#汚部屋片付け仙台
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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2020年10月24日は仙台市内にて汚部屋のお片付けをさせていただきました。
かなり前に、お友達などとお片付けをされたことがあったらしいのですが、またため込んでしまい汚部屋状態に、近隣からの声もあり今回お…
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異邦人の庭(お試し版)
1. 逃げねばならない。娘はひたすら盗んだ馬に乗って駆けた。うだるような夏を何日も繰り返すたびに食料は尽きた。夜闇に紛れて忍び込んだ村々から水を盗み、家畜の餌を喰らい、そのまま逃げ続けた。やがて馬が死んだので、その血を啜り、肉を喰らい、腹を壊しながら先に進む。 メシュエは逃亡者であった。小領同士の争いで村は焼けた。敵領に戦利品として捕らえられた若い娘が辿る運命などたかが知れている。 敵領に仕える者らの慰み者として弄ばれ捨てられる運命はまっぴらであった。虜囚の身から成りあがることが出来るほどの幸運と美貌、狡猾さと図太さが己にあるとは思えなかった。故に、攫われて行った侍女らの悲鳴と、更に遠くから聞こえる強制されたかのような喘ぎ(あえぎ)声を聞きながら、彼女は己を犯そうとした男を、隠し持っていた短剣で刺し殺して逃げ出した。焼けた故郷を背に、誰のものとも分からぬ馬を走らせ、死体から拾った十四の娘にはいささか重い剣を腰に佩(は)いて。
行くあてはなかった。領は落ち、どこへ行けども敵地。安息の地など見つかりそうになかった。彼方から来た黎明(れいめい)女王(じょおう)を祖とする光の王朝が滅びて久しい。各領は争いに明け暮れ、互いの小さな土地を喰らいあっている。夜闇から魔物らが這い出てきた、などという噂もある。二つ頭の人喰い鬼や影を駆ける六本足の犬、それに、黎明女王の敵であった死を知らぬ夜の娘、名を消された魔女王(まじょおう)が蘇ったとも言われている。 メシュエは物陰でひそやかに語られてきた恐ろしい物語の数々を思い出す。黎明女王が身にまとった光輝(こうき)と威厳(いげん)によって、永遠に封じられた怪物。魔にその身を捧げた者。血まみれの圧政者。血と骨で塔を築き上げ、そこから冷酷に世界を支配しようとした恐るべき悪鬼。 生ぬるい風に乗って、正体のつかぬ何かのうめき声がする。砂と土埃広がる荒野には隠れられそうな場所はない。夏の暑さは夜になっても引くことはない。熱で枯れ果てた草を踏みしだきながらただ遠くへと行く。口は渇き、飢えは続く。メシュエは逃げなければという動物的な本能に駆られて逃げている己と、誰も知らない場所ですべてを終わりにしたい、と望む自分がいることに気付いていた。どちらにせよ、逃げなければならない。生き延びるにせよ死ぬにせよ、結末は自分で決めたかった。
カダール領ルス村の代官の娘であるメシュエは、良家の子女にふさわしく学問や芸術を仕込まれてこそいたが、一番の得手は剣の扱いであった。父似らしく、背は成長期の少年達を追い抜かんばかりの勢い。痩せぎすな体には幾ら食べても娘らしい丸みはつかず、��は厳しすぎた。やがて、見た目の愛らしさとは程遠いメシュエには、良縁を見つけてやるより得意の剣の技で身を立てさせたほうが良いだろうと、両親らは諦める。そのような訳で、メシュエは名高い剣士の一人を師につけられ、適度に放置されて育った。 村の同世代の少年らがメシュエの性を意識するようになってからは孤独であった。同世代の娘らは少年のようなメシュエを畏怖とも恐怖とも、憧れとも嫌悪感ともつかぬ複雑な感情で見ていた。代官の子であるが故に大っぴらに嫌われてはいなかったが、村の娘らは逃げ水のようにメシュエから距離を置いていた。 結果、透けるほどに薄く青白い肌を闘志で薄紅に染めながら、師と打ち合うのが日課となる。実戦こそ知らなかったが、貴族が挨拶のように行う会話の如き優美な剣技ではなく、攻防一体の実用的な剣技はメシュエの中に叩き込まれて行った。それが何に使われるのか、意味する所をぼんやりとしか理解されぬままに。メシュエが剣の意味を知ったのは、村が襲われてからだった。奪うための武器と奪うための技法をずっと学んできたのだ。そう思うと、気持ちが悪くなる。
夜通し歩き続ける。疲れ果てた時に気絶するように眠り、痛みを伴う後悔を覚えながら目覚める。それを繰り返す。メシュエが歩いているのは住む者の少ない荒野であった。段々村の数も減り、ここ数日は獣すら見ていなかった。メシュエはただ突き動かされるままに逃げていた。自分が今どこにいるかは皆目(かいもく)見当もつかなかった。
日は昇り、落ちる。 疎らに生えている棘の多い木を剣で切り、そこから液体を啜る。僅かな苦みの混じる青臭い味が口の中に広がる。毒があるか、そのようなことに構っていられなかった。生きているのに疲れたが、飢えで死にたくはなかった。
――どこかに行けば、雇ってもらえるだろうか。 故郷なき流れ者となった己のことをふと思う。メシュエの村を襲った兵士らの中には同じ年の程の者もいた。年経た大人の中には女戦士もいた。正規の兵ではなく、雇われ戦士だとメシュエを犯そうとしていた男は言っていた。男はメシュエの兄と同じような年頃に見え、それがたまらなく気持ち悪かった。雇われ戦士になる未来をメシュエは放り投げる。もう一人のメシュエをどこかで生み出すのは嫌だった。人を踏みにじる獣に堕す(だす)己を想像すると、また空になった胃が焼けるように痛くなり、腰に佩いた剣を邪魔に感じる。人を刺し殺すのはあっさりとしており、それにためらいも感じぬ己を思い出すたびに吐きそうになる。 ――どこに行っても、同じ。 故郷のない者を誰も信用しない。故郷のない者は、雇われ戦士になるか、それが出来なければ森へ逃げて追剥(おいはぎ)まで身を落とすかしかない。どこかに所属していないものに住む地はないことを、代官の娘としてのメシュエは知っていた。父が苦い顔で締めだした逃亡者に芸人、流浪(るろう)の民達。「居つかれたら、何を持ち込むか分かったものではない――」そう、父は言っていた。 今やメシュエは面倒の種だ。そう思うと、逃げて生き延びたいという欲求は、自分の望んだ瞬間に死にたい、という諦めの混じった思いに塗り替えられる。
何時しかサンダルは壊れ、メシュエは乾いた大地の上を、足を引きずりながら歩いていた。爪は割れ、足の所々から血が滲(にじ)んでいる。夜明けの薄い月が見える。空は青みがかった黒から淡い紫へと変わりつつある。冷えた風は何度も繰り返されたように、これから暑くなるだろう。 大岩を見つけ、メシュエはもたれかかる。もう限界であった。空腹の感覚は馴染みのあるものになりすぎて、実感がなくなっていた。渇いた喉を潤せそうな木はどこにもない。 目を閉じれば蛮行(ばんこう)の記憶が火傷のようにメシュエを苛む。 眠りに落ちれば、僅かな間は痛みから逃れられる。 ――願わくば、次は目覚めませんように。 あてのない祈りを胸に、気絶するようにメシュエは眠りに落ちた。
2. 澄んだ心地よい音がする。 ――水の音……。 メシュエは朦朧(もうろう)とした記憶の中から音の正体を思い出し、それにつられて目が覚め、胸から広がる突き上げるような痛みにうめき声が出る。 涼しい風が肌を撫でる。嗅いだことのない華やかな香りが鼻をくすぐる。ぼんやりと開いた目に映ったのは、沢山の花びらが重なりあった見たこともない花。炎を思わせる赤、輝くばかりの黄色。一点の穢(けが)れもない白……単色の花もあれば、二色三色が斑のように混じりあったものもある。それらが細い道を作るかのように、几帳面(きちょうめん)にまっすぐに植えられている。メシュエの周りは色こそ違えど、ひらひらとした香り高い花でまとめられているようであった。 ――ああ、とうとう死んだのね。 メシュエは思う。しかし、話に出てくる死後の国はこのように色鮮やかなものではなかった。白い石で出来た道と灰色の空が延々と続いているはずの死後の国にしては、メシュエがいる場所は生気に溢れていた。美を争うように咲き乱れる花達は、暗い死後の国には似つかわしくない。そもそもメシュエの飢えも渇きも残ったままだ。胸に手を当てる。鼓動(こどう)はある。まだ、生きているのかもしれない、とメシュエはぼんやりと思う。 ――魔に騙されているの? それとも、妖精に? どちらにせよ喉の渇きは限界だ。のろのろと立ち上がり、水の音を辿る。道こそ話で聞いた死後の国と同じく白い石で出来��いたが、石の上には花びらがいくつも落ちていて、さしずめ絵のよう。空は朝ののどかな光で溢れていて、どこまでも青い。 やがて、花びらが重なりあった香り高い花の道は途切れ、一気に目の前が開ける。白い石で作られた装飾の多い階段から、広場が続いている。花壇にはやはり見たことのない花が沢山。見たことのない木にはたわわに様々な種類の果実が実り、やはり同じく白い石で作られた小さなあずま屋が木陰に一つ。中央にはきらきらと水を噴き上げている大きな石作りの泉があった。 メシュエは水場を見つけた動物的な喜びに突き動かされ、力を振り絞って泉に駆け寄り、水に口を付ける。 喉を冷たいものが通りすぎ、カラカラになった喉に、胃に、心地よい痛みが走る。 ひたすら我を忘れて飲み続ける。生への執着心がここにきて一気に噴き出したかのように。冷たい、冷たい、冷たい……。 水を飲み終わったメシュエは、石造りの広場の上でごろんと横になる。石の床も、ひんやりと冷たい。 ――そういえば、大人達が言っていたっけ。この世のどこかでは、善き仙女や妖精が暮らしていて、時折手助けしてくれるって。 何時から生まれたか分からぬ物語は、メシュエの心の中に救いのように広がる。もしかしたら、仙女が助けてくれたのかもしれない。 メシュエは再び眠りに落ちようとする。今度は、ただひたすらに安堵(あんど)の思いに包まれて――。 瞬間、遠くからぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえた気がした。いや、足音は近づいている。無理やり甘い疲労感から意識を呼び戻せば、目の前には年のあまり違わぬであろう少女が一人。苛立(いらだ)ちを顔に浮かべてメシュエをじっと見ている。 「ちょっと、どこから入って来たの――」 少女は座り込み、メシュエの顔を検分するように顔を近づけて覗き込む。少女の肩につくかつかないかの暗褐色(あんかっしょく)の髪の毛がメシュエの顔にかける。あまりにも暗いので、黒と見間違いそうになるような髪色であった。様々な花を束ねたような甘い芳香がふわりと広がる。覗き込んできた瞳もまた黒と見間違いそうになる暗褐色。少女の色味の強い肌や奇妙な短い衣とズボンもあいまって、メシュエは東からくる放浪の民の姿を連想した。話で聞く仙女は色白く、波打つ髪の毛を持つ大人の女性だった。少女ではない。 「あなたは、仙女様の小間使(こまづかい)?」 やっとのことでメシュエは問いを口にした。何日ぶりか分からない他者との会話であった。 少女は肩をすくめ苦々しい顔になる。一番聞きたくない言葉を聞かされた人のように。しかし、数拍の後疲れたような諦めを顔に浮かべ、メシュエに手を差し出した。労働を知らなそうな、染みも傷も一つもない綺麗な手であった。 「生憎、わたしは仙女でもその小間使でもないから。あえて言うなら、ただのぐうたらな引きこもり庭師(にわし)。……つかまって。家に連れてくよ」 少女は吐き捨てるように言う。敵意とは違う、無関心でいて欲しいと言いたげな棘のある態度ではあったが、ここから追い出すつもりはまだないらしい。メシュエは差し出された少女の手を掴もうとするが、力が入らず手は見当外れの方に弧を描いた。それを少女は目ざとく捕まえ、メシュエを立たせようとする。しかしメシュエの足は疲れ果てたと立ち上がることを完全に放棄していた。腰に佩いた剣の重みも忘れていた。故に、体勢を崩し、少女が引っ張られる形になる。結果出来上がったのは、メシュエの上に奇妙な格好で乗っかった少女の図。 「んあああああもうっ! ゲームの最中だったのに! わざわざ来てやったのに! どうして全部上手く行かないのかな!」 メシュエはあまりにも子どもじみた少女の様子に思わず笑いだし。 気が緩み。 眠気が襲い掛かり。 「あーあーちょっと待ちなさい眠るなっ……」 意識が遠ざかる。 ぼんやりと、少女が何かを呼ぶ声が聞こえたような、そんな中でメシュエは今度こそ眠りに落ちて行った。
再び、メシュエは目覚める。天井は木で作られていて、灯りがぶら下がりながら、こちらを照らしていた。嗅いだことのない、それでもどこか美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。起き上がろうとすれば、柔らかな寝台(しんだい)に体が沈んで行く。それ以前に、メシュエの体は動くことを拒否していた。両手両足に力が入らない。力を入れようとじたばたした後に結局諦め、メシュエはぼんやり天井と、僅かに揺れる灯りを見た。 「起きた?」 少女の声が聞こえる。刺々しさは減っていたが、不思議と万事投げやりな感じを持つ声であった。見れば、少女は陶器(とうき)の皿に銀色の匙を持ち、白くつぶつぶとした何かに茶色い汁をかけたものを持ってきていた。料理なのだろう。 「面倒だから、レトルトで済ませた。でも、味は確かだから。ああ、素晴らしきかな文明……離れて久しいけど」 寝台の側の棚に皿を置き、少女は宙を睨み手を大きく振る。何もない場所からいくつかのクッションがメシュエの目の前に落ちてくる。どれも色鮮やかで、新品のようで、見るからに柔らかそうだ。 それから少女はああ面倒くさい、とぶつぶつ言いながらメシュエの体を起こしにかける。見た目よりも力があるようで、ぐい、と起こされたメシュエはいきなりのことに少し咳き込んだ。少女はそれにもお構いなしで片手でメシュエの体を支えながら、次々にクッションを彼女の背と寝台の後ろにぎゅうぎゅうと詰め込んで行く。 「ほら、これでちょっとは体を起こせるでしょ。ほんとの所、布団は白いから、カレーなんて何かあったらめんどいんだけど。どうせ汚れたらシーツごと捨てればいい訳だし」 ぶつぶつとメシュエには意味の分からぬ言葉をこぼす少女。メシュエは渡されるがままに陶器の皿を受け取り、どうしたらいいか分からぬままに、嗅ぎ慣れぬ匂いの間に僅かに肉汁の香りが混じった料理を匙でつんつんと突く。 「食べ方説明してなかった。白いのと混ぜて。辛かったら水を持ってくるから」 言われるがままに白い粒と茶色い汁を匙(さじ)で混ぜ、口に運ぶ。辛い? その言葉と共に燃えるような辛みが口の中を走り、メシュエは咳き込む。肉の味がほんのりとし、コクと酸味のある茶色い汁は最初の一口こそ美味だったが、ひたすらに辛かった。食べ物をいきなり得てしまった空腹の胃からも痛みが走る。 「あー、こっちの文化じゃスパイスが一般的じゃないのを忘れていたわ……一応中辛選んだんだけどな……」 また少女は意味の分からない言葉を呟いた。一応はメシュエに気を使ってくれた、のだろうか。 「待ってて、今クリームシチュー辺り温めて来るから」 「いえ、いいです、食べられなくはないので……美味しいので……」 慌ててメシュエは銀色の匙で辛い食事をかき込んだ。粘り気のある白い粒と茶色い汁は辛みこそ非常に強かったが、慣れれば食べられないこともなかった。その上、正体不明の少女の機嫌を損ねるのはまずい、と思ったのもある。代官の娘にふさわしい礼儀も何も投げ捨てて、辛みに耐えながら一心不乱に食べるメシュエ。その姿を、少女は珍しいものを観察するように眺めていた。 「水、置いといたから。むせる前に飲んで」 水はいかにも高価そうで澄んだガラスの盃に入っていた。メシュエは手を伸ばして盃を掴み、飲む。冷たい水が喉を一気に通り、辛みが一瞬和らぐ。また食べる。それを繰り返しているうちに辛さにも段々慣れる。 ――あ、これ。案外美味しいかもしれない。 そう思い始めた頃には、皿の上は空になっていた。空腹と安堵がメシュエの体を満たす。 「御親切に、ありがとうございました」 「……どうも」 少女は感謝を言われ慣れていない人のように、メシュエから視線をそらした。 「あなたは、一体」 仙女ではない、と己を称する少女は不思議な料理を持ってきて、目の前で何もない場所からクッションを降らせ、貴人ですら滅多に持っていないようなガラスの盃を当たり前のように扱っていた。 「ぐうたら庭師だよ、ここから出られず、出る気もなく、何となく生きているだけの……」 自嘲(じちょう)するような様子から、メシュエは本当のことを隠している人特有の後ろ暗さを感じた。 「そうだ、あの子の一族……きみ達に言わせれば黎明女王だっけか――は、まだ元気? ここにいると時間の感覚がなくて」 少女はまるで知り合いのように伝説の中の存在と、それに繋がる血筋のことを口にする。どう考えても本人が言うようなぐうたら庭師ではない。もしくは目の前の少女は、何でもない人間であることを演じるのを楽しんでいるのかもしれないとメシュエはいぶかしむ。 「輝ける女王陛下とそのお血筋の方々は、皆、身罷(みまか)られました」 一瞬少女の暗い色の瞳に驚きが走ったのをメシュエは見逃さなかった。それから、少女はまた先ほどのような万事投げやりな様子に戻る。 ��そっかー、くたばったか。何事もハッピーエンドとは行かない訳だね。あの子の人生はそれなりにハッピーだっただろうけど」 「ハッピー?」 聞きなれぬ単語をメシュエは復唱する。 「お幸せ、ってことさ。悪い魔女王を退治して、主人公になれて、皆に慕われてさ……あの子は昔っからそうだった」 吐き捨てるような少女の様子は、どこか痛々しかった。 「知り合い、なのですか?」 「知り合いも知り合い、幼馴染だよ。それを嬉しく思ったことは、一度もないけれど――」 少女は、投げやりな様子の中に、謎めいた笑みを少しほど混ぜた表情を浮かべた。どこか、不気味さを感じさせるような、年とはちぐはぐの笑みを。 「とりあえず、ここから先はわたしの暇つぶしで独り言だ」 少女は寝台の側にあった椅子に腰かけ、ぶらぶらと足を揺らす。 「昔々の話、黎明女王がただの少女で、わたしもきみと同じただの少女だった頃。昔々、本物の十四才だった頃の話」 ふとメシュエは部屋の中が薄暗くなってきたのを感じた。灯りがゆらゆらと揺れる。宵闇が近づいてきていた。
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という訳で入稿しましたので、お試し版を! 本当は出るはずだった文フリにあわせて5月6日通販開始します。気になった方はどうぞどうぞ!
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追記: 事前通販型イベント【Text-Revolutions Extra】に参加することとなりました。そのため5月6日からの通販ではなく、そちらでの新刊として頒布することになりました。二転三転してすみません。どうか皆さまの元に届きますように!
