ストーン夫人のローマの春
テネシー・ウィリアムズ小説集
テネシー・ウィリアムズ、斎藤偕子・訳
白水社
装幀=平野甲賀
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『彼方の光』
シェリー・ピアソル/斎藤倫子
偕成社
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【新・再入荷】
福音館書店の本
「かがくのとものもと 月刊科学絵本「かがくのとも」の50年」
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「のうさぎ」高橋喜平 藪内正幸
「みち」五味太郎
「まるのおうさま」谷川俊太郎 粟津潔
「どたんばたん おるすばん」松田奈那子 あかね書房
「かぞえうたのほん」岸田衿子 スズキコージ 福音館書店
「へいわとせんそう」Noritake 谷川俊太郎 ブロンズ新社
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「ライチョウを絶滅から救え」国松俊英 小峰書店
「ツバメのたび 5000キロのかなたから」鈴木まもる 偕成社
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きくちちきさんのとらこ原画展の会期中にぜひ。
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「ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集」
斎藤倫 高野文子 福音館書店
「詩集 燃える水滴」若松英輔 亜紀書房
「I LIKE YOU 忌野清志郎」河出書房新社
「 酒のさかな」高橋みどり ちくま文庫
山と渓谷社の本
「あたらしい草花あそび」相澤悦子
「魔女のシークレットガーデン」 飯島都陽子
「魔女の薬草箱」西村佑子
「ポケット図鑑 身近な草花 街中」亀田龍吉 文一総合出版
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中村江里『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』
中村江里『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館2018)
森田和樹
序章 戦争とトラウマの記憶の忘却
1 問題の所在
アジア・太平洋戦争期における「トラウマ」と本書の問い[p2-3]
:「戦時神経症」または「戦争神経症」と名付けられ、軍部や国家の一大関心事となる。
※ にもかかわらず、なぜ日本社会では戦後50年以上も戦争神経症は見えない問題となってきたのか。
2 先行研究と本書の位置づけ
直接の先行研究:野田正彰『戦争と罪責』(岩波書店1998)、清水寛 編著『日本帝国陸軍
と精神障害兵士』(不二出版2006)
→特に清水編著の方が戦争神経症を含む「精神障害」兵士について包括的に論じる唯一の
研究[p11]
問題点:・戦争神経症の顕在化と深い関連のある総力戦のインパクトが考慮されていない。
つまり、総力戦体制と「福祉国家」化や軍事援護研究が明らかにしてきたような、
総力戦期における動員の拡大と同時にとられるようになった多面的な統合策と精
神疾患の関係が考察されていない。[p12-13]
・国府台陸軍病院という陸軍病院の資料に基づいた考察に限定されており、国府台
陸軍病院の特質や患者の動態、戦争と精神疾患を取り巻くさまざまな文化・社会
的構造が捨象されているため、静態的な歴史像になってしまっている。[p13]
3 本書の課題と視角
課題[p14]
⑴総力戦期において軍隊内の精神疾患への対応にはどのような特徴があるのかを明らかに
すること
⑵戦時精神疾患の問題を国府台陸軍病院のみに集約せず、より広い文化・社会的構造の中
