#瓜を破る~一線を越えた、その先には
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URI WO WARU: ISSEN WO KOETA, SONO SAKI NI WA 瓜を破る~一線を越えた、その先には 2024, dir. Sakashita Yuichiro.
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各地句会報
花鳥誌 令和5年1月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和4年10月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
草花のひかりの中へ列車ゆく きみよ 玉電の秋日に錆びし蛙色 要 雁渡るご墓所の天の筒抜けて 順子 神在す胙として木の実独楽 三郎 大老の供華には黒き曼珠沙華 いづみ 木の実降る正室と側室の墓 同 おしろいや世田谷線の音に住む 千種 どんぐりに一打を食らふ力石 みち代 踏切を渡りカンナの遠くなる 順子 茎だけになりて寄り添ふ曼殊沙華 小鳥 直弼へ短きこゑの昼の虫 光子 金色の弥勒に薄き昼の虫 順子
岡田順子選 特選句
草花のひかりの中へ列車ゆく きみよ 黄のカンナ町会掲示板に訃報 光子 井伊の墓所秋の大黒蝶舞へり 慶月 大老の供華には黒き曼珠沙華 いづみ おしろいや世田谷線の音に住む 千種 十月の路面電車の小さき旅 美紀 秋の声世田谷線のちんちんと はるか 現し世のどんぐり星霜の墓碑へ 瑠璃 直弼の供華の白菊とて無言 俊樹 直弼へ短きこゑの昼の虫 光子 秋声や多情を匿すまねき猫 瑠璃 累々の江戸よりの墓所穴まどひ 眞理子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月1日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
点と点結ぶ旅して尉鶲 愛 振り向かぬままの別れや秋日傘 久美子 月光や洞の育む白茸 成子 木の実落つ長き抱擁解きをれば 美穂 折々に浮かぶ人あり虫の声 孝子 ひぐらしの果てたる幹へ掌 かおり 国境も先の異国も花野なる 睦子 虫の音が消え君の音靴の音 勝利 流れ星消えたるあたり曾良の墓 かおり
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月3日 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
天高き天守の磴や男坂 千加 秋高し景色静に広がりて 同 汽水湖に影を新たに小鳥来る 泰俊 朗々と舟歌流れ天高し 同 落城の業火の名残り曼珠沙華 雪 秋立つとほのかに見せて来し楓 かづお 天の川磯部の句碑になだれをり 匠 天高し白馬峰雲ありてなほ 希
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月6日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
夫のこし逝く女静か秋彼岸 由季子 赤い羽根遺品の襟にさびついて さとみ 学童の帽子が踊る刈田路��吉田都 雨音を独り静かに温め酒 同 紫に沈む山里秋の暮 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月7日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
蛇穴に若きは鋼の身を細め 鍜治屋都 芋の露朝日に散らし列車ゆく 美智子 神木の二本の銀杏落ちる朝 益恵 破蓮の静寂に焦れて亀の浮く 宇太郎 新種ぶだう女神のやうな名をもらひ 悦子 鱗雲成らねばただの雲一つ 佐代子 色褪せず残る菊とは夢幻能 悦子 ばつた跳ぶ天金の書を捲るごと 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月8日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
ますかたは吟行日和年尾の忌 百合子 奔放にコスモス咲かせ埋れ住む 同 椋鳥の藪騒続く夕間暮 美枝子 子等摑む新米の贅塩むすび ゆう子 名園を忘れ難くて鴨来る 幸子 ぱつくりと割れて無花果木に残り 和代 初鴨の水の飛沫の薄暮かな ゆう子 猪垣や鉄柵曲がり獣の香 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
木の実落つ藩邸跡を結界に 時江 コスモスの花街道は過疎の村 久子 産声の高し満月耿耿と みす枝 ひとしきり子に諭されて敬���日 上嶋昭子 曼珠沙華供花としもゆる六地蔵 一枝 鰯雲その一匹のへしこ持て 時江 雨の日の菊人形の香りなし ただし あせりたる話の接穂ソーダ水 上嶋昭子 倒立の子に秋天の果てしなき 同 秋風にたちて句作に目をとぢて 久子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月10日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
川は日に芒は風に耀うて 三無 風向きに芒の穂波獣めく 怜 雨止みて爽やかに風流れ出し せつこ ゆつたりと多摩川眺め秋高し 同 秋雨の手鏡ほどの潦 三無 患ひて安寝焦がるる長夜かな エイ子 藩校あと今剣道場新松子 あき子 秋蝶や喜び交はす雨上り せつこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月11日 萩花鳥会
大阿蘇の銀波見渡す花芒 祐子 観る客と朝まで風の秋祭り 健雄 秋祭り露店の饅頭蒸気船 恒雄 秋吉台芒波打ち野は光る 俊文 花芒古希の体は軋みおり ゆかり まず友へ文したゝめて秋投句 陽子 青き目に器映すや秋日和 吉之 夕日影黄金カルスト芒原 美惠子
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令和4年10月16日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
金継ぎの碗によそふや今年米 登美子 そぞろ行く袖に花触れ萩の寺 紀子 子の写真電車と橋と秋夕焼 裕子 秋の灯に深くうなづく真砂女の句 登美子 花野行く少女に戻りたい母と 同 被写体は白さ際立つ蕎麦の花 紀子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
御神燈淋しく点り秋祭り 雪 天馬空駈けるが如き秋の雲 同 自ら猫じゃらしてふ名に揺るる 同 秋潮に柏翠偲ぶ日本海 かづを 真青なる海と対峙の鰯雲 同 鶏頭のいよいよ赤く親鸞忌 ただし 桃太郎香り豊に菊人形 同 鬼灯の中へ秘めごと仕舞ひたし 和子 雲の峰だんだん母に似てゐたり 富子 振り返へるたびに暮れゆく芒道 真喜栄 坊跡に皇女が詠みし烏瓜 やす香
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
おほかたは裏をさらして朴落葉 要 秋深し紙垂の失せたる縄一本 千種 合掌のかたちに稲を掛け連ね 久子 豊穣に早稲と晩稲の隣り合ふ 炳子 耕運機突っ込まれたる赤のまま 圭魚 鏤める谷戸の深山の烏瓜 亜栄子 稔り田を守るかに巖尖りけり 炳子 晩秋の黃蝶小さく濃く舞へり 慶月 雨しづくとどめ末枯はじまりぬ 千種 穭田に残され赤き耕運機 圭魚
栗林圭魚選 特選句
溝蕎麦や角のとれたる水の音 三無 ひと掴みづつ稲を刈る音乾き 秋尚 稲雀追うて男の猫車 炳子 叢雲や遠くの風に花芒 斉 泥のまま置かるる農具草の花 眞理子 稲刈や鎌先光り露飛ばす 三無 耕運機傾き錆びて赤のまま 要 けふあたり色づきさうなからすうり 千種 晩秋の黃蝶小さく濃く舞へり 慶月 雨しづくとどめ末枯はじまりぬ 千種 隠沼にぷくんと気泡秋深し 炳子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月19日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
渡り鳥日本海を北に置く 世詩明 コスモスや川辺はなべて清酒倉 同 朝倉の興亡跡や曼珠沙華 千代子 案山子見てゐるか案山子に見らるるか 雪 赤とんぼ空に合戦ある如し 同 ゆれ止まぬコスモスと人想ふ吾と 昭子 色鳥の水面をよぎる水煙 希子 点在の村をコスモス繋ぐ野辺 同 小次郎の里に群れ飛ぶ赤蜻蛉 笑子 鳥渡る列の歪みはそのままに 泰俊 鳥渡る夕日の中へ紛れつつ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月21日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
俳人の揃ふ本棚秋灯 一涓 大法螺を吹き松茸を山ほどと 同 那智黒をひととき握りゐて秋思 同 漂へる雲の厚さよ神の旅 たけし 稲孫田のところどころに出水跡 同 美術展出て鈴掛けの枯葉踏む 雪 院食の栗飯小さく刻みをり 中山昭子 秋晴や僧の買物竹箒 洋子 末枯れて野径の幅の広さかな みす枝 短日のレントゲン技師素つ気なし 上嶋昭子 栗拾ふ巫女の襟足見てしまふ 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月21日 さきたま花鳥句会 岡田順子選 特選句
竜神の抉りし谷を秋茜 裕章 コスモスの続く車窓を開きけり かおり 段々の刈田に迫る日の名残り 月惑 残菊の縋る墓石に日の欠片 同 草野ゆく飛蝗光と四方に跳ぶ 裕章 夕空を背負ひ稲刈る父母の見ゆ 良江 二つ三つむかご転がり米を研ぐ 紀花 黄葉散るギターケースに銀貨投ぐ とし江 秋びより鴟尾に流離の雲一つ 月惑 弾く手なき床の琴へも菊飾り 康子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月23日 月例会 坊城俊樹選 特選句
ケサランパサラン白い山茶花咲いたから 順子 草の実の数ほど武運祈られて いづみ 盛大に残りの菊を並べけり 佑天 誇らしげなる白の立つ菊花展 秋尚 白帝の置きし十字架翳りなく かおり 魂のせるほどの小さき秋の蝶 順子 晴着色の鯉の寄り来る七五三 慶月
岡田順子選 特選句
初鴨の静けさ恋ひて北��丸 圭魚 色鳥の色を禁裏の松越しに はるか 草の実の数ほど武運祈られて いづみ 菊月の母は女の匂ひかな 和子 白大輪赤子のごとく菊師撫で 慶月 ふるさとの名の献酒ある紅葉かな ゆう子 大鳥居秋の家族を切り取れる 要 菊花展菊の御門を踏み入れば 俊樹 亡き者のかえる処の水澄めり いづみ 秋興や一男二女の横座り 昌文
栗林圭魚選 特選句
菊花展菊の御門を踏み入れば 俊樹 鉢すゑる江戸の菊師の指遣ひ 順子 玉砂利を踏む行秋を惜しむ音 政江 秋の影深く宿して能舞台 て津子 神池の蓬莱めきし石の秋 炳子 破蓮の揺れ鬩ぎ合ふ濠深き 秋尚 能舞台いつしか生るる新松子 幸風
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年10月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
戻りくる波より低き鰯舟 喜和 人波によごれし踵カンナの緋 かおり 考へる葦に生れにし秋思かな 吉田睦子 北斎の波へ秋思のひとかけら 美穂 一燈に組みたる指の秋思かな 同 石蹴りの石の滑りて秋落暉 ひとみ 砂糖壺秋思の翳は映らずに かおり ゆふぐれの顔して鹿の近づきぬ 美穂 城垣の石のあはひにある秋思 成子 おむすびの丸に三角天高し 千代 梟に縄文の火と夜の密度 古賀睦子 黒電話秋思の声のきれぎれに 同 恋人よ首より老いて冬眠す 美穂 顔伏せてゆく秋思らの曲り角 かおり
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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幻想の一年、夢のやうな将来。
おっぱい!!!!
今日は志望校の模試を受けると云うので、色々尽くしてきた訳なのであるが、まさかこうも簡単に心がかき乱されるとは思っても見ていなかった。それもこれも全部、隣で黙々と試験を受けている制服姿の、――恐らくは母校からもう少し北に行ったところにある進学校に通っている女生徒の、その胸元、――つまり「おっぱい」が原因であつた。――
明らかに異常としか言いようがない。白い夏用のセーラー服を弾けさせんばかりの膨らみは、大きさにしてバスケットボールぐらいであろうか、横にも縦にも30センチは彼女の胸元から飛び出している。それに引っ張られて制服にはシワが出来ていたり、脇のあたりなどに変に折り目がついていたりしているのであるが、彼女の本来の体格には合っていないのか、お腹の辺りはダボダボと生地が余っている。彼女が消しゴムをかけると、それに合わせて揺れる揺れる。机の縁に当たれば、その形に合わせて柔らかく変形する。下に何枚も着ていないのか、パンパンに張った制服には薄っすらとブラジャーと思しき四角い模様が浮かび上がっている。時として彼女が肩を揉む仕草をするのは、やはり途方もなく重いからであろうか。
しかし、俺にはそんな光景が信じられなかった。
――女性の乳房がここまで大きくなるのか?
