#家父長制アンソロ
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【イベント参加のお知らせ】文フリ東京2024年5月19日
2024年5月19日 東京・流通センターで開催される文学フリマ東京にサークル・ヨモツヘグイニナで参加します。
スペース番号はB-02。
新刊はエッセイ集『世涯ノ兎島ニテ幻覚ヲ見タルコト』。こんなタイトルですが、著者は生きています。
読むこと・書くこと・撮ることについてのエッセイ集で、ニュースレターやブログなどで書いたものをまとめたものですが、表題作のみ書き下ろしです。
新刊のお通販はここからどうぞ。
準新刊は『兎島にて』。ドラコニアのコラージュみたいな作品です。幻想文学が読みたい方はこちらをどうぞ。
ほかには去年9月に日々詩編集室からでたクィア小説『ゆけ、この広い広い大通りを』とかもありますので、お好きなものをお選びください。
お隣B-01おざぶとんさんで刊行される、家父長制アンソロ『父親の死体を棄てにいく』に、新作小説を一篇寄稿しています。
一族でいちばんの蛇狩りの男が、その言葉を信用ならないと言われている父の死骸を棄てにゆく物語。
家父長制に抗い、戦いつづけるすべての存在へ。そして、戦う手段・抵抗の言葉をもたない押しつぶされたすべての存在へ。この物語たちが届きますように。
文フリの翌日、三宅島に出かける予定だったのですが、天候不良で中止になってかなりへこんでいます。
鎌倉でクルミッコ買うぞ~!
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2023年のこと
夏に更新して以来すっかり放置していました。こういったブログ系は長続きした試しがない……。けれど、細々とでも記録していかないことには忘れる一方なので、思い出せる範囲で今年の創作活動で主要なところをまとめてみます。 ちなみに、私生活のほうでは仕事関係で異動があり、私は自分の仕事をそのまま持って行く予定でしたが、想定外に業務範囲が広がってしまい、自分の中の困りごとを色々と再認識した一年でした。(こういうふわっとしたことを書くと思わせぶりなことを書くなとか、明文化しろとかチクチク言うひとがたまに出てくるけれど、別に誰かの感情の埋め合わせしたり好奇心に応えたりするために生きているわけではないしな……ということを考える一年でもあった)
新刊『アフターヘブン』の頒布 5月の文学フリマ東京で中編小説を出しました。初頒布に際して書いた記事があるので、よかったら読んでみてください。 手頃な価格で手にとれる本を作ろうと思い立って作った一冊です。ありがたいことにたくさんの方に手に取っていただいて、現在頒布しているものは三刷目に��ります。 あまり細かいことは気にせず手癖で書いたら、複数の方から「カズオ・イシグロを思い出した」とおっしゃっていただいたのですが、そこは全然意識していないポイントだったのでびっくりした。(カズオ・イシグロは好きな作家です) なお、本作はスペイン内戦における歴史記憶法(通称)から着想を得て制作されたフィクションですが、過去そして現在に渡って続く戦争そして今パレスチナで起きている虐殺には強く抗議するとともに、今まさに傷つき、不安や恐怖を抱えている方々が少しでも早く平穏をとり戻せることを願っています。
家父長制アンソロの告知 11月の文学フリマ東京で、家父長制アンソロジー『父親の死体を捨てにいく』のフライヤー配布、同日X上での告知を行いました。こちらは2024年5月の文学フリマ東京で頒布予定ですので、楽しみにお待ちください。 『その丘が黄金ならば』という小説に父の死体を葬りに行く場面があり、そのイメージがずっと頭の中にあったのが企画立案のきっかけ……なのかな。最近読んだガルシア・マルケスのシナリオ指南本の中に、「イメージが『何か』を語りかけてくる時は、そのイメージの中に『何か』が内包されている」という言葉があり(意訳)、その言葉を借りるなら、父親の死体を捨てにいくことが表象する種々の語り――つまりアンチ家父長制の語り――が集う本になる予定です。楽しみですね。
