#常陸牛ミートソース
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orion3sta · 2 years ago
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2023/03/04 初めての いちご狩り いちご屋さんが地元にたくさんあるせいか、未だに いちご狩りを体験したことがな��ったので、「天使のいちご」という白地で少し酸味のあるいちごと「やよいひめ」という真紅の甘い大きないちごを食べすぎちゃいました🍓 廣澤美術館の向かいにあるに「アート・カフェ・プローレ」は新進気鋭の絵画や版画を壁一面に飾ってあるアートっぽい雰囲気の中で、ランチタイム 自家製手打ちパスタのカルボナーラや常陸牛ミートソースを美味しく頂きました。 石岡市では、フルーツと獅子頭のラッピングバスの2台を所有してるけど、やはりインパクトが強いのは赤獅の図柄の方ですね! 笠間稲荷神社 貴将の黒ラーメン #iPhone日記 #天使のいちご #やよいひめ #ストロベリーランド筑西 #ラッピングバス #獅子頭 #アート・カフェ・プローレ #カルボナーラ #常陸牛ミートソース #廣澤美術館 #貴将 (道の駅 グランテラス筑西) https://www.instagram.com/p/CpbtSv6yCYS/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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wangwill66 · 3 months ago
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節目誕生備忘錄
H:三立都會台「艾嘉食堂」,其概念應來自「深夜食堂」「大雲時堂」,
甚至「誰來晚餐」。節目誕生程序,在第一集有介紹,也見證餐廳的誕生時程,人事時地物,各方配合,準備工作於前,14天搞定,20241006W7
網路摘鈔
節目誕生程序
1概念內容
喜歡做菜,早期也做過節目很長一段時間,「希望台灣會有很好的真人秀」。
2資金預算
《艾嘉食堂》耗時4年製作、斥資近億,版權費雖說無法多談。不過整體製作費並無超支。驚人版權費。
3召集人及地點的規劃整理
借用廢墟,重建,拍完留給地主,互利。
4演員的選角及訓練
演員未報前自行練習,拍攝的勤前教育,拍攝中的技術指導及討論。
5拍攝進度的律定,相關人員的進駐。
張艾嘉回憶起14天的拍攝過程,透露留下相當美好的記憶。
6現場的拍攝
「我們在營業!」可見大家是來真的。
7節目的剪輯旁白
8節目的行銷
《艾嘉食堂》2024年10月3日不畏颱風山陀兒,照常舉辦首映記者會。
9現場的解壓方案。
休息時段的餐飲及住處休閒。
10後續的推展
全球首個獲得CJ ENM《尹食堂》官方授權的實境綜藝節目。2024年10月5日(六)在三立都會台晚上八點首播、Netflix晚上十點、華視主頻隔周六晚上八點播出。
網路資料
《艾嘉食堂》由張艾嘉、楊祐寧、柯佳嬿、王大陸領銜,嘉賓林柏宏、(G)I-DLE舒華加盟,為全球首個獲得CJ ENM《尹食堂》官方授權的實境綜藝節目。歷經四年製作期,耗資近億新台幣,10月5日(六)在三立都會台晚上八點首播、Netflix晚上十點、華視主頻隔周六晚上八點播出。
維基百科
《一起吃晚餐嗎?》(韓語:저녁 같이 드실래요?),為韓國MBC於2020年5月25日起播出的月火連續劇,由《Player》的高在賢導演與李秀河作家合作打造。此劇改編同名網絡漫畫,講述因為曾經有過痛苦離別的戀愛經歷,以及受到「單身文化」的影響,漸漸對戀愛冷感,愛情感知退化的兩個男女,通過共進晚餐慢慢找回愛情的甜愛羅曼史。
《深夜食堂》(日語:深夜食堂)是安倍夜郎創作的日本漫畫作品。2006年10月在小學館發行的漫畫雜誌《Big Comic Original增刊(日語:ビッグコミックオリジナル増刊)》初次發表,一次刊登三話,接下來每一期登出兩話。2007年8月開始在《Big Comic Original》連載。
《大雲時堂》(英語:Da Win Dining),是大雲文創製作、MOMOTV監製的談話性節目,場景由中華電視公司美術中心搭建,並以4K解析度規格製播。主持人為大雲文創董事長李四端。2018年10月1日於MOMOTV播出,時段為每週一至週五22:00-23:00。後製導演為沈丹桂。2022年於MyVideo上線。
《誰來晚餐》(英語:Guess Who)是台灣公共電視台製播的真人實境秀及紀錄片,無主持人,目前播出至第十四季。
Quick Facts 誰來晚餐 Guess Who, 類型 ...
概況
節目形式為每集探訪一個台灣家庭,採訪他們的生活點滴,並邀請該家庭成員心目中的夢幻嘉賓。在節目前半,通常會先介紹家庭成員的組成、日常生活,並在節目後半段讓嘉賓登場,與他們一起共進晚餐。
目前擔任《誰來晚餐》嘉賓次數最多的為詹姆士,共4次[註 1]。[1][2][3][4]
2019年,《誰來晚餐》拍攝第11季的第37集,因受訪家庭的男主人謝東寧去世,而取消邀請受訪家庭的神秘嘉賓,是唯一一集因受訪家庭成員去世而無嘉賓[5]。
網路介绍
節目以繪本為核心,每集會找不同的來賓,開展各式各樣的繪本漫談,讓我們一起分享繪本的奧妙! 只有繪本這種書籍,從0歲到100歲都可以欣賞。
今晚吃什麼?:日本主婦和台灣太太的家庭常備菜交換誌
作者:小野慶子 , 謝苹愉
語言:繁體中文
出版社:帕斯頓數位多媒體有限公司
出版日期:2019/06/06
內容簡介
#日式餐桌完全複製術!
#小小的盛情款待
#想和喜歡料理的人緊緊聯繫
#簡單的家庭常備菜是所有主婦的心願
  一位是跟隨著日籍先生來台灣生活的日本主婦,另一位則是嫁到日本的心願夢碎,只好回家鄉當台灣太太。兩人兩年多來不間斷地語言交換,雖然約定好要學中文、練日文,但有著「ABC Cooking Studio」講師經歷的慶子,以及身為美食專欄作家的苹愉,卻花了很多時間在吃東西、聊食物、談料理,用美食做好國民外交。
  日本主婦慶子第一次來到台灣就是跟著先生「海外出張」(出差),這一待就是三年多,來到台灣生活後,才發現真正的「台灣」和過去以為的「台灣」怎麼差這麼多,「原來台灣人不會自己在家做小籠包啊!」、「原來台灣不只有勾芡的湯品!」、「原來菜瓜布可以吃啊!」(日本人不會把絲瓜當成食材),透過生活在台灣的日本主婦,破除日本人對台灣的刻板印象,也揭開台日之間飲食文化差異。
  台灣太太苹愉吃了三十多年的台式家常菜,卻對吃熱食很不拿手,偏好日本的冷菜冷飯,有著日本人的胃,對日式料理有著無限喜愛和探究精神,即使在日本住過一年,但對於日本飲食文化和家常菜色仍充滿很多好奇,透過和日本主婦的交流,以學習的心態,瞭解屬於日本���的美食。
  住在台灣的日本主婦發表自家常用的食譜配方,搭配台灣太太對於日台飲食的觀察,讓你在家也能複製日式餐桌,還來一場料理PK,用相同的食材、元素,各自準備一道擁有日台特色的料理,一起探究台日飲食的有趣之處吧!