俺は彼女が席についた時から、純粋にそんな気持ちを抱いていた。どう考えてもありえない。彼女の顔よりも、俺の顔よりも、まだまだずっと大きい胸の膨らみは白昼夢のレベルである。現実に存在していい大きさではない。もし、ほんとうに存在するのなら、確実にネットだとか、テレビだとかで話題になっているはずである。受験のプレッシャーに負けて頭のおかしくなった女生徒が、詰め物をしている、――そうに違いない。このおっぱいは偽物である。もしくは俺は今、幻想を見ている。――
そう思わなくてはこちらの頭がおかしくなりそうだった。そもそも一体何カップなのかも検討がつかない。P カップ? U カップ? Xカップ? いやいや、Z カップオーバーと云われても何も不思議ではない。
しかしもしそうだとして、ならば一体どうやったらそんな大きさになるのだろう。小学生の頃から大きくなったとしても、一年に5カップ弱は大きくならなければ、こんな暑い時期にZ カップを超えることは出来ない。すると、中学を卒業する時点で少なくともP カップは無くてはならない。……いやいや、今の大きさもそうだが、中学生でP カップだなんて、そんなばかなことはありはしないであろう。しかし、現実にこの大きさになるにはそのくらいの成長速度が必要である。やはり偽物としか思えない。……
いや、そうでなかったとしても、こんな可愛らしい女子高校生に、こんな大きなおっぱいを与えるなぞ、神はあまりにも不平等である。彼女を初めて見た時、その巨大すぎる胸の膨らみに脳が麻痺したのか、まず俺が眺めたのは彼女の顔だった。黒い艷やかなセミロングの髪の毛を軽く後ろで束ね、ふんわりとした目元に、指で摘んだような鼻に、すうと真横に伸びた唇、白い肌、長いまつげ、……まさに完璧な瓜実顔と云ってもよかろう。おっぱいがまるでなかったとしても、他の女性とは一線を画している。――
もうこれ以上問題を解くなんて出来ないと判断した俺は、まだ開いてすらいない化学の問題用紙を一瞬間眺めた後、取り敢えず物理の回答を見直すことにした。チラリと目を向けると、彼女は胸に邪魔をされながらも一生懸命に問題を解いている。普段なら焦る心地ではあるけれども、もう今日は何もかもを諦めてしまった。俺は机に突っ伏すと、隣で繰り広げられているであろう蠱惑的な光景に、残り時間いっぱい思いを馳せることにした。
例の模試からまる二ヶ月、俺は予備校へ通いながら何の進展のない日々を過ごしていた。結局彼女はあの後、俺が放心しているうちに試験会場を後にしてしまっていたから、連絡先も交換できていないし、そもそも声すら聞いていないのである。それでも制服から高校が判明したから、友達からは校門で待ち構えろと云われたのだが、そんなストーカーまがいのこと、冗談でも俺にはできない。ただただ悶々とした日々を過ごしている一方であった。
で、いま何をしているかと云えば、この時期から、――ちゃんと云うと8月のとある週から、この予備校では夏期講習が行われるから、浪人生である俺は必ず出席しなければならない、――と、ここまで云えば分かるだろうか。そう云えば去年も行ったような気がするので、恐らくは現役生も交えた講習である。高校生からすると、中々新鮮味があるだろうが、毎日をここで過ごしている俺からすれば、全くもって面白くない。――
と、思いつつ、昨日から解きかけで残しておいた数学の問題を解こうとノートを取り出したのだが、ふと隣の席に座ってくる人影が視界の隅に見えた。授業開始にはまだ時間はあるので、空いている席はたくさんある。前にも後ろにもある。そんな中でわざわざ俺の隣に座ってくるのは、一体誰だ……? と思って見てみると、――
――彼女だった。
見間違えようがない。相変わらず、風船でも入れているのではないかと思うほどセーラー服をパンパンにさせ、髪の毛を後ろで束ね、あの可愛らしい顔を若干こわばらせている。同じようにテキストとノートを取り出した彼女は、下敷きで顔を軽く扇ぎながら、何をするわけでもなく黒板をぼんやりと眺めていた。
――それにしても大きい膨らみだ。真横に居るものだから以前よりもその膨らみは大きく感じられる。今日はブラジャーの跡こそ見えないけれども、セーラー服が破れてしまわないかこちらがハラハラするほどに、胸の頭だとか、脇のあたりだとか、背中のあたりだとかが張っている。彼女が顔を扇ぐ度に、机に当たってふにふにと形を変えるおっぱいは、見ていても心地よく感じられる。それに、何とも重そうに揺れるのである。もはやここまでされては、決して詰め物だとは云えない。確かに俺の真横には、途方もない重量を持つ塊がある。
「おはよう」
もうどうしようもなくなった俺は、意を決して彼女に話しかけた。
「お、おはようございます」
とおどおどした声が返ってきたので、出来るだけ朗らかに、彼女と再開した時に備えて練習した言葉を云う。
「何ヶ月か前の模試に居なかった? ほら、O大学の、……」
「はい。たしかあなたは、……私の隣に居ました、……よね?」
と、首をかしげる、その顔には笑みが。
「そうそう。あまりに一生懸命解いてたから、なんか面影があるなーって思ったけど、やっぱりそうだったんだ」
「ふふふ、私も隣で一生懸命解いてる姿は良く憶えてますよ」
「隣に座ったのは偶然?」
「いえ、実は誰も知ってる人が居なくて心細かったんです。……」
と彼女は恥ずかしそうに笑った。
話はそれから自己紹介の流れになったのであるが、とにかく胸元の存在感がすごくて、何度も何度も目をやりそうになった。聞くと彼女の名前は沓名 楓(くつな かえで)と云う。苗字は珍しいから名前で呼んで欲しいとのことだけども、初対面の女子高生を下の名で呼ぶ、その気恥ずかしさと云ったらない。が、彼女はほんとうに気にならないのか、むしろ言葉に詰まる俺を見てくすくすとこそばゆく笑っていた。
物理選択と生物選択で俺たちは分かれることになったのであるが、離れ離れになるのはそれくらいで夏期講習のコースは凡そ一致していたから、その後も一緒に受けることになった。その外見に似合わず、意外にも楓はお茶目で、授業中にもしばしば筆談で会話をした。中でも面白かったのは彼女は絵が上手く、教壇に立つ先生の似顔絵を描いては笑わせてくる事で、それが唐突に見せてくるものだから、授業中に何度も何度も吹き出すハメになってしまった。
純粋に楽しかった。もちろんおっぱいは気になり続けてはいたけれども、再び数学の問題に向かう余裕ができるほどに、彼女と授業を受けるのは楽しいと感じられた。だから俺はつい楓に、
「大丈夫?」
と云っていた。もう何度も彼女が肩に手をやるから気になったのである。
「へ? 何がです?」
「いや、肩が痛いのかなって」
と云うと、楓の顔は一気に真っ赤になる。
「あ、えとですね。……その、重くて、……」
「え?」
「お、おっぱいが重くてズレちゃうんです。……」
と二つの膨らみを抱えながら小さな声で云う。分かってはいたが、デリカシーのなさすぎる問いに、後悔が募る。
「ごめん。今のは無神経すぎた。許してくれ」
「いえ、云ってくれた方が、お互い気が楽になりますから。……」
しばらく無言が続いた。俺は居心地の悪さにまたノートに向かってまだ解けきっていない問題に向かうことにした。楓はぼうっと黒板を眺めていたのだが、いつしか同じようにノートに向かって、何やら一生懸命に書いていた。
もう残すところ授業は後一つである。いつのまにか予備校でも屈指の変わり者と評判の高い数学のS 先生が教壇に立っており、気がつけば受講カードが配られてきた。
その時間、彼女と目を合わせたのは結局、受講カードを手渡した時だけであった。
「柴谷さん」
と、テキストを片している俺に、楓が声をかけてくる。
「今日はありがとうございました。あのまま声をかけ���れなかったら、心細さで死んでしまったかもしれません」
「ははは、生きててよかったよ。俺も今日は楽しかった」
「それで、これを、……」
とノートの切れ端を折り曲げたのを俺に手渡して、………こなかった。途中であの豊かな胸に丸め込まれる。チラリと見て唸る。
「………やっぱり、これは明日にします! さようなら!」
と云って、楓はぱぱっと教室から出て行ってしまった。残された俺は彼女が何を渡そうとしたのか気になったけれども、それよりも彼女とお近づきになれた嬉しさと、中々上手く事が運んだ安堵にほっと息をついて、体から力を抜いた。自習室に行くのはそれから30分もしてからであった。
結局、楓があの時何を渡そうとしていたのか分からずじまいであった。明日にしますと云っていたのが、また明日にしますになって、そして明くる日も、また明日にしますになり、それが続いてとうとう夏期講習も最後の日となってしまった。とは云っても、俺たちはそのあいだ、朝来てから帰るまで、時には自習室で夜遅くまで籠もる時もほとんど一緒に居たからあまり気にはなっていない。気になる気にならないと云う話なら、楓のおっぱいの方がよっぽど気になっている。
彼女は胸の大きな人にありがちな、太って見えることを非常に気にしているようで、歩く時には必ずと云っていいほど制服のお腹のあたりを抑えていた。それが却って扇情的になっていて、俺はいつも目のやり場に困っているのであるが、確かに抑えていないと二回りは横に広がっているように見えてしまう。それがなぜかと云えば、恐らく巨大な胸を入れるために自分の体格に合わない制服を着ているからであろう。バストはもとよりお腹周りに余裕があるせいで、いわゆる乳袋が出来てしまっている。それに袖もブカブカで、しかもその余った袖が胸に引っ張られるせいで、横から見ると一回りも二回りも腕が太く見えてしまう。要はおっぱいのせいでせっかくのセーラー服を上手く着こなせていないのである。着る物一つにしても、楓は苦心しているようであった。
彼女のおっぱいについて気になったと云えば、もう一つある。それは一緒に自習室に行った時のお話で、楓は至って真面目に勉強を進めるのであるが、その日は疲れていたのかよくあくびをしていた。眠い? と聞くと、めっちゃ眠いっす、……と云うので、寝てもバチは当たらないから一眠りしな。起こしてあげるからと云うと、うぅ、……いつもは逆なのに。……と云いながら机に突っ伏してしまった。
……おっぱいを枕にして。気持ち良さそうな顔を、少しだけこちらに向けて。
俺もあのおっぱいを枕にしたらさぞかし気持ちがよいだろうと云う想像はしていたが、まさか本人がするとは思ってもいなかった。テキストやらノートやら全てを押しつぶしてなお余りあるおっぱい枕は、彼女の顔を柔らかく受け止めていた。しかもうつ伏せなものだから、絶対にいい匂いがする。あのおっぱいで出来る谷間に俺も顔を突っ込んでみたい。――俺はそんなことを思いながら、写真を撮ろうとする手を止めて参考書に向かったが、今度��机に重々しくのるおっぱいに手が伸びようとする。なんせ彼女はすっかり寝息を立てて寝ているし、今は周りに誰も居ないし、ちょっと突いてもバレることは無い。あのブラジャーの模様をちょっと触るだけ、なぞるだけ、……
もちろん、思うだけで終わった。何度かトイレに行くフリをして気を紛らわせていたら、楓が起こしてと云った時間になっていたので、その日はそのまま背中をトントンと叩いてやった。体を起こす時にストン、ストンと地に向かって落ちるおっぱいを見られただけでも俺には充分であった。
「とうとう今日が最後なんですね」
と、帰り際に楓が云った。
「だなぁ。あっという間だったなぁ。……」
「あの時話しかけてくれて、ほんとうにありがとうございます、柴谷さん。夏期講習がこんなに楽しくなるなんて思ってませんでした」
「俺もだよ。この調子で一緒に大学に行こうな」
とんでもないことを云ったような気がするのであるが、楓はにっこりと笑って、
「行けます��、私たちなら。きっと」
「俺は一度失敗してるからなぁ、……ま、頑張ろう」
「ふふ、柴谷さんなら大丈夫ですよ。……あ、そうだ。渡したいものが」
楓は例のノートの切れ端、……ではなくルーズリーフを数枚手渡してくる。今度はちゃんと俺の手に渡った。
「えっと、あ、今は見ないでくださると嬉しいです。……色々書いちゃったので。………」
「分かった。家に帰ってからゆっくり読むよ」
「お願いします」
俺たちはそれから一緒に駅まで歩いて行って、楓の乗る電車が来るまで待って、これほどにない寂しい別れに涙を飲んだ。
楓から渡されたルーズリーフを読んだのはそれから一週間後の深夜であった。何度も何度も渋って渡してくれなかった上に、いざ渡してくれたときの真剣な眼差しを思うと、どうしてもそのくらいの日数は経たないといけないような気がしたのである。しかも書き出しがこうなのである。――
柴谷仁士様へ
ここに書いてゐる事柄は母にも、姉にも、友人にも明かしたことの無い、私の胸に関することです。本当は直接口で云へると良かつたのですが、恥ずかしさに負けてしまひました。回りくどい方法をご容赦ください。なにぶん初めて人に打ち明けるので、ひどく恥ずかしいのです。ですが、柴谷さんならきつと許していただけると信じてゐます。
さて、夏の日差しが強い中、―――
それからしばらくは恋文とも取れるような文章が並んでいるのであるが、二枚目からようやく本題に入ったらしく、彼女の生い立ちから順にいわゆる「成長記録」が記されている。原文のまま写すとこうである。
初めて私の姿を見た時、どう思ひましたか? 柴谷さんも驚いたことでせう。ええ、もう初対面の人にも、同じクラスの人にも、昔から気心の知れる幼馴染にも驚かれてゐるのですから、きつとさうに違ひありません。初めてお会ひしたのはO 大学のオープン模試でしたよね。私の姿を一目見て、目の色が変はつたのはよ��憶えてゐます。その後すぐに視線を前に向けて、机の上にあつたポレポレを取つてゐましたね。ああ、怒つてゐるのではありません。安心してください。
それでもう一度問ひますが、二週間一緒に過ごしてみて、私の体についてどう思つてゐますか? これを読む頃には忘れかけてゐるかもしれませんから、スリーサイズを記しておきませう。上から148-54-72 です。どうです? すごいでせう? ウエストも、ヒップも、倍にしたところでバストには敵はない。……これが私の体なんです。胸だけが異常に発達した決して美しいとは云へない体、……それが沓名楓なんです。
ちなみに、アンダーバストはぴつたり60センチとなつてをります。カップ数は日本だと2.5センチ刻みで、A カップ、B カップ、C カップ、……と云ふ風に変はります。さて、バスト148センチ、アンダーバスト60センチの私は一体何カップでせうか? 5分以内に答へよ。
