#大江戸ジャポニスム
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Oedo Japonisme
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱す���。(全2回・前編/JBpress) (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅう��人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国��ある。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く、時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著書『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・てい��け)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった。 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんど��失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、 日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナルなどというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の集合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・ https://twitter.com/kikuroma 現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろな学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・ 日本美術など所詮シナの物真似、 日本美術のオリジナリティなんて、 元々からないも同然なのだから、 特筆評価など��る価値すらない、 ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を 継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。
セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」 様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、 北斎の富岳三十六景からインスパイアされたらしい。
ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」 この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。
クリムト「接吻」
金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、 これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとてもシナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば安土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲��した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか?
尾形光琳「紅白梅図屏風」 川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、 のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。
伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。
伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。
丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝かせて滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。
丸山応挙「氷図」 湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。 無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。
織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。 ↑ これら一連の様式もすべて、 シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら 影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ? いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか? そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。 宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が 「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのでは��るまいな?
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岡本奇太郎 個展「THE BEST IS YET TO COME」
@original_shit_gallery
2021年7月24日(土) - 8月24日(火)12:00 - 20:00 ※水は休廊
この度、兵庫県たつの市にあるORIGINAL S**T GALLERYは、同県出身で現在は横須賀を拠点に活動する岡本奇太郎の個展「THE BEST IS YET TO COME」を開催いたします。
コラージュやシルクスクリーンなどの手法を用い、常に特定の様式に縛られない作品を制作してきた岡本奇太郎。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大が、岡本の制作環境にも影響を及ぼしたといいます。昨年の緊急事態宣言が発令されて以降、以前のように古本屋を巡りコラージュの素材を探すことが難しくなった岡本は、古雑誌以外や限られた素材でバリエーションをつける表現方法を模索してきました。本展で公開される新シリーズ「クッション」と「奇太郎フォント」は、コロナ禍のもと、岡本が常日頃大きな刺激を受けるという浮世絵と江戸絵画から着想を得て生み出されました。
岡本が着目したのは、19世紀半ば、日本から海外へ向けて陶磁器を輸出する際、その緩衝材として使われていた浮世絵が、フランスの版画家であるフェリックス・ブラックモンの目に留まり、やがてヨーロッパでジャポニスムと呼ばれる日本美術ブームが起こったというエピソード。普段、茶道を嗜む岡本は、海外から器を輸入した際に混入される緩衝材を、逆にコラージュ作品(またはその素材)として見立てることで、「クッション」は誕生しました。また「奇太郎フォント」は、江戸時代後期、絵で仏を描くより径文で仏を描いたほうが功徳が勝ると考え、文字の集積で仏画を描いた加藤信清の文字絵の構造を反転させ、絵(コラージュ)の集積で文字を構成したものです。
本展では上記シリーズに加え、従来から制作するアナログコラージュ作品とそれらを左右対称に加工した「シンメトリー」などを展示予定です。さらに今回、岡本奇太郎初のエディション作品3種も店頭限定で販売いたします。また、初日の7月24日と25日の2日間は作家ご本人が在廊する予定です。是非ご高覧いただければ幸いです。皆様のご来場を心よりお待ち申し上げております。
岡本奇太郎 Instagram: @okamotokitaro
横須賀を拠点に活動を行うアーティスト、ライター。雑誌編集者時代に担当した吉永嘉明氏(『危ない1号』2代目編集長)のコラージュ作品に刺激を受け、創作活動を開始する。以降、コラージュやシルクスクリーンなどの手法を用いた作品を制作し、個展開催、国内外のアートフェアやグループ展に参加。また、アパレルブランドとのコラボレーション、ミュージシャンへのジャケットアートワークの提供のほか、自身がこれまでに影響を受けた芸術を紹介するアートエッセイ『芸術超人カタログ』(双葉社発行『小説推理』)などの執筆活動も行っている。
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●大道芸をして金銭を乞うた者。乞胸(ごうむね)となった。 乞食(物貰い)の一種
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●大道芸をして金銭を乞うた者。乞胸(ごうむね)となった。 ●乞胸 歴史民俗用語辞典 読み方:ゴウムネ(goumune) 近世の乞食の一。 ●乞胸(ごうむね) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E8%83%B8 江戸時代に江戸市中などで、万歳や曲芸、踊りなど、さまざまな大道芸をして金銭を乞うた者。 乞食(物貰い)の一種であり、元侍や町人、あるいは身元が不明な者が乞胸となった。 身分的には町人に属したが、穢多頭の弾左衛門の支配下に置かれ、稼業としては非人と同等とされた。 乞胸をする場合は、非人頭から鑑札(許可証)をもらい、老人と障害者以外は一定額の上納金を納めなければならなかった。 非人同様、編笠をかぶり門付もしていたが、非人の職域を荒らさないために、のちに乞胸の門付は禁じられ、主に広場や路上で芸を見せた ●芸の種類 『乞胸頭家伝』には、以下の12の芸種が挙げられている。 