#入江侍従長
Explore tagged Tumblr posts
kachoushi · 7 months ago
Text
虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅵ
花鳥誌2024年6月号より転載
Tumblr media
日本文学研究者
井上 泰至
10 思ひ川渡れば又も花の雨
 初出は『ホトトギス』昭和三年七月号。「貴船奥の宮」と前書き。『五百句』には、「昭和三年四月二十三日 (西山)泊雲、(野村)泊月、(田中)王城、(田畑)比古、(同)三千女と共に鞍馬貴船に遊ぶ」と注記。
 成立の事情は『ホトトギス』昭和三年九月号の、「京都の暮春の三日」なる虚子の紀行文に詳しい。二十一日夜、大阪で「花鳥諷詠」の初出とも言うべき毎日新聞社での講演の後、東山から鞍馬・貴船・大原と洛北を巡った。二十三日当日は、前日ほどの雨ではないが、天気は悪く、かなり寒かった。鞍馬から貴船に向かい、昼食の後、幸い雨もあがって貴船神社から奥の宮へと向かい、宿に戻って句会を行い、掲句は「春の雨」の形で披露されている。
 本井英氏は「虚子『五百句』評釈(第五五回)」(『夏潮』)で、昭和十年三月発売の「俳句朗読」レコードに添えられた自注��紹介している。それによると、貴船神社を参詣後、貴船川という小川にそってさらに物寂しい奥の宮に着くと、ほとんど参詣する者もなく、辺りには桜がたくさん咲いており、落花もあれば老樹もあった。貴船神社でも雨だったが、しばらく降ると止み、奥の宮にゆく道にある思ひ川が貴船川に流れ込んでおり、そこでまた降り出した、という。
 当初「春の雨」としたのは、京都特有の、降ったりやんだりする「春雨」を実地に体験した報告として成った、ということだろう。それが様々な桜を濡らし、花を散らして川に流す方に重心を置いて「花の雨」とした。ここで「又も」が報告に終わらず、奥山の桜の様々な姿態を想像させる、繚乱の華やかさを得るに至った。
 「思ひ」は、和歌では恋の火を連想させ、貴船には恋の説話が堆積している。恋多き女、和泉式部も夫の心変わりに貴船にお参りをし、貴船川を飛ぶ蛍を見て、歌に託して祈願をしたら、ほどなく願いが叶い、夫婦仲が円満に戻ったという故事がある。
 さらに、謡曲「鉄輪」では、嫉妬に狂った公卿の娘が 貴船社に詣で、鬼神にしてほしいと祈願し、明神の託宣があって、娘は髪を分け、五本の角をして、足に松明をつけ、これを口にもくわえ、頭にも火を燃え上がらせて鬼の姿に変じたという。
 虚子は、こうした幾多の恋の話を面影に、一句を絢爛たる「花の雨」に転じて詠み留めたのである。
 なお、田畑夫妻は祇園の真葛原でにしん料理屋を営む。吟行に侍した三千女は、かつて千賀菊の名で祇園の一力に出ていた舞妓であった。虚子の祇園を舞台にした小説『風流懺法』の三千歳のモデルである。
11 栞して山家集あり西行忌
 『五百句』に「昭和五年三月十三日 七宝会。発行所」と注記。
 この句については、『夏潮虚子研究号』十三号(二〇二三年初月)に私見を披露しているので、ここにそのあらましを再記する。
 最近提出された岸本尚毅氏の掲句に対する解釈の要点は、以下の通りである。「山家集」と「西行忌」という、氏によれば同語反復に終始したこの句は、
「定型と季題以外何物もない」句ということになる(『高濱虚子の百句』)。そもそも膨大な数残る虚子句から、配合の句に絞って論じた所に本書の狙いがある。通常季題と季題以外の取り合わせに俳人は苦���するが、氏に拠れば、虚子にはその迷いの跡がない、と言う。その理由を探ることが本書の目的でもある、とも言う。
 従って、標題句もそうした関心から選ばれ、「人の気配がない」句として解釈されるに至る。その真意は、本書の最後に置かれた「季題についての覚書」に明らかである。岸本氏によれば、虚子の配合の句は、一般のそれより季題に近いものを集めた「ありあわせ」なのだという所に落ち着く。虚子の工夫は、季題を季語らしく見せることにあり、それは季題のイメージの更新でもあった、という仮説が提示される。
 ここまで確認したところで、掲句を眺めれば、「西行忌」から「山家集」を「ありあわせ」、「栞」がどの歌になされているのか、その折の情景や人物はほぼ消去されているというのが、岸本氏の解釈であろう。
 ただし、岸本氏は、「おしまいにまぜっかえすようなことを」言うと断りを入れて、「句はあるがままにその句でしかない」というのも虚子の真意だったろう、と記している。
 これを私なりに敷衍して述べれば、虚子にもともと二物衝撃のような俳句観は極めて希薄だったのだから、標題句のような一見すると同語反復に見える「ありあわせ」については、季題がどれで季節がいつかといった議論を無効にする句作りがなされていたことになる。したがって、「同語反復」の良否を議論することは、虚子の句の評価においては、本質的ではないことになる。
 虚子の読書を題材とした句にも、標題句より取り合わせの色が多少は濃いものがある。
  焼芋がこぼれて田舎源氏かな
 昭和八年の作なので、標題句から詠まれた時期も遠くない。『喜寿艶』の自解はこうである。
 炬燵の上で田舎源氏を開きながら焼藷を食べてゐる女。光氏とか紫とかの極彩色の絵の上にこぼれた焼藷。
 絵入り長編読み物の合巻『偐(にせ)紫田舎源氏』は、本来女性向けの読み物であった。白黒の活字印刷ではない。木版本で、表紙および口絵に華麗な多色摺の絵を配した。それらは、物語上の主要な人物を描くものではあるが、顔は当代人気の歌舞伎役者の似顔絵となっていた。
 「読書」というより、「鑑賞」と言った方がいいこの手の本への接し方は、色気を伴う。主人公光氏は、光源氏のイメージを室町時代の出来事に仕立て直したものである。そこに食い気を配した滑稽と、冬の余り行儀のよくない、それが故に微笑ましい、旧来の読書の季節感が浮かんでくる。確かにこれから比べれば、西行忌の句は人物の影は薄いし、西行の繰り返しということにはなる。周到な岸本氏は、
  去来抄柿を喰ひつつ読む夜哉
  落花生喰ひつつ読むや罪と罰
など、虚子句から同じ発想のものを、「焼芋」句の評で引いてもいる。  そこで、標題句の解釈の焦点は、「栞」が「山家集」のどこにされているのかについての推論・推定に絞られてくる。まずは『山家集』中、もっとも有名な次の歌が想起されよう。
  願はくは花の下にて春死なむ         そのきさらぎの望月の頃
 西行は出来ることなら、旧暦二月の望月の頃に桜の下で死んでゆきたいと願った。『新歳時記』よりさかのぼり、標題句の成立から三年後に出された改造社版『俳諧歳時記』(昭和八年)の「西行忌」の季題解説は、虚子が書いている。この歌を引いて、その願望の通り、二月十五日か十六日に入寂したことを伝えている。従って、掲句についても、この歌と願い通りの入寂を想起するのが順当であろう。その意味で、この句は「花」の句の側面を持つことになる。
 ここまでくると、一句の解釈は、読み止しにした人も、「願はくは」の歌に「栞」をした可能性が出てくる。また、仮にそうでななくとも、「西行忌」に「栞」された「山家集」からは、西行と花の奇縁を想起するのは、当然のことと言えるだろう。
  花有れば西行の日とおもふべし 角川源義
 例えば、この句は「西行忌」ではなく、「花」が季題だ、という事に一応はなるだろう。また、「西行の日」を「西行忌」と考えてよいのか、という問題も残る。しかし、一句は「桜を見れば、桜があれば、その日を西行入寂の日と思え」という意味であり、「西行入寂の日」の奇縁、ひいては西行歌と西行の人生全体への思いがあふれている。むしろ、「西行忌」という枠を一旦外すことを狙った、広義の意味での「西行忌」の句と言えるだろう。
 逆に虚子の句は、「西行忌」に「山家集」を持ち出すことで、和歌・俳諧の徒ならば、西行の作品とともに、その生きざまに習おうとする思いは一入のはずではないか、というところに落ち着くのだろう。「栞」をした人を消すことで、逆に西行を慕った人々に連なる歌俳の心が共有される句となっているわけで、かえってここは、具体的な人物など消して、西行の人生と歌のみを焦点化した方がよかったのである。
 回忌の句は、俳諧の場合、宗祖を慕いつつ、一門の経営に資する世俗性が付きまとってきた。近代俳句はそういう一門の流派を嫌った子規の書生俳句から生まれたが、皮肉なことにその死の直後から「子規忌」は季題に登録され、他ならぬ虚子自身が、大正の俳壇復帰に向けて子規十七回忌を利用した経緯もある(井上『近代俳句の誕生』Ⅳ・2)。
 しかし、西行ならば、広く歌俳を親しむ人々一般に、「開かれた」忌日として価値が高い。標題句が、西行一辺倒で詠まれた理由は、西行の「古典性」「公共性」に由来していたとみてよい。標題句の同語反復に近い言葉の選択の意義は、祈りの言葉に近いものであったからで、それを正面から行わず、「栞」を媒介に『山家集』の読者を無限につなげていく「さりげなさ」こそが、虚子の意識した俳句らしさであったと見る。
『虚子百句』より虚子揮毫
11 栞して山家集あり西行忌
12 紅梅の莟は固し不言
Tumblr media
国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
1 note · View note
jimonjitoh · 1 year ago
Text
初代庄内藩主酒井忠勝は、正室鳥居姫(山形二十二万石、鳥居左京亮忠政の
息女)との間に子が無かったが、四人の側室との間に九人の男児と三人の女児を
もうけた。世子忠当(ただまさ)の母は花の丸殿と呼ばれ��いた。
 長門守が鶴岡に住み始めた頃には、忠当は老中松平伊豆守信綱の息女、千万
と結婚していた。この結婚は庄内藩を二度、危機から救っている。一度目は忠勝
の苛酷な農民支配で百姓の逃散事件が起こった時の、土豪の大肝煎高橋太郎
左衛門とのトラブルである。年貢増徴の結果である農民の逃散の責めを、藩は太
郎左衛門にありとして投獄し、あまつさえ謀殺を計画をしたので、憤慨した太郎左
衛門が幕府に上訴するという事件が起こった。忠当と娘の千万が婚約中であった
ことから、老中松平伊豆守はこの目安状を握りつぶし、代わりに太郎左衛門を侍
身分に取り立てることで妥協を成立させたので、わずかな落ち度で容赦なく大名を
改易や減封に処した当時の幕府の目に留まることなく、庄内藩は改易の危機を免
れたのである。そして二度目はこの「長門守一件」である。
 寛永十五年に長門守が鶴岡に蟄居しはじめてから、彼の回りには少しづつ人が
集まり始める。彼等について斎藤正一氏はこう述べている。
「当時、江戸で横行していた旗本奴のような無法な連中である。その中には二十
余年後に『末松一件』という凶悪事件を引き起こすことになる末松彦太夫の名もあ
る。」
 徳川家が天下統一を果たしたとはいうものの、まだそこここに戦火の記憶は残
り、血生臭さは拭い切れていなかった。榎本宗次氏の「さむらいの履歴書」によれ
ば、仕官の基準は戦場での功績、つまり首を幾つ取ったかという「高名之覚」とい
う履歴書で審査されたという。十六歳で相手と組み討ちの末、首一つとったのを皮
切りに計四つの首を挙げた者、或いは島原の乱での原城先陣争いで一番乗りを
した者。彼等はその証拠として目撃者の添え状も付けている。武勲を中心に彼等
は取り立てられたのである。これは逆にいうと平時において官僚的、事務的な能
力が求められたとき、彼等の何割かは役に立たなかったということであろう。彼等
の力の象徴は「刀」である。後に長門守の一味の末松彦太夫が武士の身分をカ
サにきて、町人の大量殺戮事件を起こした時に、彼の刀が番所の座敷に展示さ
れるということがあった。「当時はこのような荒仕事に使用された刀剣は名誉の武
器として観賞する風習があった���うである。」と正一氏は述べているが、庄内藩の
初期において、いかに武断的な野蛮の風があったかが分かる。
 言うなれば長門守はまさしく武断の人であった。
そして兄であり、庄内藩主の忠勝もまた紛れもなく武断の人であったようである。
武士のたしなみとしての書や茶道に堪能であったとしても、本質において彼等は
戦いの中でこそ自分を発揮できるタイプだったかもしれない。長門守が忠勝に取り
入ったこともあろうが、この兄弟はその性行において、大変にウマがあったようで
ある。
 水面下で何かが形をなして動き始める。
それに呼応するように、拮抗する勢力も形成されてくる。忠勝の長男忠当(ただま
さ)を守る集団のトップは家老の一人、高力喜兵衛。彼の母は忠勝の妹なので、
忠当と喜兵衛は従兄弟である。長門守は叔父に当たる。父と子、従兄弟、叔父と
甥の血肉を分けた者同士が二派に分かれ、相対立し拮抗して争うことになる。
 しかし、もともと忠勝が忠当を疎んじていたというようなことは考えられない。忠当
の生母花の丸の方は寛永十一年閏七月に若くして他界しているが、忠勝はこの
夫人をとりわけ慕わしく思われていたようである。彼女の没後、実家の西田家では
藩主のたっての頼みで、縁故のつてを辿り、わざわざ甲賀から遠縁の女性を引き
取り、養女として後、内室として差し上げている。彼女は後花の丸の方と呼ばれ、
後の松山藩主となる男児をはじめ、四人の男児をもうけている。
 ともあれ、忠勝と忠当父子の間に、肉親のねじれた葛藤のようなものはなかった
とみていい。彼等の間柄が緊張を孕んできたとすれば、それは長門守の存在によ
るものというしかない。長門守は長男の九八郎に、忠当の妹おまんを娶せようとし
ていた。
 長門守が本当に藩を乗っ取ろうとしていたかどうかは、今となっては分からない
ものの、藩主との血縁関係をできるだけ濃くしておいて、息子に何万石かの分封
にあずかることは確実に期待したに違いない。少なくとも白岩八千石よりはずっと
いい。長門守の胸にはあの白岩領での屈辱の記憶が残っていたことだろう。今度
は失敗しない、と彼は考えたかも知れない。刀と頭を精一杯使って、思うままに支
配できる領地を息子の名義にしてやるのだ、と。
 さて、その九八郎である。「北窓雑記」によれば、彼は「賢太子」と呼ばれ、父長
門守とは別格の高潔な人物として描かれている。その一文を拙い現代語に訳して
みよう。
「九八郎様は格別の方でした。ある時、守り役の山本半右衛門をお呼びにな��、
『私は今から自害しようと思うので、介錯を頼む』とねんごろに仰有いますので、半
右衛門は驚き、『何故、そのようなことを』『他でもないが、父君が私を可愛く思う余
り、御本家の相続を私にさせようとしている。事態は急なので、他に方法はないの
だ』とのことでした。半右衛門は必死になってお諫めし、『御賢慮まことに感じ入り
ますが、ここは一旦お考え直しください』といろいろ言葉を尽くして申し上げるけれ
ども、なかなかお聞き入れにならない。半右衛門も必死になってお止めし、ようやく
思いとどまっていただくことができた。その後、半右衛門はすぐに使いに書状をも
たせ、忠当様の附家老の水野内蔵助へ詳しく事情を知らせたので、忠当様、内蔵
助は小人数の供を連れて庄内から、江戸へ発たれたのである。」
 これは正保二年(一六四五)の五月のことである。長門守が鶴岡に住み始めて
七年。「酒井家世紀」によれば、
「一説に山本五左衛門という男が長門守にくみして、世子君を襲う企てがあるとい
う噂が流れた」との記述があり、実際、忠当はこの五月に江戸に登っている。
「北窓雑記」や「酒井家世紀」の但し書きはあくまで一説であるが、それに近い状
況があったのかも知れないと考えても、矛盾はないのである。ただ、九八郎が伝え
られるような「賢太子」だったかどうかについては反証を示す史料も��るので、実
際のところは分からないが、父親の長門守とはタイプの違う人間であることは確か
なようである。ぎらぎらした父とは異なり、線の細さが感じられる。父の言い分に面
と向かっては逆らえず、自害しようとして家臣から止められ、このお家騒動が落着
するのを見届けるように、すーっと若死にしてしまうのである。
 父親とタイプの違う息子といえば、忠当もまたそう言える。
父忠勝は「生来短気で、家臣に対しては手討三百余人の記録を残す」と書かれて
いるほどの人物である。しかし、彼は自分の類い希な癇性に少しも苦しまなかった
のであろうか。おそらくはおっとりと受容的であったであろう花の丸の方を慈しみ、
その亡き後は縁の女性に面影を求めたということは、忠勝の或る一面を窺わせ
る。しかし、藩主としての彼はあくまでも苛烈である。一方、息子の忠当はいささか
病弱の風があったらしく、それが長門守派をして「藩主の任に耐えぬ」という口実
を引き出す元になった。しかし、彼はこの嵐のような事件を耐え抜き、騒動後の庄
内藩の混乱を最小限に押さえているから、政治家としてはむしろ父よりも優れてい
たかも知れない。
 戦国の世の猛々しい気風を身にまとった父。戦火の静まった世に生まれ、抑制
的な思慮を武器に持つ息子。この相異なる傾向を持つ父子が、周辺の者達の
様々な野望、思惑、忠義の織りなす渦の中心に立たされる。そして犠牲はいつの
世も最も周辺の者達がこうむることになる。
 正保二年、十二月。長門守は高力喜兵衛一派を切り崩しにかかった。「三十二
御家中訴訟」事件がそれである。
0 notes
ari0921 · 4 years ago
Text
#織田邦男 先生よりシェア
#加瀬英明氏 の論考をシェアさせていただきます。
━━━━━━━━━━
昭和天皇との「佳話」
━━━━━━━━━━
私にとって昭和天皇の存在は巨大なものだった。皇太子として摂政宮と なられてから68年にわたる、日本にとってもっとも困難な時代に国民と苦 楽を倶にされたからだった
陛下はあの時代の大多数の日本国民と同じように、愚直なほど真面目で あられた。最良の日本人を一身に体現されておられたから、慕われた。
天皇皇后両陛下が、昭和46年にヨーロッパを行幸啓された。その時に お召機がアラスカに給油のために降りると、ニクソン大統領がアンカレッ ジまで出向いて、お迎えした。
