加藤巧/鈴木雅明/鈴木悠哉/山本雄基 「Grafting 接ぎ木」
加藤巧 Takumi KATO
鈴木悠哉 Yuya SUZUKI
鈴木雅明 Masaaki SUZUKI
山本雄基 Yuki YAMAMOTO
「Grafting 接ぎ木」
加藤巧 Takumi Kato
鈴木雅明 Masaaki Suzuki
鈴木悠哉 Yuya Suzuki
山本雄基 Yuki Yamamoto
企画:鈴木雅明
2019年2月9日(土)-3月31日(日)
アーティストトーク2月9日 (土)
撮影:藤井昌美
巡回展:なえぼのアートスタジオ(札幌市)
https://www.naebono.com/archives/event/grafting接ぎ木
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トーク:2019年2月9日(土)17:30~
Art Space & Cafe Barrack : 近藤佳那子
接ぎ木展出品作家:加藤巧、鈴木雅明、鈴木悠哉、山本雄基
トークゲスト:愛知県美術館 拝戸雅彦
近藤
今日はたくさんの方にお集まりいただいてとても嬉しいです。私はこのCafe Barrackっていうのをもう一人の古畑君っていう絵画をやっている人と共同で運営をしています。でここのバラックが入っている母体自体はタネリスタジオって言う名前で活動していまして、シェアアトリエとして使いながらいろんな使い方を模索しているような場所です。代表が設楽陸さんで画家になります。今回のお話自体も元々バラック自体も自分たちで活動の場とか発表の場とか生産の場を作っていきたい、確立していきたいという思いから始めたようなスペースになります。愛知を中心にはなりますが現代作家を中心に発表の場をということで自分たちの周りにいる面白い作品を作っているけどなかなか発表の場がなかったりだとか、やりたいことがあるんだけど他では難しいという展示をやってもらったりだとかしてもらっています。
今回のお話自体は鈴木雅明さんの方から古畑君の方にお話を振っていただいてこういう作家がいるのでぜひグループ展をやりたいというふうに言っていただいたので私たちも嬉しくて今回こういう企画が実現しました。北海道からも今回は作家さんに来ていただいていまして、出品作家が加藤巧さん、鈴木雅明さん、鈴木悠哉さん、山本雄基さんの4名になります。今から作品の事とか今回の展示についてお話をしていただきます。今回はバラックの初めてのトークという事でゲストとして愛知県美術館から拝戸雅彦さんを鈴木(雅)さんから呼んでいただいてお話を伺っていきます。
鈴木(雅)
ありがとうございます。じゃあトークの方始めさせていただきます。今回の展覧会を企画した鈴木雅明です。よろしくお願いします。
今日は今紹介いただいたメンバーと愛知県美術館からも拝戸雅彦さんを交えてトークの方進めさせていただきたいと思います。最初に今回の展覧会の企画趣旨とか経緯の説明を僕の方からさせていただきたいと思います。今回の展覧会は僕自身も展示をしているんですけれども、僕はずっと絵画に興味を持って制作をしてきました。自分の中で問題意識だとか考えている事があって、今回出品を依頼した作家の方々というのはいずれも絵画形式で作品を発表されています。僕は絵っていうのは何かしらのコンセプトとかがなくても描けてしまうものなのかなっていうふうに思っているんですけど、今回出品を依頼した3名の作家の方々は自分自身が立っている位置っていうのを決めた上で絵画を取り扱っているように感じました。その立っている地点を見てみたいという思いもあり、また3作家の地点を探ることによって自分自身がどこに立っているのかという事を照らすような機会にもなるんじゃないかという動機から始まった展覧会です。今日のトークでは聞いていただく皆さんにも何かしら響くことがあったらいいなと思っています。それぞれの作家の立っている地点というのは必ずしも一様ではなくてバラバラの状態であるかなと思っていて、僕も一緒に展示はしているけれどもこの3名の作家と自分が同じ位置にいるよと言いたいわけではないです。
今回展覧会名として「接ぎ木」という言葉を展覧会のタイトルに挙げているんですけども、接ぎ木っていうのは簡単に説明しますと、植物を切断してくっつけると違う種類の植物が接合して一個の個体になるという現象のことを言うんです。今お話した作家がいる地点から絵画を取り扱っているところまでの作家と絵画との関係性が接ぎ木的なんじゃないかなと僕は思っていて、接ぎ木的な状態っていうのは繋がっているけれど、それぞれ独立した状態が保たれているというような状態です。僕がイメージしたのは接ぎ木のサボテンなんですけれど、三角柱という緑色の三角のサボテンの上に赤い緋牡丹というサボテンが乗っていて、結合していてくっついているんだけれどそれぞれの存在は決して消されていないという状態。この状態を今回の展覧会の構造に自分なりに当てはめて言葉を選びました。作家の選定にあたっては美術家の佐藤克久さんに、今日もお越しいただいていますが、ご助言をいただいています。今回出品していただいている3名の作家との面識はなかったんですね。ただ作品は知っていて、自分が知っているからとか近い距離にいるからということではなくて作品の印象というのを大事に出品を依頼しました。基準としては僕が各作家の作品を実際に見ていたという事と、先ほども話した立ち位置の話ですね、自分の立ち位置をしっかり決めた状態で絵に向かっているように僕は感じたという事を基準として作家の選定をしました。
今日のトークの前半では各作家の作品制作の基点となっている事とか、今回展示している作品について短い時間ではありますが伺っていけたらと思っています。後半は拝戸さんを含めた5人でお話する時間を30分くらいなんですけども取れるといいなと思っています。よろしくお願いします。
このまま続けて私の今回展示している作品の話をしていきたいと思います。今回出品している作品は奥の部屋の手前側にかかっている絵画作品でキャンバス、油彩という絵画のオーソドックスな形態で作品を制作し、出品しています。僕の制��は日常の中での錯覚という出来事を入り口として自分自身が見ている世界というのは何なのかということを考えています。作品を作るきっかけになった事柄として、僕が仕事に行く通勤で高速道路を使うようになって、ある時、高速道路で車を運転している時に道路上の看板ていうんですか、表示の看板ていうのが看板ではなくて一つの色面として目に映ったように感じたっていう事があって、それ自体は実際看板が色面化しているわけではなくて僕がそう見てしまったという事なんですけど、だから錯覚という事なんですね。ただその体験というのはいつまでも自分の中に残っていて、それを入り口として制作できないかという事で作品を作っています。手法としては実際に自分のスタジオにあったもので、モチーフになっているものが合板とかスタイロフォームの切れ端とかを描いているんですけれども。(カフェスペース壁面を見て)あ、ここにスタイロフォームの作品ありますね。そういったものをモチーフにしてそれらのモチーフに色画用紙とか紙の切れ端で作った色面を実際に貼り付けた状態を作っています。その状況を写真で撮影して絵に描いています。描くことによって色の色面ていうのが異物的な存在になって自分の体験をあらわす、そういう存在になる状況を作るっていう作品です。最初は単純に自分の体験を絵に起こしたいということで始めていたんですけど、今考えてるのは色面をただ入れ込むという状況を作るだけで状況が変化するとともにモチーフ自体の在り方とか成り立ちも変化しているんじゃないかなと考えていて、そこが面白いなと思って制作をしています。
最近僕は植物を育てているので、また植物の例えから話をしていきたいと思うんですけれども。植物ってこう上に上に高さを持って成長していく植物があって、園芸とかの世界だと高さがあると管理しにくいということもあって高さを止めるために成長している先端を切ってしまうという技術があって、切ってしまうとそこから上は無くなってしまうんですけれども、しばらくすると植物の切断面の脇からこう枝が生えてきて、また成長を始めるという現象があるんです。生えてきた枝っていうのはまたそのまま上に伸びていくこともあれば、横に這うように伸びていったりすることもあったりして、広がり始めたりとかもするんですよね。自分がしていることってそれに近いんじゃないかなと思っていて。色面を挿入するっていう行為がモチーフの成長点をバンって切ってしまう行為なのかなと思っていて、そうすることでモチーフ自体の成り立ちもまっすぐ伸びていたところが横に地を這うように進んだりとか枝分かれしていくように、モチーフ自体が全く違うものになってしまうわけではないんだけれども、モチーフ自体の成り立ちとか在り方が変容していくようなそういう効果が異物を挿入することにはあるんじゃないかなというふうに今は思っています。そこを面白いと思って制作をしています。
はい、以上です。それで少しだけ質問を僕にしていただきたくて。。(笑)拝戸さんお願いします。
拝戸
話を聞いていて、初めて説明を聞いた部分もあって思い出してるところもあるんですけど。そうすると絵の中で全く別の世界が成長していく感じなんですか?
鈴木(雅)
そうですね。
拝戸
描いたものが生き物になっていくような感じ?
