#タイ��ル未定
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ari0921 · 7 years ago
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【相当重要案件】 マレーシア高速鉄道計画中止は英断、日本にも転機 中国の一帯一路の中核事業が頓挫、インドは早速首脳会談開催へ 「巨額のお金がかかるだけでなく、マレーシアにとって一銭にもならない」――。  マレーシアのマハティール首相は28日、マレーシア-シンガポール間の高速鉄道計画(HRL)の中止を電撃的に表明した。  寝耳に水だったシンガポール政府に筆者が29日午前中確認すると「いまだ、マレーシア政府から中止に関する正式な通達は来ていない」とした上、「HRLは両国間の合意に基づき、2国間の相互利益と責務が課されていた」と“マハティール・ショック”に驚きを隠せない様子だ。  同計画は、中国の習近平国家主席が推し進める経済構想「一帯一路」の中核事業。日中がこれまで激しい受注合戦を広げてきた。  これを受け、石井啓一国土交通相は29日、「マレーシア、シンガポール2国間の協議(違約金5億リン��=約140億円を巡る)の状況を注視したい」と述べたが同計画は頓挫することが決まった。  これにとどまらず、本コラムでも触れたように(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53132、一帯一路のマレーシア東海岸鉄道計画中止か)、マハティール首相が同じく習国家主席の一帯一路の肝いりプロジェクト「東海岸鉄道計画(ECRL)」の中止も視野に入れた見直し交渉を中国政府と開始した。  マハティール首相による一刀両断的な習国家主席主導の一帯一路の主要事業の中止や見直しは、中国の面子を潰すだけでなく、一帯一路の実現そのものに大きな打撃を与えることが避けて通れなくなってきた。  マハティール首相はなぜこの時期に、中国を敵に回すことになるHRLの中止を公表したのだろうか。  28日付の英フィナンシャル・タイムズ(FT)紙のインタビューで「HRLやECRLなどの大型プロジェクを中止すれば、国の借金の5分の1を肩代わりすることができる」と語っており、2020年の完成を目指す金融特区「TRX」やバンダル・マレーシアなど、中国主導のプロジェクトの中止や大幅見直しが次々表明される見通し。  そんな中、HRLの中止に踏み切った背景には、国内財政上では、選挙公約の消費税廃止(6月1日から)に伴う財源確保がまず第一に挙げられる。  さらに、ここ数日で明らかになったナジブ前政権下から引き継いだ膨大な国の債務額(1兆リンギ=約28兆円)を抑えるため、歳出削減を迅速に進めなければならなくなったことが大きい。 一方、外交戦略上は、HRLの受注に中国と激しく争った日本に首相就任後の外遊先として初めて6月中旬に訪問するにあたり、中国優勢だった受注合戦に終止符を打つことで日本へ秋波を送り、マレーシアの在来線などの刷新強化への日本の技術移転や円借款による投資案件の交渉を有利に進めたい思惑がある。  また、31日には日本の新幹線技術導入を決定したインドのモディ首相が政権交代後のマレーシアを初訪問し、マハティール首相と初の首脳会談を開く。マレーシアはインドにとって、東南アジア最大の貿易相手国だ。  脱中国依存を政権誕生直後から鮮明にするマハティール首相と、中国とアジアでの覇権争いで領土問題などでも緊迫した状況が続くインドのモディ首相が、中国の一帯一路構想に反旗を翻すアジアのツートップとして、“アンチ・チャイナ”で反中国姿勢を国際社���にアピールする狙いがあるとみられる。  もともとマハティール首相は、マレーシアーシンガポール間の高速鉄道計画について、筆者との単独インタビューで(マハティールの野党勝利 61年ぶりの政権交代、http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53065)、「距離が短く、所要時間も1時間半。従来の鉄道の刷新などが先決。現在、高速鉄道が必要とは思わない。マレーシアにメリットがあるかも疑問」と計画中止を示唆していた。  マレーシア政府関係者によると、政権誕生後、マハティール首相は即座に高速鉄道事業を所管していた陸上公共交通委員会(SPAD)の解体を決め、中止への準備を着々と進めてきた。  HRLは、マレーシアの首都クアラルンプールとシンガポール間、約350キロを(シンガポール側は15キロ)時速300キロで走る計画(所要時間1時間半)で、ナジブ前政権下で決定、進められてきた。  総工費は約200億シンガポールドル(約1兆6400億円)を上回ると予想され、「世界で最もリッチな鉄道」と称され、2026年の開業を目指し、受注には日本や中国、さらにはドイツ、フランス、韓国が名乗りを挙げていた。  中でもここ数年、日本と中国は、首脳による外交や担当閣僚の現地でのプレゼンや展示会を頻繁に開催し、激しい受注合戦を展開してきた。  特に、インフラ輸出をアベノミクスの成長軸に置く安倍政権下では、受注合戦の前線に立つ官僚や企業関係者が「中国打倒の夢を果たす」ことを念頭に、奔走してきた。 しかし、中国は、ナジブ前首相が公金流用の隠れ蓑として設立させた政府系投資会社「1MDB」の約420億リンギ(約1兆1700億円)の巨額負債の一部の60億リンギ以上を救済するという名目で、借金を肩代わりする代わり、外資規制のある発電所を100%買い受け、1MDBの経営破たんを回避させた。  中国は、違法性のあるナジブ前首相との不透明な事業の受注契約に手を染めている疑惑が持たれている。  マハティール首相は、「これ以上、マレーシアを中国に“身売り”できない」と外資の中でも、中国主導の大型投資案件について、早急に見直す姿勢を前面に打ち出していた。  元来、この路線の建設の先駆けとなったのは、大英帝国で、第2次大戦中には日本も国策で戦略下にあった路線だった。  そんなHRLに中国が異様なほどの執着を見せるのは、理由は経済だけではない。  同路線は、中国からラオス、タイを通過し、シンガポール海峡へ抜ける習国家主席が進める一帯一路の安全保障戦略における「生命線」。  資源や物資を中東地域から運びこむ要衝のマラッカ海峡を、シンガポールに環太平洋��海軍の本拠地を置く米国などに封鎖される事態を回避するため(マラッカ・ジレンマ)、その迂回路として抜けるルートになるため、“債務トラップ”による融資で、この地域への政治的覇権を拡大することが戦略上にある。  さらに、習国家主席肝いりの一帯一路の目玉プロジェクトであるECRLも、マハティール首相は、中止も含め見直しを中国政府と交渉し始めた。  同計画は、総工費550億リンギ(約1兆5000億円)をかけ、タイ国境近くから、マレー半島を東西横断する形で、クアラルンプール近郊と東西の重要港を結ぶ総距離約680キロの一大プロジェクト。  「中国主導の東海岸鉄道計画(ECRL)は非常にリスクが高く、マレーシアにとって有益ではない」「同計画を進めれば、新たな1MDB(ナジブ前首相設立の巨額負債を抱えた政府系投資会社)を生む結果になるだろう」――。  筆者の取材で、マレーシアを代表する経済学者、ジョモ・スンダラム教授が、一帯一路の最重要プロジェクトの一つ、ECRLについて、そう評価を下していることが明らかになった。 同氏は、新政府に経済政策などで指針を仰ぐため、マハティール新首相が発足させた国際的に著名なマレーシアのベテラン専門家を結集させた「上級専門家評議会」の一人。  マハティール首相は、「総工費550億リンギは、融資を行う中国輸出入銀行から、受注している中国交通建設(CCCC)に直接支払われ、中国への債務額は1000億リンギに膨れ上がる」と激高する。  「HRLなどの大型プロジェクトを中止すれば、国の債務の5分の1を解消できる」(マハティール首相)という。  マハティール首相の最大の目的はマレーシアの国益だ。その意味では今回の高速鉄道計画中止は、国内では歓迎され、「大英断」と国民からも高い支持を得ている。  かつて、ケニアの鉄道を管轄する大臣が「JRの新幹線は世界一素晴らしかった。しかし、我々に必要だったのは、物資も輸送できる鉄道網だった」と述べ、結局、中国が在来線の鉄道を張り巡らせてしまった。  マレ-シアに限らず東南アジアの経済成長を過大評価する中でのインフラ整備は現実的ではない。ミャンマー、カンボジアでは道路などのインフラが未整備の中、高速鉄道の有用性には疑問で、ベトナムやタイも、首都圏と地方の格差は大きい。  国益を重んじ、基本的なインフラ整備と治安維持の安定が最重要で、そうした意味ではマハティ-ル首相の決断は英断だったといえる。  また、日本も新幹線にこだわらず、日本の技術移転を国内鉄道への刷新などに向け、発想転換するチャンスかもしれない。  中国にとっては、“マハティール・ショック”で、一帯一路戦略の実現に暗雲が立ち込め、その実現に赤信号が灯り始めたのは否めない。
