#ボボ・ブラジル
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7/10納豆の日 誕生日/前田敦子 小泉孝太郎 吉行あぐり 高円宮久子妃 沢村一樹 花菱アチャコ 布施博 松島トモ子 市田ひろみ 佐藤夕美子 田中圭 角田久美子 誕生日 1509年 カルヴィン(神学者) 1830年 ピサロ(画家) 1834年 ホイッスラー(画家) 1871年 プルースト(作家) 1888年 キリコ(画家) 1890年 川島正次郎(政治家) 1897年 花菱アチャコ (漫才師(エンタツアチャコ))02/14説あり[1974年7月25日歿] 1900年 金丸重嶺(写真評論家) 1907年 吉行あぐり (美容師,吉行淳之介・吉行和子・吉行理恵の母)[2015年1月5日歿] 1924年 ボボ・ブラジル(プロレス) 1928年 ビュッフェ(仏・画家) 1930年 左右田一平(俳優) 1930年 和久峻三(推理作家) 1932年 市田ひろみ(タレント・女優) 1934年 米倉斉加年(俳優・絵本作家) 1938年 吉田ルイ子(写真家) 1945年 松島トモ子 (女優) 1948年 筒井ともみ(脚本家・小説家) 1952年 麻上洋子(声優) 1953年 安藤しげき(漫画家) 1953年 高円宮久子妃(皇族) 1958年 布施博(俳優) 1964年 村山由佳(作家) 1968年 チバ・ユウスケ(THE MICHELLE GUN ELEPHANT・ミュージシャン) 1968年 沢村一樹(俳優) 1969年 増本庄一郎(インパクト・タレント) 1970年 角田久美子(日本TVアナ) 1978年 小泉孝太郎 (俳優,小泉純一郎の子) 1978年 佐藤夕美子 (女優) 1984年 田中圭(俳優) 1985年 ヒトミ (歌手(YeLLOW Generation[解散]) 1986年 ユウキ (歌手(EE JUMP[脱退]),後藤真希の弟) 1991年 前田敦子 (タレント,女優(AKB48)) 誕生花は 風鈴草、花言葉は“あたたかい心”、 誕生石は ブラッドストーン(bloodstone)、宝石言葉は“���敢” 納豆の日 関西納豆工業協同組合が1981年に関西地域限定の記念日として制定し、全国納豆協同組合連合会が1992年に、改めて全国の記念日として制定した。 七(なっ)十(とお)で「なっとう」の語呂合せ。 7月第2月曜日(今年は今日) アメリカ大リーグ・オールスターゲーム ウルトラマンの日 1966年のこの日、TBSテレビで『ウルトラマン』の放映が開始された。 『ウルトラマン』は7月17日に放送開始の予定だった。しかし、その前に放送されていた『ウルトラQ』の最終話が、内容が難解であるという理由で放送されないことになった。そこでその穴埋めとして、前日に杉並公会堂で開かれたウルトラマンの宣伝イベントの模様を「ウルトラマン前夜祭」として放映した。 指笛の日 2006年6月、沖縄県の指笛愛好家グループ「指笛王国おきなわ」が制定。 「指笛」とは、口の中に指を入れて音を鳴らすもので、沖縄の音楽や、祭、応援などに欠かせないものである。 7はかぎ形に人差指を曲げて吹く形が7の字に似ていることから。10は十本の指を使って様々な吹き方ができることから。また、エイサーの盛んな夏の初めがふさわしいとして7月を記念日とした。 潤滑油の日(面白い!!!) 全国石油工業協同組合が制定。 OILを半回転させると710に見えることから。 独立記念日 [バハマ] 1973年のこの日、中米のバハマがイギリスから独立した。 四万六千日 浅草・浅草寺の縁日で、この日に参詣した者には4万6千日参詣したのと同じご利益や功徳があるとされている。本来は7月10日だけであるが、9日から行われる「ほおずき市」に合わせて9日にも法要が行われている。 歴史・出来事 1911年 日本体育協会創立 1916年 簡易生命保険法公布 1927年 岩波文庫創刊 1933年 初のナイター野球試合、早大戸塚球場 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #金銀ドレープ #ケープ #カラーシート #カラーチップ #C³ #色のみかた #顔タイプ #顔タイプ診断 #パーソナルカラー診断 #シーキューブ #毎月 #16日 #色の日 #insta_higashinada #神戸市 #東灘区 (���ーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CCcHaJKAP0k/?igshid=1o9nycrkwi0h3
