#激烈バター醤油味
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一人じゃないと思えると平然と生きていられるようになる
味覚の一部が死んでいる。本当にまずい。まずいというか死にたくなっているのだけれどその発端がまるで分からない。
今はタリーズにいる。ブラッドオレンジジュースを頼んだ。ブラッドオレンジジュースは変な味がした。最近こういうことがよくある。前に河原町でショートケーキを食べたときも、薬品みたいな味がした。今回もそう。ブラッドオレンジジュースから薬品みたいな味がしているのか、ブラッドオレンジュースとかショートケーキの何かしらが自分の中にある、より具体的に言えば味覚、嗅覚を司る器官の中にある何かしらを刺激して薬品みたいな味を感じさせているのか、その辺りは分からない。何を食べたり飲んだりしても薬品みたいな味がするわけじゃないから、自分の側にすべての問題があるわけではないと思う。
自分の側にすべての問題、問題はそうやって自分の側とか相手の側とかで割り切れるものではないと思う。でもそうやって切り分けないと、よく分からなくなることがたくさんある。
今日は映画を見に行こうとして、見られなかった。見られるはずだった。というのは、劇場まで行けてチケットも買えて多分開始時間にも間に合っていたからだ。時間ギリギリだったから一番近くにあったスクリーンに入ったら、まさかのそこは同じ映画のひとつ前の回だった。だからスクリーンに入って15分経たずで映画は終わった。ちょっと衝撃的だった。衝撃的もクソもない、自分が悪いけど、時間ギリギリに行ったから、というか僕は時計もスマホも持っていないからその瞬間の正確な時刻が分からなくて、家を出た時間から考えるにちょっと過ぎてるかピッタリくらいだと思って「上映中」が出ていても何も怪しまずそのまま入ってしまった。僕が冒頭だと思ったシーンは最終盤のシーンだった。エンドロールが流れてきても僕は「ああ、この映画は冒頭で出演者を紹介するんだ」という認識を持った。でもそういう映画はあると思う。たとえば「君の名は。」は、エンドロールだけじゃなくて冒頭に簡単な出演者紹介というか、アニメでいうオープニング的なものがある。だから僕は今回見た映画でエンドロールが流れてきても、オープニングだと解釈した。出演者の名前だけじゃなくプロジューサーとか製作陣の名前が出てきてちょっと怪しいかなと思いつつもここから映画が始まることに期待した。そうしたら案の定、案の定というか出演者、製作陣の紹介後にふさわしく、ちゃんと劇場は明るくなった。僕の千百円はなんだったのだろう。
そもそも同時間帯に違う二つのスクリーンで同じ映画をやっていたのが紛らわしかったと思う、と言いたいけれど、結局時間ギリギリに行った僕が悪いし、時間ギリギリでも手持ちのチケットに記載されているスクリーン番号と目の前のスクリーンの番号を照合させることはできたはずだから、全部僕がそそっかしかったのが悪いと思う。映画を見る前は、より具体的にはチケットを買ってから映画が始まる直前、なんなら始まって10分くらい経つまでは「やっぱり見るのやめようかな」という気分になることがけっこう多い。でもいざチケットを買って本当に見なかったら悲しくなる。ちなみに僕が本来見るはずだった回は、間違ったスクリーンから出てきた時点で始まってから20分が経過していた。だから諦めた。また明日、もう一回お金を払って見に行こうと思う。もったいねえ。
最近は過食がすごくて、ずっと体の中が気持ち悪い。昨日は昼にカレーパンとサツマイモと小豆的なものが入ったずっしりしたパン、それから小松菜と牛肉のオイスター炒めを食べて、夜はグリーンカレーとご飯、それから中華料理店で鶏炒め鍋とエビと卵が入った焼き餃子を食べた。散財したしお腹も気持ち悪くなったしで良いことが一つもなかったと言いたいけれど、美味しいことは美味しかった。そういうことは忘れちゃいけない。過食しているときはそれの罪悪感ですべてを否定したくなるけれど、ちゃんと美味しいと思えているときもある。昨日はそれだった。というより、昨日は美味しいと思えたというより、昨日はどんなときでも美味しいと思えるくらいにクオリティの高いものを食べたのだと思う。だって二千円以上したもん。中華料理店、高かったけどまた行きたい。
