#民俗文物館
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📍Macau Museum 澳門博物館
This museum is located in the centre of the Mount Fortress and consists of three floors (the first two underground and the third above the Fortress). It exhibits the history and folk culture of Macau (including Taipa and Coloane).
此博物館位於大炮台中央,共三層(首兩層在炮台地下,第三層在炮台上)。展示了澳門(包含氹仔和路環)的歷史與民俗文化。
P2: Stone tools unearthed at the Hác-Sá site. The archaeological discovery of the Hác-Sá site represents a major breakthrough in the understanding of rotary machinery in the history of Chinese science and technology. The Hesha Jade Workshop has also become an important milestone in the history of Chinese jade craftsmanship.
P2:黑沙遺址出土的石器。黑沙遺址的考古發現,代表着中國科技史上旋轉機械認識的重大突破。黑沙玉作坊也成為中國古玉工藝學研究史上重要的里程碑。
The reconstruction of the manufacturing process of rock crystal ornaments 4,000 years ago
復原4,000多年前水晶飾物製作的完整流程
Establish a rotary machine, used in the manufacture of rings and earrings in rock crystal
發現環玦管鑽加工轆轤機械
P3: Kraak Porcelain found in Macau (Kraak porcelain: Chinese blue and white porcelain shipped to Europe by galleon at late Ming Dynasty). This is an evidence that Macau was a major transit point for the early porcelain trade from East to West.
P3:澳門發現的克拉克瓷(明末由大帆船運至歐洲的中國青花瓷器),證明澳門是東西方早期瓷器貿易的重���中轉站。
P4: Bell of St. Paul’s 聖保祿大鐘
P5~P6: Macau Houses in Various Styles 澳門各式風格的房屋
P7: Fire Cracker Industry 爆竹業
P8: The Market-Square in-front of Hong Kung Temple (19th century)
P8:康公廟前地市集(十九世紀)
P9~P10: Pawn Brokers’ Towers 押店高樓(典當業)
#travel#Macau#Macao#China#澳門#中國#澳门#中国#trip#museum#history#culture#folk#tour#tourism#photography#旅行#旅遊#博物館#旅游#博物馆#历史#文化#民俗#民间#照片#图片#歷史#民間#圖片
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Capítulo 1 Introducción: Sean bienvenidos japonistasarqueológicos a una nueva entrega síntesis en la que abordaremos la transición del período Jomon al período Yayoi ¿Posible fusión cultural? dicho esto pónganse cómodos que comenzamos. - El cultivo del arroz, entró a japón por desde Corea a través de la península de Kyushu,dicho periodo tuvo lugar en el siglo IV d.c y tardaría 800 años en extenderse por el resto de Japón, excepto Hokkaido( por la dureza del clima) - Según: “El Museo Nacional de Historia Japonesa realizó una medición 1 de carbón vegetal adherido a la cerámica Yayoi y descubrió que el arroz más antiguo data del año 1000 (en 2002) - Fusión de la cultura Jomon y la cultura Izumo: El mito de los dioses Izumo que nacieron durante este período, están representados por Okuninushi dios de la tierra y Sukunahiko para el desarrollo de la vida. - Espero que os haya gustado y nos vemos en próximas publicaciones de japón, que pasen una buena semana. - 第1章 はじめに 縄文時代から弥生時代への移行-文化的融合の可能性-」をテーマに、日本考古学者による新しい総集編をお届けします。 ということで、どうぞごゆっくりお過ごしください。 - 稲作は紀元4世紀に朝鮮半島から九州半島を経て日本に入り、800年かけて北海道を除く日本全国に広まった(気候が厳しかったため)。 - による。"国立歴史民俗博物館が弥生土器に付着した炭の測定1を行ったところ、最も古い米は1000年(2002年)に遡ることが判明した"。 - 縄文文化と出雲文化の融合:この時代に生まれた出雲の神々は、大地の神であるオオクニヌシと生命を育むスクナヒコに代表される神話であり、この神話に登場する神々は、縄文文化、出雲文化を融合させたものである。 - 次の日本語の記事でお会いしましょう。 - Chapter 1 Introduction: Welcome to Japanesearchaeology to a new summary delivery in which we will address the transition from the Jomon period to the Yayoi period. Possible cultural fusion? Having said that, make yourself comfortable and let's begin. - The cultivation of rice entered Japan from Korea through the Kyushu peninsula. This period took place in the 4th century AD and would take 800 years to spread to the rest of Japan, except Hokkaido (due to the harsh climate). - According to: “The National Museum of Japanese History conducted a measurement 1 of charcoal attached to Yayoi pottery and discovered that the oldest rice dates back to the year 1000 (in 2002) - Fusion of Jomon culture and Izumo culture: The myth of the Izumo gods who were born during this period, are represented by Okuninushi, god of the earth and Sukunahiko for the development of life. - I hope you liked it and see you in future posts from Japan, have a good week.
