#地獄系24 平岡正明評論集
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地獄系24 平岡正明評論集 装幀:横田登美子 http://anamon.net/?pid=73917426
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第22屆中日青少年書畫音樂交流大會日本福岡5日4夜文化交流團
活動背景:中日兩國政府將2019年定為"日中青少年交流促進年"。此次交流大會旨在在構建兩國青少年的友誼,並透過藝術及文化交流讓青少年體驗當地文化以及宣揚和平精神。交流大會中的書畫獎項將由各官方及各中日友好機構代表成員親自頒發,日中兩國各地將派出不同年齡層的表演隊伍相互觀摩交流。是次項目是高規格的官方活動,並獲中國外交部及日本外務省全力支持。國家的官方網頁及日本當地的新聞放送社均會報導此難得的中日友好青少年交流盛事。
活動日期 : 2019年8月18日至22日 (五日四夜) 活動對象 : 4 – 18歲對藝術及表演有興趣的學生 參加資格:1)港澳區書法、繪畫「佳作賞」入選者及其隨行家庭成員。 2)港澳區青少年兒童表演隊伍及其隨行家庭成員。 費用:每人港幣$18,500 (費用包括機票、住宿、部份膳食、交通、入場門卷、活動材料)
行程亮點
代表香港出席在日本舉行的書畫比賽頒獎典禮/交流演出
正宗日本和服(浴衣)穿著體驗
親自製作獨一無二的陶瓷
體驗日本傳統茶道 ‧ 品嚐高級綠茶
參觀福岡亞洲美術館
金鱗湖畔戶外寫生
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行程
Day 1 (18/8) 抵達福岡
香港->福岡
出發日期 : 8月18日
航班 : 港龍航空 KA 380
香港國際機場出發時間 : 10:50am
飛行時間 : 3小時40分鐘
到達福岡時間 : 03:30pm (日本時間)
福岡 (Fukuoka) 位於日本群島的西南部的九州地區,氣候溫暖,風景美麗,交通便利。九州地區九包括福岡縣、大分縣、長崎縣、熊本縣、鹿兒島縣、宮崎及佐賀縣等7個縣。福岡市為九州的第一大城市,也是九州經濟、娛樂的重要核心,人口約150萬。它在1997年、1999年、2000年被亞洲週刊連續3次評為“亞洲最佳城市”!在2015年發行的《MONOCLE》雜誌「宜居城市排名」中,福岡位居世界第12名,是亞洲第2。在眾多中國、韓國訪日遊客的調查中滿意度為列日本全國排名第一。
福岡市是一座非常緊密凝聚而有活力的城市,無論居住與工作地��,以及娛樂等設施都相當鄰近。福岡擁有出發與到達航班數量名列日本前茅的福岡機場,機場距離市中心相當近,從福岡機場到博多車站,搭乘地下鐵僅需5分鐘時間。
福岡市飲食文化豐富,擁有全日本第一的大排檔,入夜後在路邊過百間的大排檔(屋台)可品嚐全國知名的博多拉麵(豚骨拉麵)、海鮮料理、碳烤雞肉串、牛雜火鍋等等。行程中已預留了兩晚讓大家盡情享受福岡處處不同的地道美食。
福岡的自然景觀得天獨厚,青蔥的山巒環抱著福岡的市區,從市中心稍微往外走便看到美麗的博多灣。市內更有��個大型公園,如海中道海濱公園、大濠公園及��鶴公園等,一整年都能欣賞到各季節不同的鮮花,四處皆有青山綠水的美麗景觀相伴,是少數能夠讓都市人接觸大自然景觀的美麗城市。
抵達福岡後將安排團員到達酒店,首三晚將入住福岡市蒙特埃馬納酒店或同級酒店。酒店位於福岡市中心天神地區,交通十分便捷。鄰近天神區的屋台大排檔,大家可輕鬆步行前往,體驗當地地道美味的飲食文化。
福岡蒙特埃馬納酒店 Hotel Monte Hermana
地址:福岡市中央區渡邊通3丁目4-24
Day 2 (19/8) 第一站 - 到訪福岡亞洲美術館 Fukuoka Asian Art Museum (FAAM)
福岡市博多區下川端町3-1 博多河畔城7和8 樓
福岡亞洲美術館位於博多Riverain內的河濱區內的River Rain中心大樓。美術館於1999年開幕,是現時世界唯一有系統地收集和專門展出亞洲當代藝術作品的展覽館,同時也會邀請亞洲的藝術家和研究者進行美術交流。美術館收藏了亞洲23個國家和地區大約2900件美術作品,在世界上是僅此一處!亞洲的近現代美術既不同於西洋美術,也有別於日本的傳統文化,擁有自己獨特的魅力。美術館自開設以來,每三年舉行一次「福岡初・福岡發」的“福岡亞洲藝術三年展”,受到國際上很高的評價。
(鳴謝Japan Discovery相片)
亞洲展廳 - 系統地展示及介紹亞洲近現代與當代藝術的發展。館藏品無論在質還是量上都堪稱世界頂級。
藝術咖啡廳 – 是一個可以享受藝術、咖啡與書籍的開放空間,並提供約一萬本與亞洲、藝術相關的書籍和雜誌予到訪者免費閱覽。
兒童角 - 為孩子們設置的專用空間。備有鬆軟的沙發和座墊可供休息。同時還為孩子們準備了各種形狀各異的積木及亞洲國家的兒童繪本等。
精品店 - 陳列許多原創商品或相關出版品,以及亞洲各國風情的小商品及生活雜貨等。
Day 2 (19/8) 第二站 - 出席第22屆日中青少年書畫音樂交流大會
Acros (アクロス) 福岡交響音樂廳 (福岡縣福岡市中央區天神1-1-1)
中日青少年書畫音樂交流大會創始於1997年,由九州日中文化協會創辦,今年是第22屆。日本前首相村山富市、鳩山由紀夫以及著名的中日友好人士白西紳一郎擔任此活動的相關職務,活動久負盛名,影響力大。活動獲中國外交部及日本外務省全力支持,是日本與中國青少年文化藝術交流的重要活動平台之一。
(アクロス) 福岡交響音樂廳 - 位於福岡都心「天神」地區,是一個國際・文化・情報的交流中心。音樂廳約有 1800 個座位。而館內還有多功能的展示廳,以及常設展示福岡傳統手工藝品的美術展覽廳。
第22屆日中青少年書畫音樂交流大會執行委員及資料
今年的交流大會將於八月十九日下午1時30分假アクロス福岡交響音樂廳舉行。大會將邀請中國駐福崗領事及各友好縣、市支持機構的代表頒發証書予中日兩地書畫得獎的青少年及兒童,節目中不乏中曰兩地青少年及兒童的精彩表演。
去年頒獎典禮中石原進委員長頒發獎項
去年頒獎典禮日本國會議員鬼本誠先生頒發獎項
來自中國各地每年均有超過幾百位青少年及兒童參與這個書畫交流大會盛事,兩國在近年更派出不同的音樂、藝術表演隊伍在交流大會中演出,讓兩地青少年及兒童相互欣賞彼此文化藝術及進行交流。
去年香港得獎者在典禮中上台領獎的一刻讓人感動,在數百位從中國、日本各地遠道而來的參與者及多位重量級嘉賓面前領獎可謂意義非凡。領獎的青少年及兒童來自各個年齡層面,可見藝術的鍾愛及溝通無年齡的界限。
香港隊成員大合照,出席的香港代表團團員難掩興奮又自豪的心情。
大家對陌生的日文獎狀感興趣,懂日文的團員即時為大家充當翻譯。(這張得獎名字給小編去掉了)
會場中展出過百件兩地青少年兒童的作品。
大會活動另一亮點就是兩國各地青少年兒童展現出不同的藝術文化的音樂、舞蹈的表演。充分體現兩地孩子的多元及獨特的文化氣質。十幾支隊伍的出色表現讓人留下深刻的印象,也為交流大會帶來活潑的火花。
去年開幕式有來自中國汕尾義興的龍獅團表演傳統的南獅技術
日本學生的歌唱演出
日本學生的舞蹈演出
中國學生的舞蹈表演
香港學生的舞蹈表演
全場躍動起來的熊本熊Kumamon現身歡迎大家!
在表演隊伍的精彩大合照中不難發現「熊本熊」及熊貓“東東”的位置。
Day 3 (20/8) 第一/二站 – 分組進行文化體驗項 一) 日本陶瓷製作
陶瓷二字,包含了陶土製做較粗獷的陶器,及以瓷土或高嶺土燒製,顏色細白而密度及硬度較高的瓷器。日本 47 個縣中,各出產不同的陶瓷食器。因為陶瓷都是取當地陶土或瓷土燒製,故大多以「產地名+燒」來命名,名稱如「伊萬里燒」、「唐津燒」、「美濃燒」等,都是以這個方式來命名。
要認識日本陶瓷,且由三大名陶開始:佐賀縣的有田燒(亦即伊萬里燒)、岐阜縣的美濃燒及愛知縣的瀨戶燒。
「 九州陶瓷之鄉」佐賀縣,孕育出「伊萬里・有田燒」、「唐津燒」等等陶瓷珍寶,以及一代代的陶瓷藝術巨匠。而「有田燒」是指出產於佐賀縣有田町一帶的瓷器。從前「有田燒」都是經由伊萬里港輸出到歐洲及日本國內各地,因此「有田燒」又被稱為「伊萬里燒」。
有著4百年歷史的有田燒是日本代表瓷器之一,亦是日本歷史上最早的瓷器。由中國(景德鎮)及朝鮮傳入的製瓷技術發展出來的有田燒,以其以青花瓷、猶如透明的漂亮白瓷、色彩絢麗纖細的彩繪等燒製技術,為瓷器界定下新的美學標準,聞名世界。
學員將到訪其中一個位於福岡廣場的陶瓷工作室,親身體驗並親手製作出獨一無二的陶瓷。
Day 3 (20/8) 第一/二站 – 分組進行文化體驗項 二) 和服(浴衣)體驗
和服是日本的傳統服飾,現今日本人大多在重要場合時穿著,例如:成人式、茶會、婚禮…等,看似簡單的和服其實大有學問。浴衣為夏天時的和服,差別在於浴衣是以棉質布料製成,材質輕便較為清爽涼快,衣袖也改為直線式的衣袖。日本人通常會在花火大會或是盂蘭盆會中穿著浴衣。
穿著和服地點落在歷史猶久的大濠公園附近。大濠公園對許多福岡市民來說就像是城市裡的綠洲,自開園至今約80年,曾歷經許多歷史的變遷,如今已是大部份福岡縣民的休憩最佳場所。 穿好和服後就是大家手機瘋狂拍照的時候!:D
這兩年的學生穿起和服多漂亮!
Day 3 (20/8) 第三站 – 閒逛福岡OUTLETS瑪麗諾亞城
行程中總不忘抽點時間去逛逛Outlet。這間大型商場於2000年開幕至今,屬於九州品牌暢貨購物中心,以開放建築格局分為三大區���,大家想得到的時尚品牌、運動、居家生活、戶外休閒、文具等都能在這裡發掘到。從時裝、運動服飾、家品、室內用品等不同類型的店舖都有,總共約有170間。
摩天輪這棟(Marinoa Side) 1樓有小遊戲區,2樓還有電動遊戲場。 不喜歡購物的你又可以去這區逛逛 。
Day 4 (21/8) - 第一站 - 前往八女茶之文化館
位於八女市的茶之文化館的館內寬廣舒適,在這裡能看到玉露茶的介紹、各種日本茶的聞香、體驗茶文化並了解茶的製作過程,二樓也有茶室可以參觀,習得許多茶知識後還可以到喫茶區品嚐茶類餐點、品茶。文化館提供八女茶工房做體驗,姑綠茶的製作(石臼輾抹茶、烘焙茶、綠茶)、品茶會(闘茶会)、沖泡茶方式體驗(お茶の淹れ方)、和菓子的製作(和菓子作り)。
學員此次會體驗當地的茶道及品嚐「八女傳統本玉露」茶葉的綠茶。品嚐最高級綠茶的滋味。愛喫茶的人就不能錯過!
Day 4 (21/8) - 第二站 – 前往大分縣由布院童話村 - 漫步英國童話小鎮
金鱗湖是位於日本大分縣由布市湯布院町地區由布院溫泉旁的一個水池,面積0.8公頃,週長400公尺。由於在早晨池面常出現晨霧,成為代表由布院溫泉的景觀之一。 由於位於由布岳山麓,因此也有「岳下之池」、「岳下池」的名稱;在1884年儒家學者毛利空桑在此見到夕陽照射反射出像魚鱗的金色光影,便取了「金鱗湖」的名稱。
從湯の坪街道一直走到金鱗湖,沿途都有各色各樣特色的小店,而且都是日本傳統建築,大家在這裡可以發掘到很多日式雜貨、特色小食、精緻紀念品,許多更是由布院限定的。走到金鱗湖之前,會經過這個以英國主Cotswold童話鄉鎮小鎮為建築藍本的Yufuin Floral Villalge。在這個美麗輕鬆的英式小村莊裡,到處都放滿了可愛的佈置,村裡有很多特色小店、博物館、足湯、精品及服飾店及餐廳等等。有些店館還飼養了可愛的貓頭鷹、松鼠及兔子。
村內到處都散發著英式歐洲小鎮的味道。
金鱗湖畔戶外寫生體驗
景色優美的金鱗湖是來由布院必遊景點之一,聽說湖水很奇特,西邊會湧出溫泉,東邊則是湧入淡水,也因為有這樣的溫差,所以清晨的金鱗湖很容易會霧氣飄渺,是最夢幻的畫面。
坐在湖畔旁嘗試把所見的美景畫下來,或把美好的回憶描繪在自己的Art Journal與日記裡又是一件樂事。
Day 4 (21/8) - 黃昏前啟程前往別府 - 入住杜之湯度假村
Morinoyu Resort 度假村位於別府,距離山地獄(Yama Jigoku)不到 1.2 公里,距離別府地獄(Hells of Beppu)1.3 公里,鄰近地獄蒸氣料理工房鐵輪(Jigokumushikobo Kannawa)等景點,酒店設有全方位 SPA,並提供水療養生中心、免費 WiFi、溫泉浴場和免費接駁車服務。
Day 5 (22/8) - 第一站 – 參觀太宰府天滿宮
地址: 福岡縣太宰府市宰府4-7-1
太宰府天滿宮是供奉著被稱爲學問之神的菅原道真公,雖然供奉道真公的神社在全國約有12,000社,但其中「太宰府天滿宮」是被當做天神信仰的聖地。爲祈禱考試合格、學業有成的參拜者整年絡繹不絕。
前往「太宰府天滿宮」會經過「太宰府天滿宮表參道」這條熱鬧的街道,道路盡頭就是「太宰府天滿宮」。這條表參道雖然不長,但卻有非常多特別的地道小吃!如圖中有梅花圖案的經典糕點小吃「梅枝餅」,它在太宰府隨處可見。相傳在千年前的平安時代,一代文人菅原道真因受讒言迫害而被流放至太宰府。道真公並不適應當地的生活,一名老婦好心地做了插上梅枝的烤餅送給道真公吃,便成為了今日「梅枝餅」的由來。
前往天滿宮的參道上還能看見許多石造鳥居,以及由國際知名的建築大師隈研吾所打造出的星巴克概念店,木頭交錯的設計,成為大家的朝聖地之一。
到達太宰府後很多人會摸一下「御神牛」像的頭部,相傅撫摸御神牛像的頭部便能得到智慧。主殿兩旁有各式各樣的御守賣,最多當然是祈求學業順利、考試合格的御守。每年約800萬人到此參拜祈禱學業順利、金榜題名、工作錄取及升遷考試順利。
「太宰府天滿宮」充滿著歷史悠久日本傳統文化特色,宮內四季有不同豐富景色,是一個很值得遊覽的地方。
參觀完天滿宮,我們便啟程回溫暖的家。
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回程日期 : 8月22日
航空公司資料 : 港龍航空 (航班編號:KA 381)
福岡機場出發時間 : 4 :40pm
飛行時間 : 3小時35分鐘
到達香港時間 : 7:15pm
期待與大家一起踏上這個獨一無二的福岡深度文化交流之旅!
