#セー君
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oz-illustration · 2 years ago
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セーちゃんとセー君
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notsosanelamb · 5 months ago
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セーの!
あぁ!アンドリュー、僕の大好きな人!もうすぐ君のところに行くよ!ᜊʕ っ◞ ˕ ◟c ʔ
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t-u-e-n-3 · 3 years ago
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居酒屋来てます。
友達のキープしてた焼酎飲んでます。
芋ソーダにはまってます。明日も朝早いな〜とか思ってたら酩酊の影が迫っています。
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少年の君という映画を観てきました。2回泣きました。
劇中おじいさんが���イレに立ってムカムカしました。
なぜガサガサ音の鳴るビニール袋を持って行ったのか。
映画を見に来た誰が盗るというのか。なぜ盗られる可能性がある貴重品をビニール袋で持ち歩くのか。
はたまた敢えてビニール袋にすることによって、貴重性を緩和させ、カモフラージュしているのか。だとしたら持っていくことにより、その意義を自ら否定しているのではないのか、等、そんな��と諸々、一旦頭の隅に追いやれる程没入で��た映画でした。
主題歌も良かった。特に考察とかないです。多分tumblerやってる人はみんな好きです。皮肉では無く。
もうすぐ公開終わっちゃうので、見れない方はU-NEXTとかで期待しててください。
そして見た人、これから見る人、間違いなくあの2人には「愛」があるのですが、その愛を言語として俺に説明してください。
めんどくセーですか、俺もそう思います。
9/7
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smdak · 5 years ago
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栃木〜桐生まで北関東をぶらり。 鐘たたいて、佐野ラーメン食べて、焼きそばハッピー食べて。くれぐれも気をつけんと、、ここ最近暗いよなぁ、、 #桐生 #佐野ラーメン #ソース焼きそば #群馬 #栃木 #レモン牛乳 #とちおとめ #いってつラーメン 心躍るような時間が待っている キラキラしたENが 君を待ってるのさ セーので一発飛び出せばすぐ揃う 何を伝えていこうかな 過ぎ去っていくだろう 東京品川新横浜名古屋京都新大阪 東京ばななもあの娘に買ったし 気付けば今日もいいねが沢山ついてる ウェルカムtokyo station 降り立ち高まるテンション 早いもので100年貴重な時間を体験 台場でひと仕事終えたし リーマン溢れる新橋 再びtokyo station 広くて彷徨うさまよう 夏は軽井沢 ��は新潟 北は青森 南は博多 旅のお供に売店繰り出そう 迷う事はなくここはいっちょ東京弁当 ICOCA TOICA SUGOCA Suicaは果物じゃない あっと言う間の100年 この先どうなる100年 ウェルカムtokyo station 行く着くtokyo station まだまだ続く道のり バイバイtokyo station バイバイtokyo station 地元に帰ればすぐに また戻ってくるからぁ (佐野らーめん いってつ) https://www.instagram.com/p/CCdrBKUjQ1b/?igshid=kyqw7ot8ygo2
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y24klogs · 5 years ago
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海底遺跡の先行調査
ディードさん、リィベ君、ローラン君といっしょ
アルシエル : では宜しく頼む ローラン : おう~!よろしくな! リィベ : ……ああ ディード : あーっと今日はよろしくな(アルシエルにひらーと手を振った後、リィベとローランに向き直り) ローラン : おう、俺はローランよろしくな。旦那(ディードの方へ向いて アルシエル : 名乗る必要はあるか?私はナイシエルという。 ローラン : ナイシエル… アルシエル : 嘘だが。 ディード : おう、賞金稼ぎのディードだ。一応、普段はこっちの白い眠そうにしてるヤツと組んでる。 ローラン : ディードさんにナイシエル… ディード : …ってお前は!自己紹介ちゃんとしろっつってんだろ アルシエル : ちえ。アルシエル。アルでいいよ。 リィベ : リィベと、そう呼ばれている ローラン : おう、よろしくなアルさん。 リィベ : ……しかし、随分と偏った面子が揃ったものだな アルシエル : うむ、よろしく。 リィベ : (装備や立ち振る舞いを観察している ディード : リィベにローランな。(うむと頷けば掲示板の方へと歩いていき) ローラン : まぁ、依頼こなせればどんなメンバーでもいいだろう?依頼は任せるぜ ディード : んだな…さーて、手頃そうなヤツは…(そう言って依頼書を一枚手に取れば剥がし) アルシエル : 私も任せるかな。好きなのを選ぶが良い。楽そうなので頼むぞ ディードがクエストの参加を募集しています。 アルシエル : む……(下の方に書かれた文字に微妙な顔をして) アルシエル : ま、いいか。 クエストを開始します。 ボードイベント同期を開始しました。 イベント同期が完了しました。 あなたは依頼書を掴むと、アルマへ差し出した。 アルマ 「この依頼を受けてくれるのね。」 アルマ 「ええと、この依頼は海底にある遺跡の先行調査ね。」 ローラン : 随分な場所にあるな? アルシエル : 寒そう……この時期になんでまた…… ディードが[海底?]を選択しました アルマ 「ええ、そうね、だから今回は水中での依頼になるわ。」 ディード : へえ(にやにやとアルシエルを見つつ) ローラン : 水中…… アルマ 「………あ、呼吸については心配いらないわ。  貴重だけど、専用の魔法具があってね、  それを使う事になるから。」 アルマ 「結構大口の依頼なのよ、船も出るし……。  たぶん、ある程度価値のあるものがある、と確信があるのね。」 リィベ : ……ふむ アルマ 「ええと、どこまで話したかしら。」 アルマ 「ああ、そう、今回は水中戦になる、ってところだったわね。」 ディード : そりゃいい、金が出そうなら俺ァなんでもいいがね。 アルマ 「水中だから、炎系統の魔法は無効化されるわ。  ……まぁ、水の中だから、当然だけれど。」 アルシエル : ま、嫌だが依頼の選択は任せてしまったしな。従うよ アルシエル : え” ローラン : ……まぁ、仕方ないよな… アルマ 「逆に、水系統の魔法を使えるのならすごく頼りになると思うわ。」 アルシエル : ………………まあいい、どうとでもする。 ローラン : …ちなみにアルさんは…水魔法は…? ディード : まあ、火ィ以外の魔法でありゃなんとかなんだろ? アルシエル : 前は使っていたがやめたのだ。残念ながら今は炎が多いな。 リィベ : ……染まって居ない魔力を用いれば、どうにかはなるだろう ローラン : なるほど…まぁほかにも使えるならそっちメインになっちまうな アルマ 「大体そんな所かしら、大丈夫そう?」 ディード : 問題ないと言うのなら、この依頼を受けるぜ? アルシエル : 構わんぞ。 リィベ : 私は問題ない ローラン : おう、問題ねーよ ディード : ってことで、だ ディードが[受ける]を選択しまし�� アルマ 「そう、じゃあこれを……。」 アルマ 「1人が持っていればある程度の範囲まで効果があるから  誰が持つとかは気にしなくて平気よ。」 アルマ 「貸出品だから、持ち逃げとかしちゃだめだからね。」 アルマ 「それじゃあ、お願いね。」 アルマ 「気を付けていってらっしゃい。」 リィベ : ふむ……相当に規模が大きいようだな、今回の依頼は ローラン : へー… アルシエル : 支度、出来たら行くぞ。早く済ませよう。 リィベ : (受け取ったセー・ユングファーを見て ローラン : 俺は準備おっけー 問題ねぇよー! アルシエル : では行くか…… 船に乗りますか? ローラン : おー! ディード : 俺も問題ねえな。つっても水中でどこまで魔力弾が通用すっかなぁ…(手持ちを確認しつつ) ディード : じゃ、改めてよろしくな ローラン : おう、頼りにしてるぜ! あなた達は船に乗って、目的の遺跡の上まで来た。 どこまでも続く青い海に、ゆらゆらと波がゆれている。 ひゅるりひゅるりら、吹く風はどこまでも自由だ。 準備ができたら海へ潜ろう。 アルシエル : 本当に潜るのか…… ディード : 水中でも息ができるっつってたけどな ディード : 何だ、怖いのかァ? アルシエル : 濡れるのは好かん…… リィベ : 動きに支障が出なければ良いが…まあ、佇んでいても仕方があるまい 調査員 「何か御用ですか?」 調査員 「……その質問に何か意味があるんですか?」 ローラン : まぁ、サクっと終わらせるのがいいな 調査員 「私はあなた達の成果を記録して報告するだけです。  どうかお気になさらず、頑張って来て下さい。」 リィベ : 先行する 海へ潜る? アルシエル : そうだな。ついてくよ。 ディード : まあ、水中の生き物イチイチ気にしてちゃ肝心の調査ができねーわな リィベ : (魔道具を腰のポーチに固定し、船の縁から足を踏み出し ディード : (調査員の会話を聞いた後、後を続くだろう) ローランが[はい]を選択しました あなた達は水の中へと潜っていく。 どうやら、水中呼吸の魔法具はしっかりと効果を発揮しているようだ。 それでも、水の中であるという事は変わりない。 装備の重さを考えると泳ぐのは難しいか。 水底を歩く、という慣れない体験ではあるが、 貴方たちは海底探査の一歩を踏み出した。 リィベ (やっべ会話ききそこねた…?) アルシエル (大したことは話してなかったような) [*海底探査]を覚えました。 ローラン (まぁいっぱい魚いるよくらいな) [*海底探査]を覚えました。 [*海底探査]を覚えました。 ローラン : …動きにくいな… ディード : そこらにいるな、イビルフィッシュやらも リィベ : ……やはり、動きには支障が出るか アルシエル : そうだな……避けるのは難しいかもしれん ローラン : まぁできる限り戦闘は避けていこう… ディード : おう [*海底探査]を覚えました。 リィベ : ああ 装飾が綺麗な石の扉がある。 どうやら押しても引いてもびくともしないようだ。 扉を調べてみますか? リィベ : …扉のようだが… リィベが[はい]を選択しました
目標値:15 <= 3d+知力補正+ナレッジ 達成値:18([4,2,4]+8) 判定に成功しました リィベ : どうやら、上手くいったようだ 賢いあなたは扉の仕組みをしっていた。 扉は魔法で開閉する仕組みだったはずだ。 ということは、近くに魔法の水晶があるはずだが……。 あたりを見渡すと、それらしいものがあった。 ……敵もいるようだが。 アルシエル : 仕掛け扉か? リィベ : ああ、魔力で動作する類だな ローラン : んー、なるほどな。 ディード : へえ、まあ遺跡らしいっちゃらしいな ディード : しかしまあ、開けるのはちと手間そうだが。 リィベ : …恐らく、向こうの水晶を起動すれば開くとは思うが ローラン : いるなー…魚が アルシエル : めんどくさいのが居座ってるな。 リィベ : ……障害の排除が先決のようだな ローラン : まぁ、任せた! リィベ : ……仕方が無い、か ローラン : 頼りにしてるぜ? ディード : (ちらと仕掛けらしきものに目線をやるが、そこで捉えた魚影に銃口を向けて) リィベ : oO(…しかし、水は残っているのに会話が通じるとは) リィベ : oO(随分と妙な感覚だな) リィベ : ──行くぞ ディード : おう アルシエル : うむ ローラン : 任せたー イビルフィッシュによってアクティブシーンになりました。 Round 1 イビルフィッシュ : ウォータースピア! リィベに水の槍が向かう!  達成値:17 ([6,4,5]+2)    リィベは回避しようとした。        リィベは回避した。  達成値:23 ([4,6,6]+7) Round 2 ローラン : オーいきなり… リィベ : (先手で放たれた水の槍を軽く後退して躱し アルシエル : 熱烈な歓迎だな リィベ : 確かに、威力は向上しているらしい ローラン : そりゃぁ厄介なことで… リィベ : …回避も確実とはいかないな ローラン : ん…あいよ ディード : うへ、おっかねえな… イビルフィッシュ : ウォータースピア! リィベに水の槍が向かう!  達成値:11 ([3,4,2]+2) ローラン : プロテクション!    リィベは回避しようとした。    リィベの前に魔法の障壁が現れる!        ダメージを14軽減!  ([1,6]+14)        リィベは回避した。  達成値:18 ([3,2,6]+7) リィベ : クイックアロー! 魔力の矢がイビルフィッシュに向け放たれる!  達成値:17 ([4,4,3]+6)    イビルフィッシュは抵抗しようとした。        イビルフィッシュは抵抗に失敗した。  達成値:13 ([5,5,1]+2)    イビルフィッシュに16のダメージ  ([3]+15) ディードは攻撃した。  達成値:22 ([1,5,5]+11)    イビルフィッシュは回避しようとした。([1,1,1]+2)    イビルフィッシュのファンブル!        イビルフィッシュは回避に失敗した。    イビルフィッシュに16のダメージ  ([2,2]+15)        イビルフィッシュは[重傷]になった アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:17 ([3,5,1]+8)    イビルフィッシュは抵抗しようとした。        イビルフィッシュは抵抗に失敗した。  達成値:13 ([6,2,3]+2) あなたは敵を倒し、武器を納めた。    イビルフィッシュに24のダメージ  ([6]+20)        イビルフィッシュは[気絶]になった ローラン : 余裕でよけてんじゃねーかよ… アクティブシーンが終了しました。 リィベ : 保険を掛けて損はあるまい? リィベ : お前の得意分野だろうに ローラン : …へーへー アルシエル : 無事で良かったな。うん。 ………扉が開いたようだ。 ローラン : ん…開いたな(扉のほうに視線を向けて アルシエル : では進むか リィベ : (水晶に手をかざし、魔力を励起させる ローラン : サクっといこう~ ディード : 塞いでたのが一匹だけでまあ良かったな リィベ : …… ローラン : 大量に居たらぞっとするぜ ローラン : あーいまぞっとしたわ。 リィベ : 余計なことを言ったせいで、現実になったな ローラン : 俺のせい!? リィベ : …間合いは掴んだ、が… ディード : ああ、まあそうだよな…(いるねーと言いつつ) アルシエル : 1体居れば他にも居るのは当然だな…… ディード : (扉を解錠したリィベには「ありがとな」と肩を軽く叩いて労った) リィベ : 少し遠いが…奇襲を仕掛けるか ローラン : んじゃ、任せる。 ディード : 間合い的にはまあ可能だな リィベ : (軽く手で返事を返しながらも、古びた剣を構え リィベ : 行くぞ アルシエル : うむ ディード : 遠隔が多くてよかったよ(同じく長銃を構えた) リィベによってアクティブシーンになりました。 Round 1 リィベ : クイックアロー! 魔力の矢がイビルフィッシュに向け放たれる!  達成値:15 ([4,4,1]+6)    イビルフィッシュは抵抗しようとした。        イビルフィッシュは抵抗した。  達成値:18 ([6,4,6]+2)    イビルフィッシュに7のダメージ  ([1]+15) ローラン : ブレッシング!    ディードは[ブレッシング]になった ディード : おう、ありがとさん! ディードは移動した。    ディードは[6,8]へ移動した。 アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:16 ([3,2,3]+8)    イビルフィッシュは抵抗しようとした。        イビルフィッシュは抵抗に失敗した。  達成値:13 ([1,4,6]+2)    イビルフィッシュに24のダメージ  ([6]+20)        イビルフィッシュは[重傷]になった        イビルフィッシュは[気絶]になった        イビルフィッシュは[昏睡]になった ディードは攻撃した。  達成値:26 ([5,4,6]+11)    イビルフィッシュに24のダメージ  ([3,5]+19) リィベ : クイックアロー! 魔力の矢がイビルフィッシュに向け放たれる!  達成値:19 ([3,4,6]+6)    イビルフィッシュは抵抗しようとした。        イビルフィッシュは抵抗に失敗した。  達成値:12 ([2,3,5]+2)    イビルフィッシュに17のダメージ  ([4]+15)        イビルフィッシュは[重傷]になった        イビルフィッシュは[気絶]になった        イビルフィッシュは[昏睡]になった Round 2 アクティブシーンが終了しました。 アルシエル : 片付いたな。 ローラン : ん、おつかれさん。助かるぜ ディード : 先手取ったのが幸いしたな リィベ : …二の矢を構えて正解だったか(軽く息を吐き、小さな泡が溢れる ディード : この辺りの新手はもうねえみたいだぜ アルシエル : 何もない……かな。 リィベ : …こちらは奥に繋がっていそうだな ローラン : ディードさん行こうぜ ディード : おう 水晶は青い光を放っている。 アルシエル : 水晶か……今は関係無いか リィベ : そのようだな… ローラン : んじゃァ先に… ディード : おお、遺跡にしてはやっぱ力入ってんな 上に登る泡を蹴る様に、あなたは水底へ沈む。 ローラン : 広いなー… リィベ : ……水晶が光源となっていなければ、視界も確保が厳しくなりそうだ アルシエル : 何か居るか? リィベ : 正面に1、影だけだが恐らく死角に1 ローラン : また魚か…? ディード : ゲ 道塞がれてんなァ アルシエル : かもな。ま、仕留めれば良いだろう。 ローラン : んじゃぁ頼んだ! ディード : ああ、危険があるなら排除してからの調査がいいな リィベ : …際どい間合い、だが 貴方��行く手に、魚が泳いでいるのが見える。 このまま進めば戦闘になるだろう。 リィベ : 通せるか?(魚の動きを見ながら、アルシエルへと問いかける アルシエル : 問題無いよ ディード : まあこの位置なら手前は俺が対処できるさ リィベ : ならば、行こうか リィベによってアクティブシーンになりました。 Round 1 リィベ : フルエンハンス! リィベの体に刻まれた刻印が輝きを増す───! イビルフィッシュ : ウォータースピア! リィベに水の槍が向かう!  