で再考すること
→視角[p14-15]
:・総力戦下において福祉領域へ国家の介入がつよまったという文脈を踏まえる。
→軍事援護という問題領域での議論を再構成する。
・医療記録に残された人々が全体から見ればある意味で特異な位置に置かれた存在であ
ったことを念頭に置き、国府陸軍病院の外に目を向ける。
→病気の発現の仕方や受け止め方を社会的、文化的構造のなかで捉える。
※ 精神科医で医療人類学者の宮地尚子が、一般的には受けた被害が大きければ大きいほどその人物は雄弁にその問題について語りうると考えられているが、実際にはトラウマ的出来事からの距離の近さは発話力に反比例すると指摘していることに示唆を受ける。
第1章 兵員の組織的管理と軍事心理学
総力戦としての第一次世界大戦[p24-25]
→・軍部はあらゆる分野の関連を要請する総力戦という衝撃によって心理学も含めた軍事
以外の分野に関心を持つようになる。
・心理学では「作業能力とその発言に関する研究」を行う実験心理学という分野が産業
効率化にも利用されるようになり、その力量を活かせる場を探していた。
1 軍隊と心理学[p25-33]
-陸軍と心理学研究
・1921年4月から陸軍士官学校の教育課程のなかに心理学が設置される。
背景:第一次世界大戦におけるドイツ軍の敗北と帝政ロシアの崩壊(ロシア革命)によ
る大正デモクラシー(「新思想」)の開花と「思想悪化」
→強圧的で盲目的・奴隷的服従ではなく、「理解ある服従」を兵士たちに求めることで軍紀
を引き締める必要性が高まる。そのためには将校が教育学や心理学の知識を身につけて
おかなければならないとされる。
→実験心理学および戦争心理学と呼ばれている分野が陸軍に応用される。
「精神的の機能を分量的に而も其個人差を測定せんとする」分野
ex)「戦時及戦争中の心理」(戦争心理学)「平時の軍隊心理」(実験心理学)の把握
:実験心理学の実践として当時渡米していた東京帝国大学教授松本亦太郎らにより、第一
次世界大戦中に米軍で実施された集団式知能検査が紹介され、実際に検査が行われる。
※ しかし、陸軍では海軍のように特殊化・細分化された技能を持つ兵員を選抜する必要がなかったため、検査自体は単発で終わる。
2 戦争心理・戦争心理研究[p34-45]
⑴内山雄二郎『戦場心理学』
:陸軍では、心理学・教育学・倫理学・社会学を研究するために2年あるいは3年間将校
を東京帝国大学および高等師範学校などに派遣する制度が戦間期にできあがっており、
その制度に基づき1927年から1930年まで東京帝国大学文学部において教育学・心理学
の聴講を命じられ、系統的な心理学研究を行った歩兵少佐内山雄二郎が書いた本。
→この本のなかで内山は、戦争において臆病であったり精神的に不調をきたしたりするこ
とは、必ずしも兵士個人の性質にのみ原因が帰せられるべきではなく、環境などの外的
要因の影響も大きいと指摘。
⑵『偕行社記事』における戦場心理の報告
陸軍将校の研究・親睦組織「偕行社」の機関紙『偕行社記事』において満州事変から日中全面戦争の時期に「戦場心理」を関した論文が多数掲載される。
:前線よりも後方部隊の方が戦闘の悲惨な光景から受ける精神的影響が大きく、恐怖観念
を伴う、死傷者が出た場合に後送を申し出る者の中には臆病者がまじっている、負傷し
て後送される兵士を羨むなど、さまざまな事例が報告される。
⑶教育総監部における研究
:1938年、数回戦場心理班を設け前線兵士たちに質問用紙調査と聞き取り調査を行う。
※ 資料は終戦時の「処分」命令と戦災によって紛失
第二章 戦争の拡大と軍事精神医学
軍隊における精神病はなぜ問題とされるのか。
-1912年陸軍軍医学校卒業式における「御前」講演[p52-53]
:「精神変質」や「精神薄弱のような「素因ある兵卒」が「生活の激変」を伴う軍隊生活に
入ることで精神病が発生し、それによって抗命、逃亡、離散などの「犯罪」を犯すよう