PNに苗字がついた 黒田八束になりました。きっかけがあったわけではなく、ここ数年ずっとPNを変えたい気持ちがあって、ふと思いついてココナラで姓名判断が専門の方に相談してみました。「八束」がとても縁起の良い名前ということで、さらにパワーアップする形で苗字がつきました。 (須賀しのぶと同じ運勢にしてくれんか? とお願いして、この名前になりました。永遠の曠野を駆けるぞ)
���公開長編の初稿が完成しました 慣れないジャンルで、夏ごろからうんうんと唸りながら書いていた原稿ですが、無事に初稿が上がりました。 こちらは春ごろ告知が出る予定ですので、興味がある方は情報開示をお待ちいただけますと幸いです。
来年のことはあまり明確には考えていませんが、新規の長編を書いて何らかの形で発表するか、『方舟の椅子』を改稿してKindle化できたらいいなと思っています。 来年もなんとかやっていけますように……。
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アンソロ参加します
「父親の死体を捨てにいく」物語を集めた文芸アンソロジー、参加します。主宰の八束さんがハッシュタグ #家父長制アンソロ でX(Twitter)やFediverseから情報を発信してい��っしゃるので、最新の情報はそちらより。 https://twitter.com/yatsukami/status/1723273661120213197
企画にお誘いいただいてメンバーの名前を聞いたときに、(アンソロジーは毎回そうなのですが)場違いでは……?? と思ったのですが、その中で私にお声がけいただいたことには意味があろう、ということで、僭越ながらお席をいただくことにしました。
web拍手のほうから「文フリでフライヤーを受け取った」とコメントくださった方もいらっしゃって、どこからお返事したものかと悩んでいたのですが、この場で。ありがとうございます。作品を上げることもなくなったサイトにまでお越しいただいて恐縮です。触れたことのないテーマで途方に暮れているものの、自分らしいものが書けたらと思っています。
いまはとにかく読んで、学びなおすところから。がんばります。
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1222-29らへんに考えたこと
日記でもないんだけど朝読み返したら5000字くらいあって、こういうのはいつも書くだけ書いてtumblrには載せないんだけど、こういうのがメモ帳にいっ…ぱい溜まっているのでたまには載せておこうかなあと思った。夜書いた段階ではなんか暗いなと思ったけど朝読んだらそうでもない気もした。わたしの気分というのはとてもあやふやで、そんなもんだろうと思った。
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ブックセラピーの企画にお誘いいただいた。ブックセラピーとは悩みに本を”処方”するというものだそうで、渋谷○○書店のスタッフ・リレキショウタさんがBOOPY(ブッピィ)というサイトをやっているとのこと。サイトに寄せられた悩み事についてそれならばこんな本がおすすめですよと選書し、本の紹介記事を書くのだそう。 わたしは性格が歪んでおり非常に意地悪なので、わたしのような者に悩みを相談してはいけないと思います…、そもそも文章を書くのが上手いわけではないので小説ではない文章を書ける気がしません…(じゃあ小説は書けてんのかっていうとわかんないんだけど、べつに文章上手くなくても小説は小説になりうる(なっちゃう)し、そもそもわたしの小説はわたしが勝手に書いているものなので文章の巧拙とはべつのところにある)。何度かお話を伺うたび、わたしはそのようにお断りしていたんだけども、12/22にお店番をしていた際、なんか話の流れでとりあえず年末までにひとつ(ふたつ?)記事を書くことになった。 ぜったいに向いてないと思います、とても無理です、書けません、ライター仕事は承っていませんとはっきりきっぱり言いすぎてたぶん冗談みたいに聞こえたんだと思う。そして○○書店でかなりお世話になっている方なので文章を書いてくれと言われるとなんかこう書こうかなあという気になってしまった…のか? これは小説だとほんとにそうで、同人誌のアンソロだと、主催の方をよく知らなかったりアンソロのコンセプトがよくわからなかったりでも、依頼されるとうれしくて書いちゃう。何か作品を読んでくださった方から小説を書いてくれと依頼されると、ほんとにとてもうれしい。二つ返事で書く。わたしは性格が歪んでおり非常に意地悪だけどとてもちょろいのだ…。そしてそれが無責任だし軽薄な態度だとも思う。でもほんとに、小説書いてって言われるとパーッとうれしくなってしまう。で、今回のこれは小説ではない。
