#僕は来年の夏フランスに留学してから、今フランス語を勉強しる
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carbon--14 · 8 months ago
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iirc niko’s name is spelled in katakana (ニコ) on the letters from her mom, which makes me think it’s referencing the term nikoniko (ニコニコ). as in, the onomatopoeia for smiling. my girl’s name is literally smile, of course she’s a perfect ray of sunshine.
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xf-2 · 7 years ago
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「当時、ルソーを語らないやつはダメでした。僕は哲学専攻でしたから特によくルソーを読み込んだ。女の子の前でフランス革命を語るのが、一番カッコよく見えた時代です」
元中国人の評論家・石平に若い頃の話を尋ねると、そう言って笑みを浮かべた。
1962年に中国四川省で生まれた石平は、幼少期に文化大革命を経験。やがて1980年、北京大学哲学系に入学し、学内で民主化運動に熱中した過去を持つ。中国が改革開放政策に走りはじめた当時、キャンパスでは誰もがルソーを読み、国家の未来と民主主義を語るのが流行だった。
卒業後、石平は中国国内で大学講師になったが、学生に民主化運動のオルグをやりすぎて上司に睨まれ、新天地・日本に留学。神戸大学大学院で博士号を取得している。1989年に六四天安門事件が発生したときには、彼は関西地方の中国人留学生グループのなかでも相当にアクティヴに動き回った。
私は先日、彼のような天安門世代の中国人たちの「その後の人生」を追いかけた『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』(KADOAKWA)という本を刊行した。天安門事件が起きたとき、日本は平成元年。この約30年間で、かつての若者たちの人生は大きく変わったが、それはいまや「元中国人」の保守評論家となった石平も例外ではない。
石平の心のなかにある、往年の民主化青年の素顔に向き合ってみたい。中国の若者が、カネ稼ぎや就職の心配よりも国家の未来を心配していた時代の記憶に触ってみたい。そこで今回の記事では、石平にそんな過去への思いを存分に語ってもらうことにした。
この記事を読んでいる日本の大部分のネットユーザーはきっと知らない、もうひとりの石平の姿。どうぞご覧いただきたい。
革命神話が生きていた時代に
安田 いわゆる天安門世代に該当するのは、1960年代生まれの中国人。中国語で「六〇後(リョウリンホウ)」と呼ばれる人たちです。彼らの青年期後半と日本のバブル絶頂期は重複していて、中国国内のエリートがいちばん多く日本に留学していた世代でもあります。
結果、現代の「有名な在日中国人」はみんな天安門世代です。石平さんをはじめ、財界ではソフトブレーンの宋文洲氏やラオックスの羅怡文氏、芸能人では周来友氏や李小牧氏、小説家の楊逸氏など、非常に濃い面々が揃います。日本で教鞭を執る中国人大学教員も、この世代がいちばん多いでしょう。
石平 そうですね。日本にいる中国人留学生の質が高かったのは1980年代なんです。90年代前半期も、天安門事件に失望した中国のエリートが大勢日本に来ています。
安田 天安門世代は、ほかにもIT企業アリババの創業者のジャック・マー(馬雲)やバイドゥ創業者のロビン・リー、シャオミ創業者の雷軍、暴露大富豪の郭文貴など、中国財界の大物たちも数多く該当します。中国共産党の高官だと胡春華や孫政才(2017年7月失脚)もそうですね。この世代の中国人の、心の原風景みたいなものを知りたいんですが。
石平 いいでしょう。たとえば僕の場合、4歳で文革がはじまり12歳で終わった。物心ついたときはまだ、革命神話が現役だった時代です。「偉大なる中国共産党により解放された祖国は素晴らしい」「諸君は世界で最も幸せに暮らしているんだ」「日本人民やアメリカ人民は悪しき資本家の抑圧のもとで食うや食わずやの生活である」と教わりましたよ(笑)。
殺伐を越えて
安田 往年の石平少年も、胡春華少年もジャック・マー少年も、みんな毛主席の紅小兵だった。中国人民より “不幸”なアメリカ人民や日本人民を、共産主義の光で解放するのが使命だと教わってきた。
石平 ええ(苦笑)。しかし、文革で社会はメチャクチャになる。そして70年代からは、農村に送り込まれた紅衛兵の一部が無許可で都市に戻り、仕事がなくて犯罪に走るようになった。70年代の中国は貧しくて閉鎖的なだけではなく、治安も悪くて暗い時代でした。
※来日して早大大隈講堂でトークセッションをおこなったアリババ創業者、ジャック・マー。今年3月末時点で時価総額世界8位の巨大IT企業を率いる彼も1964年生まれであり、世代的には「天安門世代」だ。2018年4月25日、大隈講堂内で安田撮影
安田 そんな殺伐とした時代の後に、ようやく毛沢東が死んで雪解けがはじまる。石平さんが北京大学哲学系に入学したのはこの時期(1980年)です。どんな学生だったんですか?
石平 当時、鄧小平の新体制のもとで、毛沢東時代がある程度は否定された。そこで登場したのが、文革の悲劇を暴露する「傷痕文学」という小説ジャンルです。私は高校から大学にかけてむさぼるように読んで、強く影響を受けた。当時は娯楽が少ないので、他の同世代も似たり寄ったりだったでしょう。
僕らが子どもの頃は「素晴らしい政権の下に生まれている」と教育された。それが大人の入り口に立つ頃になって、自分たちの社会の残酷さ、恐ろしさを知る。両親や同級生からも、文革当時のひどい話をたくさん聞く。この時期にいちど、世界観を完全に壊されるんです。
安田 日本だと昭和一ケタ世代みたいな感じかもしれませんね。軍国主義教育を受けて育ったのが、戦争が終わったとたんに「真相はこうだ」「総懺悔」みたいな話を突きつけられるという。
石平 近いかもしれません。そこで80年代に大学生になった僕らの世代は、みんな一気に民主化にはしるわけです。非常に高揚感のある時代で、外国の情報も入るようになって。当時のキャンパスはそういうパラダイムのなかにあったんですよ。
安田 1989年の天安門デモだけが有名ですが、実は80年代の中国では大小の学生運動が頻発し、経済だけではなく政治の自由化も盛んに議論されていた「学生運動の時代」です。ところで、日本で学生運動が盛んだった60〜70年代には、『資本論』を読んでないやつはバカにされるみたいなのがあったそうですが。
石平 うちらもそう。当時、ルソーを語らないやつはダメでした。僕は哲学専攻でしたから特によくルソーを読み込んだ。女の子の前でフランス革命を語るのが、一番カッコよく見えた時代です(笑)。
安田 実に安保闘争っぽいなあ(笑)。ちなみに日本の60年安保のときの大学進学率は10%すこし。いっぽうで1980年の中国の当時の大学進学率は2%未満です。
地獄を見た人たち
石平 そう。当時の中国で大学に入れたのは非常に限られた人間だけでした。しかも社会主義が残っていた時代で、学費も寮費も食費もほぼいらない。われわれが民主化運動に没頭できたのは、ある意味で「中国共産党のおかげ」だったのですよね。
安田 当時の中国ですと、卒業して学士様になれば大学の講師ぐらいにはなれた。少なくとも職には決してあぶれなかった。石平さんを含めて、80年代の中国で民主化を叫んでいた若者は、非常に限られた特別な人たちだった。
石平 完全に恵まれた人たちの、温室のなかの贅沢な革命です。いまから考えると幻想に過ぎないのですが、みんなが��下国家を語り、「自分の力で中国を変える」という気負いがあった。当時の最高指導者の鄧小平は理解不能だったでしょうね。「君たちをこれだけ優遇してやったのに、なぜ逆らうんだ?」と思ったはずです。
安田 それに、みなさんから一世代上(1950年代生まれ)の人たちも腹が立ったでしょう。彼らは文革のまっただな��に青春時代を送った紅衛兵世代です。習近平みたいに幹部の子弟でも農村に送られて、地獄を見た。ろくな勉強もできなかったわけですから。
石平 その通り。習近平たちの世代から見れば、僕たちは単なる生意気な青二才にみえるのです。農村など低層のことは何も知らずにして民主主義ばかりを語っているアホどもが、という感じです。しかし彼らの世代は、毛沢東独裁政治の被害者でもあるのに、今になって独裁体制作りに躍起になっているのも、私たちから見れば摩訶不思議です。   安田 紅衛兵世代と天安門世代の仲の悪さは、『八九六四』の取材でも感じました。たとえばあるデモ学生OBに「何が不満だった?」と聞いたら、「俺は大学まで出ているのに、紅衛兵世代で小学校しか出てないやつの下で働くのがイヤだった」とか言うわけです。気持ちはわかりますが、当時の中国社会の現状から考えるとかなりの「わがまま」ですよね。