になり、それが軍全体に広まる。
1 日中戦争以降の治療方針と治療体系
1937年8月患者後送計画[p54-55]
;・治療に一ヶ月以上かかるものは内地移送とする。
※ 朝鮮人、台湾人兵士に関しても同様。
・内地移送された兵士は、国府台(こうのふだい)陸軍病院(千葉県市川市)で治療を
受ける。
※ 国府台陸軍病院は、1938年11月に重度の「戦時精神病」患者を治療するための特殊病院として開院。そこの軍医たちはエリート中のエリート。なお、斎藤茂吉の長男、斎藤茂太も国府台陸軍病院で軍医を勤めていた。
2 「戦時神経症」の定義
軍医たちは戦争神経症をどのように理解したのか。[p59-61]
・陸軍軍医大佐梛野巌の講演での発言(1937年11月)
:・第一次世界大戦で注目を浴びたKriegsneurose(ドイツ語で「戦争神経症」)に対して
「戦時神経症」という訳語をつけた。神経症患者が戦線から離れるほど重篤化し、後方
部隊や休暇で帰郷中にも発症することがあるため、「戦争」ではなく「戦時」という言
葉に置き換えた。
・「戦時神経症」の具体的症状の大部分はヒステリー(麻痺・知覚過敏症・歩行障害・言
語障害・聴覚障害など)とする。
・「戦時神経症」の原因には先天的な部分と後天的な部分があるとしつつ、根本的な
原因は「帰郷願望」にあるとし、治療はこうした願望を打ち砕くことであるとする。
3 「皇軍」における戦争神経症の存在の隠蔽
・陸軍医務局は、欧米軍に多数発症した戦争神経症は、日本の皇国民の場合、士気旺盛な
ため起こりえないと述べる。
・しかし、民衆の間では帰還兵のなかに精神的変調をきたすものたちの存在(「戦地ボケ」)
の噂が流れていた。
小括
このように軍隊における精神疾患の原因を兵士個人の脆弱性・逸脱性に帰する見方は、過酷な戦場の状況や軍隊内務班における「私的制裁」などが兵員の精神に及ぼす深刻かつ長期的な影響を見過ごし、ひいては戦争と精神疾患に関する軍部の責任を免責する論理につながったと考えられる。またこうした問題が戦後日本社会において広く認識されることを阻む一要因にもなったのではないだろうか。[p70]
第3章 戦争の長期化と傷痍軍人援護
戦争の長期化と援護政策の展開[p78-79]
・1937年3月軍事救護法が改正され、軍事扶助法が制定される。
・扶助対象の拡大と充実がはかられる。
・1937年11月内務省社会局に臨時軍事援護部が設置され、1938年4月には厚生省外
局として設置された傷兵保護員が臨時軍事援護部から独立して傷痍軍人保護事務を担
うことになる。また、1939年7月には臨時軍事援護部と傷兵保護員合併し、軍事保
護員が設置され、傷痍軍人・軍事遺家族・期間軍人の援護事業を統合的に行う。
1 医療保護
⑴傷痍軍人療養所の開設[p79-83]
療養所入所資格
:陸海軍病院での診断の結果、兵役免除と判断され、引き続き療養を必要とするもの。
※ 結核と精神症をわずらった人々に対しては、「公務に基因」と規定することで、対象者を広くとる。
→恩給診断書に関わる問題(「傷痍軍人」としてさまざまな優遇恩恵を得られるかどうかの
線引きには戦傷病が戦闘・公務に基因するかどうか。)
:精神神経疾患の場合、外相という明確が原因が存在する頭部戦傷や外傷性癲癇などは一
等症だったが、精神分裂病をはじめとするそのほかの精神疾患は戦争末期に傷痍疾病差
が改定されるまで二等症であった。
→「傷痍軍人」とそれ以外の傷病兵との間に区別が存在することによって、傷病兵たちの
間の不満を高めるのではないかという問題が起こる。
⑵傷痍軍人武蔵診療所[p83-88]
武蔵診療所までのルート
① 回復して原隊復帰の見込みがある者は国府台陸軍病院に残る。
② 症状が固定して回復(原隊復帰)が見込めない者のうち家に帰れる者は帰る。
③ 帰れない者は武蔵診療所へ転送される。
※ このような患者の再配置は、戦況の悪化に伴い、先頭・労働能力に応じて人員をより組織的に管理しようとした試みであったといえる。