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外伝
1940年代後半。ウディ・ハーマンのバンドには、こういったミュージシャンがいた。
スタン・ゲッツ
ズート・シムズ
サージ・チャロフ
また、サックス・セクションではなくアレンジャー/作曲家として、ジミー・ジェフリーがいた。
ジミー・ジェフリーの活動拠点は西海岸だったが、やがてジム・ホールなどと独特の編成をしたトリオを組むことになる。当時の演奏は、映画「真夏の夜のジャズ」��見ることができる。
また、その数年前、ジェリー・マリガンはカリフ��ルニアに拠点を移しチェット・ベイカーとピアノレスのカルテットを始めた。
これらは、ウェストコースト・ジャズというジャンル付けをされることがある。「真夏の夜のジャズ」は1958年だが、ニューヨークでは、チャーリー・パーカーが亡くなって数年であり、マイルス・デイビスがプレステッジにまだいた頃である。西海岸も東海岸もパーカーの影響は強かったが、モードには至っていなかった。
このウェストコースト・ジャズというのが、演奏もするタイプのジャズ・ファンに、すこぶる人気が薄い。演奏しないタイプには人気で、特にジジイに人気だ。若い人ではフルバン出身者でないかぎり難しいだろう。
例えば、ポール・デズモンドはテイク・ファイブの作曲者であるのにかかわらず、両方でも十分話題になるが、バド・シャンクの話が出ることは、まずない。
1959年8月。マイルスが「Kind of Blue」をリリース。
その数年前。1953年、いや、まだチャーリー・パーカーが存命だった1950年代初め、カナダ、モントリオール出身の若いピアニストが、チャールス・ミンガスの手引きで、アート・ブレイキーとトリオのアルバムを録音する。ピアニストの名前はポール・ブレイ。一説では、オスカー・ピーターソンを追い出した男。いや青年。
ポール・ブレイは実験的なピアニストだった。カナダ在住時はチャーリー・パーカーを招き、共演、録音をし、50年代中ごろは、あまりにも個性的な演奏をしているため西海岸で貧乏周りを余儀なくしていたオーネット・コールマン、ドン・チェリーともバンドを組んだ。
しかし、超ド級エロいソロ・アルバム「Open To Love」のリリースはまだまだ先である。
1959年12月。ビル・エヴァンスは、ポール・モチアン、スコット・ラファロとのトリオでライブ・アルバムを録音。翌年リリース。
なお、「Waltz for Debby」は1962年。
1961年ごろ、ジミー・ジェフリーはもう独特の編成のトリオはやってなかった。新しいメンバーはポール・ブレイとスティーブ・スワロウだった。
ジミー・ジェフリーはこのトリオではアレンジャーではなく、インプロヴァイザーだった。またメンバーのオリジナル曲も演奏したが、ポール・ブレイの若い妻の曲も演奏した。彼女の名前はカーラという。カーラはジャズ・ミュージシャンになることを志し、17才単身でニューヨークに来たが、ウェイトレス等をしながら食いつないでいたところを夫に拾われた。
アルバムは数枚リリースされているが、西海岸では録音されていない。殆どニューヨークである。ライブ録音が1990年代に発掘され、ディスクになったが、いずれもヨーロッパである。
1962年、ビル・エヴァンスとジム・ホールの2人だけのアルバムが録音、リリースされる。アルバムのタイトルは「Undercurrent」。録音場所はニューヨークのスタジオ。
ニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶウィリアムズバーグ橋上の3年の孤独から戻ったソニー・ロリンズは、1962年初めにアルバムを録音した。カムバック前は、「サキソフォン・コロッサス」からの3年で、18枚のリーダー・アルバムをリリースしていた。
橋上のブランクを経たアルバムにはピアニストを使わず、ギタリストを採用した。ギタリストはジム・ホールだった。
ソニー・ロリンズは自分のバンドにピアニストを入れないことが昔から多かった。むしろトリオでの活動が目立った。
ソニー・ロリンズは、生粋のインプロヴァイザーだった。1986年には「The Solo Album」という、60分間無伴奏ソロライブ・アルバムが録音、リリースされている。
ジェリー・マリガンも既に西海岸にはいなかった。1950年代初めに西海岸でチェット・ベイカーと組んだカルテットはピアノレスだったが、同様にピアニストがいないカルテットはメンバーを変えながら継続していた。最後のパートナーはボブ・ブルックマイヤーだった。1963年に録音されたアルバム「Night Lights」ではピアニストではなくギタリストを入れた。やはりジム・ホールだった。
