#フレンチニューウェイブ
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SDC映画の部屋「ジェヴォーダンの獣(2001)」
時はフランス革命前夜のフランス、ジェヴォーダン地方。女、子供ばかりが忽然と姿を消し、後には無惨に咬みちぎられた遺体が残されていた。果たしてこれは狼や獣の仕業、あるいは悪霊の呪いか?フランス国王ルイ15世から謎解きのために派遣されたのは、博物学者にして探検家のフロンサック(サミュエル・ル・ビアン)と、新大陸で彼と友情を契ったネイティヴアメリカンのマニ(マーク・ダカスコス)。彼らが捜索を続ける間にも、領主や貴族、聖職者達の不穏な企みが進んでいく。はたして「獣」とは何か?何のために殺戮を続けるのか? 「ヴィドック(2001)」と同時期に公開されたフレンチ・ニューウエイブのゴシック・ロマン映画。監督のクリストフ・ガンズは日本のコミックやアニメに造詣が深く、本作品の5年前に日本の劇画「クライング・フリーマン(小池一夫作/池上遼一画)」の実写化も担当している。 サスペンスとカンフーアクション、オカルト風味を塗してあるものの、ベースはコスチュームプレイだ。主演のサミュエル・ル・ビアンやヴァンサン・カッセル、モニカ・ルビッチなどの顔の濃い俳優達が身につける様々な中世フランス風衣装や、眩惑的な美術設定が、この映画の主要な魅力でもある。ただしコスチュームプレイの例に漏れず、とても長くて退屈してしまうのが難点。あちこち寄り道しながらの138分は、時代背景や言葉が分からないこともあり、途中で何度も脱落しそうになってしまう���大仰な謎解きも、様々な武器(チェーンソードとかも出てくる)を交えたカンフーも残念ながら中途半端だが、暗闇で妖しく蠢く肉体の動きに、何となく隠微な興奮を煽られる。貴族の清楚なお姫様(エミリー・デュケンヌ)とミステリアスな高級娼婦(モニカ・ベルッチ)が複雑な人間関係をさらに複雑に縺れさせるあたり、脚本も兼ねた監督の趣味なのだろう、如何にも劇画的だ。 残念なのは、もっと超人的な活躍をするかと思ったネイティヴアメリカン(「クライング・フリーマン」では主役を務めていた)があっさりと退場し、代わってフロンサックが彼の魂が乗り移ったかのように、終盤になって突然暴れ出すこと。そんなに強いなら最初から実力出せよ、と画面に突っ込みたくなる。真面目にストーリーを追ってきた観客にとっては反則としか思えない。 ちなみに本作品には、後年若き日のハンニバル・レクターを演じることになるギャスパー・ウリエル(2021年1月スキーの事故で急逝)が端役で映画デビューしている。彼やヴァンサン・カッセル、ジャック・ペランを始めとする耽美的なキャスティング、凝りに凝った美術や衣装など、フランス映画のフランス映画らしいゴシック・ロマンだが、公開当時のオカルトホラーを匂わせる宣伝は間違いなく失敗だったかも。
#映画の部屋#ゴシック・ロマン#ギャスパー・ウリエル#クリストフ・ガンズ#サミュエル・ル・ビアン#モニカ・ベルッチ#ヴァンサン・カッセル#マーク・ダカスコス#エミリー・デュケンヌ#フレンチニューウェイブ#中世フランス#ジャック・ペラン
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Frances Ha: The Green Girl By Annie Baker
みなさん、こんばんは。
ここ数日くすぶり気味のAです。
日々の生活がくすぶり始めると、必ず観たくなる映画があります。
それはきっと、この映画のヒロインもくすぶっているから。
肘から血を流しながらATMを探し求めてマンハッタンの街を駆け抜ける姿は、控えめにいっても最高。(ようやく見つけたATMでも、時間外手数料を取られることを知るや否や、お金を引き出すか一瞬血迷う困窮っぷりはマジでリアル。)
ということで、記念すべき映画コラムの翻訳第一号は、アニー・ベイカーが映画「フランシス・ハ」について書いたコラム“Frances Ha: The Green Gir”でお送りします。
Frances Ha: The Green Girl By Annie Baker/Translated by A
フランシス・ハとは、ロマンスについての映画である。ロマンティックコメディとさえ呼べるかもし��ない。でもそれは、男女が恋に落ちるロマンスでもなければ、女と女が恋に落ちるロマンスでもない。この映画は主人公のフランシスとフランシス自身のロマンスを描いた映画である。
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様々な困難を乗り越え、自分自身のことを知り、フランシスは自分自身と恋に落ちるのだ。
