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#ロズとギル
ezokomachi51 · 7 years
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トム・ストッパード作『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』 − 裏『ハムレット』 −
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0.​ ​  はじめに
 1966年、チェコスロバキア出身、イギリスの劇作家であるトム・ストッパードは『ローゼンクランツとギルデンス ターンは死んだ』(原題:​Rosencrantz​ ​&​ ​Guildenstern​ ​Are​ ​Dead、以下「ロズとギル」)という稀代の名作のスピンオフともいえる戯曲を作​成した。この作品はかの有名な劇作家ウィリアム・シェイクスピアの四代悲劇にも数えられる『ハムレット』に登場する脇役二人組に焦点を当てた風刺劇であり、自分たちの「死」に知らぬまに近づい ていき最後にはハムレットの策略とも気付かぬまま死んでいくローゼンクランツとギルデンスターンの喜劇の物語でもある。
ここでは、1985年に執筆された『ロズとギル』の戯曲と1990年原作者によって監督撮影された同名の映画作品を参考に、1996年ケネス・ブラナー主演で撮影された『ハムレット』も含めながら、ローゼンクラン ツとギルデンスターンの物語の特徴を見ていく。
1. 対話、ゲーム、すり替え―様々な演出と役割
 まず戯曲『ロズとギル』の登場人物について確認する。前述のとおり本作はウィリアム・シェイクスピアによる戯 曲『ハムレット』の登場人物で、ハムレット王子の学友として彼の狂気の謎を探ってほしいと国王に依頼をうけたローゼンクランツとギルデンスターンという男二人が主役である。本作の登場人物は非常に少なく、彼ら二人以 外に重要な位置を占めるのが旅役者達の座長である。この物語はおもにこの三人を柱として進んでいく。時代 設定としてはケネス・ブラナーのハムレットとのヴィクトリア朝とは違いエリザベス朝を意識したものになってい る。二人はハムレットでは端役で、その生死さえも伝令のセリフ「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」のみで伝えられハムレットには小物呼ばわりされ脚本のなかで驚くほど役割を与えられていない。どんなに 物語の核心の近くにいようとも、入れ替わっても気づかれない彼らの存在で物語が実質的に動くということはほとんどないのである。しかし『ロズとギル』の世界において彼らの存在はメインであり、そこに時々ハムレットの世 界が乱入してくる。したがってハムレットの脚本に変更点はないが、そこで描かれたかもしれない間隙を補完す るように『ロズとギル』の世界が見えてくるという構造である。
1-a ​ ​ロズとギルの対話と物語進行のカギ
 冒頭の演出は映画でも脚本でもさほど変わりなく、エリザベス朝の旅装束をまとった男二人がどこともわから ぬ特徴のない場所(森)でコイントスをしながらあたりを見回しているところから始まる。その時ギルのコイン袋は 空っぽで、ロズの袋はいっぱいになっている。ここに来るまでに二人はコイントスでコインを賭け、表に賭けたロ ズが勝ち続けているため袋がいっぱいであるとわかる。しかしギルはこの奇妙な現象に何かしらの不信感を 持っているがロズはそれを気にかけてはいないというのがこの二人の第一に語られる特徴である。このあと二 人はこの連続して表が出るというコイントスの奇妙さについて対話をするが、そこで二人はこの現象の理論的な 解明を求めたり、予測や分析だけを執拗に行っていく。こうして彼らはハムレットという大きな物語を裏にして、 目の前で起きた現象についてひたすら対話しながらある時ふいに「自分たちが自由に歩くために外に出され たのではない」ことを、お告げを聴いたかのように思い出し前に進んでいく。これは本来の本編であるハムレット の世界軸に訳も分からず追い立てられる二人の不条理さを示す。この展開は、翻訳者である松岡和子が言う ように、『ゴドーを待ちながら』にみる不条理劇の要素を備えており*、本作においてこの姿勢は一貫し最後まで 続いている。その証拠に、あっけらかんと恐怖を感じないでいるロズとは対照的だが、二人が絞首刑となりゆく 船上のシーンにおいてギルは「船、孤独感、不安感...そういうもののせいで集中力がゆるんでくるんだ*」と心 情を吐露し、行先のイギリスという国の存在さえ疑いながら、その後も何の説明もなしに命を奪われることを嘆き 続ける。 