マイルスのバンドから脱退したジョン・コルトレーンは、マイルスのバンドで学んだモードを元に、1961年「My Favorite Things」を録音した。この後、Impulse レーベルに移籍していくつかのアルバムを録音し、自己のカルテットのメンバーを固め、1964年末に「至上の愛」を録音、リリースする。
コルトレーンは極めて真面目でストイックだった。1曲の演奏が数十分に及ぶこともあり、演奏の自由度はモードの範囲を越えることもしばしばだった。その人となりを含め、多数のフォロワーが現れた。
高校卒業後、軍楽隊員となりフランス駐在も経験したアルバート・アイラーは、除隊後はアメリカに戻ったが、まもなくスウェーデンに移住する。ファースト・アルバム「My Name is Albert Ayler」は現地で録音された。ベーシストはデンマーク出身のニールス・ヘニング・オルステッド・ペデルセン(Niels-Henning Orsted Pedersen)。このベーシストはオスカー・ピーターソンとの共演が多いが、ポール・ブレイとデュエット・アルバムがある。
1960年代に入り、再びアメリカに戻ったアルバート・アイラーは、1965年に「Spiritual Unity」を録音する。ベーシストはゲイリー・ピーコック(ドラマーはサニー・マレイ)。
アルバート・アイラーの音楽はコルトレーンの影響下にありつつも、むしろオーネット・コールマンやセシル・テイラーに近かった。
1964年、ブラジルのミュージシャンと共同で制作したアルバムがブレイクしたスタン・ゲッツは、ギタリストを探していた、しかしバンドに入れたのはゲイリー・バートンというヴィブラフォン奏者だった。ゲイリー・バートンはピアニストであるビル・エヴァンスの和音を徹底的に研究していたが、自分の楽器がピアノより音数の制約があるため、ギターの和音についても研究していた。
当時、スタン・ゲッツのバンドにはスティーブ・スワロウがいた。
ペンシルバニアの小さな町の、旅���兼レストラン兼ライブハウスで、高校生までハウス・ドラマーとして演奏活動をしていたキース・ジャレットは、ピアニストとしてブラームスを入学試験で弾き、まだ大学として認可されていない頃のバークリー音楽大学に入学をする。
卒業するまでもなく、拠点をニューヨークに移し、貯金を切り崩しながら食いついないでいた頃、毎週通っているのになかなか順番が回らないジャム・セッションの、ベーシストがいないセットでの演奏を、たまたま奥で聴いていたアート・ブレイキーが、この20才そこそこの無名ピアニストを、すぐにバンドに招き入れた。
数ヶ月後、キース・ジャレットはアート・ブレイキーのバンドを離れ、チャールス・ロイドのカルテットに入る。ブレイキーのバンドから抜けた理由は、予め言われたとおりのギャラを貰えないことが頻繁に起きた、からだった。
チャールス・ロイドのライブ・アルバム「Forest Flower」では、キース・ジャレットが加入した1966年のモントレー・ジャズ ・フェスティバルの演奏が収録されている。ドラマーはジャック・デジョネットだった。ジャック・デジョネットはシカゴ出身で、AACMを経験していた。
1967年、ライブ活動を休止したThe Beatlesが「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」をリリース。
同じく1967年、ゲイリー・バートンは、スタン・ゲッツのバンドの同僚と、当時はロック・ギタリストだった永遠のギター小僧、ラリー・コリエルとともに「Duster」というアルバムを録音、リリースする。
1969年8月。マイルス、「ビッチェズ・ブリュー」を録音。
1969年8月。Woodstock Music and Art Festivalが開催される。音楽祭の様子は映画化され、ポール・バタフィールド・ブルース・バンドのホーン・セクションにデイヴィッド・サンボーンがいることを、確認できる。
同じ年、ベルリンでコントラバスを弾いていたマンフレート・アイヒャーは、ジャズのレコード・レーベルを設立した。レーベルの名前はECM。Edition of Contemporary Musicの頭文字から取られた。
前年、チェコスロバキア出身のベーシスト、ミロスラフ・ヴィトウス、スタン・ゲッツ・カルテットでもドラマーを務めたロイ・ヘインズとともに「Now He Sings, Now He Sobs」を録音した、プエルトリコ系アメリカ人のアーマンド・アンソニー・コリアは、1970年、マイルス・バンド在籍時の同僚、デイブ・ホランドと「サークル」を結成する。ドラマーはバリー・アルトシュル。このバンドにはやがて、シカゴ出身でAACMを経験したアンソニー・ブラクストンが加入する。
