月兎 06
暗い自宅のリビングで、左��刻はグラスを傾けていた。トワイスアップにしたウィスキーの芳醇な香りを喉の奥で感じながら、タバコの煙を深く吸い込む。
部屋に色彩はない。壁面はコンクリートのグレー。家具は黒。リビングと一続きになったベッドルームの寝具だけが、かろうじてダークブルー。つまらない部屋だと思う。間接照明が深く陰影を落とす室内は、陰気だ。自分にはお似合いだが。
もし、銃兎を迎えたら。この、色のない部屋に、銃兎は似つかわしくないような気がしはじめていた。初めて見たときは、この部屋に銃兎が佇んでいるところを想像して不覚にも胸が熱くなったのに。今では、もっと、良い部屋に住まわせてやりたいと思う。安物のソファにも、パイプベッドにも、銃兎はふさわしくない。そんな気がした。左馬刻には金がないわけではない。ただ、自分の生活にそれほどの執着がないだけだ。自分が死んだら、この部屋を片付けるのは、舎弟か、妹か。なんにせよ、物は少ない方が都合がいいし、家具だって捨てやすい物が良い。そう思っていた。だけど、銃兎はこの、味気のない部屋で、果たして幸せな気持ちになるのだろうか。まさに今、左馬刻がそんな気持ちにはなっていないというのに。
銃兎は、見た目に反して騒がしい。まるで童話の雪の女王みたいな冷たい相貌をしているのに、一旦口を開けば、小言は言うし、我儘は言うし、泣くし、笑うし、その喧しさに思わず深くため息をつきたくなってしまう。けれど、銃兎は黙っているより喋っていた方がよっぽど良い。銃兎に、色々としてやりたくなる。色んな銃兎の顔が見たい。幸せな顔を、たくさんさせたい。出会ってから泣かせてばかりいるから、少しばかり償いもしたかった。
理鶯から貰った『天国の涙』を光に透かしてみる。理鶯は一番大きな粒を、サテンのクッションがセットされた化粧箱に入れて左馬刻に渡してきた。大きな、と言っても1カラットくらいだろうか。それでも、理鶯によれば、どんなに優れたクオリティのダイヤモンドよりも、価値がある物なのだと言う。左馬刻にしてみれば、自分の血の色を透かしたこれは、あの時の記憶を呼び起こす忌々しい塊にしか思えないのだけれど。
銃兎のマゼンタと緑の瞳から、ボロボロとこぼれ落ちた涙。クリスタルを砕いたみたいな小さく強い光の欠片たちがキラキラと反射して、綺麗だと思った。けれど、それはすぐに左馬刻の血の色を映して真紅に染まっていってしまう。ああ、こんなに綺麗なもんを、俺なんかの血で汚してしまうなんて。あの時の記憶が、生々しく蘇る。
左馬刻は、革ジャンを羽織り部屋を出た。まだこの時間ならば、最近夜の早くなったあの老人も起きているだろう。財布を確認して、カンカンと金属の階段を降りていった。
*
「なんだ左馬刻、こんな時間に」
左馬刻の読み通り、火貂退紅はまだ起きていた。とはいえ、その姿はすでに寝巻きの状態で、左馬刻の来訪は少し迷惑そうではあった。
「まぁ、ちょっとな。飲むか?親父。今日は歩きだから付き合うぜ」
その言葉に、火貂退紅は訝しげな顔をする。けれども、お気に入りのかわいい子分である左馬刻に誘われて悪い気はしなかったのだろう。すぐに家の者を呼ぶと、酒宴の用意を言いつけた。
ナッツやチョコレートなどのつまみと共に、ウィスキーが運ばれてくる。純和風の邸宅に住み、普段は和服しか着用しないけれども、意外にも火貂退紅は洋酒を好む。左馬刻の家にある酒も多くは火貂退紅から持たされたものだ。
「なに?ホットで飲むのかよ」
酒と一緒に盆に載せられたポットを見て、左馬刻が尋ねる。
「最近酒に弱くなってな。薄めに作れや」
その言葉に、左馬刻は無言で薄めのホットウィスキーをつくる。火貂退紅に差し出すと、火貂退紅はズっと小さく啜った。
「ああ、ちょうどいいな」
その言葉に満足しながら、左馬刻は自分のハーフロックを作った。さっき少し飲んできたから、冷たい酒が飲みたい。
「それで、今回はなんだ?」
やれやれ、親父にはかなわないと左馬刻は思う。何か言いたいことがあって来たのだと、火貂退紅はとっくに承知していた。
「引っ越そうと思ってよ」
「へぇ」
左馬刻の言葉に、火貂退紅は興味深かそうに相槌を打つ。
「いいんじゃねぇか?若頭になろうって奴が、いつまでもあんなボロアパートに住むわけにもいかねぇだろ」