#Yayoiperiod#Jomonperiod#Izumoculture#Okuninushi#Sukunahiko#Kunizukuri#ricecultivation#Izumoprovince#Kofunperiod#culturalfusion#radiocabondating#NationalMuseumofJapaneseHistory#prehistory#Japanesearchaeology#unesco.#弥生時代#縄文時代#出雲文化#オオクニヌシ#スクナヒコ#クニヅクリ#稲作#出雲地方#古墳時代#文化融合#ラジオ体操#国立歴史民俗博物館#先史時代#日本研究考古#ユネスコ。
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【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮
【 #鹿港民俗文物館 】| #漫遊鹿港古鎮 #鹿港 ,一個充滿歷史與文化的古鎮。在這裡,古樸的街道與現代的生活完美融合,每一個角落都有它的故事。而今天,我要帶大家去���訪一座獨特的建築 — #鹿港民俗文物館 。
鹿港,一個充滿歷史與文化的古鎮。在這裡,古樸的街道與現代的生活完美融合,每一個角落都有它的故事。而今天,我要帶大家去探訪一座獨特的建築 — 鹿港民俗文物館。 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 歐式建築的民俗文物館在古樸的鹿港中,顯得格外突出。原來,這裡本是當地富商顯榮的豪邸。如今,它成為了展示一系列特色文物收藏品的場所。這座建築分為A、B、C三館: 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮 【鹿港民俗文物館】|漫遊鹿港古鎮…
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栗浜陽三 (文・写真) 『九十九里浜』 より 雑誌MLMW (ムルム) No.5 (1978年5月号) 掲載記事
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(文・写真)
[上のページの画像から自動文字起こしをして、誤判読に気付いた所は修正したけど、誤判読が残っているかも知れない]
九十九里浜・しなやかな風景 写真と文 栗浜陽三
九十九里浜が、何県にあるかを知らない人でも、その名の持つ雰囲気に、何か特別のイ メージをお持ちであろうと思う。太平洋に面した、その茫漠たる長い長い浜の風物は、浜というものが持つ様々の要素を凝縮させて、 我々の期待感や夢を満たしてくれるかのように思える。しかし残念ながら今では九十九里浜の魅力の殆どは、過去のものとなってしま った。一体、十数年前の、あの素朴で夢のよ う��美しかった九十九里浜は何処に行ってしまったのか。この僅か数年の間に、都会人の荒々しい神経で浜は汚され、美しい砂の起伏は姿を消し、近代化の手は浜に沿って長々とハイウエイを引いてしまった。九十九里浜にとって、全く無意味としか思えないこのハイウエイプランを耳にした時、私は自分の心の中の大切な部分を引きさかれる思いがしたが、土地の政治家というある人は、それは芸術的
↑栗浜陽三 九十九里浜(文)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(写真)
栗浜陽三 九十九里浜(文・写真)
[上のページの画像から自動文字起こしをして、誤判読に気付いた所は修正したけど、誤判読が残っているかも知れない]
しなやかな風景●九十九里浜
・・・は黒ダンの前袋の両脇から黒々と毛をかき出して男らしさを競ったといい、亦、漁から浜に帰って来る舟は、長い竿を舟の両側につき出して、その先に黒褌を結びつけ、尾長鶏の尾羽根のように海風になびかせてもどって来たと話してくれた。
私がせめて十数年早く九十九里を訪れていたら、目にしたであろうこれは誠に九十九里の匂いのする昔語りであった。 それでも私は消えてゆく残り火の色を見る ように、時折浜で数少ない漁師の浜仕事や、 女達のフラミンゴの踊るような鮮やかな作業っぷりを見る事が出来た。
度び重なる私の九十九里訪問につれて、私の仕事友達や学生達が浜を訪ねるようになり、若々しい彼等の裸身が浜をにぎわすようになった。彼等はアっと いう間に海風にやけ、町中まで褌姿でのし歩き地引網を楽しみ、九十九里独特の丸板の波乗りをし、別人のように生き返った。
私は丸裸で浜仕事をする漁師をたびたび目にしたが、 この風俗は戦後アメリカ人の手前禁じられてしまったその名残りであった。中年の漁師が性器の先をワラシベや布切れで結んで褌の代用としている様も、決して雑でも奇異なものでもなく、浜の風物の中ではごくノーマルに感じられた。これは海水に濡れたままの褌の不衛生さを彼等がきらったからだという。
浜の女達はよく働いた。小柄でたくましいマイヨールの彫刻の���うな彼女達は、舟を浜に 引き上げる時には男以上の働きを見せた。母 親の仕事を見ている少女の背中の、赤ン坊の顔には、一刷毛はいたようにウッスラと砂が乗っていた。
十年以上訪ね続けている私の目には、浜の舟の数が年々少くなって行くのがよく解った。最初一、二年の間、浜にそびえていた何艘かのK家の船もいつしか姿を消した。民���が急激に増え、そしてドカンと音のするようにハイウエイが浜に沿って走り、浜と村を引きさいたのである。庭から海に裸で飛び出してゆけた私達もトンネルをぬけて海に出る為に廻り道をしなくてはならなくなった。浜は見る見る中にゴミが打ち上げられ、マイカーが波打ぎわを走りぬけ、ビーチパラソルが立ち、その下で一日中マージャンをするという馬鹿げた男達が東京からやって来た。日本人は本当のゼイタクの楽しさや味わい方を知らないし、知ろうともしない。なぜ九十九里に都会生活をそのままズルズルと引きづって来る必要があるのだろうか。彼等は潮騒をきく代りに、浜でトランジスタラジオをきこうとする訳なのである。民宿になった素朴な土地の家で、海の香りを味い、あるがままの九十九里の生活に思いきり身をまかしてこそ、本当のゼイタクの楽しさではないだろうか。ハイウエイは私如き人間の知らない理由で必要なのかも知れないが、その代り、日本一のあの美しい浜の風景は二度ともどってこないのである。
K家にはその頃四年程続けて、ある外国の大使館の青い目の客が来るようになった。映画スターのような見事な美女達であった。私の友人の若者達とこの美女達は、伸々打ちとけ合う機会がなかったのだが、ある日、彼女達がK家の前庭の椅子に腰をおろして読書を楽しんでいる最中に、この若者達が海からもどってきたのである。彼等はオイルで鋼のように輝く背中をみせてタオルやマットを干し始めた。その姿を一人のブロンド娘がしみじ ・・・
↑栗浜陽三 九十九里浜(文)
以上の写真と文は雑誌MLMW(ムルム) No.5 (1978年5月号) 掲載記事『九十九里浜』より
これらの文章を読むと、栗浜は性的にも、性的な物を離れても伝統を残したままの海やそこに暮らす漁師を愛していたことが判る様だ。また、他の記事を読むと祭りについても性的にも、性的な物を離れても愛していたことが判ると思うよ。
栗浜のオリジナルは持ってないからウェブから集めた画像だけど、九十九里浜は良い画像がなかったんだ
一応拡大して補正はしておいたけど画質はちょっと残念だね
世間一般では本名の藤井千秋でイラストレーターとして有名な人なんだよ~
藤井千秋は画像検索したらいっぱい出てくるよ
2つの名前の作風の違いに驚くよー!
#栗浜陽三#九十九里浜#ムルム#六尺褌#ふんどし#褌#藤井千秋#kurihama youzou#youzou kurihama#fujii tiaki#loincloth#japanese national costume#japanese underwear#common japanese daily underwear#japanese formal wear#MLMW
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今日は白河市のまほろんに行って、前田遺跡の遺物を見て来ました。石器しかない時代によくこんな木製品を… びっくりです。