石平 われわれの運動は、失敗に終わるべくして終わったということですよ。中国がなんたるか、社会がいかなるものかも理解しないまま、理想だけを持っていた。もちろん、それでも青春時代の情熱を燃やしたことに悔いはない。命を捧げた人たちもいる。僕たちが体験した1980年代というのは、そういう時代だったんです。
安田 現在の中国からは想像もつかないような、学生運動の政治の季節ですね。
石平:そんな僕たちの時代は、1989年の天安門事件をもって終わりました。そう。あの事件ですべてが終わったんです。
愛国心は「逃げ場」だ
安田:終わった後に残ったものはなんだったんでしょうか、
石平:僕たちの世代は、自分の中にある毛沢東時代までの価値観をすべて壊しました。結果、中国共産党も人民日報も中国中央電視台(CCTV)も、あらゆる権威を信じなくなった。
いっぽうで従来の価値観を壊した結果、次はどんなことがはじまってもいいと思って、自分の頭で考えてルソーやフランス革命に接近していった。80年代を通じて、僕たちの世代を唯一まとめていたものは、民主主義という理想だったんです。
安田:しかし、それは天安門事件で壊された。
石平:はい。すると、僕たちの世代にはもはや共通点がないんです。みんなが好き勝手なこと���やるようになる。なかには理想にあくまでもこだわって、理想のままで生きていく人もいないではない。でも、ニヒリズムに陥って、やがて立身出世や金儲けだけに走っていったやつも大勢出ました。
安田:『八九六四』にも、天安門事件の理想が破れて拝金主義者になってしまった青年の話が出てきます。もとは爽やかな好青年だったのに、すっかりイジけてカネの話しかしなくなった人が。
石平:イジけ方にもいろいろあります。中国国内の愛国主義者になっていったやつらもいる。例えば、ゼロ年代前半頃から中国ではネットの掲示板にやたらに愛国的なことを書く人が出てきましたが、どうやら初期の時期のそういう連中の一部は、僕と同じ世代みたいなんです。
安田:石平さんの初期の著作(『中国「愛国攘夷」の病理』小学館文庫、2002年)で書いていた、2001年ごろに人民日報傘下のネット掲示板『強国論壇』に集まってタカ派的な発言を繰り返していた人たちですね。当時の中国で、ネットを使えた人はエリートに限定されていたはず。彼らの正体は、すくなくとも一部については天安門ニヒリズムを抱えた世代だったと。
石平:金儲けと出世に走るやつがいる。あるいは、ごく少数ですが、純粋な気持ちを内面に持って反共産党の立場を永遠に貫いていくやつもいる。でも、どっちにもなれないやつがいるんです。そんなやつの逃げ場は愛国心になる。
天安門と「反日」
安田:なるほど。天下国家を論じたい理想主義者だったのに、民主化の夢は破れた。でも、開き直ってカネ儲けをすることもヘタクソ。そんな人たちが、中国のネット黎明期の反日言説の源泉のひとつになっていったと。
石平:僕の同級生にもそんなやつがいました。1980年代は、口を開けば中国の民主化を語っていたのに、1990年代になると反日的なことばかり言うようになった(笑)。ただ、こういう連中は弁が立つし文章も上手いし、語彙力もありますから、文章を書くとずいぶん迫力のある「反日言説」ができあがる。
安田:なるほど。後年に中国でネットが普及してから出てきた憤青(中国版のネット右翼)みたいに「小日本のバカ」「中国バンザイ」と一行レスを書き残すだけならバカでもできる。でも、いびつに歪んだイデオロギーであれ、それを長文で論理的に弁じ立てていくのは、やっぱり賢い人間じゃなきゃできません。
石平:そういうこと。2001年ごろの『強国論壇』の愛国反日的な文章を眺めていると、ピンとくるときがあるんですよ。こいつは僕と同じ世代なんだろうな、って。
安田:この論理構造は、かつて80年代の北京大学で見たアジビラとそっくりだ! みたいな。
石平:そうそう(苦笑)。文章それ自体は、実にガッチリと論理を構築して書かれている。
安田:政治理論みたいな抽象的な理屈を文章にして、理路整然と論じていく能力って、近年は世代が下るほど弱まっていますよね。これは中国だけではなくて、日本でもそうですが。
石平:そうです。仕事でやっているわけで���、自分の生活上の利益とも直結していないのに、理屈をこね回して抽象的な長文を書くような人は、日本ではほとんど絶滅しているんじゃないかな。中国でも、私たちの世代が最後なんです。
安田:一昔前までは、エリートでも哲学や文学を専攻する人が多くいたので、そういう「政論」を書くことが趣味みたいな人が大勢いました。でも、ここ20〜30年は社会が変わって、エリートはITや金融みたいに実学的な学問を勉強するようになったので、そういう趣味を持つ人も減ったように思います。
石平:そう。僕たちはそういうことをやる、最後の愚かな世代といいますか。僕たちよりも若い中国人のエリートは、もっと世故に長けていて賢いでしょう。ネットに「政論」を長々と書くような、非生産的なことはしませんよ。
反日とはなんだったのか
安田:ところで、70年代〜80年代生まれの中国人のエリートは、石平さんたち天安門世代と違って学校で反日・愛国主義教育を受けているはずです。でも、彼らは日本旅行が大好きだし、無印良品みたいな現代日本っぽいライフスタイルや、日本食やジャパンコンテンツのよき消費者となっています。全然反日的じゃないですよね。
昨年、『君の名は。』の聖地巡礼のために飛騨古川にやってくる若い中国人個人旅行者を取材したんですが、彼らは実にお行儀がよくて物静かで、日本に対して健全な親しみを抱いている。正直、中国政府が天安門事件後にはじめた反日・愛国主義教育とは何だったのかと思えてきます。
石平:中国の反日・愛国主義教育は、バカが信じればそれでOKなんですよ。日本に個人旅行に来るくらい生活に余裕を持てる人は頭のいい人間だから、学校で教わるイデオロギーなんか真面目に信じない。
安田:逆説的に言えば、政府のプロパガンダを本気で信じて「反日」になるようなバカは、中国の社会は成功できないし金持ちにもなれない。
石平:そういうことです。一方で、格差の末端に追いやられた「持たざる者」は、潜在的な体制への不満分子です。そういう連中のフラストレーションを溜めず、高揚感を持たせてやるために中国政府が与えているのが、反日や愛国主義というオモチャなんですよ。
安田:中国の政府にしてみれば、社会で負け組になった「バカ」の不満がお上に向くことなく、「小日本め!」と日本を憎みながら大国意識に酔っていてくれれば天下は泰平である。
石平:そう。いっぽうで現代の中国では、金持ちや賢いやつは体制に反抗しない。だから、彼らが反日・愛国主義教育を信じてくれなくても政権の脅威にはならない。結構巧妙なんですよ。
天安門世代はなぜニッポンを愛するか
安田:日本に帰化した元中国人は少なくありませんが、石平さんは彼らののなかでも特に日本のナショナリズムに親和的で、靖国神社にも参拝しています。いっぽう、学識から考えても、ご本人と向き合ってお話をしていても、石平さんはナショナリズムを相対化して考えている人だと思うのです。
石平:もちろんですよ。日本のナショナリズムについても、例えば僕は昭和の初期の日本の戦争については基本的に批判的な立場です。ああいう全体主義的なナショナリズムは行き過ぎている。これは僕のあらゆる本で書いているんですよ。
安田:最近でも『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書、2018年)の終盤で、がっつり書かれていますよね。
石平:ええ。もっとも、戦後の日本でその問題が逆になって、国を愛したり国旗を掲げることすらタブー視されたのもいけません。戦前も戦後も、方向性は真逆ですが極端な誤りがあると思っています。
安田:とはいえ「日本人・石平」の政治的立場は、平均的な日本人と比較しても右に位置するはずでしょう。なぜでしょうか。
石平:正直なところ、僕は最後まで理想主義者なんです。要するに、なにか理想的なものの中にいないと、自分はもたない。かつての理想の枠組みは中国への愛国心にもとづいた、中国のための民主化だった。でも、それは永遠に破れてしまった。ならば当然、僕の新しい理想の枠組みは日本に置かれるんです。
安田:天安門事件で空っぽになった理想の器は、別に何かで満たされなくてはならなかった。
石平:ええ。僕は幸いにして日本に来て、長く生活してきましたが、いい体験ばかりなんです。僕は中国の古き良き文化が好きな人間ですが、それは現代中国で失われたものすらも、日本には存在している。例えば今日、ここに来て――。
安田:大阪から滋賀県までお越しいただいてすいません(注.この対談は安田の実家の寺院でおこなわれた)。
石平:いやいや。ここで寺の庭を眺めて、お茶を飲んで風の流れを感じてと。そこで私が感じるのは古き良き中国であり、それを美しく昇華させた日本の伝統文化への愛着なんです。ある意味で、僕にとっての理想の世界は日本にこそある。日本料理も大好きです。
もちろん僕も、日本が抱えている様々な問題は知らないわけじゃない。しかし、それは別の問題です。僕にとって日本は、理想的なものでなくてはならない。そうなっちゃった。ある意味において、僕が日本を愛するのは自分のためのことでもあるんです。