こうした二人の対話は様々なバリエーションで行われ、前述のコイントスのようにゲーム形式で行われる特徴 がある。例えば二人が城に到着し、ハムレットから気狂いの種を聞き出すよう頼まれるシーンでは、ハムレットへ 質問をする練習のために二人が質問ゲームをはじめる。反語は反則あるいは聞きかえす事もなしという具合に ルールを設け、無為な時間が進んでいく。このシーンはテニスコートで行われるという演出が映画では加わっており、これは彼らの対話の遊戯性が強調されたものだとされている*。くわえて興味深いのはこうした不条理さ や彼らの変えられない「死」という結末を劇中劇としても展開する点であり、ここで大きな役割を果たすのが、第 三の登場人物の座長である。ハムレットの脚本同様二人は森の中で劇団に出くわし、そこから座長を含めた三人での展開が始まる。この三者の関係は『ハムレット』におけるそれとは全く異なった仕方でエンドに向かって いき、ハムレットの世界軸とロズとギルの世界軸が交差することでロズとギルが裏(本来の表)に飲み込まれて いくシーンでは必ず幾つかの鍵となるサインを用意する。それらは座長、楽隊の音楽(彼の劇団の奏でる)また は前述したコイントスのくだりにおいて初めて現れる「裏がでる」という描写が担い、裏の登場人物たちが出現 する。舞台の演出においてもそれは特異で、座長、ロズ、ギルの三人が対話しているとふとした瞬間に座長の姿が見えなくなると、背景の幕がすとんと落ち、奥からオフィーリアとハムレットが走ってきて「尼寺に行け!」のくだりが始まるなどの演出がなされている。
1-b 「すり替え」の演出
 座長と役者たちが本作のカギ(起点であり終点)となることは前述のとおりであるが、彼らは他にも重要な演出 と効果を担っている。それはロズとギルの不条理の末にある「死」という退場までを示唆するメタドラマ(劇中劇) の担い手としての役割である。ハムレットの劇中でもハムレット王子が役者たちにセリフを付け加えたうえで「ゴ ンザーゴ殺し」を上演させるシーンがある。これは先王殺害の現場を再現し、王を試す仕掛けであったが、本 作においては役者たちが「ネズミ捕り」を上演する。そして劇中で最後に絞首刑となる二人組がロズとギルの格 好をしているという演出がある。それは端的に二人の行く末を暗示していると言える。さらに終盤、座長と二人 が、自身の死を感じながら「死ぬこと」について対話するシーンでは、多くの役者が死の演技を行い死体として 折り重なった役者の姿が現れる。そしてそれは次第にハムレットの終盤の惨劇へと入れ替わっていくのである。こうした未来を示す劇中劇の「すり替え」という演出は、二つの世界軸が別々のものではないことを強調する。そしてこうした演出の数々は、劇中の登場人物によって語られる本作の基盤となるストッパードの演劇論に よるものである。
2. ストッパードの演劇論―物語構造と「死」について
「大体は普通のものばかり。ただし裏と表がひっくり返ってますがね。舞台の外で起こるはずのことを舞台の上 でやる。それでひとつの全体といったところです。すべての退場はどこか別の場所への登場だとすれば」*
 これは、前半コイントスをする二人の前を通りかかった劇団に向かって「どんな芝居ができるのか?」とギルが 尋ねた際の座長のセリフであり、このセリフこそが本作の根底を支えるものである。このように『ハムレット』にお ける「ゴンザーゴ殺し」あるいは『ロズとギル』における「ネズミ捕り」というような劇中劇しかり、『ハムレット』と本作 の関係しかり、こうしたメタドラマ構造こそが一つの出来事の全体を示す方法としてある。これについては再三 触れたが、このセリフにはもう一つ重要なストッパードの考えが反映されている。それというのは人間の、あるい は役者という存在の「死」についてである。座長のセリフにある「​すべての退場はどこか別の場所への登場だとすれば​」というのは暗に本作が「演じられている」ことを強調する。というのもメタドラマの構造には観客を舞台に 取り込むよう意識させる演出があるが、このセリフはまさにそうした効果を孕んでいる。まず一に、本作は映画で あろうが演劇であろうが演じられている最中(あるいは観客にとってはその後も)のロズとギルにとって人生の旅 路そのものである。よって演者は自分の人生が何かに導かれているように感じてもそれが何か分からず不安に 思うギルと、それとは対照的に恐怖を感じていない様子のロズになりきらなければいけない。そうすることによっ て座長という「全てを知る」ポジションを観客たちも共有し二人の喜劇性を楽しむことができる。第二に、このセ リフの退場とは文字どおり役者が舞台から去ることであるが、それは役者というものが死すらも「演じる」生き物であるというのが前提となっている。本作ではギルとロズの両者が人生から退場する、すなわち死を迎えるということが両者以外にははっきりとわかっており、それこそがこの劇のエンドに据えられる。しかし第三に、座長の セリフを考えるなら、本作も演じられているのだから二人は観客からすれば役者であってこの退場は別の場所 への登場、もっと大きく言えば『ハムレット』での二人の死は本作『ロズとギル』への登場だと捉えられる。とすれ ばローゼンクランツとギルデンスターンは本当に「死んだ」と言えるのだろうか。ここで、当人であるギルの「死」 に対する考えが明示されたセリフを見てみたい。