お昼は白河ラーメンで。麺しょうのラーメンです。
白河市歴史民俗資料館にも行って来ました。天王山式土器の展示。縄文時代の次は弥生時代。けっこう重要な遺跡です。
なかなか充実した1日でした。
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2024年まとめ
今年は水彩作品の制作をがんばりました。昨年「来年展示やりたいな」と思ったので実行したというのもありますが、いまだにスタイルの確立ができとらんな~と思っており、試行錯誤があります。
というか静物画と植物画のスタイルは自分の中で確実に手応えがあるのでそれはいいんですが(私のイラストレーションの得意分野はモノ・植物です)、もうちょっとなんとかならんかなと思っているのは漫画絵に寄った人間を描くときのスタイルです。昨年第五人格のファンアートを描いて「キャラクターのスタイルこういう感じならいけるかも」という方向性がうっすらつかめた感じがするのですが、第五人格は根本的にキャラデザが死ぬほどうまいので自分の力じゃないんですよね。というわけで、今年は「月に1作は自主制作水彩絵を描く」を実行しました。イラストはこちらのポートフォリオにまとめています。
11月はキャンドルのシリーズを描いていましたがそれ以外は人間・キャラクター絵を描くという方向でやっていました。振り返ってみて思うのは、やっぱり物語が明確にあるものは一枚絵だとしても作品になりやすいという感触で、アリス展合わせで描いたものは「漫画絵寄りで且つまとまりがうまくいったのでは」と思っています。正方形だったのでバランスのとりやすさもあった。習作で描いた他の正方形の絵も人物にフォーカスする時はかなりいい形式だなと感じました。
構図は、迷ったらメイン人物をセンター正面+背景を物尽くしにするor世界観の表象を入れる、と決めているのでまあまあの割合でそういう絵になっています。これは数年前からやっているので「この構図前にも見たな」ってなると思いますが、ワンパターンだとしても全く問題ないなと感じています。
7月の水彩月間では毎日風景スケッチを描くのを一ヶ月完走したのもいい思い出です。風景うまくなりたいね。
水彩画の展示は大阪・京都・東京の企画展に参加しましたので、おおざっぱすぎる区分ですが西日本と東日本とで展示ができてよかったです。これは有言実行できてよかった。水彩紙や額装マットのメーカーであるオリオンさん主催の展覧会(メインはオンライン)に参加して、原画ではなくプリント展示でしたが銀座の月光荘で自分の絵を展示してもらえたのはめちゃめちゃ嬉しかったです(水彩の制作を再開する時、道具をそろえたのが月光荘だったので)。
今年描いた絵で言えば、制作してはいるけどまだ発表はしていない水彩画のシリーズもあるので、来年はこのあたりをまとめて出したいなと思います。
自主制作以外だと、skebのほか、今年も装画をご依頼いただけたり、毎年恒例の定期案件があるのですがそれで絵を描いたり色々できて楽しかったです。
アリス展に参加したことで、イギリス文芸題材の絵を描くテーマに着手できたのでよかったなと思っています。というか長年ぶつぶつと唱えている、ビクトリアン・パークというレトロゲームの元ネタになっているイギリス文芸作品の絵を描く、というテーマ、思い入れがありすぎると逆になにも手につかない的な感じなので展覧会に参加してほんとによかった。覚悟が決まる。残るはブラム・ストーカー「ドラキュラ」、スティーブンスン「宝島」、あとビクトリアン・パークの内容本体ではないけどキャラデザでかすっているのでメアリー・シェリー「フランケンシュタイン」です。小説自体は何度も読んでいるのだけど、ほんと絵にするとき「どうやって……!?」というのと「自分の絵で自分の中の小説のイメージが固定するの結構嫌だな……!」という気持ちがめちゃある。でもなんらかの形にはしていきたいですね。自分の趣味趣向のかなり強めの影響もとなので。
来年のイラストレーション制作の目標も人物系のスタイルの確立、文芸題材のイラストレーション制作、というここ数年変わらない内容ですが引き続きこれでやっていこうと思います。
漫画に関しては、『せんせいとぼくと世界の涯』がマグカンの漫画賞でノミネートに入ったので編集の方がついてただくことになり、成り行きで演劇の話で盛り上がってシェイクスピア戯曲題材で漫画のネームが出来上がったが100ページ超えたので「これはこれとしてとりあえずいったん別の短いの描くか」ということで留保になったという愉快な出来事があります。別途描いてるネームは私が仕事&生活優先にしているため忙しくてあまり進めておらず、今からがんばりますという感じなのでどうなるかわからないですが来年なんらかの読み切り漫画は出来上がると思うのでそのうち発表すると思います。
今年発表した漫画は『ギャスケル夫人の庭』のみでした。同人誌も発行しました。この作品は自分の創作の棚卸案件だと思っているのですが、これもほぼ2023年に描いていたものを今年仕上げて発表した形です。私の制作スパンが長めというか描かない(漫画描いてる暇がない)時期をはさむので変に間があくんだよな。
ともあれ9年ぶりに同人誌のイベントに直接参加したので、「ああーそうだこんな感じだったなー」となりました。
なんだかんだで忙しかったため、逢断は進められなかったのが心残りです。収入にならんものごとの優先順位が下がってしまうの、仕方ないけどほんと悔しいな。春までに数話分ネーム作ってあともう淡々と描くだけを一年やるとかにしたらいけるのかも。
今年は意識的に作品制作に時間を割いたので、例年と比べて舞台や展覧会を見る量が明らかに減りました。そう、土日を制作にあてると鑑賞機会がかなり減る。平日も動ける身なのだから平日にねじ込めばいいんですがあんまりうまくいかんのよね。とはいっても色々見に行きまして、今年は特に節分会の芸能行脚をしたこと(コロナ禍前に始めたのですがコロナ禍で中断したので久々の再開でした)が収穫でした。あまりピンとこないひとのほうが多いかと思うので説明すると、正月より節分のほうが季節行事としては強めの節目という文化形態に日本の芸能はなっていて、節分の日に社寺で行われる各種の芸能を見て回る趣味というのが民俗芸能というか郷土芸能というかそういう方面の趣味者にはあるのですね。追儺式と呼ばれたりします。ただし節分の日の行事なので節分の日にまわるしかなく、一人の人間が一日で回り切れる量ではないため「今年はあそこへこれを見に行くか……でもそうするとこっちは行けないな……」となったりするので年単位で行脚したりするのです。私は大念仏踊り、念仏踊りの類をできるだけ見たいと思っておりまして、これは節分に限ったものではないんですが、まー全然見れてないけど可能な範囲でがんばりたいんですよね。見るのを。 他には、建築と写真関係の企画や展覧会を巡ったりベケット映画祭で耐久戦のように上映を見たり、スペインへ行ったので建築がっつり見れたのよかったしプラド美術館も行って「時間が無限に足りない」になったりしました。
作品制作は毎日ちょっとずつやり続ける以外の正解は存在しないのですが、それにしたって時間が有限すぎるなあと感じます。「何をやらないか」を判断するというの、歳を食ったことでやりやすくなった部分はあるかなという気もするので鑑賞も制作も生活も、うまいことやっていきたいところです。
来年は世界が今よりよりよくなりますように。
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、��陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ) 五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せる���うに」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた) 猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「��仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。 この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。 轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊���する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を��くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら���を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下) 家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね) 長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいない��で、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川���豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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((5ページ目)日本の宣伝デザインの源流にはナチスの影響が…!? 20枚の図版で振り返る“独自発達を遂げた日本製ポスター”の知られざる歴史 | 文春オンラインから)