理想の世界を守るため
石平:そして僕は日本人としての意識を持つ。例えば靖国問題にしても、僕は昭和初期の戦争には否定的です。しかし、あの戦争で国のために命を投げ出した人は美しい。それを決断した人間はバカであっても、若くして純粋にこの国のことを思って、亡くなった方は美しい。だから僕は、自分が日本国民になった以上、彼らが眠る場所には参拝するべきだと考えている。
安田:新天地の国を愛して、精神的に一体化することを望む結果、現地では右派的とされる立場にコミットしていく心理は理解できます。例えば天安門の学生リーダーだった熊焱は、アメリカで帰化後に(従軍牧師としてですが)軍籍に入って、イラク戦争に参戦しています。かつてトランプ政権の仕掛け人だったスティーブン・バノンの幕友にも、中国民主派の在米華僑が少なから���混じっていました。
石平:僕はこの日本の伝統と文明に一体化して、人生における最後の安息を得たいと考えています。だから逆に、日本を攻撃して貶めるような言説は容認できない。なので、僕が左翼を批判するのも本気なんですよ。自分の心と精神における、最後の理想の世界を守らなくてはならない。   安田:なるほど。とはいえ私は「日本を貶める」というか、一定の適切な批判は必要かと思います。例えば中国でも、天安門のデモの学生が中国の国家体制や政治を批判したのは、別に祖国が嫌いだったからじゃない。むしろ一種の愛国心ゆえでしょう。日本においても、こういう立場からの���判は健全なものだと思うのですが。
石平:それは当然。民主主義の社会ならば、それは存在するべきです。ただ、僕は政策を批判することも賛成することも必要だと考えています。例えば安倍総理の日韓慰安婦合意は、例え他の右派の人たちがナアナアで納得していたとしても、僕はあくまでも反対して批判する。逆に改憲や安保法制の整備には賛成するんです。
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日本にはもうすぐ、平成最後の夏が訪れようとしている。1989年に幕を開けた時代の終焉である。しかし中国もまた、この約30年間で人も社会も一変し、往年の天安門のデモに熱狂した青年たちも考え方を変えた。石平の人生遍歴もそのひとつだろう。
かつての民主化青年たちは、天安門事件で空っぽになった理想の器を何で満たしたのか。『八九六四』では、そんな彼らの後半生に密着している。社会のありかたを変えた事件が、当事者たちにもたらしたものとは。それは、結果的に日本に何を与えたのか。
平成元年に北京で起きた大事件から、中国と日本のいまが見える。
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ronpe0524 · 4 years ago
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これじゃ映画を観に行けない、1月(2021年1月の日記)
■2021/1/1 元日の金曜日。今年もよろしくお願いします。目覚ましもかけずに寝ていて、7時過ぎに娘に起こされる。いつも通り娘に英語の勉強をやらせて朝ごはんはお雑煮。1年前は歯の矯正の状態により餅を食べられなかった娘も今年は食べれる。めでたい。家族で実家へ。新年の挨拶。母がおせちを準備してくれていて食べる。年とっておせちが美味しく食べれるようになってきました。お腹いっぱいになってちょっと昼寝もしてしまいましたよ。のんびりした元日で素晴らしい。夕飯までご馳走になり車を借りて帰宅。娘が寝てから配信アーカイブで「前野健太 WWW 10th Anniversary GO TO 前野健太」視聴。Netflix『コブラ会』S2E1~E4を見る。
■2021/1/2 土曜日。車で奥さんの方の実家へ。新年のご挨拶。車で2時間程度の距離だが2020年はGWにも夏にも行くのを控えていたので1年ぶり。とくに義理のお父さんは孫に会うのも一年ぶり���はずである。まぁこの年末年始も帰省できない人は多いようなので、こうして年一で会えるだけでも良い方なのかもしれない。寿司をご馳走になりお腹いっぱい。行きも帰りも道路は空いていたな。夕飯前には帰宅。夜、娘を寝かしつけるが帰りの車で寝ていたせいかなかなか寝ない。やっと寝たので、ラロッカさん、otokeiさんが声かけてくれたオンライン新年会に顔を出す。ラロッカさん、けんす君が提供してくれた映画クイズが楽しくて26時ぐらいまでやってしまった。
■2021/1/3 日曜日。実家への挨拶も終わったのでのんびり。例年であれば、けんす君んちで新年会やったり、五反田団の新年工場見学に行ったりするのだけど今年はそれもなし。2022年にはあるのかな。「スチャダラパーのココロのベスト10 2020」を配信アーカイブで見たり、娘といっしょにマインクラフトをやって遊んだり。夜、娘の寝る準備をしたあとTOHO立川立飛へ。『燃えよデブゴン TOKYO MISSION』鑑賞。残念ながら観客は僕ひとりであった。大丈夫だろうか映画館。あと太る前のドニーがHOKUTOさんに似ていたことをここに書き残しておきたい。たぶんメガネの印象だけど。Netflix『コブラ会』S2E5を見る。
■2021/1/4 月曜日。今日までは正月休み。娘とマインクラフトで遊んだり、僕モテの原稿を書いたり。午後はテレビでルヴァン杯の決勝を見る。FC東京にとって久々のタイトル。嬉しい。夜は娘の寝る準備をした後にMOVIX昭島へ。『新 感染半島 ファイナル・ステージ』鑑賞。Netflix『コブラ会』S2E6とE7を見る。
■2021/1/5 火曜日。今日から仕事です。まぁ在宅ですけどね。休みの間はなるべくメール見ないようにしてましたがそれほど溜まっていない。海外含めみんな休んでるんだなぁ。WeeklyのミーティングをやったけどUpdateなんてほぼないからすぐ終わり。明日から頑張ります。お昼を食べてから午後半休で病院のはしご。咳が出てしまって困るので近所の病院に行ったら「風邪の症状の方はインターフォンを押してください」と。まず病院に入れてもらえません。インターフォン越しに説明したら指定の時間に出直すことに。診察も隔離された部屋で行われ、保険証の受け渡しや料金の支払いすら病院の方と接触しないような工夫がされていた。ここまでやるんだなぁと感心してしまいました。看護師さんは説明しながらちょっと笑ってしまっていたけど。無事に咳止めを出してもらう。Netflix『ローズ島共和国~小さな島の大反乱~』を見る。DVD『シャークボーイ&マグマガール』を見る。
■2021/1/6 水曜日。おばあちゃん(義母)が泊まりにきてくれて娘は大喜び。僕はせっせと在宅仕事。夜、熱を測ったらやや娘の体温が高い。「寒い」とか云ってるし、これは明日は小児科か?と思っていたら、一度寝た娘がお腹が痛いと起きてきてしまった。ただ便は出ない。体温を測ったら38℃を超えている。これはまずい。娘といっしょに寝る予定だったおばあちゃんには僕のベッドで寝てもらい、娘には僕がつきそうことに。
■2021/1/7 木曜日。朝起きて「あれ?お父さん?」と娘。隣で寝てたのが僕ということに気づいてなかったらしい。思いのほか元気に喋っていたが、熱を測ったらやはり高い。会社に休みの連絡をして、複数のミーティングもキャンセルや保留に。僕は車を借りるために実家へ。両親が心配してゼリーとかくれた。ありがとう。娘をピックアップして小児科へ。コロナだったらどうしよう、といろいろ考えてしまった。先生は娘ののどの状態を診て複数の感染症の検査。これのひとつが当たりでアデノウイルスってやつでした。まぁ熱が出るので娘にとっては大変なのだろうけど、正直ホッとしてしまった。先生も同じ反応だった。いまの状況だと原因がコロナじゃない、ということが喜ばしい状態なのだなぁと。薬局に寄り帰宅。娘はゼリーを食べたり、すりおろしてもらったリンゴを食べたり。おばあちゃんが見ていてくれるというので僕は午後から在宅仕事に復帰。娘は解熱剤が効いてやや楽になってたようだ。早く回復すれば良いなぁ。Netflix『ヒーローキッズ』 を見る。
■2021/1/8 金曜日。小学校は今日から3学期だが娘はお休み。連絡帳を持って学校まで行く。こんな時、学校が近くてありがたい。娘は英語の勉強ができるぐらいにはなっていたけど、まだまだ熱がある。3連休中にはなんとか治るかな。Netflix『アクエリアス』を見る。Netflix『コブラ会』S2E8, E9, E10を見る。これでS2完走。早く見てた人はここから1年半ぐらいS3を待ってたんだろうな。マイクラでブランチマイニングしてから寝る。
■2021/1/9 土曜日。本当は娘と実家にお泊りに行こうかと予定していたけどおうちで大人しくしてなきゃだな。でも解熱剤なしでも37度台をキープできている。いいぞいいぞ。DVDで『リビング・デッド・サバイバー』を見る。夜、娘が寝てから僕モテ読者サミット2020年ベスト会 in Google Meetに参加。僕は2020年の年間ベスト10と、2020年のオンライン試写ベスト10をあわせて10分以内で発表するというのをやりましたよ。みんなのベスト発表が終わっても27時半ぐらいまで話してた。みんな『轢き逃げ』見ようぜ。
