#ジョン・ネイスン
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misasmemorandum · 1 year ago
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『ある評伝 三島由紀夫』 ジョン・ネイスン 野口武彦 訳
『午後の曳航』を英訳した翻訳家によるもの。1974年にアメリカで出版され、邦訳版は1976年に出てる。三島が自決(介錯死)したのが1970年だし、三島の作品の翻訳をしたこともある人で、その間三島と交友関係を持っていたから、三島夫人の瑤子さんに評伝を書くために協力もしてもらったようだが、出来上がったものに、三島の被虐趣味と同性愛が書かれているために、遺族により増刷などを止められた、ちょっとした問題作。こんな本があるのは、誰かの伝記だかで読んだことがあったと思うが、今回初めて読んでみた。図書館に初版があったので、上に書いた遺族が嫌がった部分もちゃんと入っている。で、こう言う部分を削除した版が文庫化されてる。遺族の気持ちは分かるけど、、、だ。  
被虐性に関しては、以前、性質を同じくする人が書いた本を読んだ。ネイスンいわく、
公威の「少年期の感受性」の真相に横たわる死へのエロティックな衝動は、ほとんど生来のもの...(中略)...公威が死を、あるいは、それにひとしく破滅的で宿命的な何ものかを、じりじりして待ちこがれている「特権的な運命」と目していた。(p48)
そして、三島にとってとても大切だったのが、「美」と「死」と「運命(天才)」
三島が戦後すぐ、まだ20歳なのにすげに時代遅れになってしまったのは、三島が好きなジャンルや、三島を応援していた同好の士たちが戦後の社会的変化で拒絶されるようになってしまったからだそうだ(pp61下−62上)
自分の名前を「魅死魔幽鬼尾」と書いてみたり、お茶目なんだかヤンキー的幼児性なのかなんなのか分からんが面白いと思っておく(苦笑)。
次に、三島が肉体改造を始めた理由。
おそらくは昭和三十年前後に、三島には自分が真正に存在していると感じ、自分が��実に生きていると知ることのむずかしさを体験するような或る���間が訪れたのだ。そして三島は、言葉(芸術)は自分が現実を体験する機会を持つよりも前に「現実を蝕む」ものだとして、それを罪すベく意を決する。三島が意識的に「言葉と対立する」何ものかを求めはじめたのはまさにこのときであった。「肉体の言葉」たる筋肉すなわちこれである(p113上)
さてさて、三島の結婚。その前に三島の性向を三島の両親は知っていたに違いないと著者は言う。父親は否定し続けていただろうが。そして、花嫁になる瑤子さんも知っていただろうと言う。そうなんだぁ、と驚いた。
昭和35年に出演した映画『からっ風野郎』では、自分より背の低い女優だけが出てることを確認したそうで、若尾文子と共演したそうだ!若いときの若尾文子、可愛いものねぇ。この映画、見てみたいかも(爆)。
肉体改造をし、自衛隊に体験入隊したり、楯の会を作ったりする兄を、弟の千之は、子どもの頃にさせてもらえなかった戦争ごっこを楽しんでいただけだろうと言う(p219)。
しかし、晩年の三島の政治的見解/思想は、私には理解できない。読む気にもならんし、読もうと頑張っても頭に入らん。全くのフィクションだと思えば読めるかも知らん。次回、試してみよう。
自決したとき、自ら腹を裂き、介錯のために3度首を打たれる間、自分の血で「武」と書くつもりだった(p246)そうだが、あまりの苦痛に三島は、その苦痛を感じる以外に何も考えられなかっただろうと思う。三島にとって何も考えられないと言う状態、何も考えずに感覚だけにある状態はこの時が初めてだったかもしれない。この状態を三島は文章に表したいと思ったのではないだろうかと思った。
三島は遺言で文人ではなく武人として死にたいと書いていたので、遺族は三島に楯の会の制服を着させ、軍刀を胸に置いた。が「最後の瞬間に、瑤子は原稿用紙と万年筆を棺に納めた」そうだ(p247上)。奥さんは小説家三島由紀夫と結婚したんだもんね。
また、白い薔薇を持って来た弔問客に母の倭文重が
「お祝いには赤い薔薇を持って来てくださればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげてくださいませな。」(p247上)
と言ったそうだ。お母さん、泣かさんといてくれよ!と思った次第です。
著者は後書きで三島の死について
私にいえることは、ただ三島の一生の物語から感知する��ぎりでは、それが基本的に死へのエロティックな陶酔にかかわっているように見えると言うことだけである。私が言いたいのは、三島は生涯かけて情熱的に死を欲し、「愛国心」を、あらかじめ処方された一生の幻想たる苦痛に満ちた「英雄的な」死の手段として意識的に選択したように見えるということだ。私はかならずしも三島の最後の数年間のあの熱烈なナショナリズムが、ひとを担いでいたのだと信じているわけではない。しかし私には、どうしても三島の自殺がその本質において社会的でなく私的であり、愛国主義的でなくエロティックであったように思われるのだ。私の解釈が真実の全てだと言うつもりはない。ただそれが真実だろうと信じているまでのことである。(P250)
と言う。同感。
生前、三島は、気に入らないことが起こると、それを起こした人物とはすぐに関係を切っていたようだ。交友関係が広かっただろうから、面倒な関係はないものにするのが楽だったんだろうな。
さて余談。三島が歌舞伎の脚本を書いた件で、文楽の太夫に義太夫の部分をチェックしてもらったとあったのだけど、文楽座の鶴澤燕三って、文楽「座」って何よ!!??そして演目名、『椿説夕張月』となってるが、正しくは『椿説弓張月』やで。翻訳者のケアレスミスとして、校正した人とか編集者とかも見過ごしたのか?あかんやろ、と思った。
また三島の作品を読みたくなった私でした。
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