Tumgik
#トルコ:マラシュ
vegehana-food · 2 years
Photo
Tumblr media
✿ ドンドゥルマ | Dondurma ・ トルコではアイスクリームなど氷菓全般のことを「ドンドゥルマ(Dondurma)」と呼びます。ドンドゥルマはトルコ語で“凍らせたもの”を意味します。日本で「トルコアイス」と言われている伸びるアイスはこのドンドゥルマの中の一つで、正式には「マラシュ・ドンドゥルマ(Maraş Dondurma)」と呼ばれている、粘り気が強いのが特徴のトルコの伝統的なアイスです。 ・トルコアイスが伸びる理由として、原材料の「サーレップ(Salep)」が大きく関係しています。サーレップはトルコの山岳部に自生するラン科の植物の呼び名で、この植物の球根を乾燥させ粉末にして作られます。球根に含まれるグルコマンナンと呼ばれる粘性のある成分が独特の粘りを出しています。サーレップは消化管粘膜に対する保護剤としても古くから生薬に用いられてきました。サーレップの粉はどこにでも売られている訳ではないので少し手に入りにくいかもしれません。 ・ちなみにトルコの人々の多くは、この伸びるアイスを食べる際は必ずお水を用意するそう。理由は、合間に水を飲むことで喉つまりを防ぐため。それほど、本場のサーレップを原料としているトルコアイス「マラシュ・ドンドゥルマ」は粘りが強いということがうかがえます。
1 note · View note
melikemordemjaponi · 7 years
Photo
Tumblr media
Twitter/@Azadi3Berxwedan Aile Maraş Katliamı’ndan kaçtı, kendisi Kanada’da doğdu ve şimdi Rakka'da. 彼の家族は*マラシュの虐殺から逃れ,彼自身はカナダで生まれ育ち,現在ラッカ解放作戦に参加している。 *1978年12月19,26日にトルコ:カフラマンマラシュでアレヴィー派信徒に対して行われた虐殺行為 #Rakka #Raqqah #Rojava #QSD #SDF #YPG #YPJ #Maraş #Syria #resistance 2017/06/19
9 notes · View notes
weepingpersonathing · 6 years
Text
アメリカってアイスクリームメーカーが色々売ってますが、アメリカで自宅で手作り...
アメリカってアイスクリームメーカーが色々売ってますが、アメリカで自宅で手作り…
【これスゴイ】溶けないアイスのお店が「アイスにプリント」するサービスをスタート! LINEから好きな画像を送るだけ – Pouch[ポーチ] 【これスゴイ】溶けないアイスのお店が「アイスにプリント」するサービスをスタート! LINEから好きな画像を送るだけ Pouch[ポーチ]Pouchでも度々ご紹介している溶けないアイスで話題の「KANAZAWA ICE (金座和アイス)」が、またまたユニークなアイスクリームを生み出しちゃったよ!! それは「携帯のLINEから送られた画像をその場でアイスにプリントする」というもの! つまり世界にひとつだけのオリジナル …(続きを読む)
中国でマラシュ・ドンドゥルマ(アイスクリーム)のパッケ��ジにトルコ国旗:売り上げが2倍に – TRT 日本語 TRT…
View On WordPress
0 notes
nahidekucuk-jpn · 8 years
Text
作品に関する技術情報
刺繍・細工技法
オスマントルコの刺繍職人達は針を使って、少なくとも30種類の刺繍細工技法を編み出した:(以下、刺繍細工技法名)ドゥズ・イーネ、ヴェレヴ・イーネ、ムシャバク、ススマ・イシレリ、ケスメ、ペサント、バルック・クルチュー、バルック・スルトゥ、ジヴァン・カシ、ムルバー・イーネ、シラ・イーネ、ハスル・イーネ、テル・クルマ等。 (更に詳しい情報:1976年アク出版より発行、アイテン・スルル著『トルコ刺繍芸術』[トルコ装飾芸術シリーズ4])
デザインにおいては、色彩や構成面から見て16〜18世紀に最も美しい作品が生まれた。16世紀のモチーフは、果物や花等(カーネーション、チューリップ、バラ、ヒヤシンス等)に見られるように自然思考であった。17世紀のモチーフと色彩は、パステル調となった。
18世紀のモチーフは、自然の風景が主となった。19世紀にはモチーフに家、モスク、橋、船、バロック調のフィギュア、鳥、魚などの動物のフィギュアが多く見られた。
