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#民俗文物館
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Capítulo 1 Introducción: Sean bienvenidos japonistasarqueológicos a una nueva entrega síntesis en la que abordaremos  la transición del período Jomon al período Yayoi ¿Posible fusión cultural? dicho esto pónganse cómodos que comenzamos.  - El cultivo del arroz, entró a japón por desde Corea a través de la península de Kyushu,dicho periodo tuvo lugar en el siglo IV d.c y tardaría 800 años en extenderse por el resto de Japón, excepto Hokkaido( por la dureza del clima) - Según: “El  Museo Nacional de Historia Japonesa realizó una medición 1 de carbón vegetal adherido a la cerámica Yayoi y descubrió que el arroz más antiguo data del año 1000 (en 2002) - Fusión de la cultura Jomon y la cultura Izumo: El mito de los dioses Izumo que nacieron durante este período, están representados por Okuninushi dios de la tierra y Sukunahiko para el desarrollo de la vida. - Espero que os haya gustado y nos vemos en próximas publicaciones de japón, que pasen una buena semana.  - 第1章 はじめに 縄文時代から弥生時代への移行-文化的融合の可能性-」をテーマに、日本考古学者による新しい総集編をお届けします。 ということで、どうぞごゆっくりお過ごしください。 - 稲作は紀元4世紀に朝鮮半島から九州半島を経て日本に入り、800年かけて北海道を除く日本全国に広まった(気候が厳しかったため)。 - による。"国立歴史民俗博物館が弥生土器に付着した炭の測定1を行ったところ、最も古い米は1000年(2002年)に遡ることが判明した"。 - 縄文文化と出雲文化の融合:この時代に生まれた出雲の神々は、大地の神であるオオクニヌシと生命を育むスクナヒコに代表される神話であり、この神話に登場する神々は、縄文文化、出雲文化を融合させたものである。 - 次の日本語の記事でお会いしましょう。 - Chapter 1 Introduction: Welcome to Japanesearchaeology to a new summary delivery in which we will address the transition from the Jomon period to the Yayoi period. Possible cultural fusion? Having said that, make yourself comfortable and let's begin. - The cultivation of rice entered Japan from Korea through the Kyushu peninsula. This period took place in the 4th century AD and would take 800 years to spread to the rest of Japan, except Hokkaido (due to the harsh climate). - According to: “The National Museum of Japanese History conducted a measurement 1 of charcoal attached to Yayoi pottery and discovered that the oldest rice dates back to the year 1000 (in 2002) - Fusion of Jomon culture and Izumo culture: The myth of the Izumo gods who were born during this period, are represented by Okuninushi, god of the earth and Sukunahiko for the development of life. - I hope you liked it and see you in future posts from Japan, have a good week.
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followbnb · 11 months
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【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮
【 #鹿港民俗文物館 】| #漫遊鹿港古鎮 #鹿港 ,一個充滿歷史與文化的古鎮。在這裡,古樸的街道與現代的生活完美融合,每一個角落都有它的故事。而今天,我要帶大家去探訪一座獨特的建築 — #鹿港民俗文物館 。
鹿港,一個充滿歷史與文化的古鎮。在這裡,古樸的街道與現代的生活完美融合,每一個角落都有它的故事。而今天,我要帶大家去探訪一座獨特的建築 — 鹿港民俗文物館。 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 歐式建築的民俗文物館在古樸的鹿港中,顯得格外突出。原來,這裡本是當地富商顯榮的豪邸。如今,它成為了展示一系列特色文物收藏品的場所。這座建築分為A、B、C三館: 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮…
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wankohouse · 3 months
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栗浜陽三 (文・写真) 『九十九里浜』 より 雑誌MLMW (ムルム) No.5 (1978年5月号) 掲載記事
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栗浜陽三 九十九里浜(写真)
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栗浜陽三 九十九里浜(文・写真)
 
