#妃殿下への献上品
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#4「キマイラ演劇はいかにして出現したか/コートジボワールの衝撃」
偽装された演劇祭?ー鴻さんが、コートジボアールの国際舞台芸術祭MASAでの衝撃的な体験を振り返りながら、批評がいかに、演劇作品それ自体と、その背景にある歴史や社会との関係を捉え、言説化しうるのかを問いかけます。また、3月に旅したヒッタイト(トルコ)の話を織り交ぜ、「演劇と帝国主義」の視点から、鴻的ギリシア悲劇論もさらなる展開をみせました。下記は講義の要約です。 ■帝国の周辺としての古代ギリシアと演劇の起源 前回は、「演劇と帝国主義」をテーマに、鴻さんが、エドワード・サイードの『文化と帝国主義』を参照しながら、ヨーロッパの人たちが植民地を演劇においてどう描いているのか、植民地であったところに生きる人たちがどんな演劇を作るのか、ということを考える意味について論じました。今回は、演劇における植民地主義の問題と、古代ギリシアにみられる演劇の起源の関係について考えます。 鴻さんは、この2つの関係について調査するため、今年3月に、トロイアと、その背後にあったヒッタイトの遺跡を訪れ、さらに、アッシリア文化をギリシアにつなげるキリキア、あるいはイオニア哲学始まりの地であるイオニアにも足を伸ばしました。そして、それらを実際に目にした時、古代ヒッタイト王国の遺跡の巨大さに驚いたそうです。古代ギリシアのミケーネ文明やクレタ島のクノッソスの遺跡よりも遥かに巨大であった古代ヒッタイトは帝国でした。 そのことに着目した日本の哲学者が柄谷行人であったと鴻さんは言います。ギリシアは、帝国の周辺であり、周辺の植民地のようであった場所が文明の発祥地になった。つまり、それは、一般的に偏狭の地と言われる場所に偉大な文化が起こるという逆説を示唆しています。 ヒッタイト王国と敵対関係にあったエジプト帝国、メソポタミア、アッシリア帝国の緊張関係から紀元前1275年頃、ヒッタイトとエジプトがカディシュの戦いを起こしました。その後、結ばれた平和条約は、文字で残されていて、解読もされています。しかし、この帝国の戦いの中に、将来ギリシア悲劇を生み出すミケーネ文明は入っていません。帝国ではなかったギリシアは、帝国エジプトと帝国ヒッタイトの周辺であり、トロイア���また、ヒッタイトの属領のようなものであったと考えられます。 ここで、鴻さんが関心を持っているのが、ある種の強大な国家があり、その国家と交渉関係にある周辺地域との交易が実り豊かなものを作り出す可能性があるのではないのか、ということです。もちろん、国家があり、それほど大きくない周辺の国がある時に、必ずしも、それらが植民地であるとは限らない。また、20世紀の帝国主義のヨーロッパとヨーロッパの植民地の関係も、宗主国と植民地は、搾取する側と搾取される側の関係だから、素晴らしいものではない。にもかかわらず、その関係の中から新しい文化が生み出されてくる可能性があり、それをどういうふうに分析したらいいのか。鴻さんは、サイードもその可能性を考えていた1人ではないかと捉えています。 ■コートジボアールの偽装された現代舞台芸術祭−文化的文脈の重要性 鴻さんが、そう考えるようになったきっかけは、アフリカの幾つかの演劇祭に訪れた時でした。例えば、2001年の3月にコートジボアールのアビジャーンという町で、2年に1回開催されているMASAというアフリカ演劇祭を訪れた時、3月3日から10日間で、演劇だけでなく、ダンスや音楽も含めて、約40団体が作品を上演していました。セネガル、南アフリカ、コートジボアールなどアフリカ各地からの作品を主に観たそうです。その頃は、日本でアフリカの現代演劇を観ることはあまりなかったことなので、単純にアフリカに現代演劇があるのだということに感激したそうです。1週間でのアビジャーンの滞在は、ホテルとフェスティバル会場との往復。そして、ゲストとして、村のお祭りに招待されたり、アビジャーンの市場に連れて行ってもらったりしながら過ごしたそうです。 その時に観た、イマコ・テアトリ(Ymako Teatri)の『パレオ(Paleos)』について、音楽とダンスと対話劇がどのように融合しているかということを、猿の演劇論第2期第1回目の講義で話しました。今回、改めてその事に触れようと思い、過去の記録を探したところ、その年のMASAに関する批判文章を見つけたそうです。 