#初孫を大事に思う椿さんの図。
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anoneanosa · 8 months ago
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「tumblr作ったら、小説書いて」
無理難題を押し付けられたa.m.4:44。時間が不吉だとかはさておき、あれこれ思い悩みながらつらつらと文字を綴ってみてます。本当、この人は一体いつ寝ているのか、ご飯食べてるのか、何時間寝てるのか、色々気にはなるところだけど、俺はマネージャーではないので管理まではできないのが悔しい。今日は早く寝てください。今日はそんなこうへいさんの誕生日(らしい)。個人的にフォロワー多い人を得意としないけど、何となく惹かれて、本当に初孫のように可愛がられて(たまに弄り込み)、椿さんと紅葉みたいな関係だなあと。割と長文なのにぽんぽんってリズム良くするこうへいさんとの会話が楽しくて、ついつい夜中から1人くすくす笑ってたり笑っていなかったり。返しが逸材過ぎる、リアル天然はミッキー程の人気を誇るんだろうなあって気持ち。弄り合いもいいけど、いつか誰かの耳を貸してほしい時はいつでも駆けつけるよ。改めて誕生日おめでとうございます、これからは初孫じゃなくて友達枠になれますように。
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kachoushi · 3 years ago
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坊城中子追悼特集
花鳥誌2022年3月号より転載
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主宰からの御礼
皆様からのお言葉
……………………………………………………………… 御礼の言葉 主宰 坊城 俊樹
 この度の名誉主宰坊城中子の逝去にともなう様々な事に、俳壇における著名なる皆様から、あるいは花鳥会員の皆様から多大なるお心を賜りましたこと、花鳥主宰としてまた息子としても厚く御礼を申し上げます。  お陰様で中子は安心をして彼の世へ旅立てたことと思います。そして、俳人としてはもちろん、看護の道においても何一つ思い残すことは無かったものと思います。これもひとえに関係者の皆様のおかげ、そして天に居られる柏翠先生やその他俳句関係者の皆様のお陰であるかと、ここに来て本当にその思いが募ってくるばかりであります。  本号にも俳壇重鎮の方々のお言葉を賜り、もったいない気持でいっぱいでございます。本当にありがとうございました。本人も同じ気持であろうかと推量いたします。  また特集号である本号に関わった全ての関係者に御礼を申し上げます。  花鳥誌はこの四月号から装丁など内容を一新して新たなスタートとなる予定でございます。これからもまた皆様のお力をお貸し頂ければ幸甚でございます。ともに花鳥をますます発展させてまいりましょう。  ここに今までご支援賜りました事に対する御礼の言葉とさせて頂きます。本当にありがとうございました。
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平成10年島根県津和野興海寺にて 柏翠と中子
……………………………………………………………… 魔法の言葉 副主宰 岡田 順子
 明るく冬日の当たる机に向かい、その温もりのような坊城中子先生との想い出に耽っています。  何年か前、俊樹主宰の「空飛ぶ俳句教室」上梓祝賀会を広く俳句関係者へも御来席頂き開きました。  その折、何か面白い出し物をやろうと誌友有志で寸劇を思いつき、著書名「空飛ぶ」から連想する筋書を考えたのです。奇想天外ながら俊樹主宰を主役の「アラジン」に仕立て、台本もあって無い様なものでしたが我々も共にアラビア風貸衣装を纏い、花鳥の親睦さを披露する意気込みのものでした。  当日、俊樹主宰を初め役を割当てられた面々が演出通り台詞をこなし劇も進んだ中頃、にこやかに突如登場されたのが白衣にナース帽姿で聴診器を胸に下げた中子先生。場面のちぐはぐや我々の当惑に臆するご様子もなく劇に溶けこんで、周りの方々へ聴診器をあてる仕草をなさりながら「まあ、どうされました? 診せてごらんなさい」と仰るのです。  その瞬間、虚を衝かれ圧倒された会場は笑い転げてしまい、元々荒唐無稽な話は宙に舞って劇は追々終幕へ。正に「アダブラカダブラ」を超越した、常人の及ばぬ方の魔法の言葉に周囲は拍手喝采で、祝賀会の意義を大いに深めて納めとなりました。  中子先生は高虚子直系を継がれる俳人としても、弘毅な博愛の医療���事者としても、新しい人へ弱る人へ奢るなく隔てるなく多くの思い出の華を御残し下さいました。そして何より、俊樹主宰の一番の理解者であり良きお母上様でおいででした。  きっと天上でも「まあ、どうされました?」と、あの天性の笑顔で辺りの御霊へ聴診器をあてる仕草をなさりながら、「俳句をやりましょう」と声を掛けていらっしゃる気が致します。  それは本当に深遠で信実で、愛に満ち溢れた魔法の言葉でした。永遠に御恩を忘れることはありません。
……………………………………………………………… 坊城中子先生に教わったこと 同人会長 栗林 圭魚
 花鳥名誉主宰坊城中子先生が亡くなられた。寂しい。とても寂しい。どんなに言葉を探しても寂しいとしかいいようがない。  中子先生に初めてお会いしたのは、昭和六十一年十一月二十六日。東京・丸の内の中通りに面したあるビルの私の勤め先の会議室。午後六時頃であったか。初心者の俳句会を始めるので希望者を募っていると誘われて出席した第一回の会合の時であった。その席でご指導下さる中子先生にお会いしたのであった。上品でやさしい笑顔が第一印象であった。参加者は十名程で全て初心者。発起人はこの会社の川崎にある病院の看護婦長さん。中子先生がトルコへ旅行された時ご一緒したいくつかの病院の婦長さん達の一人で、旅行中に句会を体験し、それが楽しかったので会社に中子先生にご指導いただく句会をつくったのだという。私はこの時、中子先生が高浜虚子のお孫さんに当るとも知り、俳句を続ける気持ち��高まり、虚子を知りたいと思うようになった。以来三十五年、中子先生が最初の句会で強調された、季題を大切に、十七文字のリズムを大切に写生するという教えを守り句作することを常に心掛け、今は俊樹主宰のご指導をいただいている。  中子先生の『俳句の家』を読み返してみれば「山荘十二月」には、私が中子先生にお会いした富士通のなかみち句会に触れておられるが、この句会は夜の句会なのでとしあつ先生がお留守番となるのが申し訳ないとのお気持ちから後に圭魚がお預りすることになった。「稲田登戸病院」の項にあるますかた句会も中子先生のご事情から辞退され、私の自宅が近くそれまでも参加していた経緯から私が代りを勤めさせていただいている。ますかた句会にはとしあつ先生もご一緒で夏行など楽しく心に残る思い出は尽きない。  私の机の上に中子先生から戴いたトルコ旅行のお土産がある。金属製で映画「ベン・ハー」を思い起させる馬が引く二輪の台に槍を持って立つ勇士の像である。この勇士の如く常に確かな視点を持って俳句を続け���行きたい。
……………………………………………………………… 追悼文 稲畑 汀子