鈴木(雅)
生き物になっていくというよりも、ものの中にある要素が、あっち側に展示している板をモチーフにした作品も、板を見たときに板ということは認識するけど、板の細部まで目を凝らすようなことはないのかなと思うんですけれども。実際に色面を配置することによって板と見てる人との距離が変わってくるというか、それによって例えばちょっとした傷とか汚れとか木目のパターンだとかが浮上してくるように感じる事があって。だから生き物のように動き出すということではなくて、もともと持っていた要素の順序が入れ替わるというか、そういうような効果があるんじゃないかと。自分は今そこが面白いと思っていて制作をしています。
拝戸
例えば静物画っていう言葉があって。静物画って基本的にナチュールモルト、つまり死んだものっていうか、死んだ自然っていう言い方をしているんだけど、そうすると鈴木さんの中ではむしろものとしては死んでいるものが描かれることによってそこに何かを足すことによって、なんていうか生命っていうか動きが始まるという感じがするってことなのかな?
鈴木(雅)
そうですね。植物の話が出たので生命とか生きるっていう話になるのかなとは思うんですけれど、僕としてはその生命力というのはあんまり意識はないんですけども、違うものに変容していくというか、実際に描きで変容させていくっていうよりも色面を与えることでその意識しなかった部分が出て、浮き上がってきたりだとか、意識していた部分が沈み込んでいったりだとかいう現象が起きるんじゃないかというふうに今は捉えてやっています。
加藤
スタイロの作品、ちょうど(カフェスペース壁面に)あるので見ながらですけど、スタイロの表面に「IB」とか「DOW」とか「ダウケミカル」とか文字が書いてあったりしますよね。そういった、先ほど仰っていたような高速道路の標識などのような、意味があって作られている文字や記号や言葉のような、機能を持ってこの世に存在しているものたちに、色面を与えたり描きなおしたりすることで別の抽象的な形態として見えてきたりすることだとか。
鈴木(雅)
そうですね。
加藤
絵画を知覚することを通して別の体験が枝分かれして発生するっていうところに興味だとか主題がある、というように考えればいいんですか?
鈴木(雅)
そうですね、今仰っていただいたことはかなり近いですね。そういう感じですね。
拝戸
見てるものって基本的にそれ自体で生きているわけじゃないですか。これはこれで生きてて、それがこう一旦絵画化されることによって一旦死ぬっていうか、一旦抽象的になって僕は一旦死ぬような気がするのね。
加藤
そうですね、死ぬのか留保されるのかわからないですけど。一旦その機能っていうのは取りあえずの小休止のような、仮死状態のようになるかもしれない、ということでしょうか。
拝戸
写真を撮られた時にそれは写真の中で死んでいて、単なる風景の一部でしかないっていうか。
鈴木(雅)
なるほど。
拝戸
それが絵になるとちゃんと見ちゃうという。
鈴木(雅)
また動き出すような感じの印象はあります。
拝戸
さっきIBっていうね、僕らからすると全然何の意味も持たないもの、それが絵になって色紙が貼られることによって確かに注目しちゃうよねっていう事が起こっちゃう。
加藤
おそらくスタイロの表面に色面として描かれている色紙なんかを貼らずに描いたとしたら、それでも抽象的な形態だけを鑑賞者が能動的に取り出して見ることも可能かもしれないけれど、(色紙を)貼ったものをモチーフとしてあえて描く事でよりその抽象的形態が駆動するという。
鈴木(雅)
ものとしてのそのスタイロフォームの切れ端っていう、色面を挟まなかった場合はスタイロフォームの切れ端っていう存在が強く出ると思うんですよね。ただ色面を挿入することによってその部分が弱められて他のものを何かこう目で探していくような効果が生まれるんじゃないかなと僕は思っています。
加藤
確かにそうですよね。重さとか軽さとかそういったものは感じにくくなりますよね。
鈴木(雅)
そういう効果があるんじゃないかということを考えながら今は絵を描いています。
拝戸
影がついていてどこか写真的な立体感がある。空間性を持ちながらも絵的な二次元もあって、ある意味では気持ち悪いというか。
鈴木(雅)
そうですね。それが自分の体験というところから来ています。
拝戸
これはまだものだからいいんだけど、この植物の作品ていうのはやっぱり線が出てくるとよりその気持ち悪さが見えてきて。
鈴木(雅)
植物?
拝戸
線がね、時々出てくるじゃないですか、鈴木さんの作品って。
鈴木(雅)
はい。
拝戸
線が出てくるともっとありえない有機的なものに見えてくるので、それが昔鈴木さんが描いていた都市の風景とは全然違うところにいっちゃってるというか。絵がもう一度生命を取り戻して、僕は生命って言葉は使ったほうがいいと思うんだけど。あんまりそこは禁じないでっていう感じがしてます。
鈴木(雅)
なるほど、はい。
拝戸
植物っていうのが今回テーマで自分の主観と結びつくものがあります。だけどやっぱりそこはテーマとしても繋がっていると思うので、ある意味では気持ち悪い絵だなっていう気がしてます。
加藤
気持ち悪いっていうのはある種の生命感というかグロテスクな部分も駆動しているのかもしれないですしね、わからないですけどね(笑)
拝戸
そう、だから歴史的に言うとデ・キリコとか形而上学の絵画をもう少し気持ち悪くした感じに見えてくるかなと言う気がします。
鈴木(雅)
はい、ありがとうございます。
ここから順番に作家の方々に作品制作の基点と今回出品している作品について簡単にお話いただきたいと思います。鈴木悠哉さん、お願いします。
鈴木(悠)
こんにちは、札幌から来た鈴木悠哉です。今回展示している作品のことを中心に話そうと思います。
今回ドローイングを102枚貼っているんですけど、現実の街の風景からモチーフを取ってドローイングを描くというプロジェクトみたいなことをずっとやっていまして、今回の絵は台南、台湾の台南という街を歩いてリサーチしてそこから興味を持ったものをもとにドローイングのイメージを一個一個描いています。なのでけっこうプロセスのシステムを決めてやっているんですけど、最初に実際自分が街を歩いて気になったものとか壁のシミだったりだとか、ポスターが風化した跡だとか色々様々なんですけど。引っかかったものをどんどん写真を撮っていくんですけど、(スライドを見ながら)こんな感じで影の形だったりだとか、これ台南なんですけど、こういう自然の風化とともにできていく形だったりだとか、これ住民が貼ったりはしてるけど無作為な感じだったりだとか、それと自然作用が折り重なってるとかそういうポイントをけっこう多く撮ってます。こういう写真がいっぱいあるんですけど、それを元にしていきなりドローイングに起こすんじゃなくて一段階ありまして、こういうふうに一���メモ書きみたいな感じにしてワンクッション置くんですけど、そこからドローイングのイメージにしていきます。こういうイメージがどんどんデータベースみたいに溜まっていくんですけど、そのイメージを編集するような形でインスタレーションというか、こういう風にオブジェに置き換えたりだとか、壁画にしたりとか、アニメーションとか、これはソウルのドローイングなんですけど、様々なメディアに変換してインスタレーション作品を最終的には作ってます。これは北京のギャラリーで今やってるんですけど、ペインティングであったりとか、あとこれは同じA4のドローイングなんだけど、紙に色鉛筆という感じだったりします。そんな感じです。
鈴木(雅)
ありがとうございます。僕の方から一点質問で、最初の方に説明があったんですけど、自分が実際に見てる景色とか風景とか滞在先で目にしたものをモチーフにしているということで、現実の中で自分が目にしたものを作品に取り込んでいると思うんですけれど、どうして現実から拾っているのかを聞きたいです。
鈴木(悠)
もともとは現実のものとかのモチーフはなしで描いてた時代が長かったんですけど、ちょっとある時点でなんか現実との繋がりがないと自分の中で作品として成立しないなという感じになってきた。なのでまず最初に現実のものがあってそこから作品を組み立てていくみたいな方法が段々しっくりくるようにな���て、今そこのなんか現実との繋がりという部分を抜いちゃうと自分の中で作品としてイエスと言えないようになってきてしまいました。
鈴木(雅)
それがどうしてかということはわからないという感じですか?
現実を外してしまうと作品を作ることが難しくなるということは、現実というのは悠哉さんにとって何かしら大事な要素になっていると思うんですけど。
鈴木(悠)
そうですね、自分の周りの状況が変化していて、えっと。。
拝戸
私から聞いていいですか?
現実をモチーフにする前には何をモチーフにしてたんですか?
鈴木(悠)
それはけっこう自由連想的な感じで無意識とかそういうことに興味があったんで、ドローイングって多分自分の無意識とかそういうのを引き出せるメディアだと思ってるんですけど。そんな感じで手を使って描いているうちに浮かんでくる形とかそういうものを根拠に作品を組み立てていくということをしてました。
拝戸
それは自由連想で描いた線をさっきみたいに一旦ドローイングに起こして、記号化してプロセス化するというところまでいったんですか?
鈴木(悠)
いやいってないです。その時はやっぱりドローイング止まりというか、そこからもうちょっと違うメディアに展開していくということは難しくて、小さいドローイングをずっと描いて、そういう形です。
拝戸
そうすると現実をモチーフにするようになったのは自由連想が長く続けられない感じがあったから?
