#渡辺恒雄
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【似顔絵】渡辺恒雄さん(おくやみ)。
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渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が死去、98歳
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が19日午前2時、肺炎のため、都内の病院で死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営まれる。喪主は長男、睦(むつみ)氏。後日、お別れの会が開かれる予定。
渡辺氏は11月末まで定期的に出社し、役員会や社論会議に出席して大所高所から本社の経営や社論を総覧していた。今月に入って体調を崩し、病院で治療を受けていたが、亡くなる数日前にも社説の原稿に目を通して点検するなど、最後まで主筆として執務を続けた。
渡辺氏は東京都出身。東京大学を卒業後、1950年、読売新聞社に入社し、ワシ���トン支局長、編集局総務兼政治部長、専務取締役主筆兼論説委員長などを経て、91年に代表取締役社長・主筆に就任した。2002年の持ち株会社制移行に伴い、グループ本社代表取締役社長・主筆を2年近く務めた。その後、同会長・主筆を経て、16年から現職にあった。
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好き嫌い善悪は別にして、昭和史的には宗教界のスーパースターであることは間違いなく。ご冥福をお祈りいたします。残るご存命は政界で言えば不破哲三93歳、マスコミでは渡辺恒雄97歳。ようやく昭和の終焉、みたいな。平成令和世代が総括するとどうなるんじゃろか。学者、ジャーナリストの役割だっぺ。
Xユーザーの藤本順一さん
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収���井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲���併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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メローニ首相、マクロン大統領、ショルツ首相、デクロー首相、フォンデアライエン委員長、(241228、
読売新聞グループの代表取締役主筆、渡辺恒雄氏を、イラスト画、描きました。贈ります。
佳子さまを、イラスト画、描きました。アニメーションと、贈ります。
(2412281453、
2024年12月28日 カミジョウ智樹
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2024/12/23 20:00:03現在のニュース
日生、営業職員6%程度賃上げへ 清水社長「支援厚くするのが重要」(朝日新聞, 2024/12/23 19:57:33) JR東海の須田寛さん逝く 自由席愛した初代社長、鉄道ファンも慕う(朝日新聞, 2024/12/23 19:57:33) 岐阜勢は高山西と富田が初戦突破 高校バスケ・ウインターカップ開幕(朝日新聞, 2024/12/23 19:57:33) 重要施設周辺の外国人土地取得、都市部目立つ 「阻害行為」確認なし(朝日新聞, 2024/12/23 19:57:33) 「推し飛鳥人総選挙」は持統天皇がトップ当選、聖徳太子に競り勝つ([B!]産経新聞, 2024/12/23 19:57:03) 「複数事実が犯人と示す」と地裁 弁護側は控訴へ 元長野県議妻殺害(毎日新聞, 2024/12/23 19:56:19) NYの地下鉄で女性が火をつけられ死亡 殺人容疑で男性を逮捕(毎日新聞, 2024/12/23 19:56:19) 飼い主の意識向上へ「マイニャンバー制度」 群馬・大泉町が2月から(毎日新聞, 2024/12/23 19:56:19) 埼玉県の拉致問題早期解決推進条例可決、内閣府審議官「大変心強い」 参院委で答弁([B!]