[上のページの画像から自動文字起こしをして、誤判読に気付いた所は修正したけど、誤判読が残っているかも知れない]
九十九里浜・しなやかな風景 写真と文 栗浜陽三 
九十九里浜が、何県にあるかを知らない人でも、その名の持つ雰囲気に、何か特別のイ メージをお持ちであろうと思う。太平洋に面した、その茫漠たる長い長い浜の風物は、浜というものが持つ様々の要素を凝縮させて、 我々の期待感や夢を満たしてくれるかのように思える。しかし残念ながら今では九十九里浜の魅力の殆どは、過去のものとなってしま った。一体、十数年前の、あの素朴で夢のよ うに美しかった九十九里浜は何処に行ってしまったのか。この僅か数年の間に、都会人の荒々しい神経で浜は汚され、美しい砂の起伏は姿を消し、近代化の手は浜に沿って長々とハイウエイを引いてしまった。九十九里浜にとって、全く無意味としか思えないこのハイウエイプランを耳にした時、私は自分の心の中の大切な部分を引きさかれる思いがしたが、土地の政治家というある人は、それは芸術的
↑栗浜陽三 九十九里浜(文)
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栗浜陽三 九十九里浜(写真)
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栗浜陽三 九十九里浜(写真)
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栗浜陽三 九十九里浜(写真)
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栗浜陽三 九十九里浜(写真)
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栗浜陽三 九十九里浜(文・写真)
 
[上のページの画像から自動文字起こしをして、誤判読に気付いた所は修正したけど、誤判読が残っているかも知れない]
しなやかな風景●九十九里浜
・・・は黒ダンの前袋の両脇から黒々と毛をかき出して男らしさを競ったといい、亦、漁から浜に帰って来る舟は、長い竿を舟の両側につき出して、その先に黒褌を結びつけ、尾長鶏の尾羽根のように海風になびかせてもどって来たと話してくれた。
私がせめて十数年早く九十九里を訪れていたら、目にしたであろうこれは誠に九十九里の匂いのする昔語りであった。 それでも私は消えてゆく残り火の色を見る ように、時折浜で数少ない漁師の浜仕事や、 女達のフラミンゴの踊るような鮮やかな作業っぷりを見る事が出来た。
度び重なる私の九十九里訪問につれて、私の仕事友達や学生達が浜を訪ねるようになり、若々しい彼等の裸身が浜をにぎわすようになった。彼等はアっと いう間に海風にやけ、町中まで褌姿でのし歩き地引網を楽しみ、九十九里独特の丸板の波乗りをし、別人のように生き返った。
私は丸裸で浜仕事をする漁師をたびたび目にしたが、 この風俗は戦後アメリカ人の手前禁じられてしまったその名残りであった。中年の漁師が性器の先をワラシベや布切れで結んで褌の代用としている様も、決して雑でも奇異なものでもなく、浜の風物の中ではごくノーマルに感じられた。これは海水に濡れたままの褌の不衛生さを彼等がきらったからだという。
浜の女達はよく働いた。小柄でたくましいマイヨールの彫刻のような彼女達は、舟を浜に 引き上げる時には男以上の働きを見せた。母 親の仕事を見ている少女の背中の、赤ン坊の顔には、一刷毛はいたようにウッスラと砂が乗っていた。
十年以上訪ね続けている私の目には、浜の舟の数が年々少くなって行くのがよく解った。最初一、二年の間、浜にそびえていた何艘かのK家の船もいつしか姿を消した。民宿が急激に増え、そしてドカンと音のするようにハイウエイが浜に沿って走り、浜と村を引きさいたのである。庭から海に裸で飛び出してゆけた私達もトンネルをぬけて海に出る為に廻り道をしなくてはならなくなった。浜は見る見る中にゴミが打ち上げられ、マイカーが波打ぎわを走りぬけ、ビーチパラソルが立ち、その下で一日中マージャンをするという馬鹿げた男達が東京からやって来た。日本人は本当のゼイタクの楽しさや味わい方を知らないし、知ろうともしない。なぜ九十九里に都会生活をそのままズルズルと引きづって来る必要があるのだろうか。彼等は潮騒をきく代りに、浜でトランジスタラジオをきこうとする訳なのである。民宿になった素朴な土地の家で、海の香りを味い、あるがままの九十九里の生活に思いきり身をまかしてこそ、本当のゼイタクの楽しさではないだろうか。ハイウエイは私如き人間の知らない理由で必要なのかも知れないが、その代り、日本一のあの美しい浜の風景は二度ともどってこないのである。
K家にはその頃四年程続けて、ある外国の大使館の青い目の客が来るようになった。映画スターのような見事な美女達であった。私の友人の若者達とこの美女達は、伸々打ちとけ合う機会がなかったのだが、ある日、彼女達がK家の前庭の椅子に腰をおろして読書を楽しんでいる最中に、この若者達が海からもどってきたのである。彼等はオイルで鋼のように輝く背中をみせてタオルやマットを干し始めた。その姿を一人のブロンド娘がしみじ ・・・
↑栗浜陽三 九十九里浜(文)
 
以上の写真と文は雑誌MLMW(ムルム) No.5 (1978年5月号) 掲載記事『九十九里浜』より
これらの文章を読むと、栗浜は性的にも、性的な物を離れても伝統を残したままの海やそこに���らす漁師を愛していたことが判る様だ。また、他の記事を読むと祭りについても性的にも、性的な物を離れても愛していたことが判ると思うよ。
栗浜のオリジナルは持ってないからウェブから集めた画像だけど、九十九里浜は良い画像がなかったんだ
一応拡大して補正はしておいたけど画質はちょっと残念だね
世間一般では本名の藤井千秋でイラストレーターとして有名な人なんだよ~
藤井千秋は画像検索したらいっぱい出てくるよ
2つの名前の作風の違いに驚くよー!
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fukagawakaidan · 1 month
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ)  五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた)  猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。  この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。  轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり��これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下)  家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね)  長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつ���されるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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ryotarox · 10 months