今回、わたしは記事をひとつ書くのかふたつ書くのか? わからない。口約束なのではっきりしなかった。とりあえずひとつ書いた。書いた後は自分のtumblrだったりペーパーだったり自由にしてよいということで了承いただいた。けっこういろいろ譲歩してもらっている。けれどもなお、ほんとに書くのかという気分だったし、非常に苦しんで書いた。 小説ではないからか? わからない。どうしてわたしに依頼してくださったのかもよくわからない。悩み相談というのはちゃんとそういう訓練を受けた人、資格を持っている人がやった方がいいんではないのか。あえてそうではないところに価値や意義を見出す企画であることは説明され、言わんとしていることはなんとなくわかったものの、わかったものの…。悩み相談を受けた人がかえってダメージを受けてしまうってことはありそうだよなあと思った。またこういうブックセラピーというものが、皆保険制度のない国から始まったものとのことで、そのあたりも考えたいことがたくさんあるなと思った(保険制度を話題に出すならわたしは慎重になる)。 そしてこの「悩み」というのが、ほんとにこういう悩みの人がいるのかどうかわからないというのがわたしにとって蜘蛛の糸のようにつきまとい、たぶんここに苦しんだ。「悩み」はBOOPYのサイトで募集しているが、それをそのまま載せるとは限らず(さっきの「悩み相談を受けた人がかえってダメージを受けてしまう」というあたりに配慮していると思われる)、サイトが始まったばかりということもあり、架空の悩みである場合もあるらしい。 架空の悩みって言い方はよくないか。よくある悩み事的なものをインターネットでサーチしたというようなことを言っていたので、そのような悩みを抱えている人はいることはいるのだろう。でもその人が何か本を紹介してほしいと思っているわけではないだろう。同じような悩みを抱えている人が記事を読んだときに何かしらふうんとはなるのかもしれない(そういう悩みのシェア、その意義についても伺った)。でももしかして今書いているこれは独り相撲なのかもと思うとやや虚しい気持ちにはなった。 いやまあこういうのは本の紹介がメインであって、悩み自体はお題的な建前かもしれない。サイトの趣旨を��話いただいたとき、本好きが活躍できる未来をつくりたいとおっしゃっていたから。 いやわたしは「本好き」なのか? 小説を読んだり書いたりを日々やっていて、たぶん好きだと思うけど、本好きかっていうとどうだろう…。好きな本は小説に限らずたくさんあり、それなりに買ってる方なのかなと思うけど(自分の収入とのバランス、ほかの支出と比べるとそれなりに好んで買っている方だとは思う…という話。でも蔵書量や積読を誇るタイプではないな〜)、それをもってして「本好き」か? 本ってだけだと何を指しているかよくわかんないよなあといろいろ屈託があり、「本好き」とカテゴライズされることに抵抗がある。 いやほんと、そういうのも含めてわたしがマジレスしちゃっているだけかもしれない。サンプル的に何か書けば何かしら何かになるのかもしれない。誰も読まなくてもわたしが文章を書く練習にはなる。それはそう。まあ文章を書く練習なら毎日小説を書いているんですけども…。ほんと、そんなにいろいろ気にかかることがあるんならやんなきゃいいでしょって感じかもしれないんですが、いやわたしはできねえって何度も言っていて、でも話の流れで書くことになっている。不思議なことに。 そしてこのように書いてみるとものすごく愚痴みたいに見えるので我ながら驚いているんだけど、わたしは苦しんで文章を書くのがそんなにイヤではなくて…。記事自体は非常に楽しんで書いている。苦しんでいるとの楽しんでいるのとは同時に起き得る。これ長いことわたしの小説とかtumblrを読んでくださっている方には伝わると思うんだけど…。
