#パイナップル割り箸刺し
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うん、うん、わかった、と壁に向かって繰り返す。あーもうわかったうるさいいつも同じ細かいことを何度も何度も。ちゃんとやってるから、あーもうわかったてば。ママ、いつ帰って来る? もうすぐ帰る、で通話が切れて、受話器を置きながらため息が漏れた。久しぶりに電話がつながったと思ったらこれだ。
「ママ、もうすぐ帰って来るって。」
子供部屋に声をかけると「はーい! お片づけの時間なのです!」と子供向けアニメの決めゼリフが微妙に甲高いうめき声に混ざって聞こえてきた。何事かと見に行けば床に転がったピンクうさぎのぬいぐるみがおもちゃ箱の下敷きになってバタバタもがいていた。何だうさぎか。
箱をちょっとずらしてやったが存在に気づかずチカの足が踏んづけて、ぎゃっ、と悲鳴が上がった。散らかっていたぬいぐるみやままごとセットを拾い上げてはぽんぽん玩具箱に放り込むのを眺めながら自分は勉強机に戻って数学の課題にとりかかる。あともうちょっとで解けそうなんだけど、うーん……。どこ間違えたんだろ。
「ねえちゃん読んでー。」
さっきまで数字が並んでいた場所をぬいぐるみ的なクマの絵が占領していた。チカの最近のお気に入り、「さんびきのくま」。
「自分で読みなよ。私来週テストなんだってば。そんなの読んでるヒマ無いって。」
「うー……。わかった。」
口を尖らせて部屋の隅に座り込む。自分で読むと言ったってまだ平仮名すら読めないはずなんだけどページをめくりながら一字一句間違いなく文を読み上げ始めた。全部おぼえてるのか……。内容覚えてるのに読んで何が楽しいんだ。っていうかその記憶力私に分けろ。あと声出して読まないでよ気が散るから。
書き写しミスを直してやっと最後の問題を解き終わったところでタイミングよくインターホンが鳴った。ちょっと待ってて見て来るから、と玄関に出るとガチャガチャと金属音が続いて扉が開いた。ママだ。
「ただいまあ。買い物してたらちょっと遅くなっちゃった。お腹すいたでしょ。今日はおいしいお土産があるんだよー♪」
スーパーのレジ袋二つを任されて中身を覗き見る。一つはいつも通りにんじんとかたまねぎとかその他野菜類だったけどもう一つは妙に軽くて白い四角い箱。
「ママおかえりー! おみやげ? なに、なに?」
周りを飛び回るチカを避けつつリビングのテーブルで箱をあけた。現れたのはイチゴのホールケーキ。三人用のようで一般的なホールケーキより若干小振りだがめったに我が家の食卓に載ることの無い高級品であることは間違いない。中身を確認してぃやったあ、とチカが両手をあげて万歳。
「ケーキだ! ケーキ、ケーキ!」
「飛び跳ねないの、下の人に迷惑でしょ。」
ママは舞いあがるチカに苦笑しながら他の食材を冷蔵庫に分けて入れて、さあ夕ご飯作るからね、と中華鍋を取り出した。中華! どんな高級料理だろう。
今日の夕飯は何か高級料理というわけでもなく無難に酢豚で、でもいつもは入っていないパイナップルが混入していた。豚によく合っておいしい。
「……何かいいことあったの?」
「うん! 和志が明日デートしてくれるって!」
「……よかったじゃん。」
最近喧嘩して目をあわせてくれないとか次はいつデートしてくれるんだろうとか言ってたけどいつのまにか仲直りしたらしい。
「ママ、その人と結婚するの?」
「そのつもり。明日しっかり話し合うつもり。」
新しくパパになるらしいその人は普段わりとぼけっとしてて、不器用で、でも優しくて気がまわるいい人なんだそうだ。半分どころか多分にママののろけが入っているので正確な情報じゃないだろうけどまあ悪い人ではなさそうだしうまくやっていけるんじゃないかな、と頭の隅で軽く考えて箸を置いた。