達成値:14 ([5,4,3]+2) ローラン : プロテクション!    リィベは回避しようとした。    リィベの前に魔法の障壁が現れる!        リィベは回避した。  達成値:24 ([2,4,2,4,5]+7)        ダメージを9軽減!  ([1,1]+14) ディードは攻撃した。  達成値:18 ([1,1,5]+11)    イビルフィッシュは防御した。        ダメージを2軽減!  ([]+3)    イビルフィッシュに18のダメージ  ([2,6]+15) アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:21 ([5,2,6]+8)    イビルフィッシュは抵抗しようとした。        イビルフィッシュは抵抗に失敗した。  達成値:11 ([1,5,3]+2)    イビルフィッシュに22のダメージ  ([4]+20)        イビルフィッシュは[重傷]になった        イビルフィッシュは[気絶]になった ローラン : ブレッシング!    リィベは[ブレッシング]になった リィベ : クイックアロー! 魔力の矢がイビルフィッシュに向け放たれる!  達成値:20 ([3,3,1,3,4]+6)    イビルフィッシュは抵抗しようとした。        イビルフィッシュは抵抗に失敗した。  達成値:14 ([2,4,6]+2)    イビルフィッシュに23のダメージ  ([6]+19)        イビルフィッシュは[重傷]になった        イビルフィッシュは[気絶]になった        イビルフィッシュは[昏睡]になった ディードは攻撃した。  達成値:25 ([6,2,6]+11)    イビルフィッシュに18のダメージ  ([3,3]+15) Round 2 アクティブシーンが終了しました。 アルシエル : 良し。 ディード : おっし、ナイスだ ローラン : ん、頼もしいわ リィベ : …ふぅ(身体に浮かんだ微かな輝きが消えていく 海藻の根本を探ると、魚の卵を見つけた。 貴方の行く手に、魚が泳いでいるのが見える。 このまま進めば戦闘になるだろう。 この柱は壊せるかもしれない。 壊してみようか? ディードが[いいえ]を選択しました ディード : こっちにも一応何かあるみてーだが… アルシエル : ディード?何かあったのかー?(大声で) ローラン : んー…何があるー?ディードさんー(大声 リィベ : …周囲に気配は無さそうだが…… リィベ : (大声2人組を見て、溜息を吐きながら眉間を抑えた 貴方の行く手に、魚が泳いでいるのが見える。 このまま進めば戦闘になるだろう。 アルシエル : 何か来ても倒せばいいだろう ディード : (様子を見た後に合流し) ローラン : どうだった?ディードさん ディード : 何か一際脆そうな柱があったくらいだな リィベ : 魔力も物資も、無尽蔵という訳では無いのだがな… ディード : 探索もまだ少ねえから 何とも言えねえ アルシエル : それなら触らない方が良いな。崩れて下敷きになるやもしれん リィベ : …そうだな、こちらは狭いが通り抜けることが出来そうだ ローラン : まぁ調査だし壊すのはな… ディード : まあ、ごもっともだ ディード : (クククと笑いながら歩を進めた) アルシエル : 狭いな…… リィベ : ああ、崩れでも��たら厄介だな… ディード : この辺は柱が妙に多いな… ローラン : 野郎4人で海の中か…悲しい… アルシエル : なんだ。女無しは寂しいのか。 ローラン : 寂しいわ。 ローラン : イケメンに囲まれても嬉しくねぇ リィベ : …相変わらずだな、Romeo 遥か上に、魚が泳いでいるのが見える。 ローラン : やかましいぞLapinou ディード : はは、そりゃァ悪かったなァ ローラン : …結構進んだな アルシエル : そのようだな ディード : っと…? ローラン : ねえ、なんかいる アルシエル : 通るなら倒すしかあるまい。 ディード : 見たトコ動きはトロそうだが… ディード : パワーは随分ありそうだ ローラン : あったたら倒れるわあんなの! リィベ : …相応に体力はありそうだ、長引かせたくは無いな リィベ : まあ、良い アルシエル : 先行は任せるぞ。 ローラン : 任せた!! リィベ : 攻撃は引きつける、攻めは任せるぞ ディード : (銃に弾を装填し直し) ディード : チャージ! ディードは力をためた!    ディードは[チャージ]になった ��ーラン : ブレッシング!    リィベは[ブレッシング]になった ローラン : ブレッシング!    アルシエルは[ブレッシング]になった アルシエル : お礼は言っておく ローラン : ブレッシング!    ディードは[ブレッシング]になった ディード : おう、ありがとさん! ローラン : はい、じゃぁあとは頑張ってな!! 先に進むあなたの目に、ゆらりと大きな影が映る。 あれは水龍だ、宝のある場所を塒にする亜竜種。 あなたは武器を構え、水龍を見据えた。 アクティブシーンになりました。 Round 1 リィベは移動した。    リィベは[4,6]へ移動した。 アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:20 ([1,5,6]+8)    ブルードラゴンは抵抗しようとした。        ブルードラゴンは抵抗に失敗した。  達成値:13 ([5,4,2]+2)    ブルードラゴンに28のダメージ  ([4]+24) ローランは移動した。    ローランは[2,5]へ移動した。 ディードは移動した。    ディードは[2,4]へ移動した。 ブルードラゴン : 身体を起こす! ブルードラゴンは身体を起こしてこちらを見据えてきた。 リィベ : 覆え── チルブリーズ! 凍える風がブルードラゴンを覆う!  達成値:21 ([6,5,4]+6)    ブルードラゴンは抵抗しようとした。        ブルードラゴンは抵抗に失敗した。  達成値:12 ([4,1,5]+2)    ブルードラゴンは[烈風]になった ディード : インベナム! ブルードラゴンに猛毒の一撃が襲う!  達成値:26 ([6,3,6]+11) ブルードラゴン : ひるみ!    ブルードラゴンが攻撃に怯んだ―――!        ブルードラゴンは[ひるみ]になった    ブルードラゴンに29のダメージ  ([5,4,4,1]+19)    ブルードラゴンは[毒]になった アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:22 ([6,6,2]+8)    ブルードラゴンの抵抗は状態によって失敗した。    ブルードラゴンに27のダメージ  ([3]+24) ディードは攻撃した。  達成値:18 ([1,5,1]+11) ディードはWillを使用した!    ブルードラゴンの防御は状態によって失敗した。    ブルードラゴンに33のダメージ  ([6,4,6,2]+19) ディードは攻撃した。  達成値:19 ([2,3,3]+11) ディードはWillを使用した!    ブルードラゴンの防御は状態によって失敗した。    ブルードラゴンに37のダメージ  ([6,6,4,6]+19)    ブルードラゴンに12のダメージ  ([2]+18)    ブルードラゴンに4のダメージ      ディードは[チャージ]でなくなった Round 2 自動スクロールを解除しました。 リィベ : クイックアロー! 魔力の矢がブルードラゴンに向け放たれる!  達成値:13 ([2,3,2]+6)    ブルードラゴンに25のダメージ  ([6]+19) ディード : チャージ! ディードは力をためた!    ディードは[チャージ]になった アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:18 ([6,1,3]+8)    ブルードラゴンに29のダメージ  ([5]+24) ディードは攻撃した。  達成値:20 ([1,4,4]+11)    ブルードラゴンに30のダメージ  ([3,5,5,2]+19)        ブルードラゴンは[重傷]になった リィベ : クイックアロー! 魔力の矢がブルードラゴンに向け放たれる!  達成値:17 ([3,3,5]+6) リィベはWillを使用した!    ブルードラゴンに22のダメージ  ([3]+19) アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:16 ([1,4,3]+8) アルシエルはWillを使用した!    ブルードラゴンに27のダメージ  ([3]+24) ディード : デッドエンド! ブルードラゴンに止めの一撃を与える!  達成値:23 ([1,6,5]+11) ディードはWillを使用した!    ブルードラゴンに46のダメージ  ([3,1,2,2]+19)        ブルードラゴンは[気絶]になった アルシエル : 黒曜の矢! 魔法の矢が飛んでいく!  達成値:19 ([4,5,2]+8) アルシエルはWillを使用した!    ブルードラゴンに29のダメージ  ([5]+24)    ディードは[チャージ]でなくなった アクティブシーンが終了しました。 竜は最後に口を開いたが、そのまま地へと落ちた。 水龍、恐ろしい魔物だ。 けれど、あなたたちはそれを倒し、武器を納めた。 アルシエル : ま、問題無かったな。 ローラン : いや本当に頼もしいわ… リィベ : 体勢を整える余裕があったのが、幸いだな ディード : いや、火ィ使えなくても十分じゃねーか ローラン : 十分だなぁ… リィベ : ……ああ、恐ろしい程の魔力量だな? アルシエル : 火は当てる為に使う物だ。避けんのなら別に矢で良い。 ディード : 魔法使いってのはおっかねえもんだねェ ローラン : 怖いわ魔法使い アルシエル : 代わりに脆い。 随分と豪華な宝箱だ。 ローラン : なるほど…。と、奥なにがあるー? リィベ : 宝箱、か…随分と華美な装飾だな 鍵穴どころか、隙間一つないその奇妙な箱。 間違いなく、魔法の品だろう。 魔法でかけられた鍵であるなら、あなたは専門家だ。 ………開錠してみようか。 ディード : お、金目のモンでもあったか? アルシエル : 竜の塒だ。案外良い物かもしれんぞ リィベ : 解錠は、可能かもしれんが… リィベ : ……果たして、この状況で空けて良いものか ディード : いいんじゃね?それ込みの調査じゃねえのかい? ローラン : いいのかねぇ… アルシエル : 私もそう思うぞ。ダメとか返せとかいわれたら返せば良いだろう。 ローラン : んーまぁ試すだけならいいんじゃね? リィベ : まあ、それはそうなんだが…まあ、箱ごと持ち帰れるかも怪しいか リィベが[試してみる]を選択しました 鍵開け、上手くいく? 目標値:15 <= 3d+知力補正+フォーチュン 達成値:23([6,5,4]+8) 判定に成功しました リィベ : どうやら、上手くいったようだ ディード : 何の魔法だかわかんねえしなぁ 無事鍵をあけたあなたは、中を調べる。 中には輝かしい財宝の数々が入っていた! あなたは船に戻る事にした。 リィベ (よかった、水に溶ける類じゃなくて) ディード : お、こりゃアタリか。 アルシエル : お~ ローラン : んじゃぁ船まで戻るか ディード : 魔法を扱えるヤツァ流石だなー リィベ : 嘗ての宝物庫、と言った所か ディード : ああ アルシエル : そうするか 船に戻ろうか? リィベが[はい]を選択しました あなたは無事、船に戻った。 大量の宝の大半は依頼主のものになってしまったが、 あなた達の報酬にも上乗せされた。 海底を探索し、水竜を退け、宝を持ち帰った、 あなたたちの評判は、広がっていくだろう。 アルシエル : ちえ、やっぱり返せって言うんじゃん…… ローラン : そりゃそーだ… ディード : まあ、そんなもんだよなァ リィベ : 契約の内容としては、まあ妥当だろうさ クエストをクリアしました。 50ルド 手に入れた。 80経験点 を手に入れた。 1名誉点 を手に入れた。 リィベ : お疲れ様、無事で何よりだ ローラン : お前らがいてくれて良かったわ! ディード : ちったァ足しになりゃいいがねェ… アルシエル : お疲れ ディード : 報酬は多少は上乗せがあっただけまだ良いクライアントさ 5経験点 を手に入れた。 レビューを送信しました。 [報酬袋] を手に入れた。 ディード : さて…(宿に着けば軽く伸びをし) ディード : 今日はありがとな、リィベとローラン。 ディード : ついでにアルも。 リィベ : こちらこそ、随分と助けられた ローラン : こっちも随分助かったぜ。ありがとな ディード : おう、そりゃァ光栄だね(そう言うと冒険者手帳の1ページに自身の連絡先よ仕事内容を書き込むとそれを切り取り) ディード : (各々に渡す) ローラン : お、じゃぁこれからも頼らせてもらうぜ(受け取って ディード : ああ…なんか仕事で力が必要になったときは気軽に声かけてくれ ローラン : んじゃ、俺も(同じように紙に書いて渡し リィベ : …そうだな、手を借りる事もありそうだ アルシエル : うむ、では私も フォローしました。 フォローしました。 ローラン : お、助かるぜ ローランからフォローされました。 ディード : サンキュ(紙を受け取ればへへ、と笑って) リィベからフォローされました。 ディード : そんじゃあ俺ァ今日はこのへんで失礼するぜ アルシエル : うむ、ではまたな~ ローラン : おう、また稼ぎいこうな~ リィベ : ああ、ではな ディード : おう!またな! ディード : (そう言って銃を背負い直すと、宿を後にする)
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himatsubushini7 · 5 years ago
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朝青龍似の友人(30歳女性)が仕事で出会った取引先のイケメンに恋をした。
900:恋人は名無しさん : 2009/05/11(月) 10:39:50 ID: ID:3d9sRU8G0
巻き込まれて個人的には修羅場だった話。スレチならすまん。
朝青龍似の友人(30歳女性)が仕事で出会った取引先のイケメンに恋をした。 朝青龍はそれまで男性と付き合ったことがなく、 奥手なので面と向かってイケメンくんに告白はできない。 だから携帯に「デートにつれてけ」コールしまくり、ラブメール攻撃をしてアピール。 仕事相手だからイケメン君は着信拒否もできず、げっそりとやつれてしまった。 イケメン君には学生時代からの長いつきあいの婚約者もいるのだが、朝青龍おかまいなし。 朝青龍は、上司に注意されようが、 「どうせ自分はイケメン君と結婚して退職するんだから」と無視。 友人に諫められようが、「恋を邪魔する権利は誰にもない」とさらにパワーアップ。 誕生日に初心者丸出しのぐずぐず手編みのセー…
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weeklyliberty-blog · 8 years ago
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自著二編:「差別語の擁護」と「日本における右と左の語彙についての覚書」
わたしは差別を、特に左翼差別を提唱しています。本二編はその動機付けに役立つでしょう。
前編「差別語の擁護」では、いまやタブーと化した差別語を保守する意向が励まされます。後編「本における右と左の語彙についての覚書」では左翼それ自体が被差別イデオロギーである(べき)ことを論じます。
差別語の擁護
差別(discrimination)は絶対悪であるようだ。一部の人は「差別」と「区別」は違うと言い返したが、予想どおり、無駄であった。何が差別であり何が差別ではないか決定するのは政治であり、政治はつねに恣意的である。
「差別語」は絶対悪である。人種的や民族的、性別的、職業的、宗教的など、ありとあらゆる差別の言葉が、「問題発言」、「不適切な表現」であり、政治的に正しくない(politically incorrect)とされる。
いや、許される差別が少しだけ残っていた。白人を差別することは(特に学界では)強く奨励されている。白人異性愛成人男性を逆差別することは正当な報復(アファーマティブ・アクション)であり、西洋諸国では単なる奨励のみならず法的に強制さえされている。そして、資本家・経営者を差別する法律は全世界で強硬に、非常に徹底的に施行されている。これらは正当な差別であるか、あるいはまったく差別ではないらしい……。
さて、差別とは法律上の権利の不平等を意味する。それはしばしばアメリカ合衆国黒人奴隷制を連想させるが、必ずしも奴隷差別を指さない。子供は判断力を欠いているから不完全な参政権しか与えられない。これは差別である。女性は共産主義を促進する傾向があると考えられて十九世紀まで参政権を否定されていた(ekklesiazousai)。差別である。外国人(七十億人)が日本(一億人)で民主的に参政していいはずはない。差別である。これらの差別は明らかに正し��。特に最後の例はチベット型のジェノサイドと言われており、これを防ぐために国が作られ、国の政治が行われ、政治的な不平等が定められる。差別と不平等は政治体の本質である。
これらの差別と不平等は社会的には偏見(prejudice)として継承される。人は生まれながらにして偏見を備えており、その種の偏見はバイアスと言われる。さらに、人は育つにつれて、この世の人々がさまざまに分類されうることを理解し、自分自身の政治体に貢献する人々と、そうではなく単に政治体に寄生する人々、むしろ内部から政治体を掘り崩し、食い破り、破壊する傾向がある人々の階級の別を把握する。これらは概して、良し悪しにかかわらず、正しいかと間違いかなどこれっぽっちも関係なく、偏見であると(左翼により)言われている。
左翼に耳を貸す者は自分自身と自分の家族の人生を台無しにしてきた。これ自体は周知の事実である。しかしなぜか? なぜならば、左翼とは判断力の剥奪だからである。
あなたの先祖と先人は物事の良し悪しを判断した。彼らは悪いものごとを軽蔑した。詩的な天才が見事な侮辱語を発明した。これが人々の経験に合致して広まった。(ゆえに:差別語の階級間非対称性。)彼らの判断力のおかげで、わたしたちはそこそこうまく生きることができる。彼らの差別語のおかげで、わたしたちは不完全ながら不可欠な知恵を継承できる。わたしたちはそこから始めるか――先例に一定の信用を貸すか――それとも彼らを否認して歴史の始まりからやり直すか、選ばなければならない。
彼ら先人の知恵、予めの判断(pre-judice)はわたしの目の前のものごとに直接適用できるわけではないが、それは良い基準である。わたしたちは先人から不完全な基準を受け継ぎ、自分自身の状況に適用して、ちょっとだけ実例豊かになった不完全な基準を子孫に譲り渡す。
左翼はそれを否定する。
差別主義者め! すべての文化は等しい!(西洋の文化に命を支えられながら)
差別主義者め! すべての言語は等しい!(言語相対主義を説明できる既存言語で)
差別主義者め! すべての人種は等しい!(白人同士の結婚だけは否定しつつ)
差別主義者め! すべての民族は等しい!(IQ95以下では産業が持続できないが)
差別主義者め! すべての職業は等しい!(では身内を売春やガレー船へ)
差別主義者め! すべての性別は等しい!(最も深い違いがそこに)
差別主義者め! すべての性愛は等しい!(ホモの乱交とHIV率、破滅願望は?)