鈴木(悠)
けっこう行き詰まりみたいなのがあって、自分がそういう風に浮かんでくるものをキャッチして定着させたりだとか、そこにある根拠を見出せなくなってきて、そういうものを現実の中に置いた時に作品として保てないようになってきたかな。
拝戸
辛い時代のことを聞いて申し訳ないです。
一同
(笑)
拝戸
すみません、どうぞ。
鈴木(雅)
そうですね。現実っていうところは交換可能なのかな?例えば現実からモチーフを得てる。。あ、そうかすみません、それはちょっとおかしいか。
いずれにしても悠哉さんにとっては現実を取り入れることで制作が進むようになったというか、ある程度突破できたところがあったということですか?
鈴木(悠)
それもあるんですけど、どう現実を捉えるかみたいなことに問題意識があって。なんかそういう部分で現実のものから始めた方がしっくりくる。
鈴木(雅)
はい、わかりました。ありがとうございます。
じゃあすみません、時間もあるので次の方に行きたいと思います。山本雄基君お願いします。
山本
はい、山本です。よろしくお願いします。
僕のは入ってすぐ正面にある作品で、基本的に円のみをモチーフに使っています。
アクリル絵具のメディウムで作った透明層を用いていて、透明層が大体8層から10層くらいの構造になっているんですけど、各層ごとにいくつか円を描いていて、層と層を跨いだ円の重なりを見せるっていうことをやっています。
円の種類も、不透明な色で描いた円、実体のある円と呼んでみますが、それと画面全体に半透明、半不透明とか半透明なヴェールのような色面を画面全体に塗って、そこをあらかじめ円でマスキングしておいて後からそのマスキングを剥がすとその薄い色面が円にくり抜かれている実体のない円、その2種類あって、それらが重なり合って地と図が反転し続けるような状況を作っています。
よく見れば、あ、ここの円の部分はくり抜かれていて、2層目とか3層目とかの後ろの方の層にあるんだなとか、この円は実体があって手前にあるんだなとかそういうどの辺の位置にあるのかっていうのを、わりと追えるようには作っています。
パッと見た感じは層の順序が色の効果によって逆転して見えるとか、透明層があるので実際に絵の中に円の影が落ちたりするんですけど、その影の濃さによって、実はこの円がこの層にあったんだ、とか、そんな風に円の位置、認識をどんどんどんどん狂わせたり、自覚できたりっていうそういう往復運動ができるような作品にしたいとは思っています。
それと、僕個人としては円っていうのはあんまり意味を持たせすぎないでいろんな事柄に代入可能なシステムとして使っているつもりです。
僕は主には人との関わりの方向性だとか、僕と社会とか、僕っていう存在がある世界との関わりの中で発生するバランスみたいなものを、一度システムとして自分の中で捉え直して絵画化する、そういう思いで円を置いています。
一方でそういうパーソナルな問題だけじゃなくて造形的な問題っていうのもやっぱり生じていて、理屈よりも絵の方が先にこの円とこの円の関係がよくわかんないけどなんかすごい気落ちいいなとか、バランス取れるなとか、さっきまで調和が取れなかったものが、ここに小さな黄色の円を置いたら突然調和が起きる、みたいな現象って起きるじゃないですか、絵を描いてると。それは一体何なんだろうと考えたり。
絵の中でそういう現象が起こるっていうことはきっと自分が生きる中で現実世界にもそういう状態っていうのは起こせるはずで、自分のポジションに絵の中で起きたことを代入させて自分の生き方を再定義する、生き方と照らし合わせるツールとしても使っています。
もう一つは絵画史っていうか歴史上作られてきた美術作品、特に絵画作品に興味を持っていますので、作るのと同じくらい、見るのも物凄く好きです。どれだけ一枚の絵を分析できるかみたいな、過去からの挑戦状だと思って。分析した結果、あ、この画家はこういうことを実はやってたんだ、じゃあ自分の絵にもそれを生かそう、みたいな要素もあります。絵でできることをわかってるぞ、っていうのを自分の作風に込めれるかっていうチャレンジを考えながら作ってます。とりあえず僕からはそんな感じです。
鈴木(雅)
僕から質問で、今の山本さんの話の中で世界と自分とのバランスを取っているという話があったと思うんですけど、それが自分の作品と関係しあってるっていうこうなんていうのかな、世界と自分とのバランスと絵画の中での要素、例えば色彩だったりっていうもののバランスが行き来しあっているというか、関係しあっているような話があったと思います。僕が最初に山本さんの作品を見たときの印象として、どうしてこういう構造を使って絵を作っているのかなと思いました。今のお話っていうのは作品の構造が最初にあって自分の考えを紡いでいったのか、それとも山本さん自身の考えがあった中で作品の構造が発生していったのか。今の作風が始まった頃の話だと思うんですけれど、どっちが先だったのかなということを聞きたいです。
山本
絵画って何だ?っていうのを自分なりに理解したかったていう動機が完全に先だったんですよ。
僕はそんなに自分がやりたい表現っていうのをあんまり信用してないっていうか、自己表現じゃない、そもそも美術っていうものはどこにあるんだろうみたいなことに興味があって。
今まで作られてきたいろんな美術作品をパクるような形で作ってみて自分なりに理解したっていうのを繰り返す中で、その中に少しずつ自分の表現を入れてアレンジしていくっていうやり方をずっとやってたんですね。
だから普通にモチーフを描いていた時期もありましたし、イメージを描かないで色面だけでやるとか、「絵画は物質だ」みたいな話で厚みをめちゃくちゃ厚くする単色の絵とかも描いたり、自分なりに既存の美術史をおさらいしていって、あるときに「絵画ってこういうものです」って共有できる概念じゃなくて、そういう絵画への禅問答っていうのは60年代とか70年代とかに終わっていて、どういう風に自分が絵画を定義するのかを考えるメディアになってるって思うことができたんですね。
そのあたりから自分の感情みたいなのがようやく入れれるようになってきた感じです。その過程でモチーフもぐにゃぐにゃしてる形からだんだんだんだん円になってきて、何で円になったんだろうって考えていくとなんか自分の生き方とリンクしているのかもしれないなと少しずつ自覚するようになったと思います。
鈴木(雅)
じゃあ制作の過程の中で先に構造が発生して、そこから自分自身との関わりとかバランスといった方向に思考がシフトしていったということですね。わかりました。拝戸さん、何かありますか?
拝戸
作品の中に現実っていうのは特にないんだよね?作品の中に現実は生きてない。例えば悠哉さんが考えているような現実のモチーフは全くなくてあくまで円という非常に抽象的な、よく抽象絵画って丸、三角、四角っていう風にいうけれど、その中で丸を選んで丸の重ね合わせの中から作っている。現実からモチーフを取り出しているわけではないっていうことでいいかなと思うんですけど。
山本
目に見える形態としての現実ではないけど、理念としての現実、、現実ってどういう仕組みでできているんだろうとか現実っていう仕組みを僕はどう捉えているんだろうっていうものを一度構造としてイメージしてから、それを透明層と円だけで置き換えているつもりです。その自分の絵画内のシステムを、現実とリンクするような状態にしたい、ということです。
拝戸
イメージとしての現実があるわけではなくて、あくまで自分がどう現実と向かい合うか。あるいは美術史をおさらいしたって話をさっきされてたんで、美術史という構造、歴史を一応踏まえた上、一さらいした上で自分がどう現実と向かい合うかっていうことをやっている。立ち位置が全く違うんだね。
山本
自分が良いと思う他人の作品にも、作者とその作品の関係とか、作品内でその作者が発生させたそれぞれの仕組みってあると思うんですけどね。
鈴木(雅)
わかりました、ありがとうございます。
じゃあ最後加藤さん、作品制作の基点と展示作品についてお願いします。
加藤
加藤巧です。作品でいうと手前の部屋の手前の壁側です。四角くないやつです。
僕は、普段の活動としては絵画材料を中心とした材料のことを触りながら、かつ絵画を中心として制作をしてます。絵画っていうものはとても歴史が深いですよね。その辺に赤土やなんかがあると、色を擦りつけたら色がつく、痕がつく。それを見たときに他の人間が、他の生命体がそこにいた、というようなことを感じとれたりする、と。ある人間は仲間がいるというように思って安全だと思うかもしれないし、他の人たち縄張りだと思うかもしれない、とか。そういうような「痕跡」のうえで「行為」と「材料」っていうものたちが互いにリンクしながら、フォームを変えながら変遷してきたもの、そういうように絵画全般を捉えています。関心としても、その辺りのことについて中心的に考えていることが、ときには制作や、こうして話をさせていただいたりというような、活動になっています。
作品について。今回の作品についてですが、絵画というのは今お話したように、「行為」と「材料」として見ることができますよね。絵画のうえに何が描かれているか、という問題も一方であるんですが、それはイリュージョンとしての錯覚だったりする。絵画のうえではイリュージョンは起こるんですが、同時にこれはほぼ全ての他の人の作品にも言えることですが、実際には布とかの上に、油によって顔料という色の粒が練られたものがくっついている、というような物質的な側面がありますよね。で、その辺りの「痕跡を残す」ということをしっかり考えたいな、という関心がありました。
