賀コレクション@府中市美術館 0504 SHIBUYAで仏教美術@渋谷区立松涛美術館 ★0504 カナイフユキ 個展 『ゆっくりと届く祈り』@GALLERY X 0507 空也上人と六波羅蜜寺@東京国立博物館 0508 燕子花図屏風の茶会 昭和12年5月の取り合わせ@根津美術館 0515 シダネルとマルタン展@SOMPO美術館 ★0522 特別展 モディリアーニ―愛と創作に捧げた35年―@中之島美術館 0522 森村泰昌:ワタシの迷宮劇場@京都市京セラ美術館 新館 東山キューブ 0529 ボテロ展 ふくよかな魔法@Bunkamura ザ・ミュージアム 0604 吉阪隆正展 ひげから地球へ、パノラみる@MOT 0604 生誕100年 特撮美術監督 井上泰幸展@MOT 0617 特別展「宝石 地球がうみだすキセキ」@国立科学博物館 0624 スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち 0624 木梨憲武展@上野の森美術館 0625 生誕100年 朝倉摂展@練馬区立美術館 ☆0626 セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策@アーティゾン美術館 0626 Transforamtion 越境から生まれるアート 0630 2022イタリア・ボローニャ国際絵本原画展@板橋区立美術館 0702 牧歌礼讃 / 楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン + 藤田龍児@TSG 0702 日本の映画館@国立映画アーカイブ 0707 孤高の高野光正コレクションが語る ただいま やさしき明治@府中市美術館 ☆0713 スイス プチ・パレ美術館展@SOMPO美術館 ☆0715 特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界@森アーツセンターギャラリー ☆0717 クマのプーさん展@PLAY!MUSEUM ☆0718 蜷川実花 瞬く光の庭@東京都庭園美術館 0718 アヴァンガルド勃興@東京都写真美術館 0718 メメント・モリと写真―死は何を照らし出すのか@東京都写真美術館 0722 ガブリエル・シャネル展 MANIFESTE DE MODE@三菱一号館美術館 0723 自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで@NMWA 0725 故宮の世界@東京国立博物館 0727 深堀隆介展 金魚解禁 日本橋@日本橋三越 0803 もしも猫展@名古屋市博物館 0803 国際芸術祭 あいち2022@愛知県美術館 0806 ゲルハルト・リヒター展+MOMATコレクション@MOMAT 0807 津田青楓 図案と、時代と、@渋谷区立松涛美術館 0814 こぐまちゃんとしろくまちゃん 絵本作家・わかやまけんの世界@世田谷美術館 0820 ライアン・ガンダー われらの時代のサイン@東京オペラシティ アートギャラリー 0823 長谷川潔 1891-1980展―日常にひそむ神秘―@町田市立版画美術館 0827 かこさとし展 子どもたちに伝えたかったこと@Bunkamura ザ・ミュージアム 0917 ルートヴィヒ美術館展 20世紀美術の軌跡—市民が創った珠玉のコレクション@国立新美術館 0919 日本美術をひも解く@東京藝術大学大学美術館 0919 芸術×力 ボストン美術館展@東京都美術館 0919 キース・ヴァン・ドンゲン展@パナソニック汐留美術館 ★1002 生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎 @アーティゾン美術館 ★1008 ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展@NMWA 1009 ジャン・プルーヴェ展 椅子から建築まで@MOT 1009 MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ@MOT 1022 旅と想像/創造 いつかあなたの旅になる@東京都庭園美術館 ★1023 装いの力―異性装の日本史@渋谷区立松濤美術館 1029 イッタラ展@Bunkamura ザ・ミュージアム ☆1029 国立新美術館開館15周年記念 李禹煥@国立新美術館 1029 日本の中のマネ ―出会い、120年のイメージ―@練馬区立美術館 1110 クマのプーさん展@名古屋市美術館 1110 ジブリパークとジブリ展@愛知県美術館 1123 展覧会 岡本太郎@東京都美術館 1124 アーツ・アンド・クラフツとデザイン ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・ライトまで@府中市美術館 1126 マリー・クワント展@Bunkamura ザ・ミュージアム 1127 国宝 東京国立博物館のすべて@東京国立博物館 1202 つながる琳派スピリット 神坂雪佳展@パナソニック汐留美術館 1204 川内倫子展 M/E@東京オペラシティ アートギャラリー ☆1206 雰囲気のかたち@うらわ美術館 1206 桃源郷通行許可証@MOMAS 1210 響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―@静嘉堂文庫美術館 1217 瞳に映るファンファーレ ―浜口陽三の銅版画と川瀬巴水をはじめとした新版画―@ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション 1217 ヴァロットン 黒と白展@三菱一号館美術館 1218 善本 喜一郎 写真展 東京タイムスリップ 1984 ⇔ 2022@OM SYSTEM GALLERY 1218 おいしいボタニカル・アート@SOMPO美術館
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藤井賢二(島根県竹島問題研究顧問)
戦後の日本漁船拿捕
 戦後、多くの日本漁船が周辺諸国によって拿捕され、乗組員が抑留された。その数は、昭和20年から40年の20年間で、中国によるもの187隻(2���33人)、南朝鮮・韓国327隻(3911人)、台湾51隻(680人)、ソ連1164隻(9808人)に上った(『海上保安庁三十年史』昭和54年など)。
図①
は韓国に拿捕された漁船の位置を示したものである(昭和29年末まで)。韓国の拿捕は対馬北方から東シナ海北部そして黄海南部にかけての広い海域で行われ、とりわけ済州島周辺に集中している。
 東シナ海から黄海にかけては中国による拿捕も多発したが、西日本の漁業者にとって両国の拿捕・抑留の印象は異なる。どちらも漁船が銃撃を受けることがあり、韓国の拿捕では8人が死亡した(森田芳夫『日韓関係』48年。後の日本政府による補償認定では、昭和30年2月14日に五島沖で韓国艦艇に追突されて沈没した第6あけぼの丸の死者21人も加えられた)。
 一方、中国の場合は拿捕時に16人もの死者が出た(『日韓漁業対策運動史』昭和43年)にもかかわらず、「日中漁業問題には日韓漁業問題のような陰鬱さがない」と関係者は記す(『日本遠洋底曳網漁業協会二拾年史』43年)。
 日韓漁業問題の「陰鬱さ」の理由は三つある。まず、韓国の待遇の劣悪さ、とりわけ貧弱な食料事情と最長3年半を越す抑留期間の長さ。次に、中国による拿捕が昭和30年の日中民間漁業協定で実質的に終結したのに対して、韓国の場合はその10年後の40年に日韓漁業協定が結ばれるまで、漁業者は拿捕の危険性に怯えねばならなかったこと。そして、抑留者を利用した韓国の「人質外交」(日韓会談代表で後に韓国の外相を務めた金東祚が1986年刊『回想三十年 韓日会談』で使用した言葉)に日本が振り回されたことで 
ある。
 この「陰鬱さ」から日韓関係を考えるのが小文の目的である。
 ただし、中国による拿捕・抑留には思わぬ弊害があったことは触れておかねばならない。日本人漁船員に対する思想教育である。
 昭和28年9月18日に博多に帰還した漁船員たちは「中共支給のレーニン帽と工人服に身を包んだまま…略…押し寄せた家族の喜びの呼びかけにも、一切物いわず、ただただ、腕を上下に振り、身を左右にゆすって、中国解放の歌や労働歌を、つぎからつぎから歌いまくるやら、中共礼賛の演説をぶつばかり」という光景があった(アサヒグラフ28年10月7日号)。
 26年に約4カ月間中国に抑留された元漁船員は、中国の待遇はよかったと回想し「思想教育など受けた覚えはないが、それでも最近まで中国を良い国だと思っていた」と私に語った。漁業者たちの「異文化体験」は、戦後日本が置かれた状況を考えるための貴重な資料である。 マッカーサーラインへの便乗
 「韓国人はたたく」。元漁業者への取材中、一人の言葉に周囲もうなずいた。日本人漁船員すべてが受けたのではないにせよ、韓国による拿捕時の暴行の記憶は元漁業者たちに共有されている。
 日本を占領支配していた連合国軍総司令部(GHQ)の文書の一つ「Korean seizures-Petitions」に5件8隻の拿捕事件の報告がある。うち3件で取り調べ時の暴行の証言がある。次は瑞穂丸船長報告の一部である。瑞穂丸は23年5月14日に拿捕され済州島に連行された。
 「私は警備船に呼ばれ、東経一二六度一二分、北緯三二度四八分に同意し捺印を求められたが、其の位置が事実と全く相違しているので、其の訂正を乞ふた処、警備船士官二名は顔面を十回位殴打し、口中よりは血を出し其の上堅木にて全身を乱打意識不明となる。
 余りにも無謀なる処置に唖然としました。此の状態では到底我々の意を解する事は絶対になく、意見を主張すればする程却って激昂し身に危険を感ずる計りと考へまして、不本意ながら右警備船の位置に同意しました。警備隊員は無線機、航海用具、船員私物等悉く持去りました(略)。
 十六日西帰浦より済州に回航当時本船に(士官一名下士官兵七名)計八名が懲戒の為乗組んだのであります。八名の三食を本船にて給与せねばならないので配給で限度のある為一食にはトウモロコシを入れたので其れに憤慨して我々に雑穀を入れて出した。馬鹿にしている。船長が命令したのであろうと云って、堅木にて十四、五回までは意識あるも後は意識不明となる」
 瑞穂丸の船長は、報告書の最後を、日本人乗組員が暴行を受けた理由について「外に此れという理由もありません。朝鮮人は日本人に如何に虐待を受けて来たかにあるようであります」と結んだ。35年間の日本の朝鮮統治に対する〝報復〟が東シナ海の海上で行われていた。
 韓国(当時は南朝鮮過渡政府)が拿捕位置の確認を強要したのは、瑞穂丸のマッカーサーライン違反を認めさせようとしたからである。
 マッカーサーラインは昭和20年に総司令部が日本漁船の操業の限界線として設定したもので、韓国とは本来無関係なものであった。25年1月19日に総司令部は「公海における日本の漁労活動は総司令部の命令によってのみ管理される」と日本漁船拿捕停止を韓国に求めた。マッカーサーラインを日韓の国境のように誤解し、連合国(=戦勝国)ではない韓国が連合国のようにふるまうことは日韓関係に悪影響を与えると、総司令部は危惧していた。
 しかし、同6月に始まる朝鮮戦争で国連軍(米軍)がまきかえすと、同12月に韓国は日本漁船拿捕を再開した。日本の漁業者は、米国の「防共の第一線に立つ韓国への甘やかし」が韓国の横暴を招いたと憤った(『日韓漁業対策運動史』)。
李承晩ライン宣言
 昭和27年1月18日に韓国は李承晩ラインを宣言、広大な水域からの日本漁船排除をめざした。彼らが既得権益と考えたマッカーサーラインが、韓国の度重なる米国への要請にもかかわらず、同4月28日の日本の主権回復により消滅確実となったための措置であった。
 李承晩ライン宣言とは、外交交渉で得られなかったものを一方的な宣言によって獲得しようとした極めて非常識なものであった。そして韓国は、宣言の1カ月後の日韓会談(日韓国交正常化交渉)で、李承晩ラインを「既成事実」として日本に突き付けて認めさせようとした。
 日本は資源保護のため一部漁業の禁漁区域と禁漁期間を設けることを提案したが韓国はこれを受け入れず、すべての日本漁船の操業禁止区域設定を求めたのである。
 韓国の強引さの背景には水産業の重要性があった。水産物輸出は朝鮮戦争前には韓国の総輸出総額の7割を占め、外貨獲得の柱として期待されていた(大韓民国公報處『週報』八 1949年)。遠洋漁業振興のため、東シナ海から黄海にかけての好漁場に日本漁船が操業できない区域を作り、その漁業資源を独占することは、韓国の悲願だった。
 すでに1948(昭和23)年の建国前から「遠洋漁業には済州島西南東シナ海のトロール漁場の開拓と南氷洋捕鯨漁業の進出の二つがある」とし、このトロール漁場に「我が戦士を進出させ、日本漁夫の侵略企図を防止せねばならない」と韓国の水産行政担当者は主張していた(同1月11日付東亜日報)。
 このトロール漁業とは底曳網漁業の一種で効率のよい漁業であった反面、資源を枯渇させるため沿岸漁業者との紛争を明治以来おこしてきた。朝鮮総督府は沿岸漁業保護のため、トロール漁業禁止区域
=図②=
を定め、また朝鮮への導入を許さなかった。しかし、韓国政府は建国後すぐにトロール漁船を購入して遠洋漁業振興の姿勢を示した。
 李承晩ライン原案の「漁業管轄水域案」
=図③=
は、日本の批判を弱めるため朝鮮総督府のトロール漁業禁止区域を基礎とした。そして東シナ海北部から済州島南部までの底曳網漁業の好漁場をそれに加えて突出させ、好漁場の独占をめざした。
 朝鮮戦争で国土が荒廃した韓国にとって、資源に恵まれた水産業にかける期待は大きかった。「韓国の水産業は正常に生産活動を行っているおそらく唯一の産業」という総司令部の当時の評価が残されている。
抑留者の辛苦
 拿捕が最も多発したのは昭和28~30年の3年間で、1年に500人前後の日本人が抑留された。この時期、日本の朝鮮統治にもよい面があったと述べた28年の「久保田発言」を理由に韓国は日韓会談を決裂させていた。30年に韓国は対日貿易全面禁止や日本漁船に対する砲撃声明を打ち出すなど日韓関係は最悪の状態に陥った。
 29年からは、韓国は拿捕の法的根拠としていた漁業資源保護法で定めた刑期が終了したにもかかわらず、漁船員を釜山の外国人収容所に抑留する措置をとった。そのため抑留漁船員の数は900人を越えた。
 この時期に拿捕された漁船員の回想・記録の一部を紹介する。
 「韓国警備艇というのは無茶苦茶でしたね。拿捕された時は、本当に情けなくなりましたね。海賊船以上ですわね。だって国を守り正義を尽くさねばならない警備艇がですよ、僕らの船にパッと横付けして、目を覚ませば、僕らの草履はないわ、もう茶碗、食器類、全部ないんですからね。ただ寝具が残っていただけですからね。あれには、僕は往生しました」=金毘羅丸乗組員。30年11月25日に対馬南方で拿捕(『山口県史資料編現代二』平成12年)。
 「刑務所での厳しい生活は、体が覚えている。『六畳の板の間に三十人がいて、夏は暑く、冬は寒くて大変。禁固刑だから一日中部屋にいなければならず、つらかった』。しかも、当時の韓国は食糧が乏しく、食事は粗 末。三十人がおけ一杯の水で、一日を過ごさなければならないのもこたえた。刑を終えても、幾度となく思い浮かべた家族の待つ故郷には帰れず、釜山の外国人収容所に移送。刑務所に比べ、制約は穏やかだったが、衛生状態や食糧事情は悪く、結核になる人もいた。
 見えない行く末が不安を増幅させた。そんな中、心のよりどころとなったのが、家族からの手紙や物資。浜田の缶詰工場で、魚と紙幣を入れて密封した缶詰を送ってもらい、食料などを買って、疲れた心身を癒した。(略)『収容されていた三年余りは、本当に無駄な時間を費やした』」=第三平安丸乗組員。29年12月21日に対馬西方で拿捕(『フォトしまね』一六一平成18年)。
 収容所を管理する韓国人警察官の腐敗についての証言は多い。抑留者の命綱だった差し入れ品も荷抜きや没収されることがあった。
 30年には「月に三度の家族宛の便りが殆ど不着に終っていたが(当時竹島切手を強制的に貼らされた事もある)、不着の原因が年末に至り、(韓国人警察官が)貼付した切手をはがし再び我々に売りつけていた事実が判明」し、これに日本人が抗議したこともあった(『韓国抑留生活実態報告書』33年)。
 「外部との接触を厳重に禁止されている吾々は、彼等にとっては、絶好の鴨であったのである。公務員を通じて、物一つ購入するにも手数料を取られ、差入れ品や慰問小包品を安く買い取られる等、間接に吾々抑留者が警察官や刑務官の生活を支えていた」(『日韓漁業対策運動史』)。   
 31年には「九月五日に抑留漁船員二人が強制送還によって大阪港に帰国した。二人とも結核におかされ、精神に異常をきたしていた。十月二日に抑留漁船員の妻が、悲嘆のあまり自殺した。さらに、罹病し病勢悪化が家族あての音信によって判明したので、外務省を通じて韓国政府に特別送還を申し入れてあった抑留漁船員が、十二月七日に遂に死亡した」(『日韓漁業対策運動史』)。
 当時、韓国は李承晩ラインを、日韓間に公平な境界線を引いて紛争を防止する「平和線」と呼んだが、日本にとりこの名称は皮肉そのものであった。28年に設立されていた日韓漁業対策本部は30年12月に李ライン排撃行動大会を挙行した。翌年6月には抑留船員留守家族が上京して陳情し、国際赤十字社への働きかけも行った。事態打開を求める日本政府への声は切実だった。
韓国の「人質外交」
 韓国の「人質外交」 が最も「成果」を上げたのが「三十二年十二月三十一日の合意」だった。当時、刑罰法令違反による退去強制者や送還される不法入国者の受け取りを韓国が拒否したため大村入国者収容所が「超満員」で、日本は韓国のもう一つの「人質外交」に困っていた。
 32年末の合意によって、不法入国者(1002人)と漁船員(922人)の相互送還が行われ、日本は大村収容所にいた本来は国外退去になるはずの在日韓国人刑罰法令違反者(刑余者)474人を仮放免し、彼らに��して在留特別許可を与えた。また、日本が「久保田発言」を撤回し、さらに日本人が韓国に残した財産に対する請求権を撤回することで、日韓会談を再開することも約束された。
 当時駐日韓国代表部代表だった柳泰夏は「請求権、平和線など、この時我々の要求がほとんど九〇%程度受け入れられた」「(この合意で)韓日会談は始まったと言っても過言ではない」(『現代史の主役たちが語る政治証言』1986年 ただし李承晩ラインを日本は認めてはいない)と回想した。この駐日代表部は昭和24年に戦勝国であるかのように総司令部に対して派遣されたもので、日本が独立しても退去しなかった。
 交渉カードとしての李承晩ラインがこのような破壊力を持つことに、宣言前から韓国が気づいていたかは、わからない。ただ、「政治というものがこうしたブラッフ(はったり)とバーゲン(駆け引き)の連鎖であるとするならば、彼は当代一流の政治家であることはまちがいない」(宍戸寛『評伝 李承晩』中央公論昭和31年2月号)と、当時の日本人が評した李承晩大統領は、日本にとって容易ならざる相手ではあった。
 韓国の「人質外交」の犠牲となった日本人漁船員は帰還後も苦しんだ。35年5月3日付西日本新聞には「抑留されていると、ひどい栄養��調におちいる。主食といえばダイズ、ムギの混合食、ミソ汁といえばなかみがほとんどないナイロン汁―これを長い間食べていたのではどんな丈夫なものでもたまらない」という証言を紹介し、32年末の合意で帰国して2年以上たっても、100人近くが病気と失業にあえいでいるとある。同記事はまた、韓国に漁船を没収された自営の船主が先の見通しが立たずに途方に暮れている様子や、経営の安定している会社に勤めていても、抑留されていた3年間の操業技術の進歩に戸惑い仕事に不安を漏らす船長の声を伝えている。 