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[東北の旅] その一
午後八時十五分。土曜の夜だというのに、仙台空港はひっそりしていた。磨かれた白いタイルは汚れ1つなく、天井いっぱいに広がる蛍光灯の光を映し出している。そうか、この空港は震災後に建て直されたばかりなのだ。濁流に囲まれ孤立した仙台空港の写真の残像が、ぱっと頭に浮かぶ。心持ち背中の寂しげなサラリーマンが、案内板を探す私を無表情で追い越して行った。
東北は、今どうなっているのだろう。メディアで目にする現状ではなく、そこに生身の私が出向いたときに、一人の人間としてどのような感情を抱くのか。そんなことを機内の狭いシートに座りながら取り留めもなく考えていたが、正直に言うと全く想像できなかった。少なくとも今降り立ったばかりのこの空港は、明る��寂しい。駅へと繋がるドアが開くと、冷たい空気がぎゅっと身を包んだ。油断していたな、と思いながら急いでショールを引っ張り出す。切符を買い、改札に入り、こぢんまりとしたJRの車両にスーツケースをよいしょと載せて、一息つく。乗客は案の定まばらだ。皆疲れた顔をして、窓から広がる暗闇や車内広告をあてもなく見つめている。電車が滑らかに動き出す。所要時間およそ三十分。バックパックから日記を取り出したが、全て書き終わらないうちに仙台駅に着いてしまった。
何ともなく改札を抜けた途端、身を包む雑踏のざわめきに立ちすくんだ。見覚えのあるいくつもの銘菓の看板、声を張り上げる販売員、華やかに着飾って歩く女子大生、足しげく行き来する観光客、酔うにはまだ早いとでも言いたげな表情で意気揚々と歩くスーツ姿の人々。迷いそうなほどの大きな駅と、道路をまたぐ幾つもの歩道橋。
ネオンの煌めく街中を、ipod上にスクリーンショットした頼りない地図を片手に歩き、なんとかホテルまで辿り着いた。落ち着いた照明と、控えめに聞こえてくるジャズ。丁寧で心地よい重みのあるコンシェルジェの対応に、なぜか家に帰ったかのような安堵感を覚える。意識してはいなかったが、あまり人気のない仙台空港に一人降り立ったとき、実は幾分不安だったのだと今更気付く。当たり前だと思っている物事が当たり前に機能しているという事実が、これほど人を安心させるものなのか。15年ぶりに訪れる仙台の賑やかさに、少しほっとした。
東北にやってきたのは、ある2つのボランティアに参加するためである。どちらも私の関心のある分野にぴったり合うもので、参加する前から良い経験になるであろうことが期待できた。しかし、東北に行くと決めたのは出発のたった1週間前のことだった。諸事情あって、沖縄に帰省する直前の1週間の予定がチャラになったため、本土でextraの1週間ができたという状況。本当を言えば、チャラになったも何も、元から大した予定を立ててはいなかった。自分が何を経験してから帰沖したいのかわからないまま、ずるずるとここまで来てしまったという様。
沖縄に長期帰省するということは、その後そう簡単に本州へは渡れないということを意味する。夏休みも近いこの時期になると、航空運賃は全くもって馬鹿にならない。沖縄に帰る前の期間内で、できる限り本土で経験しておくべきことをし尽くしてこよう。そういうつもりで旅に出た。大学が終了しアメリカで1週間余り過ごした後、ソウル、釜山、東京、千葉、京都、そして大阪で3週間を満喫した。常に誰かが隣にいる旅だったが、ラストの一週間は、もっぱら一人で旅をする予定である。
なぜ東北行きを決めたのか。
具体的なプランを前もって練っていたわけではない。1週間どこにでも行ける、一体何をしよう。日本地図を頭に描いて考えたとき、目に飛び込んできたのが東北だったというのは、当然といえば当然だったかもしれない。東北に足を運ぶということは、まだ見ぬ富士山を訪れるよりも、遥かに優先順位が高い気がした。
震災が起こったのは、高校を卒業して2週間と経たない、ごく普通の金曜日だった。学校が終わらないはずの時間に帰宅指示を受けて飛んで帰ってきた妹は、開口一番に「内地が地震と津波で大変なことになっている」と私に告げた。異様な切迫感に不安を感じながら、テレビのスイッチを入れたのを覚えている。信じられないような映像と流れ続けるテロップを脇目に、どうか生きていてと願いながら、すぐさま友人に安否確認のメールを書いた。泣いてしまいそうな自分が腹立たしく、何1つ助けになることもできずこの上なく平和な日常の中にいる自分が許し難かった。丸3日間、普段は全くテレビを見ない我が家で、家族みんな魂が抜けたように繰り返される悲惨な映像をただただ見つめていた。涙を流さずにはいられない時もあった。お腹が空かなかった。うろうろと部屋を歩き回った。本土に親戚がいるわけでもなく、ほんの少しの揺れもない沖縄にいる私ですらそうだったの��。被災地は言うまでもなく、日本中の人々は、一体どのような思いであの日々を過ごしたことだろう。
とにかく何かしたい。あれほどにも助けを必要とする人々がいるのに、ここで何もない平和な日常を過ごすことなどできない。そんな思いを持った人々は数えきれないほどいたのだろう。自分に何ができるかと考えたとき、沖縄から現地に行くのは現実的に考えて厳しかった。どこに募金をしようかと色々調べながら、ここだと自分で決めた団体に、貯金から引き出したお金でささやかな送金をした。
ボランティアがだんだんと現地に足を運び始める時期になると、ボランティア迷惑論がメディアを賑わせた。大学生になったばかりの同級生たちは、フェイスブック上に東北ボランティアでの近況報告を書き連ねた。実際に行動を起こしている彼らの姿は少し眩しくもあったが、自己満足的ボランティアを伺わせる何人かの言動に寒気を覚えた。ボランティアをしたいと思っている私自身も、実は所詮そのような自己満足からしか動こうとしないのだろうか、と。なぜ東北に行きたいのか、何をしたいと思っているのかを、正々堂々と人に語ることはできなかった。自分でもはっきりとしない思いを抱えたまま、東北に赴くことなんてできるはずがない。しかしそれを言い訳にして何の行動も起こさないというのも、果たして正しいことなのか。結局、その小さな募金以外に何を実行するでもなく、悶々と結論を先送りする日々を送っていた。
そうして、東北でのボランティアに関することは未解決のまま、私の心の中でくすぶりつづけてた。渡米してからは、そのわだかまりは大きくなっていくばかりだった。タクシードライバーだろうと誰だろうと、日本から来たと告げるだけで、震災で大事な人を失ってはいないかと気遣う。大学の友人たちは、ことあるごとにフクシマはどうなっているんだ、と聞いてくる。トーキョーに遊びに行きたいが水は飲んでもいいのか。君の持ってきたその小豆は本当に食べても良いのか。日本人はこれから原発をどうするつもりなのか。
自分の中での東北への関心が今までとは別の側面から高まっていく一方で、抑え難い沖縄への興味も沸いてきた。興味というより、知らなければならないという義務感とも言えよう。アメリカで勉強する中で気付かされたのは、自分が沖縄人という、マイノリティとしてのアイデンティティを持つ者であるという事実だった。アメリカにおける沖縄の認知度は予想していたより遥かに高く、他大学の日本人学生ともよく基地問題などで議論になった。自分の無知に気付けたのはもちろん良いことだが、それ以上に沖縄の抱える問題について知りたい、知らなければならないという純粋な強い動機が内側から沸き上がってきたことは、自分でも少し意外な出来事だった。
「福島と沖縄って、共通した何かを持っているよね。」Wesleyan大学で核廃絶キャンペーン団体を運営している友人と、夕食に作ったカレーを食べながらそんな話になった。彼は福島や沖縄、旧同和地区などで見られる地方と政府の力関係や搾取をめぐる問題などにも興味があるという。日本における沖縄人というアイデンティティや本土の人間との関係性を意識し始めていた私にとって、その考えは上手く言葉で説明できないながらも納得するものだった。沖縄と福島は、基地を原発を日本政府から押し付けられていると言える。しかし基地から原発から多大な経済利益を得ているのも確か。ハンディと言われもするその2つの特殊な土地に生まれたという事実が(福島は勿論今まではそうではなかったのだが)その土地の人々にどのような影響をもたらしていくのか。明らかに温度の差がある他都道府県の人々に対し、彼らはどのようにしてこの問題に取り組んで行くべきなのか。「福島や沖縄の若い世代に、とてもpossibilityを感じる」という言い方を彼はしていたけれど、私は少しでもその具体的な可能性を探りたくてたまらないと思っている。沖縄の人間として東北の支援に関わることが、何か新しい気付きをもたらさないだろうか、という淡い希望のようなものが沸いてきたのもそんな時だった。
それほどの興味があり、帰沖前に申し分ない一週間が与えられたにも関わらず、ボランティア決定にはなかなか踏み切れなかった。原因は、大抵の問題がそうであるように、自分自身の中にある。
私をためらわせていたのは、第一に「ボランティア=自己満足、偽善」なのではないかという、自分の意志の出どころを疑う心だった。純粋に何かできることをしたいという気持ちに加え、実際に自分の目で見ないことには、日本人としてこれから東北を語ることもできないだろうという思いもあった。しかしこのような社会経験もない大学生が、果たして役に立つ何かを提供できるだろうか。ただ文字通り東北を「見て」きて、手助けのまねごとのようなことをして満足するのではないか。私はもう人様に迷惑をかけかねないほど未熟でないと言い切れるだろうか。そんな否定的な予感ばかりが頭をよぎった。
第二には、自分の用意不足があげられた。たったの一週間前に申し込みを受け入れてくれるものだろうか。心構えも事前勉強もあったもんじゃない。いきなり駆けつけるような気軽さだと受け取られてしまったらどうしよう。何を準備してきたかと聞かれたならば、返す言葉に詰まってしまうだろう。そう思った。
第三に、自己満足のようにみえるボランティアたちの仲間入りをしたくない、という思いがあった。ボランティアが大学の単位として加算されるから参加するという話や、「東北を見てきたぜ」的態度でボランティアをステータス化する者の話、またパッケージツアーのように組まれた商業臭さが漂うボランティアの広告などを、それなりに目にしてきた。準備もできていない大学生である私がボランティアに参加することで、自分もそのような一連の偏ったボランティアに加担してしまうのではないかという、そんな恐れ。