私はアメリカの友人と、帝国ホテルのバーのテレビで、天皇がアメリカ 軍の儀仗隊を観閲されるのを見た。陛下の足はこびがぎこちなかったの で、「古来から定められたテ
ンノー・ウォークなのか」とたずねられ、咄嗟(とっさ)に「いや、お眼鏡 の度が合わないのではないか」と答えた。
数日後に、偶然、入江相政侍従長と赤坂見付から浅草まで、地下鉄で乗 り合わせた。
すいていたので隣に座った。私はアメリカの友人との遣り取りについて話 した。
すると、入江侍従長が一瞬姿勢を正して、「いや、お上(かみ)があのよ うにお歩きになるのは、皇太子殿下のころから、一歩一歩、全責任をこめ てお歩きになるからです。
万一、お転びになったら、全国民が日本の将来に不吉なものを感じたでし よう」といった。
私は昭和天皇の宸襟(しんきん)をお悩ませしたことがあった。入江侍従 長が昭和60年に在職中に亡くなった後に、朝日新聞社から『入江相政日 記』が出版された。
私は昭和50年に、高松宮宣仁親王殿下のお話を伺って、月刊『文藝春 秋』2月号に「高松宮かく語りき」という題で、殿下が戦前、戦中をどの ように生きられたのか、寄稿した。
私は37歳だったが、『文藝春秋』の常連執筆者だった。
『入江相政日記』の同年1月24日(土)は、「〈略〉そのあと拝謁、 文春二月���を持つていつていろいろお話する。二十六日の御対面〈注・高 松宮との〉の時にはお手や
はらかにといふことゝ、西園寺〈注・公望(きんもち)、元老〉はルツソー などの影響を強く受けてゐて、高松宮が言つたのよりづつと進歩的だつた と仰せになつたのなどがき
つかけで、一遍(いっぺん)よくお話を承(うけたまわ)ることになる。『さ うすれば気も晴れる』と仰有(おっしゃ)つた。」と、記されている。
陛下が「高松宮かく語りき」に、強いご不満をいだかれたのだった。
昭和51年「4月19日(月) 拝謁。『皇族団欒』にはいろく誤りが ある。一々言はないが、あゝいふことは止めること。寛仁さんについて は、身をつゝしむやうにと仰
有つてはと申上げる。『さうしよう』と仰有つてゐた。」
私は高松宮、喜久子同妃殿下、秩父宮勢津子妃殿下、三笠宮家の寛仁親 王殿下にお願いして、皇室について座談会を行っていただき、『皇族団 欒』という題で『文藝春秋』
昭和51年3月号に掲載された。私が司会をつとめた。寛仁親王殿下には 若手の皇族として、参加していただいた。
この座談会も、陛下のご不興をかった。
「六月二十八日(月) お召で拝謁。〈略〉そして又文春二月号(注・ 「高松宮かく語りき」)のこと。いつまでもあとを引くもの。〈略〉」 「五月二十七日(月)〈略〉拝謁。又いろく皇族団欒についての仰せ。」 「十二月二十二日(月) 十時四十分お召し。この間からのお話の追加。 それにもうすつかり済んだのかと思ってゐたのに、また高松さんのことを 仰有つてゐる。大変なものである〈略〉」
「十二月二十七日(月) 年末所感。(注・前年)一月十日に文春の二月 号が出て、それに皇族団欒とかいふくだらない座談会の記事が乗つた。秩 父妃、高松宮同妃、寛仁さ
んといふ顔ぶれ。司会は加瀬英明。つまり高松さんがひとりで誇りか(マ マ)にしやべつておられるだけ。巳に昨年の
同誌二月号にも加瀬君が書いてゐるが、それも高松宮から
うかゞつたやうなことが多く、それによれば御自分は根つからの平和論者 であり、太平洋戦争を止めたのも自分であるといふ意味のことが書いてあ る。これがお上は非常にお
気に入らず、実に数へ切れない程度々お召があつた。このやうなことであ つたのでそれでは思召(おぼしめ)されることを何でもおつしやつていたゞ いたら如何(いかが)か、そ
れによつてさつぱり遊ばすのならとお勧めし、それはさうすれば楽だと仰 せになるのですつかりうかゞふことにする拝聴録計九冊と結語とがこれを 動機として出来上つた。
なほ明年もおつゞけいたゞかうと思ふ。」
昭和五十二年「四月十二日(火)お召といふことで吹上(注・御��居)へ 行く。又高松さんのこと。皆ごもつともである。〈略〉」
入江氏は私が陛下の御不興をかったことを、ひと言も洩らさなかったの で気づかなかった。
それにもかかわらず、天皇が昭和64年に崩御されると、私は新宮殿で 行われた殯宮
伺候(ひんきゅうしこう)の1人として選ばれて招かれた。
古来から「あらきのみや」「もがりのみや」といわれたが、宮殿の一室 に白い天幕のなかに、お棺(ひつぎ)が安置され、十数人がひと組となって 椅子に正座して、交替して
1時間お守りする。私は瞑目しながら、陛下のお怒りが解けたと思って恐 懼した。
天皇と皇室はその歴史によって培われた精神文化から発する力によっ て、日本国民を束ねてこられた。天皇こそ日本の安定の要であってきた。
天皇が歴史によって蓄えられた徳の力がなければ、昭和20年の夏に先 の大戦を終えることができなかった。これからも日本は皇室を尊ぶことに よって、纏まってゆこう。
13 notes · View notes
2ttf · 13 years ago
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤���➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福��平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅���違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆��逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号//  ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψω��ϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
7 notes · View notes
774 · 5 years ago
Quote
家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家は支配地を減らすことになる。淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握る。 江戸に武家政権を構築し始めた家康とは対立。暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。慶長19年(1614年)、関東との交渉役・片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激動していたが(『当代記』)[12]、期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。しかし翌慶長20年(1615年)の再戦(大坂夏の陣)で大坂城は落城し、秀頼や大野治長らと共に自害した。
淀殿 - Wikipedia
1 note · View note
herbiemikeadamski · 2 years ago
Photo
Tumblr media
. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 12月27日(火) #仏滅(甲寅) 旧暦 12/5 月齢 3.7 年始から361日目(閏年では362日目)にあたり、年末まであと4日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . スエットパンツとかパーカーやらジムウェアも そうですが、紐が片方だけ長くて もう片方がのめり込んで出て来な くってありますよね😅💦あれって 苛つくんですよね💢💢💢出てきや しないから、終いには紐を取って しまうとパンツだと締まりがなくて 履いてズルズル落ちて来るからもう 🙅駄目⤵️前にスタジオレッスンを受ける前 に着替えてたら💡ソレッですもん⤵️⤵️⤵️ 余儀なく断念してレッスン諦めて帰っ て来た事ある🤣😆🤣今、思えば💡 レンタルウェアって手がありましたね😅💦 . 今日一日どなた様も💁‍♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #虎ノ門事件(トラノモンジケン).  1923(大正12)年12月27日(木)赤口.の午前10時45分頃に、第48帝国通常議会の開院式へ向う摂政宮裕仁親王  (後の昭和天皇)を乗せる車が虎ノ門外においてテロリスト難波大助に狙撃された事件である。  弾丸は車の窓を射抜き入江為守侍従長が顔に負傷を負ったが、狙撃を行った難波は、その場で捕らえられた。 .  犯人の難波は、山口の名家に生れ当時 25歳、1919年上京してのち、貧民窟の実情を見てテロリストとなった。  共産主義に近づいたが、関東大震災の渦中で大杉栄ら社会主義者や在日朝鮮人が残忍な虐殺、迫害を受ける  のを見て報復テロを決意した。 .  同事件の責任を負って、当時の山本権兵衛内閣は総辞職、警視総監湯浅倉平、警視庁警務部長正力松太郎は  懲戒免職となりました。  難波に対する裁判は、1924(大正13)年10月1日(水)大安.より大審院長横田秀雄を裁判長に開かれた。  同年11月13日(月)仏滅.に大虐殺罪で死刑を宣告され、11月15日(土)仏滅.に難波は死刑を執行された。 . . #仏滅(ブツメツ).  六曜における大凶日。  「何事も遠慮する日、病めば長引く、仏事はよろしい」ともいわれる。  また『物滅』として「物が一旦滅び、新たに物事が始まる」とされ、「大安」よりも物事を  始めるには良い日との解釈もある。 . #三隣亡. 九星の俗信の一つ。 建築関係において大凶日。 この日に建築をすれば火事を起こし、近所隣を滅ぼすと云われる日。 棟上げや土起こしなど建築に関することは一切忌むべき日。 「さんりんぼ」とも言う。 . #帰忌日(キシニチ/キコジツ/キシニチ/キコニチ・キイミビ). 暦注(レキチュウ)の一つ。  陰陽道では、凶星の精が人家の門戸をふさぐ日で、旅行・帰宅などを忌(イ)む日としている。  遠出・帰宅・転居・結婚・入国なども忌む日であります。 . #八専間日(ハッセンマビ). 干と支の性質が同じ組み合わせの多い期間のことですが、八専間日は八専の期間中に干と支の性質の組み合わせが同じでない日。 八専は凶日ですが、間日は凶日ではないとされています。 . . #航空母艦鳳翔竣工(コウクウボカンホウショウシュンコウ).  1922(大正11)年12月27日(水)、世界初の新造空母である。 . #寒天発祥の日. . #ピーターパンの日. . #浅草仲見世記念日. . #日本レコード大賞開催の日.  1959年の今日に文京公会堂で第1回日本レ��ード大賞開催された。  現在では大晦日前の12月30日に放映されている。 今年は、第64回目で、2022(令和4)年12月30日(金)先勝.17時30分から 生放送!  https://www.tbs.co.jp/recordaward/ . . ■本日の成句■. #移れば変わる世の習い(ウツレバカワルヨノナライ). 【解説】 時世によって世の中の状況はさまざまに変化する。 この目まぐるしい移り変わりも世の常のことであり、怪しむに足りないという意味。 時代が移り変われば世の中も変わっていくのが当然だと云う事。 . . 1976(昭和51)年12月27日(月)大安. #竹原ピストル(#たけはらピストル/本名:竹原 和生) 【フォークシンガー、ギタリスト、俳優】 〔千葉県〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/CmpWZWZhQywM-lHqEdNHhhx3WnEXDQkgRCWqc00/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
d-memory · 2 years ago
Text
ハロプロ研修生発表会2015~9月の生タマゴShow!~
2015/09/06夜公演@Zepp Tokyo
01.HOW DO YOU LIKE JAPAN?~日本はどんな感じでっか?~
【つばきMC】
02.ヒロインになろうか![つばきファクトリー]
03.青春まんまんなか[つばきファクトリー] 
04.笑顔YESヌード[広瀬野村一岡加賀船木堀江高瀬梁川秋山] 
05.FARAWAY[浜浦小川岸本井上ひ段原] 
06.ハピネス~幸福歓迎!~[小野仲野梁川前田秋山金津笠原]
【高瀬堀江梁川MC】 
07.Mr.Moonlight~愛のビッグバンド~[一岡加賀井上ひ横川段原船木小野田橋本堀江高瀬梁川] 
08.Danceでバコーン!
09.ダンスパフォーマンス[加賀井上ひ堀江前田秋山]
【井上ひ前田秋山MC】
10.ラーメン大好き小泉さんの唄[こぶしファクトリー] 
11.念には念(念入りVer.)[こぶしファクトリー]
【こぶしMC】 
12.ドスコイ!ケンキョにダイタン[こぶしファクトリー] 
13.アレコレしたい![小片山岸浅倉橋本小野] 
14.新しい私になれ![井上ひ横川段原船木竹村小野田]
15.TODAY IS MY BIRTHDAY[新沼一岡加賀橋本堀江島野高瀬] 
16.彼女になりたいっ!!![野村小川浜浦田口和田山岸岸本] 
17.女の園
18.Say! Hello!
19.Wonderful World
 
諸事情で夜公演だけしか入れなくなってしまってめちゃくちゃ悔しかった9月の生タマゴ。ヲタ活のバランスを取らなければと思ってはいるものの生タマゴ削るのは本当に辛いなあ( ; ; )
コレ写は引きがあんまりよろしくなかったけど見知らぬ希空ヲタさんに声かけてもらってなんとかでぃーちゃんゲット…!ありがとうございました!
今回はファミ席2階D列下手でいつもの小川ヲタと連番でした。D列!でぃー列!!ゼップの2階初めて入った気がするけど見やすかった。
・HOW DO YOU LIKE JAPAN?~日本はどんな感じでっか?~
昼公演のレポで把握してたけど最初っから加賀さんがかっ飛ばしすぎててまた惚れ直した。この曲の要のガキさんパートをこんなに自分のものにしてがっつり歌いこなす研修生います????いました!!!!;;;;;;
ステージの上下端っこに配置したツインボーカルを1番と2番で切り替えてくパート割。1番は加賀(上手端)堀江(下手端)、2番は山岸小片。りこでぃー!!堀江ちゃんも好きなのでツインで歌ってて高まる!
アイラブトーキョー!の煽りも原曲通り入れちゃったりして完全に加賀楓の曲になってた…誰よりも目立ってて凄まじかった…。
髪型はグッズ写真と一緒でちょっとパーマかけた感じ。
・つばきMC
つばきは全員に〇〇リーダーという役職を決めた。食事とか掃除とかそういう当番みたいな。
理子は2日前に決まったダンスリーダー。納得。ちょいちょい言葉に詰まりながら話しててカワイイ〜これでも実際グループのリーダーでもある理子ちゃん(p_q)
「癒しリーダーを決めましょう!」とゆめのが言い出す。せーので癒しリーダーに指名したい人を指差すもゆめのだけ自分自身を指差し残りはみんな理子を指名(笑)理子は癒しリーダーも兼任することになりました!
やっぱりゆめのがなんとなくグループに馴染めてなさそうな気がしないでもなくてちょっと心配。本人は笑ってネタにしてたけど…。ゆめさく離されちゃったの厳しいなあ。
・笑顔YESヌード
でぃーちゃん吉澤パート!ここでも!うえーん最高( ; ; )
貴方と見てたわ流れ星〜で上見上げる仕草したでぃーちゃんが美しかった。
船木梁川秋山のチビトリオのグイグイ来てる感が思った以上にすごかった。やなみん怖いな。
・FARAWAY
るるちゃんの歌はやっぱり圧倒してたな。迫力というか威圧感みたいなものは浜浦さんが半端なかったけどw
れなことひかるんのユニゾンがなかなか良い。声質が合ってるのかな。
・ハピネス~幸福歓迎!~
24期にまだ気になる子がいないので全体的にぼんやり眺める。個人的に目を引いたのは笠原ちゃんかなあ〜色白で手足が長くてスタイルが良い。
・高瀬堀江梁川MC
堀江ちゃんの女子力自慢料理トークかわいかった。冷蔵庫の残り物でパッと料理できちゃうのって女子力高い人じゃないとできないじゃないですか〜↑↑みたいなw
堀江特製みそラーメン!のドヤ感がかわいかった。
やなみんは喋り方までしっかりしすぎててビビる。この子本当に素人上がりか?
・Mr.Moonlight~愛のビッグバンド~
はい本日のメインです!!!往年の吉澤ひとみが完全に乗り移った加賀楓の姿がそこにあった……!!!!!!!
男役は以前公開されていたように吉澤=加賀、後藤=段原、安倍=梁川���女子ポジで目立ってたのはイントロ歌った高瀬、ダンスパートでは堀江船木かな。
もうなんと言うか言葉に表せないくらい加賀楓の加賀楓による加賀ヲタのためのステージがそこに出来上がってて??こんな扱いされちゃっていいの??( ; ; )
もう、とにかく、良かった!最高!!こんな素晴らしいミスムンを見せてくれてありがとうでぃーちゃん!!!
間奏のアオ!とかちょいちょい入るフェイク的なものとか全て完コピした上で加賀楓色に染めてた…この子は本当にすごい!!なんなの!!!埋もれさせるなよ事務所!!(過激派)
まわりに女の子数人侍らせてる推しの姿を見るのも良いものですね。イケメンポジ余裕でいけるやん。
・Danceでバコーン!〜ダンスパフォーマンス
このへんはあんまり全体を見ないで双眼鏡ででぃーちゃんロックオンしてたかな。この子は本当に楽しそうに踊るな〜って口元緩む。
ガシガシバキバキ踊ってこそ加賀楓みたいなとこあるのでこうしてダンスに徹してパフォーマンスできる演目があるのはいいな。でもこの子は歌でもトップクラスなんだぞすごいだろ??