産経新聞, 2024/12/23 19:51:20) 名勝負の舞台 東京・千駄ケ谷の将棋会館、移転で最後の対局 増田康宏八段「ありがとう」([B!]産経新聞, 2024/12/23 19:51:20) 渡辺恒雄氏の「代表作」は昭和59年の年頭社説 読売の現実路線転換表明として保守派評価([B!]産経新聞, 2024/12/23 19:45:45) 77歳男を公務執行妨害容疑で改めて逮捕 夫婦刺殺、放火も関連捜査(朝日新聞, 2024/12/23 19:42:47) 鉄道を愛しアイデア次々に、須田寛さん死去 JR東海初代社長(朝日新聞, 2024/12/23 19:42:47) 岸和田市長、議会解散の意向固める 自身の性的関係めぐり不信任可決(朝日新聞, 2024/12/23 19:35:06) 須田寛さん、最後まで一鉄道ファン貫く 愛好者団体会長も務める(毎日新聞, 2024/12/23 19:34:44) 森トラスト、「ブランジェ浅野屋」を傘下に 軽井沢の老舗ベーカリー - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/12/23 19:33:22)
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【12/19緊急速報】読売新聞の渡辺恒雄さんの訃報が飛び込んできました【立花孝志 斎藤元彦 兵庫県 NHK党 奥谷謙一 百条委員会】
【12/19緊急速報】読売新聞の渡辺恒雄さんの訃報が飛び込んできました【立花孝志 斎藤元彦 兵庫県 NHK党 奥谷謙一 百条委員会】
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朝日新聞デジタル記事
「昭和と平成で大きく変わった」 御厨教授が見た「ナベツネ」の実像 聞き手・池田伸壹2024年12月19日 18時29分
19日に亡くなった読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏。渡辺氏に長時間インタビューし、「渡邉恒雄回顧録」を監修した御厨貴・東大名誉教授に、渡辺氏の記者人生や政界との関わりについて聞いた。
読売新聞主筆の渡辺恒雄さん死去、98歳 政界やプロ野球界に影響力
渡辺さんは昭和の男なんですよ。猛烈に勉強し、努力をした高度成長期の猛烈サラリーマン。猛烈記者になり、昭和の戦後を支えた人の一人です。もし、商社に入っていたら、猛烈社長になって世界に売り込みをかけていたと思います。戦争を経験した世代は、猛烈に頑張ることによって、戦争で亡くした友人に対して「生き残った自分は頑張っているぞ」との思いがあった。渡辺さんは、そうは言わなかったけど、やっぱり、そういう思いがあったんだと思います。
入社当時は「あるべき新聞記者像」というのもなかった。特ダネを追っている記者と、書かざる大物記者の二つがいた。書かざる大物記者とは、相手の懐に飛び込んで情報は入るが書かない。渡辺さんは「書かない記者」を非常に嫌って、あるべき記者像を追い求めた。
彼は言っていましたよ。「仲間と飲みに行ったら、『打倒! 朝・毎』って気勢をあげていた」って。彼が記者になったころは朝日新聞や毎日新聞が強くて、読売新聞の記者なんて政治家から歯牙(しが)にも掛けられなかった時代だった。それを彼は覆そうと頑張った。
「今の若い記者たちは『打倒読売』と言っているに違いない。攻守ところを変えたんだ」と話していた。渡辺さんは色々策謀はするんだけれども徹底的に陽気なんですよ、陰気なところが全然ない。だから不思議に渡辺さんと直接会った人はあんまり悪口を言わない。
渡辺恒雄さん、政界にも大きな影響 憲法改正、大連立構想など提言
渡辺さんは「俺はここにいるぞ」って自らをアピールして、逆境にあっても、いかにそこを脱していくか考えていた。どんな逆境にあっても読売新聞を辞めたいと思ったことは一度もないんです。ただの人になる気もないから、社内でも猛烈に頑張って、大新聞記者になるぞと思った。だんだん読売新聞と一体化していって、2000年ごろには「我こそ読売新聞なり」となっていった。
吉田茂が嫌いで鳩山一郎が好きだった駆け出し時代
政治記者としては、自民党副総裁や衆院議長を務めた大野伴睦や中曽根康弘元首相らに食い込んだが、事の始まりは「吉田嫌い」。首相を務めた吉田茂が嫌いで、鳩山一郎が好きというところからスタートする。吉田は外務官僚出身。彼は官僚派の政治家は元々肌が合わない。党人派が好きなんです。官僚派は、渡辺さんがいかに取材で仕掛けても、ある程度以上は絶対に内側に入れなかった。