日韓漁業交渉の難航
 李承晩政権が1960(昭和35)年に倒れて国交正常化に積極的な朴正熙政権が登場したが、依然として日本漁船拿捕は続き、37年に請求権問題に目途がついた後も漁業交渉は難航した。それは、「日韓会談とは実は日韓漁業会談だ」とある歴史研究者が喝破したほどだ。
 東シナ海・黄海の好漁場を独占しようとする韓国の要求は、「領海三海里、公海自由」が一般的であった1950年代の国際社会で認められるはずはなかった。
 韓国は漁業資源保護のためと主張したが、李承晩ライン宣言は隣接公海での漁業資源保護のための規制は関係国と協議して行うという国際常識を無視した一方的なもので、世界各地で漁船が操業していた日本はとうてい容認できなかった。
 結局、昭和40年の日韓漁業協定で、日本は朝鮮半島近海に距岸12海里までの漁業専管水域を認め、さらにその外側に距岸40海里までの共同規制水域を設けた(「戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか」地図B)。日本が12海里漁業専管水域を認めたのはこれが初めてであった。1960年代に世界各国が結んだ漁業条約では漁業専管水域設定が一般的になったことが、この背景にあった。
 平たく言えば、日韓漁業協定で日本は最大で距岸200海里もある李承晩ラインを12海里まで押し込んだのだが、そのためには韓国漁業振興のための日本の漁業協力(援助)が必要だった。韓国の要求の根底にあるのは、日韓間の漁業の絶望的ともいえる格差だったからである。
 日韓漁業協定締結に合わせ、日本は韓国に9000万㌦の民間資金による漁業協力、漁船の輸出禁止の解除、そして水産物輸入を拡大することになった。昭和37年の「金・大平合意」で決定した3億㌦の無償「請求権資金」のうち9・1%が水産業へ投入された。その6割が「漁船導入および建造および改良」に充てられ、1966(昭和41)~75年に建造された3299隻の漁船のうちトン数で49・2%が「請求権資金」によるものであった。
 こうして「小型漁船で沿岸漁業に従事するにすぎなかった」韓国漁業が、「我が国漁業の遠洋漁業への進出は請求権資金による大型漁船導入によりさらに活発に展開され、近海漁業においても先進漁業国の日本と相互牽制」できるようになった(『請求権資金白書』1976年)。
 1950(昭和25)年に李承晩が「マッカーサーラインのあちら側では日本人漁船が海を覆って魚を獲っているのに、こちら側では船一隻見ることができない」(『大統領李承晩博士談話集』1953年)と嘆いた状況は過去のものになった。それどころか昭和50年代後半から、北海道や西日本の沿岸漁業者は韓国漁船の操業に悩まされることになる。
 漁業交渉が難航したもう一つの理由は、韓国の世論が李承晩ラインを国境線と誤解して日韓会談妥結に反対したことだった。「平和線の譲歩は領土の縮小を意味する」という主張に対し、韓国の与党は、そのような主張は「大韓民国を国際的に嘲笑の種にして孤立化させる仕打ちとしか見ることができない」と強くたしなめねばならなかった(「韓日国交正常化問題-韓日会談に関する宣伝資料 補完版一」1964年)。
 昭和27年の李承晩ライン宣言(正式名称・隣接海洋に対する主権に関する宣言)後、韓国は米国はじめ諸外国の抗議を受けて主権の主張を撤回し、「主権」とは「漁業管轄権」のことだと、苦しい言い逃れをした(漁業管轄権も当時は国際的に認められておらず、日韓会談で韓国は日本に論破された)。しかし、日本に対する「元気のよい意見」(日韓会談の兪鎮午・韓国代表の言葉)に押されて公海に主権を宣言するという失態を犯した事実は消えなかった。李承晩政権の対日政策を支えた「元気のよい意見」の後始末に朴正煕政権は苦慮することになったのである。
韓国への「苦い視線」
 漁業者団体は、拿捕による被害額を、昭和39年当時の評価基準で総額約90億円と算定した。内訳は、漁船の被害(未帰還船185隻の船体・付帯設備、帰還船142隻の修理費)24億円、積載物8億円、事件に伴う出費2億円、抑留中の賃金25億円、休業補償25億円、死亡障害補償5億円であった。この直接的被害に、「漁場への迂回、漁場の喪失、精神的負担など」間接的被害を加えると被害総額は約250億円を上回るとされる(『漁業で結ぶ日本と韓国』昭和40年)。
 被害を補償したのは加害者韓国ではなく日本政府だった。約90億円のうち拿捕保険などで処置済みのものを差し引いた被害額を、特別交付金40億円に加え、低利長期融資10億円という形で、被害者に補償したのである(『日韓漁業対策運動史』)。
 40年に結ばれた日韓条約中の請求権および経済協力協定では「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とある。そして同協定の合意議事録には、この「問題」には「この協定の署名の日までに大韓民国による日本漁船のだ捕から生じたすべての請求権が含まれており、したがって、それらすべての請求権は、大韓民国政府に対して主張しえない」とされていたからであった。
 一方で、この合意議事録では、この「問題」には「日韓会談において韓国側から提出された『韓国の対日請求要綱』(いわゆる八項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって、同対日請求権に関しては、いかなる主張もなしえない」とされていた。「韓国の対日請求要綱」の中には「被徴用韓人の未収金」や「戦争による被徴用者の被害に対する補償」があった。
 2012(平成24)年以降、韓国の裁判所は戦時中に徴用された韓国人労働者が日本企業に損害賠償などを求めた訴訟で、日本企業に対する元韓国人労働者の訴えを認める判断を盛り込んだ判決を言い渡している。日韓条約を遵守して漁船拿捕による被害の補償を韓国に求めない日本との違いは、あまりに大きい。
 昭和28年、李承晩大統領は渡韓した日本の水産業界代表に対して、「日本は四十年にわたって漁業を占有していたことに韓国人として不満がある」「四十年遅れたので、それを取り戻さねばならない」と日本漁船排除の正当性を強調した(「日韓漁業対策運動史」)。しかし、日本統治期の朝鮮漁業は「漁獲量世界第二位の水産大国」と後に韓国人が誇るほど発展したのであり、李承晩の非難は物事の一面にすぎない。
 そして、戦前を朝鮮で過ごしたある人物が、韓国の対日姿勢「にがり切りながら、歴史や民族のふしぎを考えています」と私への葉書で記したように、李承晩ライン問題によって、日本人の韓国に対する「苦い視線」=否定的評価は確実に増したのだった。
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memo2karamix · 3 years
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そのセレモニーは、新国立競技場に1台のバイクが颯爽と走ってくるシーンから幕を開けるはずだった。大友克洋氏の漫画『AKIRA』の主人公の愛車、赤いバイクだ。会場に映し出されるカウントダウンの数字。ゼロになると、中央のドームが開き、ステージに3人の女性が姿を見せる。Perfumeだ。会場には、彼女たちをプロデュースする中田ヤスタカ氏の書き下ろし楽曲が流れている。 Perfumeの出演は幻に終わった 全ての画像を見る(23枚)  精魂込めて作り上げた210分間のステージが、全世界の人々を虜にし、アスリートたちの背中を押していく。演出振付家・MIKIKO氏と彼女が率いてきたチームにとって、東京五輪の開会式はそんな晴れ舞台となるに違いなかった。 演出責任者だったMIKIKO氏  ところが、7月23日の夜8時に始まった実際の開会式は、MIKIKO氏が思い描いてきたものとは、全く別物になっていた。  彼女たちの演出案を間近で見てきた五輪組織委員会中枢の一人は、小誌の取材にこう漏らすのだった。 「どうして、こんなことになってしまったのか……」 ◇  演出責任者が次々に交代するなど、異例の経緯を辿った五輪開会式。その混乱は直前まで続いていた。 「本番4日前の7月19日に、作曲担当だった小山田圭吾氏が過去に“障がい者イジメ”を自慢するような発言をしていたとして辞任に追い込まれた。さらに7月22日には、ショーディレクターとして演出を統括していた小林賢太郎氏も、過去にコントでホロコーストを揶揄していたことが発覚し、解任されてしまったのです」(五輪担当記者) “障がい者イジメ”が発覚した小山田氏  東京五輪が掲げるメッセージを世界に打ち出し、アスリートが一堂に会する舞台だったはずの開会式。最高の演出を実現するために、多額の税金も投じられてきた。開閉会式などの予算は招致段階では91億円だったが、19年時点で130億円に増大。延期に伴って予算は増額され、165億円まで膨らんでいる。 「組織委の橋本聖子会長らは開会式が終わったことに安堵していますが、一件落着でいいはずがありません。実際には演出は迷走に迷走を重ね、予算も時間も浪費され、多くの人が傷ついた末に本番を迎えてしまったのです」(政府関係者) 組織委の橋本会長 MIKIKO案での森山未來  問題の根底には一体、何があるのか。小誌は今回、多くの関係者を通じ、昨年4月から今年7月にかけて作成された開会式の台本11冊を入手した。計1199頁に上る膨大な資料。そこから浮き彫りになったのは、開会式が“崩壊”していく一部始終だった――。 「本来なら、この台本で本番を迎える予定でした」  そう嘆くのは、MIKIKOチームの関係者。19年6月3日、能楽師の野村萬斎に代わり、演出責任者に起用されたのが、MIKIKO氏だった。 「この時点で、中身は全くの白紙状態。しかし、チームの総力を結集し、演出内容やキャスティング、衣装プランなどを固めていったのです」(同前)  それらをまとめたものが、IOCにもプレゼンした昨年4月6日付の台本だ。タレントの渡辺直美が「かっこよすぎ」と絶賛し、IOCのセレモニー担当者も「よくここまで作り上げた」と評価した“幻の開会式”。小誌4月8日号でも一部を報じたが、その完全版を改めて紹介しよう。 NY在住の渡辺直美  冒頭で触れたように、会場に赤いバイクが颯爽と走ってくるところで幕を開ける。Perfumeがステージ上でパフォーマンス。プロジェクションマッピングを駆使し、東京の街や張り巡らされた地下鉄の路線が次々浮かび上がる。 舞台上でダンスを披露する3人組。東京五輪開会式では決して見られなかったシーンだが……  ワイヤーフレームで作られた車で登場するのは、ダンサー兼歌手の三浦大知。映し出された三浦の顔が徐々に木の根へと変貌し、会場中に広がった根は巨木となって空へ向かっていく。  樹木の生命力そのままに女優・土屋太鳳と、世界的ダンサーの辻本知彦が舞う。茶室の形をした光るフレームにあわせて踊るのは、こちらも世界的ダンサー・菅原小春だ。 世界的ダンサーの辻本知彦氏や、朝ドラ女優の土屋太鳳も開会式に登場する予定だった  会場に現れた「ネオ東京」で跳躍するのは、ダンスユニット・東京ゲゲゲイ。フィールドには、大友氏が新たに描き下ろした「ネオ東京」も映し出されていく。  鈴の音とともに、会場の中央をスポットライトが照らす。光を浴びるのは俳優・森山未來。森山が舞うと、その動きにあわせて、周囲の空間に映し出された幾何学模様が波を打つ。 MIKIKO時代には、光っている杖を使ったパフォーマンスが予定されていた森山未來  64年大会の競技映像を振り返り、渡辺直美が「READY?」と合図を送る。女性ダンサーたちが、ひとりでに走る光る球と呼吸をあわせて舞う。  世界大陸を模したステージの合間を各国のアスリートが行進。天皇の挨拶が終わると、ステージが世界大陸から鳩のフォルムに。空からは、鳩を象った無数の紙飛行機が降ってくる。  競技紹介は任天堂の宮本茂代表取締役が監修し、スーパーマリオやインベーダーゲームのキャラクターのCGが盛り上げていく。 ピクトグラムだった競技紹介は、最先端のコンピューターグラフィックスも駆使した演出に  ステージは巨大な聖火ランナーの形へと三たび変化し、その周りをランナーが走る。最終ランナーがステージの心臓部に火を点けると、ステージを縁取るように花火が上がり、そびえ立つ聖火台が燃え盛る――。 「この企画案の特徴は、最新のテクノロジーと人間の身体表現とを絶妙に融合させていること。『コロナ前に作ったものだから派手にできた』と言われるかもしれませんが、そういう次元のものではありません。シーンの1つ1つが丁寧に作り込まれ、生命が吹き込まれている。一度で良いからホンモノを見て頂きたかった……」(IOC関係者) 表紙に〈Confidential〉の文字  ところがこの僅か1カ月後の昨年5月11日、MIKIKO氏は、電通代表取締役で「五輪事業を仕切ってきた」(電通関係者)髙田佳夫氏らによって“排除”されてしまう。代わりに責任者に就いたのが、髙田氏と電通同期のCMクリエイター・佐々木宏氏だ。 「衣装や舞台装置の準備を進めていたMIKIKOチーム案を再び白紙に戻したことで、億単位の費用が無駄になりました」(同前)  そしてこの後の台本では完成していた企画案が無残に切り刻まれ、MIKIKO氏は絶望してしまう。 「昨年8月18日、佐々木氏はMIKIKO氏を呼び出し、現状の案を説明しました。が、それは彼女の案を切り貼りしたものだった��です」(同前)  実際は、どういう内容だったのか。昨年10月4日付の構成案を見てみよう。表紙には、佐々木氏の名前や古巣である電通のクレジットが掲載されている。 〈点→線→面→立体→空間→時間〉と、ザックリとした構成が冒頭に記されている企画案。そこには『AKIRA』の演出も描かれていた。MIKIKOチームはオープニングで使用していたが、佐々木氏のプランでは後半へと移行。主人公役に想定されているのは、俳優の菅田将暉だ。  前出のMIKIKOチーム関係者が憤る。 「確かに、主人公を菅田君に、という案はMIKIKO時代にも上がっていました。しかし主人公が乗るバイクは特殊な改造がされ、会場を実際に走るのは危ない。運転に長けた専門のキャストに任せようという結論になりました。ところが佐々木氏は一度やった議論を蒸し返した上に、開会式のストーリーを全く無視した形で企画を切り貼りしています」  さらにレディー・ガガが赤い帽子をかぶってマリオの土管に入ると、同じ格好の渡辺直美に入れ替わるというサプライズ演出も描かれていた。ただ、佐々木氏の思い付きに留まっているのか、レディー・ガガの箇所には〈やってくれたらの話です〉と断り書きが記されていた。他方で、任天堂が監修していた競技紹介はこの頃から、ピクトグラム隊による〈コメディパフォーマンス〉に変わっている。 昨年10月時点の佐々木氏案にはレディー・ガガと渡辺直美が  それだけではない。〈その他の案。〉として記されているのが、木材を使った五輪マークの周囲を火消しの男性たちが取り囲むイラスト。さらにフィナーレを飾るのは、歌舞伎俳優・市川海老蔵と野村萬斎だ。 森氏が強く推した市川海老蔵 「いずれも“政治案件”です。江戸文化である火消しは、小池百合子都知事がMIKIKO時代から、演出チーム側に『演出に入れて。絶対よ』と求めていました。都知事選で、火消し団体の支援を受けた“恩返し”の意味もあるのでしょう。一方、海老蔵は、組織委の森喜朗会長(当時)が『マストで』と押し込んできた案件。本番でも披露された『暫(しばらく)』の演目と衣装は、当時から指定されていたものです」(組織委関係者)  ただ、あくまで中身を優先しようと考えていたMIKIKO氏は、火消しと海老蔵という“政治案件”は、思い描く演出内容に合わないと頭を抱えていた。実際、昨年4月6日付の台本からは、両者が外れている。 「ところが、佐々木氏はそれらをあっさり復活させました。“政治案件”も巧みに捌き、利益を最大化する電通出身者らしいやり方です。アイデアの盗用をはじめ、佐々木氏や電通の不誠実な対応を許せなかったMIKIKO氏は昨年11月9日、組織委に辞任届を提出しました」(同前)  それから約1カ月後の昨年12月8日版の台本。ここから紹介する台本には全て表紙に〈Confidential〉の文字が刻まれている。 「竹中も許されないと考えて」  有観客開催なら“前座”として行われるはずだったプレショーのMCには、芸人の山口智充とタレントのSHELLY。オープニングでエアロバイクを漕ぐ女性には、元AKB48の秋元才加の名前が記されている。12月21日版では大工の棟梁役で、俳優・松重豊の名前も新たに登場した。  ところが、キャスティングは難航したようだ。年明けの今年1月19日版の台本になると、エアロバイクを漕ぐ女性から秋元の名前が消え、代わりに、 〈稲村亜美が良さそう(イモトもいいが)→スケジュール軽アタリ〉  と、軽い調子のメモが付記されている。稲村は「野球女子」で知られるタレント、イモトは芸人のイモトアヤコだろうか。  だが、キャスティング調整をしていた最中の3月18日、佐々木氏が侮辱演出案を巡る問題で責任者を辞任。ここが“MIKIKO氏排除”に続く2つ目のターニングポイントだった。  組織委幹部が指摘する。 「組織委から開会式の業務委託を受けていたのは、電通でした。予算や進行などの実権は電通が握っていた。ところが、髙田氏や佐々木氏がMIKIKO氏を外していく過程が明るみに出たことで、電通が一歩引く態勢とならざるを得なくなりました。代わりに寄り合い所帯の組織委が仕切ることになったのですが、人選など全て演出チームに丸投げで、今度はガバナンスが効かなくなったのです」  佐々木氏に代わって責任者に任じられたのが、後にホロコーストを揶揄した問題で解任される小林氏だ。 「サブカル界では有名だった小林氏は昨年8月、佐々木氏から『開会式を手伝ってほしい』と持ちかけられ、承諾しています。昨年12月23日にMIKIKO氏らが中心だった演出チームは正式に解散しましたが、佐々木氏や小林氏は新しい演出チームに残った。そうした流れもあり、小林氏が演出を統括することになりました。こうしたサブカル人脈の中で“渋谷系”の代表格、小山田氏の作曲担当での起用も決まっていきます。ただ、小林氏はダンスパフォーマンスの経験に乏しい。なかなか演出ビジョンが定まらず、精神的にもかなり追い詰められていました」(演出関係者) 解任された小林氏(左)は、佐々木氏が引っ張ってきた  残り1カ月を切った6月27日付の台本。この段階では『AKIRA』の演出は無くなり、プレショーのMCも山口とSHELLYから、フリーアナウンサーの平井理央へ変更。が、無観客開催が決まり、翌月にはプレショーの企画は消滅する。一方で〈森山未來さんによる追悼パフォーマンス〉は〈構成調整中〉と注意書きがあり、ギリギリまで調整が行われていた。  そして本番5日前、7月18日付の台本。表紙には〈IMAGINE尺確定〉〈栄誉賞VTR 尺確定〉〈国歌斉唱 TC微修正〉など前台本からの変更点が記され、完成形へと近づいていく。だが、この翌19日に小山田氏が辞任、さらに3日後の22日に小林氏が解任されてしまうのだ。  さらに――。 「公表されていませんが、本番直前に『第二の小山田』とも言える著名人が出演を辞退しているのです」  そう明かすのは、開会式関係者の一人だ。 「本番では大工の棟梁役を元宝塚女優の真矢ミキが演じましたが、21日に行われた通しリハーサルでは、棟梁役は真矢と、俳優の竹中直人の2人でした。もともと松重の起用が検討されていた役どころです。竹中はノリノリで大工たちを盛り上げ、図面を見ながら指示を出す演技をしていた。