それによると、この年は、これまでMASAに関する記事を書いてきたフランスの新聞、ルモンドやリベラシオンなどが、全く記事を書かなかった。なぜかというと、北部、西部地区にはいまだ内戦状態のところがあり、政情不安定で危険だからという理由で、フランスのリベラシオンなどの記者すらこの年の演劇祭には来なかったというのです。一方で、海外からのゲストたちは、本来とは違う、コートジボアールの姿を安全に隔離される形で見ている。海外ゲストたちが送迎される車は特別に仕立てられた車であって、しかも通常はコートジボアールにあるたくさんの検問所が、フェスティバルの1週間は廃止されたということを、この外国のお客たちは知らない、と書か���ていたそうです。 今となっては、これが事実かどうか調べることも難しく、MASAに��加するために来た外国人ゲストの一人であった鴻さんには、この事実はわかりませんでした。ただ、この文章は、作品の批評とか分析といったことだけでなく、そういうことも含めた調査がなされなければいけないのではないかということを、鴻さんに思い至らせました。 イマコ・テアトリ(Ymako Teatri)の『パレオ(Paleos)』は、大統領選をモチーフにした作品です。前年の2000年10月に大統領選挙で、いわゆる民主派と言われる大統領が当選しました。そうした中で、MASAが開かれ、そこで、コートジボアールの劇団が大統領選をめぐる演劇を上演する。その選挙においてどういうふうなポジションを取るべきなのか、ということを言い争っている人たちがいて、舞台上で議論をしている。そういう意味で、政治的に危ういことをやっていたのだけれど、鴻さんは、当時、それを美しい民主主義的な出来事のように感じつつ見ていたそうです。 議論をする人たちとともに、ダンサーや楽団がいて、集団的なコロスを作っていた。ダンサーや楽団に囃し立てられるようにして、議論がなされているけれども、その議論が包み込まれていくような形で、ある種の村落共同体的な雰囲気が浮上してくる。そこに、村落共同体のユートピア的な空間が立ち現れます。タイトルのPaleosというのは、Paleoristic、「太古の」という意味です。“Waiting for the Wild Beasts to Vote”というのが、原作のタイトルであり、つまり、太古的な匂いを漂わせているもの、Wild Beastsが、選挙をすることで、そこに民主的なものを実現するという意味です。選挙なしの共同体ではなくて、選挙のある始源的な共同性によって、新しい社会が誕生することが知覚されるときに、演劇という形式が登場してきた。このようなことが、コートジボアールの世界演劇祭で展開されていて、その演劇祭の冒頭の開会式に、前年の選挙で選ばれた大統領が来て、スピーチをしていた。鴻さんは、そのことを素晴らしいことだと思って見ていた。しかし、それらすべてが、実は演出されていたことであるという批判文章が、その2年後の2003年に書かれているのです。 「猿の演劇論」第2期の最初の回で、鴻さんは、『パレオ(Paleo)』をムヌーシュキンの太陽劇団と比較しながら、サイードの『文化と帝国主義』の中で語られていたことが、演劇においてはアフリカで起こっていたと考察しました。しかし今、そのように作品の魅力を肯定的に捉え、分析するだけでなく、作品が上演されたフェスティバルを取り巻く文化的な現実との関係をも含めて、どのように語るべきかということが問われているのではないかと考え直しています。 ■地中海の交易の歴史から『オリエンタリズム』を再考する サイードは『オリエンタリズム』において、アイスキュロスのギリシア悲劇『ペルシア人』を参照しながら、そこに描かれるギリシアに敗れ、嘆き悲しむペルシア人のイメージが、オリエンタリズムの起源だとしています。鴻さんは、これが『トロイアの女』にも反復されていると考えています。ギリシアに敗れた者たちの嘆きを描くことで、ギリシア悲劇が成立��ているのです。サイードは、普通にギリシア悲劇を観ているだけでは、そのことにあまり目がいかないと指摘しています。こうした状況を逆転するために書かれたのが、サイードの『文化と帝国主義』であったと鴻さんは考えています。 そして、鴻さんが古代ヒッタイトにこだわるのもまた、こうした悲劇の誕生が、ギリシアが弱小国家であった過去とのつながりの中で捉え直す必要があると考えているからです。