「駄目、駄目、駄目だ......まるっきり間違ってる......死を演じるなんてできっこない。死ぬという事実は、死ぬの を見ることとはなんの関係もない――(中略)――死とは、人間が二度と再び登場できなくなること、それだけ さ。今、見えてる人間が、次にはもう見当たらない、リアルなのはそれだけだ。ここに居ると思ったら、次の瞬間 にはもう消えて、それっきり――退場だ。ひっそりと、不意に――。消滅だ」*
このギルのセリフのように人間の死=退場しもう二度と現れず消滅することであって、それを演じることで見せる 役者に死を完璧に再現することはできないとするのであれば、『ハムレット』でのロズとギルの退場は紛れもなく ここでギルの言う死であっただろう。しかし先ほど述べたように、本作の様々な演出により二人の『ハムレット』で の死が『ロズとギル』という別の舞台への登場とされ、二人が本作に生かされたならば、『ハムレット』では一行に 満たないセリフだけで片付けられてしまった二人の死を、最後まで描き切るという目論見が本作にはあったとも 考えられる。そのためか映画では、首に縄をかけられ、���人がぎゅっと目をつぶり、次の瞬間二人が下に落ち ロープがピンと張った状態になるところまで描かれており、そのシーンの直後にフォーティンブラス、イギリスか らの使者とホレイショーのいる城内に景色は切り替わっていく。こうして本作は一つの全体として完成しエンドを迎える。
3.​  ​おわりに
 『ハムレット』は偉大な作品であり、優れた悲劇作品である。しかし本作は、その登場人物でもよりによって端役 中の端役に焦点を当て、メタドラマという構造のなかでストッパード自身の演劇に対する考えを、「死」という テーマの演出を通して提示した。さらに『ハムレット』を補完しつつも一つの喜劇、コメディ作品として作品を成 功させたことは実に興味深く斬新なことである。そして『ハムレット』と『ロズとギル』は互いに表裏一体なひとつ の全体と捉えることができると同時に、後者は前者を通じて提示された演劇や役者と観客の関係に対する一つ の批判的な作品であるとも言えるのではないだろうか。そしてそれは、シェイクスピアが『お気に召すまま』(原題:As​ ​you​ ​like​ ​it)の中で述べた「この世はすべて舞台であり、男も女もその役者に過ぎない」という言葉への 応答でもあるのかもしれない。
*(​Jim​​Hunter​(​2000).​​Tom​​Stoppard:​​Rosencrantz​​and​​Guildenstern​​are​​dead,​​Jumpers,​​  Travesties,​​ Arcadia.​​​Macmillan.​)での指摘が最初のものとされている。
*トム・ストッパード作、松岡和子訳『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』劇書房、1985年、119頁
*石田有希「​​学位論文:エリザベス朝演劇と現代イギリス演劇にみるメタドラマ​​」福岡女子大学大学 院文学研究科、2014年
*トム・ストッパード、同掲書、23頁
なんか一文が長いし脈絡もないけど、滾った心のままに書いた物があったので菅田将暉と生田斗真の舞台が始まる前に投稿しときたかった...演劇のことよく知らんけど面白かったんだよ。未見だけどダニエル・ラドクリフのが主演の舞台もあるらしく、幕が落ちる演出はそちらにもあるようです。
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2018,7.30 シネ・リーブル池袋 ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ(Rosencrantz & Guildenstern Are Dead) NTLive 🖤★
一昨日、ハムレットを観て、やっと「ハムレットってさー、ナルでエゴの塊だよねーっ!いるよねー、こういう男ぉー。」と気付いたところだったので(今更ですみません!)、ルヴォーの直球のハムレット像が痛快で超面白かった。それにしてもこの2人(ロズ & ギル)…なんとも可哀想なんだけど…いるよねー、こういう人!