 とうとうお別れの時��来てしまいました。悲しいと言えばそれまでですが、生前大変お世話になり、いろいろな面で助けて下さった思い出は、私の生涯の宝物です。  小さい頃、丘の上の聖心に阪急電車に乗って通う時は、「おいこら待て」と言いながらピグとお姉さんの後を追いかけてふーふー言っていたのもつい昨日のことのようです。「汀ちゃんが恥ずかしいのよ」って帰ってから両親に言いつけるお姉さんのことを告げるのも、当り前になってしまって一つも後悔していませんでした。懐しい思い出です。今でも「コラ!バカ!待て!」と声に出さないで言っているのよ。それも懐しいピグと中子お姉さんとの大切な思い出です。  皆歳を取りました。私だって九十歳を過ぎたのよ。いやと言うほどの思い出は語り尽せません。私はその懐しい思い出を持って天国に行きます。又天国でお会いしましょう。人間の人生は、あっという間に終ります。天国に行ってその思い出話をお互におしゃべりしましょう。いつのことか解らないけど。一応これで筆を置きます。
   貴女の可愛いい妹 汀子より  中子様
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……………………………………………………………… 大好きな大好きな中子ちゃんへ 星野 椿
 俊厚さんと中子ちゃんの結婚式は宮内庁の一室で行はれた。大勢の雅楽の人がピーヒョロ〳〵と奏で、終戦後であったのだが流石お公家さんの披露とあって重厚なものであった。文金高島田の中子ちゃんは美しく手の届かない存在となった。俊厚さんもモーニングを着てお似合の夫婦であった。何年か前私は図々しくも俊厚さんの役所へづか〳〵と訪ねたりしたものであった。中子ちゃんを誘って役所へ行ったのもその頃で、彼は秘かに中子ちゃんに一目惚れをしていたのであった。私が冗談を云って会話が成立し賑やかな時間を過ごしたのを今思い出している。静かな中子ちゃんは決して出しゃばることもなく生涯良い伴侶であったに違いない。その雅楽であるが、私は生れて始めて聞くもので何ともそのピーヒョロ〳〵が可笑しくて堪らなかったのを今又思い出した。  都子ちゃんが生れ、俊樹ちゃんが生まれた。都子ちゃんは坊城家らしく美人であり、俊樹ちゃんは品の良い赤ちゃんで口元は凜々しく美男子であった事も昨日の様に思い出す。  さて、中子ちゃんと私は子供の頃からいつも一緒に居て垣根なんか無いような庭続きの由比ヶ浜の家の隣同士に住んでいた。私は目が覚めれば中子ちゃんの家へ行って当然のように夕方まで一緒に遊んで居た。何しろ私が成人したのは年尾伯父喜美子伯母のおかげと思っている。当時はいつも御馳走になっていたに違いない。我が家は母親が何時も留守であったから私は髙濱の娘同然の様な生活をしていた。大人になってからも私のボーイフレンドから来たラブレター等を真っ先に中子ちゃんに見せて二人で品評会をしたのであった。  八月十六日朝七時半私はゴミを捨てに行った。玄関先でどうした訳かつるりと滑ったのであろうか転んで左膝を骨折した。ギプスをつけて帰ってくると中子ちゃんが亡くなったと云ふ。二人の運命はこうして仲良しであった。訃報を聞き、私が怪我をするのは当り前だと思った。中子ちゃんがそっと迎へに見えたのかもしれない。それで私はこの災難を嬉しく思うのである。中子ちゃんと同じ日の怪我、何か暗示がある様な会話があるような気がする。やさしい中子ちゃんが助けてくれた、そんな事を考へると涙が出てくる。その内会へると思ふ。迎へに来てね、きっとよ、中子ちゃん。
……………………………………………………………… 追悼 大輪 靖宏
 坊城中子先生は穏やかな温かい雰囲気を感じさせて頂ける人であった。私はお会いする度に母親のような温かみと優しさを先生から感じていた。しかし、中子先生はひとりの人間の生き方として看護の道を歩まれ、総婦長にまでなったお方である。当然、そこでは幾多の厳しい道を経てこられたはずで、そこで身についた厳しさは、俳句の指導の上でも発揮されたことと思うのだが、私は句会を共にさせて頂く機会を得ることが出来なかったので、温かみだけが先生の思い出として残ったのである。  中子先生の句は、素直な見たままの句のようでありながら、そこに厳しい自制心が働き、全てを言い尽くさずにいるために、強い余韻が残る。
   白衣とて胸に少しの香水を
 「香水を」で留めてあるために、香水を振り掛けたとか、香水を付けようかとか、香水を付けてもよいだろうかなどと意味が広がる。その結果、ここから生じるのは「白衣とて」という厳しい状況の中でのちょっとした女らしい気遣い、ためらい、自足の念などが輻輳した形で滲み出てくる。
   日本の短波聞えて風薫る
 この句も「風薫る」だけでありながら、日本に触れた嬉しさ、懐かしさが背後に広がってくる。  御著書の『俳句の家』によれば、中子先生は「十七文字の中に何もかも入れてしまわないこと、たとえば『控えめに咲く』と詠まずに『控えめにあり』でよい」というように指導しておられたようだ。これは芭蕉の「謂(い)ひ応(おほ)せて何かある」(去来抄)とか、和歌における正徹の「言ひ残したる体なるが歌は良きなり」(正徹物語)と一致する。日本の文芸の根本をなす考え方を、中子先生は実践して来られたのだ。
……………………………………………………………… 追悼 昭和の長姉 坊城中子さん 宇多喜代子
 現在の「全国俳句大会 in 北九州」が「女性俳句大会」であった頃、坊城中子さんとご一緒に応募句の選者を務めておりました。現地の寺井谷子さんのほか選者はみな関東、関西からの前泊組。そのせいかみないつになく開放的な気分で、夜は女選者たちだけでホテルのバーに出向いたり、ショッピングに歩いたり、お喋りをしたりして過ごしました。  或る年、中子さんとあのお��、このお店とウインドウショッピングをしていて、あるアクセサリー店に入りました。数ある中に二人でいいわねと見入った黒いブローチがありました。その時は何も買わずに店を出たのですが、ベッドに入ってからやっぱりアレだ、明日行こうと執着のまま休みました。  ところが翌朝、選者集合の部屋に入ると、なんと、中子さんの白っぽい洒落たジャケットの襟にかのブローチがまことにぴったりと収まっているのです。中子さんは首を竦めてエヘヘ買っちゃったという表情だったのですが、私のほうはやられた、でした。遠くへ行ってしまわれると、こんなことなどが懐かしく思い出されるのです。  中子さんは、この大会においでになる時には、毎回、選者一同にちょっとしたお土産をお持ちになっていました。楽しい色の鉛筆、可愛い小物、ソックスなど。それが幾人かの選者の長姉のようで、高濱家でのお姉様役もさぞやさぞかしと思ったことです。  中子さんは「俳句の家」に生まれ、医療の現場で活躍され、俳誌「花鳥」を主宰し、自らも俳人として立つという実の立場を全うされた方でした。お目にかかる機会はさほどありませんでしたが、お会いするとまさしく昭和人の先輩後輩としてのご縁を深く堪能させていただき ました。  〈石炭を積みロバが来る冬が来る〉は中子さんの代表句ですが、私の愛誦句でもあります。温和でありながら、その芯に強いものをお持ちであった中子さんのご不在は淋しいかぎりですが、どうぞあちらでもご息災にと祈りあげます。
……………………………………………………………… 中子先生に感謝‼ 黒田 杏子