伊原宇三郎《操縦 整備 通信 陸軍少年飛行兵》 1944年 国立歴史民俗博物館 H-966-4-1-2
戦時期には多くの画家が戦地に赴いているが、伊原にも陸軍嘱託画家として、南方に派遣された経験があった。このため、本作も「実体験」を踏まえたものと思われてきた。ところが、実態には広告専門誌の表紙を飾った、化粧品会社の広告《香水「飛行」》から、着想を得た作品であった。もっとも、後者が伊原にとって「使える」存在に映った背景には、従軍時に現地で目にした、「似た景色」が関係していたのは確かである。前者において上空を飛行するのは、「鍾馗」という愛称を持つ、陸軍二式単座��闘機である。
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J.G.バラードっぽくて素敵。
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友多聞
H:傳達知識,快樂是友多聞的益處。友多聞也讓你成為「語言的富翁」。
「獨學而無友,則孤陋而寡聞。」強調友多聞的重要性。另外友多聞帶來教學相長的效應,《禮記.學記》:「是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強也,故曰「教學相長」也。」尤其「人人都是一本書」,
甚至「人人身上都是一個時代」教你一句建言,警語也是受用無窮。學無止境,終身學習。20240604W2
多聞
解釋:
見聞廣博,增廣聞見。《論語.季氏》:「友直、友諒、友多聞,益矣!」三國魏.何晏〈景福殿賦〉:「故將廣智,必先多聞。」
增廣見聞知識。《文明小史》第一五回:「橫豎我們這趟出門,乃是為著增長見識,於學問有益的事。」也作「增長見聞」。
學問淵博
淵,淵深。博,廣博。學問淵博謂學識豐富。如:「他溫文儒雅,學問淵博,是學術界所公認的大學者。」
學識淵博,意思是指學識深而且廣。
見多識廣
見聞廣泛,學識淵博。《鏡花緣》第四四回:「多九公本是久慣江湖,見多識廣,每逢談到海外風景,竟是滔滔不絕。」《文明小史》第三四回:「只因常常出外遊學,見多識廣,知識也漸漸開通。」
知識淵博的相似詞
博學多識 學識豐富 博學多才 知識豐富 學識淵博 淵博 知識廣博 博學多聞 博學 學識廣博 博古通今 博聞強識 學富五車 淵博的知識 學問淵博 淵博知識 博學睿智 上知天文下知地理 通古博今 淵博的學識 博覽群書 學識 博學廣識 見識廣博 淵博學識 談吐不凡 博聞多識 學養深厚 通曉古今 學識深厚
淵博
精深廣博。
晉 葛洪 《抱樸子·崇教》:“是以遐覽淵博者,曠代而時有;面墻之徒,比肩而接武也。” 宋 蘇軾 《東坡志林·記講筵》:“卿講義淵博,多所發揮,良深嘉嘆。” 清 昭槤 《嘯亭雜錄·純廟博雅》:“ 純廟 天縱聰慧,攬讀淵博。” 柔石 《二月》二:“你學問是淵博的,哥哥常是談起你。”
百科解釋
淵,精深;博,廣博。淵博:精深而廣博,形容知識廣且深,博學多才。晉 葛洪《抱樸子·崇教》:“是以遐覽淵博者,曠代而時有;面墻之徒,比肩而接武也。”
中台山:
《論語》說:「以文會友,以友輔仁。」結交朋友是很重要的事。我們在社會上要懂得交好的朋友、親近善知識。
維基文庫:
論語季氏篇
孔子曰:「益者三友,損者三友。友直,友諒,友多聞,益矣。友便辟,友善柔,友便佞,損矣。」
孔子說:「有益的朋友有三種,有害的朋友有三種。與正直的人交朋友、與誠實的人交朋友、與見多識廣的人交朋友,有益處;與走邪門歪道的人交朋友、與讒媚奉迎的人交朋友、與花言巧語的人交朋友,有害處。」
星雲大師
所謂:「友直、友諒、友多聞。」朋友之間要耿直真誠,要能相互諒解,要互通知識、要理念相投,還要能雪中送炭,這才是善友。
釋星雲
僧人
釋星雲(1927年8月19日[2]—2023年2月5日[3]),俗名李國深,法名悟徹,法字今覺,法號星雲[註 1],筆名趙無任[4]。生於江蘇江都,童年出家,漢傳佛教比丘及學者,為臨濟宗第四十八代傳人,同時也是佛光山開山宗長(方丈)、國際佛光會創辦人暨榮譽總會長、世界佛教徒友誼會榮譽會長[5],被尊稱星雲大師[1]。
「獨學而無友,則孤陋而寡聞」真正的益友是能夠讓我們擺脫孤陋寡聞的處境。
「數位遊牧」,以遠距的方式工作,並同時周遊不同的國家和城市。
一種是自己去搞清楚,從自己的經驗、觀察中學習。另一種就是向別人學習,學習別人已經搞清楚
或者正在搞清楚的東西。
「真正高明的人,就是能夠借重別人的智慧,來使自己不受矇蔽的人。」——蘇格拉底
「腳步不停,不一定是前進;閉目深思,不一定是停頓。」
通過艱苦的學習,使自己成為「語言的富翁」。
景福殿賦
作者:何晏《文選》卷11
姊妹計劃: 數據項
大哉惟魏,世有哲聖。武創元基,文集大命。皆體天作制,順時立政。至於帝皇,遂重熙而累盛。遠則襲陰陽之自然,近則本人物之至情。上則崇稽古之弘道,下則闡長世之善經。庶事既康,天秩孔明。故載祀二三,而國富刑清。歲三月,東巡狩,至於許昌。望祠山川,考時度方。存問高年,率民耕桑。越六月既望,林鍾紀律,大火昏正。桑梓繁廡,大雨時行。三事九司,宏儒碩生。感乎溽暑之伊鬱,而慮性命之所平。惟岷越之不靜,寤征行之未寧。
乃昌言曰:「昔在蕭公,暨於孫卿。皆先識博覽,明允篤誠。莫不以為不壯不麗,不足以一民而重威靈。不飭不美,不足以訓後而永厥成。故當時享其功利,後世賴其英聲。且許昌者,乃大運之攸戾,圖讖之所旌。苟德義其如斯,夫何宮室之勿營?」帝曰:「俞哉!」玄輅既駕,輕裘斯御。乃命有司,禮儀是具。審量日力,詳度費務。鳩經始之黎民,輯農功之暇豫。因東師之獻捷,就海孽之賄賂。立景福之秘殿,備皇居之制度。
爾乃豐層覆之耽耽,建高基之堂堂。羅疏柱之汩越,肅坻鄂之鏘鏘。飛櫩翼以軒翥,反宇䡾以高驤。流羽毛之威蕤,垂環玭之琳琅。參旗九旒,從風飄揚。皓皓旰旰,丹彩煌煌。故其華表,則鎬鎬鑠鑠,赫奕章灼,若日月之麗天也。其奧秘則蘙蔽曖昧,髣彿退概,若幽星之纚連也。既櫛比而攢集,又宏璉以豐敞。兼苞博落,不常一象。遠而望之,若摛朱霞而耀天文;迫而察之,若仰崇山而戴垂雲。羌瑰瑋以壯麗,紛彧彧其難分,此其大較也。若乃高甍崔嵬,飛宇承霓。綿蠻黮䨴,隨雲融泄。鳥企山峙,若翔若滯。峨峨嶪嶪,罔識所屆。雖離朱之至精,猶眩曜而不能昭晰也。
爾乃開南端之豁達,張筍虡之輪豳。華鍾杌其高懸,悍獸仡以儷陳。體洪剛之猛毅,聲訇𥉻其若震爰有遐狄,鐐質輪菌。坐高門之側堂,彰聖主之威神。芸若充庭,槐楓被宸。綴以萬年,綷以紫榛。或以嘉名取寵,或以美材見珍。結實商秋,敷華青春。藹藹萋萋,馥馥芬芬。爾其結構,則脩梁彩制,下褰上奇。桁梧複疊,勢合形離。赩如宛虹,赫如奔螭。南距陽榮,北極幽崖。任重道遠,厥庸孔多。
於是列髹彤之繡桷,垂琬琰之文璫。蝹若神龍之登降,灼若明月之流光。爰有禁楄,勒分翼張。承以陽馬,接以員方。斑間賦白,疏密有章。飛枊鳥踴,雙轅是荷。赴險凌虛,獵捷相加。皎皎白間,離離列錢。晨光內照,流景外烻。烈若鉤星在漢,煥若雲梁承天。騧徙增錯,轉縣成郛。茄蔤倒植,吐被芙蕖。繚以藻井,編以綷疏;紅葩𦾏𦁛,丹綺離婁菡萏赩翕,纖縟紛敷。繁飾累巧,不可勝書。
於是蘭栭積重,窶數矩設。櫼櫨各落以相承,欒栱夭蟜而交結。金楹齊列,玉舄承跋。青瑣銀鋪,是為閨闥。雙枚既脩,重桴乃飾。㮰梠緣邊,周流四極。侯衛之班,藩服之職。溫房承其東序,涼室處其西偏。開建陽則朱炎豔,啟金光則清風臻。故冬不淒寒,夏無炎燀。鈞調中適,可以永年。墉垣碭基,其光昭昭。周制白盛,今也惟縹。落帶金釭,此焉二等。明珠翠羽,往往而在。欽先王之允塞,悅重華之無為。命共工使作繢,明五采之彰施。圖象古昔,以當箴規。椒房之列,是準是儀。觀虞姬之容止,知治國之佞臣。見姜後之解珮,寤前世之所遵。賢鍾離之讜言,懿楚樊之退身。嘉班妾之辭輦,偉孟母之擇鄰。故將廣智,必先多聞。多聞多雜,多雜眩真。不眩焉在,在乎擇人。故將立德,必先近仁。欲此禮之不諐,是以盡乎行道之先民。朝觀夕覽,何與書紳?