監督、ノア・バームバックと主演を務めた女優グレタ・ガーウィグの共同脚本による映画「フランシス・ハ」(2013)はニューアメリカンシネマの中でもめずらしい作品である。何故なら、20世紀の映画芸術や映画神話にオマージュを捧げながら、それと同時に現代の若者の日常をとらえているからだ。
リアリティのある物語の中に映画史への目配せを散りばめたこの映画のスタイルそのものもまた、ロマンティックである。
フランシスと、フランシスのルームメイトであり親友のソフィーとのプラトニックなロマンスから映画は始まる。フランソワ・トリュフォーの「私のように美しい娘」で用いられるジョージ・デレリューによる「カミーユのテーマ」の音楽に乗せて、フランソワとソフィーは喧嘩ごっこをしたり、一服したり、地下鉄でうたた寝したり同じベッドで共に眠りに落ちたりする。中でも最もロマンティックなのは、一緒に映画を観たり、気に入った一節を声に出しながら本を読み合ったりすることだ。
“髪型は違うけど私たちは一心同体なのよ”とフランシスがみ���なにアピールするように、フランシスにとってソフィーとは、ありのままの自分で居られる存在なのだ。
だが一方で、ソフィーの方はというと、確かにフランシスを愛してはいるが、その関係に固執しているわけではないと我々は知ることとなる。フランシスとルームシェアしていたブルックリンのアパートをソフィーはあっさりと捨てて、もっとリッチなトライベッカにあるアパートに別の友人リサと引っ越してしまう。
この出来事を境に、フランシスの激動の日々が幕を開ける。フランシスとソフィーは前ほどは頻繁に会わないようになり、その結果フランシスの調子が狂い始める。こうしてフランシスとソフィーが思い描いたロマンティックな物語は終焉を迎える。ー眠る前に2人で語り合っていた「私たちの夢」の物語はもう2度と聞かれない。ここから先、フランシスは必死になって自分が何者なのか、これから自分はどうなっていくべきなのか、その答えを教えてくれるであろう人々、場所を探し求めるようになる。
私たちはフランシスが失敗する姿を何度も何度も目撃する、フランシスが追い求める“魔法”を彼女が見つけ出すまで。“魔法”とは、フランシスが実によく使う言葉だ。新しく知り合った男友達であり、のちにルームメイトとなるレヴとベンジーに出会った際には「あなたたちって魔法みたい」と言うし、行ったこともないパリについて「きっと魔法のような場所なんでしょうね」と想像する。(そしてその後、フランシスは自分自身を元気付けるいう虚しい目的のために実際にパリに行くことになる。)
いつ何時でも、“魔法”は新たな場所へとフランシスを誘(いざな)うが、新たな場所へと場所を移してもフランシスの孤独とクレジットカードの借金が増え続ける一方だ。ちっとも楽しそうではないパリ旅行のシーンでは、パリにまさに到着するところで流れていたフレンチニューウェイブの音楽が、突然消える。それも、まさに音楽が一番盛り上がるべきポイントで、プツンと消える。
散々なパリ旅行から帰国して、フランシスがニューヨークに到着し、パリに住む友人のアビーから遅すぎるボイスメールを受け取るシーンはこの映画の中でも一二を争う絶望的なシーンだ。
「いきなりパリに来るなんて思い切ったね!ジェラルドって覚えてる?ニコラスの兄弟でジャンピエールレオに似てる子。そのニコラスが離婚して今、一緒に住んでるから、夕食食べに来てよ。哲学者と画家のカップルも来るから!本当、タイミング良すぎ!!」
アビーが残した留守電をJFK空港から自宅に帰るまでのタクシーの車内で、フランシスは無表情なまま聴く。トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールの映画のような世界が霧の中に消えていくのを感じながら…。
ゴダールは「ビリーザキッド」や「雨に唄えば」など40、50年代のアメリカ映画から題材を拝借し、再解釈して映画を作った。ゴダールはフランスの若者たちを描いたが、実質的に���アメリカのポップカルチャーをブレンドさせたフランスの若者たちだった。
バームバックの映画の中にいる若者たちは、ニューヨークの街の中にいるが、白黒のスクリーンの中で背景にかかる音楽、彼らが着ている衣服はフレンチニューウェイブの中のそれである。
アダム・ドライバー演じるレブは、ジャンポールベルモンドを彷彿とさせる中折れ帽を被り、マイケル・ゼゲン演じるベンジーは耳に煙草を引っ掛け、フランシスの二大特技はニューヨークの街並みを優雅に駆け巡ることとオムレツを作ることときている。
だが、レブは自分が白黒映画の中にいることを知っているのだろうか? フランシスがセーヌ川の川べりを川に落ちぬよう恐る恐る歩くとき、彼女は「突然炎のごとく」のジャンヌモローを意識しているのだろうか? それとも20代そこそこのアーティストがパリに来れば、意識するしないに関わらず自分の人生を好きな映画に重ねてしまうのだろうか?
