#相馬で気仙沼さんま寄席
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この週末は#気仙沼つばき会 で福島 相馬へ出張でした〜。 跳ねたり、おどったり、うたったり、旗振ったり、コーヒー屋さんしたり。 笑いっぱなしの2日間。 たくさんの人たちにお会いできてたのしかったです。 . はー、やっぱり気仙沼さいこう。 #相馬で気仙沼さんま寄席 #ほぼ日 #志の輔師匠 #落語とってもおもしろかった #志の輔師匠に惚れた #落語すてき〜 #これから落語聞こう #単純 #アンカーコーヒー #気仙沼漁師カレンダー #朝市 #焼きサンマ定食 #汗と煙がすごいんじゃ〜 #もくもく #焼き手さんたちおつかれさまでした #きもちのよい疲れ #煙まみれ汗まみれ #おつかれさまでした #帰ってきたときの魚市場屋上からの眺め #はー気仙沼さいこう #船がたくさん #安心する〜 #penturn #半島移住 #移住style #karakuwa #kesennuma #からくわ (Soma-shi, Fukushima, Japan)
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散策研究会 Cadavre K 「徘徊する観察者 Vacant Lot」
散策研究会 Cadavre Kによる展覧会
「徘徊する観察者 Vacant Lot」
をTABULAEで開催いたします。
※散策研究会 Cadavre Kとは、2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクトの名称です
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|会場|
TABULAE (墨田区向島 5-48-4)
|会期|
2018/11/24 (土) - 12/16 (日)の金土日
- 金 15:00 - 20:00
- 土、日 14:00 - 20:00
※曜日によって開場時間が異なりますのでご注意ください
オープニングレセプション
11/24(土)18:00 - 20:00
|イベント|
第5回 漂流教室 「まわり道してTABULAEに向かう」
12/8(土)14:00 - 17:00(終了時刻は前後する場合があります)
集合場所 東武スカイツリーライン/東武亀戸線 曳舟駅改札口付近
定員 5名
参加費 無料(要予約 参加申込み締切12月6日)
東武曳舟駅に集合し、3時間ほどかけて墨田区京島、向島エリアを散策しながらTABULAEに向かいます(台風・雷雨・地震・大雪など災害級の天候以外は、雨天でも決行します)。
>漂流教室について
※こちらのイベントは定員に達したためご予約の受付を終了いたしました
アーティストトーク
12/15(土)18:00 - 19:00
ゲスト 沢山遼(美術批評)
定員 15名
参加費 1000円(要予約 参加申込み締切12月14日)
美術批評家の沢山遼氏をゲストに迎え、アーティストトークを行います。ゴードン・マッタ=クラーク展図録に掲載された沢山氏の論考「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」を参照しながら、都市、写真、散策��介入といったトピックについて議論します。
沢山遼 1982年生まれ。美術批評。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。2010年「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」で『美術手帖』第14回芸術評論募集、第一席。主な論文に「ニューマンのパラドクス」田中正之編『ニューヨーク 錯乱する都市の夢と現実(西洋近代の都市と芸術7)』竹林舎、2017年。「ウォーホルと時間」『NACT Review 国立新美術館研究紀要』第4号、2018年。「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」『ゴードン・マッタ=クラーク展』(東京国立近代美術館、2018年)など。
※両イベントは予約制となっております。参加をご希望される方は、件名を「漂流教室予約」または「トーク予約」とし、①お名前②ご連絡先③希望日時④人数 をご記入の上、[email protected]までメールをお送りください。
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『徘徊する観察者 Vacant Lot』開催にあたって|散策研究会 Cadavre K
散策研究会 Cadavre Kとは、2011年3月11日の東日本大震災に強烈な衝撃を受けたアーティスト北川裕二によって、同じ2011年から開始されたプロジェクトの名称です。今回のTABULAEでの新作展が、散策研究会 Cadavre Kとしては初の個展になります。あれから8年が経ったとはいえ、むろん福島第一原子力発電所は「収束」などまったくしておらず、同じように大地も揺れ続けています。したがって今回展示される作品は、そのどれもが3.11以後に制作されたものであるとしても、 むしろ“3.11下”のそれであるといってよいでしょう。
散策研究会 Cadavre Kは、以来、痙攣するこの世界を継続的に観察・記録しつづけてきました。しかし、その観察対象は福島県や岩手・宮城県などではなく、意外にもいま私たちが立っているこの場所でありました。観察対象への姿勢は当初、何よりもまず、直立二足歩行する私たちの、この足元の地面への関心から始ったのです。そのうえに築かれたあらゆるものは幻想なのではないか。であるとするならば、幻想はいかにして自然との関係を取り結んでいるのか。対立関係にあるものどもの、相反する構造(システム)と構造(システム)が、否が応でも接せざるをえない境界線、エッジが、あるいは「構造(システム)」の回収し得ない外部的なものが、観察対象として注目されました。
ほとんどの散策は、日中のほぼ一日をかけて台地や低地��ひたすら歩いて横断していくというものでした。“下町”と呼ばれる沖積低地、“山の手”と呼ばれる洪積台地、あるいは武蔵野平野、奥多摩山間地など。地形学の地形区分に従っていえば、 多摩面(T面)、下末吉面(S面)、武蔵野面(M面)、立川面(Tc面)の特徴と、それらが接する際に発生する崖線等の境界線や河川についての知識が事前に取り入れられもしました。定点観測ならぬ、歩行による動線観察が何度もくりかえされ、各地域・エリアにそれぞれ漂う特有のアトモスフィア、ムードは、散策者の心理状態の変化に影響を及ぼすことが確認されました。そうして、しだいに「東京の自然史」(貝塚爽平)が把握されていったのです。散策研究会としての散策は、これまでに123回を数えます。
また、同時に、踏み固められた地面の上に存在するあらゆるもの、すなわち植生・気象・家屋との関連全般が観察対象となり、写真に記録されていきました。散策またその写真記録は、当初、アートとしてはまったく考えられてはいなかった。むしろ、3.11の衝撃は、自然災害においてのみならず、政治的・文化的にもアートの「創造」的な「表現」による「生産」を不可能にしたように思えたからです。したがって、今回の展示においても、それへの疑いが根底にはあることを記しておきます。
地形・植生・気象・家屋の全般を観察対象にするということは、いかなる些細な事象も見落とすことなく全体を知覚・認識するということ。世界のすべてを対象にするということです。生態学的に言えば、個体のみならず、個体群、群集といった階層を異にするもの全般を、そしてまた、位階秩序の異なるそれらの影響関係をも観察・記録対象にするということでもあります。身の回りの環境や社会、つまりは生活を成り立たせているアレコレは、そのようにアレやコレやソレとして一括りにされて、記憶・記録から排除されてもきました。散策研究会が関心をもったのは、まさにそのような無数のアレやコレでありました。衝撃とは、近代化の名の下に隠蔽・排除されたものどもが、「原発震災」(石橋克彦)によって再び私たちの世界に回帰してきた、そのことにあったというわけです。
写真というメディアは、このような研究にはうってつけの道具でした。なぜなら、カメラの眼は原理的にいって、ヒトの眼と違い、“すべてのものを等価なもの”として扱うことができたからです。眼で見ていたときには見えなかったものが写真には写りこんでいたというのは、カメラのこの等価性、すなわちあらゆるものを平等なものとして、なんでも選ばず記録して���まう、このアナーキーな機能によるところのものではないでしょうか。
本展は、こうしたカメラ・写真の可能性を再び抽出しようとする試みでもあります。そこには、“すべてのものが等価なもの”として記録されている。しかし、そうであるがゆえに、その可能性は、他方で、ブレもピンボケもなく構図もしっかり撮れているにもかかわらず、“誰が、いかなる目的をもって、誰のために撮影したのか、皆目見当のつかない、まったく不明なる写真”という、実に奇妙に倒錯した(不)可能性の窓をも同時に開いてしまうのではないでしょうか。この点に、写真の機能が孕む矛盾が見てとれます。そこに提示されているのは、いわば世界の「無名性」のことにほかなりません。実現しているかどうかはさておき、このような写真の(不)可能性を本展では模索しています。
セレクトされた写真と映像は、昨年から今年にかけて撮影されたものに限られています。撮影箇所は主に武蔵野面(M面)の東端であり、区としては、中野区にあたります。中野区の同じエリア、環境をくりかえし何度も徘徊する。そのようなことはこれまでに一度も試みたことがありませんでした。
そしてこのことは、先程「武蔵野面(M面)の東端」と書きましたが、本展においては、地形的特徴への関心が次第に後方へと退き(薄らいだわけではありません)、かわって植生(主にヒト)と家屋、そして何よりも気象への関心が全体に配されてくるものへと推移してきたことと関連しています。くりかえし同じエリアをおとずれる散策スタイルは、写真の機能をより自覚的に操作しようということに、何らかの影響を与えていると感じています。
本展のコアとなる作品群は四部構成となる予定です。 ①独立した1点ものの「写真作品」 数点 ②数点の写真が組み合わされた「写真作品」 数点 ③液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「スライド作品」 ④液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「映像作品」 ①~④の作品にはシリーズとしてのメインタイトルと、各作品としてのサブタイトルが付されています。各メインタイトルは、①Survey Point (測量点) ②Photogrammetry(写真測量法) ③Voronoi Diagram(ボロノイ図) ④Skid Movie(横滑りの映画)となっています。また、参考資料として、本展の作品に関係する散策ルートを図解したパネルも展示する予定です。
また、本展覧会としてのメインタイトルとなった“Vacant Lot”ですが、これは日本語では空閑地のことです。一時的に未使用になった空き地。英語名にしたのは、“Vacant Lot”という言葉に興味をもったからです。この“Lot”には、くじ、運、運命という意味があるようで、それが一時的に空き地となった区画を指す言葉にも使用されているというのがおもしろかった。“偶々割り当てられたもの”としての空閑地。文字通りに訳せば、“空っぽの運命”です。
これは、今年国立近代美術館で回顧展が開かれたゴードン・マッタ=クラークの仕事を想起させます。カタログに掲載された美術批評家沢山遼氏の論文にマッタ=クラークの発言が引用されていて、瞠目しました。以下、孫引きですが引用させていただきます。
「グリーン通り112番地でやったアナーキテクチャーの展覧会は[…中略…]なんらかの強い形式性によって固定されることのない、固定化した建築的ヴォキャブラリーの外部にあるものについてのものだった。[…中略…]ぼくたちが考えていたのは、隠喩的なヴォイド、空隙、残余的空間、未発展的な場についてだった。[…中略…]たとえばそれは、立ち止まって靴紐を結び直すような、日常的な動作がふと遮られるような場だ。そのような場は、知覚的な重要性を帯びていると思う。なぜならそこで人は動的な空間に触れているんだ。」 (「ゴードン・マッタ=クラーク展」カタログ p.265)
つまり、“Vacant Lot”とは、この解けた靴紐のことなのかもしれません。紐が解けて固定された意味が一時的に宙吊りとなる時。場所。その瞬間はおそらく、九鬼周造のいう偶然性のごとく「現実性へスルリと滑ってくる推移のスピード」を持っているに違いない。“無”が偶然性によってもたらされるということ。環境、生活、世界への認識を深め、未来を洞察するにも、このような人と自然の接するエッジに現象するささやかな出来事に対する認識をさらに深めていく必要がありそうです。今回の展覧会がそのような世界への見方、感じ方、考え方に寄与できれば幸いです。
最後に、Cadavre KのCadavreはフランス語で、日本語では死骸のことです。したがって、Cadavre Kは、死骸キとなります。“キ”とはキタガワの“キ”のことです。3.11以後のプロジェクトにそう名付けたのは、このプロジェクトがそれまでの作品とはまったく異なることもありましたが、同時に、3.11以後、偶々生き残った=生き延びているという感覚を今も持ち続けているからにほかなりません。それは、どこか幽霊的に仮構された作者名といえるでしょう。
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散策研究会 Cadavre K
2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクト
漂流教室
第一回 霊岸島から埋立地へ (2015/milkyeast) http://ur2.link/N8ZH 第二回 河岸と下町低地(2015/milkyeast) http://urx.red/N901 第三回 山の手の<むらぎも>を巡る(2016/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/22767074/ 第四回 崖線上のカフカ──中野区を歩く(2017/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/23871177/
散策研究会 これまでの主な散策エリア