  你也想把日式餐桌搬進你家嗎?跟著做就對了!
  Step 1買對日本人愛用調味料
  Step 2用對調味料才有美味料理
  Step 3煮一壺日式高湯
  Step 4常備一罐日式昆布醬油
  Step 5跟著食譜做準沒錯
本書特色
  日台聯手做好國民美食外交
  來自日本主婦的家庭菜譜,和台灣太太的細微觀察,攜手介紹日台美食,一起發掘有趣的飲食文化。
  #日式家常菜
  日本料理善用燉煮、涼拌、油炸等烹飪技巧,但你知道日式炒麵沾蛋液有多美味嗎?收錄一些你熟悉的,卻有你不知道的意外吃法。
  #下酒菜
  日本人總喜歡下班後喝一杯,不過在日本居酒屋,下酒菜真的只是配菜,喝的酒倒是比吃的菜還多!儘管如此,料理同樣不馬虎呢!
  #和風洋食
  當漢堡排不再只配麵包,來一碗白飯更好;吃義大利麵不拿刀叉,改拿筷子,這就是日本人愛的和風洋食。
  #中華料理
  日本人對於果然中華料理有很深的誤會,才能發展出連我們都認不出來,屬於日本獨有的中華料理,但……仍舊好好吃啊!
  #日台料理交換誌
  誰說一個廚房容不下兩個女人,看日本主婦和台灣太太來一場料理PK,用同樣的食材做出展現日台特色的美味菜色吧!
名人推薦
  Iku老師/人氣YouTuber
  江夏啓人/「山江食品」常務董事
  泉原俊一/「享櫻和風西洋料理餐廳」主廚
  美奈子的。微日本旅行/知名部落客
收回
目錄
推薦序
最簡短而有力的推薦!/Iku老師
帶著盛情款待之心在裏頭/江夏啓人、江夏敬子
充滿著真心也帶著溫暖的家庭料理書/泉原俊一
輕鬆搞懂超市眼花撩亂的調味料/美奈子
 
作者序
想帶給你日本家庭料理的溫度/日本主婦 小野慶子
台日友好從料理啟程/台灣太太 謝苹愉
 
# 1 日本主婦在台灣
逛逛傳統市場買菜去
打破小籠包的迷思
早餐一汁三菜���幸福
 
# 2 搞懂日本人的五味,日式料理不難了
認識基礎日式調味料
飛越2163公里,出國採買日式食材吧!
從日式高湯開始做起
從一瓶「麺つゆ」開始,入門日式料理 
常備沙拉醬搭配生菜沙拉
 
# 3 日式家庭料理,日常的和食魅力
乾拌蕎麥麵 和えそば
日式炒麵 焼きそば
味噌烤飯糰 焼きおにぎり
雞飯 鶏めし
親子丼 親子丼
散壽司 ちらし寿司
關東煮 おでん
關西風玉子燒 関西風だし巻き玉子
肉湯 肉吸い
馬鈴薯燉肉 肉じゃが
照燒雞肉 照り焼きチキン
鯖魚味噌煮 鯖の味噌煮
雞肉天婦羅 とり天
炒金平牛蒡 金平ごぼう
 
# 4下班後,來點下酒菜
紅蘿蔔鮪魚炒蛋 にんじんしりしり
菠菜拌胡麻 ほうれん草の胡麻和え
豆腐白和 白和え
芹菜胡桃味噌 セロリくるみ味噌
揚出豆腐 揚げだし豆腐
雞里肌胡椒起司串 ささみペッパーチーズ串
燉煮牛筋 牛すじ煮込み
油豆腐皮Pizza 油揚げピザ
焗烤千層豆腐 豆腐ラザニア
番茄拌梅肉 トマトの梅肉あえ
甘辛大豆炒 大豆の甘辛炒め
 
# 5懷念的滋味,和風洋食
漢堡排 ハンバーグ
蛋包飯 オムライス
日式牛肉燴飯 ハヤシライス
菠菜三明治 スピナッチサンド
鯖魚三明治 鯖サンド
 
# 6別裝了,這不是中華料理
牛肉香菜煎餃 牛肉パクチー焼き餃子
肉醬起司餃子 ミートソース餃子
中華冷麵 冷やし中華
肉味噌拌麵 肉味噌混ぜ麺
黑醋豬肉 黒酢酢豚
棒棒雞 バンバンジー
美乃滋蝦球 海老マヨ
 
#  7煮婦料理交換誌
◆試試台日蘿蔔乾
蘿蔔絲涼拌胡麻 切り干し大根マヨ胡麻和え
燉煮蘿蔔絲 切り干し大根の煮物
吻仔菜脯豆腐燒
◆日台肉燥飯
日式肉燥飯 肉そぼろ
筍菇花生肉燥
◆ 吃韭菜
韭菜涼拌胡麻 ニラの胡麻和え
韭菜花炒豆皮
◆ 我家招牌排骨料理
燉煮小排 スペアリブの煮込み
古早味排骨酥
◆ 好長的台灣茄子
素炸茄子浸高湯 茄子の揚げ浸し
腐乳茄子
◆ 麻婆風
日式麻婆豆腐 マーボー豆腐
白麻婆豆腐 白マーボー
台式家常麻婆豆腐
◆ 茭白筍初體驗
筊白筍雞絲涼拌柚子胡椒 マコモダケとささみの柚子胡椒マヨ和え
筊白筍炒鹹蛋
◆ 等著蛤蜊開口
酒蒸奶油蛤蜊 あさりの酒蒸し
酸菜豆腐蛤蜊湯
◆ 拌飯系
大蒜奶油飯 ガーリックライス
櫻花蝦蔥油拌飯
◆ 日式年糕PK小湯圓
日式年糕湯 雜煮
紅白小湯圓鹹湯
《入侵者們的晚餐》就像一本存在各種驚喜的懸疑小說,高潮迭起卻呈現出平凡卻又讓人有共鳴的女性情誼。三位主角雖失去婚姻,獨自照顧自己,但入侵日一起出生入死,似乎讓三位女子完成了友誼的試煉,展開了一起晚餐的生活,當揮別了一個人吃貼著降價標籤冷便當的日子後,人生似乎也跟著變得溫暖幸福了一點。
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tomtanka · 5 years ago
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『足の踏み場、象の墓場』全首評③(横書き引用ver.)