1970年11月。アルバート・アイラーが、ニューヨークのイースト川に、動かない身体となって、浮かぶ。
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これは、日本でジャズに関わる人々だけの共通認識なのかもしれないが、ジャズには、メインストリームにあたる歴史認識がある。
[1]19世紀末、アメリカ南部の農場で働く人々が、黒人霊歌や教会音楽から派生してブルースを歌う。さらに派生して、ごく初��のジャズが生まれる。
[2]工業が主要産業として台頭すると多くの労働者が北へ向かう。例えばミズーリ川を遡上する。
[3]南部で演奏されたジャズも遡上し、北全体へ広がる。ジャズ・バンドは大型化し、編成が確立し始める。また、器楽奏者の他、歌手や作曲家、アレンジャーも専属化する。
[4]禁酒法が施行され酒場が儲かる。
[5]トーキー映画が主流となり、映画音楽が現れる。弦楽器を含むオーケストラを使うため、オーケストラ・アレンジの素養がある、欧州からの亡命作曲家が関わるようになる。映画やミュージカルのテーマソングがスタンダード・ソングとして、ジャズの素材となる。
[6]酒場での演奏後、メンバー同士で新しい奏法について意見交換するようになる。
[7]業後のジャム・セッションが注目され、小編成でインプロヴィゼーションに力点を置いたバンド、ミュージシャンがピックアップされだす。Bebopが興る。
[*]チャーリー・パーカー氏、西海岸ツアー中に、ビバリーヒルズのイゴール・ストラヴィンスキー邸をピンポンダッシュ。
[8]ニューヨーク、ブロードウェイ52丁目のクラブ「バードランド」にて、1954年2月、アート・ブレイキー氏を筆頭としたライブが行われる。ライブは後にレコードとしてリリースされる。実質ハードバップの幕開け。
[9]1955年3月。チャーリー・パーカー氏死去。
[10]1959年。マイルス・デイビス氏により「Kind Of Blue」が録音され、リリース。モード奏法の確立。
[11]1961年、オーネット・コールマン氏「フリー・ジャズ」をリリース(録音は前年末)。
[12]1964年、ジョン・コルトレーン氏「至上の愛」を録音、リリース。
ここまでは概ね共通認識で、その後、ジミ・ヘンドリックス氏がウッドストックで「星条旗よ永遠な���」を弾いたのとほぼ同時に、マイルスが様々な人的準備により、「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、リリースした頃には、ジャズの歴史は大樹の枝葉のように、ある枝は青葉が芽吹き、ある枝には花が咲き、ある枝には実が宿り、ある枝は枯れて落ちようとしていた。2、3年後に、グローバー・ワシントン・ジュニアが、ソウル・ミュージックをサックスで歌う。
先に僕が書いたジャズの歴史は【外伝】である。しかし、メインストリームと共通しているのは、、、ジャズの歴史はインプロヴィゼーションの進化、、、という点である。
人はなぜ音楽を求めるのか。生命活動における憩いを、あるいはアガることを求めるからである。大概の人は二十歳前後で、毒物の摂取を法的になんとなく認められるが、その頃には生活に少しずつブルースが必要になる。ブルースというとひとつのジャンルのように聞こえるが、これは、ある国ではサウダージと表現され、ある国では演歌的な何かとされる。
話をわかりやすくするために、この、人間が求める感覚を「ブルース」と言うとして、音楽理論上、ブルースを端的に説明すると
Cというコードにおける、ミの半音下、または、レの半音上
ミの半音下もレの半音上も同じ音だが、実際に演奏されるさまざまな理由により、異なる。
やっぱり話がわかりにくいな(笑)
とにかく、
ブルーな感覚は人類誰にもあり、それを表現する権利も誰にでもある。
その際、ミの半音下を演奏しても、レの半音上を演奏してもいい。また、出ている音は同じである。
しかし、様々な事情で、扱われ方が全く違う。
という事象が発生するのだ。
もちろん僕はレイシズムの話をしているのではない。ここまでで出てきたミュージシャン達の多くは白人だけれど、黒人にルーツが無いミュージシャンがブルースを含む音楽をやるとき、どうやって自分の"ブルー"を、自分に、聴き手に響かせるか、その様々について年を追って書いている。
もしこの気づきが正しいのなら、僕はフランス人のピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニを聴いたときに、気づいた。