001 2011_06_11 新宿御苑 002 2011_06_18 等々力渓谷 003 2011_06_25 赤坂見附 004 2011_06_29 丸の内線・四ッ谷駅 005 2011_07_02 下末吉台 006 2011_07_06 迎賓館・明治公園 007 2011_07_09 市ヶ谷・飯田橋 008 2011_07_16 お茶の水・神田川・隅田川 009 2011_07_22 野川 010 2011_08_06 新木場 011 2011_08_11 高尾山 012 2011_08_20 隅田川・スカイツリー 013 2011_08_25 菊名・獅子ケ谷・下末吉台 014 2011_09_02 渋谷川 015 2011_09_08 皇居・日本青年館 016 2011_09_11 新宿・原発やめろデモ 017 2011_09_17 渋谷川・古川 018 2011_09_19 さようなら原発・渋谷川 019 2011_09_24 赤坂 020 2011_10_01 善福寺川 021 2011_10_07 港の見える丘公園 022 2011_10_13 山手 023 2011_10_22 宇田川跡 024 2011_11_03 御岳山・ロックガーデン 025 2011_11_09 巣鴨・田町・谷中 026 2011_11_12 神田川・小日向台 027 2011_11_17 都電荒川線・王子・荒川 028 2011_12_03 愛宕山 029 2011_12_14 上野・根津・谷中 030 2011_12_15 弘明寺 031 2011_12_21 荏原台 032 2011_12_30 立川段丘 033 2012_01_01 狭山丘陵 034 2012_01_05 三殿台遺跡 035 2012_01_12 目黒自然教育園 036 2012_01_19 明治神宮 037 2012_01_26 清瀬 038 2012_02_04 深大寺・府中 039 2012_02_08 江戸前島 040 2012_02_15 江戸前島 041 2012_02_24 浜離宮 042 2012_03_03 吉見百穴 043 2012_03_15 江東区・運河 044 2012_03_17 江東区・運河 045 2012_04_07 神楽坂 046 2012_04_14 渋谷川・明治神宮 047 2012_04_20 町田・自由民権資料館 048 2012_04_28 市ヶ谷・早稲田 049 2012_05_17 町田・自由民権資料館 050 2012_05_26 江東区・戦災センター 051 2012_06_07 全生園・滝山団地 052 2012_06_14 清瀬 053 2012_06_16 京島 054 2012_06_23 玉川上水・首相官邸前 055 2012_06_29 首相官邸前 056 2012_07_12 神田 057 2012_07_13 首相官邸前 058 2012_07_16 代々木・さよなら原発 059 2012_07_02 新富町 060 2012_08_08 六郷土手 061 2012_08_12 日野 062 2012_09_08 本郷台地 063 2012_09_15 東京湾・葛西臨海公園 064 2012_10_06 生田緑地 065 2012_11_10 青梅・横田基地 066 2012_12_01 大山 067 2013_01_12 渋谷・元麻布・六本木 068 2013_01_14 獅子ケ谷 069 2013_04_13 日本橋川 070 2013_04_27 小平・玉川上水 071 2013_05_25 赤坂・六本木 072 2013_06_06 代官山 073 2013_07_07 東京駅地下通路 074 2013_07_13 王子・吉原・スカイツリー 075 2013_07_27 多摩丘陵・百草団地他 076 2013_08_17 中央防波堤埋立地 077 2013_08_24 仙川 078 2013_08_26 谷中墓地 079 2013_10_26 渋谷・地下道 080 2013_11_09 京島 081 2013_12_28 山手 082 2014_04_24 池袋 083 2014_05_17 高田馬場・神田川・淀橋 084 2014_06_27 駒込・田端 085 2014_07_13 平林寺 086 2014_09_06 秩父 087 2015_05_16 湾岸埋立地 088 2015_07_20 白山 089 2015_11_22 深川 090 2015_12_11 武蔵五日市 091 2015_12_12 武蔵五日市・城山 092 2015_12_18 戸山公園 093 2015_12_26 板橋・赤塚 094 2016_01_06 深川・森下 095 2016_02_02 国分寺崖線 096 2016_02_26 立川段丘 097 2016_04_03 日立研究所 098 2016_05_31 水道橋・小石川・白山 099 2016_10_18 神楽坂・近美・湯島 100 2016_12_06 佐伯祐三・熊谷守一美術館 101 2016_12_13 南青山 102 2016_12_20 原宿・渋谷 103 2016_12_23 戸山公園 104 2017_04_04 野方 105 2017_04_07 江古田 106 2017_05_12 上高田 107 2017_06_09 上高田・野方 108 2017_08_15 池尻大橋 109 2017_08_17 池の上・高円寺 110 2017_08_29 桃園川 111 2017_09_15 中野区南台 112 2017_09_20 新宿住吉町 113 2017_09_22 所沢 114 2017_10_10 中野区中野台地 115 2017_10_20 野方 116 2017_10_27 新宿末吉町 117 2017_12_15 沼袋 118 2018_04_24 鷺宮 119 2018_05_29 中野区中心エリア 120 2018_06_12 野方・沼袋 121 2018_06_15 杉並・堀の内 122 2018_07_06 野方・中野区中心エリア 123 2018_09_11 野方
北川裕二
1963 東京に生まれる
主な個展
1990『形のローカリズム』 ギャラリー現(東京) 1991『A PALASITE/READY-MADE SUIT MIX』 ルナミ画廊(東京) 1992『短絡的接合体』 モリス・ギャラリー(東京) 1992『分裂機械としての身体』 ルナミ画廊(東京) 1992『暮らしの変換』 モリス・ギャラリー(東京) 1993『格子/闘争』 MARS GALLERY(東京) 1993『歴史改造パズル』 GALLERY・GEN(埼玉) 1996『What is a hole?/Make a revision of…』 SHIKI FUJIMORI GALLERY(東京) 2005『Random Open Textured』 MARU GALLERY(東京) 2006『Dust passes through the window』 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE (東京)
主なグループ展
1990『Bゼミ展』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 1992『Project for O.T』 ギャラリー・サージ(東京) 1993『In Between』 FLOATING GALLERY(東京) 1993『CONSTRUCTION IN PROCESS』 ARTIST'S MUSIUM(ウッジ、ポーランド) 1994『身体美術感』 ハラ・ミュージアム・アーク(群馬) 1995『The Age of Anxiety』 The Power Plant(トロント、カナダ) 1996『ATOPIC SITE(On Camp/Off Base)』 東京ビッグサイト(東京) 1996~98『Maniacs of Disappearance』 国立美術館(ブエノス��イレス、アルゼンチン)、Austrian Musium of Applied Arts (ウィーン、オーストリア)、その他オランダ、イタリアなど巡回 1999『第34回今日の作家展 APPROACHING REALITY』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 2010『City Beats + Live explosions』 BankART1929(神奈川) 2015『無条件修復—UNCONDITIONAL RESTORATION』 milkyeast(東京)
散策研究会──地殻を近くで知覚する
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仙台公演のレポートと第3期の総括です。
3月31日の土曜日、まだ桜が咲き始めたばかりの肌寒い仙台、東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館)にて東北ユースオーケストラ演奏会2018の仙台公演を行いました。この冒頭の写真はフォトグラファー丸尾隆一さんによるオフィシャルフォトです。このあと差し込んでいく写真でも、わたくしのライブ感と短距離感だけが取り柄の素人写真との違いを一目瞭然お気づきになるだろうと、あえてクレジットいたしません。丸尾さん、毎度のオフィシャル写真撮影をありがとうございます。
さて、21日の東京公演から10日間のブランクが空き、指揮の栁澤寿男さんとしては、「みんな、これまで出してきた注意、指示を覚えてくれているかなぁ」と不安そうです。
合同練習や合宿など集まる機会には必ず忘れ物が出てくる東北ユースオーケストラですが、演奏楽曲は身体に染み込んでいると期待したいところです。
リハーサルにあたって坂本龍一代表・監督から「今年度の締めくくりとなる、集大成となる演奏を」と柔和な檄が飛びます。
演奏会の構成も忘れているかもねと、舞台上の動き含めて演奏順に曲をさらっていきました。
コンサート前半を盛り上げて締める『Three TOHOKU Songs』は、団員の地元3県の民謡「大漁唄い込み」(宮城)、「南部よしゃれ」(岩手)、「相馬盆唄」(福島)をメドレーとして現代音楽の作曲家である藤倉大さんによる編曲作品です。
東北の民謡独特のグルーブ感にこだわる坂本監督は、本番直前でもパーカッションセクションに溶け込んでの手拍子指導です。
威勢のいい拍子木を響かせるのは気仙沼の高校生、三浦瑞穂さんです。以前伺った三浦さんのご実家のお隣まで津波で流された体験談は鮮烈に覚えています。この三浦さんのお祖父様がつくられた農園のいちごを差し入れでいただきました。
三浦さんお祖父様は民謡の先生でもあって、昨年は「ちょいさーのさーっさ」の掛け声のリズムとイントネーションについてご指導に来ていただきました。1年前の東京公演での『Three TOHOKU Songs』の演奏の様子はYouTubeでご覧いただけます。一聞は百見に如く。ぜひお聴きください。
youtube
一通り演奏と動きを通した後に、冒頭の開演前のカゲアナ隊の練習です。携帯電話を切りましょうなどの��注意事項を団員が表に出てお伝えする演出です。この仙台公演はもちろん仙台市出身で固めました。
右から畠山茜キャプテンはちょうど仙台市出身。坂本彩雲さん、中学1年生、フルート担当。木島悠太くん、中学1年生、ヴァイオリン担当。浅野海輝さん、高校1年生、パーカッション担当。狩野諒也くん、大学2年生、ホルン担当。曽我ひかるさん、大学4年生、コントラバス担当は、実は仙台市のお隣の多賀城市出身でした。
そして、開演を告げる団員の福島市の高校1年生、堤英純作曲の金管八重奏を、トランペット中村祐登くん、秋葉大地くん、井出大雅くん、ホルン曽根瑞貴さん、田嶋詩織さん、トロンボーン江見悠希くん、バストロンボーン新川和弘くん、チューバ冨澤悠太くんが、今日は花道で演奏します。
本番前にOGが激励に来てくれました。
見事大学に合格して来期から復帰してくれる郡山市の芦名さん(妹さんは第3期からのメンバー)と今年から宮城県の中学校で音楽教師となった初代キャプテンの長谷川桃さんの二人が、「ジャージ姿ですみません」という栁澤寿男さんを挟んで記念撮影です。
お昼のお弁当はJA共済連の今日は宮城県本部さんからいただきました。JA共済連さんには毎度毎度、団員の血になり骨になる食事をご提供いただき本当にありがとうございます。
リハーサルで疲れた身体には美味しさのあまり縦のお弁当になりました。
ごちそうさまでした!そして、東北ユースオーケストラオールドボーイズも応援にかけつけてくれました。
懐かしい顔の中でも注目��たのは一番左の岩花くん。昨年度まで岩手県宮古市から福島市の練習会場まで片道5時間かけて巨大なチューバとともにやって来てくれていたのですが、中学生の一年間見ない間に大学生と同じくらいの身長になっていました。思春期の雨後の筍のような成長には目を見張るものがありますね。
こちらは事務局の「おかーさん」こと岡田さんにTYOオリジナルハンカチーフを巻いてとねだる列。
本番準備が進んでいるのは舞台裏だけでなく、舞台表も同様で。
今年もJA共済さんのご厚意で、わたくしの駄文とノリだけの写真で活動記録のパネル展示をしていただいていました。
ロビーでの寄付受付コーナーもお客様を待つばかり。
昨年で卒団したリケジョ楢山さんがシックな黒づくめの出で立ちで、東京に引き続き地元公演の受付係にボランティアで参加してくれました。右隣は福島事務局の大塚真理さんの姪っ子さん、 菅藤 さんも就活スタイルで手伝っていただけました。そして、今回返礼品を無償提供いただいたアウドドアのプロダクトで世界的に高名なパタゴニア日本支社、自らアウトドアマンの辻井社長以下のスタッフのみなさんも、どうもありがとうございます!そもそものTYOロゴにはじまり返礼品にTYOロゴをあしらうデザインをしてくれた、TYOの美術教師長嶋りかこさんもありがとうございました!
開場直後からの「ロビコン」つまり、ロビーコンサートチームのご紹介です。 ホルン八重奏「3つのエピソードより第一楽章/真島俊夫」 千葉大輝、佐藤咲良、狩野諒也、立谷隆太郎、千田捺月、田嶋詩織、曽根瑞貴、磯貝雛子。
トロンボーン7重奏「Bosco Rosco / Tommy Pederson」大谷龍陽、江見悠希、大波さくら、筒井温之、橋本幸歩、新川和弘、冨澤悠太。
木管五重奏「木管五重奏のためのディベルティメントより第1楽章、第4楽章/ハイドン」菅野桃香、関根慧、田嶋詩織、西村優里、木戸口夏海と クラリネットカルテット「クラリネットポルカ」木戸口夏海、山中陽香、黒須菜月、阿達弘将のチーム木管。
ヴィオラ六重奏「G.P.テレマン/4本のヴィオラの為の協奏曲第1番より第3楽章」村岡瞭、服部未来子、高橋奈々、鈴木祥子、佐藤ひかり、紺野未帆。
さあ、開場しました。列をなしてお待ちいただいていた熱心なお客様に次々とアンサンブルを披露していきます。
団員のご家族ご親戚お友達も聴きに来られているのが呼びかける声からもわかります。これでこそ地元公演ですね。
カゲアナ隊が舞台袖に登場してきました。
続いてオープニングファンファーレの金管八重奏隊も。
団員が続々と下手の舞台袖に集まって来ました。
恒例の坂本監督とのタッチによる送り出しで、みんながステージに。
ピンボケ写真でもわかるのは監督に笑顔で応じるフルートの菅野さん。
オープニングは『Behind The Mask』。坂本監督YMO時代の作品です。
実はこの曲、東北ユースオーケストラが企画物として初登場したルツェルン・フェスティバルARK NOVA松島の2013年に演奏されていました。今回のために監督自らアレンジを見直され、開演にふさわしく管の響きが鮮やかな曲となりました。
二曲めは『戦場のメリークリスマス』。毎年の団員の演奏希望曲アンケートでは必ず何人かが挙げてくれていましたが、ついにTYOとして今年初披露できました。
三曲めは『ラストエンペラー』。初年度の夏合宿地の宮古島でシーサーをつくりながら皆んながこのメロディを口づさんでいたのが懐かしい、こちらおじさんの感傷に舞台袖でひたっていました。
滑り出し三曲は東京公演よりも落ち着いたいい演奏になった気がしますよ。司会の渡辺真理さんの流麗な進行につられ、坂本さん栁澤さんともに東京よりもリラックスされているのか饒舌気味で、客席にも笑いが起きています。
そして、次の出番を控えたあの方が!