若乃階除連延,蕭曼雲征。櫺檻邳張,鉤錯矩成。楯類騰蛇,槢似瓊英。如螭之蟠,如虯之停。玄軒交登,光藻昭明。騶虞承獻,素質仁形。彰天瑞之休顯,照遠戎之來庭。陰堂承北,方軒九戶。右個清宴,西東其宇。連以永寧,安昌臨圃。遂及百子,後宮攸處。處之斯何,窈窕淑女。思齊徽音,聿求多祜。其祜伊何,宜爾子孫。克明克哲,克聰克敏。永錫難老,兆民賴止。於南則有承光前殿,賦政之宮。納賢用能,詢道求中。疆理宇宙,甄陶國風。雲行雨施,品物咸融。其西則有左墄右平,講肄之場。二六對陳,殿翼相當。僻脫承便,蓋象戎兵。察解言歸,譬諸政刑。將以行令,豈唯娛情。鎮以崇臺,寔曰永始。複閣重闈,猖狂是俟。京庾之儲,無物不有。不虞之戒。於是焉取。
爾乃建凌雲之層盤,浚虞淵之靈沼。清露瀼瀼,淥水浩浩。樹以嘉木,植以芳草。悠悠玄魚,曤曤白鳥。沈浮翱翔,樂我皇道。若乃虯龍灌注,溝洫交流。陸設殿館,水方輕舟。篁棲鵾鷺,瀨戲鰋鮋豐侔淮海,富賑山丘。叢集委積,焉可殫籌?雖咸池之壯觀,夫何足以比讎?
於是碣以高昌崇觀,表以建城峻廬。岧嶢岑立,崔嵬巒居。飛閣干雲,浮堦乘虛。遙目九野,遠覽長圖���頫眺三市,孰有誰無?睹農人之耘耔,亮稼穡之���難。惟饗年之豐寡,思無逸之所歎。感物衆而思深,因居高而慮危。惟天德之不易,懼世俗之難知。觀器械之良窳,察俗化之誠偽。瞻貴賤之所在,悟政刑之夷陂。亦所以省風助教,豈惟盤樂而崇侈靡?屯坊列署,三十有二。星居宿陳,綺錯鱗比。辛壬癸甲,為之名秩。房室齊均,堂庭如一。出此入彼,欲反忘術。惟工匠之多端,固萬變之不窮。物無難而不知,乃與造化乎比隆。讎天地以開基,並列宿而作制。制無細而不協於規景,作無微而不違於水臬故其增構如積,植木如林。區連域絕,葉比枝分。離背別趣,駢田胥附。縱橫踰延,各有攸注。公輸荒其規矩,匠石不知其所斲。既窮巧於規摹,何彩章之未殫。爾乃文以朱綠,飾以碧丹。點以銀黃,爍以琅玕。光明熠爚,文彩璘班。清風萃而成響,朝日曜而增鮮。雖崑崙之靈宮,將何以乎侈旃。規矩既應乎天地,舉措又順乎四時。是以六合元亨,九有雍熙。家懷克讓之風,人詠康哉之詩。莫不優游以自得,故淡泊而無所思。歷列辟而論功,無今日之至治彼吳蜀之湮滅,固可翹足而待之。
然而聖上猶孜孜靡忒,求天下之所以自悟。招忠正之士,開公直之路。想周公之昔戒,慕咎繇之典謨。除無用之官,省生事之故。絕流遁之繁禮,反民情於太素。故能翔岐陽之鳴鳳,納虞氏之白環。蒼龍覿於陂塘,龜書出於河源。醴泉涌於池圃,靈芝生於丘園。總神靈之貺祐,集華夏之至歡。方四三皇而六五帝,曾何周夏之足言!
孤陋寡聞
《禮記.學記》
大學之法,禁於未發之謂豫,當其可之謂時,不陵節而施之謂孫,相觀而善之謂摩。此四者,教之所由興也。發然後禁,則扞格而不勝。時過然後學,則勤苦而難成。雜施而不孫,則壞亂而不脩。獨學而無友,則孤陋而寡聞。燕朋逆其師。燕辟廢其學。此六者,教之所由廢也。
《禮記.學記》:「獨學而無友,則孤陋而寡聞。」(源)
《抱朴子.外篇.自敘》:「年十六,始讀《孝經》、《論語》、《詩》、《易》,貧乏無以遠尋師友,孤陋寡聞,明淺思短,大義多所不通。」
《朱子語類.卷一一七.朱子.訓門人五》:「淳稟曰:『伏承教誨,深覺大欠下學工夫。恐遐陬僻郡,孤陋寡聞,易致差迷,無從就正。望賜下學說一段,以為朝夕取準。』」
元.馬致遠《陳摶高臥》第二折:「若做官後每日價行眠立盹,休休休,枉笑殺凌煙閣上人,有這般疏庸愚鈍,孤陋寡聞。」
《三國演義》第一○回:「某孤陋寡聞,不足當公之薦。」
《鏡花緣》第一六回:「不瞞二位大賢說,這叫作『臨時抱佛腳』,也是我們讀書人通病,何況他們孤陋寡聞的幼女哩。」
寡聞少見
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
《漢書.卷八一.匡張孔馬傳.匡衡》:「蓋聰明疏通者戒於大察,寡聞少見者戒於雍蔽。」
寡聞陋見
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
明.胡翰〈羅文質公集敘〉:「以寡聞陋見論前人之道德,其亦過矣!」
寡見鮮聞
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
漢.王褒〈四子講德論〉:「俚人不識,寡見尠(鮮)聞;曩從末路,望聽玉音,竊動心焉。敢問所歌何詩,請聞其說。」
獨自學習而沒有朋友一起切磋、研討,就會造成學識淺陋而見聞不廣。 對朋友怠慢就違背了師長的教導;一旦言行偏差,就會荒廢了自己的學業。
獨學而無友,則孤陋而寡聞
獨學:指獨自學習,不瞭解外部動向。獨自學習,無人切磋,則孤陋寡聞。形容孤偏鄙陋,見聞不多。有井底之蛙含義。
原因: 朋友是你瞭解外部世界的橋樑,也是你不斷完善自己的標尺。一個人學習,而不接觸外部環境是行不通的。只有與朋友共同學習,集思廣益、取長補短,才能彌補自身的缺憾,並獲得更多知識。
中文名
獨學而無友,則孤陋而寡聞
出處
《禮記·學記》
類型
古文
作者
戴聖
出處
出處:《禮記·學記》:“獨學而無友,則孤陋而寡聞。”
釋義:如果學習中缺乏學友之間的交流切磋,就必然會導致知識狹隘,見識短淺。其中,“而”錶轉折的作用。
教學相長
教與學互相增長。指通過教授、學習,不但能使學生得到進步,而且教師本身的水準也可藉此提高。語出《禮記.學記》。
雖有嘉肴,弗食,不知其旨也;雖有至道,弗學,不知其善也。是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強1>也,故曰「教學相長2>」也。
《禮記.學記》:「是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強也,故曰『教學相長』也。」(源)
《韓詩外傳》卷三:「雖有善道,不學不達其功,故學然後知不足,教然後知不究。不足,故自愧而勉;不究,故盡師而熟。由此觀之,則教學相長也。」
明.王守仁〈教條示龍場諸生.責善〉:「使吾而是也,因得以明其是;吾而非也,因得以去其非:蓋教學相長也。」
《兒女英雄傳》第一八回:「我那解悶的本領都被公子學去了,那裡再尋甚麼新色的去?我們『教學相長』,公子有甚麼本領?何不也指點我的一件?彼此頑起來,倒也解悶。
人人都是一本書
每個人都是獨特的,每個人都是值得欣賞的,
閱讀每個人的故事,獲得成長的養分。
人人身上都是一個時代(全新增訂版)
作者:陳柔縉
語言:繁體中文
出版社:麥田
出版日期:2016/10/06
目錄
◎新版序──陳柔縉
一‧人的日本時代
1 人人身上都是一個時代
2 跑啊!林和
3 王永慶的兩百圓有多大
〈附表:台籍前輩企業家出生年與學歷〉
4 辜家豪門鑽石失竊記
5 台灣最貴單身漢
6 巴黎唯一的台灣人
7 神祕的第一位台灣人車主
8 名門公子日本浪漫遊
9 美國鳥人到台灣
10 明治元勳欠錢記
11 禁吃大蒜迎親王
二‧愛與死事件簿
1 戀愛?亂愛!