ところが小林氏が解任された22日、竹中も辞任を申し出たのです」(同前) 大工の棟梁役で登場した真矢ミキ(NHKより)  彼に何があったのか。別の組織委関係者が続ける。 「小山田氏の問題が発覚してから、組織委は慌てて開会式スタッフの“身体検査”を行いました。それに引っかかったのではないか、と。実際、竹中は85年に『竹中直人の放送禁止テレビ』というオリジナルビデオを発表していますが、障がい者を揶揄するようなコントを演じているのです」  ビデオは内容が過激だったために、版元が自主回収したとされているが、小誌は独自に内容の一部を確認した。映像には、信号機のメロディを頼りに横断歩道を渡る視覚障がい者のモノマネか、竹中をはじめとした一行がリズミカルに白杖を振り回し、笑いを取る場面が収められている。屍姦四十八手として、竹中が死体を模したセーラー服姿のマネキンに様々な性的いたずらをするコントもあった。  小誌は7月25日、竹中に声を掛けたが、 「事務所を通して下さい」  と語るのみ。事務所に事実確認を求めると、マネージャーが取材に応じた。 竹中直人も本番2日前までは…… 「『放送禁止テレビ』が原因で辞任したのは事実です。小山田さんの問題が浮上した時、竹中本人から『36年前にこういう作品に出演している』と連絡があり、辞退したいと申し出てきた。ただ、この作品では竹中は演者。企画者でもプロデューサーでもないので、私は『予定通りお願いします』と。しかし小林さんが解任された際、コントでの言動が問題になった。これでは竹中も許されないと考えて、竹中から組織委に申し入れ、承認されました」  この作品を巡っては、過去にも抗議を受け、竹中が障がい者団体に謝罪に行ったこともあったという。 森氏が強く主張した松井秀喜 「契約上はリハーサルに出た日数の日当はもらえると思いますが、こちらとしては、リハの報酬は受け取らない意向です」(同前)  混迷を極めた末に迎えた7月23日の本番。小山田氏が担当していた冒頭の4���間は、別の曲に置き換えられたが、小林氏のカラーは随所に残っていた。 「劇団ひとりのコントやなだぎ武によるテレビクルーの寸劇がありましたが、いずれも小林氏テイスト。なだぎは、小林氏が作・演出を手掛けるコント公演にも出演している。劇団ひとりについても、発売中止になった開会式のパンフレットで、小林氏が『懐かしい友人』などと紹介しています」(前出・演出関係者)  かたや花形の一つ、入場行進では「ドラゴンクエスト」など、世界的に有名なゲームの楽曲が19曲流れた。だが、6月16日付の〈MUSIC LIST〉の選手入場の項目を見ると、本番で流れなかった5曲の曲名が記されている。「ゼルダの伝説」のメインテーマや「スーパーマリオブラザーズ」のスーパーマリオ組曲、「ポケットモンスター」のオープニング……共通点はただ1つ、「任天堂ソング」ということだ。 マリオやゼルダなど任天堂ソングも 「MIKIKOチームでは競技紹介を任天堂に監修してもらいましたが、代表取締役の宮本氏は自ら本社のある京都から毎週のように上京し、会議を重ねていました。しかし佐々木氏に実権が移った後、彼は競技紹介をあっさりピクトグラムに変えた。そのことには、任天堂側も複雑な思いがあるのでしょう。結局、本番直前で任天堂の曲は全て外されました」(別の電通関係者。任天堂は「当社は回答する立場にございません」)  そんな中で、多くの国民が驚いたのが、ドローンによる演出だろう。 「夜空に浮かぶ1824機のドローンが、一糸乱れぬ隊列で五輪のエンブレムから地球に変化するパフォーマンスを見せた。全体的に評判が芳しくない開会式で『地球ドローンだけは良かった』という声も出ています」(前出・記者) 本番で披露された地球ドローン  ところが――。  MIKIKO時代の演出を知るスタッフが訴える。 「あれはMIKIKO体制の時に、テクニカルチームが苦労して作り上げた演出の“パクリ”。それを、今の演出チームは断りも無く流用しているのです」 MIKIKOチームの地球ドローン  ドローンのパフォーマンスは、五輪のスポンサーでもある米インテル社が全面的に技術協力している。 「MIKIKO時代のテクニカルチームは、インテルのドローンチームと打ち合わせをするため、彼らの拠点であるドイツに渡航したりもしました。今の技術力でできることは何か、試行を繰り返して演出プランを完成させた。単にドローンのパフォーマンスだけでは、インテルの技術発表会になってしまう。そこで、MIKIKOチームでは会場でのプロジェクションやAR(拡張現実)と連動させる演出を考えていました。それを、本番ではドローン演出だけ“つまみ食い”しているのです」(同前)  様々な案が浮かんでは消え、アイデアがつまみ食いされ、クリエイターたちが傷ついていく中で、最後まで残ったのは、小池氏の火消しと森氏の海老蔵。2つの“政治案件”だった。 「開会式のクライマックスである最終聖火ランナーは、プロテニス選手の大坂なおみでした。ただ、彼女が選出された過程にも、政治やIOCの影が色濃く出ています」(別の組織委幹部) 大坂なおみ  実は、今年2月までは別の人物が最終聖火ランナーの予定だった。 「本番でも走った王貞治氏、長嶋茂雄氏、松井秀喜氏の3名です。長嶋氏については演出チーム側も推薦していましたが、松井氏の場合は、地元・石川県で彼の後援会の名誉会長を務めた森氏が強く主張し、候補者リストに入りました。ところが、森氏が“女性蔑視”発言で組織委の会長を辞任したことで状況は一変。今度は、IOCが掲げる『多様性と調和』を体現する存在として、大坂に白羽の矢が立ちました。本人に打診したのは、森氏の辞任から間もない3月です」(同前) 聖火ランナーを務めた王、長嶋、松井の3氏  大坂の直前には、被災地の子どもたち6人が走ったが、「復興五輪」の象徴として彼らを最終ランナーにする案はなかったのか。 IOCが拒否した「復興五輪」 「IOCは以前から演出側に『世界で困っているのは、東北だけではない。特定の震災を限定的に取り上げるのはダメ』と伝えていました。MIKIKOチームの演出には当初、黙祷シーンも入っていましたが、これもIOCから『外せ』と指示を受けた。それほど、IOCは復興五輪には否定的だったのです」(同前)  一方で、IOCが挿入を強く求めてきた点もあった。 「本番でも、開会式のストーリー展開を寸断するように流れた『Imagine』はIOCの強いリクエスト。18年の平昌五輪の時にIOC側が『今後はImagineを必ず開会式で流したい』と言い出し、今回の演出チームはこの要望を受け入れました。結果、演出としての作品性や復興五輪などの理念よりも、IOCや政治家など発言権が大きい人たちの意向に沿った開会式となったのです」(同前) ◇  開会式から3日後の7月26日。ドローン演出の“パクリ”や竹中の辞任など一連の問題について、組織委に確認を求めたが、期日までに返事はなかった。  MIKIKO氏の排除に関与し、小林氏らを演出陣に加えた佐々木氏に開会式の感想を尋ねたところ、 「はい、見ました。あとは、お答えできません」  では、本来、開会式を万感の思いで見つめていたはずの人物――MIKIKO氏は今、何を思うのか。彼女の携帯を鳴らすと、言葉少なにこう語るのだった。 「お話しできることは何もありません。今は直近のライブに向けて、全力で取り組んでいます」  東京のため、アスリートのため、最高の演出を目指したはずのクリエイターたちが蔑ろにされ、最後までIOCや政治家、電通の要望ばかりが優先された開会式。MIKIKO氏は昨年10月16日、電通幹部らにこんなメールを送っていた。 〈このやり方を繰り返していることの怖さを私は訴えていかないと本当に日本は終わってしまう〉  アスリートが敗北から立ち直るように、この失敗から我々も学ばなければ、彼女の言葉は現実のものになりかねない。 source : 週刊文春 2021年8月5日号
台本11冊を入手 五輪開会式“崩壊” 全内幕 計1199ページにすべての変遷が | 週刊文春 電子版
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yoshinekyoko-chan · 2 years
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芳根京子 グラビア切り抜き4ページ B.L.T.(2017年11月号・2018年11月号) #angelsmile #KyokoYoshine #芳根京子 #芳根京子が囲む会 #芳根京子可愛い #jpop #yoshinekyoko #芳根京子香港FansClub #芳根京子香港Fanspage #fanspage #fansclub #covergirl https://www.instagram.com/p/Clpx9U4hNB3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kachoushi · 8 months
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅱ
花鳥誌2024年2月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
  山寺の宝物見るや花の雨
 季語は「花の雨」で『新歳時記』では「花」の傍題。山寺で宝物に見入る「寂び」の境地を云々されたこともあったが、『虚子百句』の立子の評は、それを覆している。
 父はあまりお寺やお宮などの宝物に興味を持っていないと思います。それが特に宝物を見るというのは何か余儀なくそうして時間をつぶしたという心持ちがあるのでしょう。
 つまり、「宝物見るや」と「や」で謎をかけておいて、「花の雨」で降り籠められただけだったんだよと明かし、軽い「笑い」を受け取れば、それでいいのだということである。虚子は『俳句はかく解しかく味ふ』の冒頭で、歴史を詠んだ古俳諧を取り上げ、こう言っている。
 俳句の詠史は漢詩や和歌などと違うてその事柄を優美にしたり、荘重にしたりすることはしないで、むしろその事柄と反対に卑近な物を持って来たり、滑稽な物を持って来たりして頓挫を与えるものが多い。(中略)
 同じく滑稽味と言ったところで、これらはげたげた笑うような滑稽ではなくて底には淋し味も含んだ品のいい滑稽である。ユーモアというような部類に属するものである。  
 巻頭で語っているから、これは俳句の本質論でもあって、下品なくすぐりは感心しないが、「頓挫」があって「ユーモア」がある、というのが、虚子の言う、漢詩・和歌に対する俳句の特質であったわけだ。
  力無きあくび連発日の盛り 虚子
 虚子はよく欠伸をしたという。選句中は虚空を見上げたとも(『俳句と自分』)。俳句は深呼吸のようなものだ、という言葉も残している。欠伸や深呼吸をすれば、必ずいい句が生まれるというものではないが、息を詰め、肩を怒らす、そのような心持ちで俳句は詠むものではないという思いも伝わってくる。
 いい意味の虚子の「余裕」を、この句にも見るべきだというのが、立子の言いたいところなのである。山寺の幽玄な雰囲気に浸っていた、などという解釈こそが、芭蕉を神に祭り上げた「月並」と同様の陥穽ではないのか、とも解せる。
 『虚子百句』のレイアウト上の構成を考えれば、前に掲げた〈美しき人や蚕飼の玉襷〉は、完全な人事句。それに比して「山寺」句は叙景に近い。句集の編集の妙は「変化」にある。さらに、「や」の使いように注目すれば、「や」の位置と、上に来る言葉の性質の違いはあるものの、両者「頓挫」がある。片や品のある美人のうなじをさりげなく暗示し、片や所在ない山寺の退屈を笑ってみせた。二物衝撃などという肩ひじ張った合理的機能を言い立てる前に、俳諧以来の技法の「底」を浚う方が、地に足がついている、とも言いうる。
 なお、この句は題詠であって、単純な嘱目ではない。『年代順虚子俳句全集』第二巻では「桜十句」の題で八句は記録され、その中に掲句が確認できる。
  花見船菜の花見ゆるあたり迄
  山駕や酒手乞はれて桜人
  藪原や櫛売る家の遅桜
  花の雨蒲団ぬらして誰が庵
  大江山花に戻るや小盗人
  山寺の宝物見るや花の雨
  夜桜や栂川楼を出る芸者
  夜桜や用ありげなる小提灯
 「藪原」は明治二七年の木曽の旅、「栂川楼」は柳巷花街の柳橋のことと本井英は考証している(「虚子『五百句』評釈(第七回)」『夏潮』二〇一六年六月)。ともかく、山寺句は、子規在世当時、蕪村に倣った修練法「一題十句」において成立した句だった。並んだ句はみな小説の一場面といった趣きである。
 虚子はこの頃、『俳句入門』(明治三一年)で、写生とともに題詠の重要性を説いて、特に「一題十句」は、遊戯的な仕掛けを通して、言葉の取捨選択や、季題への深い理解につながるものがある、と言う。今の伝統派にも残る修練法だが、見るだけでなく、記憶し、想起することも写生の中に含まれることも明記しておきたい。書は前の句に比べて薄いムラがある。
  芳草や黒き烏も濃紫
 『五百句』注記に、「明治三十九年三月十九日 俳諧散心。第一回。(九段上)小庵。会者、(高田)蝶衣、(松根)東洋城、(岡本)癖三酔、(岡本)松浜、(柴)浅茅。尚この俳諧散心の会は翌明治四十年一月二十八日に至り四十一回に及ぶ。」(括弧内、井上注記)とある。
 「俳諧散心」は、子規没後ライバルであった河東碧梧桐を意識した鍛錬句会のことである。橋本直「「俳諧散心」と近代個人句集の起こりについて」(『夏潮別冊虚子研究号』10)に詳しい。「ホトトギス」の事務と編集を担当していた松浜が謄写版で句会稿を翻字した「芳草集」が虚子記念文学館に所蔵される。
 「散心」は元来仏語で、仏事に専心しない散漫な状態を言うが、転じて、そのような凡夫の心にも一心に念仏すれば成仏する意味を含み、ここは俳句の鍛錬に集中する「行」の会を意味する。
 『虚子俳句全集年代順』第二巻(昭和十五年)には、「俳諧散心」の虚子句を集中して掲載しており、掲句は、「第一回、草芳し十句」と記されている通り、一題十句の中の一句であることが確認できる。掲句の他三句に絞って記しているので、挙げて置こう。
  垣間見る好色者に草芳しき
  人屋出てふむ時草の芳しき
  芳しき小草もゆるや塔の下
 このうち「好色者(すきもの)」の句は、『喜寿艶』に載るが、掲句は春の光を受けて烏の漆黒も濃い紫に見える、というわけである。子規の最晩年に
  黒キマデニ紫深キ葡萄カナ
 という句があり、意識したかも知れない。拙著『子規の内なる江戸』で指摘したことだが、二つの色を比較して際立たせる手法は、典型的な子規の写生の方法で、洋画からの発想である。有名な碧梧桐の、
  赤い椿白い椿と落ちにけり  
 という句もその成功例であり、印象明瞭な子規派の俳句の新味であった。虚子もこの路線で詠んだわけである。
 問題は、「芳草」という季題の表記であろう。字数の加減で、上五にこの言葉を持ってくるとき、「芳草」と漢語にして文字を惜しんだことは、容易に想像がつく。しかし、それだけのことなら、ごまんとある自句から掲句をわざわざ選んだりはしないだろう。「春の草」「草芳し」でもよかったことになる。
 漢語の「芳草」を持ってきて「や」で切る形は、調べから言って、漢詩のような格調をもたらす。また、掲句は取り合わせの句である。その取り合わせた中七・下五でポイントになるのは「も」である。この言葉は、「AもBも」という現代でも使う意味の他、『万葉集』以来「〜さえも」という含意を持つ(上野洋三『芭蕉論』「も考」)。
 烏の背景は、「芳草」の若々しい「緑」である。その背景の「春光」によって、烏の羽の漆黒さえも「濃紫」の艶を得たということなのである。ここに「緑」「碧」「青」の字を置いては、くどくなってしまう。匂いたつほどの緑を暗示する格調高き「芳草」としておくことで、下五の「濃紫」から反転して「緑」が感得できるようにしたのが、この句の眼目なのである。
 色の比較の句は、つい知的な操作に終始してしまい、季題を生かすことから逸れてしまいがちになる。しかし、掲句は子規や碧梧桐の色の配合句に負けない、季題という中心点を把握して見せた出来栄えのいいものだ。虚子と言えば、一物仕立てという公式は当てはまらない。これくらいのことは、虚子もやってのけた、というわけである。
 なお、一題十句は、蕪村の『新花摘』に学んで子規らが始めた修練法で、その始まりは明治二十九年にさかのぼる。虚子は『俳句入門』(明治三十一年)で以下のようにその効用を述べている。題をころころ変えて、一句しか詠まないより、この方法の方が、題をあれこれ考え、十句のうちから幾つかは佳句を得やすい、と。つまり、袋回しで題をいくつも詠むより、費用対効果がいいわけである(井上『近代俳句の誕生』)。虚子の、特に青年期の修養がこうして題詠を中心になされていたことは記憶にとどめておくべきである。
『虚子百句』より虚子揮毫
  美しき人や蚕飼の玉襷
  山寺の宝物見るや花の雨
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(国立国会図書館デジタルコレクションより)
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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tofubeatsreblog · 7 years
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FANTASY CLUB 随筆
CD “FANTASY CLUB”ブックレット用のもの 2017/4/19
