#日本ロック雑誌クロニクル
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barplasticmodel · 8 years ago
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悪魔と11人の子供達 / ブルース・クリエイション(篠原章)
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『悪魔と11人の子供達 』 ブルース・クリエイション (1971年(CD再発盤98年)) 日本コロムビア
はっぴいえんどとの出遭いは1970年にまで遡ります。あれから47年、ほぼ半世紀もの歳月が流れたのに、いまだにはっぴいえんどから足ヌケできていません。「人生ほぼはっぴいえんど」なんて、客観的に見ると、どこかおかしいんじゃないかと思うこともあります。
周りをみわたすと、人生ほぼビートルズとか、ストーンズとか、石原裕次郎とか、市川雷蔵とかいう連中ばかりですが、なんだかんだいっても、これらのアーティストは皆(元)アイドル、またはビッグ・スターですからね。はっぴいえんどはアイドルでもビッグ・スターでもなんでもありません。少々薄汚い、売れなかったジャパニーズ・ロック・バンドでした。
などと書き始めると、ここでもはっぴいえんどについて書くんじゃないか、と思うでしょうが、自他共に認める「はっぴいえんど系」の私も、もうあまり先が長くありません。そこでこのコラムでは、はっぴいえんど系・非はっぴいえんど系を問わず、「記憶のゴミ箱」をあちこちつつきながら、今まであまり触れたことのないアルバムやアーティストについて書き綴っていきます。ちょっとした遺書みたいなものですね。
で、第1回目のアーティストとして選んだのはブルース・クリエイション、取り上げるアルバムは『悪魔と11人の子供達』です。今や知る人ぞ知るバンドになってしまいましたが、1970年代前半の東京では間違いなくNo.1のブリティッシュ系ロック・バンドでした。
1970年代の日本のロック・シーンには3人の天才ロック・ギタリストがいました。東洋のちっぽけな島国に「3人の天才ロック・ギタリスト」とは、神様もずいぶん大サービスしたものですが、うちひとりがこのブルース・クリエイションの竹田和夫だったのです(他の2人は鈴木茂と高中正義)。
彼らのことを知ったのは1970年。ブルース・クリエイションは、『ニューミュージック・マガジン』のライブ情報の常連だったのです。が、観たことはありませんでした。当時は山梨県甲府市に住む中2でしたから、新宿まで2時間弱といえ、両親がライブ通いなど許そうはずがありません。
後に「ナイアガラ音頭」で有名になる布谷文夫が、ボーカリストを務めた第一期ブルース・クリエイションのファースト・アルバム『ブルース・クリエイション』は、1970年時点ですでに出ていたのですが(1969年10月リリース)、当時の日本ロックをめぐる情報環境は劣悪でしたから、このアルバムの存在は知りませんでした。『ブルース・クリエイション』は、だいぶ後になってから聴きましたが、竹田和夫の天才ぶりはよくわかるものの、折角の布谷文夫の声を生かしきれていない、ショボショボのブルース・ロックだと思いました。
1971年8月、両親を説得して、数人の友人たちと第3回全日本フォーク・ジャンボリー【岐阜県椛の湖畔(中津川市)で開催】に出かけました。いわゆる中津川フォーク・ジャンボリーですね。無論お目当てははっぴいえんどですが、2日間にわたって数え切れないほどのアーティストを観ることができました。そのなかにカルメン・マキ&ブルース・クリエイションがいました。ブルース・クリエイションが、「時には母のない子のように」からロック歌手に転身したばかりのカルメン・マキをサポートしていたのです。
1971年のブルース・クリエイションが「黄金時代」で、メンバーは竹田和夫(g)、大沢博美(v)、佐伯正志(b)、樋口昌之(d)。大沢を除くブルクリがカルメン・マキのサポートを始めたのもこの年のことでした。アルバム『カルメン・マキ/ブルース/クリエイション』も1971年9月に出ています。
カルメン・マキ&ブルース・クリエイションはメインステージの出演者でした。迫力はありましたが、マキの声がずいぶんうわずっていたという記憶があります。こちらがジャニス・ジョプリンみたいなパフォーマンスを期待していたせいもあったかもしれませんが、「まだロックに慣れていない」という印象でした(カルメン・マキ&OZの時代になるとその印象は一変します)。ブルース・クリエイション単独のステージも、サブステージで予定されていたと思いますが、見逃したか、それとも同時刻に他のステージにいたのか、まったく憶��ていません。
ブルース・クリエイションがナニモノかよくわからないまま、1971年8月にリリースされたセカンド・アルバム『悪魔と11人の子供達』を買いました。当時の甲府のレコード屋で日本のロックものを探すのは至難の業でしたが、偶然にもいつもレコードを漁っていた「飯島楽器」に入荷していたのです(このレコード店も今はもうありません)。甲府には中古盤屋はないし、レンタル屋もまだ存在しない時代ですから、1か月にアルバムを1枚買えるかどうかの小遣いのなかで、まさに「苦渋の決断」。棚に並ぶ英米ロックの新譜を観ないようにしながら、レジでお金を払って自宅に直行しました。