Tumblr media
材料
1. 布:ナヒデ・キュチュクのコレクションには、主に真麻、絹サテン、絹ベルベッドが使われていたが、時としてリゼ布のような地方特有の織物が使われることもあった。イギリスや、イタリア、フランス、ベルギーの麻が用いられた。
2. 刺繍に使われる糸:ナヒデ・キュチュクは、フランスから特注で取り寄せた金糸や銀糸、テル・クルマ(金・銀の金属扁平糸)の他、ブルサからも特注で生糸から作らせた絹糸を使用した。 糸の色を安定させるために、酢が活用された。
3. 縫い針:トルコ刺繍では、縫い針が使われる。
4. 刺繍台: ナヒデ・キュチュクは、刺繍に最高のクオリティーを求める為に は、刺繍台を使うことが必須だと考えていた。刺繍台とは、刺繍をする布を張り詰めるための木製の枠のことである。この枠は、4本の足で支えられている。伝統的な刺繍台は、枠の両側にそれぞれ隙間を少し空けた穴が開いている。刺繍する布の右と左に縫い付けられた刺繍台布の穴に通されたヘリ布糸は、同時に刺繍台枠の穴にも通されることで、布をピンと張る事が出来る。刺繍工程では、右手を上、左手を布の下に置いて作業する。糸または金・銀糸を通した針を上から下へ右手で布に対して垂直に刺し、左手で刺繍台の下から引き抜く。今度は、左手で下から布に差し込んでいく。
マラシュ・イシとディヴァル刺繍:マラシュ近郊で広く知られている為、マラシュ・イシとも呼ばれるディヴァル刺繍の細工技法は、刺繍台と補助器具が他と異なる。この技術では先ず、使用するモチーフの型を準備することから始まる。薄紙に描かれたデザインを、糊をつけた厚紙に貼り付ける。モチーフに合わせて切った厚紙を今度は布に貼り付けてから、ディヴァル刺繍用刺繍台で製作する。
Tumblr media
刺繍の仕方
1. 刺繍に使われる布を、使用される場所とモチーフに適切な大きさに裁断する。縁飾りをつける場合は、布の四方から同じ幅だけ余分に縫い代を取ってから、布に織り込まれた糸を引き出していく。
2. 透写紙に描いた模様の上に、針を使って小さな穴を開けていく(透写紙を光にかざすと、穴から光が漏れる具合に)。
3. 穴の開いた透写紙を布の上に置く。炭の粉を入れた小さな布包みを透写紙の上で揺すり振る事で炭が落ち、更に透写紙の穴を通って布に模様が移る。
4. 布用染料と絵画用細筆を使って、布にモチーフを描いていく。これで、布を刺繍台に取り付ける準備が整った。
5. 上記の工程の後、モチーフに合わせた刺繍技法が、刺繍台に取り付けられた布に施される。葉には通常バルック・スルトゥやサテン・ステッチが、花模様には形によってヴェレヴ、ペサント、サテン・ステッチ、ムシャバク技法が見られる。
刺繍芸術の歴史
刺繍芸術とは何か
“ナッカシュ”つまり刺繍職人とは、オスマン朝文化の美術を通じて自らを表現した芸術家の事である。色は使うがフィギュアを用いず、二次元の表面加工芸術と審美的なデザインで、布に糸で縫取りをし、絵として完成させていた。しかし、“ナクシ”=刺繍と“ナッカシュ”=刺繍職人という言葉に惑わされない様、注意する必要がある。なぜなら“ナッカシュ”は細密画家のことでもあったのだ。それでも彼らを“ナッカシュ”=刺繍職人と呼んだ理由は、極めて小さいフィギュアを最も細部に渡って表面上に縫い取っていく事を、別の言い回しで“ナクシェトゥメ”=装飾する事、印象づける事と呼んでいたからだ。
“イシレメ”、これも刺繍という意味の言葉だが、これは細密画芸術を“ナクシ”と区別する最も重要な要素である。細密画芸術にしても刺繍芸術にしても、その両方に“ナクシ”という言葉が使われているにも関わらず、刺繍芸術としての“ナクシ”と“イシレメ”は中央アジアから始まり小アジアへ、更にそこから現在まで脈打ち続けており、布の上に針と糸でデザインを刺繍するという、全く別の芸術として定義されている。
もっと拡大した表現をすれば、刺繍芸術とは、織物や革の表面に針で、様々な種類と色彩の糸を使って行う装飾であるとも言える。
先駆者としての文明
エジプトやメソポタミア、アッシリア、ペルシャ、ヒッタイト、フリギア、リディア遺跡で、刺繍の最古例を見ることができる。女性の衣服、壺の破片上に見られる穴、大麻の切れ端、ビーズや銀糸で飾られた織物の端きれからも、これらの文明に置いて刺繍があったことを示している。