 今回のアルバムを作るにあたって、セルフレビューとは又違った何かを掲載したい、ということに決まりまして、なんとなく書いてみた文章を以下にまとめます。FANTASY CLUBそのものを楽しんでくださればそれで十分ですが、歌詞カードだけじゃ手持ち無沙汰なお方はこちらも読んでみてはいかがでしょうか。  今回のアルバムのための曲のうち、1〜2曲はPOSITIVE製作中にスケッチ程度で手元にあった曲だ。ただPOSITIVEはほとんどボーカル曲で揃えることにしていたのでインストは外していた。その中でもこれは入れたいな、と思っていた曲の一つが”FANTASY CLUB"である。この曲がアルバムタイトルになるだなんて想像だにしなかったが、いつかこれを良い形で出したいなとずっと思っていた。  自分がクラブミュージックというものを聴き始めて最初のほうに聞いた曲に、Pierre’s Pfantasy ClubのDream Girlという曲がある。ハウスという言葉についてもボンヤリしか知らなかったし、シカゴハウスについてはほとんどこれが始めて聞いた曲だったので、当時強烈な印象を受けた。リフレインする覇気のない声と地鳴りのように押し寄せるベースラインは、HIPHOPとはまた違った形で気合がとても伝わってきて、こんな音楽があるのかととても驚いた。そしてこれはなんとなく自分にしっくりくるタイトルでもあった。DJを始めてすぐのころは、J-POPとかに混ぜてこの曲をプレイしていて、数年前にはこの名前をもじって連載タイトルなんかにもする(ガチ恋・ファンタジー・クラブという連載をPOPEYEでやらせて頂いていた)。そういうこともあってなんとなく作った出来の良いデモ曲に、またこの名前を付けた。”FANTASY CLUB”だ。  時は経ち、今回のアルバムをどういう方向性にしようかと考えてみたとき、POST-TRUTHという言葉が飛び込んできた。ガラパゴスにますます向かっていく日本では音楽の置かれてる立場が良い方向に向いてるとは思えないし、ファストで軽薄だ!といって世間を揶揄するのは時代(と本作から制作の半分がラップトップベースに変わった自分)に目を背けているようで嫌だがあまりにそうなりすぎたとも思う。日本で音楽的に開かれていると感じる作品は殊更に日々、見つけにくくなっている気がする。しかし自分がそもそも芳醇なものを浴びて(浴びようとして)育ってきたかと聞かれれば否だと思うし、全力でその流れに抗っているのか?と問われれば少々答えるのは難しい。  インターネットを始めたころは面白いものが昔よりもっと評価されやすくなる未来がくるぞ!と信じていたが、今となっては全く逆で、全てがバズみたいなものと結び付けられていけば、物事はきっとさらに低い所に流れていくだろうと思う。倫理みたいなものもどんどん無くなっていくのだろうか、そんな時に自分の聞きたいような音楽を作ってくれる人は出てくるのか・・・と考えるとあんまり明るい気持ちになりにくい。本当に人間が求めているものは下世話な話題だけだったりするのかもしれない。  自分がこうした義憤にかられてしまっていることについて立ち止まって考えてみる。インターネット越しに全てをわかったような気分になり、嘘か幻かもわからないような、自分の目で確かめたことではない情報について語っている時点で、自分が揶揄している向こう側の人間と全く同じ状況であることに気がつく。なんとなく世間がよくなくなっているイメージこそメディア越しに植え付けられてしまったものなのかもしれない。そしてこの文章もそんなぼんやりとした不安を植え付ける作用があるのかも。  きっと今より良い世の中というのはあるはず、ただそこにはどうやって行ったらよいのか、自分が何をすべきかというのがわからない。”FANTASY CLUB”とまとめるくらいがちょうどいい、と思うようになった。毎日友達と飲んだり遊んだりしているわけではない。ほとんど一人で過ごしているからどうしても歩いたりしていると考え事をしてしまう。あんまりこういう不確定な未来について考えすぎると人間は必ず悪い方にイメージが行ってしまうのも知っている。ただアルバムはこうして完成した。  人間は高い山を切り開き台地にした後、住宅を並べ、ショッピングモールを建てた。その時はそれで良しとした。  今日は渋谷ヒカリエ裏のシオノギビルのルノアールで山根さんにアルバムジャケの原画を頂いた。遅刻気味だったのでタクシーに乗り込んで、運転手に場所を教えるために「しおのぎ」と調べた。自動変換で塩野義と書くことを知った。格好いい苗字だ。  今日に至るまで山根さんにはタイトルと数行のヒント、そして6割くらいの完成度の音源をお送りしていた。そこから帰ってきたラフスケッチは確か4つ。その時から自分にはこのジャケしか選ぶ気が無かった。ボートが収められている倉庫で話す2人の男。船は何かの力で進むことができるが、実際は海や川の流れに大きく動きを支配される。それはもしかすると音楽を作ったりすることのと近いのかもしれない。  なぜか最初このラフスケッチを見た時自分は競艇の船が収めてある倉庫の絵だと思った。どう見てもがっつり普通の手漕ぎボートの絵なのにボートと聞けば競艇を思い浮かべてしまった自分にとても反省した。思い込みで返信してしまった最初のメールではなんとなくそれに山根さんが乗っかってくれていて、さらに申し訳なかった。全然そういうのはツッコんでくださいよ。  そんなことを話しながらお互いの近況を伺うなどして小一時間話した。山根さんはこういう仕事をしていてあまり会うことがない同い年かつ、もう3〜4年くらい仕事でご一緒している貴重な人物だ。一番最初に「水星」でお願いしようか悩んでいたとき、「この人は長く続けてくれそうか」というのが自分の中で大きな問題だったことを思い出す。昨日も神戸で別の友人と話したことだが、自分にとっては何かを続けて行うことがとても大事に思える性分があるらしい。山根さんは今は住む場所をすこし変えて、仕事の分量を少し変えて自分の絵とまたゆっくり向き合っているそうだ。忙しさを高めて続ける方法もあるとは思うが、スピードを緩めてきちんと付き合う方法もある。何よりそうやって自分の好きな物事とどうやって付き合っていけば長く一緒に居られるか、そういったことについてきちんと考え、接しておられる人なのだなと短い時間の中でも分かって改めて良かった。  途中から合流したアート・ディレクターのタミオさんに関してはさらに長く、5年以上お世話になっている。どちらかというとタミオさんは助けてくれる先輩という感じが強い。そんな3人でジャケの原画を囲んで(原画を壁に立てかけつつ話していたのだがルノアールに妙に馴染んでいた)お茶をした。  その後、思っていたより少し大きめだった原画を入れるためのバッグを買いにタミオさんと2人で文具店に立ち寄った。仕事を初めてさせて頂いた時は独身だったタミオさんも今や一児の父だ。自分がタミオさんくらいの年になったらもうその子供と普通に喋ったりできるようになるのか・・・と思ったりしながらタミオさんを見送った。  なんとなく自分の中で毎回「オトコマエ枠」というのがアルバムにある気がするが、今回はYOUNG JUJUが担当だ。tofuチームのマネージャー並びにディレクターがKANDYTOWNのリリース時関わっていたのが音源を聞いたきっかけで、実際に彼のフロウは印象に残った。そのアルバムには収録されなかったヴァースがとても好きで(イベント特典として配布されたSONG IN BLUEのREMIXがそれにあたる)、オートチューンをかけたヴァースをもっと蹴ってほしくてトラックを作った。  今回彼のレコーディングは彼が懇意にしているILLICIT TSUBOI氏のスタジオで行った。YJが来る前に自分はこれだけ音楽やっていてほぼ初めてくらい、スタジオのボーカルブースに入って歌をレコーディングした。もちろんオートチューンはかけ録りなので音痴な自分の声を聞かずには済んだのだが、自分の声が他のボーカリストに比べてかなり大きいということを初めて知った。家で一人でやっているとそんなこともわからないまま10年経ったりもする。  YJの録りが終わってから「アルバムの1曲目にスクリュー入れたんすよ」という話題からスタジオでその曲を聴くことになり、アウトロを聞いたツボイさんが「この2枚使い編集で作った?」と聞いてきた。当初編集で2枚使い���ぽい感じに編集してアウトロを作っていたのでそう答えると、「そういうのはちゃんと生でやんないと!」と言われてハッとした。別に自分はもともとターンテーブリストでも何でもないが、なんとなくここは生でやらなきゃなと思わされた。そういうこともあり、神戸に帰ってからはDJを始めた時以来くらいにとても簡単ではあるが2枚使いを練習して録音し直した。今回のアルバムでKASHIFさんのギターを除けば唯一の生演奏パートである。  昨日、ライブの仕事で大阪に行っていた。いいものを沢山見させていただいた。先輩方のライブを見ながら新しいことや客が見たことないものを恐れずやるのはやはりとても大事だと改めて勇気づけられた。雑誌WIREDで折に触れて語られる「イノベーションは勇気から生まれる」という言葉もそうだが、何かを変えて行くために必要なものはそれであると確かに思う。  したたか、という言葉は「強か」と書く。もしくは「健か」とも書くらしい。いくぶん良い意味ではない言葉に思えるが、辞書で昔の例文を引いてみると植物が健かに育つ姿などにも使われている。強く、健やか(この場合はスコヤカと読むだろうか)な。この曲はそういう人に歌ってもらいたいなあとボンヤリ思っていた。結果、第一候補として自分が挙げたsugar me氏にOKをいただくことができた。  氏との顔合わせは渋谷の「珈琲貴族」という喫茶店で行われた。まずこの場所を指定してくださったsugar me氏が所属するレーベル、RALLYEの近越さんも最高だが、よくよく考えたらこのお方も結構昔から連絡を取らせていただいている方である。そして金沢でずっとやっていらっしゃる地方組のベテランでもある。そういう人と仕事をさせていただけるアルバムでよかったな〜、と思いつつ、コーヒー「貴族ブレンド」を頂いた。  自分的には珍しく午前の集合でいい気分だったが、滅多に午前行動をしないマネージャーが眠い目をこすっていた。そんなことを書いていたらその直後、sugar meさんはJ-WAVEの月〜金の朝の帯番組のアシスタントMCに抜擢されていた。至って朝型の自分はたまに神戸から聞かせてもらっていて、変な感じだ。この文章を仕上げている日の朝、まさにその番組でYUUKIがワールド・プレミアされていたのもなんだかおもしろい。  もう一人のゲスト、中村佳穂さんもいわばそういった普段は昼間にライブをされている方だろうか。結構前にくるりの岸田さんがオススメしていたのかネットだったか何だったか忘れたが、楽曲を聞いて驚いたのを覚えている。そんな彼女が自分の大学生の時に書いた曲を普通にライブでカヴァーしていたことを知ってさらに驚いたのはオファーを出した後のことだ。彼女の諸作品のエンジニアリングを行っているスタジオ、SIMPOもとても素晴らしい仕事をなさっているが、何よりご本人が持っているナチュラルなリズム感や編集センスが素晴らしい。レコーディングの時の瞬発力もあって、歌いながらめっちゃ手が動くのもある意味ラッパーっぽくて良いと思う。本人はいたって人当たりのいい感じの素敵なお方だが、アルバムのデザインのシュっとした感じなどはなんだか関西っぽくないような気もする。フェイクもなんかちょっとだけ宇多田ヒカルっぽく聞こえる瞬間があった。そのことを当日のエンジニアであるY氏に伝えたら「世代じゃないすかね」とおっしゃっていた。妙に腑に落ちた。  そんな京都でレコーディング前にスタジオから近いという理由だけでなんとなく来た喫茶店がめちゃくちゃお洒落だ。大きな一枚板のカウンター、サイフォンで入れてくださる美味なコーヒー。オムライスに添えてあるピクルスまでも美味しかった。少々無愛想な店員の前でマックブックを開いて作業をする。こういう喫茶店で仕事していると自分はとても大人になったなあ、と感じる。  純喫茶でゆっくりするのは妙に落ち着かないことが前は多かった。何故かというとそういった店に行く機会が無かったからだ。小学校の頃はロイヤルホストに連れていってもらい、「ジャワビーフカレー」を食べるのが何よりの贅沢だった。胃潰瘍をやってから香辛料は極力控えているが今でも年に数度、コレは・・!という日に食べる。ロイホに詳しい人しかわからないと思うが自分的にはリブステーキを食べるより神聖な行為だ。  話は戻って、チェーン店やある程度画一的な店のほうが落ち着くのは自分が生まれた環境がそちら寄りだからではないかと思う。「いらっしゃいませ!」とマニュアル通りに声を掛けてくれる店にしかほとんど行ったことがなかった。顔を覚えてもらったり、最近何があったかを話し合うような店舗には今でもそこまで馴染みはない。  自分にとっての懐かしさは商店街にあるような親近感ではなく、国道から見るドライブスルーの看板のような距離感の方にあるようで、それでいて、どのロイホで食うジャワビーフカレーも美味い。  今回のアルバム、一番最後にやった作業がCHANT #2のアウトロを作ることだった。ピッチが下がっていってそのまま終わるのも悪くはないが、どうもアルバム全体が締まらないような気がして何日も頭を悩ませていた。今作はこれまで作ったアルバムの中ではlost decadeの次に時間的な余裕があった作品だ。特にアウトロについて1週間くらい考える時間があったというのは非常に贅沢だった。メジャーに入ってはじめて作品全体を見渡した制作ができる時間が作れたことは今回のアルバムに一番作用した。  いろいろ思慮を巡らせつつ、今回はフィールドレコーディングにしてみたらどうか、と思い、とりあえずレコーダーを持っていろんな場所に向かってみて、音を録ってみることにした。普段外では音楽を聴きながら歩いているので、そこでどんな音が流れているのか、改めて見つめ直すことはとても新鮮で意味のあることだった。  例えば最後に聞こえる汽笛の音がそうだ。神戸に居れば実は結構な山側に居ても汽笛の音が聞こえることはよくある。海に出るまで20~30分以上かかるであろう場所でも、山地を背にした神戸でそれが聞こえることはおかしいことではない。ただ、こうして録音してみないと汽笛が普段聞こえていることなんてすっかり忘れてしまっているのだ。教会の鐘の音もそうである。人間の耳というのは都合良くできていて、知らず知らずのうちに驚きの無いものは奥の方に仕舞い込んでしまう。レコーダーで録音することによってそんな音の数々を洗い出していった。そうして自分が好きで何度も向かっている場所からいくつかの音を集めて、それらの音が重なって再生してアルバムは終了する。大体は自分が一人で気分転換に向かう場所の音だ。今回は晴れの日を待つ余裕もあったのもラッキーだった。  今回のアルバムのマスタリング、様々な条件や音源を加味してお願いする事になったのが得能さんだった。専業のマスタリングエンジニアではない得能さんにマスタリングをお願いするのは少しだけ挑戦でもあったが、きっとうまく行くだろうとは思っていた。  普通、マスタリングという作業はスタジオで1日、朝から晩までぶっ通しで行って仕上げてしまうことが多い。自分的にはこれが効率的である反面、判断力の欠如を生むと思っていた。長く聞ける作品を作るためには何度もチェックが必要だ。スタジオではなく普段の環境でチェックしてマスタリングを進めるため、何度も得能さんとはやりとりをさせて頂いた。インターネット越しに少なくとも6往復くらいはやりとりがあったと思う。  そんな作業を経て、最後ddpというデータを作成してマスタリングは終了する。そんな最後の「落とし」の作業をチェックも兼ねて京都の得能さんの家で行わせていただくことにした。  落としの数日前、得能さんが別の知人とtwitterで神戸垂水にある精肉店の焼豚の話をしていた。せっかく伺うのだからそこの焼豚を持って行って差し上げよう、と思い、同じく興味津々だったマネージャーの分もあわせて神戸で購入し、クーラーバッグに入れて京都に持って行った。得能さんはご自宅で作業をされているので、冷蔵庫に焼豚を一旦入れさせていただき、作業を開始した。  マスタリング作業が終わったあとはせっかくなので、と得能さんがレコード屋を案内してくださり、その後も中華を3人で頂いた。満腹になったところで、マネージャー用の焼き豚を冷蔵庫にすっかり忘れていたことに気がついた。  京都駅までの途中だし、と焼豚を取りに得能さんの家まで一旦戻ったのだが、雑談しているうちにそんなこと全員忘れてしまい、そのことに改めて気がついたのは帰りの電車に乗ってからだった。誰もそんな素ぶりは見せなかったがアルバムが仕上がって肩の荷が降りたのだろうか。もちろん焼豚は得能夫妻が2パックとも美味しく完食してくださった。丁寧にもその時の写真とレシピまで得能さんは送ってくださった。そこで、そもそも最初っから自分の分の焼豚を買い忘れていたと気がついた。  
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kuborie · 4 years
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オトナの教養 週末の一冊 2018年8月17日 うつの体験から考えぬいた、平成の反知性主義を克服する方法 『知性は死なない 平成の鬱をこえて』 與那覇潤氏インタビュー 本多カツヒロ (ライター)
 気鋭の歴史学者として活躍し、当コーナーにも2度登場していただいた與那覇潤氏。しかし、2015年に双極性障害Ⅱ型(軽躁の状態とうつ状態を繰り返す病)で入院。後に、勤めていた大学を辞め、歴史学者を廃業するとも公表した。一時は著しい能力の低下により、本を読むことさえ困難になったが、回復後に出版したのが『知性は死なない 平成の鬱をこえて』 (文藝春秋)だ。病気を通じて世の中を見る目が変わったという與那覇氏が、平成の日本を席巻した反知性主義について語ってくれた。
――世界的に見ても、平成の日本を見ても、反知性主義が跋扈していると度々指摘されます。平成日本の反知性主義について、どう捉えていますか?
與那覇:病気をする直前の2014年に、精神科医の斎藤環さんと対談させていただいたことがあります。当時はヤンキー文化論が流行っており、大雑把には「ヤンキーは身体感覚、つまり直感的な情動だけで動く人たちだから、言語による思考や説得が通じず、反知性主義に流れていきやすい」という議論になりました。
 たとえば「憲法九条をどう解釈すれば、防衛と平和主義を両立できるか」という言語による思索の歴史を全部スキップして、「戦力の放棄とかバ���じゃねーの?」の段階で思考停止してしまえば、ヤンキー的な改憲論になる。そうした視点は、一面の真理を突いていたと思います。ただ病気を経て、いま思うのは、それではまったく不十分だったということです。
――SNSでも、他人の発言を批判する人たちが、叩きたい一部の字面だけを切り取って攻撃し、背後の文脈や相手の立場を踏まえていないことがよくあります。
與那覇:そういう人を、「これだからネットの住民は、反知性主義で困る」と切り捨てるのが、当時の私も含めた多くの言論人の態度でしたよね。
 しかしよく考えると、大学の授業でも同じタイプの学生と山のように出会います。文献の要約を課されると、各段落の1行目の抜き書きをコピペでつなげたレジュメを作り、発表の時もそれを読み上げるだけで、本人が内容を理解していない。東京大学にも、そういう子は普通にいましたよ。ゼミによっては、発表者の半数がそんな感じにさえなる。
 そして私自身、うつ状態で能力が著しく低下することではじめて、彼らがどういう状況なのかを体験したんです。たとえば本を読もうとすると、いちおう文字自体は読める。しかし自分が書いた文章なのに、1行目と2行目が「なぜつながるのか」が理解できない。そういう人が、(病気の有無にかかわらず)世の中の相当な割合を占めているんだと、そこから出発しないといけないことに気づきました。
――そこから、「身体ではなく言語で、正しい思考の道筋を示せば、世の中をよくできる」といった、いかにも知識人的な態度を疑い出したということですか?
與那覇:そうですね。そもそも世界的に見ても、インテリ層は「言語」の力で社会的な地位を得ているので、「言葉で分析できる俺たちは優秀」「言葉にできず身体的欲求だけで動くやつらはバカ」のように考えがちです。
 平成の日本でいうと「マニフェスト」みたいに、しっかり言語で公約を表明させれば政治がよくなるんだと、そういう主張が進歩的に見えたのも、ルーツは同じですね。
――だから、身体だけで動くヤンキーは「反知性主義だ」と指摘して、自分たちの方が上だという印象を作り出し、片づけてしまいがちだと。しかし、それでは本来の意味での反知性主義とは何でしょうか?
與那覇:広く読まれた森本あんりさんの『反知性主義』(新潮選書)を参照すると、反知性主義の根源は宗教改革までさかのぼれます。当時主流派だった、「身体」に働きかける儀礼を重んじるカトリックを、「言語」による聖書の読解をもとに批判したプロテスタントは、正統に挑戦する人々という意味では反知性主義だと言える。むしろ言語をベースにした、「反正統主義」としての反知性主義ですね。
 ただ日本の場合はキリスト教世界に比べて、言語で徹底的に「どちらの考え方が正統なのか」をぶつけ合って結論を出す伝統が弱く、江戸の儒学史の一コマくらいにしかありません。たとえば、最近まで憲法学界は「自衛隊は違憲だ」という論文(言語)を量産してきたけど、政治家も国民も身体感覚ではそんなこと信じてない。つまり「言語による正統化」という試み自体の、基盤が弱いんですね。
 だからもう一段階、意訳をして、反知性主義とは「アマチュアリズム」のことだと捉えたほうがよいかもしれません。つまり、プロの学者は信用できない、アマチュアこそプロが見落としたことを知っている、という発想です。
――そうした「アマチュアの優位」を説く現象とは、具体的には?