温故知新は差別に関しては否定される。しかし平等を信じる者は人生を台無しにする。それは結局は、無階級社会(「共産主義」)を信じることだからである。共産主義は明のそれも暗のそれも悉く失敗する。
よくある反論は、我々は行き過ぎた差別や暴力的な差別に反対しているのだ、というものだ。へえ? それではあなたの努力��の左翼内の自浄作用に期待しつつ、わたしの話に戻ろう。
差別を受け継ぐ最も強力な手段は、それを単なる信念(左翼語で「偏見」、「迷信」)から知識(左翼語で「疑似科学」)へと高めることである。しかしこれは差別意識(階級間不平等の関心)の後から来る。
差別意識そのものを育むための手段は侮辱であり、それが様式化された差別語である。もしもあなたに守るべきものがあるならば、もしもあなたが実際的な知恵の世代間継承者でありたいならば、あなたは差別語を継承しなければならない。
公然と濫用せよと言っているわけではない。礼儀と作法を守れ――守らぬ者を厳しく差別せよ。卑語は使うな、差別語を使え。個々の事例に即し、厳格な人選の下、適切な機会に使用せよ。
日本における右と左の語彙についての覚書
 エリック・フォン・クーネルト=レディンの『左翼再考』とノルベルト・ボッビオの『右と左』を読むに、右翼が貴族主義と自由主義[1]、保守主義を示し、[2]左翼が民主主義と社会主義、共産主義を含むのは偶然ではないようだ。西洋文化においては、聖書言語から議会政治まで、右は正しさを、左は不吉さを共示していた。
しかしながら、平安時代の日本では、同じ高さの職掌を左右に分けるとき、左の司が上、右はその下に配られた。左大臣は右大臣より尊かった。これは文化相対主義者が決定的な意味を見出している何かである――これで話は終わりだ、とでも言わんばかりに。遠い昔の潰れた王朝の役職名がすべてなのだろう。『太平記』で右が尊い扱いを受けたことは、彼らのほぼ全員が端的に軽視する。
それでは、日本語――日本文化全体[3]の結晶――における右と左の共示を調べてみよう。日本人の感覚としては、物事は右から来て左へ抜けるようだ。貯まらぬ金の流れは「右から左」へ、聞き流される声は「右の耳から左の耳」へ。とかく「右へ倣え」。
信頼できる部下は右腕(みぎうで)、右の腕(みぎのうで)である。大切な本は座右(ざゆう)の書という。左す(ひだりす)、左にす(ひだりにす)は蔑ろにするを意味する。結局、人類の多くは右利きであり、右勝手(みぎがって)なのである。左利き――ギッチョ、ヒダリギッチョは頻りに矯正を求められた。左勝手(ひだりがって)、左構え(ひだりがまえ)とは、逆勝手(ぎゃくがって、さかがって)、非勝手(ひがって)の同義語である。「不亦左乎」は「不都合ではないか」と訳される。良いものごとは多数派の利き手の側に有るのが秩序正しい。
右手が巧みに動くから、着物は右から身に着けるようになった。(この話題では帯の締め方と乳の遣り方も忘れてはならない。��衣服令』は余計なお世話であった)。左前(ひだりまえ)は死んだ人の着方であり、きわめて不吉とされる。準じて、凶事に用いる書状は左封じ(ひだりふうじ)にされる。中国では左前――左衽――は夷狄の着方と考えられた。かくて日本では不躾な夷膳(えびすぜん)がまた左膳(ひだりぜん)とも言われる。経済的な落ち目――究極的には食い扶持の喪失、飢え死を意味する――も戯れで左前と言われる。[4]あえて不器用な手で扇を煽る左団扇(ひだりうちわ)、左扇(ひだりおうぎ)――イメージの上では、あぐらをかいてふんぞり返りながら、右手は頬杖をついている――は経済的な余裕を仄めかす。
文明と道具が発達した北半球では、太陽は東に沈み、影は右に回る。ゆえに時計は右巻きである。紐を巻きつけるとき右腕は自ずと右回りに動く。正常な進行に逆らう左巻き(ひだりまき)は、「知能が足りないこと。頭がおかしいこと。また、その人」(大辞林)と定義される。左様(ひだりざま)は正しい道に反するさまを意味する。左縄(ひだりなわ)は役に立たないことを例える。こちらが右と言えば左と言うのは天邪鬼だ。かつてのモロコシの言葉、漢語では、地位や官位を下げることは左遷(させん)という。右を正しく尊いとしたからだ。漢語の左道(さとう、さどう)とサンクスリット語のヴァーママールガ(左の道)は邪道を意味した。今のモロコシ語では、right(ライト)は右、権利、正しさを意味し、かたやleft(レフト)は弱い、弱々しいの意のlyftに由来する。古代ローマ帝国以来、ラテン語圏ではsinister(シニスター)は不吉を仄めかす。よしや否定的な共示をもたずとも、左文字(ひだりもじ)、左弓(ひだりゆみ)、左打ち(ひだりうち)――左が普通とは逆であること、異常性を仄めかすことに変わりはない。
横書きでの左書き(ひだりがき)が常態化したのは西洋化に伴ってのことだ。漢語圏では右上からものを記すことに因み、初めから、もとよりの意では「右より」(みぎより)という。大和言葉では普通、右と左(みぎとひだり)や右左(みぎひだり)の順に読む。あえて左右(ひだりみぎ)と読むとき、それは「左と右の位置が逆になること」(大辞林、強調付加)を仄めかす。左右(さゆう)は「左右に託す」などと、「みぎともひだりとも態度をはっきりさせないこと」(同上)を仄めかす。はっきりさせるとき、最も優れた人より「右に出る者はいない」。
左右は、一見すると単なる相対的な観念にすぎないかのように誤解されがちである。しかし、これ以上に根深く不平等と優劣尊卑を孕む概念はそうそうない。���りのとき命を左右するのは武器を持つ手であった。手とは、あるいはアリス���テレスが述べたとおり、道具の道具である。あるいはカントが触れたとおり、方位と直観の象徴である。道具としての手が現象のすべてを秩序付けるのであり、秩序付けられた物事にはすべて、象徴としての手が――右と左が刻印される。
経験的に、人は利き手をもつ。左右の設計はしばしば所与の技術水準での効用と発展性を制限する。たとえば、日本では自動車は右ハンドルであり、運転しながら左手でギアを操作しなければならない。一九八〇年代にマニュアル車に乗って上下左右に曲がりくねった狭い高速道路で時速100kmを出しつつ左手でギアを操作しながら追い越しを試みていたのは実に狂気の沙汰であった。左右の無関心(平等)はしばしば死に直結する。
人類全体の約九割が恒常的に右利きである。この経験はどんなテロルとポリコレでも曲げることができない。それだけではない。動物も利き手をもつ。ゴリラやチンパンジーは右利きが多く、オランウータンは左利きが多い。犬と猫はおろか、魚や虫にも、右利きと左利きがある。この経験を消すことはできない。動物の左右非対称性に最も強く関連する遺伝子はPCSK6だと考えられており、これが利き手にも関連しているようだ。人が右利きがちなのは右手を制御する左脳が発達しているからだと考えられている。左脳はブローカ野とウェルニッケ野など言語中枢が収まっている。人類の右利き傾向の原因は言語機能の発達に求められるかもしれない。そしたら、左右の不平等、いわば右尊左卑の否認は、究極的には全人類の失語化でしか成し遂げることができないだろう。文明化――言語的・物質的な秩序付け――が進むほど、言語の帰結として、左右の不平等は明徴にされる。右と左の価値はいわば文明普遍的なのである。
上の理論的考察が先の語彙的叙述にも適用される。日本の文明化過程における意味論的な発達は、はっきりと右尊左卑の認識を示していたようだ。左翼相対主義者は否認するが――テロルとポリコレによって。
わたしとしては、「右翼」もよし。しかし他の日本語も大切にしたい。わたしの心は決して左右開きではなく、右勝手に開かれる。わたしより尊い人、優れた人は、わたしより右にいる。最も優れた人より右に出る者はいない。かたわら、彼ら左翼(源流ジャコバン、極左ボリシェヴィキから左の中では極右のナチ・ファッショまで、今の左翼の代表格たるサヨリベとその派生、ネオコン)のイデオロギーはいずれも、歴史と名前が示すとおり、左前――致命的に不吉――である(ジャコバン、ボリシェヴィキ、ナチ・ファッショ、サヨリベ・ネオコンはすべてジェノサイドに従事した)。彼らは左巻き(「知能が足りない」、「頭がおかしい」)か左様(「邪悪」)であり、一般的には左縄(「役に立たない」)、ついでに言えば典型的に左膳(「無礼」)である。
わたしとしては、左する(自動詞、「左傾化している」)者ほど左にする(他動詞、「蔑ろにする」)つもりである。この持論は明らかに右翼的であり、差別主義的・反平等主義的である。わたしは他が等しくば左利きより右利きの方が優れているとまで言い含めている。ああそうだ、右と左は平等ではない。右と左の間には差別がある。この差別は事実的であり、事実に基づく価値がある。正しい事実認識に則って正しい価値評価を下す者は右に寄る――上に立つ。
右翼と左翼の概念は、フランス諸革命での左翼の楯突き――下からの反抗――によって生まれた。フランス革命、あるいはフランス政治革命(一七八九~九九年)では、王政派と立憲王政派が議会の右翼に座した。共和派と民主派が左翼に座した。しかし、王政派を打倒し、立憲王政派フイヤンの自由主義を否定して、革命を乗っ取ったジャコバンにより、平等元年が始まった。極左ではバブーフら平等派がすべての横並びと横倒しを要求していた。それから約五十年後の二月革命、あるいは「この革命は政治的のみならず社会〔主義〕的でもなければならない」のフランス社会革命(一八四八年)、いわゆる「社会共和国」(マルクス)までには、右翼とは概ね保守主義者と自由主義者、正統主義者を指すようになった。フランス右翼は「秩序、財産、宗教」の秩序党に集まり、スペイン右翼は「秩序の人」と呼ばれた。かたや左翼には凡そ社会主義者と共産主義者、共和主義者が含まれた。[5]これが古典的な右翼と左翼である。この第二の革命以来、右翼――自由主義者と保守主義者、貴族政の支持者――は敗北に敗北を重ねることになった。この二つの革命以降、左翼は政府を通して社会のすべてを横取りし、社会のすべてに横槍を入れ始めた。言い換えれば、秩序(差別と格付け)を犠牲に、平等(無差別と無関心)が勝利したのだった。ヨーロッパでは、教皇、司祭、君主、貴族、平民の縦社会は失われた。日本では第二次大戦敗戦により、皇族、華族、士族、平民の階級が失われた。
かくて右は消えた。現行の政体はすべて社会民主制であり、現代の「右翼」は概して左翼の分家である。「右翼」という言葉が汚されるのは避けられなかった。杉田元議員の素晴らしい作品『なぜ私は左翼と戦うのか』は、好意的ながら「タイトルは過激だが」と題されたレビューをアマゾンで受けた。「右翼」一般がオドロオドロしく暴力的な反社会的勢力か何かと想定される。それは皇族や華族、士族でなければ、彼ら上級市民の支配を受け入れるつもりの平民でもない。低い階層を這いずる匿名多数の大衆。それは知性的でも道徳的でもなく、馬鹿で感傷的、憎しみに満ちた、自分のことしか考えない人物。左翼に管理され、治療されなければならない存在。低学歴で低所得な右翼が、高学歴で高所得な左翼に楯突くのだ、と。
そのような横紙破りは、右と左の語彙をリフレッシュした自由主義者・保守主義者・貴族主義者にとっては、左様な左翼の左膳で左縄な左巻きにすぎまい。
自らを政治的に表現する人はみな、スペクトルのどこかに飛び込まなければならない。左右スペクトルの否認[6]は象牙の塔や泡沫クラブでしか機能しない。既存のスペクトル上のイデオロギーがどれほど不完全で、どれほど納得いかなかろうとも、そこから始めなければならないのである。そのとき、わたしが社会主義者、共産主義者、民主主義者の間に――左に定着することはできないだろう。フランス革命にせよリバタリアン運動にせよ、当初こそ左とともに始まった自由主義は、すべて右(秩序)へと流れていったのだった。
自由は右である。
[1] ここで考えられているのはイデオロギーだが、イデオローグとしては古典時代の代表的自由主義者――バンジャマン・コンスタン、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、ド・トクヴィル、フランソワ・ギゾ、フランシス・マルティネス・デ・ラ・ロサス、フアン・ドノソ・コルテス、アクトン卿、ギュスターヴ・ド・モリナリ、ウィームス伯爵フランシス・チャータリス、ヴィルフレド・パレート、アルバート・ジェイ・ノックなど。自ずと例外もある――ジャン=バティスト・セー、バスティア、リチャード・コブデン、後期グラッドストン卿など。しかしセーの産業主義と民主主義などの左翼的な要素は悉く社会主義に歓迎されており、自由主義を自由主義たらしめる本質とは言えない。ジョン・ロックは彼ら十九世紀人から遡及される自由主義者にすぎず、革命以前の人物であるから、左右スペクトルは直接には適用されない。ベンサムとJ・S・ミルはあくまで急進主義者(社会主義者)であり、自由主義者ではない。
[2] 右翼がつねに一致団結していたと言っているわけではない。かたやアンソニー・ルドヴィチまでの優れた保守主義者は自由主義を――しばしば適切に――非難してきた。かたやマリー・ロスバードまでの優れた自由主義者は保守主義を――またも、しばしば適切に――攻撃してきた。それでもなお彼らは右翼であった。
[3] 日本の「伝統文化といわれるものの大半は、中世寺社に起源を持つ」(伊藤正敏『寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民』10ページ)。また関連する指針のために、折口信夫『神道に現れた民族論理』を見よ――わたし自身はそれに従うには管見にすぎたが――いわく、
日本人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の処で、最古い文章だ、と思はれるのは、祝詞の型をつくつた、呪詞であつて、其が、日本人の思考の法則を、種々に展開させて来てゐるのである。私は此意味で、凡日本民族の古代生活を知らうと思ふ者は、文芸家でも、宗教家でも、又倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の���究から出発せねばならぬ、と思ふ。
[4] 実際、クーネルト=レディンは右の優越の文明普遍性を示すために日本語のhidarimaeに言及する。
[5] ゆえに共和派自由主義者は行き過ぎていると、「超自由主義者」(« ultralibéraux »)と呼ばれて非難された。
[6] ノーラン・チャートのような二次元的拡張もしかり。
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weeklyliberty-blog · 8 years ago
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J=B・セーと産業主義の起源
J.-B. Say et les origines de l’industrialisme, par Édgard Allix, dans Revue d’économie politique (1910)
訳序
industrialisme:産業主義。
industrie:勤労/産業。(定訳どおり。勤労は産業を構成する要素であり、産業は勤労の体系的な帰結である。ところが日本語では「勤労」はしばしば労働の美称にすぎない。)
produit immatériel:非物質的生産物。(一般には辞書的に「無形生産物」と訳されるが、悪訳であろう。セーがmatérielのみならずimmatérielな生産物もありと主張したのは、すべての生産を物質の創造ではなく形式の創造に、つまり人為的な有形性に求めるからである。immatérielは英語ではintangible――語源的には、接触不可能――と訳されるが、これも無形とは異なる。)
administration:経営/行政。
本文
「産業主義」のサン=シモン主義的なものが、近年、幾つもの作品の対象にされた。ヴェイユ氏とE・シャルレティー氏の共著[1]を継いで、E・アレヴィー氏の研究[2]は特に、サン=シモンのシステムと、シャルル・コントとデュノワイエの『ヨーロッパ監査官』で解説された自由主義理論、以上両者の間の接続点を調べた。一八一七年、「サン=シモンとオーギュスタン・ティエリ、シャルル・コント、デュノワイエは同時に、積極的政治学とはアダム・スミスとJ=B・セーが述べたとおりの政治経済であると見て取った」[3]。
我々はここで、J=B・セーの産業主義への貢献を決定し、それがしばしば思われているよりはるか直接的であることを証明するつもりである。産業主義テーゼはスミスとセーの学説の一般的精神に単純に鼓吹されたのではなく、セーの『論考』に少なくとも本質的な要素として潜在的な状態ですでに含まれていた。これこそは、我々がこの見地で『論考』を分析し、『監査官』とサン=シモンの理論を近づけることで確立したいことがらである。
J=B・セーはアダム・スミスの犠牲者である。彼を『国富論』の普及者としか見ない勢いで、彼の作品の独創的な価値と射程が忘れ去られたけれども、我々が信じるとおり、それが王政復古下フランスでの政治的経済的理念の運動の根本的部分を担っているのが真実であるならば、その歴史的意義はかなりのものである。
J=B・セーは、政治経済を生産理論であるとみなしただの、人の道徳的条件より生産物の増加に気をもむ経済的「物質主義」の類に陥っているだのと繰り返し非難された。[4]
セーがその名声の大部分を負う『政治経済論考』は、その表題と副題の一般性にもかかわらず、この傾向性の最終過程の価値を調査しようとはせず、��によりも富の形成の論考である。分配は要約的な素描の対象にすぎない。いつもの自由主義学派の程度とは違って明敏にも、セーがこれに関わる喫緊の疑問を意識していたのは疑いない。いわく、「最大多数派階級の生産物分担は生産分担と正確に比例するか?」[5]。彼は社会的所得分担での労働者の不利な状況を手早くも精力的に目立たせる。[6]しかし、彼はこれを力説せず、事実を指摘する。それがはその関心の本質的な対象でないことは明らかであり、彼にとって――彼自身が言うとおり――生産の研究は分配のそれより重要である。[7]同様に、消費は生産との関係においてしか、ほとんど関心がない。彼は、資本を蓄積する経済を褒め称えるため、そして、それを消散させる公私の浪費について、破壊的消費と生産的消費の区別を十分に開発する。
ところで、彼の中傷者が後に彼を批判するかど、そして現代人の精神を掴んだのは、まさしく彼の作品のこの性格である。J=B・セーが彼の世代に及ぼした影響力はここから来ている。