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((5ページ目)日本の宣伝デザインの源流にはナチスの影響が…!? 20枚の図版で振り返る“独自発達を遂げた日本製ポスター”の知られざる歴史 | 文春オンラインから)
伊原宇三郎《操縦 整備 通信 陸軍少年飛行兵》 1944年 国立歴史民俗博物館 H-966-4-1-2
戦時期には多くの画家が戦地に赴いているが、伊原にも陸軍嘱託画家として、南方に派遣された経験があった。このため、本作も「実体験」を踏まえたものと思われてきた。ところが、実態には広告専門誌の表紙を飾った、化粧品会社の広告《香水「飛行」》から、着想を得た作品であった。もっとも、後者が伊原にとって「使える」存在に映った背景には、従軍時に現地で目にした、「似た景色」が関係していたのは確かである。前者において上空を飛行するのは、「鍾馗」という愛称を持つ、陸軍二式単座戦闘機である。
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J.G.バラードっぽくて素敵。
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tokyomariegold · 5 months
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2023/12/25
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12:30新大阪     御堂筋線なかもず行 12:45心斎橋    長崎堂    ホテル
13:30ホテル 13:35堺筋本町     堺筋線高槻市行 14:09南茨木     大阪モノレール門真市行 14:24万博記念公園     徒歩 14:40国立民族学博物館
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16:25国立民族学博物館 16:42万博記念公園     大阪モノレール 16:44山田駅     阪急千里線天下茶屋行 17:26堺筋本町駅 17:29ホテル
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10:30ホテル 10:41堺筋本町駅     中央線コスモスクエア行 10:53大阪港駅 10:58大阪税関
11:27大阪税関 11:33大阪港駅 11:44本町駅    四つ橋線西梅田行 11:58西梅田 12:01梅田
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大阪に来ています。 体調とか心配事とかが多くて今回は帰るのが楽しみな大阪旅行になってしまった(よくない!)。 行きの新幹線で今日と明日のタイムスケジュールを立てて、そのまま名古屋から新大阪までずーっとうとうとしっぱなしだった(よくない!)。 せっかくの窓側の席を取ったのに。 そして年末のまずまず混雑する車内で、私の隣2席はずっと空席だった。
うとうとしながらあのちゃんのアルバムを聴いて、曲名はわからないけれどとてもポップで良い曲があった。
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新大阪駅から御堂筋線で心斎橋で下車。 地下鉄から大丸とPARCOに直結している!と訳もなく寄り道したくなってしまう。 大丸の前の道は歩道の工事をしていた。 東京もだけれど、大阪も至る所で工事をしていて、思った以上に万博ムードを高めるキャンペーンがされているようだった。
今回のお土産はここで買いたい!あわよくばクリスタルボンボンも…と調べていた長崎堂へ。名前の通りカステラが名物らしく、大阪なのに長崎…と、違う焼き菓子とクリスタルボンボンを購入。 クリスタルボンボン用の紙袋も入れてくれた。
一旦ホテルに荷物を置いて、万博記念公園へ向かう。大阪から1時間もかかるし、めっちゃ広いと聞いていたので予定を立てて疲れてしまいあまり気乗りせずだったけれど行って良かった。 地下鉄から阪急電車に乗り入れている路線で、京都まで行ける。京都・大阪・奈良・神戸などアクセスしやすい関西圏の感じがとても好き。それぞれに文化があって、ちょっと遊びに行ける近さが共存している。
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万博記念公園は��い子がたくさん下りるな〜、意外、と思っていたら、みんなららぽーとに吸い込まれていって今住んでいるアド街ック地獄を思い出した。でも観覧車のある超巨大!ららぽーとの様でバイキングもあった。 そして舞浜駅からディズニーランドの入り口までのペデストリアンデッキみたいな道から太陽の塔がずっといる。 モノレールの駅から高速道路を挟んだ向こう側が公園で太陽の塔がいる。「万博のために交通網が発達したのよ」と関西出身の職員さんが教えてくれた風景だった。
公園の中は人がとても少なくて、ところどころにあるスタンド型の飲食園の感じ(ちょっとおしゃれ風にしたクレープ屋、ベビーカステラ、タンドリーチキンなど)とか、ゴミ箱が大きい感じとか、なんか全然可愛くもおしゃれでも経年したレトロ感でもない、表面的な明るさと侘しさが西武遊園地と似ていた。
(もしかしたらあの時代のテーマパークは、大阪万博をお手本にしているのかも。) イベントスペースのラーメン博は、今日はお休みでただの白いテントの屋根だけが並んでいた。
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そしてお目当ての民俗学博物館はとても良かったです! 建物もメタボリズム的ユーモアと巨大なスケール感。大阪の友人が教えてくれた様に、とっても展示がたくさんあったので駆け足で鑑賞。いろんな民族の衣食住、ハレとケ、音楽、教育をみることができる。アーカイブの対象や展示方法が楽しい。 スイカの種とかカレンダーとかあらゆるパンとかさまざまな用途のカゴやパンの焼印など。 友人にポストカードを送ろうと物販コーナーへ。 オリジナルグッズに後ろ髪引かれつつタイ族のポストカードを購入。
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そのままサクサクと太陽の塔と月とお祭り広場を眺めつつホテルへ戻った。博物館はまた行こう。
“名建築で昼食を”と“わたしの一番最悪な友達”のロケ地の建物が近くにあり、お散歩がてら行ってみる。生駒ビルディングと青山ビル(市川実日子のクリーニング屋さん)と綿業会館。途中、川のほとりでイルミネーションが開催されていて、BGMにももクロのサンタさんが流れて楽しくなって写真を撮った。知らない街だから夜もフラフラ歩けてしまう。(だからやっぱり住んだりしない方が良いのかな。)
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コンビニを梯子して食事を用意してホテルでこれを買いています。明日無事帰れて、なるべく健康でいられます様に。 12階のホテルの窓が開けられず息苦しい。 大阪でも月ばかり撮ってしまった。
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catonoire · 5 months
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琴平町立歴史民俗資料館