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サイトをひととおり読み、記事を書いてみた。そもそものところで「こういう気分のときにこういう本」というのがあんまりよくわからないので難しかった。毎日なにかしら読んでいるけども、それって自分の気持ちに合わせて本を選んでいるわけではないよなと思った。 たとえばわたしは呉明益の『自転車泥棒』という小説をおととし読んで、すごく好きだと思った。日本橋の誠品書店を初めて覗いて、せっかくだからと台湾の作��コーナーを眺めていて、なんとなく手に取った本。帯の、「この小説は「なつかしい」という感傷のためではなく、自分が経験していない時代とやり直しのできぬ人生への敬意によって書かれた」という文言に惹かれた。あと手持ちのお金が少なくて文庫本を中心に眺めていたというのもある…。 じゃあ、本を手に取ったとき自分の気分がどうだったかというのはあんまり関係ないように思う。面白そうだな、読みたいなと思うとき、わたしは白紙になっている…というのもちょっとちがうか…。「私」がないことはない、あることはあるけども、「私」を中心に据えて何か読もうとはしていない。あとこの『自転車泥棒』ってそこそこ分厚いので、一気に読むものではなく、日々のいろんな気分を御しながら読んでいたと思う。元気な日もあったしイライラしている日もあった。わたしの日々の波風が、「ぼく」の家族の歴史は「盗まれた自転車」に始まるという長い物語——まずは「ぼく」の祖父が生まれた年まで遡り、自転車をめぐって台湾の中華商場から戦時中のビルマ、日本、ウンベルト・エーコの創作論…とさまざまな旅をする——と一緒にあるということ。自分の生活に長い物語が入り込むようでもあるし、生活から離れたところにある物語の中にフッとワープするようでもあるし。どうとでもいえちゃいそうでもある。 文芸だけでなくいわゆる人文書でもそうだと思う。何か知りたいことや調べたいことがあるから本を手に取るとも限らず、なんとなくこのテーマに関心があるとか、ふと目を惹かれたとかで、思わぬ興味が広がったり学びを得たりする。『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』を読んだわたしの動機はなんだったっけ。 またこれはどちらかというと随筆の部類だと思うけど、古い岩波新書の『釣りの科学』を手に取ったのがなんでなのかこれもぜんぜん思い出せないが、好きな本で何度も読み返している。大学の教授を退いた筆者が科学的視点で語る釣りの話。魚の生態や釣りの仕掛け、釣り方など。わたしはまったく釣りをしないし1969年に書かれたものなのでこの本でわかる新事実のようなものはあんまりない気がするけども、語りの端正さや優しい感じに落ち着く。釣りそのものではなく、何か態度のようなものを学んだ気がしている。「釣り」とか「海洋生物」とか「生き物」とか「科学」といったタグづけとはおそらくべつのところに、わたしの気分や得たものがある。 じゃあ気分にあわせて本を選ぶというのが嘘だと訴えたいのかというと、べつにそういうわけではなくて…。企画を否定したいわけではない。気分から本を選ぶこともあることはあるし、そしておそらくは人に伝える切り口としてそれがわかりやすいというのはあるんだろうなあと思うし。ブックセラピーに限らず、書店のPOPとかでも見かける。「〜〜なあなたにおすすめ」とか。ちょっとマッチングアプリっぽいのかな。なんとなくお膳立てされてる気がするのかな。「人に伝える切り口としてそれがわかりやすい」、そういうある種の茶番がありそれにのるということ。これには気分やコンディションが大いに影響しそうだ。