各世代は一定の大志を抱いているが、それは優勢な理念において定式化や凝縮を遂げられるまでは曖昧にしか意識されない。人間の精神にとって、システムとは必然性である。社会の混乱した傾向性は、それを浮き彫りにする理論の周りに組織化されることでしか形にならない。
一八一五年、フランスは民族の過去最大の努力を尽くして、自由と静寂の途方もない必要性を感じ取った。殺人的闘争の十五年間、その敗北と侵略での終結、帝国的役人による市民的生命の拡張兵舎の体制は、人に戦争への恐怖と権力濫用への憎悪を吹き込んだ。この国は公論家が「軍事政府」と呼んだものを一掃したがったのであり、フランスで反軍国主義の第一次炸裂が生じたのはこのころということができる。
しかし、この「軍事政府」という憎い定式を新しい定式に取り替えなければならない。ここで自由主義が頼ったのは政治経済であった。それは過去を散らして未来を導くべき二つの理念のアンチテーゼにおいてフランスの怨恨と大志を要約した――破壊・生産だ。
征服と略奪でしか維持されない、富の破壊者たる政府は、労働と勤労で富をなし、生産の不可欠な条件であるゆえに財産と自由を尊敬する生産者体制に対立する。高くつく体制と生み出す体制の対立だ。
ほぼ二十年間、経済的綱領にして政治的綱領となった、この「生産」という肥沃な理念を流通の上に打ち出したのが、J=B・セーの当時の功績であった。
セーが多くのところでと同じく、ここでも部分的にはアダム・スミスの作品に鼓吹されていたのは疑いない。リスト氏は『国富論』の著者に捧げる注目すべき章で、「ときに行われるようにスミスを産業主義の先駆者や前触れとして提示し、農業の擁護者とみなされるフィジオクラートと対照する以上の間違えはない」[8]と述べる。リスト氏が言うとおり、確かにアダム・スミスはすみずみに至るまで農業を持ちこたえていたし、彼の筆の下では逐一フィジオクラートな理念が表れるし、彼はものごとを深めるとき、ケネーの学説をしばしば論駁よりは改正でとりなしていたようだ。[9]しかし我々は、同時代人がその作品に見出したことと、彼らが保ち続けたことにも気づかなければならない。よしやゲルマン・ゲルニエが彼を「フランス経済学者との類似を慎重に避ける」ようにしていたと咎めたにせよ、彼らからフィジオクラート的なところが全面的に消えていたことに疑いはない。彼は彼らを「農業システム」の敵対者であるとみる。彼らに感銘を与えたのは、「民族の年次労働が原始的基金である」という皮切りの大原理と、労働と和平の術で自由人民が絶え間なく自ら繁栄するという理念である。[10]
ヴィタル・ルーは彼の本『商業の繁栄に対しての政府の影響について』(1800)で、「不滅のスミス〔原文ではドイツ語の形でSchmidt〕がその作品でよく開発した」原理の適用を誇りにしながら、すでに「野蛮な民族を破滅、戦争に導く大志が、商人には祖国愛を鼓吹する。或る人々の幸せは破壊のうちにあり、他の人々の幸福はみなの繁栄のうちにある」と記している。
しかしフランスにスミスを知らしめ、とりわけ彼の生産理論の矯正と拡大に他の誰より貢献したのはJ=B・セーである。ドスチュ・ド・トラシーが言うとおり[11]、「生産の問題は多くの賢人に扱われており、その頂点にはテュルゴとスミスがいるが、わたしに言わせれば、わたしがこの主題について最もよく知っている著者、セー氏よりもよくこれを啓蒙した人はいない」。『国富論』を読んだことのない人は啓蒙階級でさえ多かったが、『論考』を読んだことのない人は少なかった。彼らが生産の将来へと勤労の社会的政治的使命への信念を引き出したのは『論考』なのである。
セーの経済理論は、実際、生産者に無制限の展望を開いているようにみえる。彼は「販路」において、生産の限界をほぼ無限に引き伸ばす価値法則を述べる。すなわち、富とは価値をもつ物であり、価値は――しばしば言われるとおり――効用に基づく。[12]彼が念のため言うには、すべての富は専ら土地から来るとフィジオクラートともに信じるかぎり、延長し増加する富の手段は非常に制限されていると考えてしまわなければならない。[13]アダム・スミスその人も労働を価値の唯一の源泉をみなしたので、人間的産業の異様な進歩を説明することができずにいる。「スミスは我々の社会に群がる非生産的な無為者と労働者��もかかわらずこの文明人が享受する生産物の豊富さを粗野な諸民族の赤貧と比較して説明することに非常に手間取っている」[14]。彼は分業に訴えたが、分業に或る種の奇跡的な美徳を帰するように強いられた。実際、彼の価値学説が富を人的労働の結合の果実としか見ないよう拘束するのである。
彼は、価値を端的に効用から生まれるものと理解していたとすれば、自然の作用もまた効用生産的で、ゆえに価値生産的であるとみていたことだろう。「自然はほとんどつねに、[15]人とその道具の労働と共同しており、この共同において我々は労働の節約と資本の節約にもっと成功することで一層の利益を得る。この節約は必ずや費用がかかるもので、我々がなんとか生産物の最大部分を成し遂げるための手段は、自然の無償サービスなのである」[16]。
かくて、すべての「システム」は致富の可能性を恣意的に制限するという共通の誤りに陥ってきた。生産的階級はフィジオクラートが考えているよりはるかに広い。製造業と商業、輸送業、諸々の士業が、農業と同じように効用を、つまり富を創造するし、セーの同時代人はその最善の証明として商業の生産性を考えていた。生産「資金」は土地や農業には限られない。自然、労働、資本は同じように効用創造に貢献するのである。
「富の一点一点すべてを創造する」[17]ことができると示したのは政治経済の「大発見」であった――「これがそれをかつてなく貴重なものにした」。生産性の源泉は膨大で、人の手の届くところにある。彼らは認識して意志するにすぎない。「富は、人の勤労が道具の助けで物に付す価値から成り立っており、各民族のまさにその胸の中で、そのような効果を及ぼすような仕方によって、創造され破壊されること、増加され逓減されることができる。重要な真理よ。なぜならば、それは人が合理的に欲望する財を、それを得るための真の手段を知って用いるかぎり、人の手の届くところに置くからだ」[18]。
勤労の生産力は無知と国家の悪政にしか制限されない。[19]啓蒙を広めて政府を改善せよ、あるいはむしろ、彼らが害なすのを妨げよ。そしたら富の増加に課されうる制限はなくなるだろう。
セーの楽観主義はイギリス人経済学者の新学説に掠ってすらいなかった。実際、彼はその射程を正確に理解することなく一生涯彼らと討論するのである。彼には他人の意見を取り入れる柔軟性がなかった。リカードは書簡で彼を、それを理解しておらず論争を避けていると非難した。実際、彼が拒絶した賃金理論において、彼は言葉の問題しか見ておらず、彼が採用した人口理論においては、その根本的な要素、すなわち比例未満の収穫の法則を解きほぐすには及ばなかった。
マルサスの学説は実際には人間的産業の不可能性の宣言である。人の増加と生産物の増加の間には致命的な「不一致」がある。耕作の法則は増大する障害を生存手段の増加に対立させ、人口の運動は生産の不十分さによって足を引っ張られる。
これがマルサスの理論の核心であり、セーはこれに気づかなかった。彼はこれを、生産の利益を称賛するための更なる議論を加える定式、楽観的な感覚で論評する要約的定式に還元する。すなわち、他がすべて等しくば、人の数は生産物の量に比例する。[20]そして、彼は速やかに結論を引き出す。「生産を促進する以外で人口を増加させることはできないし、生産の源泉を攻撃する以上に、少なくとも持続的な仕方で、人口を減少させることはできない」。[21]
しかしながら、セーは『論考』最終版[22]と『完全講義』[23]において生産の制限を寸評しなければと感じる。生産は「食料品がその生みうるサービス以上に価値をもつ点」で停止する。しかし彼は、すべての資源とその使用法を知っているならば、この末期から遠くない国はないと保証することで、このがっかりな見解を速やかに引き離す。彼の本当の考えが表現さいるのは、「不幸を蒙っている国の場合において、人間の数の削減ではなく、生産物の量の増加を望まなければならず、それは人口が活発で、勤労し、経済的であり、良く統治されるとき、すなわちわずかしか統治されないとき、つねに余地がある」[24]と言うときである。この最後の命題はマルサスの理論の精神とは明らかに矛盾しており、マルサスと〔アレクサンダー・〕エヴェレットを論駁した或る著者は、いみじくもセーに宛てて述べることができた。「人口に関するわたしの見解は全般的なトーンにおいてマルサスのそれよりあなたの哲学に一致していると思われます」[25]。
いずれにせよセーにとっては勤労が人口の基礎になり、マルサスの学説はフランス政治経済を経て産業主義学説に変貌し始めた。マルサスは人が悪を帰する政府の落ち度ではなく自然から社会悪が生じると証明するための保守的な意図で『試論』(『人口論』)を著したかたわら、それはフランスでは、社会の致命的問題を解決する際の政府の無能を証明し、それを「生産物の母、勤労」[26]に手渡すよう促すという政治的な反対の精神で利用された。諸国家と諸州の境界、諸民族の法律と習俗は偶然的な境遇にすぎず、その産業の発達への影響力によって間接的にしか人口に影響しない。マルサスの『試論』は思いがけない迂回によって、社会とはその産業がなすところのものであるという原理の裏付けを果たしたのである。
社会悪は生産の不十分から生じるのであり、この理念は有名な販路理論でなお例証される。過剰生産に帰せられる経済危機は実際には過少生産から生じる。生産物は生産物と交換されるから、それらが売り渡されないとしたら、それは相手方の欠如ゆえなのである。「他の生産物が足りないから一定の生産物は過剰なのである」。
したがって、危機の対策は均衡を再確立するため、立ち遅れたままの部門でさらに生産することである。それに実を言うと、この均衡はめったに歪曲されないだろう。「もしもすべてがつねに全面的な自由に委ね��れるならば、或る種の生産はめったに他のを凌がないだろう」。[27]他方を渋滞させるこの不足を一方で維持するためには、「自然的または政治的な災害、強欲や政府の蒙昧のような、主な原因か暴力的な手段」がなければならない。[28]ここでもまた、落ち度は政府から来るのが普通であり、救済は産業からなのである。
販路の理論は生産の治療的作用に光を当てるだけではない。それは当時の精神に相当の印象を与えたもっと広い射程の帰結を含意する。実に、それは勤労が全個人と全民族の利害関心を一致団結させると示す。「民族は、近隣民族が繁栄することに関心をもち、その裕福さから利益を得ることを保証される」。[29]すべての国の生産者の間には真の共同体が存在し、すべての人はどこから生じた産業的進歩であれ利益を得る。したがって、産業的精神は国際調和と平和の精神である。「啓蒙された諸人民の愛国は人類に拡張する」。[30]
アンチテーゼは速やかに戦争精神に求められる、というのもそれが富をなす唯一の源泉は外国人の略奪だからである。セーいわく、「政府が一般的富を増加するには二つの手段しかない――安全を保障し財産を尊重するか、他民族から奪い取るかだ。後者のシステムは「権力と致富の技量を濫用する者が則るシステムに類比される。それは生産せず、他人の生産物を掠め取る」。[31]
セーの門弟たちはこの対照を発達させて悦に入る。これが専制に抗する彼らお気に入りの武器になる。勤労が人々の調和を実現するから、「ヨーロッパの古国家の排他的で嫉妬深い格律」[32]は政治的経済的ナンセンスである。この科学は諸民族の分断を無視する。それは、生産する者と生産しない者、富を創造する者と破壊する者の間の、深遠で普遍的な区別しか知らない。マルクス主義的な階級闘争の理念はそのルーツをセーの学派の自由主義学説におく。マルクスは中世以降の歴史をすべてノブレスとブルジョワジーの闘争に帰するギゾとオーギュスタン・ティエリからそれを変更しつつ借りた。しかしA・ティエリがサン=シモンの学説と『ヨーロッパ監査官』から引き出したこの理念はセーに関連している。しかしながらこの闘争は、マルクスにとっては生産的階級内においてさえプロレタリアと資本家の間で生じるが、セーと彼の門徒にとってはあくまでも生産的階級と非生産的階級の間にある。彼らはこう叫ぶのも本意であろう。「万国の生産者よ、団結せよ!」
セーの着想の政治的射程はこれまで適切な注目を受けていなかったが産業主義すべての芽生えを含んだ一節において特殊な仕方で明らかになる。それは一八〇三年版にすでに現れており、以降で正確、完全にされている。それは「産業の進歩から近代人に生まれる依存」[33]と題される。古代においては、土地も資本も産業所得ももたなかった平民は、公人のクリエンテスに身を窶した。近代人においては、産業的才能をもつすべての人は独立している。大王はもはや被征服者からの略奪品を友人に分配することができない。「民族の大半は大王に仕えることにはほとんど利益がない��、公共に仕えること、すなわち産業を活用することには多くの利益があると気づく……政府は遠い昔は人民に授けていた援助を人民から得る。かくて、近代的全民族の全体は政府が転覆したのとほとんど同じ状態に留まるのである」。[34]
一八一七年版で加えていわく、「この観察から引き出さるべき他の帰結は、政府が生産者の助力でしか自身を維持できないので、つねに一層生産者に依存することと、自らその補助金の主人となりうるすべての民族はつねによく統治されるだろうこと、この平和の術以外に資源を求めるすべての政府はすべての軍事政府と同じように長きにわたって自身を維持することができないことである」。[35]
そのうえ、政治経済は人と制度の社会的価値を判断する基準を設ける。それらが費やすものとそれらがもたらすものを比べれば事足りるし、セーの考えでは非物質的生産物の理論は人間活動の全部門にその適用を広げる効果をもつ。[36]この見地からは、社会で対立する二つの集団がただちに区別される。もたらさずに費やす集団か、もたらした上で費やし、物の力により、他人を養う集団かだ。さて、前者は自由主義が闘争する全権力を含んでおり、後者はそれが支持するすべてなので、政治経済はここで政治に同定されることになる。
富の破壊者の範疇にはまず軍と政府が入る。「スミスは兵士を非生産的労働者と呼ぶが、ああ! むしろ破壊的労働者なのである」。それはいかなる生産物でも社会を富ませず、彼自身の維持に必要なものを消費するのみならず、他人の労働の辛い果実を自分自身のための無駄に破壊することに頼ること頻りである」[37]。彼が繰り返しバンジャマン・コンスタンから一節を引用していわく、「戦争の費用はその支出よりも高くつく。稼ぐに差し支えることで高くつくのである」[38]、そしてそれは国が産業的であるほど悍ましい。しかもそれは進化の論理それ自体によって後に非難される。近代戦争は次のとおりの矛盾を含意する。すなわち、科学的で高価となり、ますます勤労の助けを必要とすることや、軍に優れたエンジンや弾薬などを備えなければならないこと。ゆえに今日では富が戦争の遂行に不可欠であること、ところがこれは勤労によってしか提供できないこと、産業的な人々は軍事力の唯一の有能者であるが、彼らは自ずと平和的であること。なぜならば「戦争が勤労を要するとしても、勤労は戦争を維持できない」からである。
かたわら、生産術の進歩はますます軍隊を募りにくくする。農業者、製造業者は、深い先入見なしで労働をやめることができない。財産家と資本家は休憩よりむしろ貨幣を犠牲にすることを好む。したがって、もはや真の国民軍はありえず、いるのは賃金兵士であり、「その仕事は国を守ること――そして、彼らの指導者の情念と暴政の道具たること頻りである」[39]。
啓蒙――と販路法則の知識――の増加が、すべての民族はその本性からして友であることをついに理解させるだろう。最終的には、軍事政府は事前の訓練が必要なわずかな騎兵と砲兵の部隊に削減されるだろう。国家の武力は市民軍と良い制度のうちに存するだろう。[40]
政府もまた、少なくとも専制的であるときは、富の破壊者である。セーは彼の後継者たちの妥協なき反国家の先入見を分かち合っていないが、彼がその活動を無に還元していることは複数の例によって証明できる。にもかかわらず、彼が政府を国民の負債に計上していることは明らかである。これこそ彼の非物質的生産物理論の曖昧さと諸刃の性質が現れるところである。それは、国家のサービスはすべて非物質的生産物であるから政治経済の障害であると読み取ることを許してしまう。「公や判事、司祭は速やかに政治経済の攻撃の対象に陥るとヴェッリ伯爵が主張したのは間違っている」[41]。
したがって、政府階級は生産的階級に入らなければならないようだ。ひとえに、まずは非物質的生産物はそうでないものより劣っていると言わなければならない。それは「非耐久的」生産物であり、国民資本を蓄積することも増加することもできず、ゆえに、生産されると同時に消費される非物質的富の生産的労働を最小限に削減することが社会の最大の関心である。そのうえ、生産される価値がその創造のために消費される価値を超える場合にしか真の生産はない。そして経済的な見地から言えば、国家のサービスは普通しかるべきものではないことが、いみじくも経験で確かめられている。したがって最善の政府は安い政府、可能な限り行動を起こさない政府であり、最善の財政計画は少なく支出すること、最善の課税は最小の課税である。[42]国制問題にかくも大なる重要性を付すのは間違っている。「国家は適切に経営されるならば、あらゆる形態の政府の下で繁栄できる。我々は絶対君主制がその国を富ませ、大衆議会がその国を滅ぼすところを見た。行政の形態それ自体は富の形成には間接的、偶然的にしか影響しない。富とはほぼ全面的に諸個人の作品なのである」[43]。
聖職者は役人と同じ評価を受ける。セーは或る一節で矢を放つ。いわく、超自然的な力の干渉が道徳の維持に必要であると思われるとき、「我々はその力の遂行者を自称する人々に金を払っている」。もしも彼らの労働が有用であるならば、その効用は無価値ではない非生産的生産物であるが、この人々は優れた人々ではないならば、その労働はちっとも効用生産的ではないし、聖職者たちを養うために犠牲にされた社会の収益の部分は無駄であって、それはどんな見返りを受けることもない交換である」[44]。そして『政治経済要理』(1817)は狡猾な疑問を立てる。「公共は聖職者に給与を支払うことで何の利益を得ると自惚れているのか」?