こんぴら歌舞伎を観るため香川県琴平町を訪れた折、琴平町立歴史民俗資料館へ足を運んだ。旧金毘羅大芝居(金丸座)の跡地にあり、琴平町やこんぴら歌舞伎の歴史資料を展示している。展示内容は正直なところ雑然とした印象ではあったが、このご時世、歴史資料をちゃんと屋内に保存・展示する姿勢があるだけでも、資料を長らく屋外に放置していたどこぞの自治体などよりよほど立派である……とも言えるかもしれない。こんぴら歌舞伎関連の文物など、ここにしかない資料もたくさんあるはずなので、散逸しないようどうか頑張ってもらいたいと思う。
四国の道はこんぴらさんに通ず。土佐・伊予街道、阿波街道、高松街道、丸亀街道、多度津街道が図示されたパネルは、下のボタンを押すと当該の街道が光るようになっている。
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こんぴらさんへの道に立てられた丁石が奥に展示されている。手前にこんぴら歌舞伎の出演者の名を書いた札や寄せ書き。
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金毘羅行人と呼ばれる天狗の道者。キャプションによれば施米を集めてまわる宗教者とのこと。背中に天狗のお面を背負っている。広重の浮世絵にも描かれているとは知らなかった(下の浮世絵のいちばん左端の人物)。
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昔の道具類など。
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全体的に、こんぴら歌舞伎関連の資料が多い。過去の公演ごとの寄せ書きや着到板が無造作に(ほんとうに無造作に!)並べられている。
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連獅子の絵提灯、勧進帳の絵提灯、中村富十郎の名入りの提灯。
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旧金毘羅大芝居の客席の天井に張られていた花丸絵板。
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役者が空中で演技をするのを宙乗りというが、そのための舞台装置「かけすじ」の仕組み。この展示を見ただけではあまりピンとこなかったが、あとで実際にこんぴら歌舞伎で宙乗りを観て(仕組みがあまりにもおもしろいので役者さんより黒衣さんに目が向いてしまった)、この写真を見直して、ようやくなんとなく少し��かったような気もしないでもない。ともかく図解されているのは良いことである。
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第三回こんぴら歌舞伎のときの舞踊劇「屋敷娘」。筋書(パンフレット)に讃岐うどんの広告があるのがいかにもという感じでよい。
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第一回こんぴら歌舞伎での演目のひとつ、「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」の看板絵。清弦と桜姫の物語。中村吉右衛門、澤村宗十郎、澤村藤十郎という、垂涎の座組。
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十七代目中村勘三郎の描いた「三茄子」。
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芝居小屋の構造を写真で紹介。
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金丸座の看板。
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金丸座では富くじが売り出された。富札を売り、当選者に当選金を払い、経費を差し引いた残りが胴元の収入となった由。
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kensasuke23 · 1 year
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奥会津地方の施設間連携企画展「奥会津の縄文」。先月は7施設中3施設を巡りました。今日は残りの4施設を。
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まずは昭和村の縄文土器。からむし工芸博物館で。
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次に金山町の縄文土器。金山町歴史民俗資料館で。
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続いて三島町の縄文土器。三島町交流センター山びこで。
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最後に柳津町の縄文土器。やないづ縄文館 土器とくらしのミュージアムで。
いろいろ見て回って来ました。
さすがに疲れましたが、楽しかったですね。
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nekotubuyaki-blog-blog · 11 months
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「国立歴史民俗博物館」と「くらしの植物苑」(20231022)
先日、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(通称:歴博 https://www.rekihaku.ac.jp )に行ってきました。今年になってから11度目の歴博訪問です。広い館内に盛り沢山の展示で、何度行っても飽きることがありません。また、併設されている「くらしの植物苑」( https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/plant/index.html )も散策しました。写真はその時に撮影したシュウメイギクです。
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japan-dramangastery · 8 months
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集英社的漫画杂志02(青年向)
本篇聊聊集英社青年向的漫画杂志。
ウルトラジャンプ(Ultra Jump)
週刊ヤングジャンプ(周刊 Young Jump)
グランドジャンプ(GRAND JUMP)
グランドジャンプPREMIUM(GRAND JUMP PREMIUM)
グランドジャンプめちゃ(GRAND JUMP めちゃ)
ビジネスジャンプ(BUSINESS JUMP)
スーパージャンプ(Super Jump)
ミラクルジャンプ (Miracle Jump)
漫革
ウルトラジャンプ(Ultra Jump)
发行时间:1999年10月19日(1999年11月号) -
漫画类型:青年漫画
发行日:每月19日
简称:UJ、ウルジャン