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matsumotokana · 8 years ago
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本日より、二つのライブの予約をスタートします! 一つは、 3/12(日)東京・下北沢SEED SHIP。 今年から始めた【徒然日記】というワンマンライブシリーズの春編です。とっても美しい音のグランドピアノと、光射し込む気持ち良い板張りの空間。昨年まではサポートメンバーを入れてのワンマンが多かったのですが、このシリーズでは完全にひとり弾き語り!新曲やります。この日にしか配布しない、エッセイ付きフライヤーも書きまーす! 来ていただけたらとっても嬉しいです。 そしてもう一つは、4/2(日)千葉・木更津 愛染院さんでのお寺ライブ。駅から徒歩5分、路地を入ったところにあるかわいいお寺です。このライブもお陰様で5年目となりました。 私と同年代の女性副住職であり、ソーシャルワーカーでもある恕榮(じょえい)さんとのぶっちゃけトークや、座禅体験。ライブでは、サポートにパーカッションのぴったん氏を招いて、ジャンベや鳥笛などを駆使した摩訶不思議な世界を作り出します。お堂は音がよく響いてとっても気持ち良いです。 ステージ横で珈琲を淹れて下さるのは、かなざわ珈琲さん。苦手な人でも飲めるようにと、渋みが入らないように淹れたかなざわさんの珈琲はほんとうに飲みやすいのです。曲のテンポによって珈琲の味が変わるとか…?美味しい淹れ方のレクチャーもあります。 終演後は、春のお寺ごはんを召し上がっていただけます。木更津にある有名な自然食のお店、ベアーズさん作の雑穀弁当。肉・魚を一切使っていないとは思えない、お腹も心も満たされるごはんです。 ライブ前後の時間では、今年初参加して下さるセラピストの穏慈~Onji~さんによるすみっこマッサージが受けられます(要予約・500円/15分)タイ古式のセラピストである穏慈さん。お話ししているだけで癒される、穏やかで素敵な方なのです。 「木更津、行ってみたいけど遠いからなあ…」とおっしゃる方も多いのですが、東京・品川・新宿・羽田���港・横浜・川崎から直通の高速バスが出ていて、どこからでも1時間かからずに着きます(土日の朝と夕方は多少渋滞の可能性あり)たまにはのんびり、小旅行がてら木更津に遊びに来ませんか?お待ちしております~! ----------------------------------- ■3/12(日)東京・下北沢SEED SHIP【徒然日記 東京編】 『松本佳奈の、徒然日記・春』 時間:open 12:30 / start 13:00 偶然にも乙女座満月! 料金:一般¥3000 小中高生¥1000 (別途1ドリンクオーダー制) ※車椅子可 介助ヘルパーさん分のチケット料金無料(ドリンク代のみ) 予約フォーム:https://goo.gl/forms/brfx6SOOmprlqxTn2 ヒ”ルの入り口前の段差14cm エレベーター入口 幅は80cm 奥行92cm お店入口ドアの横幅 67cm 店内は洋式トイレがありますが、多目的トイレの一番最寄は下北沢駅になります。 ▽下北沢SEED SHIP 世田谷区代沢5-32-13 露崎商店ビル3階 URL: http://www.seed-ship.com/ TEL: 03-6805-2805 ----------------------------------- 【五感でたのしむ四季と音・春~お寺ライブ~】 ■4/2(日)千葉・木更津 愛染院 『うたう♪花まつり』※60席限定 時間:open 13:00 / start 14:00 (ライブ後、16時半よりお弁当タイム) 料金:大人¥3000/当日¥3500(春のお寺ごはん、甘茶あられ、甘茶付き) 小中高生¥1000/当日¥1500 未就学児無料 ※お弁当無しは500円引き お弁当発注の都合上、キャンセルは前日迄でお願いします。当日キャンセルの場合、チケット代の50%を頂きますのでご了承ください。 予約フォーム:https://goo.gl/forms/IQtCHFkzPkT8fZDt2 出演:松本佳奈 サポート:ぴったん(Perc) 座禅・般若心経:愛染院副住職 吾津恕榮(あづじょえい) 珈琲:かなざわ珈琲 金澤政幸 すみっこマッサージ:穏慈~Onji~ ・車椅子ご案内致します、事前にお知らせ下さい(ヘルパーさん無料) ・入場は当日先着順になります(12時より整理番号配布) ・お弁当のお渡しはライブ後になります ・親子スペースをご用意しています(託児サービスはありませんのでご注意ください) 毎年恒例になりました、お寺ライブ。 春のお寺ごはん+プチ座禅体験+かなざわさんの珈琲付きです。なんと!ライブの合間にタイ古式マッサージも受けられます(要予約・500円/15分)お寺ごはんは、木更津にある自然食品のお店「ベアーズ」さんの、サクッと美味しい雑穀コロッケ弁当! ご予約はお早めに。 ◇愛染院 〒292-0067 千葉県木更津市中央1丁目3-15 駐車場15台(先着) ----------------------------------- ライブ招待券付き!松本佳奈ファンクラブ『まつかな食堂』のご案内はこちら↓ http://matsumotokana.info/funclub
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xf-2 · 7 years ago
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亡備録より 『日本は侵略国家であったのか』 田母神俊雄
更迭の原因となった論文をきちんと読んでみよう。当時はこれで暴露騒然となったのだ。
当時、野党と共闘をしたマスゴミの攻撃が激しかった麻生首相も、 この論文を「個人的に(論文を)出したとしても、立場が立場だから適切ではない」と述べたそうだが、 心の底ではよく書いてくれたと思っているのではないか。
麻生首相の祖父である吉田茂:退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。
『日本は侵略国家であったのか』 田母神俊雄
まず、抜粋