1回目に観た時の鑑賞記録。
https://witchaki-viewing.tumblr.com/post/175879764836/2018528-toho-cinemas
allcinema http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=363187
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syumidas · 7 years
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『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』世界で生きていく私のために。
ロズギルが終わった。
2017年11月は、彼らのことばかり考えていた気がする。
長い旅をしている友人の無事を祈るような、ときどき彼らの様子をうかがいに行くような。
幸い何度が会うことができた、数人のロズギルの様子を記しておこうと思う。
ついに、ロズギルが完全に死んでしまったこの世界で、次のステップに進むために。
※観劇メモを膨らませただけなので結論もなく、とりとめのない文章ですが、ご笑覧いただければ幸い。
  ★ 脚本について ★
 まず、めっちゃ脚本がわかりやすい。ほぼ現代の話し言葉で書かれている。
ストッパードの原書もこんなにコミカルなのかしらん?
元ネタである『ハムレット』の小難しくて大仰な、シェイクスピア劇イメージを忘れて楽しめる。
翻訳劇初心者にもとっつきやすく、それでいて正統派な雰囲気も漂う。
そんな親しみやすさと喜劇的なやりとりに笑いながら、目の端には不穏な影が常にちらつき、通奏低音のように緊張感が解けない。
笑いと恐怖の絶妙な配分に、始終引き込まれ続ける本だと思う。
  ★ 原典『ハムレット』との比較まとめ ★
 ◎
驚いたのは、ハムレットと言えば喪服=黒服なのに、遣都ハムが上から下まで真っ白な衣裳を身につけていたこと。
さらに、うじうじブツブツ根暗キャラのイメージと違い、自信たっぷりでエキセントリックな躁病気味の性格も。
ロズギルには、ハムの性格がそう見えていたということだろうか。
ハムの独り言シーンは舞台袖で見えなかったり、舞台で演じられても無言劇だったりで、観客もロズギルと同じ情報量しか与えられない。
誰もが知っている、お約束の「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」の名セリフですら無言劇だったのは、「マジ?」って思ったw(髑髏持って口パクしてるシーンね)
原典『ハムレット』でのロズギルは、王やハムとの短い会話シーンしかないせいもあるけど、慇懃無礼な小物の感じ。
それが裏ではこんな悪態ついて、バタバタ右往左往していたかと思うと笑える。
王と王妃も下町食堂の気のいいおっちゃん&おばちゃんという雰囲気で原典のイメージと違う。
王の威厳も魔性の魅力も欠片もないので、不倫とか不義密通とか言われても、最早ギャグとしか思えないし、まったく憎めない。
安西オフィーリア/ホレーシオの配し方が面白い。
男性(本来は少年)が女性を演じることや、1人の役者が2役以上を演じるという、古典シェイクスピア劇でよく使われた手法を踏襲している。