おそるおそる針を落としてぶったまげました。今ならNGタイトルですが、1曲目の「原爆落とし」はまさに英国系轟音。クリーム、ジミヘン、テンイヤーズ・アフター、レッド・ツェッペリンなどといったブリティッシュ・ハード・ロックに夢中になっていた時期でしたから、ジャストフィットです。聴いて間もなかったブラック・サバス『黒い安息日』(1970年)にも通ずるサウンドで、体の芯から打ち震えました。大沢博美の「アイ・ドン・ラブユ〜、エニ〜モア〜」という日本人英語は鼻につきましたが、竹田和夫はギターだけでなくボーカルも実にブルージー、ヘヴィなサウンドと斬新な楽曲構造にしてやられました。キーボードは入っていませんが、ギターをダビングして、ツイン・リード風にやっているところもカッコよかったのです。
ででで、忘れもしない1971年12月9日@山梨県民会館大ホール。ブルース・クリエイションがあのはっぴいえんどと一緒に甲府にやってきたのです。私にとって両巨頭相集う、こんな奇跡があろうものかと八百万の神々に感謝しました。おまけに仲の良かった先輩がたまたまライブの共催者で、私めはなんとローディーに任命されたのであります。ケーブルのつなぎ方さえ知らないのに「任せてください。ご安心を!」と売りこんだのですから、中学生ながら相当なタマだったわけです。
ケーブルやPAの準備やチェックは、結局、鈴木茂と竹田和夫を中心に先輩連がやってくれて、私はただただ感慨に浸りながら見物していただけでしたが、竹田和夫と大滝詠一が談笑するシーンまで目撃し、「えっ、ブルース・クリエイションとはっぴいえんどって仲がいいんだ!」とはしゃいだのを憶えています。「俺の選んだ道は正しかった!」と自慢したくなりました。
ライブの中身はというと…。実は情けないことに何も憶えていないのです。曲目も演奏も。相当舞い上がっていたんでしょうね。二組の「最高峰」がそこにいるだけでボクは幸せでした。「はっぴいえんどとブルース・クリエイションと一緒に日本のロックを創る��だ!」と考えながら、ステージを観ていました。裏方なんぞ手伝わなければ、もっと冷静だったと思います。
余談ですが、この日のライブはU.R.Cの仕切りでした。URCというとアンダーグラウンド・レコード・クラブ、即ちURCレコードを想い起こす人が大半でしょうが、この場合のU.R.C.は「浦和ロックンロールセンター」です。安全バンドや四人囃子のマネジメントなどを引き受けて活動するグループでした。ネットで見たら、まだ健在みたいですね。凄いことです。
翌1972年、東京の高校に進学しました。日吉の学生アパートで一人暮らしです。「お金の続く限りライブもレコードも」と意気込んでいましたが、なんとブルース・クリエイションは上京後まもなく解散してしまったのです。しかし、当時、中学の仲間を集めて結成していたバンドでは「ブルクリ完コピ」に挑み、『悪魔と11人の子供達』収録の「原爆落とし」「悲しみ」「脳天杭打ち」「スーナー・オア・レイター」をほぼ完コピして、学園祭などで披露していました(担当はギターとボーカル)。「原爆落とし」を聴くと、今でも体と指先が熱くなってきます。ホントは、はっぴいえんども完コピしたかったのですが、入っている楽器の種類が多いだけでなく、和声(コード)が難しくて音を取れなかったので断念しました。
ところで、竹田和夫と大滝詠一の「関係」については、興味深いエピソードがいくつかあります。
1969年頃のことですが、大滝は布谷文夫を通じて交流のあったブルース・クリエイションと行動を共にしていました。布谷のアパートで、一晩中レコードを聴きながら布谷、竹田とポップスやロックについて語りあい、朝方3人で早朝ボーリングに出かける、といったような生活を送っていました。ブルース・クリエイションがステージに立つときは大滝も同行して、ときには「500マイル」をエルヴィス・スタイルで歌うこともあったといいますから、今思えばびっくりするような話です。当時すでに大滝と面識があった松本隆は、「ブルース・クリエイションのマネージャーみたいなことをやってる人」「麻雀のときやたら怒鳴る人」という大滝観だったようです。
ある日、布谷のアパートに入り浸っていた大滝が、同じく入り浸っていた竹田に、「俺、こっちの方(B面)が好きだ」といわれ、それまで放っておいたバッファロー・スプリングフィールドのシングル「フォー・ホワット」(B面は「ドゥ・アイ・ハフ・トゥー」)を聴くことになったと伝えられています。大滝はこのときバッファローの良さを初めて理解し、それを細野晴臣に伝えたことではっぴいえんどに誘われます。また、「やっぱりオリジナルを自分でやった方がいいよ」という竹田のアドバイスで、大滝が「初めて音楽に趣味以上のものを見出した」というエピソードも残されています。大滝詠一がはっぴいえんどで活躍し、アーティスト・作曲��として大成するきっかけは竹田和夫によってもたらされていたのです。人と人の縁とは実に異なものです。
今、『悪魔と11人の子供達』を聴くと、「あれれ、このベースライン音がずれてるじゃん」とか「ドラムの音が悪いねえ」とは思いますが、当時の興奮は鮮やかに甦ってきます。と同時に、あの頃の日本ロックのアンダーグラウンドでモニョモニョとした胎動や、なんだか妙に青臭かった東京の空気が愛おしく思えます。
【篠原章(批評.COM主宰・評論家・経済学博士(元大学教授))】 1956年生まれ。音楽分野の主著に、『J-ROCKベスト123』(講談社・1996年)『日本ロック雑誌クロニクル』(太田出版・2004年)、おもな共著書に『日本ロック大系』(白夜書房・1990年)『日本ロック大百科』(宝島社・1992年4月)『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン社・2000年)『大滝詠一スクラップ・ブック』(ミュージック・マガジン社・2015年)など。経済や沖縄問題に関する著作も多い。 ■公式サイト:http://hi-hyou.com ■twitter:@akiran0723 ■Facebook:akira.shinohara1
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