でも、それらはとんだ思い違いだったことがわかった。そのときの私は、自分の傲慢さにまだ気付いていなかったのである。正直に打ち明けると、こう見えて第三の理由が最も私を躊躇させる原因だった(第一と第二の理由が勘違いだったことについては、回を改めて説明する)。しかし、ある人にふとしたことでその悩みを打ち明けたとき、実は自分が大事なものを見ていないということに気付かされたのだった。「そこに足を運ぶだけで既に1つの支援なんだよ。美味しいものを食べてくるだけだって、地元にお金が落ちる。行って、自分の目で見てくることに意味があるんだから。」と彼女は言う。行くという行動自体に意味が在る。よく耳にして頭ではわかっているつもりではあったが、そうやって言われたときには、すっと自分の中で納得するものがあった。そうだ、例えそれが1ミリほどの小さな変化の可能性にすぎないのだとしても、私が現地に行かずに今までと同じようにこの���所に座りつづけていたら、何一つ起こらないのだ、と。人が何を言おうとどう判断しようともその事実は変わらないのだ、と。偽善的(と私が受け取ってしまうような)ボランティアの仲間になりたくないということは、自分の行いが他人から偽善的だと思われたくない、という見栄でしかなかった。結局、自分が他人からどうジャッジされるのかを気にしていただけだった。
動機か結果か。カントやヘーゲルの言葉がふと頭をよぎる。しかし、例え偽善と見られようとも、本当は偽善だったのだと後で判明するとしても、自分がそうではないと信じていながら実際に行動を起こすのならば、動機も結果をも恐れて何もせずにじっと動かないでいるより遥かにいいのではないかと思えた。人の目を気にするがために、飛行機一本で行ける東北にさえ出向けないなんて、情けない。よし、またとない機会なのだから、この際行って見てこよう。私にできるかぎりのことをしてみよう。そこから振り返って悩んで、動き始めていけばいい。
やっとのことで決心がつくと、すぐに航空券を予約し、何時間もパソコンに張り付いて、片っ端から復興庁のサイトにあるボ���ンティア団体のリストをチェックした。宿の手配。交通手段の確保。担当の方々への連絡。とんとん拍子で準備が進んだ。
以前家族旅行で東北を訪れたのは、わずか5歳のときだった。今回仙台に到着した翌朝、小さな電車を乗り継いで向かった先は、石巻市の万石浦。旅も終盤になったころ偶然判明したのだが、そこは保育園生だった私のわずかな記憶に残っている、バウティスタ号という船を見た思い出の場所だった。何も知らないままこの地でボランティアすることを選んだというのも、何かの御縁があったからだろうかと思うと面白い。
そういう訳で、2013年6月1日、仙台市にて私の6日間にわたる宮城県での旅が始まった。ホテルから見える仙台の夜は、何年も前からそのままだったかのように、明るく輝き続けていた。
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発達障害ー高機能自閉症ー
2018年11月号
朝晩はめっきり寒くなりました。今年は災害の多い年でした。皆様、お���気でお過ごしください。
発達障害ー高機能自閉症ー
今回は、発達障害の中で、私たちに最も身近な存在である”自閉症”について考えてみましょう。私たちは、無知から自閉症の子どもたちに間違った接し方をしているかもしれません。
Ⅰ.発達障害の分類
1.精神遅滞(知的障害)を視点とする・・・第1表参照
知能が平均より有意に低く(知能指数IQが70以下)、かつ、社会的不適応をきたし、その状態が18歳までに出現するものを精神遅滞と呼んでいる。重度精神遅滞20<IQ<35、中度精神遅滞35<IQ<50、軽度精神遅滞 50<IQ<70、に分けられる。IQが70以上は定義により精神遅滞でないとされる。 遅れが中度よりも重い場合は,言語理解に乏しく,身辺自立困難,自傷,他傷,こだわり,破衣などの行動上の問題が出現することが多い。軽度の遅滞では,身辺自立は成立していることが多いが,本人の能力と要求水準の間に乗離があり,思春期以降になって,情緒障害、非行,性的問題などの社会不適応をきたすことがある。 全人口の約2%に精神遅滞が認められるが、その大部分は軽度精神遅滞である。 また、医学的には”精神遅滞”であるが,福祉や教育では”知的障害”と呼よばれる。
2.障害のカテゴリーを視点とする・・・第2表参照
(ア)自閉症(Autism) 自閉症のうち70~80%が精神遅滞を伴うが、大半は軽度の遅滞である。 (イ)注意欠陥多動性障害(ADHD;Attention Deficit/Hyperactivity Disorder) ADHDの人は、ほとんどが精神遅滞を伴わないか、あっても軽度遅滞である。(以下次ページ) (ウ)学習障害(LD;Learning Disorder) LDの人は、ほとんどが精神遅滞を伴わないか、あっても軽度遅滞である。 (エ)その他(チック障害、レット障害、小児期崩壊性障害等) 第2表で、古典的自閉症、別名、カナーtype自閉症は、���国の精神科医、レオ・カナーが 1943年に”自閉症”という名称を提唱したことによる。つい最近まで、自閉症といえばカナ ーの提唱した自閉症をさした。その診断基準は、①他者との情緒的接触の重篤な欠如、 ②物事をいつまでも同じにしておこうとする強い欲求、③物に対する強い関心と、物を 器用に扱うこと、④言葉が無いか、あったとしても、オーム返しや他者には通じない独特の 言葉を使ってしまうなど、コミュニケーションに役立たない言葉の使い方、⑤知的な顔立ち、 カレンダーの計算など、特殊な領域での優秀な能力、の5点である。
Ⅱ.高機能自閉症の障害の特徴
高機能自閉症の”高機能”の意味は、IQが70以上という基準である。高機能と
一口に言っても、IQが70ぐらいの境界域から、IQが140台の知的能力が非常に
高い人までを一括して言っている。高機能は「能力が平均より高い」という意味
ではなく、「明らかな知的遅れがない」、という意味で専門家の間で使われている。
IQが70台の自閉症の子どもは、定義上、高機能自閉症と呼ばれるが、かれは
小学校の普通学級の学習課程をこなすことが難しいことが多いでしょう。
高機能自閉症スペクトラムの基本症状は、 ①社会性の障害、②コミュニケーションの障害、③想像力の障害、こだわり この3つを三組の障害という。これらの症状が出揃うのは3歳を過ぎてからが多い。 精神遅滞のない子どもの場合は、健診などで自閉症を見逃される恐れがある。
1.社会性の障害・・・他者との交流がスムーズに行かない状態を言う。次の3グループがある。
(ア)孤立型 孤立型の子どもは、相手が存在しないかのように振る舞う。同じ部屋に一緒にいても、同じおもちゃで遊んでいても、一緒に遊んだという実感を持ちにくい。名前を呼ばれても、肩を叩かれても、顔を上げたり返事すること無く、一人遊びに没頭している。また、その遊び方が独特であるために、周囲が遊びに参加しにくく、無理に遊びに介入しようとすると、嫌がられることが多い。
相手の存在が見えていないように振る舞う。欲しいものがあるときは、相手の手を引っ張って、物をとってもらおうとする。子どもが関心を持っているのは、あなたの手であって、あなた自身ではない。欲しい物が手に入れば、あなたは用済みです。もしあなたが冷静な観察者の視点を持っていれば、あなたは子どもにとっては、単なる道具としてしか機能していないことを悟るでしょう。 孤立型の子どもは、他者に気持ちがあるということを理解していないだけ。このような状態は、比較的重度の自閉症スペクトラムの幼児期に最も多く見られる。しかし、年齢を重ねるごとに、対人関係も少しずつ変化していき、次に述べる受け身型や積極奇異型へと移行していく。 (イ)受け身型 人からの接触を避けようとすることはなく、孤立しているというイメージは持ちにくいタイプ。周囲��人に従順で、いつも笑顔で言われたことに従うので、小さな頃は、遊びに入れてもらい、世話好きな女の子たちからかわいがられる。しかし、大きくなるにつれて、遊んでもつまらない子、とみなされてしまい、仲間に入れてもらえなくなってしまいがち。問題行動とされる行動があまり見られないから、その分どちらかといえば、学校では放置されていることが多い。学級崩壊のクラス、多動や乱暴が目立つ生徒がいるクラスでは、受け身型の子どもは忘れ去られる。無能の教師からは、問題のない子どもと歓迎されたりするが、実は大きな問題である。なぜなら、貴重な教育期間に意味のあることを教育してもらえることが少なく、ただ一日を過ごすためだけに学校に行くことになりがちである。 また、従順であるために、教師や友人からも、いろいろと無理を要求されがちである。無理をしてストレスがたまる。思春期以前の素直な時期には、無理に周囲の要求に合わせていても、青年期になって、その反動のように大きな問題が出現することもある。実は、受け身型の子どもたちは、細心の注意が必要な子どもたちである。いじめの被害者になっても、教師や親に気づかれにくいという点でも注意が必要である。 (ウ)積極・奇異型 出会い頭に、じっと目を見つめられ、「名前は?、生年月日は?、血液型は何型?」と質問攻めにする子どもは、積極・奇異型の自閉症スペクトラムであるかもしれない。「〇〇って知っている?」と自分の好きなキャラクターや人物について、延々と話始める事もあれば、あなたの容貌からファッション、体型、眼鏡の汚れまでも、批評されるかもしれない。たとえ、相手が驚いた顔、うんざりした表情を見せたり、話を無視して他の作業を始めたとしても、そうしたことには無頓着。 忙しいあなたは質問を切り上げようとする。するとその子どもは、よりしつこく質問を繰り返したり、時には怒ることさえある。 このタイプの子どもは、「自閉的」には見えない。積極的に他者、特に教師や大人に関心を持つからである。でも、よく付き合えば、彼らは決して相互的な対人関係を結んでいないことが分かる。彼らは適切な対人交流を持てないという、重大な社会性の障害をもっている。知能の発達に遅れのない子どもに多いタイプである。
以上述べた三種類のタイプは、固定したものではない。周囲の状況によって、あるいは発達につれて、一人の子どもが別のタイプのように振る舞うことがある。成長するにつれて、孤立型から受身形、受け身型から積極・奇異型に移行することがしばしばあるが、その逆に行くことは稀である。