先ほどお話したような、僕の活動や制作の基本線としてあるのは、絵具を自分で作ることです。チューブ絵具は使わない。顔料、色の粉を、例えば油で練り合わせるとペースト状になる、と。糊の力で、色材を定着させているっていうのが絵具の仕組みなわけですが、その条件に触れていくうちに、どんどん材料の方から知識やいろんな知恵をもらうわけです。それは先人が残したレシピだとか、実際に触って試すことで気づくことが多い。画面に塗ってできた痕跡それ自体からも、観察できることがある。
で、そういう材料に触れる、ということから、触ったらなんか痕がつくよね、ということから今回の作品も作られています。作品のタイトルは「マカロニ」といいます。「マカロニ」というと食べるマカロニ、穴の空いたパスタ、あれを「マカロニ」っていうみなさんイメージされると思います。「マカロニ (macaroni<英>>,maccheroni<伊>)」っていう語源が「マッコ(macca)」とか「マッカーレ(Maccare)っていうラテン語に由来があるらしいです。小麦粉やなんかを練り合わせるとか、捏ね合わせるっていう意味があって。昔の人間が、洞窟壁画の時代、アルタミラとかラスコーのような、洞窟の内部に牛とか鹿とかの絵が描かれていたりとかするようなものたち、あれらは天然に(湿式の)フレスコの状態になっている(カルシウムの作用で定着している)ものですが、そういったものの中に鹿とか牛のような、特定の図像として描かれてるものではない不定形のものがあるんですね。手のなすりつけとか、壁に対してステンシルのようにスプレーのようなもので吹き付けた「ネガティヴハンド」と言われるものがあるんですけど、そういったもの、なすりつけのような遊びの痕跡みたいなものも残っている。それをアンリ・ブルイユという壁画研究をしていた神父さんが「マカロニ」と呼びはじめたんです。
昔日の、壁画の中に見つけられる可塑的な表現に対して「マカロニ」という名前をつけている。そこから、人間を取り巻く材料的な環境というのも変わってきた。今はプラスチックもあれば金属も使うようになっているし、日進月歩で材料の変化がある。そういう中であっても、「なすりつける」とか「色をつける」という行為はずっと残ってきている。そういった現在の環境下で、取り巻いている材料を用いて、「なすりつける」ということを作品化しながら、自分の考えるためのサンプルとして、「可塑性」や「なすりつける」ということについて触りながら考える、ということをやっています。
作品の土台、見えてない部分の一番下の部分はFRP、ポリエステル樹脂とか、ジェスモナイトという最近イギリスで開発された硬化剤を使わない、アクリル系の可塑剤があるんですが、そういったものを基底材にして、その上に食いつきを作って漆喰をなすりつけ、なすりつけの行為を観察する。なすりつけの力の入り具合などを見ながらトレースするような感じで、別の顔料を小筆で漆喰上に置き直していくと、ブオン=フレスコの原理で色材が定着する。自分のなすりつけた行為を筆の描きによって追体験することで、「痕跡を残す」という可塑的な行為から何が考えられるのか、材料を通してやっていることが作品としてシリーズになっています。そんな感じですか。
鈴木(雅)
はい、ありがとうございます。
僕の方から質問で、加藤さんに今回展示を依頼したのには理由があって。加藤さんの作品を最初に見たのがMIKAWAYA Galleryでの個展を拝見したときだったんですけど。
加藤
一昨年、2017年ですね。
鈴木(雅)
一昨年ですね。今回不定形の形の作品ですけど、その時は矩形というかパネルに描かれた作品だったと思います。壁面に対してこう垂直に展示されてた。垂直というかこうかかっているわけじゃなくて、側面が正面になって展示されたような形で裏側も見えるような構造になっていました。作品の裏側には確かその時に使われた色とか絵具の配合とかそういった類のことが書かれていた作品だったかなと思います。
僕は加藤さんの作品を最初に見た時に何だろうとすごい思って、純粋にわからなかったということがあって。良いとか悪いとかじゃなくてわからないっていうことがあって。何をしている人なのか、おそらくその絵具の取り扱いっていうのには興味があるだろうっていうのはその裏面の情報だったりとかで理解はしたんですけど。実際何をしているのかが自分にはわからないというのがあって、それを知りたくて今回ご依頼をさせていただきました。あの時は確か今みたいな加藤さんのお話しだったりだとかステートメントとか文章みたいなものは会場にはなかったような気がします。
加藤
そうですね。
鈴木(雅)
最初拝見した時、抽象的な作品で絵具とかに興味を持って作られているんだろうけれど、実際これはなんなんだろうっていう印象を持ちました。でも加藤さんの作品ってプロセスもしっかりしてるし、コンセプトもすごくしっかりしていてそういったことを観る側と共有できないこともあるのかなとは思うんですよね。それに関して今こういうトークの場とか、加藤さんから直接話を聞いてすごく腑に落ちたところもあったんですけど、会場で作品だけを見た時にそれだけの情報が自分には伝わらなかったというのがありました。観る側との関係みたいなことは加藤さんはどういう感じで考えられていますか?
加藤
その時に「鑑賞される」ということは僕の中では重要じゃなくはないんですけど、第一義ではない。MIKAWAYAのときは、今回とは違うタイプの四角いタイプの作品を作っていたんですね。筆のストロークで描いたものを再分析して観察して、エッグテンペラという、卵を展色剤として使って別の画面に置き直して、その描画時の顔料の置き直し方にノイズをかける。そうすると、筆のストロークの現象は再現されるけど、別の顔料によって別の色彩が与えられる、ということをしていました。それらの作品を、絵画を物質的な側面を意識してやっているんだ、ということを強調して見せたかったというタイミングでした。なので、文字通り作品の側面を鑑賞者の正面になるように展示したわけです。絵画の物質的な側面を見せるために側面を前面に出すと、鑑賞者は作品表面を覗き込むように見るようになりますよね。正面から見るよりも明らかに見辛いわけです。遮蔽型展示とか言うこともあるかと思いますけど。かつ、裏面には使用材料の情報が書いてある。材料の情報がそこにあるということで、材料的な事実がそこに示されている、それは文字を読んだらわかること思うので、その情報から何を類推するかは鑑賞者が別にやればいいと思います。材料的な事実を僕は提出してるので、そこから何を駆動させるかはその人それぞれってことで僕の意図がそのまま、僕の意図通りに、鑑賞者にエスパーみたいに伝わるということを作品の上で期待していないです。僕はもちろん理由があって作品を作っていますが、提示しているのは材料的な事実。鑑賞者の体験と作者の意図はズレていていい、と思っています。だけど、そのズレをつなぐものは材料的な事実である、というような、その界面としての絵画が、事実としてある、という認識です。
鈴木(雅)
展覧会を通して作品を見せられるような状態というか、鑑賞者が観るような状態っていうのは加藤さんにとってはそういう機会は設けたいっていうことですか?
加藤
作品はサンプルなので。絵画というフォームはサンプルとして優れていると思っています。材料をディスプレイするという、何を考えてどうしたか、という行為とか、何を使ったのか、という材料などをディスプレイするためには、かなり適したものとして絵画は残ってきたと思うんですね。それはデータでもあり、メディアでもある。伝達手段であるわけですから、まず初めに自分にも伝わるし、自分以外の他の人にもとりあえず見られる状態になる。見られる状態になっているんだから、公開される機会もあるでしょう、という認識です。生きている限り公開されるっていうタイミングがある限りは公開してもいい、というように思っています。
鈴木(雅)
わかりました。拝戸さんから何かありますか?
拝戸
絵の問題に入る時に技法から入るのか、イメージから入るのかっていうことがあります。両方からのアプローチが一般的ではあるかなと思います。加藤さんは基本的には技法をとても構造的に、あるいは思想的に自分が考えたことを見せるっていうことになると思うんだけど、そこにはイメージの問題っていうのは特にない?つまり到達点としてのイメージの発生は考えていますか?
加藤
イメージの発生のことは考えてはいますけども、それは結果的に発生するものだと思います。しかし、イメージをどうしたいかということを恣意的に、制作の始めに策定しておくということはしていません。けれど、このプロセスを踏���ことによって、もしくは自分が興味を持っていたり、これはすごく気持ちが良い、とか、何だろうな、というような、物を触ることから生まれてくるような自分の関心の蓄積を基点にして作りはじめて、かつそれが組み上がってきた時に、何か別のビジュアルのものができるだろうな、ということとか、これは試されていない組み合わせだな、というものに気づくと興味が出るんです。その行為を積み重ねることによって、「触る」という行為だけをしているにも関わらず、図像のディスプレイができてしまう、ということ自体かなり不思議だと思います。かつ、そこには自分が何かを考えて材料の扱いに反映させているので、そのあり方によって成果物が変化する、ということも同時にあるので、それは粘土のように有機的で、面白いことです。
拝戸
加藤さんの作品からあらわれているイメージっていうのは基本的に身体の動きとしてのイメージ?
加藤
そうです。
拝戸
痕跡としてのイメージ、痕跡がそこにある。それは何かのイメージではなくてあくまで身体がそこにあったイメージとしか読み取れないっていうことになると思うんだけど。
加藤
そうです、ええ。
拝戸
で、いいんですね?