ミシェル・ペトルチアーニのピアノにどことなく憂いがあるのは、人種や出身、自分の身体に関係なく、"ブルー"を弾ききっているからだと、考えている。
話を戻す。
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1972年、ポール・ブレイはオスロのスタジオで、ソロピアノのアルバム「Open To Love」を録音。リリース。
同年、キース・ジャレットは、同様にソロピアノで「Facing You」を録音し、リリース。
いずれもレーベルはECM。
同じ年、ゲイリー・バートンのライブの楽屋に、18才のギタリストが訪れる。彼は、ゲイリー・バートンのバンドに憧れ、参加を願ったが、当時、ミック・グッドリックというギタリストがいたため、ゲイリー・バートンはこれを断った。
しかしゲイリー・バートンは、教鞭を取っていた認可後のバークリー音楽大学に、講師として、彼を招いた。彼の名前はパット・メセニーという。チャーリー・パーカーが亡くなる前年の1954年に、チャーリー・パーカーの出身地、ミズーリ州カンザスシティからクルマで30分もかからない町で生まれた。パット・メセニーはチャーリー・パーカーの再来ではない。これは偶然である。
表現の可能性と市場のニーズ、ECMのマンフレート・アイヒャーとの親和性によりキース・ジャレットはソロピアノでの活動を続けた。1975年、重なるツアーと体調不良の中で弾いたケルンでのソロ・コンサートはレコード化され、ヒット・アルバムとなる。キース・ジャレットはチャールス・ロイドのカルテットの後、マイルス・デイビスのバンドにも在籍しており、チック・コリアとツイン・キーボードでライブをこなしていた。
同年、12弦ギターを弾くことでゲイリー・バートン・バンドのメンバーになっていたパット・メセニーは、ウェザー・リポート加入直前のジャコ・パストリアスと、最初のアルバムをリリースする。レーベルはECMだった。
ECMレーベルも、他のレーベル同様、所属するミュージシャンをミックスしてアルバム制作することがあった。固定したバンドを持つ前のパット・メセニーの二番目のアルバムでは、ベーシストとして、ドイツ人のエバーハルト・ウェーバーが参加した。またピアニストとして、ノーステキサス大学の One O'Clock Lab Band で学んだライル・メイズが参加している。
ノーステキサス大学の同バンドにはかつてジミー・ジェフリーが所属��ており、ビル・エヴァンスの最後のトリオのベーシスト、マーク・ジョンソンも出身者だった。近年では、アリ・ホーニグが出身者である。またノラ・ジョーンズもノーステキサス大学を卒業している。
ジョン・ゾーンやビル・フリゼルがニューヨークで活動し始めたのはこの頃らしいのだが、僕はよく知らない。
またギル・エヴァンスのオーケストラにデイヴィッド・サンボーンが参加していたのはこの頃である。これはわかる。
1974年にバークリー音楽大学を卒業したジョン・スコフィールドは、卒業後は正しくミュージシャンとして活動していた。「LIVE 77」ではピアニストがリッチー・バイラークだった。リッチー・バイラークはスタン・ゲッツのカルテットでデイヴ・ホランドやジャック・ディジョネットと演奏していた。
1978年。パット・メセニー、アルバム「PAT METHENY GROUP」を発表。
このグループは2000年代中頃まで続く(解散はしていない)。その間、ライル・メイズのみメンバーは変わっていない。
1975年-1980年の間、マイルスは活動を休止していた。その期間はソニー・ロリンズより長い。
1980年、ウィントン・マルサリスがアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに加入(1982年脱退)。
1984年、パット・メセニーはECMでの最後のアルバム「First Circle」をリリース。翌年、ゲフィン・レコードに移籍。最初に着手したのはオーネット・コールマンとの共演アルバムだった。
その後、1997年にワーナー・ジャズに移籍するが、2004年にワーナー傘下のノンサッチに移籍する。
ゲフィンもノンサッチもジャズのレーベルでは無い。パット・メセニーはインパルスやブルーノート、ヴァーブといったジャズ・レーベルに所属したことがない。
1990年、Naked Cityが活動を始める。
翌年、デイヴィッド・サンボーンが「Another Hand」をリリース。レーベルはエレクトラ。
1996年~2000年の間、ワーナー・ジャズにてブラッド・メルドーは、7拍子のAll The Things You Areを含むトリオ作を、連続して録音していた。