我妻俊樹「窓を叱れ」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから
叱れと言われたら、これはもう、一時的にわずかな理性を取り戻してでも、説明せざるを得ない。 叱るのと怒鳴るのは、全然違う。声を張りあげて自分の感情をぶつけるのが怒鳴るだとしたら、叱るのには、もっと理路整然とした秩序が必要になる。叱ることによって、これまでの状況が変化することが求められるからだ。だから、叱る者には、全てを把握するための客観的な視点が必要だ。感情や状況にまつわる現状を、説明という器に乗せて、差し出すために。 叱れ、という命令は、私が理性を取り戻すだけのパワーを持っている。 なぜかというと、これまでの連作に登場したどの歌にもタイトルにもなかった、「命令」が初めて登場するからだ。 ささやかな願望・曖昧な提案・誰に対しても伝えたい感想と感嘆・シチュエーションに対する忠実な状況説明。 上記の4つがこれまでの歌やタイトルの8割を占めている構成要素だった(残りの2割が何なのか、それを説明するほど愚かなことはない)。 ところが、「叱れ」という命令は、誰の誰に対するどのような命令であれ、この歌集の中で異質さを放っている。 その理由は、作者も��者も知りようがないが、個人的に推測するに、それは、この連作が何かに対峙している唯一の連作であり(何かに投影・何かから投影している連作はあるが、もちろん対峙するのとはわけが違う)、そして、この連作の最初の1首目に、中里さんが登場するからである。 中里さんとは誰か。 それを探るためには、残念ながら何かを連れて来なくてはならない。ただ、直接連れて来るのはよそう。 覚えている人は、「世話する光」を思い出してほしい。 私は、この歌集は、ビーカーに水を注ぎながら、ひたすら目盛りを数える歌集だと思っているが、このビーカーに水を注いでいる人こそ、まさしく中里さんなのである。 ビーカーに水を注ぐ速さを調整できるのは、中里さんしかいない。 中里さんの設定した、アパートの耐用年数は百年だ。今まで私はこのアパートに十六年住んでいたが、この築二十五年のアパートは、今度は百年しか持たないだろう。夕暮れをこんなに身近に感じることは、これまでなかった。あったとしても、それは時間の経過を感じるだけのことで、���が暮れるという感傷に浸っているに過ぎなかった。 誰がアパートを塗り替えてくれと頼んだのか。依頼主は誰か。 「そういうのを感傷と呼ぶんだよ」
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
スイスにようこそ! 客車から降り、石炭の匂いを感じながら、私は停車場の短い階段から野草の生い茂る草はらへと下った。駅舎までは多少、距離があった。改札で銀色の箱に切符を落とし、石畳のロータリーに出たところで、その男は大声でそう言ったのだ。 「スイスにようこそ!」 けたたましい警笛と、シリンジやポンプの作動音、蒸気の噴出される細長い音の後、機関車は走り出した。その男は、もう一度、「スイスにようこそ!」と叫んだ。 その男は、ホテルから私を迎えに来ていた。 その男は、ボタン穴の部分に白い花が刺繍された、キルト地の赤いチョッキを着ていた。民族衣装なのだろう。滑稽に見えた。 「スイスにようこそ!」 私が声を発さないせいか、その男はいつまでも叫び続けていた。
思いましょう 世界は果てが滝なのに減らないくらい海に降る雨
わずかな言い換えが、同一性をより担保してくれる。違いではなく、同じであるということに価値があり、光の当たり方が違うという指摘をすることに、この世界の意味があるのだ。 何も変えてはいけないし、そもそも何も変わっていない。 だから、ため息のような破調をため息だと断定するような、理性に支配された言葉や深読みの数々に、どうか、果てしない嫌悪を。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
空き地の真ん中にあるブランコを漕いでいる人はいなかった。しかし、そのブランコはもう2時間以上、揺れ続けていた。風が吹いたり、地震が起こったりしたのだろうか。犯人は誰だろう? ぼくはそんなことを考えながら、空き地から出て行った。夕映えでまぶしい道にも、もちろん誰もいない。
眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ
さっきまでスパゲッティが乗っていた皿だろうか。陶器が割れる音がした。いつ聞いても嫌な気持ちがする。盛り付けにどれだけ時間をかけたか知っているのだろうか。拳大の麺を掴んだトングを円の中心に垂直に下ろし、3°ずつ反時計回りで円を広げていく。麺が尽きたら、今度は尽きた箇所からもっとも近い皿の縁から、時計回りに同じことを繰り返す。規定量の麺がなくなるまで、それを反復し、最後に外・内の間隙に向かってミートソースをかけていくと、もっとも美しい、写真映えするミートソーススパゲッティのできあがり。 それを奴は台無しにしたのだ。 客に謝る声がした。愛想がなく、声が大きいのにこもって聞き取りにくい。 やがて奴が戻ってきた。こんな奴しかバイトに来ない。 怒りがこみ上げてきた。
鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる
忘れもしない10月15日、三銃士マドモアゼル・リンダとの決戦。 私は地面へと頭から叩き落とされた。筋骨隆々の大女リンダは、背負い投げの途中で掴んでいた両手を離し、私は右側頭部にゴギュという音を聞き、次の瞬間には病院のベッドに横たわっていた。4日間、眠っていたらしい。脳だ。硬膜に、血が溜まってしまった。もう復帰できないだろう。リンダとの再戦では、今度こそ殺されるに違いない。 退院してからも、私の脳裏からゴギュという音は消えなかった。
バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい
カラスの襲撃がはじまった。 毎朝、5時35分発のバスに乗るための列がある。そこで餡パンを食べる男子高校生が、その襲撃がはじまる原因だった。 その列には、イヤホンのつながったMDプレーヤーを持つ会社員らしき男、バスに乗ってからすればいいのになぜか待ち時間でチークを塗るOL、文庫本を読む一見して職業のわからない���フな出で立ちの中年男性が並んでいることが多かった。曜日によって数人増減する日もあった。 カラスは滑空した勢いで餡パンを盗ることもあれば、バス停の近くまでひょこひょこ歩いてきて、飛び上がる弾みに文庫本を掠めとることもあった。日によって、何を盗るのかまちまちで、規則性はなかった。 しだいに、そのバス停の5時35分発の利用者は減った。私の部屋はバス停の真裏の2階にあったが、観察するに、それまでの利用者は35分の前後のバスに変えたようだった。35分発の前は27分発で、後ろは少し間隔が空き、52分発だった。 カラスは35分発のバスに固執していたので、前後のバスの利用者を狙うことはなかった。 私はだんだん、そのバス停の35分発のバス列に並んでみたくなった。バスに乗らない生活が続いていたが、意を決して餡パンを食べながらそのバス列に並んだ。 並んだといっても、その日、私以外に並んでいる人はいなかった。 カラスが飛んできた。私の背後から近づいてきて、しばらくじっとしていたが、やがて朝焼けの空へと飛び去っていった。 私はバスに乗り、駅に向かった。駅に人はまばらで、なんだか楽しい気分になった。 どこに行こうかな。