■2021/1/10 日曜日。夜更かししたわりには7時に起床。娘、ついに平熱に。やったー。今日一日問題なければ���う大丈夫だろう。昼間は娘とゲームをやったり。あとAmazon Prime『アンロック/陰謀のコード』を見る。RIP マイケル・アプテッド。娘は夕飯にカレーを食べた。もう大丈夫だ。夜は娘を寝かしつけながら寝落ち。そのまま朝まで寝てしまったようだ。
■2021/1/11 祝日の月曜日。ちょっと鼻水が出るぐらいで平熱をキープしている娘。元気になって良かった。余裕ができたので娘と実家へ遊びに行く。僕は床屋に行こうと思ったのだけど、そうか月曜日か。床屋は休みなんだな。おやつにお汁粉をご馳走になる。うまい。年末に収録したキンザザのPodcastが配信開始。2020年のオンライン映画祭ベスト10ですよ。これは2020年らしい良いベスト10でしょう。すべて配信になったらTumblrにもupしようかな。夜は録画していたアニメなどをまとめて見る。いろいろ準備もする。BS録画『名探偵ポワロ』E40を見る。アンソニー・ホロヴィッツ脚本回。娘が「つたを取ってきてくれ」と云っていたのでマインクラフトでつた探しをしてから寝る。
■2021/1/12 火曜日。娘は学校に復帰なわけですが、学校側が治癒証明が必要、と云ってきたので小児科で診てもらってから遅刻して登校です。両親が車を出してくれて大変助かる。僕はお昼で咳止めの薬を飲み切ってしまったが、まだちょっと咳出るんですけど。様子見かな。夜、娘が寝てからラロッカさんと音声配信用音源を収録。もうコツをつかんできて最短の時間で収録完了。WOWOW『仮面病棟』を見る。
■2021/1/13 水曜日。昼は図書館に本を返したり、コンビニで買い物したり、ついでに中華屋でランチしたり。ひとりで外食する分にはぜんぜん大丈夫な気がするんだけどな。飲食店、がんばってほしい。夜はNetflix『バイバイマン』を見る。
■2021/1/14 木曜日。元々は出社しようとしていた日だけどキャンセルして在宅勤務に。しばらくはしょうがない。仕事もいろいろ影響を受けている。夜、入江監督と大川編集長の書評YouTubeを見る。今年初の僕モテ関連のYouTubeだ。視聴者はそんな多くないのにコメント欄にたくさんの僕モテ読者仲間の名前が並んでいてなんとも嬉しい。U-NEXTにて『事件』鑑賞。
■2021/1/15 金曜日。上司と月一のオンラインミーティング。やはりなるべく出社するなとのこと。2月ぐらいに1週間ぐらい出社するかも、という予定があるのだが、電車は使わず車を使え、と。なかなかピリピリしております。ラロッカさんと火曜に収録した音声配信ももう配信。Diggin'シリーズはもっと増やしたい。いろいろあって疲れ気味。娘を寝かしつけながら寝てしまったよ。
■2021/1/16 土曜日。前日寝落ちしたわけですが朝(?)3時ぐらいに目が覚める。よし、ジミソスタイルでいろいろ見れる。Disney+『ワンダヴィジョン』E1とE2を見る。マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバル 2021(オンライン)Vimeoにて『アデュー』視聴。��らに録画したアニメを見たり、noteを書いたりを娘を起きるまでいろいろやる。さて昼に1本だけ映画を観れるチャンスが到来。渋谷へ。シネクイントにて『Swallow スワロウ�� 鑑賞。けっこう諦め気味だったけど観れて嬉しい。これでいろいろ読んだり聴けたりする。帰宅してからいろいろありましたがなんとか最悪の事態にはならず。娘を寝かしつけながらU-NEXTで『次は何に生まれましょうか』を見る。ちょっと刺さったなこれ。さらに録画したアニメなどを見ていたがいつの間にか寝落ち。。
■2021/1/17 日曜。朝起きたらもう5時だった。なんでもっと早く起きないんだ自分。何本かアニメを見てたらもう娘を起こす時間だ。ジミソスタイル失敗。がしかし今日は奥さんと娘はいっしょに美容室に行くという。再びの映画鑑賞チャンス。朝からまったく納得いかない出来事があったが文句ひとつ云わずがんばり、MOVIX昭島へ。ギリギリの時間で自転車で向かったので足がガクガクであったが『ズーム/見えない参加者』鑑賞。特別料金1000円。大きなシアターを設定されていたが集客はかなりさみしい。でも映画は楽しかった。シネコン、きびしいな。新宿へ移動。「水山」でチゲちゃんぽんうどんを食べる。がんばってくれ飲食店。シネマート新宿で『ヒッチャー ニューリマスター版』鑑賞。白石晃士監督と村山章さんのトーク付きで、こういうのが久々なのですごい嬉しい。大満足で帰宅。娘は夜に宿題やピアノ練習や英語の勉強がたくさん集中してしまいちょっとかわいそうだったな。だから宿題は土曜のうちにやっておけと云ったのに。夜はYouTubeで『遠い場所から』『つかずはなれず』『冷めるのを、待っている』『あすみ』を見る。早稲田大学映像制作実習2020作品の4本です。BS録画『名探偵ポワロ』E41を見る。
■2021/1/18 月曜日。午前中は集中して働く。昼にはDiggin' Netflix配信。あとツイシネPodcastではよーしゅけさんゲスト回が配信された。なにか含んでくるのか?と思って聴いてみたら何も含んでいなかった。娘は学校から帰ってきてから家でやることが沢山あって大変そう。今週末に英検受けるまでの辛抱だろうけどきつそうだ。夜、娘を寝かしつけならがAmazo Primeで『フェリチタ!』を見る。マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバル 2021作品ではあるのですが普通にAmazon Primeで見れます。去年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で見逃したやつ。見れて良かった。見終えて安心していたら寝落ちしていた。
■2021/1/19 火曜日。あー寝落ち後に朝まで寝てしまった。4時ごろに一瞬目が覚めたような記憶があるけどまた寝てしまったようだ。今日も在宅仕事。早めの昼休みを取り松屋へ。復活したシュクメルリを食べる。うまい。図書館で予約しておいた娘が読む本を借りて、コンビニで買い物してから帰宅。1時間以上かかってしまったけどまぁいいでしょう。夜、Netflixで『ミッドナイト・スカイ』を見る。劇場では字幕で観たので今度は吹替で。このパターン良い。
■2021/1/20 水曜日。仕事がまぁまぁ忙しい。オンラインミーティングした海外の人が具合悪そうだった。心配だ。自分は1日家から出なかったなぁ。夜、娘が寝たあとにDisney+で『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』を見る。もう1本映画を見たかったがもう眠い。ダメだ、眠すぎる。
■2021/1/21 木曜日。朝の英語学習をしながら娘がなんかブツブツ云ってるなぁと思ったらヒューマンビートボックスだった。お昼、仕事を抜け出し映画秘宝を買ってきた。去年は休刊のタイミングだったよなぁ。ベスト&トホホ号。ということでも僕も2020年のベストをまとめたものをTumblrにup。あたりまえですが2020年は家で見たコンテンツが充実している。いろいろあって1週間ゲームを禁止されていた娘であったが(かわいそうに)今日からマイクラに復帰。楽しそう。夜、娘が寝てからオンラインでMCTOSに参加。いつものように30分遅刻参加ですいません。お題映画『ミッドナイト・スカイ』。賛否が割れるとは思っていたけど、意外な割れ方で面白い。画面をを見ていてはじめて見る顔があるなぁと思っていたらラ・フランスさんだった。キンザサのLINEやPodcast収録では話していたけど(オンライン上とはいえ)初対面。告知を見て参加してくれたとのことで嬉しい。そして独特のジョージ・クルーニー論を語っていて面白かった。MCTOSもこれで2回連続満席(10名参加)かな。お題作品が良かった感もあるけど、みんなでわいわい感想云うのはやはり楽しい。MCTOSのあと、ペップさんとちょっと打ち合わせしてから寝る。
■2021/1/22 金曜日。会社を休んで通院日。とはいえ朝一で1時間ほど仕事してから八王子の病院へ。在宅勤務の良いところなのか悪いところなのか。病院では診察+歯のクリーニング。手術のあとまともに歯を磨けなかった時期もありがっつりついてしまっていた歯石などを取ってもらう。口を大きく開けないので歯科衛生士さんも大変そうであったが綺麗にしてくれました。冷たいものを飲むと歯が痛いレベルです。午後、帰宅してから家でのんびり過ごす。全米公開日が6月ぐらいまのでハリウッド大作がどんどん公開延期となっている。これは『ブラック・ウィドウ』もダメかもしれない。Amazon Prime『スター・トレック:ローアー・デック』S1E1を見る。Disney+『ワンダヴィジョン』E3を見る。