查詢:香港藝術交流協會 電話:2370 1078
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ここ半年くらいの雑記
皆さんこんにちは.リアルがようやく一段落した私です. 色々あったので文字に吐き出そうと思います.この半年を振り返る自分語り日記です.
いよいよ社会人になる時
私は理系大学院生です.ストレートなので,今年24歳で大学6年目です.もう人生の4分の1を大学��過ごしてることになりますね.入学した最初の一年目は一人暮らしが始まりこれまでとは一変した新生活だったり,新たな友人との出会いやサークル部活動だったり,初めての経験が色々あって長く感じました.2年目以降は慣れて一瞬でこの歳になりましたけど.感覚的には最初の1年とその後の4年はイコールです.
そんな私もついにM2(大学院2年.Master 2)になったので,いよいよ就活の事を考える時がきたわけです.
いきなり地獄だった
今年の就活は大荒れですね.原因は勿論コロナウイルス.就活シーズンは基本3月から始まるので,3月になると企業は一斉に会社説明会をやりだし,全国各地で合同企業説明会が開催されたりします.
が,その会社説明会が軒並み中止になったんですね.3月に入ってからは日本でも一日数十人単位で感染者が出ていて,ツイッターも連日コロナ関係のニュースで持ちきりでいわゆる「自粛ムード」に入った頃だったと思います.すると大学の掲示板に貼られていた無数の企業説明会のチラシを始め,メールで予告されていたものまで全てが無に還りました.説明会開催中止のメール多すぎてビビりましたもの.一番痛かったのは学内の合同説明会が中止になったことです.この学内合同説明会は大学側が用意した大学内部で開かれる説明会の事で,うちの大学の生徒を欲しがっている(と思われる)企業が参加します.規模も大きく数日間に渡って開催され,参加企業数は700以上になります.わざわざ大学にまで来て各会社が説明をするのですから冷やかしでもないでしょうし,学生側にとっても色々な企業を知る為の大きな機会でした.
私は昨年の夏にとある企業の2週間インターンシップに参加していて既に第一志望の企業はそこと決まっていたのですが,落ちた時や滑り止めの為にいくつか企業を見繕うつもりでいたので辛かったですし,ましてやその説明会で志望先を決めるつもりだった学生は絶望したでしょうね.勿論学内に限らず全国でこんな感じになったので,就活生は全員情報が少ないまま就活を始めることになりました.
裏を返せば,本来合説で知るはずだった企業を知る事なく選考が始まったことにより例年より競争率が減っていた,なんてこともあったのかなと今になって思いますね.未だに業界の先端を行くような大手企業から2次募集のメールが飛んできたりしているので本当なのかもしれません(2020年6月時点).
就活を語る前に
前提の為に先に私の人間的な価値をざっと書いておこうと思います.就活に置いて主に重視されるのは学歴,スキル,人間的スペック(コミュニケーション能力や人格など),この辺でしょうか.
冒頭でも言ったように私は理系の大学生です.偏差値は53~55ぐらいなので,「あの大学ですかスゲー!」ともならなければ,「ここはないわ」とまでもならない,良くも悪くもないといったところです.ただ九州内の企業ならばエース扱いされます.九州における最強の大学はまず間違いなく九州大学なので,そこには当然及びませんが,専門性の高さとブランドがあり,理系として技術職を志望するなら十分です.でも九州を出れば並でしょう.とりあえず学歴フィルタがプラスに働くことはないと思ってもらえれば結構です.
次に自分の持つ専門知識.理系ならば技術職を目指す人が多いとは思いますが,理系は面接で自分が大学でどういう専門知識を学んできたかを語れなければなりません.ことさら大学院生ともなれば企業に就職した際に初めから学部卒の人間よりも高い給料を貰うわけですから,余計に重視される部分ですね.学んだこと+研究内容が重要になります.これを上手く語れるかどうかはその人のプレゼン能力の高さがもろに影響するでしょう.面接ではアドリブ力が試されますからね.私は話下手なのと人前に立つと緊張で頭が回らなくなるので割とマイナス寄りです.声は大きくハキハキと喋れるタイプなので印象自体は悪くないと思いますが,頭がちゃんと回り内容がついてくるかどうか次第といったところ.
最後は自身のこと.いわゆる自己PRというやつです.面接における自己PRは「自分の長所」を「それに付随するエピソード」と共に「会社でどのように活かされるか」を1セットにして話すのが鉄板ですね.私は自己肯定感が割と低めの人間で,この手の文章を考えるのがめちゃくちゃ苦手なタイプです.しかし自分の魅力すら語れない人間を企業は雇う気になどなれませんから,どうにかして無理やり捻りだしました.ちなみに自己PRを考えるのが苦手な方は周りの人間を頼ると良いです.自分の周囲の人間は自分よりもその人の魅力を知っている可能性が高いです.そして聞く人間は親か,指導教員辺りを選ぶとベストでしょう.本音を割って話せる親��とも呼ぶべき友達が居れば,その人に贔屓目抜きで自分の評価をしてもらうのも良いと思います.
参考までに私が実際に面接で用いた自己PRを記すと,
運動部で培われた雰囲気や人となり.自分の受け持ちに対する責任感を持つ.
基本的に前向き.向上心や好奇心があり,失敗を恐れずに物事に取り組むチャレンジ精神がある.
素直でまっすぐな性格.プライドが高くなく,自分の考えに必要以上に拘らない.
学力が平均以上.
こんな所です.これを例えば,私は中高大で12年間ラグビーやってて主将や幹部の役職をずっと任されてきたとか,大学の留学プログラムに参加したとか,わからない事を素直にわからないと言えるとか,そういうエピソードと一緒に話します.するとやり取りをする中で面接官も更問いを出してきて,話が弾みます.私の場合どの会社でもラグビーの事を聞かれましたね.確かに私は中学と高校で両方キャプテンをやって,大学でも主務の役職についていましたし,中々珍しいタイプだと思います(弱小だったけど).ステータスだけ見れば折り紙付きの体育会系です.昔ほどではないと思いますが,まだまだ体育会系の人間は「肉体的,精神的な打たれ強さや忍耐力がある」とか,「礼儀正しく上下関係をわきまえている」とか,そのようなイメージを持たれている事が多いので就活市場ではプラスに働く要素だと思います.大学で運動部に所属している方はアピールポイントとして全面に押し出して良いでしょう.
以上が舞台です.
Dz'Xaの就活
いよいよ振り返りに入ります.えーとですね,結論から先に言いますとハッピーエンドです.3社目で受かりました.1社目は練習不足,2社目はコロナの経営不振による採用取り消し(まがいの事をされた),3社目で採用です.
1社目
最初に受けたのは当時第一志望だった会社です.私は昨年夏のインターンシップに参加していたので,早期の企業説明会を受けることが出来ました.その時はまだ自粛ムードじゃなかったので,普通に飛行機で都心に入りましたね.渋谷のタワレコでGrazcoreとDaft PunkのCDを買って帰りました.
3月の半ばぐらいにES提出&適性検査受験という流れだったんですが.適正検査はテストセンター型のSPI試験を受けました.福岡では天神にしかないので電車で行きました(マスクが売切れていた時期で,俺は入手できなかったのに皆マスクつけててビビ���た).余裕を持って40分ぐらい前に着いたら受付で「15分前ぐらいにまた来てくれ」と追い返されましたね.仕方がないので喫煙所で暇をつぶして5分前ぐらいに行ったら今度は遅いと怒られました.試験内容はというと,それなりに対策勉強はしてたんですが私の実力じゃ全然間に合いませんでした.その数か月前に受けた模擬試験では学内の偏差値が60以上ありましたし,それからも対策勉強をしたので中々のものだろうと思っていましたが,全体の8割ぐらいしか問題に答えられなかったと思います.試験はパソコンで問題が画面に表示されるのを手元に用意された紙と鉛筆で計算し,答えを複数の中から選ぶ選択式で,一度答えたら前の問題に戻ることはできません.残り時間と自分の回答数の割合が画面にゲージで常に表示されており,残り時間に合わせて間に合わなかったら適当に選択して次の問題へ進むというやり方もできますが,お勧めしません.このSPIテストは問題が初めから決まっているわけではなく,正答数に合わせて問題の難易度が変わります.正解すればするほど問題が段々難しくなり,間違えると簡単になります.視力検査をイメージしてもらえば良いです.それで偏差値を競っているらしいですよ?だから焦ってガンガン問題に答えようとするよりは間に合わなくても着実に正答数を増やす方が良いです.ソースは私と私の友達とインターネット.
そんなこんなでESと適性検査の選考は通りまして無事面接に進むことになりました.面接は全3回です.
最終で落とされた
一次と二次は通りましたが最終で落とされました.この間2か月ぐらいかかったんですが,結構絶望しましたね,第一志望だったので.5月はふさぎ込んでました.大学の仕様で,学校推薦を使うと他の企業を受けられなくなるのですが,私は大学の推薦を使ってその企業を受けていたので,これでまた振り出しに戻ったわけです.
面接は全てWeb上で行われました.恐らくどこもWeb面接だったと思うので今年の就活生は移動にかかるお金と時間がなくていいですね.コロナウイルスが私に与えてくれた唯一のメリットです.
Web面接は色々トラブルがありました.ただでさえ慣れていない面接なのに,それをWebでやるとなると,それはもう物凄いプレッシャーです.回線が悪すぎてまともに通話ができず開始が10分以上遅れたり,マイクの声がうまく入らず常にマイクを持って口に当てながら話したり,色々トラブルがありましたが,うまく捌けたので,そこは急なトラブルにも焦らず対応できる冷静さを持っていると思われ逆にプラスになったのかなと思います.
後は私の感覚ですが,Web面接の際にイヤホンを使うと閉塞感を感じるのか,余計に物凄く緊張をすると気づいたので,それに気づいてからはイヤホンでなくスピーカーで面接をするようにしました.
ちなみに落とされた理由は「志望動機と将来ビジョンの見えなさ」です.技術系で特に開発系の仕事に就きたい方は絶対に聞かれる部分ですが,10年後の自分を語れないと落とされます.「会社があなたに3億円を渡します.あなたは弊社にどのような貢献ができますか?」これに上手く答えられないとダメですね.1社目で不慣れなせいもあったのか研究不足,練習不足が祟りました.今の私なら受かると思いますし,練習を怠った事に後悔もしましたが,この最終面接で落とされた事で反省点を色々見つけられたことと,自分を見つめ直すいい機会にもなったので,今では落とされて良かったと思っています.
2社目
1社目で推薦を使い丸2ヶ月消費した私ですが,性懲りもなくまた推薦を使いました.丁度私が1社目を落とされてどうするか考えていた所に紹介が来たのです.就職担当の教授から「(私)君が落ちたその丁度数日後に,〇〇という企業から『あまり人が集まっておらずまだ募集しているので,うちの生徒が欲しい 』と連絡が来た.前の会社よりも大きいし,(私)君のスキルにも合ってると思う.興味を持ったら推薦の許可も出すのでメールをください」と言われました.その企業は業界の人間なら誰もが知っている大手企業で待遇も良く,業務内容も面白そうだったのでそのまま応募することにしたのですが....
最終で落とされた
はい.また最終で落とされました.ただ1社目と違い,今度の私は前回の反省を踏まえて結構ガチガチに対策をしていました.企業HPは勿論,日経のニュースや有価証券報告書も見て,何を聞かれても良いように準備していったのです.
それでも落とされた理由は「コロナが遠因の経営不振による部署規模縮小からの採用取り止め」じゃないかなと思いました.不審な点がいくつもあったんですよね.余り書きすぎると企業特定に繋がりかねないので適当にぼかしながら記します.
まず自由応募と違い推薦応募で就活を行う学生は大学の事務を通じて企業とやり取りをして選考を進めていきます.そして落選の場合は企業から落選の理由が大学に通達されるので大学から教えてもらえます.で,落とした理由が何だったかというと,「弊社に対する興味関心が薄いようでした」とのこと.要は志望動機なんですが,これが言い訳にしか聞こえなかったんですよね.面接では志望動機は一番初めに聞かれたのですが,「業界の志望動機」を答えて,「業界の中で弊社を選んだ理由」を更問いで誘発するような答え方を私はしました.その更問いで前回落とされた私は一番ここを対策していて,具体的な数字や事例を交えながら答えたので,ほぼ完璧に近い回答ができていたと思います.面接官の方も満足していたようでした.納得したのかその後の流れは人物評価に移り,またここでラグビー時代の事をたくさん聞かれました.コミュニケーションは得意かとか,���囲の友達や先輩と飲んだりするのかとか,プレッシャーに強いかどうかとか,ほとんど雑談みたいな感じでしたね.恐らくこの時点で志望動機や学力の事はクリアしていて,後は一緒に働きたいかどうかとか,忍耐力があるかどうかとか,そういう所を見ていたのかなと思います(SEや開発系の仕事は業種的に,体力的にキツイ仕事が多い).入社後の話も多く,結構望みを抱いていたんですが,落選理由が一番あり得ないと思っていた所だったので逆に拍子抜けしました.