乱暴な説ではあるが、と注釈しつつ、鴻さんは、紀元前1200年頃にあったとされるトロイア戦争は、紀元前2000-1200年頃の弱小国家群であったギリシアが植民地解放闘争のようなものを仕掛けた戦争の最終局面と考えられると推論します。負けたトロイアは滅亡し、消えていく。同じころ、ヒッタイト帝国も消滅に向かいます。ギリシアは勝ったとされているけれども、ギリシアも帝国も同時に消滅していく。その物語を、約400年後に、政治的、経済的基盤を手に入れたギリシア人たちが、『イーリアス』や『オデュッセイア』などで勝利の物語として歌い上げた。そして、その弱小国家群であるギリシアが、植民地に落ち込まないための戦いの連続の中で、ギリシアを攻め損ねたペルシアの敗北を歌った。鴻さんは、ギリシア悲劇は、このようなかなり広い世界地図の中での関係が前提となって誕生したと考えているのです。 鴻さんがディレクションをした2002年のカンプナーゲルのラオコオーン・サマーフェスティバルのシンポジウムに登壇した、イラク人の演劇研究者でアクティビストでもあるラミース・エル=アマリさんは、そのトークのなかで、かつては地中海が交易の場として重要であったと語っています。地中海の南には、エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア。北にはギリシア、トルコ。東にシリア、レバノン、パレスチナ。この重要な文化的な場が意識から消えるとき、地中海の南と北の交易が絶たれるような時に、問題が起こると指摘しています。 鴻さんが、フランスからアフリカへ飛行機で向かう時、窓からアルプスの雪を見ていると、すぐにユーゴスラビアの上空になり、やがてギリシアを通過、それから、クレタ島上空というアナウンスがあって、そうしたらすぐにカイロへ到着したというのです。この時に、鴻さんのなかで、カイロとギリシアを巡る興味が一気に湧き上がりました。エジプトの巨大な遺跡群ルクソールは、かつてテーバイと呼ばれていました。エジプトの遺跡とヒッタイトの遺跡の獅子の門は同じような作りをしています。また、クノッソスの宮殿には、エジプトの壁画を模したような壁画があります。ミケーナイの城塞都市を建設したのはヒッタイトの人たちであったという説さえあるそうです。これらは、ギリシアのアテネ、クレタ島のクノッソス、エジプトのカイロをつなぐ文化的交易が存在していたことを示しています。 サイードの『オリエンタリズム』にあるギリシアの超越的権力性のようなものに対するコンプレックスを克服し、こうした広い世界地図からギリシア演劇の起源を再考する必要がある、そして、地中海の北と南の関係性に意識をおきながら、アフリカ演劇もまた考えられるべきであると鴻さんは論じます。 2003年に初演され、日本にも来日した���アフリカのヤエール・ハーバーの『モルーラ(灰)』は、アパルトヘイトが廃止されてから約10年後、これまで迫害、抑圧されてきた人たちが、加害者にどう対応するのか、これは大変な問題でした。この演劇ではそれが、真実和解委員会の形式を用いながら、アイスキュロスのギリシア悲劇『オレステイア3部作』をなぞって演じられました。加害者と被害者の発言が行われる舞台上では、加害者のセリフが王妃クリュタイムネーストラーの台詞として語られていき、夫アガメムノーンを殺害したことは認めるが、しかし、アガメムノーンも愛する娘を殺害したではないかと訴える。だが、自分も夫を殺害した後では、恐怖からか、娘のエレクトラを虐待している。そして、どのように虐待していたのかを示すため、エレクトラを相手に実際にアパルトヘイトの中で行われていた虐待の仕方を演じる。虐待されるエレクトラを演じるのは小柄の黒人、そしてクリタイムネーストラーを演じるのは大柄の白人です。ものすごい迫力の感じられるシーンです。このように、舞台では、『オレステイア3部作』の物語になぞった復讐の応酬が繰り広げられ、その物語を支えるようにコロスが現れ、倍音の歌と南アフリカの伝統楽器の演奏が行われました。その中で、唐突に物語の中で復讐の断ち切りが行われていく。この作品は、アパルトヘイト後に実際に加害者として復讐されたPoor Whiteの問題を背景としています。アパルトヘイト後の復讐では、白人の中でも貧しい人たちが襲撃の対象となったのです。アパルトヘイトがなくなったことは良いことだけれど、アパルトヘイトがなくなったことによっても問題が起きていたのです。ヤエール・ハーバーは、そのことを指摘しつつ、真実和解委員会という方法によって解決の糸口を探ろうとするような作品を作りました。 