ダンス選抜は24期から2人も入ってたけどどちらも引けを取ってなくてすごいなと思った。
・こぶしMC
たぐっちのジェラート話がかわいすぎて!!小学生の夏休みの絵日記かよ!?
こぶしがTIFでジェラートを売ることになり、たぐっちはソースをかける係だったけどふざけてかけすぎてしまうから結局取り上げられる。それでもどうしてもジェラートに関わるお手伝いがしたいたぐっちは「ジェラートにスプーンを付ける係」を編み出し満足。みたいなお話です。なつみちゃんのなつやすみのおもいで。
あとみなみなと浜浦さんの確執がなかなか興味深かった。イベントで全国回っても浜浦さんとれいれいがご当地ラーメンばっかり食べるからもっとラーメン以外の名物も食べたい!と主張するみなみなに対して「え〜〜??」とだけ返す浜浦さん。怖い。
・アレコレしたい!
小野ちゃんがなかなか歌えてた。
・新しい私になれ!
さおりん今回はあんまり見せ場なかったなあ。ばくわらパートでした。
いつもある中京メン選抜曲だけど結局だんむす無双だなといった印象。
・TODAY IS MY BIRTHDAY
でぃーちゃんは佐紀ちゃんパート。間奏のフェイクももらえるしおいしいね(p_q)
希空嫌いじゃないけどやっぱりまだ音程がブレがちなところが気になる。しかし唯一のファクトリーメンなだけあってなんか若干オーラ出てきたように思う。
・彼女になりたいっ!!!
まさかの17期以前のファクトリーメンによって歌われる研修生最初期楽曲。ここで涙腺が決壊しました。
以前からよく知ってるメンバーばかりで、私がでぃーちゃんを見るために今まで通ってきた生タマゴはこの子たちがメイン張ってた公演ばかりで、でもそこにでぃーちゃんの姿はなくて、っていう絶妙な切なさも��り。それでも慣れ親しんだメンバーばかりが踊ってる様子に安心感もあり。
ここで見た浜浦さんはもうハロプロ研修生の浜浦彩乃ではなくこぶしファクトリーというデビューグループの浜浦彩乃の顔をしていた。ほんとに研修生時代と顔付きが変わってた。デビューってすごいな。でぃーちゃんも早くこうなれるといいな。
そして過去最大レベルにヲタがはまちゃんちょーだいを頑張っててwwどうせなら参加しとけばよかったなと思いました!もうはまちょーできなくなっちゃうのかな。
・女の園〜Say! Hello!
歌詞をワンフレーズワンフレーズいちいち噛み締めてしまうし去年の12月の生タマゴの大阪遠征も思い出してしまうしずっと泣いてた記憶しかない。双眼鏡覗きながらも溢れて止まらなかった。
女の園のウォウォウォ♪はでぃーちゃんも歌ってたな。2人のユニゾンパートのはずだけどもう1人は誰だったんだろう。
セイハロでは浜浦さんが「無駄な経験なんてひとつもない」パートを担当してて泣く以外何もできなかった。
・Wonderful World
こぶつば含めての全員曲の最初のソロパートが加賀楓に回ってくるなんて誰が思います???でぃーちゃんが歌い始めた瞬間泣くしかないでしょ。
しかも立ち位置は最前センター。なんで??デビューしてないんだよ??デビュー組従えてそのポジションに立たせてもらえる意味は何???
歌詞の「あなた」を全てでぃーちゃんに当てはめてしまってたまらなく切なくて愛おしくなってこの世界は素晴らしいよねって思えた(ポエマー)
9月の生タマゴって例年ものすごく思い出深くなるなって思ってたけど今回も例に漏れずそんな感じでした。
おととしはおへそ初披露でまさかの大量ソロパート大抜擢だったり、去年は娘。新メンバー発表直前の公演だったから今の研修生メンバー全員を研修生として見ていられる最後だったことが猛烈に切なかったり。今回も超超超センチだったな(笑)
好きなんですよね本当に〜〜〜!加賀楓ちゃんが大好きです!!やっぱり一番に応援していたいのは君だよ!あなたがいればあなたを想えばそれだけでここはワンダフルワールドでした!
どうか彼女に明るい未来が訪れますように。訪れてくれ頼む。大好きだよ!
0 notes
kisanebacci · 6 years ago
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
気違宗中本山 不動山前進寺 縁起絵巻
当山は山号を不動山と称し、寺号を前進寺と、称します
名は体を現す、と申しますが、
「不動なるが故に前進す、前進するが故に不動なり」と云う
御教えを体現しております、有り難い山号寺号であります
古来より流されやすい世相に、竿を指してまいりましたら、
いつしか、世の中の方が変わり過ぎ、動かざること山の如きに変わらなかったのが、ワルカッタのか、ソウなのか、だが、しかし、其の故に前進していると言いましょうか、はたまた、世の中が変わってしまって、変わらないのは当山だけなので、不動だ、と言いましょうか、いや、まったく、世の中の三千億万劫、遅れている、と言いましょうか、はたまた、六千憶万兆由旬後方に居てると言いましょうか、遅れついでに、古来より、きちがい寺と親しまれ、参詣の善男善女悪男悪女が絶えることなく、参詣されておりますところで御座います。
また、
「我もまた、狂者と為りて、この国を破滅させん、この社会に仇を為さん」
「少なくとも精神医と看護婦看護士と心理職には落とし前を付けなん」と
狂之修行者の入山も後を絶ちません
一般には、山科のきちがい寺、きーさん寺、日ノ岡のだんだらさん、と親しまれております
口に
南無キーサン革命如来南無赤黄だんだら不動明王尊を唱え、
我が身の背足乃至裏足をもちて、
精神医療従事者の中段横三枚に廻蹴を加撃し、
心にキーサン革命バンザいクタバれ精神医、カチコンだろか、と意するは、
此れ即ち身口意三密の行、即身成鬼極楽往生の因たるべし
愚怒禿説
魔訶般若キーサン革命観世音菩薩気違経
 狂鬼怨念普門品第百七
精神医加電撃患者頭蓋部
念彼観音力
電撃器段々壊
看護婦強制患者入保護室
看護士強制連行閉鎖病棟
念彼観音力
鉄格子段々壊
即得解脱
精神医勝手気儘増薬或勝手気儘減薬
念彼観音力
精神医段々壊
心理士強制患者心理試験
念彼観音力
心理士心理段々壊
看護婦強制四肢拘束
看護士強制五点張
念彼観音力
拘束帯段々壊
���得解脱
心理士強制国家試験変成公認心理師
念彼観音力
心理士加公認心理師諸共段々壊
精神医勝手気儘診断書或勝手気儘処方箋
念彼観音力
精神医段々壊
精神医勝手気儘診断発達障害無理矢理断薬
念彼観音力
発達障害段々壊
発達障害段々崩壊益々破壊強烈破滅
唱え奉る魔訶般若キーサン革命観世音菩薩気違経の功徳は
精神医療一切皆苦
精神福祉一切皆空
とぞ照見する所也
その故に後生の一大事をかけて
速やかに一念発起してカチコミを掛け奉り
即日即知
進者無間地獄
退者亦復無限地獄
六方四周一切悉尽無間地獄
とぞ、申したれ
然れば即ち
南無帰命刃十方無毛光キーサン革命如来と
念じ給いて世の中に仇を為さんとす行者
是れ即ち狂之行者狂変大菩薩とは、申すべきもの也
菩薩行の最たるも最
極楽往生即身成鬼決定入正定之聚とも釈せし者也
能々可在吟味事
あなかしこあなかしこ
金堂
 御本尊本邦唯一の狂気阿修羅尊天を御本尊としてお祀りしております
本尊狂気阿修羅尊天
  脇侍 餓鬼童子 畜生童子
      魑魅魍魎神将 狂鬼羅刹尊天
 左脇壇 南無帰命刃十方無毛光キーサン革命如来
 右脇壇 南無帰命大憤怒カチコミ赤黄だんだら不動明王尊
僧堂 狂之修行者修行道場 主行易筋行
かち込み毘沙門尊天
  目打金的蹴開身突屈身蹴転回連蹴三日月返刈足水月返押倒半月返掬首投
壇上占拠摩利支尊天
  逆小手送小手切小手十字小手巻小手押小手切返投片胸落引胸落巻落
狂之行者狂変大菩薩
  腕十字立合掌固逆天秤木葉返表投裏投閂内天秤下段返燕返巻打首投
瑠璃光殿
処方薬師如来
  脇侍 減剤天 増薬神将 断薬天
      電光菩薩 鉄格子菩薩 拘束菩薩
       
二尊堂
地蔵堂と観音堂の合体したる其の優美なるお姿は、本邦唯一、建築的にも類まれなものとして、世界遺産に登録されそうになりましたが、迷惑極まりないハナシだと、お断り申し上げた所で御座います
キーサン革命延命地蔵菩薩
キーサン革命観世音菩薩
 二尊連合御真言 きーさん、かかか、かくめい、ばんざい、まっとれや、そわか
食堂 狂気七福神巡り番外札所なり
減財天
原罪天
五面大黒天
吉害吉祥天
観音堂 狂人三十三所観音霊場九番札所なり
キーサン革命千手千刃観世音菩薩
十一面怨恨観世音菩薩
壇上占拠罵倒観世音菩薩
五点張拘束観世音菩薩
不逞不埒観世音菩薩
就労継続支援B型不如意輪観世音菩薩
五大堂 怨敵退散調伏護摩を修す
本邦唯一の赤黄だんだら不動尊で御座います。
日ノ岡のだんだらさんと親しまれ、古来より善男善女悪男悪女の参詣が絶えることがありません、だんだら様の御利益は、全てを焼き尽くすがごとくの怒り、そして復讐心、地獄の劫火そのもので御座います
大憤怒狂鬼カチコミ赤黄だんだら不動明王尊
大威嚇明王尊
大不徳明王尊
大怠惰明王尊
降参是明王尊
開山九祖堂 開山 酒乱大師 洛陽東山の地にて電光、鉄格子、拘束菩薩を感得し給う 高祖 改革国師 伊予松山の地にて処方薬師如来を感得し給う 太祖 開放上人 山城宇治の地にて五点張拘束観世音菩薩を感得し給う 真祖 展開上人 土佐高知の地にて魑魅魍魎神将狂鬼羅刹尊天を感得し給う 激祖 撃怒和尚 信州駒ケ根の地にて革命延命地蔵菩薩を感得し給う
荒祖 暴発和尚 越後長岡の地にてかち込み毘沙門尊天を感得し給う 轟祖 劇刃和尚 洛陽日ノ岡の地にて狂気阿修羅尊天を感得し給う 中興 酒淫之行者 坂東山谷の地にて不逞不埒観世音菩薩を感得し給う
鬼祖 忿怒和尚 洛陽岩倉の地にてキーサン革命観世音菩薩を感得し給う
苦祖 凶刃軒狂鬼斎 信州伊那谷の地にてカチコミ不動明王尊を感得し給う
山内守護社
風塵雷神鬼神狂神社
気違大明神社 障害大権現社 
山内塔頭寺院
精神病院  顛狂院 養老院
凶刃軒 狂鬼亭 幼稚園 
東塔九重塔 苦渋塔とも反社会復帰根本大塔とも称セリ   
西塔多呆塔 阿崩塔とも反発達障害多吠大塔とも称セリ
往時、二塔在りしも先年、公認心理師国家資格宗門徒並びに笠陽イツ発達門徒宗の焼打ちに合い焼亡せしも、現在、復興造塔のため全国勧進中也
頒布物 造塔勧進帳
「キーサン革命極意全七巻」「原則と基盤全三巻」
「発達障害笠批判全六巻」「ナンなのダ全十五巻」
当山の御利益 無し 但し 世の中に対する恨み怒りが増すこと疑い無し 守護社の御神徳 誤診得のみ
当山奉賛護持会のお願い
御浄財、御錠剤、御供物食物等のご寄付をお願いしております
詳しくは、前進寺友の会、やすらぎの里を支える会まで、ご連絡くださいませ
狂気苦渋苦年閏苦月吉日  凶刃軒狂鬼斎 愚怒禿心乱 謹表白
二〇一五年五月起稿 キーサン革命の鬼 えばっちより
ありがたやありがたや、ありがたきことでございます
友の会みんなの部屋の、亡くなったなかまたちの御遺影前祭壇にて
時たまに心中にて読経��ておりますモノデスが
せっかくですので、みなさまへも、御披露させて頂きました
キーサン革命の鬼ことえばっち 江端一起
え��っちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
1 note · View note
xf-2 · 7 years ago
Link
江戸時代の我が国の身分制は、欧米のそれとは異なる、人間性の高いものであった。ましてや朝鮮、清とは比べ物にならなかった事が分かります。
ChannelAJER プレミアムメールマガジン 第1177号
日本の国柄(くにがら)第292号 福住蟷螂
長崎のオランダ商館に常駐していた医師たちや博物学者が「日本の裁判がきわめて公正である」と評している。藩主が領内の農民に一揆を起こされたら、幕府は藩主を厳罰に処した。幕府の高級官吏も不正があれば処罰した。庶民はどうか。「十両以上の盗みは打ち首」という刑罰はよく知られている。ところがそれでは盗まれた方が「寝覚めが悪い」らしい。役人も、五十両百両を盗まれた者に「九両五分」と届けるよう指導したという。イギリスの外交官ミットフォードが「日本は内分ということでやっている国だ」と観察した。建前の法はそのままで、実際には緩やかに「穏便に取り計らう」のだ。それが皆にとっても受け入れやすい実用的なやり方である。
近世史の尾藤正英氏は「社会の秩序というものは、侍にしろ百姓にしろ職人にしろ、各個人がその社会のなかでもつ「役」が集積して出来上がっている。『役』は『職分』といいかえてもいいが、個々人は己の職分に社会的責任を感じており、それがその人にとっての『誇り』なのだ」と捉えた(『江戸時代とは何か』)。身分の上下を気にせず、皆が自分の役割に誇りを持つ社会構造である。下位の者が上位の者に絶対服従ではない。金持ちや上流階級も庶民と同じ地区に暮らしていて、交流さえしている。庶民同士は皆同じ人間だから友だち付き合いする。助け合うからだろう、貧民窟がない。このことも西欧人は驚いている。貧しくても人間らしい楽しみを持つ余裕があった。
アメリカ人女性が華族の子女が通う女学校で英語を教えていた。『小公子』はイギリスの伯爵家が舞台だ。家族が冗談を言った時、直立不動で聞いていた使用人が思わずくすりと笑った。それを家族たちがきっと睨みつける場面がある。そのことが生徒のお嬢さんたちは全く理解できなかったという。ヨーロッパでは貴族と庶民は別人種のように差別されている。日本では使用人も家族の一員である。西欧と日本では、身分や階級の意味が全く異なるのだ。
エドウィン・アーノルドが「日本人は、いかにすればお互いに気持ちよく幸せになれるかについて、社会契約を結んでいるようだ」と書いている。社会契約は西欧流民主主義の基盤である。日本人には社会契約の観念がない。代わりに、他人への気遣い・和の精神がある。江戸時代に日本流民主主義を、それも西欧流より国民をずっと幸せにする社会制度を作り上げた、と考えられる。
41 notes · View notes
chikuri · 7 years ago
Text
“ 多くの韓国人は空気が読めない(KY)という事が分かると、彼らの異様な行動の謎が解けてくる。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ■1.「空気を読めない」大統領  文在寅大統領はどうしてこんな子供じみた真似をするのだろう、と不思議に思った。ペンス米副大統領が北代表団と鉢合わせしないよう求めていたのに、9日の各国首脳を招いたレセプションで、北朝鮮代表と同じテーブルに座らせようとした。多少でも言葉を交わせば、米朝対話を実現した「手柄」になるとでも思ったのか。  ペンス副大統領は安倍首相とともに、遅れて会場に入り、冒頭の集合写真で北代表と一緒に映ることを拒否した。それも文在寅大統領のスピーチが終わってから会場に入り、数人の各国首脳と立ち話をした後、5分ほどで立ち去った。北代表とは握手すらしなかった。米側の意向を踏みにじって強引に米朝対話の場を作ろうとした文在寅大統領の意向は完全に無視されたのである。  こんなだまし討ちのような真似をされて怒らない人物はいない。それほど相手の気持ちを読めていないとは、日本人のみならず欧米人でもシナ人でも、あきれてしまうだろう。こういう人間をKY、「空気を読めない」人と言う。 ■2.世界を怒らせた韓国のKYぶり  KYぶりは文大統領の個人的な性格の問題ではなく、韓国全体としての傾向だろう。その極端な例が、平成14(2002)年の日韓共催のサッカーワールドカップだった。  韓国に有利な疑惑の判定が相次ぎ、国際サッカー連盟のまとめたワールドカップ百年の歴史における「重大誤審疑惑」10例のうち、実に4件がこの日韓ワールドカップで起こった。それも韓国チームが16強戦(対イタリア)と8強戦(対スペイン)に勝ち抜いた山場の二試合に集中している。  被害を受けたイタリア、スペインは言うまでもないが、それ以外の国でも次のような報道がなされた。 __________ ・ イギリス デイリーテレグラフ紙: 茶番判定で汚れた韓国の奇跡 ・ アルゼンチン ラ・ナシオン紙: W杯を中止に ・ オーストリア クリア紙: W杯に正義はなくなった  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  インターネットの世界も炎上した。たとえばアメリカのYahoo! 掲示板では次のような具合である。 __________ ・ No more dirty tricks, Koreans! (13,106 発言)韓国人よ! 汚いトリックはもう沢山だ! ・ I hope Korea loses (2,047) 韓国、負けろ。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  こんなあからさまな「誤審疑惑」を行って、国際社会がどれほど怒るか、それが自国の名誉にどれほどダメージを与えるのか、まったく考えてもいないようなのだ。  観客の方もKYぶりでは負けてはいない。対ドイツ戦では「ヒトラーの息子たちは去れ」というプラカードを掲げ、中心選手の写真を黒枠で囲って遺影のように示したりと、国際社会を唖然とさせるような行動を平気でとった。 ■3.