拾った本雨で洗ってきた人と朝までつづく旅行計画
歩けば歩くほど、傘が遠のいていった。空き地の中央に突き刺さっている、一本の傘。半透明のビニール傘で、コンビニのテープが持ち手に付いたままだ。 誰もいないのに、傘がゆっくりと開いていった。時が止まる前の、緩慢な動き。 パラボラアンテナのように宇宙へと開いて、雨を受け止めている。 これから先、もうどこにも旅に行くことはできない。そう思うのに、時間は必要なかった。 朝は消滅した。
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら
自転車で行くには、あまりにも近過ぎた。ペダルを4回漕げば、そこに輪ゴムがある。わかっているのに、絶対に輪ゴムをひき殺してしまう。輪ゴムの断末魔が響きわたる。うんざりだ。
ブルーシートに「瀬戸内海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ
瀬戸内海は本州と四国に挟まれ、九州と淡路島によって蓋をされている。こう定義したとき、瀬戸内海を狭いと感じるか、広いと感じるかは、人それぞれだろう。レトリックの差だ。 ただ、そもそもレトリックが生じるには、瀬戸内海に行ったことがあるか・ないか、が関わってくる。 私は瀬戸内海に行ったことがないから、レトリックが有効だ。 瀬戸内海=ブルーシートに座って、花見の場所取りをしていると、茂みからタヌキが顔を出した。私が瀬戸内海にいるので、タヌキが瀬戸内海に侵入することはなかった。 オオカミが来た時のことを考えて、もっと大きく書いておこう。 「おーい。オオカミが来たぞう」
牛乳を誰かが飲んだあとに来る 煙草をきみはねだる目をする
「おーい。牛乳が来たぞう」 「煙草、吸うかい?」 「これで無事に牛になれます」 「あいつは有名な牛なんだよ」 「知らなかったな」
月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる
TEL「お電話ありがとうございます。ピザッチです」 わたしたち「注文お願いします」 TEL「承ります」 わたしたち「ピザッチの熟成ベーコン ダブルチーズスペシャルで」 TEL「レコードですね」 わたしたち「はい?」 TEL「月光ですね。お届け先を伺ってもよろしいでしょうか」
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅
夢なのか、旅なのか、映画なのか。 確かなのは、私が1眼レフを構えて、海辺のトタン屋根の小屋にレンズを向けていることだけだ。窓ガラスは割れ、部屋の中には砂が溜まっていた。防風林の木々の間から、風が流れ込んでくる。夢なのか。気がつくと、私は望遠鏡を覗き、宇宙の小さな米を見ている。星の中の、家の中の、米櫃の中の、一粒の米。われわれには、今目に見えているものが、米なのか、星なのか、区別することができない。
顔のなかに三叉路のある絵を描いた凧が墜ちても届けにいくわ
しかし、雲が突然、光を発した。本来見えていたはずの太陽をかすめている、飛行機の排気ガスの軌跡を柄のようにぶらさげた白いかたまりは、ゆっくりとひしゃげた。 私の頭の中と、想像の君の頭の中と、想像の中里さんの頭の中は、どれも凧が真っ青な空の中を落下する映像だけで占められていて、落下地点のことを決して想像することはなかった。つまり、野原で寝転んでいる中里さんの顔に向かって凧が落ちていき、中里さんの顔を凧の布が覆い尽くしたとは、誰も知らなかったのだ。 三者三様に、拾いに行く途中で迷子になり、誰も帰って来なかった。
マサチューセッツ工科大学卒業後 ほんとうの自由にたどり着けるだろう
何も考えたくないという時の「何も」こそが「自由」であり、何もかも達成したという時の「何も」が「ほんとうの」だ。バカ田大学は実在しない大学で、マサチューセッツ工科大学は「ほんとうの」大学だ。
五時がこんなに明るいのならもう勇気は失くしたままでいいんじゃないか
卒業おめでとう。五次会へようこそ。
東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる
自分がどこにいるのか思い出せない、いや、自分がどこにいるのかわからない。東京タワーが映っているということは東京都内のはずだが、もしかするとテレビの中の東京タワーを映した鏡かもしれず、その証拠に東京タワーはゆらゆらしているが、しかしそれはタバコの煙のせいかもしれないし、もしかするとスモッグか黄砂か霧かもしれないし、くちびるは口紅を加えてはっきりするということは、つまり鏡の中の口は自分の口で、くちびるは自分の口のくちびるで、ようするに自分が鏡の目の前にいるということ以外に確かなことはないと思ったが、塗っている自分の指と指は本当に自分の指なのか、「指?」、指ではないだろう、ここはトイレだからテレビはないはずだ、東京タワーは小さいし、自分は口紅を塗っている自分だ。
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
わたしと、マイケル・ジャクソン。この森はすべてうれしい。
こどもたちは窓のかたちを浴びていて質問してくるようすがない
遠い空を凧が浮かんでいたので、空について詳しくないぼくらには、それがいかに巨大か、近づいてくるまで分からなかった。 凧は風にあおられぐらつき、山の峰に触れた時、周囲の木々と凧の大きさの違いに、ぼくらは驚いた。 もっと遠くに浮かんでいると思っていた。 いや、あれは飛んでいたんだ。 あれは大人かな。 子供じゃないかな。子供が五人、凧の対角線に沿って張り付いている。 貼り付いている、の間違いじゃないかな。彼らは死んでいるよ。 五角形のそれが草原へと着陸した。ずどん、と。 ぼくらはそれに向かって駆け出した。
こうもりはいつでも影でぼくたちは悩みがないかわりに早く死ぬ
もぐらとこうもりは、ぼくたちにとって黒いかたまりだった。猫がもぐらを咥えて夕方の軒下にやってくると聞いたことがあったけど、中里さんはそれをぼくたちに見せてはくれなかった。 ただ、一度、ぼくはその死体を見たことがある。中里さんがどこかに埋めたもぐらを掘り起こしてきたのだ。でも、それは真っ黒に塗りたくられていて、まるで影が空中に浮かんでいるみたいだった。ぼくはそれを手に取った。これがもぐらだとは思えなかった。いや、思おうとする前にもぐらは、ぼくの手からその黒いかたまりをかすめ取り、夕闇の暗がりへと消えていったのだった。 ぼくが幼少期に死について考えたのはそのたった一回だったが、長い時間が経ってから思い出すと、ぼくはつねに死について考えていて、それはぼくたちにとっての共通のテーマだったが、今、捏造した記憶かもしれない。こうもりが、車庫の屋根裏から羽ばたき、ぼくの顔を覆った。苦しくなることが、ぼくはいま溺れているのか、どこで。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀
バナナと梨とリンゴと葡萄がかごに混ざっていて、実はどれかが地球儀でーす、というクイズ。 正解は、バナナ。よく見てごらん。ほら、剥いてみて。
電球を抜く手つきしてシャツの中おめでとうってどこか思った
エルヴィス・プレスリーは振動を発明し、マイケル・ジャクソンは手つきを発明した。 アンチ・グラヴィティは、特許によって成立しており、靴と床の構造によって無重力を再現していた。なぜ、バスター・キートンやチャップリンとは「違う」のか。 「おめでとう」と言えるのは、マイケルだけだから?