後ろ姿から後光が差してる気もする小百合様。
ご登場です。
朗読される詩をまとめられたお手製の製本が左手に光りますね。
このパートでは坂本監督指揮による『Still Life』に合わせての朗読となります。
まずは団員の地元である岩手県は花巻市出身の宮沢賢治の詩から二篇「村娘」「星めぐりの歌」から
そして広島、沖縄の平和を願う詩をそれぞれ一篇、原民喜「永遠のみどり」安里有生「へいわってすてきだね」、最後は東日本大震災をきっかけに福島の小学5年生だった関根妃奈乃「あの山を登れば」です。
圧倒的な存在感がありながら、優しく包み込むような吉永小百合様の朗読は、やはり「日本の母」。東京公演の、のんさんの「妹の力」(©️柳田國男)とは個性のまったく違う時間が流れました。公開中の映画『北の桜守』のプロモーションでご多忙を縫ってのご出演ありがとうございました。わたくし個人的には、この日小百合様からリアルに「宏和さんは」と話題にされ、旧約聖書で神ヤーウェにいきなり名前を呼びかけられ、「なぜ神は私の名前をご存知なのか!?」と感動に震えたアブラハムのごとく畏れ多さに跪きそうになりました。(事前にわかればスマホで録音したのに・・・)
さて、続いては今年初めての企画、団員のオリジナル作曲作品を団員が演奏披露するコーナーです。昨年の12月に藤倉大さんによる作曲ワークショップを行い、親交のあるヴィオラ奏者の安達真理さんにも当日お越しいただき、数々の特殊奏法を紹介してもらいながら、それらを参考につくった団員の出来立てほやほやスコアをその場で実演してもらい、藤倉さんと坂本監督が講評するというものでした。当初の「ほとんど誰も作曲できないのでは」という予想をいい意味で裏切り、全員が2時間で作曲できたのです。人間の創造性というのは、環境と動機づけ、それを導く人次第で引き出されるのだということを実感しました。
今年の演奏会で作品を発表したい人を募りましたところ、6名が手を挙げてくれました。ここ仙台では、東京公演とは違う3名による作品を3名が演奏しました。坂本監督もステージに残り、会場の全員が耳をそばだててソロ作品を聴くという緊迫したコーナーです。
最初は福島県浪江町出身の大学1年生菅野桃香さん作曲作品「当��り前の幸せ」を岩手県北上市出身の大学4年生、木戸口夏海さんがクラリネットで演奏。
直前合宿でのリハーサル時に菅野さんの出身地を入団申し込み時のデータから「いわき市」と紹介したのですが、本人から「実は浪江町出身で、いまは実家は取り壊され、避難していわき市に住んでいます。浪江町で紹介をお願いします」と明るく言ってくれたのには胸にこみ上げるものがありました。タイトルがまた「当たり前の幸せ」ですからね。重く響く題名をつけられた作品が軽やかなクラリネットで奏でられました。
続いては、福島市出身の大学3年生、佐藤実夢さん作曲作品「チェロのための音遊び」を福島市の高校1年生の誉田憲丸さんがチェロで演奏。
高校1年生、緊張したと思います。途中特殊奏法も含まれる作品でしたので、間違ってもお客さんにはばれにくいという利点もあったかとは思いますが、1500人以上を前に堂々とした演奏でした。
そして、トリは仙台市の大学3年生、中村祐登くん作曲作品「ホルンのためのimpromptu」を同じく仙台市出身の大学3年生、千葉大輝くんがホルンで演奏します。
「impromptu(アンプロプテュ)」とはフランス語で「即興曲」の意味。千葉くんは『火の鳥』のソロより緊張したそうです。
団員作品発表コーナーの後は、団員たちの眠れる作曲家としての資質を見事に開花させてくださった藤倉大さん編曲の『Three TOHOKU Songs』で前半終了。
栁澤寿男さん、前半の出来栄えに上機嫌です。
そこに割って入ってくる中村くん。
ちゃっかりしてるなあ。後半に向けて頑張っての意を込めてパチリ。
カメラを向けると必ずポーズの田嶋さんにつられて、同じホルンの赤間奏良くんもピース。繰り返しますが、中学生の身長の伸びには目を見張るものがあります。たぶんこの3年間で20センチは伸びたのでは。
今年のホルンはみんな元気で、パートとしての一体感がありました。
左の狩野くん、
ハイタッチでリラックスしてるなと思いきや。
団員全員が板付いたところで、急に舞台袖に「やばい、やばい」と走り込んできました。もうチューニングがはじまっています。楽屋に戻っていったみたいです。
しばらくしてまた「やばい、やばい」と階段を降りて来ました。もうチューニングは終わってますよ。
なんとミュート(消音器)を忘れて楽屋に取りに戻ったようです。忘れ物が多い東北ユースオーケストラですが、本番での楽器の忘れ物は初めてでした。団員への楽器忘るべからずの教訓としてご紹介しておきます。
後半のメインの楽曲の最初は、クロード・ドビュッシー作曲の交響詩『海』です。坂本監督、団員の演奏を指揮者モードでチェックです。
栁澤さんの指揮も自然と大振りになる『海』です。
今日も録音のために来られているサウンド・エンジニアのオノ・セイゲンさんのブースで。
坂本監督、サウンドチェックに夢中のあまり、人知れず指揮!
こちら反響板の隙間からいい撮影スポットを見つけました。
降り番メンバーも舞台袖で応援しながら聴き入っています。
順調に『海』の演奏が進みます。
エンディング���舞台袖特設カメラで録画してみました。
youtube
20分強のドビュッシーの『海』の演奏が見事に終わりました。満員の観客からの拍手を受けて下手袖に下がる栁澤さん。
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とりあえずひと山超えたぞー、の笑みですね。
ひと呼吸置いて、舞台袖で待ち受けていた坂本監督と。
続いて今年のメインの2曲目となるイーゴリ・ストラヴィンスキー『火の鳥(1919年版)』の演奏がスタート。
こちら降り番は余裕でしたが、
舞台上では緊迫した熱演が。しかし、東京公演よりものびのびした演奏になっているような気がします。そして大団円と呼ぶにふさわしいエンディングを迎えると、このひと時を残したいと思わず舞台袖特設カメラの録画ボタンを押しました。
youtube
胸に染み入る会場からの鳴り止まない拍手です。
そして、ついにアンコール。司会の渡辺真理さんが代表・監督の坂本龍一さん、指揮の柳澤寿男さん、ゲストの吉永小百合さんをお一人づつ舞台に呼び込んで、今日の感想コメントを聞いていきます。
東北ユースオーケストラ第3期の最後の演奏となります。坂本監督の1984年の作品で前身の楽器修復プロジェクト『こどもの音楽再生基金』からのテーマ曲『ETUDE(エチュード)』。5年前のルツェルン・フェスティバルARKNOVA松島での演奏がアップされていましたのでリンクをはってみます。
ステージでは吉永小百合様も手拍子でご参加。
ついに東北ユースオーケストラ演奏会2018のすべてのプログラムが終了しました。
舞台袖に引き上げてくる出演者、団員。
仙台出身の畠山茜キャプテンは地元公演で第3期の活動の幕を降ろしたことに感無量の表情です。
お互いのパフォーマンスを称え合う時間、
「引率の先生」役としては1年で一番うれしい時間です。
東北ユースオーケストラの活動では、いつもは意識的に距離を取っているはずの高橋姉妹もそろって感極まっています。
ピンボケでも姉妹だとわかりますよ。
小百合様にも堂々と握手を求めに行く団員たち。
みんな、泣いているのか、笑っているのか、両方なのか、もはやわかりません。
ひとつの舞台を一緒につくったという意味において、
日本を代表する大女優も世界的音楽家も、
マエストロも有名なアナウンサーも、
小学生も明日から社会人になる大学生も、
ステージに立った一人一人の全員がフラットに仲間になる瞬間です。
お疲れ様でした。
左隅の曽我さんと話している福島事務局の竹田学さんも涙。栁澤さんご不在の時には代わって指導していただいたおかげで今日の演奏が成し得たと思います。どうもありがとうございました。今期の裏方MVPです!
大型楽器の搬出を終え、きれいになった舞台袖。
ここから団員の記録係、福島の大学2年生、阿部“だんでぃ”秀捷くん(チェロ担当)の写真を使って、今年初のイベント、大学4年生の卒団者送り出し会の模様をお伝えします。
まずは緊張の本番から解放された笑顔たち。
団員にはホールの客席に座ってもらって卒団生を一人一人紹介していきます。
まずはヴィオラの服部未来子さん。
時にあえて団員に苦言を述べる憎まれ役を買って出てくれて、本当に頼りになる存在でした。そして、北海道の鉄道会社勤務になる身でありながら、東北ユースオーケストラOBOG会をつくり、初代会長になると宣言してくれました。
チェロの下村鈴之介くん。
自衛隊勤務の異色の経歴の持ち主で、確かなチェロの腕前で坂本監督とのカルテットやトリオの演奏もしてくれました。
コントラバスの曽我ひかるさん。
ここで、居ても立っても居られず、「わたしがコメントを拾います」と、
渡辺真理さんがハンドマイクを持って客席に。この機転のきく行動力にいつも助けられています。ありがとうございます。
オーボエの鳥居紗季さん。
三年間にわたって盛岡駅から新幹線に乗る岩手県組の面倒をみてくれました。
送り出し会は、この立派なホール貸切状態で進んでいきます。
次はホルンの曽根瑞貴さん。
第1期からのメンバーで4月からは仙台市の職員として保育園の先生に。OBOG会の経理を担当してくれるそうです。心強い限りです。
クラリネットの木戸口夏海さん。
4月からはプロの演奏家を目指すとのこと。TYOには引き続き指導や何かで関わっていきたいと、有難いことを言ってくれました。
フルートの佐藤星香さん。第3期からのメンバーでありながら、貫禄の溶け込み具合でしたよ。
ひと通り卒団生の紹介が終わったところで、坂本監督からのサプライズ。
2年間キャプテンの大役を務めてくれた畠山茜さんに特別に花束のプレゼントです。
畠山キャプテン、アイドル風に感謝の挨拶。
わたくしが最近眼にした『常勝キャプテンの法則――スポーツに学ぶ最強のリーダー』という本がありますが、この2年は畠山さんのキャプテンシーがあってこそだったと思います。
ここで仙台公演にも来られた一般社団法人東北ユースオーケストラの代表理事、押木 正人 さんからも一言いただきます。
東京と仙台の演奏会への労いと今後の一層の発展を願うお言葉を述べられた押木さんは、この4月からヤマハの国内販社であるヤマハミュージックジャパンの代表取締役社長に就任されます。
「こどもの音楽再生基金」の立ち上げメンバーである押木さん、引き続きのご支援をよろしくお願いします。
最後はこれも恒例となってきた、坂本監督の音頭による指1本からはじまる五本締め。
お疲れ様でした〜。
このあとは怒涛のごとく監督に群がる即席サイン会&記念写真大会です。
東京に戻る新幹線に間に合うギリギリまで快く応じる監督。
しかし、みんなとのお別れの時間です。
団員も家路に着く、こちらは仙台駅経由で福島駅まで向かうバスの車内を。
仙台公演も数々のメディアに取り上げていただきました。 当日のNHK仙台放送局のニュースになりました。 理事社で主催の河北新報の記事、同じく理事社の福島民報の記事、毎日新聞の記事、産経新聞の記事、電通報も東京公演も含めて記事に。
東北ユースオーケストラ第3期の活動が終わりました。今期はせっかくいただいた寄付をカタチにとパーカッションを購入し自前で保有し、福島民報本社のホールをお借りして、定期的な練習場所となるホームを持つことができました。3年目にしてようやく活動の足腰となる基盤が整った気がします。また前期から2年目のキャプテンとなった畠山茜さんのもと、団員の役割分担が組織化され、とりわけ自らがクラウドファンディングで予算を調達しながら、被災地に有志演奏会を行うという自主的な試みは、東北ユースオーケストラの存在意義を強く感じる活動でした。それらに伴い、JR東日本発足30周年の東京駅でのエキコン出演や三菱商事のCM音楽演奏、宮城県の311追悼メモリアルイベントでの演奏やバドミントンリーグのトーナメント戦のオープニングアクトを務めるなど、活動の幅も外へと広がってきました。
音楽を「言葉」という意味の世界に閉じ込めるのは、音楽が表現する「言語獲得以前」の人間の豊かな感性を抑圧する蛮行だという考えを持つわたくしでありますが、今年の『海』と『火の鳥』が象徴する意味の思いがけない広がりには、最後に触れておきたいと思います。今期をスタートさせるにあたって、演奏会でのメインの楽曲選考の過程で、団員のアンケートも取りつつ、最終的に坂本龍一監督とマエストロ栁澤寿男さんのやり取りでクロード・ドビュッシーの交響詩『海』とイーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ組曲『火の鳥(1919年版)』と決まりました。『海』の選曲については、津波被害が甚大であった東日本大震災を契機に生まれたオーケストラが『海』を演奏するのはどうかという声がいくつか挙がったのは事実です。TYOの初年度の夏合宿で、ひょんなご縁から沖縄県の宮古島に伺い、東洋一と言われる美しい海岸で顔をつけ、「しょっぺえー!」と叫んだ子供を忘れることはできません。東北ユースオーケストラの団員にとっては「入ることができない海」でした。今期��石垣島合宿でも「生まれて初めて生の海に入った」団員ばかりか、「怖くて震災の後、海を見ることすらできなかった」という声を聞きました。
沖縄の見事な色合いを刻々と見せる海を2度体験したことは、団員にとっての「恐ろしい海」のトラウマを癒すには大切な過程だったのだと思えます。今年が没後ちょうど100年にあたるドビュッシーの作品は、団員の実力ではとても太刀打ちできるものではなく、石垣島では『海』のスコアを前に音を出すことすらできない団員を前に柳澤さんがメロディを歌っていた。そんなレベルからのスタートでした。
実際、3月の直前合宿に入る段階では「本当にお金を払って観に来ていただくお客様に満足してもらえる演奏になるんだろうか?」との不安が絶えませんでした。プロのオーケストラでも難しいという『海』『火の鳥』なのだから、うまくいかなかった時はご愛嬌で許してもらえるんではなかろうかと無理に楽観的に考えることもありました。しかし、最後は何とかするミラクルオケ、東京公演、仙台公演を経て、プロのオケでは出せない、東北ユースオーケストラならではの、青々と瑞々しい『海』と『火の鳥』を堂々と演奏しきってくれました。
今期のキックオフが7月17日の「海の日」で、トランペットのパートリーダーでクリスチャンの中村祐登くんのFB投稿で知ったのですが、今期の最後の演奏となった仙台公演の3月31日はイースター(復活祭)。『火の鳥』は世界各地で不死鳥や鳳凰として表象される再生・復活の象徴です。つまり第3期は『海』ではじまり、心理的にも『海』を乗り越え、技術的にも『海』を克服し、『火の鳥』という復活を遂げるドラマトゥルギーの中にあったと言えます。坂本監督と栁澤さんの2曲に込めた選曲意図が、たまたま7月17日の海の日と、3月31日のイースターという時間軸でシンクロした。これが誰かの意図的な計らいであったのではなく、偶然性のもとに仕掛けられたドラマであったことに大きな驚きを隠しえません。さらには3月31日はオーケストラの日であったと聞きました。なんでも「耳に1番」の語呂合せとのこと。だったら「オーケストラの日」でなくても、「ビッグバンドの日」でも「弾き語りの日」でもよいのではないかと思いますが、そこはご愛嬌。キリスト教も日本的駄洒落も味方につけたいものです。東北ユースオーケストラは意図せざる時の良き差配を受ける、偶然性の祝福に恵まれたオーケストラなのだと自信を持って大きく構えてみたい気がします。先日、「“たまたま”の人生を楽しむ」という紹介で日本テレビのニュース番組でコメンテーターを務めたわたくしにとってみると、東北ユースオーケストラは人智を超えたパワーで存続しているのだとでもうそぶいてみたくもなります。
さて、類い稀なTYOの肯定感に浸りながらも、「海を乗り越えた」第3期は東北ユースオーケストラにとって、シーズン1が終わった一区切りのような気がします。もう夏合宿は沖縄でなくていいんじゃないかという運営上の都合だけではなく、より音楽性や創造性を磨いていくシーズン2のはじまりだと考えています。その意味で、せっかく出来上がったTYO流の『海』や『火の鳥』は折に触れて繰り返し演奏したらいいのではと個人的に思います。『火の鳥』は全曲版もあることだしと言うと、火を噴く人も出てきそうなのでこの辺でやめておきます。
演奏会2018年にご来場いただいたみなさま、実現のためにご支援ご協力いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
東北ユースオーケストラはみなさんから活動資金をいただくことで存続している団体です。来期第4期の活動に向け、現在クラウドファンディングで呼びかけさせていただいています。 https://japangiving.jp/campaigns/33779 引き続きのご支援をどうぞよろしくお願いいたします!