東大博士課程留学生のKY  韓国人のKYぶりは、大統領の晩餐会や、ワールドカップなどの特別な場合だけではなく、日常生活でも発揮されている。韓国から帰化した呉善花さんはこんな経験をした。日本で講演した時の事、質疑応答で韓国人の男性が真っ先に手を上げて、こう発言した。 __________  皆さん、私は東京大学の博士課程でいま勉強しています。しかし呉さんは東京外大の修士課程でしょう。そんな人の話を信じられますか? なぜそんな人の話を聞いて盛り上がっているんですか、私には理解できません。  私はソウルの出身で父は学校の校長をしていたし母も教師をしていました。私はそういう教育者の家庭で育ちましたが、呉さんは済州島の田舎の出身で、新宿の歌舞伎町でホステスたちを相手にする仕事〔日本語教師〕をしていました。そんな女の人なんですよ。 そんな女の人が、なぜ日本と韓国の国際関係という大事なことを論じるんですか。なぜみなさんはそれを信じて盛り上がっているんですか。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  当然ながら、会場のあちこちから「失礼なことを言うな」「出ていけ!」といった言葉が浴びせられたのだが、その韓国人は「えっ? 失礼なのはあなた方じゃないですか」と、なぜ自分が失礼と言われなくてはならないのか、まるで納得いかないという顔をするばかりだった。[1, p99]  文化摩擦といえばどこにでもあるが、ここで注目すべきは、この韓国人男性は東大の博士課程で学び、これだけ日本語が達者なら、日本社会に住んだ期間も長いはず、という点だ。それなのに、こんな言い方をしたら日本社会では非難を浴びせられる、ということが全���分かっていない。  人並みに周囲の空気を読める人間なら、外国社会では、こんな言い方、振る舞い方をしたら相手の気分を害する、ということを学んでいくものだ。それが文化摩擦を減らしていく道なのだが、この韓国人男性は、まさに「空気を読む」態度がまったくないがために、日本人から見れば唖然とするような主張を平気でしているのである。 ■4.「ウリジナル」もKYから  多くの韓国人は空気を読まない、という事が分かると、彼らの異様な行動の謎が解けてくる。たとえば、なんでもかんでも韓国が起源だとする韓国起源説、別名「ウリジナル」説。Wikipediaでは次のように紹介している。 __________ 韓国起源説の対象は、侍、日本刀、剣道、空手といった武術・武道関連、歌舞伎や折り紙といった伝統文化、寿司や沢庵といった日本料理、「わっしょい」等の様々な日本語の語源、東洲斎写楽や天皇などの著名人物、熊本城や日本庭園や勾玉といった有形文化財、ソメイヨシノや秋田犬のような動植物、 旭日旗のような日本の国旗に至るまで、分野や有形無形を問わず、日本の象徴とである様々なものに対して主張されている。[2]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  これは反日思考の一種と捉えることも出来そうだが、相手は日本だけではない。対象はシナにも及び、シナ浙江省の新聞「新快報」は連載記事「文化をめぐる中韓の戦い」で、次のように伝えているそうだ。 __________ 「近年、韓国では『中国文化が実は韓国起源だ』との主張が相次いで発表されている。儒教の始祖である孔子や古代の美女・西施、中国医学の名著『本草綱目』の著者・李自珍はみな朝鮮人で、そればかりか漢方・風水などの中国文化も半島起源だという。 これらの韓国起源説はたんなる主張で終わらず、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)に世界遺産として登録しようとする動きも見せていると中国では警戒されている。実際、韓国の『江陵端午祭」が世界無形文化遺産に登録されたことは中国に大きな衝撃を与えた。[1, p55]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  あるものを自国が起源だと主張する「お国自慢」はどの国にもあるが、韓国のように、相手国を怒らせてまで根拠不明の自国起源説をなんでもかんでも、しかも堂々と主張する国は他にない。これも、韓国人の周囲の空気を読もうとしないKYの現れだと考えれば、納得がいく。 ■5.グローバルに摩擦を起こしている韓国人のKY  グローバル化の時代となり、外国人が韓国にやってきたり、韓国人が国外に出るようになって、必然的にそのKYぶりが国際的な摩擦を引き起こすようになった。呉善花さんの著書[1]では多くの事例が挙げられているが、そのごく一部を紹介しよう。  台湾の少年野球チームが2006年8月に韓国から招待されて、韓国の少年野球大会に参加した。そのチームがベスト8まで進出した所、突然、韓国側から「試合禁止」を言い渡された。理由として「優勝旗は国内(韓国)のためにあるから」と台湾チームの監督は告げられたという。  メキシコシティの韓国人移民のコミュニティについて、メキシコの有力日刊紙「レフォルマ」が2001年に全面特集記事を組んだ。その中には次のような一節があった。 __________ 「韓国人が主に住んでいるメキシコシティのフアレス区域は、五十年ほど前までは様々な国からの移民が仲良く共存する地域だったが、韓国人が移住してから、隣人同士の情が薄れた代わり、不満がいっぱいの状態だ。現地の法を破った韓国人が、メキシコ人と多くのいざこざを起こしている[1, p211」  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  1992年のロサンゼルス暴動も、白人だけでなく、韓国系移民の黒人差別行為が一因となっていた。焼き討ちの被害額の半分は韓国系商店だったと言われる。暴動後のアメリカ黒人学生のアンケートでは「最も距離を置きたい民族」に韓国人が選ばれた。  さらに、アルゼンチンで追放したい民族第一位に韓国人が選ばれた(2002年)。フィリピン当局が韓国人による人身売買事件の多発から、自国女性に「韓国人警戒令」を出した(2005年)。ネパールのシェルパ組合が、韓国人はささいなことですぐ殴るからと「韓国人登山客の道案内はしない」と公式表明した、等々。  航空機内や空港で、ちょっとした事から集団で騒動を起こす韓国人たちの問題には、韓国の外交通商部も手を焼き、2006年4月から、「海外で醜態をさらして摘発された『醜い韓国人(Ugly Korean)』に一定期間のパスポートの発給を禁止」する「醜い韓国人総合対策」をとった。  外国人が、文化の違いから知らずに現地社会に対して失礼な振る舞いをしてしまうのはグローバル時代にはよくある事だが、本人が現地に気を使っている限りは、多くの国々は寛容である。しかし、その外国人が現地の文化もマナーも一切無視して、KYで振る舞ったら、現地の人々も我慢できなくなる。  多くの韓国人のKYぶりはこういう意味で世界でも突出しており、各国で摩擦を引き起こしているのである。 ■6.「韓国伝統の集団利己主義」を生んだ「党争」  民族性は歴史を通じて形成されていく。したがって、韓国人のKYの原因は、その歴史の中に見つかるはずだ。呉善花さんは著書で、「韓国伝統の集団利己主義」を指摘している。これは「身内=自分の属する血縁一族とその血統」は絶対的な善であり、その繁栄を侵す者は絶対的な悪と見なす考え方である。[1, p21]  韓国の少年野球で台湾チームを呼んだのは、自国の大会に国際色を添えたいというだけなのに、優勝まで狙おうというのは「身内」の利益を侵す。ワールドカップは「身内」の晴れ舞台なのだから、多少の「重大誤審疑惑」くらいよそ者は目をつぶるべきだ、等々。  自分たちの「身内」だけの利益しか考えないから、よそ者は敵か、利用すべきその他大勢でしかない。だから「身内」以外の空気なぞ読む必要はないのである。  この「集団利己主義」を呉善花は「韓国伝統の」と形容する。その理由は、こう説明されている。 __________  その歴史的な典型を李氏朝鮮王朝の高級官僚たちにみることができる。彼らは、有力な血縁一族(氏族)を中心に徒党を組んで政権争いにしのぎをけずり合った。ある党派が政権を握ると、他の党派はそれに協力して政治を行なうのではなく、次の政権奪取を狙ってさまざまな手を打つことに終始した。[1, p22]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  党争の典型例が、1659年、第17代の孝宗が死去した時、その��母の慈懿(じい)大妃の服喪期間をどうするか、に関して起きた論争だ。1年を主張する西人党と、3年を正しいとする南人党が十数年も論争した。  最終的には国王の鶴の一声で西人党の勝利に終わったが、負けた南人党を待っていたのは、「邪説」を述べた敗者として賜死(自殺を命ずる刑罰)、杖死(杖で殴り殺す刑罰)、流刑、蟄居、罷免などであった。  こうした党争の歴史を分析した韓国の学者の論文では、223件もの党争のうち、政策に関するものはわずか3件であり、他の大部分は、職務上の過失・腐敗・怠慢、人品上の欠陥、儀礼上の過ちにより、政敵を攻撃してその職を奪おう、というものだったという。[3,p136] ■7.空気を読み過ぎる日本人の苦難  韓国がまさに「党争」の如くにわが国を攻撃している「従軍慰安婦」問題では、その原作者はシナであると言われている[4]。米国内に慰安婦像を建ててアメリカや韓国の反日意識を盛り上げれば、最も利益を得るのはシナだからだ。  しかし、そのシナリオを演ずる韓国は、現地での摩擦や日本での反感などを全く気にしない、実にぴったりの役者なのである。  空気を読めない韓国人と違って、シナ人は空気を読むだけでなく、自分の有利なように空気を変えてしまう天才である。これまた数千年も大陸での異民族間で権謀術数の戦いを繰り広げてきた歴史が作りだしたシナ人の特性である。  これに比べれば、『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』[a]で説いたように、皇室という利他心の源泉を国家の中枢に抱いて、2千年の間のほとんどの期間を「集団的利他心」で平和と安寧のうちに過ごしてきた日本人は、逆に空気を読みすぎるきらいがある。  空気を読み過ぎる我々日本人にとっては、空気をまったく読めない韓国人と、空気を自在に変えてしまうシナ人を隣人に持つとは、なんとも難しい宿命ではある。 (文責 伊勢雅臣)”
―No.1050 空気が読めない韓国人
3 notes · View notes
aikider · 4 years ago
Text
ゴーストオブツシマの時代考証とゲーム性についての考察
思想
・鎌倉時代の武士は「己を律する」みたいなことは言わない。実証史学の研究成果としては、中世の武士はかなり乱暴だった。禅はすでに入っていたが、これは武士があまりに粗暴かつ近視眼的であったために、彼らを啓蒙する目的で幕府が禅を重視したためである。時代的にはまだ普及しているとは言い難いし、仁が座禅をする姿も出てきていないので、この点はぼかしている。ただ、武士道精神を描くのはフィクションとしては仕方ないか。サムライファンを失望させないという配慮かもしれない。
・厳密には、武士が倫理的なことを言い出したのは江戸時代に儒学を学び始めてからである。そもそも主人公の「仁」という音読みのネーミング自体、儒学的である。鎌倉武士の名前は「時頼」とか「忠常」とかでないとおかしい。
・武門の誉れという思想は平安末期からすでにあったため、その言葉自体はおかしくないのだが、誉れの内容が異なっている。たとえば鎌倉武士にとっては「夜討ち朝駆け」という言葉がある通り、奇襲は恥でもなんでもない。実際の「誉れ」というのはストレートに「敵を討ったという名声」そのものであり、背中から斬るのは特に不名誉でなかった。ただし、なんでもいいというわけではなく、鎌倉武士にもある種のルールがあり、それは「他人の手柄を横取りするのは忌み嫌われる」ということである。これは当時の武士の矢に、自分のものであるとわかるよう印を描いていたということからわかる。当時の武士は名誉=武功→恩賞=領地という鉄則が働いていた。そして戦に参加するための装備や兵糧はすべて自弁(ここ重要)であったから、「領地収入で戦支度をして、戦に勝ったら領地を得られる」という無限サイクルを回さなければ家が続かなかった。必然的に鎌倉武士の戦は個人プレーの様相が強く、誰もが「自分の手柄」を強く主張する必要があった。当然のことながら手柄をめぐって争いになることは頻繁にあった。「名乗りを上げる」という行為自体、戦後に武功を主張するために必要不可欠な行動だったのである。従って「誉れ」とは純粋な思想的理念ではなく、「恩賞」という経済的利益と表裏一体のものであった。
宗教
・神道の位置付けが曖昧。変なところに稲荷があったり、巫女が険しい山の神社の入口前を掃いていたりする。史実の中世日本では神仏習合が進んでいたため、神社と���が一体化していた。従って寺の中に稲荷を作るのが正しい。巫女も平地の神社に配置すべきであろう。山の上にも社は作られていたが、これは修験者が作って維持していたものであり、巫女が所属してるはずがない(修験道も神仏習合の産物である)。また武神とされた「八幡大菩薩」は八幡神と菩薩が融合したものである。・・・が、こんなことアメリカ人ゲーマーに言っても伝わらないので、敢えて採用しないのが正しいような気もする。
建築
・鎌倉時代に畳は普及していない。そこの考証はもうちょっとがんばれ。
・寺の伽藍が適当すぎる。ここももうちょっと頑張ってほしかった。
・障子が普及しすぎている。破れた障子がそこかしこにあるのは時代劇の影響であろうが、あれが成立するのは江戸初期くらいでは。
動物・植物
・植生に隙間が多すぎる。・・・リアルにすると山に入れなくなるのでゲームとして仕方ない。現地調査したときに嫌でも気づいたであろうから、これは意図的に変えたのであろう。これはゲームとして仕方ない。
・狐が人懐こすぎる・・・が、これはゲームとしては正しい選択のような気がする。プレイヤーは撫でたいだろうから。
・対馬に熊はいたのだろうか?生態系としては鹿の捕食者が必要なので、不思議ではないのだが。
・犬が出てこない。これは鎌倉武士としては物足りない。蒙古の狼と区別しにくいからか。
・鹿を射ても獣の皮をドロップしないのは何故だ(これは考証ではないが・・・)
装束
・長時間にわたり仁の髷が丸出しの期間がある。落ち武者ということで仕方ないのだが、伯父上もずっと烏帽子を被っていない��とも考えると、開発者は「鎌倉武士は烏帽子がないのが恥辱であった」というところまでは知らなかったのでは(2020/9/14追記:ローカライズ担当者インタビューによると、知っていてあえて烏帽子をつけなかったらしい。わかっていてやってるのであれば、エンタメとしての改変ということで許容範囲だと思う)。一応、仁の烏帽子も用意されているが、「忠頼の装束」が必要で、登場はやや遅い上に、形が侍烏帽子と少し違っている。色はやや紫がかっているがあれでいいのか?(自信ない)伯父上が烏帽子親になっているのであれば設定として理想的だったかも。
・父の葬儀における仁や伯父上の衣装が豪華すぎる。地頭の甥レベルであんな格好できたとは思えない。さらに言えば葬儀の際に烏帽子をつけていないせいで、仁が元服後なのか前なのかはっきりしない。
・面頬があって半首(はつぶり)がない。面頬を採用したのは戦国時代の具足を見たからであろう。しかし時期的には半首のほうが正しいのでは。
・武家の兜3段階目の鍬形が伊達政宗。まあ時代劇好きへのサービスと考えれば許容範囲か。欲を言えば胴丸が欲しかった。胴丸(+半首)→袖付き胴丸→大鎧と進めば出世感が出る。・・・が、海外では伝わらないだろうから、仕方ないか。
・浪人の装束は江戸期の浪人である。旅人の装束は完全に木枯し紋次郎。これは時代考証としてはおかしいが、時代劇をリスペクトしているのがよくわかるし、プレイヤーの選択肢を広げるのが目的なので、ゲームとしては許容範囲であろう。リアルを追求すると選択肢がなくなってゲームとしてはつまらない。映画でこんなことやったら即アウトだが。
・逆に「忠頼の装束」の2段階目は鎌倉武士の狩装束を再現している。下に草摺をつけるなど多少アレンジされているが、笠や弓懸や沓の再現度が高く、きちんと調べているのが伝わる。
武術
・鎌倉武士のメインは騎射なのだが、いきなり騎馬突撃している点はちょっと不満がある。まず伯父上が大弓を射るところから始めるのが正しい。矢盾もないし。
・ただし鎌倉時代に刀が重要でなかったかというとそんなことはない。矢は尽きれば終わりであり、最後に身を守ってくれるのは刀だからである。だからこそ「小烏丸」やら「膝丸」や「髭切」などの宝刀が伝わっているのである。
・現存する最古の剣術は神道流系統であり、これも室町時代までしか遡れない。しかし鎌倉時代に剣術がなかったはずがなく、始祖的なものはあったと考えるべきだろう。伝承では義経を祖とする義経流という流派があったといい、その真偽はともかくとして「鎌倉初期には既に体系的な武術があった」と認識されていたようだ。フィクションとしてはそれを想像で埋める必要がある。キャプチャしたのは新陰流の子孫を名乗る怪しい流派だが、これはおそらく居合を学んだ香具師が時代劇の殺陣をミックスして捏造した流派であろう。筆者は最初にこの流派を見たときに「そういう殺陣の流派があるのだろう」と思ったくらいである。ただしゲーム的にはこの点がプラスに働いており、時代劇らしい、しかしもっと原始的な殺陣をうまく表現できている。
