#平壌STAGE
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公有を模索すること、武藤大祐のつぶやきから
最もどうでもいい意味において「コンテンポラリーダンス」を程よく摂取したMIKIKO振付のダンスが巷��流行る。曲がりなりにもアートとして振付に携わる人達は何とも思わないのだろうか? 「ダンスを作る」ことを考える人たちはどうしても芸術とかアートの観念に頼ってしまう。美学的な「表現」であれ政治的な「発言」であれ、結局は「個」の発話でしかない。しかしダンスがダンスたる所以は「反復」性ではないか。素朴に「個」として動いて、「作品」を上演しても、ダンスには届かない。
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「コンテンポラリーダンス」の終息は、演劇が1970~90年代にダンスから刺激を受けつつポストドラマ的な路線を発展させていった過程と呼応する。ダンスは劇場でブイブイ言わせてる間にその想像力を劇場サイズへと矮小化して行き、美味しい所を演劇が大体吸収した頃には不毛なジャンルになっていた。劇場=公共=普遍、という価値の系列がそもそもダンスにそぐわない…とすれば、どんな価値観とその共有の仕方があるか。そこまで考えてみても良い。というか考えてみるべきではないか。ノヴェールもマーサ・グレアムも、ヌーヴェルダンスも、ダンスを劇場の芸術に仕立て上げたところで行き詰まったし、フラメンコでもベリーダンスでもタンゴでもアイリッシュでも何でも大抵の人は「公共性」を求めて同じ轍を踏む。そして今はストリートダンスが同じことをやっている。劇場やアートワールドでしか、実験的なダンス(従来とは異なるダンスの試み)はできないのか。そんなワケはない。ただ異質な知性や技術が必要になるだけだろう。どんどん実験して、開発していけば良い。トマス・トゥリノ『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ 歌い踊ることをめぐる政治』(2015、水声社)の第1章では音楽やダンスを「参与型」「上演型」に大別し、各々の特徴を考察している。そもそも十分に��い視野に立つなら出発点はこうなる。劇場舞踊だけを見てる人にとって「ダンス」は「演劇」と接していたり「演劇とダンスの境界線なんて無意味」だったりするが、しかし広くダンス全般を見渡してみればダンスは他にも「音楽」「スポーツ」「儀礼」「酒」「性」など様々な事と接点を持っている。「演劇」はせいぜいこれらの一つに過ぎない。
劇場の閉館とか全くどうでも良い。むしろ1990年代後半から2000年代前半のコンテンポラリー「ダンス」への熱の正体が、実は「ダンス」以上に「舞台芸術」への熱だったのかと思うとやり切れない気持ちになる。それはあたかも映像よりも映画を、音よりも音楽を、言葉よりも小説を大事にしてしまう不毛な倒錯に似ている。1990年前後は「ダンス」というもの自体がトンがった、ある意味で新しい領域だった。それまでダンスに無縁だった人たちがフォーサイスやバウシュや勅使川原などを追いかけるようになった。しかしそれが結局は「ダンス」というより「舞台芸術」「ポストドラマ演劇」としての受容だったわけだ。自分も例外ではなく、最初はフォーサイスの舞台演出とかセノグラフィー的なところに引っ掛かってただけだった。『アーティファクト』の、ダンサーたちが踊っている最中の幕の上げ下げ(とフォーメーションの転換)が最初の衝撃で、だから当時は演劇もダンスも区別なく見ていた。自分の中で「舞台芸術」から「ダンス」への転回が起きたのは明確に1998年の夏。『ムトゥ 踊るマハラジャ』を渋谷シネマライズ(6月公開)で見て、同時期に桜井圭介『西麻布ダンス教室―舞踊鑑賞の手引き〔増補新版〕』(白水社、8月刊行)を早稲田のあゆみブックスで買った。『ムトゥ 踊るマハラジャ』はカメラ目線で歌い踊る(=非演劇的)のが衝撃的で、エンディングで拍手が起きるに至っていわゆる「映画」の枠組も壊れていた。『西麻布ダンス教室』ではダンスを「踊る」ことと「見る」ことの連続性が語られていた。「上演」されるダンスにも「参加」できるということだ。
「舞台」と「劇場」はだいたい同じものとして扱われがちだけ��、別の言葉だし、イコールではない(stage と theater も同様)。劇場に固執するダンス関係者たちは、それが「不動」産への束縛だという事実を十分に批判的に省みることができていないと思う。ある時点で必要だから劇場が用いられたのであって、用が済めば固執する理由はない。体さえあれば踊れる。ただ踊るためには、照明も要らないし、舞台監督も要らないし、60分前後の程よい上演時間も要らないし、テーマも要らないし、アウトリーチも要らないし、公共性も要らない。