事務の教授の見解によると,丁度その企業はコロナが原因か経営不振に陥っていて,私の面接が終わった後に社内体制をバッサリ変えてしまったようです (ニュースにもなっていた) .しかもその内容が丁度私が志望していた部署の規模を縮小するようなかなりドラスティックな変更だったので,それが本当の原因じゃないかと仰っていました.実際1週間以内に寄越すと言われた採用結果の通知は10日かかりましたし,面接が終わった時点では受かっていたけれど,後から上にダメだと言われてバタバタしていたのではとのことです.まああくまで可能性の話ですが,これなら全てに納得が行くので私もそう思う事にしました.
3社目
推薦に懲りた私は自由応募を使う事にしました.同時に複数社を受けられないのは本当に精神的にキツくて,これ以上落ちると後がないと思ったからです.まあいきなり受かったので何も心配はいりませんでした.これまでの2社で得た経験か,面接にも全く問題がなかったので特に追加で話すこともありません.面白かったのは,2時間半の筆記試験と,70分の実技試験があったことですね.45分で800字の小論文とか(これが結構きつかった),30分で10分の発表資料を作ってそれを面接官と社長の前で発表するとか,色々ありました.良く書けてると思いますと社長も褒めて下さったので,中々の出来だったんじゃないでしょうか.
病むと能動的な事が出来なくなる
これで無事に私の就活は終わりましたので,後は修論を頑張ろうと思います.この半年間,コロナで大学にも入れなくなりどうしてもこもりがちになってしまっていました.人に会う機会がなく誰とも話せないので精神的にとにかくキツかったです.どうしようもない自己否定のループに陥って眠れなくなったり,餓死を試みて5日ほど断食したりと,アホな事もしましたが,そんな中私を支えてくれた周囲の人たちに,そういえば随分精神的に助けられたなと今になって感謝しています.
とりわけ,推薦の就職活動でとにかくお世話になった就職事務の方と担当教授,めちゃくちゃ忙しいのに時間を割いて頂き私の良い所を客観的に褒めて慰めてくれた私の指導教員,業務内容や待遇など会社情報を調べるのに色々協力してくれたお父さん,私が落選して凹んでいた所にzoom飲みをするぞと誘って慰めてくれ,面接練習もしてくれた親友SとH.本当にありがとうございました.
また話は変わりますが.特に落選した直後などは物凄い病み期に入っていたのですが,精神的にネガティブになると能動的な趣味ができなくなりました.気力がなくなるんですよね.私のインドア趣味は主にゲームとDTMで,アウトドアだと勿論ラグビーなんですが,ゲームとDTM,全然しなくなりましたね.サンクラには作り置きしていた曲を上げていたと思いますが,ここ最近はずっとyoutubeで動画を見たり,amazon primeでアニメを見るなどしていました.本当に自分でもビックリしているんですが,これまでの人生で片手で数えられるぐらいしかクール制のアニメを見たことのなかった私がこの半年間で5本のアニメを見ました.
はたらく魔王さま!
バカとテストと召喚獣
かぐや様は告らせたい
乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
虚構推理
全部面白かったです.ロリコアやマッシュコアを作る割に全然アニメネタの引き出しがない事を私は憂く思っていたので,面白いストックを見つけられたかなと思います.色々な声ネタ使ってまたMash On Parade!!みたいな曲をやりたいです.2年前の病み期ではニコニコで例のアレにハマってしまったので,あんな曲ができました.3年前ぐらいまでは「野〇先輩って誰?芸能人?」って本気で言っていたんですけどね.あれ同性愛者をバカにしているコンテンツなので,本当は良くないと思います.
アドバイスをするなら
もしこれから就活をやらなければいけない子達に私がアドバイスをするなら,上記に挙げた「10年後の自分」「生涯賃金3億円に対しその人が会社にできる貢献」を答えられるようにすると良いと思います.自ずと業界の事やその企業が作っている製品,業務内容などを調べることになるので,志望動機がきちんと答えられるようになると思います.
あと,志望動機には具体的な名前や数字を混ぜることです.例えば土木業界に進みたくて,その手の会社に応募する際にはきっと「近年豪雨による洪水の災害が頻発するなど,土木工事の重要性が改めて認識されているので,土木分野の技術向上は益々重要と感じた」とかそんな事を言うと思うんですけど,この時に「令和元年東日本台風」とかそういう固有名詞を���れると,説得力が増してより好印象です.
終わりに
我々とその下の世代はそのうち氷河期世代よろしくコロナ世代とか言われそうなんですが,どうなりますかね.経済ダメージが甚大すぎて何が起こるかわからないんですが,1番は今後の採用数が減るんじゃないかという不安だと思います.大学院の進学志望率高まりそうですね.というか今年既に高まってました.私が所属する専攻の今年の大学院進学志望者数が例年の1.5倍になっていて,余裕で定員オーバーしてます.まさに骨肉の争いともいうべき競争でした.
幸いにして私はコロナの影響で今すぐ失業したりする業種ではないんですが,これはある意味たまたまというかラッキーなだけです.本当に観光業とかインバウンド系の業界だったら呑気に在宅ワークとか言ってられないはずで,想像するだに恐ろしい.もし自分がその業界だったら今どうするべきか,何かやりようはあるのかとかを考えておくのは大事かなと思います.そういう事を考えられる人間になりたいです.
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about
今野綾花 編集者/フィルムアート社編集部 東京芸術大学美術学部芸術学科卒業 鳥取市在住
連絡先:konnoayaka0(a)gmail.com
[企画・編集]
『視覚文化「超」講義』 石岡良治=著 フィルムアート社 2014/6/26
『キュレーションの現在 アートが「世界」を問い直す』 椹木野衣、五十嵐太郎、蔵屋美香、黒瀬陽平、新藤淳、松井茂、荒川医、石崎尚、遠藤水城、大森俊克、金井直、川西由里、菊池宏子、櫛野展正、窪田研二、芹沢高志、竹久侑、土屋誠一、筒井宏樹、中村史子、成相肇、橋本梓、服部浩之、藤川哲、保坂健二朗、星野太、桝田倫広=著 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2015/2/27
『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』 パブロ・エルゲラ=著 アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会=訳 フィルムアート社 2015/3/23
『漫画家、映画を語る。 9人の鬼才が明かす創作の秘密』 島田一志=編 松本零士、上條淳士、楠本まき、浅田弘幸、五十嵐大介、松本次郎、武富健治、山本美希、諫山創=インタビュー フィルムアート社 2015/5/25
『アーティストの目』 『ドローイング・テクニック』 『人間を描く』 『学ばないドローイング』 (HOW TO SEEシリーズ) ピーター・ジェニー=著 石田友里=訳 フィルムアート社 2015/7/25-2015/8/25
『マンガの現在地! 生態系から考える「新しい」マンガの形』 浅野智哉、天野昌直、粟岳高弘、飯田一史、太田克史、樹崎聖、木村仁、桐木憲一、さそうあきら、さやわか、スタンザーニ・ピーニ詩文奈、高狩高志、中野晴行、仲俣暁生、西島大介、ばるぼら、三上信一、吉田アミ=著 島田一志=著、編集 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2015/10/9
『感情類語辞典』 アンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッシ=著 滝本杏奈=訳 フィルムアート社 2015/12/25
『めくるめく現代アート イラストで楽しむ世界の作家とキーワード』 筧菜奈子=著 フィルムアート社 2016/2/18
『人工地獄 現代アートと観客の政治学』 クレア・ビショップ=著 大森俊克=訳 フィルムアート社 2016/5/24
『アートプロジェクトがつむぐ縁のはなし 絵物語・声・評価でひもとく 大巻伸嗣「Memorial Rebirth 千住」の11年』 「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」 事務局、東京藝術大学熊倉純子研究室=企画・制作 熊倉純子、藤枝怜、佐野直哉、槇原彩、篠原美奈=著 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 2022/3/17
[編集(共同編集/制作)]
『現代アートの本当の学び方』 会田誠、荒木慎也、大野左紀子、苅宿俊文、暮沢剛巳、谷口幹也、土屋誠一、筒井宏樹、成相肇、橋本誠、日比野克彦、福住廉、三脇康生、村田真、山木朝彦、川崎昌平=著 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2014/3/26
『第8回恵比寿映像祭』公式パンフレット 東京都写真美術館 2016/1/31
『美術手帖』2018年8月号増刊「藤田嗣治」 美術出版社 2018/7/30
『美術手帖』2018年10月号増刊「エドヴァルド・ムンク」 美術出版社 2018/10/15
『これからの美術がわかるキーワード100』 美術手帖編集部=編 美術出版社 2019/4/8 「永遠の都ローマ展」公式図録 東京都美術館、福岡市美術館 毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション 2023/9/16
「蜷川実花展 Eternity in a Moment 瞬きの中の永遠」公式図録 株式会社ラッキースター 美術出版社 2024/6/30
[記事の構成・執筆など]
『美術手帖』2016年8月号 特集:キャラクター生成論 美術出版社 2016/7/16
『美術手帖』2016年10月号 特集:サルバドール・ダリ 美術出版社 2016/9/17
『美術手帖』2017年2月号 特集:アウトサイダー・アート 美術出版社 2017/1/17
『美術手帖』2017年4月号 特集:池田学 美術出版社 2017/3/17
『美術手帖』2017年12月号 特集:これからの美術がわかるキーワード100 美術出版社 2017/11/17
『美術手帖』2018年4・5月合併号 特集:ART COLLECTIVE 美術出版社 2018/3/17
『美術手帖』2018年10月号 特集:上海アートシーン 美術出版社 2018/9/7
『美術手帖』2019年2月号 特集:みんなの美術教育 美術出版社 2019/1/7
『美術手帖』2019年6月号 特集:80年代★日本のアート 美術出版社 2019/5/7
『美術手帖』2019年10月号 特集:アーティストのための宇宙論 美術出版社 2019/9/6
『美術手帖』2019年12月号 特集:「移民」の美術 美術出版社 2019/11/7
『美術手帖』2020年2月号 特集:アニメーションの創造力 美術出版社 2020/1/7 『美術手帖』2020年4月号 特集:「表現の自由」とは何か? 美術出版社 2020/3/6 『美術手帖』2020年10月号 特集:ポスト資本主義とアート 美術出版社 2020/9/7 『ビジネス教養としてのアート』 造事務所=著 岡田温司=監修 KADOKAWA 2020/10/16 『美術手帖』2020年12月号 特集:絵画の見かた 美術出版社 2020/11/7 『美術手帖』2021年4月号 特集:アーカイヴの創造性 美術出版社 2021/3/5 『美術手帖』2021年6月号 特集:松山智一 美術出版社 2021/5/7 『美術手帖』2021年10月号 特集:アートの価値の解剖学 美術出版社 2021/9/7 『美術手帖』2021年12月号 特集:「NFTアート」ってなんなんだ?! 美術出版社 2021/11/7 『美術手帖』2022年2月号 特集:ケアの思想とアート 美術出版社 2022/1/7 『美術手帖』2022年10月号 特集:五木田智央 美術出版社 2022/9/7 『美術手帖』2023年4月号 特集:ブラック・アート 美術出版社 2023/3/7 『美術手帖』2023年7月号 特集:日本のストリートとアート 美術出版社 2023/6/7 『美術手帖』2024年1月号 特集:目[mé] 美術出版社 2023/12/7 『美術手帖』2024年3月号 特集:世界のアーティスト2024 美術出版社 2024/3/7 日本の写真史をなぞる存在。写真家・安井仲治の魅力とは?「生誕120年 安井仲治」展を企画した3館のキュレーターが語り合う 今野綾花=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/10/17 金沢21世紀美術館のキュレーター4名が語る「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ―次のインターフェースへ」展。AI、データ、衣食住──「DXP」という新たな惑星へようこそ 野路千晶=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/11/18 横尾忠則インタビュー「アートとデザインの���界線はこの先20年のうちになくなるんじゃないかという気がする」。87歳の作家が語る描くこと、身体と病、ジャンルの壁 成相肇=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/11/27 【AIとアート入門】前編:「コンピュータは創造的か」の問いに私たちはどう答えるか? レフィーク・アナドールから近年の研究事例まで(講師:久保田晃弘) 編集部=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/18 【AIとアート 入門】後編:「AI画家」のつくり方。ハロルド・コーエンの歴史的挑戦に見るAIのこれからの可能性(講師:久保田晃弘) 編集部=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/19 「MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ」(東京都現代美術館)を、いとうせいこうはどう見たか? 担当学芸員・森山朋絵とともに会場を見て歩く 野路千晶=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/30
[編集協力]
『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって』 アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会=著、編集 トム・フィンケルパール、グラント・ケスター、星野太、高山明、藤井光、カリィ・コンテ、ジャスティン・ジェスティ=著 フィルムアート社 2018/7/26
『ART SINCE 1900 図鑑 1900年以後の芸術』 ハル・フォスター、ロザリンド・E・クラウス、イヴ-アラン・ボワ、べンジャミン・H・D・ブークロー、デイヴィッド・ジョーズリット=著 尾崎信一郎、金井直、小西信之、近藤学=日本語版編集委員 東京書籍 2019/6/5
『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出(Artist by Artist)』 ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/1/25 『エドゥアール・マネを見つめて(Artist by Artist)』 エミール・ゾラ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/3/14
『ミケランジェロ・ブオナローティの生涯(Artist by Artist)』 ジョルジョ・ヴァザーリ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/7/17 『レオナルド・ダ・ヴィンチを探して(Artist by Artist)』 ジョルジョ・ヴァザーリ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/8/31
『彫刻の歴史 先史時代から現代まで』 アントニー・ゴームリー、マーティン・ゲイフォード=著 石崎尚、林卓行=翻訳 東京書籍 2021/10/22
『ダムタイプ|2022』 ダムタイプ=著 美術出版社 2023/2/25 『六本木アートナイト事業評価報告書 2022』 佐野直哉、中谷美南子、三浦宏樹=著 六本木アートナイト実行委員会事務局 2023/3 『六本木アートナイト事業評価報告書 2023』 佐野直哉、中谷美南子、三浦宏樹=著 六本木アートナイト実行委員会事務局 2024/3 「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?──国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」公式図録 国立西洋美術館 美術出版社 2024/3/12
*アートポータルサイト「ウェブ版美術手帖」編集協力(BT ARCHIVES) *有楽町アートアーバニズム[YAU]「YAU SALON」レポート執筆