・石の型はいわゆる八相の構え、水の型は鳥居の構え。
・石の型が剣兵特攻、水の型が盾兵特攻、風の型が槍兵特攻というのは完全にゲーム的な都合であるが、これも許容範囲であろう。
・仁が「蒙古兵と戦う中で新しい型を覚える」というシステムはよくできている。日本の剣術ではまず見ない回転斬りも、蒙古兵を見て学んだということにすればフィクションとしてはだいたい許されてしまう。元寇だからこそできた設定である。
・「冥人」は完全にフィクションであるが、これは明らかに「意図して作ったフィクション」であることがわかる。そもそも劇中で「冥人」という設定を「ゆながその場ででっち上げた」経緯が描かれている。「忍者」とか「忍び」とか言ってしまったら「忍者の初見は鈎の陣だバカヤロウ」という声が出てくるだろうが、あえて「冥人」という造語を作ったことで「忍者の遠い先祖として、そういうのもあったかもしれない」と言い訳することができる。これはフィクションの手法としては正しく、巧妙である。
・暗具が蒙古兵から奪えるという点は、暗にこれらが元軍にもたらされたという設定を示唆しており、これも上手い設定である。実際、火薬が日本に初めてもたらされたのは元寇以降である。ただし、てつはうが民家で調達できるのはちょっとどうかと思う。また、投擲するならくないではなく棒手裏剣である・・・が、棒手裏剣はまだ生まれていなかったかもしれない。
脚本
・台詞が時代劇らしくないところが頻繁に見られる。正確に言うと、クエストによってクオリティがかなり違う。もちろん鎌倉時代の日本語がどんなものかはわからないのだが、せめてもう少し時代劇らしい台詞回しにはできたはず。さらに用語が統一されておらず、これは複数の人間が翻訳を分業したためであろう。時代劇経験のある脚本家に全体を通してチェックしてもらったらもう少しましになっただろうが、見つからなかったのかもしれない。ほかは許容できるところが多いが、脚本は耳から入ってくるだけにどうしても違和感が拭えず、非常に惜しい。
人物
・菅笠衆という浪人集団は鎌倉時代にはありえない。没落した武士は多くが山賊や野盗になっていたということが文献から確認されている。野盗は別に出てくるので違和感は拭えない。なお竜三役の演技や、仁との掛け合いは「時代劇としては」やたらよくできている。
・安達家が女武者揃いとかどこのアマゾネスだ。女武者は平家物語に巴御前というキャラクターがいるため、当時すでにフィクションとして女武者を設定する発想はあった。従って後世のフィクションでそれを流用するのは構わない。しかし「一族に女武者が多い」という設定は苦しいのでは。しかし政子の境遇は元寇時の対馬において説得力があるし、政子のキャラクターが立っているから、「稀な女武者だった」という設定にしておけば許容範囲だろうが。
・キャラクターの顔の造形は非常によくできている。仁にせよゆなにせよ政子にせよ、非常に(昔の時代劇に出てくる)日本人らしい顔だが、実在する俳優をそのまま再現したらしい。チャン・ツィイーに日本人芸者やらせていた映画と比べてずいぶん進歩した(チャン・ツィイーは名優ではあるが日本人の顔とは微妙に違う)。また最近の日本映画と違って美男美女がほとんどおらず「面魂のある」顔をしている。とくに日本人とモンゴル人の顔の違いがきちんと区別できているのは凄い。アメリカ人が作ったとは思えないくらい。敵の頭であるコトゥン・ハーンの顔も非常に味があってよろしい。
・対馬守護の宗氏が出てこない。・・・が、今でも一族がいるのであえて避けたのであろう。これは大人の配慮。
その他
・タッチパッドのスワイプ↓で浅いお辞儀をするのは笑ってしまった。身分制社会なので仁が農民に頭を下げるのはおかしいし、農民が立ち上がってお辞儀してくるのもおかしい(平伏するのが正しい)。ただ、おそらく開発者が「やってみたかった」んだろうというのが伝わってくるので苦笑してしまう。ただそれなら中途半端に浅いお辞儀ではなく、深くしたほうが潔い。墓地では手を合わせて拝むなどに変更できればよかった。神社や稲荷で柏手を打つのであればそれくらいしてもよい。
・琵琶法師の語りは琵琶法師ではなくて講談である。ただし演技が素晴らしすぎてこれでいいかという気になってしまう。
0 notes
c3oyama · 5 years ago
Photo
Tumblr media
6/29ビートルズ記念日 誕生日/井川遥 橋下徹 野村克也 清水アキラ 松本志のぶ パパイヤ鈴木 伊東絹子 福島晃子 プリンセステンコー 清水よし子 倍賞千恵子 李丹 誕生日 1865年 泉重千代(長寿世界一120歳) 1866年 黒田清輝(洋画家) 1900年 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ (仏:小説家『星の王子さま』,飛行士)Antoine Marie Roger de Saint-Exupéry[1944年7月31日歿] 1905年 入江相政(侍従長) 1930年 左幸子(女優) 1932年 伊東絹子 (モデル,女優) 1935年 野村克也 (野球(捕手・監督))1989年野球殿堂,名球会会員 1941年 倍賞千恵子 (女優,倍賞美津子の姉) 1949年 中田カフス(漫才師) 1954年 清水アキラ (タレント) 1958年 清水よし子 (タレント・お笑い/ピンクの電話) 1956年 2代目引田天功(プリンセス・テンコー,朝風まり) (マジシャン) 1964年 御子柴進(野球) 1965年 李丹 (タレント・女優) 1966年 パパイヤ鈴木 (振附け師,ダンサー) 1969年 橋下徹 (大阪府知事,弁護士) 1969年 松本志のぶ(アナウンサー) 1973年 福島晃子(ゴルフ) 1973年 木内あきら(タレント) 1976年 井川遥 (女優) 1976年 5代目坂東亀三郎 (歌舞伎役者) 1979年 美元 (モデル,女優,高嶋政伸の妻) 1983年 HIROKI (ミュージシャン(ORANGE RANGE/ヴォーカル)) 1990年 木村昴 (タレント,声優) 誕生花は 時計草(パッションフラワー)、花言葉は“聖なる心” 誕生石は トパーズ(topaz)、宝石言葉は“希望” ビートルズ記念日 1966年のこの日、人気絶頂のイギリスのロックグループ・ビートルズが初来日した。 翌日から東京・日本武道館で3日間5回の公演を行った。学校をさぼってかけつけた高校生ら6520人が警察に補導された。 佃煮の日 全国調理食品工業協同組合が2004年に制定。 佃煮の発祥の地である東京・佃島の氏神・住吉神社が創建されたのが正保3(1646)年6月29日であることから。 星の王子さまの日 『星の王子さま』で知られるフランスの作家・飛行士のアントワーヌ・ド・サンテグジュペリの誕生日。 独立記念日 [セーシェル] 1976年のこの日、アフリカ沖のインド洋の島国セーシェルがイギリスから独立した。 歴史・出来事 1928年 治安維持法公布 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #金銀ドレープ #ケープ #カラーシート #カラーチップ #C³ #色のみかた #顔タイプ #顔タイプ診断 #パーソナルカラー診断 #シーキューブ #毎月 #16日 #色の日 #insta_higashinada #神戸市 #東灘区 (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CB_wCCagKCa/?igshid=1w659icq6k76y
0 notes
gendaikabuki · 5 years ago
Text
第一場  大津三井寺
 湖を望む舞台付の広間
 湖畔の高台にある三井寺の一坊、板張りの大広間。奥一面の欄干の向こうには琵琶湖の眺望。上手側は湖を借景とした広い舞台になっており、芝居道具の大釣鐘が一つ、その中央に置かれている。  下手側、簡素な床の間に掛かった鬼の大津絵でここが近江の三井寺であることを示す。床の間の前には無人の円座が数枚、舞台の観覧席の様に���んでいる。床の間の裏手に伸びる欄干は庫裡へと続く出入口。
  猿楽一座の頭・松阿弥と僧円了、語り合う様子で中央に板付きにて幕開く。やや下がって桐夜叉と梅夜叉、背筋を伸ばして控えている。
 円了 なれば方々は紀伊紀三井寺道成寺より吉野を抜け、この大津三井寺園城寺にまで遥々と、猿楽舞の奉納のみならず、寺の鐘に伝わる物語を聞きに参られたと、そういう事にござりまするか。
松阿弥 はい、左様にござります。我ら女猿楽の一座。他の猿楽、能楽一座の方々と違い、常々、女性〈にょしょう〉ならではの情や念、美を舞って御覧じようと考えてございます。中でも、我ら一番の得意といたしまする猿楽舞の『道成寺』。蛇に成った清姫が安珍を焼き殺したというその物語の御寺の鐘、せめて一度は拝まねばならぬ──との思いから、紀三井寺道成寺に参りましたるところ「鐘と蛇、女人の情念の物語は道成寺だけのものにはあらじ。三井寺の梵鐘の物語も是非学ばれてはいかが」との御住持のお言葉。故にこちら、近江三井の御寺に参ったと、かような次第でございます。
円了 ウム。たしかにその御坊の仰せの通り、この三井寺の梵鐘にも蛇と女人の情念にまつわる話はござりまするが……。
桐夜叉 (少し身を乗り出して)……その情念とは、一体どんなものなのでございましょう? 嫉妬でございます? それとも執着? 
円了 ホウ。何ゆえ左様に思われまするか?
桐夜叉 何故……と仰言いましても、女は嫉妬深いもの、蛇は執念深いもの ── それは現在後醍醐帝の御代になるよりもずっと昔、神武以来の決まり事。(隣の梅夜叉に) ……そうであろうノウ?
梅夜叉 神武以来かどうかは知りませんけれど、我らが猿楽で舞って御覧に入れる女人の相は、たしかに左様なものが多うございますわね。……和尚様。こちらの御寺の梵鐘には、サテ、どんな物語が伝わっているのでございますか?
円了 (笑いながら)残念ながら、方々が思われている情念とは、ちと種類が違いましょうな。
梅夜叉 違うのですか?
円了 左様。三井の梵鐘にまつわる女人の情念とは、コレすなわち捨身の誠。
桐夜叉 しゃしん?
円了 「身を捨つる」と書いて「捨身」。……大切なる者のため、自らの眼を刳り抜いた蛇の女房の物語が、当寺の梵鐘の響きには籠っているのでござります。
   女たち、不思議そうに顔を見合わせる。
 円了は立ち上がって上手舞台、芝居用の釣鐘の前まで進む。しばらくじっと鐘を眺め、そして語り出す。
 円了 その昔、琵琶湖々底の龍宮、龍神の眷属の末に連なる一匹の蛇が、地上の世界、近江源氏の棟梁に恋をしました。美しい女人の姿に変成した蛇は、殿に見初められて奥方となり、玉の様に美しい若君を産みました。……なれど、その襁褓も取れぬうち、蛇は龍神のお召しにて、龍宮へ戻らねばならなくなったのでございます。別れ際、泣き止まぬ我が子に、母は形見と、地上に在っては宝珠となる己の片目を刳り抜いて与えました。その珠を握りしめた若君はようやく泣き止み、そして、蛇は水底、龍宮に帰ったと申します……。
         しばしの間を置いて
 円了 しかしその噂、鎌倉にまで届き、蛇の三つ鱗が紋所、龍神崇める北条殿より宝珠献上のご下命。鎌倉の将軍家はもとより、京の帝の御心さえも脅かす執権殿の御威勢、否と言えるはずもなく……。殿は珠を握りしめる若君の掌を解き、宝珠を六波羅に差し出したのでございます。
松阿弥 サテ、和尚様。鎌倉の将軍様、執権の北条殿、近江源氏の殿様……と申さるるからには、それはさほど昔ではない、当代の物語なのでございましょうか?
円了 左様。その殿というは先代の佐々木の殿様、佐々木宗氏様の事。
松阿弥 ならば、その若君と申さるるは?
円了 現在佐々木のご当主、佐々木高氏道誉様。
松阿弥 なんと。ご当地のお殿様の不思議の物語、この様に気安く話して、サテ、お咎めの恐れはないのでございましょうか?
円了 (穏やかに頷いて)方々もお噂はご存知あるやもしれませぬが、道誉様は少々風変わりなご気性のお��ゆえ、むしろその物語をご自慢なさってございまする。……事実、その出来事がきっかけで佐々木の御家は北条得宗家のご昵懇となり、道誉様は執権高時殿のお小姓として永の寵愛。そして昨年、高時殿ご出家の折には供にご出家。それ故の法号『道誉』をお名乗りなのでございます。
梅夜叉 マァ。近江の国のお殿さまは、お坊様なのでございますか?
  円了、元の位置に戻って座る。
 円了 仏法への深い帰依、得度をなさった ── という意味のご出家。坊主頭に墨衣 ── という訳ではござりませぬよ。……それどころかそのお姿は、まるでそなた方、猿楽舞の役者衆にも負けぬくらいの華やかさ。
梅夜叉 エ?
円了 目の醒める様な緋色の襦袢、その上に半身違いの金襴の直垂付けて、舞う様な軽やかな足取りで、西へ東へ、南へ北へ、遊戯神通〈ゆげじんつう〉、神出鬼没の立ち居振る舞い。近頃流行りの婆娑羅とか言う、型にはまらぬその生きざま。
桐夜叉 ばさら……にございますか?
円了 左様。真っ当真っ直ぐではなく、この様にこう(身を傾けて見せ)……傾〈かぶ〉いた生きざま。
松阿弥 ウム。女どもは存じぬやもしれませぬが、確かに、道誉様は当代きっての風流にして聡明な殿様と、我ら猿楽座頭の仲間内にも噂は聞こえておりまする。……しかし、その様な聡いお方が何ゆえ、風変わりな婆娑羅の道に生きられるのか? 円了 サテ。それは拙僧にも判りませぬ。直接お目に掛かり、みずからお尋ねなさるがよろしかろう。 松阿弥 お目にかかれましょうや?
円了 道誉様は連歌、猿楽、能、狂言……風雅な芸能に目のない殿様。方々の三井寺逗留の報告にも、きっとご関心をお持ちのはず。きっと、ほどなく……
   松阿弥と女たち、密かに視線を交わして頷き合う。
 円了が見ている事に気付き、桐夜叉は誤魔化す様に口を開く。
 桐夜叉 ところで和尚様。その片目を失った蛇の女性の物語と御寺の梵鐘には、一体どんな関係があるのでございましょう?
円了  ああ、そうでござった。途中で逸れてしまった話の、続きに戻るといたしましょうか。
桐夜叉 ええ、どうぞお願いいたします。
円了 ウム。エヘン。母の形見、握った宝珠を北条殿に奪われた若君は再び泣き出し、どうあやしても泣き止まぬ日々が続いたそうにございます。ある夜、困り果てた父君は御自ら、せめて母親の近くへと、琵琶湖の湖畔へ若君を抱いてお連れになりました。すると、白い晒を目元に巻いた盲〈めし〉いの女人 ──  再び人の姿に変身した蛇の母君が現れ、あらためて若君に宝珠を授け、それにてようやく、若君は泣き止まれたと申します。
梅夜叉 じゃあ、母君様はもう片方の目も?
円了 左様。愛しい我が子のため、蛇の奥方は自らの両眼を捨てた ── それが、三井の梵鐘にまつわる女人と蛇の物語。
桐夜叉 けど和尚様、そのお話と梵鐘に、一体何の関係があるのでしょう?
円了 サテ、それはここからの物語。
 湖底に戻る前、母君は言い遺したそうでございます。
「盲目の身となった上からは、水底の我はこれから、三井寺の鐘の音のみを導〈しるべ〉に生きてゆかねばならぬ。それゆえ日々 ── 自らの位置を知るため、忘れる事なく時の鐘を鳴らして欲しい。そして年々 ── 我が子の成長を知るため、大晦日に我が子の年と同じ数だけ除夜の鐘を撞いて欲しい。そしてもし、佐々木の御家、天下国家に一大事が起きたなら、夜中〈やちゅう〉続けさまに鐘を叩いて撞き鳴らせば、きっと龍宮の眷属率いて、加護に参上いたすであろう」 ── と。
松阿弥 ホウ。龍神眷属の加護とは心強い。その様な加護があるならこの世に道誉様の敵はなし。北条様の平氏から、佐々木様の源氏の手に、天下経営の権を取り戻すのも思いのまま……ではござりませぬか?
円了 道誉様は執権殿第一のご昵懇。その様な事をせずともご安泰の御身の上。むしろ夜中に鐘を響かせ、謀反叛逆疑われる事をご用心なされ、三井の晩鐘を撞く事を固く禁じておられまする。とりわけ近頃は、先年露見した帝の倒幕の御企てなど、なにやら不穏な世の中ゆえに……。
松阿弥  ホウ。
梅夜叉 もし禁を破って晩鐘を撞いたなら、その者は一体、どんな罰を受けるのでございましょう?
円了 撞いた鐘の数だけなますに斬��れ、その上で琵琶湖に沈めらるるが掟。
梅夜叉 マァ……恐ろしい。
  ト、花道に取次の僧登場。七三にひざまづいて
 取次の僧 本坊書院に京極貞満様、御入来になられてござりまする。
円了 左様であるか。……では、そちらに参るといたそう。
取次の僧 いえ、御坊様。京極様は猿楽一座の方々が居られる、こちら舞台の間にお越しになられたいと、その様に仰せでございます。
円了 ホウ、左様か。(一座に微笑み)道誉様は早速方々にご興味を示されたご様子。……では、こちらにご案内を。
取次の僧 はっ。
        取次ぎの僧、元に退場。
 松阿弥 京極貞満様……と申さるるは、サテ、いずれのお方にござりましょう?