それで鳩山に食い込もうとするが、最初は苦労する。鳩山邸に行くと朝日の記者は中に入れてもらえるのに「読売です」と言うと、「お前のところは新聞じゃない」と言われて追い払われる。それが悔しくて、鳩山の毎日の散歩に付き合う。秘書に「お前は犬だから向こういけ」とステッキで追い払われるが、我慢して付き合って、���に入れてもらえるようになる。鳩山の孫の由紀夫、邦夫���弟が芝生で遊んでいると、自分でお馬さんになって彼らを乗せる。「そんな新聞記者、絶対いない。孫を籠絡(ろうらく)するしか鳩山さんに食い込む手段がなかった」って言っていた。
大野はまさに、昔風の党人派で開けっぴろげ。渡辺さんがずうずうしく近づくと、歓迎されて、派閥の運営も任される。大野派の会合で渡辺さんが講演したこともある。私が「記者が講演なんかしたら政治家が反発しませんか」と尋ねたら「そんな派閥じゃない、あそこは。話なんかろくにできないやつが集まっているんだから」と笑っていた。大野派はかくあるべしという話をしたら、拍手喝采だったとね。
大野の回想録も「全部自分が書いた」と言っていた。「大野さんっていうのはエピソードしかない男だから、すぐ書けるんだよ」っていうわけ。出版記念パーティーの際、大野に渡辺さんが呼ばれて「何を書いたんだ?」って尋ねられたと。そのさわりだけ、大野がパーティーでしゃべったら拍手喝采だったと。やや演歌の世界に近い、人情べったりの付き合いをしながらも渡辺さんは大野が首相になるはずがないと分かっている。「総理からは情報が取れない。『副』の方が情報が取れる」と言っていた。
「中曽根を総理にしてやった」は後知恵だった
中曽根さんは元内務官僚だったけど、若くして政治家になったから一応党人派だった。中曽根さんと渡辺さんとの関係は読書会から始まった。ネタを取るというよりも政治や国際関係について、書生たちが勉強会をしている感じだったんじゃないでしょうか。「中曽根さんを総理にしたい」という思いを持っていた。後年になってNHKのインタビューで「中曽根を総理にしてやった」と言っていたが、あれは後知恵だと思いますよ。「後から考えると俺しかいなかった」と。ただ、中曽根さんも、渡辺さんが「俺が中曽根政権をつくった」と言っても怒らない。「ナベさんがそう言いたいのであれば、それでいい」という関係だったのでしょう。渡辺さんも認めているんですよ。「総理になったこと、総理になってあれだけの仕事をしたこと。中曽根の方が俺よりも一枚上だ」と。
中曽根さんは総理になって後藤田正晴さんを官房長官にしたけど、渡辺さんと後藤田さんは合わない人間同士の最たるものだったと思う。後藤田さんから見れば「渡辺は信用ならん。そもそもブンヤは何をするか分からない」、渡辺さんからすれば「後藤田は官僚の親玉みたいなもの。特に警察官僚なんて」という思いがあったはず。その2人が内閣を支えたというのは中曽根さんがうまく使ったんです。
「盟友ができなかった」憲法改正に意欲
渡辺さんの原点は、戦時中の特高嫌い。軍国主義の教育に反発して、軍隊に行ってもひどい目に遭う。思想で取り締まる特高警察、当然、警察が嫌いなんです。渡辺さんは第2次世界大戦は日本の過ちだったとずっと思っていた。安倍晋三元首相とは���う。渡辺さんは「右」のイメージがあるが右派的イデオロギーが嫌いだった。戦後、共産党に入るが、あの時の一番の反戦勢力だったから。ただ、共産党を内側から見ているうちに「上が勝手に決めて、下を虫けらのように扱っている共産党は、俺が一番嫌いだった軍隊と同じだ」と感じる。それで共産党も辞めた。
戦後当初は天皇制打破だった。天皇の名のもとで軍隊に行ったもんだから。でも、戦後の昭和天皇の苦悩を見ていて、戦後社会にある種の影響力を与えていく姿を見てだんだん変わっていった。日本で必要な存在じゃないかと。
読売新聞は1994年、2000年、04年の3回にわたり、憲法改正試案を発表しました。彼には「盟友の中曽根ができなかったことを正面から取りあげたい」との思いがあったと思います。中曽根さんは「憲法改正をやる」と掲げて首相になったが、就任から1週間で改憲を見送った。それで渡辺さんは「中曽根ができなかった改憲のために国民運動を起こしたい」と考えたんでしょう。