2 台灣人殉情記
3 少年仔愛看電梯小姐
4 煙草女工眼裡的蔣介石
〈附表:1930年代煙草女工的世界〉
5 懷念的鐵路便當
〈附表:1914年台灣鐵路便當〉
6 烤鴨該怎麼吃
7 愛鄉愛土全民票選台灣八景
8 1933年雙十國慶在台北
9 鐵達尼船難消息在台灣
10 豪華世界郵輪初體驗
〈附表:日治時期世界觀光郵輪來台概況〉
11 英語演講比賽前先獎盃奉還
12 車牌暗藏魔鬼
13 那時候的公車會「犁田」
14 颱風來了會缺鹽
15 火災的關鍵詞
16 打開日本時代的鉛筆盒
17 考上醫校回頭嗆校長
18 修學旅行遇見明治天皇
19 捨不得不愛的農曆年
20 老藥房的推銷術
三.古典罪與罰
1 怪怪小偷和大盜
2 日本時代���有毒品?
3 盜賊拔刀海上來
4 偷車賊最愛的作案地點
5 好膽賭博要鞭刑
6 來看富豪斬雞頭發毒誓
四.療癒系台灣史
1 那些年動物惹的禍
2 最佳療癒系之小鴨物語
3 小象闖進高級料亭了
4 猛雄藏了十個月的祕密
5 狗狗的日本時代
6 不是端午也能划龍舟
7 人間無處不花火
8 上陽明山不看櫻花
9 為路樹繫上第一張身分證
五‧地的時光垂直線
1 台灣銀行重返上海
2 東京火車站的呼吼
3 早稻田的咖啡店
4 松泉閣給的問號與答案
5 第一波青春壯遊
6 第三國人
7 撫臺街洋樓身世之謎
◎附錄【日本時代台灣物價水準概況】
參考資料
圖片來源
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2023/12/25
12:30新大阪 御堂筋線なかも��行 12:45心斎橋 長崎堂 ホテル
13:30ホテル 13:35堺筋本町 堺筋線高槻市行 14:09南茨木 大阪モノレール門真市行 14:24万博記念公園 徒歩 14:40国立民族学博物館
16:25国立民族学博物館 16:42万博記念公園 大阪モノレール 16:44山田駅 阪急千里線天下茶屋行 17:26堺筋本町駅 17:29ホテル
10:30ホテル 10:41堺筋本町駅 中央線コスモスクエア行 10:53大阪港駅 10:58大阪税関
11:27大阪税関 11:33大阪港駅 11:44本町駅 四つ橋線西梅田行 11:58西梅田 12:01梅田
大阪に来ています。 体調とか心配事とかが多くて今回は帰るのが楽しみな大阪旅行になってしまった(よくない!)。 行きの新幹線で今日と明日のタイムスケジュールを立てて、そのまま名古屋から新大阪までずーっとうとうとしっぱなしだった(よくない!)。 せっかくの窓側の席を取ったのに。 そして年末のまずまず混雑する車内で、私の隣2席はずっと空席だった。
うとうとしながらあのちゃんのアルバムを聴いて、曲名はわからないけれどとてもポップで良い曲があった。
新大阪駅から御堂筋線で心斎橋で下車。 地下鉄から大丸とPARCOに直結している!と訳もなく寄り道したくなってしまう。 大丸の前の道は歩道の工事をしていた。 東京もだけれど、大阪も至る所で工事をしていて、思った以上に万博ムードを高めるキャンペーンがされているようだった。
今回のお土産はここで買いたい!あわよくばクリスタルボンボンも…と調べていた長崎堂へ。名前の通りカステラが名物らしく、大阪なのに長崎…と、違う焼き菓子とクリスタルボンボンを購入。 クリスタルボンボン用の紙袋も入れてくれた。
一旦ホテルに荷物を置いて、万博記念公園へ向かう。大阪から1時間もかかるし、めっちゃ広いと聞いていたので予定を立てて疲れてしまいあまり気乗りせずだったけれど行って良かった。 地下鉄から阪急電車に乗り入れている路線で、京都まで行ける。京都・大阪・奈良・神戸などアクセスしやすい関西圏の感じがとても好き。それぞれに文化があって、ちょっと遊びに行ける近さが共存している。
万博記念公園は若い子がたくさん下りるな〜、意外、と思っていたら、みんなららぽーとに吸い込まれていって今住んでいるアド街ック地獄を思い出した。でも観覧車のある超巨大!ららぽーとの様でバイキングもあった。 そして舞浜駅からディズニーランドの入り口までのペデストリアンデッキみたいな道から太陽の塔がずっといる。 モノレールの駅から高速道路を挟んだ向こう側が公園で太陽の塔がいる。「万博のために交通網が発達したのよ」と関西出身の職員さんが教えてくれた風景だった。
公園の中は人がとても少なくて、ところどころにあるスタンド型の飲食園の感じ(ちょっとおしゃれ風にしたクレープ屋、ベビーカステラ、タンドリーチキンなど)とか、ゴミ箱が大きい感じとか、なんか全然可愛くもおしゃれでも経年したレトロ感でもない、表面的な明るさと侘しさが西武遊園地と似ていた。
(もしかしたらあの時代のテーマパークは、大阪万博をお手本にしているのかも。) イベントスペースのラーメン博は、今日はお休みでただの白いテントの屋根だけが並んでいた。
そしてお目当ての民俗学博物館はとても良かったです! 建物もメタボリズム的ユーモアと巨大なスケール感。大阪の友人が教えてくれた様に、とっても展示がたくさんあったので駆け足で鑑賞。いろんな民族の衣食住、ハレとケ、音楽、教育をみることができる。アーカイブの対象や展示方法が楽しい。 スイカの種とかカレンダーとかあらゆるパンとかさまざまな用途のカゴやパンの焼印など。 友人にポストカードを送ろうと物販コーナーへ。 オリジナルグッズに後ろ髪引かれつつタイ族のポストカードを購入。
そのままサクサクと太陽の塔と月とお祭り広場を眺めつつホテルへ戻った。博物館はまた行こう。
“名建築で昼食を”と“わたしの一番最悪な友達”のロケ地の建物が近くにあり、お散歩がてら行ってみる。生駒ビルディングと青山ビル(市川実日子のクリーニング屋さん)と綿業会館。途中、川のほとりでイルミネーションが開催されていて、BGMにももクロのサンタさんが流れて楽しくなって写真を撮った。知らない街だから夜もフラフラ歩けてしまう。(だからやっぱり住んだりしない方が良いのかな。)
コンビニを梯子して食事を用意してホテルでこれを買いています。明日無事帰れて、��るべく健康でいられます様に。 12階のホテルの窓が開けられず息苦しい。 大阪でも月ばかり撮ってしまった。
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琴平町立歴史民俗資料館
こんぴら歌舞伎を観るため香川県琴平町を訪れた折、琴平町立歴史民俗資料館へ足を運んだ。旧金毘羅大芝居(金丸座)の跡地にあり、琴平町やこんぴら歌舞伎の歴史資料を展示している。展示内容は正直なところ雑然とした印象ではあったが、このご時世、歴史資料をちゃんと屋内に保存・展示する姿勢があるだけでも、資料を長らく屋外に放置していたどこぞの自治体などよりよほど立派である……とも言えるかもしれない。こんぴら歌舞伎関連の文物など、ここにしかない資料もたくさんあるはずなので、散逸しないようどうか頑張ってもらいたいと思う。
四国の道はこんぴらさんに通ず。土佐・伊予街道、阿波街道、高松街道、丸亀街道、多度津街道が図示されたパネルは、下のボタンを押すと当該の街道が光るようになっている。
こんぴらさんへの道に立てられた丁石が奥に展示されている。手前にこんぴら歌舞伎の出演者の名を書いた札や寄せ書き。
金毘羅行人と呼ばれる天狗の道者。キャプションによれば施米を集めてまわる宗教者とのこと。背中に天狗のお面を背負っている。広重の浮世絵にも描かれているとは知らなかった(下の浮世絵のいちばん左端の人物)。
昔の道具類など。
全体的に、こんぴら歌舞伎関連の資料が多い。過去の公演ごとの寄せ書きや着到板が無造作に(ほんとうに無造作に!)並べられている。