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慟哭と吃驚ー小島信夫と小沼丹ー
「第三の新人」と呼ばれた作家たちの中で、小島信夫と小沼丹は、理由は異なるが、どこか収まりの悪い存在に思える。 小島信夫については言うまでもなく、彼が一九一五年生まれと「第三の新人」では最年長であり、それどころか「第二次戦後派」とされる三島由紀夫(一九二五年生まれ)や安部公房(一九二四年生まれ)、井上光晴(一九二六年生まれ)や堀田善衛(一九一八年生まれ)よりも年上、「第一次戦後派」の野間宏や梅崎春生とおない年であるという事実に依っている。これは一九一七年生まれの島尾敏雄が「第三の新人」と「戦後派」のどちらにも入れられていることがあるのに似ているが、小島にかんしては「戦後派」とされているのは読んだことがない。 「第三の新人」という呼称は、山本健吉が「文學界」の一九五三年一月号に発表した同名の論文が初出とされるが、そこで山本が取り上げている作家は「第三の新人」とはあまり重なっておらず、実際にはその後、山本を含む文芸評論家やマスコミが、この時期に文壇に登場もしくは頭角を現してきた一群の小説家たちを、この便利なフレーズの下にカテゴライズしていったということだったのだと思われる。小島は五二年に「燕京大学部隊」と「小銃」(初の芥川賞候補)を、五三年に「吃音学院」を、五四年に「星」「殉教」「微笑」「馬」「アメリカンスクール」といった力作を矢継ぎ早に発表し、五五年に「アメリカンスクール」で芥川賞を受賞する。この経歴からすれば、彼は如何にも「第三の新人」と呼ばれるに相応しい存在だった。 しかし最初期の作品集『公園/卒業式』(冬樹社/講談社文芸文庫)を繙いてみればわかるように、小島は戦前から小説を書いていたし、その中には「死ぬということは偉大なことなので」(一九三九年)のような重要な作品もある。でもまあ「小島信夫=第三の新人」という等号は、文学史的にはごく常識に属すると言っていいだろう。単に他の面子よりも年を取っていたというだけである。 これに対して小沼丹の場合は、もう少し微妙な浮き方をしている。彼も一九一八年生まれと「第三の新人」では年長組だが、そういうことよりもむしろ、存在感というかアティチュードというか、その小説家としての佇まいが、他の「第三の新人」たちとは、かなり異なった風情を持っていると思えるのである。小沼は井伏鱒二の弟子だったわけだが、彼が井伏から受け取った或る種の態度と、それは関係があるのかもしれない。比較的横の繋がりの強い印象がある「第三の新人」の中にあって、小沼は他の作家たちと親しく交流することもあまりなかった(庄野潤三とは付き合いがあったが)。年譜を見ても井伏鱒二と旅ばかりしている。しばしば言われることだが、小沼にとっては、あくまでも早稲田大学の英文学の教授が本職であって、作家活動は趣味というか余技というべきものだった、というのも、あながち間違った見方ではないだろう。もっともそれを言うなら小島信夫も英文学の明治大学教授だったのだが。 小島と同様に「第三の新人」ムーヴメントの頃の小沼の筆歴を記せば、一九五四年上半期に「村のエトランジェ」、下半期に「白孔雀のゐるホテル」、五五年上半期に「黄ばんだ風景」「ねんぶつ異聞」で、計三度、芥川賞候補に挙げられたが、受賞はしていない。ちなみにそれぞれの回の受賞者は順番に、吉行淳之介、小島信夫/庄野潤三(二名受賞)、遠藤周作と、見事に「第三の新人」で占められている。これ以後、小沼が芥川賞候補になることはなかった。ちなみに五五年下半期には石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞し、もはや「第三の新人」が新しかった時代は過ぎ去ってしまう。とはいえ翌五六年には「第三」の近藤啓太郎が「海人舟」で受賞するのだが。 小沼の第一作品集『村のエトランジェ』(みすず書房/講談社文芸文庫)は五四年刊だが、そこには収められている小説には、四〇年代後半には原型が書かれていたものもある。同時期に彼はスティーヴンスンの翻訳や『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』の子ども向け翻案などを手掛けており、大昔の異国を舞台とする「バルセロナの書盗」や「ニコデモ」(ともに四九年)や「登仙譚」(五二年)には、そういった仕事からの影響を窺うことが出来る。 先にも述べたように、小沼丹が「白孔雀のゐるホテル」で候補になり落選した一九五四年下半期の芥川賞は、小島信夫の「アメリカン・スクール」(と庄野潤三「プールサイド小景」)だった。両作の冒頭を引用してみよう。
大学生になったばかりの頃、僕はひと夏、宿屋の管理人を勤めたことがある。宿屋の経営者のコンさんは、その宿屋で一儲けして、何れは湖畔に真白なホテルを経営する心算でいた。何故そんな心算になったのか、僕にはよく判らない。 ……湖畔に緑を背負って立つ白いホテルは清潔で閑雅で、人はひととき現実を忘れることが出来る筈であった。そこでは時計は用いられず、オルゴオルの奏でる十二の曲を聴いて時を知るようになっている。そしてホテルのロビイで休息する客は、気が向けばロビイから直ぐ白いヨットとかボオトに乗込める。夜、湖に出てホテルを振返ると、さながらお伽噺の城を見るような錯覚に陥るかもしれなかった。 コンさんは、ホテルに就いて断片的な構想を僕に話して呉れてから云った。 ーーどうです、いいでしょう? ひとつ、一緒に考えて下さい。 (「白孔雀のゐるホテル」)
集合時間の八時半がすぎたのに��係りの役人は出てこなかった。アメリカン・スクール見学団の一行はもう二、三十分も前からほぼ集合を完了していた。三十人ばかりの者が、通勤者にまじってこの県庁にたどりつき、いつのまにか彼らだけここに取り残されたように、バラバラになって石の階段の上だとか、砂利の上だとかに、腰をおろしていた。その中には女教員の姿も一つまじって見えた。盛装のつもりで、ハイ・ヒールをはき仕立てたばかりの格子縞のスーツを着こみ帽子をつけているのが、かえって卑しいあわれなかんじをあたえた。 三十人ばかりの教員たちは、一度は皆、三階にある学務部までのぼり、この広場に追いもどされた。広場に集まれとの指示は、一週間前に行われた打ち合わせ会の時にはなかったのだ。その打ち合わせ会では、アメリカン・スクール見学の引率者である指導課の役人が、出席をとったあと注意を何ヵ条か述べた。そのうちの第一ヵ条が、集合時間の厳守であった。第二ヵ条が服装の清潔であった。がこの達しが終った瞬間に、ざわめきが起った。第三ヵ条が静粛を守ることだという達しが聞えるとようやくそのざわめきはとまった。第四ヵ条が弁当持参、往復十二粁の徒歩行軍に堪えられるように十分の腹拵えをしておくようにというのだった。終戦後三年、教員の腹は、日本人の誰にもおとらずへっていた。 (「アメリカン・スクール」)
小島信夫は五四年だけで実に十編もの短編小説を発表しているのだが、個人的には「アメリカン・スクール」よりも「星」や[殉教」、そして「馬」の方がすぐれていると思う。単行本『アメリカン・スクール』の「あとがき」で、小島は実際に自分がアメリカン・スクールに見学に行った経験が出発点になってはいるものの、それはごく最近の出来事(「先年」とある)であり、しかも「事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった」と述べてから、こう書いている。「僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。そのために象徴的に、六粁の舗装道路を田舎の県庁とアメリカン・スクールの間に設定してみた。それから今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」。 その結果としての、主題的な、話法的な、一種の紛れもないわかりやすさが、芥川賞の勝因だったと言ったら怒られるかもしれないが、「終戦後二年間ぐらいの所」というのだから、一九四七年頃の物語を一九五四年に(五三年の体験をもとに)執筆したこと、それから「六粁」すなわち「往復十二粁」という「行軍」の設定、そして「僕」から「群像の中の一人物」への変換(右引用の少し先で、この小説の主人公というか狂言回し的な人物は「伊佐」という男だとわかる)という三種類の「距離」の導入が、その「わかりやすさ」に寄与していることは間違いない。もちろん小説とはこういうことをするものであるわけだが、「現実」を巧妙にずらすことによって却って「現実味」を増すという操作が、ここでは見事に上手くいっている。と言いつつ、であるがゆえに、わたし的には今ひとつ物足りない気もするのだが。兎角上手くいき過ぎているものはどうもつまらない。だがそれはとりあえず置く。 これに対して小沼丹の「白孔雀のゐるホテル」の場合は、ここで夢見られているホテルの「お伽噺」めいたイメージとは裏腹に、現実の宿屋は二軒長屋を若干改造しただけの古臭くて襤褸い代物で不便この上なく、何故だか自信満々の「コンさん」に驚き呆れた「僕」は、ひと夏の間に六人以上の泊まり客が来るかどうかの賭けをすることになるのだが、その賭けの顛末が綴られてゆく物語は、この時期の小沼小説の一大テーマというべき男女の色恋がメインに据えられてはいるものの、どこか牧歌的であり、こう言ってよければ妙に非現実的な「お伽噺」ぽさの内に全編が展開されるのである。つまりこの小説には「アメリカン・スクール」にあったようなリアリティへの配慮と戦略が著しく欠けている、というかそれはほとんど顧みられていないようにさえ見える。小沼丹がやろうとしているのは、もっとあからさまに「物語」らしい小説であり、その意味では「文学」らしからぬ小説なのである。そのせいで芥川賞を得られなかったのかどうかはよくわからないが、この作風は「第三の新人」においてはやはり異色である。 それは「村のエトランジェ」や、二編と同年発表の「紅い花」など、この頃に書かれた多くの作品にも言える。「エトランジェ」は衝撃的な殺人の目撃シーンから始まるが、現在の感覚からするとまだほとんど子供と言っていい「中学一年坊主」の「僕」の視点から、戦時中に田舎に疎開してきた美人姉妹と若い詩人とのロマンス、そのドラマチック過ぎる結末が、しかしやはりどこか牧歌的な雰囲気の中で物語られる。「紅い花」の舞台は「戦争の始る三年ほど前」だが、「大学予科生」の「僕」によって、郊外の山小屋を借りて独り暮らしを始めた「オスカア・ワイルドのように真紅のダリアを一輪飾った女」の波乱に富んだ恋愛模様が、おそるべきショッキングなラストに向かって物語られてゆく。いずれも極めて人工的なお話になっており、特に「紅い花」には一種の心理サスペンス風ミステリの趣がある。そして実際、この数年後の五七年から五八年にかけて、小沼丹は雑誌「新婦人」に「ニシ・アズマ女史」を探偵役とするユーモラスな短編を連作し、その後も何作かミステリ小説を発表している(「ニシ・アズマもの」は『黒いハンカチ』として一冊に纏められている。ミステリ作家としての小沼の側面にかんしては同書創元推理文庫版の新保博久氏の解説に詳しい)。ミステリに留まらず、五〇年代末から六〇年代頭の小沼はいわゆるジャンル小説にかなり接近しており、当時隆盛を迎えていた「宝石」「オール読物」「小説中央公論」などの中間小説誌にも作品を書いている他、六一〜六二年には新聞小説としてユーモア長編『風光る丘』を連載している。ジャンル的な方向性や出来映えの違いはあるが、デビュー以来、この頃までの小沼の小説は、おしなべて物語的、お話的なものであり、言い替えればそれは、どこか浮き世離れした雰囲気を持っていた。ところが、よく知られているように、この作風は、その後、大きく変化を見せることになる。 一九六三年の四月に小沼丹の妻・和子が急逝する。彼は娘二人と現世に残された。翌六四年には母親も亡くしている。そして同年五月に、のちに「大寺さんもの」と総称されることになる連作の第一作「黒と白の猫」が発表される。 この小説は、次のように始まる。
妙な猫がいて、無断で大寺さんの家に上がりこむようになった。ある日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐っているのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かいたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると素早く逃亡した。それが当然のことである、と大寺さんは思っていた。ところが、その猫は逃出さなかった。涼しい顔をして化粧なんかしているから、大寺さんは面白くない。 ーーこら。 と怒鳴って猫を追つ払うことにした。 大寺さんは再び吃驚した。と云うより些か面喰つた。猫は退散する替りに、大寺さんの顔を見て甘つたれた声で、ミヤウ、と鳴いたのである。猫としては挨拶の心算だったのかもしれぬが、大寺さんは心外であった。 (「黒と白の猫」)
以前から身辺雑記的なエッセイは発表していたが、この作品によって小沼丹はいわば「私小説的転回」を果たしたとされることが多い。淡々とした、飄々とした筆致から「大寺さん」の、とりたてて劇的な所のない平凡な日常が浮かび上がり、いつの間にか自宅に上がり込むようになった猫の話が綴られてゆくのだが、小説の後半で「大寺さん」は妻を突然に亡くす。しかしそのことを伝える筆致もまた、どこか淡々と、飄々としている。事情を知る読者は、おそらく作家自身に現実に起こったのも、こんな感じであったのかもしれないと思う。そしてこの作品以後、かつてのような人工性の高い「お話」は、ほとんど書かれなくなってゆく。これが多分に意識的な「転回」であったのだということは、次の文章でもわかる。
