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今回はこちら @margine_ordersuit さんのオリジナルキャラクターを作りました キーワードは「スーツ×サーフィン×色黒」です . 経営者の方の趣味がサーフィンなので板を持たせ、オーダーメイドスーツ屋さんなのでこだわりのスーツを着、ターゲット層は30-50代経営者なので可愛さよりはクールを出したかったので、目を隠しました . これからマスコットとして活躍するようなので、ぜひ上のメンションから飛んでみてください . #唯一無二のてつし #波乗りテーラー #オリジナルキャラクター #マスコットキャラクター #スーツ #オーダーメイドスーツ #おしゃれ #cool #イラスト #イラストレーター #サーフィン #サーファー #色黒 #かっこいい https://www.instagram.com/p/B0OVhPjAHUD/?igshid=1v5e6x3ewnt9
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cookingarden · 4 years
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ジェイ・ローチ監督『オールザウェイ JFKを継いだ男』 (その1:ケネディ暗殺から1994年公民権法成立まで) 原題:All The Way 制作:HBO Films, アメリカ, 2016. いまから56年前の1964年7月、アメリカ国内で人種差別を禁止する公民権法が制定された。独立宣言で「すべての人間は平等」とうたいながらも、いまなお激しい人種差別がつづくアメリカにとって、人種差別を法律で禁じた公民権法の存在は特別な意味を持っている。 映画『オールザウェイ』は、「昇格」大統領と言われたリンドン・ジョンソンが、公民権法制定の大義のもと、大統領の座を勝ち取るまでの政治闘争の内幕を描いた伝記である。アメリカの歴史に深く刻まれる公民権法はどのように成立したのか、本作はその真実を伝える貴重な映像資料と言えそうだ。本稿では史実を参考に、映画がどのように当時の実態を描いているかを辿った。 なお、今回取り上げる『オールザウェイ』はHBO films制作の劇場未公開のもので、ロブ・ライナー監督の『LBJ ケネディの意志を継いだ男』とは別物である。アマゾンのPrime videoで観ることができる。主演のリンドン・ジョンソンをブライアン・クランストンが素晴らしい演技で熱演している。
CONTENTS その1:ケネディ暗殺から1964年公民権法成立まで
昇格した大統領が抱いた大志
ジョンソンが公民権法成立を目指した背景
法案通過の鍵となった投票権
議事妨害に対抗するジョンソン
ジョンソンが行った「特別な接待」
映画には描かれなかった上院通過の様子
取り下げられた投票権の行方
その2:民主党全国大会から大統領選挙まで
大統領選挙に立ち塞がる二つの難題
公民権活動家殺害事件が生んだ新党
寝室で行われた民主党全国大会の舞台裏
大統領選を有利にしたジョンソンのメディア戦略
悲劇を招いた北ベトナム空爆
圧倒的な勝利となった大統領選挙
プライバシーに見るジョンソンの現実主義と映画のスタンス
映画『オールザウェイ』を振り返って
昇格した大統領が抱いた大志 この映画は、第36代大統領リンドン・ベインズ・ジョンソンがアメリカ大統領に就任してからの、およそ一年間の出来事を描いている。中心となる話題は、公民権法の成立とジョンソンが自らの実力で大統領の座に着くまでの二つの過程である。 映画は、凶弾に倒れたケネディ大統領の血痕が残るリンカーン・コンチネンタルの描写からはじまる。事件は1963年11月22日、テキサス州ダラスで起きた。凶弾はケネディの頭部を貫通、大統領は即死だった。こうして、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領の座に着き、ケネディの政策を引き継ぐことになる。 「昇格大統領、それが肩書きだ」というジョンソンに、妻のバード・ジョンソン1)が「そうね。でも来年の11月に変えましょう」と励ます場面がある。ジョンソンにとって大統領就任は、実力で大統領になるための戦いのはじまりでもあった。 ジョンソンは就任演説の際、その日がリンカンが奴隷解放宣言を出してちょうど100年目にあたることを念頭に、上下両院合同会議で次のように宣言する。