■2021/1/23 土曜日。昼間は出かける予定がなかったので家でのんびり過ごす。娘は宿題やったりゲームしたり本を読んだり。おかげで僕も自分の趣味に時間を使える。Netflix『ザ・ホワイトタイガー』を見る。Netflix『タイラー・レイク 命の奪還』を見る。WOWOW『屍人荘の殺人』を見る。あぁ、自分のために時間が使えるのって素晴らしいですね。夜、娘は英検を受けるために外出。小2にして英検3級を受けるそうです。試験には奥さんが一緒に行ってくれるとのことで僕は映画に行けるチャンス。近所のMOVIX昭島まで行く。雨が降っていたので歩いていったけど、それでも30分もかからない距離なのでありがたい。『さんかく窓の外側は夜』を鑑賞。映画館の外に出ると���になっていた。べちゃっとしてるので積もりはしないだろうが。帰宅してお風呂を沸かして娘の帰りを待つ。帰ってきてすぐお風呂に入れた。寒そうにしてたけど、とりあえず無事に試験を受けられたみたいだから良かった良かった。娘を寝かしつけながらAKIRA君がゲストで出ている札幌のラジオを聴く。ローカルな映画好きがこうやって集まれる環境が羨ましい。楽しそうだし。U-NEXTで『五人ライダー対キングダーク』を見る。マジンガーZの映画も見たかったけどもう眠さの限界。
■2021/1/24 日曜日。朝から娘の矯正歯科へ。順調なようで何より。午後は実家へ遊びに行く。娘を両親に頼み、僕は久々の散髪へ。散髪は日曜14時から予約でやってもらうことが多い。なぜなら僕が長年通っている床屋さんはここ数年ラジオでTOKYO FMをかけている。日曜14時といえば山下達郎の番組がやっていて、それを聴きながら散髪してもらうのが最高だからだ。あまりの眠さに途中で何度か意識がとんでいたが髪が短くなりさっぱり。夕飯まで実家でご馳走になり帰宅。夜、娘を寝かしつけながらまた寝てしまった。
■2021/1/25 月曜日。夜中に何度か時計を見た記憶はあるがあまりに眠くてそのまま朝まで寝てしまった。録画しているドラマやアニメ、見たい映画、読みたい本はどんどんたまっていく。仕事もいつのまにかたまっていく。Meetingではなんとも納得のいかない指示を受けたり。Twitterは大好きなSNSですけど、今日はTwitterの負の面ばかりを見てしまいなんともつらい。こういうことがないように使い方には気をつけているつもりだけどそれにも限界がある。夜、オンライン試写で『私は確信する』を視聴。こんな気分のときでも、面白い映画は面白い。
■2021/1/26 火曜日。なんともしんどい気分ですがどんどん仕事しないと。急な仕事が多くて本来予定していた作業に時間が使えない。いろいろ買い物にも行かなくちゃいけないし、娘が帰ってきたらおやつを準備したり宿題をさせたり英会話に行く準備をさせたり。圧倒的に時間が足りなくてほぼ休む間がない。娘も娘で大変である。学校から帰ってきても、宿題、ピアノ、英会話などなど、やることがたくさんある。9時までには寝る準備をしたいけど、最近はその時間に間に合わないこともある。そして娘を寝かしつける時間になると自分もくたくたである。というわけで本日も娘といっしょに寝てしまったわけである。せめて新エピソードが配信された『スノーピアサー』だけでも見たかった。。
■2021/1/27 水曜日。結局疲れていて朝まで寝てしまった。今日こそ本来計画していた仕事をいろいろやらないといけない。夜は少し余裕があり、寝落ちもせずにNetflix『スノーピアサー』S2E1を見る。娘に頼まれていたマインクラフトの材料集めもする。ラジオ聴きながらもくもくとブランチマイニング。映画も何か見たいけどそこまでの余裕はなし。読書も少ししか進まず。
■2021/1/28 木曜日。clubhouseってなんだよ。僕は誘われてないぞ。11月から新年度がはじまるうちの会社としては四半期の終わりの時期でいろいろとまとめなきゃいけない。バタバタとしていてる。午後、一時的に雪が降っていた。それよりも家の方でいろいろと問題��起きてしまいけっこう不安な状況。いろいろやりたいことはあるけど何も手につかないだろうから娘といっしょに寝てしまった。入江監督と大川編集長の書評対談YouTubeもあったみたいだけど参加できず。ジミソラジオもリアタイで聴けずです。
■2021/1/29 金曜日。朝起きて状況が改善しているわけではぜんぜんない。家のことも心配だけど、仕事をクビになるわけにもいかないので仕事をする。確実にストレスはたまっているだろうけど今は仕方ない。なんとか仕事をやりきり、Disney+『ワンダヴィジョン』E4を見る。おおお。いろいろ繋がるし、ついにフェーズ4がはじまった感。キンザザLINE界隈も盛り上がっております。娘を寝かしつけたあと実家へ車を借りに行く。翌日の午前中に使うのだ。近くに実家があると大変ありがたいです。U-NEXT『おじいちゃん、死んじゃったって。』を見る。YouTubeにて『ゼンマイ式夫婦』を見る。
■2021/1/30 土曜日。今日は娘といっしょに車でMOVIX昭島へ。二人で『劇場版 岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族』鑑賞。ドラえもん映画も公開延期してしまったのでこうやって娘と観ることができる映画の存在はありがたい。最後に特別トークとかが付いていてけっこう長かったけど、なんとか最後まで娘も観れて良かった良かった。映画終わってからパンフとポップコーンを購入。劇場で食べれなかった分、車の中ですごい勢いでポップコーンを食べる娘。せっかくの車なのでちょっと遠方の児童館みたいなところに寄る。目的は児童館のマスコットキャラみたいなやつのデザイン募集をしているから、それに応募したいのだと云う。専用の応募用紙みたいのが学校で配られたらしく、娘は鳥っぽいキャラクタを描いていた。児童館の入り口にある「いけんばこ」みたいなやつに投函。ここが唯一の応募方法らしいです。目的を果たしたので実家へ。今日はお泊りである。先日、足を怪我したうちの母の具合もよくなってきたようで何より。のんびり過ごす。夜、娘を寝かしつけたあとにMCTGM『さんかく窓の外側は夜』回に遅刻参加。僕が唯一のAだったので孤独な戦いである(いや、別に戦いではない)。もちろんめちゃくちゃ良くできた作品ではないけど、良いところもたくさんあるし、僕は正直楽しんで映画を観た。僕モテで名優とかめりさが連載に書いていたけど、この二人の感想に近いかもしれない。各MCTはいつも録音音源があとからもらえるのだけど、今回はペップさんによるとあるボーナストラックがあるかも?ということでそれも楽しみ。MCTGMのあとに予定していた某収録は延期となったので、代わりにVimeoで『THE ORINGPIC』を見る。例年では正月に五反田で開催されている新年工場見学会の代わりとなる前田司郎監督作。あぁ、あの正月の雰囲気が味わえた。嬉しい。
■2021/1/31 日曜日。実家の朝食。納豆とか出てきて最高。実家で過ごしていても娘は映画の勉強やらいろいろやることがあって大変である。娘を両親に見てもらい、僕は昼前から出かけさせてもらい上石神井へ。ナツノカモ「カモの観察会2021睦月」@ 東京おかっぱちゃん���ウス。映画鑑賞にすらなかなか行けない状態ながら、生で落語を聴けるなんて、本当に贅沢に感じてしまう。本当に小規模な落語会。ナツノカモさんの連載がまとまったZINEも購入。サインとメッセージ入り。いろいろなことが出来ず、家庭の事情もありストレスが蓄積してる気もするけど、こうゆう機会があると本当に救われる。実家に戻るときっちり娘が宿題を終わらせていた。これも嬉しい。夕飯までご馳走になり帰宅。夜、娘を寝かしつけたあと、Disney+『キャプテン・マーベル』を見る。『ワンダヴィジョン』の影響でまんまと見てしまった。『アントマン&ワスプ』とか『ソー』の過去作も見たくなる。『ファルコン&ウィンターソルジャー』や『ロキ』にもこういう工夫があるのかも。おそるべしMCU、おそるべしDisney+。BS録画『名探偵ポワロ』E42を見る。もう1本ぐらい映画を見たかったけど眠くなってしまった。映画館に行けない日々はまだ続きそうだけど、そ��なこんなで1月も終わり。
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cruelice · 6 years ago
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2018-10-09-SeaAir【旅行記】広島帰郷
 実を言うと、今年の年末年始はフィリピンで過ごす予定なんですよ。
 と、言うのもなんとですね、妻がですね、ママ留学というやつでですね、なんとですね、3歳の息子と0歳の娘を連れて、フィリピンはセブ島で約6週間も語学留学するわけなんですね。驚きですね。私も最初聞いたときは驚きました。ちなみに私自身は会社があるので、その間は逆単身赴任状態、というわけなんですね。
 それはさておき、なぜこの話が広島帰郷の冒頭にやってきたかというと、そういうわけでこの夏もそうだったし、そしてこの年末も、家族で広島に帰郷しないわけです。そうなってくると、娘はフィリピンで1歳の誕生日を迎えますので、なんと生まれてから1年間一度も祖父(私の父)に会わないまま年を越してしまうわけです。
 まぁごちゃごちゃ言いましたが要するに、祖父と娘が初対面!という広島帰郷の背景はまぁそんな感じなのでした。あと私も12月末から1月あたまの2週間はフィリピン行くんで。私はなんだろう、現地のベビーシッターさんとたくさん話すんじゃないかな英語で。それまでの11月下旬から12月下旬までは多分まぁまぁ自由気ままに生きられると思うのでぜひ遊べるかたは遊んでくださいね。広島には帰らないので東京に来てくれ!