武蔵診療所の入所数(1940~1945)
総数:953名
精神分裂病、進行麻痺、躁鬱病、神経質・神経衰弱・ヒステリーなど、神経薄弱、癇癪という順番に患者が多かった。
⑶食糧事情の悪化と死亡率の上昇
戦争の進行とともに療養所の食糧事情が悪化し、死亡者の増加につながる。[p89]
2 職業保護-「再起奉公」の対象外となった精神障がい者-[p90-92]
戦時下の傷痍軍人保護の中でも最大の問題は、就労能力を失った「戦争傷痍者」を再び職業戦線に参加させ、「第二の御奉公」をさせることであった。なぜなら、人一倍健全な身体をもって国家の為に尽くして傷ついた者を「生来の不具者」と同列にしてはならないからである。そのためには、職業教育によって職業生活への復帰を可能にする必要があった。それは、傷痍軍人を日露戦争時のように「社会的寄食者」の状態に置くのではなく、積極的に国家の「人的資源」として活用すべしという総力戦の要請とも合致するものであった。[p90]
→・傷痍軍人援護における職業斡旋は、基本的に総力戦という文脈のなかで理解すべき。
・第一次世界大戦期のドイツでは神経症患者の戦時労働力化が組織的にすすめられ、労
働が治療の一環として考えられる一方、恩給の節減という国家の目的にもかなったも
のであった。
※ 結局、精神障がい者となった人々は雇用されず。
3 国民教化-保護と排除のせめぎあい-[p92-97]
国民教科の第一指導目標
:「国民をして、戦没軍人、傷痍軍人及出征軍人に対する感謝の念を昂揚持続せしめ、苟も
年月の経過に伴ひ冷却するが如きことなからしめること」
→ポスター・パンフレットなどの文芸作品の作成、映画・レコード・ラジオの利用、標語・
絵画などの募集、善行者の表彰など
※ 戦傷病兵間の亀裂/戦傷病者緒方文雄による病院生活の記録『陸軍病院』(講談社1941)
:皇軍将兵には戦争神経症のような意志薄弱な1人でもいるはずがない。
→恩典を貰ってしかるべき「われわれ」と大した症状もないのに恩給を要求する戦争神経
症の「彼ら」を差異化。
第Ⅱ部 戦争とトラウマを取り巻く文化・社会的構造
第1章 戦場から内地へ-患者の移動と病の意味-
戦場から内地へ、また病院から郷里への移動は、単に物理的な移動にとどまらない、病の持つ意味が変移していく経験だったのである。[p106]
1 統計から見たトラウマの地政学[p107-112]
1940年の陸軍身体検査規則改正
:徴兵身体検査の基準が大幅に緩和され、従来不適合とされていた「身体又は精神の異常
のある者」であっても兵業に支障がなければ合格判定を出すことに。
→患者数の増加
:・国府台陸軍病院に送られてきた患者の圧倒的多数が中国大陸からの患者であった。
・しかし「精神病」および「その他の神経病」者数は1942年〜45年の4年間だけでも
国府台陸軍病院に収容された患者数をはるかに上回っていた。
⇒国府台陸軍病院は、精神神経疾患の治療の中心地と位置付けられていたが、入院した患
者は全体のうちのごく一部であり、その背後には精神疾患を患いながらも内地に還送さ
れなかった膨大な数の患者が存在していた。
→内地に還送されて治療を受ける者は「特権」とされ、軍部や将兵たち自身が特有の目線
を向けることにつながった。
Ex)・内地還送を望んで自傷行為に及ぶものたち
・後方へと送られることを「恥」と考え、自殺するものたち
※内地還送をめぐってさまざまな心性が兵士たちの間に広がる。
2 戦場に取り残された精神疾患兵士たち
「中国では精神を患った兵士には全く出会わなかった」という証言
→軍隊内部、野戦病院・兵站病院においても患者は隔離されていた。[p114]
3「ヒステリー発生の温床」としての陸軍病院
国府台地区軍病院の軍医たちは、戦場から内地へ還送された患者の病像変化に多大な関心を寄せる。
→笠松章「戦時神経症の発見と病像推移」/細越正一「戦争ヒステリーの研究」[p130-131]