增刊:『ウルトラジャンプエッグ』 (Ultra Jump Egg)
代表作:IT,ジョジョの奇妙な冒険 Part8 ジョジョリオン、快傑蒸気探偵団、王国物語、銀河英雄伝説、終末のハーレム ファンタジア セミカラー版、もののがたり等等。
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1995年出版的双月刊『ヤングジャンプ超増刊ウルトラジャンプ』,随后变更为月刊,99年分离独立创刊。存在网络增刊『ウルトラジャンプエッグ』 (Ultra Jump Egg)。
週刊ヤングジャンプ(周刊 Young Jump)
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发行时间:1979年5月 -
漫画类型:青年漫画
发行日:每周四
简称:ヤンジャン、YJ
增刊:漫革→月刊ヤングジャンプ→ミラクルジャンプ
代表作:東京喰種、诈欺游戏(ライアーゲーム)、工薪男金太郎(サラリーマン金太郎)、心魔大審判(スカイハイ)、HOTMAN(ホットマン)、ミステリー民俗学者 八雲樹、夜王、(81diver)ハチワンダイバー、妖精的旋律(エルフェンリート)、GANTZ,Real(リアル)、王者天下(キングダム)、黄金神威(ゴールデンカムイ)、噬谎者(嘘喰い)、我推的孩子(【推しの子】)、BUNGO―ブンゴ―等等。
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『WJ』的二代目总编辑中野祐介担任创刊时的本杂志的总编辑,是目前发行时间最长的周刊青年漫画杂志。虽然集英社在1969年出版过青年漫画杂志『ジョーカー』(Joker),但是半年后就休刊了。十年之后集英社才再度创刊青年漫画杂志。杂志名来自于当时『WJ』的新人漫画赏的名称。
创刊时的编辑政策是「从(涉及性的)爱、暴力和权力中解放出来」(「(性を内包した)愛・暴力・権力(からの解放)」)。这是一本继承了「WJ」的三大方针:友谊、努力、胜利,并以脱离少年漫画框架、自由度高的青春杂志的描绘内容为出发点而诞生的作品的杂志。这个编辑政策的想法是认为:这是每个十几岁到二十岁出头的目标读者都面临的障碍。
虽然和『WJ』同属Jump家族的杂志,但在集英社内部双方是竞争对手,基本上不参与彼此的编辑政策或宣传。”
90年代开始,大多数封面是『凹版偶像写真』。除了漫画之外,该杂志还包括凹版印刷、包袋装订以及音乐家采访。此外,广末凉子出道后立即进行了凹版印刷,有力地支持了广末凉子从1996年左右开始的流行。正因为这种信任关系,1998年,当媒体忙着采访广末关于他即将就读的大学名称时,「YJ」是唯一发表广末表达自己感受的文章的杂志。
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グランドジャンプ(GRAND JUMP)
发行时间:2011年11月16日 -
漫画类型:青年漫画
发行日:每月第1,第3个周三
简称:グラジャン、GJ
增刊:『グランドジャンプPREMIUM』 (GJP)
代表作:江戸川乱歩異人館、甘い生活、不能犯、不倫食堂等等。
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2011年休刊的『ビジネスジャンプ』 (BJ) 和『スーパージャンプ』 (SJ)的后继杂志,标语是“一本坚定不移的年轻人成人漫画杂志。
グランドジャンプPREMIUM(GRAND JUMP PREMIUM)
发行时间:2011年12月21日 - 2018年10月31日
漫画类型:青年漫画
发行日:月刊 → 双月刊(偶数月第4个周三)
简称:GJP
代表作:欲望的种子(エロスの種子)、接下来是伦理课(ここは今から倫理です。)、もっこり半兵衛等。
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『GJ』的增刊号,创刊时为月刊。2014年7月号改成了双月刊,同时还收到了休刊的『ジャンプ改』 (JX)的一部分作品。2018年11月号停刊,连载作品转移到『グランドジャンプめちゃ』上,
グランドジャンプめちゃ(GRAND JUMP めちゃ)
发行时间:2017年11月29日 -
漫画类型:青年漫画
发行日:双月刊(奇数月第4个周三)
简称:めちゃ
代表作:金魚妻、エロスの種子等。
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主要发布「性感系」(「セクシー系」)的作品。
ビジネスジャンプ(Business Jump)
发行时间:1985年7月 - 2011年10月
漫画类型:青年漫画
发行日:半月刊(每月第1,3个周三)
简称:BJ、ビージャン
代表作:ONE OUTS、怨み屋本舗系列、警視総監アサミ カラー版、甘い生活、嬢王、イエスタデイをうたって等。
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1985年7月以月刊形式创刊,从1986年3月起每月出版两期,2011年10月5日发行第21期和第22期合并后停刊。2011年与『SJ』合并为『GJ』和『GJP』。
スーパージャンプ(Super Jump)
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发行时间:1986年12月20日(1986年創刊号) - 2011年11月9日(10月12日発売号)
漫画类型:青年漫画
发行日:半月刊(每月第2,第4个周三)
简称:SJ、エスジェイ
代表作:狂四郎2030、拳王创世纪2(リングにかけろ2)、 仁医(JIN―仁―)、王牌酒保(バーテンダー)、人事課長鬼塚、国王的裁缝师(王様の仕立て屋~サルト・フィニート~)、ビン~孫子異伝~、ゼロ THE MAN OF THE CREATION、江戸前鮨職人 きららの仕事等
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创刊号名是『週刊少年ジャンプ 1986年12月20日増刊号』,1988年1月号独立创刊,是月刊。1991年7月号改为半月刊。
ミラクルジャンプ (Miracle Jump)
发行时间:2011年1月13日 - 2017年2月28日
漫画类型:青年漫画
发行日:月刊
简称:MJ
代表作:かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ カラー版、レトルトパウチ!、茉莉(ヤスミーン)等。
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2011年1月13日以双月刊形式发行,被认为是『WJ』的增刊。主题是「科幻与奇幻」。它沿袭『漫革』和『MJ』的流程,与这些杂志一样,它也有『WJ』作品的番外篇,以及单篇漫画和海报插图。2017年2月28日发行3月号,据称是为了「续订收费」,再次休刊。
漫革
发行时间:1994年 - 2008年
漫画类型:青年漫画
发行日:年6回刊
代表作:あい。番外編、スカイハイIV<FOUR>、タフ外伝 OTON―おとん―等。
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『漫革』是『YJ』的增刊。2008年1月7日发售的62号是最后一期。主要刊登的漫画内容包括:本刊人气作品的外传、番外篇;本刊连载结束的做假的新单篇作品或连载作品的外传、番外篇,本刊转移过来的作品、「MANGAグランプリ」、「金のピコピコハンマー賞」获奖作品等。