加藤
人間はそれをずっとやってきたわけだから、それを変える必要はないと思います。取り巻く環境だけが変わっていく。環境を扱う考え方も変わっていく、ということです。
鈴木(雅)
はい、ありがとうございます。
じゃあ出品作家の方のお話を短い時間でしたけど一通りお聞きしました。お伝えしてなかったんですけどトークの時間は1時間半を設定していて、ちょうど今1時間くらい経ったところです。あと残り30分くらいの時間を拝戸さんも入れて5人集まったし、せっかくなのでみんなで話せるような時間にできたらいいかなと思ってます。何を話すかっていうことなんですけど、今回の展覧会は最初も説明した通り、僕が一方的にオファーを出して、こういうことをやりたいからと皆さんにお願いをしてっていう流れでした。1年前から話はあったんですけど、最初は曖昧で今回札幌からもお二人来ていただいていますが、地域性の話が出てたりだとか、どこに照準を絞るかっていうのも曖昧な状態でした。そんな中、今回の展示を断るっていうこともできたと思うんですけども、引き受けて下さってかつ接ぎ木っていう僕が上げていたテーマに関しても多分それぞれの解釈の仕方、納得いかせ方みたいなのがあったと思うんですけど、僕はそれを今の状態ではほとんど知らない状態です。僕がずっと発信してこうでこうでって言ってきたけれど、実際出品された方、あと今日は拝戸さんは鑑賞者の方に近いような立場で展示を見ていただいていて、同じ内容の質問というか展覧会自体とか接ぎ木というテーマっていうことをどう捉えられたかっていうのをお話をしていければいいなと思います。ここからは拝戸さんの進行ですみません、お願いしたいなと思いますが、大丈夫ですか?
拝戸
時間的には19時に大体終わるという形だよね?
鈴木(雅)
そうですね、大体19時に。
拝戸
大体30分くらいトークして、会場にもいろんなアーティストが来ていらっしゃいますので皆さんからも話を聞きながらっていうことでも良いですよね?
鈴木(雅)
はい、大丈夫です。
拝戸
じゃあとりあえず私が口火を切るというか、話をしていこうかなと思います。
今回のテーマについていえばですね、やっぱりかなり強引だなって感じがしていて、接ぎ木っていうコンセプトが全く異種のものを繋いでしまって、作品と同じようにやってみてそこからこう見えてくるものを期待するという部分がどっかにあると思うんだけど。今回作家のみなさんが割と違う立場からアプローチしている方たちがきてしまったというか、普通こうは揃えないよねっていう感じがします。絵画っていう一種の共通の目標、まぁ誰にでもあって、それを誰もが知りたい、けれどもアプローチも全然違うし、素材も違うし、考え方も違うし、よって立つ根拠も全然違うって��うことがあって。作り手も混乱するっていうか自分で自己設定しなくちゃいけないっていうことが絵画にはあって。さっき山本さんも自己定義っていうか自分で決めて作らざるを得ないっていうことを仰られたのでそれは普通によく言われていることかなっていう気がしてます。
その一方で加藤さんがある意味で原理主義的に材料から立ち上げるっていう話をされる。それはすごく面白くて、一方で鈴木悠哉さんの方はもっとこうクールに現実からイメージを取り出して、むしろ一番絵画的ではない方法で作っているのかなっていう気がしています。ペインターなのかアーティストなのか。ペインターが作るものがペインティングなのか、アーティストが作るものがアートなのかっていう議論があると思っていて。今回はかなり異種混交のペインターが集まってきて、おそらく話を聞いていると悠哉さんあたりはペインターではない立場かなっていう気がしています。むしろ加藤さんがガリガリのペインターっていう感じ、山本さんは中間にいるっていう感じがどこかあって。結果としてとても面白い展覧会になっているし、観た人も多分そういう印象を持たれるかなっていうふうに思いました。これが一応総括ということで、そういう印象を持ちました。なので展覧会としてはすごく成功しているかなっていう気が僕はしています。さっき話しに出たんですけど、イメージから始めるのか、素材から始めるのかっていうのは常にあります。それはある意味とても難しい問題で、かつてその加藤さんのやられている古い絵画の問題っていうのはイメージが与えられているわけです。つまり15世紀とか16世紀とかの古いルネサンスの時代っていうのはイメージを与える人っていうのがいて、発注者がキリスト描いて下さい、あるいはマリア描いて下さいというようにやられてきた。18世紀までは基本的には宗教絵画が多かったんでイメージを与えてくれていたんですよね。でも、抽象絵画が出た後は自分でイメージを作り出さなくちゃいけないし、探し出さないといけないっていう時代に入ったところでやっぱりすごい辛いことが起こっているような気がしているんですよ。日本でマリア描くわけにはいかないしっていうのがありますよね。じゃあその丸三角四角でずっと絵を描き続けられるのかっていう問題があって。さっき悠哉さんの仰られた自己連想っていうのかな、いわゆる昔シュールレアリズムの人たちが考えた、目に見える現実ではなくて目に見えない心の問題、内面から絵を描こうと思ったんだけどやっぱり長続きしないんですよ。どっかにモチーフを探しにいかなくちゃいけない時に、常に問題が起こっているんですね。20世紀の初めくらいから抽象絵画ができたんだけども、それなりの悩みがずっとあって。イメージの問題どうするのと。それをどっから探してくるのっていう時にピカソが一番良い例なんだけど、結局は昔の絵画を引っ張り出すか、自分の目の前にいる女性の絵を描くしかないっていうことになるんだと思うんですよ。それはずっと問題として引きずっていて、その一方でアクションペインティングていうのがあって身体、それを絵にすればいいんじゃないのっていうことが起こってくる。やっぱり同じ問題を20世紀はずっとやってきて、それは21世紀にもまだ続いてるっていう感じがする中で絵を作んなくちゃいけない。そうするとじゃあ極端にいうと絵ってなんなのかっていう時に絵はイメージからいくのか材料からいくのか、あるいは絵っていうのは本当に素材じゃなくて逆にこう理念的なもので極端にいうと加藤さん怒るかもしれないけども、イメージでしかないっていうような言い方もありえると思うんですよね。つまりイメージしかない、つまりイメージと物質が分かれた状態になってさっき加藤さんが仰られたように物質はどんどん変わっていくじゃない。技法と素材はどんどん変わっていっているし、一方で過去の技法を調べていくといろんな形でイメージを作り出そうとしていることもわかる。X線見ていくと様々な絵具の積み重ねが発生し、作られているという話があります。私がある美術館に行った時にモネの作品っていうのはみなさんが見ているモネの絵じゃないんです。この絵具なんですっていう言い方をする人たちがいるんですね。つまり絵に使われた絵具こそがモネであって描かれたものはモネじゃないんですっていう言い方をするくらい材料から入っているっていう話しがあって。それはある意味じゃ全く違う絵の見方をしている人たちがいるっていうのがよくわかるので。だから結局何が言いたかったのかというとイメージから入るか、技法から入ってくるか、で技法はどんどんどんどん変わっていっちゃうっていうことがあるので。さっきも聞いたんだけど、イメージにこれからどうやって到達していくのか、到達する気があるのかどうかも含めてなんだけれど加藤さんどうですか?
加藤
拝戸さんが今仰られた問題っていうのはイメージ、図像として見るのか材料として見るのか、という問題ですね。僕の場合は材料史の部分に着目しているわけですけど、材料と図像って不可分ですよね。分けられないですよね。材料の扱い一つとってもその中に思想が埋め込まれているわけです。日々扱う、道具のようなものたちにしてもそうですし、その所作のあり方にしてもそう。僕の制作では、思想が図像になる、というよりはどちらかといえば、材料だとか触った感触などからスタートしていますし、行為が前面に出るというように思われると思いますけど。先ほど僕はイメージが生じるということを完全否定しませんでした。最終的にはイメージに到達すると。それはmあの自分が考えていることに取り組んだ結果、イメージに到達しているのであって、イメージが自分のコントロール下に置かれてるか、そうでないか、ということはどちらでもいい。大事なのは、自分の行為したことによって、何かがアップデートされるかどうかだと思います。僕の場合は材料、というところから、描く、痕跡を残すっていうこと自体をアップデートすることは、十分豊かな仕事だと思いますし、それはプリミティブな行為なので、直接的でもあると思います。そちらを丁寧にやりたいなっていうのはあります、その結果が図像になっているんだと思います。
拝戸
山本さんの作品が最終的に円になった、一番円って人格性がないっていうか筆致性がないっていうかある意味では全く逆のところにいると思うんですけど、見る時に横の側面をどうしても見たくなっちゃうっていうのはあります。あそこは材料性が残っているところがあって。技法に特化した形でイメージをある意味じゃ最小限にするっていうところで作られてる加藤さんの作品はどういう風に見えますか?