「結婚してほしくない?」
「ううん、応援する。そりゃパパのポジションに他の人が入って来るの抵抗ないってわけじゃないけど、パパポジションの人が来ればお金のこととか、色々楽になるんでしょ。何よりママの支えになる人がいつも側にいてママが幸せになってくれれば私もうれしいし。」
うえ。何か綺麗事言い過ぎ��口だけ私の顔からがっぽりはずれてどっか遠くでぺちゃくちゃしゃべってる感覚。嘘は言ってないけど本音を省略しまくったらこんなクサいセリフになるのか。うええええ……。
「そっか、ありがとう。」
はにかんで照れたように顔をふせながらケーキを切り分けて、いつも苦労かけてごめんね、もうちょっと我慢してね、と笑った。そのまま流れで始まったのろけ話を流れで右から左に聞き流してフォークを手に取る。自分のケーキを細断して大事に大事に味わうチカの隣、空っぽの皿の前でピンクうさぎは不満そうにそっぽを向いていた。
「桜庭(さくらば)、最近親どう」
四限の数学の後、課題ノートを半分運びながら多田がきいてきた。
「どうって、なに。別にふつうだよ。何いきなり。」
「いや、俺の知り合い桜庭ん家近くらしいんだけどさ、夜遅くに結構その……さわいでる? っていうか」
「わ、ごめん聞こえてる? 近所迷惑になってるって言っとく。ありがと、教えてくれて。」
他人ん家の事情に探り入れてくんなうっとーしー、このまま嫌な話に移行したらノート全部持たすぞとか思いつつ職員室がすぐ近くであることに感謝する。
何が不満なのか多田は眉間にしわを寄せて職員室のを示すプレートを睨み上げて数秒黙ってから中に入って行った。先生はまだ戻っていなかったのでデスクに積んでおく。他の先生に言づてを頼んで職員室を出ると先に出た多田がまだ待っていた。そんな気をつかわなくてもいいのに。何やら周囲を気にしているので時折目を落とすのにつられて手元をみるとCMでよく見るようなタッチパネル式情報端末を握っていた。校則違反じゃんか。それも職員室前で。没収くらっても知らないぞ。
「あ……のさ、メアド教えてくれん?」
「何唐突に。私携帯持ってないんだけど。」
「マジで!? なんで? 親厳しんか?」
「前住んでた所立地のせいで電波悪くて。そのまままだ買ってもらってない。」
そっかー、と目に見えて落胆してスマホをポケットに滑り込ませる。そのポケットをさぐってメモ帳を取り出して何か書き付け始めた。……早く携帯買ってもらわないとマズいな。
どうやらこの学校では携帯は日常生活必須アイテムのようで転校初日にもクラスの女子からライン交換しようとかツイッターのアカウントはとかという話になって、カナが携帯を持っていないことを知ると人だかりは一気にはけてしまった。今更手に入れた所で手遅れかもしれない。
「あの、これ」
メモ用紙を一枚破って渡された。11ケタのアラビア数字。
「��電(いえでん)はあるんだろ。何かあったらいつでも連絡して」
「ありがと。……今はいいや。」
とりあえず適当にポケットにしまっておいて、昼食を買いに多田と別れた。
「ねー、“パパ”ってどんな感じ?」
「どんなって。……そっか、チカはまだ小さかったもんね。」
ウサギとクマとブタという、どう考えても弱肉強食が成立しそうな組み合わせで家族ごっこをするチカの頭をなんとなくなでる。ママ役をわりあてられたはずのピンクウサギが妙にいばりくさってクマに家事を押し付けまくっていた。クマとブタはされるがままゆっさゆっさとゆられている。