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「猿の演劇論」参加理由と、聴講分への若干の異論、鴻英良さんの過去の論文(「ゲンロン5幽霊的身体」掲載)への異論
才目謙二 1.参加理由 私は「猿の演劇論2018」Part 3の計2回に参加しました。 なぜ最終盤にいたって参加したのか。その動機は、本年(2018年)8月中旬、室伏鴻アーカイブカフェshyで開かれた鴻英良さんと上杉満代さんの対談に接したことに遡ります。 ● 対談は大野一雄さんをめぐって対立するお二人が「激論(?)」するという触れこみでした。 上杉満代さんは1970年代から大野一雄に師事してこられた舞踏家で、さる映画館で大野師の映像上映会を開催されました。 その席で、鴻英良さんが「大野一雄の戦争体験と舞踏に関する疑問」を提出され、それについて上杉さんが反撥されたとのことでした(当上映会には参加せず)。 その内容が興味深いものであったので、続きを思う存分やってほしいとの声も多く、では場所を変え一対一の「対決」をという趣向で、shyでの対談が企画されました。 ● 鴻英良さんは批評雑誌「ゲンロン5 幽霊的身体」に大野一雄論を書いておられます。埴谷��高が『死靈』で提出した「虚体論」と大野一雄の幽霊的身体を結びつけた論考はきわめて刺激的です。 ただ、鴻さんには疑問がありました。 大野一雄さんは中国とニューギニアに出征され長い軍隊生活を送られました。 年表によるとニューギニア出征は1938年です。終戦にいたる7年もの間、南方の戦地でどのような体験をし、どんな辛酸をなめたか。捕虜となり生還を果たした大野さんが「戦争」を語ることはありませんでした。情報将校として軍の機密を知る立場だったから、それも一因かもしれません。 室伏鴻による大野舞踏と土方巽が創始した暗黒舞踏との違いの指摘など、興味深いセッションが続く中、鴻さんは「大野さんは生涯なぜ苛酷な戦争体験を語らなかったのか。語るのはニューギニアでの牧歌的な生活だけだ。実相はそんな生易しいものではなかったはずである」と語りました。 鴻さんが放った「挑発を含んだ疑問」に上杉さんが乗った形の対談は、しかし、実に奇妙な展開を見せます。 鴻さん「大野さんは『食べるものがなくなったら、海に行って崖の上から手榴弾を投げる。すると、魚がいっぱい浮かんできて獲り放題。隊員や原住民とたらふく食べた…』などと吉増剛造氏との対談で語っている。自らの本当の戦争体験に覆いをかけたまま、牧歌的な(嘘のような)エピソードだけしか語らない舞踏家の踊りとは何だろう? どうしてもこの疑問が残る」。 この疑問には上杉さんも絶句されました。 すかさず鴻さんは「手榴弾を投げて海の底から浮いてきたのは米兵のちぎれた身体(からだ)じゃないのか。そうした光景、戦争の実相の一切を言葉で語ること拒絶し、大野一雄さんは戦争体験のすべてを踊りで表現することに賭けてきたのではないか、私はそう思うのです」と上杉さんに迫りました。 すると上杉さんは「実は、私もそう思うの」と目を輝かせ、賛意を示されました。一転、和やかなムードとなり、大野一雄さんの懐かしい映像などを映写して対談は終わりました。 終了後、「対決になりませんでしたね」と言うと、「あそこでなぜ上杉さんは変わったんだろうね。不思議だ」と鴻さんは首をひねっておられました。 ● 私は、当セミナーの惹句「鴻英良による挑発と洗脳」が気になっていました。「挑発」は分かるが、「洗脳」って何だろう? ゆくりなくも私は「挑発と洗脳」の現場を目撃してしまったのです。 鴻さんは独自の切り口と鋭利な問題提起により「知的挑発」をされる演劇批評家であることは周知のとおりです。 洗脳はウィキペディアによると、「brainwashing」の直訳であり、「強制力を用いて人の思想や主義を根本的に変えさせること」とされます。 もちろん、鴻さんは強制力を用いることはありません。用いる力は「問題提起力」です。 鴻さんの鋭い問題提起による知的挑発は、たとえ否定の身振りであっても、相手の立場や論旨を対立的に肯定・支持しながら、相互の「立論」を弁証法的に止揚して数段高い次元へと称揚します。これが鴻流の「洗脳」ではないかと思うのです。 「知的挑発」の後に来る「洗脳」、このプロセスに立ち会った者は、深い納得感から一種の浄化作用を覚えます。 その高み(プラトー)に佇む知的爽快感を求めて、「猿の演劇論」への参加にいたりました。 ※補足(主題から離れて) 1)逆にいうと、知的高みを相互に構築するには、上杉満代さんのように「鴻さん、違うわよ」と渾身から批判・否定をする必要があるだろうということである。一方的な挑発だけでは知的高みに登ることはできない。本レクチャーの課題が「鴻さんを批判する文章を提出すること」であるのは当然なのである。 また、「米兵のちぎれた身体」というくだりでは、著書『二十世紀劇場』の「第一章 皮膚の時代」、中でもフランシス・ベーコンの『絵画』に関する叙述などを思い起こさなくてはならないだろう。 2)一糸座の公演、芥正彦演出『アルトー24時』(2014年、東京芸術劇場)の公演において、鴻さんは劇中、客席からジャック・デリダに扮して登場し、デリダのアルトー論『基底材を猛り狂わせる』の一節を舞台に投げ掛けた。それは、ハプニング演出の意図を超えて、アルトーの最期の一日を描く劇(脚本:鈴木創士)に対する鋭利な問題提起と聞こえ、舞台を引き締める効果を得た。 デリダのテクストのどの箇所かは未詳だが、アルトー晩年のデッサン集をめぐるデリダの論旨を敷衍して、鴻さんは画材としての「基底材」から「舞台」ひいては「存在」そのものを猛り狂わせる演劇の可能性を問題提起したように劇場には響いた。私が観たこのシーンにも「挑発と洗脳」があったことを付記したい。 2.セミナー聴講分への異論 Part3戦時中の移動演劇に関するレクチャーに対し、ヴァリアントという意味での異論を提出します。 菅孝行著『戦う演劇人』(而立書房、2007年)P37より引用します。 「(治安維持法違反の名目で一斉検挙された)村山(知義)、久保(栄)、千田(是也)らは表現活動を一切禁止され、誰かの名前を借りなければ演出も執筆��許可されなかった。久保はわずかながら共同生活をしていた女性の経済的な支えを得て、演劇活動や執筆を行わず沈黙を通した。村山や千田は糧を得るために匿名・変名で演出や代筆をもっぱらとする毎日となった。たとえば伊藤熹朔著『移動演劇論』は千田の代筆といわれている。」 戦前から戦後を通じて舞台美術家として活躍した伊藤熹朔が美術系の著述以外で文筆をふるった例は他になく、真偽はさておき、保護観察中の実弟・千田是也が移動演劇に関する著作を代筆したことは十分に推察できます。 左翼系演劇人が保護観察下で被った屈辱は筆舌に尽くしがたいものであったでしょう、加えて自由な演劇活動を禁じられていたにしても、「移動演劇運動」に活路を見出し、糧を得たことは間違いないようです。 千田是也は1944年2月に10人の仲間とともに俳優座を設立。翌45年、「俳優座は移動演劇芙蓉隊を作り、静岡などに出動するようになった」(同上書P37,38)とあるように、戦争末期は、新劇団の多くも組織をあげて積極的に移動演劇活動に取り組むようになりました。 国家による演劇統制(1940年の「国民演劇」構想)、大政翼賛会の国策に沿った国威発揚演劇、そして移動演劇。戦時下において演劇は疲弊することなく、国の庇護を享けながら、川村毅や大笹吉雄が指摘したようにむしろ「健全」に「強度」を高めていたのではないでしょうか。 私が聴講した鴻レクチャーは、先に「転向」の問題を捉えましたが、「移動演劇」「戦時下の演劇」から「戦中・戦後の転向」の問題へとリンクしていけば、戦後新劇の出発点の問題系に新たな光を当て、今まさに「戦時体制」といえる現代における演劇を考えることができたのではないかと思います。 なお、「戦時中演劇」ないし、「新劇人の戦争協力」についての先行研究は意外なほど少ないようです。鴻さんも「早稲田大学の演劇博物館には移動演劇の資料が手付かずのまま山積みとなっているのを発見した」と仰っていました。 目に止まった中では、「シアターアーツ」第四号「戦争と演劇」特集(1996年)や日比野啓、林廣親(以上、成蹊大学)、山下純照(成城大学)らの共同研究論文「戦時演劇研究-成果と展望」(2009年)がありました。 上演では、青年劇場の『宣伝』(2018年)や川口典成氏が主宰するドナルカ・パッカーンが岸田國士のラジオドラマ『ますらをの伴』の演劇化した試み(2017年)などがあり、戦時下の作品上演も緒についてきたようです。 3.鴻英良さん「ゲンロン5幽霊的身体」掲載論文への異論 「虚体、死体、そして<外>へ-二一世紀のダンスの理念に向けて」と題された論文における異論は、埴谷雄高の出発点ともいえる「自同律の不快」に関するものです。 埴谷雄高と大野一雄の舞踏を「虚体」という概念で結びつけた当論文は画期的なものであります。しかし、議論の前提となる「自同律の不快」の解釈において、鴻さんはその一側面である「自分が自分であることの<名状しがたい>不快」いわゆる実存的な「存在不快」の部分のみに注目します。 「『俺が俺である』と言い切れないのはなぜか。それはそもそも主辞の『俺』が一体なぜであるか定義できていないからである。主辞の『俺』が不明であるのに、それがなんであるかを賓辞によって特定することはできない。にもかかわらずそれを特定してみようとすると、必ず失敗し、俺がなにものであるのか特定できないことによる不快、苛立ち、吐き気、嘔吐、そういったものが起こってくる。それが自同律の不快である。」(「ゲンロン5 P115」) 台北で幼少期を過ごした埴谷雄高が家業のために父が使用人である台湾人を苛酷に扱うことに激しい反撥を覚えたこと、あるいは獄中でのマルクス主義からの転向、そうした実体験も踏まえながら、鴻さんは「自同律の不快」を上記のような定義されています。 晩年、立花隆氏との対談『永遠の相のもとに』(平凡社、1997年)でも、埴谷雄高は「ぼくは自同律の不快というものは、『満たされざる魂』という言葉としても使っているんです」(P139)といっています。 しかし、「自同律の不快」は、第一に「A=A」という同一律、あるいは同一律を含む形式論理学上のトートロジーそのもののへの不快を表明してはいないでしょうか? 「薔薇、屈辱、自同律」という埴谷雄高へのインタビュー(ちなみにこの言葉は『不合理ゆえに吾信ず』の劈頭を飾るものである)ではこう語っています。 「(自同律の不快は)“存在は存在である”といった場合、全存在形式を予覚させず、現在の一存在形式の枠の中へだけ私達を永劫に縛っておくことしか生じないのですが、我々が生まれると同時に、こうとしか考えられず、こうとしか存在し得なく閉じこめられていること自体がぼくにとって“屈辱”であるという意味なんです。」(前掲『永遠の相のもとに』P138脚注を引用) どうして私たちはこのようにしか考えられないのか、このようにしか存在しえないのか、別の思惟形式があるのではないか、別の存在形式があるのではないか。その可能性を根源で縛っているのが、同一律を含むトートロジーなのです。 形式論理学が、この宇宙のどこの惑星においても「真」として成立するとするトートロジーの桎梏を離れるため、埴谷雄高は小説として『死靈』を構想し、異なる思惟形式と存在形式をもつ「青服」を登場させたり、「虚体論」によって存在の転覆を図ろうとしたのではないでしょうか。 私は、「虚体論」の基礎となる「自同律の不快」は、「自分が特定できないことの不快」や「実存的不快」ではなく、同一律に縛られた人間存在から抜け出るために、それこそ「理性の限界」に挑戦しようとする思考の有り様であり、おそらくはゲーデル「不完全性定理」のように理性の外、論理思考の外にある確定できない<思考>こそを問題とし渇仰しているのだと思います。 この<外の思考>こそ、「非人間的な幽霊」であり、「人間的な思考方法をとらない」(『死靈』)身体から離脱していく「虚���の舞踏」なのだと思います。 私は大野一雄『ラ・アルヘンチーナ頌』を転形劇場が練馬に開設したT2スタジオでの再演(1983年)でしか観ていないけれども、「虚焦点のように虚自己へ向かう幻影のような感覚を、目撃者たちの身体に呼び起こすこと」(「ゲンロン5」 P114)を実感した一人であることを付記させていただきます。 以上
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漫談中共地下黨情報史:特務頭子周公操縱全局
作者:默喜
一
1921年之後的中國情報史基本上就是共產黨、前共產黨、潛在共產黨同情者之間的明爭暗鬥。共軍就不說了,軍統那裡被共黨滲透的一塌糊塗,中統那裡頗有一批得力的人是前共產黨,能力最強的張沖成了中共同情者,要不是死得早,可能就被周公給招入麾下了(張沖託孤周公,其子女都是中共)。
蔣介石到了台灣,帶頭撲滅共產黨在台地下力量的,還是兩個共黨叛徒,一個是蔡孝乾,一個是抓住蔡孝乾的谷正文。汪精衛那裡,特務頭子周佛海是中共創始人,黨齡比共黨特務頭子周公還長,而且沒去蘇聯進修過,純土產。手下幾員大將丁默邨、李世群、胡均鶴都是共黨叛徒,胡均鶴還是趙尚志的親妹夫。
汪精衛那裡,身邊的秘書有中共,76號的顧問有中共,軍法處有中共,梅機關有中共,岩井公館裡的中共卧底更是著名的五重間諜袁殊。范紀曼在中央大學教書,是汪偽高官家中座上客,同時兼職軍統和中共的間諜,為啥軍統這麼信任他?因為129運動的時候他已經是軍統北平站的代站長了。范紀曼很牛,他後來堅持不重新入黨,一直僵持到1984年,終於承認他黨籍從1926年開始計算。另一個和他一樣倔的老頭是金日成的歷史老師,老爺子一直堅持到去世前一個月,中共才承認了他的黨齡從20年代開始算。還有軍統在汪偽那裡的卧底,南京站站長抗戰後投了中共,後成為烈士;上海那邊中共掌握著不止一部電台。
汪精衛身邊,陳公博的親信李時雨執掌軍法處,是華北許建國線上的;范紀曼,是潘漢年線上的,同時也在共產國際有事情做,軍統那邊他有關係,夠義氣的陳恭被抓了以後都沒供出這個老同事,他可不知道這個老同事是老牌共產黨。李時雨也是,他曾經給李大釗扶靈。這兩個互不知情不同線上的卧底,因為臭味相投,合作辦了一家赤色刊物,被兩條線上的上級分別嚴厲批評。
還有,劉人壽在周佛海那裡,周佛海幫他掩護日本人,然後他發報給軍統,順便共軍這邊也接收一下。到了解放戰爭,胡宗南那裡的情報,辦公桌上的那份有熊向暉,電台那裡有呂出,聯勤西北總站有一份可以呼應的,沈安娜可以記錄下總裁批示,劉斐那裡有存檔,郭汝瑰留個副本,重慶行轅再有人轉發的時候抄一點。
吳化文和她媽分頭出去算命,這消息都能被共軍截獲。可憐的吳化文,小舅子是共諜,兒子和副官通共。四個老婆裡面,軍統的毛人鳳和共匪潘漢年線上的各有一個。共匪的這個從相貌到談吐再到氣質最後加上在家裡的地位,統統甩軍統特務好幾條街。比主業干情報比不過共匪,比副業做女人的能力也輸的一塌糊塗。天不容黨國也。剿總司令傅作義的閨女、總統秘書陳佈雷的閨女,偽滿洲國的總理張景惠的兒子,大漢奸周佛海的兒子等等統統都是共黨。張景惠不知道兒子是中共,兒子跟著他在蘇聯蹲了好多年監獄都沒暴露身份。他有一大堆老婆和閨女,還有個不成器的大兒子和不受寵的小兒子,就這麼個愛如珍寶的金疙瘩還投了中共。
陳布雷裝不知道自己女兒是中共;傅作義知道自己女兒是中共;周佛海知道自己兒子通共,別的漢奸也知道,包括日本人也知道,但是沒一個人敢動,因為周佛海這個實權人物就這麼一個寶貝嘎達兒子(另一個和他斷絕關係了,在重慶)。張克俠的弟弟張樹棣被佐爾格的助手方文盯上了,打算把他派到他哥哥身邊去卧底,伺機策反其兄長。要不是佐爾格相中了張樹棣的能力要他去蘇聯進修,就會出現弟弟策反了哥哥十幾年,最後發現兄弟兩人地下黨齡差不多長的故事了。
張克俠何基灃二人一同起義,起義前很長時間兩人互相提防,最後發現居然是自己人。何基灃以為自己潛伏時間就很長了,沒想到張克俠比他還長。郭汝瑰和劉斐兩人互相指認對方是共諜,問題是兩人都是共諜。
萊蕪戰役總結會,三個共諜韓練成、郭汝瑰和劉斐互相推卸責任,最後是聯合白崇禧把黑鍋盡量往別人頭上推,最後這黑鍋落到陳誠那裡了。李玉堂1950年被蔣介石槍決,60年代蔣介石要給他平反,80年代大陸給他定為烈士,2004年陳水扁在台北給他的共諜身份平反。這叫什麼事兒啊!南京軍話總站,十幾個人,除了泡病號的一把手,剩下的基本都是共諜。來了兩個新人,半年不到就宣誓入黨去了。因為老是沒有一把手,從外面調來兩個領導:一個是從大革命時期就開始潛入地下的老資格地下黨,另一個覺得這地方不太對勁,呆了一段時間也去泡病號去了。
傅作義偷襲西柏坡
1、傅作義的女兒傅冬菊系統,得到傅作義已經下達了這個命令。傅冬菊系統在35軍被殲滅後不久就成功策反傅作義的近身衛隊。那時的傅作義,連手槍都是沒子彈的。
2、北平鐵路局系統,執行此次任務的國民黨軍部隊和所需補給大部分是通過鐵路集結運輸的,而北平鐵路局調度室的十幾個人中只有一個不是中共系統的,再加上另外一些鐵路員工的協助,國民黨軍集結部隊的大致番號、人數裝備和到達日期就搞清楚了。
3、北平聯勤總部的一個早已是中共黨員的少校參謀,由於聯勤總部負責對參與此次任務的部隊的補給,此公為了工作不辭辛勞,在不到一個星期的時間裡跑遍了預定參戰部隊團一級以上的單位,掌握了所有部隊的人數裝備和補給情況,詳細上報。鑒於他的出色工作,此公在國共雙方的上級都加以表揚。
4、傅作義司令部裡面有個刻蠟板的人叫甘霖,凡是不發電報的文件都由他刻印下發。他刻完偷襲石家莊的命令後,就搭車到徐水縣政府,直接打電話到華北軍區,接電話的是作戰部長唐永健。然後他改名換姓去了天津。解放後,甘霖曾任國際關係學院院長。
5、北平《益世報》(註:《益世報》是天津與《大公報》比肩齊名的報紙)採訪部主任劉時平從鄂友三那裡聽說到這個消息,然後和《平明日報》(註:《平明日報》是傅作義的喉舌)采編部主任李炳泉共同向崔月犁(註:他是北平地下黨學工委秘書長,他也是經常見得到傅冬菊的)報告。崔月犁冒險通過地下電台向華北局敵工部部長劉仁報告。保密局北平站學運組組長是中共,華北督察組保定潛伏組組長是中共,傅作義的秘書還是中共,他還偷什麼襲啊?