また、政治経済は自由主義的な対照がその鼻先に見出す階級をすべて非難する。
それでは、このファランクスを構成する生産者の、あるいはセーが誇らしげに父権を請求する名[45]、サン=シモン派が一山築くところの名でいえば、「産業家」の軍勢を見てみよう。
その脚光を浴びるのは、イギリス学派ではまだ認識されていなかったがフランスの社会理念史においてはセーの学説での彼の登場が第一級に重要な人物――企業家だ。マルサスの政治経済が土地所有者のそれであるとしたら、セーの政治経済は企業家のそれである。企業家が占める位置は、彼が七月王政の下で持ち上げられるところの政治的役割に指定される。ジェローム・パチュロは自らの運命を心した。
企業家の機能は産業を取り巻く諸機能のなかで最も重要である。それは生産の仕事を経営する。[46] それは必ずやエリートとして現れる。そしてセーは彼に必要な質の列挙で飽くことをしらない。判断(力)、忍耐(力)、人と物の知識、計算に堪能な頭、知能、思慮、秩序、誠実さ……「人集りにありふれるようなものではない道徳的資質」。
かつてオシーの製造業者は可愛い花冠を結った![47]
セーにとって、企業家とはつねに美徳の後光に包まれた個人であり、ときにその労働とは独立した利潤を集める集団、たとえば、管理職員に給与を支払う社会でありうるという考えはよぎらなかった。
企業家の隣には労働者が置かれる。セーは我々がすでに述べたとおり、彼らとその上司の間に生じうる紛争の原因を取り除く。しかしながらどちらも同じ階級、その産業的能力からの利益で生きる産業家の階級に属する。この両者の間には、その機能の尊厳しか違いがない。一方はその人間的な知識を有用な使用に適用するが、他方は物質的な実行の作業に限定される。[48]
企業家と労働者が生産の本質的な動作主であるならば、学者や不可欠な協力者である。科学と産業の提携は、サン=シモン派に開発されるが、すでにセーによって宣言されていた。産業はどこであれ理論と応用、実行から成り立つ。学者は産業にその操業を指導する理論を施す役を担う。さもなくば無益な好奇心に向かう科学の関心が存するはなかんずく実践的役割である。[49]そのほか、学者は或る民族においては企業家以上に必要なわけではない。科学的発見は或る国から他所へ普及するが、それは産業の長に必要な資質と同じではない。人々の優位は後者、産業の長にこそ依存するのである。それは伝播不可能であり、貴重なほど稀少である。
ただ企業家の長と労働者、学者だけが、厳密に言って、産業家を形成する。しかし産業はまた資本家と土地所有者をも必要とする。[50]
資本家はセーの作品では企業家と同じほどの尊敬を授からない。しかしながら、資本の所有は無限に尊重される。しかしながらそれは産業的才能ほど議論の余地がないものではなく、実際、それは相続を神聖化する立法との協賛、一定の条件のみを許可できる協賛を予め前提している。[51]そのうえ、資本家は生産者であるというとき、それは、生産するのは資本である、という言い方になる。たとえ資本家がではなくとも、資本は実に生産的であるが、それはなおも才能によって実用されるときのことであり、才能はその月並みな労働から生じた利潤の主な部分を担う。結局、資本家の利子が社会的利子と絶対的に同じではないということもありうる。最も儲かる資本の利用がつねに国の最たる利益になるわけではない。[52]
セーは土地所有者に対してはさらに険しい。資本家に注がれる観察は自ずと彼らにも適用されるが、そのうえで、彼らは特別でもっと非共感的な考察の対象で��る。大土地所有者が復古王政の下で反動的政党を形成したことを忘れてはならない。自由主義者が最も激しい攻撃を差し向けたのはこの旧体制の人々である。
セーは、産業的能力の所有と資本の所有は土地の所有より神聖な何かであるという、それを搾取しようと望む者にとって結果的に肥沃な原理を定める。[53]「一つ目は人格に堅らかに付属し、二つ目は過去に達成された労働や貯蓄努力を予め前提し、三つ目はその起源を――略奪のみに負う。なぜならば、一つ目の人に開発された土地が我々の時代までつねに正統に受け渡されてきたと仮定することはできないからである」[54]。確かに、この掠奪は最終的には人類の利益に向かっていた。なぜならば一定の生産的作用因の本性は、彼らがそれを専有するときにしか、真のサービスを行うことができないからである。それでも依然として、その権原は損なわれており、その財産は「最も尊からぬ」ものである。[55]
そのうえ、歴史は征服で富をなした大財産家と初めにその保護下についた産業階級の敵対を証明している。少しずつ、「産業は大財産家に依存せず、彼らを永遠に脅かすことなく、大衆に生存手段を提供してきた」[56]。
しかしながら、この人々は初めに占有した特権的立場の何かを保守してきた。「耕作に適した土地の量はどの国でも限られているが、資本の群と農業者の数は割り当てられることができない。かくて、かつては人が住んで耕されていた国での土地所有者が、農家に対して或る種の独占を行使する……」[57]。それ以降、財産家が富の優位と幾らかの信用と位置の優位を得ることを考えなくても、契約は財産家に好意的になり、農家に非好意的になるだろう。
しかも、財産家はその徳による尊敬を強いない。彼らのほとんどは「文明の喜びに慣れて、大事業を計画し実行する必要を決して感じず、一人では決して感じないし必ずや多忙な民族において一般的とは感じられないところの熱意もわずかにして……、社会の防衛に貢献するために、彼らの休息と命を犠牲にするよりも、むしろその収入の一部を犠牲にすることをつねに選好してきた」[58]。彼らはしばしば日課と無精の犠牲者である。
我々はこの分析の諸要素をただ『論考』だけから借りようとしてきた。これは実際にはセーを自由主義の学長にし、自由主義政党に対照の学説の実質を与えた二つの版、一八一四年版と一八一七年版である。しかし『完全講義』は復古王政の政治的闘争の最中に著されることで、この悪い理念を一層精力的に擁護することになる。
かくて、資本家と土地所有者は生産者階級の最後の二つの段階を占める。主座に就くのは「人間知識を増加する者――それらを人の使用に適用する者――それを実行する者」である。したがって、自由主義的な対照において考えられる生産者と非生産者の対照には、すでに怠け者と労働者の対照が含まれている。企業家が彼の労働とは独立した利潤に気づくことを示せば、我々が近代社会主義の広義「資本家」と労働者の対照に到達するには十分であろう。
セーの作品の産業主義テーゼの重要性が分かる。生産は他の問題がすべて従属的であるような一大社会問題である。その卓越性は産業家にも及び、彼らの中でも「中流階級、壮大さの陶酔に対する防衛と、窮乏に強いられた労働に等しく」[59]に当てはまる。
したがって、少なくともイギリス学派の著作物以上に読まれていたセーの『論考』は、経済的射程と同じだけ政治的射程をもっている。政党がその議論を闘争に持ち出すことで、自由主義行為の綱領が打ち出されることになった。それが〔シャルル・〕コントとデュノワイエの『監査官』の作品である。或るビジョナリーは、この理念をすぐに論理の過当まで押し進め、セーの生産理論に拘って生産者政府に行き着いた。これはサン=シモンにも当てはまる。
『監査官』編集者の独創性は彼らがJ=B・セーの政治経済を政治学に変形したことである。
一八一四年に、皇帝退位の後、二人の若い著述家シャルル・コントとデュノワイエは、自由主義理念を広める雑誌を立ち上げるために集まった。百日天下の翌日、彼らの七巻を重ねた出版物が警察に差し止められた。それまでは純粋に政治的な討論にはほとんど関わらなかった。その辛辣で正直な論争は、デュノワイエ自身の証言によれば、「立法と管轄についての一定の知識」が目立つが、「経済的懸念がまったく欠けていた」。
一八一七年、『監査官』は『ヨーロッパ監査官』となって、新しい精神で再登場した。その創刊者は休止期間に政治経済を発見した。彼らは、立憲的問題を扱って時間を無駄にしていたことと、帝政僭主の破滅が絶対君主政の再確立に尽くすばかりだったことを見て取った。政府の形態論に閉じこもる形而上的政治学を、経済的関心の知識に基づく積極的政治学に代えなければならない――まさに『ヨーロッパ監査官』がセーの論考の論評で言うとおり、「政治経済は人民に繁栄と衰退を示すことで、政治の真の基礎を定める。彼はそれを、最初と中世の文明国家と近代的な人々の文明国家の間に存在する違いが分かる著述家全員のもとに置いた」。[60]
そのうえ、デュノワイエの記録[61]によって、我々は『ヨーロッパ監査官』が新しい鼓吹を引き出した源泉を知っている。その編集者たちの精神には三つの作品が深い印象を与えた。フランス君主政についてのモンロジエの作品と、バンジャマン・コンスタンの『征服の精神についての試論』、J=B・セーの『政治経済論考』だ。
モンロジエ[62]は、メーストルとボナールの近くで、革命から生じた近代的理念に対しての最後の反動を行う著述家集団と繋がっている。歴史的には、彼らは政治哲学の追求に際して力を合わせ、その考察のため、十八世紀にデュボス神父と戦ったブーランヴィリエのテーゼを取り上げる。序列の区別は偶然の不正義ではなく原理があって、それは力の優越性であり、征服の権利に由来する。征服者フランク族が貴族階級〔クラス・ノーブル〕を、被征服者ガリア族が有産階級〔ブルジョワジー〕を形成した。歴史とは、支配的な階級に征服された階級の継続的な反乱、生まれの正当な特権に対する科学と産業の反逆の一覧である。
バンジャマン・コンスタンの、一八一三年[63]の年末にハノーファーで出版された冊子『ヨーロッパ文明との関係における征服と簒奪の精神』は、デュノワイエいわく、近代的な人々の活動の目的、ひいては政治の真の目標に説き及んだ最初の作品である。人々はかつて戦争に生きていたが、近代的民族に特有の目的は、平和を要する産業である。
バンジャマン・コンスタンがこのテーマをどれほど深く、広く開発していたにせよ、彼が関わりのあったJ=B・セーにこれを借りていたと想定するのは向こう見ずではない。『論考』第一版の「産業所得から近代人に生じる独立」についての章と「軍の支出」についての節は、B・コンスタンが解明したほぼすべての理念の真髄を含んでいる。しかも、彼はJ=B・セーを引用しており、二度も繰り返すほどこの文に感銘を受けていた。いわく、「戦争の費用はその支出よりも高くつく。稼ぐに差し支えることで高くつくのである」、「近代人にとっては、幸福な戦争はそれが生み出すものより間違いなく高くつく」。[64]
最後に、『監査官』著者が受けた第三の影響はセーの『論考』からであり、その第二版は一八一四年に現れた。「セー氏は最も明快な秩序で、顕著な改善を伴いつつ、富の生産についてのスミスの諸理念を再生産しながら、……もっと科学的な仕方で、我々の物理的な財すべてが産業によりどう創造されるかを解明し、かくて、産業をもっと広い見地から、社会の根本的目標としてみなすように仕向ける」[65]。
デュノワイエはその注でセーを咎めたが、それは彼の解明した学説が政治学とは思われなかったこと、政治学とは政府の形式の理論でしかなく、そうでしかありえないと信じていたからである。[66]実際、セーはただ政治経済だけが諸民族の繁栄の法則を与え、政治学は権力組織の科学であるかぎり、社会的厚生には無関心な何かであると教える。『ヨーロッパ監査官』に対しては表現のニュアンスしかない。
さらに、『監査官』の著述家は自由主義政党の花形を自宅に迎えるセーその人との関係をもっていた。[67]シャルル・コントは一八一八年に彼の娘アドリアンヌ・セーと結婚した。セー自身は『サンスール監査官』第三巻に、ベンサムの『議会改革計画』に関する記事を寄せた。
かかる雑誌は一八一七年の選挙でパリの有権者に対し、ラファイェットと〔ジャック・〕ラフィット、〔ジャン=アントワーヌ・〕シャプタルなどと同時に、彼の名を推薦した。彼の『論考』と一八一七年に出版された、人と社会についての摘要の『小編』(Petit volume)は、最も媚び諂ったような評価の対象である。コントによる『論考』の分析は百二十二ページが費やされ、支持する引用ともにセーの開発を一歩一歩追っている。それは書評というよりはむしろ簡約版であった。
我々はアレヴィー氏がすでに研究した『ヨーロッパ監査官』の理論を詳しく解説しはしない。セーのそれとの緊密な関係を際立たせるには主要な記事[68]から引き出された短い要約で十分であろう。
『ヨーロッパ監査官』の学説は生産の観念と生産者と非生産者の対照に基づく。社会は二つの階級に分割される。「活発で勤勉な」階級と「怠けて貪る」階級――「産業の人たち」と「特許の人」――「スズメバチとミツバチ」――「支払う者たちと支払われる者たち」。フランス革命は彼らを戦わせる普遍的闘争の一幕にすぎなかった。
古代と旧体制では、優位は怠け者のものであったが、近代産業は働き者に至上性を保障し、人類の一部が他に及ぼす覇業を破壊するところのものである。しかしこのため、産業の精神が戦争の生産に取って代わらなければならない。これまでは戦争精神が優勢であった。これこそは、国家内部において貪る階級の権力を維持し、国際関係においてヨーロッパ均衡体制、実際には平和への永遠の脅威である「ぼろぼろの古い機構」を生み出したものである。
ただ産業の精神だけが、決して財産を法律の恣意的な創造とはせず、産業の普遍的な属性とすることで財産の尊敬を保証し、[69]これを産業の関心の共通性に基礎付けることで普遍的平和の維持を保証する。[70]
「産業の精神は戦争精神と同じようには働かない。それは乱暴ではなく生産に沸き立つ。それは人ではなく物に及ぼされる」[71]。それは人々の敵意を終わらせて友好的な関係を創造し、相互繁栄に関心をもたせる。そして、『監査官』は販路の法則を発展させる。「各生産物に対して交換されうる物が多いほど、各生産者に開かれる、増加した交換手段の販路は多くなる」(« plus il y aura pour chaque produit de choses contre lesquelles il pourra être échangé, plus chaque producteur aura de débouchés ouverts, de moyens d’échange multipliés »)[72]。
国際的な均衡は変貌する。いまや権力の集団は存在せず、二つの大民族のみがある。生産者たち――産業家たち――のヨーロッパ民族と、その他だ。「それは新ヨーロッパと格闘する旧ヨーロッパである」[73]。前者の目標はヨーロッパから三つの大疾患、すなわち戦争と恣意性、独占を根絶することであり、後者の目標は専ら権力を行使することでしかない。フランス革命に抗する連合体と現行の正統主義的な全君主制の同盟はこの所業である。
産業家民族が各国で従うべき政策とは何か? 『監査官』はJ=B・セーがすでに解説した意見を取り上げて、立憲的問題の関心の欠如を強く主張する。政治的な主題において形式の問題に引き止められることは、手段でしかない政府を目的であると思い込んでいるのである。「共和国万歳! と一方が言う。君主国万歳! と他方が言う。そしてこれらの言葉で彼らは抱きしめあうのである。疑いなく、どちらも言おうとしているのはこうだ。人の福祉よ万歳」[74]!「法律が認めるのは君主制か、共和制か、それとも専制政府かではなく、それらが社会の関心のうちにあるかを知るのが問題である」[75]。
これに関連して、『監査官』は彼らの着想の最も独創的で最も新しい部分たる歴史的唯物論の理論を概説する。
あらゆる制度の本性は富の取得様式によって決定される。「生存に必要な物を生産するため国が利用できる手段は、その社会的組織の形式と、それを指揮すべき人々の選択を決定する」[76]。かくて、ローマ民族はその収入源を寇掠におき、その組織すべてが好戦的になった。軍事的重要性の上に社会階層が築かれたのである。もしも、戦争でしか生存できずにいるローマ人が、その頭を産業の人に取り替えて商業の栄光を褒めそやしていたら、彼らを気が狂っていると���当に非難できるだろう。[77]封建制もまた好戦的な体制であった。中世、少なくともローマ帝国の終焉時においては、君臨する秩序の基盤を揺るがしたのは産業であった。ローマの人々がもう奪う相手をもたず、中世の職人が「勤労で富を創造することの秘訣に気づき、貴族がそれを奪う力を失い、そうではなく引き換えに平等な価値を与えなければならな」[78]かったとき、権力は否応なく手から手へ渡って、その制度が変貌することになった。かくて、奴隷制の消滅はキリスト教のおかげでも領主の寛大さのおかげでもない。奴隷を消滅させ、彼らの主人の影響力を無に帰したのは、産業である。それが主人の債権者になって、奴隷を養う農業商品と引き換えにその生産物を売ったのだった。[79]。