小説は昔から書いているが、昔は面白い話を作ることに興味があった。それがどう云うものか話を作ることに興味を失って、変な云い方だが、作らないことに興味を持つようになった。自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向けるようになった。この辺の所は自分でもよく判らないが、この短編集に収録してある「黒と白の猫」という作品辺りから変わったのではないかと思う。 (「『懐中時計』のこと)
作品集『懐中時計』は一九六九年刊。右は九一年に講談社文芸文庫に収められた際に附された「著者から読者へ」より抜いた。この先で「黒と白の猫」についてあらためて触れられているのだが、それは(明記されていないが)一九七五年発表の「十年前」というエッセイの使い回しとなっている。なので以下は同エッセイ(『小さな手袋』所収)から引用する。「十年前」とは勿論「黒と白の猫」が書かれた時のことである。
日記には「黒と白の猫」を書き終わって、一向に感心せず、と書いているが、これはそのときの正直な気持ちだろう。尤も書き終って、良く出来たと思ったことは一度も無いが、この作品の場合は自分でもよく判らなかったような気がする。よく判らなかったのは、主人公に初めて「大寺さん」を用いたからである。 突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうも��ったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない。「彼」でも不可ない。しっくりしないと云うよりは、鳥黐のようにあちこちべたべたくっつく所があって気に入らなかった。此方の気持の上では、いろんな感情が底に沈殿した上澄みのような所が書きたい。或は、肉の失せた白骨の上を乾いた風邪が吹過ぎるようなものを書きたい。そう思っているが、乾いた冷い風の替りに湿った生温い風が吹いて来る。こんな筈ではないと思って、一向に書けなかった。 それが書けたのは、大寺さん、を見附けたからである。一体どこで大寺さんを見附けたのか、どこから大寺さんが出て来たのか、いまではさっぱり判らない。 (「十年前))
「兎も角「僕」の荷物を「大寺さん」に肩代りさせたら、大寺さんはのこのこ歩き出したから吻とした。しかし、出来上がってみると、最初念頭にあった、上澄みとか、白骨の上を吹く乾いた風の感じが出たとは思われない。それで一向に感心せずとなったのだろう」と小沼は続けている。ここでわたしたちは、小島信夫が「アメリカン・スクール」について「今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」と語っていたことを思い出す。つまり小島も小沼も、一人称を架空の固有名詞に変換することによって、或る転回を成し得ている。興味深いことに、「私」で/と書くのを止めることが、むしろ「私/小説」を誕生、もしくは完成させているのである。 「アメリカン・スクール」前後の小島信夫の小説で、一人称の「僕」もしくは「私」で書かれていないのは、他には「声」(一九五五年)など数える程しかない。一九五五年には初の長編小説『島』の連載が「群像」で開始されるが、これも人称は「私」である。そして長編小説にかんしてみると、続く『裁判』(一九五六年)、『夜と昼の鎖』(一九五九年)、『墓碑銘』(一九六〇年)、『女流』(一九六一年)は全て一人称で書かれている。そして小島が初めて三人称で書いた長編小説が、他でもない『抱擁家族』(一九六五年)なのである。その書き出しは、次のようなものである。
三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。 家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きの妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。 自分の家がこんなふうであってはならない。…… (『抱擁家族』)
この「三輪俊介」は『抱擁家族』から三十二年後の一九九七年に刊行された長編『うるわしき日々』に(それだけの年を取って)再登場する。当然のことながら、一人称で書かれているからといって作者本人とイコールでないのと同じく、三人称で書かれているからといって作者とまったく無関係とは限らない。小島の他の長編小説、たとえば大作『別れる理由』(一九六八〜八一年まで連載)の「前田永造」であるとか『美濃』(一九八一年)の「古田信次」であるとかも、基本的には「小島信夫」の別名であると言ってしまって構わない。これはあらためてじっくりと論じてみたいと思っていることだが、日本文学、少なくとも或る時期以降の「日本」の「文学」は、煎じ詰めればその大半が広義の「私小説」である。それは人称の別にかかわらず、そうなのだ。その中にあって小島信夫は、かなり特異な存在だと言え���。何故ならば小島は、自身の人生に材を取って膨大と言っていい小説を書いたのみならず、それらの小説群によって自らの人生自体をも刻々と小説化=虚構化していったからである。だが本稿ではこの点にはこれ以上は踏み込まず、小沼丹との比較対照に戻ることにする。それというのも、言うまでもないが『抱擁家族』でも「三輪俊介」の妻が亡くなるからである。 『抱擁家族』は、前半では「三輪俊介」の妻である「時子」と、三輪家に出入りしていたアメリカ兵ジョージとの姦通(次いで三輪家の二番目の家政婦である「正子」と息子の「良一」も関係を持つ)によって生じた「家/族」の危機が、後半では「時子」が癌に罹り月日を経て死に至るまでと、それ以後が描かれる。現実の小島信夫の最初の妻・キヨは、一九六三年十一月に数年の闘病生活の末に亡くなっている。これは小沼丹の妻の死の半年後のことである。小島信夫の代表作、おそらく最も有名な作品であろう『抱擁家族』は発表以来、さまざまに読まれてきた。言わずもがなではあるが、よく知られた論としては、実質的に「第三の新人」論と呼んでいい江藤淳『成熟と喪失』(一九六七年)が挙げられるだろうが、今から見れば些か過剰に社会反映論的とも思えるそこでの江藤の立論は、たとえ当たっていたとしてもわたしにはあまり面白くはない。今のわたしに面白いのは、たとえば小島の最初の評論集である『小島信夫文学論集』(一九六六年)収録の「『抱擁家族』ノート」における、次のような記述である。
時子の死ぬところがうまく行かない。つまらない。自然の要素が強すぎる。 しかし、ここをとるわけには行かない。一応こういう自然の時間を追うスタイルの小説だからである。
小説の推移、一つ一つの会話がそのまま混沌としていて、しかも人生そのものというようにすべきである。そのくらい複雑でなければ、こういう問題を書く意味がない。 (「『抱擁家族』ノート」)
二つの断片を引いた。この「ノート」は、小島が実際に『抱擁家族』執筆に当たって作成した創作メモがもとになっているそうだが、最後の一文に「俊介は狂っている」とあり、思わず戦慄させられる。周知にように、小島信夫は小説と同じくらい、ことによるとそれ以上の労力を傾注して多数の小説論を書いた作家だが、自作にかかわる論においては常に、右の引用に示された紛れも無いパラドックスをめぐる葛藤が旋回している。すなわち「小説」と「自然の時間=人生そのもの」との、ややこしくもあり単純でもある関係性が孕むパラドックスである。それは小沼丹が「突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない」と悩んだあげくに、ふと「大寺さん」を発見したのと同じことである。 それならつまり、小島信夫も小沼丹も、自らの実人生に起きた、たとえば「妻の死」という決定的な出来事、悲劇と呼んで何ら差し支えあるまい出来事を、如何にして「小説」という虚構に落とし込むかという試行に呻吟した結果、それぞれにとっての小説家としてのブレイクスルーを成す『抱擁家族』と「黒と白の猫」という「三人称の私小説(的なるもの)」が産み落とされたのだ、と考えればいいのだろうか。それはまあそうなのだが、しかし両者の対処の仕方は、一見すると対照的である。『抱擁家族』では、夫である「三輪俊介」が、妻である「時子」の死に対して激しく動揺し、狼狽し、慟哭するさまが執拗に描かれている。その様子は勿論シリアスなものではあるが、しかし同時に奇妙な諧謔味を湛えてもおり、そしてその諧謔がぐるりと廻って哀しみを倍加する、というようなものになっている。それは名高い「私の妻は病気です。とても危いのです。その夫が私です」という台詞に象徴されているが、そこに作家自身の生の感情が吐露されていると考えてはならない。「アメリカン・スクール」で施されていたのと同様の戦略と計算が、ここにはより大胆かつ精妙に働いている。 たとえば次の場面には、小島の独特さが現れている。
病院での通夜までの間に一時間あった。その間、彼は病院の玄関に立っていた。涙がこみあげてきて、泣いているとうしろで廊下をするような足音がした。ふりかえるとカトリックの尼が、トイレから出てきたところで、トイレのドアがまだ動いているところであった。 二人の尼は俊介のところへおびえるようにして近よってきた。 「お亡くなりになったそうで」 眼から涙がこぼれおちてくる、と俊介は思った。 「先日はどうも」 と彼は口の中でいった。 「祈ってあげて下さい」 と若い女の方がいった。 「それは僕も祈りつづけてきたのですが、祈る相手がないのですよ。だからただ祈り、堪え、これからのことを考えるだけです」 「あなたは、今、神に近いところにおいでになりますよ」 「なぜですか」 俊介は尼について歩きはじめた。 「家内に死なれたからですか。これは一つの事業ですよ。その事業をぶざまになしとげただけのことですよ」 俊介の涙はとまった。 「ただ僕は子供がふびんで……これからどうして暮して行ったらいいのだろう。ずっと前から予想していたが、やっぱり思いがけないことが起きたのです」 (『抱擁家族』)
「『抱擁家族』ノート」には、こうある。「カトリックの尼を出す。時子は求めているらしいのに、追払う。こういう錯覚、洞察力のなさが俊介にはある。神の問題は、この程度にしかあらわれない。そういうこと、そのことを書く」。これはつまり、敢て、故意にそうしている、ということである。小島は、あくまでも意識的なのである。小島は「演劇」にも関心の深かった作家だが、ある意味で「三輪俊介」は、演劇的に慟哭してみせているのだ。 小島信夫は徹底して方法的な作家であり、彼の方法意識は『抱擁家族』でひとつの極点に達し、それから数十年をかけて、ゆっくりと小島信夫という人間そのものと渾然一体化してゆくことになるだろう。従って、それはやがて「方法」とは呼べなくなる。だが、ともかくも言えることは、『抱擁家族』という小説が、たとえ表面的/最終的にはそう見えなかったとしても、実際には精巧に��り込まれた作品なのだということである。以前の作品と較べて、明らかにスカスカを装った文体や、一読するだけではどうしてそこに置かれているのかよくわからない挿話、あまり意味のなさそうな主人公の述懐さえ、周到な準備と度重なる改稿によって編み出されたものなのである。 小沼丹の「大寺さんもの」は、「黒と白の猫」に始まり、計十二編が書かれた。最後の「ゴムの木」の発表は一九八一年なので、実に十七年にわたって書き継がれたことになる。いずれも、ほぼ作家と等身大とおぼしき「大寺さん」の日々が綴られている。そこでは確かに、お話を「作らないこと」が慎ましくも決然と実践されているようであり、また「自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向け」られていると読める。この意味で、小沼の姿勢は小島信夫とは些か異なっているかに思える。 だが、ほんとうにそうなのだろうか。「黒と白の猫」の、今度は末尾近くを読んでみよう。
大寺さんは吃驚した。 例の猫が飼主の家の戸口に、澄して坐っているのを発見したからである。大寺さんは二人の娘に注意した。娘達も驚いたらしい。 ーーあら、厭だ。あの猫生きてたのね。 ーーほんと、図々しいわね。 この際、図々しい、は穏当を欠くと大寺さんは思った。しかし、多少それに似た感想を覚えないでもなかった。大寺さんもその猫は死んだとばかり思っていたから、そいつが昔通り澄しているのを見ては呆れぬ訳には行かなかった。 (「黒と白の猫」)
この短編を、そして続く「大寺さんもの」を読んでゆく誰もが気付くこと、それは「大寺さん」が、やたらと「吃驚」ばかりしていることである。もちろん小沼丹の小説には、その最初期から「吃驚」の一語が幾度となく書き付けられてはいた。たとえば「村のエトランジェ」の冒頭も「河の土堤に上って、僕等は吃驚した」である。『黒いハンカチ』の「ニシ・アズマ」も、一編に一回は「吃驚」している。だが、それでも「大寺さんもの」における「吃驚」の頻出ぶりは、殆ど異様にさえ映る。なにしろ「大寺さん」は、悉く大したことには思えない、さして驚くには当たらない小さな出来事にばかり「吃驚」しているのだ。そして/しかし、にもかかわらず「大寺さん」は、真に不意打ちの、俄には信じ難い、受け入れ難い出来事に対しては、むしろ淡々としている。その最たるものが、身近な者たちの「死」に向き合う態度である。「黒と白の猫」には「細君が死んだと判ったとき、大寺さんは茫然とした。何故そんなことになったのか、さっぱり判らなかった」とある。彼は「茫然」としはするが、そのあとはせいぜい「しんみり」するくらいで、取り乱すことも、泣くこともない。「茫然」は、あっさりと恬然に、超然に席を譲るかにさえ思える。演劇的なまでにエモーショナルな『抱擁家族』の「三和俊介」とは、まったくもって対照的なのである。つまり「大寺さん」の「吃驚」は、実際の出来事の強度とは殆ど反比例しているのだ。 「大寺さんもの」第三作の「タロオ」(一九六六年)は、タロオという飼犬のエピソードで、最後にタロオは知人のAの所に貰われてゆく。