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留し ている。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意 された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮 半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留 も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19 世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手 国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府 から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露 戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守 るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力 をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だと いう人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したこ とがない。
 全文2008年  (今ならネット上でほとんど明かされている事実ばかりである。) に つづく
~  中略~
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を 未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく 普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き 届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがた い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジ ア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要 がある。タイ���、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直 接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接 見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いこと も知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何 に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だっ たなどというのは正に濡れ衣である。 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。 私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければなら ない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自 分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実 を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいこと であることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を 向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中 でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本 の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の 一途を辿るのみである。
補足
田母神と同様に発言が原因で自衛隊要職を解任された高級幹部に統合幕僚会議議長 (当時) の栗栖弘臣がいる。1978年7月に「週刊ポスト」誌上で、「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出���命令が出るまで動けない。第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促す発言をしたが、これが“超法規発言”として当時の防衛庁長官・金丸信に事実上の解任(金丸が「困っている」と伝えると、栗栖が辞表を提出)をされた。この時は「自衛官の言論の自由」が議論されることはなかったが、栗栖の指摘により有事法制が議論されるようになり、のちに武力攻撃事態対処関連三法が制定される契機となった。
全文2008年  (今ならネット上でほとんど明かされている事実ばかりである。) 読みにくい場合は、全文をコピペして、「メモ帳」か「ワードパット」「ワード」などに、転記すると楽ですよ。 >>3 >>管理人さま 本文には1文字ごとに半角スペースが入っていて、メモ帳にコピペしたらかえって読みにくくなってしまいました。 ブラウザの拡大機能を使ったほうが読みやすいかもしれません。 ア メ リ カ 合 衆 国 軍 隊 は 日 米 安 全 保 障 条 約 に よ り 日 本 国 内 に 駐 留 し て い る 。 こ れ を ア メ リ カ に よ る 日 本 侵 略 と は 言 わ な い 。 二 国 間 で 合 意 さ れ た 条 約 に 基 づ い て い る か ら で あ る 。 我 が 国 は 戦 前 中 国 大 陸 や 朝 鮮 半 島 を 侵 略 し た と 言 わ れ る が 、 実 は 日 本 軍 の こ れ ら の 国 に 対 す る 駐 留 も 条 約 に 基 づ い た も の で あ る こ と は 意 外 に 知 ら れ て い な い 。日 本 は 1 9 世 紀 の 後 半 以 降 、 朝 鮮 半 島 や 中 国 大 陸 に 軍 を 進 め る こ と に な る が 相 手 国 の 了 承 を 得 な い で 一 方 的 に 軍 を 進 め た こ と は な い 。 現 在 の 中 国 政 府 か ら 「 日 本 の 侵 略 」 を 執 拗 に 追 求 さ れ る が 、 我 が 国 は 日 清 戦 争 、 日 露 戦 争 な ど に よ っ て 国 際 法 上 合 法 的 に 中 国 大 陸 に 権 益 を 得 て 、 こ れ を 守 る た め に 条 約 等 に 基 づ い て 軍 を 配 置 し た の で あ る 。 こ れ に 対 し 、 圧 力 を か け て 条 約 を 無 理 矢 理 締 結 さ せ た の だ か ら 条 約 そ の も の が 無 効 だ と い う 人 も い る が 、 昔 も 今 も 多 少 の 圧 力 を 伴 わ な い 条 約 な ど 存 在 し た こ と が な い 。