◎現代のユース・カルチャーはどこに在るのか? 「現世代にとって"ダンス"が意味するのは「ソーシャル・メディアを通して世界中が自分を見ている、それを前提として、カメラを前に踊る」ということなのだ。すなわち誰も見ていないなら踊る意味がない」
◎ダンス・ミュージックの過去、現在、そして未来 『TOKYO DANCE MUSIC EVENT』を通してDJの立ち位置、ストリーミング文化がもたらしたクラブカルチャーの変遷を紐解く。
「制度」に過ぎないものを「環境」とよぶのはしばしば欺瞞的に響く。制度は人為的ないし社会的なものだが、環境は何より自然的なものにまず代表されるからだろう。「制度」をあたかも自然へと還元していこうとしている時に、「環境」と呼びたくなるのだろう。振付の概念をラディカルに拡張すると、あらゆるものが、あらゆるものと、動かし動かされる関係にあって、その関係を変えることが「振付」ということになる。だから振付はあらゆる関係を「制度」(可変的なもの)と見なす。
MIKIKO振付は、ほぼ常に顔を正面を向け、短く動いてはフレーズの継ぎ目で止める。それが、見ている側の反応を待つような間(=媚態)になると同時に、細切れだから覚えやすい。というか、あたかも見ている人に振りを教えているような振りなのだ。
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一般的に言って、踊りを見る目は、踊り手の動きをなぞっている。しかしそこで受け取られる情報としての動き(=振り)が見る人に対して持つ価値は見る人の身体に媒介される。記憶し易い、踊り易い振りは、踊る(同調する)態度を促すし、記憶しにくい、踊りにくい振りは、眺める(傍観��る)態度を促す。また持続的な振り(リズムやグルーヴによる流れのある振り)の方が参入障壁が高く、したがって踊る人々の集団の凝集性も高い。それに対してMIKIKOのような断片的な振りは断片的に摂取することが可能で、したがって踊る人々の間の結びつきは緩く、広い。オーディエンスが踊ることをゴールとする振付と、オーディエンスが鑑賞することをゴールとする振付がある。前者は参加型パフォーマンス、後者は上演型パフォーマンス。創造的な作業が可能なのは主に後者とされてきたのは、個(=作者)が究極的な決定権を持つ為だろう。前者は不特定多数に開かれている。
これだけダンスが流行している今、「振付」を掘り下げるなら、劇場などを土俵にした色んなワークショップに参加したり、アート系の論理で武装するより、世間で普通に行われている色んなダンスのフィールドワークをした方が発見が多いのではないか。あと必要なのは人類学の視点だと思う。
ソフトウェア開発の分野で「サーヴィス・コレオグラフィー」という概念があり、「サーヴィス・オーケストレーション」との違いも定義されている。後者は全体を統御する中心があるシステム、前者は中心がなく各パートが個々のロジックで動く状態。
コレオグラフィ vs オーケストレーション
「オーディエンスが歌手と同じ振り付けを踊ることが、その歌の最も基本的な受容のあり方となるような、そういった歌と踊りの不可分な関係が生まれるのは、1976(昭和51)年デビューのピンク・レディーに至ってのことといえる」(輪島裕介『踊る昭和歌謡』226-7頁)。テレビに映るアイドルの振りを踊って楽しむ、というのがピンク・レディーあたりからだとして、さらにテレビではなくライヴ会場でオーディエンスが一緒に踊るというもう一つの画期がある(ヲタ芸もまた区別しなくてはならないが)。
「…演者と観客がはっきりと分かれています。〔…〕見せる踊り念仏になっている。一遍たちは踊り念仏を演じる俳優の集団という側面をもってしまったわけです」(松岡心平『中世芸能講義』43頁)。指摘は重要だが「舞台」と「劇場」を同一視し過ぎだと思う。踊る事と見せる事の境は不分明であり得る。古事記の「天の岩屋戸に槽伏せて踏み轟こし」の「槽」(ウケ)について、三隅治雄は「このウケ踏みとどろかすは、ちょうど能舞台や歌舞伎の所作台のような、中が空洞の、共鳴音を効果的に出す台を、踏み鳴らす形」(『日本の古典芸能6 舞踊』16頁)と説く。すなわち舞「台」であって劇場ではない。
舞「台」といえば世代的には「お立ち台」(ジュリアナ東京)だが、明らかにこの構図の方が「劇場」よりも片瀬地蔵堂の踊り念仏に近いと思う。
両者に共通するのは、台の下の人たちが純然たる「観客」なのではない点。他人の踊りを鑑賞(傍観)しているのではなく、むしろ自分たちも踊りへと焚き付けられている(少なくともその可能性に身を曝している)。劇場であっても、 1)イスをなくす 2)客電を消さない この二点を実現するだけでたちまちダンス空間が出来上がる。舞台の上で踊る人が、舞台の下の人たちを踊りへと焚き付けるような、パフォーマンス(≠演劇)が可能になる。