大寺さんがタロオを見たのは、それが最后である。タロオはその后十年以上生きていて死んだ。死ぬ前の頃は、歯も悉皆抜けて、耳も遠くなって、大分耄碌していたらしい。老衰で死んだのである。 その話を大寺さんはAから聞いた。 ーータロオが死んだとき、とAは云った。お知らせしようかなんて、うちで話していたんです。そしたら、奥さんがお亡くなりになったと云うんで、吃驚しちゃいまして…… ーーうん。 大寺さんの細君はその二ヶ月ばかり前に突然死んだのである。 (「タロオ」)
ここには「吃驚」の一語があるが、それは「大寺さん」のものではない。この短編で妻の死が持ち出されるのはこのときが最初で、そしてこれだけである。あと数行で、この小説は終わる。「……タロオをルック・サックに入れて持って来て呉れたTも、五、六年前に死んだっけ、と思った。そして、みんなみんないなくなった、と云う昔読んだ詩の一行を想い出したりした」。この幕切れは寂寞としてはいるが、哀しみと言うにはやはり妙に飄然としている。 「大寺さんもの」を通して、小沼丹は繰り返し繰り返し、幾つもの「死」を話題にする。それは疑いもなく作家自身が「身近な何でもない生活」の中で現実に出逢った「死」がもとになっている。要するに「大寺さんもの」とは、死をめぐる連作なのだと言ってもいいくらいに、そこでは死者たちの思い出が語られている。しかし、にもかかわらず、小沼の筆致はその点にかんしては、いや、とりわけそれに限って、只管に抑えられており、そしてその代わりに、彼の言う「何でもない生活」の周囲に、夥しい数の「吃驚」が配されているかのようなのだ。 だとしたら、これは、これもまた、一種の「お話」と言ってしまっていいのではあるまいか。小沼丹は「黒と白の猫」で変わったわけではなかった。彼の創意と技術は、むしろ以前よりも研ぎ澄まされていったのだ。小島信夫とは別の「方法」によって、だが底の底では極めてよく似た動機に突き動かされて、小沼は「大寺さん」というキャラクターを造り上げていったのではなかったか。その「動機」とは、受け入れ難いのに受け入れなくてはならない出来事を受け入れざるを得なかった、この自分を虚構化=小説化する、ということだった。 「大寺さんもの」の最終篇「ゴムの木」の終わりを引用して、本稿を閉じることにしたい。「黒と白の猫」が「黒と白の猫」のお話だったように、「タロオ」が「タロオ」のお話だったように、これは「ゴムの木」のお話である。
いつだったか、大寺さんの娘の秋子が、ちっぽけな男の子を連れて大寺さんの家に遊びに来たとき、何かの弾みで想い出したのだろう、 ーーウエンズさんに頂いたゴムの木、どうしたかしら? まだ、あります? と訊いた。 ーーあれだ。 と大寺さんが教えてやると、 ーーまあ、驚いた。あんなに大きくなったの……。 と眼を丸くした。大寺さんも何となくゴムの木を見ていたら、青い葉の傍に恨めしそうな眼があったから吃驚した。 (「ゴムの木」)
最後の「吃驚」に、わたしは思わず吃驚した。この「眼」はいったい何なのか、まったく説明はない。まるで「村のエトランジェ」の頃に戻ったかのようではないか。しかしこれ以降、小沼丹の小説は、ますますエッセイと見分けがつかなくなってゆく。彼は一九九六年、七七歳で没した。「ゴムの木」が書かれたのと同じ一九八一年、小島信夫は大作『別れる理由』の連載を終え、『女流』の続編である『菅野満子の手紙』の連載を始め、『美濃』を刊行した。小島は二〇〇六年、最後の長編『残光』を発表し、それから間もなく亡くなった。九一歳だった。
(初出:三田文学)
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ヤクザと韓国 殺しの柳川や猛牛・町井らが日韓関係裏で暗躍 「猛牛(ファンソ)」こと町井久之氏(共同通信社) 混迷を極める日韓関係だが、遡れば戦後の両国は、禍根を残し��がらも複雑な国際情勢の中で関係修復に動いた。その背後で、カネと暴力、闇社会人脈を駆使してヤクザが暗躍していたことは、“公然の秘密”であった。近著『殺しの柳川』で、戦後日韓関係と裏社会の蜜月を描いたジャーナリスト・竹中明洋氏が、「ヤクザと韓国」の秘史をレポートする。 韓国側による慰安婦合意の反故や、海上自衛隊の哨戒機へのレーダー照射、徴用工判決が重なり、日本政府が半導体材料の輸出規制措置を取ると、韓国側は猛反発。日本製品の不買運動が行なわれ、軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決定。果ては東京五輪へのボイコットを求める声すら飛び出している。 この事態に元公安調査庁調査第二部長で、朝鮮半島情勢の専門家の菅沼光弘が嘆息する。 「よくも悪くも、日韓を裏側で結びつけた人々がいなくなった」 菅沼がいう「結びつけた人々」とは、政治家や外交官、財界人ではない。 町井久之や柳川次郎、高山登久太郎を筆頭とするヤクザだ。かつては彼らが日韓で軋轢が生じるたびに両国の間で暗躍した。その動きの一端を紹介する。 まずは“猛牛(ファンソ)”こと町井久之。1965年の日韓国交正常化で大きな役割を果たした一人である。町井は1923年に東京に生まれたが、両親はともに朝鮮半島出身。韓国名を鄭建永(チョン・ゴニョン)という。身長180センチ超、体重100キロの巨躯の持ち主で、その腕力を武器に銀座を縄張りとして頭角を現し、1500人の構成員を従える東声会の会長として東京の裏社会に君臨した。1963年には山口組三代目の田岡一雄と兄弟盃を交わしている。 その町井が韓国国内で人脈を広げていくのは、1962年のことだった。韓国で開かれた国民体育大会に町井が在日同胞チームの団長として訪韓した際、ソウルで町井らが宿泊したホテルの警備を担当したのが、のちに大統領警護室長となり、朴正煕(パク・チョンヒ)政権のナンバー2と言われた朴鍾圭(パク・ジョンギュ)だった。豪胆な性格の2人はすぐに意気投合したという(城内康伸著『猛牛と呼ばれた男「東声会」町井久之の戦後史』参照)。 射撃の名手で、気にくわない相手にはすぐにピストルを抜くことから、「ピストル朴」と怖れられた朴鍾圭は、京都生まれで、日本語も堪能。 「俺は韓国の坂本龍馬になる」が口癖で、「かっこよくて銀座のママにとにかくもてた」とは、朴と幾度も東京で酒席をともにしたことがある在日韓国人から聞いた話だ。 朴鍾圭を介して韓国の政財界に食い込んだ町井は、兄弟分だった力道山の紹介で、「政財界の黒幕」と呼ばれた右翼の児玉誉士夫とも親しくなり、その児玉の伝手で自民党大物政治家の大野伴睦や河野一郎らと知己を得る。 当時、日韓の間では長年にわたり続いていた国交正常化に向けた交渉が暗礁に乗り上げていた。 「韓国嫌いで知られた大野をはじめ、自民党内に早期の交渉妥結に反対する声が多かった」(元政治部記者) こうしたなか、町井は韓国の朴正煕政権の意向を受けて、韓国側の要人と大野らをたびたび引き合わせ、1965年の日韓国交正常化実現の環境整備に一役買った。 その前年、1964年の東京五輪では、韓国選手の渡航費用や宿泊費、機材費などを支援。1966年には韓国オリンピック委員会の委員にもなっている。 ◆大統領の警護を依頼 町井と同じ1923年に生まれ、大阪を拠点としたことから、「東の町井、西の柳川」と並び称されたのが、柳川次郎こと梁元錫(ヤン・ウォンソク)である。 日本の植民地時代の釜山に生まれ、7歳の時に母に手を引かれ、海峡を渡った。終戦直後の大阪を暴力でのし上がり、1958年に柳川組を旗揚げ。翌年には山口組の傘下に入った。 その凶暴さから「殺しの軍団」との異名を取った柳川組は、山口組の全国進出の尖兵として関西から北陸や山陰、東海、そして北海道へと勢力を拡大し、1969年に解散するまでに1700人の構成員を数えた。 柳川が、韓国の政財界に食い込むようになったきっかけも、やはり「ピストル朴」だった。朴正煕政権とも関わりの深い韓国人老学者が経緯を明かす。 「1972年に朴正煕大統領が国賓として日本を公式訪問することになり、朴鍾圭が警視庁と警備計画を協議したのですが、天皇の警備でもやらないほどの厳重さを要求したそうです。朴鍾圭にすれば、それが大統領への忠誠を示すものだったのでしょう。日程には大阪も含まれていたので、大阪府警とも同じようにやったのですが、それでも足りないと思ったのか、朴鍾圭は警察以外の者にも警備への協力を求めた。それが町井であり、柳川だったのです」 結局、公式訪問は取り止めとなったため、町井や柳川の出番はなかったが、これ以降、柳川は朴正煕政権との関わりを深めていく。1974年に朴正煕政権の招きで1944年ぶりに韓国を訪れると、翌年には大のプロレス好きで知られた大統領の直々の依頼を受け、アントニオ猪木ら新日本プロレス一行を引き連れ韓国興行を打つ。 猪木と韓国人レスラーの大木金太郎こと金一(キム・イル)の対決をメインとした興行は、韓国の5都市を回り、いずれもテレビ中継され空前の人気となった。ソウル興行後に猪木や金一を伴って青瓦台を表敬訪問した柳川は、大統領から感謝の抱擁をされたという。 1979年に朴正煕大統領は側近のKCIA部長に暗殺される。混乱のなかでクーデターにより政権を奪取したのが、韓国軍の情報機関・保安司令部(ポアンサ)の司令官だった全斗煥(チョン・ドファン)だ。それまでのKCIAに代わって対日工作を担うことになるが、日本国内で活動する手駒がいない。目をつけたのが柳川だった。 「会長を我々の機関で運用して問題ないか審査したのが私だった」 ソウルで私が会ったのは、柳川を「会長」と呼ぶポアンサの元幹部だ。 「もともと会長とはKCIAが深い関係を持っていたが、我々には詳しい情報がない。そこで生い立ちから彼について調べ直したのです。ヤクザだったことは問題ない。むしろ(韓国への)愛国心を持っているかどうか。そこに力点を置いた審査の結果、十分に愛国者であると判断したのです」 お墨つきを得た柳川は日本でのポアンサの工作活動を担い、その様は公安調査庁OBの菅沼をして「事実上のポアンサ駐日代表」と言わしめるほどだった。 大統領に就任した全斗煥の周辺とも太いパイプをつくり、1983年に当時の中曽根康弘首相が日本の首相としては初の公式訪韓をした際には、その地ならしに柳川が暗躍したとも言われる。 ◆柳川の後任に指名 在日韓国人が多く、また在日ヤクザも多かった大阪では、柳川の他にも触れておくべき人物がいる。山口組三代目の田岡一雄と盃を交わし、舎弟となった田中禄春こと韓禄春(ハン・ロクチュン)である。 田中は1921年に朝鮮半島の江原道に生まれ、14歳で単身大阪に渡ると、バーのボーイなどの下積み時代を経て戦後のミナミで巨大キャバレーをいくつも経営し、巨万の富を築いた。田岡の舎弟となったのは、愚連隊やヤクザからのみかじめ料の請求に耐えかねてのことだったとされる。 1966年に堅気となるが、それまでに築いた莫大な財産を民団の活動に寄付して民団本部の常任顧問を務めたほか、大阪の御堂筋に韓国総領事館が建設された際には、建設期成会の会長となって巨額の私費を寄付した。田中は韓国最高級の勲章にあたる無窮花(ムグンファ)章を授与されている。 そして、もう一人、韓国政府と深い関わりを持った在日ヤクザがいる。前出の菅沼はこの人物と初めて会った時のことをこう振り返る。 「1991年末に柳川次郎が亡くなって間もない頃のこと。東京の韓国大使館の武官室から連絡があったのです」 用件は、ポアンサのナンバー2の将軍が訪米の帰りに日本に寄るから会ってほしいというものだった。指定された場所は、熱海の高級旅館。 「行ってみると、そこには私以外にもう一人客がいた。京都からベンツを連ねて熱海の旅館に着くなり、出迎えたスタッフに気前よくチップをはずみ、たちどころに手��ずけていました」 その夜、ポアンサの将軍は菅沼にその男を紹介し、こう伝えたという。 「柳川の次は彼にやってもらう」 ポアンサの“駐日代表”を引き継いだこの男は、京都の会津小鉄会の会長・高山登久太郎である。 会津小鉄会といえば、幕末に京都守護職となった会津藩主の松平容保に従った侠客の会津小鉄こと上坂仙吉を初代とする老舗ヤクザ。その四代目の高山は、1928年に大阪市東成区に生まれた在日で、韓国名を姜外秀(カン・ウエス)という。 朝鮮戦争が勃発した際に在日韓国人による義勇軍に応募したこともある。韓国への渡航の集合場所だった東京の民団本部に到着したところで休戦となったため、実際に戦地に赴くことはなかったが、民団中央本部の中央委員を務め、1987年の韓国大統領選挙では、全斗煥の後継である盧泰愚を資金面で支援した。 ◆民主化でヤクザが不要に 韓国の政権と深い結びつきを築いた在日ヤクザたちだったが、高山を最後に目立った動きはなくなる。その理由を菅沼は「民主化が進んだからだ」と指摘する。 朴正煕をはじめ軍人による独裁が続いた韓国の歴代政権は、日本における情報収集や工作活動のために暴力という武器を持つヤクザたちを重宝した。だが、民主化の進展は、そのような不透明な関係を許さなくなったのだ。KCIAやポアンサといった情報機関が改編や解体の憂き目に遭ったことも影響している。 稲川会会長の清田次郎(韓国名・辛炳圭〈シン・ピョンギュ〉)、六代目山口組で統括委員長を務める極真連合会会長の橋本弘文(同・姜弘文〈カン・ホンムン〉)、六代目から分裂した任侠山口組代表の織田絆誠(同・金禎紀〈キム・ジョンギ〉)を始め、いまなお組織のトップに在日は多く、その下にはさらに多数の在日がいる。だが、日韓関係を水面下で動かすことはなく、またそれを許す社会でもなくなった。 民主化にともなう時代の必然とはいえ、在日ヤクザの退場で、両国は混迷の度合いを深めることになった。
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福島に遊びにいくということ――「相馬で気仙沼さんま寄席」と ...