 中子先生と親しくお話できたのは、「北九州女性俳句大会」の選者をご一緒させて頂いた数年間。何とあたたかく、後輩に接して下さるお方かとありがたく思っておりました。感謝です。  そして、忘れられないこと。私の師山口青邨先生が「中子さんは恩人です。ほんとうにありがたかった。あの方が婦長さんであったことで、私の『登戸病院』での入院生活がどんなに安心であったことか。入院生活というものをほとんど体験してこなかった私は、坊城中子婦長の存在に護られて、安んじて日々を送ることが出来たのです。虚子先生のお孫さんが医療従事者になっておられた。信じられない事でしたよ。しかし、ともかく中子さんの居られる病院に入院出来、日々安心して十全に闘病生活が送れた。中子さんの活動を毎日この眼で見て、本当に感動しましたよ。健康体であったので、八十歳を過ぎるまで、私は医療従事者の方々とご縁が無かった。しかし、入院という体験を遅まきながら得ました。健康であることはありがたい事でしたが、俳句は「生老病死」をテーマに出来る詩型です。頭でそのことを了解していましたが、はっきり言って、「病」というものに関心が薄かった。俳句選者として、これはやはり弱点でしたね。遅まきながら、入院生活を体験。坊城中子さんと��う女性が婦長さんとして百二十パーセントの人生をいきいきと日々過されていた。そのお姿をこの眼で体験。眼から鱗でしたね。」中子さんのお蔭で無事雑草園に戻られた青邨先生を囲む女性ばかりの小句会が開かれました。  「杏子さん、私の隣に坐って下さい。退院後はじめての句会。何か間違いを起したりしてはいけない。私は今回の入院で坊城中子という女性に護られました。女性の力を知ったのです。それでは、今日の句会をじっくり、しっかり愉しんで参りたいと考えます。  では始めましょう。」
……………………………………………………………… 空港の魔法 西村 和子
 お会いすることが無くなって久しいが、思い出すのはお元気な頃のお姿ばかり。訃報に接しても、又、春になったら北九州でご一緒できるような気がしている。  親しくさせていただくようになったのは、「全国女性俳句大会 in 北九州」の選者としてご一緒した時からだ。この大会も今は名称を変えたものの、今年で二十一回目を迎える。羽田からの飛行機も、吟行のバスも、いつもご一緒だった。小柄ながらもてきぱきとした行動、しゃきしゃきした語り口は、二十歳も年長の方であることを、しばしば忘れさせた。  ある年、いつものように羽田で待ち合わせたところ、事故か、システムの不調とかで、出発ロビーは長蛇の列。電光掲示板も遅延や欠航の赤い字ばかり。それを眺めて呆然とする私に、「ちょっとここでお待ちになって」と、言い残すや、航空会社のカウンターの端から、すすっと中へお入りになるではないか。  奥の事務所の様子は見えなかったが、数分後、制服の女性を引きつれて「和子さん、こっち、こっち」と手招きなさる。慌ててついてゆくと、いくつかのゲートを魔法のようにすり抜け、予約便には乗れなかったものの、吟行バスの出発時間までには小倉に着いた。  バスの中で、さっきはどんな手をお使いになったのですか、とお尋ねすると、「あら、国内は日本語が通じますもの。わたくしトルコに一人で行った時、航空トラブルに巻き込まれて、言葉はわからないし、それはそれは大変な思いをしたの。空港に迎えに来た夫の顔を見たとたん泣きましたわ」と、いとも懐かしそうに笑っていらしたのが忘れられない。  その日の判断力と行動力に、長年看護部長として活躍していらした一面を見た思いがした。バスの中では色々なことを語って下さった。虚子の最期のこと、ご親族の思い出から口内炎に効く薬のことまで。毎年その旅で私たちは春の訪れを実感したものだった。
……………………………………………………………… 中子先生を偲んで 札幌花鳥会 後藤田 晶子
 「患者さんに接するような気持ちで、一人一人の句と向き合いながら選んでいきます」そのお言葉通り、中子先生に見ていただいた俳句には、赤鉛筆���小さく「頑張って」とか「私もよ」などの一言が書き添えられていました。なんと励みになったことでしょう。  とにかく、みんな中子先生が大好きです。理知的で、気品があってお優しくて。Kさんは文字通り「追っかけ」でしたし。中子先生が札幌にいらっしゃると聞くと、全道から何十人もの人がすぐに集まります。そして、実際にそのお人柄に触れてますます大ファンになり、当日行けなかった人もその細やかなお心配りに、ますます大ファンになるのです。  〈安堵とはこんなにビール飲めるとき〉 中子先生を偲んで、ゆるりビールをいただきましょう。先生もきっととしあつ先生と……。  安らかならんことをお祈り申し上げます。
……………………………………………………………… 中子先生と私 福井花鳥句会 坂井 令子
 柏翠忌のファイルを繙いてみました。  中子先生の懐かしいお句〈右腕は小樽日焼けよ左三国焼〉をみつけました。福井の三国では柏翠忌のたびに中子先生、俊樹先生が来られたこと、福井で花鳥全国大会を行ない、中子先生の舞台でのご挨拶もきりりと和服姿でされたこと、初句会は毎年来られたこと、などついこの間にあった様な気がいたします。  お元気な柏翠先生が言われた「これからは花鳥は中子さんについでもらう。これで先生にご恩返しができる」ことなど思い出となっております。さくら花鳥句会もはじめ中子先生の後押しがあったからこそ、お陰様で二十年近くつづいております。  むかし中子先生のお宅にはさいかちの木があったそうです。〈皀角子の莢のなるころ柏翠忌〉の私の句で巻頭をいただき一生の宝ものです。  中子先生には感謝、感謝です。 合掌
……………………………………………………………… 中子先生と三日の月句会 うづら三日の月句会 吉田 都
 先生とはそんなにお目にかかっておりませんが特に記するとすれば、三日の月句会との御縁でしょうか。平成十一年の春初めて句会にこられ、次は平成十四年三月二十一日鶉公民館にて三日の月句座五十周年記念句会を開催致しました。東京より中子先生がお祝にかけつけて下さり総勢三十名の句会に花を添えていただきました。その後の御縁は、三日の月句集第八集発刊四百号の折に先生より序文と近詠句十句を寄せて下さいました。  序文では小さくとも熱意に満ちあふれた句座は「俳諧の座」と感じていますと述べられました。近詠の一句に〈寒明の新居への荷を開けるとき〉の一句で新居で春を迎える喜びを感じました。きっと充実した余生を送られた事でしょう。  御冥福をお祈り致します。
……………………………………………………………… 優しくてしっかり者 武生花鳥会 多田 みす枝
 中子先生は、笑顔の素敵なお方でした。何時も優しい微笑みで私達にご指導下さいました。  「俳句は、美しいものや心がはっと動かされたものを詠むといいですよ」と優しく分かり易く教えて下さいました。  初句会には、寒くて雪が降るので私達は、ズボン姿で出席しました。先生は、スカートを穿いて来られたので、私達は「風邪をひかなければよいが。滑って怪我をされなければよいが。」と心配していました。  すると、先生は、  「ほら長靴も持って来たんですよ。」と、にこにこ話されました。長旅で持ち物が多くてお疲れなのに本当に申し訳けなく思いました。先生は人に優しくいろいろ考えて行動されるしっかり者だなあとつくづく感心致しました。本当に有難うございました。
……………………………………………………………… 柏翠俳句記念館と中子師の句碑建立に寄せて 伊藤柏翠俳句記念館理事長館長 山岸 世詩明
 柏翠先生は御高齢の為三国から福井に移住。資料散逸を防ぐため記念館建設に同意され、福井医大入院の折、千鶴夫人の了解で建設した。その後福井病院療養中の八月二十日頃再入院。八月二十九日と三十日中子先生来院。病状安定で私に任せて帰京された。その後九月一日朝逝去。九月二日三日に伊藤家葬。その週末に花鳥葬。葬儀委員長に中子師、実行委員長に私が就いて福井西別院で挙行した。  次に柏翠記念館開館にも中子先生のもと、平成十二年三月十六日、関係者や黒川青逸先生ら百余名が参加。虚子先生と柏翠師の作品を陳列。現在も月二回月例句会が行われる。  その後二代目中子師の句碑建立は平成十三年三月十六日除幕式に東京より和服で往復された。尚当館は平成十三年十一月二十七日、文化庁と県の施設として登録された。
   越前に近づく空の小六月 中子
……………………………………………………………… 中子先生を偲んで さゞれ会 武田 天空
   老いとても尚燃ゆるもの凌霄花