せうもありませんでしたね。すみません。正解は7Z カップです。聞き慣れないかもしれませんから、一応云つておきますが、7Z カップとはZ カップからさらに6つ上のカップ数で、アルファベットで云ふと二週目のF カップとなつてをります。どうです? すごいでせう? 私にとつて、Z カップは小さいのです。先程試したところ、そこらぢうからお胸のお肉がはみ出してしまひました。一応Z カップのブラジャーでも、顔はすつぽりと包めるくらゐは大きいのですけどね。……
さて、こんな異常な胸を持つてゐるせいで、私はこれまで何度もいぢめに会ひました。小学生の時、中学生の時、――高校生の今ではみんな黙つてゐますが、陰口はたまに聞きます。あ、何度もと云つた割には多くて三回でしたね。すみません。
最初のいぢめは小学生の時でした。私の胸の成長は早いもので確か小学5年生か6年生かそのくらゐの時に始まりました。私もその時は普通の女の子でしたから、当然嬉しかつたです。同じやうに大きくなり始めた友達もゐましたし、それに成長したと云つても、可愛らしい大きさですから、少し羨ましがられるだけでした。
けれど私の胸は異常だつたのです。確か小学校を卒業する頃にはK カップか、L カップと云ふ大きさにまで成長してゐました。もちろん、今からすればしごく可愛らしい大きさには違ひありません。ですが、AAA カップにも満たない子がほとんどの小学生の中に、L カップの小学生が紛れてゐる場面を想像してみてください。……どうでせう? いくら恥ずかしがつて隠さうとしても、目立つて仕方ありませんよね。今でも集合写真やら何やらを眺めると、すぐに私の姿が目についてしまひます。あ、機会があれば見せませうか。すごいですよ? ほんたうに一人だけ胸が飛び出てゐますから。
で、本題に戻ると、そんな目立つ子がいぢめのターゲットにされるのは当たり前のことで、しかも私の場合胸の大きさと云ふ、女の子からも、男の子からも標的にされやすい話題でしたから、一度ハブられると、もう止まりませんでした。身体的な特徴が原因のいぢめは止めやうがありません。具体的な内容は、女の子からはハブられ陰口、男の子からは胸の大きさを揶揄するやうな行動や仕草、――例へばボールを胸��入れてどつちが大きいか比べたり、……さう云ふ感じです。
両親には云つてません。――いえ、ちやんと云ふと、恥ずかしさから何も云ひ出せませんでした。先生もまた、私を妬んでゐたのでせう、こちらは勇気を出していぢめを訴へたのですが、特に行動を起こしてくれませんでした。ただ、中学までの辛抱だから、とは云はれましたね。問題を投げたのでせう。けれども、昔の私はその言葉を信じてひつそりと絵を書いて日々を過ごしてゐました。だから絵はそこそこ上達してゐるのですよ、褒めてくれるのは柴谷さんが初めてでしたが。……
それで中学に上がつて何か変はつたかと云へば、何も変はりませんでした。あ、いや、お胸だけはすくすくと成長してゐましたから、「何も」と云ふのは違ひますね。大きくなる波がありますからはつきりとは云へませんが、だいたい2、3ヶ月��1カップ程度は成長してゐました。ですから、中学1年の夏にはバスト98センチのM カップ、秋にはバスト103センチのO カップ、冬の記録はありませんから飛ばして、中学二年に上がつた時の身体測定では、バスト107センチのQ カップ、……とそんな感じです。どうです? すごいでせう? 柴谷さんは男性ですからピンと来ないかもしれませんが、O カップだとか、P カップだとか、そんな大きさになってもこの速度で成長して行くのは、はつきり云つて異常です。でも止まらないのです。日々食べるものを我慢しても、どんなに運動をしても、何をしても、この胸はほとんど変はらない速度で大きくなり続けて行くのです。周りの子たちがC カップとか、D カップになつたと沸き起こる中、私だけM からN へ、N からO へ、O からP へ、P からQ へ、どんどんどんどん大きくなつて行くのです。優越感も何もありません。ただひたすら恐怖を感じてゐました。このまま胸の成長が止まらなかつたらどうしよう、もう嫌だ、嫌だ、普通の大きさになりたい、普通になりたい、……さう思つて毎晩ひとしきり泣いてから床についてゐました。
ブラジャーに関しては、姉が(世間一般で云ふところの)立派な乳房を持つてゐますから、この頃はまだお下がりでなんとかなつてゐました。尤も、私の方が華車な体つきをしてゐますから、カップ数的には小さめのブラジャーでしたが、兎に角、アンダーバストの合わないブラジャーに、無理やりお胸のお肉を詰め込んで学校に通つてゐました。しかしそれも中学二年の夏前には終はりましたが。
何せ6月になる頃には私のバストは113センチにもなつてゐましたからね。カップ数はT。姉はP カップでしたから5カップも差があると階段を降りるだけでも溢れてしまひます、仕方ないんです。私は初めて母親に連れられてランジェリーショップでオーダーメイドのブラジャーを注文しました。別にT カップのブラジャーは海外では市販されてゐるやうでしたから、それを購入しても良かつたのですが、グラマーな方向けしかないらしく、私の体には絶対に合はないだらうと、それに胸にも悪いからと、さう店員さんに云はれて渋々購入した、とそんな感じです。なんと云つても高かつた。母は決して値段を教へてくれませんでしたが、一度に三つ四つは買はないと日々の生活に間に合ひませんから、父に早く昇進して給料を上げてくれと云つてゐる様子を何度も見ました。
ですが、オーダーメイドのブラジャーを着けた時の心地よさは、何事にも例へがたい快感がありました。……あ、それよりも、夏だから水泳の授業がどうなつたか気になりますか? ふふふ、これについては上手く行つたのですよ。何せ見学が許可されましたからね! 私の居た中学では7月の第二週と第三週が水泳の授業だつたのですけど、もうそのころには私のバストは129センチのV カップになつてましたから、合ふ水着なんて、――況してやそんなV カップが入るやうなスクール水着なんて、全国どこを探しても無いのですから仕方ありません。一人プールサイドでこの忌々しいお胸を抱きながら、体育座りをして楽しさうな光景を眺めてゐました。ま、さうやつて見学してると、後からサボつてるだの何だのと嫌味をたくさん吐きかけられたのですけどね。
結局、私は中学生の時は一人ぼつちでした。これで胸が少しでも普通なら、――せめて姉のやうにP カップ程度で成長が止まつてくれてゐたなら、そんなに目立つこともなく、後々、あゝさう云ふ人も居たよね、で済んだでせう。しかし、中学を卒業する頃には、先のV カップが可愛く見えるほどに私のお胸は大きく成長してしまひました。記録を乗せませう。中学二年の秋になるとバスト122センチのW カップ、冬はそれほど変はりませんが、三月になる頃にはバスト126センチのX カップ。恥ずかしながらこの時やけ食いをしてゐまして、少々アンダーバストが大きくなつてゐます。ですが、お医者様から健康になつたねと云はれたので、今でもその時の体重を維持してゐます。もちろん、体重と云ふのはこの醜いお胸以外ですけどね。あるのと無いのとでは10キロ15キロは違ふのですよ。で、中学三年の身体測定ではバスト129センチのY カップ。夏にはたうとうバスト134センチとなり、晴れてZ カップになつてしまひました。さう云へばこの時から成長が鈍化したやうな気がします。冬にはバスト137センチの2Z カップ、卒業する頃には138センチの3Z カップ。どうです? すごいでせう? Zカップオーバーの女子中学生なんて、私以外に居ますか? 居てもK カップ程度でせう。そんな小さなバストなんて小学生の時にすでに超えてゐます。いやはや、かうして書いてみると自分でもすごいですね。3Z カップの中学生なんて、今懐かしくなつてアルバムにある写真を見てゐるのですが、もう物凄いです。妊娠してゐるみたいです。隣の子の腕が私の胸で隠れて、この写真をみたあの人達に、……ああ、泣きさう。……嫌だ。もう思ひ出したくもない。……
ああ、さうだ、昔ほんたうに辛かつた時、カッターで胸を切り落とさうとしたことがありました。ですが、もちろんそんな度胸はもちろんなく、見ての通り未遂で終はつてゐます。安心してください。一応胸の付け根のあたりに2センチくらいの跡はありますが、それくらゐです。私は大丈夫です。ふふふ、見たいですか? 私は見せたい方ですから、いつでもおつしやつて下さい。もちろん人気のない場所でお願いします。柴谷さんだけにお見せしてあげますから。
一人ぼつちが辛かつたことは云ふまでもありません。しかし良かつたこともあります。絵は描けましたし、勉強は出来ましたし、そのおかげで県内で一番の進学校へ通うことが出来ました。高校の入学式の日のみんなの視線は痛かつたですが、次第に慣れたのか、誰も何も云ひは��なくなりました。みんなどこか引いたやうな目で私を見てくる。胸の話はタブーとして扱われてゐる。……中学の時のやうに強烈に無視されたりする方がまだ居心地は良かつたのかもしれません。私はここでもまた一人ぼつちです。誰も何も話題にしない。自分が幽霊になつたやうな感覚を感じながら過ごしてゐます。ほんたうはみんなと喋りたい、別に胸のことを話題にしてもいいから楽しい雰囲気に混ざりたい、……さう思ひながら過ごしてゐたら、いつの間にかあと半年で卒業となつてゐました。もう無理なのでせうか。……
あ、湿つぽくなつてしまひましたね。いけないいけない。それで最後に聞きますが、私の姿をご想像して、どう思つてゐますか? 柴谷さんは、こんな醜い体の私を受け入れてくれますか? 私はあなたが思つてゐるよりも小心者です。心も醜いです。ですけど、これからも仲良くしてくれると大変嬉しく思ひます。
いえ、此処まで読んで頂いたのなら、もうそれだけ���嬉しいです。ありがたうございました。
あんなにけろりとして話すものだから、夏期講習に来たのに知り合いが居ない、と云うのは変だと思っていた。その原因があの大きなおっぱいにあると云うのは、うっかり楓が寝ているときにおっぱいに触って気が付かれでもしたら、恐ろしいことになっていたかもしれない。俺はこの文を読み終わった時、自然に携帯へと手が伸びていた。もちろん、彼女に読んだことを伝えるためである。
――が、その時やっと気がついたのだが、俺達は連絡先を交換してなかった。いつも早めに席に着く俺を見つけた彼女が隣に座って、そして電車に乗るまでずっと一緒に居るものだから、傍には楓が居るのが当然のようになっていたのだった。俺は今すぐにでも駆け出したかった。今すぐあの憐れな少女のもとに行って、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。だけど名前と特徴しか分からないからどうしようもなかった。俺は手紙を読み直すことしか出来なかった。もう一度携帯に手が伸びたが、出来るのはそれだけだった。
思えば楓はもう少し上の大学、――と云っても、日本にはあと二つほどしか無いが、話を聞いていると、それを目指しても良いくらいには勉強は出来ているようであった。ならば俺が出来ることは彼女が同じ学校を志望していることを信じて、自分も合格できるように勉強にはげむことである。それに気がついてからは、これまでのだらけた生活から一転して、勉強をした。と、云うよりしてゐる。模試の結果は相変はらずであったけれども、楓を思うと全く気持ちはめげなかった。
だがそうやって頑張っていると、月日は思いの外早く巡って寒さに震える季節になっていた。するとまず訪れるのは忌々しいセンター試験である。俺は今、そのための冬期講習へと向かっている。センター試験など四分の一程度に圧縮されるから出来は気にしなくてもいいのだが、あそこでコケると自分の士気に関係するので、決して侮ってはいけない。
いつもの教室に入った俺は、一年ぶりのカリカリした空気に身を漂わせていた。焦る者、余裕のある者、黙々と自分の道を突き進む者、まだ現実味の無い者、……色々居るが、俺はどちらかと云へば不安で押しつぶされそうになっている者である。あの手紙は肌身離さず持ち歩いているけれども、自分の実力不足を感じてしまうとやはり挫けそうになる。……
と、そこで、隣の席に座ってくる者が居た。席は他にも空いているのだから他のところへ行けばいいのに、と思った。一目見て知り合いじゃなければ席を移動しようと思った。それとは別にそんなやつの顔を見てみたくなった。俺は顔を上げようと決した。と、その時、
「お久しぶりです、柴谷さん」
と云う声が降りかかった。
――楓だった。相変わらず黒い冬用のセーラー服をパツンパツンに押し広げ、可愛らしい顔をこちらに向け、軽く手を振りながら微笑んでいた。夏に会った時と違うのは、髪が少し伸びたのと、胸元の膨らみが一回りか二回りほど大きくなったことであろうか。もうこちらの席にまで届こうとしている。……
「久しぶり、楓。元気だった?」
「まずまずですね。柴谷さんは?」
「ダメダメだな。ダメダメ。もうあれから全然偏差値は上がってないし、泣きそう。助けてくれ。楓になら頼める」
と、本音を吐き出した。それは例の文に対する返事でもあったが、楓にはそれが何となく分かったようであった。脱いだコートを自分の体にかけて、体ごと俺の方へ向くと、
「ちょっと失礼します、――」
と隣に居るのに、さらに距離を詰めてくる。
「か、楓?」
「下からならたぶん分かりませんよ?」
とお腹のあたりで手をもぞもぞと動かす。見ると制服の裾を軽くめくっていた。
「い、いや、それは、……それはダメだ。歯止めがかからなくなってしまう。ほらほら、あっち行った」
俺は彼女を向こうへ押しやろうとしたのだが、力を入れれば入れるほど、グイグイとこちらへ密着してくる。
「ふふふ、やーい、へたれー」
「うるさい。……ほら、早く、――」
と、その時、肘のあたりを中心に、腕がギュッと、途方もなく柔らかい何かに押し付けられる。
「まって楓さん、マジで、マジであかんから、……うおお、やばいやばいやばい」
だがそんな必死な俺を他所に楓は、
「柴谷さん、柴谷さん、私のおっぱいなんですけど、あの日からまた大きくなっちゃって、今大変なことになってるんですよ」
と明るい声をかけてくる。
「このあいだも制服が破れちゃったし、大きすぎるのも大変ですよね。しかも今朝測ったらまた大台に乗ってまして、……」