■岩国錦帯橋空港
 家族帰郷の始まりはいつも広島空港でしたが、今回は岩国錦帯橋空港。私の実家が広島県広島市安佐南区なので、広島空港も岩国錦帯橋空港も実はどちらもだいたい同じ距離なんですよね。このときはなんか時間帯もちょうどよくてせっかくだから岩国錦帯橋空港に降り立って錦帯橋を祖父母含めて観光してから帰宅しよう、という運びになったわけです。
 ちなみに飛行機で息子はついに有料っつーかお膝抱っこNGの年齢となりました。そして飛行機にめっちゃビビってました。飛ぶ前、抱っこする!抱っこする!と叫ぶも既に自席がある年齢ですから抱っこできないので半泣きでしたね。飛び立ってしばらくしたら落ち着いたし、帰りの飛行機は平気そうでした。
 なお娘は離陸前から着陸後まで寝ていたもよう。えらいこ。
■錦帯橋
 祖父(私の父)「40年ぶり」  祖母(私の母)「6年ぶり」  妻(私の妻) 「学生以来」  私(私は私) 「生まれて初めて」  息子(私の子)「橋だ」  娘(私の子) 「ぁー」   私の父は息子の祖父だったりしてややこしいので、呼び方は上記で統一します。文章中の祖父は私の祖父ではなくて息子の祖父であり私の父だよ。
 というわけで、私と息子と娘は初錦帯橋なのでした。へぇぇ確かに立派な橋だなぁ。下から見上げるとなかなかの迫力と細かい意匠。無理に渡らなくてもいいかと思ってたんだけど、息子が「じゃぁみんな渡ろうよ!」と積極的なので、ベビーカーの娘を祖父母に預けて私と妻と息子で橋を渡る。橋のすごさとともに横の河川敷がだだっ広い駐車場になっているのに驚きつつ、アップダウンの多めの橋を渡ります。
 んで戻って名所にもなっている100種類を超えるテイストがあるソフトクリーム屋さんへ。この親にしてこの息子あり、と言わんでもないほどに祖父は私と同じくまぁまぁ変人であるので、「じゃぁ誰も選ばんのにしよ」と言ってハバネロソフトクリームを選んでいました。お店の人から「非常に辛いですが大丈夫ですか?」と確認されるほど。私もひとくち食べたけど、要するにバニラソフトクリームにハバネロパウダーが混ぜてあるんだね。甘いんだけど、甘みが通り過ぎたあとに舌に残る激辛!喉の痛み!吹き出す汗!
 でも辛い物好きの祖父はまぁまぁ楽しそうに食べてました。みんなで一口ずつもらって、あとは全部食べてた。ソフトクリーム食べながら汗びっしょりになるひと初めて見た。変な人だなぁ。私も見習ってニンニクソフトクリームとかにすればよかったね。なに巨峰&ライチとか頼んでるんだ。親になってすっかり丸くなってしまったなぁと反省したね。祖父を見て。
 あとれんこんコロッケとか食べたりしたんだけど、大部分の記憶はハバネロソフトクリームに奪われてしまいましたね。
■プチマリエでフランス料理
 祖母は私と同じく料理が好きなので、基本的に帰郷したときはいつも料理を振る舞ってくれるわけですが、なんとこの帰郷した9/21は結婚記念日だったんですね、私と妻の。そういうこともあって珍しく外食、しかもフランス料理のコースと来ました。徒歩10分、実家から。これで大体実家の位置が割れてしまいますが別に困りもしないのでいいんですけど、毘沙門台のプチマリエという、住宅街の中の一見住居に見えるような小さくてかわいい感じのフランス料理店へ行きました。完全予約制でこの日の組はわたしたちだけだったようなので、プチマリエの方がエゴサーチしたら一発でバレるやんけ!と思ったけどまぁバレてもいいや。
 完全予約制で、しかも個室で、事前に子供がいることを伝えてあったので、立派なベビーベッドも置いてあるし、床にはアンパンマンのシートなんかも敷いてあったので至れり尽くせりでしたね。あと他のお客さんがいなかった���うなので多少騒いでも大丈夫なのも安心感でした。あんまり騒いだわけではないけどね。
 んで料理。前菜はアボカドのムースの上にホタテと魚介のカルパッチョとマスの卵が乗っていてとてもとても美味しかった。個人的にいいなと思ったのはミョウガが乗ってたことかな。だってフランス料理にミョウガって普通でないじゃん?それにイクラじゃなくてわざわざマスの卵というのもこだわりを感じますね。次の品も、リゾットの上にフリッターが乗ってる洋食なんだけど鱧のフリッターなんだよね。あの骨切りが必要な鱧。すごいよね。信念というかオリジナリティというか、そのあたりが嬉しかったなぁ。やっぱりどこでも食べられるような料理じゃないのがすごいし嬉しいよね。
 そんな様々な手が施された料理のメインディッシュはステーキのローストだったわけですがもうこれがレアで旨い!暴力的な美味しさでしたね。悔しいけど結局は肉が美味しい!そんな力強さを見せつけられた美味しさのローストでした。最後にデザート盛り合わせも出てきて、プレートに結婚記念日を祝う文字があったのも嬉しかったです。
 あと今年で結婚6年目で鉄婚式なので、今年は妻には高級ボールペンをプレゼントしました。フィリピン留学でお勉強もするでしょうしね。
 そんな美味しくて配慮もあってとても素晴らしいお店が近所にあってステキ!という話なのですが、ワインを注文したら1ボトル1万2000円か6800円かを勧められたりしたので多分めっちゃ支払いが高かったのではないだろうか…というところだけは覚悟を決めて食べに行っていただければよいかと思います。私は祖母が払ってくれたのでいいんですけどNe☆
■実家
 あんまり特筆することはないですが、庭で飼われていた犬が夏場は玄関に入れてもらえるようになり、そのうち冬も入れてもらえるようになり、一年中入れてもらえるようになっていて、最近では祖母と寝てるらしい。畳を掘ったりするらしいのでボロボロだったんだけどまぁ4人の子供が全員東京に行ってしまった祖父母を思うとあんまり強く言えない私なのでした。
 犬はつないでもらってたし、それなりに片付けてあったので大丈夫は大丈夫だったんだけど帰郷してから娘も息子もちょっと湿疹が出たのでやっぱり我が家がナンバーワン!っていつものように思いましたね。
■二日目は平田観光農園へ
 実家から車で1時間以上かかるけど行ってよかった。息子は甘いものをあまり食べないのだけど、唯一最近は梨を食べるので梨狩りに!と思ったけど、都合のいいことに色々狩りみたいなやつがあって、チケット制で一定数の林檎や梨や葡萄を狩ることができ、持ち替えれるのでした。どうせ梨食べ放題にしてもすぐ飽きるしおなかいっぱいになるしな。ついでに言えば持って帰って冷蔵庫で冷やして食べたほうが好きだしな。
 昔の木造住居みたいなところでランチでカレーを食べて、祖母の食のスピードが私ら夫婦の倍を超えていてだから太ってるんだ��この人…って改めて思いました。でもそのおかげで私ら夫婦がまだ食べてる間に娘の離乳食を与えてくれたりしたので助かりました。
 そしていよいよ収穫へ。いちいち林檎畑や梨畑が離れていて坂道も多く移動が大変、にもかかわらず息子がめっちゃワガママを発揮して絶対ベビーカー乗るマンになってしまったのですが、せっかく帰郷してまでベビーカー乗せる乗せない論争で疲れさせるのも本意ではないので頑張って私が押して歩くことに。でも後半は私も疲れて、畑から出てきたら息子をスルーしてベビーカー押して次の目的地進んで行ったところ、「ベビーカー乗る!ベビーカー乗る!おとうさあああん!ベビーカー乗る!!」って全力疾走で追いかけてきたので元気やんけ!ってなりました。最後の葡萄狩りのときには「ぼくここで待ってる」と言ってベビーカーの横から離れなかったのでなかなか考えのあるやつだなと思いました。葡萄狩れよ。
 林檎も梨も葡萄も何種類か狩れて、自宅で食べ比べたりしたんですが結局一番美味しかったのはみなさんもスーパーなどで耳にしたことがあるでしょうピオーネだったので当たり前といえば当たり前なんですけどちょっと寂しさみたいな物がありましたね。結局市販されてるやつが美味しいんかい。
 その他、ちょっとした公園やショップなんかをうろうろしてたら思ったより長居することとなり、適当に晩ごはん買いに行って帰宅。スーパーに寄って祖母が息子に「なにか好きなもの買っていいよ」と告げると彼はまさかの握り寿司詰め合わせを真剣な目で掲げるのでした。昨日のフランス料理店で久しぶりにイクラを食べたのでイクラの美味しさを思い出したのでしょう。寿司なんてあまり買ってあげませんが、この日は一人で1パック8貫ほとんど食べたのでよく食うなこいつ…って思いました。
■せせらぎ公園
 三日目。連日遠出したので近場で、ということで息子に「動物園と、バス見に行くのと、公園行くのだったらどれがいい?」と聞くと公園とのことだったのでせせらぎ公園へ行きました。要するに川が流れている公園。
 私自身いつぶりか分からないくらいに久々だったのですが、まぁ水遊びしてる家族くらいいるだろう、というノリで行ったら驚きましたね。なんと、せせらぎ公園の横でポップアップテントやらバーベキューセットやらを持ち出してバーベキューしてる人らが大量にいるではありませんか!へぇー私がいた頃にはこういう文化はなかったなぁ。
 で、バーベキューの匂いが漂う川辺を降りて、川幅2mもないまさにせせらぎと言った感じの川へ。息子は水遊び系が好きなので、靴のまま入っていいよというとザブザブ入っていきます。私は持ってきたビーチサンダルで。祖父は膝近くまであるゴム長靴で。9月下旬でしたが気温が低い日で水が冷たく、私もゴム長靴がよかったなぁ。
 しばらく川遊びをしていると、川でバーベキューの鉄板を洗っている人たちと出くわしてげんなり。そっかー、コゲとか肉の脂とか諸々の汚れをそのまま���に流しているのかーそうかー。向こうもなんかバツが悪そうですが、その中をザブザブ歩いているわたしたちもあまり気分の良いものではありません。早々に川から上がって、近くの遊具公園で息子がひととおり遊んだのち帰宅。
■山口県の山賊というお店はめちゃ混む
 車すら停められませんでしたね。
 というわけでもう最終日、14時のフライトで関東へ戻るわけです。昼前にみんなで外食してそのあと岩国錦帯橋空港へ向かおう、という魂胆であり、空港近くで有名な外食といえば山賊よね!という程度に有名なので寄ろうとしたのですがお昼前だというのにすっげー混むのね。ほんとね。びっくりしたよ僕は。
 フライトが迫っているし、3歳児も0歳児もいるので待ちに徹するのもアレなので早急に「岩国錦帯橋空港近くで」「ファミリーで入りやすくて」「混んでなくて」「できれば息子が食べられるところ」を選ばなければならなかったんですが空港まで車で3分のところの回転寿司店がすべての要求を満たしてくれたので助かりました。すぐ見つけて偉いな私、って自画自賛した。強いて言えばコストが上がったわけですが、マァ財布は祖父母持ちなので私としては得した形です。息子はイクラをもりもり食べてた。広島に4日いて3日イクラ食ってんなこいつ。
 海都っていう聞いたことない回転寿司店だったので移動中に調べたのですが、前身はしーじゃっくであり、その前身はマリンポリスだったわけです。地元民しか分からなくてごめん。広島市には私が小学生の頃とかにマリンポリスって名前の回転寿司店があったんだよね。そして私の祖母(つまり息子の曾祖母、既に死別)によく連れて行ってもらった覚えがあるから、その系譜の回転寿司店に今度は息子が祖母に連れてきてもらっているのだなぁ、とちょっとしんみりしたのでした。
 特に感想を述べる必要はないかも知れませんがイワシが美味しかったです。色々たくさん食べさせてもらったんですけど結局最後に食べた大トロが美味しかったですね。プチマリエでフランス料理食べたときも結局牛肉のローストが美味しかったわけです。何のひねりもないけど食材パワーってやっぱつえーんだなって思った帰郷でもありましたね。
■さらば岩国錦帯橋空港
 また使うかもしれないし使わないかもしれない。
 祖父母が車止めに車を停めて見送りにきてくれたんだけど、この日じつはデイゲームでカープの優勝が決まる可能性があったので祖父がめっちゃ浮足立ってましたね。祖父を除くみんなで展望デッキで今から乗る飛行機を迎えて、そのあと祖母とも分かれて機上の人へ。
 岩国錦帯橋空港ってとっても小さくて飛行機の発着が多分1箇所しかなんだよね。だからフライトは数時間に一回しかないし、飛行機が到着したら利用者が降りて、またそれに新たに乗り込むピストン輸送型なんだけど子連れだとけっこうこれいいなぁって思った。
 なぜかと言うと、たくさんの飛行機が並ぶ羽田空港と違って移動距離が短いし、間違うこともない。やっぱり子供が小さいと色々とタイムロスすることがあるんだけど、ここまで入り口と搭乗口が近いと置いていかれるってことは絶対なさそう。そして、飛んでくる飛行機が多分今から乗る飛行機になるので、展望デッキから息子と飛行機を迎えつつ、「あれに今から乗るんだよ~」とか言えるのがいい。個人的にはまた利用してもいいかなと思いました。次はいつかわかんないけど。
 あとは普通にフライトして帰ったわけですが、最後に面白かった話としては、飛行機に乗ってベルトを締めて離陸を待つ息子が、「ジュース屋さんはまだ?」と言ったこと。行きの飛行機でCAさんがジュースをくれたのが嬉しかったらしい。そしてCAさんは彼にとってはジュースをくれる人なのだ。だからジュース屋さん。言い回しが実に子供らしくて表情が緩みましたね。あと気圧の変化で耳に違和感があることを、「耳が見えなくなった」と言っていたのもとても良かったと思います。
■今回はパスケースを落とすようなことはなかったけど、実家に耳栓も忘れたし息子の食事エプロンも忘れたし、羽田空港に娘のぬいぐるみも落とした
 なんとかしたいがなんともならないようですね
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shiro-absence · 8 years ago