ラストを安西ホレによる、朗々としたザ・シェイクスピアな台詞で締めくくることで、物語が表の『ロズギル』世界から裏の原典『ハムレット』の世界に還っていく。
  ★ 美術・衣裳・照明について ★
 ◎
舞台美術はシンプルというよりもミニマム。
記号的でガランとした空虚な景色が広がっている。
未完成のようでもあるし、あらゆる空間と時間を想像させる普遍性も感じる。
ロズギルの衣裳は濃淡あれどグレー1色。
白黒つけられない不確かな存在を表している。
2人の境界も曖昧、モノトーンの舞台との境界も曖昧で、照明が落ちるとすぐに闇に溶け込んでしまう。
「スピード出したらアスファルトと同化すんねん」(by火花)www
裏の世界=原典『ハムレット』のキャラたちは白一色で、天上人のように現実感がない。
現実と虚構を行き来する芸人一座の劇中衣裳はカラフルで、逆に生身の実在感がある。
iPhoneやストップウォッチなども用いられ、現実と繋がっているイメージ。
照明は闇の使い方が素晴らしい。
2人の周囲を闇で円形に切り取ることで(その円の中をグルグル歩き回るロズ)、袋のネズミな2人の状態と閉塞感を表している。
ラストはロズギルがパッと闇に消える演出。
座長が言っていた、観客が期待するロマンと芝居っ気にあふれた死ではなく、ギルが何度も訴えかけていたような無機質で無情な死の訪れを表現する。
「今ここにいたのに次の瞬間にはいなくなって、もうそれっきり退場。スッと説明もなく消えてしまう。その重さは徐々に増していき、やがてそれが死の重みとなって、ずっしりとのしかかってくる」。
観客は生の終わりの呆気なさ、残酷さ、のしかかってくる死の重みを疑似体験しながら、運命に翻弄されたロズギルを哀れに愛おしく想い涙する。
削ぎ落とされた舞台、美しい佇まいの役者たち、ウィットに富んだ台詞のやりとりと、全体的にスタイリッシュに仕上がっている。
1回目に観た時は、ロズギルパートはもっと猥雑にして、裏の高貴な『ハムレット』世界との落差を出した方がいいんじゃないか?と思ったけど、段々とその洗練されたユーモアが心地よくなっていった。
  ★ ロズギルについて ★
 ◎
客席の明かりも落ちていない中、セッティング中の美術スタッフが大きな板を運び出したら、そこから不意に現れるサプライズな登場。
そのハリボテ感、現実との地続き感。
彼らの(人間の)存在のはかなさ、どこから来てどこへ行くのかもわからない寄る辺なさ。
手品師が1本の紐をちょちょいと結んで作った2つの結び目のような。
最期も、紐を引っ張ったらパッと結び目が消えるように闇の中に掻き消えてしまう。
濃い顔で年上の斗真くんが、純粋で子供っぽいボケのロズ。
スッキリ顔で年下の菅田くんが、理屈をこねくり回して激しくツッコむギル。
敢えて、チグハグな配役も狙いなんだろう。
元々名前すらあやふやな2人だけど、幕が進むに従ってロズが饒舌に語りだし、ギルが子供っぽく不安定に変化して、境界が曖昧になっていく。
ロズが消える直前に菅田ギルが絞り出す「…覚えてない…」が凄く好きで。
観た中で一度、特に幼い声の時があって、まるで親に見捨てられた子のようで。。。胸をギュッと掴まれた。
そんな2人なのに、最期は同時に逝けない残酷。
一人ずつ時間差で闇の中に沈んでいく様に、「死ぬときは独り」という真理を思い知らされる。
膨大なセリフ量は言うまでもなく、特筆すべきはそのスピード!