それに90年代は湾岸戦争も起き、日本は世界にどう貢献するかが問題になった。読売新聞として、そろそろ旗幟(きし)鮮明にした方がいいと思って改正試案を発表した。「他の新聞社にはできないだろう。特に憲法にしがみつく朝日新聞にはできないだろう」という彼なりのブンヤ魂だと思います。それに、読売新聞が「1千万部」と言っていた時期で、憲法改正を主張して部数が減るとも思っていなかった。
生涯一記者を貫いた渡辺さんだけれども、中曽根さんという盟友が総理を終えた後にある種の脱力感があり、ある種の禁欲さがなくなった。タイミングとしては昭和が終わった後だけれども、渡辺さんは読売の社長の地位をいかに維持するかということに変わった。そのためにはネタ取りを自分でやらなければならないと考えた。読売の自分以外の記者なんて、まだまだだと思っていて、抑制力がなくなった。
政治家と会うことの意味が変わった
昭和が終わったぐらいの時期の取材について聞くと、渡辺さんは「忍術を使って、ドロンドロンとやると、たちまち情報が集まってくる」と言う。これはウソですよね。この時期から彼はお座敷取材を始める。つまり、後につくるベテラン記者が政治家を呼ぶ「山里会」みたいなものですね。小沢一郎さんをどうやって知ったかというのも、お座敷に呼んで、ごはんを食べながら話を聞く。これはある意味、最後まで自分の耳しか信用しないという渡辺さんの思いなんでしょう。ただ、政治家と会うことを、純粋にネタを取って記事を書くというよりも、読売新聞社内の権力を維持し、他の新聞社を脅すことに使った。昭和と平成の渡辺さんは大きく変わった。
彼からみると、派閥による権力闘争を乗り越えた昭和の首相と違って平成の首相は全然駄目という感じがあったんでしょう。自分より年下だし、「こんな子供じみたことをやっているんだったら、俺が出ていった方がうまくいく」との思いもあった。極めつきは福田政権の時の福田自民と小沢民主の大連立構想でしょう。やっぱり、首相官邸の福田康夫首相のところに自ら乗り込んでいく渡辺さんって何だ?ってことですよ。読売新聞グループ本社代表取締役会長の座を離れて、首相が「あなたのご見識を聞きたい」と誘ったことに対して官邸に出向くなら別だが、読売新聞を背負った立場だった。そして、翌日の読売新聞には「渡辺さんがやった」みたいな話が載るわけですが、これは絶対にまずい。
渡辺さんが首相官邸に福田首相に会いに行った後、そのまま、私が司会をしていた時事放談の収録にやってくる。記者もいっぱい来る。メイクルームでメイクをしている際、官邸から渡辺さんの携帯に電話が来る。「俺は携帯の出方がよく分からない」とか言って、携帯を落として、スピーカー状態になって、向こうの声が全部聞こえるんです。「まだ決まらないのか。俺が時事放談を終えて帰るまでにおよそのことはまとめておけ」っていうやり取りが全部聞こえるわけ。中曽根さんは笑って「あれがナベさんの商売。ああやって記者に聞かせている。あれでみんな記事を書くだろ」って笑うわけ。
中曽根さんと渡辺さんはこのころ、ほとんど直接会っていなかったようだった。時事放談の帰りに2人で手帳を出して次のゴルフの約束を決める。2人は、誰かの介在なくして、互いの約束を取り付けられない存在になっていた。渡辺さんは時事放談について「いい番組だ。ここでようやくゴルフの約束が取れる」って言うんです。
昭和の猛烈記者、生涯一記者はほめないといけないが、平成になって権謀術数の政治をつくっていく側に変わった。社長や会長の座に固執しなければ、その評価も大きく違ったのかもしれない。
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渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が死去、98歳 : 読売新聞
以下引用
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が19日午前2時、肺炎のため、都内の病院で死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営まれる。喪主は長男、睦(むつみ)氏。後日、お別れの会が開かれる予定。