「楓、それまた後で、後でお願い。今聞いたら、……まって、落ち着いて、楓、ちょっと楓!」
「もう、柴谷さんのせいなのに。また成長するの早くなったんですからね、ちゃんと分かってます? 責任取って下さいね? 云いますよ?」
と口を俺の耳の近くへ。
「160.2センチの12Z カップ、つまりアルファベット二週目のK カップ、……になっちゃってました! どうです? すごいでしょう? 身長よりも大きくなったおっぱい、味わいたくないんですか? ほれほれ、何とか云ってみなさい」
と、楓はぐにぐにと俺の腕をその12Z カップのおっぱいに押し付けてくる。しかし一体何なんだそのバストサイズは。160センチだって? 冗談としか思えない。いくらなんでもありえなさすぎる。���だ。そんな大きなおっぱい現実にあるはずがない。そうだ、幻想だ。いま腕に感じている感触も、今目の前に見えている少女とバルーンのような塊も、全て幻想だ。ほら、頭がクラクラしてきた。ようやく目が醒める。それにしてもいい夢だった。――と、あまりにも気持ちの良い感触に、俺の頭はすっかり焼け焦げてしまい、彼女の支えを失うと同時に机に突っ伏してしまった。
そうやって俺たちは久しぶりに再開したのであるが、やることは数ヶ月前と何も変わってなかった。唯一離れ離れになる物理生物の授業以外は常に一緒に行動をともにした。さすがにセンター試験前だと云うので、冬期講習は夏期講習よりも人が多く、並んで座れないときが時としてあったが、そういう時はさっさと予備校の外へ出てサボった。近くには何も無いが、楓となら一緒に街を歩くだけでも楽しいものであった。
冬期講習はそうやって過ごした。お互い大きな試験前だと云うのに、のんびりしているように感じられるが、気持ちの面で落ち着けるなら無駄ではない。不安は失敗の種である。
「あの手紙についてなんだけどな、……いや、内容については何も云わないことにして、一つ聞きたいことがあるんだが」
そんなある日、俺はどうしても聞きたかったことを、電車を待っている時に聞くことにした。
「なんです? ――うわ、寒い!」
服を着こなせないというのは昔語った通りであるが、冬でも例外ではなく、ひどい冷え込みだと云うのに彼女はコートをただ軽く肩にかけているだけだったので、風が吹く度に寒がっていた。
「何で歴史的仮名遣ひで書いたの?」
「へ? ああ、それはですね、最初の導入を書く時に恥ずかしすぎて、……で、仮名遣ひを変えて書いてみたら筆が乗っちゃって、……とにかくあんまり深い意味はないです。あ、柴谷さんの電車来ましたよ」
楓の向く方を見てみると、確かに黄色いストライプの刻まれた電車がホームに入ってきていた。
「なるほどね。じゃあ、またね楓」
「ええ、また明日も、よろしくおねがいします」
と俺は折良く開いた扉の中へ入った。中まで進んで窓から楓を見ると、彼女も俺を見ていたらしく手を振られる。それを見て、俺も手を振り返す。そうやっているうちに電車が出発して、彼女が見えなくなってしまったが、まだ手を振っているような気がして、ホームが消えてしまうまで俺は、他の乗客に見えないよう小さく手を振り続けていた。
あっという間である。このあいだ楓と一緒に冬期講習を受けていたかと思ったら、センター試験がいつの間にか終わって、心の準備が出来ていないと云うのに今日は二次試験である。しかももうあと10分もしないうちに終わってしまう。一年と云う長い期間をかけても手応えが去年と全く一緒であった。今年もダメだと云う悲愴感が俺の頭に渦巻いていた。
そう云えば楓はどうなんだろうか。冬期講習の時に志望校が同じO 大学だと判明したから、行きがけによくよく周りを見ながら試験会場の棟まで来たのだが、あの異常な膨らみを結局見つけることができなかった。尤も、俺は坂道の方の門から入ったから、もし彼女がモノレールの駅からやって来たと云うなら、十中八九会えないであろう。とすれば、後期試験なぞ無いから本当に一生会えずじまいで終わってしまうかもしれない。また連絡先を交換せずに最後の別れをしたのだから、俺が滑ればもう二度と会うことはなかろう。
まったく、この一年間は幻想を見ていたような気分であった。沓名 楓と云う頭はいいし、可愛いし、おっぱいはこの世の誰よりも大きな女子高校生と会って、仲良くなって、ついにはその膨らみに触れて、これが幻想でなくては何なのだろう。願わくば、答案用紙が回収されていくこの光景も幻想であってほしいが、今までいい思いばかりであったからたぶん現実である。
俺はトボトボと試験会場を後にした。外はすっかり暗くなっているけれども、地元と比べてかなり明るい空が広がっている。地図上ではこの大学は府の中でもかなり北の方に位置していて、一方は山、一方は世界でも有数の大都市が広がっているそうだが、なるほど確かにそちらの方向はかなり明るい。月すらも白い霞となって見えづらくなっている。
変わらずトボトボと歩いていると、三人の親子連れが目についた。父母は平凡そのものであるが、恐らく今ここで試験を受けた人の姉であろうか、楓と同じ艷やかな黒い髪の毛に、楓と同じような目鼻立ちをして、それに、――これだけは楓には全く及ばないが、それでも普通の女性にしては物凄く胸が大きい。自然に涙が出てくる。恐らく今この場で偶然彼女と再開しなければ、もう声すらも聞けないと思うと、この楓にそっくりな女性にすがりつきたくなってきた。もうさっさとホテルへ帰ってしまおう。そしてぐっすりと眠って、今日のことはひとまず忘れて、明日近くに住んでいる友達と目一杯遊んで、気分を一新しよう。――
「仁士さん?」
と、歩き始めた俺に声がかかった。それは今年一年間で、合わせて一ヶ月ほどのあいだ聞いた、そして今俺が待ちわびている、意外とお茶目な声であった。
涙を拭って振り向くと、彼女は居た。後ろから光が差しているから、はっきりとは見えづらいけれど、胸のあたりの丸いシルエットと、こじんまりした背は確かに楓である。
「もしかして、泣いてたんですか? ――ああ! ほら、やっぱり! これ使ってください」
とハンカチを手渡してくる。
「ありがとう、楓。でも、ごめんな。今年もやっぱり俺はダメだったよ。ごめん、ほんとうにごめん。……」
「いいえ、そんなことありません! まだはっきりと分かった訳ではないんですから、諦めないでください!」
意外と大きな声に、俺も周囲も驚いた。楓は本気で怒っているようで、キッと睨みつけている。
「ああ、そうだな。そうだよな、楓」
「そうです。仁士さんは肝心なところでへたれるんですから。……ほら、邪魔になってますから行きましょう」
と楓に手を取られて歩き始めたのであるが、残念なことにすぐ手を離されてしまった。けれどもすぐに手をつなぎ直されて、小声で、
「仁士さん、私たちは恋人同士ですからね? 分かってますよね?」
と云う。何が何だか分からないうちに、楓はまた歩き始めて、先程まで俺の目に写っていた三人の親子連れへ向かって行く。……
「どう��よう楓、今が今日の中で一番緊張する。助けてくれ」
「くすくす、……大丈夫ですよ。お母さんたちにはよく話をしてますから、いつも通りの仁士さんでいてください。――」
そう云って楓は俺の手を強く握ってくれたのであるが、何の心の準備が出来ていない俺は、やっぱり緊張してコチコチに固まってしまった。それを見て、彼女はくすりと笑う。俺���おかしくなってきて笑う。――幻想はまだ、続いているようであった。
(をはり)
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替魂島
笹帽子 @sasaboushi
島アンソロジー #貝楼諸島より 参加作品
*
鳥も通わぬ流刑島。そんな言葉は全くの嘘だと、静かに揺れる船の上で女は思った。水平線に堂々と突き出す山塊の上空に、芥子粒のように小さい鳥の影が旋回している。この船しか持たない自分には、そびえる海食崖がひどく恐ろしい。叩き付けられて砕け散り、潮に飲まれる自分を思うと身震いがする。けれど空を飛ぶ鳥ならば、いささかも怖くはないだろう。
女は汗を拭い、ゆっくりと船を浜へ寄せていく。傍らに座る男は、呆けたように島の断崖を眺めている。髪を剃られた後頭部の大きな痣が痛々しい。
つみびとよ 替魂島へ流れ
つみとがをもて 燃える山に登れ
青の島の炎 その体を替え 心を替え
つみとがを流し 魂を替えん
女は低い声で歌った。歌うのが決まりだ。
罪人を船でこの島へ運ぶ。朝、罪人を島へ降ろす。罪人は島の不思議な力によりその魂を清められる。夕に再び浜へ船を着け、罪人を拾う。そのときにはもう、罪人はすっかり改心し、晴れやかな顔をしている。女が務める導師の仕事は、そういうものだった。
「大陸だと、流刑というのは島に流して、そのままそこで孤独に暮らせという刑罰らしいぜ」
女の心中に、先代の言葉が木霊した。かつて交わした会話が蘇る。
先代は、女とは一回り年の離れた女性で、豪放磊落に船を操った。この流刑を行う導師としての先代であり、船乗りとしての師匠でもあった。女は、先代を親のようにも、姉のようにも慕っていた。先代の日焼けした肌に浮かぶえくぼの陰影が好きだった。
「〈替魂島〉だと罪人は半日で罪を清めてもらえるけれど、普通の島ならそうはいかない。だからずっと暮らさないといけない、ということですか」
「さあな」
「そもそも、半日で罪が清められる方が不思議だと思うときがあります」
途端に先代は眉をひそめる。
「それがあの島の昔からの力だ」
「でも、その力がなんなのか、気にならないのですか」
島に何があり、どうして罪人は清められるのか。女はそれが知りたかった。それは秘中の秘とされており、導師ですら教わらない謎だった。先代も何も知らないと言った。
「いいか、島に上がろうなんて絶対に考えるんじゃないぞ。それは大きな罪だ。償えない罪を作ることになる」
「それこそ、その罪で流刑になっちゃうといけないですね」
女は冗談で受け流そうとしたが、先代の機嫌は直らなかった。
「ともかく絶対に島には上がるな」
女は、罪人を乗せた船に戻る。
この諸島で流刑が言い渡されたのは三年ぶりだった。今回の流刑は、女がはじめて先代なしに、一人で導師を務める。
女は決めていた。
島に上がるのだ。何年も考え続けてきた。一体何が罪人たちを清めているのか、この目で見てみたい。
「ふうん、私がいなくなったら、言いつけを破るんだ」
先代の上機嫌な声が木霊する。これはかつての会話の再生ではない。
船を〈玉の浜〉に着ける。切り立つ海食崖に囲まれた島で唯一、船を着けられる場所だ。
罪人の縄をほどき、靴を履かせて送り出す。罪人は覚束ない足取りで、急斜面に取り付けられた階段を登り始める。
女は、罪人の姿が稜線の先に消えてからたっぷりと時間を空け、そっと玉の砂利を踏みしめた。
女は、急勾配の頼りない階段を登った。幾度もつづら折りを繰り返し、ときおり信じられないほど茂ったススキの藪に阻まれながら、絶壁を登っていく。じっとりと汗をかき、ようやく断崖を登り切ると、島の全貌が見渡せた。
船から見えた荒々しい崖が嘘のように、一面の豊かな緑が広がっている。たったいま登り終えた外輪山の内に輪を描くようにカルデラが伸び、島の中央には内輪山がこんもりと盛り上がっている。
「焼き菓子みたいだな、あれ」
先代の声が木霊する。甘いものには目がない人だった。
島の中央、柔らかく膨らむ内輪山は、伝承では単に御山と呼ばれる。罪人はこの島で、御山の頂を目指す。女もそれを追う。
歩く地面は草に覆われてはいるが、道らしき痕跡がある。右手彼方の御山の麓には、建物の跡のようなものも見える。かつてはこの島にも住人がいたのだろうか。
「今でも住んでたりしてな」
先代の声が木霊する。怖いこと言わないで、と女は言い返す。
「怖いとは限らない。私みたいに優しい人かもしれない」
師匠、あなたはもう死んでいる。いまではもう、私の頭の中の声だけだ。それがこの島にいたら、怖いどころではない。
御山に近づくと、その異様さが露わになる。燃える山と歌われるとおり、これは火山だ。所々に露出した岩肌からは湯気が立っている。かと思うと、女が辿る古道の痕跡は鬱蒼と茂る樹林の中に入り込む。曲がりくねる玉石の階段は苔むしてよく滑る。女が転びそうになり悪態をつくと、そのたび先代の木霊が茶々を入れる。鬱然と湿った森のにおいが濃さを��す。姿の見えない鳥の声が樹林の上から聞こえる。ずっとどこからか視線を感じる。誰かに見られている。あるいは島自体に見られている。
「あるいは、私かもな」
先代がからかう声が木霊する。
師匠、あなたは五年前に流行病に倒れた。私があなたを覚えているだけ。あなたはもういない。
「化けて出てきたかもしれないぞ。お前が島に上がったりするから……」
山道の途中、小さな祠を見つける。
板きれを組み合わせ作られたそれは、何を祀っているのかはわからない。けれども切妻屋根の下には半ば朽ちた注連縄が引かれている。紙垂はもう千切れてしまったのか、見当たらない。
女には祠の意味は分からなかったが、その視線は戸の手前に置かれた白い陶器に吸い寄せられた。
蓋をなくしてしまったらしい、水玉と呼ばれるそれのすぼんだ口には、澄んだ水面が微かに揺れていた。
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
「このお供えの水、取り替えている人間がいる、ね」
先代の声に言われるまでもない。周囲の板に濡れた様子はない。雨が吹き込んだとしても、こうもきれいに水玉にだけ清浄な水が溜まることなどあり得ない。
女はゆっくりと振り返り、あたりを見渡す。湿った山道に、人影はない。
女は遂に御山の御鉢にたどり着く。見下ろせば、火口にあたる鉢の中は熱い禿げた地面が広がっており、中央に青い光が輝いていた。蒸気の立ち上る地面に唐突に空いた穴から光が滾々と湧きだし、奇妙な泉のように見える。光の手前に人影があった。
女は懐から遠眼鏡を取り出し、鉢の縁から身体を乗り出すように中央を覗き込んだ。地面に伏せると、大地の熱を強く感じる。
「ねえ、さっきのお供えの水、あの罪人がやったんだと思う?」
先代の声が問うた。思わない。罪人は山に登れとしか言われていないはずだ。道中で祠を見かけて気まぐれで供えようにも、あの近くにすぐに水が汲めるような場所はなかった。やはりこの島には、誰かがいるのか。
その気がかりから逃れるように、女は遠眼鏡を覗いた。人影は果たしてあの罪人だった。泉に向かって跪いている。こちらからでは表情は見えない。あの泉に祈れば罪が清められるというのだろうか?