 この句は平成十年七月九日に福井のさゞれ会にお見えになられた時の中子先生の句です。先生は柏翠先生の御身体が不自由になられ病院に入られてからは、年に一度私どもの句会にお越しいただきました。その時先生が柏翠先生をお見舞いに行かれた時の句であろうと思われます。  次の月〈夏服のま新しきを見ておりし〉柏翠先生からお返しのこの句が届きました。また今年の花鳥八月号の〈丸岡城ちらり卯の花日和かな〉の中子先生の句は、福井の句会にお越しいただいたときに、国の重要文化財の丸岡城を見に行かれ、そのことを思い出されて詠まれた句だと、感慨深く読ませていただきました。このたび、中子先生の訃報に接し句友が〈中子師の寒紅足さるを垣間見し〉また〈ずわい蟹恩師は足を吾は味噌を〉などと、私達にも非常に心やすくお付き合いいただきましたこと、会員一同心から感謝申し上げます。末尾になりましたが、先生の御霊のご平安を衷心よりお祈り申し上げます。
…………………………………………………………… 中子先生へ なかみち句会 藤野 和魚
 中子先生! お逢いしたいと思いつつ実現出来ずにおりました所へいきなり訃報が届きました。とても悲しく淋しいです。  思えば俳句というものに出合ったばかりの頃の私は何もかもが新しく魅力的で地方へいらっしゃる中子先生のあとを追って追って歩きました。  ある時「濃紅葉や云云」という句に出合い、私はこの季語が読めませんでしたが、すぐに中子先生に尋ねることが出来ました。この「濃紅葉」の件は折にふれて私をふんわり包んでくれる大切な思い出です。その時々の経験は何ものにも代え難くそれらに支えられて今日まで参りました。  又母が入院しました病院では中子先生のところの生徒さん方にあれやこれや大変やさしくしていただきました。全く思いがけないことで感謝に堪えません。  中子先生のこの道を及ばずながら私も真っ直ぐに歩きます。ありがとうございました。
…………………………………………………………… 中子先生を偲んで 枡形句会 武山 文英・松島 亜栄子
 中子先生は稲田登戸病院に看護部長として永く勤務されていらっしゃいましたが、常に白衣の胸ポケットに美しいハンカチーフを覗かせていたのがとても印象的でした。  後に〈白衣とて胸に少しの香水を〉と詠まれていたのも頷けました。  俳句と看護には相通じるものがあると説かれ看護指導の一環として俳句を取り入れられていました。中子先生の在職中にお父上である高浜年尾先生が入院されたのがご縁で、年尾先生のご指導の下、中子先生を主宰に、ますかた句会が発足しました。後、年尾先生の終焉の地となった登戸病院前に年尾先生の句碑が建立され、今も句碑の前にて先生を偲び句会が開かれております。ますかた句会は中子先生、としあつ先生を中心に、四十数年の長きに渡って句会を続けることができました。  中子先生がお亡くなりになった今も枡形城址、広福寺、多摩川などを吟行しておりますが、どこへ行っても、中子先生に見守って戴いているような気がします。句友一同、これからも、中子先生のご指導を受け継ぎ俳句を続けて行く所存です。
…………………………………………………………… 風月句会と中子先生 風月句会 飯川 三無
 三月に東日本大震災が発生した2011年4月に元編集長の栗林眞知子先生が幹事となり、風月句会が誕生した。そして、この年の五月に中子先生は名誉主宰となられた。まさに、社会も、我が「花鳥」も大変革の2011年であった。  そんな風月句会の主会場は多摩センターであった。ご自宅の初台から遠い事もあって、中子先生がご出席されたことは数回しかなかったと記憶している。吟行地である多摩センターは坂が多い。その坂をしっかりと杖をお使いになられて登り降りなされた後の弾けた笑顔が蘇ってくる。そして、「まだまだ大丈夫よ」と仰った声が耳に残っている。句会のあと、俊樹先生に抱えられてお帰りになったお姿が目に浮かぶ。  としあつ先生の元で仲睦まじい生活を取り戻しておられる中子先生のご冥福をお祈り申し上げます。
…………………………………………………………… 中子先生を悼んで 月例会 竹内 はるか
 十二月の零の会で青山墓地にある坊城家のお墓を訪れました。青空へ外苑の銀杏並木は黄落の色を鏤め、中子先生がご用意して下さったかの様な冬晴れでした。いつもより多くの方が集まり、それぞれが柏手���打ち中子先生へお別れをさせて頂きました。坊城家のお墓は吟行の度に訪れていて、生前は墓碑にある中子先生のお名前が朱で書かれ、そんな事を句にした思い出があります。八月に訃報の知らせを受け取っても信じられずに、何度もその文面を読み返してしまいました。墓碑の文字が黒になり、ようやく先生がお亡くなりになった事を実感しました。  中子先生はナイチンゲールと同じ日に誕生し、「看護婦が天職」と仰っていたそうです。
   春潮にたとひ櫓櫂は重くとも 虚子
 先生の優しいお人柄にどれだけの方が励まされた事と思います。芦田淳のお洋服をお召しになって、ベンツで颯爽ととしあつ先生のもとへ旅立たれたのでしょう。ご冥福をお祈り致します。
…………………………………………………………… 中子先生の思い出、燦燦と 零の会 渡辺 光子
 平成二十五年。入門したての私へ、優しく接してくださった中子先生の思い出。  その日の月例会、私は少し遅れて入室するとすでに満席状態。恐縮しながら選者席の横、即ち中子先生の横に着席した。俳句総合誌のグラビアなどで拝見していたあの中子先生がすぐ横にいらっしゃる。棒のように緊張する私へ、先生が声をかけてくださった。  「ほかにどちらの句会に参加されていますか?」溌剌とした山の手言葉がとても華やかだった。「零の会に参加させていただいております」と申し上げると、「まぁ、俊樹の句会ね」と両手を合わせ喜んで下さり、満面の笑みののち頭を下げられ「どうかあの子を宜しくお願いします」と仰せ。師と門弟の会話が、保護者と担任教師のような構図の会話となり、私はさらに恐縮してしまったが、傍で聞いていらした俊樹先生は微笑んでおられた。  夢のようなひとときだった。看護の道を極めた優しさを、俳句の世界へもきらきらと降り注いでくださった。
…………………………………………………………… 綿虫の飛ぶ日に 鳥取花鳥会 鍜治屋 都
   綿虫を払ひて鳥居くぐりけり 坊城 中子
 いつか詠んでみたいと思う季語を書き出していた頃に花鳥誌より書き写した句です。  中子先生の訃報に、今年は綿虫を見に行こうと思いました。歳時記に綿虫が飛ぶのは「風のない静かな日」あったので、小春日を選びました。果して、鳥取東照宮の杜の日を傾けてふわふわと湧くような影、綿虫です。  そして、先生と同じように綿虫を払って山門を潜りました。払わねば前に進めなかったからです。これは‥先生も同じだったのでしょう。時空を超えて一つ景を共にさせて戴いたように思いました。  あと暫く生きて俳句に精進します。やがてお目にかかれた日「ごきげんよう」と微笑んで下さることを夢見て。
…………………………………………………………… 坊城中子先生を偲んで 萩花鳥会 藤田 克弘
 先生と初めてお会いした時に、私が初台に住んでいたことをお話したことがありました。先生はそのことを憶えておられ、いろんな方に「この人、初台に住んでおられたことがあるのよ」と紹介して頂いたことを気恥ずかし��も嬉しかったことを今も覚えています。  また、萩花鳥会に指導にお見えになった折、萩城址での吟行で作った拙句〈葉桜の雨の城址となりにけり〉を、句集を作る時はこの句は是非入れなさいとありがたいお言葉を戴いたこともありました。よき思い出です。  中子先生が念頭に置かれていらっしゃった『俳句は大きくそして深くあれ、しみじみとした句を作れ。写生を通り抜けて心の問題に入れ。そして、飄々とした俗世界をも愛せよ』を、これからも一花鳥子として大切にし、日々研鑽を積んで参りたいと存じます。  中子先生のご交誼に深謝致しますとともに、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