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ともかくだ、「4年付き合っていた彼と別れて立ち直れない、結婚まで考えていたのに、、、/30代・女性/会社員」という悩みを与えられ、わたしは本を選んだ。 最初パッと思いついたのは『海をあげる』(上間陽子 著)。なんでだよって感じだけど(『海をあげる』は沖縄に横たわる暴力の話だ)、冒頭の「美味しいごはん」という話が、著者が前夫に不倫されたときの話で、著者の友人たちの励ましのことなどを思い出したので…。読んだ人はわかると思うんだけど。そしてわたしは最初にこれを読んだとき、自分にはこういう友人っていないな〜!と思った。卑屈になっているわけではないんだけど、いないな〜!と思った…のを思い出し、やめといた。 この「30代・女性/会社員」という方がほんとにいるのかわからない。もし恋人との別れという内容で「30代・女性/会社員」という属性を作り出したのだとしたら、そこに偏見はないかというのも気になった。わたしはとても疑り深い…し、どうせ茶番なのだとしたら「あるある」をやる姿勢みたいなのは、そりゃまあ気になる。これは小説を書いているときもすごく思う。じゃあ小説にしようと思った。何か好きな小説、今年読んでああ好きだと思った小説からひとつ選ぼうと思った。 12/29の店番で原稿を提出した。これがそのまま使われるのか直しが入るのかなんだかわからないけども、ともかく1400字くらい書いて出した。1月半ばくらいにサイトをリニューアルするとこのことだった。たぶんそれより前に、このtumblrに載せるとかフリーペーパーとかにしようかなあと思っている。 前回の日記にも書いたけど、赤澤玉奈さんの展示で、悩みを語りそれを石にドローイングしてもらうというのがあった。それをやってもらったときにこの記事のことはもうあった。わたしが本を紹介するよりこっちのほうがいいよなと思った。そして、わたしの話を聞いてくださったときの赤澤さんの感じ、受け止めてくれたという感じが、わたしには無理そうだなあと改めて思った。 ややこしい性格をしているのは自覚している。わたしのような者が文章を書くことが、なにかしらいいことになるように、サイトに掲載することでわたしの活動や作品にもつながるように、いろいろ気を遣ってくださっているのはほんとにもうよくわかった。けども…と言いたいことがいろいろあって、もうちょっと考えます。どうしてわたしはこの善意にパッとのれないんだろう。 ついでにもいっこ書いておくけど、こないだ神保町のシェア型書店で買い物したとき、運営の方とちょっとお話したのね。わたしは渋谷○○書店で棚をやっていますと名乗って、お店によってだいぶ雰囲気がちがいますねみたいな話をしたの。そしたら話の流れで「渋谷のあそこはキラキラしてますもんね」って言われ…。あ〜〜やっぱ出版って権威どまんなかよな…こういうところで元気いっぱいなのはやっぱアカデミックな男の人なんだよな…と思った。ってかわたしがその店に参加してるっつってんのに面と向かって「キラキラ」って形容すんのは、さすがに喧嘩売ってねえか? いやわかるよ、たしかにまあこのとおりわたしは「本好き」みたいな語にものすごく屈託があり、そういったところから始めようとしているこういうブックセラピーのような企画にもかなり疑問をもっているけども…。でもそこに何かつっこみを入れようとするときに、なんかこうすごく権威的な感じになっちゃうのはやっぱイヤなんだよな…。と思った。ほんとにわたしはどうしたいんだろう。こういうことをtumblrに長々書いてしまうのもほんとにどうなんだとは思うけど、わたしの日記を読む人はそんなにいない(これは謙遜ではなくほんとにそんなにおおぜいいない)ので、書き残しておく。こういう、実際どれくらい影響力があるのかってことをなんとなく判断した上でまあほぼないっしょとやる…というのは日々いろいろあって、おそらくブックセラピーのサイトについてもそういう判断がなされており、わたしは杓子定規的、儀礼的に予防線をはりまくる感じよりはこっちのほうがいいと思うので、結局は懸念にすぎないかも…とかも思う。 いまこの長い日記(?)を書きながら、独り相撲的ということと、本を選び、読むことについて、あっと思ったことがあった…んだけどすぐ消えてしまった。なんだっけな。たぶんもうちょっと考えたら何かわかりそうな気がする。