ローマやビザンチン、インド、日本の文明においても、刺繍は重要な位置を占めている。壁掛け、女性の衣服、飾り布等刺繍の例が満載である。
小アジアでのトゥルク系民族
1071年に小アジアに移動してきたトゥルク系民族は、この大地で小アジアの豊かな刺繍職人芸と出会った。これらの例を自分たちの文化や技術と融合させて更に発展させた。
フン族に見られる、馬用装飾具や鞍の刺繍が人目を引く。様式化された幾何学模様や動物のフィギュアが重要な意味を持っていた。
オルホン碑文では、突厥が刺繍入りの大きなフェルト製のテントで生活していたことや、絹の着物を着ていたことが記されている。
セルジューク朝時代には、トゥルク系民族は完全に小アジアに定住しており、養蚕業を工業化するに至った。セルジューク朝のテントでは、桁外れの織物と装飾が目立つ。
1308年から始まり、征服者メフメットII世がイスタンブールを陥落させる迄の時代を、ベイリック時代と呼ぶ。刺繍芸術の面から見て、オスマン朝文化への通過点とされる。芍薬、百合、菊、曲がった枝や葉など具体的なデザインの他、抽象的なデザインも目立つ。
オスマントルコ帝国
帝国時代は、刺繍芸術が最も華々しかった時代だと言える。ブルサからエディルネへ移転した刺繍学校は、刺繍芸術の発展において大変重要な役割を果たす。
宮殿向けとそうでないものに分けられる刺繍芸術は世間に広く知られるところとなり、一般家庭や市場にも出回るようになる。16世紀には布、デザイン、技術面において刺繍芸術が頂点に達する。布の大きさや形に最適なスタイルでモチーフを施すことが、当時の重要な特徴である。
刺繍芸術の停滞
18世紀初頭、ヨーロッパ芸術の影響を受け、刺繍芸術は衰退する;様式が変わり、布の重要性が増す。高価な織物を買えない者達の為に、まがい物の布に刺繍を施し本物に似せるというコピー製品も出回るようになる。この時代、刺繍の重要性が失われ、布が脚光を浴びる。刺繍では自然の風景が扱われ、遠近法が取り入れられた。色の数とグラデーション使いが増える。
19世紀も刺繍の需要は続く;特に宮殿向けの刺繍では真珠を使う事が大流行する。真珠が遠い大陸で発見されたことにより、布団カバー、盆の飾り布、婚礼道具用の風呂敷が真珠で埋め尽くされる。豪奢さと豊かな色彩グラデーションが、19世紀の主流である。
そして、20世紀へ
20世紀は戦争の世紀であった。刺繍芸術は衰退する。布織物産業は発展するが、手作業ものの価格は高騰する。二度の戦争を経て流行は変遷し、日常生活もスピードアップする。当然、実用的であることが美徳とされる。やがて女性の社会進出が当たり前になった時、女性が刺繍に割く時間も減少していく。
共和国誕生以降
トルコ共和国宣言の後25〜30年の間に、小アジアでは工業化の影響が顕著化し始める。布も工場で生産される。しかし、手工業も依然としてその存在を維持している。草木染めで染められた糸もあれば既製品の木綿糸もあるが、刺繍芸術のスタイルに重要な変化は見られなかった。花、フィギュア、様式化されたデザインも継続されている。
やがて女子芸術学校が開校する。忘れ去られた、収納箱に入れっぱなしのものを再び引っ張り出すこと、そしてそれら古き良きものを保護しようとする動きが起こるのが、この時代の特徴である。伝統文化を保護するためには、“改めて学ぶ”ことが必要である。女子芸術学校はこの目的で創立され、少女達に刺繍細工芸術を“改めて教える”こととなる。
この芸術が現代的な様式で解釈され、過去と現在の間の架け橋となりモダンなスタイルと融合されることは、ナヒデ・キュチュクのような改革派の芸術家達の手にかかっている。
0 notes
nahidekucuk-jpn · 8 years
Text
世界中で
Nahide Küçük adı ve imzası ise yaptığı birbirinden güzel nakış ve işlemelerle Buckingam Sarayı’nda, Katar Emirliği Sarayı’nda, Jean Paul Gaultier’e özel olarak işlenen cekette ve daha onlarca kıymetli kabul salonlarında, kraliyet çeyizlerinde, sefaret sofralarında ve T.C. Devleti’nin yabancı konuklarına gururla sunduğu armağanlarda yaşıyor.