ジョン・F・ケネディの遺志であった公民権法の実現に向け、歩みを継続しましょう。100年以上にもおよぶ議論をさらに進め、前大統領が提出した公民権法に新たな章を付け加える時です。人種によるいかなる差別も、我が国から排除しようではありませんか。
演説でキング牧師が実現を訴えた公民権法は、ケネディ大統領によって法案作成が指示され、すでに議会で審議が行われていた。ジョンソンはその遺志を引き継ぎ、より確かな公民権法を制定しようと呼びかけたのである。
この演説にひときわに大きな期待を寄せる者がいた。マーティン・L・キング・ジュニア牧師である。キング牧師はちょうど三ヶ月前、「仕事と自由のためのワシントン行進」で演説を行ったばかりだった。「私には夢がある」と題された演説2) の反響は大きく、名演説として歴史に刻まれただけでなく、その後の公民権運動の支えとなった。映画には、そのキング牧師がジョンソンの考えに深く共感する様子が描かれている。 一方、ジョンソンの演説に万雷の拍手が鳴り響くなか、憮然とした表情の議員たちもいた。ジョンソンが師と仰ぐ南部出身のリチャード・ラッセル上院議員3) もその一人だ。ラッセルはかねてから人種差別主義と隔離政策を支持しており、公民権運動反対の陣頭指揮をとってきた。彼にとって朋友ジョンソンの考えは受け入れがたいものだった。ラッセルはその後、リベラルな姿勢を強めるジョンソンと対立を深めていく。 こうしてジョンソンは大統領就任と同時に、公民権法の制定を胸に民主党内部の右派議員の説得にあたり、さらには黒人層に気を配りながら自力で大統領の座に着くという、複雑で難しい道を歩みはじめることになる。次の大統領選までに残された猶予は1年間だった。 ジョンソンが公民権法成立を目指した背景 就任演説の翌日、黒人を読者層とする新聞が「2000万人の黒人が安堵した」と伝えるなか、あれは選挙対策の口上だろうとジョンソンの本心に期待する議員も多くいた。古参議員ラッセルも最初はそうだった。映画には、ジョンソンに疑問をぶつける右派議員を相手にラッセルが、「合衆国憲法の重大な危機だ。しかし彼にも事情がある。時がくれば公民権法を骨抜きにするはずだ。」と説得する様子が描かれている。ラッセルはラッセルで、南部出身の大統領を議会掌握に利用するねらいがあった。
共和党ではすでに、バリー・ゴールドウォーター上院議員が大統領候補者の指名を受けていた。彼は小さな政府と強硬な反共路線を打ち出していた。一方、大統領が交代したばかりの民主党には大統領候補を選ぶだけの余裕はなかった。「ゴールドウォーターなら楽勝ですよ」という上院議員のヒューバート・ハンフリーにジョンソンは、「手強いぞ。だが、自分が党候補になるのが先だな」と応じている。 翌年11月にジョンソンが大統領になるには、まず党の候補者指名を受ける必要がある。ケネディの弟、ロバート・ケネディが立候補する可能性もあった。ラッセルはそうなれば党内分裂だという。一方、ケネディが残した公民権法案は重荷になる。あるいはジョンソンは、大統領の権限で法案の審議を先延ばしにすることができたのかもしれない。しかし彼は、ケネディが死亡してすぐに法案と向き合うことを決意する。それは選挙戦を勝ち抜くための手段というより、大統領としての大義であり、困難をバネに選挙戦を乗り切ろうとする闘志の現れだっただろう。 ジョンソンのこの判断の背景には、公民権闘争の高まりがあった。その抗し難い機運がジョンソンに、公民権法の成立に掛ける決意をもたらした。映画のなかで彼は、「罪を犯してきた南部を救えるのは、南部出身の大統領だけだ」と心情を吐露している。しかしこれは、共和党の攻撃材料になるばかりか、下手をすれば党内右派との分断を招きかねない諸刃の剣だった。ジョンソンはラッセルから、リベラルの連中を付け上がらせるなと忠告を受けている。 