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読書日記:『閑窓vol.4 学窓の君へ』
6/16『閑窓vol.4 学窓の君へ』
閑窓社さんのアンソロジーに参加しました。坂の上にある架空の学校を舞台にしたアンソロジーで、事前に学校の見取り図や生徒数や、公立の中高一貫校であること、高等部には芸術科と体育科があること、海が見えること…などの情報を共有し、それぞれ作品を書いたものです。 各作品のひとこと感想…のつもりなんですがなんかすごい的外れなことを言っている気もする…。
「ザリガニを春に釣るということ」瀬戸千歳さん ギャルの子たちって案外優しい、常識にとらわれず正直だ、職場にいると面白いアイデアをくれそう…そういう、コミュニティにおいていい役割を果たしてくれそうみたいな期待って、ようするに、ギャルのことを人だと思っていないんだよな…。わたしはそこに怒りがある…ので、本作のラストがとても好きです。それまでのみずみずしいドラマが作者によるフリだったのかもしれない?と感じてしまうような、鮮やかな切断。人が人に抱く期待がすべてろくでもないとはいわないけれど、こちらが勝手に描いた幻想をふっとばされることは往々にあり、そういうドラマが好きです。
「游泳準備室」オカワダアキナ 自分の。ふだんだったらこういうオチにはしないんですが(恥ずかしくなっちゃう)、なんかこのときは、まあそれもいいかなあみたいな気持ちになって、たぶん作中でさんざん「なんでだかわ���らんが」をやって気が済んだんだと…思う…。わたしは変なところに照れがあるなあと再確認。
「犬騒動」熾野優さん 学校に犬が迷い込んできて、それを教室の窓から見つける…という経験が、自分にもあったなあと思い出すけど、それが中学だったか高校だったか、それとも小学校だったか、記憶はぼやけている。白っぽい黄色っぽいグラウンドの地べたをとぼとぼ歩く犬をたしかに見た気がするのに。そういうあったはずの記憶を刺激し、共有していることを意識させる作品。主人公の先生を見つめる目に、「富嶽百景」の月見草を指さしたおばあさん…を思い出しました(とくに似てはい��いんですが、集団の中でふと自分の特別さを意識するような)。
「幻をつかめたとして」瀬戸千歳さん 映画の撮影が学校にやってくる。撮影のようすを取材する新聞部の主人公は、役者の女性としばし語らう。さしこまれた写真の女性(表紙と同じ女性)が役者の伶奈さんなのだろうと思って読みました。わたしは少女の表象の扱いにかなりの屈託があり、制服の少女という表現にわりと身構えてしまうのですが、本作の一連の写真は「そういう格好をしている女性」というのがわかりやすくてよかったです。みずみずしい一編でした。
「導き」篠田恵さん 漫画を描いていたら留年していたという主人公。浜辺で「それ、何ですか」と声をかけることができる時点で、彼はすごく特別だ…!と思う…ので、その後先輩に才能とそれにふさわしいふるまいを指摘されるくだりは、ボケとツッコミ的でもある…と思いました。いわゆる無自覚ボケというか。現代的なくすぐりを感じます。「そうあることしかできない」という人間が、それでもうまくいかないこともあるよな…みたいなその先の人生を考えたくなってしまうけど、高校生の彼らがそのように自覚し、才能を発揮してやろうというエネルギーに溢れているのは、やはり眩しくて素敵だなあと思います。希望を描くことそのものが希望である…というようなことを考えました。
「フィルター越し」貝塚円花さん 万RTされてるツイートやnoteの記事をまるで支持できねえ〜と思うことがしょっちゅうあり、ふーんこういうのがいま大衆に届きやすい正しさなんですねと斜にかまえるなどする…のとはちょっとちがう話ですね。書いてから気づいたのでまあこれは余談です…。 友だち同士でありながら、内心では気に入らないところがあったり、認めていなかったり、見下しあっていることすらあるかもしれない。そういうあまりきれいではない感情の話で、とはいえ、清冽な印象を受けました。後ろめたい感情や内心の不機嫌を口に出すこと(小説で語ろうとすること)それ自体が、若者らしい潔癖さのように感じるからかもしれません。そしてラスト、主人公の撮った写真がひっそりと賞をもらう…静かだが正当に評価される…のが、彼女のフラストレーションを昇華させていて、美しい青春小説だなあと感じました。