連獅子の絵提灯、勧進帳の絵提灯、中村富十郎の名入りの提灯。
旧金毘羅大芝居の客席の天井に張られていた花丸絵板。
役者が空中で演技をするのを宙乗りというが、そのための舞台装置「かけすじ」の仕組み。この展示を見ただけではあまりピンとこなかったが、あとで実際にこんぴら歌舞伎で宙乗りを観て(仕組みがあまりにもおもしろいので役者さんより黒衣さんに目が向いてしまった)、この写真を見直して、ようやくなんとなく少しわかったような気もしないでもない。ともかく図解されているのは良いことである。
第三回こんぴら歌舞伎のときの舞踊劇「屋敷娘」。筋書(パンフレット)に讃岐うどんの広告があるのがいかにもという感じでよい。
第一回こんぴら歌舞伎での演目のひとつ、「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」の看板絵。清弦と桜姫の物語。中村吉右衛門、澤村宗十郎、澤村藤十郎という、垂涎の座組。
十七代目中村勘三郎の描いた「三茄子」。
芝居小屋の構造を写真で紹介。
金丸座の看板。
金丸座では富くじが売り出された。富札を売り、当選者に当選金を払い、経費を差し引いた残りが胴元の収入となった由。
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「国立歴史民俗博物館」と「くらしの植物苑」(20231022)
先日、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(通称:歴博 https://www.rekihaku.ac.jp )に行ってきました。今年になってから11度目の歴博訪問です。広い館内に盛り沢山の展示で、何度行っても飽きることがありません。また、併設されている「くらしの植物苑」( https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/plant/index.html )も散策しました。写真はその時に撮影したシュウメイギクです。
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集英社的漫画杂志02(青年向)
本篇聊聊集英社青年向的漫画杂志。
ウルトラジャンプ(Ultra Jump)
週刊ヤングジャンプ(周刊 Young Jump)
グランドジャンプ(GRAND JUMP)
グランドジャンプPREMIUM(GRAND JUMP PREMIUM)
グランドジャンプめちゃ(GRAND JUMP めちゃ)
ビジネスジャンプ(BUSINESS JUMP)
スーパージャンプ(Super Jump)
ミラクルジャンプ (Miracle Jump)
漫革
ウルトラジャンプ(Ultra Jump)
发行时间:1999年10月19日(1999年11月号) -
漫画类型:青年漫画
发行日:每月19日
简称:UJ、ウルジャン
增刊:『ウルトラジャンプエッグ』 (Ultra Jump Egg)
代表作:IT,ジョジョの奇妙な冒険 Part8 ジョジョリオン、快傑蒸気探偵団、王国物語、銀河英雄伝説、終末のハーレム ファンタジア セミカラー版、もののがたり等等。
1995年出版的双月刊『ヤングジャンプ超増刊ウルトラジャンプ』,随后变更为月刊,99年分离独立创刊。存在网络增刊『ウルトラジャンプエッグ』 (Ultra Jump Egg)。
週刊ヤングジャンプ(周刊 Young Jump)
发行时间:1979年5月 -
漫画类型:青年漫画
发行日:每周四
简称:ヤンジャン、YJ
增刊:漫革→月刊ヤングジャンプ→ミラクルジャンプ
代表作:東京喰種、诈欺游戏(ライアーゲーム)、工薪男金太郎(サラリーマン金太郎)、心魔大審判(スカイハイ)、HOTMAN(ホットマン)、ミステリー民俗学者 八雲樹、夜王、(81diver)ハチワンダイバー、妖精的旋律(エルフェンリート)、GANTZ,Real(リアル)、王者天下(キングダム)、黄金神威(ゴールデンカムイ)、噬谎者(嘘喰い)、我推的孩子(【推しの子】)、BUNGO―ブンゴ―等等。
『WJ』的二代目总编辑中野祐介担任创刊时的本杂志的总编辑,是目前发行时间最长的周刊青年漫画杂志。虽然集英社在1969年出版过青年漫画杂志『ジョーカー』(Joker),但是半年后就休刊了。十年之后集英社才再度创刊青年漫画杂志。杂志名来自于当时『WJ』的新人漫画赏的名称。
创刊时的编辑政策是「从(涉及性的)爱、暴力和权力中解放出来」(「(性を内包した)愛・暴力・権力(からの解放)」)。这是一本继承了「WJ」的三大方针:友谊、努力、胜利,并以脱离少年漫画框架、自由度高的青春杂志的描绘内容为出发点而诞生的作品的杂志。这个编辑政策的想法是认为:这是每个十几岁到二十岁出头的目标读者都面临的障碍。
虽然和『WJ』同属Jump家族的杂志,但在集英社内部双方是竞争对手,基本上不参与彼此的编辑政策或宣传。”
90年代开始,大多数封面是『凹版偶像写真』。除了漫画之外,该杂志还包括凹版印刷、包袋装订以及音乐家采访。此外,广末凉子出道后立即进行了凹版印刷,有力地支持了广末凉子从1996年左右开始的流行。正因为这种信任关系,1998年,当媒体忙着采访广末关于他即将就读的大学名称时,「YJ」是唯一发表广末表达自己感受的文章的杂志。
グランドジャンプ(GRAND JUMP)
发行时间:2011年11月16日 -
漫画类型:青年漫画
发行日:每月第1,第3个周三
简称:グラジャン、GJ
增刊:『グランドジャンプPREMIUM』 (GJP)
代表作:江戸川乱歩異人館、甘い生活、不能犯、不倫食堂等等。
2011年休刊的『ビジネスジャンプ』 (BJ) 和『スーパージャンプ』 (SJ)的后继杂志,标语是“一本坚定不移的年轻人成人漫画杂志。
グランドジャンプPREMIUM(GRAND JUMP PREMIUM)
发行时间:2011年12月21日 - 2018年10月31日
漫画类型:青年漫画
发行日:月刊 → 双月刊(偶数月第4个周三)
简称:GJP
代表作:欲望的种子(エロスの種子)、接下来是伦理课(ここは今から倫理です。)、もっこり半兵衛等。
『GJ』的增刊号,创刊时为月刊。2014年7月号改成了双月刊,同时还收到了休刊的『ジャンプ改』 (JX)的一部分作品。2018年11月号停刊,连载作品转移到『グランドジャンプめちゃ』上,
グランドジャンプめちゃ(GRAND JUMP めちゃ)
发行时间:2017年11月29日 -
漫画类型:青年漫画
发行日:双月刊(奇数月第4个周三)
简称:めちゃ
代表作:金魚妻、エロスの種子等。
主要发布「性感系」(「セクシー系」)的作品。
ビジネスジャンプ(Business Jump)
发行时间:1985年7月 - 2011年10月
漫画类型:青年漫画
发行日:半月刊(每月第1,3个周三)
简称:BJ、ビージャン
代表作:ONE OUTS、怨み屋本舗系列、警視総監アサミ カラー版、甘い生活、嬢王、イエスタデイをうたって等。
1985年7月以月刊形式创刊,从1986年3月起每月出版两期,2011年10月5日发行第21期和第22期合并后停刊。2011年与『SJ』合并为『GJ』和『GJP』。
スーパージャンプ(Super Jump)
发行时间:1986年12月20日(1986年創刊号) - 2011年11月9日(10月12日発売号)
漫画类型:青年漫画
发行日:半月刊(每月第2,第4个周三)
简称:SJ、エスジェイ
代表作:狂四郎2030、拳王创世纪2(リングにかけろ2)、 仁医(JIN―仁―)、王牌酒保(バーテンダー)、人事課長鬼塚、国王的裁缝师(王様の仕立て屋~サルト・フィニート~)、ビン~孫子異伝~、ゼロ THE MAN OF THE CREATION、江戸前鮨職人 きららの仕事等
