#徳陽シティ銀行破綻
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sattworld · 6 years ago
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当時この銀行の破綻の影響もろに受けたなぁ。
今で言うとこの派遣で千葉観光という会社のホテル瑞鳳で勤務してて…。
有料記事ということで該当部分より転載。
平成29(2017)年10月、東北最大の歓楽街・仙台市国分町。バブル華やかなりし頃を象徴するディスコ「マハラジャ仙台」が、25年ぶりに復活した。六本木、大阪、名古屋などに続いて6店舗目の再オープン。“お立ち台”や“VIPルーム”もあり、多い日には300人が入る。
 客層は、マハラジャ仙台があった1984~92年を知る世代が大半。代表の相沢堅一さん(48)は「とにかく良い時代だった。子育ても一段落、時間やお金に余裕ができて、あの頃に戻って楽しもうという人が多い」と数年前から続くブーム再燃を読み解く。
     ◇
 経験した世代に今なお、忘れ難く強烈な光を残すバブル。しかし光が強ければ強いほど、影もまたそのトーンを濃くする。平成は、弾(はじ)けた夢と壊れた社会の後始末に追われた時代でもある。
 平成9(97)年11月26日、東証一部上場の第二地銀「徳陽シティ銀行」(仙台市)が破綻(はたん)した。
 高砂支店長だった小林則悳(のりみち)さん(73)はその日午前4時、本店からの電話で目覚めた。「午前6時半までに支店に行ってほしい」。理由を聞いても「とにかく行ってくれ」の一点張りだった。
 支店全員が固唾(かたず)をのんで見守ったテレビのニュースが、破綻を告げた。寝耳に水だった。しばらくすると顧客がシャッターの外に並び始めた。支店全員で預金の払い戻し業務に当たるよう指示した。不安を減らそうと、届いた現金は顧客から見えるようカウンター内に積み上げた。
 シャッターを下ろした後も業務は続き、最後の客に預金を払い戻した時は午後7時を回っていた。検算は1回で終わった。めまぐるしい1日だったが、ミスはただの一つもなかった。ふと、外からシャッターをたたく音がした。恐る恐る開けると、差し入れのおにぎりを手にしたお客さんだった。
 海岸清掃にすずめ踊り。地域に根ざした活動や顧客との距離の近さが誇りだった。定年まで勤め上げるつもりだった。「夢に融資してくれる銀行だったね」。破綻後に客からかけられた言葉が忘れられない。
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 それから約20年が過ぎた県内に目を移す。平成30(18)年の公示地価は全用途平均で6年連続で上昇し、仙台市内で家を持てない若い世帯が郊外へ向かう。同年11月の有効求人倍率は1・67で、バブル期の平成3(91)年3月の1・61倍をも上回る。
 政権交代後の未曽有の金融緩和策や財政出動も手伝い、「金融機関がバンバン金を貸そうとして、マネーが不動産に流れている。この高騰ぶりはバブル期に似ている」(平成29年、市内の不動産会社社長)との声も聞かれる。県内に関して言えば、「復興バブル」なる言葉さえ生まれた。
 小林さんは、その後も波瀾(はらん)万丈の人生を歩んだ。平成10(98)年12月に再就職した川崎町のメーカーでは、財務内容を巡って社長と対立、5カ月で退職した。そのメーカーは、やはり倒産した。配送トラックのドライバーも経験した。3社目では親会社が倒産したが、元金融マンとして��信条に従って実現可能な再建計画を立てて会社の危機を救った。その会社は現在も順調だ。
 仮想通貨や株価の乱高下など、最近の経済情勢はバブル期の再来のように感じる時もある。「価値観が多様化し、未来予測は難しくなった。労働ではなく、お金を動かして財を得ようという人も増えた。人間は痛い思いをしないと、分からないのかもしれません」
 〈徳陽シティ銀行破綻〉 北日本銀行(盛岡市)、殖産銀行(山形市)と合併し、預金量2兆円を超える第二地銀第5位の「平成銀行」になる予定だった。しかし、徳陽シティが抱えている巨額の不良債権への不安から合併は頓挫。東京や大阪に進出した徳陽シティは、地盤のない場所で都銀と勝負するため、他行が貸さない「水もの」と言われる飲食店や個人経営者にも積極融資し、その多くが焦げ付いた。平成8(1996)年に、不良債権の総額は770億円と公表した。
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