綾取り - 竹に房をつけ、これを投げて取る芸。 猿若 - 顔を赤く染めて芝居をする芸。一人狂言。 江戸万歳 - 三河万歳の真似をする芸。二人で行なう。 辻放下 - 玉かくし、あるいは手玉を使う芸。 操り - 人形を操って見せる芸。 浄瑠璃 - 義太夫節や豊後節などの節をつけて物語などを語る芸。 説教 - 昔物語に節をつけて語る芸。 物真似 - 歌舞伎の口上や鳥獣の鳴声をまねる芸。 仕形能 - 能の真似をする芸。 物読み - 古戦物語の本などを読む芸。 講釈 - 太平記あるいは古物語を語り、講釈する芸。 辻勧進 - 芸のできない者や子供らが、往来に座って金銭を乞うこと。 ・起こり さまざまな雑芸を演じてわずかな報酬をえて生計をたてる物もらいは、室町時代末期の『三十二番職人歌合』にすでに、編笠をかぶり、手で裸の胸を叩く風情が描かれている。胸叩など、こうした路上芸が乞胸の起源とされる。乞胸の名の由来は「先方の胸中の志を乞う」ところからきたとする語源説もある。芸能に対してある種の羨望と崇敬がありながら、彼らが賤民とされたのは、人の気を引き、金銭を得んがために演じる芸能は賤しいとする考えと、その非生産的な生活態度にあったとされる。 ・歴史 江戸幕府ができると、多くの大名家が取り潰され、職を失った大量の浪人が溢れた。長嶋礒右衛門という浪人が食うに困った浪人仲間を集めて寺社の境内や空き地で草芝居や見世物をして生計を立てていたが、非人頭の車善七から手下の生業が邪魔されると苦情が持ち込まれ、慶安年中(1650年代)、身分を町人に落としたうえ、乞胸稼業においては善七の支配下に入る取り決めがなされた。 善七のもと、磯右衛門が乞胸頭になり、町人、または身元の明らかでない者で乞胸を稼業する者には「鑑札」を渡し、一人につき18文ずつ毎月徴収した。乞胸頭は無許可で大道芸をする者を取り締まり、その世話と管理をし、浅草溜(善七が管理していた医療刑務所のような施設)の火事の際には囚人の警固もした。その後、1843年(天保14年)の天保の改革で、それまで江戸の各所に住んでいた乞胸も、非人同様、幕府によって一か所に集まって住むように命じられた。 明治4年(1871年)の身分制の解放令で乞胸の名称は廃止された。欧米でのジャポニスムの影響で、乞胸たちの芸も海外で好評を得、開国後の明治から大正にかけて芸人たちの渡航が一時盛んになったものの、国内にあってはハレの場から追放されていき、彼らが育んできた日本の伝統的な大道芸は次第にその姿を消していった。 ●◆「東京の被差別部落の歴史と現状」index http://blltokyo.net/tkburaku/tkburaku/index.html 弾左衛門と江戸の被差別民衆、今日の東京の部落 弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆 http://blltokyo.net/tkburaku/history/goumune.html 2-5 乞胸(ごうむね) 浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言い��した(参考『寛政度文政度御尋乞胸身分書』)。 乞胸が���殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が非人頭車善七の支配を受けるとされたことでした。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。 ●寛政度文政度御尋乞胸身分書 http://blltokyo.net/tkburaku/siryou/goumune.html 江戸の町で大道芸をおこなった近世的な「被差別民」乞胸(ごうむね)に関する基礎的史料、『寛政度文政度御尋乞胸身分書』の原文、およびその現代語訳です。原文は東京都刊行『重宝録』第一に所在しています。この文書に関する解説は、一番下にあります。 【目次】 1.『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』(寛政11〈1799〉年) 2.『文政四年下谷山崎町名主書上』(文政4〈1821〉年) 3.《現代語訳・注釈》『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』 4.《現代語訳・注釈》『文政四年下谷山崎町名主書上』 5.《解説》『寛政度文政度御尋乞胸身分書』 ●非人 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/非人 非人(ひにん)は、主に、 1.日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。 2.江戸時代の賎民身分の呼称である。 いわゆる士農工商に属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。この点、身分制度外に位置付けられ江戸時代から人別帳外で無籍の山窩(サンカ)等とは異なる。