(集英社青年向篇 完)
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gupaooooon · 1 year
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2023年9月1日、関東大震災から100年、虐殺から100年
東京都/小池百合子による7年に渡る追悼拒否に加え、都の“人権部”が虐殺の歴史に関わる作品を検閲/弾圧し始めた……という最悪な所業。
今年はそこに更に、東京都がヘイト団体にお墨付きを与え、日本政府/岸田政権そのものが虐殺の歴史と記録を否定しだした。公権力による、歴史修正/公文書否認が、ゼノフォビアが、より一層、悪化している。
大手メディアも、今起きている“公人”“公権力”による差別扇動と歴史否定については……はっきり報じない/批判的に触れない媒体ばかりであるのが(きちんと報じているメディアもあるが、やはり少数派で、WEBのみに留まったりする傾向がある)ゾッとする。その不均衡に、沈黙に、怒りしかない。しんどい。
大震災から100年、虐殺から100年。記事や動画、展覧会や書籍の情報などを、Tumblrでも共有/記録。
・TBS報道特集「朝鮮人虐殺はなぜ起きた」(23/09/09)
youtube
23.09.18にこの特集全編のURLを追記。
・関東大震災100年 流言による惨事は"過去のこと"か |NHK解説員室(2023/08/21)
「1923年9月1日に発生した関東大震災は激しい揺れに加え、大火災が東京東部や横浜の市街地の大半を焼きつくし、死者10万5000人という未曽有の災害になりました。その混乱のなか多くの朝鮮半島出身者が殺害されました。きっかけは地震の直後から流れた流言、いわゆるデマでした。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「2000人の朝鮮人が武器を持って襲ってくる」など根拠のないうその情報が広がりました。」
「殺害された人数はわかっていませんが、国の中央防災会議がまとめた報告書は「千人から数千人に上る」と推定しています。この中には中国人や朝鮮半島出身者と間違えられた日本人も含まれています。」
「コロナ禍でも外国人などへの攻撃がネットなどで横行したことがわかっています。」
ここ数年内に日本国内で起きているヘイトクライム、排外主義とゼノフォビアも取り上げている記事です。
・Radio Dialogue 125 ゲスト:飯山由貴さん「関東大震災から100年」(2023/8/30)
・ヘイト団体があえて朝鮮人虐殺追悼碑の前で「慰霊」集会を開く構え 政府、東京都は見て見ぬふりのナゾ(2023/09/01)
「1923年の関東大震災時のデマにより殺害された朝鮮人犠牲者の追悼碑がある横網町公園(東京都墨田区)で、3年前に都にヘイトスピーチ発言を認定された団体が、きょう9月1日にこの碑の前で集会を行うと公表した。
ヘイトが起きる恐れがあるとして、公園の利用制限を求める抗議声明も相次ぐが、都の対応は鈍い。国や行政が虐殺の史実と向き合わないことが、足元の差別をあおる状況を招いている。」
・漫画 「追燈 / 追燈 - 岡田索雲 」| webアクション 、無料公開
・国際シンポジウム「関東大震災の朝鮮人虐殺から100年 レイシズムと歴史否定を考える:国連特別報告者を迎えて」(2023年8月11日東京大学) アーカイブ
youtube
・特集「関東大震災100年。朝鮮人虐殺の実態とその教訓」加藤直樹×新井勝紘×荻上チキ×南部広美(2023/09/01)
・高麗博物館【関東大震災100年展】7月5日(水)~12月24日(日)
・東京大学韓国学研究センターからの声明
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ncybh-eg · 1 year
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自分の投稿を読み返していて「デート用の靴がある長義」に自分で萌えている。
また縁があってミュージカルを一度観たところ、長義に関しては「似てるな……(?)」という神妙なしみじみが強かった。
めちゃくちゃ似てた。あと第二部の衣装は第一段階が個人的には一番好きだった。
衣裳の好みとは別に、第二部の第一段階衣装がはじめ白衣を羽織っているように見えてそれはそれとして当時すごく動揺した。
現代で外科医かその研修医をしている長義の概念がめちゃくちゃ好き。
民俗学に興味を持ってポスドクをやってる長義も好き。愛車で全国を走り回って自分の足で村や現地の記念館だとか資料館をまわって、聞き込みをして、図書館に寄って、帰りにSAでコーヒーを買ってぼんやりしている。
国広くんは何かの操縦か物作りをしているのが好き。
あとは星だとか宇宙や自然だとか、そういうものに些細なきっかけで興味を持って、ひとりで長年懇々と知識を深めている印象もある。誰かが気がつくときにはそういう知識も物作りの技術もえらいことになっているような。
国広に近しい人たちはそれを面白くて素敵なところだなと思っていて、長義は悔しいけど好きなところだと思いそうな印象。
長義は生死とか文化とか概念的なところに確実な知識を積み重ねて自分なりに推察したり結論を探しに行こうとしているのが似合うと思っていて、国広くんに関しては楽しいとか好きよりも手前で琴線にひっかかったものへ、実際に手を動かして生活の中で親しんでいくのが似合うと思っているのかも。
それがそれぞれの人生の歩き方や走り方そのものにいつの間にかなっていって、どこかで互いのそれを認識したとき憧れに近いものを抱く瞬間がありそう、と思う。今のところ。
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shokobekki · 2 years
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【日記】
友人が勧めてくれた川越宗一の『熱源』は読了し、今は実家へ回っている。明治初期、大国の狭間で消されゆく樺太アイヌの青年と、ポーランドの青年、二人の人生を軸に、物語は進む。淡々と展開する歴史小説だけど、個人的には、夏の北海道旅やゴールデンカムイの延長あるいは歴史背景として楽しめる部分があり、話はどこか現代に通じるような所もあり面白かった。西洋文明をよしとしそうではないものを下等、野蛮とみなすことの傲慢。無垢な人々から巻き上げたもので学問をし博物館に陳列するというどこか権威的な行為。生まれついた所や行き着いた場所でプライドを失わず生きるということ。これが使命と信じてやり続けること。強さ、美しさとは… 。読みながら、色々なことを思った。
先月の"100分de名著" 『アイヌ神謡集』も、とても面白かった。これは、音で聴けたのが大きい。独特の世界観。この日本列島に、ずっとずっと昔から住んでいた、文字を持たなかった人々の伝承。ほんのかけらであれ、とても貴重で、また新鮮だ。本来なら、耳から入ることばなのだろうけど、ときには物的に残し伝えることも大切だろう。一冊手元に置いておこうと思う。今は岩波文庫の赤(海外文学)に入っている。いつかこれが緑か黄(日本文学)に変わる日が来るんだろうか。まあ、紙の書籍というものがまだ存在していればの話だけど。 アイヌ出身の著者知里幸惠は、慣れない東京の地で、この日本語ローマ字対訳のカムイユカルを書き切って、心臓が弱かったこともあり、19歳で亡くなったという。北海道で、民俗学者金田一京助と出会ったこと、これを書いたこと、きっと何かの宿命だったのだろうな。関東大震災の一年前か。お墓など、どうされたんだろう。郷里には帰れたのかな。 そう言えば、もう30年以上前に北海道に家族旅行をしたとき、層雲峡のアイヌコタンで、不思議なお祭のようなものを見た。松明のともる広場で、アイヌの人々が、"チャーハナ、ンーンン"などと繰り返し歌いながら輪になって踊っていた。観光客向けだろうけど、夜で、ちょっと怖かったのを憶えている。あれも何かの神謡だったんだろうか...。