とか明るい感じで締めたら良い感じになるかというとまったくそうではなく、気持ち悪さは消えない。今日は朝起きてから今まで飲むヨーグルトを一本とパンを三つ、それからほうれん草とにんじんとしめじとベーコンをバターと醤油で炒めて最後に卵を混ぜたものと、さっきここ(タリーズ)でちっちゃなバニラアイスとブラッドオレンジジュースのトールサイズを飲んだ。「ちっちゃな」とか書いても欲に負けたことは変わらないし、気持ち悪いならブラッドオレンジュースだけにすべきだった、多分。本当にしんどいときは食べるか寝るかしかできなくなる。言うまでもなく「本当にしんどいとき」は僕の主観だ。万人にとって絶対的に、究極的にしんどい状態というのは存在しないのだから仕方ない。今日はパンと炒め物を食べてから映画を見に家を出るまで寝ていた。お腹いっぱいになったら眠くなってしまった。くそだ。でも一日はこうやって終わることもある。究極、人間は食べて寝るだけで人生を終わらすことができる。なんて悲しいんだろう。
今年一年はかなり灰色で、色はとも��く濃淡がない。色にバリエーションがない。全体的にのっぺりしている。鮮やかさがない。食べても読んでもどこかに行っても何かを見ても、それが鮮烈な印象を持って残っていない。唯一、「罪と罰」を読んだことはけっこうドキドキというかワクワクした経験として残っているけれど、でもあれを思い出すと同時に当時の苦しさも思い出す。罪と罰を一番ノってる状態で読んでたとき僕は北大路のイオンモールのスタバにいて、時間帯は夜、8時から10時くらいだった。閉店時間が10時で、店を出た後も僕は出入り口の横にあるエレベーターの前で雨宿りしながら続きを読んでいた、気がする。雨が降っていたかはあんまりちゃんと覚えていない。そういえばあの時は春だった。春は全体的にそういう記憶が多い。総合商業施設の閉店後にその前で雨宿りをしながら本を読んでいる的な記憶。意味が分からない。
今年の春は外にいることが多かった。時間が経つにつれて、少しずつ家の中にいる時間が増えていって、最近は何か書くときも家の中にいることの方が多い。それが良いのかは分からない。今年の春は「京都グラフィー」の展示をいくつか見にいった。京都文化博物館で行われていた「マベル・ポブレット」という人の展示が一番印象に残っている。確か海や水をテーマにした展示で、鏡とか、折り紙とか様々な形でそれが表現されていた。あと純粋に京都文化博物館、展示空間が良かった。その中にある展示として、マベル・ポブレットさんの展示がすごく良かった。展示を見ているとすごく心が落ち着いた。でも落ち着きはいつまでも続かなかった。落ち着きはいつもそうだ。最近は良さが持続しない。一人暮らしを始めたからだろうか? 日常のうまくいかない諸々をすべて一人暮らしと接続させるのは良くない。
FUKUROKOZI、みたいな名前のバンドがあるんじゃないかと思って調べてみたら、なぜかカフェが出てきた。そんなことはどうでもいい。素早く文章を書くことはドラッグを決めることと方向としては近いんじゃないかなと思う。多分、手を止めずにキーボードを叩き続けることにはそれなりの快感がある。でもどんな内容でもただ打っていれば満足できるわけでもないから、一概にそうとも言えない。良いことも悪いこともあるけどそのすべてが同じ色合いで表現されているような、そういう感覚がある。端的に言うと退屈している。ずっと渋滞に巻き込まれているようなそういう感じがある。環境を変えたい、というか大学を辞めたい、というかおそらく来年の春には辞めている。が、大学を辞めたらすべてが好転するとかそんな甘っちょろい話はない。誰か助けてくれないか、という歌詞が含まれている曲はなんだっただろう。きっと割とたくさんあると思う。
穴埋めには限界があって、でも穴が空いていたら埋めるしかなくて、空いている穴に対して胸を張ることはできるんだろうかとかそういうことを考えるけれど、これはあくまで比喩的な話だ。感覚的には、自分はずっとその穴に対して、応急処置的に何かで埋めるか、その穴が目立たないように他の部分もその穴と同じ高さまで掘ることをやってきたと思う。でも、いくら掘ったり足で慣らしたりしても満足できなくて、自分はずっとその穴があった箇所の状態を気にしているような、そういう感覚があるかというと別にない。でも、「やりたいことをやろう」というのはもしかしたら、穴が気にならなくなってからじゃないと言えないのかもしれないなと思う。穴が空いた状態で「やりたいことをやろう」と言っても、「いや、まずは埋めろよ」という話になる。いや、違うか。でも、仮に穴が空いていたとしても、自分がそこに手を施さなくても雨風とかで勝手にその穴は埋まっていくんじゃないかなと思う。自分が他のことをやっている間に。