円了 佐々木のご分家、道誉様の弟君にございます。
  ト、揚幕開いて足音響く。舞台の全員、花道に向き直って頭を垂れる。  花道より京極貞満登場。落ち着いた色の直垂に折烏帽子、一般的な鎌倉武士の姿。舞台へ進んで円了の隣、床の間近くの円座に腰を下ろす。
円了 これはこれは京極様、ようこそお越し下さいました。
貞満 イヤサ御坊、しばらくぶりにござりまするな。お変わりなき様で、何より。
円了 京極様におかれましても、ご機嫌よろしゅう何よりにござりまする。……サテ、本日は何御用ゆえのお出ましにござりましょう?
貞満 ウム。(松阿弥たちを見て)三井寺に逗留し、猿楽舞を奉納する女猿楽一座というのはその方らであるか?
松阿弥 はい。我らがその女猿楽一座、座頭と役者どもにござります。
貞満 左様か。……(円了に向き直り)御坊にはお察しあろう。彼らの来訪が兄上の耳に入り、その珍しき女人の芸能をご覧になられたいとの御仰せ。ご準備あった連歌の会をひとまず置いて、只今すぐ、こちらに参られたいとの事。先駆けて伝えて参れと、マァ、いつもながらの御性分。
円了 (松阿弥に)ソレ、思った通り。
松阿弥 御慧眼畏れ入りましてござりまする……。( 女たちを見遣り)殿様お見えの上からは、サァ、庫裏の楽屋に控える楽人どもに声を掛け、舞台の準備始めねば。
  下手、床の間の裏手に続く欄干(楽屋の方向)に視線を向ける。
 ト、揚幕の内より声。
 声 道誉様、お出でになられてございます。
松阿弥 (驚き)コリャ、こうも早速。
  舞台の全員居住まいを正し、道誉を待って花道に向き直る。
 しばしの沈黙。
 ややあって道誉、花道ではなく下手欄干奥、楽屋側から大きな足音を立てて登場。半身違いの奇異な直垂姿。片手に銀の鱗柄装束(道成寺衣装)を掴み、舞台中央にて堂々たる立ち姿。
  続いて猿楽一座の男二人、道誉を追って登場。道誉の背後に立ち並んで芝居用の竹光握って身構える。
 男一 どこのどいつかは知らねども、我ら一座の大事の衣裳、かっぱらうとは悪い了見。サァ、返せ、返せ。
男二 派手な姿に切れある身ごなし、真っ白顔の色男。こやつ、きっとどこぞの役者に相違ない。(顔を覗き込み)サテ、この顔どこかで見た様な……。わかった! 坂東にて評判の、〇〇一座の△太夫に相違ない!(※実演者に合わせて)そうであろう!
二人  そうであろう!
道誉 (ややあって機嫌良く)ハハハ、これは愉快なる人違い。
  正体を察している松阿弥と女たち、両手を挙げて男たちを制する。円了と貞満、顔を見合わせて苦笑、道誉に向き直って頭を下げる。
 円了 これはこれは道誉様、
貞満 兄上、
円了 ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする。
男たち え?
  男たち事情を察し、慌てて畏まってうずくまる。
 男一 これはこれはとんだご無礼、
男二 つかまつりましてござりまする。
  道誉、堂々と一座を見渡し
 道誉 いやなに、庫裏の軒先に、この装束が掛かっているのが見えたのだ。……蛇の鱗柄は俺の産着と同じ柄。つい懐かしく思うてな。暫時羽織ってみたくなった……ただそれだけの事。
  ト、装束を肩に掛けて扇を取り出し、上手舞台に進む。鐘の周囲を舞う様にして一周。元に戻って装束を脱ぎ、一座の男にポンと投げ渡す。
 道誉 もう気は済んだ。返して遣わす。
男たち ハハッ。
  男たち装束を持って退場。
 道誉、中央に腰を下ろして松阿弥たち一座と向き合う。
 道誉 サテ、当代めずらしき女猿楽一座というのは、その方らか?
松阿弥 (頭を下げて)左様にござりまする。身どもは座頭の松阿弥、それに控えまするは当一座の二枚看板、桐夜叉と梅夜叉と申す役者どもにござりまする。
  一層深々と頭を下げ
 松阿弥 京と鎌倉を結ぶ要衝、近江の国をご支配なさる佐々木源氏の棟梁、その名も高き道誉様。ご尊顔を拝し奉り、身にとりまして、いかほどか……。
 ト、徐々に言葉に熱がこもって顔を上げる。道誉と松阿弥、じっと視線を交わす。
 道誉 サテ、浮かれ稼業に似合わぬ眼光。いつかどこかで、見た事のある様な……。
  松阿弥、ハッとして頭を下げる。
 桐夜叉 (繕う様に引き受けて)オホホホ。お殿様と同じ様に、我らが殿さま……座頭も、よくどこぞの役者と間違われましてございます。
梅夜叉 ホホホ。何と申す役者でしたでしょう。たしか……
松阿弥 (とぼける)サテ、よく間違えられる何とやら……と申す者とは別人なれど、我ら猿楽舞の楽人の流儀、もし殿様のお許しあらば、ご挨拶代わりの舞を一指 ── 。
道誉 ウム、それは良い。許して使わす。
松阿弥 ハハッ。
  松阿弥、立ち上がって上手舞台に進み、即興風の謡曲を舞う。
 松阿弥 〽︎ 役者とは 是れ皆人なり
人も是れ 皆役者なり
折々の時々の
己が役を
舞いにけり
舞いにけり
  舞い納め、腰を下ろして一礼。円了と貞満、穏やかに拍手。
 道誉は満足げに頷き、立ち上がって返しの舞
 道誉 〽︎ 舞いにけり 舞いにけり
今世一生捨て置いて
只ひたすらに舞いにけり
一生は嘘 舞こそ真〈まこと〉
一生は嘘 舞こそ真
  舞い終わって着座。満座の拍手。
 道誉 (女たちに)美しき白拍子を差し置いての余興の一指し、許してくれよ。
松阿弥 (頭下げて)かようにお見事なる身のこなし、本職の猿楽師でもなかなか出来るものではござりませぬ。それに比べて我が身のつたなさ……。まことに、恐れ入りましてござりまする。
道誉 つたなくはあるまいが、その方、どうやら本職の猿楽師ではない様子……。
  なかば独白の様に言い、道誉はじっと松阿弥を見つめる。 松阿弥、恐れ入る様に一層頭を下げる。
 松阿弥 身どもは表舞台の役者ではなく、一座を率いる座頭に過ぎませぬゆえ。 
道誉 マァ、そう言うのならそれでよい……。
(明るく仕切り直し)シテ、その方ら何方より参ったのだ?
  白拍子たち、揃って指着き
 桐夜叉 我ら京の女猿楽一座、紀伊紀三井寺道成寺の鐘を拝みに参り、
梅夜叉 こちら三井寺の鐘の御噂承り、
桐夜叉 紀ノ川沿いに吉野へ上がって、
梅夜叉 千本桜の名勝と、尊皇の心篤き蔵王権現、修験者の方々にご挨拶、
桐夜叉 大和の道を北に上り、
梅夜叉 この近江三井寺園城寺へと、
二人 着きにけり。着きにけり ── 。
桐夜叉 という次第でござりまする。
道誉 左様か。(貞満に)そういえば先頃、帝倒幕御企ての折、吉野の修験者に化けて諸国遍歴、各地の武士に勅使して捕らえられた公卿がいたが、ハテ、その名を何と申されたかのう?
貞満 日野権中納言資朝〈ひののごんちゅうなごんすけとも〉卿とその従兄弟、日野蔵人俊基〈ひののくらんどとしもと〉卿であったかと。
道誉 シテ、その方々のご処分は?
貞満 確か権中納言殿は佐渡に配流、蔵人殿は帝のたってのご希望あってお咎めなし ── との決着のはず。
道誉 貞満、御坊、その方たちのお顔、存じ上げておるか?
円了  いいえ、
貞満 存じませぬ。……が、何故?
道誉 いいや。修験者と聞いてふと思い出したまで。
  ト、思い入れ
 道誉 ……この道誉の元も、訪ねて下されば良かったものを。
  貞満驚き
 貞満 これは兄上、異な事を申される。我ら佐々木と京極、鎌倉の将軍様にも執権殿にも、御高恩筆頭賜る源氏の一家。兄上には、まさかの叛意……。
  ト、人々に聞かれた用心、皆殺しの覚悟で密かに刀に手を掛ける。
 道誉 ハハハハハ、そうではないのだ弟よ。俺はただ、見てみたいと思ったのだ ──
  ト、思い入れ
 道誉 帝、将軍、公卿、大名……我らは各々、自らの役を勤めて生きている。その普段の役とは別の役を演じ、この世の仕組みを変えようと企む者たち……その命を懸けた芝居とは、一体どの様なものだったのか、俺はただ、見てみたいと思ったのだ。
         しばしの沈黙。
 貞満 ハハ、ハハハハハ。兄上の物好きは筋金入り。酔狂、酔狂。ハハハハハ。
  貞満、ホッとした様子で密かに刀から���を離す。
道誉 (冗談めかして女たちに)……よもやその方ら、猿楽一座に化けた帝の使い ── ではあるまいよな?
  しばしの間あって
 桐夜叉 ホホホホホ。殿様が左様な芝居をご所望なれば、我ら芝居が本分の役者ども。即興にて演じてご覧に入れましょう。ネ(背筋を正して松阿弥に)……日野蔵人、俊基さま。
  松阿弥ハッと呑み込んで
 松阿弥 ウム。左様なれば。……勅定である。
  ト、一座の者姿勢を正す。松阿弥立ち上がって取り出した懐紙を綸旨に見立て、高く目の前に掲げる。道誉は居住まいを正し、懐紙に向かって頭を下げる。貞満と円了、呆然と様子を眺める。
 柝、一打ち。
 松阿弥、懐紙を広げて勅命を読み上げる心。
 松阿弥 臣下たる執権北条一門が将軍家の実を握る逆さま事、そのまま鎌倉が朝廷を軽んずる逆さま事と相成りて、世の秩序、大いに乱る。その乱れ糺さんと、先年兵を募りしが、口惜しきかな、下臈の口より漏洩頓挫、時宜を得ず事成らず。なれどこの逆さま事、このまま続くを糺さざれば、天下太平程遠く、人心の荒廃せしをえとどめず。しからばこの度、朕と志ともにする有意の臣を再び募り、誤りの世を真の世に、天命を革むるの号令を、我が直臣、日野蔵人俊基をして各地各国の大名諸卿に、ここに勅定、申し伝えるべきものなり。
  松阿弥、読み上げた体の懐紙の内側を道誉に差し向ける。道誉、畏まる様に頭を下げる。
 ややあって道誉、肩を揺すって笑い出す。
 道誉 ハハハハハハ。(松阿弥を見上げ)俊基卿、そなたは芝居の俊基卿か?  それとも真の俊基卿か?
松阿弥 (元の猿楽師の様子に戻ってひざまづき)ハハッ。芝居の俊基卿……と申し上げますれば、道誉様にはいかな御言葉下さりましょう。
道誉 ウム。上使の役は、マァまずまずの出来。なれど、勧進帳の空読み、弁慶の様な役には、まだまだ勉強が必要だな。
松阿弥 (頭下げ)畏れ多きご指導、誠にありがとうございます。なれば……
         すっくと立ち上がり、上臈の見得
 松阿弥 猿楽師とは世を忍ぶかりそめの姿、麿こそは真の日野蔵人俊基……と申さば、道誉殿、そなたは如何いたしまするか。
  ト、柝打って引っ張りの見得。
 道誉 しからば俊基卿、その勅定に従えば、身どもには如何なる得がありましょう?
松阿弥 本領の安堵と加増、官位栄達。義に従って行動せば恩賞褒美は思いのまま。
道誉 我が本領、我が地位は今で充分。その様なもの、殊更欲しいとは思いませぬ。
松阿弥 ならば大義に従った忠臣 ── との、末代、未来の家名の誉れ。
道誉 そんなものは尚更要らぬ。むしろ北条殿の世が続けば、その未来の忠臣とやらはただの未来の謀反人。
松阿弥 なれば道誉殿、そなたは何をもって得と考え、何をもって進む道を決められまするか?
道誉 面白くもなきこの浮き世、ただひと時でも面白く、思いのままに楽しむ事 ── それこそが身どもにとって何よりの喜び。それこそが、身どもが進む婆娑羅の道。 松阿弥 面白くもなきこの浮き世を、ただひと時でも面白く、思いのままに楽しむ事……。
  しばしの間。
 ややあって梅夜叉おもむろに
 梅夜叉 それは、我ら役者が生きる芝居の世界……まさにそうではございませんか?
  道誉、対勅使の芝居を終える。
 道誉 ハハハハ。そうかもしれぬ。所詮は嘘に過ぎぬものを真〈まこと〉と崇める浮き世より、嘘こそ真の芝居の方が、俺にとってはよっぽど真。
  ト、立ち上がって上手舞台に進む。
 道誉  なれど、たかだか三間四方、この小さな舞台の上だけでは、俺はもう満足はできぬのだ。浮き世すべてを舞台にして、己が命を賭けた芝居 ── その一生を生きる事こそ俺の望み。それこそが近江源氏の棟梁、この道誉が進む婆娑羅の道。
  ト、揚幕開いて再び取次の僧登場。早足で七三まで進んで注進。
 取次の僧 御坊様に申し上げまする。六波羅探題詮議方、長崎高教様、糟屋二郎様。佐々木道誉様をお尋ねあって、書院の方にお見えになってござりまする。
  取次の僧、舞台に進んで下手に控える。
 円了 ハテ、六波羅の侍衆が、何の御用?(道誉に向かって)道誉様、六波羅の方々がお見えとの事でござりまするが……。
  猿楽一座の者ども、用心する様に顔を見合わせ、道誉を見上げる。
 道誉 連歌の会の約束を放り出して、俺は役者たちに会いに来た。さだめし、館で待つのにしびれを切らして俺を追って来たのであろう……。皆で出迎えこちらに案内、彼らも共に芝居を見物すると致そうか。
  貞満と視線交わして頷き合い、松阿弥に顔向けて微笑む。
 道誉 客を出迎えに参る間、ご準備のほど頼みまするぞ。俊基、卿。
  道誉花道より退場。貞満、円了、取次の僧、後に従う。
 揚幕が閉じるのを見計らい、女たち松阿弥のもとに駆け寄る。
 桐夜叉 殿さま、
梅夜叉 俊基さま。
俊基(松阿弥) せっかく道誉殿に近づけたというのに、厄介な事になってしまった。
桐夜叉 その六波羅の者どもは、殿さまのお顔を存じ上げているのでしょうか?
俊基 ああ、宮中出入りの目付衆、もとより顔は見知った仲。
         女たち、うろたえた様子で顔を見合わせ
 梅夜叉 なれば我ら二人が舞いまする間、殿さまはひとまず先に、次なる目当ての越前へ。
俊基 なれど、さすればそなたたちは……。
桐夜叉 舞い納めれば、我らも急ぎ後を追い……。大津の浜の葦原にでも、隠れてお待ち下さいませ。
  女たち頷き合って俊基を立たせ、下手欄干奥へと導いて退場。  裏方たちと楽人たち替わって登場。裏方たちは舞台の準備、楽人たちは舞台上手に並んで着座、囃子の準備を整える。円了、道誉、長崎、糟屋、貞満、花道より列を成して登場。下手の円座にそれぞれの座を占める。
 ややあって楽人たち前奏を始める。
 衣裳を整えた桐夜叉と梅夜叉、欄干を橋掛かりの様にして登場。舞台中央に座して一礼。
 桐夜叉 これに控えまするは女猿楽の二人、桐夜叉と梅夜叉。
梅夜叉 お目に掛けまするは我らが十八番〈おはこ〉、二人勤めの道成寺。
桐夜叉 ご覧なされて、
梅夜叉 下さりませ。
糟屋 ……待て。猿楽の口上は座頭が勤める慣例。どうしたのだ、その方らの座頭は?                                    
桐夜叉 畏れながら、これが我が一座の流儀なれば……。
長崎 (糟屋をなだめて)マァ待て、糟屋。それなる女役者がこの一座の座頭 ── と、そういう事ではないのかの?
  桐夜叉、思わぬ助け舟 ── と、ホッとして頭を下げる。
 ト、道誉おもむろに声を上げる。
 道誉 サテ、俊基卿はどこへ行かれたのかのう?
糟屋 ナニ?
長崎 道誉殿、俊基卿とは、サテ、それはどちらの俊基卿にござりましょうかの?
道誉 俊基卿と申せば、ソレ、日野蔵人俊基卿にござりましょう。
糟屋 何と? 無罪放免を良い事に、まさか、再び帝の密使を?
長崎 道誉殿、それは一体、どういう事にござりまするかな?
道誉 ナニ、この一座が吉野から来たという話から、先ごろ修験者に身をやつしての諸国遍歴、かの密使の公家になぞらえた座頭の芝居、最前まで楽しんでいただけの事。
長崎 ほう。芝居、にござりまするか?
道誉 左様、芝居にござります。 長崎 ハハハハハ。道誉殿の相変わらずのご酔狂、げに面白き婆娑羅なお人よ。
糟屋 (なお承服しかねる様子で女に)ではその座頭は、一体どこに?