#genpatsu [synodos.jp]2017年9月17日からの2日間、福島県相馬市で「相馬で気仙沼さんま寄席」が催された。17日には落語家の立川志の輔さんによる落語の寄席、また翌日には気仙沼のさんまが振舞われ、地元相馬の米や加工品などを売る朝市が開かれた。 仕掛け人は株式会社ほぼ ...
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25、26日と福島市で合同練習!
来月の東京、郡山での公演までちょうど1ヶ月となりました。 今月の練習会場は東北ユースオーケストラ(TYO)はじめての福島市公会堂です。こちら、1200名以上を収容する歴史ある福島市のホールに続々と団員が集まってきます。
あとは本番前の直前合宿での練習を残すのみとなりました。気合が入ってきた指揮の栁澤敏男さんには後光が刺しているようです。
とりわけ「ふつうジュニアオケ、ユースオケではまず演奏しない(演奏できない)」と言われるグスタフ・マーラーの交響曲第1番については、楽譜のポストイットも毎回増えていっているように感じます。
果たして立派に演奏できるのかなという現況を応援するかのように今日はたくさんの差し入れをいただきました。まずはパーカッション塘英純くん、ヴァイオリン三浦千奈さんのお母さまからバラエティに富んだお菓子の���々と、そして福島事務局の大塚真里さんからお薦めの地元福島市の「ゆずみそ焼おにぎり」(と書くだけでも、さらにどんぶり飯を食べれそう)。
そして、この二日間の合同練習会ではJA共済、JA共済連福島から多大なるご支援をいただきました。今回のレポートでは結果的にこれから何度も「JA共済」という言葉が踊り、画面に写り込むことになり、「この引率の先生は個人的に何か貰っているのでなかろうか」と訝しがられること間違い無いと思うのですが、確かにたくさんの恩恵をいただいているのですよ、東北ユースオーケストラ一同が!
まずは小出しに。初日の昼と長い練習の間食用にと、地元でつくられたパンを各種とお茶を110名分いただきました。
ホール内では午前中からマーラー交響曲第1番を絶賛練習中のところ、
かたや降り番中学生、トロンボーン西野蒼さんとクラリネット小野葵さんの、ダブル・ノアオイズが何を嗅ぎつけたかロビーに登場。
中学生というのは、とにかくお腹が空く年頃だよなと受け止めておりましたら新たなJA共済さんからの差し入れが届きました。
「水虫パン」です。事前にいただいた贈答品リストに「お茶」「お弁当」「トースト」などに混じって「水虫パン」という物品を見つけた時のわたくしの衝撃をお察しください。何かの誤植であろうとたかをくくっていたら、本当に「水虫パン」が作り手の「オカザキドーナツ」店主岡崎隆一さん(75)によって、自転車にて納品されるという、想像を超える現実の恐ろしさを感じました。しかもJA共済さんは自社製品では無く、地域振興の観点から地元の商品をわざわざ買ってくださったのですね、この水虫パンを。まさに足型の水虫パンは、ピーナッツバター味、イチゴジャム味、チョコレート味とバラエティに富んでおり、水虫に見立てられたと思わしきカリカリ部分の食感が絶妙な、昭和生まれには懐かしい美味でありました。水虫パンについてさらなる見聞を広げたい向きには、一般社団法人東北ユースオーケストラの理事メンバーでもある仙台の河北新報の記事をお薦めします。 以上、福島市観光情報でした。
この日は実家で栽培、販売されている苺の差し入れとともに練習会場にお越しいただいた、今年70歳の男性がいらっしゃいました。
気仙沼から娘さんの車でお見えになった、古希の方の名刺には、 「NPO法人海べの森をつくろう会 副理事長 三浦秋男」と書かれています。 先月のレポートをお読みいただいていたらピンとおわかりかと。パーカッションの三浦瑞穂さん(中3)のお爺様でした。
まずは311に気仙沼で地区の自治会長をされていた、元高校教師の三浦秋男先生から昼休みの後半30分を使って団員全員に向かってお話をしていただきました。 これまでに体験したことの無い強い長い揺れで、障子が外れ、目の前で家の壁が割れ、町の信号機がすべて消えた驚き。ラジオから6mの津波との報せが入り(実際は気仙沼では20mを超えた)、海岸沿いから軽トラックに乗ったご夫婦が「津波が来る!」と逃げてきて、それが現実に起こることとわかり、日頃の防災訓練に則って行動されたこと。指定避難所の階上(はしかみ)中学校での避難生活がはじまり、地元の建設業者の大型発電機のおかげで直後から電気を得られたこと、意外とガス炊飯器が活躍したこと、地元農協が提供してくれたお米も2000人の避難民ではあっという間に無くなってしまったものの昔ながらの精米機のおかげで米が食べられたこと、地元の水産加工場の保冷庫のおかげでマグロ、ぶり、ほたてなど贅沢な食材も口にすることができたこと、10日後に自衛隊からの食事を支給されてほっとしたことなどなど。
強く強調されていたのは、日頃からの小中高校での避難訓練の重要性、防災教育の大切さでした。防災減災の3ステップとして、まずは自助、そして共助、公助と言われるが、地元コミュニティの共助の力を今回は強く感じられたそうです。震災後6年経っても仮設住宅は残っており、地区によっては自治会が解散したり統合を余儀なくされている場所もある。被害はまちまちで家族8人で高校生の娘さんだけが生き残った家もある。最後に三浦さんがおっしゃった言葉が響きました。「生かされたわたしの使命は地元のコミュニティを立て直し、守ることです」 こないだのお孫さん瑞穂さんの言葉「生かされたなりのことをしなくちゃいけない」とも共鳴する、限りある命を捧げたいという静かで強い意志。お二人の記念写真を撮りました。
今回三浦瑞穂さんのお爺様にお越しいただいたのは、311の貴重な体験談だけではありませんでした。実は三浦秋男さんは別の先生でもあったのです。
さて続きです。気仙沼のパーカッション三浦瑞穂さん(中3)のお爺様、元高校教員の三浦秋男さんは、なんと民謡の先生でもあったのです。前回の合同練習会で、今回の演奏会で披露する東北三県の民謡をアレンジした「ThreeTohokuSongs」練習中に、団員たちがあまりに地元の民謡を知らないので、掛け声をどうすればいいかわからない問題が発覚し、降り番の掛け声専門部隊「チーム・チョイサー」を組成したのではありますが、では指導者をどうしたものか、と。坂本監督からも「地元の年長者に教わるのがいい」とのアドバイスを受け、ふと思い出したのです。昨年7月に仙台で行った2016年度の入団説明会で、「今回は民謡にチャレンジしようと思うのですが、保護者のみなさんには馴染みあります?」とお尋ねしたんですね。その時、向かって右手の最前列に座っていた黄色い服着た女子の保護者の方から「この子のおじいちゃんが民謡の指導をしています」と伺ったのを思い出したのですね。そこで、誰だったかとその時の写真を見てみたのです。記録写真は撮っておくものですね。
なんと!あの三浦瑞穂さんではありませんか。ということで、今日の合同練習に合わせて、お母様の運転で片道3時間かけて福島市まで、311の体験談講話と民謡の掛け声指導に来ていただいたのです。それでは指導風景を動画でご紹介しましょう。まずは相馬盆唄から。
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三浦秋男先生の揉み手にご注目ください。あとでお孫さんの瑞穂さんは「テンポが早くならないように、この揉み手が大事!」と言っていたとのこと。当方、人生48年にして初めて「揉み手の意義」を知りました。秋男先生によると、伊達藩だった気仙沼では藩主により盆踊りが禁止されていたため地元の盆踊り歌が生まれず、この福島の「相馬盆唄」を歌っていたそうです。ということは、こっそり殿様に隠れてこっそり盆踊りをしていたのですね。盆踊りについては民俗学的視点からの面白い研究の本があります。あえてリンクは貼りませんが・・・。 そして、掛け声について。出だしのタメがポイントのようです。先生による指導シーン、その2でございます。
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そして、チーム・チョイサーの由来となった「南部よしゃれ」から。
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指導のあと三浦秋男先生にお話を伺いましたところ、「震災の後、音楽のチカラというのを強く感じます。音楽を聴いて元気になる人もいれば、歌を歌ってチカラをもらう人もいる。東北ユースオーケストラもみんなが元気になるいい演奏をして欲しい。応援しています」 団員のみなさん、励みになりますね。 遠方より苺を持参でご参加いただいた三浦さんファミリー、ありがとうございました。初めて食べる気仙沼の苺があんなに大きくて甘いとは。団員たちも大喜びで、1パート1パック以上の半ダーズケースもお持ちいただいたのにすぐに約100個の胃袋におさまってしまったのでした。
さて、本番まで1ヶ月となり、昨年は1週間前から進行台本を書きはじめた愚を修正しようと、オープニングのファンファーレの作曲を前回に引き続き塘英純くん(将来は作曲家志望)に依頼しました。
背が伸びたね。その分、内容も成長していこうと、トランペット二重奏から今年はトランペット三重奏で頼むと言ったところ、
さっそく休憩時間にMacBookAirで取り掛かってくれていました。やるな今どきの中学生。手にしているのはメインのマーラー交響曲第1番のポケット楽譜。たぶんマーラーへのオマージュを意識して作曲するのでしょう。できたら坂本監督に見てもらおうね。
3月に演奏するマーラーの「巨人」には「特殊楽器」を用います。と知ったかぶりしましたが、ど素人のわたくしは「特殊楽器」という用語すらこの仕事に関わるまで知りませんでした。標準的なオーケストラの編成では使わない楽器のことです。今月の合同練習では「エスクラリネット」をどう調達するかが事前の課題になっておりました。わたくしは、今回の一件で、「エス」が「S」で「Sサイズ」のことで、フランス語だと“petite clarinette”で、だったら「ピークラリネット」じゃなかろうかとも思い、それはともかく通常のクラリネットより小さくて変ホ調で、買うととっても高いということを知りました。
こちら特殊楽器関係者です。左からTYOのテクニカル・ディレクターの飯島則充さんは、トロンボーン奏者で音大卒でプロマックスの取締役で、団員の演奏に関わること全般から、プロを目指す子供たちの相談役を担当されています。中央の男性はTYO福島事務局のまとめ役の渡辺豊さん。子供の頃はFTVジュニアオーケストラに所属してやはりトロンボーンを吹き、現在は福島市の管楽器専門店ブリリアントの経営者、社長です。福島県内での練習場所の確保やレンタル楽器の交渉、練習当日の搬出入を仕切っていただきながら、団員の楽器のメンテナンスもお願いしています。そして、右が団員のクラリネット奏者、福島高校に通う菊地桃加さんです。 さてどうやって解決したかと言うと、実は飯島さんの奥様がプロのクラリネット奏者でシエナ・ウインド・オーケストラに所属されている飯島泉さんだったと、これも今回初めて知ったのですが、なんとご自身愛用の楽器を特別に貸し出していただけました。飯島さんが「妻から絶対に壊さないように言われました」と暗い顔でおっしゃるので、気軽に「いくらぐらいするんですか?」とも聞けません。「ビュッフェクランポン プレステージュ グリンライン」という楽器名も怖いです。「プレステージュ」は英語のPrestigeのフランス語読みだと思われます。わたくしは今回の練習で菊地桃加さんに会うたびに「楽器はだいじょうぶ?壊れてない?」とネタのように聞いていました。
お借りした高級特殊楽器をそっと握りしめる菊池さんの図です。ポキッと折れそうと心配になりますが、実際は温度差に弱いのだとこれも今回はじめて知りました。快くお貸し出しいただいた飯島泉様、どうもありがとうございました。
初日は20時まで実質半日みっちりと練習をしました。さすがに団員もお疲れのご様子です。今回、岩手県、宮城県、北海道や山形、関東から参加の30名以上の団員についての宿泊問題は、JA共済さんに解決していただけました。閑散期だから大丈夫ですよと、練習会場から車で20分のJA共済経営「摺上亭大鳥」旅館に泊めていただくことができたのです。
しかも、宿までのバスも手配していただき、着いた先は身に余る高級旅館でした・・・。日中、福島の団員数々から「いいなぁ」と言われていた訳がよーくわかりました。一昨年の宮古島合宿でエコノミーなユースホステルでヤモリ他小昆虫と寝食を共にした身としては、この振れ幅にめまいですよ。
21時過ぎというレイトチェックインにも関わらず、「東北ユースオーケストラ」の横長の紙まで貼り出す専用の部屋をご用意いただきお食事をいただくおもてなしまで受けてしまいました。宿泊のオリエンをする「TYOのお姉さん」岡田直美さんの声も上ずります。 今年度の活動のはじめに「われわれは弱小、貧乏楽団であって“いつまでもあると思うな、TYO”です」と標語までつくったわたくしとしては、「今回は特別です。JA共済さんに感謝しましょう」と壊れたロボットのように言いつづけました。