「ええと、いつも仕事で遅くて、でも土日はたいてい家に居て遊んでくれて……。」
どんなって言われると意外と単語が出て来ない。優しかったり厳しかったりちょっとお茶目だったり、何にせよカナにとってもパパがいたのはもう五年も前の話で、早くも記憶が曖昧になっている気がする。パパはそこまでスーパー善い人だったか。たまに理不尽に不機嫌になって怒鳴り散らすようなことはなかっただろうか。そっちの方が人間らしくて、自分の近くに居た人という感じがする。
鍋の中でとろけていたカレールゥがとろぷつと湯気を立て始めた。チカにご飯をよそわせてその上に解凍した冷凍カレーをぶっかける。今日はママがいないからルゥが二割増だ。リビングのテーブルに持って行くとすでにスプーンも並べられていた。行儀よくテーブル上に座らされたウサギの前にもプラスチック製の先割れスプーンが転がっていた。そんな期待の目で見られてもウサギの分なんか用意してないし。
席についてそのまま食事を始めると「ねえちゃんいただきますは?」と手を合わせた妹に睨まれた。うるさいなあ、とスプーンを口に加えたままふがふがと手を合わせると「口にもの入れたまましゃべらない!」とすかさず声が飛んだ。あーもう、どこのオカンだあんたは。ウサギも馬鹿笑いすんな……。年下オカンに叱られ続けるのも癪なので素直に従って食事を続行する。
「あー、明日も雨だよー……。」
画面いっぱいに並んだ傘マークにチカが肩を落とした。
「何かあったっけ明日。」
「ゆうちゃん家、明日旅行に行くんだって。」
ゆうちゃんって誰だ。知り合いと親戚の名前を脳内検索していつもチカを預けているおばさんの名前がヒットした。いい歳して「ゆうちゃん」て。
「明日土曜だからチカは家でしょ?」
「おみあげ買ってきてくれるって言ってたよ。」
「おみやげね。……チカ、今日もデザートあるよ。」
「え、本当!」
わー、小学生って単純だな。いや、もうすぐ小学生であって正確には小学生ではないのだけれど。昨夜うきうき気分のママののろけ話を一通り聞かされた後に学校帰りにデザート買って帰りなさいと500円玉を渡されたのだ。ケーキは昨日食べたのでプリン二つ、240円なり。残りはどうしようかなー。
食後のプリンを平らげて、迷いつつも電話を手にとった。邪魔しちゃうかな、邪魔しちゃったら悪いなと思いながら押し慣れた番号にかける。ちょっと遅れてぷるる、と鳴り始める。
15秒。コール音を5回数えて、電話は切れた。
まだ今からつながるような気分でしばらく固まって、受話器をおろした。期待していたわけじゃないけれど気がついたらため息がもれている。いやホント、期待していたわけじゃないけれど。
「またマンマ?」
「ママ、ね。」
「あの人ママじゃないよ、だってチカのこと知夏って呼ぶもん。ママはチカのこと、ちぃちゃんって呼ぶんだよ。」
畳部屋で布団を敷いていたはずのチカが右手に持っているのは積み木だった。遊んでないで皿洗い手伝ってよ。そういう自分だって皿洗いほっぽって電話かけてたけど。チカはしばらくその角棒を手の中でもてあそんでから耳に当てて「もしもしママー?」とかやりはじめた。ママにかけていると言う設定なのに相手はもしもしこちらウチュウジンですと返事して、「今日ねーチカねーつみきしてあそんだのー。」と話し出す。見ているとピンクうさぎは困ったようにえーとママを誘拐したから身代金をとかぼそぼそさらりと学前児童相手にとんでもないことを口走りやがったのでじろりとにらむと、ウサギはおどけるように軽く肩をすくめてみせた。
ジリリリ、と耳障りなアラームが鳴った。
「お風呂お湯入ったって。チカ先入っていいよ。」
「えー。一緒に入るー。」