今月の100分de名著は折口信夫の「古代研究」か。これも面白そうなので録画してある。折口信夫というと、私は「石に出で入るもの」という好きな著作がある。山に行けない雨の週末にでも、100分まとめ見しよう。
今月から、アニメ版金カム第4期も始まったので、こちらもひとまず録画。狂気の脱獄囚たちの物語や、札幌ビール工場の騒動が、動画ではどんなふうに描かれるのか、また、作中最も文学的なキャラクター(と私は勝手に思っている)尾形百之助の復活と、珍しくたくさん喋るシーンがどんな風になるのか、今から楽しみ。4期はまだそこまでは行かないかな? 妙にTV・漫画づいている近頃です 笑。
秋は時折、ものすごく光と空気が良いなあという日がある。 何か大きなものが満ちて、やがて眠りについていく、その過渡期だからかな。 最後の写真は、最近県境近くの山に行った折に見かけた三ヶ日の山間。今、道沿いは、柿の直売真っ盛りで、畑の木々はみかんの実がたわわだ。はざかけが美しく並んだ田んぼも壮観。収穫期の農村はとても忙しそうで、でも明るく、静かで、豊かな感じ。
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msgmzh · 2 months
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埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会 講座
【テーマ】竹籠づくり その意外な近現代の姿
【講師】 服部 武 氏 (企画担当 主任学芸員)
【日時】 2024(令和6)年8月7日(水)13時30分~14時30分 【場所】 埼玉県立歴史と民俗の博物館・講堂
メモ
・そうき・ショーギ(竹へんに八月+箕)米研用笊 ソーキそばのソーキはあばらがそうきに似ているから
・木の桶はハイテクのため、江戸時代以降、庶民に普及
・開港後、横浜で石炭を運ぶためのパイスケ(バスケット)の需要があり、鎌倉や静岡、習いに行って蕨市でも作っていた。
・武蔵野美大で籠が見られる
・人造大理石を作っていた会社がぜいたく品ということでつくれなくなっていたところ、日本通運から竹製コンテナを作ってもらうよう話があり浦和・大宮で作成。今の(株)サトー
(株)サトーのHPより 1940佐藤 陽、埼玉・浦和で竹材加工機の製造を開始 1951埼玉・大宮で株式会社佐藤竹工機械製作所を設立
・武士は傘張りだけでなくて竹籠も内職していた。
・江戸時代の資料 甲子夜話(かっしやわ)、江戸砂子(えどすなご)
・ウイーン万博で竹細工が展示、輸出増。各地の竹使用も不足。有馬竹細工、信州篶竹細工など売れる。しかし昭和20年頃花が咲いて竹が全滅
・埼玉では赤山籠というのがブランド品だった。
・明治6年の地租改正で農家が副業をはじめる。籠つくりも。
・ステカゴという今の段ボール代わりの籠を農家副業で作った。竹の実のほうで作り、強度弱いもの。
・県が事業税をかける(昭和25年)、昭和30年にプラスチック、昭和40年に苦竹(真竹)の枯死、工場勤めで現金収入入るなどで廃業へ
・型枠や竹割機など導入され、大量生産するなどちょっと工業化したこともあった。昭和22年、(株)サトーが竹はぎ機つくったり。
・その頃のウレタン?の機械を日高の新井さんがまだ使っている
・今、各地で講習会などで竹籠作り、エコとかSDGsの流行(?)のようだが、以上の歴史ありとのこと。
以上(個人の記憶に基づくメモです。)
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yotchan-blog · 2 months
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2024/8/8 12:01:05現在のニュース
出征前日に父は何を思ったか… 奈良・民俗博物館が「戦時下のくらし」を展示([B!]産経新聞, 2024/8/8 12:00:23) 奈良大文字送り火、15日に開催 慰霊祭に一般参列可([B!]産経新聞, 2024/8/8 12:00:23) イスラエル不招待に長崎市長「政治的理由でない」 対応は変更せず | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/8/8 12:00:07) 31歳で逝ったセッター 藤井直伸さんから受け継いだ関田誠大の速攻(朝日新聞, 2024/8/8 11:59:14) ベニズワイガニとシロエビ漁獲減に能登地震の影響、富山県が調査(朝日新聞, 2024/8/8 11:59:14) 長崎市長「政治的理由でない」イスラエル招待見送り 大使側にも説明(朝日新聞, 2024/8/8 11:59:14) 国家公務員の月給、2.76%引き上げを勧告 32年ぶりの高水準(毎日新聞, 2024/8/8 11:58:11) 岸田首相の中央アジア・モンゴル訪問を正式発表 経済協力を推進(毎日新聞, 2024/8/8 11:58:11) 警察署で「エアコン故障中」 蒸し暑さで、留置場の容疑者も移送(朝日新聞, 2024/8/8 11:52:07) 「美しすぎる」SNSで話題、隠れた巨匠の人形たち 31体が奈良に(朝日新聞, 2024/8/8 11:52:07) 長崎市長、イスラエル不招待「変更ない」 原爆の日式典 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/8 11:48:41) 「銀」以上確定の日下尚「うどんパワーで耐え抜いた」…香川出身で好物のうどんをパリにも持ち込む([B!]読売新聞, 2024/8/8 11:48:29) 小林製薬社長ら15時半から会見 4カ月ぶり、厳しい批判に何を語る(朝日新聞, 2024/8/8 11:44:48) 都知事選の選挙ポスター問題 内容規制よりも立候補の推薦署名制度を(朝日新聞, 2024/8/8 11:44:48) 9条改憲、8月末までに論点整理 首相、自衛隊を「しっかり明記」:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/8/8 11:42:54) 香港、「デモ隊は暴徒」刷り込み 国安教育施設オープン - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/8 11:36:14) 利上げ強行、よぎる24年前の勇み足 十字路 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/8 11:36:14) 世代を超えて愛されるロングセラー 「ギョニソ」が復活の兆し(毎日新聞, 2024/8/8 11:36:13) 大阪の夫婦を恐喝容疑で逮捕 夫が「不倫やぞ」と慰謝料要求(毎日新聞, 2024/8/8 11:36:13)
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kennak · 2 months