近代的人民はもはや軍や役人ではなく、農業と製造業、商業の生産物によって存在する。「わずかな学者や兵士、公が人民を危機に陥れることはないと、よく知られている[80]。
したがって、「よく秩序立った国家においては、政府は生産に依存せざるをえず、それは、生産者の人身と彼らの労働による財の安全を見守り、寄生虫に抗してこれを保障することに生産者が支払いをする、生産者に担当される委員会であるに違いない。よく秩序立った国家においては、可能な最大数の個人が労働し、最少数が統治するに違いない。完成の極みは誰もが労働し誰も統治しないところにある」[81]。
事実、政府は生産の手段をもっておらず、消費の手段しかもたない。[82]「決して見失ってはならないことは、公職員がその職員としての資格において絶対的に何一つ生産しないことである」。[83]政府がそのむしろ否定的な性質である義務に違反するのを妨げるため必要なのは、行政する者に抗して、生産する者が組織することである。一つの社会に二つの階級があり、一方の生産物が他方を扶養して、他方が一方を保護するところでは、彼らの間に闘争が生じる。「生産者は自由を欲し、保護者は権力を欲する」[84]。
「我々には産業家の代表が必要である。いまや我々の第一の関心は産業にある」[85]。代議院は「生産の弁護士の委員会」[86]でなければならない。そのためには産業家と財務家、学者が選出されなければならない。もしも産業なき土地所有者が場所を得るならば、それはおしまいになるだろう。「土地財産は、産業に加わるときは最も有用で最も高貴であるが、産業から離れるときは最も非道徳的になりうる。[87]最後に、役人全員と行政からの俸給生活者全員が、議会から排除されなければならない。
しかしながら、フランス革命がどう避けるか知らなかった二つの落とし穴に気をつけなければならない。
それは生まれの貴族政が終わったことを理解していたが、新民族の自然な代表者を発見できなかった。その議会は弁護士、司祭、文人、医者、多かれ少なかれ国家年金の人に満ちていた。[88]
第二に、産業家のごく一部は彼らの大義に背いており、背き続けているし、純粋かつ端的に、彼らが抗議するものに対しての濫用から利益を得ていた。これらは怠けて貪る階級として通ることで、彼らの政党を裏切ってきたし、裏切っている。[89]フランス人民は自らの主権的人民��あると宣言する際、全面的に権力へと飛び込んでいし、[90]産業の人も役人になるため実に頻りに自身の労働を辞めて、廃された権威の職に就いていた。
この二つの誤りを正すため、まず公共機能の威信と優越を削減することが重要である。続いて政治体において産業エリートに影響力を与えることが重要である。
すべての社会はそのメンバー間の繋がりを創造する階層を前提する。旧階層の破壊は国を脱組織化し混乱させた。なぜならばそれは、新しい貴族制がどう制定されるべきか、そしてそれが農業者と製造業者、商業者の貴族制であるべきことを、分かっていなかったからである。[91]戦争の人が消えるにつれて、産業に献身する人はさらに多くの労働者に取り囲まれる。……〔自分の国を〕豊かにしたい文明人はまた一定の産業的能力と幾らかの資本、多数の労働作業員を必要とする。あらゆる種類の産業が、戦争産業と同じように、参加する人々の間の従属を生み出し、とりわけ、大成果を得るためには幾つもの努力を統合せねばならず、そして、最大の能力と最も大量の資本を所持する者は自然と他のみなの長、他人を存在させる者になる。こうして唯一の議会に統合するとき、多数の関心の頭である者」[92]は、個人の孤立を破壊し、すべての関心を束ね、永久に軍を抑え付ける、など。
もしも革命議会が「富農や相当数の製造業者、銀行家、商人」[93]で構成されていたら、それ以降、ヨーロッパを苦しめていた害はすべて避けられていただろう。[94]
ヴェイユ氏とシャルレティー氏、アレヴィー氏の後に、ここでサン=シモンの学説の解説を繰り返すことはしない。我々のテーゼを確立するには、彼の理論の『ヨーロッパ監査官』のそれとの類比を示せば十分であろうし、それ自体によって、一方と他方を彼らの鼓吹の共通資産、J=B・セーに結びつけよう。
実を言えば、我々は『監査官』の記事を要約したとき、すべての主要な理念、サン=シモンの混乱した作品の際立った点すべてに触れることができていた。すなわち、産業主義の根本理念――政治学を政治経済に解体するという理念――階級闘争の理念とスズメバチとミツバチの弁明――自由主義政党の党首を非難して、「俺の場所から退け」(« ôte-toi de la que je m’y mette »)――安い政府の理念と役人の生産者への従属――政府形態に関する無関心――人への権威に代わる物の経営の理念――産業議会の理念、「フランス革命の口喧嘩と軍事政府」に対しての批判――人民主権ドグマ批判――人の自然的不平等と産業的貴族制の優越性の肯定――サン=シモンが軍と無職金利家、役人と同じ地位に分類した、産業的労働に従事しない土地所有者に対する不信、など。[95]
さらに、サン=シモンはこの理念を『監査官』の編集者たちから借りたわけではなかったし、彼らも彼から借りたわけではなかった。実際、一八一四年から一八一七年まで、彼らのどちらも同じ思想に生きていたのである。A・ティエリはサン=シモンの『産業』と『監査官』の両方で執筆していた。サン=シモンはJ=B・セーに日焼けしていた。しかしサン=シモンはいつもの熱情で、コントとデュノワイエより誇大な仕方でセーに負っていることを示した。彼が見事な千里眼でこれを示した一節は、その長さにかまわず引用する価値がある。���ぜならばそれは、深い意味で、セーの学説を理解している部分が一つたりとも存在しないからである。
彼の作品は政治経済がこれまでに発見し証明したことをすべて含んでおり、まさしくヨーロッパにおいてのこの科学の極致に相当する。
ここにあるのは、素晴らしい日に見つけられたなかでも最も一般的、ひいては最も重要な真理であると思われる。
その一。有用な物の生産は政治的社会が繁栄できるところの道理に適った唯一の積極的な目的であり、ゆえに、生産と生産者を尊敬せよという原理は財産と財産家を尊敬せよというものより無限に肥沃である。
その二。政府は産業に要らぬ世話を焼くときつねに産業を害し、それを奨励する場合でさえこれを害する、ゆえに政府はその世話をして、産業をあらゆる種類の不調と困難から守ることに限らなければならないということになる。
その三。社会の唯一有用な人である有用な物の生産者は、その行進を規制するために競争すべき唯一の者であり、実際に税を支払う唯一の人である彼らは、投票権をもつ唯一の者である。
その四。人は生産を害することなくその実力を他人に差し向けることができず、ゆえに、戦争はその目標が何であれ全人類を害し、勝ったままの人民すら害する。
その五。或る人々の他の人々に対して独占を行使することの願望は悪い発想の願望である、なぜならば独占は実力でしか獲得されず維持されず、それを享受する人々の総生産を減少させるに違いないからである。
その六。産業が完成するのと同時に、道徳は事実を達成する。人々と人々の関係を考えるにせよ、個人間の関係を考えるにせよ、この観察は真理であり、ゆえに、どこであれ優勢たるべき、みなに広められるべき教育、強められるべき理念とは、生産の各活動において増加する傾向があるそれであり、他人の生産への尊敬である。
その七。全人類が共通の目的と関心をもつので、各人は彼自身を、労働者一団と関わるように、専ら社会的な関係において考慮しなければならない。[96]
彼がセーに差し向けた唯一の批判は、「漠然とながら、彼に反して、政治経済が政治の真の唯一の基盤である」とは感じなかったということである。
それでは、サン=シモンの新しさと独創性は何か?――財産についての見解? しかし彼はこれを語る幾つかの節において、要するに、財産は専ら社会的効用のみに基づくと断言するに限った。そして(彼がおまけに言い加えるには)、その基盤を法律に求めるのは――少なくとも土地所有者にとって――危険であり、生産に資するサービスでしか自分を正統化できない、とかつて宣言したJ=B・セーのうちに見出した。
・産業が財産分配を変更するという理念? しかしこれはすでに『監査官』にある。「社会的組織が完成してゆくほど、富をなす恥ずべき手段は稀少になる。したがって、怠けて貪る階級の絶滅により、各人の富が彼の長所に、つまり彼の効用に、ほとんど直接に比例するような点まで到達することができる」[97]。そしてセーの『論考』においては、我々は第二版で消されたこれを読んでいないが、第一版にいわく、「年間生産物の公正な分配を奨励し、ゆえにすべての階級に更なる安楽と資源を行き渡らせる傾向のある法律の国は、分業から生じる悪の大部分を維持するものだろうか?」[98]。
・彼が社会での学者に帰する役割? しかしJ=B・セー自身が生産者の中に、有用な知識を普及する職に就く学者を入れており、しかも彼らの地位は企業家に次ぐと示唆している。『監査官』もまた産業家と同時に学者の議会選出を提言しており、もしも彼が学者一般に対してときに険しいようであるとしたら、それはただの博識家、抽象的思弁家、「システム創造者」(サン=シモンの言で「形而上学者」)、あるいは年金受給の役人著述家でしかないとみたからである。サン=シモンにとって、学者とは積極的研究、ゆえにその本性からして産業を利する知識に献身する者のことである。そして彼は非常に慎重にも、学者は永遠に農家と製造者、商人、銀行家への依存の下に留まると言う。「もしも我々にとって悪いことに、俗事のが学者の手に委ねられるような物の秩序が確立されるならば、科学の体が速やかに腐敗し、聖職者の邪悪さを帯びるだろう、彼は狡賢く専制的な形而上学者になるだろう」[99]。
・アレヴィー氏が考えるとおり、[100]サン=シモンは生産者の観点につき、J=S・セーと彼の弟子たちは消費者の観点についたのか? しかし実際には、まさしく消費者の政治経済ありと言うにはフランスではバスティアを待つ必要がある。『監査官』が語るのは生産者のみであり、我々はJ=B・セーをつねに鼓吹しているのもまた生産の関心であると証明しようとしてきた。『論考』[101]では、彼が消費者のことを記すのはたった一度だけである。いわく、消費者が本質的階級である、なぜならばそれは万人を包括し、一般的関心に相当するから。しかし彼ら自身をして、あるいは所得を稼ぐ者、生産者として、直接間接に、消費者はすべてであるから、ゆえに消費者の関心は生産の進歩に結びつくから、彼は消費者と生産者の分割を「最も愚かな分割」と批判する。
実際、サン=シモンが自由主義学説に対して少しずつ加えていったのは、彼の二冊の表題、『組織者』と『新キリスト教論』に象徴的に表現される二つの理念である。
一八一九年以降、サン=シモンはおそらくオーギュスト・コントの影響で、自由主義を批判的で消極的な学説でしかなく、既存の体制を破壊することに長けているが、これを取り替えるには不十分であり、有機的(オルガニーク)な学説に作り変えなければならないと考えるようになる。新社会は「組織」(オルガニゼ)される必要があり、その組織化(オルガニザシオン)の原理は政府になければならない。この違いを実によく理解していたデュノワイエが言うとおり、「後に、彼はあらゆる暴力から産業家を守ることに権力を制限するのではなく、産業の全活動を束に統合する役を担い、これを共通目的に向けて指導する、社会の自然な長とみなした」[102]。『監査官』にとって、産業主義は現行諸制度の自然な発達から結果し、政府を監視しその危害を予防するために産業家を議会へ送り出すであろう選挙制大学のもっと良い教育から発生するかたわら、サン=シモンにとって、社会を変形し、指導活動を新たな手に託するのは法令、王令(「オルドンナンス」)である。権威は後見人を変えるべきだが、それはつねに権威でなければならない。国民的学説を普及するのは精神的権力でなければならず、「国民的大製造業」を経営するのは世俗的権力でなければならない。
サン=シモンのもう一つの刷新は、末期に際して、セーと彼の弟子の道徳であるベンサム功利主義を、「最も数多く最も貧しい」階級に対する友愛と同情の学説に置き換えたことであった。
いまや我々はJ=B・セーがフランスで打ち出したこの生産という概念の肥沃さを測定することができる。社会的幸福の秘訣が産業の進化と富の増加にあるとの信念は彼以降、長く続くことになった。サン=シモンが始めた大事業はその果実であり、ギゾの有名な言葉――その公式パリサイ主義はそれ以来かなり非難されてきた――――「金持ちになりたまえ!」[103]はその表現である。
生産者と非生産者の対照、階級闘争理論の原基は、経済学的討論に新たなパースペクティブを開き、近代社会主義が発生する進化の出発点を形成した。サン=シモン主義者たちはこれを労働者と怠け者の対照に拡大した――後者はいまや、労働者階級からの搾取で暮らす金利生活者と土地所有者を含んでいる――そして我々はJ=B・セー自身の中にこの方向性の表明を認めてきた。サン=シモン派に多くを負ったカール・マルクスが、その価値と剰余価値の理論によって、今度は企業家を労働者階級から搾取者階級に移すことになる。
J=B・セーに思い描かれたとおりの生産者階級は旧体制の権力の頚木から開放された後、互いを引き裂く二つの集団に分断されることになる。これはセーも『監査官』も、サン=シモンも予見していなかったことだ。生産者一同の関心はつねに団結的で不可分であると思われていた。一八四八年、まだ若いころの確信に忠実なままだった『監査官』の編集者の一人、オーギュスタン・ティエリは、第三身分が、二つの致命的に敵対する階級、人民とブルジョワジーに分裂するところを見た。彼の伝記作家ジルベール・ティエリいわく、「彼は落胆に満ちて、五年かけて請け負っていた仕事を中断した。歴史がまったく理解できないと、彼が時おり苦々しく叫ぶのが聞こえた」[104]。
『新キリスト教論』でのサン=シモンを除けば、彼らは第四階級を予感していなかった。そしてこれがその存在を示し始めたのは、産業主義者陣営の決定的な決裂の兆候になった。サン=シモン派は労働者に手を差し伸べた。対照的にもデュノワイエは、我々がいつの日か解明する機を得るであろうとおりの自由主義政治経済の理論を作り直して逸脱する奇妙な仕事により、セーの広く真に「自由主義的」な学説を、「党派」に抗してのブルジョワ擁護の狭い学説に変形した。
それでもやはり、生産者と非生産者の独創的対照――セーから来た対照――は、社会主義の形成と同じだけ必然的に、経済思想の必然的な一歩であった。
[1] G. Weill, Saint-Simon et son œuvre, Paris, 1894と、Charléty, Essai sur l’histoire du saint-simonisme, Paris, 1896。
[2] Revue du Moisの二つの記事、La doctrine économique de Saint-Simon (10 décembre 1907) と、La doctrine économique des saint-simoniens (10 juillet 1908)。
[3] E. Halévy, loc. cit., Revue du Mois, 1907, IV, 647.
[4] Cette étude est extraite d’un travail en préparation sur J.-B. Say et la formation de la doctrine économique libérale en France.
[5] Traité, 1re édit. (1803), I, p. 97.