こ の 日 本 軍 に 対 し 蒋 介 石 国 民 党 は 頻 繁 に テ ロ 行 為 を 繰 り 返 す 。 邦 人 に 対 す る 大 規 模 な 暴 行 、 惨 殺 事 件 も 繰 り 返 し 発 生 す る 。 こ れ は 現 在 日 本 に 存 在 す る 米 軍 の 横 田 基 地 や 横 須 賀 基 地 な ど に 自 衛 隊 が 攻 撃 を 仕 掛 け 、 米 国 軍 人 及 び そ の 家 族 な ど を 暴 行 、 惨 殺 す る よ う も の で あ り 、 と て も 許 容 で き る も の で は な い 。 こ れ に 対 し 日 本 政 府 は 辛 抱 強 く 和 平 を 追 求 す る が 、 そ の 都 度 蒋 介 石 に 裏 切 ら れ る の で あ る 。 実 は 蒋 介 石 は コ ミ ン テ ル ン に 動 か さ れ て い た 。1 9 3 6 年 の 第 2 次 国 共 合 作 に よ り コ ミ ン テ ル ン の 手 先 で あ る 毛 沢 東 共 産 党 の ゲ リ ラ が 国 民 党 内 に 多 数 入 り 込 ん で い た 。 コ ミ ン テ ル ン の 目 的 は 日 本 軍 と 国 民 党 を 戦 わ せ 、 両 者 を 疲 弊 さ せ 、 最 終 的 に 毛 沢 東 共 産 党 に 中 国 大 陸 を 支 配 さ せ る こ と で あ っ た 。 我 が 国 は 国 民 党 の 度 重 な る 挑 発 に 遂 に 我 慢 し き れ な く な っ て 1 9 3 7 年8 月 1 5 日 、日 本 の 近 衛 文 麿 内 閣 は「 支 那 軍 の 暴 戻 を 膺 懲 し 以 っ て 南 京 政 府 の 反 省 を 促 す 為 、 今 や 断 乎 た る 措 置 を と る 」 と 言 う 声 明 を 発 表 し た 。 我 が 国 は 蒋 介 石 に よ り 日 中 戦 争 に 引 き ず り 込 ま れ た 被 害 者 な の で あ る 。
1 9 2 8 年 の 張 作 霖 列 車 爆 破 事 件 も 関 東 軍 の 仕 業 で あ る と 長 い 間 言 わ れ て き た が 、 近 年 で は ソ 連 情 報 機 関 の 資 料 が 発 掘 さ れ 、 少 な く と も 日 本 軍 が や っ た と は 断 定 で き な く な っ た 。「 マ オ( 誰 も 知 ら な か っ た 毛 沢 東 )( ユ ン・チ ア ン 、講 談 社 )」、「 黄 文 雄 の 大 東 亜 戦 争 肯 定 論( 黄 文 雄 、 ワ ッ ク 出 版 )」 及 び 「 日 本 よ 、「 歴 史 力 」 を 磨 け ( 櫻 井 よ し こ 編 、 文 藝 春 秋 )」な ど に よ る と 、最 近 で は コ ミ ン テ ル ン の 仕 業 と い う 説 が 極 め て 有 力 に な っ て き て い る 。 日 中 戦 争 の 開 始 直 前 の 1 9 3 7 年 7 月 7 日 の 廬 溝 橋 事 件 に つ い て も 、 こ れ ま で 日 本 の 中 国 侵 略 の 証 み た い に 言 わ れ て き た 。 し か し 今 で は 、 東 京 裁 判 の 最 中 に 中 国 共 産 党 の 劉 少 奇 が 西 側 の 記 者 と の 記 者 会 見 で 「 廬 溝 橋 の 仕 掛 け 人 は 中 国 共 産 党 で 、 現 地 指 揮 官 は こ の 俺 だ っ た 」 と 証 言 し て い た こ と が わ か っ て い る 「 大 東 亜 解 放 戦 争 ( 岩 間 弘 、 岩 間 書 店 )」。 も し 日 本 が 侵 略 国 家 で あ っ た と い う の な ら ば 、 当 時 の 列 強 と い わ れ る 国 で 侵 略 国 家 で な か っ た 国 は ど こ か と 問 い た い 。 よ そ の 国 が や っ た か ら 日 本 も や っ て い い と い う こ と に は な ら な い が 、 日 本 だ け が 侵 略 国 家 だ と い わ れ る 筋 合 い も な い 。
我 が 国 は 満 州 も 朝 鮮 半 島 も 台 湾 も 日 本 本 土 と 同 じ よ う に 開 発 し よ う と し た 。 当 時 列 強 と い わ れ る 国 の 中 で 植 民 地 の 内 地 化 を 図 ろ う と し た 国 は 日 本 の み で あ る 。 我 が 国 は 他 国 と の 比 較 で 言 え ば 極 め て 穏 健 な 植 民 地 統 治 を し た の で あ る 。 満 州 帝 國 は 、 成 立 当 初 の 1 9 3 2 年 1 月 に は 3 千 万 人 の 人 口 で あ っ た が 、 毎 年 1 0 0 万 人 以 上 も 人 口 が 増 え 続 け 、 1 9 4 5 年 の 終 戦 時 に は 5 千 万 人 に 増 加 し て い た の で あ る 。満 州 の 人 口 は 何 故 爆 発 的 に 増 え た の か 。 そ れ は 満 州 が 豊 か で 治 安 が 良 か っ た か ら で あ る 。 侵 略 と い わ れ る よ う な 行 為 が 行 わ れ る と こ ろ に 人 が 集 ま る わ けが な い 。農 業 以 外 に ほ と ん ど 産 業 が な か っ た 満 州 の 荒 野 は 、わ ず か 1 5 年 の 間 に 日 本 政 府 に よ っ て 活 力 あ る 工 業 国 家 に 生 ま れ 変 わ っ た 。 朝 鮮 半 島 も 日 本 統 治 下 の 3 5 年 間 で 1 千 3 ��� 万 人 の 人 口 が 2 千 5 百 万 人 と 約 2 倍 に 増 え て い る 「 朝 鮮 総 督 府 統 計 年 鑑 」。 日 本 統 治 下 の 朝 鮮 も 豊 か で 治 安 が 良 か っ た 証 拠 で あ る 。 戦 後 の 日 本 に お い て は 、 満 州 や 朝 鮮 半 島 の 平 和 な 暮 ら し が 、 日 本 軍 に よ っ て 破 壊 さ れ た か の よ う に 言 わ れ て い る 。し か し 実 際 に は 日 本 政 府 と 日 本 軍 の 努 力 に よ っ て 、現 地 の 人 々 は そ れ ま で の 圧 政 か ら 解 放 さ れ 、 ま た 生 活 水 準 も 格 段 に 向 上 し た の で あ る 。
我 が 国 は 満 州 や 朝 鮮 半 島 や 台 湾 に 学 校 を 多 く 造 り 現 地 人 の 教 育 に 力 を 入 れ た 。 道 路 、 発 電 所 、 水 道 な ど 生 活 の イ ン フ ラ も 数 多 く 残 し て い る 。ま た 1 9 2 4 年 に は 朝 鮮 に 京 城 帝 国 大 学 、1 9 2 8 年 に は 台 湾 に 台 北 帝 国 大 学 を 設 立 し た 。 日 本 政 府 は 明 治 維 新 以 降 9 つ の 帝 国 大 学 を 設 立 し た が 、 京 城 帝 国 大 学 は 6 番 目 、 台 北 帝 国 大 学 は 7 番 目 に 造 ら れ た 。 そ の 後 8 番 目 が 1 9 3 1 年 の 大 阪 帝 国 大 学 、9 番 目 が 1 9 3 9 年 の 名 古 屋 帝 国 大 学 と い う 順 で あ る 。 な ん と 日 本 政 府 は 大 阪 や 名 古 屋 よ り も 先 に 朝 鮮 や 台 湾 に 帝 国 大 学 を 造 っ て い る の だ 。 ま た 日 本 政 府 は 朝 鮮 人 も 中 国 人 も 陸 軍 士 官 学 校 へ の 入 校 を 認 め た 。 戦 後 マ ニ ラ の 軍 事 裁 判 で 死 刑 にな っ た 朝 鮮 出 身 の 洪 思 翊 と い う 陸 軍 中 将 が い る 。 こ の 人 は 陸 軍 士 官 学 校 2 6 期 生 で 、 硫 黄 島 で 勇 名 を は せ た 栗 林 忠 道 中 将 と 同 期 生 で あ る 。 朝 鮮 名 の ま ま で 帝 国 陸 軍 の 中 将 に 栄 進 し た 人 で あ る 。 ま た そ の 1 期 後輩 に は 金 錫 源 大 佐 が い る 。 日 中 戦 争 の 時 、 中 国 で 大 隊 長 で あ っ た 。 日 本 兵 約 1 千 名 を 率 い て 何 百 年 も 虐 め ら れ 続 け た 元 宗 主 国 の 中 国 軍 を 蹴 散 ら し た 。 そ の 軍 功 著 し い こ と に よ り 天 皇 陛 下 の 金 賜 勲 章 を 頂 い て い る 。 も ち ろ ん 創 氏 改 名 な ど し て い な い 。 中 国 で は 蒋 介 石 も 日 本 の 陸 軍 士 官 学 校 を 卒 業 し 新 潟 の 高 田 の 連 隊 で 隊 付 き 教 育 を 受 け て い る 。 1 期後 輩 で 蒋 介 石 の 参 謀 で 何 応 欽 も い る 。