「直線に触れる」山本貫太さん 斜め前の鈴木さんが直線に見える…という話。直線に見えるとはどういうことか、最後の球体はなんだろうと、あれこれ深読みしたくなるけどそれはそういうものとして受け取るほうが面白そう。「距離というものは日々変わっていくものなのかもしれない」や「実際にはただ「考え」だけがあった」のくだりが好きです。語りの言葉が魅力的で、抜け感があるというのでしょうか、ほどよい崩しがあって、小説の言葉がこなれているなあと感じました。理屈っぽいような、そうでもないような、言葉や意識についてあれこれ深追いする主人公がすごくチャーミングに感じ、なぜだろう? 誰に委縮することもなく自分だけの思索に入っていけるマイペースさ、屈託のなさが、かれを自由で好ましい人物のように感じさせる…のかも。「海が近いからです」やクラスのアンケートに対してもそんなにひねてないところもそうかな。明るさのある一編で、とても好きです。
「ポートレート」由々平秕さん ハナサブロウ君について皆が思い思いに語る文章。ハナサブロウ君とは誰なのか、何なのか、どうも一貫しない…?ので、読み進めるうちになんとなく予想がついてきます。やがて「生みの親」の一人である、かつての生徒…現在は図書室の先生の…文章が種明かしのように出てきて、ふっと、そういえば自分は図書室の司書さんとあんまりうまが合わなかったな…という記憶に接続しました。こういう企画に文章を寄せられない(のれない)タイプだからかもしれない。文集で語る言葉や機会のなかった、ただ壁画を視界に入れていた人たちのことを考えます。「絶えず模造し直される思い出の断片にすぎなかった」、ここのくだりが好きです。また、設定を共有して書いたこのアンソロジーと(ときおりべつべつの作品のモチーフが重なり、響き合うようなアンソロジーと)本作とが、なんだかマトリョーシカのようで面白かったです。
「守るべきは光だけ」熾野優さん 母親目線の話。PTAの役員決めや仕事の分担のわずらわしさ。ある日子どもがクラスメイトに怪我をさせてしまう…。子を持つ親もまた、「学校生活」の一員なのだなあと思いました。あるいは、自分の子が学校に通うことで親もふたたび青春を過ごすことになる…ともいえるのかも。理不尽に対峙すること、他者の発見…。本作が日記帳のように日付とともに記されていること、最後の「ねえ、私って、どんな子供だった?」のある種の陶酔も感じるような投げかけなども、青春を感じさせるなあと思いました。そうして彼女のふたたびの学校生活の中に、夫(父親)はほぼ入ってこないのだ…と思うなど。個人的に、親の関わりがある学校生活というのがすごく遠い記憶なので、最もノスタルジーを感じた作でした。
「暗い結晶」丸屋トンボさん 吃音のある主人公。小学校のとき、友だちと学校の兎を死なせてしまった…と思ったら兎は生きていて、主人公はこっそり兎を飼い続けた。友だちとはその後、中学高校と同じだったが、会話することはなかった。高校卒業を目前にして、主人公はある復讐を果たそうとする。 語りのうまさに鷲掴まれた一編でした。主人公の鬱屈や復讐に至る嫉妬心の「暗さ」が、語りの言葉運びで読者へ伝わってきて、引き込まれました。丸屋���んの長編も読んでみたい…!と思いました。最後の一段落で、なんといったらいいのか、すこんと抜ける感があり…、なんともきれいな短編だなあと思いました。
同じ学校の中のできごとで、この作品とあの作品の人物が廊下や坂道ですれちがっているかもしれない…ということを想像したくなるのですが、それぞれの作品のにおいや手ざわりがしっかりしていて、どちらかというと「競作」といった感があるなあと思います。 学校ってだいたいの人が経験しているから「憧れ」や「未知」にはなりにくいと思っていて、予断を排して読むのは難しいのではないか…学校ときいてテンション上がる人も少ないんじゃないか…といったことを考えていたのですが、その予感はいい意味で、いい形で的中しました。各作家の学校生活(人間関係)への屈託、割り切れなさや疑いみたいなものが、みごとに上質な短編になっていて、鋭さのある作品集だなあと感じました。わたしは初めて作品を読む作家さんも多くて、読んでいてすごく面白かったです。ものすござっくり言いますが、みなさん小説が上手でらっしゃいますね…! おじゃまできてうれしかったです。