耐熱グラスを口に運ぶ火貂退紅を見つめながら、左馬刻は口を開きかけて、閉じた。そんな子分の様子を見て、火貂退紅がグラスをテーブルに置く。
「なんだ、左馬刻」
「あ、いや…親父、観用少女持ってただろ?今どうしてんだ」
「なんだ?お前も観用少女に興味が出てきたのか?」
「そういう訳じゃねぇけど」
ゴクリと大きく一口酒を煽った左馬刻に、にやりと火貂退紅が笑う。
「へぇ、お前、もしや観用少女を飼う為に引っ越ししてぇのか」
「……おう」
火貂退紅の前では、左馬刻は嘘を吐かない。親父を信用しているし、吐いても無駄だと思っているからだ。
「アレは厄介だぞ。ちぃと手入れを間違うとすぐ枯れちまう」
「すぐ育ったりもするもんか?」
話しに食いついてきた左馬刻に、火貂退紅は愉快そうに笑った。こいつは何かがありそうだ。こいつがこんなに焦って話しを進めるなんて。
「育つ?ああ、見たことはねぇが、育つこともあるらしいな。しかし、滅多にはないと聞くぞ」
「どんな時に育っちまうんだ?」
左馬刻の瞳は真剣だ。ははぁ、こいつが飼おうとしているのは、デカくなっちまった観用少女かと火貂退紅は思う。女には困ってねぇのに、難儀な奴だと火貂退紅は思った。観用少女を飼うには金も手間もかかる。道楽の一種だ。それを、目の前のせっかちで、常にせわしなくしている若造が飼えるものか。しかも育った観用なんていう中途半端なものを。
「飼い主とイイ仲になっちまうと、育ちやすいと聞くな。まぁ小せぇ体じゃ、やることやんのにも不便だろうよ」
「は?観用ってそんなこともできるのかよ」
ぽかんと、左馬刻が呟く。
「穴、開いてりゃできんだろ」
火貂退紅の言葉に、ごくりと左馬刻が喉を鳴らした。ああ、こいつは厄介だ。すっかり観用少女のとりこになっちまいやがって。
「そっか。…ん?つまりデカくなっちまったやつには過去に男がいるってことか」
我に返った左馬刻が呆然と呟く。あーあ、見ていて飽きないねぇと火貂退紅は内心で笑った。
「まじかよ、クソっ。まじかー」
左馬刻が頭を抱える。その姿をつまみに、火貂退紅は酒を煽った。今日は愉快だ。こいつの、年相応に慌てふためく様が見られるなんて。
「まァ、一旦頭冷やしてよく考えな。犬猫みてェにホイホイ飼えるもんじゃねぇよ」
うー、と唸る左馬刻を見て、火貂退紅は笑った。
「ああ…そうだ、親父、『月兎』って知ってるか?」
左馬刻がその名前を出した途端、火貂退紅の目の色が変わった。
「なんでお前、その名を?」
「親父?」
急に真剣味を帯びた火貂退紅の目を、左馬刻が見つめる。
「左馬刻、悪い事は言わねぇ。お前が飼おうとしているのが『月兎』だっていうなら、やめておけ。そいつは験が悪すぎる」
「どういうことだよ」
左馬刻は、ずいと、テーブルの上に身を乗り出した。
*
その晩、銃兎はベッドに横たわりながら、幸せな気持ちに浸っていた。伍仁夾心餅(ナッツサンド)、甘露酥(ココナッツタルト)、麻花(かりんとう)。ここ3日間で左馬刻が持ってきた菓子だ。
左馬刻は、約束を守って、毎日銃兎に会いにくる。夕方だったり、夜だったり、午前中だったり、時間はバラバラだったけれど、ちゃんと銃兎に会いに来た。同じテーブルに着いて、茶を一杯。飲み干すと席を立つ。左馬刻が忙しいのは、なんとなく様子でわかる。だから銃兎は、引き止めることはしなかった。
いつ、迎えに来るのかという事は、聞けずにいた。つい先日まで、外から銃兎を見つめていた男だ。こうして、何も阻むもののない近さで会える事に、今は満足している。
銃兎は、目を閉じる。左馬刻が自分の最後の男になれば良いと願う。もう誰のものにもならないと誓っていた銃兎の心を変えてしまったのは、左馬刻なのだから。
過去の記憶は曖昧で、ところどころ抜け落ちてしまっているものもある。覚えているのは、たくさんの人間の死に顔と、あの人。ゴミ処理場に投げ込まれる直前だった銃兎をこっそりと回収し、愛してくれた、先輩。
男が二人で一緒に住んでいるのはおかしいし、かといって俺とお前じゃ顔の出来が違うからなぁとあの人は笑った。そうだ、お前は、先輩の俺を頼って上京してきた高校の時の後輩。これなら、まぁ、いいか。そんな言葉を、意味は半分も汲み取れずに聴きながら、銃兎は言葉を舌に乗せた。