ただし、サンカとの違いは流動的なもので、非人が流浪生活に入ってサンカとなり、逆にサンカが被差別部落に定住して非人となる例がいつの時代にもあった[1]。 さらに多数説によると、非人は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。 ●穢多 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/穢多 穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつである。日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、非人身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もある。 穢多の明確な基点は明らかになっていない。逃亡農民に由来するという推測、皮革加工などに従事する部民という説、中世の元寇に由来するという説、古代の被征服民族とする意見などがあるが、穢多などの被差別民の起源は一様ではなく、雑多な起源をもつ集団であったのかもしれないが、非人と違って、穢多は、職業に関わりなく親子代々承継されたとされる。1885年、東京人類学会の会員であった箕作源八が「穢多ノ風俗」について各地の報告を求め、各地からの被差別部落民にかんする伝承や関係文献が集まったが、その多くは、被差別部落民を日本人とは異なる「人種」として捉え、その起源について論じるものであった。 ●サンカ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ サンカは、日本に過去に存在し��とされる放浪民の集団である。本州の山地に住んでいたとされる。サンカの定義については後述のように激しく論争されてきた。サンカという呼称は日本の警察による便宜上のものであり、差別用語としても使われる。 ●呼称 https://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ#呼称 「サンカ」を漢字で書き記す時には統一的な表記法は無く、当て字により「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」、「傘下」、「燦下」(住む家屋を持たず傘や空を屋根とする屋外に住む存在という意味)などと表記した。 また、地方により「ポン」、「カメツリ」、「ミナオシ(箕直)」、「ミツクリ(箕作)」、「テンバ(転場)」など、呼ばれ方も違う。(それぞれの呼称は、「ホイト(陪堂)」、「カンジン(勧進)」など、特定の職業を指す言葉と併用されることも多い。) サンカの実態調査を試みた立場による呼び名の違いもある。 ●乞胸 【ごうむね】世界大百科事典 第2版の解説. 江戸時代から明治にかけて,都市を中心に活動した雑芸人(ぞうげいにん)で,いわゆる乞食の一種とみなされた人々の呼称。身分制度では町人の扱いを受けたが,万歳(まんざい),大黒舞(だいこくまい),節季候(せきぞろ),厄払,猿若(さるわか),辻放下(つじほうか),説経,講釈など,さまざまな雑芸を演じて門付(かどづけ)してまわり,わずかな報酬をえて生計をたてており,〈物もらい〉とも呼ばれた。その先駆形態は室町末期の《三十二番職人歌合》にすでに描かれ,編笠をかぶり,裸身で,手で胸をたたく風情である。 ●ごう‐むね 〔ごふ‐〕 【乞胸】 江戸時代、江戸市中で辻講釈・綾取り・万歳などの雑芸をして金銭を乞うた者。 ●ごうむね【乞胸】 近世から明治にかけて,家々の門や寺社の境内・広場などで雑芸を演じて米銭を乞うた雑芸人。乞胸頭に銭を上納して鑑札を受けた。 ●ヤクザ https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤクザ 組織を形成して暴力を背景に職業的に犯罪活動に従事し、収入を得ているものを言う。この偏倚(へんい)集団を特徴づける要因の一つに集団内部の「親分子分」の結合がある。 「やくざ」研究の古典的名著とされる岩井弘融の『病理集団の構造』の序説で「親分乾分(岩井は故意に、乾としている。読みは「こぶん」で同じ)」の関係は民俗学(柳田國男他)や社会学(川島武宜他)において説明されるところのオヤカタ・コカタの関係と共通の社会的基盤を持つと説明している。
戦後に来日したニューヨーク・ポストの特派員ダレル・ベリガンは、その著作で有名な『やくざの社会』の中で「日本の家族は与太者の集まりであり、家族の長は与太者の長である」という文から始まる、日本社会の内部構造についての報告をまとめている。また、かつて横浜の塚越一家に所属した右翼活動家の野村秋介は、「やくざ」について説明する際に「やくざとは職業ではなく」、「実業家、ジャーナリスト、政治家にもやくざは存在する」と発言したが(出典:『暴力団新法』)これも個人間の繫がりとして絶対的権威(親分)と追随者(子分)の関係が広く社会で見られる点を示唆するものである。ただし、その上で「やくざ」を特徴づけている別の内部要因として、集団の共通目的、成立の社会的条件、存続のための経済的活動、社会的価値基準から逸脱した副次文化等がある。