さらに、鴻さんがカイロ実験演劇祭で観たシリアの『MESS』という作品では、観客は、ある古い由緒ありげな建物の中庭の席に座っていると、向こうの建物の窓越しに、虐待される女性と姿の見えない加害者のやり取りが展開されているのを垣間見ます。その後、女性とその協力者たちが始めた抵抗運動の決起集会のようなものが中庭で展開されはじめるのですが、最終的に現れた(加害者である)巨大な図体の男性の圧力によって失敗に終わらせられるという、シリアにおける女性解放運動がどのようなものであるかを考えさせる作品が上演されていたそうです。 このほかにも、アジア、アフリカ、南アメリカで、鴻さんが2000年から2004年に観た作品は、政治的、アクティビスト的な問題意識を問うものが多くありました。そして、その当時は、復讐の問題とか、和解の困難性、あるいはイスラムにおける女性の社会的位置とか、それに対する解決のヴィジョンを演劇的構造の中で考えるというように、あるはっきりとした可能性の容態というようなものを提示できるような形で世界は動いているように感じられていたと鴻さんは言います。しかし、これらの事柄が、あれから15年を経た今、どうなっているのか? 次回以降、そのことを、��きな問題として考えていきたいと、講義は締めくくられました。 参考文献: 1. 大林公子、『アフリカの小さな国――コートジヴォワールで暮らした12ヶ月』(集英社新書、2002年) 2. エイゼンシテイン「無関心な自然ではなく」(『エイゼンシュテイン全集』第9巻(キネマ旬報社) 3. Ahmodou Kourouma, Waiting for the Wild Beasts to Vote,(London,Vintage,2004)、[『パレオ』の原作小説] 文/椙山由香
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隊員の読み物1 カーネリアンの話-思いつくままにー
堀岡晴美隊員からカーネリアンについてご寄稿いただきました。
ディルムン文明(前2200年~前330年頃)、その後のタイロス文明(前330年~後629年頃)が栄えたバハレーン島では、墳墓からさまざまな副葬品が出土しますが、そのなかにカーネリアン(carnelian/cornelian)を使った装飾品があります。カーネリアンとは紅玉髄とも呼ばれるように、赤色やオレンジ色をした網目模様の無い玉髄の名称で、ちなみに網目模様があると瑪瑙(agate)と呼ばれます。
カーネリアンをシュメール語では以下のように書きますが、
(筆者による手写)
これはNA4「石」とGUG「明るい」という単語が組み合わさってできた文字で、gugと読みます。
カーネリアンは西アジアでは先史時代からビーズの材料として愛好されてきました。メソポタミア南部(現在のイラク南部)に関して言えば、紀元前2600年頃とされるウルの王墓から出土した装飾品はつとに有名で、王妃が生前愛用したと考えられる装飾品の数々はじつに煌びやかで豪華です。黄金・銀など貴金属と並んでさまざまな貴石が使われていますが、とくにラピスラズリとカーネリアンのビーズはさかんに使われています。著作権の関係で写真を掲載することができませんので、「大英博物館 ウル王墓 装飾品」で検索してみてください。花冠・ティアラやラピスラズリ・カーネリアンなどでできたたくさんのネックレスを着けた女性頭部模型の画像が見られます。
カーネリアンはビーズ以外にも、少ない例ではありますが印章や動物彫像の一部に使われたりもしています。けれどもバハレーンで出土したカーネリアンはほとんどが装飾品のビーズとして使われたものです。メソポタミアやバハレーン出土のカーネリアンは、いずれも交易関係にあったインダス河谷からもたらされたものです。
バハレーン島には、前3千年紀末から前2千年紀前半にかけてペルシャ湾交易の中継地として��栄した前期ディルムン文明の首都が置かれていました。ディルムンはインダスやオマーン(古名マガン)などから運び込まれる木材や貴石・貴金属をメソポタミアへ輸出していましたから、ウル王墓出土のカーネリアンもディルムンを経由したと考えられます。しかし一時期、メソポタミアへ向かう交易品がディルムンを経由せずにインダスから直接運ばれた時期もあったようです。メソポタミア南部に興ったラガシュ第2王朝のグデア王が残した碑文『円筒碑文A』に次のように記される箇所があるからです。「グデアのために精錬された銀がその山々から細粒の形で運ばれ、メルッハからの透明なカーネリアンが彼(=グデア)の前に広げられた」(円筒碑文A xvi 21-23, Edzard 1997, 78頁参照)。メルッハとはインダス文明が栄えた地域の古代名です。