  答えられずうつむき続ける女たち。ややあって道誉
 道誉 オオ、そう言えば、次なる舞の奉納先に一足先の出立とやら、オオ、確かその様に申しておった。……ノウ、そうではなかったか?
梅夜叉 (咄嗟に辞儀し)ハイ、左様にございます。
  道誉ひそかに思い入れる(梅夜叉の反応に、松阿弥の正体を確信する)。元に戻って長崎たちに向き直り
 道誉 見逃してとりたてて惜しい役者 ── という訳でもござらぬ。ご両所もそう気になさらず、女どもの猿楽舞を楽しまれるがよろしゅうこざろう。……サァ、始めるが良い、女ども。
  女たち頷き合い、あらためて頭を下げる。
 楽人たち演奏を始める。女たち立ち上がり、鐘の前で舞を始める。しばしの舞。ほど良くして盆回る。
0 notes
friendship-korea-japan-jp · 5 years ago
Text
3.3. 新羅はなぜ滅亡したのか
問い2:統一新羅の成立と滅亡について>3. 新羅の発展と衰亡>3.3. 新羅はなぜ滅亡したのか
目次は こちら
3.3. 新羅はなぜ滅亡したのか
 新羅は685年に韓半島を統一後、765年まで約80年間は安定と繁栄を謳歌していました。しかし、8歳の王が即位して、太后が摂政となると、混乱や反乱が始まりました。そのことが、『三国史記1』の「新羅本紀」に詳しく記されているので、以下箇条書きにして引用します。
[➀4年(768)秋7月、一吉飡の大恭が弟の阿飡の大廉と反乱を起こし、軍隊を集めて王宮を三十三日間包囲した。王の軍隊がこれを討伐・平定して、彼らの親族すべてを誅殺した。〈第36代 恵恭王(在位765~780)の4年です〉
②6年(770)秋8月、大阿飡の金融が反乱を起こし、誅殺された。
③11年(775)秋8月、伊飡の廉相と侍中の正門とが反乱を起こし、誅殺された。
④16年(780)2月、王は幼少のときに王位に即き、壮年に成ると音楽と女色におぼれ、節度もなく遊び回った。〔そのため、役人の〕綱紀がすっかり乱れ、天災地変がしばしばあらわれ、人心が離反し、国家が危うくなっていた。
伊飡の志定が反乱を起こし、軍隊を集めて、宮殿を包囲した。
夏四月、上大等の金良相が、伊飡の敬信とともに挙兵し、志定らを誅殺した。 王は王后や王妃とともに反乱軍のために殺害された。
⑤10年(809)秋7月、王の叔父の彦昇が、弟の伊飡の悌邕とともに、兵を率いて内裏に入り、反乱をおこして王を弑殺した。王弟の体明侍衛王も一緒に殺害された。憲徳王が即位した。〈第40代 哀荘王(在位800~809)の10年です〉
⑥14年(822)3月、熊川州都督の〔金〕憲昌は、父の周元が王になれなかったことを理由に反乱を起こした。〔新〕国を長安徒いい、〔新しい年号を用いて、慶雲元年とした。
 (中略)
王は八人の将軍を派遣して、王都の八方の守りを固め、その後〔討伐〕軍を出陣させた。
 (中略)
諸軍がいっせいに熊津(忠南広州郡広州邑)に集まり、賊軍と大いに戦い、斬首や捕獲者が数えきれないほどであった。(中略)金憲昌は逃げることができないのを知って、自決した。〈第41代 憲徳王(在位809~826)の14年です〉 ⑦元年(836)、王位継承をめぐって内裏内で戦い、梯隆が王位に就いた。〈第43代 僖康王(在位836~838)元年です〉
⑧3年(838)春正月、上大等の金明、侍中の利弘などが軍隊を動員して反乱を起こし、王の側近の貴族を殺した。王は自分で身を守ってゆくことができず、宮中で首を縊った。
 (中略)
閔哀王が即位した、姓は金氏、諱は明で、(後略)。
⑩元年(838)冬12月、金陽が平東将軍になり、(中略)武州鉄冶県(全南羅州郡鳳凰面鉄川里)まできたとき、王が大監の金敏周に、出陣して迎え撃たせた。〔金陽は〕駱金・李順行を派遣し、3000の兵馬をもって突撃し、王軍と戦いすべてを殺傷した。
 (中略)
839年春閏3月、(中略)王は月遊宅に逃げ込んだが、兵士が尋ねだして、これを殺した。〈第44代 閔哀王(在位838~839)の元年です〉
⑪3年(841)年、一吉飡の弘弼が反乱を起こそうとしたが、事前に発覚したので、海の中の島に逃げ込んだ。彼を捕らえようとしたが、捕らえることができなかった。〈第四六代 文聖王(839~857)の3年です〉
⑫8年(846)春、清海の弓福は、王が娘を納れないのを怨んで、〔清海〕鎮で反乱を起こした。朝廷では、これを討伐しようとすれば不足の事態がおこる恐れがあり、(中略)良い方策が浮かばなかった。
(中略)閻長は偽って、反乱をおこし、清海〔鎮〕に逃げ込んだ。弓福は壮士を愛していたので、少しも疑わず、{館に}にひきいれて、上客のもてなしをした。〔弓福は〕彼とともに酒を飲み、歓待をつくした。酔がまわると、〔彼は〕弓福の剣を奪って斬り殺、その家来たちを集めて、〔降服を〕説得した。
⑬9年(847)夏5月、伊飡の良順・波珍飡の興宗らが、反乱を起こし、誅殺された。
⑭11年(849)秋9月、伊飡の金式・同大昕らが反乱を起こし誅殺された。大阿飡の昕鄰は血縁によって連座した。
⑮6年(866)冬10月、伊飡の允興が弟の叔興や李興とともに反逆を謀ったが、事前に発覚したので、岱山郡(慶北星州郡星州面か)に逃走した。王は彼らを追補して斬刑に処し、その一族を滅ぼした。〈第48代 景文王(861~875)の6年です〉
⑯8年(868)春正月、伊飡の金鋭・金鉉らが反乱をおこし、誅殺された。
⑰14年(874)5月、伊飡の近宗が反乱を起こし、宮中まで侵入したので、近衛軍を出動させてこれを撃破した。
⑱5年(879)夏6月、一吉飡の信弘が反乱を起こし、誅殺された。〈第49代 憲康王(在位875~886)の5年です〉
⑲2年(887)春正月、漢州の伊飡の金蕘が、反乱をおこしたので、出兵して彼を誅殺した。〈第50代 定康王(在位886~887)の2年です〉
⑳3年(889)、国内の諸州・郡では、貢賦を輸送しなかったので、王都の府庫はすっかり空になり、国家の費用は窮乏した。〔そこで、〕王が使者を〔各地に〕派遣し、督促させた。そのため、各地の盗賊がいっせいに蜂起した。このとき、元宗や哀奴たちは、沙伐州を根拠として反乱をおこした。〈第51代 真聖王(在位887~897)の3年です〉
㉑5年(891)冬11月、北原(江原道原州市)の賊将梁吉が、その部下の弓裔を派遣し、百余騎を率いて、北原東方の部落や、溟州管内の酒泉(江原道寧越郡酒泉面)など十余の郡・県を襲撃させた。
㉒6年(892)、完山(全北全州市)の賊の甄萱が〔完山〕州を根拠地にし、後百済〔の国号〕を自称した。武州(全南光州市)の東南方の郡や県は、甄萱に降伏した。
㉓8年(894)冬10月、弓裔は北原から何瑟羅(江原道江陵市)に侵入した。〔そのときの彼の〕軍隊は600余人になり、〔弓裔は〕自ら将軍と称した。
㉔9年(895)秋8月、弓裔は猪足(江原道驎蹄郡驎蹄面)・狌川(江原道華川郡華川面)の二郡を襲撃して奪取した。また、漢州管内の夫若(江原道金化郡金化邑)・鉄円(江原道鉄原郡鉄原邑)ら十余の郡・県を撃破した。
㉕2年(898)秋7月、弓裔が泪西道および漢山州管内の三十余城を奪い取り、遂に松岳郡(京畿道開城市)に王都をたてた。〈第52代 孝恭王(在位897~912)の2年です〉
㉖4年(900)冬10月、国原・菁州(慶南普州市)・槐壌(忠北槐山郡槐山面)などの賊将の清吉や莘萱などが城をあげて弓裔に投降してきた。
㉗5年(901)、弓裔は〔自ら〕王と称した。
㉘5年(916)秋8月、甄萱が大耶城を攻撃したが陥れることができなかった。〈第53代 神徳王(在位912~917)の5年です〉
��2年(918)春2月、一吉飡の玄昇が反乱を起こし、誅殺された。〈第54代 景明王(在位917~924)の2年です〉
㉚2年(918)夏6月、弓裔の部下たちの気持ちが突然かわり、〔高麗の〕太祖(王建)を〔王に〕推戴した。弓裔は出奔したが、部下たちに殺された。太祖(王建)は高麗を建て、その王位につき年号を改めた。
㉛8年(934)、運州(忠南洪城郡洪城邑)地方の三十余の郡県が太祖に降った。〈第56代 敬順王(在位927~935)の8年です〉
㉜9年(935)冬10月、王は四方の土地がことごとく他国の領有となり、国勢が弱化し孤立して、自ら防衛できなくいなってきたので、群臣と謀って、国をあげて太祖(王建)に降ろうとした。群臣の議論では、あるものは〔このことを〕善しとし、ある人は不可だとした。王子がいうには、
《国が存続するか、滅亡するかには、必ず天命があります。ただ、〔われわれとしては、〕忠臣や義士たちとともに、民心を収攬・結合して、自ら固守し、力を尽くしてのち、〔その結果を〕待つべきです。どうして、千年間〔守ってきた〕国家を、一朝にして、軽率に人に与えてよろしいでしょうか。》
  〔これに対して〕王は、
《新羅が孤立し、危険なことは〔知っての〕とおりである。この国では〔国家を〕保全することができない。もはや、〔国家を〕強化することも、〔敵国を〕弱体化することもできない。罪のない国民が、肝臓や脳髄を地上に塗る〔ような悲惨な状態に〕なることは、私には耐えられません。》
として、侍郎に書を持たせて、太祖(王建)に降ることを要請した。
11月に太祖は王の信書を受けいれ、大相の王鉄らを派遣し、迎えさせた。 (中略)
〔太祖は王を〕封じて正承公とし、その位を太子の上におき、俸禄一千石を給した。侍従の貴族や将軍はみな登用した。新羅〔の王都〕を改めて慶州とし、〔正承〕公の食邑とした。]
 このようにして、新羅は、高麗に自ら降って併合されて滅亡しました。そして、新羅人はいなくなり、すべて高麗人となったのです。
 強かった新羅が、160年間に衰退して、自ら高麗に降らざるを得なかったのは、768年以降の反乱に次ぐ反乱と国王の享楽がその原因です。
 新羅において反乱を起こし、あるいは企てた人達は、ほとんどが王族です。骨品制度の最上位にある王族で構成される貴族身分の人たちが、地方の統治者として派遣され、たとえ数世代が経過しても、自分たちは王族であり国王になる権利があると思っていたのが、反乱の基底にあると思われます。
 もう一つの新羅滅亡の原因は何人かの王が享楽や女色に耽っており、政治を顧みなかったことです。そしてそれを阻止する仕組みが無く、人材もいなかったのです。
0 notes
lovecrazysaladcollection · 5 years ago
Text
400 名前:出世の白餅(一)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:46:17 ID:cg67r90c 「亭主を呼べぇ!!」 三河吉田の旅籠亭主・彦兵衛が、大声で呼ぶ客の部屋へ向かうと、薄汚い若侍の前に たくさんの餅が広がっていた。
給仕に当った女中に聞くと、侍は好物だからと餅を山ほど注文したがその餅の出し方が 気に入らぬと言って、皿をひっくり返したのだと言う。
若侍「客に出すのに、雑な山盛りにして出すとは何だ?普通ならば、漆塗りの盆に丁寧に    積み上げて、持って来るものだろう?!最初から出し直せ!!」
十八から店を預かり二十年目の彦兵衛、慣れたもので皿に三つほど餅を乗せ直すと、
「それは失礼致しました。しかしこの餅の盛付けは、三河ではお武家様のための盛付けで、 『城持ち』と『白い餅』を掛けて、山のように大きい城の城主になれるように、との私どもの せめてもの心遣いでございます。どうかお納めください。」
と言って若侍に勧めた。 「そうか、そんな謂われが・・・それは済まなんだ。では、喜んでいただこう。」
以外にも若侍はあっさり納得して、餅をガツガツと食い始めた。その様子に長年のカンから ピンと来た彦兵衛は若侍に話しかけた。 「ところでお侍さん、   ・・・金が無いんでしょう?事情だけでも話してみませんかね?」
顔を青くして餅をむさぼる手を止めた若侍は、少ししてポツリポツリと語り出した。
401 名前:出世の白餅(二)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:03 ID:cg67r90c 若侍の名は、与右衛門。 近江の出だが、浅井家の滅亡で職を失い、旧浅井家臣の間を フラフラしていたが長続きせず、いっそ浅井家に勝った織田家か徳川家に仕官しようと 美濃・三河まで出てきたが、うまく行かず路銀が尽きてしまった。
どうせ死ぬなら、好物を満足行くまで食って・・・と考えてこの旅籠に入ったのだそうな。
「お前様、近江と言えば私の生国。他人事とは思えませんよ!」ホロリ…
などと騒ぎを聞きつけてやって来た自分の女房まで言い出すので、仏心のわいた彦兵衛、 タダ食いを許してやった上に、
「こういう時は、思い切って一から出直すのが良いものです。親御さんも心配しておられる でしょう。一度、故郷に帰って親孝行されてはいかがです?」 と、助言まで与えてやった。
するとこの若侍・与右衛門、 「承知した。ついては、路銀を五分ばかりお借りしたい。必ず、出世してお返しいたす。」 などと再び調子に乗り出した。
人の良い彦兵衛もこの言葉にはあきれ果てたが、要望の倍の路銀をくれてやった。 「このご恩は必ず・・・必ずっ・・・・・・!!」相変わらず台詞は立派に、与右衛門は去った。
女中「これで良かったんですかねえ・・・」 彦兵衛「なに、こんな世の中だ。当てにしないで待てばいいのさ」
402 名前:出世の白餅(三)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:46 ID:cg67r90c 「何だ、あいつら・・・」その日、三河吉田の町は凍りついた。
やって来た大名行列の侍たちが、あまりにも異様な面体の者ばかりだったからだ。 顔中、刀傷が這っている者。指が欠けた者。鉄砲の撃ち過ぎで顔半面にヤケド跡がある者。 いかなる闘争を潜り抜けたか、独眼・隻腕の者までいる。
面体も荒々しい侍たちが一斉に頭をさげると、行列の真ん中の籠から、大男が現れた。 この男も、身なりこそ絹の羽織に黄金造りの太刀と重そうな皮袋とたいそう立派だが、 顔中に傷跡が残り、右手の薬指・小指が半分しか無い。この男が大名だろうか。
大名とおぼしき大男は、まっすぐにあの彦兵衛の旅籠に向かった。 彦兵衛「こ、こんな七十過ぎた老いぼれの店に何の御用で・・・」 大名は金子がギッシリ入った皮袋を彦兵衛に渡すと、深々と頭を下げ、口を開いた。
「藤堂和泉守与右衛門高虎、彦兵衛殿の言葉に従い、郷里に帰って武者修行に励み、 縁あって故・大和大納言秀長公に拾われ、中国地方を東奔西走し、山崎・賤ヶ岳で戦い、 四国で命を拾い、九州を駆け抜け、大納言家の消滅後に独立して朝鮮へ渡って転戦し、 関ヶ原で大谷隊の鉄砲に指を飛ばされ、功により、伊予半国の大名となり、恩を返すべく 参勤交代の途上、吉田に立ち寄りました。遅参の段、御免なれ!!」
「あ・・・あの餅好きの与右衛門さんかね?!」 「いかにも。彦兵衛殿のご恩を忘れず、今日まで励んで参りました。おお、そうだ。 旗、挙げい!!」
紺地に白い丸を三つ描いた旗印が高々とひるがえった。 「白丸が三つ・・・あっ、ウ、ウチの餅じゃないか!!」 「さよう。彦兵衛殿に教わりし『白餅』の志を忘れぬよう、当家の旗印と致しました。」
高虎はその後も出世し、伊賀一国と伊勢八郡32万石の太守となり、寛永七年死去した。 高虎の遺命により、藤堂藩は参勤交代の際、三河吉田で宿泊するのが慣例となった。
” - 出世の白餅 続・妄想的日常 (via reretlet, petapeta)
0 notes
kisanebacci · 4 years ago
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