某特務向他的上級坦白,曰自己是共黨卧底,當天就被鋤奸,因為他的上司也是共黨卧底。可以寫個小片段。
A:老大,我是共黨卧底,我坦白。這是我的槍。
B:你有人知道此事嗎?
A:沒了。
B:你先回去,和誰也別說。(A轉身,槍響,B走了過來)
B:其實我也是共黨卧底。在那邊我還是你的上司。
台灣那邊,有金門被俘的共軍團政委陳利華,也有游泳去香港投奔國軍的,另外澳門站站長叫程一鳴。這三位都是深海,只有程一鳴安全歸隊,另兩位都是烈士。國軍起義飛行員打算炸蔣介石以為投名狀,不料轟炸裝置卻被另一夥地下黨給破壞了。(共諜冗員太多,嚴重影響工作進度)蔣介石的侍從室里都是精挑細選的親信,裡面卻有段家兄弟卧底。老大是侍從室少將,在蔣介石身邊;老二在上海管港口,蔣介石的撤退台灣他有份布置。哥哥段伯宇是周恩來線上的人,弟弟段仲宇是上海局張執一線上的人,段仲宇的入黨介紹人就是段伯宇。傅作義的秘書閻又文,要不是知情人遇到他兒子,他的共諜身份就永遠隱蔽下去了。他寫的罵共產黨的文章是延安仔細審閱過的,毛主席指示:要罵得狠一點。白崇禧的秘書,衛立煌的秘書,李宗仁的參議,都是共產黨。宋美齡的親信閻寶航,是共產黨的戰略情報員。
侍從室還有一個共諜,蔣介石寵兒中的寵兒,張默堅,協助程潛、陳明仁起義。他是宋美齡的舞伴,現在還是舞蹈裁判。以他在蔣介石身邊的位置,一根筷子就能滅了蔣介石。宋美齡的親信閻寶航同時還是共產國際的情報員。中國的共產國際情報員最牛的是張文秋了,不是說她的情報能力最牛,而是她和前後兩任丈夫生了三個女兒,前兩個嫁給了毛主席的長子和次子,還好毛主席只有兩個兒子。
張文秋的上級是佐爾格。佐爾格在中國最得力的助手是方文,方文是史沫特萊推薦給佐爾格的。佐爾格在日本最牛的情報員尾崎秀實也是史沫特萊推薦的,麥克阿瑟一佔領東京就滿世界抓史沫特萊,結果把佐爾格的情婦石井花子給抓了,因為佐爾格給她取了個英文名字艾格尼絲。佐爾格的另一個日本情報員是畫家宮城與德。宮城是美籍日本人。日本特高非常恨他,他是日本人,很多日本的東西他都熟悉;他是美國人,沒和美國人撕破臉還不好動他。佐爾格在中國最優秀的助手方文曾經干過情報翻譯工作,把中文翻譯成英文。可憐堂堂燕京大學的畢業生,被人批評英文太差。燕京是美國教會學校,那兒的學生畢業後英語剛剛的。沒辦法,給他審稿的是史沫特萊,一個懂中文、德文、俄文的美國作家;和他一塊翻譯的是中國著名翻譯家董秋斯,他後來翻譯了《大衛科波菲爾》和《戰爭與和平》。
幸虧他沒有把英文情報翻譯成中文的任務,否則審稿的將是魯迅和茅盾,像什麼潘漢年、馮雪峰、袁殊、關露(這四位匪特)之類的文學小青年只能打下手。就算他過了這些人的關,還可能有個寫過什麼《再別康橋》的風流浪子認為他的文字不優美。是徐志摩把魯迅和茅盾介紹給了史沫特萊的。沒有痕迹表明魯迅曾經入黨,只是魯迅曾經為了毛主席等人長徵到了陝北激動不已,給中共中央發了封賀電。這封賀電花了兩個多月的時間,從上海到巴黎再到莫斯科,再到���北,轉了半個地球而已。而且魯迅去世前就已經知道這封電報延安收到了。茅盾是老資格黨員,最後結論是黨齡從1921年算起,算當年共產主義小組成員之一。他弟弟更厲害,紅四領導人之一,要是活下來而且不犯錯誤,大將保底。沒法比茅盾黨齡的黨齡更長了。到了這裡就多加幾句,作家夏衍解放後的級別是兵團級,要是參加55年授銜的話,中將打底。上將也就一個搞情報的李克農。另外一個大學者陳翰笙,佐爾格小組外圍成員。陳翰笙在三十年代初就得出結論:中國農民不僅受地主的盤剝,還受外國資本的壓榨,也受本地官僚買辦的壓榨。
除了造反,沒有出路。佐爾格在上海暴露,陳翰笙都還能繼續干他的工作不受影響。1944年蔣介石根據日本情報在昆明抓他,他卻施施然上了一架神秘的飛機去了印度,英國人在那裡請他做情報分析。抗戰勝利去美國當教授,解放後回國。總理擬請出任外交部副部長,被婉拒,願意繼續做研究,在北大也帶學生。看到這裡的,說不定就有他的徒子徒孫,當然是搞經濟的。1945年春,國民黨在滿洲地區(東北)的地下工作最高負責人羅大愚在工作上強調要實行正規化。統一印製了《黨員登記表》,要求每個黨員都要詳細填寫個人、家庭及社會關係等情況,什麼職業,姓名,住址清清楚楚,然後將登記表交羅大愚保存。結果在1945年5月23日日寇逮捕了羅大愚,從羅大愚處搜出了由他保管的《黨員登記表》,按照登記表抓人,被捕者約有200多人,國民黨在東北的地下抗日組織幾乎被一網打盡。
無能的羅大愚,策劃個通化暴亂都辦不成,讓別的國民黨給擠到一邊涼快去了。其實沒有悲劇到徹底,國軍在那裡有兩條線,另一條隱蔽的線羅大愚自己也不清楚。悲劇到徹底的是,那條線上的頭解放戰爭時候帶著徒子徒孫起義投共了;共軍兵臨瀋陽城下,羅大愚自己也投共了。許錫纘的爸爸是黨國元老,叔叔曾經是老蔣上司。抗戰期間被黨國送到美國學航空,然後回來卧底國防部第二廳,其實他1936年上海交大畢業後就入黨了,算起來是錢學森的學弟。送去美國學習的共黨可不是這麼幾個,錢學森身邊就有,還有人參與了曼哈頓工程,這都是回來了的。鄭連魁,國民黨中統淮陰地區調查統計室主任。
就是那個下屬向他坦白然後被幹掉的那個,負責給地下黨傳信的是他女兒。鄭連魁是被俘後逆用,其實他早就心在中共這邊了,1932年中共在他家鄉那裡起義,一天時間就失敗了,失敗後把槍藏在了他家裡。顧伯衡,國民黨“徐州剿總”警衛二團副團長。他想殺劉若英的爺爺(劉峙)為投名狀,但是被制止了,共匪說這麼豬頭的一把手可不好找。秦漢的老爸孫元良沒聽說通共,沒辦法,此人腳力可比戴宗,無論是日寇還是共匪都追之不及。這人還有一個本事,就是活得長。等別人都死光光了,他就開始說了,反正死人不會出來罵他胡說。
軍統南京站長周鎬,因為共諜嫌疑幾次被毛人鳳抓取審訊,每次都能過關,第二次還設計把告密的給殺了。到底是站長,比余則成主任對付李涯處長手段強多了。惜乎栽在孫良誠這個老賊手裡。徐州剿總下屬的一個汽車隊,被中共地下黨暗中控制,長年有三分之二的汽車為中共跑運輸,三分之一為國民黨跑,就這樣,還經常受嘉獎,無他,中共沒有控制的車隊連跑都沒法跑,好的汽車全在走私,而汽車零件全被盜賣了。曾昭科,明面上的身份是前皇家香港警務處助理警司,實際上1961年暴露前長期在香港擔任英對華間諜和反間諜工作,從他的履歷上你看不到那一點上他和中共有交集,幼年來香港,在日本讀書,回香港工作。
據傳港人眼中的四大探長中藍剛是他的線,另外幾位是國民黨的線。還有個人也被認為是他線上的,叫曾雲,曾雲有個兒子是現任特首曾蔭權。現在這四位腐敗分子都快死完了,曾昭科還在廣東頤養天年。別以為廉政公署多牛,廉政公署開門的代價是1977年1月1日之前的罪過既往不咎。香港如此悲劇,澳門呢?軍統澳門站站長是中共卧底,據說因為當年工作權衡不好,被總理批評了。
1949年,解放軍打回江西的某根據地,可能是井岡山。有個小戰士被群眾拉回家去吃飯,小戰士不去,還說“我們不拿群眾一針一線”。老鄉說“到我這兒不算,我跟著毛委員鬧革命的時候……”一算下來,他掂著梭鏢打土豪的時候小戰士還沒出生。人家多年來就這麼自發的乾地下黨組織領導老鄉們,干這個隨時可能掉腦袋,沒有前途,沒有上級的活。接受大家指點,加兩位藝術家。(現在叫娛樂圈,他們那些人也就配這個詞)話劇皇帝金山,李克農單線聯繫的秘密黨員,他的真實身份只有周恩來、李克農和潘漢年知道。他還是杜月笙的關門弟子,黨國接收大員,接受了滿映,後來的長春電影製片廠。
上海和平代表團南京代表團在北平參加最後一次和談,他是團員,負責向中共回報參會人員思想動態等材料。金山的缺點之一,是此人太帥了,生性也頗風流。電影皇帝金焰也是中共。金焰是中國國籍的韓國人。不是有韓國血統,他就是韓國人,出生在漢城。(給PLA寫軍歌的鄭律成出生的地方比他還靠南)。
金焰長得帥,但不是那種奶油小生。金焰的身體條件非常好,演電影里苦力工人力道十足。很適合現在這些韓粉小姑娘的口味。再加幾位宗教界人士:紅色牧師董先生就不說了,資格太老;李儲文,耶魯大學神學博士,曾負責龍雲和飛虎隊的情報工作。身份暴露是因為被紅衛兵打急了。趙朴初也是大家都知道的;張永興是從基督徒直接轉成的,大連放火燒鬼子的也有基督徒。結論:蔣介石確實雄奇。上一個這麼像篩子的是小馬哥,他掛了;雄奇公不僅沒掛,還成功轉進台灣,圍困大陸長達六十年,這還是在每日筆耕不輟,連寫帶改日記的情況下完成的。
悲喜人生
1.韓練成向董必武彙報工作,地點選在了白崇禧的家裡。因為談秘密事情,白夫人在樓下給他們望風。
2.宋時輪劉培善開著吉普車誤入國軍陣地,被一個營的國軍圍觀,心想媽媽不得了,這次要光榮鳥,就見國軍營長闊步上前,一個軍禮“同志……!”宋時輪大手一揮,你們起義吧。
3.這是個杯具。桂系四十六軍,也就是韓練成當軍長那個軍在萊蕪,搜索營副營長跑到了共軍這邊,韓練成以為黨國在試探他就找山東這邊要回去斃了,山東這邊以為是國軍來試探的就給送回去了。槍斃完了才知道這個的確是自己人。(韓練成郭汝瑰那個寫不下去也是這個原因,挺不舒服的)
4.王天眷,1932、1936年兩次入黨。中國激光元老,因學生運動多次被捕,又多次被陳立夫保釋。
5.武漢解放前夕,武漢保險公司同業公會剛剛繪製出一份《武漢最新街道詳圖》,還未公開使用,就被城工部人員拿去複製了一份。他娘的這地圖畫出來之後有乒乓球檯子這麼大,就這都能送出來。
6.錢樹岩,國民黨徐州綏靖公署軍務處少尉司書,一個少尉搞定了國民黨西至潼關,南到長江的軍事部署。
7.何基灃的交通員叛變,落到了李宗仁手裡。蔣介石派人潛入何基灃家裡,搜出《總裁訓示》一本,上面標出重點,寫下心得。蔣介石龍顏大悅,授中正劍一柄,並認為李宗仁小肚雞腸挑撥離間。
8.舒自清,蔣介石的奉化老鄉,曾經是上海灘最年輕的審計師,廣大華行高層領導、華潤總經理。廣大華行是周恩來手下的第三條秘密戰線,比國統區和敵占區的地下黨還要保密。
後來他把這條戰線延長到了美國,介紹他去美國的是蔣介石的小舅子。施貴寶、杜邦、摩根都是他的客戶,辦公室設在華爾街120號。舒自清文革中被作為美國特務關了6年監獄,學馬列的筆記寫了一麻袋。80年代力主中國加入WTO,用大量數據說明這麼做對中國和世界都有利。