1999年、ジョン・スコフィールドがメデスキー・マーチン&ウッドとレコーディング。「A Go Go」をリリース。
2007年、ジャズのフォーマットでヒップホップを弾くピアニスト、ロバート・グラスパーが、「In My Element」に7拍子のBeatriceを収録する。ただし、これは【正伝】だろう。
この翌年、リーマンショックが起こり、その翌々年、バラク・オバマが大統領となり、つい数年前にドナルド・トランプが大統領になった。
多くのミュージシャンがバークリーに入った。
エスペランサ・スポルディングは歌い、カート・ローゼンウィンケルは10年かけたアルバムを出した。
チャールス・ロイドは、間にジョン・アバークロンビーを挟んだが、スティーブ・キューン~キース・ジャレット~ボボ・ステンソン~ミシェル・ペトルチアーニ~ブラッド・メルドーと続いた起用ピニストの変遷がジェイソン・モランで落ち着いた。
ジョン・スコフィールドはMM&Wとの関係を続け、デイヴ・ホランドは自己のカルテットから多数のサックス奏者をデビューさせた。
パット・メセニーはPMGでの活動を長く行っていないが、UNITY BANDを起こした。
デイヴ・ダグラスはリー・コニッツやジョー・ロヴァーノを迎えて、リンダ・オーやジョーイ・バロンと演奏している。
2019年現在、パット・メセニーはロバート・グラスパーの影響下にあると思われるジェイムズ・フラン��ーズとライブをしている。
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ここまでが外伝である。
あとがき的に、もうひとり、この外伝にぜったい出てくるべきなのに一度も名前が出なかったミュージシャンの名前を書いておきたい。
チャーリー・ヘイデン(ベーシスト:1937-2014)。
この人の名前を出すと、全てで出さなきゃなくなり、完結する。特に「American Dreams」はわかりやすい。
しかし、活動において、カルテット・ウェストが特異で、説明がつかない。そういう意味では、外伝においてもう一つの外伝、スムース・ジャズの歴史と、唯一リンクするのがカルテット・ウェストなのだと思う。
僕が気にしていることは、西部でも東部でもない、中部をルーツとしているというだけなのだろうか。
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ピッコロ演劇学校卒業公演
ピッコロ演劇学校の卒業公演を見てきました。
本科が上演した『20世紀少年少女唱歌集』は掛け値なしの傑作でした。
本科生全員で演じる冒頭のモブシーンは圧巻のひとことです。私自身、ピッコロ演劇学校で同じようなことをしましたから、本科生のみんながどれほど稽古をしたかわかります。それだけに素晴らしいと思いました。
『20世紀少年少女唱歌集』は、1970年の万博が始まる少し前、貧しいバラックに住む在日朝鮮人の家族を描いた芝居で、同じ作者・鄭義信(チョン・ウィシン)の『焼肉ドラゴン』とかなりの部分重複しています。『焼肉ドラゴン』の翻案なのかとも思いましたが、そうではなくこれはこれで独立した作品のようです。
私はピッコロ劇団(演劇学校ではなく劇団の方です)が上演した鄭義信の『歌うシャイロック』を神戸のアート・ヴィレッジ・センターで見て、いたく感動し、そのことを同僚で芝居好きの英文学者Oさんに話したところ、「それなら是非これも見てください。私の一番好きな芝居です」と言って『焼肉ドラゴン』のDVD(映画ではなく舞台版です)を貸してくれました。
でも、私は『焼肉ドラゴン』にそれほど魅力を感じませんでした。在日朝鮮人が差別され迫害されてきたというのはもちろん「事実」ですが、その「事実」をこれでもかこれでもかと見せられても、「わかった。でも、それ、もう知ってるから」としか言えません。
『歌うシャイロック』に私が感動したのは、そのテーマが『ヴェニスの商人』のユダヤ人シャイロックに投射されているからであり、芝居自体が喜劇仕立てだったからです。こういう社会的なテーマを扱うには、社会的な問題を扱いながら、その問題から距離を置く、あるいはその問題を別の何かに変えて描くことが必要だと私は思っています。
『20世紀少年少女唱歌集』で驚いたのは、在日朝鮮人の家族を描きながら「朝鮮人」という言葉が全く出てこないことです。登場人物のうち何人かは帰還事業で北朝鮮に渡ろうとするのですが、それについても「向こうに行く」、「向こうには楽園が待っている」というだけで「北朝鮮」という言葉も出てきません。
私はもちろんそういう言葉が出てこなくてもわかりますが、予備知識なくこの芝居を見る観客の中には、何のことかわからない人もいるかもしれません。事実、同じ公演を見た同僚のHさんは「ブラジルにでも移民する話かと思った」と言っていました。