_______________________
坊城中子(ぼうじょうなかこ)
昭和三年五月十二日、横浜市生まれ。髙濱年尾の長女。聖路加女子専門学校(現・聖路加看護大学)卒。聖路加国際病院公衆衛生看護部勤務、のち各種看護学校の設立に尽力。稲田登戸病院看護部長として父年尾の最後を看取った。昭和二十三年、「ホトトギス」に投句、虚子の指導を受ける。平成十一年より「花鳥」主宰を継承。平成二十三年より名誉主宰。句集に『艪櫂』がある。令和三年八月十六日九十三歳にて永眠。
年尾句碑にて夫坊城としあつと
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kiyohiko-kotake · 6 years ago
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既刊情報
紹介も兼ねまして、今までの作品をちょっと振り返ります。
【幻狼ファンタジアノベルス時代】
●2009:アップルジャック
→初の商業出版は、幻冬舎コミックス様のレーベル、幻狼ファンタジアノベルスから。
殺人鬼を狩る殺人鬼の紳士と、殺人鬼の少女を巡るお話で、香りで人を操る魔女や戦場帰りの殺し屋も絡む娯楽作品。
そして、人を結びつける場所としてバーでの場面を多用した作品でもありました。
一本の映画��イメージして組み立てた作品でもあり。因みに発刊当時からLEONに影響されたのかよく聞かれましたが、書いた当時はまだLEONは観てませんでした。後から観たけど、まあ全然違う内容で。大好きな映画になりましたけど。
挿絵はmebaeさん。登場人物の設定画が送られてきたとき、アップルジャックもシトロンもストレガも、最初からイメージぴったりで、今考えると流石だったなあと感じています。一方、スプリッツァーだけは、最初の設定画が物凄く厳つくて、圧倒的に顎が割れていて、この人だけ幾分スマートな姿に直していただきました。
表紙の絵は凄いインパクトがあって、上がってきた当時、僕も担当氏も凄いの来たと興奮したことを覚えています。一冊目の表紙がこれだったのは本当に恵まれていたなあと。
 ●2010:カルテット―それが彼らの音楽だった―
→ずっと同じメンバーで活動し続けていたジャズのカルテットがあって、みんないい歳になって、ギタリストが最初にこの世から去る。残された三人は彼の遺した楽譜を整理している最中に、奇妙な楽譜を見つける。楽譜から、何らかの『込められた意味』を感じ取った三人は、謎についてディスカッションする中で���ギタリストと共に歩んできたこれまでの時間を振り返っていく。
 と、いう、完全に人間ドラマ主体の作品。幻狼ファンタジアノベルス様は名前の通りファンタジーを中心に刊行していたレーベルで、よくこの作品出してくれたなあと今も思っています。
 実は、アマ時代に書いた『遺作』というタイトルの原型が存在していまして、色々経緯があって編集部内で遺作が読まれ、デビューの足がかりになったという裏話があったりします。
 挿絵は藤ちょこさん。光の表現が巧みな優しい絵柄で作品を彩って下さいました。
  ●2010:アップルジャック2 ―Pousse-café―
→アップルジャックの続編。殺人鬼を狩る殺人鬼のお話再び。殺人鬼の少女、シトロンが主導するチームに、新たな協力者としてハッカーの少女にしてヤクザ組長の孫娘、桐嶋桜と、桜の相棒で何でも屋の神無木が参戦。一方、シトロンたちの標的となったのは殺人鬼のチーム『プース・カフェ』。一人一人が特異な能力を持つプース・カフェは、シトロンたちの動きを逆に探り、カウンターを仕掛けてくる。
 という、娯楽作品二つ目。特異な能力を持つチーム同士の激突、という辺りが特に書きたかったところ。また、よく喋る新メンバーが二人も加わったことで、書いていて楽しかった作品。
 そういえば、当時、僕はB級アクション映画に少しハマっていて、タランティーノとかギターウルフが主演したゾンビ映画ワイルドゼロみたいなの���説でも出来ませんかねーと当時の担当氏に話したところ、もうちょっと知名度上げないとねーと言われたんですが。
 あとでこの作品を読み返したら、殺人鬼とヤクザが伊勢佐木町で銃撃戦したりしていて、あれ、もうやってるぞ。それもかなり思い切り、と感じてみたり。
 挿絵は前作から引き続きmebaeさん。ヤクザ描くのが凄く楽しかったらしく、桐島組組長の設定画だけ明らかに他の設定画と画風が変わっていて、永井豪先生が憑依したかのようで。僕が当初抱いていたイメージとは全く違ったんですが、mebaeさんの絵のパワーに引っ張られて、僕の中でも最終的に同じイメージへ落ち着いたことを覚えています。
  ●2011:Wizard ―Daily Fairy Tale―
→アップルジャック2で登場したハッカーの少女、桐嶋桜と、何でも屋の神無木大介のコンビにスポットを当てたアップルジャックのスピンオフ。
 二冊同時発売の一冊目。こちらは桜と大介が関わった事件や二人の過去を、短編連作形式で追っていく内容。基本的に一話完結だけど、時系列に並んでいるため、前の事件で登場した人物が次の話に出てきたりして、色々繋がっています。
 とにかくよく喋る二人を中心に据えたことで、とにかくよく物語が回り、書いていて最高に楽しかった作品。
 何でも屋の神無木大介は、とにかく人をよくおちょくる男なんですが、彼を描いていると、普段の僕では絶対に思いつかないような喋りが次々と閃いて、不思議なもんだなあと今でも思っています。
  ●2011:Wizard ―Passion Fruit―
→ウィザードその2。二冊同時刊行の二冊目で、実質下巻。これから読まれる方は、是非Daily Fairy Taleの方から読んでみて下さい。
 時系列でもDaily Fairy Taleのあと。上巻が短編連作の形式だったことに対して、こちらは丸々一冊使った長編。上巻で登場した面々も大体再登場します。
 この作品、上下巻で意図的に描き方を変えていて、下巻のこちらは、桜の心情にかなり踏み込んだ描き方をしていました。
 桜の祖父が組長を務める桐島組も巻き込んでの二人の大立ち回り。二人の目的は、友達の笑顔を守ること。以前twitterで『僕は大切な誰かのために戦う人の話が好きなんだな』といったことを呟いたと記憶してるんですが、そういえばこの頃から変わらず、そういうお話を書いていました。
 上巻より全体的にシリアスなんですが、大介の人をおちょくるムーブはこちらでも絶好調で、読み返すと、織田信長の件なんか、よくこんなネタ思いついたな、と自分に驚いたりします。
 ウィザードは上下巻とも、挿絵は緋原ヨウさん。僕は、上巻の冒頭に収められている、桜の部屋で楽しげな時間を過ごしているキャラクターたちを描いたカラー口絵が今でも凄く好き。あと、チーム黒星の子供たちは、当初のイメージでは地味な感じだったのですが、挿絵��上がってきたら凄くポップな外見の子供たちになっていて、でもそれが意外だったけど凄く良くて、僕の方のイメージがまた上書きされました。
  ●2012:おやすみブラックバード
→主人公、千春は、古い雑居ビルに引っ越してきた夜、奇妙な夢を見る。どこまでも続く埃っぽい風景の中で、上から下まで真っ白な少女と遭遇し、直後に不気味な怪物たちに追い回され、二人の女性に救われ、という荒唐無稽な夢。翌日、引っ越しの挨拶をしに同じ階の住人たちが住む部屋を訪れた千春は、夢の中で自分を助けた面々と、もう一度会うことになる。彼ら、彼女らには、ある目的があった。