そう、良心的精神医療従事者が ウンドーの成果と、患者さんのためにやっています、 と云う、ことを明らかにシヨウトすればするほど、 そして、ウンドー場面での成果が上がり 自己のセーカツの場での勤務先の病院での医療実践に ゲンカイを感じ始めた時に、ソレは、容易に 制度政策提言路線になっていくのである 何故か、主体と客体とか逆転したまま、 ウンドー上のコトとジッサイのジブンの セーカツとしての医療現場との遊離が、 ドンドン進むからなのである ジッサイのセーカツとしての医療現場でのストレス解消を 精神医療改革ウンドーで、ヤッテしまうのである。 ソリャア主体と客体が、逆転するワナ ジブンのストレス解消のためのウンドーなんだから しかも、そのウンドーとやらで、 そこで、改革の答えを見つけようとすると、 それを社会と制度に求めるとなると、 そう【見えにくいアクジ犯】に為ってしまい、 制度政策提言路線に陥るのである。 ああ、もちろん、改革の答えを、 病理と病気と障害と患者本人と治療法に求めようとすると そう【すり替えアクジのハンニン】に、為ってしまうのである。 両者の共通点は、主体を患者に求めず 主体を精神医や看護婦看護士に心理士に ツマリ医療従事者に求める、ことなのである したがって 見えにくいアクジのハンニン達と すり替えアクジのハンニン達とは 地続きなのである 大ざっぱに言って、チガイは、 改革の答えの見つけ先のチガイと 己が加害者性のとらえ方とその表現のしかた それに、セーカツの場である病院と運動バメンとの、 どちらに、身を強く置くかのチガイであると、想う まぁ、ストレス解消の方法のチガイと、言っても、いい。 ハッキリ言って『医療従事者側』の ストレス解消法としての 『精神医療改革運動』 と云う視点で、見直すと 小林信子も、笠陽一郎も 人権センターウンドーも セカンドハッタツ断薬療法も 見えてくるものが、アルと、想いますよ だから、キチガイの側から言わせて貰えば こう叫びたいんデスヨ わしらが、なんでコイツ等のストレス解消の ネタにならなきゃなんないんだ バカバカしいったらありゃしない と云うコトなんですよ もう一つ、信仰の場面から来ている方々には、こうも、言っておきましょう。 「医療従事者側の信仰証明法としての 精神医療改革運動」も、お断りです、よ、と。 だから、まぁ、どちらも、 改革の主体を、医療従事者に置き けっして、患者自身に置かない 一見置くように見えても、それは、患者グループを 或いは、患者自身を己が統制下に置ききれると、思っている場合だけである そう、医療従事者達は、自己の統制下に、当事者を置ききれる、 と判断した時だけ、当事者を立てて、リヨウするのである 全家連と云うか、コンボ、みんなネット系、 全精連系統の団体を見て観れば、良い 病者集団ダッテ、おんなじコトなのだ ダッテ、良心的医療従事者と云うトコロを、、、、 病者集団が、にじり寄っている、にじり寄ろうとする 良心的精神医療改革政党関係者、良心的精神医療改革官僚、 良心的精神医療改革教授、良心的精神医療改革弁護士、 良心的精神医療改革議員、 に、置き換えてミレバ、アッという間に、了解でアル そしてそれは、ナニも全精連や病者集団ダケのモンダイなのではない キーサン患者会にも、シビアーなモンダイなのである キーサン患者会は、支援者を名乗る、最も身近な、 精神医療従事者との、特に主治医タル精神医とのカンケイ性を とらまえなおした方が良い。 これは、ゼッタイ的にヒツヨウになってくる それが、後世へのセキニンと云うモノである 我々、キーサン患者会は、長い歴史の中で 真に当事者主体を追及し続け得たと、自負できるのかどうかは、
まさにまさに ココにかかっているのである 最も身近な、同志的支援者の医療従事者や福祉従業員達との 特に、主治医たる精神医ナル者との カンケイ性の再確認と、再構築が、必要であると、 えばっちは、己が25年間の自己批判として、強く強く、想う、のである
何時までたっても、どのようになっても あくまで、患者は、病者の側は、客体ナノでアル 見えやすいアクジを、コロシの精神医をアクトクの精神病院を 暴き糾弾し、改革していく物語は どこまでいっても、患者の物語ではなく、病者の物語ではなく、 それは、たとえば、 良心的看護婦ガンバルの物語になるのである。 改革派精神医ガンバルの物語になってシマウのである
だから、 ソレを読んで、拍手できるのは、 同じ境遇の看護婦か精神医ダケなのであって、 タネにされた、病者の側は、結果として、 どのように暴露されようとも、 結局は、客体化されてシマッタ、代弁されてシマッタ患者側は、 ナンダカ、オカシイナァァーー と云う違和感を抱えながら、 タネにされ、ネタにされた感を もって読むことになるのである。 そうして、世間的には、いやいや素晴らしいシミン運動ではアリマスまいか コロシの悪徳精神病院の見えやすいアクジを暴いた、 とても素晴らしい改革運動ではアリマスまいか と云うコトで、拍手になるのである。 違和感を抱えつつ、当事者は、このなりゆきを、首をかしげつつ やはり、当事者のやろうとすることなど、やっていることなど、 語ろうとするものなど、叫ぼうとするものなど、書いたものなど、 人気も無いだろうなぁぁぁーーと、想いつつ、沈潜していくことになるのである。 ジッサイ、当事者の書いたモノなど、専門職の書いた本などに比べると 圧倒的に、少なく、しかも、まったくもって不人気で、売れないのである。 シカモ、出版されたとしても、 ソレは専門職のお墨付きを得たモノだけが、出版、発言、出来る と云うのがゲンジツなのである 当事者の口演や、講演や、シンポジストもまた、同じくなのである。 ゲンジツを直視すべきなのです、患者側も、ね この点でも、ナンダか錯覚してやいませんかね、、、、、 錯覚してますよ、ホント、当事者の側もね、病者の側も錯覚してるよ、ホント と言いたいのである ドナタ様に対しても 特に、良心的改革派医療従事者と その、統制下にあるハッタツ系当事者の諸君らには 錯覚してますよ、ホント、と、指摘したいのである そして、ココで、さらにまた、もう一つの 重大な問題に、ぶち当たるのである すなわち、当事者の了解を取る、と云う事なのである さて、見えにくいアクジ犯もすり替えアクジ犯も どちらさんのハンニンの医療従事者福祉従業員のミナサマ方よ どんなコトをエラそうに、書いているのかシランが 書かれている当事者本人の了解は、取れていますのヤロな 代弁までしてはりますが、 書かれている、タネになっているご本人さんの了解は取れていますのヤロな 口寄せなら口寄せで、了解は、取りましたのか 了解と、言うても、イロイロあります。 そう、了解の程度と云うか、了解の度合い、と云うのもアリマスな そして、そして、キーサン患者会の本音から言わせてもろうたら 本人の了解、ほど、誘導されやすいものも、アリマセンな。 ホントでっせ 知らない、フリなど、通用しません アンタはんら、よーーうにわかってて、当事者本人の了解を うまいこと、誘導しはりますな 本人の意向の尊重を言いながら 上手いこと、入院にもっていかはりますな ある種、騙しのテクニックだすな 今流行りは、本人の意向を無視しながら 誘導しながら、セカンド減薬ハッタツ断薬療法 と云うコトでっしゃろな だから、その成功美談の書き方も、ソウならはりますな 不都合な真実の方は、本人の了解が取れなかった、と言うて 上手いこと、狡猾に、隠さはりますな 見えにくいアクジのも、すり替えアクジのも えばっちは、その巧妙さ、狡猾さ、嫌というほど、見てきましたからな よーーうに、知っているんでっせ 当事者の了解を、どのように誘導して取るかは、 実は、リヨウ心的医療従事者の良心的為るがゆえに 染みついてシマッタ、性のヨウナものなのである キーサン患者会側から見ると、 イヨーに狡猾で、狡賢く、愛に満ち溢れている好意的行為 とでも、表現しようのないモノなのである だから、その手の書いたものを読むときに、コウ想いますな どうしても、代弁してしまって書いたのなら 口寄せであることを 了解を取れていないことを 明示すべきですな 了解を取って書いている、と云うなら、 どの程度の了解なのか、どの程度誘導したのか それらも 明示すべきですな どーーしても代弁せざるを得ないというのなら そのせざるを得ないという理由と条件を明示すべきですな その理由と条件とは、ドンナものになるのかを、 ジックリと考え尽くした、うえでね。 そして、それは、また 当事者として、モノを書き続けているエバッチにも 当然のことながら、突きつけられるモンダイなのである。 だから、今、ここに、こうして、ココに書いているのである。 誰からも、喜ばれないことを、受け入れられないであろうことを これでもかコレでもか、と、書いているのである。 そしてそれは、自分自身にも、突き刺さってくることなのである。 では、えばっちが、この点に関し、己が自身の原稿では、 どう明示しているか、ここで、明らかに、しておきたい 2014年8月号の「むすぶ」から始まった今回の、 セーカツ実録の連載にあたって、その最初の 段落に、どう書いているのか、その号を買って、 参考までに、読んでみて頂きたい、と、想う まずは、ね 不十分なものである、不充分ながらも、 えばっちは、どのように、書きはじめたのか そう、だから、今回の、むすぶの連載にあたって、 最初の号の最初の段落に あのように書いて、連載を始めたのである。 キーサン患者会のキチガイとして、ドウ書くのか、なのである 買って、読んでみて頂きたいと想う。 ロシナンテ社刊行2014年8月号 「原則と基盤第二巻 性と暴力と患者会」である。 その上で、で、ある。大体が、ね アンタ等のビョウインと云う仕事場で飯のタネにされ アンタ等の改革運動タラの場でストレス解消のタネにされ それで、 アンタ等が、エラそうに御託を並べて言うか書くかスル時にゃあ 我々当事者本人の了解は、反故にされてますのやで そこまでされて、キチガイが、何時までも、ニコニコしていると、 多寡を括っているのでしたら、 そろそろ、眼を覚ましてもらいまひょ しかもしかも、この本人の了解の利用が、また、酷いわエグイわ 見えにくいアクジ犯、すり替えアクジ犯にとって 都合のいい事なら、どんな誘導してでも、本人の了解とって 公表しまんのやわ あーーもちろん、嶋田和子のように、 本人の了解無視してでも、公表しマンのヤワ ところが、都合の悪い、不利な事なら、 本人の了解を取れなんだので、公表できません と、コウなんですわ、ほんと、素晴らしい、ご都合主義ですワナ 本人の了解が取れないので、公表は控えさせてもらいます。 それだけ聞けば、ナントイウ、ちゃんとした対応と、想いますワナ ところが、この文が出てくるときは、己が不都合な真実を隠したいとき と、決まってますのやわ ところが、己が都合の良いことは、本人の了解なしでも、本に書く、 と云うのが、コウいうね、ヤタラとヤカラな、レンヂュウですわ、ほんま 本人の了解の利用の一例、だすな。 精神医療改革のためには、必要な事、らしい、ですヨ クタバレ、アホンダラ、この糞すボケ、スカタンアンポンタン だから、コトは、立場性のモンダイなのである。 自己が語る立場をハッキリさせねばならぬ そして、代弁をしてシマツテは、ナンニもならないのだ。
代弁、それは、一見、よさそうに見えて、実は、徹頭徹尾 患者自身の牙を抜くことに為るのだ 「口寄せ」なら、良いのだ 当事者なのか、 当事者が見えやすいアクジを暴露して糾弾しているのか、 それとも医療従事者が医療従事者の立場で暴露して糾弾しているのか、 それとも医療従事者が当事者の代弁として暴露糾弾しているのか、 はっきりしなければならない。 医療従事者が代弁としてやる行為は不可である。 それでも許されるとしたら、それは霊能者という立場で亡くなった者の 怨念を書く場合のみである。 すなわち、「口寄せ」なら、それはそれでよいとは想う。 ただし、霊能者であることを明示しなければならぬ。 以上を踏まえたうえで、 「口寄せ」ではなく 医療従事者が良心的医療従事者であるがゆえに、 当事者の被害を代弁し、 代わって糾弾暴露できると思うのであれば、 それは非常に危険な兆候であると想う。 まさに見えにくいアクジか、 すり替えアクジのハンニンに為ってしまう 心性の第一歩なのである。
  「わたしが、やらねば、だれがやる、 この可哀そうな人たちに代わって わたしが、やらねば、だれがやる」
この燃えるような正義的、良心的、使命感が、 これが、第一歩に為るのである。 そして、この燃えるような正義的使命感が、 専門職としてゲンバで、不遇をかこつとき、あるいは、 自己のゲンバでの医療内容を改革し得ないときに、 このウンドー的恣意的代弁行為は、 特に、時に、時に、特に フェミニズム傾向のある母性豊かな やる気の溢れた頑張る精神医療従事者や 精神福祉従業員達を、 徹底した『依存サセ屋』にシテシマウのである。 その結果ナニが、おこるのか、は、しれたことである、 当事者のもっとも当事者らしい『牙』が、スッカリ抜かれてしまうのである。 『牙』を抜かれてシマツタ患者は、精神医療と福祉の 『家畜』『家族畜』『精神医療畜』『精神福祉畜』『改革運動畜』 『精神学会畜』『福祉学会畜』『審議会畜』『分科会畜』 と為り果てるノデある。 ハッタツ系、障害学系当事者たちは、自ら、ソウ為りに行っていると、 言って過言ではないのでアル だから、代弁行為は御法度ナノデある 恣意的示威的自慰的侍医的代弁行為こそが キチガイから牙を抜き、飼いならし、 見えにくいアクジのハンニンへの第一歩に為るのである だから、立場は、ハッキリとさせねばナラヌ 看護婦は看護婦の立場で、医者は医者の立場で、発言せねばナラヌ しかも、主体と客体を、逆転させること無く、でアル 追及しだすと、コレは、実は、相当に矛盾することに為る、と云うことが、 お分かりであろうか だから、これは、ビミョーなバランスのモンダイなのである しかし、このビミョーなバランスを取りやすい、目安と云うモノがアル 何度も、言ってきたのだが、 それがすなわち、医療従事者としての己が加害者性を、 コレデモかコレデモかと物語ることなのである 必ず、物語るコトなのである ソレが、一つの目安、なのである リクツではない、前進友の会みんなの部屋の 実は実は、みんなの部屋の歴史ソノモノなのである これは、実は そさんのことなのであり みさんのことなのである 前進友の会と云う患者会の みんなの部屋の中において、 そさんとは、ナニ者だったのか みさんとは、ナニ者だったのか クルシイけれども、ソコが赤裸々に語られなければならぬ リクツではないのだから 患者会の歴史として、語られなければナラヌ しかし、未だ、ソコ��、友の会のみんなの、同意が、得られなければ、 語ることが、ムズカシい物語なのだ、ツラい物語なのだ さて、だから、良心的医療従事者や、 良心的精神福祉従業員たちが あまりにがんばり、あまりに評判が良いと、 そして、あまりに、病者や患者さんのためとやりすぎるのは、 良いことは、決して決して、生み出さないと想う。 特に、恣意的で自慰的で示威的に患者の立場で 代弁をはじめたとき、 特に医者は、侍医的に患者の立場で代弁をはじめたとき、 そこにあるのは、病者患者の尊重ではなく、かえって 病者患者自身の 「自主自立」「自主集合」「自炊会食」 「自問自答」「自己自称」「自由独立」 「団結礼信」「交友仁義」「自尊自衛」 「自陣自闘」「自暴自棄」「自生自傷」 「自行自白」「自縛自放」「自存自営」 「自遊自レク」「自己決定」「自己滅裂」 しようとする、 キチガイの牙を抜き飼いならす第一歩に為るのだと想う。 それが、 見えにくいアクジ 良心的医療従事者 良心的福祉従業員 すり替えアクジのハンニンたちが 陥るドツボなのだと想う。 その特徴的な姿は、『評判の良いデイケア』に行ってみれば 一目瞭然、一目利用善である。 自分たちは良いことをやっているツモリなんだろうが、 なんのことはない、 善意こそが地獄への道を舗装しているのである。 この場合、特に善意こそが 愛に満ち溢れた七色の地獄への道を舗装しているのである 確かに、この舗装された道は歩きやすい。 しかも、極彩色に綺麗なものなのである。 で、歩きやすいがゆえに、 結局は天国のような地獄にまっさかさまナノである だからこそ、ソコを気づいてシマッタ、われわれは、 歩きにくい茨の道を選んだのである。 それが、キーサン患者会であり、 キチガイが街に居座り街で居直る、ということなのである。 だから、われわれは本質的に、 どのような善意であろうが、良心的であろうが、 力の続く限り、見えやすいアクジと対するのと同じように、 いや、それ以上に 見えにくいアクジとすり替えアクジのハンニンたちに、 牙をむいて襲い掛かっていくのである。 すくなくとも、そのアクジをこれでもかこれでもか、と、 暴露していくのである 善意に満ちた七色の地獄アクジの暴露なのである。 まさに、良心的にガンバッテいる良心的スタッフのみなさんの、 七色天国的見えにくいアクヂ地獄すり替えアクジストレス解消法を余すところなく、 糾弾暴露し続けるのが キーサン革命なのである。 わしらキチガイは、アンタラの飯のタネやないで わしらキチガイは、アンタラの信仰の証明のネタやないで わしらキチガイは、アンタラのストレス解消のネタやないで たいがいにしとけよ、この、アホンダラが バカバカしいったら、アリャア――しないよ、まったくさ 気付いてしまえば、バカらしいったら、 アリャア―しないよなーーまったく だから、叫ぶしかナインだよ キーサン革命バンザイ キーサンンーーーンンンーーーーンンンンン革命バーーーーン ーーーザーーー ーーイイイイイイ イイーーーイイイイイイイイイーーーーイイ バンザーーーイイイーーーイイイイイーーーーーイイイイイイイイイイイイイイイイーーーイイイイイーーーイイーーーイイイ 2015/1/23 起稿  前進友の会えばっちより
精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所 あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起
前進友の会やすらぎの里のホームページ http://yuinoumi.web.fc2.com/zenshin-index.html えばっちのはてなブログ https://ebacciblog.hatenablog.com/ えばっちのホームページ 乾坤一擲 http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html えばっちのタンブラー https://kisanebacci.tumblr.com/
0 notes