创刊号名是『週刊少年ジャンプ 1986年12月20日増刊号』,1988年1月号独立创刊,是月刊。1991年7月号改为半月刊。
ミラクルジャンプ (Miracle Jump)
发行时间:2011年1月13日 - 2017年2月28日
漫画类型:青年漫画
发行日:月刊
简称:MJ
代表作:かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ カラー版、レトルトパウチ!、茉莉(ヤスミーン)等。
2011年1月13日以双月刊形式发行,被认为是『WJ』的增刊。主题是「科幻与奇幻」。它沿袭『漫革』和『MJ』的流程,与这些杂志一样,它也有『WJ』作品的番外篇,以及单篇漫画和海报插图。2017年2月28日发行3月号,据称是为了「续订收费」,再次休刊。
漫革
发行时间:1994年 - 2008年
漫画类型:青年漫画
发行日:年6回刊
代表作:あい。番外編、スカイハイIV<FOUR>、タフ外伝 OTON―おとん―等。
『漫革』是『YJ』的增刊。2008年1月7日发售的62号是最后一期。主要刊登的漫画内容包括:本刊人气作品的外传、番外篇;本刊连载结束的做假的新单篇作品或连载作品的外传、番外篇,本刊转移过来的作品、「MANGAグランプリ」、「金のピコピコハンマー賞」获奖作品等。
(集英社青年向篇 完)
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2023年9月1日、関東大震災から100年、虐殺から100年
東京都/小池百合子による7年に渡る追悼拒否に加え、都の“人権部”が虐殺の歴史に関わる作品を検閲/弾圧し始めた……という最悪な所業。
今年は��こに更に、東京都がヘイト団体にお墨付きを与え、日本政府/岸田政権そのものが虐殺の歴史と記録を否定しだした。公権力による、歴史修正/公文書否認が、ゼノフォビアが、より一層、悪化している。
大手メディアも、今起きている“公人”“公権力”による差別扇動と歴史否定については……はっきり報じない/批判的に触れない媒体ばかりであるのが(きちんと報じているメディアもあるが、やはり少数派で、WEBのみに留まったりする傾向がある)ゾッとする。その不均衡に、沈黙に、怒りしかない。しんどい。
大震災から100年、虐殺から100年。記事や動画、展覧会や書籍の情報などを、Tumblrでも共有/記録。
・TBS報道特集「朝鮮人虐殺はなぜ起きた」(23/09/09)
youtube
23.09.18にこの特集全編のURLを追記。
・関東大震災100年 流言による惨事は"過去のこと"か |NHK解説員室(2023/08/21)
「1923年9月1日に発生した関東大震災は激しい揺れに加え、大火災が東京東部や横浜の市街地の大半を焼きつくし、死者10万5000人という未曽有の災害になりました。その混乱のなか多くの朝鮮半島出身者が殺害されました。きっかけは地震の直後から流れた流言、いわゆるデマでした。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「2000人の朝鮮人が武器を持って襲ってくる」など根拠のないうその情報が広がりました。」
「殺害された人数はわかっていませんが、国の中央防災会議がまとめた報告書は「千人から数千人に上る」と推定しています。この中には中国人や朝鮮半島出身者と間違えられた日本人も含まれています。」
「コロナ禍でも外国人などへの攻撃がネットなどで横行したことがわかっています。」
ここ数年内に日本国内で起きているヘイトクライム、排外主義とゼノフォビアも取り上げている記事です。
・Radio Dialogue 125 ゲスト:飯山由貴さん「関東大震災から100年」(2023/8/30)
・ヘイト団体があえて朝鮮人虐殺追悼碑の前で「慰霊」集会を開く構え 政府、東京都は見て見ぬふりのナゾ(2023/09/01)
「1923年の関東大震災時のデマにより殺害された朝鮮人犠牲者の追悼碑がある横網町公園(東京都墨田区)で、3年前に都にヘイトスピーチ発言を認定された団体が、きょう9月1日にこの碑の前で集会を行うと公表した。
ヘイトが起きる恐れがあるとして、公園の利用制限を求める抗議声明も相次ぐが、都の対応は鈍い。国や行政が虐殺の史実と向き合わないことが、足元の差別をあおる状況を招いている。」
・漫画 「追燈 / 追燈 - 岡田索雲 」| webアクション 、無料公開
・国際シンポジウム「関東大震災の朝鮮人虐殺から100年 レイシズムと歴史否定を考える:国連特別報告者を迎えて」(2023年8月11日東京大学) アーカイブ
youtube
・特集「関東大震災100年。朝鮮人虐殺の実態とその教訓」加藤直樹×新井勝紘×荻上チキ×南部広美(2023/09/01)
・高麗博物館【関東大震災100年展】7月5日(水)~12月24日(日)
・東京大学韓国学研究センターからの声明
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自分の投稿を読み返していて「デート用の靴がある長義」に自分で萌えている。
また縁があってミュージカルを一度観たところ、長義に関しては「似てるな……(?)」という神妙なしみじみが強かった。
めちゃくちゃ似てた。あと第二部の衣装は第一段階が個人的には一番好きだった。
衣裳の好みとは別に、第二部の第一段階衣装がはじめ白衣を羽織っているように見えてそれはそれとして当時すごく動揺した。
現代で外科医かその研修医をしている長義の概念がめちゃくちゃ好き。
民俗学に興味を持ってポスドクをやってる長義も好き。愛車で全国を走り回って自分の足で村や現地の記念館だとか資料館をまわって、聞き込みをして、図書館に寄って、帰りにSAでコーヒーを買ってぼんやりしている。
国広くんは何かの操縦か物作りをしているのが好き。
あとは星だとか宇宙や自然だとか、そういうものに些細なきっかけで興味を持って、ひとりで長年懇々と知識を深めている印象もある。誰かが気がつくときにはそういう知識も物作りの技術もえらいことになっているような。
国広に近しい人たちはそれを面白くて素敵なところだなと思っていて、長義は悔しいけど好きなところだと思いそうな印象。
長義は生死とか文化とか概念的なところに確実な知識を積み重ねて自分なりに推察したり結論を探しに行こうとしているのが似合うと思っていて、国広くんに関しては楽しいとか好きよりも手前で琴線にひっかかったものへ、実際に手を動かして生活の中で親しんでいくのが似合うと思っているのかも。
それがそれぞれの人生の歩き方や走り方そのものにいつの間にかなっていって、どこかで互いのそれを認識したとき憧れに近いものを抱く瞬間がありそう、と思う。今のところ。
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奥会津地方の施設間連携企画展「奥会津の縄文」。先月は7施設中3施設を巡りました。今日は残りの4施設を。
まずは昭和村の縄文土器。からむし工芸博物館で。
次に金山町の縄文土器。金山町歴史民俗資料館で。
続いて三島町の縄文土器。三島町交流センター山びこで。
最後に柳津町の縄文土器。やないづ縄文館 土器とくらしのミュージアムで。
いろいろ見て回って来ました。
さすがに疲れましたが、楽しかったですね。
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