 という、ファンタジックな夢の中での冒険と現実世界を行ったり来たりしながら、戦ったり謎解きをしたり、というお話。
 そういえば、僕の作品では、チームを組む面子が集まって飲み食いしているホームみたいな場所がしばしばあって、アップルジャックではバー・ハニーサックルローズでカクテルを飲み、ウィザードでは桜の部屋で、大介や桜の世話役、金ちゃんの用意した様々なお茶や料理に舌鼓を打っていたわけですが、おやすみブラックバードでは千春の部屋がたまり場になり、御子柴椿が様々なバリエーションのカレーを作っていました。
 一方で、これまでの作品と少し違うのは、登場人物たちが現実世界では飛び抜けた能力を持った人たちではなかったこと。当時の担当氏から『今までは特異な能力を持った人たちを描いてきたので、ここで一つ、そうではない人たちを描いてみては』というお題を頂いたのが切っ掛けでして。主人公の千春は、以前はバンドをやっていたけど今はギターに触ることもあまりない、下っ端のサラリーマンですし、他の面子も、よくあるミステリの人物紹介風に端的に書き出すと、フリーターと古着屋の店員と、何をやっているのかよく分からない胡散臭いちょい悪なおっさんと、ニート、という、これで何かを解決出来たりするの? と、大いに不安になる面子でした。
 ただ、個人的には忘れ得ない面子。彼ら、彼女らと一緒に泣いたり笑ったりしながら書いたことを僕は忘れられません。
レーベルの末期にひっそりと刊行され、2018年8月現在、まだ電子書籍化されていない一冊なのですが、ウマが合って楽しんでもらえる方と一人でも多くこの本が出会えることを今でも願っています。
挿絵は加藤たいらさん。中の挿絵も素敵なんですが、何と言っても表紙の絵が凄く印象深かった。全体的に暗めのトーンでまとめられた絵は、今までの作品と全く印象が違っていて、完成品を初めて見たとき、ハッとさせられたものです。
  【kadokawa L文庫時代】
●2014:バー・コントレイルの相談事
→通勤の途中、いつも見かけていて、少しだけ気になっていたバー。ある日、会社で辛いことがあった縁は、思い切ってバーの扉を開けてみた。落ち着いた雰囲気���バーテンダーと、間違って日本に生まれたイタリア人という触れ込みの料理人がいる小さな店で楽しい一時を過ごした縁は、会話の流れで、その日、自分に起こった出来事を話してみると、バーテンダーの羽鳥は彼女に思わぬことを伝えた。
 という、横浜の小さなダイニングバーを舞台にした人間ドラマもの。当時、いわゆる『お仕事もの』の作品が売れ出していて、L文庫の創刊ラインナップにそういう作品が欲しいという打診を受けて、でも時間が限られていたので「バーの話だったら書けるかも」と返したらそのまま刊行まで行ってしまった作品。
 知り合いの店に何度もお邪魔して取材させてもらい、メニューに無い料理まで作ってもらったり、複数の店でカクテルの味を飲み比べたりしながら書き上げた作品で、正直今までで一番取材に時間をかけました。
 序盤が短編連作、中盤に中編、後半にまた短編連作という、今考えるとちょっとトリッキーな構成。ブランクがあったり、慣れない分野だったり、出版社が変わったりと色々手探りで、結構な難産でした。
 あとがきにも書きましたが、バー・コントレイルは架空の店です。でも、作中に出てきた酒と料理は全て実在します。この作品を読んで、あれを飲んでみたい、これを食べてみたいと思った方は、是非実際に、店へ足を運んでみて下さい。
 表紙絵はしのとうこさん。事前のオーダーで、実際のバーの写真やボトルの写真などをお送りしたところ、物凄い絵が仕上がってきて驚愕したものです。バックバーのボトルとか、思わず拡大して見てしまいました。キャラクターたちの造形もイメージぴったりで、この方が描いたコントレイルのイメージをもっと見てみたかったですね。
  ●2014:その答えは、楽譜の中に
→L文庫の二冊目は、かつて幻狼ファンタジア文庫で刊行された『カルテット ―それが彼らの音楽だった―』のリニューアル版である本書になりました。
 一つの章の内容を丸ごと差し替えた大手術もあれば、細かい言い回しを一つ一つ辿って直していった部分もあり、書き足した部分もあって、描き方は色々変わっている部分がありますが、物語の大筋は変わっていません。
 アマ時代の『遺作』から数えると改稿三回という、なんとも僕にとって因縁深い作品となりました。
 さりげなく韓国語版も出ていたりします。向こうの方がどんな感想を持たれたのか、ちょっと聞いてみたいものです。
 表紙絵は田倉トヲルさん。登場人物四人だけのシンプルな構成で描かれた表紙なんですけど、これがまた凄かった。四人の半生を辿る作品だったわけですが、絵の四人からも辿ってきた時間が伝わってくるというか。一人一人が物凄く存在感あって、本当にいい表紙を頂いたなあと思っています。
  【kadokawa カクヨム公式時代】
●2016:デスペラード・フェアリーテイル
→初のウェブ連載。各国のマフィアが抗争を繰り広げた先で、壁に囲まれて周辺地域から隔離され、生き残った���大マフィアの自治区と化した近未来の野毛周辺を舞台に、四大マフィアのエースたちがチームを組んで野毛の治安を守っているという『デスペラード』なピースと、ラボで生み出された人知を超える力を持つキャリアたちという『フェアリーテイル』なピースを組み合わせて作られた久々の娯楽作品。
 いやそれSFだろ、何がフェアリーテイルだという声が聞こえてきそうですが、まあ読んでいただければ分かる。かもしれない。と、思ったりもします。
 封鎖区画を自治しているマフィアは、中国、ロシア、イタリア、日本の四つ。エースたちは中国から拳法の達人、ロシアから全身を機械化した女性、イタリアから火器や爆発物のエキスパート、日本から若き剣客という顔ぶれで。ジャンル違いの作品から主役級が集まってチームを組んでいる、というようなイメージでした。
 初の連載ということで、書き下ろしとはまた違った感覚があって。特にキャラクターとは書き下ろしより長い付き合いになり、今でも深い思い入れがあります。
 スピンオフを書きたいと思いながら今に至りますが、温めているプロットはあるので、いずれ、形にしたいですね。
 因みに、当初三話分の書き溜めがある状態でスタートしたんですが、カクヨムのオープン日と、僕の更新日の関係で、オープン日に1話、翌日に2話が公開され、一瞬で書き溜めが1話分になるという展開となり、その1話分も早々に無くなり、中盤以降は一週間一話の自転車操業で書いていました。よく休載無しで完走出来たものだと。
 尺が少ないこともあって、描写に裂く文字数をこれまでの作品より極限まで抑えていて。カクヨムは基本的に挿絵無し文章のみがコンセプトのプラットフォームだったわけですが、皮肉なことに最も挿絵が欲しい作品でもありました。
    2018年現在、新刊の予定はありませんが、実はおやすみブラックバードのあとに依頼を受けて第一稿を仕上げたものの、種々の事情でお蔵入りした作品があり、ウェブで個人的に公開しようと考えておりまして、現在調整中です。いろいろとやりながら、合間合間での作業になっていて、まだ時間がかかるかもしれませんが、いずれはお届け出来るかと。
 幻狼、kadokawaの作品は、おやすみブラックバード以外の全ての作品が電子化されていますので、この文章を読んで興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、是非探してみて下さい。
 デスペラード・フェアリーテイルは全13話で完結していまして、今でもカクヨムで読むことが出来ます。URLはこちら。
 https://kakuyomu.jp/works/4852201425154961458
   取り敢えず、色々ありますが元気にしており、創作の試みも続けております。