しょうがないなとタンスからパジャマを引っ張り出す。自分がいつから一人で風呂に入ってたのか覚えが無いけどそろそろ一人で入ってもいいんじゃないだろうか。
「ねー、今日ママいつ帰って来る?」
「今日はデートだから遅いよ多分。……チカが寝た後じゃない?」
ピン ポーン
ちょうどインターホンが鳴って二人で顔を見合わせた。ママが帰って来るには早すぎるから、お客さんかも。でも夜中に、誰だろ? チカが目をくりくりさせて「パパだったりして。」とにんまりしてみせる。
しばらく間があってからガチャガチャと金属音を立てて鍵がくるりと回る。あーなんだママか。思ったより早かっ
一瞬で視界がぶっとんで頭の中に思考が戻ってきた時にはリビングの床に転がっていた。ぎゃあぎゃあとチカの泣き声が響いている。体を起こすと手に革ひもが触れた。ママの黒バックだ。左目のあたりが食い込むようにズキズキと熱を持っていて視界が悪い。黒バックから水筒が顔をのぞかせていた。アレか。
「ねーちゃ、ねえちゃんっ。」
アレに追われてチカが畳部屋から転がり込んできた。その体をストッキングの脚が蹴り飛ばして流しに衝突しガシャンと音が立つ。
「なんでてめえら片付け済んで無いんだ! 今から先に風呂だってか? やること、すませろって、いつもいってるよ、なっ?」
ガスガスと蹴りつけられてチカがうめき声をあげる。その口がねーちゃんデンワ、と動いた。
そうだ電話。早く電話かけないと。ママに。早く帰って来てって。
固定電話に飛びついて聞き慣れたプッシュ音で目的の番号を呼び出す。途中から、二重に聞こえ始めてチカを蹴る音がやみ、アレが部屋を出て行った。
ぷつり。電話がつながる音。
『はい桜庭です』
落ちついたママの声。玄関の方からも聞こえるのでチカが不思議そうに覗き込もうとして、あわてて引き止める。
「ま…ママ?」
電話の向こうのこの人もアレに成り代わられているんじゃないかと急に不安になって声が小さくなる。しかし返って来たのはいつもの穏やかな声。
『どうしたの佳那。ちゃんと夕飯は食べた?』
「うん。……冷凍カレー。デザートはプリンだったよ。」
ちがうちがう、そんな日常的な穏やかな話をしたいんじゃなくて、でもこうやって時間を稼いでたらママが戻って来るかもしれないし。いつもそうだし。今からお風呂に入る所だったとか、宿題で一個わからない所があるから後で教えてほしいとか、どれから話せばママが戻って来るだろう。
『佳那。いろいろ話したいみたいだけどちょっと電池が……』
「待ってママ。」
電池切れの警報が聞こえ始め電話を切られそうになってあわてて受話器を耳に押し付ける。
「ママ、いつ帰って来る?」
ぷつ、ツー、ツー、ツー……
通話が切れて、呆然と電話を見つめる。誰かがこっちに戻って来る。チカがカナの脚もとまで這ってきていてすがりついた。反射的に抱きしめて玄関と反対側へひきずって移動させ、覚悟をきめてリビング入り口に立った人影を振り向く。真後ろ、目と鼻の先にいた。
「まーたいたずら電話か? ああ?」
髪をつかんで揺さぶられてずきんと左目が痛み、電話を取り落とした。
「受話器を投げるな! 物は大事に使えって言ってんだろ!」
耳元で大音量がひびいてクラクラした所で腹に衝撃。うずくまったら今度は顔を何かにぶつけた。ママによく似た声が耳から大音量で突入してわんわんと反響している。何言ってるかわかんない、わかんない。どうすればいいんだよ、どうすれば、どうすれば静かになるんだよ。
至近距離で怒鳴るアレはなぜか怒った顔というよりも泣いていて、びっくりしてよく確認しようとしたら殴られてそれどころではなかった。
「お前らが、いるからっ……お前らがいるからっ……」