:・戦場体験直後の反応とその後の時間差を伴って現れる症状を区別し、前者は誰にでも
生じうる生理的な反応で一過性のものであるとする一方、後者は戦場からの逃亡や恩
給などの願望のもとに発言する症状とされた。
・持続的な精神加工による症状の発展固定への移行が前線から後送され内地陸軍病院に
いたるまでの患者の移動と重ね合わされて捉えられる。
・同一の体験でも発症する人としない人が生じるのはなぜか、という問題に対しては「本
人の素因」に原因を還元する。
小括
基本的に国府台陸軍病院の軍医たちは、戦争神経症の原因を、暴力に満ちた戦場・兵営の状況ではなく、願望や素因のように患者個人に問題があるためだと考えた。このため、戦場・兵営体験の持続的で長期的な影響は見過ごされることになった。国府台陸軍病院の軍部に言わせれば、前線と銃後の中間地点に点在する陸軍病院は、後方に近づくにつれて「ヒステリーの温床」としての性格を強めていくものであった。[p134]
第2章 一般陸軍病における精神疾患の治療-新発田陸軍病院を事例に-
1 衛戍病院・陸軍病院における精神疾患の治療
衛戍病院→陸軍病院という名称へ(1936年11月)[p139-143]
:戦争の長期化とともに各陸軍病院内の精神治療科も拡大
2 陸軍病院と銃後社会
⑴新発田陸軍病院の概要[p144-145]
・三等甲病院で収容人数は294名
※ 一等病院(小倉・大阪・広島)の収容人数は2950、2731、913、二等病院である国府リクグ運病院は1272名
⑵患者の慰問[p146]
・大日本国防婦人会の支部会員たちが頻繁に病院を訪れる。
⑶病気を恥じる兵士と家族[p147-148]
・<健康な身体>の基準を満たさないことは<国民>として、<男>として恥ずべきとい
う価値観が社会的に共有されていたため、身体的要因によって除役となることは「恥ず
べきこと」と考えれた。
Ex)「遺憾」と感じたある男性は、徴兵保険金を献納、後送を拒否、遺家族が献金(償い)、
自分の病気の悪化に際して必ず全快させて再び原隊復帰させてくれと頼む患者
⑷「白衣の勇士」のあるべき姿[p149-150]
・「第二の奉公」を志すものたち-戦傷病兵たちの再就職を準備する場としての陸軍病院
・「偽傷痍軍人」の登場
3 新発田陸軍病院病床日誌に記録された精神神経疾患
・新発田陸軍病院では「神経衰弱」患者が最も多く、そのなかには頭痛や睡眠障害などを
伴う軽度の心身の不調から、自傷他害のおそれがあるため受診に至ったケースまで幅広
く存在していた。[p159]
・除役になるという経験-兵役を全うできずに郷里へ変えることが<男として>恥ずかし
いという意識。[p162]
[補論]戦争と男の「ヒステリー」-アジア・太平洋戦争と日本軍兵士の「男らしさ」
軍医と患者の口問
口問
(中略)
(三)お前の病気は一体なんだと思ふか?-ヒステリー
(四)ヒステリー等は日本の兵隊にあるか?-ありません
(五)一体どんな人間がかかる病気か?男か?女か?-女です[p195]
→・ヒステリーの特徴である感情的反応の強さは、女性に生まれつき備わった性質である
ためにヒステリーは女性に多いという説明が社会的に広がっていた。
Ex)女性解放運動は、「ヒステリー性の跋扈」であり、「戒むべきこと」
・軍隊における「女々しさ」=「女性性」を否定的価値として措定し、それを克服する
ようにする文化
⇒ヒステリーになった兵士は、「女々しい」恥ずべき存在として自他ともに捉えられた。[p183-196]
第3章 誰が保証を受けるべきなのか-戦争と精神疾患の「公務起因」をめぐる政治-
・「戦時神経症」と傷病恩給の関係性はどのようなものだったのか。
1 陸軍における恩給制度
・恩給法[p203-206]
傷痍疾病等差-一等症、二等症(公務起因でない場合)
恩給の種類:・普通恩給
・ 一時恩給
・増加恩給
・傷病年金
・傷病賜金
2 国府台陸軍病院における恩給策定
・恩給策定は軍医によって行われていた。[p209-213]