李 王 朝 の 最 後 の 殿 下 で あ る 李 垠 殿 下 も 陸 軍 士 官 学 校 の 2 9 期 の 卒 業生 で あ る 。 李 垠 殿 下 は 日 本 に 対 す る 人 質 の よ う な 形 で 1 0 歳 の 時 に 日 本 に 来 ら れ る こ と に な っ た 。 し か し 日 本 政 府 は 殿 下 を 王 族 と し て 丁 重 に 遇 し 、 殿 下 は 学 習 院 で 学 ん だ あ と 陸 軍 士 官 学 校 を ご 卒 業 に な っ た 。陸 軍 で は 陸 軍 中 将 に 栄 進 さ れ ご 活 躍 さ れ た 。 こ の 李 垠 殿 下 の お 妃 と なら れ た の が 日 本 の 梨 本 宮 方 子 妃 殿 下 で あ る 。 こ の 方 は 昭 和 天 皇 の お 妃 候 補 で あ っ た 高 貴 な お 方 で あ る 。 も し 日 本 政 府 が 李 王 朝 を 潰 す つ も りな ら こ の よ う な 高 貴 な 方 を 李 垠 殿 下 の も と に 嫁 が せ る こ と は な か っ た で あ ろ う 。 因 み に 宮 内 省 は お 二 人 の た め に 1 9 3 0 年 に 新 居 を 建 設 し た 。 現 在 の 赤 坂 プ リ ン ス �� テ ル 別 館 で あ る 。 ま た 清 朝 最 後 の 皇 帝 ま た 満 州帝 国 皇 帝 で あ っ た 溥 儀 殿 下 の 弟 君 で あ る 溥 傑 殿 下 の も と に 嫁 が れ た の は 、 日 本 の 華 族 嵯 峨 家 の 嵯 峨 浩 妃 殿 下 で あ る 。
こ れ を 当 時 の 列 強 と い わ れ る 国 々 と の 比 較 で 考 え て み る と 日 本 の 満 州 や 朝 鮮 や 台 湾 に 対 す る 思 い 入 れ は 、 列 強 の 植 民 地 統 治 と は 全 く 違 っ て い る こ と に 気 が つ く で あ ろ う 。 イ ギ リ ス が イ ン ド を 占 領 し た が イ ン ド 人 の た め に 教 育 を 与 え る こ と は な か っ た 。 イ ン ド 人 を イ ギ リ ス の 士 官 学 校 に 入 れ る こ と も な か っ た 。 も ち ろ ん イ ギ リ ス の 王 室 か ら イ ン ド に 嫁 が せ る こ と な ど 考 え ら れ な い 。 こ れ は オ ラ ン ダ 、 フ ラ ン ス 、 ア メ リ カ な ど の 国 々 で も 同 じ こ と で あ る 。 一 方 日 本 は 第 2 次 大 戦 前 か ら 5 族 協 和 を 唱 え 、 大 和 、 朝 鮮 、 漢 、 満 州 、 蒙 古 の 各 民 族 が 入 り 交 じ っ て 仲 良 く 暮 ら す こ と を 夢 に 描 い て い た 。 人 種 差 別 が 当 然 と 考 え ら れ て い た 当 時 に あ っ て 画 期 的 な こ と で あ る 。 第 1 次 大 戦 後 の パ リ 講 和 会 議 に お い て 、 日 本 が 人 種 差 別 撤 廃 を 条 約 に 書 き 込 む こ と を 主 張 し た 際 、 イ ギ リ ス や ア メ リ カ か ら 一 笑 に 付 さ れ た の で あ る 。 現 在 の 世 界 を 見 れ ば 当 時 日 本 が 主 張 し て い た と お り の 世 界 に な っ て い る 。
時 間 は 遡 る が 、 清 国 は 1 9 0 0 年 の 義 和 団 事 件 の 事 後 処 理 を 迫 ら れ 1 9 0 1 年 に 我 が 国 を 含 む 11 カ 国 と の 間 で 義 和 団 最 終 議 定 書 を 締 結 し た 。そ の 結 果 と し て 我 が 国 は 清 国 に 駐 兵 権 を 獲 得 し 当 初 2 6 0 0 名 の 兵 を 置 い た「 廬 溝 橋 事 件 の 研 究 (秦 郁 彦 、 東 京 大 学 出 版 会 )」。 ま た 1 9 1 5 年 に は 袁 世 凱 政 府 と の 4 ヶ 月 に わ た る 交 渉 の 末 、 中 国 の 言 い 分 も 入 れ て 、 い わ ゆ る 対 華 2 1 箇 条 の 要 求 に つ い て 合 意 し た 。 こ れ を 日 本 の 中 国 侵 略 の 始 ま り と か 言 う 人 が い る が 、 こ の 要 求 が 、 列 強 の 植 民 地 支 配 が 一 般 的 な 当 時 の 国 際 常 識 に 照 ら し て 、 そ れ ほ ど お か し な も の と は 思 わ な い 。 中 国 も 一 度 は 完 全 に 承 諾 し 批 准 し た 。 し か し 4 年 後 の 1 9 1 9 年 、 パ リ 講 和 会 議 に 列 席 を 許 さ れ た 中 国 が 、 ア メ リ カ の 後 押 し で 対 華 2 1 箇 条 の 要 求 に 対 す る 不 満 を 述 べ る こ と に な る 。 そ れ で も イ ギ リ ス や フ ラ ン ス な ど は 日 本 の 言 い 分 を 支 持 し て く れ た の で あ る 「 日 本 史 か ら 見 た 日 本 人 ・ 昭 和 編 ( 渡 部 昇 一 、 祥 伝 社 )」。 ま た 我 が 国 は 蒋 介 石 国 民 党 と の 間 で も 合 意 を 得 ず し て 軍 を 進 め た こ と は な い 。 常 に 中 国 側 の 承 認 の 下 に 軍 を 進 め て い る 。1 9 0 1 年 か ら 置 か れ る こ と に な っ た 北 京 の 日 本 軍 は 、3 6 年 後 の 廬 溝 橋 事 件 の 時 で さ え 5 6 0 0 名 に し か な っ て い な い「 廬 溝 橋 事 件 の 研 究 (秦 郁 彦 、東 京 大 学 出 版 会 )」。こ の と き 北 京 周 辺 に は 数 十 万 の 国 民 党 軍が 展 開 し て お り 、 形 の 上 で も 侵 略 に は ほ ど 遠 い 。 幣 原 喜 重 郎 外 務 大 臣 に 象 徴 さ れ る 対 中 融 和 外 交 こ そ が 我 が 国 の 基 本 方 針 で あ り 、 そ れ は 今 も 昔 も 変 わ ら な い 。
さ て 日 本 が 中 国 大 陸 や 朝 鮮 半 島 を 侵 略 し た た め に 、 遂 に 日 米 戦 争 に 突 入 し 3 百 万 人 も の 犠 牲 者 を 出 し て 敗 戦 を 迎 え る こ と に な っ た 、日 本 は 取 り 返 し の 付 か な い 過 ち を 犯 し た と い う 人 が い る 。 し か し こ れ も 今 で は 、 日 本 を 戦 争 に 引 き ず り 込 む た め に 、 ア メ リ カ に よ っ て 慎 重 に 仕 掛 け ら れ た 罠 で あ っ た こ と が 判 明 し て い る 。 実 は ア メ リ カ も コ ミ ン テ ル ン に 動 か さ れ て い た 。 ヴ ェ ノ ナ フ ァ イ ル と い う ア メ リ カ の 公 式 文 書 が あ る 。米 国 国 家 安 全 保 障 局( N S A )の ホ ー ム ペ ー ジ に 載 っ て い る 。 膨 大 な 文 書 で あ る が 、 月 刊 正 論 平 成 1 8 年 5 月 号 に 青 山 学 院 大 学 の 福 井 助 教 授 (当 時 )が 内 容 を か い つ ま ん で 紹 介 し て く れ て い る 。 