9.司徒慧敏,著名導演、攝影,1927年入黨。解放前中共美國支部人員。在美期間曾經向國內彙報舒自清是四大家族走狗。後來二人在國內相見大笑。舒自清比司徒慧敏危險,第三條秘密戰線有人叛變,舒自清是獨自跑回來的,老婆孩子都沒能一起帶回來。
10.抗戰期間黨國在美國建了一個中國發動機廠,專門生產飛機發動機,錢永健的爸爸就在那裡工作。那個地方中共都有地下黨。
11.老牌地下黨王崑崙重慶談判期間作為知名民主人士被毛主席接見,席間隱隱告訴毛主席,重慶不安全,最好早些離開。和他一塊被接見的是柳亞子。王崑崙後來是83版《紅樓夢》的顧問。
12.《重慶號》一條船上共軍就安插了兩條獨立的線。
13.熊健,他老爸曾經是黨國的參謀次長,重慶大本營的辦公室主任。他自己是紅岩周公館的交通員。
14.何康,熊健的入黨介紹人。他老爸是辛亥元老何遂,李宗仁那邊面子很大。
15.馬亮,已知滿洲共產黨和日共有聯繫的不多幾人之一。劉少奇被關奉天監獄,就是他保出來的。
16.野坂參三,日共創始人之一,同時也是英國共產黨創始人之一。1940年扮成華僑從莫斯科潛回延安,同行的是一位印度尼西亞共產黨領導人。野坂參三本來想回日本,結果發現到了延安更回不去了。在延安他找了老婆,回日本又他找回了糟糠之妻,這個老婆成了黃興的兒媳婦,後來是一位日本問題專家。野坂參三100歲那年被日共開除,原因是里通蘇共,那是1992年。
17.王亞文。黃埔四期的老黨員,秋收起義的老資格,策反戰線上的老同志。死後蔣特地囑咐秘書打電話慰問其家屬。
18.馬壁。台灣《治安與富強之連鎖政策》、《人生指南》、《真人生論》、《作文講話》、《三民主義政治學》、《三民主義政治淺說》、《孫總理思想研究》、《人本論》、《孔子的思想研究》的作者,《政治評論》周刊和《革命思想》的主編,政戰幹部學校的教官,1981年11月回到大陸,1985年去世。
19.鄭州解放前,鄭州的炮兵有個大力士,地下黨就借著參觀大力士表演把鄭州的炮兵陣地看了個遍。
20.還是在鄭州解放前夕,黨國印發戒嚴期間的各種通行口令,地下黨就順手就拿一份,在鄭州城裡戒嚴期間地下黨比特務們還暢通無阻。黨國印發的地下黨的嫌疑犯名單,地下黨也順手拿一份。就這還能抓著人?
21.前面提到的舒自清和司徒慧敏見面大笑的地點是劉少文中將的家裡。劉中將在香港期間多次夥同潘漢年、廖承志造假情報和日本人換真情報,這三個人整出來的假情報天衣無縫。55年授銜的時候他是總參二部部長。有意思的是他的八一勳章是一級,獨立自由勳章是二級。
22.1949年初,蔣介石派了5架飛機到北平來接清華的教授,結果連蹭飛機的北大教授的老媽子都上飛機了,還是沒坐滿人。
23.解放前上海保險業的地下黨很是猖獗,有個領導人被中統抓了之後因為把柄不多,花錢保釋出來了。保釋金額:金圓券20萬。
24.重慶解放的時候被破壞的是比較厲害的,但是兵工廠卻是基本給保全了下來,這個廠的廠長是地下黨。共軍進駐之後,他們在廠區里排除了600多箱炸藥。
25.1937年,白崇禧的機要秘書共諜謝和賡給白崇禧寫了一份長達一萬多字的《全民軍事總動員綱領與展開全國游擊戰爭之方案》,白崇禧嫌太長,讓另一個共諜劉斐幫著看看,劉斐說太長,總裁看不下去,讓他總結一下。此文稿蔣介石閱後大喜,暗示白崇禧給謝和賡升軍銜;周公閱後亦大喜,給他一個擁抱。1938年白崇禧演講,謝和賡寫完演講稿心裡沒底,於是請周公給他修改,周公定稿後,白崇禧全文採用。有周公當秘書,白崇禧不知是該哭還是該笑。
二
一、王一飛。王一飛這個名字很少有人知道,他的起點並不低,和他共過患難的有朱德、羅亦農、趙世炎、博古、任弼時、李富春、蕭三等人,陳賡、左權、徐象謙、李之龍等人是他在黃埔軍校的同窗好友,陳毅、李大釗等是他短暫去北京時期的老友。
30年代所擔任的職務就相當於紅色國際特工的東北區總代理了。可是從30年代之後,在蘇聯被當成日本特務,回來之後被當成蘇聯特務,後半生過的很不如意。(黨史上有兩個王一飛)
其實抗聯和滿洲省委這一系的人心理上有些地方並不好受。王明貴是抗聯後期最能打的一個將軍,也是為數不多能在四野帶兵的抗聯的人,但一直是二線部隊。這給了他一個好處,他帶的部隊成分很純,於是被挑選為開國大典做警衛。但是,部隊確定下來之後,他就被調出了。周保中隨四野南下途中,曾經請求晉見毛主席,不準。
三一八慘案的時候王一飛是旗手,打著大旗走最前面,陳毅在他身邊。走到現在的北師大段祺瑞的兵開槍的時候,王一飛是最大的目標。但是他畢竟是軍人出身,而且打過仗。一看情況不妙立刻卧倒,但是後面的劉和珍等人沒有��種軍事素養,犧牲在這次慘案中。
三一八之後,王一飛去了馮玉祥那裡,和劉伯堅共事,他是特別黨部執行委員,劉伯堅是宣傳委員。八一起義之前被周恩來安排去拉部隊,但是情報有誤,部隊已經不在他要去的地方。中旬就和肖勁光等人被派去蘇聯學習。
到蘇聯後和楊尚昆、陳伯達等人同窗。1930年冬天被派往東北負責蘇聯的軍事情報工作,自此他的一生變突然出現了轉折。他做情報工作的時候,考霸張甲洲是他的下線。但是918之後張甲洲要真刀真槍的干,很快就離開了他。1935年他被調回蘇聯,肅反期間被開除,1938年得以平反(很幸運了),1947年回國,1957年妻子被打成右派,1968年含冤去世。
二、老是拿錯皮包的參謀張治中得算是中共的老朋友了,1924年就找周公申請入黨,但是周公說不適合在國民黨內部高層發展黨組織,然後就沒下文了。張治中當年和周恩來、馬歇爾一起調停。馬歇爾給了張、周二人配了兩個一摸一樣的提包,這兩個人的隨身參謀也太馬虎了,多次拿錯,總是打開才發現搞錯了。
三、田漢秘密進京。田漢在1949年元旦之前秘密進入北平,任務是勸說一些人留下來。徐悲鴻是他的生死之交,沒問題;齊白石是徐悲鴻去勸的。國慶閱兵的裝甲車隊指揮是他的長子。
四、倒在黎明前夜。據國民黨駐上海353師警備連戰俘交代,他們的連長是地下黨。上海解放前在被調去看押被逮捕的學生,儘力維護了學生的安全,後來這個連被調去防守浦東,連長在勝利前夜陣亡。當時三代核心東躲西藏沒給抓住。
五、打入美國人的情報機構。二戰勝利後,美國把駐紮在世界各地的“戰時情報局”改了個名字,叫“美國新聞處”。在北平的新聞分處裡面共產黨一共安插了若干個內線,有九個是後來留在大陸國內公開身份了的。
這些人,有的還在抗戰期間就已經打入這個情報機構了。有什麼詞來形容這個美國駐北平的特務機構呢?漏勺?笊籬?美國人讓他們為美國搞宣傳。他們把宣傳資料慎重篩選,覺得不合適的就拿去當草稿紙用了。美國紙張質量好,給他們留下的印象很深。解放後,其中一些人進了中國的新聞機構新華社。吳大琨和陳翰笙的性質也差不多。說起來當年有共諜對美國的滲透,至於你信不信,反正我信了。
六、毛主席親自派遣的特務。話說毛主席膽大包天,非我等人所能體會。轉戰陝北期間,兩個緊挨著加起來才80多戶人的兩個小村子,毛主席等人住一個,國軍駐另外一個。他不當回事,汪東興不敢不當回事,三下五除二抓了十幾個特務,正要料理被毛主席看見了。毛主席說,這些人你殺了他們也沒什麼作用,不如教育之後反向安插回去。可惜不知道這些特務給安排回去有沒有起什麼作用。這批特務註定是歷史上的無名人物,不過倒是創了一個歷史,毛主席親自安排的最低層次特務。
七、特務學生。余老師一次提到1952年還有國民黨中將被拉出去槍斃。大概有兩個半地方是高壓線,沾了這些東西,如果不是對中共還有作用,就有可能保不住腦袋。兩個是匪、特,半個是會道門。北平的多所大學裡的特務學生,在中共進北平之後都落得很慘,判了無期或者十幾二十年的頗有一些。這些特務學生好在沒動手殺過人,也就是搞搞宣傳、說說風涼話,攪攪局之類的,最多掄棍子打人或者扔塊磚頭啥的,否則很可能刑罰上會進一步。
八、毛澤民戲弄特務。毛主席被民團抓住以後,以銀元行賄換得逃命。無獨有偶,他弟弟毛澤民也一樣。
毛澤民當時在天津做地下工作,搞印刷廠。被特務給扣了,先把自己身上所有的錢拿出來賄賂特務,然後麻痹特務說把廠子賣了湊了錢就多送點。然後用拍賣工廠設備的借口把印刷廠的設備運出,負責監視他的小特務還以為他真的在賣廠籌錢。然後是人財兩空
經濟大師毛澤民可惜了,如果不是被自己的大哥給拉上中共這條船,他將是一個成功的民族資本家,毫無疑問。別忘了人家是蘇維埃中央銀行行長的時候,陳雲還混不到他的下手。毛家另一個可惜的是毛澤覃。毛澤覃比毛主席小12歲,從長相到性格都像大哥,連賀子珍都能蒙一下。毛澤覃長於軍事,一路政委幹上來的,那年頭中共的政委有哪個不是軍政雙全的。如果不是犧牲過早,55年應該是上將保底,大將有戲。1976年71歲,正是政治家的黃金年齡。“共產黨不是毛家祠堂”這句話出自毛澤覃,是反抗毛主席體罰的情況下說的。諸位想培養自己兒子成天才的,不妨仔細研究下毛太公順生怎麼教育兒子的,然後去湘潭看看毛主席家的祖墳怎麼修的。
九、說到難逃一死的兩個半蘿蔔酒那篇《大槍》俺也是看得很上癮,看第二遍注意到了武林高手49年之後被中共所害詞句。大概葉問和薛顛配得上。薛顛是因為一貫道的問題被拉出去斃了的。一貫道現在在台灣很興隆,在大陸剛解放的時候可沒少忽悠不明真相群眾跟共產黨作對。中華5000年,中共是第一個牢牢把握基層政權的中央政府。
摻和會道門,就是和中共的政權根基過不去。看不清形勢,也就別怪自己命苦了。沒那麼玄乎架起機槍掃。就是中共去了幾個公安,帶出來送進局子拉倒。另外一個的說說現在火的不能再火的一代宗師葉問了。葉問是上過軍統的特訓班的,他的工作也一直有軍統背景。1946年起在廣東佛山的警察部門工作,負責偵緝地下黨,中共打過來之前最後的軍銜是上校,職務好像是廣州市衛戌司令部南區巡邏隊隊長(待查資料確認)。
手下中共地下黨人命恐怕不少於兩位數。運氣不好,這種直接和地下黨對抗還是個沒什麼價值的中級軍官斃了也就斃了;運氣好跑掉了,然後收了個好徒弟。
十、間諜被抓了怎麼辦。如果你是一個落入別的國家情報機構手裡的間諜,而且不想叛變,或者確信自己一旦叛變可能會死的更慘,那麼你應該怎麼辦?