メルッハではカーネリアンを原石からビーズに加工する技術が発達していました。とくに10 cm近くもある長さのビーズに孔を開ける技術は他の追随を許さない高度なものです。当時のインダスで行われていた石(カーネリアンを含む)の加工技術については、本プロジェクト・メンバーである上杉彰紀氏の論考があります(下記参照文献)。
カーネリアンの放つ明るい赤色・橙色は人の心を惹きつけたことでしょう。加工の過程で人工的に加熱処理をして赤味を増大させてもいたようです(上杉 2015)。逆にバハレーン島から出土するものの中には、白みがかった色のカーネリアンが時折見られます。白っぽい色味がこの地では好まれたのか、それとも他の理由があったのか、定かではありません。Ancient Bahrain: The Power of Trade, Highlights from the National Museum of Bahrain (2nd. Mill. BC- 3rd cent. BC) (バハレーン国立博物館カタログ) p.40にサール(Saar)古墳群(Early Dilmun 前2000年-前1800年)から出土した白みがかったカーネリアンと酸化して緑色になった銅ビーズのネックレスが、またp.127にShakhura(シャホーラ)古墳群(Middle Tylos 前1世紀~後1世紀)出土の鮮やかな赤色をしたカーネリアンと縞瑪瑙のネックレスの写真が掲載されています。
現代でもカーネリアン・ビーズはネックレスやブレスレットに好んで使われていますが、カーネリアンの原石は宝石類に比べれば安価なものです。しかしメソポタミアでも、またバハレーンにおいても、インダス固有の技術で加工され、遠方から海路ではるばる運ばれてきたのですから、加工賃や輸送コストを考えればラピスラズリ・瑪瑙・トパーズなどの貴石と同様にかなり高価で珍重されたと思われます。
(現代のブレスレット���筆者私物) 一辺1.5 cmの四角形ビーズがカーネリアン)
カーネリアンが高価な貴石と認識されていた事が分かるシュメール語文学作品があります。それは今日の研究者が『ル・ディンギラが母へ送るメッセージ』と名付けた作品で、高価なものや価値あるものを列挙する中にカーネリアンも登場します。カーネリアンに関連する箇所はたった1行しかありませんが、当時のメソポタミアの市民がどのような物や事柄を「価値あるもの」として考えていたかを知ることができる興味深い作品ですので、以下に大筋を引用してみます。
『ル・ディンギラが母へ送るメッセージ』
(Lu-diĝira’s message to his mother注1)
身分の高い(と推測される)ル・ディンギラという名の男性が、なんらかの理由で故郷を離れているため、遠方の都市ニップルで暮らす母親に無事を知らせるメッセージを送ろうと考え、使者に言付けを託します。
[1-8行目]「王家の使者よ、出立せよ。私はお前をニップルに遣わしたい、そしてこのメッセージを届けてくれ。お前は遠方への旅路に就く。私の母君は心配で眠れなくなっている。母君のいる女性部屋は閉ざされているが、私の挨拶状を彼女に手渡してくれ。母君は旅人たちに、私が元気かどうかをずっと尋ねているらしいから。そうすれば母は喜び、お前を手厚くもてなすだろう。」
けれども使者はル・ディンギラの母親とは面識がありません。そのため母がどのような人か使者に説明し始めるのですが、それは5段階にわたって延々と続きます。1段目は「名はシャット・エシュテル」に始まり、嫁ぎ先の家の一切を切り盛りする様子、その傍ら神殿の女性神官としても働いている事など、主に彼女に備わる特徴が使者に伝えられます。
カーネリアンはつぎの第2段(9-20行)に出てきます。少々長くなりますが引用してみます。
[9-20行]「私の母君は空に輝く光のような山腹の牝シカ。彼女は夕暮れ時にも光り輝く明けの明星。彼女は高価なカーネリアン、マルハシ(地名)のトパーズ。彼女は王の兄弟の美しさに満ちた宝石類。彼女はnir石でできた円筒印章、それは太陽のごとき装飾品。彼女は錫でできた腕輪、それはantasura石でできたリング。彼女は輝ける黄金と銀の塊、けれども呼吸し、生きている。彼女はラピスラズリの台座に鎮座するアラバスタ―製保護女神の小像。彼女は磨か���た象牙の竿、そこには美しさにあふれた手足がある。」