ヴ ェ ノ ナフ ァ イ ル と は 、 コ ミ ン テ ル ン と ア メ リ カ に い た エ ー ジ ェ ン ト と の 交 信 記 録 を ま と め た も の で あ る 。ア メ リ カ は 1 9 4 0 年 か ら 1 9 4 8 年 ま で の 8 年 間 こ れ を モ ニ タ ー し て い た 。当 時 ソ 連 は 1 回 限 り の 暗 号 書 を 使 用 し て い た た め ア メ リ カ は こ れ を 解 読 で き な か っ た 。 そ こ で ア メ リ カ は 、 日 米 戦 争 の 最 中 で あ る 1 9 4 3 年 か ら 解 読 作 業 を 開 始 し た 。 そ し て な ん と 3 7 年 も か か っ て 、レ ー ガ ン 政 権 が 出 来 る 直 前 の 1 9 8 0 年 に 至 っ て 解 読 作 業 を 終 え た と い う か ら 驚 き で あ る 。 し か し 当 時 は 冷 戦 の 真 っ 只 中 で あ っ た た め に ア メ リ カ は こ れ を 機 密 文 書 と し た 。 そ の 後 冷 戦 が 終 了 し 1 9 9 5 年 に 機 密 が 解 除 さ れ 一 般 に 公 開 さ れ る こ と に な っ た 。 こ れ に よ れ ば 1 9 3 3 年 に 生 ま れ た ア メ リ カ の フ ラ ン ク リ ン ・ ル ー ズ ベ ル ト 政 権 の 中 に は 3 百 人 の コ ミ ン テ ル ン の ス パ イ が い た と い う 。 そ の 中 で 昇 り つ め た の は 財 務 省 ナ ン バ ー 2 の 財 務 次 官 ハ リ ー・ホ ワ イ ト で あ っ た 。 ハ リ ー ・ ホ ワ イ ト は 日 本 に 対 す る 最 後 通 牒 ハ ル ・ ノ ー ト を 書 い た 張 本 人 で あ る と 言 わ れ て い る 。 彼 は ル ー ズ ベ ル ト 大 統 領 の 親 友 で あ る モ ー ゲ ン ソ ー 財 務 長 官 を 通 じ て ル ー ズ ベ ル ト 大 統 領 を 動 か し 、 我 が 国 を 日 米 戦 争 に 追 い 込 ん で い く 。 当 時 ル ー ズ ベ ル ト は 共 産 主 義 の 恐 ろ し さ を 認 識 し て い な か っ た 。 彼 は ハ リ ー ・ ホ ワ イ ト ら を 通 じ て コ ミ ン テ ル ン の 工 作 を 受 け 、戦 闘 機 1 0 0 機 か ら な る フ ラ イ イ ン グ タ イ ガ ー ス を 派 遣 す る な ど 、 日 本 と 戦 う 蒋 介 石 を 、 陰 で 強 力 に 支 援 し て い た 。 真 珠 湾 攻 撃 に 先 立 つ 1 ヶ 月 半 も 前 か ら 中 国 大 陸 に お い て ア メ リ カ は 日 本 に 対 し 、 隠 密 に 航 空 攻 撃 を 開 始 し て い た の で あ る 。
ル ー ズ ベ ル ト は 戦 争 を し な い と い う 公 約 で 大 統 領 に な っ た た め 、 日 米 戦 争 を 開 始 す る に は ど う し て も 見 か け 上 日 本 に 第 1 撃 を 引 か せ る 必 要 が あ っ た 。 日 本 は ル ー ズ ベ ル ト の 仕 掛 け た 罠 に は ま り 真 珠 湾 攻 撃 を 決 行 す る こ と に な る 。さ て 日 米 戦 争 は 避 け る こ と が 出 来 た の だ ろ う か 。 日 本 が ア メ リ カ の 要 求 す る ハ ル ・ ノ ー ト を 受 け 入 れ れ ば 一 時 的 に せ よ 日 米 戦 争 を 避 け る こ と は 出 来 た か も し れ な い 。 し �� し 一 時 的 に 戦 争 を避 け る こ と が 出 来 た と し て も 、当 時 の 弱 肉 強 食 の 国 際 情 勢 を 考 え れ ば 、 ア メ リ カ か ら 第 2, 第 3 の 要 求 が 出 て き た で あ ろ う こ と は 容 易 に 想 像 が つ く 。 結 果 と し て 現 在 に 生 き る 私 た ち は 白 人 国 家 の 植 民 地 で あ る 日 本 で 生 活 し て い た 可 能 性 が 大 で あ る 。 文 明 の 利 器 で あ る 自 動 車 や 洗 濯 機 や パ ソ コ ン な ど は 放 っ て お け ば い つ か は 誰 か が 造 る 。 し か し 人 類 の 歴 史 の 中 で 支 配 、 被 支 配 の 関 係 は 戦 争 に よ っ て の み 解 決 さ れ て き た 。 強 者 が 自 ら 譲 歩 す る こ と な ど あ り 得 な い 。 戦 わ な い 者 は 支 配 さ れ る こ と に 甘 ん じ な け れ ば な ら な い 。
さ て 大 東 亜 戦 争 の 後 、 多 く の ア ジ ア 、 ア フ リ カ 諸 国 が 白 人 国 家 の 支 配 か ら 解 放 さ れ る こ と に な っ た 。 人 種 平 等 の 世 界 が 到 来 し 国 家 間 の 問 題 も 話 し 合 い に よ っ て 解 決 さ れ る よ う に な っ た 。 そ れ は 日 露 戦 争 、 そ し て 大 東 亜 戦 争 を 戦 っ た 日 本 の 力 に よ る も の で あ る 。 も し 日 本 が あ の 時 大 東 亜 戦 争 を 戦 わ な け れ ば 、 現 在 の よ う な 人 種 平 等 の 世 界 が 来 る の が あ と 百 年 、 2 百 年 遅 れ て い た か も し れ な い 。 そ う い う 意 味 で 私 た ち は 日 本 の 国 の た め に 戦 っ た 先 人 、 そ し て 国 の た め に 尊 い 命 を 捧 げ た 英 霊 に 対 し 感 謝 し な け れ ば な ら な い 。 そ の お 陰 で 今 日 私 た ち は 平 和 で 豊 か な 生 活 を 営 む こ と が 出 来 る の だ 。
一 方 で 大 東 亜 戦 争 を 「 あ の 愚 劣 な 戦 争 」 な ど と い う 人 が い る 。 戦 争 な ど し な く て も 今 日 の 平 和 で 豊 か な 社 会 が 実 現 で き た と 思 っ て い る の で あ ろ う 。 当 時 の 我 が 国 の 指 導 者 は み ん な 馬 鹿 だ っ た と 言 わ ん ば か り で あ る 。や ら な く て も い い 戦 争 を や っ て 多 く の 日 本 国 民 の 命 を 奪 っ た 。 亡 く な っ た 人 は み ん な 犬 死 に だ っ た と 言 っ て い る よ う な も の で あ る 。 し か し 人 類 の 歴 史 を 振 り 返 れ ば こ と は そ う 簡 単 で は な い こ と が 解 る 。 現 在 に お い て さ え 一 度 決 定 さ れ た 国 際 関 係 を 覆 す こ と は 極 め て 困 難 で あ る 。 日 米 安 保 条 約 に 基 づ き ア メ リ カ は 日 本 の 首 都 圏 に も 立 派 な 基 地 を 保 有 し て い る 。 こ れ を 日 本 が 返 し て く れ と 言 っ て も そ う 簡 単 に は 返 っ て こ な い 。 ロ シ ア と の 関 係 で も 北 方 四 島 は 6 0 年 以 上 不 法 に 占 拠 され た ま ま で あ る 。 竹 島 も 韓 国 の 実 行 支 配 が 続 い て い る 。