でも、それでいいのだと思います。鄭義信がなぜそういう言葉を避けたのかはわかりませんが、私にはそれこそが「テーマから距離を取ること」に思えました。
バラックには、春江、夏江、秋江、冬江という4人の姉妹とその夫や小学生の娘(みどり)が住んでいます。足が悪い春江には正次という夫がいますが、妹の夫の博司と惹かれ合っています。博司は妻を日本に置いて、「向こう」に行くことを考えていて、春江に「一緒に来てくれ」と言います。正次は働きもせず春江に金をせびるクズですが、妻と博司の関係に気がついていて、なんとか妻を引きとめようとします(水道で足を洗っている春江の裸の足にすがりついて正次が「行かないでくれ」というところは名場面です)。
物語の中心はこの三角関係だと私は思っていました。いや、それに間違いはないのですが、ある瞬間、別の見方が開けて衝撃を受けました。
中心となる物語のほかに、この芝居には地方を回ってミシンを売る若いセールスマンとその女性上司のシークエンスがあります。二人は春江たちとは別の時間を生きているようで、パソコンがどうだとか、インターネットがどうだとか言っています。
一体この二人は物語にどう絡んでいくのだろうと思っていると、あるとき突然、女性上司が「私はここに住んでいた」と言い出します。彼女の名前はみどり。つまり、この女性は子どもだったみどりが成長した姿なのです。
4姉妹の物語、あるいは春江をめぐる三角関係の物語だとばかり思い込んでいた観客が、この物語はみどりの物語だったのだと悟る瞬間です。
物語のラストでは、大人のみどりが昔埋めたタイムカプセルを掘り出し、子どもの頃の自分と対話する場面もあります。これもまた時間的な意味で「距離をとること」と言えるのかもしれません。4姉妹の物語を「いま・ここ」の物語として見るのではなく、時間を置いて「過去」の物語として見ると、違ったふうに見ることができるというわけです。
さらにこの芝居にはもう一つ別のシークエンスもあります。なにものかよくわからない3人の女がときおり登場し「いい夕暮れですねえ」と意味のわからない会話をするのです。芝居の最後にも彼女たちは登場して「いい夕暮れですね」というのですが、そこで初めて「夕暮れ」の意味がわかるような仕組みになっています。彼女たちの言っているのは20世紀の夕暮れなのです。
この芝居が書かれたのはおそらく1990年代後半なのでしょう。21世紀に突入して20年近い年月が流れたいまやると、少し違和感があります(その意味ではみどりについても、1970年に子どもだった人間は、2019年の現在では60歳前後ということになりますから、計算が合いません)が、それでも非常に巧みな構成だと思います。
個人的に私が最も衝撃を受けたのは、ラスト近くで春江が「私たちの苦しみにどんな意味があるのか、それが何のためにあるのか、10年か20年後にはわかるのかしら」という趣旨のセリフを言い、それを受けて脇の方にいる年配の紙芝居師が「おんなじことだ、おんなじことだ��と言う場面です。
私はこの場面を見て思わず「えっ?」と声が出そうになりました。私だけなのでしょうかーーこの場面からチェーホフの『三人姉妹』のラストを連想するのは。いや、「連想」などという生易しいものではありません。私はピッコロ演劇学校研究科で『三人姉妹』の老軍医チェブトイキンを演じたからわかります。断言しましょうーーこれは『三人姉妹』のラストシーンそのものです。1970年頃の日本を舞台にした芝居で、まさかそういうものを見せられるとは思ってもいませんでした。まさに鳥肌ものです。
私はずっとピッコロ演劇学校の卒業公演を見ていますが、この芝居はその中でも出色の出来です。最高傑作と言っていいかもしれません(あ、もちろん私が参加した『この空の下で』は別にしての話です)。
主任講師で演出のちえさん、本科生のみなさん、素晴らしい芝居でした。お疲れ様でした。
長くなりましたのでピッコロ演劇学校研究科が上演した『罪と罰』については稿を改めることにします。
追記:
1970年というと私は小学5年生でした。劇中で流れるピンキーとキラーズや奥村チヨやいしだあゆみの曲は懐かしい限りでしたし、おかまのリリーが正次に4の字固めをかけるのは、つい先日デストロイヤーが亡くなったことを思うと感慨深いものがありました。
リリーは4の字固めをかけながら「ジャイアント馬場からインターナショナルのベルトを奪ったことのあるレスラーは誰か?」というクイズを出すのですが、それに対して私はすぐさま「ボボ・ブラジル」と正解を出せました。