→軍医たちは、頭部外傷やマラリアなどの流行病患後の精神神経疾患のように公務に起因
することがわかりやすいものたちを「一等症」にする一方、「精神薄弱」は「二等症」と
した。
→精神分裂病、躁鬱病、反応性精神病、神経衰弱、癲癇などは公務に起因するか否かを判
定する要素として重視された。
※ しかし実際にはこれらの要素ではなく、軍務への貢献によって公務起因かどうかを判断するようになった。
・「戦時神経症」をめぐるアリーナとしての臨床
→軍医たちは、戦争神経症の発症メカニズムを説明するうえで、患者の願望(逃亡欲求な
ど)を重視していた。
戦争神経症の治療の場は、まさに自らの生存・生活をかけた患者の訴えと、彼らが国家のために自らが払ったと主張する「犠牲」を客観的に証明できる器質的根拠がないことを立証しようとする軍医の主張がせめぎ合うアリーナだった。[p217]
※ 扶助をもらえなかった患者たちが「当局を非難し動もすれば反軍的なこと迄も云々する。」[p217]
・恩給の策定[p229,233]
→・内地で発症した患者を一等症患者からなるべくのける。(1942年以降、内地で発病す
るものたちが中国大陸で発病するものたちを上回る。)
・「勤仕年月六ヶ月以上」や「困苦状況」の証明がない限り、公務起因で発病したとはみ
なさない。
3 戦後の精神疾患と傷病恩給をめぐる言説と実態
恩給申請という行為への着目は、個人及び集団の戦争記憶が構築され、戦われる場や、自己の問題経験を定義し、社会や国家に向けて訴えようとした主体としての戦争被害者像を前景化させる。しかし一方で、その語りはある一貫したストーリーと公務起因とう法の規範を満たしていなければ裁定には結びつかなかったものと考えられる。援護法をめぐる議論でも指摘されたように、公務起因の要件として発症時期は限定されており、戦後長期間を経て発症した遅発性PTSDは対象外となった可能性が高いだろう。また、言語化不可能(困難)であるというトラウマの性質や、戦争・軍隊経験のように、戦地で殺し殺される恐怖、厳格な上下関係、飢えや病に苦しみながらの果てしない行軍など種々のストレスが複合的に絡み合う経験とは馴染みにくい制度であるとも言えるのである。[p253]
第4章
1 旧国府台陸軍病院入院患者の戦後
目黒克已による証言(1965年に旧国府台陸軍病院に入院していた戦争神経症患者を調査)
現在はそうでもないですが、調査した時点では精神病患者に対する差別があり、精神病であるということだけで日本の社会の中で切り離されていましたね。たとえ病状が軽くても本人も親族も言わないし、言えば就職も結婚もできない、出世もできないというのが普通でした。彼らは指針病であるということ自体を恥と考えていたし、その延長線上で返事をしない人々が多数いました。[p268]
2 神奈川県の精神病院に入院した元兵士たち
自己および他者に対して攻撃性を発揮する患者たちの存在
:「軍隊の現実が市民の現実に取って代わる時、感情や行為の認知スタイルも変化する・・・
この新しい認知の仕方、体験の仕方を身につけるということは人格の完全な変容を意味
する。」(シャータン)[p282]
→・家庭内暴力の存在
・「社会適応」の再考-結婚や就職を通しても「社会適合」はなされない。[p293]
3 臨床の場に現れた戦争の傷跡
PTSDはよく「異常な状況にたいする正常な反応」であると言われるが、そもそも正常/異常の境界線は、文化やその時代の価値観に大きな影響を受ける。「日常的に人を殺す」ことが「異常」であると考えるのは戦後の市民社会における価値観であると言えるだろう。「人を殺せる」兵士こそが「正常」であるという圧倒的な価値体系のもとで生きなければならなかった元兵士の中には、そうした軍隊の論理と、個人の良心や戦後の市民社会における加害行為を否定する論理とのギャップに苦しみながら戦後を生きた人々もいたのではないだろうか。[p191-192]
終章 なぜ戦争神経症は戦後長らく忘却されてきたのか?