日本では女性の姿や佇まいを表現する際に花に譬えたりしますね。たとえば「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とか、『野菊の如き君なりき』という題名の映画もありました。ですから私たちにとって女性を金属や貴石に譬える表現にはじゃっかん違和感を覚えるのですが、しかしシュメール語文学作品で女性を特定の花に譬えた例をこれまで見た事がありません。この段で母を貴石や貴金属に譬えたのも、外見の特徴を表すというよりは、ル・ディンギラにとって母はとても高貴で気高いということを述べたかったのではないかと思います。
3段目の説明は、「天から注ぐ雨、最上の種のための水。十分に生育した大麦の豊かな収穫。笑いに満ちた…の庭園。井戸灌漑の松の木、飾られた柏槙の木。第一の月の産物である走りの果物。庭園の各区割りに豊穣の水を運ぶ水路。受容の高いディルムンの甘いデーツ」といった具合に、豊穣をもたらす天の恵みや農産物、メソポタミアでは入手が難しい木材が上がります。
4段目では人々にとって楽しい事や嬉しい事を列挙します。「祝祭と奉納。見るのが憚れるほど畏れ多いアキートゥム祭りの奉納品。豊かな稔りの歌。歓喜を提供するエンターテイメント会場。歓びに飽きることのない恋人。捕らわれ人がその母親の許に還るだろうという良き報せ。」
最後の5段目では、「甘く香しいナツメヤシの木。柏槙でできた二輪戦車、柘植の四輪ロバ車。精油で香りをつけた素敵な衣装。豊穣の印?の花冠となる葡萄の房。極上の油が溢れ出るダチョウの卵でできた小瓶」とありますが、これらは一般人には手の届かない贅沢品とでも言いましょうか。
このような説明の仕方で果たして使者はル・ディンギラの母を見分けることができたのか、と甚だ疑問ではあります。ただ1段目の「名はシャット・エシュテル」につづいて「身体、顔、手足、そして外見は」(11行目)とあり、容姿についてなんらかの説明を試みたのかと思うのですが、どういう訳かそのあとの説明が記されていません。それにしても、最も大事な要件のはずの外見についての部分が余りにも簡単すぎると思いませんか?
じつはこの作品は書記学校のテキストとして、メソポタミアの都市ニップル注2で前2千年紀に作成されたものなのです。「神の人(/男性)」を意味するル・ディンギラという名前もありきたりの名前で、実在の人物という訳ではありません。この作品はおそらく、書記のたまご達に「価値あるもの」��贅沢品」「喜ばしい事」に相当する語彙とその書き方を教えるために編纂されたのでしょう。
作品の末尾に母に伝えてほしいメッセージが記されていますが、それは「私は元気です」のたった1行だけでした。
注1 : この作品の翻字・翻訳をオックスフォード大学の
Electronic Text Corpus of Sumerian Literature (5.5.1)で閲覧できます。
当ブログでは下記Black, J. et al. 2004 pp.190-192の翻訳を参考にしました。
注2 : Nippur (現Nuffar)。メソポタミア沖積平野のほぼ中央に位置する都市。シュメール初期王朝
期からイシン・ラルサ期に至る間(前3千年紀~前2千年紀前半)、宗教的・文化的中心地であり、数万点ともいわれる楔形文字を記した粘土板が出土した。
参照文献
Black, J, G. Cunningham, E. Robson, and G. Zólyomi 2004 The Literature of Ancient Sumer. Oxford University Press, Oxford and New York.
Edzart, D. O. 1997 Gudea and His Dynasty. The Royal Inscriptions of Mesopotamia, Early Periods , vol. 3/1. University of Toronto Press, Toronto Buffalo London
上杉彰紀 2015 「インダス文明期の石製装身具研究の現状と展望」『西アジア考古学』16号 13-29頁
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「ラストダンス」
お気に入りの絵。
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