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諸説あるようです。 江戸時代、将軍に謁見できない「御目見(おめみえ)以下」である御家人のことをからかって、 旗本の子が「以下」と言ったことに対して、御家人の子が「タコ」と言い返したことからきた、 という説などが確認できました。 1 「以下」に対して「タコ」と言い返したことからきたという説について    下記(1)の図書に詳しく書かれていました。    「タコ」と言い返した話の出典は(2)のようです。    また(4)にも類似したエピソードが載っています。  (1)『知って合点江戸ことば 文春新書』 大野敏明/著 文藝春秋 2000.12    p.32~35 似ていなくても「タコ」    「旗本の子どもたちは御家人の子どもたちをからかって「以下」という。」    「御家人の子どもたちも」(中略)「旗本の子どもを「このタコ」と言い返す」    「それが転じて、身分の上の人をあざけって「タコ」「タコ野郎」というようになり、    江戸一般の罵倒語になっていった」     続けて『半七捕物帳』の「朝顔屋敷」が紹介されていたため、(2)を確認しました。  (2)『半七捕物帳 巻の1』 岡本綺堂/著 筑摩書房 1998.06    「朝顔屋敷」p.325    「大身の子は御目見以下の「以下」をもじって「烏賊」と罵ると、    小身の方では負けずに「章魚」と云いかえす。」  (3)『武士語でござる』 八幡和郎/監修 ベストセラーズ 2008.6    p.166に(1)とほぼ同内容の記述があります。    巻末の参考文献一覧に(1)も掲載されており、(1)を参考にしたものと思われます。  (4)「故郷七十年」『柳田国男全集 第21巻』 柳田国男/著 筑摩書房 1997.11    p.217に、養家の祖母から聞いた話として、類似のエピソードが紹介されています。    「養家の祖母の話に、身分のある侍の奥方たちが、以下の細君が来たのを見て    「以下だ、以下だ」と蔑んだところ、相手は「タコとは申しません」といって    逆襲したということであった。」 2 坊主の蔑称という説について    参考図書コーナーの辞典類を確認したところ、    悪口としては、坊主の蔑称という意味が複数の辞典に載っていました。      (1)『日本国語大辞典 第8巻(せりか-ちゆうは)』     日本国語大辞典第二版編集委員会/編 小学館 2001.08    p.883 たこ 【蛸・章魚・鮹】    (剃りあげた頭が蛸のようであるところから)「坊主をさげすんでいう語」    古いものでは1776-1801年の用例が掲載されています。  (2)『江戸語大辞典』 前田勇/編 講談社 1974.11    p.598 たこ(蛸)「坊主の蔑称」  (3)『大阪ことば事典』 牧村史陽/編 講談社 1979.7    p.405 タコ(蛸) 「蛸坊主の略。坊主の卑称。」 3 その他の説について    今回の調査では、ほかに下記の(1)(2)が見つかりました。    信憑性についてはどちらもただし書きがついています。    辞典類では、2で挙げたもののほか、下記の(3)(4)などに悪口としての    意味が載っていましたが、理由については書かれていませんでした。  (1)『ことばの動物苑 日本語になった動物たち』     ことば発掘探検隊/編 実務教育出版 1997.09    p.156 タコ    「相手を蔑む言葉。タコが空腹になったときに、自分の足を食べてしまうという俗説      から(中略)あるいは単純なシカケ=漁具(蛸壷)などで捕らえられてしまうからな      のか。」     ※「ほんとうのところはよく分かっていない。」とも書かれています。  (2)『20世紀死語辞典』 20世紀死語辞典編集委員会/編 太陽出版 2000.12    p.88 タコ    「人を罵倒する時に使う。「このタコ!」。もとは「下手くそ」の意味で、ゴルフから      きた。ゴルフで1ホールで8打もする人間を「タコ」、10打も叩く人間を「イカ」と      呼ぶ。」     ※冒頭に「使用上の注意」として「主観のままに書き連ねてあります」と書かれて        います。  (3)『日本俗語大辞典』 米川明彦/編 東京堂出版 2003.11    p.339 たこ(蛸)     「嫌な男性、不細工な男性などを罵って言うことば。関西のことば。」  (4)『淡路ことば辞典 じょろりでいこか!』     岩本孝之/著 神戸新聞総合出版センター 2013.10    p.216 たこ     「足手まといになって厄介者扱いされる者。変わった奴。」 4 タコという言葉について    下記の2冊には、悪口として使われる理由は載っていませんが、    タコと言葉に関する記載がありましたので、参考としてご紹介します。  (1)『タコと日本人 獲る・食べる・祀る』 平川敬治/著 弦書房 2012.5    p.135~144「タコと言葉」     蛸足、蛸配、蛸部屋など、タコにまつわる言葉について書かれています。  (2)『タコは、なぜ元気なのか タコの生態と民俗』 奥谷喬司/編著 草思社 1994.02    p.44~46「タコを冠する ことばとことわざ」     タコ坊主、タコ入道をはじめ、     野球用語のタコ(「骨抜きにされた状態をタコにたとえたとするのが妥当であろ       う」)など、タコに関する言葉やことわざについて書かれています。    はじめに p.11    「愛嬌よりもとんまの面が強調されると、「このタコ!」と相なる。」    あとがき p.138    「タコという言葉、タコのイメージは豊かで同類のイカではこうはいかない。」    「「このタコ!」とやられはするが、何やら落ち込み方がいまひとつだ。」 5 その他の主な確認資料  (1)『罵詈雑言辞典』 奥山益朗/編 東京堂出版 1996.06    p.162 (「ずくにゅう」の項)     たこ入道 「坊主頭で太った人を嘲って言う言葉。「たこ入」とも言う。」  (2)『全国アホ・バカ分布考 新潮文庫』 松本修/著 新潮社 1996.12    p.219 「タコ(蛸)」が使われる地域として、長野・三重が掲載されています。  (3)『悪口冗談じてん』 山名正太郎/著 蒼洋社 1987.6  (4)『日本語は悪態・罵倒語が面白い 光文社知恵の森文庫』 長野伸江/著 光文社     2018.3  (5)『方言俗語語源辞典』 山中襄太/著 校倉書房 1970.4  (6)『かがやく日本語の悪態』 川崎洋/著 草思社 1997.05  (7)『悪態採録控 ちくま文庫』 川崎洋/著 筑摩書房 2012.11  (8)『賞賛語(ほめことば)・罵倒語(けなしことば)辞典』 長野伸江/著 小学館 2005.7  (9)『蛸 ものと人間の文化史』 刀禰勇太郎/著 法政大学出版局 1994.02  (10)『タコは海のスーパーインテリジェンス DOJIN選書』 池田譲/著 化学同人    2020.12  (11)『タコの知性 朝日新書』 池田譲/著 朝日新聞出版 2020.4  (12)『日本のタコ学』 奥谷喬司/編著 東海大学出版会 2013.6
悪口で「タコ」と言うのはなぜか。 | レファレンス協同データベース
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