⑴精神的犠牲者の大部分を占める戦地に取り残された人々の記録が軍事精神医療システム
から抜け落ちてしまっていたり、終戦時の焼却命令などによって失われたりしてしまっ
た。また彼ら自身も「自分だけが生き残ってしまった」という生存者罪悪感や記憶喪失
などのために証言することが困難であった。
⑵軍事精神医療システムに組み込まれたとしても、過酷な「戦場」体験がその直後に何ら
かの影響を人間の心身に及ぼすということは認知されていたものの、それがいかに長期
的な影響を及ぼすかという点は考慮されていなかった。
→「戦場」とは地理的に限定された概念でいいのか、また国家間の戦争が終わるとともに
それは消失してしまうものなのか。
トラウマを負った人はよく「二つの時計」を持っていると言われる。一つは現在その人が生きている時間であり、もう一つは時間が経っても色あせず、瞬間冷凍されたかのように本尊されている過去の心的外傷体験に関わる時間である。そのような圧倒的な恐怖を核とする心的外傷後の反応として戦争神経症を捉え直してみると、病院に居るはずなのに敵襲に怯えたり、死んだ戦友の幻覚に悩まされる兵士や、明確に言語化はされてないがさまざまな身体の機能障害(とりわけ四肢の痙攣や目・耳の機能障害など軍事行動に関連する部位の障害が多かった)を呈する兵士など、彼らの心身に刻み込まれた「戦場」の痕跡が存在した。これらの事例に加えて、第Ⅱ部第四章の神奈川県や山形県の精神病院入院患者の事例もあわせて考えると、「戦場」という空間から離れ、「戦時」という時間が終わってもなお残る傷を生み出す-そして「戦後」もしくは「新たな戦前」になるかもしれない時代を生きる私たちもまた、その傷とともに生きている-ものとして戦争を捉え直すことが必要なのではないだろうか。[p306-307]
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きむらゆういち × 竹内通雅「お父さんのための読み聞かせ会『あいたくなっちまったよ』」『あいたくなっちまったよ』(ポプラ社)刊行記念
8月4日、童話作家のきむらゆういちさんと画家・絵本作家の竹内通雅さんによる新刊絵本『あいたくなっちまったよ』がポプラ社から発売されました。
同書は『あらしのよるに』で知られるきむらゆういちさんによる、お父さん目線の切なくて優しい物語。竹内通雅さんによる、大胆な構図と迫力満点の絵も見ごたえ十分です。父ちゃんねずみに立ちはだかるやまねこの心の動きは読者の胸に響き、親子での読み聞かせにぴったりな、ダイナミックかつ繊細な絵本となっています。
今回、この刊行を記念して、著者のきむらゆういちさんをお招きするトークイベントを開催します。ゲストは、『あいたくなっちまったよ』の絵を担当されている竹内通雅さん。
「お父さん絵本の新定番」という同書が、どういう経緯で生まれ、どんな気持ちで作られたか……。 そして、そこに込められたお父さんへの想い、お子さんへの想い。また、同書に限らず、お二人はどうやって物語と絵を生み出しているのか……といった制作の秘密にも迫ります。
当日は、作者自身による読み聞かせも予定しています。 お楽しみに!
※乳幼児、児童同伴の参加OK(小学生以下無料)
※お子さまは2名まで同伴可能。お席ご用意のため、申し込み時にお子さまの人数を必ず明記してください
※サインは、お一人さま一冊までとさせていただきます
【出演者プロフィール】
きむらゆういち(きむら・ゆういち)
童話作家。東京都生まれ。多摩美術大学卒業。造形教育の指導、テレビ幼児番組のアイディアブレーンなどを経て、絵本・童話作家に。 『あらしのよるに』(講談社、絵・あべ弘士)で講談社出版文化賞絵本賞、産経児童出版文化賞、JR賞受賞。同舞台脚本で斎田喬戯曲賞受賞。同作品は映画化もされ、脚本を担当。同映画は日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞を受賞。また同絵本は2015年に京都で歌舞伎化され、翌年には東京で再演となった。『オオカミのおうさま』(偕成社、絵・田島征三)で第15回日本絵本賞受賞。
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竹内通雅(たけうち・つうが)