その鍵は今から四つかぞえたら夢からさめた私が開ける
なぜ、五や三とは違うのか。 「おめでとう」と言えるのは、四���けだから?
全世界 というとき世界が見おろせる星にかかっている羊雲
トートロジーに照らして考えたとき、全世界とは三角形であり、同時に正四面体でもある。つまり、三角形は四個あり、同時に十六個あるとも言える。 私は羊雲すら把握することができている。
部屋に見えるほど寒々と白旗をひろげなさいって誰に言われた?
凧は裏側の三角形に墜落した。ぼくらはそれを見ることができなかった。羊雲が青空に広がっていた。
犬がそれを尊ぶ「セックスアピールって要するにおっぱいだろ?」という目で
マイケルのそっくりさん「おめでとう」
たくさんになって心は鳥たちの動いたあとの光が照らす
「いらっしゃい」
新聞が花をつつんで置いてある よみがえるなんて久しぶり
長年考えていたのだが、と話をはじめることができれば、この話に説得力や教訓、哲学的な示唆があるのではないか、と耳を傾けてくれる人々が増えるのだとは思うのだが、実際はほんのついさっき考え出したことについて話をしたいと思う。しかし、これからずっと考えつづけていくに違いない事柄についてだ。 いや、私は長年、ずっと考えつづけていたのかもしれない。それを、ついさっき考えはじめた、と韜晦混じりに話している可能性もある。と、話を続けることしかできない。つまり、私には、いつ考えはじめたのか、全く分からないのだ。 いったい、新聞と何の関係があるのかと思うだろう。だが、話には順序がある。 まず、私が話したいのは、まさしく、わたしが陥ったある狂気についてである。 おそらく、世界中どんな場所にも、狂人と呼ばれる人間が必ず1人はいるはずだ。どういった人間かというと、たとえば、あからさまに口調がおかしかったり、あるいは身振りが不審な人間が狂人と呼ばれるのではなく、常識という土台はあるにも拘らず、その常識が生み出すはずの思考が常識とはかけ離れてしまう・少しずれてしまう人間のことだろう。 だが、何が狂人たらしめるのかというと、実際は時代時代の常識から見た「狂気」であり、大部分は、その人間が置かれた状況や環境に対する理解の欠如や、差別意識によるものなのではないか、とも思うが、しかし、土台の上の常識がずれるということについては、多くの人間は狂気と人間(狂人)を峻別し、その上で狂気に見舞われた人間を「狂人」と見做しているのではないだろうか。 ケースバイケースだ。こんなところで結論がでるような話ではなく、そもそも「土台」という考え方が、非常に差別的にちがいない。ただ、私が何を言いたいのかというと、この「土台の上」ではなく、まさに「土台」の部分で、私は狂気に飲み込まれてしま��たということだ。 話を始めよう。 私はかつて、池袋で新聞少年だったことがある。しかし、それはほんの2週間でおわってしまった。当時の家庭環境からすれば、私は働きつづけなければならなかったのだが、体力はもちろん、幼稚さゆえの逃避癖から、楽で薄暗い方へと身を沈めてしまった。逃げたのだ。打ちっぱなしの床に、やけに赤いヒーターしかない作業所が苦痛だった。2階から聞こえる怒声が、ただ耳の内側に響き、昼の数時間の睡眠や不規則な生活が、だらだらと続くのに絶望した。 それはともかく、私は2週間の短い経験だったが、新聞、と呼ばれると、広告チラシと新聞を一括りで連想するようになってしまった。私にとって、新聞とは新聞紙のことではなく、チラシがハンバーガーのように挟まっていてこその、「新聞」だ、と言えば少しは分かりやすいだろうか。 そして十六年後、私はあるアパートに住んでいた。チラシを捨てることができず、十六年分のチラシが部屋にはあり、話とは関係ないが、毎日、ダブルチーズバーガーを食べていた。 私が陥った狂気について語ろうと思うが、前置きに比べてずいぶん短くなると思う。なぜかといえば、これは私が現在直面している狂気であり、私は正常と異常、時間の長短の区別がもはや付かなくなっているからだ。ようするに、私は説明することができないに違いない。 話とはこうだ。私はある日、部屋の壁中にチラシを貼る男を夢想した。それは私だったのかもしれないし、今、私がチラシを壁に貼っているのかもしれない。 「新聞が花をつつんで置いてある」 私は「新聞」に包まれている。 私は置かれている。 私は自分が花だとは言わない。しかし、「よみがえるなんて久しぶり」とは。 私が、自分が狂気に陥ったと考える理由は下句にある。 私は甦っただろうか。「久しぶり」には、世界に対する癒しが含まれている。 癒しは、包まれているのか。包まれていないのか。 文字が塗りたくられた円錐は、床に転がっている。 円錐の先に窓がある。 窓から、光が射し込んだ。窓にもチラシを貼っていたが、紙が薄かったので、窓は光っていた。 「よお」
*
引用はすべて、我妻俊樹「窓を叱れ」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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orion3sta · 5 years ago
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今日は、家族で久々のランチ🍴 先日入店したキャナリィ・ロウ水戸店のスタッフ一同マスク姿でしたが、トラットリアフォレストでは、スタッフやお客さんでマスクをしている人は誰一人いなかった! #iPhone日記 #トラットリアフォレスト #常陸牛入りチーズハンバーグ #和風アスパラベーコンパスタ #たっぷりお肉とナスのミートソース #からあげポテト #ソーセージ盛り合わせ #生ビール (Trattoria Forest) https://www.instagram.com/p/B9Jvg4MAFxH/?igshid=1g19tvz5b78gk
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tomtanka · 5 years ago
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『足の踏み場、象の墓場』全首評③(縦書き引用ver.)