渡辺氏は11月末まで定期的に出社し、役員会や社論会議に出席して大所高所から本社の経営や社論を総覧していた。今月に入って体調を崩し、病院で治療を受けていたが、亡くなる数日前にも社説の原稿に目を通して点検するなど、最後まで主筆として執務を続けた。 渡辺氏は東京都出身。東京大学を卒業後、1950年、読売新聞社に入社し、ワシントン支局長、編集局総務兼政治部長、専務取締役主筆兼論説委員長などを経て、91年に代表取締役社長・主筆に就任した。2002年の持ち株会社制移行に伴い、グループ本社代表取締役社長・主筆を2年近く務めた。その後、同会長・主筆を経て、16年から現職にあった。 全国紙としての基礎を確立し、発行部数を日本一、世界一に押し上げて「販売の神様」と称された故・務台光雄名誉会長の下で経営を学んだ。渡辺氏の社長在任中、読売新聞の発行部数は1994年、初めて1000万部を突破した。2001年1月には、1031万91部の最高部数も達成している。 渡辺氏は、読売新聞の論調として、中庸で現実的な視点に立った自由主義的保守路線を確立し、数々の「提言報道」で、言論機関としての新たな境地を開いた。特に1994年には「憲法改正試案」を発表し、自衛力保持や環境権の新設、憲法裁判所創設などを明記し、それまでタブー視されていた憲法論議に大きな一石を投じた。 99年から2期4年間、日本新聞協会会長を務め、活字文化の振興や、戸別配達維持による健全な販売競争の実現に尽力した。2000年には、54年ぶりに新たな「新聞倫理綱領」を制定。「人権の尊重」を新たに項目に立てるなど、すべての新聞人が守るべき基本精神をうたい、報道界の倫理水準向上に貢献した。また同年、読売新聞の報道・言論活動の方向性を定めた新しい「読売信条」で、世界の平和と繁栄に貢献する「国際主義」などを打ち出した。 1996年から約8年間、読売巨人軍オーナーを務めた。大相撲の横綱審議委員会委員長や、政府の財政制度審議会委員、有識者会議「情報保全諮問会議」座長などを歴任した。96年から98年までは政府の行政改革会議の委員として、当時の1府21省庁を1府12省庁に再編する報告書のとりまとめに尽力した。 中曽根康弘氏、安倍晋三氏、岸田文雄氏ら歴代首相と親交が深く、政界はもとより各方面に強い影響力を持っていた。 2007年には、言論・新聞事業を通じて社会文化に顕著な功績のあった新聞人に贈られる新聞文化賞を受賞。08年の秋の叙勲では、「多年にわたり新聞事業に携わり、業界の発展に尽力するとともに、報道文化の発展に貢献した」などとして、旭日大綬章を受章した。 また、1996年には、フランス政府から芸術文化勲章最高位の「コマンドゥール」を授与され、2007年には、第54回カンヌ国際広告祭の「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれた。 晩年にはNHKの長時間インタビューに応じ、内容は20年から21年にかけて、「昭和編」「戦争と政治」「平成編」と3回にわたって放送され、大きな反響を呼んだ。今年5月には若き日に執筆した「派閥と多党化時代」が復刊された。
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よみうりランドって渡辺恒雄の王国ってこと?
はばキツさんはTwitterを使っています
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読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、政界やプロスポーツ界にも影響を与えた渡辺恒雄さんが19日未明、都内の病院で亡くなりました。98歳でした。
渡辺恒雄さん死去 読売新聞グループ本社の代表取締役主筆 平成8年には巨人のオーナーに就任 98歳 | NHK | 訃報
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ブリンケン国務長官、オースティン国防長官、サリバン大統領補佐官、岸田前首相、(241228、
読売新聞グループの代表取締役主筆、渡辺恒雄氏を、イラスト画、描きました。贈ります。
佳子さまを、イラスト画、描きました。アニメーションと、贈ります。
(2412281445、
2024年12月28日 カミジョウ智樹
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