[6]« Le maître et l’ouvrier ont bien également besoin l’un de l’autre, puisque l’un ne peut faire aucun profit sans le secours de l’autre ; mais le besoin du maitre est moins immédiat, moins pressant… Il est bien difficile que cette différence de position n’influe sur le règlement des salaires… Ajoutez qu’il est bien plus facile aux maîtres de s’entendre pour tenir les salaires bas qu’aux ouvriers pour les faire augmenter ». Traité, 1re édit., II, p. 242-243. – Cf. I, 277. « Les chefs d’entreprises exercent un monopole non seulement à l’égard des consommateurs, mais encore, et par d’autres causes, à l’égard des ouvriers et de plusieurs agents de la production. »
[7] Œuvres diverses, édit. Guillaumin, p. 274-275 (examen critique de M. Mac-Culloch) et p. 118 (lettre à Ricardo).
[8] Ch. Gide et ch. Rist, Histoire des doctrines économiques, p. 74 et suiv., Paris, Larose, 1909.
[9] Il admet, comme Quesnay, la supériorité de l’agriculture sur l’industrie, parce que, dans le travail agricole, la force de la nature collabore avec celle de l’homme et donne naissance à une plus-value qui fournira la rente (Rich. des nat., liv. II, ch. V). La valeur des produits industriels reconstitue simplement la valeur des éléments nécessaires du coût de production. L’analyse est la même que celle des physiocrates et A. Smith se borne simplement à montrer que là où ils n’avaient vu qu’une opération stérile, il y a une reconstitution de valeurs détruites, et par suite, une production nouvelle. M. H. Denis, dans son Histoire des systèmes économiques et socialistes, a excellemment résumé la conception de Smith sur ce point : L’agriculture accroit la valeur en accroissant la quantité de matière ; l’artisan conserve la valeur en transformant la matière ». I, 258.
On relève aussi, d’ailleurs, dans le Traité de Say, un développement qui détone avec tout le reste, et dont la présence ne s’explique que par la reproduction irréfléchie d’un texte d’Adam Smith. C’est le passage relatif aux v emplois des capitaux les plus avantageux pour la société » (Traité, 1re édit., II, p. 329, maintenu dans les éditions suivantes). Say y expose que le capital le plus avantageusement employé pour une nation est celui qui féconde l’industrie agricole, parce qu’il provoque à la fois le pouvoir productif des terres du pays et du travail du pays. Il admet, comme Smith, que les capitalistes ont un penchant naturel à diriger leurs capitaux d’abord vers l’agriculture, de préférence tout autre emploi.
[10] Notons que cette idée tombe, en France, dans un milieu merveilleusement préparé l’accueillir. Les arts mécaniques, déjà réhabilités par d’Alembert, dans le Discours de l’Encyclopédie, sont l’objet d’un véritable engouement pendant la Révolution. La confiance est sans bornes dans le progrès des découvertes scientifiques et de leurs applications pratiques. On est frappé aujourd’hui de la place que les articles de technique industrielle tiennent dans une revue comme la Décade. La Société d’encouragement pour l’industrie nationale est fondée cette époque. Cf. Picavet, Les Idéologues, chap. 1er, passim.
[11] Éléments d’idéologie, 1815, t. IV, Traité de la volonté, p. 161.
[12] Ce n’est pas ici le lieu de discuter l’erreur de cette proposition : richesse valeur d’échange utilité, sur laquelle est construite toute la doctrine de Say.
[13] Le passage apparaît dans la 2e édit. du Traité, 1814, I, p. 19.
[14] Passage également ajouté à la 2e édit., I, p. 30.
[15] Le plus curieux, c’est qu’en réalité, A. Smith l’a parfaitement vu et s’est mis lui-même en contradiction avec sa théorie de la valeur. Dans la culture de la terre, la nature travaille conjointement avec l’homme, et quoique son travait ne conte aucune dépense, ce qu’il produit n’en a pas moins sa valeur ». Rich. des nations, liv. II, ch. V (p. 439 du 1er vol. de l’édit. franç. Guillaumin).
[16] Traité, 2e édit., t. I, p. 30.
[17] Lettres à Malthus, Œuvres diverses, p. 496. Cf. p. 513.
[18] Traité, 2e édit.. t. I, p. 21.
[19] Traité, 2e édit., t. I, p. 34.
[20] Traité, 1ère édit., t. I, p. 391.
[21] Traité, 1re édit., t. I, p. 392. Say n’a vraisemblablement connu Malthus qu’entre la 2e et la 3e édition du Traité. Mais les passages que nous citons de la Ire édition sont intégralement maintenus dans les suivantes.
[22] Traité, édit. de 1841, p. 147. Cette mention, d’ailleurs assez vague, ne figure pas encore dans l’édition de 1817.
[23] Cours complet, 3. partie, chap. III.
[24] Traité, 3. édit. (1817), t. Il, p. 166.
[25] Œuvres diverses, p. 549.
[26] « Une administration vicieuse attaque la population dans son principe, en desséchant les sources de la production ». Un mauvais gouvernement « non-seulement empêche de naître, mais on peut dire qu’il massacre ”, Traité, 2e édit., II, 153.
[27] 2° édit. (1814), t. 1, 150.
[28] Ibid., 1, 155.
[29] Ibid.
[30] Petit volume (1817), œuvres diverses, 700.
[31] Traité, 2e édit., t. I, p. 276.
[32] Ibid., t. I, p. 155.
[33] 1re édit., De l’indépendance née chez les modernes des revenus industriels, t. II, p. 262.
[34] Loc. cit., t. II, p. 264.
[35] T. II, p. 103.
[36] Cf. discours d’ouverture de 1832 au Collège de France : On peut apprécier par les mêmes méthodes les biens et les maux qui résultent de la conduite des particuliers et gouvernements et parvenir ainsi connexe quelle balance il en résulte pour la société… On apprécie le service qu’on peut attendre d’une bonne loi comme le service qu’on peut retirer d’un bon outil et savoir, toute proportion gardée, la somme d’utilité qu’une nation retire d’une belle manufacture ou d’un bon gouvernement. Nous pouvons, dés lors, comparer la somme des biens dont ils procurent la jouissance à une nation et ce qu’ils lui coûtent Œuvres diverses, p. 179.
[37] Traité, 1re édit., II, 427.
[38] Ibid., 426.
[39] Ibid., 1re édit., II, 423.
[40] Petit volume, œuvres diverses, IV, p. 691.
[41] Traité, 2, édit., I, p. 110.
[42] Traité, 1re édit., II, p. 74-75.
[43] Traité, 1re édit., Discours prélim.
[44] Traité, 1re édit., t. II, p. 75.
[45] Epitome de la 2e édit. du Traité, t. II, p. 457 : « Industrieux : ce mot, pris substantivement, veut dire celui on ceux qui travaillent à la production des valeurs, c’est-à-dire à la création des richesses ». Dans le Cours complet (éd. de 1840, t. I, p. 85), J.-B. Say dit avoir employé dans son Traité les mots Industrieux et industriels (ce dernier comme adjectif) « longtemps avant qu’on songeât l’un ou l’autre ». D’autre part, Dunoyer, dans sa Notice sur l’industrialisme (Œuvres, t. III, p. 193), fait observer que l’invention du mot industriel n’appartient certainement pas à Saint-Simon et qu’il se trouve dans le vocabulaire de de Wailly, qui était déjà à sa 6e édition en 1813.
[46] Traité, 1re éd., I. II, p. 228.
[47] Il est à remarquer, en effet, que, de l’édition de 1803 à celle de 1814 Say a dirigé la filature d’Auchy de 1805 à 1813 –, la liste des qualités nécessaires à l’entrepreneur s’allonge sensiblement. Notons, au passage, que dans la 1re édit. (t. II, p. 322 et s.) Say donne la préférence à l’agriculture sur l’industrie : « Combien le sort du cultivateur en chef n’est-il pas préférable, avec des moyens égaux, au sort du manufacturier, du négociant, sujets aux fantaisies du public, esclaves d’un travail assidu ». Cet éloge de la campagne, sorte de morceau de bravoure écrit dans le style emphatique de l’époque, ne se retrouve plus dans la 2e édition.
[48] Liste des producteurs dans l’Epitome, 2ème éd., p. 427.
[49] Traité, 1re éd., t. I, p. 8.
[50] Cf. liste des producteurs de l’Epitome.
[51] Traité, 2. édit., t. I, p. 138, en note.
[52] Traité, 1re édit., II, 329.
[53] Traité, 2e édit., I, p. 138.
[54] Epitome, édit. de 1826.
[55] Epitome, art. Propriété (addition postérieure à 1817).
[56] Traité, édition postérieure 1817 au chapitre De l’indépendance née chez les modernes…
[57] 1re édit., t. II, p. 319.
[58] Ibid., 422.
[59] Traité, discours préliminaire. Dans un passage du Traité (21 édit., t. II, p..241), Say fait l’éloge des « républiques aristocratiques », comme étant le gouvernement le plus économique. Le mot « aristocratique » est ajouté dans la 2e édition.
[60] Censeur européen, II, p. 219.
[61] Notice historique sur l’industrialisme (Revue encyclop. de février 1827). Insérée dans les Œuvres de Dunoyer, II1, p. 173 et suiv. M. Halévy ne cite pas cette notice, cependant capitale pour l’histoire des idées du Censeur et de Saint-Simon.
[62] De la monarchie française depuis son établissement jusqu’à nos jours. Paris, 1814.
[63] Réimprimé à la suite du Cours de politique constitutionnelle, édit. Laboulaye 2e édit., II, p. 135 et suiv. B. Constant l’a résumé lui-même dans la brochure : Des élections prochaines, p. 314 du même vol.
[64] B. Constant, loc. cit., p. 157 en note et p. 111 ; Traité de Say, 1re édit., II, p.426 ; B. Constant s’est également servi de l’ouvrage d’un autre économiste, de l’Histoire du revenu publie de Ganilh (1806) qui lui a fourni une idée nouvelle : que le crédit public met les gouvernements modernes sous la dépendance des particuliers (édit. Laboulaye, II, p. 251-255). Say, dans la 1ère édition du traité (II, p. 526), développe d’ailleurs une idée voisine de celle-là : le crédit donnera la prépondérance aux gouvernements représentatifs,
[65] Dunoyer, loc. cit., p. 178.
[66] Ibid., p. 175.
[67] Stuart Mill, Autobiographie, trad. Gazelles, p. 57 : « En passant par Paris (1820), soit en allant, soit en revenant, je demeurai quelque temps chez M. Say, l’éminent économiste… Il appartenait la dernière génération des hommes de la Révolution française. C’était un beau type du vrai républicain français ; il n’avait pas fléchi devant Bonaparte, malgré les séductions dont il avait été l’objet ; il était intègre, noble, éclairé. Il menait une vie tranquille et studieuse, au bonheur de laquelle contribuaient de chaudes amitiés privées et l’estime publique. M. Say était lié avec la plupart des chefs du parti libéral, et, pendant le séjour que je fis chez lui, j’eus l’occasion de voir plusieurs personnages marquants, parmi lesquels je me rappelle avec plaisir Saint-Simon, qui n’était pas encore devenu le fondateur d’une philosophie ni d’une religion et qu’on regardait seulement comme un original de moyens ».
[68] Les articles les plus intéressants, comme exposés de doctrine, sont contenus dans les premiers volumes. Citons les Considérations sur l’état moral de la nation française (Comte, 1, I) ; Du système de l’équilibre des puissances européennes (Dunoyer, 1, 93) ; De l’organisation sociale dans ses rapports avec les moyens de subsistance des peuples (Comte, Il, 1) ; Considérations sur l’état présent de l’Europe (Dunoyer, II, 67) ; Compte rendu du Manuel électoral (A. Thierry, II, 107) ; Vues des révolutions d’Angleterre (A. Thierry, IV), etc.
[69] Censeur, I, 7.
[70] Il est intéressant de voir les chefs actuels de l’économie libérale, qui se sont affranchis de la métaphysique de Bastiat, en revenir presque textuellement aux théories du Censeur : « La politique a obéi surtout à des inspirations de pillage et de conquête, à des conflits de dynastie, à des passions religieuses. Les vieilles civilisations guerrières et sacerdotales font place à la civilisation productive et scientifique. Tous les peuples commencent à reconnaître que l’échange est un moyen d’acquisition moins onéreux que la guerre. Les malaises actuels viennent des conflits entre ces types de civilisation. L’empereur d’Allemagne conçoit l’industrie comme une organisation militaire. En Europe, de nombreux officiers et soldats sont entraînés vers un idéal de batailles. Les socialistes qui prêchent la paix internationale et la guerre sociale, les protectionnistes qui traitent tout étranger comme un ennemi représentent des survivances de rapacité. » (M. Yves Guyot, Journal des économistes, 15 fév. 1910, p. 176).
[71] Cens. europ., I, 114. – Cf. Saint-Simon : dans l’ancien régime, « les hommes sont places avant les choses » (Œuvres choisies, II, p. 417). Dans le nouveau système, « l’ordre social doit avoir pour unique objet l’action des hommes sur les choses » (Œuvres, IV, p. 81). Nous ne saurions donc souscrire à l’opinion de Rist (op. cit., p. 24M) qui, après avoir cite ces deux passages, conclut : « Le gouvernement. économique se substituant au gouvernement politique, l’administration des choses l’autorité sur les hommes, voilà les conceptions nouvelles par on Saint-Simon dépasse les libéraux dont il semblait jusqu’ici suivre la trace ». En réalité, l’idée et même l’expression se trouvent, comme on le voit, dans le Censeur européen.
[72] Ibid., I, 127.
[73] Ibid., II, 73. « On voit, dans l’une des deux confédérations, des agriculteurs, des commerçants, des manufacturiers, des savants, des industrieux de toutes les classes et de tous les pays ; dans l’autre,… des gens en place, des soldats de profession, d’ambitieux fainéants de tous les rangs et de tous les pays, qui demandent à aire enrichis et élevés aux dépens des hommes qui travaillent ».
[74] Ibid., III.
[75] Ibid., 1,86.
[76] II, 5.
[77] II, 36.
[78] II, 24.
[79] I, 48.
[80] I, 55. Cf. la parabole de Saint-Simon.
[81] Ibid., II, 102.
[82] II, 109.
[83] II, 30.
[84] II, 113.
[85] II, 112.
[86] II, 112.
[87] II, 133.
[88] Ibid., II, 54, 56, 58, 60.
[89] I, 39.
[90] II, 97.
[91] II, 58.
[92] II, 50-51.
[93] Censeur européen, t. II, p. 56.
[94] Si l’on voulait relever tous les éléments de formation de la doctrine du Censeur, il serait intéressant de rechercher l’influence des constitutions d’Amérique, qui ont vivement impressionné Comte et Dunoyer, et qui sont citées par eux comme appliquant déjà, en partie, les principes industrialistes.
[95] On pourrait multiplier les rapprochements : ainsi encore, l’idée que le gouvernement parlementaire est une transition indispensable vers le régime industriel. Voici comment s’exprime le Censeur européen (t. I, p. 89) : « Un avantage inappréciable qu’a la France sur tous les autres peuples, c’est que l’intervalle pli sépare le gouvernement féodal du gouvernement représentatif est franchi « .
[96] De l’industrie, œuvres compl., 2. vol., p. 185-186. Le passage est transcrit tout au long dans le compte rendu que le Censeur donne de l’Industrie, t. III, 201. Cf. plusieurs autres passages de Saint-Simon : M. Say remanie les idées de Smith et les classe d’une manière plus méthodique… Dans M. Say, la critique de la conduite des gouvernements actuels prend un caractère plus clair ; la comparaison entre les principes de l’administration militaire et ceux de l’administration industrielle est établie d’une manière plus directe (De l’industrie, 4e vol.). – « Je vous observerai d’abord que l’opinion que vous appelez la mienne est l’énoncé général des principes professés par le théoricien J.-B. Say et par les autres écrivains en économie politique » (Du système industriel).
[97] Censeur europ., t. 1, p. 88.
[98] Traité, 1re édit., t. I, p. 81. I, 45 ; I, 60.
[99] Système industriel (Œuvres compl., t. V, p. 161).
[100] Article cité, p. 671.
[101] 2e édit., t. I, p. 57.
[102] Notice (Œuvres, III, 186).
[103] Guizot avait d’ailleurs soin de préciser en ajoutant : « par le travail et par l’économie », et ce conseil en valait bien un autre.
[104] Guizot s’est rendu compte plus tôt qu’Augustin Thierry de l’évolution qui se dessinait et a passé par les mêmes inquiétudes. Sa conception historique repose aussi sur la lutte des classes, de la féodalité et de la bourgeoisie. « Depuis plus de treize siècles la France en contenait deux, un peuple vainqueur et un peuple vaincu… De nos jours, une bataille décisive a été livrée : elle s’appelle la Dévolution (Du gouvernement de la France, 1821, p. 1-2). En 1838, dans son essai sur la Démocratie dans les sociétés modernes, il pousse le premier cri d’alarme. L’esprit démocratique a été une arme efficace pour détruire les anciennes institutions. Mais quand le moment de reconstruire est arrivé, quoi de plus absurde que de continuer à employer contre l’édifice moderne qui commence à s’élever, les armes qui ont servi à ruiner l’ancien et de mettre en péril les artisans du nouvel œuvre ? Après 1848, il faut se rendre l’évidence : « Un troisième combattant est entre dans l’arène. L’élément démocratique s’est divisé. Contre les classes moyennes on dresse les classes ouvrières, contre la bourgeoisie le peuple. C’est un fléau, c’est une honte, que notre temps ne peut accepter. La paix sociale : c’est le besoin suprême de la France, c’est le cri de salut (De la démocratie en France, 1819). – Cf. Simkhovitch, Marxism versus Socialism, IV ;Political science quarterly, déc. 1909, p. 641 et suiv.