青の島の炎 その体を替え 心を替え
つみとがを流し 魂を替えん
女は口の中で歌を呟いた。先代の声が重なる。青の島の炎。あの奇妙な光がそれなのか。男は跪いて動かない。口の中で呟く歌が止まらない。伏せた地面の���で喉が痛む。頬を汗が伝う。遠眼鏡から目が離せなくなる。青の島の炎、つみとがを流し……。
と。
光が動く。泉が沸き立ち、炎が弾ける。
何かが這い出してくる。
それはちょうど人の大きさをしている。
人の形をしている。
炎が凪ぐ。網膜に焼き付いた影が痛んだ。遠眼鏡の中に見えるのは、もう一人の男。女の呟く歌が止まる。止めてはじめて、それまで歌を呟き続けていたと気づく。先代の木霊はいつの間にか消えている。
泉から出現したもう一人の男の見た目は、女が連れてきた罪人と同じだった。剃り上��られた頭の痣まで同じ。瓜二つ。全くの複製。熱い砂地についた肘がひりつく。汗が目に入り酷く痛むが、見るのをやめられない。
青い炎から生まれた罪人は、跪く罪人に近づき、突然その頭を蹴った。この距離で、女にその音が聞こえるはずはない。だが頭蓋の芯が揺らされる不快な音が確かに響く。蹴られた罪人は横倒しに転がる。蹴った方の罪人は、そのままもう一人の自分の首を絞め始める。世界が止まる。女は気が遠くなり、自分が息を止めていると気づいて慌てて息を吸う。霞みかけた視界が戻り、もう一度遠眼鏡を覗くと、罪人が立ち上がる。足元の死体は青い炎に飲み込まれつつある。
立ち上がった男が、こちらに視線を向けたように思えた。
女は慌てて地面を転がる。そのままもがくように立ち上がり、一心不乱に逃げ出した。
これがこの島の正体か!
魂を替えるだけじゃない。体を替え、心を替えると歌にある。
これまで、夕に迎えた罪人は、まるで人が変わったようだった。
替わっていたのだ。
替え魂の島。
船へ戻ろうという一心で走る。だが、戻ったあとで私はあの罪人を、今までと同じように迎えるべきなのか。この秘密を知ってなお、それができるだろうか。取り返しのつかないことをしてしまった。玉石の階段を幾度も滑りながら駆け下りる。青い光が脳裏にちらつく。罪人が自分の罪を蹴る。罪人が自分の罪の首を絞める。罪人が罪を清める。償いを終えた罪人は晴れやかな顔で迎えの船を待つ。導師である私はそれを迎え、船を出す……。女は酷く混乱していた。師匠、と呼びかけても、木霊は聞こえない。
草地の陰が一瞬青く光ったように思えて心臓が跳ねる。木々の隙間からじっとりと視線を感じる。女は全力で走った。御山を下りきり、草に覆われた道を駆ける。〈玉の浜〉に降りる稜線を乗り越え、風に混じる潮の匂いに安堵する。だが崖の上から船を視界に入れた瞬間、女は驚愕のあまり躓き、そのまま地面に倒れた。痛む手足を引きずり、這うようにススキの藪に隠れる。もはや遠眼鏡を取り出すことも忘れ、震えながら浜を覗き込んだ。
船の前に、女が立っている。
遠眼鏡で覗くまでもない。
自分自身である。
あれは何だ。自分だ。青い炎から生み出されたもう一人の自分。私の替え魂。あれが私の罪を裁くのか? あそこに出て行けばどうなる。あれに私は殺されるのか? 船の前に立つ女は動かない。この距離では表情まではわからない。
背後から足音がする。女は地に伏せ、息を殺して縮こまる。罪人の男だ。女の隠れた藪には目もくれず通り過ぎ、階段を降りていく。その足音の軽さに怖気が走る。再び浜の方を覗く。罪人の帰還に、向こうにいる女も気づいたようだ。船を出す準備を始めるらしい。
船を出すだって?
女は恐る恐る藪から這い出す。このままでは、あの女は罪人を乗せて船を出してしまう。私は島に置いていかれる。瞬間、半狂乱で駆け出したいという抑えがたい衝動が襲ってくる。ここに一人残される? そんなのはごめんだ。得体の知れない島。絶対に助けの来ない島。天を見上げる。旋回する鳥たちが見える。私には翼はない。船までなくしたら、この島から逃げられない。
だが、階段を降りればどうなる。もう一人の自分に殺される。あるいは私があれを殺すべきか? あの男のしたように? 私が私の罪を裁くのか?
できない。あの男は、当然のようにもう一人の自分を殺した。自分の罪を葬った。私にはできない。私には、この罪は償えない。
「償えない罪……」
呆然と立ち上がった女に、先代の言葉が木霊する。木霊したと思った。師匠、あなたならどうしますか、と女は勢い込んで呼びかける。
女の背後にもう一つ、足音がある。長らく聞こえなかった、そしてよく聞き慣れた、あの声がする。
女は、ゆっくりと振り返った。
「お前も、償えない罪を作ったんだな」
果たして、師匠はそこにいた。女の呼びかけが聞こえたわけではなかったが、それが先代の答えだった。
かつての彼女はどうしたか。
女と同じく、島に上がるという禁を犯し、作ってしまった罪を、償えずに見送った。
鳥も通わぬ流刑島にて、孤独に過ごした歳月が刻んだ皺がふうわりと歪んで、えくぼを作る。
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200531[東京優駿(日本ダービー)・BOATRACE ALLSTARS] 誰かに背中を押してもらえるということ
↑ 待ちわびたあの日の光(2016年)
誰かに背中を押してもらえるということ
「こうしたら?」というアドバイスがあったとして、それを実行して失敗したからといってその人のせいにしたくなる気持ちはすごく理解できる。
ただ、それは違うと思うのだ。
その人を信じると決めたのだったら責任は当然信じた自分自身にある。
背中を押してもらったその先が奈落の底だったとしても、その1歩を踏み出したのは自分なのだから。
でも、最後の最後であと1歩だけ、背中を押してほしい時はあると思う。だから背中を押してくれる人のことは本当に大切にしたいし、大事にしたいなって思う。
僕の予想が誰かの背中を最後の最後に押してあげられたら嬉しいなって思う。
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呪い
僕にとって、昨年のダービーは呪いでもあった。
ここで言うのもナンだが、昨年の日本ダービーの本命はロジャーバローズだった。東京へ発つ日の夕方にばったり会った違う部署の人にも断言する形で言っていたし、多分翌日一緒にスロットをノリ打ちしてGODを引いてくれた友達にも言ったと思う(彼の本命は武豊だったけど)。もちろん��馬をやるすべての人間は己の信条・信念があるから、この言葉に意味は無いのだが、それでも相手に入れてくれたりした人がもしいたら良いと思う。
単勝に2万円ほど行くつもりだったから、もし買えていたとしたら196万円。人生は変わらないけど、1,2年くらいは生活が変わるような大金が懐に入ってきた計算になる。それだけの金があれば何が出来ただろうか。取らぬ狸の皮とはまさにこのことを言うのだが。
昨年は都合で、馬券を買えなかった。その呪いを解くべく、去年をなんとかして乗り越えていきたいと思った。
昨年も食べた(つまり、呪いの発端となった)馬刺しを食べ、日本酒を飲み、ビールを飲んだ。高揚感溢れる中でしっかりとダービーの発走時刻を迎えたいと思っている。1年越しに、忘れ物を取り返しに。
↑ 生きてさえいれば、たこ焼きだって食べられる。
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最近のオススメ。
オススメの動画とか語りだすの、時間が無い時の手抜き記事だって思ってる人いない?いや、そう言われずともむしろそうです。すみません。
鬼滅の刃「ヒノカミ神楽」(海外の反応)⭐︎日本語字幕付⭐︎ (海外人気動画翻訳) youtu.be/4_WgNmptLCA
アニメを見た外国人の反応シリーズ。外国人��アニメとか見ててもリアクションとかすごいするから良いよね。特にこの二人組が最高です。
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ところで、久しぶりにマックでドライブスルーしてみたんだけど、グランクラブハウス?っていうバーガーが結構おいしかった。高かったけど。マックのドライブスルー、結構お手軽です(みんな知ってる)。
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漫画、『ブルーロック』の9巻が発売された。フットボールの一番熱い場所。主人公たちの覚醒が止まらない!マジでアツイんで見てください。後は『ブルーピリオド』マンガ大賞取ってたけど、何事もなく生きていた高校生が美大を目指すって話。マジでアツイっす。あとは『リボーンの棋士』将棋の奨励会を年齢制限で大会になった男たちが再びプロを目指す、っていう激熱ストーリー。最後に『人類をすべて破壊する。それらは再生できない』マジック・ザ・ギャザリングをきっかけに知り合った男女がボーイ・ミーツ・ガールする話。こちらも激熱です。いやー、カードをそれぞれ持ってつなげるシーンとか、そんな青春な使い方ある!?みたいな。あとはアプリで『神様のバレー』『ハリガネサービス』読んでます!
