#スタインベルグ
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anamon-book · 1 year ago
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左翼社会革命党 1917‐1921 スタインベルグ、蒼野和人・訳、松田道雄・解説 鹿砦社
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kirezilla · 6 years ago
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レーニンは、常にソヴェト政権を第一に考慮していた。 「帝国主義の鉄拳の下におけるソヴェト政権とは、一体何なのだ?」と左翼エス・エルを代表してカムコフが反論した。「このような諸条件を呑むことは、革命にとって精神的にも、物質的にも、敗北ではないのか。ソヴェト政府を世界のプロレタリアートに結びつけているすべての絆は、散り散りばらばらになってしまうであろう。われわれは、至るところで噴出している戦争と資本主義に対する革命運動を、自分自身の手で絞めあげることになるだる……帝国主義者どもに、ペトログラードとモスクワを占領させようではないか。彼らは革命が育ったその土壌の上に、自らの墓石を見出すであろう」
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅲ部第4章「統一戦線挫折す」
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kirezilla · 6 years ago
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「増大する党危機の主な原因は、官僚制である」とトロツキー、クループスカヤ(レーニンの未亡人)及びその支持者たちは表明した。「この情勢に不満か、またはためらいを感じている者たちは、党会議でその意見を述べることを恐れている。いかなる決議も、全会一致の原則を無視して採択されたことはなかった。個々の党員の影響力というものは、事実上無である。あらゆる死活の問題が、党会議で討論されることなく、蔭で不法に危険なやり方で論じられている」
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅳ部第6章「追放」
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kirezilla · 6 years ago
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自らもまた投獄されていたイスマイロヴィッチは、次のように記している。 「私たちは再び牢獄に繋がれている。以前は専制君主制の下だったが、今は社会主義共和国の下にである、だがしかし、牢獄はやはり牢獄なのだ。一つ違いがある。ツァーリの下では獄吏を《─さん》づけで呼んでいたのに、今や彼らを《同志》──『同志司令官殿』とか『同志、看守』と呼ぶことである。けれども私たちは、ここで神聖な《同志》という言葉を使うつもりはない。先日彼らは私たちのところから六名を連れ去り、銃殺した……同志たちは《インタナショナル》を歌った。戸口に現れた看守は、脱帽し歌がおわる迄そのままでいた。私たちはなんという時代に生きていることだろう」
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅳ部第1章「「戦闘団」ウクライナへ」
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kirezilla · 6 years ago
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もっともボルシェヴィキ特有の風貌を有する一人であるジェルジンスキーが、その〔チェカの〕首領に任命された。彼は監獄という地獄をくぐり抜けてきた革命家であり、その階級敵への癒し難い憎悪を革命に持ち込んでいた。彼は、細っそりとして痩せた容姿と神経質にひきつる顔と、悪魔のように尖ったあご髭と、背後に乾いた狂気の炎がきらめいている青い眼をもっていた。ジェルジンスキーは子供が非常に好きで、児童問題は、ソヴェト共和国において彼の特別の関心を引いていた。しかし、彼の主要な関心事は、反革命と闘い、これを絶滅させ、反革命に終止符をうつことであった。「われわれは正義など欲しない。われわれが欲するのは、始末をつけることだ」という言葉は、彼の好きな言葉の一つだった。
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅲ部第4章「統一戦線挫折す」
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kirezilla · 6 years ago
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スピリドーノワが演壇に立った。・・・・「われわれが現在足を踏み入れてつつあるこの時代にあっては、旧い規準はもはや十分には満足できなものとなっている。最近までは、憲法制定議会という言葉は、革命を意味していた。われわれの内部から議会主義的幻想が駆逐されだしたのは、革命の性格が自らまうます明確に現わし始めたつい最近のことにすぎない。人間の社会的解放をもたらすものは、議会などではけっしてなく、人民自身なのである」
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅲ部第3章「ボリシェヴィキとの同盟」(1918年1月10日第三回ソヴェト大会での発言)
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kirezilla · 6 years ago
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それは穏健主義者にとって悲劇的な状況だった。彼らは革命と反動を調停しようと望んだが、そのことは彼らを一直線に反動派のおもうつぼに導いていった。彼らはフランス革命の合言葉に興奮していたが、二〇世紀においては《自由》、《民主主義》、《共和国》、といった言葉が二つの意味を持つようになった、という事実を見落としていた。彼らはケレンスキーを、《人民の人質》及び革命的民主主義の代表��して、ブルジョアジーを代表する一〇人の大臣の中に、司法大臣としてもぐり込ませた。ケレンスキーは、これら改良主義的社会主義者の典型的見本であり、愛国主義と国際主義、共和国とソヴェト、資本主義と労働者の経済的権力、とを統一しようと望んでいた。ケレンスキーは、やがていくつかの激しい矛盾に苦しむことになる。
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅲ部第1章「万国の労働者、団結せよ」