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weeklyliberty-blog · 8 years ago
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ジャン=バティスト・セーとバンジャマン・コンスタン:自由主義闘争での戦友
Jean-Baptiste Say et Benjamin Constant, frères d’armes dans le combat libéral. Par Gérard Minart, [http://www.institutcoppet.org/2016/03/02/jean-baptiste-say-et-benjamin-constant-freres-darmes-dans-le-combat-liberal]
バンジャマン・コンスタンとジャン=バティスト・セーは同じ年、一七六七年に生まれた。彼らはともに、ナントの勅令廃止後にフランスを去り、スイスに非難したプロテスタントの家系であった。彼らは二人とも、革命当初の一七八九年の諸原理を信奉し、十九世紀最初の四半世紀の間、自由主義理念の闘争の前衛にいた。
しばしこの時代に留まろう。コンスタンとセーは一七八九年に二十代だった世代に属する。この世代は異例の事態に遭遇した――革命、恐怖政治、テルミドール、総裁政府、統領政府、帝政、百日天下、二重の復古、栄光の三日間と、七月王政の開始だ。フランス大革命はボナパルトに持ち直されるまでアナキーに沈んだが、イギリスでは先の革命と同じだけ重要で、世界を作り直したもう一つの革命、産業大革命が起こった時代。この時代について、アルベール・ティボーデがうまく言ったとおり、「ルイ十六世の下で青年期を、革命と帝政の下で青年期を、復古王政の下で老年期を過ごした者には、歴史の許すなかでも、最も多様、最も強烈な記憶が残るだろう」。[1]
[1] Albert Thibaudet, op.cit., p.67.
かくて、コンスタンとセーは啓蒙からロマン主義へ、老いた君主政から若い共和政へ、農業経済から産業経済への変遷に生きた。彼らは、我々の時代にも匹敵する、「破壊・復興」とも言いうる再構成のために、理念、制度、風俗、経済――すべてが別様に移ろう時代を知っていた。繊維業への機械の導入が、我々の活動でのデジタルの到来にも等しい大激動をもたらした時代である。
一九六六年に著された記念碑的な作品『バンジャマン・コンスタンと彼の学説』の序文で、ポール・バスティは四半世紀前に著した『シエスと彼の思想』を思い出した。彼は幾つかの文で、「二人の精力的な思想家」ことシエスとコンスタンの政治的理念に関して彼が挙げたパラレルの主な特徴を際立たせた。というのは、「個人的自由が彼らに共通する唯一の宗教であった」こと、「人格の独立」を称えたこと、「覇業と不寛容の精神に引っ掻き回される時代において」、「権力と派閥に直面する自由人」の像を著すよう強く引かれていたことだ。[2]
[2] Paul Bastid, Benjamin Constant et sa doctrine, Paris, 1966, Armand Colin, tome 1 p.5.
これはもう一つのパラレル、コンスタンとセーの関わりに適用するとき、少しも変更せず繰り返すことができる。
そのようなパラレルを正当化するためには、とりわけ、ジャン=バティスト・セーに指導された共和派知識人の刊行物『十年』が、バンジャマン・コンスタンの最初の大著を賞賛したときの熱烈さに言及することができる。今は昔、一七九六年、総裁政府の下にありけり。恐怖政治を生き延びた穏健共和派が新憲法――共和暦三年憲法――を起草し、元老院と五百人院の二院に委ねられた立法権と五人の総裁に帰せられた行政権を制定した。異なる権力を分割しながら、この憲法の執筆者は、ロベスピエールの独裁を許した機関、公安委員会と一般安全委員会を打ち破ろうとした。その抱負は、均衡制度の手段での功績を確固とし、そのような制度を財産家に代表される国民の安定的部分のうちに定着させることで、革命の波を食い止め、革命を終わらせることであった。
バンジャマン・コンスタンが一七九六年に筆を執り、非常に明示的な表題のDe la force du gouvernement actuel de la France et de la nécessité de s’y rallier(『フランス現行政府の力とこれに加わることの必然性について』)の著作で公論に訴えたのは、平等派の陰謀に脅かされた直後において、この共和的政権の立憲的経歴の第一歩を支持することであった。彼はLa Décade(『十年』)誌で速やかに同調された。この雑誌は一七九六年五月十九日と二十九日の号で、この書籍から長い抜粋を行いながら彼に二つの記事を捧げた。
『十年』は一七九四年に創刊された。それは『哲学的、文芸的、及び政治的』雑誌を予定した。それは、ロックとコンディヤック、コンドルセを主要な参考知識人にとり、公然と共和主義者を自認する、啓蒙と百科全書の世紀を継承する若い進歩派知識人の運動、イデオローグの機関誌として通っていた。その総編集者、今日でいう編集長こそ、ジャン=バティスト・セーであった。
『十年』は後の一七九七年に再び、王政派で活気付くクリシーのサークルに抵抗するためのバンジャマン・コンスタンの主導での立憲サークルの創造を支持した。
かくて、コンスタンとセーの第一の収斂は総裁政府の下に観察される。
この収斂はまずpolitique〔政治的〕であり、république〔共和的〕と称された。
しかしどんな共和政でも、とはいかなかった。権力分立に特徴付けられ、ジャコバンや王政派の極端から疎遠で、なによりも、かの革命の戦利品たる自由と平等、特権の廃止、財産の尊敬、世俗的と精神的の分離、公共教育の発達と才能の活用を実施するために設立された、穏健な共和政だ。
バンジャマン・コンスタンは記す。「人々の不平等、道理に適ったその二つの理由、財産と才能が、その権利を取り戻すだろう」。[3]
[3] Paul Bastid, op.cit., p.109.
そのうえ、バンジャマン・コンスタンに当時の共和主義の特許を授けるべきとしたら、それはネッケルに与えられていた。一七九六年一月、彼は友人宛の手紙において、娘のスタール夫人とバンジャマン・コンスタンが「ともに、驚くほど共和的な理念と希望に傾いている」と語っていた。[4]
[4] Ibid., p.110.
共和暦三年憲法が立法と司法の紛争を調停するための有効な手続きを制定せぬまま非常に過剰な仕方で別々の権力を分割しようとその制限を示し、その政権が国をアナキーの瀬戸際まで突き進めたたとき、この政権の一幕は区切られなければならなかった。
一七九九年十一月、セーと『十年』、イデオローグの大多数は、ボナパルトのブリュメール十八日クーデタを支持した。バンジャマン・コンスタンはこの成り行きに従って、彼の成功をスタール夫人に伝えるため、サン=クルーに姿を現した。その支持の理由は二つあった。先の総裁政府の非効率を非難するものすべてと、ボナパルトが秩序と自由の両方を行き渡らせることのできる「フランスのワシントン」になりうると考えるものすべて。とりわけ、当時のボナパルトは知識人の下に足繁く通い、進歩的将軍の名声を勝ち取り、学士院のメンバーに選ばれていた。
それは第一統領にとっては、イデオローグたち――及びジェルメーヌ・ド・スタールとバンジャマン・コンスタン――からの思いがけない出来事であった。
彼の態度は、概していえば、幾らかの「甘さ」で報いるものだった。
一八〇〇年の早期には、新政権の諸制度、すなわち国務院、護民院(ジャン=バティスト・セーとバンジャマン・コンスタンの事例)、立法院、元老院にはイデオローグが指名された。
しかしこの議会的な旅路は短かった。自由への最初の攻撃に抗議し、一定の極度に権威主義的な企画への投票を拒否することで、多くのイデオローグたちが一八〇二年には護民院から排除された。
これはバンジャマン・コンスタンに当てはまる。
彼らは「形而上学者」、「弁護士」――あるいは口達者どもの別の言い方で――「害虫」になった、このようなものが先の友、第一統領からの言葉だった。
またジャン=バティスト・セーも、先〔〇三年〕に出版されて成功を収めた『政治経済論考』の幾つもの部分をボナパルトの指示の下で書き直すことを拒絶したかどで一八〇四年に排除された。第一統領はこの論考を自分の国家政策に役立てようとして欲していた。このそれまで接近していたこの二人の男たちの衝突は、決定的な決裂を記録する。セーは称号や金銭で妥協せず、ボナパルトの失墜までに彼と全面的に絶縁した唯一のイデオローグとなった。
短い議会的経験の後、コンスタンとセーの行く道が分かれたとしたら、それはコンスタンが政治家と著述家の二足のわらじを続けたかたわら、セーが経済教授の後パ=ド=カレーで企業家になったことであり、彼らの政治的理念が隔たったとしたら、それはコンスタンが立憲君主制を、市民の法的形式と保障を尊敬するかぎりで受け入れたかたわら、セーが命のかぎり、ジョン・スチュアート・ミルの判断いわく「最善の種類のフランス共和派の好例」だったことであれ、二人ともその多様な経歴を通して、自由の熱烈な擁護者なままであった。
彼らは、同じく経済の領域でも、若かりしころに受けた影響に忠実なままであった。というのは、アダム・スミスの影響だ。
コンスタンとセーは早くからアダム・スミスの作品を発見していた。前者はエディンバーグで研究していた十七歳のとき。後者は後のジドンロ派大臣クラヴィエールの秘書を務めていた一七八九年、二十二歳のときだ。クラヴィエールはその書斎に『国富論』の献呈本を所有していた。また、『十年』はスミスの著述の翻訳を考慮していた。かくて一七九八年、アダム・スミスのもう一冊の大著にして、ちょうどコンドルセ未亡人ソフィー・ド・グル��ーの新しい翻訳の対象となった『道徳感情論』に二つの長い記事が割かれた。
コンスタンとセーのパラレルは他にも多くの要素を加えることができる。
たとえば出版の自由を擁護する同じ情熱。
たとえば奴隷貿易を非難する同じ関与。出版の自由の友の会以前のジャン=バティスト・セーが一八一八年、アテナエウムでのバンジャマン・コンスタンが一八一九年に、奴隷制に抗して立ち上げた「世界市民」のため、サミュエル・ロミニー卿の雄弁な追悼弔辞を読んだのは偶然ではない。
たとえばイギリス制度への同じ関心。二人ともイギリスに滞在していた。二人ともイギリスの言語を喋った。二人とも自由の存在と行使が伝統と立法に起因する確固たる保障に包まれている民族を賞賛した。ここではイギリスが当時の最良の精神に及ぼした魅力を力説しよう。ベーコンとロックを介しての、哲学的魅力。一六八八年の大革命をもっての、政治的魅力。発明家と企業家の天才による、技術的魅力。生産的装置の途方もない発達に伴う、産業的魅力。ピエール・ルブーよりうまくこの魅力を纏めた者はいない。彼が記すとおり、当時のフランス人にとってのイギリスは、現代人にとってのアメリカ合衆国、いわば「未来の生活の景色」であった。[5]
[5] Cité par Bertier de Sauvigny dans son livre La Restauration, Paris, Flammarion, collection Champs, p.331.
はては、たとえば若いアメリカへの同じ魅了。コンスタンは恐怖政治の下、セーはナポレオンの下で、二人がフランスに絶望したとき、アメリカに立ち去ることを夢見た。
「アメリカよ、アメリカよ〔……〕ヨーロッパですべての自由が死に果てるならば、わたしはそれゆえにアジールに留まるのだ」とバンジャマン・コンスタンは記した。[6]
[6] Henri Grange, Benjamin Constant amoureux et républicain 1795-1799, Paris, 2004, Les Belles Lettres, p.25.
ジャン=バティスト・セーについて言えば、彼は紡績工場を売却した後の一八一三年に、アメリカン・ドチームの誘惑を催して、家族とのアメリカ永住を企てた。彼はその巨大な国土地図を研究史、異なる地域ごとの、気候、土壌構造、土地価格の情報を集めた。バージニアの選択さえ決定した。この歓迎する国土へ彼を案内したのはその住民のなかでも最も著名な人物――一七八五年から八九年までのパリ駐在アメリカ人大使、フランスとイデオローグたち、わけてもジャン=バティスト・セー彼自身の親友、トーマス・ジェファーソンであった。最終的には、セーは祖国離脱の計画を放棄した。
この一頻りの悲観の後、恐怖政権の絶頂にもかかわらず、セーとコンスタンは革命的時代のそこそこ楽観的な判断に辿り着いた。
セーが一八〇一年に、一七八九年~九九年の期間をざっと振り返って記すには、
先の十年は概して言えば先の世紀の最も美しい十年にして、最も長く、最も大きな帰結を生じる十年であった。
そしてコンスタンとしては、「我々の幸福な革命」という演説において、「わたしはこれを、その過剰にもかかわらず、幸福な、と称します。なぜならばわたしは成果に視点を合わせるからです」。
ナポレオン帝政の崩壊後、ジャン=バティスト・セーとバンジャマン・コンスタンはそれぞれパリにおいて、一般公衆向けの会議を開く自由教育協会アテナエウムの教壇で自由主義の講義を行うことに相成った。また、セーのアーカイブにはコンスタンの一八一九年二月十三日の会議に出席を申し込むセー自筆の文書を見つけることもできる。
ここには二人の男たちのもう一つの本質的な収斂が現れている。公共教育への同じ献身だ。これはイデオローグたちの非常に強力で非常に現存的なテーマであった。この教育への献身はコンスタンとセーの一生涯を通じて続いていた。そのような教育の意志は自由の利益を理解でき、これを擁護できる啓蒙的な公論の形成を目指している。
バンジャマン・コンスタンは『政治学原理』の発表において、彼の執筆時のそのような意志を主張する。
わたしの目的は初等的な作品を執筆することであった。政治学の根本的諸原理については、わたしの知るかぎり、この種の作品が欠けているように思われた。[7]
[7] Benjamin Constant, Principes de politique, Paris, 1997, Hachette-littératures, collection Pluriel, p.21.
セーにとっても同じで、彼は最後の作品Cours complet d’économie politique pratique(『実践的政治経済の完全講義』)でその目標を実に明示的に述べている。すなわち、為政者、土地所有者と資本家、学者、農家、製造業者、商人、全市民一般の目の下に、諸社会の経済を置くことだ。
ジャン=バティスト・セーも出席を願ったコンスタンのアテナエウム〔パリ王立アテネ〕での会議は政治的自由主義の歴史の暁であり、その創始テキストの一つになった。その表題はDe la liberté des Anciens comparée à celle des Modernes(『近代人の自由と比較された古代人のそれ』)だった。
近代人――これこそがコンスタンとセーの思想を取り結ぶキーワード、コードワード、サインワードだった。
近代人の政治的自由はバンジャマン・コンスタンの成句に纏められる。個人の独立だ。
また、近代人の経済的自由はジャン=バティスト・セーの成句に纏められる。生産者活動の独立だ。
コンスタンが近代人の自由に関する性格を定義し明示しようと努めたならば、セーがその自由が花開く将来社会の輪郭を定義し明示しようと努めたといえる。
その社会とは、産業的社会であった。[8]
[8] Voir à ce propos l’étude de Philippe Steiner : Say, les Idéologues et le groupe de Coppet. La société industrielle comme système politique, Revue française d’histoire des idées politiques (numéro spécial sur les Idéologues) 2003/2, N°18, p.331 à 353. Sur Internet.
したがって、その法律的形式と立憲的保証は国家の侵犯に対する権利と自由の保護的領域を市民個人と生産者個人のまわりに創造することが目標である。
一八一九年から一八三〇年までに広がる、長からず高からぬ期間――されど、自由主義の歴史においてかくも重要な時代――を眺めるとき、何が見えるだろうか? バンジャマン・コンスタンが代議院の演壇で議会政権に教授を施し、ジャン=バティスト・セーが工芸院ひいてはコレージュ・ド・フランスの講談で自由主義経済を教授するところが見える。
歴史家はこの時代をLa Restauration(ラ・レストラシオン、『王政復古』)と呼び、この用語はブルボン家のフランス復帰に適用される。我々自身としては、これがもう一つの領域における復古であることを強調しよう。自由主義理念の復古である。ロベスピエール独裁で追いやられ、ナポレオン権威主義に押し殺されながらも、一八一四年憲章が差し出したきっかけのおかげで、それらの理念は公的討論の余地を取り戻したのだった。
一定数の論評家がバンジャマン・コンスタンを自由主義の学長、ジャン=バティスト・セーをフランス自由経済学派の教師と称したのはもっともである。自由を教える――あるいは、教えなおす――べきときがきていたのだ。
かくて我々は、自由主義の二冊の教科書、あるいはもっと適切に、その二冊の聖書のようなものである、バンジャマン・コンスタンの『政治学原理』とジャン=バティスト・セーの『政治経済論考』、この二冊の書籍に及ぶだろう。
今日でさえこの二冊の書籍は、二世紀を経ても明晰さと正確さにかけてなお若々しく、現代の退屈で曖昧な言説の多くに対し、政治学と経済学の導入として価値がある。
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