色盲というのはこういう状態なんだろうか。絶対に違う。でも色がない世界で何が違いを生むのかというと、それは段差とか奥行きとか、そういうものになるのかもしれないなと思う。一色で描かれた絵に魅力がないかというと、そんなことはない。二次元の絵で奥行きを表現しようとしたら結果的に色を変えることになるのだろうけれどそういうことではなくて、だからこれはどちらかというと立体の話だ。レゴブロックを積んでいるとして、一色のレゴしかないとして、だったら自分は、きっといつもより形で違いを生もうとすると思う。いつもだったら「魚」とか「お馬さん」とかその程度で満足するところを色の変化のなさを補うために様々な積み方で工夫しようとするんじゃないかと思う。でも多分、工夫して、その時はそれなりに満足したとしても、一旦レゴから離れたら悲しくなる。人生において色は相当重要な要素なんじゃないかと思う。「人生」とか大袈裟だけど。
自分はあんまり自然を眺めていても落ち着かなくて、というより自然「だけ」では満足できなくて、たとえば離島で生活することになったらかなり苦しむような気がする。かと言ってずっと都会にいたいとも思わないし、この辺りは塩梅だ。おそらく、苦しさは時間によってしか消えないんだと思う。もっと具体的に言うと、一つ一つの物事の積み重なりがあって、その結果として何かの弾みでスッと楽になったりするものなのではないかと思う。AがBになるから楽になるのではなく、AがAダッシュになるから苦しくなくなるわけでもなくて、AとかBとか「あ」とか「い」とか1とか2とか、とにかく色々なものが積み重なっていった結果、ある時ふいに訪れた「G」とかによって、パッと視界が開けたりするものなんじゃないかなと思う。
なんて言うんだろう、時間さえなければ物事はもっと簡単になると思う反面、時間があるからこそ人生で、というか時間しか人生じゃないとすら思う。実際にそうなのかな? どんな大きな理想を掲げたって目の前にあるのは次の1秒で、その1秒を「一時間」とか「二時間」とかそういうまとまりとして見ることもできれば、純粋なただの一瞬として感じることもできる。どちらも等しい1秒で、でも本当に等しいのかな。時間はその人の主観の中にしかないとは言えずとも、「24時間」「365日」というのが人間が作り出した概念であることは間違いなくて、日々沈んでいく太陽と、季節の移り変わり、気温の変化だけが本当で、でもきっと時計や時間が存在しなかったら、自分達はほとんど動物と変わらなくなるというか、ぼうっと牧歌的に生きることしかできなくなるんじゃないかと思う。
人生は暇潰しとか思い出作りとかどっちもあんまり好きな言葉じゃないけどでも多分部分的には本当で、思い返したときに何があるかしか大事なことは��いような気もする。本当に分からないよ。あと一歩だと思う気持ちともう全部ダメになったりして(笑)みたいな気持ちと両方ある。でも後者に関してはあんまり言語化していない。いつかどこかで突発的に線路に飛び込むとかそういう類の表現のされ方をするような気がする。
自分一人しかいないと思うと死にたくなる。一人じゃないと思えると平然と生きていられるようになる。この「一人じゃないと思える」ということがどういう状態なのかは分からない。誰かと一緒にいたら一人じゃないのか、帰る家に誰かがいれば一人じゃないのか、もっと精神的な話なのか、「一人じゃない」というのはそもそも「別の人間もいる」ということに留まらないのか。滞留していると苦しくなる。循環していると落ち着いていられる。そういうことも思う。
(久しぶりに書くと違和感がすごい)
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バター感🧈強め😋 #カルビー #濃旨ポテト #激烈バター醤油味 #あんでぃポテチコレクション https://www.instagram.com/p/CPN1IsOstkCyLIB4FREPsNdJKDncHHkUumjYOs0/?utm_medium=tumblr
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