Tumblr media Tumblr media
1960年代に映画界を牽引していた役者達の御用達美容師だったアレクサンドル・ドゥ・パリ(ルイス・アレクサンドル・レイモン)の為に、1992〜1994年に渡りティアラとヘアアクセサリーを製作。
Tumblr media Tumblr media
1999年、トルコ・マルマラ大地震の被害者支援の為ロンドンで開催された“トルコ・ミュージカル・イベント”という文化行事に、ナヒデ・キュチュクも招待され参加した。ボナムズ・オークションハウスで行われたオークションで、彼女の作品の一つが売りに出された。しかしこの作品は競り落とされなかった為、イベント後にチャールズ皇太子へ手紙を添えて献上された。(写真掲載)
Tumblr media Tumblr media
1983年、有名な日本人デザイナー・桂由美向けに、ウェディングドレスの刺繍細工を担当。(写真掲載)
Tumblr media
1985年6月にアラブ首長国連邦で行われたシャルジャ・エキスポで展示会に参加。(写真掲載)
Tumblr media
国際ソロプチミストが1989年7月にスイスのルガーノで行ったヨーロッパ国際会議の展覧会に参加。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
イギリスのエリザベスⅡ世とイランのレザー・パフラヴィ国王に献上されたダイニングセットのように、トルコ政府から様々な国の国家首脳や国王、女王への贈り物として重宝されたナヒデの作品に見られるデザインワークは、ナヒデ・キュチュクが既に学生時代に編み出していたものだった。
Tumblr media
カタールのハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー前首長のオーダー により、1993〜1994年に掛けてアイェト=エル・キュルスィ(コーランの一節)の壁掛けを製作。作品ではアイェト=エル・キュルスィが、クーフィー体でマラシュ・イシ(刺繍細工技法の一つ)の上に施された。壁掛けは200cm×140cmの大きさで、金糸を使い、ビロード生地に手作業で刺繍された。完成までに8ヶ月を要した。現在も、カタール首長府のメイン大広間に飾られている。(写真掲載)
Tumblr media
フランス人デザイナー、ジャン・ポール・ゴルチエ向けにジャケットの刺繍細工を担当。
Tumblr media
刺繍細工は、日本の上流階級の人々の関心の的となった。スイスオテルやヒルトンホテルのブティックは、日本人顧客が必ず立ち寄るスポットであった。(写真掲載)
Tumblr media
1999年、エユップ・スルタン・モスクの説教壇の扉用幕の刺繍細工を担当。 ナヒデ・キュチュクはこれに関する報道で、こう語っている: 「私は芸術活動において、精神的にも物質的にも満ち足りた。今後は私の芸術を義援金として寄付するため、エユップ・スルタン・モスクの尖塔の上品な雰囲気に合った説教壇の幕を金糸を使って製作し、モスクに献上するつもりだ。あの場に相応しい幕を準備するのが、私の唯一の熱望である。幕に画かれるアラビア文字書体は、書家ユスフ・ジョシュクン・ベネフィシェ氏が担当する。」(写真掲載)
Tumblr media
1997年、日本の三笠宮寛仁親王が彼女の作品を購入。
この短いリストからも、ナヒデ・キュチュクは品位あるトルコ芸術大使だということが見て取れる。また彼女は、国際ソロプチミスト協会トルコ支部���シリー・クラブ創設者兼会長として、海外の同協会姉妹クラブやその他海外渡航先でも展覧会を開催し、我が国の女性の自立に貢献した。
0 notes