山本
加藤くんの作品は僕も作家名と、画像で見たイメージだけは知っていたんですが、画像イメージからは作品の構造が読み取れなかったんですよ。実物は今回の展示で初めて見て、その前に本人に先に会ったんですよね。で、本人の話が面白すぎたんですよ。なんなんだこの人はっていう(笑)こんなアプローチで絵を描いている人にはなかなか出会ったことないなっていう風に一気に興味を持って。事前にその本人から情報をたっぷり聞き穿った上で。
加藤
すごい質問しはるんですよ(笑)
山本
興味津々だったので(笑)。何かに共感するというよりは、僕はこういう理念を持っているけど、結果的に加藤くんの作品も絵画表現になっているのにでここまで違うアプローチからできるのかっていう、その違いの部分にすごい興味を持ったというか。だからその違いを計る相手としての興味、関心がありました。で実際実物を見てみたら、ロジカルで動機やプロセスのほとんどのことを説明できるような作家さんだと思うんですけど、やっぱりそれを超える何かというか、作品の魅力っていうのを実見して初めて感じましたね。具体的に言えば、下地のなすりつけの痕跡があってその痕跡に合わせて面相で細かく細かくトレースしてるじゃないですか。そのトレースのニュアンスの中に見え隠れする感情みたいなのがすごい面白くて。山になってる山の頂点で色を変えるとか。
加藤
そうですね、やってますね。
山本
その変えているラインの取り方とか。あと一番こっち側の作品、端っこのガタガタになってるちょっとこっち側ではこういう下地のタッチがあって。下地のタッチは曲線になって、
加藤
そうですね。
山本
直線になってる途中でガタッ!と大きなエッジがきて、エッジのところに直線がないのにガタッ!を通り越して線が繋がってる、みたいな。
加藤
繋がってますね(笑)
山本
そういうやりとりがやっぱり言語の部分を超えてる要素っていうか。どんなにロジカルにしていても謎が残り続ける、そのなんか良い意味での気味悪さっていうんですかね。到達できない人間の欲求みたいなのが見えて、なんか楽しんでます。とても。
拝戸
その一方で悠哉さんがね、基本的に素材はなんでもいい。なんでもいいってわけじゃないんだけどアウトプットのメディアは映像でも紙でもなんでもいいっていうか。むしろこうイメージが彷徨ってるみたいな感じの作り方をしているような気がする。アウトプットに依存しないで、張り付いていくような形?メディアに張り付いていくような形でアウトプットされている気がするんですけど。そういう悠哉さんからするとこの二人のこういうフェティシズム的な議論ていうのはどういう風に感じますか?
鈴木(悠)
絵画の素材に関してはそこまで深くは考えてないんですけど。どちらかというとやっぱイメージ先行でなんか一個のイメージを記号とか言語、視覚的な言語みたいな形に落としてどんどん現実の中に流通させていくみたいなのには興味があって。なのでメディアの選択にしても例えば現実にありそうなものにあえて置き換えたりだとか、例えば看板みたいなものにしてみるとか、オブジェにしてみるとか、映像とかそういうのはどちらかというと現実世界のもの、街にあるようなものを模してそこに変換させていって、現実を模した何か状況を作りたいなとは思っています。
拝戸
それは絵画として作っている?
鈴木(悠)
絵画の意識ないですね。でもその拝戸さんが絵画は一つの理念っていうことを言ってて、理念としてはあるような気がします。もともとその自分も絵画を志向してたんで、絵画っていうのは結構強力なメディアだと思っていて、ある種の理想形だと思うんですよ。表現の。ものすごく見やすくて、一対一で深みに引き込めるなというのはあって。ただそれ、自分はその絵画っていう素材とか支持体とか方法論を使って達成することができない感じがあったんで、違うメディアにいったという経緯があるんですけど。根本では理想的なものは絵画だと思っていて、自分にとって理想的な絵画の状況みたいなのを作りたいなっていうのは思っています。
拝戸
今はメディアの間をふらふらしている感じがするんだけども、それは最終的に理想形としての絵画に到達するっていう、夢は持ってるのかもしれないけど。
鈴木(悠)
憧れ?
山本
これクロストークだから僕が喋ってもいいんだよね?
鈴木(雅)
もちろん。
加藤
そういえばそうですね(笑)
山本
僕は逆に、あんまりその、、、絵画に理想的な絶対性を与えたくないって思っていて。天邪鬼な部分がある。絵画はすごい大好きなんですけど、絵画こそ頂点だっていう意識を持ちたい反面、いやその感情には気をつけなきゃなんないと思ってます。絵画にしかできないことって実はそんなにないんじゃないか。
今なんてそのフォトショップを使えば写真のイメージを操作することだってできるんで、イメージを操作するっていう部分では絵画と同列。物語を見せるとかものすごい視覚表現を与えるっていうのであれば映画とか3DCGとかが存在する。そういうものと絵画とを比べると、あんまりその優位性っていうのを特権的には語れないと思うんですよ。
その上で、絵画がメディアとしてできることって何だろうっていうのはいつも疑問に思っていて。一つはやっぱり痕跡。どんなに抜いても抜いてもゾンビのように痕跡が残り続けちゃうっていうある意味ヒューマニズムがダイレクトに現れる部分は多少は他のメディアよりは強みがあるかなっていうのと。あと多次元を表現しやすいメディアだなと思いますね。重力や時間、空間の感触だとかそういうものを自分でコントロールしやすい。そこと重複してさっきの人間が作っている直接的な痕跡っていうダブルイメージになっちゃうっていう部分があるかなっていう。だからそういう限られた絵画が持ってる、そういう部分を意識するくらいしかもうできないんじゃないかな。
拝戸
今加藤さんは絵画を作ってるっていう感じですか?つまりこうずーっとこれまで素材を変えて残ってきた。つまり本当にアルタミラの壁画からずーっとこう泥から土から洗練されて下手すると今フィルムみたいなものだったりだとかケミカルな素材まで来てるんだけれども、そこの中で加藤さんはずっと絵画史の中で絵画を作り続けてるっていう意識?
加藤
まあ絵画が一番都合がいいんですよ。歴史長いですし。歴史が単純に長い、痕跡を辿っていったら遡りやすい、という。痕跡残ってなかったら我々観測できないですからね。行為も材料的な条件も人の思想も人のあり方も周囲の環境も、痕跡から読み取り可能だと思うんですよ。それらが集約されているものが、ハンディな状態でずっとあるのが絵画、ということです。自分が一番考えられるフォームがいいんですよ、物事について。それを一番駆動してくれるものは、ぼーっと考えるとか、触りつつ考えるとか、そういうことができるものはかなり少ないんですよね。それができるものに名前を与えるとしたら、「絵画」と呼ばれているものかな、と。僕はずっと考え続けることができればいいです。それがたまたま「絵画」と呼ばれる形式になっていて、かつ物質として保存されているので、僕のメインの領域は「絵画材料」みたいなことになっているんですけど(笑)。(「絵画」というのは)呼ばれ方だと思います。
拝戸
今の話しで(何か)
鈴木雅
そうですね。僕はあの加藤くんの話もそうだけれど、山本くんがさっき言った次元の話は自分の作品にも関係するなと思っています。僕は最初の入りとして自分が体験したというか錯覚なんだけれど自分の目に映ったと思われる状況をスタートとしているんですけど。実際に現実の方であったわけではないんだけど、そういう自分の思い込みかもしれないし、見間違いかもしれないっていう現象をあらわせる。実際に目で見ることができないものを可視化することができるっていう。絵画においてはその体験をあらわすことができる。現実でそれをあらわすのは難しい。僕にしかわからないことだけれど、絵ではあらわすことができるのかなっていうところで今やってますね、作品は。
拝戸
イメージの問題ですよね。自分がこう発見したイメージをイメージとして受け止めてそれをどうやったら次なるイメージというか、メタイメージにつながるかっていうところでやっていると思うんでそういう時に素材ってどういう風に関わってる?
鈴木(雅)
僕は素材については、こういう言い方していいかわからないけど自分が扱いやすいっていうところでやってます。例えば絵具のことでもそうですし、油絵なので溶き油だとか筆だとかってあるんですけど基本的にはかなりオーソドックスなものを使っていて、もっというと予備校の時とかで最初に買いなさいと言われたようなものを今でも僕は使っていてそこにほとんど関心がないというか。その自分の衝動みたいなものを絵にあらわすことができればそこに対して思い入れだとか自分なりの考えだとかはなるべく入れたくないなというのがあって。そんな感じですね。
拝戸
かなり絵具が身体化されてるっていうか。
鈴木(雅)
そうですね。
拝戸
身体化されてるって感じがするんだけど、加藤さんの場合は描くっていうのはかなり意識的に扱っているものなんですか?