腹にぐりぐりと拳を突き込まれて息がつまる。うめいたら平手がとんできて頬がひりひりした。鼻がくっつきそうなほど顔が近づいて来る。
「いいか? これは私が悪いんじゃないの。お前らがいるから悪いのよ。和志ね、自分の子とお前らと平等に見れる気がしないからお前らをどっかに預けろっていうのよ」
「預けたら、いいじゃん……。」
平手。さらに首に手が伸びてきた。なん��か頭をずらして避けると腹に拳がさらに食い込んだ。
「お前らを育てるために和志に頼りたいのに、預けられるわけないじゃない」
「預けたら他の子、育てられるんでしょ……。」
また首。今度は避けられずに徐々に息がつまる。
「ねえちゃんこっち!」
はっと顔をあげると椅子を移動して電話前から玄関へ直通路ができていた。玄関をチカが開け放ち、外廊下の灯りが遠いのに妙に目にまぶしくうつった。チカの手ににぎられたウサギもにげろ!と叫んでいる。
体をひねって抜け出し、一直線に玄関へ。風呂場前の水浸しの床を飛び越え脱ぎ捨てられた上着を踏んづけ裸足のままで。思い切りドアを閉めて階段を駆け下りる。チカを追い抜き後ろを振り返る。閉まったドアの向こうから「お湯出しっ放しじゃねえか何やってやがんだ!」と怒声がずいぶんとはっきり聞こえた。どうやらすぐには追って来ない。今のうちに距離をかせがないと。
「チカ、早く。」
「へ、わ。」
同じように振り向きながら降りていたチカが続きの段を踏み外した。くるんと体が回転し、ゴン、ドンと転がり落ちる。
「チカ!」
地面に激突する前に何とかキャッチし抱きかかえてとにかく方向も考えずに走り出した。
逃げなきゃ。早く。どこかへ。どこへ? 遠いところ。なるべく、遠い所。
走っていたら途中バス停を見かけた。それは道路を挟んだ向こう岸だったのでそのまま走り続けていたらその先のバス停にちょうどバスが到着した所だった。なんとか発車前に追いついて乗り込む。お金あったっけ。ある、デザート買った残り。ポケットの中に入ってる。
ぐっしょり濡れ鼠の姿を見て同乗する大人たちが眉をひそめる。おばあさんが何か言いかけたのでにらみつけて黙らせた。何も聞かないで。放っといて。説明するのも、なんかもう面倒くさい。
「ねえちゃん、どこ行くの?」
チカがおろして、と体をゆらしてきいてきた。よかった、無事みたいだ。駅、とりあえずそう答える。駅まで行けば色んな所に行けるはず。そこから、えっと、おばあちゃん家に行こう。最後に行ったのはずいぶん前だし降りる駅もわからないけど、まあどうせお金十分になくて誰かの車にでも乗せてもらうことになるだろうからその人が地名を知ってれば大丈夫。だからとりあえず駅行って……。
駄目だ。ポケットの中でちゃりんと小銭が音をたてた。この一年バスに乗ってなかったから忘れていたが自分は今中学生。もう大人料金で、だから駅までも行けない。運賃板に目を走らせると一区間分にしかならなかった。
ボタンを押して停まった停留所ですいません降りますと運賃箱に料金を放り込んでさささと降りた。運転士が何か言いたげな顔をしたけどゆっくり話してる場合じゃない��、無視。アスファルトの上の小石が足の裏を刺した。
「ねえちゃん、ここ駅じゃないよ。」
「ごめんお金足りないから駅まで行けない。……とりあえず、どっか見つからない所で休もう。」
雨粒が視界をさえぎってうっとうしい。左目の傷は切れているのか雨がしみてズキズキにヒリヒリが加わり始めた。チカも頬に傷を作って雨で薄まった血が頬をつたっていた。チカはその傷を気にするよりも眠くてたまらないようで歩きながらうつらうつらしている。そういえばいつもならもう寝ている時間だ。