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生涯[編集] 誕生[編集] フランツはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年生まれ)、次男フェルディナント(1794年生まれ)、三男カール(1796年生まれ)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801年生まれ)であった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。 フランツは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。この頃、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳頃になると父親の手に余るほどの神童振りを発揮し始めたため、父親はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。仲間の徒弟たちはフランツの音楽的才能に一目を置き、当時演奏家として聴衆に注目されなければ作曲家としての成功の機会は無いという時代であったので、聖歌隊建物に隣接するピアノ倉庫にしばしばフランツを案内して、ピアノを自由に練習できるように便宜を図ってくれた。そのおかげで、貧しい家庭であればけっして触れられなかったような良い楽器で練習・勉強することができた。 コンヴィクト[編集] 1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生��の交際から得るものが多かった。献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてきた。また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。 一方、天才ぶりは作曲の分野で既に示しつつあった。1810年4月8日-5月1日の日付のある32ページびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア (D1)』。続いて1811年にはツムシュテーク (1760 - 1802) が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲 (D8)』、『弦楽四重奏曲 (D18)』、『4手ピアノのためのファンタジア第2番 (D9)』がある。室内楽曲への想いが目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でのカルテット演奏の例会が行われていたからである。後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものであった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残し、また野心的な力を注いだのは、1812年(15歳)の母の葬儀用と言われる『キリエ (D31)』と『サルヴェ・レジーナ (D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲 (D72)』である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ (D80)』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲 (D82) が生まれた。 1813年-1815年[編集] 1813年の終りにシューベルトは(変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため)コンヴィクトを去り、兵役を避けるために、父の学校に初級生のための教師として入職した。その頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。およそ2年以上、シューベルトは自分の意にそわない仕事に耐えたが、伝え聞くには、非常に無関心に仕事をこなしていたようで、その代償を別の興味で補っていた。サリエリから個人な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難をしてシューベルトを悩ませていた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。シューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘テレーゼは歌が上手く良い友人だった。彼は時間があれば素早く大量の作曲をしていた。完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城 (D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調 (D105)』は共に1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46.D74.D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調 (D82)』の第1楽章、『潜水者 (D77)』『糸を紡ぐグレートヒェン (D118)』といった最高傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 1815年には更に豊穣な作品群が登場する。学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番変ロ長調 (D125)』が完成され、『交響曲第3番ニ長調 (D200)』もそれに続いた。また、『ト長調 (D167)』と『変ロ長調 (D.324)』の2つのミサ曲、前者は6日間で書き上げられ、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス (D185)』『悲しみの聖母 (D383)』『サルヴ・レジナ (D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務 (Der Vierjahrige Posten, D190)』、『フェルナンド (D220)』、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ (D239)』[2]、『アドラスト (D137)』(研究により1819年の作曲と推定)、『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲作曲された。これらの他『弦楽四重奏ト短調(D173)』、『ピアノのための4つのソナタ(D157.D279.D459』、数曲のピアノ小品、これらの最盛期をなすのは、146の歌曲、中にはかなり長い曲があり、また8曲は10月15日と7曲が10月19日の日付がある。 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787-1836)と知り合った。この出会いは彼の常であったが、間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱の時もあったが突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。この友好関係は、後年見られるようにシューベルトに対してのみ一方的に奉仕するものであった。 1816年[編集] シューベルトの運命に最初の真の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛り付けられている思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人となった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者��質問に答えていた。 1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ (D407)』、もう1つは『プロメテウス・カンタータ (D451)』、これはハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒達のためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。シューベルトは雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ (D472)』で、愚かな博愛の詩が歌われている。最も重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『第5番変ロ長調 (D485)』、その他多少の教会音楽。それらは先輩達の作品よりも充実し円熟していたし、更にゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩であった。 この時期友人達の輪は次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに最も奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。ゾンライトナー家は金持ちの商人で、長男がコンヴィクトに所属していたことがあったことからシューベルトに自由に自宅を使わせていたが、それは間も無く“シューベルティアーデ”と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。 シューベルトは完全に素寒貧だった。それと言うのも彼は教えるのは辞めたし、公演で稼ぐことも出来なかった。しかも、音楽作品を只でも貰うという出版社は無かった。しかし、友人達は真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分達の食事を分け合って食べ、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい知人が推薦された時に、シューベルトが「彼が出来ることは何か?」といういつもの質問がこの会の特徴を最もよく表すものであった。 1818年[編集] 1818年は、前年と同様に、創作上は比較的実りは無かったものの、2つの点で特筆すべき年であった。1つ目はシューベルトの作品の最初の公演が行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『序曲 (D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は、シューベルトに対する初めての公式の招聘があったことである。それは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。 この年の作品には『ミサ曲 (D452)』と『交響曲第6番(D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの彼の生徒達のための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に (D620)』や『聖母マリア像 (D623)』『繰り言 (Litaney)』等を含む歌曲がある。秋にウィーンへの帰りに、ショーバーの所にはもはや滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食を摂った後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌 (D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取って、フォーグルと共に北部オーストリアを旅行した。シュタイアーで『鱒(ます)』として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調 (D667)』をスコア無しでパート譜を書き、友人を驚かした。秋に、自作の3曲をゲーテに送ったが、返事は無かった。 1820年・1821年[編集] 1820年の作品には目覚しいものがあり、著しい進歩と形式の成熟が見られる。小作品の数々に混じって『詩篇23番 (D706)』『聖霊の歌 (D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調 (D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲 (D760)』等が誕生している。 6月14日『双子の兄弟 (D647)』が、また『魔法の竪琴 (D644)』が8月19日に公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭での弦楽四重奏の奏者達から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接して行くことが求められ始めた。しかし依然出版社は極めて冷淡であったが、友人のフォーグルが(1821年2月8日)ケルトナートーア劇場で『魔王』を歌ってからようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858)がシューベルトの作品の取次販売に渋々同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてごく僅かな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについて、多くの記事が見られる。