2.コミュニケーションの障害 知的障害のある自閉症スペクトラムの場合は、そもそも発語がなかったり、あってもオーム返しや独り言が中心だったりして、言葉をコミュニケーションに用いないことが多い。 知的障害のない自閉症スペクトラムの場合には、言葉が無いということはない。それどころか、喋りすぎることもある。知的障害のない場合は、もう少し微妙な問題になってくる。コミュニケーションの障害は、言葉数や文法の問題よりも、言葉の使い方の問題となってあらわれてくる。 (ア)表現能力 高機能自閉症スペクトラムの人と話をする際には、何らかの不自然さやぎこちなさを感じる。日常会話の場面で、教科書のように正確過ぎる言葉遣いをしたり、細部にこだわった話し方をする。まるで、アナウンサーのように模範的なしゃべり方をする子どももいる。これは日常の仲間同士のコミュニケーションには不向き。子どもの場合、母親の影響なのか、女言葉で話をする場合もある。また、家族、友人に対しても丁寧語で話したり、それが不自然だと注意されると、校長先生などの目上の人に対しても、くだけた口調で話しかけたりする。また、やたらとことわざ、慣用句を使い過ぎて、不自然な会話になることもある。 高機能自閉症スペクトラムの人の会話は、基本的にコピー的である。しかし、健常者はコピーをもとに自分なりの感情や表現をTPOに合わせて、自然に加えて調節している。高機能自閉症スペクトラムの人は、このTPOに合わせて調節していくことが、うまくいかない。 (イ)言語理解 高機能自閉症スペクトラムの人、特に年長者は文法的には目立った間違いはなく会話できる。しかし、注意深く観察すると、微妙な文法的問題が浮かび上がってくることもある。 ・助詞や接続詞が抜ける。 ・「行く、来る」、「そこ、ここ」など、視点により表現の異なる語句の理解で、一瞬混乱したりする。 ・慣用表現やことわざの理解が独特である。例えば、「仕事が多くて、縛られている」と言われて、「どこに縄があるんですか?」。また、「それはひとまずおいといて、おやつにしよう。」と言われて、「どれをどこに置くんですか?」と聞き返すなど、字義通りに解釈する傾向がある。本人は真剣だが、周囲からはふざけていると思われて、行き違いになりやすい。 (ウ)非言語コミュニケーション 「目は口ほどにものを言う」のことわざ通り、実際のコミュニケーションの場面では、話された内容だけでなく、視線や表情、姿勢、身振り、話し手・聞き手の間の距離など、非言語的な要素も、コミュニケーションに重要な役割を果たす。自閉症の子供は談話の内容を、身振り手振りで適切に補うことが苦手である。表情や姿勢が単調だったり、不自然だったりすることが多く、言葉以外の表現媒体を適切に使うことが少ない。我々が受ける違和感は、この非言語的なコミュニケーションの偏りが原因であることが多い。
3.想像力の障害 高機能自閉症スペクトラムの人の場合、想像力を発達させることが困難である。幼児期の症状としては、ごっこ遊びや想像的な遊びの乏しさという形であらわれる。 想像力は目に見えない物を思い浮かべる能力である。私達は常に想像力を働かせて生活している。想像力の障害は、日常生活の全般に影響を与える。子どもは幼児期になると、多様なごっこ遊びをするようになる。幼児期後半のごっこ遊びは、シナリオがあり、各人の役割が意識されている。遊びの素材(ママやパパの真似、ままごとなど)は、現実生活から得た経験に基づいているが、健常な子どものするごっこ遊びは、経験の断片の再生ではなく、新しい文脈の中に創��的に組み込まれ、元の形が変化する遊びである。 他方、高機能自閉症スペクトラムの子どものごっこ遊びは、現実の単なるコピーの事が多く、感情がこもっていない印象を受ける。しかも多くの場合、一人遊びである。たとえ、子ども同士のごっこ遊びに発展しても、相手に合わせ、柔軟に役割を交換したり、遊びのルールを改変したりしないため、子ども同士のシナリオを無視してしまいがちで、長続きしない。 (ア)こだわり こだわりとは、ある動作を反復したり、同一性を維持しようとする傾向のこと。高機能自閉症スペクトラムの子どもは、想像力に障害があるために、遊びの方法やレパートリーが限定されたり、相手の気持を想像するのが不得意のために、相手との相互交流が出来ず、一人遊びになりやすい。未来についての表象が持てなければ、体験を再現するしかなく、行動が反復的になり、変化を最小限に保つようになるでしょう。
これらの社会性、コミュニケーション、想像力の3領域の障害があると、自閉症スペクトラムと診断される。自閉症スペクトラムは非常に幅の広い障害の概念である。全くしゃべらない人から、演説できる人まで、また、砂遊びに夢中な子どもから、アマチャー天文学者まである。しかしこの3つの領域に障害があることには変わりなく、その治療教育の基本方針は共通している。自閉症スペクトラムの子どもとその家族は、一見、症状の表れ方が違っていてもお互いに理解し合うことができる。
Ⅲ.高機能自閉症の疫学
カーデショーらの調査では1万人あたり自閉症が60.5人、自閉症以外の軽症例も同数あり、、自閉症スペクトラム全体では、人口1万人あたり121人、人口の1.2%と報告している。この報告では、自閉症スペクトラムの子どもたちの知能は、精神遅滞:境界知能:正常知能=3:2:5の割合で、精神遅滞を伴わない高機能自閉症の人が約70%を占める。男:女=4~5 :1と男性が多い。
Ⅳ.遺伝の要因
ウィングによると、典型的な自閉症の子どもの兄弟姉妹では、自閉症や自閉的傾向を一般の人より、生じやすい、と述べている。自閉症は遺伝的要因の関与が大きい。多因子遺伝(いくつかの遺伝子が複合的に関与)であり、遺伝子のある組み合わせで自閉症を生じ、別のある組み合わせでは、特定の分野での能力の高さとして発現するものと考えられている。
予後は、高機能自閉症の子どもは、成長して高機能自閉症の大人になる。
Ⅴ.随伴する他の症状
1.ADHD
ADHDは、①不注意、②多動、③衝動性、の3つの症状で診断される。これらの症状が、知能の発達水準に見合わないほど強く、日常生活における困難の原因となっている場合である。自閉症の子どもも大半が状況によって、不注意、多動、衝動性を示すが、それらは自閉症の特徴である三ツ組の障害から説明がつく。しかし、中には、三ツ組の障害からでは説明がつかない、ADHDの子どもも���在する。
2. 自閉症の子ども
自閉症の子どもの不注意、多動、衝動性の多くは、周囲の人の、自閉症児への配慮が不十分であることから来ている場合が多い。自閉症の子どもは、提示される情報が理解でき、見通しが持て、余計な情報が排除される環境では、不注意、多動、衝動性が顕著に改善されるからである。 3.学習障害(LD) 最も狭義のLDは、米国精神医学会の定義、”読む、書く、計算する、の3つの能力の障害”を指す。自閉症の子どもには、認知の発達による得手、不得手があり、子どもによっては、LDが併存していると考えて対応したほうが良いときもある。
参考文献 1・内山登紀夫、水野 薫、吉田友子:高機能自閉症 アスペルガー症候群入門、中央法規出版(株)、2002年 2.仙波純一、石丸昌彦:精神医学 12章”児童・青年期の精神障害ー発達障害を中心にー” 、放送大学教材 2006年 3.高橋三郎、大野 裕、染谷俊幸訳:DSM-Ⅳ-TR 精神疾患の分類と診断の手引、米国精神医学会 2003年
人は、人に愛されるために生まれる。 人は、自らを愛するために成長する。 人は、人を愛するために生きる。
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慟哭と吃驚ー小島信夫と小沼丹ー
「第三の新人」と呼ばれた作家たちの中で、小島信夫と小沼丹は、理由は異なるが、どこか収まりの悪い存在に思える。 小島信夫については言うまでもなく、彼が一九一五年生まれと「第三の新人」では最年��であり、それどころか「第二次戦後派」とされる三島由紀夫(一九二五年生まれ)や安部公房(一九二四年生まれ)、井上光晴(一九二六年生まれ)や堀田善衛(一九一八年生まれ)よりも年上、「第一次戦後派」の野間宏や梅崎春生とおない年であるという事実に依っている。これは一九一七年生まれの島尾敏雄が「第三の新人」と「戦後派」のどちらにも入れられていることがあるのに似ているが、小島にかんしては「戦後派」とされているのは読んだことがない。 「第三の新人」という呼称は、山本健吉が「文學界」の一九五三年一月号に発表した同名の論文が初出とされるが、そこで山本が取り上げている作家は「第三の新人」とはあまり重なっておらず、実際にはその後、山本を含む文芸評論家やマスコミが、この時期に文壇に登場もしくは頭角を現してきた一群の小説家たちを、この便利なフレーズの下にカテゴライズしていったということだったのだと思われる。小島は五二年に「燕京大学部隊」と「小銃」(初の芥川賞候補)を、五三年に「吃音学院」を、五四年に「星」「殉教」「微笑」「馬」「アメリカンスクール」といった力作を矢継ぎ早に発表し、五五年に「アメリカンスクール」で芥川賞を受賞する。この経歴からすれば、彼は如何にも「第三の新人」と呼ばれるに相応しい存在だった。 しかし最初期の作品集『公園/卒業式』(冬樹社/講談社文芸文庫)を繙いてみればわかるように、小島は戦前から小説���書いていたし、その中には「死ぬということは偉大なことなので」(一九三九年)のような重要な作品もある。でもまあ「小島信夫=第三の新人」という等号は、文学史的にはごく常識に属すると言っていいだろう。単に他の面子よりも年を取っていたというだけである。 これに対して小沼丹の場合は、もう少し微妙な浮き方をしている。彼も一九一八年生まれと「第三の新人」では年長組だが、そういうことよりもむしろ、存在感というかアティチュードというか、その小説家としての佇まいが、他の「第三の新人」たちとは、かなり異なった風情を持っていると思えるのである。小沼は井伏鱒二の弟子だったわけだが、彼が井伏から受け取った或る種の態度と、それは関係があるのかもしれない。比較的横の繋がりの強い印象がある「第三の新人」の中にあって、小沼は他の作家たちと親しく交流することもあまりなかった(庄野潤三とは付き合いがあったが)。年譜を見ても井伏鱒二と旅ばかりしている。しばしば言われることだが、小沼にとっては、あくまでも早稲田大学の英文学の教授が本職であって、作家活動は趣味というか余技というべきものだった、というのも、あながち間違った見方ではないだろう。もっともそれを言うなら小島信夫も英文学の明治大学教授だったのだが。 小島と同様に「第三の新人」ムーヴメントの頃の小沼の筆歴を記せば、一九五四年上半期に「村のエトランジェ」、下半期に「白孔雀のゐるホテル」、五五年上半期に「黄ばんだ風景」「ねんぶつ異聞」で、計三度、芥川賞候補に挙げられたが、受賞はしていない。ちなみにそれぞれの回の受賞者は順番に、吉行淳之介、小島信夫/庄野潤三(二名受賞)、遠藤周作と、見事に「第三の新人」で占められている。これ以後、小沼が芥川賞候補になることはなかった。ちなみに五五年下半期には石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞し、もはや「第三の新人」が新しかった時代は過ぎ去ってしまう。とはいえ翌五六年には「第三」の近藤啓太郎が「海人舟」で受賞するのだが。 小沼の第一作品集『村のエトランジェ』(みすず書房/講談社文芸文庫)は五四年刊だが、そこには収められている小説には、四〇年代後半には原型が書かれていたものもある。同時期に彼はスティーヴンスンの翻訳や『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』の子ども向け翻案などを手掛けており、大昔の異国を舞台とする「バルセロナの書盗」や「ニコデモ」(ともに四九年)や「登仙譚」(五二年)には、そういった仕事からの影響を窺うことが出来る。 先にも述べたように、小沼丹が「白孔雀のゐるホテル」で候補になり落選した一九五四年下半期の芥川賞は、小島信夫の「アメリカン・スクール」(と庄野潤三「プールサイド小景」)だった。両作の冒頭を引用してみよう。