我妻俊樹「窓を叱れ」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから
叱れと言われたら、これはもう、一時的にわずかな理性を取り戻してでも、説明せざるを得ない。 叱るのと怒鳴るのは、全然違う。声を張りあげて自分の感情をぶつけるのが怒鳴るだとしたら、叱るのには、もっと理路整然とした秩序が必要になる。叱ることによって、これまでの状況が変化することが求められるからだ。だから、叱る者には、全てを把握するための客観的な視点が必要だ。感情や状況にまつわる現状を、説明という器に乗せて、差し出すために。 叱れ、という命令は、私が理性を取り戻すだけのパワーを持っている。 なぜかというと、これまでの連作に登場したどの歌にもタイトルにもなかった、「命令」が初めて登場するからだ。 ささやかな願望・曖昧な提案・誰に対しても伝えたい感想と感嘆・シチュエーションに対する忠実な状況説明。 上記の4つがこれまでの歌やタイトルの8割を占めている構成要素だった(残りの2割が何なのか、それを説明するほど愚かなことはない)。 ところが、「叱れ」という命令は、誰の誰に対するどのような命令であれ、この歌集の中で異質さを放っている。 その理由は、作者も読者も知りようがないが、個人的に推測するに、それは、この連作が何かに対峙している唯一の連作であり(何かに投影・何かから投影している連作はあるが、もちろん対峙するのとはわけが違う)、そして、この連作の最初の1首目に、中里さんが登場するからである。 中里さんとは誰か。 それを探るためには、残念ながら何かを連れて来なくてはならない。ただ、直接連れて来るのはよそう。 覚えている人は、「世話する光」を思い出してほしい。 私は、この歌集は、ビーカーに水を注ぎながら、ひたすら目盛りを数える歌集だと思っているが、このビーカーに水を注いでいる人こそ、まさしく中里さんなのである。 ビーカーに水を注ぐ速さを調整できるのは、中里さんしかいない。 中里さんの設定した、アパートの耐用年数は百年だ。今まで私はこのアパートに十六年住んでいたが、この築二十五年のアパートは、今度は百年しか持たないだろう。夕暮れをこんなに身近に感じることは、これまでなかった。あったとしても、それは時間の経過を感じるだけのことで、日が暮れるという感傷に浸っているに過ぎなかった。 誰がアパートを塗り替えてくれと頼んだのか。依頼主は誰か。 「そういうのを感傷と呼ぶんだよ」
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
スイスにようこそ! 客車から降り、石炭の匂いを感じながら、私は停車場の短い階段から野草の生い茂る草はらへと下った。駅舎までは多少、距離があった。改札で銀色の箱に切符を落とし、石畳のロータリーに出たところで、その男は大声でそう言ったのだ。 「スイスにようこそ!」 けたたましい警笛と、シリンジやポンプの作動音、蒸気の噴出される細長い音の後、機関車は走り出した。その男は、もう一度、「スイスにようこそ!」と叫んだ。 その男は、ホテルから私を迎えに来ていた。 その男は、ボタン穴の部分に白い花が刺繍された、キルト地の赤いチョッキを着ていた。民族衣装なのだろう。滑稽に見えた。 「スイスにようこそ!」 私が声を発さないせいか、その男はいつまでも叫び続けていた。
思いましょう 世界は果てが滝なのに減らないくらい海に降る雨
わずかな言い換えが、同一性をより担保してくれる。違いではなく、同じであるということに価値があり、光の当たり方が違うという指摘をすることに、この世界の意味があるのだ。 何も変えてはいけないし、そもそも何も変わっていない。 だから、ため息のような破調をため息だと断定するような、理性に支配された言葉や深読みの数々に、どうか、果てしない嫌悪を。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
空き地の真ん中にあるブランコを漕いでいる人はいなかった。しかし、そのブランコはもう2時間以上、揺れ続けていた。風が吹いたり、地震が起こったりしたのだろうか。犯人は誰だろう? ぼくはそんなことを考えながら、空き地から出て行った。夕映えでまぶしい道にも、もちろん誰もいない。
眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ
さっきまでスパゲッティが乗っていた皿だろうか。陶器が割れる音がした。いつ聞いても嫌な気持ちがする。盛り付けにどれだけ時間をかけたか知っているのだろうか。拳大の麺を掴んだトングを円の中心に垂直に下ろし、3°ずつ反時計回りで円を広げていく。麺が尽きたら、今度は尽きた箇所からもっとも近い皿の縁から、時計回りに同じことを繰り返す。規定量の麺がなくなるまで、それを反復し、最後に外・内の間隙に向かってミートソースをかけていくと、もっとも美しい、写真映えするミートソーススパゲッティのできあがり。 それを奴は台無しにしたのだ。 客に謝る声がした。愛想がなく、声が大きいのにこもって聞き取りにくい。 やがて奴が戻ってきた。こんな奴しかバイトに来ない。 怒りがこみ上げてきた。
鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる
忘れもしない10月15日、三銃士マドモアゼル・リンダとの決戦。 私は地面へと頭から叩き落とされた。筋骨隆々の大女リンダは、背負い投げの途中で掴んでいた両手を離し、私は右側頭部にゴギュという音を聞き、次の瞬間には病院のベッドに横たわっていた。4日間、眠っていたらしい。脳だ。硬膜に、血が溜まってしまった。もう復帰できないだろう。リンダとの再戦では、今度こそ殺されるに違いない。 退院してからも、私の脳裏からゴギュという音は消えなかった。
バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい
カラスの襲撃がはじまった。 毎朝、5時35分発のバスに乗るための列がある。そこで餡パンを食べる男子高校生が、その襲撃がはじまる原因だった。 その列には、イヤホンのつながったMDプレーヤーを持つ会社員らしき男、バスに乗ってからすればいいのになぜか待ち時間でチークを塗るOL、文庫本を読む一見して職業のわからないラフな出で立ちの中年男性が並んでいることが多かった。曜日によって数人増減する日もあった。 カラスは滑空した勢いで餡パンを盗ることもあれば、バス停の近くまでひょこひょこ歩いてきて、飛び上がる弾みに文庫本を掠めとることもあった。日によって、何を盗るのかまちまちで、規則性はなかった。 しだいに、そのバス停の5時35分発の利用者は減った。私の部屋はバス停の真裏の2階にあったが、観察するに、それまでの利用者は35分の前後のバスに変えたようだった。35分発の前は27分発で、後ろは少し間隔が空き、52分発だった。 カラスは35分発のバスに固執していたので、前後のバスの利用者を狙うことはなかった。 私はだんだん、そのバス停の35分発のバス列に並んでみたくなった。バスに乗らない生活が続いていたが、意を決して餡パンを食べながらそのバス列に並んだ。 並んだといっても、その日、私以外に並んでいる人はいなかった。 カラスが飛んできた。私の背後から近づいてきて、しばらくじっとしていたが、やがて朝焼けの空へと飛び去っていった。 私はバスに乗り、駅に向かった。駅に人はまばらで、なんだか楽しい気分になった。 どこに行こうかな。