弾丸トークで漫才のような掛け合いが続き、何度も客席から笑いが巻き起こる。
特に菅田ギル!もしかして、世界最速なんじゃない?ギルデンスターン界のウサインボルトじゃない?(笑)
ラジオでカミカミの菅田くんとは思えないほど(失礼)、見事な滑舌と発声。
何より、「間」の心地よさ。
関西生まれ・お笑い好きで醸成された生来のセンスに、火花を始めとする仕事で磨きがかかったテクニック、何よりもこの時代とぴったりマッチした彼の“今”の感覚。
なんの不安も違和感も感じずに身を委ねられた。
芸達者なベテラン勢ではきっと出せない、フレッシュな必死さ、全身全霊全力投球なエネルギーも好ましかった。
余計な芝居がない。
特にロズとギルは片方が喋っている時、もう片方はほぼノーリアクション。
実は精悍な顔立ちの斗真ロズは黙っていると人形のようで、不気味ささえ感じた。
2人だけのシーンは、さらに削ぎ落とされている。
セットも衣裳も音楽も照明も制限された世界で、コインを扱う以外のアクションはほとんどない。
物語を前に進める推進力は、お互いの会話のみ。
その分、言葉はほとばしり、高速で2人の間を行き交う。
動きで表現できない中、台詞だけで“伝えよう”とするのは、菅田くんも斗真くんも相当な恐怖とエネルギーだったと思う。
そういったリアルな寄る辺なさと居心地の悪さ、蓄積されていくストレスが、ロズギルの孤独や不安を増幅しているようだった。
前回の蜷川ロミジュリが舞台狭しと走り回り、転げ回り、殺陣をする、真逆の“動”の演出だったから、対照的で面白かった。
  ★ メビウスの物語装置 ★
 ◎
舞台上では常に2つの存在や概念が提示され、絶えず転換して定まらない。
それが観る者の不安を煽り続け、クラクラとめまいを起こさせる。
・ロズ⇔ギル
・コインの表⇔コインの裏
・現実⇔虚構(芝居)
・生⇔死
・役者⇔観客
・喜劇⇔悲劇
・スピンオフ『ロズギル』⇔原典『ハムレット』
などなど
この舞台では、コインの表がロズギルの世界で、裏が原典『ハムレット』。
だから、一度だけコインの裏が出た瞬間に『ハムレット』の世界が出現する。
(ロズ「やっぱりお前ツイてたよ、裏だ」のところ)
繰り返しや台詞の反復。
一座が演じる「ゴンザゴー殺し」と舞台上の現実の相似は言うまでもなく、イギリス王との謁見をシミュレーションするシーンは、ロズとギルがまったくそっくりに交互に演じていた(Twitterによると、ギルがむせたアクシデントを、ロズが同様にわざとむせた回があったらしい。斗真くんの対応力!)
そもそも、この舞台自体が永久にループし続ける物語装置だといえる。
ギルは毎回「みてろよ!次こそは上手くやってやる!次こそは!」と捨て台詞を吐き、翌日にはまた板のかげからコインを投げ現れる。
これが初日から千秋楽まで36回繰り返されるのだ。
36回生まれて36回死んだ、あるいは、36人生まれて36人死んだ、ロズとギル。
慣用表現では、36は非常に多くのもの、すべての方法・方位を意味するとか。(wikiより)
何度も何度もロズギルは現状からの脱出を試み、生きる道を模索するが、叶うことはない。
その膨大な徒労と絶望の虚しく無意味な繰り返しこそ、この作品の核だと思う。
ロズギルが一座の劇中劇で、自分たちソックリの2人が死ぬのを観客として観る時、それを観ている私たちという図式に気づいてゾッとする。
私たちの背後に私たちを観ている者はいないのか?
一座の2人���ロズギル←私たち←???