ジャーナリストの朝倉喬司は明治の自由民権運動と「やくざ」の関連を指摘する一方で現代の制度的空間や価値基準との関連において「暴力団」と呼ばれるとしている(出典:『ヤクザ』)。 ●子連れ狼 死に風に向う乳母車 亡八者の首領は女(浜木綿子)で、酉蔵と名乗った。この浜木綿子がいい。 男勝りの キップと度胸、ドスの効いた、しかし唄うような台詞回し。 そして何よりもあの目。一度も 瞬きせず、一刀に挑むような力強いあの目線。 ●「子連れ狼(第3シリーズ)」長坂作品エピソード 第3話「来ない明日へ」 http://www.tcp-ip.or.jp/~goshii/t02_data/06_story/1976_01_kozu_M03_story.htm そんな中、一年前に一刀と出会い、事を構えた木颪の忘八者・酉蔵は近くに一刀がいることを知る。一刀に想いを寄せる酉蔵は、一刀に接触。一刀に酉蔵らと同じ格好をさせ改め番所を突破する。一刀に協力した為に捕らえられた酉蔵は、松崎代官所代官・佐久間軍兵衛から、義父・尾形三郎兵衛の命と忘八者存続を引き替えに一刀を討ち果たすよう脅迫され、やむなく一刀と対決。酉蔵は、すべてを察した一刀によりその命を絶った。産まれてからずっと男として生きてきた酉蔵は、初めて女として死んでいったのだった。 本作のゲストである木颪酉蔵(演:浜木綿子氏)は、第1シリーズ第7話「あんにゃとあねま」にて初登場。本作にて「あんにゃとあねま」のシーンが回想シーンとして流れている。一部の間で「ぶりぶり」が有名になったこの酉蔵だが、若山富三郎氏版の映画「死に風に向かう乳母車」(1972年)でも浜木綿子氏が同役で出演。まさにハマリ役といえる。なお、北大路欣也氏版(2002年~2004年)では池上季実子氏が酉蔵役を演じている。 ●『子連れ狼 / あんにゃとあねま』 https://ameblo.jp/kazzp0610/entry-11480781287.html この作品の見どころは、やくざものの姐御を演じた浜木綿子だろう。純情可憐な少女を演じた竹下景子とは異なり、男勝りの度胸と貫録がありながらも、女性としての色気をぷんぷんさせている女を演じ、美しさもひときわだ。本作で最も目立った役者であった。 浜木綿子との対決 ●あんにゃとあねま https://youtu.be/7vXf5Xrymnc ●時代劇屈指の怪キャラ・・・阿部頼母 https://ja.wikipedia.org/wiki/子連れ狼#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E5.B9.95.E5.BA.9C 阿部頼母(あべ たのも) 代々公儀御口唇役を務める旗本阿部家当主。別名を怪異(かいい)。性格は残虐かつ保身的。物事に熱中すると「毒屋の子」なる独自の歌を口ずさむ癖がある。 母の不義密通によって生まれたため、父の監物から疎まれ、御口唇役の育成の名目の下、日夜その食事に毒を盛られ虐待に近い育て方をされる。そのような中で独自に毒薬の調合法を編み出し、それを使って両親を毒殺、阿部家を相続した。以降、公方の深い信任を得て毒薬の大家となった。 その後、柳生烈堂に代わり拝父子の抹殺を命じられると、烈堂を追い落として幕政の実権を握る好機と考え、阿片漬けにした夜鷹を使うだけでなく、自ら変装して直々に一刀らの毒殺を図るがことごとく失敗。さらに、頼母ら阿部一族の抹殺を狙う烈堂の毒殺にも失敗し、逆に烈堂に弱みを握られる結果となる。そんな中「柳生封廻状」を手に入れ、これを公方に差し出し「柳生に謀反の企てあり」と訴え出る。これにより、烈堂は江戸城で監禁されるが、烈堂は「草」と呼ばれる密偵を招集し、頼母の担当である江戸城内の御膳所を放火。これが失火と断定され、加えて当日は公方が紅葉山東照宮に参詣する重要な日であったため、御膳所の責任者である頼母は責任を追及され切腹を命じられる。頼母はこれを嫌がり抵抗するが、江戸城に潜入していた一刀から諫められると、全てを諦めたかのように一刀の介錯によって死��した。なお、萬屋版のドラマでは、切腹の場での騒ぎを聞いて訪れた一刀の姿を仰ぎ見ながら、「そなたや烈堂よりも先に死ぬとは」と恨みのような言葉を最後に残し、一刀によって斬り殺される描写に変更されている。 『子連れ狼』の続編漫画『そして - 子連れ狼 刺客の子』では、頼母の子である秋田高星が登場している。 ●『椿三十郎 殺陣シーン』黒澤明...監督作品 https://youtu.be/cbENunuojXA このシーンを観るためだけでも映画館に足を運ぶ価値がある もっとも見逃しそうな位に目にも留まらぬ殺陣だけど ●『Yojimbo 殺陣シーン』三船敏郎と仲代達矢 https://youtu.be/zCjsazHO0c0 https://youtu.be/SfpagB8wWng ●殺陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/殺陣 殺陣(たて)もしくは技斗・擬斗・擬闘(ぎとう)は、演劇・映画・テレビドラマで俳優が格闘シーン時に素手素足もしくは武器を用いた演技。 