1.竭盡全力把自己還沒有叛變的消息傳出去,以便自己的上級覺得你還有營救的價值。
2.祈求什麼神靈都行,希望自己上級手裡有值得交換自己的籌碼。
3.繼續祈求,希望自己的上級覺得這麼交換還比較合算並樂意這麼做。
用兩位諜王做個解釋:阿貝爾被抓後利用美國傳回了自己沒有叛變的消息,因為他使用了一個已經去世的同事的名字,美國人的大肆報道正好告訴蘇聯人,這廝沒有叛變;蘇聯人手裡有第一個被打下來的U2飛行員;美國人急於交換,蘇聯人也認為一個飛行員換一個間諜網核心人物的交易值得做。然後阿貝爾就被換回來了。
佐爾格就不行了。首先他招供了,雖然他的招供為中西功等人贏得了時間,但是也使上級無法營救他的,因為不能確定他是否已經叛變;其次蘇聯人手裡可沒有這麼強大的一個間諜,要是有的話貝利亞和亞戈達就去找對咪咪撞死算了;第三條就更談不上了。
十一、周公的語言能力。周公懂英文。西安事變可以與宋美齡用英文流利交流毫無障礙,張學良宋子文也用英文討論。可憐土包子楊虎城,啥也聽不懂。四十年代口語就不太會說了,當然到老了聽還是能聽一些。周公懂法文。
周公畢竟在法國生活了那麼久,而且法文可能是他掌握的最好的外語,多年不說不聽之後依然可以和西哈努克講法語。當年在法國勤工儉學的時候,法文的資本論和共產黨宣言他都翻爛了。
周公當時其實沒怎麼勤工,他倒是想去打工來著,但是大家一致認為他集中精力領導大家更合適。周公懂俄文。莫洛托夫曾經在一次酒會上向周公抱怨,說你明明會說俄語,為什麼要用英語敬酒。周公懂日語,雖然入學考試日語沒過,但對於日常生活並無大礙。其實大家現在去考高考語文估計是考不好,但是並不妨礙咱們過日子。周公熟稔外語有個好處,對方國家領導人講完話,他就知道大體什麼意思了,但是他還可以等著翻譯講完再出招。和對方國家領導人相比,多出一倍的思考時間。同樣的時間,他出兩招,對方只能出一招,佔了這個便宜。
十二、張友漁的地下工作。張友漁是大律師,也是北京特科重要成員之一。北京特科和北京的黨組織以及順直省委沒任何關係,直屬上海特科。和張友漁一塊工作的一個北京特科成員,解放後是山東省委領導,當年在天津公安局管預審。地下黨被抓進來表現如何他清清楚楚,表現好的掩飾馬虎一下,表現不好的痛揍一頓。
這就不錯了,落在西安共諜李茂堂手裡的叛徒,有在招供到要害之前被直接刑斃的,叛徒死都不知道為什麼死的。薄一波、李運昌等人被關在天津反省院的時候,張友漁是反省院的副院長,薄一波是反省院裡面地下黨的黨支部書記,當然薄一波不知道。
十三、張作霖大帥府里的黨支部。黨支部書記是董季皋。董季皋在1925年之前就已經入黨,1925年因寫得一手好毛筆字被張作霖重用做秘書。張作霖在北京時期,張在裡間辦公,董季皋在外間辦公,負責抄寫書簡,中間只隔一層鏤花板壁。董季皋的家是中共順直省委機關所在地,他自己的工作是負責軍運,他夫人以基督徒的身份為掩護做交通員。
南京曾經給張作霖發來密電要逮捕董季皋。張作霖故意在董季皋在隔壁辦公的時候大叫“這個人也要抓,往後我的書札誰來寫”。當天董季皋回家後第一件事是告警讓別的同志撤離,第二天和他的女婿等18位烈士被捕隨後遇害。
十四、國民黨的海軍。當年軍統頭子戴笠曾經醉心於國民黨的海軍司令,但是國民黨的海軍卻是中共活動的最為得手的地方之一。中共地下黨號稱對國民黨70%��艦艇有把握,不知道戴笠在天上知道到這句話的時候會怎麼想。策反國民黨海軍的關鍵人物是張權和吳石兩個人。
一個在解放前犧牲於上海,一個不久犧牲於台灣,但是從國民黨海軍的情況來看,兩個人犧牲時都帶著這方面的秘密一起走了。
十五、侮辱軍統智商的何基灃。何基灃有個副官是中共,抗戰期間被軍統察覺了,何基灃設法把他送去了中共那邊。然後到了淮海戰役之前,中共又把這個人給派回來了,何基灃還讓他當自己的副官,還把軍銜和職務給升了。這純屬侮辱軍統的智商。
十六、還是特務學生。沈崇那個學校,1947年5月18日那天,嚴陣以待的青年軍撤走了,剩下的學生三三兩兩圍著維持秩序的憲兵申訴青年軍打人。一個特務學生湊過去之後打了某憲兵一個耳光,然後憲兵們就開始打別的學生了,這一次中共的地下黨吃了特務學生的大虧。北醫的特務學生曾經偷偷的問一個地下黨學生是不是中共。這個學生反問他:你要不是特務,問這個幹什麼;你要是特務的話,哼哼……其實特務學生並不是都很笨。三青團北平的頭還曾經是個高考狀元呢。
十七、北大里的收音機。北大地下黨有台收音機,專門負責收聽新華社的消息。這台收音機居然是葉劍英留下來的。然後學生里的地下黨把這台收音機當儀器設備藏在了物理實驗室。
十八、外籍人士們。燕京大學外籍教授們有的把地下黨藏在自己家裡,然後當人梯送地下黨跳牆逃跑;有的負責把守大門。
十九、還是燕京大學。燕京大學的地下黨很是猖狂,軍統就慘了,只得一二十名骨幹和幾十名追隨者。燕京大學選學生會立委,中共大獲全勝,特務學生便要搗亂。特務學生搶佔了前面幾排大吵大鬧擾亂秩序,占學生大部分的醬油眾們不堪吵鬧打算退場。
眼看特務們攪局就要成功,地下黨們抬出一塊大黑板上寫“凡擁護本次選舉者請起立”。這下好了,醬油眾們本來對特務學生們無可奈何正要退場,可不就是站起來要走嗎?這已經站起來了,沒人帶頭再坐下也不合適啊,乾脆就集體表態擁護算了。
三
中共不光過五關斬六將,也有走麥城的時候。
1.黃鎮中,寧都人。1930年假扮奪槍造反,投奔了董振堂、趙博生的隊伍,被任命為指導員,同年冬帶35人槍叛逃。自1931年到1949年,死於他手下和他部下的黨員、紅軍家屬、紅區人民、群眾數萬人,民房被燒毀數萬間。淮海戰役後宣布協助歡迎共軍者殺、一人投降共軍殺全家等“十殺”,並在寧都山上築壘企圖和共軍論持久戰打游擊,他堅持了26天,夠持久了。共軍很人道的判了他槍斃。
2.沙文漢一家個個出人頭地。老大是大書法家、朱家驊的親信,但是不問政事;老二犧牲於廣州起義,老三沙文漢老四沙文威都是諜報高手、老五沙季同是徐悲鴻的學生。
不過最彪悍的是老三的老婆。老四沙文威1937年在大哥介紹下進入朱家驊手下工作,負責保管機要文件,從此大批文件變成了國共雙方共享;1941年入中統;1942年被中統派往上海負責汪偽情報,從此這部分汪偽情報繼續與共軍分享;1945年之後更上一層樓,黨國華北東北大批軍事情報可以做到國共分享。
老四手下的汪維恆是陳誠的軍需署長,遼瀋戰役的殲敵人數幾乎和汪維恆提供給共軍的情報相當;前面提到策反黨國海軍大業未成身先去的張權將軍也是老四線上的。
老三沙文漢,長期乾地下工作,堪堪躲過刀鋒的次數兩隻手數不過來,也曾經多次與上級失去聯繫,但是矢志不渝。沙文漢既是紅色國際特工高手,也是國內情報大師。文能提筆安天下,寫文章、出圖書、做雜誌、辦學校個個風生水起;武能上馬定江山,曾接替張愛萍任江蘇省軍委書記,浦東遊擊隊、浙東遊擊隊都是他的手下;統戰方面,曾任上海局��反委員會副書記,書記是老太爺張執一。
沙文漢對黨極為忠誠,多次失掉關係,仍然努力尋找上級。一生中最後兩個字是“謝謝”,不是對自己妻子說的,而是對上級來電話傳達摘掉他“右派”帽子的人說的。
3.沙家在諜報界雖然功勛卓著,但是最卓著這人卻不姓沙,乃是老三沙文漢的老婆陳修良。
想當年軍統上千人在南京城裡抓共諜,然後被她搞了個海陸空三軍大起義,而且開著小火輪接共軍渡江。(再次重申,別TMD光念叨拿下總統的部隊番號是三十五軍,軍長是吳化文。裡面三分之二的人是共軍,包括俺們的鐵道游擊隊,說話算數的也不是他吳化文,是政委何克希。老吳能在亂世活下來,關鍵就是知道啥時候放手、啥時候出來裝門面。)
陳修良是向警予的秘書,並由向警予介紹入黨。1927年,陳修良在母親陳馥主持下,陳修良與沙文漢結婚。她最精彩的是1945年秘密進入南京領導地下工作,此前南京的地下黨曾經被嚴重破壞8次,但是她這一把就全部翻盤。參與南京解放的一位將領說“南京實際上是和平解放的”僅舉一例,陳修良在翻閱黨國幹部名冊的時候,突然發現一個高官人名和30年代某地下黨名字相同,打探之下發現原來果然是同一人。
考察之後才發現,原來這人當年失掉關係之後就深度潛伏了下來。再舉一例,南京軍話總站,這個地方除了那個掛名的站長,剩下的全是中共的人。不客氣的說,宋美齡電話里管蔣介石叫了幾聲“達令”,或者蔣介石電話里罵了手下多少次豬頭,共諜都知道。
4.陳修良夫妻都是忠貞不渝的中共諜報大師,但是陳修良前夫卻是一個叛徒。陳修良的前夫是余平,在莫斯科期間隱瞞自己已經有妻子的情況和陳修良結婚。1927年被捕後叛變,成為中統特務。1949年讓黨國給扔在了大陸,被抓半年後病死獄中。余平曾經去勸降夏明翰,但是未果,反被夏明翰連嘲諷帶痛罵給趕了出去。
5.錢壯飛是徐恩曾的機要秘書,錢壯飛救了共產黨的同時還把徐恩曾給玩得溜溜轉。但是錢壯飛自己都不知道,周公和顧順章在徐恩曾這裡至少安插了兩條線。不僅徐恩曾的機要秘書是共諜,他的機要員也是。這個人是費俠。費俠是個大美女,留蘇學生,有文化、有氣質、有長相、有口才。顧順章叛變後費俠被指認,徐恩曾這個花花大少居然一見這個共諜就魂不守舍,變成了一個好男人。在顧順章的說服下,費俠叛變。叛變後費俠雖未加入中統,卻專職負責對留蘇學生的策反,成果斐然。
1949年上海解放前夕,還曾經叫囂毀了上海。費俠和徐恩曾共生育三子二女,夫妻感情不錯。
6.另一個被顧順章說服的女叛徒是秦曼雲。“白區黨”近乎100%被破壞,其根子就可以追朔到秦曼雲這裡。秦曼雲的前夫是關嚮應,離開關嚮應之後的丈夫是當時的曾任中組部部長的盛忠亮。盛被捕之初還是寧死不招,顧順章指點中統從秦曼雲下手,首先策反秦曼雲,然後由秦曼雲說服盛忠亮,盛忠亮遂叛變,大招特招。盛忠亮叛變後,地下黨損失到了什麼程度?潛伏很深的特科還有一點人,文化圈夏衍那裡有一點人,作用不大的江蘇團委有一點人,工會方面還有一點人。剩下的全被連根拔起。盛忠亮叛變後在中統任職,後進入外交系統,任黨國駐烏拉圭、伊拉克大使。
1964年去美國經商,1981年低調回國,在秦曼雲的堅持下,她自己一人去見了當年的同學王鶴壽。王鶴壽時任中紀委副書記,也算一方王侯,但卻是白髮駝背,布衣舊鞋。秦曼雲時乃美籍華人富婆,濃妝艷抹,衣服華美。王鶴壽不願意單獨面對這個用靠戰友鮮血換來榮華富貴的叛徒,於是拉了乾女兒陶斯亮同去,於是才能留下當時的細節。
秦曼雲問及當年莫斯科東方大學同學,王鶴壽回答短而有力,“離開人世的,個個是鬼雄;尚存人間的,亦皆為人傑。”交談一段後漸漸無言,秦曼雲用同情的口吻問:“這幾年來,你受苦了吧?”秦曼雲除短暫被捕外一生生活奢華富足;王鶴壽一生蹲了六次監獄,最長的一次是共產黨自己的十年牛棚,共被批判573場。
然而神態自若的王鶴壽坦然一笑“這是我們黨內自己的事情”。遂再無言。盛忠亮的兒子曾經在他的老家建立盛氏女兒基金會,每年資助十名女生從小學三年級讀到高三。這件事曾經被當地地方政府大書特書,作為政績之一。不客氣的說,這要是呆鵝和胖卡,估計做得能比這廝好十倍,但是也成不了地方政府的政績。
四
1.天津的城防圖。天津的城防圖當時中共有好幾條路線。其中一條是公路局的某人從負責這項目的人那裡偷的。這不算什麼過分。過分的是他頭天下午偷出來,晚上抄了一晚上,時間不夠,他居然第二天又抄了一天,才還回去,眼看著找不著城防圖那位如熱鍋上的螞蟻一般在他的面前東翻西找。
2.還是天津。天津解放前電信局長已被中共策反(那人本來是個脫黨的早期人物),電信局裡也已經安插了中共的人,陳長捷的無線電通信頻率共軍早已掌握在手裡。劉亞樓的參謀可以和陳長捷共享他對部隊的指揮,城內的地下黨乾脆是在收音機里聽著陳長捷對傅作義的無線電通話迎接解放的。
3.又是天津。天津鹼廠的總經理那時候是李燭塵,侯德榜當時在國外。陳長捷最後一個祈求歸順的電話就是通過他轉給地下黨的。地下黨的回應是“太晚了”。
4.軍統天津站在解放戰爭期間表現很不錯,在大連、漢城、仁川都有潛伏機構,主要任務是對中共的策反,兼職收集情報,成果斐然。共軍在大連的海關副關長(相當於此職務),即被策反帶領幾十條船投靠軍統天津站。當時大連港的檢查某所長、大連市政府某科長都是軍統潛伏人員。被策反的這位後來擔任天津特別站中校副站長。(專管海上)
5.軍統天津站確實有個叫吳景中的站長,不過其實他是天津站倒數第二任站長,只有幾個月任期,倒數第一任是個留下來的替死鬼。
6.張夢實是偽滿總理張景惠的兒子,他有一次送情報就是把情報放在他父親的標準照後面。他的身份加上照片確保了這情報沒人敢檢查。張夢實的老媽是七姨太,但是張夢實一想結婚就張羅著給他納妾,女人當老婆和當老媽時候心態就是不一樣。
7.獲取錦州城防圖的第一個突破點,共軍是花錢買來的,這錢花的值。
8.錦州連以上兵力配置圖,是國軍派人監督一個共諜畫的。共諜說他幹活國軍監督這人干坐著太無聊,要不您先找地方玩會?