法案通過の鍵となった投票権 ジョンソンに託された公民権法案は、1960年ごろケネディによって構想された。具体的には、「投票権の保護、行政的な対応、南部白人票の確保」を盛り込んだものだ。白人票の確保にケネディの政治姿勢が現れているが、投票権の保護は当時から人種差別対策の重要な柱だった。4) しかし黒人の投票権は、南部の保守的な人々には受け入れがたい、非常にリベラルな考え方だった。それだけに、このまま法案を通そうとすれば共和党からはもちろん、民主党内の反発も強くなる可能性があった。このころジョンソンは、「通らないような法案を全力で推進することは自分の政治的立場に大きな打撃を与える」5) と恐れていたという。 そこでジョンソンは、法案から投票権を除外することを考える。映画では、就任演説の翌日に行われたキング牧師との電話のやりとりに、その腹の内が描かれている。彼は投票権の重要性を訴えるキング牧師に「まさか私に説教かね」と疎ましがる。そして、H.R.1752(法案第7152号)と題された条文冊子から、投票権が記されたページを引きちぎるジョンソンの姿が描かれている。 投票権の除外というジョンソンの提案は、キング牧師には受け入れがたいものだった。側近のハンフリーも投票権を外そうとするジョンソンに、リベラル派も裏切りだと受け止めるだろうと反対する。しかし、ジョンソンは「お前が説得しろ。リベラル派の代表だろう」とハンフリーに詰め寄り、さらには副大統領候補の甘言を浴びせる。 ジョンソンはキング牧師に、「黒人を貧困から救う必要がある、保険や教育にも取り組みたい、この国を根本から変えたい、法案成立後には必ず投票権条項を追加する」と熱心に語りかける。それにたいしキング牧師は、「わたしは仲間に約束する必要がある。実現しなければ暴動も起こりかねない」とほのめかし食い下がる。これに対しジョンソンは、下院で確実に法案を通すためには君の協力が必要だと票の取りまとめを依頼する。結果的にキング牧師はジョンソンの提案を受け入れ、黒人指導者として黒人活動家を説得する協力的な姿が描かれている。 こうしたジョンソンの説得と活動が効いたのだろう。公民権法案は1964年2月、賛成290票、反対130票で下院を通過する。これによりジョンソンは当初の目的を達成するが、保守派のラッセルは落胆する。これまでラッセルに懐柔されてきた右派議員は、「これでもジョンソンを信じろというのか」と詰め寄る。これにたいしラッセルは、上院では議事妨害で食い止めてみせると応じている。一方、キング牧師はかろうじて仲間への体裁を保った格好だ。キング牧師には、選挙戦になればジョンソンは黒人票を欲しがるという読みがあった。 以上が映画に描かれた、公民権法案が下院を通過するまでの様子である。この一連のやりとりには、法案の通過を最優先に、人を選び報いることで自分の思いを達成していくジョンソンの姿が、実に丁重かつリアル描かれている。 議事妨害に対抗するジョンソン 法案の成立に危機感を抱いたラッセルは会見を開く。公民権法案は悪質で過激な憲法侵害に他ならないと訴え、我々有志は上院伝統のフィリバスター(議事妨害のための長時間演説)で戦うと宣言する。これを知ったジョンソンの妻バードは、「ディック(ラッセル)が語る愛国心には説得力があるわ。あなたは何のために闘うのか、国民に話すべきよ。」とジョンソンを鼓舞する。 妻の言葉に動かされたジョンソンは公邸の庭に記者団を集め、ラッセル上院議員の残念な決断に反応を示しておきたいと、小学校の教師だったころの思い出を語りはじめる。
テキサス州コチュラの古びた学校だった。コチュラは荒野の真ん中にある国境の町で、極貧のメキシコ移民であふれていた。教え子はかわいかった。毎日、朝飯抜きだから腹ペコで登校してくる。だが、みんな勉強が大好きなんだ。心が温まった。
しかし、子供たちはやがて変わる。キラキラ輝いていた瞳から光が消えてしまう。嫌われていることに気づくからだ。肌の色のせいで・・・
「慌てるな」と忠告されることもある。「政治生命が危険だ」と。だが私は言いたい。正しいと信ずることを行えないなら、大統領とは何だとね。