おぶさって、と背中を向けてチカをおんぶして、目についた公園に入る。運動公園とかいう無駄に広そうな所。フェンスを回り道して中に入るとずぶりと泥で足が滑って転びそうになり、あわててチカを背負い直して体勢を整えた。
真っ暗な遊歩道を歩くうちにどんどん雨で体が濡れて来た。髪が頬にはりついて、セーターもシャツも通り抜けて水がしみ込んできて寒い。どこか、屋根のある所。後、明るい所。ゆるやかなカーブをまがりベンチの横を通り過ぎる。全速力で走ってきたせいか、足が重くてだるかった。さっきのベンチに座ってしまえば良かった。今から戻って座ろうか。足が止まる。
ペチャ、とチカを支える腕に何かが触れた。この感じ、多分ピンクうさぎだ。もうちょっと頑張れ、な感じでベチャ、ベチャ、と優しくたたく。運んでんのは私であってウサギは乗ってるだけじゃないかとちょっとイラッとしつつその苛立ちを利用して足を前にだす。
どうしてこうなっちゃったんだろう。皿洗いを後回しにしたから? 違う。お風呂に入るのを優先したから? 多分違う。だってアレはその時もう家にいた。パパが死んだから? 違う。アレが家に来るようになったのは最近だ。じゃあ、なんで?
自分達が、いたから? 家を飛び出す前にアレが口走った言葉を反芻する。数日前に「ママは二人がだーいすき。だから生活は大変だけど、一緒に生きて行こうね」と笑っていたのは、ママだったはずで、だからアレはママじゃない。アレは、ママじゃない。
ママ、戻って来るかな。戻ってきたら私たちがいないことに気がついて探してくれるだろうか。それとももう、ママは。
ぼったん。粘った液体がタイヤから垂れた。つり下げられた白バンに絡み付いた藻は緑を通り越してドス黒く、ぼったん、ぼったんとドブ水を垂らしている。
ぺろーん、と軽快なテロップ音が鳴り、視界の上下に文字が現れる。どこかでアナウンサーが地域のイベント紹介をする時と同じく興味無さげな他人事口調で淡々と何かを言っている。シナイのノウドウでジコがアリマシタ。ウンテンしていたダンセイのシボウがカクニンサレマシタ。ケイサツは……サンとミてミモトのカクニンを……。
……はや��かわれ
民放ならCMでもいい。早く次のニュースにかわって。次のVTRにうつって。
やがて音声が次のニュースに切り替わり、アナウンサーの声が多少和やかになっても画面は切り替わらないままで、
ぼったん。ぼったん。
したたる水音がだんだんと近くなって眼前にせまり、ぴちゃっと一滴、冷たくはねた。
ぴちゃっ、と頬に何か触れて、目が覚めた。また一滴落ちてきて見上げると天井から水が降ってきていた。雨漏りしているみたいだ。外の雨はますます激しさを増し、ボックスの灯りに照らされた路面でびちびちと白く跳ねていた。アナログチャネルの雑音のような雨音がガラス一枚隔てた向こうからくぐもって聞こえる。
チカはカナに抱きついたまますやすやと寝息を立てていた。階段から落ちたときについたのだろう傷はもうふさがっていて、かさぶたの近くにあざが浮いていた。右手に握ったままのウサギが首をしめられる形になっていて、へるぷみーとじたばたしていた。苦しいわけないだろ……。
目の前に設置された緑の電話機をぼんやり眺める。今じゃ街では絶滅危惧種なこれが公園の敷地内に設置されていたのはラッキーだった。でもいつまでもここに居るわけにもいかない。狭いおかげでお互いの体温があんまり逃げなくて外よりは暖かいが背中にあたるガラスからその冷たさがだんだんしみこんできている。
これからどうすればいいんだろう。とりあえずばあちゃんの所へって出て来たけど既にたどり着ける気がしない。手元に残った2枚の10円玉ではこれ以上もうどこにも行けない。深夜という時間帯と、場所が場所なだけあって近くを誰かが通る気配もなく、車に乗せてってもらうという選択肢も無い。
