#セリーの技法
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皆さん今日もお疲れ様でした。
深夜の指定席から、こんばんは^^
今夜は、セリーの技法(ドデカフォニーの1種)の解説書みたいなもんを、こさえます。
オヤスミナサイ Good night
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野々村禎彦,齋藤俊夫 / クセナキス『形式化された音楽』監訳者に聞く/メールインタビュー第1回
『ピソプラクタ』に先立つ「セリー音楽の危機」という論文(1955) の要点は、「全面的セリー技法で書かれた音楽は複雑すぎ、作曲者が意図した対位法構造を聴き取ることは不可能で、一見ランダムに選ばれた音の塊が推移しているようにしか聴こえない。ならばランダムに選ばれた膨大な音の塊の平均的性質を確率分布関数のパラメータを通じて推計学的に制御する方が合理的だ」という提案でした。
個々の音は偶々選ばれたに過ぎず、制御されているのは「平均的性質」のみです。これを「数学から音を聴き取る」とは言えないでしょう。また、この平均的性質を決めるパラメータの推移は数学的に決めているわけではなく、直感的に決めた設計図に沿うように選ばれています。すなわち、彼の中に「既にある音楽」を作品化する手段として「数学を持ってきた」のです。
そもそも彼は、数学者でも物理学者でもなく建築家です。建築家はまず建物の全体像をスケッチし、徐々に細かい構造やデザインを決めて行き、石組みや煉瓦などの個々のパーツは色や材質を指定するだけで、あとは職人に任せます。作曲家としての彼も、同じことをやっているのです。「色や材質」に相当するのが確率分布関数のパラメータで、「職人」が数学(ないし計算機)です。
野々村禎彦,齋藤俊夫
クセナキス『形式化された音楽』監訳者に聞く/メールインタビュー第1回
http://mercuredesarts.com/2018/02/14/xenakis_formalized_music-1-nonomura-saito/
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作風[編集] i[編集] シュニトケの最初期の作品はショスタコーヴィチの影響を示しているが、イタリアの作曲家ルイジ・ノーノのソ連訪問後は、《ピアノと室内オーケストラのための音楽》(1964年)に見られるように、セリー技法が採用された。だが間もなく、本人の言によると「セリーによる自己否定というお年ごろの儀式」に飽き足らなくなり、「多様式」と呼ばれる新しい作曲様式に突き進んだ。多様式による作品では、新旧の作曲様式による音楽が、きわめて密接して積み重ねられていく。シュニトケはかつて「私の生���の目標は、芸術音楽と軽音楽の統一なのです。そうしたら、たとえ私の首が折れてしまうとしても」と記したが、これは70年代の流行をいち早く察知し、自らがそれを最上の形で表明したことへの自信でもあった。 ii[編集] 多様式の萌芽は、《ヴァイオリン・ソナタ第2番〈幻想曲風に〉》(1967年~1968年)において認められ、十二音技法で作曲されているのだが、シェーンベルクやヴェーベルンの例では禁則とされた、3度・6度といった協和音程や、協和音のアルペッジョが、音列の中に使われている。その一方で、ほとんどの楽曲素材が映画音楽の転用であり、シュニトケの作曲様式の発展において映画音楽の影響力が歴然と示されている。また当時テープ音楽からの影響を強く受け、オーバーダブを用いて擬似無限カノンを作り出す極めて個性的な音色を発案する。この技法は後にバレエ音楽《ペール・ギュント》の終結部に使われ、大変に感動的な瞬間を生み出している。また前衛の時代では忌み嫌われた絶対音楽の命名法にも向かい、叙事的な《交響曲 ���1番》(1969年-1972年)や《合奏協奏曲 第1番》(1977年)において発展を続けた。後者では調性さえ復活されており、この作品によって世界的に注目される。一方の、亡き母を偲んで作曲された《ピアノ五重奏曲》(1972年-1976年)のような作品では、むしろ統一された作曲様式が採られている。 iii[編集] 1980年代になると、シュニトケの音楽は国外でもLPリリースで広く知られるようになった。これは、ギドン・クレーメルやマルク・ルボツキーのような亡命音楽家のおかげであるが、ペレストロイカやグラスノスチの恩恵を良いタイミングで被ってもいる。この時期は体調が優れず、しばしば病中にありながらも大曲の創作を続け、《弦楽四重奏曲 第2番》(1980年)と《同 第3番》(1983年)、《弦楽三重奏曲》(1985年)、《ファウスト・カンタータ》、バレエ音楽《ペール・ギュント》(1985年-1987年)、《交響曲 第3番》(1981年)、《同 第4番》(1984年)、《同 第5番(合奏協奏曲 第4番)》(1988年)、《ヴィオラ協奏曲》(1985年)、《チェロ協奏曲 第1番》(1985年-1986年)が作曲された。この時期の最後に、BIS社から全作品録音プロジェクトが決定される。 iv[編集] 健康がさらに衰えるにつれて、シュニトケの作品は、多様式の外面的な部分の多くを切り捨て、より内面的で打ち沈んだ調子に閉じこもるようになる。《弦楽四重奏曲 第4番》(1989年)、《交響曲 第6番》(1992年)、《同 第7番》(1993年)、《同 第8番》(1994年)��その好例といえよう。この段階の作風について、ショスタコーヴィチの二番煎じではないのかと疑問視する意見も上がったものの、ジェラルド・マックバーニー Gerald McBurney のような研究家からは、「これらの後期作品こそ、シュニトケの全作品のうちで最も影響力を持っている」と断言されている。《交響曲第9番》(1996年-1997年)は、シュニトケが脳卒中の発作と戦いながら最後には左手だけで書いた絶筆で、3楽章までの解読困難なスコアが残された。知人の作曲家アレクサンドル・ラスカートフにより解読・再構成され、2007年6月16日にドレスデンで初演された。現在出版されており[1]、CDもリリースされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルフレート・シュニトケ
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