ジョンソンはテキサス州の貧しい農家に生まれ、苦学の末に教員養成大学を卒業した経歴を持つ。コチュラでの思い出は、その在学中に一年間休学して行った教員見習いの時のものである。6) こうした体験こそが、彼を公民権法の実現へと突き動かす原点になっている。ジョンソンという人物を考える上で重要なエピソードといえるだろう。 自身の苦しい過去を振り返るジョンソンに、メモを取る手を止めて話に聞き入る記者たちの姿があった。ジョンソンが打ち出すこうした親密で率直なメッセージは新聞に掲載され、人々の心を打ち、公民権法の善良なイメージを伝える広報活動として大きな効果を発揮したと考えられる。 ジョンソンが行った「特別な接待」 そうした努力にもかかわらず、議事妨害がはじまってすでに67日が経過していた。映画は荒び疲れた議場の様子を映し出す。そこではラッセルが、南部には黒人が集中しすぎている、黒人が全米で均等な比率になるように全州に振り分けるべきだ、と前代未聞の提案をしている。他にも、1500 ページのスピーチ原稿を持参した議員もいた7) というから、反対派の抵抗は相当なものだったのだろう。 長期化する議会妨害を利用し、公共施設での差別撤廃条項を骨抜きにしようとする共和党議員も現れる。譲歩しなければ妨害は続くというのだ。しかし、ジョンソンは要求をはねつけ、次のように説得する。
共和党は公民権法に反対するか、人種差別主義者に投票するかだ。われわれは歴史を作る、その歴史にどのように名を残すか考えるべきだ。アメリカの流れを変えた偉大な人物となるか、単なるおしゃべり男になるかだ。
コチュラのエピソードもそうだが、こうした会話の端々にジョンソンが人々を説得する巧みさが現れている。彼は自分に言い聞かせる形を取りながら、実際には相手が自分のこととして受け止めるように導いている。主張の正しさを押し付けるのではなく、相手がそう考えるように誘う巧みな話術だ。 そうこうするうちに、議会妨害は69日目に入る。この時点ではジョンソンはまだ劣勢だった。このままでは勝てない。彼は党派を超えて票の獲得に奔走する。あるときは、脳腫瘍で手術のため入院した議員向けに、「意識さえあれば投票はできる」と首席補佐官ウォルター・ジェンキンスにハッパをかけたりもする。さらに、法案通過に協力すると見た者には、大統領章が記された自分のカフスボタンを「世界にひとつしかないものだ」と言いながら押し付けたりする。 ジョンソンは別の場面で票の取りまとめについて、「大勢の女性を誘うようなものだ。遊ばないかと声をかけるといったんは断られる。ビンタを食らうこともある。しかし、大抵はイエスなんだ」と述べている。ジョンソンは、女性に声を掛けるのと同じ思いで、多くの議員を法案賛成へと引き込んだのだろう。映画のなかでジョンソンが「またカフスを頼む」と側近に伝える場面がある。彼はいったい、カフスボタンを幾つ作らせたのだろうか。 こうしたジョンソンの姿は、周りの人々に驚きをもたらしたようだ。ジョンソンのもとでホワイトハウス特別研究員を務めた歴史家のドリス・カーンズ・グッドウィンは、そうしたジョンソン特有のやり方を「特別な接待」と呼ぶようになったという。7) 熱心に説得を繰り返す彼のこうした姿勢はやがて、労働、宗教、公民権団体など、多くの団体のロビー活動に力を与えていく。 映画には描かれなかった上院通過の様子 議会妨害は74日目を迎え、法案はついに討論終結決議に持ち込まれる。映画にはこの最終局面の様子は描かれていない。しかし、本田創造氏の『アメリカ黒人の歴史 新版』8) によれば、この日の状況は次のようなものだった。
結局は討論打ち切り動議を採択するといった異例の白熱した審議をへて、6月19日──この日は、奇しくもケネディ大統領が政府原案を議会に提出してから、ちょうど満一年目にあたる──ついに賛成73票、反対27票で上院も通過し、それから十数日後の7月2日、ジョンソン大統領の署名を得て正式に連邦の法律として成立した。上院における反対27票は、その年の11月の大統領選挙で、共和党候補となって民主党候補のジョンソンに惨敗した、超保守主義者のバリー・ゴールドウォーターをはじめとする共和党議員6名と、南部民主党議員21名が投じた票である。(Kindle の位置No.2548-2554).