與那覇:平成の前半に盛んだった、「新しい歴史教科書をつくる会」の運動は典型でしょう。当否はともかく、彼らは「プロ(歴史学者)の書く歴史だけがそんなに偉いのか」と主張していた。だから、学者の側が「あの人たちは学界で認められてないですよ!」と反論しても、沈静化するはずがない。その点を見抜いてきちんと対応された批判者は、生前の網野善彦さんだけではないでしょうか。
 しかも皮肉なことに、事実認識としてさすがに直さないとマズい箇所をプロの学者が(批判の形で)全部教えてあげるものだから、いつのまにか「つくる会」の教科書が普通に検定を通るレベルになり、使う学校も徐々に増えてゆく結果になった。錚々たる歴史学界のプロたちが、自覚なくオウンゴールを決め続けた姿は、平成における「知識人の失敗」を象徴するようにも思えます。
――今日の日本の反知性主義は、いつ頃からの流れと考えていますか?
與那覇:戦後(昭和)の後半から平成の初頭までは、むしろ知識人のアイデアが社会をよりよく変えるという期待が、高まった時期だったと思います。革新自治体の首長には、左派系の大学教授が多かったし、対峙する自民党でも大平正芳・中曽根康弘といった首相がブレーン政治を展開して、一定の成果を出しました。その流れを受けて平成の初頭には、政治学者が音頭を取って「小選挙区制による二大政党化」をめざす大改革が実現しました。
 ところが一方で、同じ時期から「霞が関バッシング」が吹き荒れます。銀行と癒着してバブル崩壊の破局を招いたとされて、大蔵省(現在の財務省)が炎上し、「今までいばってたけど、東大卒のエリート官僚ってどうなの?」という雰囲気が、社会に広まっていきました。 平成の政治制度は前者の流れ、つまり知識人の主導で設計されても、実際にそれを動かしたのは後者の流れ、「プロへの不信」という意味での反知性主義だった。厚生省の薬害を追及して人気を得た菅直人さんや、外務省と全面対決して初期の小泉改革ブームを演出した田中真紀子さんは、「私はアマチュアだ。だからこそ、名ばかりで腐敗したエリートと戦える」というポーズで出てきました。
 最初は「慰安婦問題などで、つくる会と同じ主張をしている右寄りの政治家」という印象だった、いまの安倍首相も、同様の文脈で理解できますね。
――安倍首相や麻生財務大臣も含め、現政権は反知性主義的だと言われます。
與那覇:たしかにそうなのですが、そこでいう反知性主義を「学歴が低く、教養もなく、バカじゃないか」という意味にとってはいけないのです。支持者は「そこがいいんだ。だから、東大卒のエリート官僚なんかに取り込まれない」と感じているのですから。
 首相に返り咲く際に安倍さんは、当時の日銀を激しく攻撃してアベノミクスを掲げましたね。今日につながる財務省・日銀批判のルーツは、30年ほど前(1977年8月)に榊原英資さんと野口悠紀雄さんが『中央公論』に発表した「大蔵省・日銀王朝の分析」でしょう。お二人は本来大蔵官僚でしたから、この時点ではエリート社会の内部での論争であり、かつ「総力戦体制のように、官庁と日銀がすべてをコントロールしようとするのはよくない」という趣旨でした。
 ところがバブル崩壊後の大蔵省無能論や、相次ぐ消費増税への素朴な反発など、平成の反知性主義の高まりは、「俺たちノン・エリートの代表をトップにして、国の経済政策を一変させれば、全部うまくいくんだ!」という、より強力な国家主導を求める財務省・日銀批判につながっていった。担い手にも、少なくとも学者としてはアマチュアにあたる、経済評論家を自称する方がずいぶんおられますね。
――「エリートへの反乱」という反知性主義の特徴は、日本以上にトランプ大統領のアメリカや、EU離脱を表明したイギリスで指摘されます。これらの現象も、平成の日本と同じと捉えてよいのでしょうか?
與那覇:共通性と差異の両面を見なくてはいけません。たとえば、ヨーロッパで反緊縮財政を叫ぶ政治家や運動が力を伸ばしているからといって、「世界の潮流は反緊縮だ。それを日本にも」と唱える人が、知識人のあいだに増えてきました。ご本人としては、平成の反知性主義に対して自分たちが無力だった経緯を、反省しての行動なのでしょう。
 しかし、ヨーロッパで反エリート主義が反緊縮政策の形をとるのは、EUという、国家の上部にあり、選挙権がきちんと及んでいるのか不明瞭な存在が、共通通貨(ユーロ)の価値を維持するために「外部から緊縮を強制してくる」という前提があるからでしょう。日本に、それに相当するものがどこにありますか。「財務省支配がそうだ」というなら、まずはその根拠を政治学的に示すのが、本来の知識人の作法ではないでしょうか。
 まったく前提が違うのに、「ノン・エリートの声に耳を傾ければ、結論は反緊縮だ!」というのは、短絡というほかありません。知識人が率先して、「不勉強」というシンプルな意味での反知性主義を実践しているようで、憂鬱になります。
――何重もの意味で、「反知性主義化」が進んでいく世の中は、今後どうなっていくと考えていますか?
與那覇:エリートや専門家への不信は、これからも続くでしょう。しかし、いくらエリート支配が不快でも、「じゃあ自分で全部やれよ」と言われると、多くの人は困ってしまう。その場合、「誰によって統治されたいか」の基準が大きく変わり、結果的に前近代への逆行が起きないかと心配しています。
 近代社会を運営する学歴エリートは、勉強の成果という「後天的」に習得された特性によって、自分たちを権威づけてきました。それが気に入らないという反面、出自・家柄といった「先天的」な権威については、セレブだといって以前よりも持ち上げる風潮が、平成の半ばからあるように感じます。たとえばタレントどうしで結婚するより、歌舞伎役者の奥さんになる方が「格上だ」と匂わせる報道が、ずいぶんありますよね。
 くわえて日本では歴史が壊死していっているので、人々が優生学の復権に怖さを感じない。「能力は遺伝で決まる!」といった趣旨の記事をよく見かけますし、美男美女の芸能人カップルが結婚すると「子どもの遺伝子が凄そう」といったコメントが普通にあがる。どうして、本人の幸せより遺伝子が気になるのでしょうか。
――スポーツ選手どうしの結婚でも、どんな優秀な運動能力の遺伝子を持った子どもが生まれるのか、などという話がでますね。
與那覇:平成のあいだ、主にリベラルな知識人は「ぼくたちが改革をやって、古い慣習を壊し、もっとのびのび自分の能力を発揮できる社会にします」と唱えてきました。だけど、自分自身に「社会で活躍できる能力がある」と思える人って、実はものすごい少数派なんです。
 結果として、多くの人はむしろ「たかだか後天的な能力でいばってるエリートは、ムカつく。どうせエリートぶるなら、『生まれからして違います』であってくれ。それなら我慢できるから」という風潮に流れていったようにも思います。トランプ大統領にしても、父親も不動産王だからそこまでたたき上げじゃないし、娘さんは完全に親のコネで仕事をしている。でも、それでいいという人たちが、現に多数派としているわけです。
 「反知性主義と戦う」というなら、トランプや安倍さんの���別の「バカな言動」ではなくて、そうした潮流の方を見なくてはいけない。かつて学者として、それができていなかったという反省も込めて、今回の本を書きました。
――難しい課題だと思いますが、本書の中では対案も出されていますね。
與那覇:現時点での粗っぽいデッサンにすぎませんが、そうです。「能力」というものの捉え方を変えるしかない。それにともなって、大学はじめ教育機関のあり方も、考えなおしていかなくてはいけません。
 ヒントをもらったのは意外にも、病気で知りあった友人たちと始めたボードゲームでした。たとえば、病気の症状もあって「能力が低い」人がゲームに交じると、進行が滞って、みんな不愉快になる。そういう風に考えがちですよね。率直に言って、自分も最初はそうでした。
 しかしそれこそが、平成の知識人と同じ誤りを犯していないか。むしろ能力を個人ではなく、その場にいる人びとの全体が共有しているものだと考えて、「個人単位で見た場合の能力差があっても、みんなが面白く楽しめるように、この場を運営すること」こそが、本当の意味でやりがいのある「ゲーム」ではないか。
 そうしたいわば「能力のコミュニズム」を通じて、ギスギスとしていく社会に新しい展望を開きたい。その考えに至ったとき、教員・学生相互の間で不協和音が広がり、安易な弥縫策で教育のレベルも下がってゆく目下の大学を辞めることに、まったく後悔はなかったんですね。「病気で失職した人の手記」と聞いて連想しがちな印象とは違って、むしろポジティヴな本にできたと思っています。
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arakawalily · 2 years
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お料理一皿一皿、全てに魔法もかかっていました❣️楽しい謎解きを一部動画でご紹介❣️こんなにアートフルなフレンチレストランは初めての体験🇫🇷 @legiantokyo 渋谷の天空のフレンチレストラン🇫🇷レギャン東京さんへ❗️ レギャン東京は、最上cocotiビル最上階に位置し、彩り溢れる緑や木々に囲まれたスカイガーデンテラスから摩天楼を一望できる、大都会“TOKYO”とバリリゾート❗️産地にこだわり素材の旨味をしっかりと引き出した“五感で味わうフレンチ”コースです❗️ 落ち着きがありながら印象的な内装と美しい眺望はお祝いの席に最適ですビル最上階!五感で楽しむイノベーティブ・フュージョンレストラン! 『味覚』『視覚』『嗅覚』『聴覚』『触覚』の五感すべてで感じることができる芸術的なコースに舌鼓❣️ まず驚いたのがお品書きがイラストで暗号化されています。謎解きのようなメニュー❣️ 🌟五感を刺激するイノベーティブ・フュージョンプラン 12800円 【序章=prologue=】 奥多摩虹鱒のグジェールサンド 本を開けば始まるストーリー 洋書を模した箱を開けると、グジェールサンドとおしぼり。檜の香りのおしぼりで手を拭いてからいただくと虹鱒の風味に檜の香りが加わります。 【鏡開=kagamibiraki=】 ポルチーニ茸のポタージュ ポルチーニが濃厚に香る幸せのスープ 【晩冬=crystal of snow=】 蝦夷鹿のパテアンクルート 絵を仕上げる楽しさ❗️ ここに土を模した塩と雪を模した粉状のオリーブオイルで絵を完成させてくださいとのこと。 そしてお皿とは別にドライアイスが入ったポットにローズマリーを入れて、その香りとともにいただきます。 【途次=on the way=】 イトヨリダイのポワレ フレンチ王道のブールブランソースに柚子の香りが加わること益々芳醇に❗️ 【小休止=brief pause=】 季節のアサイーグラニテ  【熾火=charcoal fire=】 鴨胸肉の炭火焼きローストと黒トリュフリゾット縮緬キャベツと、備長炭蓮根 柔らかな鴨の旨味。表面はパリパリ香ばしいです。 鴨とオレンジの香水をふりかけて❗️ 【有終=ending=】 天使のミルフィーユプレート さらに液体窒素で花を瞬間冷凍し、ミルフィーユに花びらをかけるという、楽しいプレゼンテーションでした❗️ 🍹ドリンク追加 1杯 1380円 自家製レモンスカッシュ 自家製ノンアルサングリア ミックスベリーヴァージンモヒート シンデレラ(シンデレラ気分になる魔法のカクテル🍸) #イノベーティブフュージョン #ザレギャントーキョー#supported#東京フレンチ#渋谷グルメ#レギャントーキョー #渋谷デート #渋谷記念日 #レギャン東京 #渋谷女子会 #渋谷フレンチ #東京グルメ レギャントーキョー#荒川リリー#lilystudio @legiantokyo (レギャントーキョー) https://www.instagram.com/p/CnHWyFZSa0F/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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honyade · 4 years
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(5月31日まで開催中)【フェア】人から紐解くiPS細胞
代官山 蔦屋書店 営業時間について 5月11日(水)~当面の間 11:00~19:00
■代官山 蔦屋書店ご入店に関して ・1号館2階 映像フロアでのレンタル対象商品は「新作のみ」とさせていただきます。 ・3号館2階 音楽フロアはご利用いただけません。 ※お客様およびスタッフ同士の距離感を十分に取れる空間の確保・維持のため、入場制限を設ける場合がございます。 その場合は整理券を配布いたしますので、ご案内の際は指示に従ってくださいますようお願い申し上げます。 ※大変恐れ入りますが、マスクを着用していないお客様のご入店はお断りしております。 ※休店日や営業時間、当日のご案内方法は予告なく変更となる場合がございます
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iPS細胞研究所所長の山中伸弥さんをはじめとした研究者の方々や、京都大学総合博物館で行われる特別展「iPS細胞、軌跡と未来―こだわりの研究所を大解剖―」の関係者の皆様が、ご自身の人生で現在に至るまでに「刺激を受けた本」の数々を紹介教えて下さいました。 それぞれコメントも頂いておりますので、これが皆様にも刺激となれば嬉しいです。
———- 京都大学 iPS細胞研究所 所長 山中伸弥
『宇宙英雄ローダン・シリーズ』K・H・シェール他(著)ハヤカワ文庫SF 子どもの頃、夢中になって読んでいました。科学の力で問題を解決していく登場人物にあこがれたのが、今の仕事の原点かもしれません。日本語版が600巻を超えた今でも続きが出ている人気作です。
『星新一のショートショート』 環境問題、人口増など現代にも通じる社会問題に鋭く切り込んだ作品が多く、読んでいて刺激になります。
『仕事は楽しいかね?』デイル・ドーテン(著)きこ書房 アメリカ留学から帰国後、仕事に悩んでいたときに読んだ本です。思うように研究が進められず、研究を続けるかどうか悩んでいた私に、仕事を楽しむことを思い出させてくれました。
『FACTFULNESS』ハンス・ロスリング他(著)日経BP 科学者にとって、自分の偏見を捨て、データと真剣に向き合うことは非常に重要です。これは科学者以外の方にも言えることだと思います。この本は、世界のいろいろな事象を思い込みに惑わされずに見つめる訓練にとても役立つと思います。
『理不尽に勝つ』平尾誠二(著)PHP研究所 仕事をしていると、理不尽な目にあうことはたくさんあります。そんなときに手に取る本です。著者の平尾誠二さん(故人)とは友人として深い付き合いがあり、仕事の進め方やリーダーシップについて、多くを教えてもらいました。この本は、彼から教わったことを思い出させてくれます。
———- 京都大学 iPS細胞研究所 所長室 中内彩香
『阪急電���』有川浩(著)幻冬舎文庫 片道わずか約15分という阪急今津線の乗客の人間模様が優しいタッチで描かれ、映画化もされた大ヒット小説。人にはみな、それぞれが主役の人生のドラマがあるという当たり前なことにふと気づかされると同時に、(誤解を恐れずに言うと)「人って悪くないな」と思わされます。人間関係に少し疲れたときに読むと、ほっこり温かな気持ちになれる一冊です。
『僕たちの戦争』萩原浩(著)双葉文庫 何の接点もない戦時中の少年と“今どき”の少年が、ひょんなことからタイムスリップして互いの時代を生きる様子を描いたフィクション小説。背伸びしない、少年の目線で当時を想像しながら本の世界に没入し、現実世界に戻った後も、当時の人が急に今の私たちの日常に迷い込んでくるとこの世界はどう見えるのだろうと想像を膨らませました。当時を懸命に生きてきた方たちのおかげで今があるということを改めて考えさせられました。
『チーズはどこへ消えた?』スペンサー・ジョンソン(著)扶桑社 いつから変化を恐れ、前に踏み出すのをためらうようになってしまったのだろう。常に起きる変化にどう適応するかは自分の考え方次第。物事をシンプルに捉え(自分で勝手に複雑化しない!)、柔軟に行動し、冒険を楽しむ。「新しいチーズ」探しの旅を始める勇気をこの本からもらいました。心が弱くなる度に読み返すと背中を押してくれる、私の良き伴走者です。
『Newtonニュートン』ニュートンプレス 親が愛読していたこともあり、物心がついた頃にはページいっぱいに広がる鮮やかなビジュアルに惹かれて、わけもわからずページをめくっていました。今思えば、それが知らず知らずのうちにサイエンスに興味をもつきっかけになったように思います。読者を「追いていかない」工夫が凝らされ、また号のテーマによらない最新の科学情報も得られるので、おすすめです。
『SNOOPY COMIC SELECTION』チャールズ・M・シュルツ(著)角川文庫 1950年から描かれ、スヌーピーをはじめ愛くるしいキャラクターが人気の漫画。ほのぼのとしたやりとりに心を癒されるときもあれば、子どもの他愛のない一言が、大人が目を背けがちな真理をついていてハッと気づかされるときもあります。読後の爽快感がたまらず、休日の午前に読みたくなる作品がたくさんあります。
———- 京都大学 iPS細胞研究所 臨床応用研究部門 准教授 池谷真
『神様からの宿題』山本育海他(著)ポプラ社 私たちの研究室では、進行性骨化性線維異形成症という筋肉組織中に骨ができる難病の研究に取り組んでいます。この本は、患者である山本育海君と、そのお母さんの手記です。患者さんとご家族が抱える苦悩、葛藤、決意などの思いが込められています。毎日を頑張って生きようという気持ちになります。
『細胞の分子生物学』ブル-ス・アルバ-ツ他(著)ニュートンプレス ミクロ系生物学が網羅されている、大学レベルの教科書です。大学合格が決まった後、すぐに購入しました。当時、第2版で、現在は第6版になっています。時に読本として、教科書として、辞書として、そして枕として大活躍しました。
『最強マフィアの仕事術』 マイケル・フランゼーゼ他(著)ディスカヴァー・トゥエンティワン 実際に裏社会で成功を収めた著者が、仕事のやり方を経験に基づいて書いた本だそうです。『マフィア』の法則ですが、現実社会に通じる内容が数多く含まれています。思わずニヤッとしてしまうような箇所もあり、心が疲れた時に半分娯楽として読むとちょうど良いかと思います。
『ブラック・ジャック』手塚治虫(著)講談社 医学に関心がある漫画好きの方なら、一度は読んだことがあるのではないでしょうか。法外な治療費を請求するなど理不尽に思える内容もありますが、治療不可能と思える患者を一人の天才外科医が治していく姿に憧れました。
『ドラえもん』藤子・F・不二雄(著)小学館 あんなことやこんなことを、夢の道具で実現してくれるドラえもん。何より、その発想の自由さに、子供心をくすぐられました。ただ同時に、サボった分は後から自分でやらないといけないという人生訓も教わりました。
———- 京都大学 iPS細胞研究所 未来生命科学開拓部門 講師 中川誠人