そして、大人になると言うことは、「こんな風になりたい」と憧れた映画の世界を忘れ去ることなのだろうか。
映画の中でフランシスはパリの他にも旅に出る。「私たちの物語」と夢見たパリとは対照的な彼女の故郷である。予期せぬことに、この故郷、サクラメントこそ、魔法にあふれた場所であった。
クリスマスシーズンのカリフォルニア郊外の美しいショットのモンタージュを映しながら、バックでは「トリュフォーの思春期」からモーレスジョベールの“Divertimento de la sonate a due”がなっている。サクラメントという場所でついに、優雅さと未来への希望、暖かなコミュニティの存在を知ることとなる。
誠実さ、受け入れること…精神的成長、知的好奇心…フランシスの両親が出席する教会の集まりで、人々が唱える。ここで唱えられているコンセプトこそがのちにフランシスを救うこととなる。
サクラメントは、フランシスの心を癒す場所だ。(歯を磨き、自転車に乗り、犬の散歩に出かける)大切な家族とのふれあい…。サクラメントのパートでは、様々なシーンが出てくる。このパートで最も長い会話シーンといえば、フランシスと母親とのものだ。年季の入ったクリスマスのオーナメントを見ながら、「見て見て緑色のバレリーナよ。あなたはグリーンガールだったわね」と母親が言うと、「そうだった!私たちは緑組だったのよ」とフランシスが言う。
楽天的なフランシスの姿は、エリックロメールの映画、「緑の光線」と「冬物語」に出てくる2人のヒロインを想起させる。
「緑の光線」は長くてひどい一人ぼっちの夏��みを過ごした後、最終的には主人公が夢を成就させる物語。「冬物語」は恋の妄想に取り憑かれた女が現実世界で理想の恋人に出会う物語だ。どちらのロメール映画のヒロインも、自己愛の迷宮に迷い込み、ダークサイドに片足を突っ込んだ頃にようやく自分の探していたものと出会う。
彼女たちには、それを手に入れることは叶わないのではないかと見ている我々が諦めかけていたまさしくそのものをである。
これら2本の映画は、他人のことを見くびってはいけないことを教えてくれる。誰の夢もたわごとと切り捨ててはいけないのだ。自分探しの旅は長く、奇妙で不思議なものだ。フランシスとソフィーの交わる視線や、どうってことのないオフィスワークがその人の成長をこの上なくシンボリックに表現しうると言うことを私たちは知ることとなる。
フランシスはダンサーになると言う夢を諦めるがカリオグラファーになると言う新たな夢を見つける。
フランシスは親友ソフィーを彼女のフィアンセ、パッチに奪われてしまったのだろうか? しかし、フランシスとソフィーはフランシスがまさに求めていたロマンティックな視線の交差をソフィーとすることになる。フランシスは混迷した状態にあったが、狂ってはいなかった。
彼女の夢は叶うのだ。
映画では、楽天的な主人公の願いが叶うか、主人公が当然の報いを受けるかのどちらかである。この映画は、主人公に彼女が予想しないちょっとしたギフトを贈る。その贈り物に彼女が値するかどうかなんて我々には関係ない。
「フランシス・ハ」の根底には、フランス映画との戯れがあるが、トリュフォー、ロメール、ゴダール、レオスカラックスといった映画監督の作品を網羅していなくともフランシス・ハの豊かさは理解的できるし楽しめる。
なぜならバームバックがリスペクトするこれらの監督への愛はパクリでもなければ自己満足でもない形で作品の中に取り入れられているからだ。