こうして「1964年公民権法」は苦難のうえ上院を通過する。ジョンソンの懸命の努力が難局を乗り切る原動力だったことは間違いない。まさにジョンソンは彼の信念に従い、アメリカの歴史に名を残す仕事をはたしたのである。 7月2日の法案署名の場面でジョンソンは、キング牧師に署名に使ったペンを贈呈している。一方、署名を前に退室するラッセルは「選挙に影響が出なければいいが」と言い残し、ジョンソンと袂を分つ様子が描かれている。去りゆくラッセルを見送るジョンソンは、「おめでとうございます」と声を掛けるハンフリーに、「私がいる限り南部は民主党を支持しないだろう。法案成立がそんなにめでたいか」とつぶやく。ジョンソンの気持ちはすでに大統領選挙にあった。 取り下げられた投票権の行方 ところで、こうして成立した「1964年公民権法」には別の正式名称がある。それは、「憲法上の投票権を実施し、公共施設における差別にたいする差止救済を与えるため、合衆国地方裁判所に裁判権を付与し、公共機関、公教育における憲法上の権利を保護するため、訴訟を提起する権限を司法長官に授権し、公民権委員会を拡大し、連邦援助計画における差別を防止し、平等雇用機会委員会を設置する等の目的のための法律」というものだ。9) この異様に長い名称を見て奇異に思う人もいるだろう。長すぎる名称のことではない。投票権の実施がうたわれているからである。ジョンソンは法案の成立を優先し、キング牧師に投票権の放棄を提案していた。この食い違いの詳細はWikipediaの「投票権法(1965年)」の記述で知ることができる。そこには、例えば次のように書いてある。
同法(1964年公民権法)には投票権の保護も幾つか入っている。登録官は、各投票者に書くことの識字試験を平等に管理することと、小さな誤りのある申請書を受領するように求めている。また6年生の教育を受けた者なら十分に投票できるだけの識字能力があるという「反証を許す推定」を創造した。しかし、公民権運動指導者からのロビー活動があったにも拘わらず、この法は投票時の差別の大半の形態を禁じることはなかった。10)
ジョンソンが1964年7月2日に署名した公民権法には、確かに投票権の保護が定められている。しかし、法案を通すことを優先し修正が加えられたことで、投票の際の差別を完全には排除できない不十分なものになっていたのである。しかしジョンソンは、前述のようにキング牧師との交渉のなかで「公民権法の成立後には必ず投票権条項を追加する」と述べている。はたしてこれは、法案の成立後履行されたのだろうか。 映画にはこの約束がどうなったかの具体的な描写はない。しかし、エンドロールに次の説明が加えられている。
(1964年11月の大統領選挙でジョンソンが当選した)翌年ジョンソンはキング牧師らと協力し、投票権法を制定。さらに「偉大な社会」を提唱し、福祉・教育・雇用などの分野で抜本的な改革を行った。
このとき制定された投票権法は「投票権法(1965年)」と記されるように、1965年8月6日にジョンソンの署名により法制化された。実はこの署名の際にもジョンソンは、国民に向けた次のようなメッセージを発している。11)
米国の文明の主流をなす基本的事実は、(中略)自由と正義と人間の尊厳はわたしたちにとって単なる言葉ではない、ということである。わたしたちはそうした概念を強く信じている。大きな発展や混乱、そして豊かさを体験しながらも、わたしたちはそれを信じている。従って、わたしたちの中に抑圧された人々がいる限り、わたしたちはその抑圧に加担しているのであり、それはわたしたちの信念を弱め、気高い目的の力を弱めるものである。
それ故に、これは米国のニグロの自由の勝利であるだけでなく、米国の国民の自由の勝利でもある。そして、皆さんが可決し、今日わたしが署名をするこの法律によって、探求を続けるこの偉大な国家に住むすべての家庭が、さらに力強く自由の中で暮らし、さらに素晴らしい希望を持ち、米国民であることをさらに誇りとすることができる。
こうして、法案の通過を優先して投票権が除外もしくは骨抜きにされた1964年の公民権法は、ジョンソンが約束した通り法案通過からおよそ1年後に正しく履行されたのである。これにより1964年の公民権法では限定的だった黒人の投票権の確保が拡大された。その効果は下記のように、まことに劇的なものだった。12)
1965 年末までに、深南部5州だけで新たに 16 万人のアフリカ系米国人が有権者登録をした。そして 2000 年までには、アフリカ系米国人の有権者登録率は、白人に比べわずか2%低いだけとなった。1965 年には、南部では連邦議会または州議会議員に選出されたアフリカ系米国人は2人にすぎなかったが、今日ではその数が 160 人に達している。
(その2へつづく)
(その1:ケネディ暗殺から1994年公民権法成立まで)
(その2:民主党全国大会から大統領選挙まで)