それは友人に落ち度はなく、ウィーンの大衆に間接的に落ち度がある。最も非難されるべき人物は、出版する金を出し惜しみし、出版を妨げた臆病な仲介者である。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより強固に舞台に向けられた。 1821年の年の瀬に向かって、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アルフォンソとエストレラ (D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス (D796)』も同じだった。『陰謀者 (D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠であった)。劇付随音楽『ロザムンデ (D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』並びに『フィエラブラス』は、規模の点で極めて公演が困難であった(例えば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜であった)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇だったし、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。 1822年-1825年[編集] 1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知りあう。両者ともにほとんど親しい関係にならなかったが、しかしベートーヴェンはシューベルトの天分を心底認めていた。シューベルトはベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するに当たり献呈している。ウェーバーはウィーンを離れて不在であり、新しい友人が現れても望ましい人物ではなかった。この2年は全体として、彼の人生では最も暗い年月であった。 1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 (D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。彼がハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲 (D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調 (D804)』を作曲した。 舞台作品や公的な義務で夢中になっていたが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調 (D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲 (D759)』が生まれている。ミュラー(1794-1827)の詩による『美しき水車小屋の娘 (D795)』とシューベルトの最も素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。 1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲 (D802)』、2つの弦楽四重奏曲(『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』、『ニ短調<死と乙女> (D810)』)が作られている。また、『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ (D821)』は、扱いにくく今では廃れた楽器を奨励する試みであった。 過去数年の災難は1825年の繁栄と幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスはしばらく除かれた。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、ウォルター・スコット(1771-1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌 (D846)』、『囚われし狩人の歌 (D843)』や『ピアノソナタ イ短調 (Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で得た最高額の収入を得た。 ウィーンでの晩年[編集] 1827年にグラーツへの短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてずっとウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。一つは1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。二つ目は、オペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけたが、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したものの拒絶され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして三つ目は、1828年の春になって人生で初めてでただ1度の、彼自身の作品の演奏会の機会��与えられたことである。 1827年に、シューベルトは『冬の旅 (D911)』、『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 (D934)』、2つのピアノ三重奏曲(Op.99 / D898、Op.100 / D929)を書いた。 1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した。その後で友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。この時友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたと言う[3][4]。事実、彼の寿命はその翌年で尽きるのであった。 最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調 (D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ (D962)』、『弦楽五重奏曲 (D956)』、『ミサ曲ハ長調 (D452)』のための2度目の『ベネディクトス (D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958, 959, 960)』、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させた。この中の6曲はハイネの詩に付けられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集「歌の本」は1827年秋に出版されている。 シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いたが、何度かのレッスンの後、ゼヒターはその知人を介して「シューベルトは重病です」ということを知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトが認めた最後の書簡となった。 その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。シューベルトの最後の様子はフェルディナントが父へ宛てた手紙に言及されており、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。まだ31歳9か月の若さであった。遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあった当時のヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。 死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社は「シューベルトはシューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、もっと価値のある大規模作品を出版することはなかった。 シューベルトの死亡原因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも、いくつかの説が言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画��制作され公開された。 死後[編集] 19世紀[編集] 没後はベートーヴェンの神格化が加速化する一方で、シューベルトは「歌曲の王」という位置づけがなされ、歌曲以外のシューベルトの作品は『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いてはほぼ放置に等しい状況だった。 1838年にシューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くな���た時のままの状態で保存していて、シューマンはその机上で『(大)ハ長調の交響曲』が埃に埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持って帰った。その後メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛された。この交響曲の番号について、母国語がドイツ語の学者は第7番、再版のドイツのカタログでは第8番として、英語を母国語とする学者は第9番として掲載するなど、番号は未だに統一されていない。 この他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820-1900)とアーサー・サリヴァン(1842-1900)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、ロザムンデの音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして一般聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。 グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものでは無いが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調 (D963A)」のスケッチを指していることは、音楽学者達によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールド(英語版)によって交響曲第10番として理解されている。シューベルトはリストのよく知られた言葉で最も良く要約されている。即ち、シューベルトは《もっとも詩情豊かな音楽家》である。 シューベルトのほとんどの作品に即興性が見られるが、これは彼が運筆にインクのしみを付けたことが無いほどの速筆だったことも関係している。 20世紀[編集] シューベルトは存命中から「歌曲で採算の取れる」作曲家ではあったが、多くの未公開作品や未出版作品が大量に遺されたため、研究は難航を極めた。 ピアノソナタなど、その他の作品が一般にも脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催されるころからであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。 シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンよりは格下に見られていたために録音しようというピアニストはきわめて少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年��ろになると、シューベルトのピアノソナタは普通に演奏会でかかるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期まで演奏会の曲目にも、普通に現れる。補作して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。 シューベルト新全集は現在ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に務めているが、オペラなどの部分は完結はしていない。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。 現在の浄書技術を以ってしても「デクレッシェンドなのかアクセントなのか(これについては後述)」の謎は、完全に解明されていない。そのため、「未完成交響曲」の管楽器についた音は、奏者や指揮者によっていまだに解釈が異なり定着していない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・シューベルト#D.E7.95.AA.E5.8F.B7
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