長野県生まれ。玄光社イラストレーション誌第3回ザ・チョイス 年度賞大賞受賞。絵本作品に『えらい えらい!』(そうえん社、文・ますだゆうこ)『ぶきゃぶきゃぶー』(講談社/現在 絵本館、文・内田麟太郎)『おどるカツオブシ』『オニたいじ』(金の星社、文・森絵都)『走れメロス』(ほるぷ出版、文・太宰治)『月夜のでんしんばしら』(三起商行、文・宮沢賢治)『ぐるぐるぐるぽん』(文溪堂、文・加藤志異)『へんてこレストラン』(絵本塾出版、文・古内ヨシ)など多数ある。
■時間
15:00~17:00 (14:30開場)
■場所
本屋B&B
世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2F
■入場料
1500yen + 1 drink order
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今週の購入本
◇ 2017年8月24日(木) 大船・ブックオフ
嵐山光三郎「口笛の歌が聴こえる」(1988/新潮文庫)
紀田順一郎「古本屋探偵登場」(1985/文春文庫)
森巣博「ろくでなしのバラッド 人間は賭けをする動物である」(2000/小学館文庫)
久住昌之・原作 谷口ジロー・作画「孤独のグルメ」(2000/扶桑社文庫)
小市和雄・監修「横浜謎解き散歩」(2013/新人物文庫)
今柊二「かながわ定食紀行」(2008/かもめ文庫)
三田誠広「早稲田1968 団塊の世代に生まれて」(2013/廣済堂新書)
杉田俊介「宮崎駿論 神々と子どもたちの物語」(2014/NHKブックス)
川柳川柳「天下御免の極落語 平成の爆笑王による“ガーコン”的自叙伝」(2004/彩流社)
高田文夫・責任編集「キンゴロー」(1992/ワニブックス)
◇ 2017年8月24日(木) 東戸塚・ブックオフ
W・サローヤン 岸田今日子 内藤誠・訳「ママ・アイラブユー」(1987/新潮文庫)
村上春樹「若い読者のための短編小説案内」(2004/文春文庫)
村瀬秀信「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」(2016/講談社文庫)
安西水丸「夜の草を踏む」(2004/光文社文庫)
柳家権太楼「江戸が息づく古典落語50席」(2005/PHP文庫)
檀一雄「わが百味真髄」(1983/中公文庫)
西研「集中講義 これが哲学! いまを生き抜く思考のレッスン」(2010/河出文庫)
池内紀「地球の上に朝がくる」(1992/ちくま文庫)
京須偕充「古典落語CDの名盤」(2005/光文社新書)
佐藤愛子「人間の煩悩」(2016/幻冬舎新書)
コロッケ「マネる技術」(2014/講談社+α新書)
オール巨人「師弟 吉本新喜劇・岡八朗師匠と歩んだ31年」(2012/ワニブックス)
二階堂和美「二階堂和美 しゃべったり 書いたり」(2011/編集室屋上)
広告批評・編「広告大入門」(1992/マドラ出版)
◇ 2017年8月24日(木) 横浜ビブレ・ブックオフ
野村萬斎「狂言サイボーグ」(2013/文春文庫)
沢村貞子「私の浅草」(1987/新潮文庫)
沢村貞子「わたしの三面鏡」(2014/ちくま文庫)
山城新伍「若山富三郎・勝新太郎 無頼控 おこりんぼさびしんぼ」(2008/廣済堂文庫)
桂枝雀「落語で英会話 すぐに役立つ、シャレたフレーズ」(2003/祥伝社黄金文庫)
井上ひさし「國語元年」(2002/中公文庫)
金子光晴「西ひがし」(2007/中公文庫) ※改版
正宗白鳥「内村鑑三/我が生涯と文学」(1994/講談社文芸文庫)
吉田健一「ヨオロッパの人間」(1994/講談社文芸文庫)
しまおまほ「まほちゃんの家」(2007/WAVE出版)
小出恵介「俺の同級生」(2015/宝島社)
なぎら健壱「酒場のたわごと」(2014/実業之日本社)
せんだみつお「「せんだみつお」が只管ニッポンについて考えた笑えない22のこと。」(2010/駒草出版)
永六輔「永六輔の芸人と遊ぶ」(2001/小学館)
「笑芸人」14号 ※特集・笑うラジオ (2004/白夜書房)
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