フランシスがちょうど精神的充足感を得るために他人ではなく自分を省みるようになったように、フランシス・ハは、フランシス・ハにしかできない形で存在している。他の何者かの映画になろとせず、独自のものになろうとする欲望がある。
ガーウィグの演技もまた、リアルな光を放っている。ガーウィグはフランシスとは「こういう人間である」という具体的なイメージを押し付けてくる訳ではないし、映画の中で自分にだけ注目してと訴えかけるようなことはしない。ガーウィグは、ただ、カメラの前に存在する。「フランシス・ハ」の魅力の一つは、俳優たちが決して気張らない名演にある。
2人はお互いにまだシングルであることを認め合う。少しの間があり、(その間は、優雅にそして破壊的に過ぎ去り)、映画はフランシスとソフィーのあの視線が交わり合うシーンになり、フランシスの新しいアパートのシーンに移る。その部屋はルームメイトなしでフランシスが住む場所だ。フランシスとベンジーが恋人同士になるかどうかなんて分らない。「フランシス・ハ」のストーリーとは無関係な���分だからだ。
フランシスがひとりで生きていく力、アーティストとしての少しばかりの精神的な充実がこの映画が用意してくれたハッピーエンドなのだ。そしてそれは実に満足できるエンディングだ。
そしてそこには、この映画の中で最も重要なパーツが含まれる。暗闇の中でぎらっと光るソフィーの眼鏡ーそれはフランシスからソフィーへと向けらるロマンティックな眼差しを反映している。いつも早食いしがちなフランシスの性分、自分の家族ではない写真を飾っているレブの家族写真、大学の寮の廊下で泣いている大学生の姿、パリでフランシスが寝ている外で聞こえる子供達の声、サクラメントの教会で歌っている人々の表情、フランシスと父親が犬の散歩中に繰り広げる会話、フランシスを見送る時に空港まで犬を連れていく両親、フランシスがどのヴァージニアウルフの小説に言及しているのかさっぱり分らないという事実、弁護士のアンディーが幸せなのか不幸せなのか私たちにはよくわかならいという事実。パッチという人物が映画が終わる頃にはリアルな人間として見えてくるという事実。
「フランシス・ハ」の中で描かれている人々の姿は生き生きと立体的に人物像が立ち上ってくる。かつてそれは、シネマトグラフにのみ可能なことだと思っていたが、最もアナログで温かみを感じるこの映画は、デジタルカメラで撮影されたものなのだ。フランシス・ハは、とても古いと同時にとても新しい映画である。
それはキャラクターにも言えることだ。
フランシスは2013年の現代に生きているが、フランシスは1959年、1964年、1986年の映画の光の中にいる。さらにいうと、彼女は人生とは映画ではないのだと教えてくれる映画の中にいる。
彼女が思い描く夢や彼女の成長は、過去100年の映画の中に散りばめられてきた題材ではあるが、フランシスは正真正銘のオリジナルだ。「フランシス・ハ」のラストは、ポストに自分のネームプレートを貼り付けるシーンで締めくくられる。フランシスはフルネームのネームプレートを貼ろうとするが、名前の3分の2くらいしかプレートには収まらない。
彼女は大人への階段をもう少しで登り切るというとこまでたどり着いた。だけどまだ登りきれてはいない。まだ若葉の状態で、でも前ほど青々としているわけでもなく、もっと自分自身に肉薄していて、でも映画の中にまだいる。
我々はそんなところに彼女を置いていく。この未完成な幸福感は仕事での成功やキスよりもロマンティックだ。それはまさに“魔法”と呼ぶべきものなのだ。
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