引用文献 1) バードは通称。本名はクローディア・アルタ・テーラー・ジョンソン。 Wikipedia「レディ・バード・ジョンソン」 https://bit.ly/2Z90Ekb 2) マーティン・L・キング・ジュニア「私には夢がある」American Center Japan, 米国国務省出版物, 1963. https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/ 3) Wikipedia「リチャード・ラッセル・ジュニア」 https://bit.ly/2QTRp2Z 4) 安東次男「ケネディと1963年公民権法案」立命館国際研究, 14-3, 2001.11. http://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/14-3_02ando.pdf 5) 安東次男「1964 年公民権法と大統領政治」立命館国際研究, 13-3, 2001.3. http://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/13-3_13ando.pdf 6) Wikipedia 「リンドン・ジョンソン」 https://bit.ly/2Dg4Map 7) アメリカンセンター Japan「ついに我らに自由を 米国の公民権運動」 https://americancenterjapan.com/wp/wp-content/uploads/2015/11/wwwf-pub-freeatlast.pdf 8) 本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波書店, 1991. 9) 本田創造, 上掲書, Kindle の位置No.2554-2558. 10) Wikipediaの「投票権法(1965年)」 https://bit.ly/2EGUxwF 11) アメリカンセンター Japan「ついに我らに自由を 米国の公民権運動」p.61. https://bit.ly/3h2L1Rr 12) アメリカンセンター Japan, 上掲資料, p.61. https://bit.ly/3h2L1Rr
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arch-bes · 6 years
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ARCH∧BES 2019春夏コレクションの展示会本日最終日です。 2019春夏物のテーマは”Let's Go to See the Ocean Tomorrow” 。 モダンなジェントルマン&サープラススタイルを纏いビーチリゾー���へ行く人々のワードローブをイメージしたコレクションです。 今回はテーマに沿って新作Tシャツも。 「Wave Rider」(2枚目)は波乗り宇宙船の大気圏が大気圏突入する様子からと「Cosmic surfin‘」(3枚目)はデザイナーが好きなY.M.Oの曲名とサーフィンという宇宙と波乗りを合わせたデザインです。 ARCH ∧ BES 2019 Spring Summer Collection Exhibition It is the last day today. 2019 Spring and Summer collection theme is "Let's Go to See the Ocean Tomorrow" Is a collection that image the wardrobe of the people who go to the beach resort wearing a modern gentleman and surplus style. This time there are also new T shirts according to theme. "Wave Rider" (2nd picture) is a graphic that matches how the atmosphere of the surfingand spacecraft enters the atmosphere. "Cosmic surfin '" (3rd photo) is a graphic design combined with designer's favorite Y.M.O's song title and surfing. It is a design combined with the universe and surf. 日時 2018年9月11日(火)- 14(金)
10:00 - 18:00 (9月11日のみ12:00会場となります)
 場所 BOK Gallary 原宿