東 京 裁 判 は あ の 戦 争 の 責 任 を 全 て 日 本 に 押 し 付 け よ う と し た も の で あ る 。 そ し て そ の マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル は 戦 後 6 3 年 を 経 て も な お 日 本 人 を 惑 わ せ て い る 。 日 本 の 軍 は 強 く な る と 必 ず 暴 走 し 他 国 を 侵 略 す る 、 だ か ら 自 衛 隊 は 出 来 る だ け 動 き に く い よ う に し て お こ う と い う も の で あ る 。 自 衛 隊 は 領 域 の 警 備 も 出 来 な い 、 集 団 的 自 衛 権 も 行 使 出 来 な い 、 武 器 の 使 用 も 極 め て 制 約 が 多 い 、 ま た 攻 撃 的 兵 器 の 保 有 も 禁 止 さ れ て い る 。 諸 外 国 の 軍 と 比 べ れ ば 自 衛 隊 は 雁 字 搦 め で 身 動 き で き な い よ う に な っ て い る 。 こ の マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル か ら 解 放 さ れ な い 限 り 我 が 国 を 自 ら の 力 で 守 る 体 制 が い つ に な っ て も 完 成 し �� い 。 ア メ リ カ に 守 っ て も ら う し か な い 。 ア メ リ カ に 守 っ て も ら え ば 日 本 の ア メ リ カ 化 が 加 速 す る 。 日 本 の 経 済 も 、 金 融 も 、 商 慣 行 も 、 雇 用 も 、 司 法 も ア メ リ カ の シ ス テ ム に 近 づ い て い く 。 改 革 の オ ン パ レ ー ド で 我 が 国 の 伝 統 文 化 が 壊 さ れ て い く 。 日 本 で は い ま 文 化 大 革 命 が 進 行 中 な の で は な い か 。 日 本 国 民 は 2 0 年 前 と 今 と で は ど ち ら が 心 安 ら か に 暮 ら し て い る の だ ろ う か 。 日 本 は 良 い 国 に 向 か っ て い る の だ ろ う か 。 私 は 日 米 同 盟 を 否 定 し て い る わ け で は な い 。 ア ジ ア 地 域 の 安 定 の た め に は 良 好 な 日 米 関 係 が 必 須 で あ る 。 但 し 日 米 関 係 は 必 要 な と き に 助 け 合 う 良 好 な 親 子 関 係 の よ う な も の で あ る こ と が 望 ま し い 。 子 供 が い つ ま で も 親 に 頼 り き っ て い る よ う な 関 係 は 改 善 の 必 要 が あ る と 思 っ て い る 。
自 分 の 国 を 自 分 で 守 る 体 制 を 整 え る こ と は 、 我 が 国 に 対 す る 侵 略 を 未 然 に 抑 止 す る と と も に 外 交 交 渉 の 後 ろ 盾 に な る 。 諸 外 国 で は 、 ご く 普 通 に 理 解 さ れ て い る こ の こ と が 我 が 国 に お い て は 国 民 に 理 解 が 行 き 届 か な い 。 今 な お 大 東 亜 戦 争 で 我 が 国 の 侵 略 が ア ジ ア 諸 国 に 耐 え が た い 苦 し み を 与 え た と 思 っ て い る 人 が 多 い 。 し か し 私 た ち は 多 く の ア ジ ア 諸 国 が 大 東 亜 戦 争 を 肯 定 的 に 評 価 し て い る こ と を 認 識 し て お く 必 要 が あ る 。 タ イ で 、 ビ ル マ で 、 イ ン ド で 、 シ ン ガ ポ ー ル で 、 イ ン ド ネ シア で 、 大 東 亜 戦 争 を 戦 っ た 日 本 の 評 価 は 高 い の だ 。 そ し て 日 本 軍 に 直 接 接 し て い た 人 た ち の 多 く は 日 本 軍 に 高 い 評 価 を 与 え 、 日 本 軍 を 直 接 見 て い な い 人 た ち が 日 本 軍 の 残 虐 行 為 を 吹 聴 し て い る 場 合 が 多 い こ と も 知 っ て お か な け れ ば な ら な い 。 日 本 軍 の 軍 紀 が 他 国 に 比 較 し て 如 何 に 厳 正 で あ っ た か 多 く の 外 国 人 の 証 言 も あ る 。 我 が 国 が 侵 略 国 家 だ っ た な ど と い う の は 正 に 濡 れ 衣 で あ る 。
日 本 と い う の は 古 い 歴 史 と 優 れ た 伝 統 を 持 つ 素 晴 ら し い 国 な の だ 。 私 た ち は 日 本 人 と し て 我 が 国 の 歴 史 に つ い て 誇 り を 持 た な け れ ば な ら な い 。 人 は 特 別 な 思 想 を 注 入 さ れ な い 限 り は 自 分 の 生 ま れ た 故 郷 や 自 分 の 生 ま れ た 国 を 自 然 に 愛 す る も の で あ る 。 日 本 の 場 合 は 歴 史 的 事 実 を 丹 念 に 見 て い く だ け で こ の 国 が 実 施 し て き た こ と が 素 晴 ら し い こ と で あ る こ と が わ か る 。 嘘 や ね つ 造 は 全 く 必 要 が な い 。 個 別 事 象 に 目 を 向 け れ ば 悪 行 と 言 わ れ る も の も あ る だ ろ う 。 そ れ は 現 在 の 先 進 国 の 中 で も 暴 行 や 殺 人 が 起 こ る の と 同 じ こ と で あ る 。 私 た ち は 輝 か し い 日 本 の 歴 史 を 取 り 戻 さ な け れ ば な ら な い 。 歴 史 を 抹 殺 さ れ た 国 家 は 衰 退 の 一 途 を 辿 る の み で あ る 。
要約
論文の概略としては、「日中戦争は侵略戦争ではない」・「日米戦争はフランクリン・ルーズベルトによる策略であった」とする自説を展開したうえで、日本政府は集団的自衛権を容認すべきであると主張したものであった。以下は要略である。
対中関係
日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが、相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。蒋介石国民党の間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めていた。
1936年の第二次国共合作[7]によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。
『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアン、講談社)や『黄文雄の大東亜戦争肯定論』( ワック出版)[8]」、『日本よ、「歴史力」を磨け』(櫻井よしこ編、文藝春秋)」によれば、1928年の張作霖爆殺事件は関東軍の仕業ではなく、コミンテルンの仕業であるという説が極めて有力である。
東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言[9]している。
したがって、我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
我が国は他国との比較で言えば極めて穏��な植民地統治をした。これは朝鮮半島の支配統治から明らかである。
コミンテルンの工作を受けたアメリカは蒋介石に戦闘機100機からなるフライングタイガースを派遣するなど陰で支援しており、真珠湾攻撃に先立つ一箇月半[10]も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していた。
対米観
ルーズベルト政権の中に300人のコミンテルンのスパイがいた。(ベノナファイル、米国公式文書)