大学生になったばかりの頃、僕はひと夏、宿屋の管理人を勤めたことがある。宿屋の経営者��コンさんは、その宿屋で一儲けして、何れは湖畔に真白なホテルを経営する心算でいた。何故そんな心算になったのか、僕にはよく判らない。 ……湖畔に緑を背負って立つ白いホテルは清潔で閑雅で、人はひととき現実を忘れることが出来る筈であった。そこでは時計は用いられず、オルゴオルの奏でる十二の曲を聴いて時を知るようになっている。そしてホテルのロビイで休息する客は、気が向けばロビイから直ぐ白いヨットとかボオトに乗込める。夜、湖に出てホテルを振返ると、さながらお伽噺の城を見るような錯覚に陥るかもしれなかった。 コンさんは、ホテルに就いて断片的な構想を僕に話して呉れてから云った。 ーーどうです、いいでしょう? ひとつ、一緒に考えて下さい。 (「白孔雀のゐるホテル」)
集合時間の八時半がすぎたのに、係りの役人は出てこなかった。アメリカン・スクール見学団の一行はもう二、三十分も前からほぼ集合を完了していた。三十人ばかりの者が、通勤者にまじってこの県庁にたどりつき、いつのまにか彼らだけここに取り残されたように、バラバラになって石の階段の上だとか、砂利の上だとかに、腰をおろしていた。その中には女教員の姿も一つまじって見えた。盛装のつもりで、ハイ・ヒールをはき仕立てたばかりの格子縞のスーツを着こみ帽子をつけているのが、かえって卑しいあわれなかんじをあたえた。 三十人ばかりの教員たちは、一度は皆、三階にある学務部までのぼり、この広場に追いもどされた。広場に集まれとの指示は、一週間前に行われた打ち合わせ会の時にはなかったのだ。その打ち合わせ会では、アメリカン・スクール見学の引率者である指導課の役人が、出席をとったあと注意を何ヵ条か述べた。そのうちの第一ヵ条が、集合時間の厳守であった。第二ヵ条が服装の清潔であった。がこの達しが終った瞬間に、ざわめきが起った。第三ヵ条が静粛を守ることだという達しが聞えるとようやくそのざわめきはとまった。第四ヵ条が弁当持参、往復十二粁の徒歩行軍に堪えられるように十分の腹拵えをしておくようにというのだった。終戦後三年、教員の腹は、日本人の誰にもおとらずへっていた。 (「アメリカン・スクール」)
小島信夫は五四年だけで実に十編もの短編小説を発表しているのだが、個人的には「アメリカン・スクール」よりも「星」や[殉教」、そして「馬」の方がすぐれていると思う。単行本『アメリカン・スクール』の「あとがき」で、小島は実際に自分がアメリカン・スクールに見学に行った経験が出発点になってはいるものの、それはごく最近の出来事(「先年」とある)であり、しかも「事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった」と述べてから、こう書いている。「僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。そのために象徴的に、六粁の舗装道路を田舎の県庁とアメリカン・スクールの間に設定してみた。それから今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」。 その結果としての、主題的な、話法的な、一種の紛れもないわかりやすさが、芥川賞の勝因だったと言ったら怒られるかもしれないが、「終戦後二年間ぐらいの所」というのだから、一九四七年頃の物語を一九五四年に(五三年の体験をもとに)執筆したこと、それから「六粁」すなわち「往復十二粁」という「行軍」の設定、そして「僕」から「群像の中の一人物」への変換(右引用の少し先で、この小説の主人公というか狂言回し的な人物は「伊佐」という男だとわかる)という三種類の「距離」の導入が、その「わかりやすさ」に寄与していることは間違いない。もちろん小説とはこういうことをするものであるわけだが、「現実」を巧妙にずらすことによって却って「現実味」を増すという操作が、ここでは見事に上手くいっている。と言いつつ、であるがゆえに、わたし的には今ひとつ物足りない気もするのだが。兎角上手くいき過ぎているものはどうもつまらない。だがそれはとりあえず置く。 これに対して小沼丹の「白孔雀のゐるホテル」の場合は、ここで夢見られているホテルの「お伽噺」めいたイメージとは裏腹に、現実の宿屋は二軒長屋を若干改造しただけの古臭くて襤褸い代物で不便この上なく、何故だか自信満々の「コンさん」に驚き呆れた「僕」は、ひと夏の間に六人以上の泊まり客が来るかどうかの賭けをすることになるのだが、その賭けの顛末が綴られてゆく物語は、この時期の小沼小説の一大テーマというべき男女の色恋がメインに据えられてはいるものの、どこか牧歌的であり、こう言ってよければ妙に非現実的な「お伽噺」ぽさの内に全編が展開されるのである。つまりこの小説には「アメリカン・スクール」にあったようなリアリティへの配慮と戦略が著しく欠けている、というかそれはほとんど顧みられていないようにさえ見える。小沼丹がやろうとしているのは、もっとあからさまに「物語」らしい小説であり、その意味では「文学」らしからぬ小説なのである。そのせいで芥川賞を得られなかったのかどうかはよくわからないが、この作風は「第三の新人」においてはやはり異色である。 それは「村のエトランジェ」や、二編と同年発表の「紅い花」など、この頃に書かれた多くの作品にも言える。「エトランジェ」は衝撃的な殺人の目撃シーンから始まるが、現在の感覚からするとまだほとんど子供と言っていい「中学一年坊主」の「僕」の視点から、戦時中に田舎に疎開してきた美人姉妹と若い詩人とのロマンス、そのドラマチック過ぎる結末が、しかしやはりどこか牧歌的な雰囲気の中で物語られる。「紅い花」の舞台は「戦争の始る三年ほど前」だが、「大学予科生」の「僕」によって、郊外の山小屋を借りて独り暮らしを始めた「オスカア・ワイルドのように真紅のダリアを一輪飾った女」の波乱に富んだ恋愛模様が、おそるべきショッキングなラストに向かって物語られてゆく。いずれも極めて人工的なお話になっており、特に「紅い花」には一種の心理サスペンス風ミステリの趣がある。そして実際、この数年後の五七年から五八年にかけて、小沼丹は雑誌「新婦人」に「ニシ・アズマ女史」を探偵役とするユーモラスな短編を連作し、その後も何作かミステリ小説を発表している(「ニシ・アズマもの」は『黒いハンカチ』として一冊に纏められている。ミステリ作家としての小沼の側面にかんしては同書創元推理文庫版の新保博久氏の解説に詳しい)。ミステリに留まらず、五〇年代末から六〇年代頭の小沼はいわゆるジャンル小説にかなり接近しており、当時隆盛を迎えていた「宝石」「オール読物」「小説中央公論」などの中間小説誌にも作品を書いている他、六一〜六二年には新聞小説としてユーモア長編『風光る丘』を連載している。ジャンル的な方向性や出来映えの違いはあるが、デビュー以来、この頃までの小沼の小説は、おしなべて物語的、お話的なものであり、言い替えればそれは、どこか浮き世離れした雰囲気を持っていた。ところが、よく知られているように、この作風は、その後、大きく変化を見せることになる。 一九六三年の四月に小沼丹の妻・和子が急逝する。彼は娘二人と現世に残された。翌六四年には母親も亡くしている。そして同年五月に、のちに「大寺さんもの」と総称されることになる連作の第一作「黒と白の猫」が発表される。 この小説は、次のように始まる。
妙な猫がいて、無断で大寺さんの家に上がりこむようになった。ある日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐っているのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かいたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると素早く逃亡した。それが当然のことである、と大寺さんは思っていた。ところが、その猫は逃出さなかった。涼しい顔をして化粧なんかしているから、大寺さんは面白くない。 ーーこら。 と怒鳴って猫を追つ払うことにした。 大寺さんは再び吃驚した。と云うより些か面喰つた。猫は退散する替りに、大寺さんの顔を見て甘つたれた声で、ミヤウ、と鳴いたのである。猫としては挨拶の心算だったのかもしれぬが、大寺さんは心外であった。 (「黒と白の猫」)
以前から身辺雑記的なエッセイは発表していたが、この作品によって小沼丹はいわば「私小説的転回」を果たしたとされることが多い。淡々とした、飄々とした筆致から「大寺さん」の、とりたてて劇的な所のない平凡な日常が浮かび上がり、いつの間にか自宅に上がり込むようになった猫の話が綴られてゆくのだが、小説の後半で「大寺さん」は妻を突然に亡くす。しかしそのことを伝える筆致もまた、どこか淡々と、飄々としている。事情を知る読者は、おそらく作家自身に現実に起こったのも、こんな��じであったのかもしれないと思う。そしてこの作品以後、かつてのような人工性の高い「お話」は、ほとんど書かれなくなってゆく。これが多分に意識的な「転回」であったのだということは、次の文章でもわかる。
小説は昔から書いているが、昔は面白い話を作ることに興味があった。それがどう云うものか話を作ることに興味を失って、変な云い方だが、作らないことに興味を持つようになった。自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向けるようになった。この辺の所は自分でもよく判らないが、この短編集に収録してある「黒と白の猫」という作品辺りから変わったのではないかと思う。 (「『懐中時計』のこと)
作品集『懐中時計』は一九六九年刊。右は九一年に講談社文芸文庫に収められた際に附された「著者から読者へ」より抜いた。この先で「黒と白の猫」についてあらためて触れられているのだが、それは(明記されていないが)一九七五年発表の「十年前」というエッセイの使い回しとなっている。なので以下は同エッセイ(『小さな手袋』所収)から引用する。「十年前」とは勿論「黒と白の猫」が書かれた時のことである。
日記には「黒と白の猫」を書き終わって、一向に感心せず、と書いているが、これはそのときの正直な気持ちだろう。尤も書き終って、良く出来たと思ったことは一度も無いが、この作品の場合は自分でもよく判らなかったような気がする。よく判らなかったのは、主人公に初めて「大寺さん」を用いたからである。 突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない。「彼」でも不可ない。しっくりしないと云うよりは、鳥黐のようにあちこちべたべたくっつく所があって気に入らなかった。此方の気持の上では、いろんな感情が底に沈殿した上澄みのような所が書きたい。或は、肉の失せた白骨の上を乾いた風邪が吹過ぎるようなものを書きたい。そう思っているが、乾いた冷い風の替りに湿った生温い風が吹いて来る。こんな筈ではないと思って、一向に書けなかった。 それが書けたのは、大寺さん、を見附けたからである。一体どこで大寺さんを見附けたのか、どこから大寺さんが出て来たのか、いまではさっぱり判らない。 (「十年前))