 住所 東京都渋谷区神宮前3-21-17 問い合わせ先 株式会社ストックルーム  [email protected](@stockroom_pr_ceo) 株式会社ラウンドバレー [email protected] (@arch_bes) またはDMまで 皆様のお越しをお待ちしております。 DATE 11th(TUE) -14th(Fri)September2018 10:00 - 18:00 (※Only on September 11th it starts from 12:00) PLACE BOK Gallary Harajyuku ADDRESS 3-21-17 Jingumae Shibuya-ku Tokyo Japan CONTACT Stock Room Ltd. [email protected](@stockroom_pr_ceo) Roundvalley Co.,Ltd [email protected] (@arch_bes) orDM We look forward to welcoming everyone. #arch_bes # #2019springsummer #exhibition #tradeshow #stockroomshow #mensfashion #menswear #tailormade #woolheircanvas #linencanvas #military #seersucker #indigo #wabash #alohashirt #hawaianshirt #rayon #opencollar #cosmic #cosmicsurfin #ymo #waverider #アークビス #2019春婚 #2019春夏展示会 #メンズウェア #メンズファッション #テーラー #テーラーメイド #インディゴ #コズミックサーフィン #ウェーブライダー #宇宙 (BOK gallery) https://www.instagram.com/p/BnsbmLjHvGM/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1gy9kbirb76rl
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yuna-hirasawa · 6 years
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【新作紹介】『白百合は朱に染まらない』@ヤングマガジン3rdさん その1
皆さん、お久しぶりです。 平沢ゆうなです
前回の読切漫画『鍵つきテラリウム』公開から、約10ヶ月…。 この度、8月6日発売の「ヤングマガジン3rd」さんから、平沢は新作『白百合は朱に染まらない』の連載を開始します。 「ヤンマガ3rd」は毎月6日発売なので、皆さん是非是非、応援のほど、宜しくお願いします。
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知っている方は「おっ!?」と思うかも知れませんね。 そうです。第二次世界大戦中のソビエト赤軍に実在した、第586~588の女性の飛行連隊を舞台にした話です。 (あくまで舞台にしたお話で、実在する人物ももちろん出てきますが、架空の人物も扱ってます)
真珠湾攻撃からおよそ半年前の1941年6月…ヒトラーに不可侵条約を破棄され、突如攻め込まれたソビエト連邦は、またたく間に領土を失い、首都モスクワ陥落寸前まで追い込まれます。 すんでのところで到来した冬将軍で、何とかナチス・ドイツの侵攻は食い止められたものの、数ヶ月間、圧倒的な敗退を続けたソビエトは、失った戦力を補うべく、男女同権のもと、女性兵を募集し前線に送り込むことに…。 祖国を守ろうと女性たちは立ち上がり、遂には女性のみで構成された3つの飛行連隊が立ち上がることになるのでした。
そんな時代背景を描く『白百合は朱に染まらない』。
作品の連載決定から粛々と準備を続けてきましたが、その準備取材として、平沢は、WC開催前の5月に単身ロシアに行ってきました!
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Здравствуйте!  Москва! (こんにちは! モスクワ!)
本当はサラトフやウクライナにも行きたかったのですが、取材費や予定の都合上、モスクワ一点突破になってしまいました。 もし皆さんの反響が良ければ、今度は編集さんと一緒に編集部の取材費で…… はっ…なんだ、夢か!
今回は『白百合は朱に染まらない』の事前予告として、ロシア取材の旅記録を綴っていきたいと思います。
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出発は成田空港。 ロシアの航空会社のチケットが取れなかったため、フィンランド経由でゆくことに…。タイ以来の国外旅行です。
飛行機に揺られること10時間ほど…フィンランドのヘルシンキ空港に到着。 小さな空港ですが、ムーミングッツやかわいいIITTALA・ARABIAの食器が売られています。
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約130ユーロでトナカイ一頭分の毛皮……
特別価格と書いてありました。 や…たしかに安いのかも知れないですけど!!!
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ちなみに、パスタもトナカイ肉のパスタ…。
トナカイって初めて食べたよ。。。 特段獣臭いとかいうのはなく、普通に美味しかったです。 ハーブが効いていたので、調理法によるのかもしれないですけど…。
ちなみに、フィンランドに降り立って、身長168cmの平沢は生まれて初めて、 ”平均身長以下”な自分を体験しました!!!