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2020 BOATRACE ALLSTARS 予想
毒島という男。
さすがだ。と思った。11Rの篠崎仁の逃げ。それとまったく同じ航跡を描きながらそれでいて篠崎仁に迫る勢いのターン。
正直、今節の毒島の評価はそんなに高くなかった。今節の上位選手は、2日目終了時点・守田、瓜生、井口、篠崎仁、大山、峰、毒島。3日目終了時点では、平本、峰、篠崎仁、井口、永井、大山、守田、毒島、4日目には篠崎仁、井口、峰、平本、永井、守田、毒島、といった順で決して上位に食い込んでくる選手ではないと思っていた。
それでも11R準優勝戦では、あのターンだ。大金を張った1→4.5.6の2連単舟券が散っていくのを見てもなお、僕は興奮していた。
毒島は本番ギリギリまでプロペラを叩いていることで有名である。最後の最後まで手を抜かない姿勢は本当に尊敬する。
さて、予想だ。1コースの篠崎仁の逃げは基本的には揺るがない。モーターは超抜モーターだし、確実に逃げ切るだろう。徳増の差しハンドルはわずかに届かないと思う。一方、4コースの平本のモーターの出来も良い。1度は2位に浮上した平高を追い詰め、逆転してしまった準優のレースは圧巻だった。もちろん1号艇での敗戦だからあまり持ち上げるべきではないが、4コースのスタートからのまくりは怖いぞ。そうなると5コースの毒島も買いたい。4コースのまくりに対して、5コースは当然チャンスになる。初日から推奨していた守田もモーター事態は下降気味だが相手に。
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2020 東京優駿(日本ダービー) 予想
早速、日本ダービーの予想に移らせてもらう。
日本ダービーは当然皐月賞組が上位。その皐月賞についてだが、あのレースにおいては2つのレースが混在していた。1つ目は内側の荒れた馬場を通ったスタミナが活きる形となったレース、もう一つは大外を回して芝の良いところを通れたスピードレース。この展開を的確に見極めることが日本ダービー的中のカギを握る。
本命◎コルテジアは荒れた馬場を割ってもがいていた。スタートしてからも展開が早く先行することが出来ず、持ち味を生かせなかったし、それでもゴール後はまだ余力を残していた。最近乗れている松山騎手の初ダービーをこの馬が取るだろう。調教も超抜。フォトパドックでも超抜の馬体だ。
〇以下は、コントレイル、サリオス、ヴァルコス、ダーリントンホールを指名する。以下サトノフラッグ、マイラプソディ。上位2頭は言わずもがな。サリオスは前走合わなそうな馬場を走ってきたのはプラス材料だ。ヴァルコスは調教が良いのと、青葉賞が好内容(タイムもそこそこ)。2400mは適距離だろう。
未来がどうなるかなんて誰も知らない。 だったら誰かの悲願が叶うことを一緒に祈ってやっても、バチは当たらないだろ?
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以下、写真集
↑ 可愛くね?ちなみにSNS投稿でもらえる!キャンペーンは外れた。
↑ アジサイの季節。ジューンブライド。結婚相手はよ。
↑ 陰鬱な気持ち迎えた朝はこんな感じだ。前向きに、前向きに。みんな明日も頑張っていこう。
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月兎 05
「左馬刻くん」
名を呼ばれて意識が浮上する。懐かしい声だ。よく聞き慣れた、低く、優しい声。
「せんせい、か」
まだ、視界に像が結べない。眠気で瞼が落ちそうになる。
「左馬刻くん、ごめんね、起きてくれるかな」
「ああ…」
ぼんやりと、像を結び始めた先生の顔。あの時から変わらない。いつもの先生だ。
「君、昨日毒島くんに運び込まれたんだけど、覚えてるかな?」
「いや、覚えてねぇ。つか、腹がくそ痛ェ」
息をするたびに脇腹が痛む。あと、身体がだるい。
「まぁ、撃たれてるからねぇ。一応痛み止め入ってるんだけど、痛いかな?」
「ああ」
「うーん、ちょっと量を増やそうか」
そう言って寂雷は首から下げたPHSでなにやら短く通話をした。
「すぐ持ってきてもらうから、少し我慢してくれるかな」
横に先生がいるのが、不思議な気分だった。なぜ、自分はシンジュクに。毒島が運び込んだと先生は言った。毒島?誰だ?少し考えて、左馬刻は、ああ、と思う。理鶯だ。中華街のあの店の店主。
「毒島くん達、そのうち来ると思うよ。彼ら昨日、シンジュクに泊まると言っていたから」
「彼ら?」
「毒島くんと、眼鏡の綺麗な男の子が一緒だったよ。知り合いじゃないのかな?」
眼鏡、と聞いてまさかと思う。フラッシュバックのように、あの時の光景を思い出す。
駆け寄ってきた銃兎。硝子越しでも聞こえた、自分と理鶯を呼ぶ声。赤い涙。窓を叩く、白い手。硝子なんて、そんな綺麗な手で叩くなと思った事を覚えている。ああ、あいつを自分の血で汚してしまった。苦い後悔。
無性に、銃兎の顔が見たかったのだ。相手のタマはとった。しかし、自分も1発脇腹に喰らって、中華街の闇医者の所へ行く途中だった。血まみれじゃタクシーには乗れない。舎弟を呼ぶより、歩いた方が早い。そんな状況だった。血が足りなくて、頭が馬鹿になってたんだと思う。まっすぐさっさと医者にい��ばいいものを。でも、一目でいいからどうしてもあいつの顔が見たくなった。もしかしたら、冥途の土産ってやつに。
もう、銃兎に会うのはやめようと思う。自分はこの通り、いつ死ぬかもわからない身の上だ。あれは、生臭い事に巻き込んでいい奴じゃない。あんなに泣いていた。自分なんかのために。途切れ途切れの意識の中で、銃兎の涙はなんて綺麗なのだろうと思った。ぽろぽろと目の端からこぼれ落ちるたびに、空中で結晶化して落ちていくクリスタルの破片みたいな涙。自分の血の色を映して、透明な涙が赤く染まりながら結晶化していく。もったいないと思った。あんなに綺麗なもんなのに、自分の血に染まり、台無しになっていく。
「先生、俺、帰るわ」
左馬刻の言葉に、うーん、と寂雷は考える。
「感染症とか、怖いんだけど。君、死んじゃってもいいの?」
「まぁ、そんときゃそん時だな」
「相変わらずだね」
ふぅ、と寂雷がため息をつく。
「毒島くん達に会わなくていいのかい?」
「………会わない方が良いんだよ」
そう、と寂雷は言って、電話をかける。いくらかやりとりをして通話を終えた。
「普通のタクシーじゃ帰れないだろう?ストレッチャーで乗れるタクシー呼んだから。受け入れ先は大丈夫かな?」
「ああ、先生サンキュな。舎弟がいるから大丈夫だわ。金は後で届けさせる」
「君は元々丈夫だし、私のマイクで活性化してるから治りも早いとは思うけど、できれば地元に帰ったらそのままかかりつけの病院に行って欲しいな。診断書用意しとくね」
そう言って寂雷は左馬刻の頭を撫でた。
「おい、先生、そういうのやめろって言ってんだろ」
嫌がる左馬刻にふふっと笑って、寂雷は立ち上がった。
「じゃあ、また、後でね。車が来たら呼びに来るから」
そう言って寂雷は病室を後にした。
*
「退院した?」
ナースステーションで、理鶯は看護師に聞き返した。碧棺左馬刻の見舞いだと受付をしようとした理鶯に、看護師は「碧棺さんは退院されました」と返してきたのだ。なるほど、と理鶯は納得する。なんとも、左馬刻らしい。ヤクザが長居をすれば、寂雷に迷惑がかかる。もしかしたらそれだけでは無く、理鶯と銃兎にも会いたくなかったのかもしれない。特に銃兎に。
左馬刻は臆病な男��。銃兎に対して。執着を見せる癖に、近づこうとはしない。まるで、野良猫のようだ。
寂雷に事情を聞こうかとも思ったが、外来の診察に入ってしまったという。諦めて、理鶯は銃兎の腰を抱き、病院を後にした。銃兎は、一言も喋らなかった。ただ、泣くのを堪えるように、俯いていた。白い手が、ぎゅっと握りしめられて、ますます白く見えた。可哀想な銃兎。あんなに左馬刻に会いたがっていたのに。
「帰ろう」
理鶯に促されて、銃兎が車の助手席に乗り込む。膝の上で握りしめた拳に、ぽたりと滴が落ちた。
***
銃兎は、寝台の上でパチリと目を開けた。足音がする。微かな、微かな足音だけれど。聞き間違えるはずはない。あれは、左馬刻の足音だ。
左馬刻が怪我をしたあの時から、3ヶ月。左馬刻は銃兎には会いに来なかった。でも、銃兎は知っている。深夜、宵っ張りの中華街が寝静まった頃に、左馬刻がこっそり、店の前まで来ていることを。
最初は聞き間違いかと思った。だけど、よく注意して毎晩耳を澄ませていた。そうしたら、前みたいに毎日ではないけれど、左馬刻が店の前に立ち止まって、すぐに立ち去る音がした。寝台を抜け出して追いかけようと思っても、階段を降りる頃にはもう、左馬刻はいない。ある日は、窓を開けようと鍵に手間取っているうちに、立ち去ってしまった。だから、銃兎は窓の鍵をこっそり開けて眠るようになった。理鶯は、何も言わなかった。気づいていないはずはないのに。
左馬刻が、店の前で止まる。銃兎はカーテンの間から窓を開け、身を乗り出した。
「左馬刻!」
左馬刻が、銃兎を見上げる。ああ、元気そうだ。よかった。けれど、左馬刻は、チッと舌打ちをした。
「待ちなさい!左馬刻」
窓に乗り上げた銃兎が、躊躇なく飛ぶ。それを視界に捉えて、左馬刻は反射的につま先を踏み出す。このばか!と考えながら腕を伸ばし、銃兎を受け止め、受け身をとった。
「ってぇ……」
石畳に打ち付けた背中が痛い。それよりも、銃兎は…
「左馬刻!」
左馬刻と同時に向き合った銃兎に、両手で顔を挟まれる。なんだよ、銃兎、泣くなよ。怒れなくなっちまっただろうが。ハァ、と左馬刻は安堵に息を吐いた。
「おい、お前、無事か?」
「無事じゃありません」
銃兎に言われて、左馬刻が焦る。どこだ?どこを痛めた?けれど銃兎は痛がる気配もなく、左馬刻に乗り上げたまま、力いっぱいに左馬刻の襟を掴む。
「あなたのせいで、わたしはおかしくなってしまった!一日中、考えるのはあなたのことばかり!!あなた、急に消えてしまうから、どこかで死んでいたらどうしようって……」
泣き崩れた銃兎を、左馬刻が片腕で抱き寄せる。べそべそと泣かれて、胸元が濡れていく。
「…………悪かったって」
困り果てる左馬刻の胸に、銃兎はむくりと起き上がった。
「許しません………絶対に許さないんだから」
そう言ったかと思うと、銃兎はじぃっと左馬刻の瞳を覗きこむ。涙目のままぷくりと頬を膨らませて、綺麗な珊瑚色の唇を開いた。
「……蛋達(エッグタルト)」
「あ?」
「杏仁酥(アーモンドクッキー)」
「ん?」
「太陽餅(ハチミツパイ)、牛軋糖(ヌガー)、馬拉糕(蒸しパン)」
「なんだよ、急に」
いきなり菓子の名前を上げ始めた銃兎に、左馬刻が面食らう。戸惑う左馬刻を見下ろして、銃兎は泣き笑いの顔で言った。
「持ってきてください。わたしの為に。毎日ひとつずつ」
銃兎が名を上げた菓子は、すべて、左馬刻が持って行った事のある菓子だ。こいつ、よく覚えてんな。と左馬刻は思う。
「月餅は?」
問いかけに、銃兎が拗ねた顔で答える。
「薔薇の香りの餡」
「蛋捲(エッグロール)」
「ピーナッツクリーム入りが好きです」
「鳳梨酥(パイナップルケーキ)…」
「冬瓜入りは嫌」
躊躇いもなく答える銃兎に、左馬刻が呆れたように笑う。
「おいおい、ほんとにテメェは我が侭なウサちゃんだな」
「こんなの、我が侭のうちに入りませんよ。あなた、わたしとティータイムを共にできるのだから光栄に思いなさい」
さっきまでの泣き顔はどこへやら。つんと澄ました銃兎の顔を見て、左馬刻は笑った。ほんとにこいつ、意地っ張りで我が侭で、そしてとんでもなく、可愛い。
「そろそろ、良いだろうか」
微かに躊躇いを含んでかけられた声に、左馬刻と銃兎がバッと振り向く。いつものように穏やかに微笑む理鶯が、ガウン姿で立っていた。
「りりりりりおう…!あの!これは」
焦ってどもる銃兎に、「うん」と理鶯が微笑んだ。
「銃兎、自らを危険に晒す行為、小官は見過ごせないな」
「ごごごごめんなさい理鶯」
パニックになった銃兎が、左馬刻の腕の中でかたかたと震える。普段は優しい理鶯の、本気で怒った時の怖さを銃兎は知っている。
「だが…まあ…大過がなくて良かった。左馬刻、礼を言う」
「いや、元はと言えば俺のせいみてぇだし…」
ゴニョゴニョと言い澱んだ左馬刻に、理鶯は腕を伸ばした。その手をとって、左馬刻は銃兎を抱えたまま立ち上がる。