ロズが「そこにいるのはわかってるんだ!こっちへ出てこい!」と虚空に叫ぶシーンを思い出す。
ほぼ全登場人物が嘘をつくか、または演技やフリをしている。
だから現実と虚構が渾然一体となり、どっちなのか判別できない瞬間が何度もある。
・現実そっくりの劇の途中で現実のハムやオフィ、王が乱入してきたり
・劇中の死体がロズギルと入れ替わったり
・死ぬ演技をしていた一座がラストの『ハムレット』の死体に変わったり
・観客にロズが「火事だ!」と叫んだり
・ギルに殺されたはずの座長が実はフェイクで生きていたり。
あっという間にコインの表裏はひっくり返って、何が現実かわからなくなるので気を抜けない。
劇を見ているのか劇中劇を見ているのか、自分は観客なのか舞台装置の一つなのか、足もとがグラグラと覚束なくなる感覚。まるで手品を見ているようだ。
大掛かりな仕掛けも華麗な歌や踊りもパフォーマンスもないのに、2時間半ずーっと飽きないのは、矢継ぎ早に認識を覆す驚きとスピードにあると思う。
  ★ 不条理劇について ★
 ◎
不条理演劇とは、人間、特に現代人の不条理性や不毛性を描こうとする戯曲や演劇の手法もしくはその手法に基づく演劇活動そのものを指す。(wikiより)
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』も不条理劇と言われている。
帰り道やSNSで「理解できなかったけど泣いた」「意味はわからなかったけど凄かった」という感想をちらほら聞いたけど、それは正しい鑑賞なのだと思う。
そのわからなさや当惑こそ、ロズギルが感じていたものだ。それを共に体験できたのだから。
そして、不確実な状態を生きるロズギルの混乱や憂鬱は、私たち自身の“生きていることのわからなさ、生きているこの世のわからなさ、生きている自分のわからなさ”に繋がっていくのだと思う。
初見の観客はラストがどうなるのかわからないまま鑑賞する。
ロズギルと一緒に突発的な事象に翻弄され、彼らが下手を打って逃げそびれる度にハラハライライラしながら体験を共有する。
対して2回目以降は、ロズギルが絶対に助からない運命にあることを知った上で鑑賞する。
逃れられない一巻の終わりに向かって、右往左往しながら流されていく2人。
メデタシメデタシを望みながら、決して叶うことのないロズギルを見ていると、なんとも言えない哀しさとおかしさと、バカだなあという愛おしさが湧いてくる。
「どうか我らに日常の糧を与えたまえアーメン!」ロズギルは何度も神に祈るのに、神は決して救わない。
祈りは気休めに過ぎず、現実の無慈悲さを前にした時の、宗教の無力さのようなものも感じた。
  ★ 菅田くんについて ★
 ◎
初見からずっと考えていることがあって。
それは、なぜ、菅田将暉と生田斗真だったのか?ということ。
『ハムレット』世界では取るに足らない脇キャラを、当代で最もキラキラしている2人が演じる意味と価値。
涙とオーラを撒き散らしながら煩悶する姿は美しく、ミニマリズムに貫かれた舞台の中で、一層華やかに際立っていた。
彼らが体現する現代性が、口語体の脚本とあいまって、体験すること自体が面白い“今”のエンターテイメントになっている。
共感できる私たちの物語として捉えることができる。
さらに、20代・30代の彼らがみずみずしくスピーディーに演じることで、人生を模索する若者の物語にも見える。
この世の不確実性や生きる目的の不明瞭さに打ちのめされ続けるロズギルの苦境は、世代を問わず人間共通の悩みではあるけれど、そこに青春の悩みのような甘酸っぱさ、愛くるしさ、まぶしさを感じることができた。
自分は2人目から35人目まで、複数のロズギルと会うことができたのだけど、その間の菅田ギルの成長ぶりは凄まじいものがあった。
はっきり言って2番目は最初、まだまだだね…という感じで。
斗真ロズや遣都ハムの完成度がいきなり高かったせいもある。
台詞を間違うことはほとんどなかったけど、一本調子で流れてしまって胸に響いてこなかった。
(あのボリュームをやり切るだけでもスゴイことなんだけど)
だけど3幕のラスト、消える寸前の芝居で、ガラッと人が変わって。
短いながら、誰もが菅田ギルから目を離せなくなるエモーショナルタイムが訪れ、感動に包まれながら終劇。
ここまで豹変できるなら、今後ますます楽しみ!と期待が膨らんだ。
そしてまさに、その通りになった。
考えてみたら、ロミジュリの時も初日からラストまでどんどん進化して、高みへのぼっていった人だった。
それって凄まじい速さで現場から吸収しているってことだよね。
その姿をリアルタイムで!ナマで!観られるっていうのが嬉しい。舞台の醍醐味だ。
結局、観るたびに一つ一つの台詞にニュアンスが生まれ、エモーションやパッションが漂い、ぐんぐんとお芝居が厚みを増して引き込まれていった。
特に、35人目はTwitterにも書いたけど、打ちのめされるほど素晴らしかった。(以下引用)
“今夜の…35番目のギルはヤバかった。爆発してた。
幾つもの爆発が次々起きて、その烈しさと美しさに圧倒された。