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kirezilla · 6 years ago
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戦争は、ロシア人民を分け隔てていた階級という障壁を除去することを鋭く進める要素であった。ブルジョアジーにとって革命とは、自由をより有効に戦争を遂行することと読みとることであった。それは人民よりもむしろ軍隊をその束縛から解き放つことを意味していたのである。さらにブルジョアジーは彼ら自身の独自の野心をもっていた。戦争の後には、西ヨーロッパ型の強固な資本主義的構造を革命の基盤の上にうちたてるべく、ブルジョアジーは巨大かつ未開拓な国内市場と膨大な植民地における領土拡大、という素晴らしく快よい夢に浸っていた。何百万という小作人口、従順なプロレタリアート、無能な議会、それに強力な外交政策。これらをゆうする国家こそ、ツァーリ体制の崩壊した後における彼らの理想だったのだ。
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅲ部第1章「万国の労働者、団結せよ」
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kirezilla · 6 years ago
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「僕は人間にとって最大の罪を犯したのだ」とサゾーノフは書いている。「僕は自分を血で汚してしまった。僕は血を流すように創られたのだろうか?若い頃、僕は苦しんでいる人民のための平和な仕事を夢みていた。ところが、突然、僕は途方もない任務、肩から降ろすことのできない責任に直面していたのだった。僕が実行しなければならないその任務……この考えに苦しめられてサマラの監獄で、果てしない日々と眠れない幾夜かを過ごした……僕を誘ったのは名声などではなかった。そして僕たちは武器をとった。だが、それは僕たちが最初ではない。それは、死にもの狂いの闘争と苦悩のすえ、悲劇なまでの必要に迫られてのことだったのである」
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅱ部第5章「エゴール・サザーノフの生と死(1)」
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kirezilla · 6 years ago
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サゾーノフはこう結んだ。「私が手紙を書いたとしてももうどうにもならないだろう。貴方の運命は貴方自身で選びとったのである。貴方自身の行為によって、自分の運命にある種の宣告を下してしまったのだ。それが実行されるかどうかは人民の側に関わることで、私たちには関係ないことなのだ」  「では私には、棺桶を注文して丘の裏に墓穴を掘る時がきた、というわけだな」ボロドゥーリンは看守の方をふりかえって、みじめな微笑を浮かべた。
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅱ部第2章「ボロドゥーリンの最期」
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kirezilla · 6 years ago
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後に彼〔グレゴリー・ゲルシュニ〕は、裁判に際してこう述べている。「正義を愛する市民であれば、たとえ消極的にせよ、そのもとで一億三〇〇〇万もの人民が統治者の気まぐれに完全に左右されているような政治体制を支持することなど不可能である、ということが私にははっきりとしてきた。私は、自らの物質的な豊かさ、皮相な満足感、啓蒙活動、個人的人間関係や友人たち、すなわち一言でいえば、実は他人の犠牲の上に成り立っている、われわれが言うところの『個人の幸福』といったものすべてを放棄し、その全活動の根底に全人民の利益、という唯一の動機を有する人びとの下に身を投じた。羞恥心と厳然たる良心の声とが、われわれにこのような行為を余儀なくせしめたのである」
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅱ部第1章「ゲルシュニの脱獄」
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kirezilla · 6 years ago
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セルゲイ大公を殺害したカリャーエフは、自分の死を切に願った。彼はつぎのような手紙を友人たちに書いている。 〝僕はあの最後の瞬間のことを想い起こす。僕はその場で死にたかったのだ。そういう最後がうらやましい。しかしながら、もっと大きな幸福──それは絞首台上の死なのだ。行為と絞首台との間に、すべての永遠の真実が介在する。それが、おそらく人間にとって至高の幸福なのだろう。その瞬間においてのみ人は思想の力と美しさを知り、そして感じとることができるのだ。行為すること、しかるのちに絞首台で死ぬこと──それは生命を二度献げるということなのだ〟
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅰ部第3章「スピリドーノワの手紙」
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kirezilla · 6 years ago
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彼女は、社会民主党の理論のなかには、彼女にとって本質的ななにかが欠けていることを知っていた。それは、人生哲学、個人の道徳的責任感とでもいうべきものであった。社会民主主義の理論にあっては、すべてが割りきれて無味乾燥であり、不変の経済法則が、人類の社会と歴史の唯一の物差しとなっていた。宗教、芸術、人間の創造的精神といったものは、彼らの魂不在のチェス盤のうえには、占める位置がなかった。マルクス主義哲学においてもっとも重要なことは、階級であり、大衆運動であった。社会革命党(エス・エル)が大いに強調する個個人の人格のための場所は、そこにはなかったのだ。  社会革命党(エス・エル)のなかにマリア・スピリドーノワは、道徳的破産と結びついた冷たい科学的分析の精神を超えた何ものかを見出していた。社会革命党(エス・エル)においては社会主義とは、生身で耐え、信じ、闘う人間に近いものだった。社会主義者は、道徳的目標、一生の事業であった。この党は、個人主義的なテロリストにも席を与えており、彼らの行動はマリアを鼓吹するものであった。
スタインベルグ『左翼エス・エル戦闘史』第Ⅰ部第2章「暗殺」
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