拾った本雨で洗ってきた人と朝までつづく旅行計画
歩けば歩くほど、傘が遠のいていった。空き地の中央に突き刺さっている、一本の傘。半透明のビニール傘で、コンビニのテープが持ち手に付いたままだ。 誰もいないのに、傘がゆっくりと開いていった。時が止まる前の、緩慢な動き。 パラボラアンテナのように宇宙へと開いて、雨を受け止めている。 これから先、もうどこにも旅に行くことはできない。そう思うのに、時間は必要なかった。 朝は消滅した。
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら
自転車で行くには、あまりにも近過ぎた。ペダルを4回漕げば、そこに輪ゴムがある。わかっているのに、絶対に輪ゴムをひき殺してしまう。輪ゴムの断末魔が響きわたる。うんざりだ。
ブルーシートに「瀬戸内海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ
瀬戸内海は本州と四国に挟まれ、九州と淡路島によって蓋をされている。こう定義したとき、瀬戸内海を狭いと感じるか、広いと感じるかは、人それぞれだろう。レトリックの差だ。 ただ、そもそもレトリックが生じるには、瀬戸内海に行ったことがあるか・ないか、が関わってくる。 私は瀬戸内海に行ったことがないから、レトリックが有効だ。 瀬戸内海=ブルーシートに座って、花見の場所取りをしていると、茂みからタヌキが顔を出した。私が瀬戸内海にいるので、タヌキが瀬戸内海に侵入することはなかった。 オオカミが来た時のことを考えて、もっと大きく書いておこう。 「おーい。オオカミが来たぞう」
牛乳を誰かが飲んだあとに来る 煙草をきみはねだる目をする
「おーい。牛乳が来たぞう」 「煙草、吸うかい?」 「これで無事に牛になれます」 「あいつは有名な牛なんだよ」 「知らなかったな」
月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる
TEL「お電話ありがとうございます。ピザッチです」 わたしたち「注文お願いします」 TEL「承ります」 わたしたち「ピザッチの熟成ベーコン ダブルチーズスペシャルで」 TEL「レコードですね」 わたしたち「はい?」 TEL「月光ですね。お届け先を伺ってもよろしいでしょうか」
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅
夢なのか、旅なのか、映画なのか。 確かなのは、私が1眼レフを構えて、海辺のトタン屋根の小屋にレンズを向けていることだけだ。窓ガラスは割れ、部屋の中には砂が溜まっていた。防風林の木々の間から、風が流れ込んでくる。夢なのか。気がつくと、私は望遠鏡を覗き、宇宙の小さな米を見ている。星の中の、家の中の、米櫃の中の、一粒の米。われわれには、今目に見えているものが、米なのか、星なのか、区別することができない。
顔のなかに三叉路のある絵を描いた凧が墜ちても届けにいくわ
しかし、雲が突然、光を発した。本来見えていたはずの太陽をかすめている、飛行機の排気ガスの軌跡を柄のようにぶらさげた白いかたまりは、ゆっくりとひしゃげた。 私の頭の中と、想像の君の頭の中と、想像の中里さんの頭の中は、どれも凧が真っ青な空の中を落下する映像だけで占められていて、落下地点のことを決して想像することはなかった。つまり、野原で寝転んでいる中里さんの顔に向かって凧が落ちていき、中里さんの顔を凧の布が覆い尽くしたとは、誰も知らなかったのだ。 三者三様に、拾いに行く途中で迷子になり、誰も帰って来なかった。
マサチューセッツ工科大学卒業後 ほんとうの自由にたどり着けるだろう
何も考えたくないという時の「何も」こそが「自由」であり、何もかも達成したという時の「何も」が「ほんとうの」だ。バカ田大学は実在しない大学で、マサチューセッツ工科大学は「ほんとうの」大学だ。
五時がこんなに明るいのならもう勇気は失くしたままでいいんじゃないか
卒業おめでとう。五次会へようこそ。
東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる
自分がどこにいるのか思い出せない、いや、自分がどこにいるのかわからない。東京タワーが映っているということは東京都内のはずだが、もしかするとテレビの中の東京タワーを映した鏡かもしれず、その証拠に東京タワーはゆらゆらしているが、しかしそれはタバコの煙のせいかもしれないし、もしかするとスモッグか黄砂か霧かもしれないし、くちびるは口紅を加えてはっきりするということは、つまり鏡の中の口は自分の口で、くちびるは自分の口のくちびるで、ようするに自分が鏡の目の前にいるということ以外に確かなことはないと思ったが、塗っている自分の指と指は本当に自分の指なのか、「指?」、指ではないだろう、ここはトイレだからテレビはないはずだ、東京タワーは小さいし、自分は口紅を塗っている自分だ。
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
わたしと、マイケル・ジャクソン。この森はすべてうれしい。
こどもたちは窓のかたちを浴びていて質問��てくるようすがない
遠い空を凧が浮かんでいたので、空について詳しくないぼくらには、それがいかに巨大か、近づいてくるまで分からなかった。 凧は風にあおられぐらつき、山の峰に触れた時、周囲の木々と凧の大きさの違いに、ぼくらは驚いた。 もっと遠くに浮かんでいると思っていた。 いや、あれは飛んでいたんだ。 あれは大人かな。 子供じゃないかな。子供が五人、凧の対角線に沿って張り付いている。 貼り付いている、の間違いじゃないかな。彼らは死んでいるよ。 五角形のそれが草原へと着陸した。ずどん、と。 ぼくらはそれに向かって駆け出した。
こうもりはいつでも影でぼくたちは悩みがないかわりに早く死ぬ
もぐらとこうもりは、ぼくたちにとって黒いかたまりだった。猫がもぐらを咥えて夕方の軒下にやってくると聞いたことがあったけど、中里さんはそれをぼくたちに見せてはくれなかった。 ただ、一度、ぼくはその死体を見たことがある。中里さんがどこかに埋めたもぐらを掘り起こしてきたのだ。でも、それは真っ黒に塗りたくられていて、まるで影が空中に浮かんでいるみたいだった。ぼくはそれを手に取った。これがもぐらだとは思えなかった。いや、思おうとする前にもぐらは、ぼくの手からその黒いかたまりをかすめ取り、夕闇の暗がりへと消えていったのだった。 ぼくが幼少期に死について考えたのはそのたった一回だったが、長い時間が経ってから思い出すと、ぼくはつねに死について考えていて、それはぼくたちにとっての共通のテーマだったが、今、捏造した記憶かもしれない。こうもりが、車庫の屋根裏から羽ばたき、ぼくの顔を覆った。苦しくなることが、ぼくはいま溺れているのか、どこで。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀
バナナと梨とリンゴと葡萄がかごに混ざっていて、実はどれかが地球儀でーす、というクイズ。 正解は、バナナ。よく見てごらん。ほら、剥いてみて。
電球を抜く手つきしてシャツの中おめでとうってどこか思った
エルヴィス・プレスリーは振動を発明し、マイケル・ジャクソンは手つきを発明した。 アンチ・グラヴィティは、特許によって成立しており、靴と床の構造によって無重力を再現していた。なぜ、バスター・キートンやチャップリンとは「違う」のか。 「おめでとう」と言えるのは、マイケルだけだから?