『ぼくらの七日間戦争』宗田理(著)角川文庫 中学生が大人の言いなりにならないために一致団結して向かい合う青春ストーリー。テンポがよく、ワクワクしながら一気に読んだ覚えがあります。秘密基地などは誰もが幼い頃にあこがれたのではないかと思います。本の終わりも痛快・壮快で良く覚えています。映画にもなりましたね。純粋に楽しめる本だと思います。
『三国志』横山光輝(著)潮出版社 最初に横山光輝さんの漫画から三国志の世界に入りました。様々な登場人物がそれぞれの信念を持って中国統一に向けて戦います。武力だけでなく知力、政治力、一番は人力(魅力)に優れている事が重要だと感じました。そういう人の周りには優れた人が集まり大きな力となるのだと思います。小説は数種類読みましたが、書き手によって内容や登場人物の性格が違っているのが面白かったです。個人的には劉備・関羽・張飛の義兄弟の絆にあこがれます。
『ザ・ゴール』エリヤフ・M・ゴ-ルドラット(著)ダイヤモンド社 ストーリー仕立てで、製造現場の生産管理の手法「制約条件の理論(Theory of Constraints)」を易しく学ぶことができる本。研究には関係無さそうであるが、ラボマネージメントの観点から非常に参考になりました。考え方によって様々な状況に対応できる理論になり得るのではないかと感じました。
『英語は3語で伝わります』中山裕木子(著)ダイヤモンド社 初心者でも、なんとなく英語を勉強してきた人でも参考になるのではないかと思う。いかにシンプルに英語で表現できるかを学べる。英語を難しく考えがちな思考を変えてくれる良本と思います。
『マイケル・ジョーダン物語』ボブ・グリーン(著)集英社 引退した今もなおバスケットボール界の神様と言われているマイケルジョーダン(MJ)の伝記。コート上での神様MJの圧倒的な支配力、そして人間MJの比較をうまくまとめた本。超一流の人には何か共通するものがあるのだろうと感じた。
『細胞の分子生物学』ブル-ス・アルバ-ツ他(著)ニュートンプレス 通称「セル」と呼ばれる、生物学の基礎教本。最初はその重さにやられてしまいますが、制覇した時の達成感は忘れられません。生物学の研究を志すなら、要点をまとめたエッセンシャル本もありますが、是非「セル」を読んでください!筋トレにもなります(笑)
———- 京都大学 iPS細胞研究所 国際広報室 和田濵裕之
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ(著)ハヤカワepi文庫 幹細胞を使った再生医療に関係する仕事をしている者として、とても刺激になりました。ノーベル文学賞受賞で話題にもなりました。どういう未来が私達にとって良いのか、考える際の参考になると思います。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹(著)新潮文庫 村上春樹さんの作品はどれも好きですが、特に印象に残っているのがこの作品。読むのにとても頭を使いました。こんなに頭を使ってしんどい思いをしながら読んだ作品も珍しいですが、しんどくても次を読みたいと思わせる魅力があります。科学的コミュニケーションにもそうした魅力をうまく持たせたいです。
『パラサイト・イヴ』瀬名秀明(著)新潮文庫 科学コミュニケーションを行う上で、科学に興味のない人にどうやって科学的な内容を伝えたらいいのかと悩む中で参考になった一冊。物語の中に科学を散りばめることで、より多くの人にアプローチできるのではないかと思うきっかけとなりました。
『アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス(著)ハヤカワ文庫NV 刻々と変わっていく文章の書き方が、日々変化している主人公の知能を反映していて、初めて読んだ高校生のときには衝撃を受けました。時が経過して、アルツハイマー病の患者さんの病気が進行していく姿にも共通するように感じ、改めて読み直したいと思った一冊です。
『ルリボシカミキリの青』福岡伸一(著)文春文庫 大学3回生の時に学生実験で数週間だけ指導をしていただいた福岡伸一先生。雑談の中にあふれる知識に魅了され、4回生の研究室配属では福岡先生の研究室に入りたいと思いました。残念ながら他大学へ移られてしまい、念願は叶いませんでしたが、あの時に感じた魅力、科学コミュニケーションにとって大事なことがこの本には現れているように思います。
『アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス(著)ハヤカワ文庫NV 刻々と変わっていく文章の書き方が、日々変化している主人公の知能を反映していて、初めて読んだ高校生のときには衝撃を受けました。時が経過して、アルツハイマー病の患者さんの病気が進行していく姿にも共通するように感じ、改めて読み直したいと思った一冊です。
『銀河英雄伝説シリーズ』田中芳樹/藤崎竜(著)集英社 舞台は宇宙ですが、歴史ものの小説のような作品。世界には様々な価値観があり、いずれも正しく尊重されるべきであることを強く意識するきっかけとなりました。
———- 京都大学 iPS細胞研究所 国際広報室 志田あやか
『松風の門』山本周五郎(著)新潮文庫 中3の国語のテストで収録作『鼓くらべ』に出会い、すぐに図書館へ走ったのを覚えています。自分の信念ではなく、人にどう見られるかを基準に行動してしまいそうになったときに読む本。
『壬生義士伝』浅田次郎(著)文春文庫 吉村貫一郎という新選組隊士が主人公。「お国のため」が第一だった武家社会を背景に、自分の軸を持って生きるというのはどういうことかを教えてくれる本。
『どうなってるのこうなってるの』鈴木まもる(著)金の星社 父に毎晩読み聞かせをしてもらって育ちましたが、リピート率No.1はこの本でした。「どうなってるの」で十分タメてから「こうなってるの!」と進むのがコツです。
『脳死・臓器移植の本当の話』小松美彦(著)PHP研究所 著者の小松氏は、大学に入って最初の講義の講師でした。「私を含め、他人が言うことを検証し建設的に批判できるようになれ」と言われたのが記憶に残っています。この本は、小松氏自身がそれを実践した著作。脳死のとらえ方に新しい一石を投じてくれるはずです。
『完璧じゃない、あたしたち』王谷晶(著)ポプラ文庫 あたりまえのことなんですが、男との出会いだけが、女にとっての「特別」であるはずがないのです。恋愛、友情、尊敬、女同士のいろいろを描いた短編集。
———- 京都大学 情報環境機構/学術情報メディアセンター 助教 元木環
『観る―生命誌年刊号Vol.45~48』中村桂子(著)新曜社 中3の国語のテストで収録作『鼓くらべ』に出会い、すぐに図書館へ走ったのを覚えています。自分の信念ではなく、人にどう見られるかを基準に行動してしまいそうになったときに読む本。
『壬生義士伝』浅田次郎(著)文春文庫 JT生命誌研究館の季刊冊子が年に一度まとめて発刊されるうちの一冊。研究者である編者が様々な分野の専門家と繰り広げる対話の連載や各種記事が、生命科学関連の研究を非専門家向けに、丁寧なテキストとビジュアル表現で伝達されており、研究を伝える時の態度や工夫が感じられるのが楽しい。この号は、自分が大学で、研究を対象にデザインをし出した頃にとても参考になった。
『図解力アップドリル』『[動く]図解力アップドリル』原田泰(著)ボーンデジタル この2冊のシリーズは、「読めばすぐできるような」デザインマニュアルだと思い手に取ると、期待を裏切られる。タイトルやぱっと見からではわからないが、知識や情報、あるいは経験を「視覚的に表現し、伝達する」ことの本質を、頭と身体を使い、実践的に掴んでいくための道しるべとなる本になっている。デザイナーだけでなく、科学を対象とするデザインに関わる人にもとても参考になるし、続編の「動く」の方は、映像作成の考え方の基礎にもなる内容で秀逸。
『患者はだれでも物語る』リサ・サンダース(著)ゆみる出版 CiRA展と���別で展示の準備中に出会った先生からいただき、とても面白かった本。医師が患者の問診や診察でどのように診断をしていくかが物語として描かれている。デザイナーが、制作依頼を受けて、相談、制作していくデザインプロセスとも通じるところがあることが興味深い。
『デザインに哲学は必要か』古賀徹 (著)武蔵野美術出版局 デザインの実践者かつ教育者である著者らによる論考がまとめられており、デザインの裏側にある考えを想像する手がかりになる本。実践者が自ら「デザインとは何か」と問い、表現している言葉に共感を覚える箇所が多数ある。CiRA展に関わったデザイナーたちは確かに、(うまく言語化できていなかったとしても)フレキシブルでかつ一貫した考え方を持って、制作に携わっていたのだ、と想像してもらえるかも。
『優しさごっこ』今江祥智(著)理論社 私が紹介するまでもない有名な小説であるが、小学生の頃以来、時々読み返す本。いつも関西(京都?)の言葉で綴られる光景やモノローグや会話の表現、時々出てくる食べ物の描かれ方に引き込まれるが、タイミングによって、娘、親、別の登場人物など、別の視点で読んでいる自分と、行間や背景に想像できる範囲が変わっている自分に気がつかされる。装幀や挿絵(初版は長新太さんによるもの)を含めたブックデザインに興味を持つきっかけとなった一冊でもある。
『アイデア No.355』アイデア編集部(編)誠文堂新光社 もし古本でも手に入るなら、「《特集2》奥村昭夫と日常」のページをみてほしい。CiRAマークの相談を受けブラッシュアップした、グラフィックデザイナー(当時京大メディアセンターの客員教授であった)奥村昭夫氏のデザインに対する態度、大学の中の様々な仕事の中でCiRAマークの制作に関わることになった様子に触れることができる。
『美術館は眠らない』岩渕潤子(著)朝日新聞社 大学生の頃、授業中ある先生から「美術館に興味があるならこれを読んでみたら」と紹介され出会った本。筆者がアメリカの美術館での研修員時代の体験談を軸に、アメリカでの美術館を支える組織、社会のあり方が紹介されている。今とは時代背景は異なるが、美術館や博物館を運営する(もちろん展示を行うにも)仕事は多様な専門性があって成立していること、国によって異なる歴史や社会の仕組みが、美術館や博物館にもとても影響をすることを教えられた一冊。感染症の関係で、美術館や博物館にまつわる社会の仕組みも再編されるのではという目で読むこともできる。
京都大学総合博物館 准教授 塩瀬隆之 『ちいさなちいさな王様』アクセル・ハッケ他(著)講談社 わたしたちの国と人生が真逆で、たくさんの知識や先入観をそぎ落とし、どんどん好奇心あふれ、いたずら心であふれる最期を迎える国の王様の話。「可能性で埋め尽くされた想像の毎日を捨て、なぜ斯くもつまらない一つの正解だけを追う日々を生き急ぐのか」と王様にわたしたちの社会が笑われている。
『エンデの遺言』河邑厚徳(著)講談社+α文庫 ファンタジー童話『モモ』や『はてしない物語』で知られるミヒャエル・エンデの晩年の関心は、「お金を根源から問い直すこと」。お金がお金を生む投機的な世界に心を奪われた現代社会を風刺し、思想家シルビオ・ゲゼルの「老化するお金」を研究した。『モモ』の世界に登場する時間貯蓄銀行の灰色男は、あくせく働きすぎの現代社会を40年も昔から見透かしていた。
『木を見る西洋人 森を見る東洋人』リチャ-ド・E・ニスベット(著)ダイヤモンド社 問題を細分化する西洋流の要素還元的なモノの見方に対して、全体の調和を保とうとする東洋流のモノの見方こそが大切で、どちらかに優劣をつけようというのではない。大局観を失った近視眼的なモノの見方を揶揄する言葉であるが、それが心理的な差異にとどまらず、経済、法といった社会制度の好み、宗教観にまで影響を及ぼしていると指摘する。
『不実な美女か貞淑な醜女か』米原万里(著)新潮文庫 ロシア語通訳の米原万里が、要人通訳などにおいて意識した技術と視点を紹介する本。見栄えはよいが中身を伴わない文章と、見栄えが悪くも中身を正確にとらえた文章、使いこなす文章は常にその間を揺れ動いている。翻訳に限らず、あらゆる言葉の表現をするうえで、悩ましくも筋の通った考え方を示す。文章そのものも明解で極めて参考になる。
『バーバパパのがっこう』A・チゾン/T・テイラー(著)講談社 学校を舞台にしたバーバパパシリーズ。監視を強める学校に反発する個性豊かな子どもたちに手をやく大人。見かねたバーバファミリーが、ダンス好きな子、絵が好きな子、メカが好きな子それぞれの個性にあった学びをとどける。興味をもったところに、学校の数学の先生がかえってきて一緒に教え、結果として質の高い学びを得る物語。監視を強める学校教育への警鐘と言える。
———- 特別展「iPS細胞、軌跡と未来 こだわりの研究所を大解剖」デザイナー 東南西北デザイン研究所 石川新一
『生き物の建築学』長谷川尭(著)平凡社 泥臭い、生きるためのデザインをしたいと思った時に読むといい本
『さあ、横になって食べよう』バーナード・ルドフスキー(著)鹿島出版会 既成概念にとらわれていないか?と自分に問う時に読むといい本
『鯨尺の法則』長町美和子(著)ラトルズ 日本文化で癒されたい時に読むといい本
『Usefulness in Small Things』Kim Colin and Sam Hecht(著)Rizzoli アノニマス(無名性)デザインで参考になるいい本
『メイカーとスタートアップのための量産入門』小美濃芳喜(著)オライリー・ジャパン 私などデザインをする人が将来の野望ために読むといい本
———- 特別展「iPS細胞、軌跡と未来 こだわりの研究所を大解剖」デザイナー 奥村昭夫
『伊丹十三選集』伊丹十三(著)岩波書店 若い頃、伊丹さんの本は読む楽しみとともに、元気づけてくれました。 今、伊丹十三選集を楽しく読んでいます。
『瑞穂の国うた』大岡信(著)新潮文庫 文中の、夏目漱石の”レトリック など弄している暇はないはずだ、ア イディアがすべてだと思うよ、ということです。”の言葉に、製作の確 信を得てたびたび思いおこしています。
『常用字解』白川静(著)平凡社 常に手の届くところにあって、漢字と言葉の散策をしています。
『黒田泰蔵 白磁』黒田泰蔵(著)求龍堂 圧倒的に美しい白磁、緊張とすみきった空気を感じ、頭と心を研ぎす ましてくれます。
『大衆の強奪』セルゲイ・チャコティン(著)創元社 “戦争に対する戦争”のスローガンに代表されるように、伝える事の 本質と、言葉とシンボルの力を教えてくれました。
【プロフィール】 京都大学iPS細胞研究所 iPS細胞研究所所長の山中伸弥さんをはじめとした研究者の方々や、京都大学総合博物館で行われる特別展「iPS細胞、軌跡と未来―こだわりの研究所を大解剖―」の関係者の皆様が、ご自身の人生で現在に至るまでに「刺激を受けた本」の数々を紹介教えて下さいました。 それぞれコメントも頂いておりますので、これが皆様にも刺激となれば嬉しいです。 2006年に誕生し、2012年に「成熟した細胞を、多能性を持つ細胞に初期化出来る事を発見」した事により、山中伸弥/J・B・ガードン両氏が2012年のノーベル生理学・医学賞を共同受賞した事で、一躍再生医療の救世主と目されることになった「iPS細胞」。 そんな新たな存在を医療の現場に応用させる為の研究を行う「京都大学iPS細胞研究所(CiRA)」は2020年で設立から10周年を迎え、同研究所の軌跡と未来を記した『iPS細胞の歩みと挑戦』(東京書籍)も刊行されます。
会期 2020年5月11日(月)~2020年5月31日(日) 時間 営業時間通り 場所 蔦屋書店1号館 1階 ブックフロア 主催 代官山 蔦屋書店 共催・協力 京都大学iPS細胞研究所 東京書籍
問い合わせ先 03-3770-2525
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『第六学舎』
 窓からは密かに写真家たちがこぞって撮りに来る紅葉が綺麗だった。  その筋では著名な教授が高説を垂れている。授業中の静謐な空間はまさしく聖域で、何者にも邪魔されることはなかった。しかし一方で、自らに生まれるストレスや疲れという内的なエネミーに関しては別だった。連日課されるレポートの山に耐えうるだけの精神力がそろそろ尽きて来て、自分の方に眠気の悪魔が寄り掛かる幻想を見た。  あまり綺麗でない古いアパートに住んでもう三年半が過ぎた。家賃は月に五万と五千円、食費や光熱費を考えると更に支出は膨らむ。週四回のコンビニバイトと少しの仕送りでなんとか生きているが、そのコンビニでの仕事と難易度の高い専門分野のレポートをこなすと余暇はあまりに少ない。こうした状況の中で生じる休息の不足によって、なかなかに息の詰まる日々を送っている。   作る時間がなかったので、僕には友達がいなかった。完全に、といえば嘘になるだろうが、しかし交友関係は片手で指折り数えるくらいだった。だから、友達から過去問を貰うということもないし、友達と一緒に授業の課題に頭を悩ませるということもない。それがどうというわけではないのかもしれないし、それを言い訳にするのは違うのだろうが、──僕は単位取得率が極めて低い。親に成績低調者の家族向けの書類がやってきて、「これはどういうこと?」と冷たい声で電話越しに詰め寄られたのはそう遠い昔の話ではない。  しかし実際こうして授業を受けていても、何のことにもならないような無気力さがあった。予備校生のときは西京大学に入りたいという気持ちを持���て勉強し見事合格、それから夢溢れる大学生活を想像していたものだ。  それが今はどうだろう。怠惰で自堕落な腐れ外道の大学生活。目的意識もなければ共に高みを目指す学友もいない。そういう日常の危うさを誰よりも自らが理解していながら、僕は何も解決しないでいた。  教授がチョークを持つ手を止め、籠ったマイク越しの声で一つ咳払いをしてから、こう言う。 「あの、眠いなら寝てきなさい。悪いことは言わないから」  僕のことを言われたのだろうか。しかし僕は知らん顔で目を伏せたまま、眠気に身体を任せたまま再開された授業に耳を傾けて……そのような態度だと周りに認められるかどうかはともかく、そうしていた。  眠りの世界にまた突入しようとした僕に教授はまたチョークで何かを書く手を止めた。 「君に言ってるんだよ。高校生じゃないんだから、もう注意しないよ」  ああ、別に何を言われても構わない。大学生なんだから、自分のことは自分で決めるさ。  人の目より自分のことの方が今は最優先だったので、そういう意味では高校生以下なのかもしれない……大学生になっても、歳をとっても何か変わるということは一切ないのではないかとすら思うのだ。そんな屁理屈をこねながら、僕は睡眠欲求に負けた。  それから目を覚ましたのは随分あとで、それは横にいる人間に肩を叩かれたのが主要因だった。 「先生、この人もう起きないんじゃないですか、寝かしてあげましょうよ。可哀想だし」 「……お、起きたようですよ。おはようございます。  貴方はこの研究室のメンバーではないはずですから、三限目からずっとこの教室で寝ていたんですね」  自分のロングスリーパーぶりに自分でも驚く羽目になるとは思わなかった。目の前にいたのは先の授業で弁を振るっていた落ち武者スタイルの教授ではなく、どこか弱々しい雰囲気を身にまといヨレヨレのスーツを着ていた名前も知らない先生だった。 「すみません、不躾な姿を晒してしまいました」 「いえいえ。