思い出したのはF/T15で来日したターソー(会場はアサヒスクエア)。客が踊りまくっていて、F/Tのイメージがかなり広がった(ジャンル的には「音楽ライブ」とされていたが、因習に捉われず「ダンス」と銘打っても一向に構わなかった)。
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観客の側が企画して踊りを見せてもらう、「鑑賞会」というのをいつかやってみたい。
土井甫「これまでの振りつけには、流れの美しさということを重要視する傾向があった。〔…〕ディスコの踊りは、ポーズを気にしたり上手に踊ろうという見てくれを捨て、自己の主張をぶつけている。ピンク・ダンスは、そういうディスコ的感覚で振りつけようと考えた。」『俺とピンク・レディー』101-2
国内ダンス留学@神戸5期生ショーイング公演
余越保子「トリシャ・ブラウンをよく紹介するのは、私が日本で教える若い人たちの中に、踊りよりも表現にいっちゃう人が多くて、そうじゃないんだ、踊りなんだっていうのを分かってもらうために見てもらったりしますね。」「表現」じゃない踊りというと今度はすぐ個々人の「発散」とか集団の「熱狂」みたいなイメージに単純化されてしまったり。微妙なところなのは確かだけどもう少し「踊り」というものの独特な位相を言語化して広く共有したいものだと思う。他に余越さんのトークで印象に残っていること。「日本のダンサーは、高校や大学の創作ダンス部などでダンスを学んできた人が多い。フロント意識が強くて、センターに立ちたがる。規律がしっかりしていて、動きをそろえるのが得意。以前は、そこからどうやってダンサーを引き剥がすかが課題だった。でも最近は、そういうことにも疑問を感じるようになってきて、もし創作ダンス部的ダンスが日本のダンスの土壌であるならば、そこにコンテンポラリーダンスというものを噛ませてみたら何が立ち上がってくるか、ということをやってみたのがこの作品かもしれない。」
振付を「形のデザイン」ではなく「ダンサーの動きの規則」と定義するなら、ゲームやスポーツの「ルール」がどのように作られているかを参照するのはかなり有益と思われる。例えば「スポーツ・ルール学」を提唱した中村敏雄の著作。『オフサイドはなぜ反則か』、『メンバーチェンジの思想 ルールはなぜ変わるか』、『スポーツ・ルール学への序章』など。あらゆる「活動」は、そこに自発性が欠けていれば単なる��動作」に過ぎない。しかし動作ではなく活動を触発したい、「自発性」を引き出したい、ということがままある。そもそも矛盾しているから、どうすればいいかもわからない。自発性を触発したい、などというのは、自然を人為的に作りたい、と言っているようなものだろうか。
「われわれがとかくものに信をおかないのは、もっぱら〔…〕『孤独でいることができぬことから発する』のだと、私は主張したい。」(エドガー・アラン・ポー「メッツェンガーシュタイン」)
以上、2016/12/20以降のツイートより
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leo. with split cheetar
Vo.leo. Vo.英人 Gt.Toshiaki Gt.mao Gt.楓 Ba.希 Dr.義鷹 Per.のび Key.カナタ
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ごぼう(仮)
Vo.サンパウロ岡澤 Gt.田中カナタ Gt.ゲッツー!鈴木 Ba.那オキ Dr.義鷹
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オルレアンの乙女〜オスカランの酸味〜
Vo:さどん(ex.チーキィ)
Gt:カナタ(ex-GIGA FREAKS)
Gt:煉(バレッタ)
Ba: 希(ex.RagEnd)
Dr:義鷹(ROMiO.)
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チーキィ
Vo.さどん
Gu.田中カナタ
Gu.mao
Ba.YOU
Dr.義鷹
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ごぼう(仮)
Vo:サンパウロ岡澤 (絶倫☆ハグキ)
Gt:田中カナタ(ex-GIGA FREAKS)
Gt: トシ(ex.トーマス)
Ba: 那オキ
Dr:義鷹(ROMiO.)
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