ぽん。ウサギがチカのひたいに手をあてた。つられてカナも手をのばしてそのいつもより高い温度に気がつく。雨で冷えたのかもしれない。この状態じゃ外に出て人を探すわけにもいかない。ウサギがちょっとやすめと袖をひっぱる。一緒にいてやるから、やすめって。
「あんたじゃチカの熱さげれないじゃん。」
そうだ、ぼくはもう二人をまもれない。でもいつでも一緒にいるから。チカがカナにひっついているように、カナもぼくにひっついていいんだ。だいたいそんなことを喋りながら小さな手で鼻をなでなでして、カナがついくしゃみをするとガラスにぶつかって床に落ちた。
あわてて拾い上げたけど何か違う気がした。耳をつまんだのに文句を言わない。ちょっと、ねえ起きてる? とボタンの目のあたりをデコピンしてみたり、ゆさゆさ揺さぶってみても反応がない。当たり前のようにただのぬいぐるみがカナの指先でぷらぷら揺れているだけだった。
どうしよう。誰か、誰か。
ウサギがしゃべらなくなっちゃった。誰に言えばなおしてくれるんだろうと考えてからまず誰に言ってもま���もに対応してくれる人が居ないことに気がついた。とにかく今は、誰かに、アレ以外の人に助けてもらわなくちゃ。
目の前の電話機のコイン投入口に一枚放り込んで押し慣れた番号を呼び出す。息を潜めて待っているとだんだん頭がふらふらしてきた。倒れまいと電話機にしがみつき、コール音を数える。
15秒。コール音を5回数えて、電話は切れた。
どういう仕様なのか投入したコインは回収されてしまって戻って来ず、手元には10円玉が一枚だけ残った。後一回。ママの携帯にかけて、出なかったらこれで終わりだ。もう一回かけてつながる保証は無い。でも他にかけるところなんて……。
ふと思い出してポケットをさぐる。数学の課題を出しに行った帰りにもらったメモがくしゃくしゃに突っ込まれていた。これで、誰も出なかったらもう誰も迎えに来ない。この辺りを誰かが通るまでは気づいてももらえない。反応しないウサギのぬいぐるみをぎゅうっとにぎりしめて、書いてある番号をひとつひとつ、押して行く。
プルルルルルル、プルルルルルルルル、プルルルルルルルルル、……。
一回、二回、三回……。ああ、駄目かも。夜遅いもんなあ、寝てるよね。五回目。
ガチャっ。
「はい。多田です」
出た。びっくりしてしばらく沈黙してあわてて桜庭です、えとあの、12ルームの、と付け加える。同時に今硬貨を入��たばかりなのに電光表示の0が点滅を始めた。やばい、こんな深夜にとか言ってるけどそれどころじゃ無い。何言えば、とりあえず助けてって、あと場所伝えなきゃ。
「あのっ。」
ぷつっ。ツー、ツー、ツー。
電話はあっさり途切れて、ついに足の力が抜け、崩れ落ちるように座り込んだ。同時に手から受話器がすっぽぬけ、顔面すれすれを通過してゆらゆらとぶら下がる。
雨音がどこか遠くで聞こえている。電灯がジジリと音をたて、時折風がびょうとふく。
チカをウサギと一緒に抱きかかえて、ぷらんと垂れた受話器に手をのばした。耳にあてても何も聞こえない。
「もしもしママ?」
聞こえない。
「ねえママ、迎えにきて。」
応えは無い。わかってる。無音の電話機の向こうが、ママにつながっていたらと想像する。大丈夫、私にはパパがいつもついてるから、待っていられる。だから迎えに来て。
待ってるから。
「ねえママ。今日はいつ帰って来る?」
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