帰り途、荒野と同様に、丹田に力を入れてないと嗚咽しそうで。今も。
特に最後の最期は何かが降りてきてた。
劇場が菅田くんの激情の渦に巻き込まれていく。
圧巻な、一巻の終わり。”
菅田ギルが消えた後、安西ホレが滔々と語っている中で、客席から盛大に鼻をかんでいる音がして、思わず笑っちゃった時もあった。(小さくガッツポーズしながら)
今作を経て、また一つ新たな武器を手に入れたんだろうな。
それが今後のお芝居にどう現れてくるのかが楽しみ。
そしてまた別の舞台で、あのキラキラした爆発を観られますように。。。
豪華絢爛なビジュアルも、驚天動地の仕掛けも、ド派手なアクションも一切ないのに、始めから終わりまでドキドキ目が話せず、最後はホロリと感動する最高のエンターテイメント舞台。
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』けど、私は2人を忘れない。
いつかまた「見てろよ!」の続きができますように。
夢のような1カ月を、ありがとうございました。
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stickytreetiger · 7 years
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菅田将暉、生田斗真のボケ「たまらない」 『ロズ・ギル』開幕直前コメント
俳優の生田斗真と菅田将暉が30日、舞台『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』の最終通し稽古を終え、開幕直前コメントを寄せた。 同作はイギリスの巨匠トム・ストッパードの代表作で、1966年より全世界の演劇ファンに『ロズ・ギル』の愛称で呼ばれて親しまれている名作。シェイクスピア『ハムレット』の最後の最後で「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ……」と一言だけで片付けられてしまった2人組 Source: エンタメのニュースまとめ
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picolin · 7 years
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Rosencrantz and Guildenstern are Dead
by Tom Stoppard (dir. David Leveaux)
2017年4月14日 The Old Vic
同じ劇場でのロンドンデビューから50周年記念のプロダクション。(初演は1966年のエジンバラフェス) ほぼ同時に市内で、ハムレットとストッパードの他の中期作品(Travesties)がかかっているのはある意味幸運ではなかろうか。前者と合わせて見ることで、元の戯曲の持つメタな構造をさらにメタメタにしたうえで、フィクションの中のキャラクターから閉じられた物語を見る奇妙さが強調されるし、後者は作者の言葉遊びと知的技巧をとことんまで楽しめる。
舞台は奥行きを強調した空間を、布のカーテンの開閉で場面転換や区切りをつける感じ。カーテンなのでガラスや板よりも柔軟に使用でき、なおかつ影の演出も可能なのが面白い。そこに旅の一座の舞台や第三幕(第二幕)の船のセットが出てくる程度で、大道具の出入りをカーテンでうまく隠すのでスマートだ。
よくハムレットでもこの戯曲でも、この二人はよく間違えられるし本人たちも分かっていないと言われることがあるが、舞台で改めて見ると、どちらかというとボケのローゼンクランツと(的を得ない)ツッコミのギルデンスターンという対比がくっきりしていた。その性格付けが、ナイーブさを感じさせるダニエル・ラドクリフと達者さが印象的なジョシュア・マグワイアという、それぞれの演技がぴたりとはまっている。しかしこのプロダクションの中心はデヴィッド・ヘイグの座長ではなかろうか。「運命」に縫い込まれた自分たちを嘆くロズ&ギルに対し、フィクションを演じる旅芸人たちはその運命そのものを笑い飛ばす。一般的なハムレットのプロダクションでは現代風の演劇だけを行う旅の一座とは異なり、ここではチンドン屋的に楽器を演奏しながら時代のかった「悲劇」を演じる。その可笑しさ。   メタフィクション、二次創作であると同時に、『ゴドーを待ちながら』に影響を受けた不条理作品と言われることも多いが、個人的にはSF短編小説『あなたの人生の物語』とその映画化『Arrival(邦題:メッセージ)』を思い出した。コインは何度投げても表を示す。方角はわからなくても、船は自らの死に向けて出航する。その、個人の意思も感情も通用しない決定論的世界で無気力になるか、抗うか、それともその中にすら目的や可笑しみを見出すか。
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