「先輩」
それが、銃兎が初めて出した声だった。
銃兎という名前も、先輩がつけてくれた。学生時代好きだったミュージシャンの曲にちなんだと言っていた。ピストルと、兎。お前は俺にとってのピストルで、裸の兎だと先輩は言った。���前は危険だ。だって俺の心臓を一目で射抜いてしまったんだから。先輩の言葉の意味が、今ならぼんやりと理解できる。先輩にとって銃兎は、搾取する対象の裸の兎でもあったし、所持しているだけで危険な存在でもあったし、そして狂気の引き金でもあった。
先輩は、銃兎に優しかった。彼なりに最大限の事をしてくれた。愛されていたし、愛していた。先輩が心を病んで、銃兎を見てくれなくなっても。それでも枯れずにいられたのは、愛してもらった記憶があったから。世話をしてもらえなくなって、先輩が出て行って、ずっとずっと、銃兎はベッドで眠っていた。先輩はいつか帰ってくるのだと信じていた。枯れかけて、理鶯に連れ帰られて、手入れをされながら、理鶯に聞かされた先輩の死を、少しずつ受け入れた。本当は、わかっていたのだ。先輩が、銃兎に触れてくれなくなった時に。あの粉に手を出し始めた時に。
穏やかに先輩の死を受け入れた銃兎に、理鶯は意外そうな顔をしていた。薄情だと思っただろう。だけど銃兎は、自分の性質を知っていた。銃兎を手に入れた人間は、すべて、死神に連れ去られてしまったのだから。死因は様々だ。毒殺、刺殺、自殺に、交通事故。原因は大抵、銃兎の所有権を巡っての諍いだった。
そんな陰謀だらけの生活からの解放は、突然に訪れた。銃兎を疎んじた飼い主の配偶者が、銃兎を捨てるようにと筋者に依頼をしたのだ。銃兎は身代金目的の誘拐事件に見せかけて連れ去られ、死体袋に詰められて、ゴミ処理場の穴の中へ落とされる寸前だった。抵抗などはしなかった。生きていても、死んでいても、もうそんなのはどうでもよかった。感情なんて、とっくに忘れていた。
「お前、信じらんねぇくらい綺麗な顔してるのな。まぁ、俺はガキには興味ないけど」
穴に投げ込まれる直前に開いたジッパー。光を背負い、逆光の中銃兎を覗き込んだあの人。その時の言葉を、覚えている。覚えていたからこそ、銃兎は彼と暮らすようになって、姿を成長させたのだ。彼の好みの姿になりたくて。一生懸命に。毎日育っていく銃兎を見て、彼は最初は驚いていた。けれど、銃兎が今の見た目にまで育つと、「今の姿が一番好みだ」と銃兎の時を再度止めた。だから銃兎は、同じ姿のまま今を生きている。
あの粉がなければ、先輩はおかしくならずに済んだだろう。銃兎をおいては行かなかっただろう。だから銃兎は、あの粉を憎んでいる。だからと言って、この手は無力だ。自分はただ、たったひとりの誰かを喜ばせるためだけに生きる生き物なのだから。
早く、左馬刻が迎えにきてくれると良い。一人の夜は、寂しい。悲しい。過去に飲み込まれそうになる。
*
「てっきり、消されたと思ってたんだがなぁ、俺は」
月兎にまつわる噂を一通り左馬刻に話して、火貂退紅は片眉をひょいとあげた。あの名人の作は、誘拐され、殺されたはずだった。だってそれを請け負ったのは、自分の組の下部組織だったのだから、火貂退紅が知らないはずはないのだ。
けれど月兎は生きていて、左馬刻がそいつを飼いたいと言っている。月兎は験を担ぐこの商売をする人間には、鬼門だ。厄だ。左馬刻の身に何かがあってからでは遅いのだ。
しかし、そんな火貂退紅の心配を他所に、左馬刻はニヤリと不敵に笑った。すでに銃兎の前で一度死にかけている。厄落としは済んだ。左馬刻はそう解釈した。
「大丈夫だ、親父。俺を誰だと思っていやがる」
ハッハと笑って、左馬刻は席を立つ。
「邪魔したな。そろそろ帰るわ。おやすみ、親父」
やれやれ、勝手な奴だと火貂退紅は思う。欲しい情報を手に入れたら、すぐに帰ってしまう。我儘にもほどがある。けれど、憎めない男だ。火貂退紅は左馬刻を気に入っている。腕っ節の強さも、精神力の強さも、そして悪運の強さも。何度も死にかけては、不思議と復活する。そんな妙な運の良さが左馬刻にはあった。
「まぁ、仕方ねぇか。観用っていうのは、魅入られちまったら逃れられねぇもんだ」
ひとりごちて、火貂退紅はグラスに残ったウィスキーをぐいと飲み干した。
0 notes