9.錦州外圍義縣的城防圖是一個從國軍過來剛一年的小共諜搞到的。國軍一上校團長被俘後看到了共軍手裡的城防圖,到排這個級別都和他自己的絲毫不差,於是說早知道你們拿到這個,他就不打了。
10.錦州大街上的碉堡分布,除了前面的來源,還有幾個對軍事一竅不通的地下黨每天散步統計碉堡情況,然後把信息匯總給一個會畫圖的情報人員,送到城外。
11.八路軍西安辦事處和紅岩村周公館,長期處於國民黨的全天候監視之下,問題是人家好像也沒耽誤什麼事。
12.還是潘漢年吧。投機商們打算整上海的銀元、棉花、煤炭。一方面是陳雲出手,一方面潘漢年負責經濟情報(周佛海的兒子就干過這方面的事),一方面陳毅元帥維穩,汝等安得不敗……
13.潘漢年長期混跡於花花世界,實際上不會交際那些東西,能跳舞,但不喜歡。無獨有偶,那個和他不太過得去的饒漱石雖然多年混跡於腐朽的資本主義社會,實際上卻是個苦行僧類的人物。
14.潘漢年在上海解放後的一件大功是帶領部下完整接收並整理歸類了舊上海的幾乎所有檔案,有多少呢?一百三十多萬卷。
15.潘漢年有一次被跟蹤後的脫險如同電影般驚險。發覺被跟蹤後從一個關係人的家裡前門進去,直接穿過客廳到了後陽台,脫下外衣、拿了帽子,從陽台上拿了一把大傘跳下二樓,安然脫險。(這房子在坡上,前面是一樓,後面是二樓)。特務們死活沒想清楚他怎麼從這麼多人的圍堵中消失的。
16.湘江特委,白區鬥爭最危險的機關之一。主要領導人沒一個干過地下工作的,從頭自學起。成果相當不錯,領導人是第一任駐印度大使袁仲賢。袁仲賢是黃埔軍校畢業的,抗戰之後才幹了本行。
17.說起宗教界人士,其實閻寶航也是從東北的基督教會起家的。馮玉祥這個基督將軍身邊一樣有佘滌清。但是現在看看基督教會的棒子的滲透,那些宗教局的混蛋都是幹什麼吃的呢?宗教口,本來就不僅僅是民政的問題,還是國安的勢力範圍。
18.想到了七七事變,老是有那麼一些真相黨說是中共乾的,也難怪。您看看,盧溝橋的何基灃、過家芳都是地下黨,何基灃派過去給監督營長金振中的王世江也是地下黨,就一個吉星文是鐵杆國軍,他叔叔還是吉鴻昌。
何基灃1939,過家芳1927(介紹人彭雪楓),王世江1938。後來留下來的張自忠倒不是,可是他的兒子女兒都是。至於他們的老上司馮玉祥,馮玉祥的老婆和閨女都是,都是後來才入的。
五
1.資格最老的共諜。為人極為低調的張雲逸大將,是共諜中資格最老的。1936年曾往返香港、華南做李濟深等人的統戰工作,時間約幾個月。資格老到了什麼程度?1911年他參加了黃花崗起義。
2.最為長壽的共諜。黃慕蘭今年106歲,現在看來這個數字還可以繼續延長。
3.最會打仗的共諜。這個得是葉帥吧。十大元帥里只有葉帥長期浸淫於情報界,雖然被稱葉參座;大將裡面陳賡當無疑問;上將裡面李克農情報方面沒啥意見,不過沒有打過仗;選一個有上將資格但是沒有授銜的滕代遠吧,他是主管,並沒有親臨第一線過。
4.最悲慘的共諜關露。她失去了幾乎所有的東西:名譽、愛情、自由、文學,卻幾乎什麼也沒有得到過。“春天裡來個百花香……”很多人都會唱,卻不知道是她寫的。終於患絕症後在去世前被告知平反並洗去不白之冤,支開保姆之後,服下安眠藥安靜的離去。
5.最被以訛傳訛的共諜袁殊。他並非是網上傳得神乎其神的五重間諜。實際上它是先叛變了中共和共產國際,然後又叛變了汪精衛和日本人,後來投靠潘漢年是不得已而為之。當然,這一次他沒有再叛變,再叛變去哪兒呢?袁殊自己很清楚,按照他第一次叛變的情況,被鋤奸是正常的。也就是他和胡均鶴解放後在共產黨的監獄裡關著的時候沒那麼多的不平。
6.最讓人難以置信的共諜。中西功和西里龍夫,當然還有在北平等其他地方的另外幾個日籍小組成員如白井行幸、尾崎庄太郎,100%的日本人。尤其是西里龍夫,幾乎不會說中國話,卻是三十年代早期中共最危險的時候入黨的老資格。
7.最可惜的共諜。個人認為張露萍案中的馮傳慶是最可惜的共諜,雖然很多人都未必記得這個名字。為什麼這麼說呢?馮傳慶的職務是軍統總台的報務主任。雖然軍銜不高,但是位於中樞責任重,而且他年齡不大。打個比方,今年台灣羅賢哲的情況和他有些類似,但不如他作用大。羅賢哲案也有意思,實際上早半年多羅賢哲就已經暴露,WW有關部門得到了這方面的情報。但是負責人認為這份情報太重要了,必須歸檔保密,然後羅賢哲又活動了大半年。
8.最漂亮的共諜這個沒法選。上海灘的女演員們有一撥是地下黨,每個人都有自己的標準,只能自己找照片百度之了。比如張瑞芳、陳波兒……
9.最帥的一點疑問都沒有,周公。
來源:國民大參考
原文鏈接:漫談中共地下黨情報史:特務頭子周公操縱全局 - 情系中華
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新聞・雑誌掲載情報(2017年)
2016年は(→*)
<1月> ・ 本の雑誌(2月号) 評者=江南亜美子さん 『東京まで、セルビア』
「視点の自在さは、安定的な語りを求める読者をおそらくは不安に陥れる。固定的でない語りのゆらめき。しかしなんとも言えず魅力的でもある」
・ 図書新聞(1月21日号) 評者=伊藤章さん 『満ちみてる生』
「斬新な比喩表現によって鮮烈なイメージを喚起することがあり、読者を飽きさせない。さらにファンテならではのユーモアも相まって、読後いい作品だったなあと感慨にふけること間違いのない作品が生まれた」
・ 日刊ゲンダイ(1月24日号) 『上海物語』
「自らの上海体験をもとに、史実と虚構が入り交じりながら描かれるハイパースパイ小説」
・週刊新潮(1月26日号) 『上海物語』
「 著者が幼年期を過ごした戦時中の上海を舞台に、ゾルゲのいた時代を描いた最新長編だ。主人公の須磨雄が著者自身の投影であるだけでなく、『太陽の帝国』のJ・G・バラードから四方田犬彦までが実名で登場。情報戦をめぐる、虚実皮膜の自伝的実録小説でもある」
<2月>
・みすず(1・2月合併号)読書アンケート特集 選者=岡田温司さん 『偉大なる時のモザイク』
「南イタリアに住み着いたアルバニア系住人の優しくも悲しい物語。この本が出るまで恥ずかしながらわたしは、こうした移民がイタリア史上に存在することを知らなかった。加えて、新進気鋭の訳者の最近の発掘的な翻訳の数々には目を見張るものがある」
・みすず(1・2月合併号)読書アンケート特集 選者=細川周平さん 『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』 『ブランコ・ヴケリッチ 日本からの手紙』
「ゾルゲ事件に連座したうえ、網走刑務所にて獄死したユーゴスラヴィア人ジャーナリストの記事と手紙。昭和十年代の軍事化する日本を冷静に捉えた自身の記事と、留置場から新妻に宛てた愛情深い手紙。特派員として報じる大日本帝国をめぐる政治情勢が、今日の軍国化に重なる暗さに不快を覚える一方、来日数年にして倉田百三や仏教典を読み、漢字混じりの文章を書くたぐいまれな知性に驚く」
・出版ニュース(2月上旬号) 評者=中川隆介さん 『上海物語』
「社会情勢や登場人物は事実を骨格とし、人物たちの言動やディティールには創作を加えるスタイルである。(……) よく情報を集め、かつ自分の生きた軌跡を強く意識して、大胆に虚実取り混ぜて書いた読み物である。著者の情報力と人脈の強さ、広さには感嘆する」
・岩手日報(2月5日) 『増補新版 海の蠍』
「明石海人と島比呂志��2人の作家の共通点はハンセン病。2人が全身全霊で伝えた言葉と壮絶な人生を紹介している。明石の時代、ハンセン病は「不治の病」であった。失明と気管切開を経た明石は「空中に腕を回して文字を書き、あるいは呼吸管の穴をすりこぎのような手でふさぎ、その息を声帯に回して、辛うじて声を発し」、言葉を紡いだ。一方、島の時代、ハンセン病は治療薬で治癒する病気となった。それにもかかわらず療養所で囚人のような生活を強いられた島の作品を「囚われの文学」と捉え、読み解いている」
・ 新潟日報(2月12日) 評者=平山征夫さん 『夢と戦争』
「 「大変な詩評論が詩壇に投げ込まれたな!」と言うのが正直な本書の読後感である。(……) 伊藤比呂美以降、別れてしまったと言われる「詩と評論」を詩人側に取り戻したい、戦後詩人の様に批判精神を持っていたいという著者の思いがあるようだ。(……) 「ゼロ年代詩」への批判的評論が主題ながら、著者自身それに続く10年代詩人として「詩とは何か? 詩的主体とは誰なのか? それはいずこに、どう存在するのか?」という自らへの問いへの答えでもあるようだが、私にはそれは時代への普遍的問いのように思えた」
・ 週刊読書人(2月17日) 評者=沼野充義さん 『チェーホフさん、ごめんなさい!』
「著者の特別な資質が生かされた特別な本になっていて、数多あるチェーホフ本からはっきり一線を画している。(……) 一貫しているのは、チェーホフを生きている人間のように、まるで師か、友人か、それとも恋人のように扱って、つねに彼に話しかけるように書いているのだ。 (……) ここには、著者が「チェーホフさん」と知り合い、その作品を読んだり訳したりしながら考えたことが、いかにも著者らしく素直に書き留められている (……) 児島さんにしか書けない、ユニークな本です」
・ しんぶん赤旗(2月26日号) 評者=麻生直子さん 『増補新版 海の蠍』
「熾烈な運命と対峙し、歌集『白猫』を残した歌人・明石海人と、小説『海の沙』『奇妙な国』など人間の極限の実存を刻んだ作家・島比呂志の生涯を通して文学を論じた得難い書である」
<3月>
・ レコード・コレクターズ(4月号) 評者=ヒロ宗和さん 『愛歌 ロックの半世紀』
「愛したロックの名曲がどういう状況で生まれ何を歌ってきたのかを音羽自身が問い直し丹念に読み解いていった記録だ。ロックがそれまでのポピュラー音楽と決定的に異なるのは、自分たちで演奏し歌うことを当たり前にしたこと。自分の言葉で歌う以上は社会や時代を含めた自分が生きる場所や自分自身と正面から向かいあわざるを得なくなる。音羽が選んだ69曲は、歌詞とともに歌が生まれた背景も語られ、まさに時代に立ち向かったアーティストの姿勢や意識のあり方が伝わってくる。単なる名曲紹介ではない。あらかじめ評価の定まった曲を享受する、そんなロックの聴き方に警鐘を鳴らす一冊だ 」
・ 週刊読書人(3月17日号) 評者=奥彩子さん 『東京まで、セルビア』
「ユーゴスラヴィアをめぐる思索のほぼすべてが戦争へと収斂していた90年代、それに意義を唱えたのは文学だった。(……) 豊かな発想、繊細な抒情、あるいは激しい自己批判をもって、歴史、宗教、政治に翻弄される人間の生のあり方を探求した作品たちである。軽やかなユーモアと温かな人間観察によって織りなされる本作は、その流れに連なるといえるだろう。(……) 世界文学という言葉が頭をよぎるところだが、そこにあるのは不定形であいまいな「世界」ではない。著者のなかに広がる、セルビアから東京までの確かな空間によって育まれた、彼女だけの文学である」
<4月>
・新潟日報(4月9日) 評者=吉田和比古さん 『増補新版 海の蠍』
「かつて不治の病とも称されたらい病(現在はハンセン病と呼称している)の宣告を受けた二人の生命の燃焼の軌跡ともいえる作品群を手がかりとしながら、内面世界に強い共感をもって立ち入り、丹念にふ分けした成果を味わい深い筆致で読者に分かりやすく開示してみせる。(……) 言葉の軽さ、そして生命の軽さが目につく今の時代だからこそ手にしたい一書である」
・ 読売新聞(4月30日号) 評者=土方正志さん 『処女たち』
「これがいずれもハズレなしのおもしろさなのである。スリルありサスペンスあり、家族の物語あり熱烈にして悲劇的な恋愛あり、戦争に革命、犯罪に暗殺に民族問題もありながら、アイロニカルなユーモアもほの見える、なんとも豊かな物語ばかり。 (……) 苛烈な日々に彼女は何を思ってこの物語を綴ったのか。物語とはなにか、「物語る」とはいかなる行為なのかを思わせられる一冊である」
<5月>
・しんぶん赤旗(5月14日号) 評者=横溝幸子さん 『歌舞伎勝手三昧』
「歌舞伎ファンのミーハー本とは異なり『名作歌舞伎全集』を引用、筋立てや役柄を紹介し、芝居の全体像を見通した上で多くの参考文献を駆使しながら倫理学者の立場から時代背景を考証し、歌舞伎を論理的にとらえている。 (……) 『源平布引滝』『六歌仙』など全体を通して着眼点や発想が面白い」
・岩手日報(5月14日号) 『朝の随想 あふれる』
「宮澤賢治、森鴎外、太宰治ら文学者を巡るエピソードも。多彩な話題から、筆者のしなやかな感性と温かな人柄が感じられる 」
・日伊文化研究(第55号) 評者=堤康徳さん 『偉大なる時のモザイク』『帰郷の祭り』
「移民の流入によってマルチエスニック化の進むイタリア社会全体が、まさにホラのように、多文化・他言語の日常を生きつつあることに、私たちはアバーテの作品を読み終えてあらためて気づかされる (……) 栗原俊秀氏は、アルジェリア出身ながらイタリア語で執筆活動をするアマーラ・ラクースや、イタリア系アメリカ人の作家ジョン・ファンテの翻訳者としても知られる。イタリア語を母語としないイタリア語表現作家 (……) の存在によって、イタリア文学の境界線が揺らぎ、新たな地図が生まれつつある」
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地獄系24 平岡正明評論集 装幀:横田登美子 http://anamon.net/?pid=73917426
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