加藤
そうですね。今って、表現するうえでどんな材料でも使用可能ですよね。僕はそのような、ミクストメディア的な環境の中で絵画材料というのをもう一回見直す、ということをやっている立場なのかな、とは思います。そういう意味では、雅明さんが扱われているようなチューブ絵具のようなものにも「条件」というのがあって。その道具の条件から導き出される表現が生まれてきたり、ということがある。昔は絵描きって絵具を練ることも仕事だったわけですから。絵具を練って、かつ描いていたわけですから。それが今、工業や化学の方面に分化していったわけですね、特に産業革命の前後で、絵描き、といわれる人たちは、いわゆる表現ということに特化していくような身振りをするようになっていったりする中で、図像を扱い方も変わっていったように思います。僕の場合は、それで分化したと思われている絵具のチューニングを、分化していないかのように扱うために、いまだに絵具を練っているわけです。「絵具」と「描き」の間で考えきれてないことって、まだあると思ってるんですよ。チューブ絵具ということに材料を限定することで、見過ごされている知識とか体系について、まだまだ考えられると思っているんです。そういう立ち位置だと思って意識的に扱おうとしています。
拝戸
基本的にチューブ絵具っていうのは、即効性というか時間の問題で印象派の人たちを含めて手軽に絵が作れる方法として19世紀半ばに作られたと思うんですけど、印象派っていうけどパッて絵が描けるように発明されたアイデア。
山本
例えば僕はさっき言ったみたいに絵の中でおこるプロセスが現実社会にも関わっていたりするんだけど、加藤くんの場合はどうなのかなと思って。ある種その絵の中に自分の生き方みたいなのは宿ったりするのか、なんの感情移入もないのか。
加藤
(生き方と制作は)同期してますよね。ただ絵っていうものの中には入り込まずに、直接の自分の行為として制作があるので、感情移入とかの手前にいます。僕は。
山本
それは自分の生き方とか立ち位置とかに反映されるかっていうのは?
加藤
ありますよ。例えば、(生き方とか立ち位置などを)考える上で、過去の自分の���とを考えると同時に、材料の扱い方などを調べるんですけど、そうするとき、ただテクニカルなことや知識を得るだけではなくなっていくんですよ。自分の考えの組み立て方だったりだとか、所作だったりだとか、について見直さざるをえなくなる。例えば、チェンニーニ(※1400年前後のイタリアの画家。技法書『libro dell’arte』を執筆)とかだと、「ワイン飲みすぎんなよ」とか、そういう話まで入ってくるわけですよ。場合によっては態度作りなども材料や技法に要請されることがあるわけです。例えば、フレスコとかだと濡れている状態のときにで塗らなきゃいけないので、それらを逆手にとって使うことによって、自分のスピード感覚だったり制作のペースなどを技法からコントロールして、自分のあり方を縛り直すことができると思うんですよ。
山本
うん。
加藤
それによって、態度も生き方も在り方も、変容します。
山本
どうしても技法の話にいっちゃいがちですよね、加藤くんって。そこから説明をしなきゃいけないから。でも僕はそうじゃないところに加藤くん自身から生み出される思考みたいなものに興味があったので、今の話は腑に落ちたっていうか。「接ぎ木」っていう強引な概念に3人とも向き合えたっていうのはやっぱりそういう部分もあるのかなと。絵画への立ち位置の取り方、みたいなのが最初のシンパシーとしてあって、ペインティングっていう表現を軸にして集まってみて、会議繰り返して新しい何かを持ち帰るっていう仕組みの中で僕は共感できることがあった。全員の作品見ても、皆ちょっとドライな部分があるんですよね。筆跡に感情を入れました、じゃない距離の取り方とか。僕はそういうのになんかすごいシンパシーを受けたんですよね。僕は絶対的なものってあんまり信じられないっていうか、一旦距離を置きたいんですよ。絵を描きながらそういう思考が生まれていったんですよね。だからその辺は皆さん、どう思ってるのかなと思って。
加藤
接ぎ木についてですか?
山本
今ここにいて、そのことをどう解釈できたかっていう。
加藤
多分、(展示を)一番断りそうなの僕だったんですよ(笑)
一同
笑
加藤
まぁ考えてました、展示を断ることは。この企画でちゃんと決まんのかな、と。一番初めに(雅明さんから)メールいただくわけですけど。その時点で、何かしたいんだろう、という熱意は伝わりました。そこから、お会いして話をするんですけど、結局、展示によって何を示したいのかとか何についてメインに考えたいのかっていうことが示されないままで。でも企画自体は、何かの勘が働いてなのか、もしくは縁が繋がってなのか、その両方かもしれないんですけど、作家の選択はされてしまっているという。でもキュレーションではない、という状況で。これ、どういうことだろうな、思ったんですよ。企画って、何か考えたいことがあったり、テーマがあったり、というようなことから場が立ち上がる、というのが考えやすいと思うんです。けれど、そういうことでないのにも関わらず、自分に話が来ている、という状況では、その段階だったら僕は自分の仕事を続けることしかできないですよと。お声かけいただいた企画がどうあっても、僕は態度を変えない、制作を企画についてすり合わせることはない。自分が能動的に興味が出ない限りはそのテーマに対してっていうのが、態度だったりとか制作の方法っていうのは自分の主導でやっていく。制作は日々の営みなので。ということはお話したんですよね。
鈴木(雅)
うん。
加藤
でも、その動機の発端に、鈴木雅明さんがいらっしゃる。鈴木雅明さんは何かを考えたいことがあるんだな、ということは感じていて、僕は自分のフォームは変えなくていいんだ、ということもおっしゃっていた。であれば、展覧会がどうあろうと、僕はそのままの自分の興味だとか考えたいことに従ってやっていくと。その時にできることを発表しますよと。能動的に考えたい、という動機を持っているのは企画者の鈴木雅明さん。僕の位置は動かない。そこの間には、ある種の断絶があっていいと思うんですよ。
鈴木(雅)
うん、そうだと思う。
加藤
断絶があってもよくて。雑な言い方をすると、テーマはどうでもいいんですよ。僕の仕事は変わらないから。そこにどういう光を当てるか、というのが企画というものだと思うんですよ。そ個人的な動機が発端になっていようが、鈴木雅明さんの企画として実施されるので。
そのとき気になったのは、参加不参加っていうことを判断するための、企画としてのスケジューリングをどうするか、とか、自分がどのくらいの量の仕事をすればいいのかとか、展示に占める面積だとか、場所に対してどういうアプローチをすればいいのか、などが確認できて、自分の立ち位置がわかればそれでいい。それらがあれば、僕は企画のテーマに対してすごい齟齬がなければ、仕事はできる。参加してもしなくても変わらない、という意識で、今、結果、作品展示しています。
ただ、そういう状況にも関わらず、不思議と展示が決まったなっていう感じがあるんですよ。それちょっと不思議です、今。そういう意味では、企画に対してネガティブな見方も批判的な見方もしながら、参加の是非についてずっと考えていて、でも切るに切れずにきました。でも自分の仕事を変える必要がないのであれば、それが結果的に誰かが考えるきっかけになれば、それは誰かにとってもプラスになることなのだろう、と思って最終的には展示OKです、ということになったんですけど。
鈴木(雅)
僕としてはある種そういう関わり方を望んでいたし、さっき断絶って加藤くん仰ってたけど、そこに何かのつながりだとか4人で何かを言うってことは最初からほとんど考えてなかったというか。自分が見たいし、話がしたいっていうモチベーションはもちろんあった状態なんだけど。そこの横のつながりっていうのをすごく考えてたっていうよりも純粋に普段の活動を出してもらえればいいってことは別に何かを望んでたわけではなくてそれを見せて欲しいし僕も見たいと思ったのが今回の企画の動機ですね。
加藤
自分の仕事は変わらないんですけど、活動はずっとやっていくんですけど、それによって駆動される方がいらっしゃるんであればそれはいいでしょうと最終的には思ったし、その状況っていうのが何かしら展示の中でできているんであればポジティブなことだろうと思います。
鈴木(雅)
わかりました、ありがとうございます。
時間もそろそろ来たので最後に会場の方々から何か質問などありましたらお聞きしたいなと思います。
質問者
それぞれなぜ絵画なのかとか自分のメディアに選んだのかを聞こうと思ったんですけど、それぞれみんな明快に答えてくれていたのですごく良いトークだったと思います。しかもなんか僕は今モヤモヤしてるんですけど、みなさんすごい今アイデンティティがある作品を作っていて羨ましいなと思ったんですけど。聞いてみたいのが感動っていう言葉があって、その感動っていうのは色々な意味を含むんですけど、自作と感動についてっていうのをどう考えたかっていうのをそれぞれ聞いてみたくて。
鈴木(雅)
自分の作品を感動っていう観点からどう見てるかっていうことですか?
質問者
そう。絵を見て感動したのと同じように自分の作品についてどう感動したのかっていうのを教えてもらいたいなって思って。
それについて考えててわかんないところがあって、それについて。ちょっと聞いてみたいなと。
加藤
自作における感動の位置取りみたいなことですか?