なんかいいね!! こんな感じなんだね!!!! 凄くいいわ!!!
食事を終えたら、ヘルシンキ空港で小さな飛行機に乗り換えてモスクワに向かいます。
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上はヘルシンキ空港の滑走路から見たお天気雨の写真…。 ちょっとわかりにくいですが、実際には「天使でも降りてくるんじゃ!?」と思うようなチンダル現象です。
ヨーロッパの雨は日本の雨とは違い、雨粒が細かく小糠雨みたいなものが多いらしいです。 こういうチンダル現象や虹は見えやすいのでしょうね。 写真を取りそこねてしまったのですが、その後、モスクワのシェレメチェボ空港に無事到着。 ロシアに入ると情報統制で、LINEは使用不可に…。
日本は「漫画村」プロバイダーブロックで大騒ぎしてたくらいなのに…。
唐突ですが、平沢は実はこのとき、もの凄く、おトイレに行きたかった…。 飛行機降りた瞬間に、かつて白い教団が調べていたスカラー波攻撃たるものを受けたかのような、謎のネイチャーコールを受け、一目散におトイレへ! 旅慣れテーラーさんはよく分かると思うのですが、一度、このようなタイミングでトイレに行ってしまうと、周囲の人は先にパスポートコントロールに行ってしまい、「誰かについて行く」ということはできません。 見知らぬ土地で、「一族イチの方向音痴」の烙印を押されている私は、パスポートコントロールを探し、空港をさまようことに…。 到着ロビーには、旅行会社さんが手配してくれた、ホテルまで送ってくれるドライバーが待っているのですが、結局その後荷物を受け取り、ドライバーさんと合流する頃には、ロビーには業務員を除いたら、私とドライバーさんしかいない時間になってました。 まさか一番最初に私が発するロシア語が Простите (ごめんなさい)になるとは思わなんだ…。
(こんな事があったから空港の写真撮り忘れたのです…) その後、ドライバーさんの車で、滞在先のコスモスホテルに到着します。 モスクワオリンピックの時に建てられたホテルで、ちょっとレトロなホテルです。
(取材目的だったので、ここでも写真を取り忘れてしまいました…)
ドライバーさんが親切な方で、チェックインまで手伝ってくれることに…。 初老の男性でしたが、「あなたは綺麗だから特別です」と、ヨーロッパ男性特有のリップサービス…。
でも、ごめんね、おじさま。
あなたの目の前にいる人は、トラップなんだ…。 人生初��ヨーロッパレディーファスト文化を堪能した後は、ソビエトレトロな玄関には不釣り合いの、金属探知機に荷物を通し、いかついガードマンのボディーチェックを受けて、ホテルのロビーに入ります。 なんでもテロ警戒中とのことで、厳重な警備体制が引かれているそうで…。
ロシア人は無表情なので、ガードマンのおっちゃん凄く怖いです…。 ボディーチェックを終えたあとは、ドライバーのオジサマと一緒にフロントに行きチェックインすることに…。 写真はありませんが、フロントのお姉さん…ぶっちゃけ、「モデルかっ!?」と思うような美人です。
外人好き諸君! ロシア美女の噂はほんとうだったぞ…!!!
ドライバーのおじさまがチェックインの手続きをはじめますが、その際、何やらトラブルがあったらしく、おじさまとフロントのロシア美人が、よくわからないロシア語で少し話をすることに…。
しばらくすると、おじさまが私に向かって言いました。
「いいかい? 君が滞在する部屋だが、予定より少し豪華になった。でも、料金は変わらないから安心してくれ。君は自分をお姫様と思って、ロシアを楽しむべきだ」 …なるほど、ホテル側の手違いで、グレードの高い部屋しか空いてなかったのか…。
まぁ、別に料金が変わらないなら、ちょっと部屋が良くなることは、望むところです。 かつてのタイのように、スイートルームとかにされると、持て余しちゃうけどね……。
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お 前 も か ロ シ ア !
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一人でこのベッドに寝るの、結構寂しいんだからね!!!! 
モスクワ1日目の夜は、読んで時のごとく、”身に余る”ベッドで過ごしたのでした。
……つづく
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