その鍵は今から四つかぞえたら夢からさめた私が開ける
なぜ、五や三とは違うのか。 「おめでとう」と言えるのは、四だけだから?
全世界 というとき世界が見おろせる星にかかっている羊雲
トートロジーに照らして考えたとき、全世界とは三角形であり、同時に正四面体でもある。つまり、三角形は四個あり、同時に十六個あるとも言える。 私は羊雲すら把握することができている。
部屋に見えるほど寒々と白旗をひろげなさいって誰に言われた?
凧は裏側の三角形に墜落した。ぼくらはそれを見ることができなかった。羊雲が青空に広がっていた。
犬がそれを尊ぶ「セックスアピールって要するにおっぱいだろ?」という目で
マイケルのそっくりさん「おめでとう」
たくさんになって心は鳥たちの動いたあとの光が照らす
「いらっしゃい」
新聞が花をつつんで置いてある よみがえるなんて久しぶり
長年考えていたのだが、と話をはじめることができれば、この話に説得力や教訓、哲学的な示唆があるのではないか、と耳を傾けてくれる人々が増えるのだとは思うのだが、実際はほんのついさっき考え出したことについて話をしたいと思う。しかし、これからずっと考えつづけていくに違いない事柄についてだ。 いや、私は長年、ずっと考えつづけていたのかもしれない。それを、ついさっき考えはじめた、と韜晦混じりに話している可能性もある。と、話を続けることしかできない。つまり、私には、いつ考えはじめたのか、全く分からないのだ。 いったい、新聞と何の関係があるのかと思うだろう。だが、話には順序がある。 まず、私が話したいのは、まさしく、わたしが陥ったある狂気についてである。 おそらく、世界中どんな場所にも、狂人と呼ばれる人間が必ず1人はいるはずだ。どういった人間かというと、たとえば、あからさまに口調がおかしかったり、あるいは身振りが不審な人間が狂人と呼ばれるのではなく、常識という土台はあるにも拘らず、その常識が生み出すはずの思考が常識とはかけ離れてしまう・少しずれてしまう人間のことだろう。 だが、何が狂人たらしめるのかというと、実際は時代時代の常識から見た「狂気」であり、大部分は、その人間が置かれた状況や環境に対する理解の欠如や、差別意識によるものなのではないか、とも思うが、しかし、土台の上の常識がずれるということについては、多くの人間は狂気と人間(狂人)を峻別し、その上で狂気に見舞われた人間を「狂人」と見做しているのではないだろうか。 ケースバイケースだ。こんなところで結論がでるような話ではなく、そもそも「土台」という考え方が、非常に差別的にちがいない。ただ、私が何を言いたいのかというと、この「土台の上」ではなく、まさに「土台」の部分で、私は狂気に飲み込まれてしまったということだ。 話を始めよう。 私はかつて、池袋で新聞少年だったことがある。しかし、それはほんの2週間でおわってしまった。当時の家庭環境からすれば、私は働きつづけなければならなかったのだが、体力はもちろん、幼稚さゆえの逃避癖から、楽で薄暗い方へと身を沈めてしまった。逃げたのだ。打ちっぱなしの床に、やけに赤いヒーターしかない作業所が苦痛だった。2階から聞こえる怒声が、ただ耳の内側に響き、昼の数時間の睡眠や不規則な生活が、だらだらと続くのに絶望した。 それはともかく、私は2週間の短い経験だったが、新聞、と呼ばれると、広告チラシと新聞を一括りで連想するようになってしまった。私にとって、新聞とは新聞紙のことではなく、チラシがハンバーガーのように挟まっていてこその、「新聞」だ、と言えば少しは分かりやすいだろうか。 そして十六年後、私はあるアパートに住んでいた。チラシを捨てることができず、十六年分のチラシが部屋にはあり、話とは関係ないが、毎日、ダブルチーズバーガーを食べていた。 私が陥った狂気について語ろうと思うが、前置きに比べてずいぶん短くなると思う。なぜかといえば、これは私が現在直面している狂気であり、私は正常と異常、時間の長短の区別がもはや付かなくなっているからだ。ようするに、私は説明することができないに違いない。 話とはこうだ。私はある日、部屋の壁中にチラシを貼る男を夢想した。それは私だったのかもしれないし、今、私がチラシを壁に貼っているのかもしれない。 「新聞が花をつつんで置いてある」 私は「新聞」に包まれている。 私は置かれている。 私は自分が花だとは言わない。しかし、「よみがえるなんて久しぶり」とは。 私が、自分が狂気に陥ったと考える理由は下句にある。 私は甦っただろうか。「久しぶり」には、世界に対する癒しが含まれている。 癒しは、包まれているのか。包まれていないのか。 文字が塗りたくられた円錐は、床に転がっている。 円錐の先に窓がある。 窓から、光が射し込んだ。窓にもチラシを貼っていたが、紙が薄かったので、窓は光っていた。 「よお」
*
引用はすべて、我妻俊樹「窓を叱れ」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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