「色々、悪かったな。理鶯」
「いや、貴殿の配下から十分すぎる礼は受け取ったし、それよりも銃兎の『天国の涙』が手に入ったのでな」
「『天国の涙』?」
左馬刻の問いに、理鶯がうん、と頷く。
「観葉少年本体よりも、場合によっては高く取引される宝石の一種だ、原料は観葉少年の涙。とはいえ、観葉少年の涙が結晶化するのは非常に稀で、小官も初めて見た」
「へぇ」
「理鶯!」
真っ赤な顔で、銃兎が話しを遮る。
「見ていくか?茶を淹れよう」
そう言って、理鶯は裏口に左馬刻を導く。左馬刻は銃兎の腰を抱いたまま理鶯に続いて建物と建物の間の細い道を器用に歩いた。
「座っていてくれ」
左馬刻が招かれたのは、店内ではなく、プライベートなキッチンのティーテーブルだった。椅子は二つしかない。多分、理鶯と銃兎の。複雑な気持ちで、左馬刻は理鶯のだろう椅子に座る。銃兎は���んの疑問も抱かずに、自分の椅子に座った。
薬缶を火にかけて、理鶯は暗い店内にひょいと入って行った。すぐに小瓶を持って戻ってくる。
「これが、銃兎の『天国の涙』だ」
手渡された小瓶を、左馬刻が電球に翳す。くるりと回すと、透明から真紅へグラデーションのかかった小さな結晶が、キラキラと光った。
「俺の、血の色か」
呟いた左馬刻に、銃兎が視線を向ける。そのまま、ぼろりと泣いた銃兎に、左馬刻がぎょっとして立ち上がった。
「お、おい、泣くなよテメェ」
「だって」
それだけ言って、銃兎がめそめそと泣きじゃくる。理鶯に視線で促されて、左馬刻は銃兎の頭を胸に抱き寄せた。理鶯はそんな二人を横目で見ながら、ガラスのポットに花を散らす。火を止めて、薬缶からゆっくりと熱湯を注いだ。
「ハーブティーだ」
コトリ、とテーブルに透明のカップが置かれる。透き通った薄い黄金色。柔らかで微かに柑橘系の香りが漂った。
理鶯は背もたれのないスツールを引き寄せて、腰掛ける。銃兎から体を離した左馬刻も、椅子に腰掛けた。
「それで、左馬刻、貴殿はどうする」
理鶯の言葉に、左馬刻が目を伏せる。
「銃兎を迎えるのか、どうか」
「…俺は」
「……貴殿は、臆病なのだな。銃兎から貴殿の胸へ飛び込んでいったと言うのに」
理鶯の言葉に、左馬刻がギリ、と奥歯を噛み締めた。
「てめぇに…何がわかンだよ…」
握りしめた拳に、青筋が浮かぶ。
「いつおっ死ぬかわかんねェ男と一緒になって…本当に幸せなのかよ」
「知らないところで死なれるよりいい」
銃兎が、小さな声でぽつりと呟いた。左馬刻が、銃兎を見る。
「死ぬなら、俺の目の前で、死ねよ」
そう言った銃兎の顔は、笑っていた。けれどまたすぐに、目尻からぽろぽろと涙が零れおちる。銃兎の前にひざまづいて、左馬刻はその手に口付ける。口付けを受けながら、銃兎は言った。
「俺を、お前のものにして、左馬刻」
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うみのこえ
海見たいなぁ。とうだるような昼下がりに織田が西瓜をかじりながら一言つぶやいたので、三好はそれもいいっすね、と返しながら次の休みを海を見に行こうと心のなかで決めた。食べたいものや遊びたいことをしょっちゅう口にするかわりに、山やら海やらの自然に関心を示さない彼がわざわざそう言ったことが、三好にとってやけに関心を惹いたのだった。翌日三好が計画を話すと、織田はいささか驚いた顔をしながらも、笑って頷いた。いつもの食えない表情とは違ったものだった。 始発よりは遅く、世間の勤め人が動き出すには少し早い時間に、二人は電車に乗った。郊外に向かう車内に人はまばらだった。四人がけの席に向かい合って腰かけ、三好が文庫本に目を通していると、眠そうに窓に額を預けながら織田がどれくらい時間がかかるのかと尋ねた。一時間ぐらいだと三好が返すと、彼は頭をもとの位置に戻して伸びをしてから、三好の頭のてっぺんから足の先までをすっと見回した。シャツから靴にいたるまで新品の、夏用に誂えた外出着だった。 「そういや」 「なんすか?」 「その服はじめて見たわ」 「……今日下ろしたんで」 別にたいした意味があったわけでもなく、夏になって外に出かける用事が今回がはじめてだったからこうなっただけだ。と言おうとしたが、昨日の晩に若干そわそわした気持ちで服を一式枕元に置いたことは確かである。三好が口ごもると、織田はいつものようににやついた顔をした。この表情をした織田は、すこし苦手だ。文庫本を閉じて顔を上げると、視線を合わせた織田がけらけらと高笑いをする。 「なんやワシと出かけるからお洒落したんか、かわいいとこあるやん」 「ちゃいます、これはたまたま……」 「たまたま?」 「……もういいっす」 「ま、ええわ。今回はたまたまってことにしといたろ」 三好をからかう材料を見つけたら徹底的にやるくせに、今回ばかりはあっさりと身を引いた。その代わりに織田はすっかり機嫌がよくなったようで、再び三好が文庫本を開こうとするたびにしりとりをしようだとか言って邪魔をした。また織田が服のことを追及してきたら分が悪いのは明白だったので、三好も誘いに乗った。静かに揺れる人気のない車内に、しりとりをする二人の声がぽつぽつと聞こえた。 次第に外の太陽が高くなり、車窓にも日差しが入り込み始めた。織田の真っ白なシャツが、三好の目に眩しくうつり、もしかしたら彼も自分と同じように新品を下ろしてきたのかもしれないと思った。もし、そうだとしたら。そう考えると三好はひどく恥ずかしくなって、織田にさとられないようにそっと視線を外した。 結局しりとりは三好の不注意で長くは続かず、潮の匂いに気づいた織田がはしゃいだ声をあげるまで、二人はぽつりぽつりと今読んでいる本の話をした。 人気のない小さな駅に二人は降りた。車内に入り込んできた塩の匂いと、ホームの端に生えた草の匂いが混じり、生ぬるい風が汗ばみはじめた肌に吹いてくる。 改札を出るとすぐさま道の先に水平線が見え、視界に砂浜が映りこんできた。 「なんやせっかくの砂浜やのに人おらんな」 「ここからちょっと行ったとこが海水浴場らしいんで、そのせいじゃないんすかね」 「ここは泳がれへんのか、ちょっともったいないなあ」 次は泳げるところを、と口にしかけてやめた。織田があっと声を上げたからだった。 「ほんまや、すぐそこに防波堤あるやん。たぶんすぐ深なるんやろな」 目を細めると、砂浜からそう遠くはない海中に、防波堤が一列に並んでいた。水平線の手前に、白い線が引かれているように見えた。 「オダサクさん泳ぎたかったんすか?」 「いや、別に。でもスイカぐらいは持ってきたらよかったかもな」 「割っても二人で一玉は食べられへんと思うんすけど」 「そこは三好クンが頑張って」 「さすがに無理っす」 自動車が一台二人を追い越した以外に、誰とも会わないまま砂浜に着いた。つくなり織田が荷物をその場に放り投げ、靴を脱ぎはじめた。 「ちょっといきなり何しとるんすか」 「足ぐらいつかりたいやん!」 靴下を砂浜に散らかして、織田は一目散に波打ち際まで走っていく。いつも飄々とした動きを見せる男が今ばかりは完全にはしゃぐ子どものようだった。あっつ、と声を上げながら海に入っていった。まくりあげたズボンの裾から覗いている足首が、いやに骨ばっていて細く、一瞬三好の心臓が跳ねた。日の光が白いシャツを透かして、細い体の線を浮かせている。 もしかしたら足首掴めるんちゃうやろか。そう思うとなぜかいけないものを見ている気分になって、三好は織田から視線を外して彼が散らかした荷物を拾い上げてまとめ、転がった靴をそろえて置いた。 織田が手招きをするので、三好も靴を脱いだ。彼の靴の隣に自分のものを並べたとき、ふいにこの靴を選んだときのことを思い出した。売り場で偶然目に止まって買い求めたのだったが、こう並べてみると、なんだか似ているような気がした。自身が気づかぬ間に彼の靴を想像してしまったわけではない、と思いたい。しかし今まで自分の選んできたものと多少は毛色が違うのも確かであって、いつのまにか織田が、三好の心のうちに、すっかり入り込んでしまった可能性も否定できない。織田から見えないように、荷物の影になるところに靴を並べなおした。 砂浜は火傷するかと思うほど暑かったが、海に入ると裸足の足裏が心地よかった。さっきまで水平線の向こうを見つめていた織田は、視線を落として波打ち際のふちをじっと見まわしていた。 「カニおらんかな」 「見つけてどうするんすか?」 「食えるんかなって」 「はあ」 サワガニとはわけが違うだろうと思ったが、織田がやけに真剣なので、三好も付き合って視線を落として波打ち際を探しながら歩いた。結局数十分かけても見つからず、首筋のあたりが日差しでちりちりと焼けついた。 「んー、さすがに暑いなあ。帽子持ってきたらよかったかもしれへんな」 織田が腕で日差しを避けながら言った。 「……どっか日の当たらんとこ入ります?」 「せやなあ、カニもおらんかったことやしそうしてよかな、三好クンも気いつけや。下手したら頭焦げそうになんで」 荷物を端にある木陰に置いて、織田がそのすぐそばに座り込んだ。三好は再び波打ち際を歩きながら貝殻を拾い、防波堤の隙間から遠くに見えている、ちいさな漁船を眺めたりした。その間に、浮かんだ詩について考えた。 首筋に視線を受けて振り返ると、木陰から織田がこちらを見ていた。目が合うと、三好にひらひらと手を振った。影の中で表情はよく伺えなかったが、おそらく口元を緩ませているのだろうことはわかった。 手を振り返すことが妙に気恥ずかしく感じ、三好はそっと会釈のようなものを返すだけにして、視線を外して波を蹴った。そういうことが三回ほど繰り返された。織田は先ほどで海に対する興味を失ったのか、はたまた別のところに気が向いたのか、三好と目が合わない間は木陰で細い体を畳むようにして、考え事をしているように見えた。 海が見たい、と織田が言ったから、自分はここに来たのに、楽しんでいるのは自分だけのような気がした。日帰りで、騒がしくなく、それでいて美しいところというのを、三好は今までにない熱心さで探したのだったが、今になってみるとそれはひどく独りよがりだったのではないか。もともと織田が、こうした場所より都会の喧騒を好む男であることはなんとなく知っていたはずで、あの日の一言は気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。だとしたら、何故彼は三好に付き合ってここまで来たのだろうか。 この浜辺には二人きりのはずなのに、三好には織田のことがさっぱりわからない。どこからともなく飛んできた鴎が防波堤の上にとまり、キイキイと鳴いた。 「楽しんでるか?」 三好が木陰に戻ると、織田が首を傾げて声をかけた。聞きたかった言葉を先に尋ねられて、どきりとしながら頷く。 「あの、オダサクさんは」 「ワシか? うん。楽しんでんで」 言い切られると気をつかっているんでしょうとか、そういうひね��れた言葉を発するわけにはいかなかった。はしゃいでいるときは悪ガキそのものの顔をして、けらけらと笑っているくせに、こういう時の織田はやはり今生では自分より年上で、それゆえの余裕のようなものを身につけているのだと感じずにはいられなかった。 悔しい、というわけではない。けれども、いつも少しだけ、もどかしい心地になる。 隣に座って、手帳を取り出して文字を書きつけた。織田がそれに興味を持ったのか、ぴたりと肩を寄せて手元をのぞき込んでくる。三好の腕に、織田の長い髪がさらさら触れた。 「何書いてんの?」 「ちょっと、さっき思いついたやつを」 「詩?」 「そこまでのもんじゃないっすけど」 「見ていい?」 隣からの視線が好奇心にあふれていて、断るのも野暮に思えた。手帳を渡すと、海に足首を浸したときと似た表情で、織田はたかだか数行にも満たない三好の言葉に何度も目を通し、口の中で繰り返した。朔太郎の詩を読むときの自分と似ている。手元に視線を落としたまま、織田が感心したように言う。 「ふうん。詩人には、目の前の世界がこう見えとるんやなあ」 「おおげさっすよ」 「ただの感想や」 織田の細い指がページをめくり、三好のほかに書きつけた言葉をぽつぽつと読んでいった。何度か気に入ったらしい表現を見つけると、いちいち三好を褒めてから手帳を返してきた。そのまま、しまいこんでもよかったのに、不思議と三好の手は、さっき書きつけたページをめくって破いていた。 「あの、よかったら、さっき書いたメモもらってください」 織田がきょとんとした顔をしながら紙片を受け取った。 「ええん?」 