でも……演出のちえさんはもちろん、本科生たちは誰もその時代のことを知らないのですね(あ、紙芝居師を演じた森川さんは知ってるか)。
それを思うと不思議な気持ちになります。
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演劇ユニット・チーム銀河×モンゴルズシアターカンパニーは毎月第4日曜の14時に大阪・四ツ橋のイサオビル2階ホールで新作『リハーサル』をロングラン上演中です。
次回公演は3月24日(日曜)です。
また、それと並行して『改訂版・オズの部屋探し』も毎月第3土曜の18時半に大阪・緑橋の杉浦実業株式会社2階会議室でロングラン上演中。
こちらの次回公演は3月16日(土曜)。フランス語字幕付きで上演いたします。
みなさまのご予約・ご来場をお待ちしております。
詳しくはこのサイトの「次回公演」のページをご覧ください。
『リハーサル』http://toura-h.wixsite.com/team-ginga/blank-10
『改訂版・オズの部屋探し』http://toura-h.wixsite.com/team-ginga/jikai
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【悲報】ボブ・サップがボボ・サップに改名 wwwwww 九州で物議、ボボ・ブラジル問題、再燃?
1: 2017/03/11(土) 16:55:54.93 ID:CAP_USER9 アメリカ籍の格闘家でタレントのボブ・サップさん(43)がテレビ番組で、芸名を「ボボ・サップ」に変更したと報告したため、ネット上では「その芸名あかん」「九州で試合ができない」と大盛り上がりとなった。 先輩レスラーに「黒い魔神」と呼ばれたボボ・ブラジルさん(享年73歳)がいて、「ボボ」は九州の一部では女性の下半身をさす方言だとし、地元のテレビ放送では当時、「ボボ」を読まなかったり、名前を変えてリングに上がったりしたという「逸話」があるからだ。 「ボブ・サップTHE BEASTシールブック」(小学館、2003年)(写真はアマゾンより) ■「今回オレは生まれ変わったんだ。芸名を『ボボ』に変えたぜ」…
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ボブ・サップが「ボボ・サップ」に改名したと宣言 九州で物議?
ざっくり言うと
ボブ・サップが「ボボ・サップ」に改名したそうで、九州で物議を醸している
「ボボ」という言葉は、九州の一部では女性の下半身をさす方言なのだそう
レスラーのボボ・ブラジルさんは、九州のテレビでは名前を変えていたという
記事を読む Source: ライブドアスポーツ
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ボブ・サップがボボ・サップに「改名」 「九州で物議」ボボ・ブラジル問題、再燃?
アメリカ籍の格闘家でタレントのボブ・サップさん(43)がテレビ番組で、芸名を「ボボ・サップ」に変更したと報告したため、ネット上では「その芸名あかん」「九州で試合ができない」と大盛り上がりとなった。 先輩レスラーに「黒い魔神」と呼ばれたボボ・ブラジルさん(享年73歳)がいて、「ボボ」は九州の一部では女性の下半身をさす方言だとし、地元のテレビ放送では当時、「ボボ」を読まなかったり、名前を変えてリングに Source: 芸能のニュースまとめ
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ボブ・サップがボボ・サップに「改名」 「九州で物議」ボボ・ブラジル問題、再燃?
1: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/03/11(土) 16:55:54.93 ID:CAP_USER9 アメリカ籍の格闘家でタレントのボブ・サップさん(43)がテレビ番組で、芸名を「ボボ・サップ」に変更したと報告したため、ネット上では「その芸名あかん」「九州で試合ができない」と大盛り上がりとなった。 先輩レスラーに「黒い魔神」と呼ばれたボボ・ブラジルさん(享年73歳)がいて、「ボボ」は九州の一部では女性の下半身をさす方言だとし、地元のテレビ放送では当時、「ボボ」を読まなかったり、名前を変えてリングに上がったりしたという「逸話」があるからだ。 「ボブ・サップTHE BEASTシールブック」(小学館、2003年)(写真はアマゾンより) ■「今回オレは生まれ変わったんだ。芸名を『ボボ』に変えたぜ」…
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