「兎も角「僕」の荷物を「大寺さん」に肩代りさせたら、大寺さんはのこのこ歩き出したから吻とした。しかし、出来上がってみると、最初念頭にあった、上澄みとか、白骨の上を吹く乾いた風の感じが出たとは思われない。それで一向に感心せずとなったのだろう」と小沼は続けている。ここでわたしたちは、小島信夫が「アメリカン・スクール」について「今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」と語っていたことを思い出す。つまり小島も小沼も、一人称を架空の固有名詞に変換することによって、或る転回を成し得ている。興味深いことに、「私」で/と書くのを止めることが、むしろ「私/小説」を誕生、もしくは完成させているのである。 「アメリカン・スクール」前後の小島信夫の小説で、一人称の「僕」もしくは「私」で書かれていないのは、他には「声」(一九五五年)など数える程しかない。一九五五年には初の長編小説『島』の連載が「群像」で開始されるが、これも人称は「私」である。そして長編小説にかんしてみると、続く『裁判』(一九五六年)、『夜と昼の鎖』(一九五九年)、『墓碑銘』(一九六〇年)、『女流』(一九六一年)は全て一人称で書かれている。そして小島が初めて三人称で書いた長編小説が、他でもない『抱擁家族』(一九六五年)なのである。その書き出しは、次のようなものである。
三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。 家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きの妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。 自分の家がこんなふうであってはならない。…… (『抱擁家族』)
この「三輪俊介」は『抱擁家族』から三十二年後の一九九七年に刊行された長編『うるわしき日々』に(それだけの年を取って)再登場する。当然のことながら、一人称で書かれているからといって作者本人とイコールでないのと同じく、三人称で書かれているからといって作者とまったく無関係とは限らない。小島の他の長編小説、たとえば大作『別れる理由』(一九六八〜八一年まで連載)の「前田永造」であるとか『美濃』(一九八一年)の「古田信次」であるとかも、基本的には「小島信夫」の別名であると言ってしまって構わない。これはあらためてじっくりと論じてみたいと思っていることだが、日本文学、少なくとも或る時期以降の「日本」の「文学」は、煎じ詰めればその大半が広義の「私小説」である。それは人称の別にかかわらず、そうなのだ。その中にあって小島信夫は、かなり特異な存在だと言える。何故ならば小島は、自身の人生に材を取って膨大と言っていい小説を書いたのみならず、それらの小説群によって自らの人生自体をも刻々と小説化=虚構化していったからである。だが本稿ではこの点にはこれ以上は踏み込まず、小沼丹との比較対照に戻ることにする。それというのも、言うまでもないが『抱擁家族』でも「三輪俊介」の妻が亡くなるからである。 『抱擁家族』は、前半では「三輪俊介」の妻である「時子」と、三輪家に出入りしていたアメリカ兵ジョージとの姦通(次いで三輪家の二番目の家政婦である「正子」と息子の「良一」も関係を持つ)によって生じた「家/族」の危機が、後半では「時子」が癌に罹り月日を経て死に至るまでと、それ以後が描かれる。現実の小島信夫の最初の妻・キヨは、一九六三年十一月に数年の闘病生活の末に亡くなっている。これは小沼丹の妻の死の半年後のことである。小島信夫の代表作、おそらく最も有名な作品であろう『抱擁家族』は発表以来、さまざまに読まれてきた。言わずもがなではあるが、よく知られた論としては、実質的に「第三の新人」論と呼んでい���江藤淳『成熟と喪失』(一九六七年)が挙げられるだろうが、今から見れば些か過剰に社会反映論的とも思えるそこでの江藤の立論は、たとえ当たっていたとしてもわたしにはあまり面白くはない。今のわたしに面白いのは、たとえば小島の最初の評論集である『小島信夫文学論集』(一九六六年)収録の「『抱擁家族』ノート」における、次のような記述である。
時子の死ぬところがうまく行かない。つまらない。自然の要素が強すぎる。 しかし、ここをとるわけには行かない。一応こういう自然の時間を追うスタイルの小説だからである。
小説の推移、一つ一つの会話がそのまま混沌としていて、しかも人生そのものというようにすべきである。そのくらい複雑でなければ、こういう問題を書く意味がない。 (「『抱擁家族』ノート」)
二つの断片を引いた。この「ノート」は、小島が実際に『抱擁家族』執筆に当たって作成した創作メモがもとになっているそうだが、最後の一文に「俊介は狂っている」とあり、思わず戦慄させられる。周知にように、小島信夫は小説と同じくらい、ことによるとそれ以上の労力を傾注して多数の小説論を書いた作家だが、自作にかかわる論においては常に、右の引用に示された紛れも無いパラドックスをめぐる葛藤が旋回している。すなわち「小説」と「自然の時間=人生そのもの」との、ややこしくもあり単純でもある関係性が孕むパラドックスである。それは小沼丹が「突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない」と悩んだあげくに、ふと「大寺さん」を発見したのと同じことである。 それならつまり、小島信夫も小沼丹も、自らの実人生に起きた、たとえば「妻の死」という決定的な出来事、悲劇と呼んで何ら差し支えあるまい出来事を、如何にして「小説」という虚構に落とし込むかという試行に呻吟した結果、それぞれにとっての小説家としてのブレイクスルーを成す『抱擁家族』と「黒と白の猫」という「三人称の私小説(的なるもの)」が産み落とされたのだ、と考えればいいのだろうか。それはまあそうなのだが、しかし両者の対処の仕方は、一見すると対照的である。『抱擁家族』では、夫である「三輪俊介」が、妻である「時子」の死に対して激しく動揺し、狼狽し、慟哭するさまが執拗に描かれている。その様子は勿論シリアスなものではあるが、しかし同時に奇妙な諧謔味を湛えてもおり、そしてその諧謔がぐるりと廻って哀しみを倍加する、というようなものになっている。それは名高い「私の妻は病気です。とても危いのです。その夫が私です」という台詞に象徴されているが、そこに作家自身の生の感情が吐露されていると考えてはならない。「アメリカン・スクール」で施されていたのと同様の戦略と計算が、ここにはより大胆かつ精妙に働いている。 たとえば次の場面には、小島の独特さが現れている。
病院での通夜までの間に一時間あった。その間、彼は病院の玄関に立っていた。涙がこみあげてきて、泣いているとうしろで廊下をするような足音がした。ふりかえるとカトリックの尼が、トイレから出てきたところで、トイレのドアがまだ動いているところであった。 二人の尼は俊介のところへおびえるようにして近よってきた。 「お亡くなりになったそうで」 眼から涙がこぼれおちてくる、と俊介は思った。 「先日はどうも」 と彼は口の中でいった。 「祈ってあげて下さい」 と若い女の方がいった。 「それは僕も祈りつづけてきたのですが、祈る相手がないのですよ。だからただ祈り、堪え、これからのことを考えるだけです」 「あなたは、今、神に近いところにおいでになりますよ」 「なぜですか」 俊介は尼について歩きはじめた。 「家内に死なれたからですか。これは一つの事業ですよ。その事業をぶざまになしとげただけのことですよ」 俊介の涙はとまった。 「ただ僕は子供がふびんで……これからどうして暮して行ったらいいのだろう。ずっと前から予想していたが、やっぱり思いがけないことが起きたのです」 (『抱擁家族』)
「『抱擁家族』ノート」には、こうある。「カトリックの尼を出す。時子は求めているらしいのに、追払う。こういう錯覚、洞察力のなさが俊介にはある。神の問題は、この程度にしかあらわれない。そういうこと、そのことを書く」。これはつまり、敢て、故意にそうしている、ということである。小島は、あくまでも意識的なのである。小島は「演劇」にも関心の深かった作家だが、ある意味で「三輪俊介」は、演劇的に慟哭してみせているのだ。 小島信夫は徹底して方法的な作家であり、彼の方法意識は『抱擁家族』でひとつの極点に達し、それから数十年をかけて、ゆっくりと小島信夫という人間そのものと渾然一体化してゆくことになるだろう。従って、それはやがて「方法」とは呼べなくなる。だが、ともかくも言えることは、『抱擁家族』という小説が、たとえ表面的/最終的にはそう見えなかったとしても、実際には精巧に造り込まれた作品なのだということである。以前の作品と較べて、明らかにスカスカを装った文体や、一読するだけではどうしてそこに置かれているのかよくわからない挿話、あまり意味のなさそうな主人公の述懐さえ、周到な準備と度重なる改稿によって編み出されたものなのである。 小沼丹の「大寺さんもの」は、「黒と白の猫」に始まり、計十二編が書かれた。最後の「ゴムの木」の発表は一九八一年なので、実に十七年にわたって書き継がれたことになる。いずれも、ほぼ作家と等身大とおぼしき「大寺さん」の日々が綴られている。そこでは確かに、お話を「作らないこと」が慎ましくも決然と実践されているようであり、また「自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向け」られていると読める。この意味で、小沼の姿勢は小島信夫とは些か異なっているかに思える。 だが、ほんとうにそうなのだろうか。「黒と白の猫」の、今度は末尾近くを読んでみよう。
大寺さんは吃驚した。 例の猫が飼主の家の戸口に、澄して坐っているのを発見したからである。大寺さんは二人の娘に注意した。娘達も驚いたらしい。 ーーあら、厭だ。あの猫生きてたのね。 ーーほんと、図々しいわね。 この際、図々しい、は穏当を欠くと大寺さんは思った。しかし、多少それに似た感想を覚えないでもなかった。大寺さんもその猫は死んだとばかり思っていたから、そいつが昔通り澄しているのを見ては呆れぬ訳には行かなかった。 (「黒と白の猫」)
この短編を、そして続く「大寺さんもの」を読んでゆく誰もが気付くこと、それは「大寺さ���」が、やたらと「吃驚」ばかりしていることである。もちろん小沼丹の小説には、その最初期から「吃驚」の一語が幾度となく書き付けられてはいた。たとえば「村のエトランジェ」の冒頭も「河の土堤に上って、僕等は吃驚した」である。『黒いハンカチ』の「ニシ・アズマ」も、一編に一回は「吃驚」している。だが、それでも「大寺さんもの」における「吃驚」の頻出ぶりは、殆ど異様にさえ映る。なにしろ「大寺さん」は、悉く大したことには思えない、さして驚くには当たらない小さな出来事にばかり「吃驚」しているのだ。そして/しかし、にもかかわらず「大寺さん」は、真に不意打ちの、俄には信じ難い、受け入れ難い出来事に対しては、むしろ淡々としている。その最たるものが、身近な者たちの「死」に向き合う態度である。「黒と白の猫」には「細君が死んだと判ったとき、大寺さんは茫然とした。何故そんなことになったのか、さっぱり判らなかった」とある。彼は「茫然」としはするが、そのあとはせいぜい「しんみり」するくらいで、取り乱すことも、泣くこともない。「茫然」は、あっさりと恬然に、超然に席を譲るかにさえ思える。演劇的なまでにエモーショナルな『抱擁家族』の「三和俊介」とは、まったくもって対照的なのである。つまり「大寺さん」の「吃驚」は、実際の出来事の強度とは殆ど反比例しているのだ。 「大寺さんもの」第三作の「タロオ」(一九六六年)は、タロオという飼犬のエピソードで、最後にタロオは知人のAの所に貰われてゆく。