「いまから自分のとこには書きなおしとくんで」 こんなものが贈り物になるか。ともう一人の自分は心の中で言っている。しかしポケットに入っている白い貝殻が織田への贈り物になるとも思えなかった。 人にものを贈るのは、どうしてこうも照れくさくなるのだろうかと思った。自分の感情を込めているものであるならなおさらだった。彼が喜ぶようなものを、三好は何一つ持っていない。唯一、ほんのすこしでも可能性があるとするなら、それは言葉しかなかった。 来た、記念に。口にすると照れが増して、抱えた膝に顔を埋めた。 織田はしばらく破られた紙片を見ていたが、やがて丁寧に紙の端を折り畳んで、ことさら丁寧に取り出したハンカチにくるんで、ポケットにしまいこんだ。 「おおきに、大事にするわ」 まるで壊れ物でも扱うような手つきだったので、思わず三好はそこまでせんでも、と口を挟んだ。しかし織田はそうすることがさも当たり前かのような顔をしていた。 「せやって三好達治先生の生原稿やん。大事にせな」 織田が三好を「先生」だとか敬称を付けて呼ぶ場合、それはどことなくからかいを含んでいるものだった。しかし今回ばかりはあまりにも自然に呼ばれるものだから、三好は結局よころんでくれたんだったらと歯切れの悪い返事をして、一枚ページの切り取られた手帳を手慰めにぱらぱらめくることしかできなかった。 鴎の鳴き声と同時に潮風が二人の座る木陰にまで吹いたが、三好の頬に溜まった熱は結局逃げて行ってはくれないまま、黙って手帳に文字を書いた。織田は鴎を見つけたり海の上に船を見ると三好に声をかけたが、木陰からは動こうとせず、日が落ちてくるまで三好と肩先が触れる距離に座っていた。 駅舎が夕焼け色に染まるころ、帰りの電車に乗った。行きより多少乗客は増えていたが、それでも車内の人は少ない。 「もうちょっとおれたんちゃうの?」 「これ逃したら図書館に着くの夜中っすよ」 「ええー、そんなんなんの」 「田舎はどこもそんなもんでしょう」 「大変そうやなあ」 電車の窓枠に、織田がもたれかかった。駅から遠ざかるにつれ、入り込んでくる風から潮の匂いが消えていく。ゆっくりと、二人は元の世界に帰っていった。 疲れてしまったのか、織田の口数は少なかった。一度だけ、ハンカチにくるまれた紙片をひらいて、目を通していたかと思うとあの壊れ物を扱うような手つきでくるみなおした。胸ポケットにそれがしまわれるまで、三好は視線を外すことができなかった。自分まで大切にされているような気がするのは、何故だろう。 再び窓枠に肘を預けようとしていた織田が、三好をちらりと見るなりあれっと声をあげた。 「三好クン、えらい日焼けしてもうてんで」 つられてガラスに視線を写してみるが、肌の色はよくわからない。頬に触れてみたら、じんわりと熱がこもっていた。 「そういえば、なんか顔がピリピリするような……。そんなに焼けてます?」 「うん。なんやろな、因幡の白兎ちゅうやつやな」 にゅっ、と指先が伸びて、三好の鼻先をつまんだ。 ぴりぴりした感覚と、ひやりとした織田の肌の感触が抜けて、ふぎゃ、と変な声が出た。咄嗟に体を話して鼻頭を押さえたら、織田がいつもの高笑いをする。 「ふぎゃって!」 「オダサクさんがつまむからっす」 「いや摘まみたくなる鼻してるからつい」 「なんすかそれ」 「摘まみたくなる鼻は摘まみたくなる鼻やねん」 「はあ」 押し問答をする気力はなかったので、肩を落とした。織田はひとしきり笑って、今度は人差し指で鼻先をつついた。鼻はひりひりとしたが、今回ばかりは日焼けしていてよかったと思った。赤面しても、きっとわからない。 俯きぎみに次は帽子を持ってくる、と言うと笑っていた織田が急に目を丸くした。ちょうど三好が海に誘ったときと、そっくりそのままの顔で。 「せやな、次はもうちょっと、日焼けせんとこに行こか」 そうして、からかうでもなく、はしゃぐでもない、いつになく緩んだ顔で笑って見せたあと、砂がこびりついた三好の靴をつま先でつついた。 次の休みは、日焼けの引かぬ顔のまま、わざわざ電車に乗ってかき氷を食べに行った。二人のよく似た靴は、夏の間にずいぶんと擦りきれてしまい、季節の終わりに三好は靴を修理に出した。しょっちゅう二人で、 でかけたせいだった。
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6月の各地句会報
花鳥誌 令和元年9月号
坊城坊城選
栗林圭魚選 岡田順子選
平成31年6月1日 零の会 俊樹選
またちがふ汽笛をまぜて南風 光子 そのかみの灯台跡に風薫る 美紀 茶屋跡の礎石探りて夏の蝶 梓渕 ぶすぶすと蟻の穴あく御亭山 千種 夏鷺の立つや己の白影に 和子 潮匂ふ江戸も匂ふや南風吹く 悠紀子 将��のお上がり場てふ石に黴 梓渕 黒南風やむかし鴨場の覗き穴 光子 船笛の長く息つぐ炎暑かな 慶月 余花ひとつ遠い汽笛を淋しめる 順子
順子選 またちがふ汽笛をまぜて南風 光子 松這うて〳〵夏潮なほ遠し 俊樹 灯台跡しろつめ草の咲く丘に ラズリ 添へ木また三百年の木下闇 俊樹 緑蔭に空を忘れて佇めり 三郎 遊船の汽笛は路地に谺して 俊樹 松怒濤三百回の炎帝へ 同 黒南風やむかし鴨場の覗き穴 光子 青鷺を奮ひ翔たせし汽笛かな 俊樹 下闇や蹄の音聞く狩場跡 秋尚
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月5日 立待花鳥俳句会 俊樹選
出す文に蛍飛ぶ夜と記しにけり 世詩明 走り梅雨相合傘も小走りに 同 腕まくり静脈浮きて大日焼 同 油団敷く家族みんなで文鎮となる 信義
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月6日 うづら三日の月句会 俊樹選
青空へ一直線の梅雨じめり 柏葉 神の森樹齢いくばく楠若葉 都 夕牡丹走り書きなる女文字 同 竹林の風の騒ぎや梅雨の月 同
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月6日 花鳥さゞれ会 俊樹選
柳絮舞ふ余呉に天女の物語 越堂 舟音の海霧へ遠のく三国港 同 つぶやきが二人静の花となる 雪 吾は父似弟母似古茶新茶 同 雨呼びて得意顔なる雨蛙 かづを 高架下所在なげなり黒揚羽 数幸
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月7日 鳥取花鳥会 順子選
托卵を終へし声とも時鳥 益恵 わが影を日時計にして辣韭掘る 悦子 薄雲の静かに垂れて夏の葬 幹也 茅花流しとはほろほろと風崩る 都 ゆすらうめ幼き手にて三粒もぎ 萌 通学の列を見送り早苗伸び 佐代子 蟻曳くや獲物の翅を帆と上げて 美智子 なめくぢら鉢を除けられ白日に 史子 田植ゑすむ一村水に点り初め 栄子 蜑村の空いつぱいに小瑠璃鳴く すみ子 軒見上げ通る燕の子でありぬ 立子 山々の緑濃くなり鳥さわぐ 俊子 一群を庭に残せし十字花 和子 あぢさゐの彩に佇ちたる好紳士 幸子
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月8日 枡形句会 圭魚選
薫風やくらやみ坂を下り来て 清子 客を待つ三和土に燻る蚊遣かな ゆう子 御朱印を拝す山門燕の子 清子 日の色に近づいてをる坂の枇杷 三無 早朝に舞ふ夏蝶や父忌日 多美女 ピアニカの漏れくる窓や四葩揺れ 亜栄子 剃り跡を風に晒すや業平忌 ゆう子 曇天を払ひ高きに熟るる枇杷 百合子
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月10日 武生花鳥俳句会 俊樹選
散り際の香り持たざる朴の花 英美子 堂深く倶利伽羅不動五月闇 昭子 家持も越えきし峠時鳥 越堂 歴史秘む奈落を覗く夏帽子 みす枝 大夏木戦の地とて塚いくつ 一枝 夏暖簾透けて金魚と柳かな ミチ子 億年の弥陀の光の新樹かな 時江 夏立つや眼前のものみな青し 昭女 夏草に埋もれさうなるトタン屋根 同 勤行の木魚の音も梅雨じめり 文子 夏祭ヨーヨー釣りに軒を貸し 芳子 老鶯に深山幽谷てふ舞台 越堂 麦秋の尽きて黄昏照り返す 時江
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月10日 なかみち句会 圭魚選
釣堀や雲間に糸をたらしをり 聰 紫蘇の香や母の初恋さかな屋さん 美貴 やはらかく雨の青紫蘇色新た 秋尚 羽抜鳥去りし跡なるベンチかな 貴薫 羽脱鳥片足浮きて微動せず 美貴 釣堀や背広姿の竿を振る 和魚 釣堀や山陰ことばふと聞こゆ 美貴 赤紫蘇や多く語らぬ夫婦づれ 有有 釣堀に姿勢崩さぬ影ひとつ 秋尚 車窓より見し釣堀の背の気鬱 貴薫
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月11日 萩花鳥句会
未だいける免許の行方五月闇 健雄 巫女ととも松陰神社実梅捥ぐ 圭三 実梅落つ今は主のなき畑 克弘
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月12日 福井花鳥句会 俊樹選
羅や女ひしめき嫉妬めく 世詩明 青蘆や九頭龍河口船溜り 雪 母の見てゐる父と子の石鹸玉 同 平凡を嫌ひし昔草を引く 同 廻りたき風に廻れる風車
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月16日 伊藤柏翠俳句記念館水無月抄 俊樹選
夏炉焚き源氏の裔を誇り棲む 越堂 時鳥のかつて宿場の大藁屋 同 草茂る溺れさうなる辻地蔵 みす枝 蛍舞ふ万葉の歌描くごと 同 妹の魂かも窓に来る蛍 文子 峡深く五人家族のかがし立つ 英美子 振り返り振り返りして夏の道 富子 耳遠くなりたる父の日なりけり たゞし 黒南風や古着屋のジャズ響きをり 和子
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月16日 風月句会 俊樹選
白服の女人ひそめるむじな池 千種 田植済みし田に入り浸る男あり 佑天 青嵐つひには雲を曳き出しぬ 千種 青嵐裏葉の白を巻き上げて 久子 そのほかの風鈴消して貝風鈴 千種 虎の尾の蝶はゆっくり翅休め ます江 蛍を待ちて子供の眠りけり 佑天 圭魚選 風荒し万緑万の容ちあり 千種 雨上がる蛍の水を濁らせて 慶月 十薬の大地乗つ取る勢ひかな 淸流 畦道の細りを跳んで捕虫網 野衣 牛蛙鳴き静まりし沼の昼 斉 青空へ色を競ひて立葵 秋尚 青鷺の谷戸を狭しと羽広げ 斉 風を呼ぶ植田の背丈揃ひをり 秋尚 青鷺の降り立つ谷戸の空蒼し 芙佐子 時鳥突と渡りぬ谷戸の空 同
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月21日 鯖江花鳥俳句會水無月抄 俊樹選
網戸して貧乏暮しつつぬけに たゞし 噴水の炎の如く伸びて来し 同 人の世の橋に集まる蛍かな 同 ���守の乏しき蚊やり焚きくれし 雪 跳び石を覆へる苔や梅雨深し 同 蛍飛ぶやはらかな闇縫ふやうに みす枝 燕来て大地忙しくなりにけり 信子 緑蔭に藩主の廟や大安寺 一涓 短夜や月光深く部屋の中 紀代美 坂道の片側汚す栗の花 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
平成31年6月27日 九州花鳥会 俊樹選
峰雲の崩るる辺り曾良の墓 寿美香 やはらかき光の帯や蛍川 孝子 城濠の浄土蓮の花浄土 豊子 更衣真水のやうなラオスの娘 喜和 緑蔭に会ふ幻影の大伴旅人 美穂 狛犬の影も老いゆく大暑かな 寿美香 蜻蛉生る水の冥さを脱ぐやうに 豊子 石になりきつて石抱く青蜥蜴 同 癌告知濡れしノートを破る夏 朝子 ぼた山の記憶のかたち川蜻蛉 かおり 先づ灯より現はれ出でし鵜飼舟 洋子 ががんぼや影絵のやうな暮らしして 光子 蛍火の奥に膨らむ母の影 かおり
(順不同 特選句のみ掲載)………………………………………………………………
さくら花鳥会 順子選
明易し始発電車は三国発 寿子 忘れ物取りに帰らう夕立晴 登美子 なめくぢり廊下に残す迷ひ道 あけみ 包み込むやうな大空花南瓜 実加 噴水やはしやぐ子の袖かめすたり 裕子 子等握る手に菓子袋御輿行く 紀子 紫陽花をバックに並ぶ車椅子 寿子
(順不同 特選句のみ掲載)
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