何なら、今日だけでも私たちの話に参加していきませんか」 「嵯峨野先生、ちょっと、どうしたんですか。ずっと部屋にいたからって研究内容の話するんですか。第一、ここの研究内容って授業中から寝てるような人に理解できるんですか?」  ゼミ生だろうか、必死に教授の暴走を止めようとしている。僕は正直どっちでも良かったが、なんとなくすぐ終わるなら流されてもいいような気がしていた。 「心配いりませんよ。むしろ、面白くないですか? こんなに劣悪な環境で眠れる人間が世の中にはいるんですよ。寝ている最中も声は普通に飛び交っているし、横からたたき起こされるし。その中でこんなに図太くいられるというのは相当なものです」 「……何を言われているのかとか褒められているのかどうかとか、そういうところはさっぱりですが、僕は根本的に不真面目なので、先生のご高説を拝聴しても理解できるかどうか」 「なーに、そんなことは何も考えなくていい。なにせ、私も貴方の専攻に関しては素人でしょうからね。違うフィールドに立てば私が偉いということはなくなるので、気にしなくていいんですよ。さて」  嵯峨野先生は自分の世界に入られる方で、非常に落ち着き払っていた。そして、言葉を選びながら慎重に物事を筋立てていく研究者だということが僕にもすぐに分かった。 「我々の研究の第一義には『核エネルギーの利用』があります。もっとも、昨今は原子力発電の危険性が叫ばれていますから、そこまで声高にその利点や特性について何か語ることはしづらくなってきていますが、そもそも核融合を使った発電の仕組み自体知らない人が論説していることがあって、我々研究者としては非常に不本意な訳です」 「嵯峨野先生は、そういう核エネルギーについてもっと効率的で安全な利用法がないかどうかを研究する方で、普通のひとから見たらとてもじゃないけど心配性すぎてついていけないかもしれません」 「ちょっとどころじゃないよね、かなり変わってると思う」  嵯峨野先生がゼミ生たちからそこまでして言われるような教授には見えなかったが、人には表面を撫でただけではわからない多面性というのがあるのだろう。触るだけでは色の分からないルービックキューブだって六面あるんだから、人間はもっといろんな顔を持っていてもおかしくない。 「たとえば、原子力発電の問題で言えば、いわゆる「核のゴミ」といわれる放射性廃棄物を再利用する核燃料サイクルというのがありましたが、これは今では破綻しているという意見があります。これには、高速増殖炉という、いわば『使った燃料以上に燃料が出来るので、半永久器官化できる』と言われていたようなものが失敗に終わったり、使用済み燃料をウランと混ぜて燃やしたりというプルサーマル計画に穴があったり、と色んな背景があるわけなんですが、そうした問題をどのように軟着陸させ、違う形での核エネルギーを利用した発電方法とその安全性の確保をしていくかというのが、この研究室の諸課題なわけです。お分かりいただけたでしょうか?」  僕は、並べられた専門用語をいちいち質問するのは野暮だと思った。大筋は流し見していたニュースで見ていたことだから知っているし、その方向性でいいのかもしれない、ということも分かる。 「ええ、非常にわかりやすかったです」 「それは良かった。思わぬ来訪者でしたが、話してみて良かった。少し疲れたので脱線しますが……」 「あっ、先生。もしかして、気になっているのは『あの件』ですか?」  ゼミ生のひとり、三つ編みのツインテールという今どき流行らないヘアスタイルをした女子が言った。それにしても、僕は彼女のいう『あの件』を知らないのだが、それはなんなのだろうか。 「ええ。流石に冗談めかしてますからね。皆さんもまさか本気で受け取ってる人はいないと思いますが」 「あの。皆さんが仰っていることが分かりかねまして。僕は本気で友達がいないので、そういった学内で流行ってる話に疎いんですよ」 「何ですって、それはいけませんね。まあここからは無駄話ですから、つまらなくなったら帰ってもらって構いません。  ……お、全員、帰らないんですか? そうですか、いいでしょう。それでは話しますからね。  皆さん、『西京大学は核実験を止めろ』という投稿は見たことがありますか」 「はい」 「もちろん。何ならネタにもなってますよ」  僕は不勉強でそんな不謹慎なことがあるのかともはや感心してしまった。まあ軽率なネタってだけで、教授が深刻にとらえることもない事柄だろう。 「その元ネタを探ると興味深いことがあったと、かつての卒業生から連絡があったんです」 「と、言いますのは?」 「この大学でも学生運動というのがあったんですよ──私はまだそのとき高校生なわけですが──その学生運動の看板を探していたら、似たような文字列を見つけたというんですね」 「なんで見つかったんでしょう。ただの卒業生の方なんですよね」 「そのへんは語ると長くなりますが、簡単に言うと演劇部のOBでいろいろ前衛的な芝居をやるにあたってそういう界隈を調べ漁ったら、出て来たらしいですね」 「あ、それ学祭でそれっぽいのやってた」 「そうそう、それが原形になった舞台を来月辺りにやるらしいですよ。あの子、宣伝上手なのは昔から変わらないですね」  学祭は毎年秋に盛大に行われ、四日にわたって学内、とくに模擬店や大きなステージはお祭り騒ぎとなる。僕は一年生の時に所属していた部活の手伝いに行ったっきり顔を出していないが、本当にその盛況といったらない。 「それは置いておいて……まあ、学生運動の看板に使われるほど古いネタがなんで再燃したか、ってのが本当に謎なんですよ。調べればすぐに出てきてミーム化するような言葉とも思えませんし。しかも、その時代はちょうど戦後体制への不信感が高まっていたとはいえ、大学で核実験を行っているという突飛な言説が出てくるというのも、��ささか不自然なんですよね。まあ、私が深追いしていい問いとも思えなかったので、謎は謎のままにしておいたんですが」  教授は核の原理的説明やエネルギーの効率的な利用といった文脈にはもちろん文献をも凌駕する詳しさをお持ちなのだろうが、それ以上に核が置かれた文化的・社会的背景に詳しかったことに僕は驚いた。 「おみそれしました。僕なんて単なるネタで書かれてたんだろうと思ってたんですが」 「いや、当時の人たちだって、さすがに本気で核実験が学内で行われていたなんて思っていなかったでしょうからね。そんなに気にすることじゃあないんでしょうけど、そういう意味のある無駄なことを気にするのも面白くありませんか?」  僕が意識しないことを面白がるとき、こうやって理由を明確にして面白くないかと尋ねるのがそれからも教授との話では常になるのだった。  研究室で疲れた身体を癒す上級生が僕のいる教室に先生を呼びに来たついでに、帰り際の僕に声をかけた。 「知らない顔だね。どうしてここにいるんだ?」 「なんでっていうと、難しいんですけど。寝てたら何か巻き込まれました」 「……どういうこと?」  まあ、はじめから理解される気はない。 「ま、嵯峨野先生は言葉が足りないことはないから大丈夫だと思うけど、逆にうるさく感じてたら申し訳ない。止められない俺らが悪いわ」 「いえいえ。全然、成績が芳しくない僕でも話についていけるくらい丁寧でしたから」 「それだったら良かったけどさ。  でも、まあせっかくこの研究室に来たからには、ここで語り継がれている密かな噂のひとつでもしようじゃん」 「あの、『西京大学は核実験を止めろ』じゃないですよね?」  僕はまさかこの話をまたされるんじゃないだろうなと思って先回りをしたのだが、先輩は薄く笑って、ははは、と乾いた笑いを弄した。 「うーん、まあ、割と近いんじゃない?  じゃあ、『真夜中の虹』は知ってる?」 「昔の映画ですか。ロード・ムーヴィー風の。一度だけ見たことがあります」 「ごめん、それはたぶん違うよ。『真夜中の虹』ってのは、昔あった学校非公認の美術系団体で、よく問題を起こして学校から怒りの鉄槌を下されてたらしいんだけど、そこにいた人間のうちの一人が今でもテロ組織の指名手配犯になってるって話。『西京大学は核実験を止めろ』ってふざけた看板を作成したのは、その第一歩なんじゃないかっていうのが、この研究室にいた先輩たちの大方の見方だね。でも」  先輩はこう続けた。 「西京大学は核実験をしてたからって何か不味いことが当時あったんだろうかね? だから大っぴらに告発した、って線を消す必要はないんじゃないのってのが俺の、誰にも言ってない『諸説』だね」 「先輩、それ本気ですか」 「おいおい、俺はいつから君の先輩になったんだよ。気軽に『トモさん』とでも呼んでくれ」  彼は気軽に、構えないように、と僕に言った。彼にとってはパーソナルな関係の定義がとても広いのだろうと思った。 「それじゃ、トモさん、改めて聞きますけどその『諸説』は本気なんですか」 「ああ、本気だよ。別に根拠があるわけじゃないけれどね? こんな住宅地に近くて、その割に敷地面積が広いんだから、核実験施設の一つや二つは地下やどこかにあったって不思議じゃない」  ……前言撤回。気軽に接しやすいというのではなく、ただの変人だった。 「あやふやすぎて、なんか、信じるに値しません」 「そんな風に言うなよ、これはただの思考実験なんだから。『もしも、西京大学が地下に核実験施設を持っていたら?』という問いが真だったら、どんな風な世界なんだろうね。西京大学にあるから、たとえば京大や東大にも核実験施設があったっておかしくないだろう──憲法か何かで禁止はされているだろうけど、そういうことは隠れて行われるから、まあ規律とかは所詮その程度のものってことだよ。ナンセンスだと思うかい?」 「……ええ、かなり」 「価値観の相違っていうのかね、こういうのは。嵯峨野先生が聞いたら怒りそうな話なのは確かだから、君も俺もそういう話はしないでおいたほうがいいというのは言っておくけれど。重大な価値観の相違があるから」 「嵯峨野先生って怒るんですか」 「一度だけ怒っているのを見たことがあるけど、意見の食い違った学者相手だったから俺しかその姿は知らないかもね。普段はもう仏よ」  トモさんの話は、友達のいない僕にとって、随分久しぶりに全く違う人生を歩んできた存在を見ているような気分になった。たった看板ひとつの話でここまで違う考え方の人間がいるとは、と思った。 「ああ、ただ、よく言ってるけど全然分からない言葉はいくつかあるよね」 「それってどんなのですか」 「『黙っていたら死んだことにされるぞ』とか、『意味のある無駄と意味のない無駄がある』とか、『核融合は本当はやりたくない』とか。もうどっちなんだよ、っていうことがいっぱいある」 「あーそういえば僕も、意味のある無駄なことを気にするのも面白くないか、みたいなこと言われました。あの先生、本当は唯物論者の哲学者なんじゃないですか?」 「そんな気がしてきたな」  トモさんは人の悪そうに笑った。
 学祭の準備で学内が色めきだつ頃になった。銀杏の葉が落ち、実が道に転がる。あれ踏むと匂いが靴に付くから避けな���ゃいけないんだよな、と思って避けていたら、人にぶつかった。 「あ、すみません」 「ごめんなさい、私が不注意で──あれ、この前の」  あの時代遅れっぽい三編みの子だ。こちらからすれば、なんだ、昭和の女学生か? と思っていただけなので特に印象とかはなかったのだが、この子からすると僕はロングスリーパーとして激烈な印象を与えていたのだろう。 「どうも。あれから嵯峨野先生は元気にしてるの?」  彼女は少し口籠っていた。僕の持っていた元々生ぬるいコーヒーが冷めていくのを感じて、焦れったくなって「どうした? なんかあったのか」と聞いたなら、ちょっと疑り深さを隠しきれない声で、 「嵯峨野先生、最近ちょっと様子がおかしくて」  と言うではないか。  僕は交友関係が相変わらず狭くてやっと反対側の手に付き合いの人数が拡がったくらいなので、そのあたりのことはやっぱり詳しくなかった。そして、他人にはやはりそんなに興味がない性格もまったく変わっていない。  しかし、一度でも深く長く面白い話をした人間の動向となれば、少し別になるのだろうか。まさかこんなところで核エネルギーの話をすることになるとは……僕はちょっと長話になるのを覚悟した。 「いいよ。話を聞きたいけど、少し肌寒くなったし、そこに入ろう」  僕は学内にあるチェーン展開された喫茶店を指した。しかし彼女はかぶりを振って、「そこだと都合が悪くて。私の部室に来てくれない? もうひとり、ウチの同期もいるし」と返した。普通にしていれば話を聞かれることもないだろうに、そこまで警戒する心理がなんとも分からないものだった。 「そんなに慎重に話さないといけないようなことか」 「どちらかというと、嵯峨野先生の名誉に関わることなんだよね。私だって別に喜んで他人のことを悪し様に言いたかないのよ」 「悪い話ってことなのは、今までの態度で分かった」  学内でも外れにある真っ白な団地じみた建物を上って二階の部室に辿り着くまでに、そんなに時間はかからなかった。珍妙な飾りつけでなんとも入るのには抵抗があったのだが、彼女がドアを開けたものだからそれについていくしかなかった。 「どうも、お邪魔します」 「まあ、ゆっくりしていってよ。同年代なんだから」  本当は僕がひとつ上だとはなかなか言い出しにくかった。 「彼女から事情は聞いた?」 「ああ、まったく事情を把握するには足らないけれど、嵯峨野先生があまり良くない状況に立たされてるのだけは分かった」 「それだけ理解できてたら全然大丈夫だよね、弓削」 「そうだけど──話をする前にひとつ。これは流石に教授が可哀想なので、他言無用で」 「ちょっと待った。そんな大事な話を、この前からちょくちょく会ってるだけの僕に話すんだ? 近況がよろしくないということが分かれば、僕にそこまで喋る必要なんてない」 「『真夜中の虹』」  そこで僕が沈黙を挟んだので、つむじ風が、びゅっと吹く音がした。  『真夜中の虹』が研究室の中でひとつの定説の根拠となっているのは理解しているが、なんで僕がトモさんにその話をされたことをこの人たちは知っているんだろうか。 「その感じは、やっぱり知ってるんだね。  じゃあ、この話は知ってるかな? 嵯峨野先生は『真夜中の虹』に所属していたこと。どうかな?」  あの理知的な姿勢を見せていた嵯峨野先生が、大学や政治を皮肉るような前衛的な芸術運動に関わるというのは、なかなか理解の及ばないことだった。 「ええ、もちろん知らない」 「だと思った。ちょっと安心したよ、既にその話が広まっていたらどうしようと思っていたから。やっぱり、偶然とはいえ、将来テロリストになる人間と同じ団体に入っていたというのは、核科学者としてはちょっと怖いどころの話じゃないし、いろいろとどうしても疑われそうだよね」 「嵯峨野先生が芸術肌だったのは、このせいか……」 「設立メンバーに誘われて加入してるから、もともと多感で影響されやすい人だったのは確かだと思うんだ。まあ、入っていながら『核実験をやめろ』看板を知らないってのは不思議なんだけど、これはあんまり重要じゃないね」  重要かそうでないかの区別が僕につくはずもなく、ただ同意してしまった。 「嵯峨野先生はどこかアヴァンギャルドな作品を作ってたらしいってどこかで聞いたんだけど、作品も見られないし忘れちゃったな。今でいうなら岡本太郎みたいな感じで」  ああ、岡本太郎か、彼なら核の戦禍、とりわけ原爆や水爆について描いていたと美術の教科書に書いてあったなと思い出した。その絵がとびきり気持ち悪くて、とびきり強烈だったから。 「それでね、そのときの共作相手を調べたら、……私、驚いて、何も言えなくなった」 「なんだよ。もったいぶらずに話してくれよ」  彼女が、何か話したいのに話せないときに見せる表情を、短いうちに分かってしまった。いったい、何が不安なのだろうと僕が推測するのもほとんど無駄だと思えた。  もう飲んでいなかったペットボトルの中のコーヒーは冷たかった。ひどく冷たくて、それが今から聞くことの衝撃をまた意識させた。 「朝香伯光──のちに、東光銀行の頭取を人質にしたテロ事件を起こした主犯格。小郡孝也──ハイジャック事件を起こし、のち逃走、現在も指名手配犯。松笠悠紀彦──のちに人気歌手になるも、有毒ガスを観客の待つ会場に充満させ死傷者多数の事件を起こし、現在は死刑を待つ」  これほどまでに、すらすらと言葉が出てくるだろうか。冷たく無表情で感情もない事実の羅列が頭を殴る。 「それは本当のことなのか?」 「共作も、犯行事実も、ともに正確性は高いと思うよ。それにしたって、こんなに社会に対して強烈な悪意を持つ人ばかりが共作相手になっているなんて、偶然ではまったく考えられない」 「それって」 「前衛的な美術団体なんてのはやっぱり化けの皮に過ぎないのかな、という結論に至ったのが、あなたと会ったちょうど一週間後」  その結論を材料に導き出されるのは、 「嵯峨野先生も、そういうことだったってことか」 「その可能性は高いんだろうね。だけど、それだけなら、俺たちが何か心配して、先生の暴走を止めようと騒いでいる、というのは少し無理があると思わないか?」 「どういうことだ」 「……それは、私から言わせて。私が最後に研究室を訪れたのは先月の物凄かった雨の日──そんな日は一日しかなかったから、わかるよね──だけど、そこに教授がいなかったの。……私は、ううん、私たちはそれから嵯峨野先生の姿を見てない」  嵯峨野先生が消えた? 今まで語られたこととの結びつきが怪しくて、あまりにどうも突拍子のないことだと思った。 「すまん、一つ聞きたい。今までの美術団体の話と嵯峨野先生の失踪はどんな関係があるっていうんだ?」 「関係はあるかもしれないし、ないかもしれない。だけど、研究室にはこんなものが残されていたんだよ」  三つ編みの彼女の同期といった筋肉質の男が説明しながら僕にスマホの写真を見せた。ピントのあっていない写真でも、それが何なのかはわかる。これは、壁画だ。それも、色彩感覚が非常に前面に出た、意味を含ませている恐ろしい絵だ。 「嵯峨野先生の失踪は、きっとこの壁画の写真に関係のあることがきっかけなんだろうと思う」  僕は、必死にその絵のことを思い出そうとした。そんなにアヴァンギャルドで、個人的な感覚と政治性を優先し、しかし有名になるほど普遍性を獲得した画家はいたのだろうか──いや、一人いる。  岡本太郎だ。  彼が残した作品の中で、そんな広い壁画はアレしかないだろう。 「それって、きっと『明日の神話』とかじゃないか?」 「ん? そんな作品あったっけ」 「あっただろ。俺もこいつも知ってるってことは、有名な作品には違いないだろう。しかし、なんでこんなものを置いて行ったんだ」  僕たちにその答えを出す能力は全くと言っていいほどなかった。  沈黙が流れるごとに、手持ち無沙汰な時間を使って自分の話していたことを整理するごとに、自分たちがやろうとしていることの恐ろしさと怖さに何か支配されそうになる。だけどそれを言葉にするのは難しかった。なぜ僕は恐れているのだろう。何を恐れているのだろう? 現実の何かが怖いのだろうか、それとも何かの意図に気が付くのが怖いのだろうか。  いや、僕たちはきっと空間の中にある僅かな気配だけを感じ取ろうとしているのだ。それは単なる恐れではない……人が生み出したものへの、畏怖だ。 「まったくの推論だし、根拠はないけど、繋がったのかもしれないしそうじゃないのかもしれない。ま、話だけでも聞いてくれ」  僕はへりくだったが、これは相当に自信のある結論だった。  