殺陣(たて)は主に時代劇、技斗(ぎとう)は主に現代劇に用いる。 ●生意気/こざかしい/利いた風 の使い分け 利いた風な口をきく 1 いずれも、目下の者に対していう語。 2 「生意気」は、それにふさわしい身分や年齢ではないのに、出すぎた言動をすること。 3 「こざかしい」は、利口ぶって、「利いた風」は、わかっているふりをして、出すぎた言動をすること。「こざかしい」は「小賢しい」とも書く。 4 しゃらくさい 【形】 分(ぶん)不相応な感じがして生意気なこと。やや古めかしい言い方。 「そんなことを言うなんてしゃらくさい」 5 ちょこ才 【名・形動】 小才があって生意気なこと。やや古めかしい言い方。「ちょこ才なやつめ」 6 小生意気 【名・形動】 いかにも生意気なさま。「小生意気な口をきく」 ●利いた風(キイタフウ)とは - コトバンク [名・形動] 1 いかにも物知りぶったなまいきな態度を見せること。また、そのさま。知ったかぶり。「利いた風な口をきくな」 2 気の利いていること。また、そのさま。 「―な名をつけて高慢な顔したと聞いたが」〈黄・造化夢〉 ●ルーツでなるほど慣用句辞典 利いた風 きいたふう https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-07-1-0002.html よく知ってもいないのに、なんでも知っているという生意気な態度をとるさま。 「きみが解決するって? 事情も分からないくせして利いた風な口を利くな」 〔語源〕もと、気が利いたようすの意。 ● 『利いた風(きいたふう)』の意味 - 日本語俗語辞書 http://zokugo-dict.com/07ki/kiitahuu.htm 利いた風 Kîtafû 利いた風とは、よく知らないことを知っているかのように語る口ぶりのこと。 『利いた風』の解説 利いた風とはよく知らないことをいかにも���っているかのように語る口ぶりのことで、そういった口ぶりや態度に対し、否定的・批判的な意を含んで用いる言葉である。目下の人や快く思っていない相手が知った風な口をきいたときなどに言う「利いた風なことを言うな」というセリフで用いることが多い。 「どこかで聞いただけの話しを、よく知っているかのように語るな」という意味から【聞いた風】という表記と間違いやすいが利いた風が正しい。 利いた風は近年、小説やドラマなど特別な場で使われる程度で日常会話ではほとんど使われることがなくなっている。 殺陣(たて)は何度見てもいいね。 三船敏郎と仲代達矢との絡みの殺陣は。 用心棒の最後のシーンで下の動画の中で加山雄三が「お見事」 と言った ことに 「利いた風なことを吐かすな」と叱られる。 今は 三船さんも見ていてあんなふうに演技したんだと苦笑いしているのでは。 加山雄三は今はもう80かな。 見たらなんて思うかな。俺もこんな小僧っ子の様な時も有ったかなと。 今は 説教する側だね。わずか 3分ほどのシーンの中に色んなものが入ってる。 血しぶきは 失敗だけどそのまま封切りしたらしい。 いつかそんな事を言ってる動画を見た人がある。 このシーンは珍しくワンカットで納めたとも 言っていた。 こんな事言うとどうかと言われるかな。今の時代劇ドラマ 良いと思えない。 私だけかな。日本人の仕事は手抜きが多くなっているように思う。 やはり 縄文人のDNAが 薄くなって 優しさが抜けてしまってきているのかな。 午前中の国会中継で トップのリーダーが質問に答えていたが なんか気抜けした。 トップがあれでは 何しても 良心が無いのは今の地球全体になっている。 私だけがそんな事考えていて 最近のジジババは 腑抜けになっているとコメント されていたけど 間違いないね。 なんか 愚痴ばかりになっている。 ここに来て 消費減税ナンテ話が出てきている。 あれだけの税金使い 今更 それはないと思うのは わたしだけ。
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【可動フィギュア用に】ぷちサンプル「大江戸ジャポニスム」予約開始【ミニチュア】
ぷちサンプル新作
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“自衛隊は兵器(装甲車、戦車、航空機、艦船)を導入する時、神主にお払いされる。 ソニーがアメリカに工場を建てる時、地鎮祭を行って アメリカ人に「日本人は何をやってるんだろう」と疑問に思ったそうな。 「全ての土地には神が住む、我々は許しを乞うて工場を建てる」 とソニー側が説明したと言うお話。 ケンタッキーの社長(アメリカ人)は、毎年日本の鳥の神社にお参りする。 日本の総理大臣は、総理大臣に就任する時に必ず伊勢神宮に参拝(お伊勢参り)する。 江戸時代から現代に至るまで、全ての捕鯨した鯨に戒名をつけている。” - 【文化】ジャポニスム【世界の中の日本】スレのまとめ - 日本における宗教論【後編】(part44スレ) 2011-03-27 (via gkojax-text)
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