財務省ナンバー2の財務次官[11]ハリー・ホワイトはコミンテルンのスパイかつ日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であり、彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、日米戦争に追込んだ。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で米国大統領になった為、日米開戦のために見かけのうえで第一撃をさせる必要があった。ルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行した。
もしハル・ノートを受け入れていたら、一時的に戦争を回避出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二, 第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。
人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている[12]。
戦後社会
東京裁判は戦争責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を���てもなお日本人を惑わせている。そのマインドコントロールのために、自衛隊は領域の警備も出来ず、集団的自衛権も行使も出来ない。武器使用も極めて制約が多く攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦め(がんじからめ)で身動きできない。
パリ講和会議に於いて、日本が人種差別撤廃を条約に書込むことを主張した際、英国や米国から一笑に付された。日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのが、あと100年ないし200年遅れていたかもしれない。
多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある[13]。
日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多い。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。
もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。以上のことから日本が侵略国家だったなどというのは濡れ衣である。
論文公表の経緯 [編集]航空幕僚長更迭 [編集]更迭の理由 [編集]政府の対応の理由
こうして田母神の受賞が決定したが、元谷代表から田母神に名前を公表しても差し支えないかとの問い合わせが行われた。田母神は2007年5月に自衛隊の内部報(航空自衛隊幹部学校幹部会誌『鵬友』)で既出の論文と内容は同じであるから「問題ない」と回答した。その後、元谷代表は審査委員に連絡することなく[3]、10月31日、アパのWebサイト上の受賞作が発表されるとともに、論文がPDFファイルで一般公表された。また同論文の英文も公開された。
10月31日午後3時、定例記者会見を終えた田母神は、防衛省大臣室や次官室を訪ね、各所に受賞論文を配った。この時増田好平事務次官に田母神は「賞金300万円取ったんです」と語ったという。増田事務次官と中江公人大臣官房長は論文を読んで「これはまずい」と判断し、千葉にいた浜田靖一防衛大臣に連絡し、午後4時には首相官邸にも連絡した。
夕方、東京に戻った浜田防衛相は田母神と電話で会話し、辞職を勧告した。しかし田母神は「間違っていますかね」と答え辞職を拒否した。午後10時、田母神の更迭が持ち回り閣議によって決定された[15]。
田母神論文中には日本国政府の見解(村山談話、小泉談話)と異なる、或いはその見解を否定する立場からの主張が行われていると防衛省幹部と政府は判断した。
浜田靖一防衛大臣は、参議院外交防衛委員会でなぜ懲戒手続きに入らなかったのかと質問されて、懲戒手続きに入ろうと検討したが長期化した場合1月21日に田母神が定年退職になり審理が終わってしまうので、一番厳しい措置をするべきだと考え、早期退職を求めたと答弁した[16]。
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yasuhitoyano · 8 years ago
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次々回作、日タイ国際共同制作[Antigone/border-line]の資料を探しながら、ル=グウィンの短編『オメラスから歩み去る人々』を読む。(早川書房『風の十二方位』所収,小尾芙佐・他訳)[Antigone/border-line]]では、ソフォクレスの「アンティゴネ」だけでなく、ル=グウィンのスピーチ「左利きの卒業式祝辞」(1983年,ミルズカレッジ)も使う予定で、だから。というのもあって。(ホントは代表作の『闇の左手』も読んでおきたいのだけど、こちらはついぶん以前から枕元に積読状態...)『オメラスから歩み去る人々』ヒューゴー賞受賞作だからSF(若しくはファンタジー?)なんだけど、非常に短い、まるで小説らしからぬ小説でありながら不思議な読後感。‬ 読み終わって少しして違和感? のひとつに気づいた。邦訳のタイトルは『オメラスから歩み去る人々』だけれども、原題(英語)は、"The Ones Who Walk Away from Omelas"で、日本語では人々としか訳しようがないのかも知れないけれど、これは決してPeopleではないのだな。ひとつの理想郷、ユートピアを描いた筆者のいうところの"心の神話(psych‐myth)"なのだけど、それはたった一人の少年の犠牲、生贄の元に成り立っている。そのことはオメラスに暮らす人々の誰もがちゃんと理解していて、それは一種の契約として皆に守られている。だから、その可哀そうな地下牢に閉じ込められた少年を空きだそうとする者は一人もいない。 ところが、ごくまれに、ある者は突然、ある者はしばしの沈黙の後に、オメラスからひとり立ち去って行く者たちがいる...オメラスの北と西に向かって。という話なんだけど、この、立ち去る者が決して、連れ合いや友を連れ立って複数人の人々として立ち去るのではない。というところがこの不思議な小編の要なんだと思うのだ。思ったのだ。ユートピアから忽然と立ち去る者は、一人孤独に理由も説明もなく立ち去るのでなくてはこの小説、というか神話はおそらく絶対に成立しない。個と、共同体に関する寓話。共同体とそれに相反する理念を持った共同体との衝突になってはならない。 非常に面白かった。
「左利きの卒業式祝辞」
[...] 私はみなさんが決して犠牲者になるなどないよう望みますが、他の人々に対して権力を振るうこともありませんように。そして、みなさんが失敗したり、敗北したり、悲嘆にくれたり、暗がりに包まれたりしたとき、暗闇こそあなたの国、あなたが生活し、攻撃したり勝利を収めるべき戦争のないところ、しかし未来が存在するところなのだということを思い出してほしいのです。私たちのルーツは暗闇の中にあります。大地が私たちの国なのです。どうして私たちは祝福を求めて天を仰いだりしたのでしょう……周囲や足下を見るのではなく。私たちの抱いている希望はそこに横たわっています。ぐるぐる旋回するスパイの目や兵器でいっぱいの空にではなく、私たちが見下ろしてきた地面の中にあるのです。上からではなく下から。目をくらませる明かりの中ではなく栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。[...]
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