嵯峨野先生は何をしようとしているのかということまで踏み込むつもりはなかったのだが、浅ましくもそういう話に立ち入らざるを得なくなったのだが、結論から言えば、嵯峨野先生もやはり何かの計画を実行しようとしているというものだった。その『何か』というのは、恐らく自らの専門分野である核反応についてのことなのだろうが、しかしそれを実行するだけの設備も覚悟も、ふつうのおじさんにしか見えない彼にあるようには見えない。  しかし、それがもし彼にある、と仮定したらどうだろう。  もしくはこう問を立ててもいい。もし、そのような『社会変革』を行えるだけの装置が身近にあったら、彼のような思想を持つものはどうするのだろうか。たとえ科学者の理性をもってしても止め難い何かに突き動かされるとすれば、答えは自ずと一意に決まるはずだった。  そんなことを僕は語ったのだった。 「どうだろう、別にすべて自分が正しいと思っているわけじゃないけど、話を聞く限りこういうことが言えるんじゃないか」 「それはまだ掘り下げが足りていないと、俺は思う」  彼がこういったのは、きっと状況証拠によってすべてを説明しようとしている僕に対し『証拠不十分』ということを突き付けたいようだったが、それを僕はこう切り返した。 「状況証拠だけで十分だろう。動機はあるんだ。やるかやらないかは先生の自由意志だけど、それをやる環境が整っているんじゃないかということを言っただけだ」 「……少し気になったんだけど、いい? もし仮にそうだったとして、他の『真夜中の虹』のメンバーみたいに若いころにテロ計画を起こさなかったのは、なんでだと思う?」 「それは、わかるんじゃないか? つまり、核実験装置が大学の中に密かにあったとしても、そのときは動機としては成り立ち得なかったが、母校の教授に就いて日が増すごとに、『これは有望だ』と思いながら実行の日を待ってたんじゃないか、ってこと」 「それだったなら、教授になった段階でテロが起こってもおかしくないんだよね。今、このタイミングで起こる必然性が証明できない」  話は同じポイントを堂々巡りするようにして展開する予感がしていた。それが不毛なことだと思っていても、既に僕たちの間で膨らんだ疑心それ自体は誰にも否定できないどころか、ますます拡大していた。 「何にせよ、細かい部分は間違っているかもしれないけれど、それは筋の悪い話ではないと思う。問題は、それを確かめるための手段だな」 「下手したら、死ぬからな」 「ま、私たちは責めるのが目的じゃないってのは忘れないようにね。現実問題、この時期に教授がいないのは色々と厄介だから」 「分かってるよ。上手くやる」 「それじゃ、周辺の人に嵯峨野教授へアプローチをとってみるよ」 「……ありがとう。ありがたいんだけど……嵯峨野教授と向かい合うのは僕に任せてくれないか」  僕は、嵯峨野教授に相対する役目を自分に担わせるように言った。そうすれば、他の誰かに傷も痛みも負わせずに済むし、一番嵯峨野教授に警戒されていないのは僕だろうから、と。  しかし、彼女は言葉を詰まらせたときと同じような、強く動揺したままの顔で反発した。 「はぁっ? 何でよ。私が行く方が、よっぽど信頼されているから話を聞いてもらえるかもしれない」 「弓削、それは甘い考えだ。相手は俺らが考えている以上の、社会に対する煮込み終わった悪意を持っているかもしれない。それで死ぬかもしれないのに、軽々しく自分が行く自分が行く、っていうもんじゃない。もちろんお前もだ、吉岡」 「分かってる」 「分かってる、分かってる、っていうけど、本当は分かっていないだろう。本当は俺だって怖いんだよ、お前の言ってることがもし本当に当たっていて、そのことで自分たちが死ぬというのが。こんなところで死にたいわけないだろう。嵯峨野教授の気持ちを知ってどうする。あの人がいつか起こすかもしれないことを止めてどうする。それで何になるっていうんだ」  それは僕が三年半の間起こしていた自分に対する恐れと似ていた。自分が何かすれば何が変わるということは別にない、それが現在であり、ずっと未来もそうなんだと思っていた。なるようになると生きていた。しかし現実は、自分が何かしなければ今まさに死ぬかもしれないという極限状態にまで追い詰められている。  今、畏れを抱いている相手の言葉を借りたくはないが、『沈黙を貫くことは、生きたまま死ぬということ』だとしか言えなかった。 「それでも、今止めなきゃいけないんだよ。嵯峨野教授がまだ何もしていないのは、実は僕は奇跡なんじゃないかとすら思っている。動機も凶器も、そして狂気も揃ってるときた。いつ何が起こってもおかしくない。……ふたりはまだ、あるだろう。ひとりじゃないだろう?」 「……いつから、そんなに自虐的になったんだ」 「生まれてからずっと。本当は反出生主義を取ってたんだけどな? おかしいな、こんなに人のことで熱くなるなんて」 「全然、吉岡君は矛盾なんかしてないでしょう。きっとそれが人の本心だよ。でも、放っておけないよ、ひとりでは行かせられない」 「──僕の話を聞いていたのか? 来るなと言っている!」  強い剣幕で扉を��めた。  二人の驚愕する顔が脳裏に浮かぶが、それも仕方のないことだ。これは、何も背負っていなくて、偶然にも爆弾を踏んでしまった通りすがりの僕のやることであって、決して何の罪も罰も与えられていない彼らに押し付けていいことじゃないと思っていた。
 『真夜中の虹』は、前衛的美術団体である。  学生運動の機運上昇とともに、西京大学の中にどこからともなく自然発生した団体である。創始者は小倉眞之介という文学部心理学専攻(現:社会科学部心理学専攻及び文学部心理学研究コース)に所属のしがない大学生であったが、徐々にその内実は政治的に過激な発想を美術の名のもとに解放していく、マリネッティさながらの未来派的な側面が強くあらわれることとなった。  さて、そこで嵯峨野教授──いや、嵯峨野氏は、創始から三年遅れて大学に入学し、『真夜中の虹』に所属していた高校の先輩からの誘いを受けてその団体に参加した。ちなみにこの先輩とは、弓削さんが言っていたハイジャック犯の小郡孝也である。  『真夜中の虹』のシンボルマークを作ったのは、嵯峨野教授である。といっても、大層なものではなく、ただの鰻の絵だ。しかしこの絵は、団体の活動最末期における地下的な破壊活動の集合日時を表すためのいわば隠語として機能したという。鰻といえば土用の丑の日。土用の丑の日の『真夜中の虹』。  そう、彼らはきまって毎週土曜日の午前二時に集まって、次のテロ活動について話し合うのだ。  そのことに気が付いた僕は忠実にその日時に合わせて、西京大学の一番離れた場所にある学生会館の前までやってきた。そこは不自然に高く、まるで小高い丘の上に不自然に会館だけがポツンと建っているようにしか見えなかった。 「すみません。──『明日の神話』を見たいんですが」  合言葉はそれだけで良かった。職員もグルらしいが、僕もそれに乗る。スーツ姿で出迎えた胡散臭いおばさんが、笑顔から一転して何も言わなくなったままに僕を二つ鍵を開けた先にある階段に導いた。  真っ暗だ。  正直何も見えないが、触覚だけが頼りになりそうだった。  暗いが、どうやら一つ目の扉を開けると鉄の重たく朽ちそうな音がする。ぎいっ、と。しかしそこには何もない。まだ真っすぐ行け、と空間に指図されているような気がしていた。  そして二つ目の扉を開けるとより厳重に閉じられたこれまた重たく冷たい扉がズ……ズズ……と開くのである。しかしまだ何もない。それで、さらに奥に進むことを命じられた気分になった。  三つ目の扉は先の二つよりもさらに固く、自分が普通に押しただけでは開こうともしなかったが、引くと開いた。こんなときにそんな間違いをするかという感じだが、自分が何か落ち着いていることを逆に確認することが出来た。  そして、四つ目の扉に辿り着いた。どこまで歩いたのか、どうやって戻るべきなのかも忘れてしまうくらいに、ここに来てから扉しか開けていなかったが、この扉は先の三つと比べればもう全く軽く、見せかけの扉に過ぎなかった。  ここなんだな……。  僕は覚悟を決めて、そこでノックをする。 「ようこそ、私の『第六学舎』へ」  西京大学には、第五学舎までしか存在しない。  つまり、というより、やはりそこにいたのは彼だった。目の前にはあの頼りなさそうな風貌だけが目に見えている。 「なるほど。やはり貴方でしたか。どうりで、変わった人だと思ったんですよ」 「何が、なるほど、なんですか。……すみません、言葉遣いが荒くなるのを失礼します。  あんた、何やってんだ!」  僕は、今までの冷静さとか、そういう身に纏って来た自分の業を忘れて棚に上げたうえで、力強く吠えた。それは恐れを含んでいたのかもしれない。 「今まで生きて来て、そして怨嗟を貯めて正解だった。ここまでぐちゃぐちゃになっていたら、世界は壊しがいがありますね」 「壊しがいのある世界なんて、存在しない」 「いいや、それは存在する。  これを、この無用の長物による圧倒的な破壊を、私の小さな恨みによるものだと断罪しますか。いいでしょう。そうだとして、それが社会を変える動機になってなぜいけないというんでしょう。あるいは言葉を変えて申し上げるのならば、社会を壊す動機になってなぜいけないというんでしょう。  ……この核実験装置は、日本に投下された原爆の数千倍の威力を持つ、日本には存在しないはずの『兵器』です。いまから、私がそれを作ろうとした動機について説明しましょう。  私はまず、根本的に前衛的な美術に多大な影響を受けています。キュビズム、シュルレアリスム、未来派、そういった戦前からの系譜の上に、新たな芸術として我々も立脚しようと、先輩たちが『真夜中の虹』を創立されたわけです。ここに来たということは、もうご存じなのでしょうから、これ以上の説明は加えません。  そこで私はある作品が作成されていることを知りました。岡本太郎の『明日の神話』です。  『明日の神話』は、核爆発という凄惨な事態の後の世界を描いている作品で、一般的な解釈として、核爆発後の世界を生きることを表現していると言われたりするわけですが──私はこの描かれ方に少し異議申し立てをしたかったのです。つまりは、核兵器が炸裂し全てが崩壊した後の世界を、彼は一旦ネガティブに考えてから開き直ろうとする。  私は違いました、それは核研究について親和的であったからかもしれませんが。核兵器が爆裂したあとの世界は、全てが再構築される真っ白な世界として称えられるべきだと思ったんですね。  おかしいと思われますか。私にとってはそれがおかしいのです。  思えば、『真夜中の虹』という団体の名前を文字って、シンボルマークを作ったり色々なことを話し合う時間を取ったのは私な訳ですが、もっとも先輩たちから見れば、奇跡的にすべてが壊滅した後に残るものこそが希望だと捉えていたのかもしれません……これを答え合わせするには、随分時間が経ちすぎましたが。  おっと、いけない。思わず話しすぎてしまいました、核実験装置を作った動機に戻りましょう。  つまり、私がこれを作ったのは第一に美的精神の充足というやつです。しかしそれは単に美的なものを追い求めることに物足りず、圧倒的なまでの平穏を装っている社会に対する徹底的なプロテストとして作り上げたのです。腐敗した大学組織を崩壊させること、そしてこの忌々しき日常を破壊すること──それは私も貴方も同様に破壊されるということです。しかし、それがいい。それこそが、爆裂することで完成される芸術なのです。  ……ここに誰かが来たら、このスイッチを押そうと決めていました。これを押すまでに、もう四十年も経つとは。随分と驚かされました。しかし、貴方が見つけたことによって、ついにこれも日の目を見ます。  それでは。沈黙を貫くことは恐怖です。生きたまま死ぬことを味わってください。  さようなら」  僕の目の前でその赤は炸裂した。瞬間、それは溶けていく。何もかもの境界線が揺らぐと、原子の中で全てが壊れていく音を聞いた。いつかの苦しみを今なら分かる気がする。こんな狂気の前に屈しなければならない今の自分の無力さは気にかかったが、それ以上に消滅するだろう世界にどうしようもなく贖罪の気持ちが湧きたつのだった。  目の前を彩る紅葉はどんな色だったろうか……。  そして僕と教授はともに灼け朽ちた。  彼の芸術は、こうして完成した。
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【お知らせ】第3回福島県障がい者芸術作品展 「きになる⇆ひょうげん 2019」審査結果発表
第3回福島県障がい者芸術作品展 「きになる⇆ひょうげん 2019」の 審査結果を発表いたします。
   ★福島県知事賞★
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「おもいで本」  深谷 美加子(ふかや みかこ) 41歳(郡山市)
 
【評価コメント】
漫画雑誌のページの間に、深谷さんが気になったいろんなものが挟まっている。新聞のチラシやカード、シールを使った後だったり、いろんな紙が挟まって、この状態になっている。実がパンパンに膨らんではちきれそうで、ここからいろんな胞子なんかが飛んでいきそうな、そんなエネルギー・迫力にあふれた造形。深谷さんは、これを日頃持って歩いている。最初からなにかを作ろうと思ってはおらず、なにか気になったものの集積が結果的にこの形になっているので���ないか。意図していたらこうはできないんじゃないかと思える、本展ならではの作品。
   
  
★きになる⇆ひょうげん賞★ 
 
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「踏まれてもVサイン」「すだれVSエアコン」  芳賀 喜善(はが きよし) 45歳(会津若松市)
 
 
【評価コメント】
今回は写真2点を連作として選出した。まず「すだれvsエアコン」は、すだれとエアコンの室外機を、抽象絵画のように風景を切り取った1枚の写真。タイトルが表す通り、このすだれとエアコンの室外機が、夏の暑さに対して、それぞれ自然の力と人間の力で抗う戦いのような。色んなものを連想させる作品になっている。「踏まれてもVサイン」は、道路に落ちている軍手が、ペチャンコになって、ちょうど指の形がVサインになっている。持ち主知らずのものが道路に落ちていて、それが何かを訴えるかのように、勝利を宣言しているという。この2点の作品はどこにでもありそうな日常の風景だが、日常の中で作者の芳賀さんが気になったそのときの心境が、きっとシャッターを押させたんだと思う。
 
  
★審査員賞・日比野克彦賞★
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「リズム」 ※映像作品 塩谷 聡子(しおや さとこ) 44歳(郡山市)  
 
【評価コメント】 
本作は、塩谷さんが繰り返しおこなっているこのリズムを、スタッフが撮影して応募したものである。当然彼女が主役で表現をしているが、それを観客であるスタッフが気になったことで今回応募したのだと思う。表現というのは、表現者と、受け手である鑑賞者というものがいて、はじめて成立する。これを見るとそのことが分かるし、こういう状況は施設のなかではよく出会う場だと思う。同じ時間、同じ場所で、よく行う癖や動作。そういうのがダンスに見えたり、演劇に見えたり、なにか表現しているような身体表現に見えたりする。周りにいる人の見方次第ではいろんな表現になるという、そんなことを考えさせられる作品。
 
   ★審査員賞・川延安直賞★
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「象」 村上 駿仁(むらかみ はやと)14歳(田村郡小野町)  「命」 村上 茉奈美(むらかみ まなみ)13歳(田村郡小野町)  「風神雷神」 村上 麻莉奈(むらかみ まりな)11歳(田村郡小野町)
 
【評価コメント】 
本展は書の出品も多い。 書の良し悪しの評価は難しい。 意味の伝達が文字の最大の役割だが、漢字は起源が象形文字であることもあり、書く��に造形的関心が強く働く。意味と造形、書く者の想いがどう溶け合っているか、そこが書の醍醐味である。 あらためて書の良し悪しは難しい。 筆法の巧拙はさておき、障害の有無を読み取ることも難しい。 だが、言い換えれば文字の魅力のみを作品審査の基準とすれば良いということ。 村上駿仁さん、茉奈美さん、麻莉奈さんたちの作品は3点1組として評価した。各作品それぞれ魅力的だが、違うタイプの3点が揃うと一層輝く。 プロかと思わせる勢いの「風神雷神」「象」、正直で真っ直ぐな「命」。 素直に心ひかれる作品でした。
 
   ★審査員賞・岡部兼芳賞★
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「気になる かんばん・けいじばん」 KO☆(こうせい) 10歳(南会津町) 
 
【評価コメント】
本作は、看板がびっしり立て込んである作品である。KO☆さんは去年も作品を応募され、そのときはスケッチブックに、KO☆さんが車のなかから見た風景がたくさん描かれていた。そのスケッチブックがたくさんあったなかに、本作にも似た雰囲気を感じるものがあった。今年は、そのなかでも看板だけが抜き出されていて、なんでこんな風に貼ったんだろうと気になった。お母さんのコメントにも、このきになる⇆ひょうげん展が、KO☆さんの目標になっているという言葉もあり、お母さんとも一緒に考えながら作ったりしたのだろうかと、2人の関係も見えてくるような作品。見れば見るほどいろんなことが気になる作品である。
 
 
入賞者は以上となります。
 
特選
特選の作品は以下になります。 ���順不同・敬称略
 
・「丘車〜雪の上でもRCが好き〜(Half Clear Version)」 近内 冲尋(こんない おきひろ)36歳(郡山市) ・「近所の人」 フジオ(ふじお)70歳(郡山市) ・「ボンボン」 のぞみ号(のぞみごう)(郡山市) ・「大好きな・・・」 薄田 真平(うすだ しんぺい)11歳(猪苗代町) ・「こたつでみかん」 本田 正(ほんだ ただし)40歳(須賀川市) ・「自分の病気の世界を絵と文字にしました」 大友 義之(おおとも よしゆき)49歳(郡山市) ・「無題」 KEIJI(けいじ)26歳(郡山市) ・「無題」 江田 祐子(えだ ゆうこ)31歳(郡山市) ・「海底を漂うコブダイ」 森 陽香(もり はるか)31歳(郡山市) ・「東京タワー」 赤埴 地洋(あかはに ちひろ)15歳(猪苗代町) ・「にじ」 喜多見 結愛(きたみ ゆあ)16歳(猪苗代町) ・「恐竜図かん」 佐藤 柊也(さとう しゅうや)15歳(猪苗代町) ・「自転車」 長谷川 恒(はせがわ わたる)26歳(いわき市) ・「竹添さん」 鈴木 和子(すずき かずこ)51歳(石川町) ・「飲みたかった」 生田目 幸作(なまため こうさく)73歳(石川町) ・「秋の森人」 正木 柚衣(まさき ゆい)23歳(いわき市) ・「大好きなネギ」 羽根田 晃(はねだ あきら)45歳(福島市) ・「だいすきなロボット〜あつまれ12このロボット〜」 小野 広夢(おの ひろむ)10歳(福島市) ・「あらしをよぶはなよめ」 大内 聖惺(おおうち まさと)11歳(本宮市)
  
 
  入選者は下記をご覧ください。
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