 という、近況のご報告も兼ねまして。
 今後とも、宜しくお願いいたします。
                           Aug. 5th. 2018. 小竹清彦 
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ryorimura · 6 years ago
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小石浜集落の津波碑(写真は2013年7月)。
2012年秋頃、共同研究者の饗庭伸さん(首都大学東京准教授・当時)が、小石浜集落の人びとに、今回の津波の浸水域を何かでマークしてはどうか、という提案をした。浜に近い場所に倉庫や作業小屋などが建ち始め、集落の景観が平常のものに近付いていくと、津波の跡が分からなくなってしまうので、やるなら今のうちに、というのがその意図だった。この提案に対して、部落会のメンバーが賛成したので、饗庭さんを中心に、どこに立てるかの測量し、彼らと一緒に浸水線上に10か所を決めた。
饗庭さんは、その10か所に、桜ないし椿の木を植えてはどうか、と提案した。すでに桜で浸水線を印づけるプロジェクトが陸前高田など他の町で行われていたことを知っていたし、椿は大船渡市のシンボルだったからだ。しかし小石浜の人々はそれをやんわり拒絶した。桜も椿も、開花の時期しか目立たないだろうし、何よりもうすでに集落のなかに植わっていたから、時間が経つと印の木が混じって分からなくなってしまうだろうということ、さらに落ち葉等の清掃が面倒だ、というのがその理由だった。
饗庭さんは、外部の組織などに援助を求めて石碑を作るという可能性に言及したが、代わりに彼らが提案したのは木の杭を使うことであった。木は彼らの持っている���にいくらでもあるので安くすみ、杭であれば目につくからいい、そしてまだ立派な石碑を立てるような段階でもない、ということだった。しかし木ではいずれ朽ちてダメになってしまうのでは、という危惧に対しては、むしろ朽ちたとき(彼らは10年後ぐらいではないかと推測していた)には次の世代の人々��それをまた作り直し、それによって津波のことをまた思い出してもらえるのでよい、ということであった。我々はこれを受け入れ、何の木を使うかも彼らの方が詳しいだろうと、彼らに任せた。
2013年3月初め、我々はこの地区で予定していた調査を行う際に、この木杭の作業を手伝うことにした。その時までに部落会メンバーは木を伐り、10本の杭を用意していた。饗庭さんの学生は、この木杭用の複数のデザイン案を部落会メンバーに示した。それは木杭に文字やICタグで情報を盛り込んで、観光客など外から来る人々に役立つようにしたり、あるいは木杭を集落の行事等でも活用してもらったりするためのアイデアを含んでいた。それに対して地元メンバーは申し訳なさそうに拒否し、単純に、表面に「東日本大震災津波到達地点」、裏面に「平成二十三年三月十一日」とだけ書いてほしいと言った。我々はそれに従った。そして木杭は、部落会メンバーの手によって、集落内のあらかじめ決められた場所に据えられていった。
この木碑の事例をそのままの形で被災地の各集落に敷衍することはできないだろう。しかし、この事例を試行錯誤の一例と捉えた場合、それが指し示すいくつかの点については、この事例(ないしこの集落)にのみ当てはまることとしてではなく、より広い範囲に通じることとして議論することができると考える。
ひとつは、彼らが材料として木を選んだ点である。これは昭和三陸津波の石碑と異なる点であるが、彼らが語る理由については上記の通り、石碑は値が張るが、木なら自分たちのところにあること、そして何より木だから腐るために、地域の人で新しく作り直す機会が生まれることである。これらは、それまで記憶論で言われてきた、個々の生命を超えて記憶を継承するために、モノの永続性を利用する、という議論とは正反対である。目指されているのは、自分たち自身で管理可能なモノを使い、また実際にそれを作り直すという行為を通じて、記憶の風化を防ぎ、記憶をフレッシュなものにしておくことである。ここでのモノはいわば、モニュメントではなくリマインダーとして機能している。
もうひとつは、文字の少なさから見える、この木碑が誰にでもわかるものにする必要はない、という考え方である。つまりこの木碑は、よそから来る人々ではなく、自分たちのためのものなのであるが、そこでいう「自分たち」はいま現在の地域住民だけではなく、ここで暮らすだろう子孫たちも含まれる。津波の経験そのものは当事者たちのあいだで語り継いでいく。しかし、ここで景観のなかに記憶の手がかりを埋め込むことで、人々の語りを誘発し、さらに実際の避難においても役立つものとなっていくのである。
こうした意味で、この木碑は、記憶や危機感を維持していこうとする、ローカルな知恵の一つの現れだといえるだろう。
(以上、拙論「津波と共に生きる人びと」より関係部分を一部改変)
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kachoushi · 8 years ago
Text
11月の花鳥各地句会報
平成28年11月の特選句
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 栗林眞知子選 岡田順子選
平成28年11月1日
県民会館花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
見つめられ菊人形の顔となる 雪
福の神貧乏神も旅立たる 文子
神留守の宮を守りて巫女二人 龍聲
産土の神のお発ちか神鼓鳴る 文子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月1日
さくら花鳥句会
栗林眞知子選 特選句
冬桜描きし便りが絶筆に 寿子
菊人形前田利家作成中 令子
靴下の穴繕ひて冬支度 登美子
奥越の市に試飲の新走 令子
読経の僧の背中や菊日和 紀子
小鳥来て乳飲み子抱きて昼下がり 実加
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月2日
立待花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
熱燗や男同志のはかり事 ただし
肋骨を見せて着替へる菊人形 ただし
山中に生きぬく僧や霧深し ただし
白鳥の声より日野の夜の明けし 越堂
日野は霽文殊の山は初時雨 越堂
枯野中日野川黒く蛇行する 正子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月4日 
芦原花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
花八手稽古の庭の片すみに 久美子
マスクしてさらに無口となりにける 由紀子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月5日
零の会
坊城俊樹選 特選句
末枯の野に遺伝子を語る背ナ はるか
葉の散るは金の小鳥が来てるから いづみ
日だまりは草禿てゐて神の旅 鯨
秋水は今深々と井戸の底 佑天
ざらざらの木肌晒して冬の来る 八之助
ニュートンの空に小さな林檎園 伊豫
神の留守ヒマラヤ杉の縦横に 炳子
青空があるからピラカンサス真赤 順子
ニュートンもメンデルの木も末枯れて 耿子
旧医学校鎖しぽつねんと烏瓜 順子
鉄錆をすすりて秋の蠅青し 鯨
黄落の彼方に古き医学校 炳子
医学校嘗ての窓へ小春の日 慶月
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月7日