大寺さんがタロオを見たのは、それが最后である。タロオはその后十年以上生きていて死んだ。死ぬ前の頃は、歯も悉皆抜けて、耳も遠くなって、大分耄碌していたらしい。老衰で死んだのである。 その話を大寺さんはAから聞いた。 ーータロオが死んだとき、とAは云った。お知らせしようかなんて、うちで話していたんです。そしたら、奥さんがお亡くなりになったと云うんで、吃驚しちゃいまして…… ーーうん。 大寺さんの細君はその二ヶ月ばかり前に突然死んだのである。 (「タロオ」)
ここには「吃驚」の一語があるが、それは「大寺さん」のものではない。この短編で妻の死が持ち出されるのはこのときが最初で、そしてこれだけである。あと数行で、この小説は終わる。「……タロオをルック・サックに入れて持って来て呉れたTも、五、六年前に死んだっけ、と思った。そして、みんなみんないなくなった、と云う昔読んだ詩の一行を想い出したりした」。この幕切れは寂寞としてはいるが、哀しみと言うにはやはり妙に飄然としている。 「大寺さんもの」を通して、小沼丹は繰り返し繰り返し、幾つもの「死」を話題にする。それは疑いもなく作家自身が「身近な何でもない生活」の中で現実に出逢った「死」がもとになっている。要するに「大寺さんもの」とは、死をめぐる連作なのだと言ってもいいくらいに、そこでは死者たちの思い出が語られている。しかし、にもかかわらず、小沼の筆致はその点にかんしては、いや、とりわけそれに限って、只管に抑えられており、そしてその代わりに、彼の言う「何でもない生活」の周囲に、夥しい数の「吃驚」が配されているかのようなのだ。 だとしたら、これは、これもまた、一種の「お話」と言ってしまっていいのではあるまいか。小沼丹は「黒と白の猫」で変わったわけではなかった。彼の創意と技術は、むしろ以前よりも研ぎ澄まされていったのだ。小島信夫とは別の「方法」によって、だが底の底では極めてよく似た動機に突き動かされて、小沼は「大寺さん」というキャラクターを造り上げていったのではなかったか。その「動機」とは、受け入れ難いのに受け入れなくてはならない出来事を受け入れざるを得なかった、この自分を虚構化=小説化する、ということだった。 「大寺さんもの」の最終篇「ゴムの木」の終わりを引用して、本稿を閉じることにしたい。「黒と白の猫」が「黒と白の猫」のお話だったように、「タロオ」が「タロオ」のお話だったように、これは「ゴムの木」のお話である。
いつだったか、大寺さんの娘の秋子が、ちっぽけな男の子を連れて大寺さんの家に遊びに来たとき、何かの弾みで想い出したのだろう、 ーーウエンズさんに頂いたゴムの木、どうしたかしら? まだ、あります? と訊いた。 ーーあれだ。 と大寺さんが教えてやると、 ーーまあ、驚いた。あんなに大きくなったの……。 と眼を丸くした。大寺さんも何となくゴムの木を見ていたら、青い葉の傍に恨めしそうな眼があったから吃驚した。 (「ゴムの木」)
最後の「吃驚」に、わたしは思わず吃驚した。この「眼」はいったい何なのか、まったく説明はない。まるで「村のエトランジェ」の頃に戻ったかのようではないか。しかしこれ以降、小沼丹の小説は、ますますエッセイと見分けがつかなくなってゆく。彼は一九九六年、七七歳で没した。「ゴムの木」が書かれたのと同じ一九八一年、小島信夫は大作『別れる理由』の連載を終え、『女流』の続編である『菅野満子の手紙』の連載を始め、『美濃』を刊行した。小島は二〇〇六年、最後の長編『残光』を発表し、それから間もなく亡くなった。九一歳だった。
(初出:三田文学)
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汚部屋・ゴミ屋敷 片付け分別作業 仙台の便利屋ユナイテットサービス
汚部屋の片付け仙台
2019年1月、仙台市内で汚部屋片付けをお手伝いさせていただきました! 現場の画像はお見せ出来ないのですがい 引越に伴って部屋のゴミを片付けなくてはいけなくなったみたいなのですが物量が半端な量ではありませんでした雑誌等だけでも重量で2tオーバー、その他でも重量で2tオーバーでしたので1日目が6名、2日目、8名で運びし。 作業場で資源の分別作業が大変でした、女性チームには買い物や帰ってからやることがいっぱいなので男達だけで残業、みんな寒い中、腰にコルセットを巻きながら終わらせてくれました、ありがとうございました。 引越ゴミ・汚部屋の分別作業・ゴミ屋敷片付け・遺品整理・終活・お仏…
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汚部屋の片付けお手伝い・仙台の便利屋ユナイテットサービス
2020年8月8日は仙台市内にて汚部屋の片付けをさせていただきました!
家財道具はそのままで、ゴミだけを運び出し、少しはお部屋の居住スペースが広くなったので快適に過ごしていただけるかと思います。
引越ゴミ・汚部屋の分別作業・ゴミ屋敷片付け・遺品整理・終活・お仏壇ご供養・神棚ご供養・ご位牌ご供養・不用品回収・放置自転車等の撤去作業・お引越し手伝い・家電回収・家具移動・スズメバチの巣駆除・ハチの巣駆除 お困りの際は、仙台の便利屋ユナイテットサービスヘご相談下さい。 TEL0120-60-7744 県外からはTEL022-762-9855 営業時間9:00~18:00時 お気軽にご相談下さい
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お部屋のお片付けをお手伝い!仙台の便利屋ユナイテットサービス
2019年7月5日は仙台市内でお部屋に大量にため込んでしまった焼酎の紙パックとその他のお片付けをお手伝いさせていただきました。
焼酎紙パックはこのままではリサイクルできませんので注ぎ口のプラスチックをすべて取り除く作業が必要でしたので4人がかりで2時間作業でした。お客様もお部屋が綺麗になったので喜ばれていました。
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不用品回収仙台
ゴミ部屋片付け仙台
お汚部屋の…
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2019年5月10日は仙台市内で汚部屋のお片付けをお手伝いさせていただきました!
仙台汚部屋片付け
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ゴミ屋敷片付け仙台
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連休中もお仕事でした!仙台の便利屋ユナイテットサービス
2019年5月1日令和初日もお仕事でした、世の中10連休でしたがご予約いただいたお客様のお片付けをお手伝いさせていただいたので、1日まるまる休みは5月4日にお友達10人ほどで波乗りに行った一日だけでした、明日も午前中のみ現場です!新規のお問い合わせ受付しておりませんので7日以降にお問い合わせください。
不用品処分・仙台の便利屋ユナイテットサービス
家財道具一式片付け仙台
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仙台市内で汚部屋片付け作業!便利屋ユナイテットサービス
仙台汚部屋片付け作業
仙台市内で汚部屋片付け作業!便利屋ユナイテットサービス
2019年4月11日は仙台市内で汚部屋片付け作業でした! かなりいい感じでゴミやペットボトルなどが散乱していましたが7人で作業させていただき無事に終了しました。 今回は家具家電付きの物件でお掃除もホウキで掃くだけでOKでした!
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汚部屋の片付け・マンションリフォーム解体現場
汚部屋の片付け仙台
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リフォーム解体工事仙台
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2019年2月1日は仙台市内にお住いのご家族が認知症になってしまって、お部屋が大変な事になっていたらしく前日の1/31日にお電話いただいたのですが別の現場、仙台市青葉区内で遺品整理の現場があり8人で作業していたので、私だけ抜けてお見積り翌日の2月1日に作業する事に!
当初はご家族だけでお片付けしてみようとしたらしいのですが、物量的にはかなりありましたので難しいとご判断されてご依頼をいただきました!
現場は1ルームでしたが物量がありましたので女性スタッフを含めた5名での作業、最後に簡単なお掃除をさせていただき終了しました。あまりの速さにお客様に…
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お汚い部屋の一部お片付け作業・仙台の便利屋ユナイテットサービス
2019年7月31日は仙台市内でお汚部屋のお片付けをお手伝いさせていただきました!
今回は諸事情により人がお部屋に入ることになったので片付けをお願いしたいとのご依頼でした。
お客様のご予算的な事情でとりあえず人が作入れるだけのスペースを確保して作業終了でした。
引越ゴミ・汚部屋の分別作業・ゴミ屋敷片付け・遺品整理・終活・お仏壇ご供養・神棚ご供養・ご位牌ご供養・不用品回収・放置自転車等の撤去作業・お引越し手伝い・家電回収・家具移動・スズメバチの巣駆除・ハチの巣駆除 お困りの際は、仙台の便利屋ユナイテットサービスヘご相談下さい。 TEL0120-60-7744 県外からはTEL022-762-9855 営業時間9:00~18:00時 お気軽にご相談下さい
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マンションのお片付け作業・仙台の便利屋ユナイテットサービス
2020年12月17日は仙台市内にてマンションのお片付けをさせていただきました。 仙台市内は雪で積雪があり大渋滞でした、本来であれば30分ほどで現場到着するところですが80分ほどかかり現場到着! かなりの物量があるので7人で作業、渋滞の中トラックをピストンして何とか夕方までに終了しました、今回はご依頼主様は遠方なのでかわりに不動産販売会社様に立ち会っていただき作業完了 引越ゴミ・汚部屋の分別作業・ゴミ屋敷片付け・遺品整理・終活・お仏壇ご供養・神棚ご供養・ご位牌ご供養・不用品回収・放置自転車等の撤去作業・お引越し手伝い・家電回収・家具移動・スズメバチの巣駆除・ハチの巣駆除 お困りの際は、仙台の便利屋ユナイテットサービスヘご相談下さい。 TEL0120-60-7744 県外からはTEL022-762-9855…
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