質問者
そうそう。自分が感動ってことについてどう考えてるのかっていうことと、どうそれを作品に反映しているのかってことを聞けたらいいなっていう。
むしろ感動しないっていうのももしあればそういうのでもいいんですけど。
加藤
めっちゃ感動しますよね。めっちゃ感動しますよ(笑)
質問者
その感動をどう作品に落としこんでいるのかっていうのを。抽象的な概念で感動っていうのは難しいとは思うんですけど、それはやっぱあると思うんですよね、作品を見てると、それぞれ、皆さんの作品結構好きな感じの作品なので。
加藤
なんか触ったら気持ちいいとか、それも感動ですよね。それはずっと変わらないです、僕は。それはいろんな材料に変わっても。それで自分の考えがどんどん変わっていくのが面白い。触るっていうことの可塑性と脳みその中の可塑性っていうのが繋がってると思うんですよ。それが感動っていうことだと思っていて、うおー気持ちええわーみたいなのはありますし、それがやっぱり不思議ですよね。
この作品僕の場合だと作ってる間にジャン=リュック・ナンシーっていう方の「洞窟の中の絵画」というテキストを読んでいたんですね。そこに、なすりつけについてのテキストがあって。そこでは、類人猿の時代から今の私たちみたいな形の人類が出現して、その時に何かの痕跡を残した人がいた。その人は、その人自身の行為を痕跡を残すことで外部化した。意識的に痕跡を外部化して残す、という動物は他にほぼいない。その行為を外部化するということは、自分自身の奇妙さの外部化なんだっていうことを言うんです。そういうことを併置して考えてみても、「触った」「つけた」「痕がついた」それによって何かが発生してしまう、ということに対する驚き、奇妙さっていうことは大きな感動だと僕は思います。
質問者
行為に良し悪しっていうか、質は必要だってことですか。感動にいたるための行為っていう、これは感動しなかったっていうのとかはやっぱり自分の中である。たまたまそれが来た時になるっていうか。
加藤
それ(行為による感動)はやっぱり、探しながらやる。制作の中では、探りながら。時には、「めっちゃつまらんわ」ってなりますし。これめっちゃ気持ちいい、何だろう、っていうのは不思議なわけですよね。
質問者
それは含まれるわけですよね。
鈴木(雅)
あ、いいですか?僕短いと思うんで(笑)
僕作品の説明の時に拝戸さんから言われたのがとりあえずやってみるっていうような表現をしていただいたかなと思うんですけど。そういうところはあると思います。僕の場合その先をあまり見つめていないというかそこで何が起こるかを見ていて、そこで動きを見出せた時とか、さっき話したモチーフ自体の成り立ちが変わるような瞬間っていうのを見つけた時はやっぱり感動しますね。
質問者
どういう段階でそれが来るっていうのはわかる?
鈴木(雅)
来るかどうかはわからなくて、やってみて、それに自分が気づけた時というか、変わってきたかもしれない、何だろうこれっていう感じが大切ですね。自分が思っていなかったような、最初に入り口として設定した事柄から何かが生まれたとか出てきたとかを発見した時ですね。そういう時に感動に近いものがあるかなと。
質問者
自分が想定できないものっていうのを。
鈴木(雅)
そうですね。想定できないものということはあります。
拝戸
じゃあ次、悠哉さん。ずっと話をしてないんで。
鈴木(悠)
感動ね、感動あんまりないかも。
会場
(笑)
鈴木(悠)
作ってる時はこれが絶対いいだろって感じで一枚一枚がんばるんですけど。がんばってできた、やっぱりいいなと思ってやるんですけど、実際やっぱり展示とかして今日も展示してありますけど。その中で自分と作品との距離が近いっていうのもあると思うんですけど、鑑賞者として感動することはできないです。ただ基準として毎回見た時に見え方が変化するとか見てて飽きないとかそういうのはポイントとしてあって。飽きなければそれはいいのかなと思うんですけど。それは一つあるんですけど。毎回思うのはちょっと不満だなと思って、またどうしたら自分を満足させられるのかなみたいな感じでどんどん作っていく感じでやっています。
質問者
不満が次の作品を繋いでいく?
鈴木(悠)
これとこれとこれをやったから絶対自分は満足するだろうと踏むんですけどやっぱり、何だろう全然ダメだなと。で、全然足りないなと。
質問者
すごいわかる。
鈴木(悠)
新しい展開考えたりとか、違うものを使ったりとか、手を変えていくんですよ。そうやって続いていく感じです。
山本
感動っていう言葉ってけっこう怪しいキーワードですよね。どうにも捉えられるし。感動って心の動きなので相対化するのは難しいですよね。僕は新作作るたびに「俺の作品最高だ」って当然思うわけじゃないですか(笑)。でも主観バイアスがかかってる。2ヶ月くらい経つとそこまででもなかったかな、、、とか。それもまぁ感動と言えますし、基本的には自分の作品はいいと思う前提で、そのいいを確かなものにするためにはどうしようかなって考えるのが大事だと思います。例えば僕は本当にいいと思う巨匠の作品と自分の描きたての作品とをプリントアウトして横に並べて、じーっと見て反省するとかそういう方法もやってます。喜びだけじゃないですよね。怒りとか悲しみとか無念とかもやっぱり感動ですよね。絵に感動するのもやっぱり僕の場合強めの主観バイアスがかかっていると思うんですが、絵に限らず同じ意味で心が動くポイントっていくらでもありますよね。ニュースとか見てても、ひどい親が子供を殺したとかっていうのも自分のことじゃないのに落ち込んだりするじゃないですか。そういうあらゆる自分の心を動かす理不尽だったり喜びだったりを、ちゃんと絵の中に入れられているかなっていうのが僕の思考実験。さっきと同じような話になりましたけど。それが何となく「今回は入ったかな~」っていう感覚が掴めると、自分では最高だぜって感情が持続します。
質問者
社会と自分との関係っていうのは第三者が後から分析できる感じ?造形理論みたいのがある?
山本
どうでしょう~それはわかんないですね。他者が判断することかなって思ってます。でも絵の鑑賞ってやっぱり自由に鑑賞していいよって言ったりするじゃないですか。あれは半分は嘘だと思ってるんですよね。「山本の作品はきっと今ここに落ちている落ち葉からインスピレーションを得たんだ」とか全く違う事実を言われたらそれ違いますよって言いますよね。ある程度の示し合わせは必要だと思ってるし、そっから「わかってるな」と思われるような解釈ができるように作りたいとは思っています。できる限りのヒントも自分で発言しようとは思っています。、、、答えになってるかな。
拝戸
質問なんだけど、絵画を知的に理解してほしいのか、感性的に理解してほしいと思っているのか。つまりそこがやっぱり大きく分かれてて。分析的によくできてるねって理解してほしいのか、それともこれっていいねっていうふうに言ってもらいたいのかどっちなんだろうと思って。
山本
両方あります。知識とかがなくても感性的にいいねって思ってくれる人はいて。それは全く否定する気はないですけど、やっぱりハードコアな人にはそう簡単には伝わらないっていうか、僕の気づいてない油断部分を見透かされる場合もでてくる。自分自身もコアな感じの人になりたいですもん、他者の作品に対して。だからその両方、感性にも知的にもリーチしなければ意味がないと思うし、コアな人にリーチする方がより難しくて、やりがいはあります。
拝戸
コアな人っていうのは知的な人?
山本
そうですね。
拝戸
私はやっぱり色の問題ってなかなか知性的に理解できない部分があるような気がしています。例えばコンセプチュアルアートが出てきたのも知性的な部分が強くて、感性の部分ってやっぱり弱ってるような気がしてるのね。だからそこはなかなか共存できない。絵画はある意味じゃこう色をどんどんどんどん捨ててきた。言語化してきたっていうのは色の部分を感性だっていうふうに言って、下の部分に見てきたっていうふうに私は思っています。そこをもう少し復権した時に知的な理解と色を持った絵画っていうのと、そこが一致するとすごくいいものが見えてくるんだと思うんだけどなかなかそうはなってないなっていう気が実はしていて。色すらも知的に理解しようとする。でも色って実は僕は完全に知的に理解できるものじゃなくてやっぱり目で理解しちゃうと思うし、物質感も実はそう。本当に知的には理解できない部分がある。その領域ってなかなか見ただけじゃわからないんだけど。でも身体的に理解できるか、もっとトータルな体験として理解できるかっていうところが落ちてきちゃってる気がするんですね、絵画の理解の中で。だから絵画っていつも死んだっていう言われ方をして、みんなこうひたすら死んだ人間に対してなんかやってるみたいな感じがするんだけど。だけどやっぱり死んでないし、多分どっかでさっきの悠哉さんの話じゃないけど、なんかこうあらわれる像としてあるような感じがしてます。それは4人とも共有しているのかなって気がするし。私もそれをいつか見たい、死ぬ前に見たいなって思います。それは素材はなんでもよくてやっぱりこれって絵画だねっていうのがあらわれてくるんだろうなっていうことを期待してますが。時間大丈夫ですか?
鈴木(雅)
あ、もう時間押してるんで。質問じゃあとりあえずよかったですかね?このあとオープニングに移りますので、また質問等あれば各作家に聞いていただければと思います。僕の動機で始まって、一年くらいかけてやってきました。自分はまぁけっこう負荷がかかった状態とかがずっとあったりして。でも辛いなと思ったこともあったけれど、やっぱり得られたものはすごく大きくて。最初に自分の位置を照らすみたいなことを、それを知りたいと言いましたが、明確ではないけれど、少なからずやる前よりは見えてることがあるんじゃないかなと今は思ってます。というところでトークの方終わりたいと思います。じゃあ今日はありがとうございました。
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