TYOの日曜の朝は早い。こちらメイクや髪の手入れはしないおっさんですから遅めの6時半に起きました。
JA共済さんのお宿で朝食をいただきました。この撮影のために仲良く食事中の小・中学生三人には大人の配慮で席を移動してもらいました。ふつうなら朝ごはんを食べて、もうひと風呂が正しい温泉の流儀でありますが、朝の散歩組の引率者としてはそんなことは許されません。その発端は福島市在住のホルンの赤間奏良(あかまそら)くんからの前週に届いたLINEのメッセージでした。
確かにせっかくの宿泊滞在なのだから、飯坂温泉の魅力を知り、世の中に発信するのが恩恵を受けたものの務めだと思い、前日の練習のあと、赤間くんに飯坂温泉について語ってもらいました。
で、この企画に賛同してくれたのは小中学生6人のチビッコチーム。約1時間ほどブラタモリ並みに飯坂温泉を練り歩いたものの、早朝過ぎて足湯にはつかれず、道中問いかけた松尾芭蕉クイズもいまいち反応が悪かったのですが、飯坂温泉の情緒ある街並み���楽しめましたよ。
震災後は県外からの宿泊客がまだまだ戻っていないと聞きました。芭蕉も奥の細道で立ち寄った古湯、フォトジェニックな場所も数々あって、円盤餃子も美味しい飯坂温泉を旅の候補地にご検討ください。飯坂温泉駅前には松尾芭蕉の立派な銅像があって、しかし、その向かいには「白ポスト」なる訝しいオブジェもあり、これは美観としてどうなんだろうかと引率の先生としては思った次第。
散歩を提案してくれた生意気小学生の赤間奏良くん、どうもありがとう。そう言えば、芭蕉の旅のお供の名前は曽良だったな。 以上、飯坂温泉観光情報でした。
さて、朝の散歩組の中の一人、中学一年生の藤田サーレムくんとは昨晩遅くに露天風呂につなりながら裸のトークをしたのでありました。
ここでミニ団員紹介コーナーを展開しますと、岩手県盛岡市から参加の藤田サーレムくん、トランペット奏者の中学一年生です。前夜に風呂に入りながらこんな会話をしたのでした。 「サーレムくんはお父さんが外国の人だっけ?」 「父がイラクの人です」 「あ、イラクなんだ!」 実は、ついさっき旅館での夕飯の席で「お米に合うものはだいたい日本酒に合いますよね」とお酒も飲まずに話をしたら、指揮者の栁澤さんから「コメはいくらに合うけども、米はイラクに合わないと言いますね」という渋いアメリカ風ジョークを聞いたばかりでだったので、あまりにタイムリーな「イラク」の発語に驚いたのでありました。それは、さておき、 「えっ、お父さんはひょっとしておれ(48)と同じくらいの年か年下だったりするのかな?」 「あ、結構年いっていて60くらいかな」 「何してはんの?」 「父は大学の教授で、AIの研究をしていて、ほとんど海外出張でいなんです」 「いま旬な研究者じゃない。ということは、来月の本番の公演には観に来られない?」 「そうですね、ドイツに滞在しているみたいです」 「それはさびしいね。ところで、サーレムくん、トランペットうまいね。何年やってるの?」 「もう4年ですかね」 「4年でそんなに上手に吹けるようになるものなの?」 「トランペットを吹くのが好きなんです。だからはじめた頃からついつい好きでずっと吹いていたらこうなりました。」 「先生について教えてもらったりしていないの?」 「いや、先生に教わると、その人の幅に制限されてしまうから。でも、こないだ(トランペットのパートリーダーの中村)祐登さんに紹介されて、はじめてプロの先生にみてもらいました。吹く音が明るく響く。タンギング(舌を使って音を細かく切ることらしいです)が速いと言ってもらえました」 「好きで吹き続けてたら、いつの間にか上達していたなんて理想的じゃないか。それは極めたほうがいいね。」 「来月もコンクールで忙しくって、東北ユースオーケストラの演奏会の後、盛岡に戻ってまたすぐ東京に行きます」 「その全国大会ではいい線いくの?」 「たぶん入賞はできると思います」 「すごいな。将来は何になりたいの?」 「プロか、農業したいです」 「あはは、プロのトランペッターか、農家なんだ。どっちも楽しそうだなあ」 ぜひ藤田サーレムくんの今後にご注目ください。
さて、二日目の練習はマーラーの交響曲第1番からスタートです。
そして、今日も福島市公会堂のロビーには、朝から合流した大学生トランペットの中村くんの大阪土産も加わって、差し入れのお菓子が並びます。
このロビーに団員を激励にとJA共済連福島の地域活動支援室の八代孝明課長がお見えになりました。
昨日に続いてJA共済連福島からのお茶!
さらに間食用のパンを各種!!
そして、110名分のお弁当を運び入れていただきました。お一人で来られていた八代さんの助っ人で福島民報社の吉田高徳副部長も起こしになって、お昼休憩の前に二人でロビーに弁当を並べることまでしていただきました。
ふつう大企業ですと、こういう現場には若い者を連れて手伝わせるのが通常の光景です。しかし、この日は管理職お二人が二人だけで車に積み込んだダンボールを運び、丁寧に団員のためのお弁当を並べ、5つごとに包まれていた大きなレジ袋を一枚一枚(22枚です)きちんと畳んでまとめていらっしゃる姿に心打たれ、確信しました。 このお二人は「休日出勤をする企業に勤める会社員」という枠を超えて、「TYOを応援する熱いひとりの個人」として、この場に来られているのだな、と。 お二人とも固辞されたのですが、ここは団員に一言激励の言葉をいただいたほうがいいと思い、無理を言ってお引き止めし、午前中の練習終わりのタイミングでお話しをいただきました。
「ありがとうございます」とお礼を言う団員を前に八代さん。 「わたしは中学生の時にモノラルのラジオから流れるYMOの『テクノポリス』を聴いて育った世代です。小さい頃から憧れの坂本龍一さんと共演するみんながうらやましいくらいです。その坂本龍一さんが監督として東北ユースオーケストラを通じて復興支援していただけるのですから、しっかり応援します。演奏会に向けてがんばってください。」
続いて、昨日の練習が紹介された記事が掲載された朝刊を片手に吉田さん。 「今回、福島民報社の125周年事業として郡山公演を主催させていただくことになりました。本番までがんばって練習してください。応援しています。」 お言葉の通り、今回初めての郡山公演は興行リスクを取って主催者になっていただくことで地元公演そのものが実現しました。今日、現在でまだ売れ残っていると聞いています。坂本龍一監督以外にも吉永小百合さん、うないぐみさんにゲスト出演していただくコンサートが、S席3,000円、A席2,000円と東京大阪では考えられない価値の高さです。3月26日は日曜日ですから遠方からのご来場でも十二分に値打ちがあるはずと自信を持ってお知らせします。ぜひ満員の客席からご声援いただけたらと思います。
お昼休み、おかげさまで食事をいただくロビーは元気な笑顔でいっぱいでした。あらためてありがとうございました。 さっそく東北ユースオーケストラのInstagramに感謝のコメントともにアップする団員がいました。
ハッシュタグの使い方が慣れてますね。
二日目の午後の練習の休憩時間には、「みやぎ鎮魂の日」である3月11日の土曜日に石巻の復興住宅の集会場で行う有志メンバーでの演奏の練習も行いました。
当日は約20名の団員が自主参加して、地元の自治会が中心となって行われる追悼セレモニーでの防災訓練や炊き出しにも参加する予定と聞いています。気仙沼の三浦秋男さんのお話でも常日頃からの訓練が大切とおっしゃっていましたね。 また翌日の3月12日の日曜日には仙台三越で弦と金管のそれぞれアンサンブルでの演奏を行��ます。というのも、3月1日から三越伊勢丹グループではじまった「東日本復興支援どんぐりバッジチャリティ」に応援曲として昨年の演奏会で披露した坂本龍一作曲『ETUDE』をご提供したからです。現在全国の店舗で流れておりまして、仙台三越のチャリティイベントに出演することになりました。応援曲『ETUDE』はこちらの告知ページからお聞きいただけます。
これが団員に見せたどんぐりバッジのサンプルです。1個300円で各店舗1種類の28種類のバッジを販売中となっています。お近くの伊勢丹三越グループのお店で実物をご覧いただき、『ETUDE』の館内放送をお聞きいただければ!
二日間の充実した練習も終わりました。しかし演奏の練習は終わっても毎回マストな重要任務があります。お借りした大型楽器を運び出し、傷つけることなくトラックに積み込むという団員が声をかけあって協力し合う作業です。
トラックに乗り込んでいる恰幅のいい大学生は、いわき市出身の冨澤悠太くん。チューバをいつも持ち歩いているだけに、いつも力仕事のリーダーです。ティンパニなどの楽器は昨年度に引き続き、福島県立橘高校から無償貸与いただいております。いつもありがとうございます。
そして、福島駅から仙台駅に向かうバスをいつものようにみんなで見送りました。
このブルーの大型バスについても仙台の団員のお母様がお勤めのバス会社で毎度お世話になっております。繰り返しになりますが、いつもありがとうございます。
今回の二日間の合同練習であらためて実感したのは、さまざまな人や企業、団体に支えられ、この東北ユースオーケストラは成り立っているのだなあという事実です。個人の方からいただくご寄付、企業からいただく協賛金などの「お金」、そして団員が音楽活動を続けるための楽器や練習場所や飲食、宿泊、移動などの「モノ(物資)」を無償だったり、通常より安価にご提供いただいています。こういう現物支給によるご支援の受け方を英語だと”Value In Kind”、略してVIKと言ったりします。まさにお金も現物も、活動を支えるValue(価値)というモノサシでは同じです。 ピーター・ドラッカーという近代経営学の父、「マネジメント」概念を発明した泰斗に『非営利組織の経営』という著作があります。
この冒頭の一文が飛び抜けています。「非営利組織とは一人ひとりの人と社会を変える存在である。」 東北ユースオーケストラは、そんな組織になっているだろうか? なっているようでもあり、まだまだのようでもあり。しかし、たくさんの方々から「お金」と「モノ(物資)」をご支援いただいてきています。そして、もう一つ、とても重要な支援のかたちに気づいたのです。よく経営資源の3つでヒト/モノ/カネと言いますが、「ヒト」という資源を分入って見えることがあると思ったのです。 それは、「(人の)時間」です。人の生は有限で、しょせん、どんな人も、遅かれ早かれ、いつか死ぬ。この圧倒的な事実の前に、何に限られた時間を使うのか。その大切な時間を東北ユースオーケストラのために使っていただいている人がたくさんいらっしゃる。「時間を提供する」という第三の支援です。 気仙沼の三浦さんご家族は、311の死に瀕した体験を通して、生かされた自分の残された人生の使命を強く意識されていました。このことは、3年前に中咽頭がんが見つかり、克服された坂本龍一代表・監督によって、団員のためにオーケストラアレンジの譜面を書き起こしていただいたり、その貴重な時間というギフトを受けていることにも通じます。関係者のみなさんの有限な時間の贈与によって東北ユースオーケストラは成り立っています。 折しも今回の練習では決められた休憩時間が終わったらすぐに練習できるようにしようと、タイムマネジメントリーダーを福島の大学生、服部未来子さんにお願いすることにしました。これで全員のチューニングが済んだ状態でオンタイムで栁澤寿男さんを待つことができるはずです(理想)。
ついつい日常の時間の中で忘れがちなのですね。 輪廻転生を信じようが信じまいが、 この人生は一回きりであることを。
今回のレポートは合間の時間に更新しているうちについつい長くなってしまいました。わたくしは「包容力のある実存主義者」になりたいものだと思います。
あらためて引き続き東北ユースオーケストラへのご支援をよろしくお願いいたします。
引率の先生役レポーター 田中宏和拝
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「気仙沼さんま寄席」で朝市 相馬
#落語 #立川志の輔 [福島民報]コピーライターの糸井重里さんが主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」などが、東京の「目黒のさんま祭」にサンマを提供している気仙沼市を支援しようと、2012(平成24)年から「気仙沼さんま寄席」を開き、落語家の立川志の輔さんが出演している。
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福島・相馬話題に落語会 志の輔さん、糸井さんがトーク
#genpatsu [福島民友新聞]相馬野馬追などについて語り合う糸井さん(左)と志の輔さん 福島県相馬市を訪れ魅力に触れてもらおうと、落語会「相馬で気仙沼さんま寄席」が17日、相馬市で開かれた。来場者が立川志の輔さんの落語やコピーライター糸井重里さんと志の輔さんの ...
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