鳥取花鳥会
岡田順子選 特選句
秋天へ手をあげ子らのすべり台 俊子
温め酒遺影の夫は笑み返し 都
冬に入る惚け来し姉に医師やさし 幸子
秋天へ爺の削りし竹とんぼ 幹也
閉ざされしロッヂや秋を惜みをり 和子
種を採る風よく乾く日なりけり 栄子
数珠玉や流れは母の里なりし 逸子
切干す仮屋通りの日を溜めて 悦子
気休めの櫛を通して木の葉髪 史子
水漬田は広し白鳥迎へけり 益恵
木枯や木の色香り攫ひゆく 立子
海凪いで全船帰港松葉蟹 すみ子
秋日和夫へひと言多羅葉に 美智子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月8日
萩花鳥句会
秋田より昔の人ときりたんぽ 牛子
新蕎麦や何もつけずにひとすゝり 孝士
こよみには立冬��あり草を引く 七重
日露談長門でヤマ場冬に入る 健雄
立話し二人三人して小春 陽子
誰がために椿ぞ咲くか野山獄 吉之
身に入むや松陰講話立志殿 圭三
岬めぐる一と日となりぬ石蕗の花 克弘
平成28年11月10日
三日の月十一月句会
坊城俊樹選 特選句
猫の髭銀に輝く小春かな 都
四姉妹小春日和に似たるかな 由季子
木の葉髪団居て語る昔語 未草
思ひつき小春日和の大仕事 英子
文化の日曾孫と三三が九を学ぶ 牧羊
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月10日
花鳥さざれ会
坊城俊樹選 特選句
木枯の寺苑の中の観世音 匠
石南花の帰り花して観世音 雪
落葉して残るひと葉に日の濃かり 匠
打ち申す板木の音も時雨冷 雪
先生の遺愛の硯冬めく日 雪子
落葉踏み来て枝折戸に引き返す 雪
みかへりの仏十一月の日矢 松陰
一葉の落葉の天地裏返る 龍聲
九頭竜の空を微塵に鳥渡る 越堂
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月12日
枡形句会
栗林圭魚選 特選句
冬蝶の影に戯れ寺の猫 亜栄子
ひもろぎとして不揃ひな榠樝か��� 鯨
烏瓜竹をたはむる赤さかな 鯨
恙なく白寿迎へて冬に入る 多美女
もう風にまかせる高さ鷲翔り 美枝子
沖合に白く波立つ神の旅 美枝子
彫深き顔に泥つけ蓮根掘る 鯨
鷲の檻青年ふいに指鳴らす 三無
鷲の目の人の動きに向はざる 三無
傾ぎつつ荒鷲となり翔びゆけり ゆう子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月14日
武生花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
菊人形笑へる顔も泣く顔も 雪  
村に又離農のうはさ燗熱く みす枝
餡の色かすかに透けて菊の餅 ミチ子
綿虫に空やはらかくなりにけり みす枝
かくまでに瑕瑾なき空神無月 錦子
窓高き温水プール冬紅葉 ミチ子
休耕田すでに花野となりゐたり 時江
漣か鴨の水尾曳く綺羅なるか 越堂
霧込めて日野の流れを沈めけり 時江
茶の花を一輪曾孫の髪にさし 文子
十夜寺真夜にふるまふ小豆粥 文子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月14日
なかみち句会
栗林圭魚選 特選句
大川の潮さす匂ひ芭蕉の忌 三無
時雨忌や季寄せに滲む赤ワイン 貴薫
子のつけし傷ある机木の葉髪 三無
白蛇の祠を拝み冬耕す あき子
浅間路の風倒木も冬に入る 迪子
冬耕の畝なんとなく右曲がり 三無
草に木に己に問うて翁の忌 秋尚
木の葉髪とくあめ色のつげの櫛 あき子
晩学の俳句に出会ひ芭蕉の忌 あき子
冬耕や時に遠くを眺めをり 有有
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月16日
福井花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
綿虫の夢連れ来るか追ひ来るか 牧羊
新蕎麦をすゝれば義父をまなうらに 和子
綿虫のつかず離れず神の池 嘉子
山茶花のその道母の好きな道 雪子
母さんと呼びたくなつておでん鍋 雪子
遠き世の祖母の話や膝毛布 松陰
瀞小春九頭竜ここに来て曲る 龍聲
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月16日 
伊藤柏翠俳句記念館霜月抄
坊城俊樹選 特選句
日の丸を掲げ日本一の菊 ただし
前山の空に紅葉のにじむほど スヱ子
日光も月光も秋菩薩かな スヱ子
酔ふほどに貴方の近く菊膾 真琴
古屏風立てて用無き座敷かな やす香
ひと仕事終へれば釣瓶落しの野 富美
はからずも懐炉を貰ふ羽目となり 清女
草虱好かれて男連れ戻る 世詩明
雪吊の早や括られて呪縛めく 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月20日
風月句会
坊城俊樹選 特選句
古沼に動かねば鴨石と化す 千種
推敲の膝の上なる枯蟷螂 芙佐子
冬帝が大黒松を傾かせ 千種
晴れ女嘯く人の小六月 亜栄子
綿虫を追うて巨木に見失ふ 芙佐子
枯園の濡れゐる径に獣臭 眞知子
みづいろの冬すきとほる羽で死ぬ 和子
綿虫のうつつへ出でしばかりなる 秋尚
(順不同 特選句のみ掲載)
栗林圭魚選 特選句
鴨浮きて日矢に捕はれをりしかな 俊樹
男の子今団栗だらけ日矢だらけ 俊樹
冬帝が大黒松を傾かせ 千種
もの知りの隣に座せる翁の忌 清子
何かゐるらしく冬野の木橋混み 千種
朝靄の池へ一筋冬日引き 秋尚
水震へ波とならざる寒さかな 千種
よどみたるみづやはらかし浮寝鳥 公世
幾層の落葉の嵩や土塁跡 芙佐子
日を求め枝を撓めて花八手 清子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月21日 
鯖江花鳥俳句会霜月抄
坊城俊樹選 特選句
枝折戸の欲しと思へり月の庭 雪  
子祭や子供歌舞伎の天晴れな ただし
銀杏を十ほど拾ふ母の忌に 紀代美
落葉踏み山の深さを聴いてをり みす枝
日溜りの落葉にもある裏表 信子
蕪村忌や日は落ちてもう月出でて 一涓
悪食は茂吉にも似て薬喰 一涓
お隣りに嵩なす落葉詫びて病む 一涓
纜のたゆたふ一日浜小春 一涓
灯台の径水仙の咲き崩れ 越堂
中天にシリウス青き霜夜かな 越堂
鴛鴦に木地師の山の風渡る 青一路
一羽づつ暮れ落ちてゆく鴨の陣 昭子
鴨浮寝町騒に馴れ人に馴れ 昭子
仰臥して見る竜神図寺小春 昭子
膝毛布臑に疵持つ足二本 世詩明
紅葉して山美しく人遊ぶ 世詩明
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月24日
九州花鳥会
坊城俊樹選 特選句
天神にピエロ降り立つ街小春 阿佐美
雲間より日差し一条冬耕す 佐和
海峡の霧流れ出す胸満たし 佐和
小春日や木の間木の間に石仏 富子
鳴き砂の浜に人なく小春凪 初子
鳴き声の短くなりぬ冬の庭 友子
鬢付け油香れる路地の小夜時雨 かおり
蒼天に一会の鷲をゆくりなく 佐和
百年を生きて小春の空に逝く 由紀子
手袋を置きて幕間を立ちにけり 郁子
(順不同 特選句のみ掲載)
平成28年11月27日
花鳥月例会
坊城俊樹選 特選句
乳母車還る神座へ押し出せり 律子
黄落へ国士となつてゆくばかり 惠介
神還り給へばさらに大鳥居 眞知子
青を曳きつつ大綿は宮裏へ 眞知子
木の影に吾の影足して冬帝へ 順子
胎児聴く十一月の拍手を 惠介
裏側は幼き色の冬紅葉 鯨
ダックスフンドの毛糸のチョッキきゆうくつさう 炳子
袴着や抱かれて仰ぐ軍人像 律子
(順不同 特選句のみ掲載)
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