余談。 テーマのあるアンソロジーを読むと、不思議と作品同士が響き合い、偶然なのだろうけどもなんともうまいことつながったなあと感嘆することがしばしばあります。きっと、同じテーマについてそれぞれが熱心に考えた結果、同じような岸にたどりつく、近しい光を見るというか…これは前向きな接近・重なりです。 またわたしはこういうアンソロのような字数制限のある短編を書くとき、あんまり説明せずにシュッとさせたいなとか、もたつかせたくないなとか、不安の裏返しのような下心があります。短い字数のなかでも豊かに世界の広がる小説はたくさんあり、いわゆる短編の名手とよばれる作家のものをあれこれ読んでいると、イメージののせかたが巧みだなあと感じます。景色とか天気のようすなどで雄弁に語るとか。で、それって字数制限があるときなんかはとても助かるんですが、既成のイメージに依拠することでもあるよなあとも思います。明るい気分のときに外が晴れているとか、孤独を感じたときに見つけた月とか…、あるいは、ある日出会った不思議な子が「手足のほっそりした」「色白の」「髪の長い」「女の子」であるとか、ヒステリーを起こすのは女の先生であるとか…。何気ない描写の端々に、内面化された偏見を見つけ、反省します。こういうあらかじめ共有されているイメージに作家はしばしばのっかり(意識的にも無意識的にも)、そうすると、アンソロのモチーフが重なることもまああるかもなあと、これについては多少しょんぼりもします。 当たり前に共有しているイメージを裏切ること。剥がしていくこと。そういうのを短編でやろうとするのはなかなかに大変だとは思うのですが、まあでも、学生のとき書いた脚本について「話の筋に関係なくいきなり○○○を出さないで、意味がないと」と講評されてじわじわムカついたこと…それにちゃんと否と言いたい気持ちがあること…を思い出すと、なんとかやっていきたいなあと考えます。なんか最近は、あんまりお上手でなくてもいいからそういうことをやりてえな…という気分です。
余談2。 作者の性別や年齢を公開しなくてもいいでしょ、作品は作品だけで成立させるべきでしょみたいなのは、理想的にはそうかもしれないけども、じゃあたんに「人間」ですとしたとき、人が想像するのは男の人、シス男性になっちゃいそうだな…とも思う。作家に限らず。そうでない人はつねに有徴の側に置かれている。 また、「いちいち年齢を公開しなくたっていいじゃんか」は、「歳をとることがうれしくない、喜ばしいことではない」「何歳までに○○したい(しなきゃ)」「恥ずかしい」がすぐとなりにあるんじゃないかみたいな気持ちがあって…そんなことあってたまるかと言いたくて…。なんかこうそういうわけで、最近は1984年生まれですってことさらに書いている…ふしがあります。あと、わたしと同世代の、いわゆるロスジェネ世代とゆとり世代の隙間にいる感じ(あんまり名前はついてない世代)…うまくいえないんだけど妙な気楽さがある感…をなんかこうちゃんと考えてみたいのもある。 もちろん、そういうのを公開したくない気持ちがある人は大事にしたほうがいいと思う。わかりやすく被害をこうむることもあるし、他人にはわからなくても自分一人の中でショックを受けることもある…ので、ほんとそのあたりは人によると思います。 というようなことを、なんかアンソロの巻末につけるプロフィールをどうしよかなあというときに考えていました。わたし賞とか仕事とか特筆すべきことがなんもないので、書くことがなく、なんかこう自己紹介しようと思ったら「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」みたいなノリになった。
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