#グローバルスタンダード
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カトリックの総本山 ローマ教皇庁にも言えよ 過去に男しか教皇になってないしそもそも大勢いる聖職者も男しか認めていない この機関ってなんなんだ? なぜ上から目線で自分達の価値観だけを押し付けてくんの? 自分達の価値観こそがグローバルスタンダードです、と言わんばかり 世界に多様性を押し付けて画一化させて逆に多様性を損なわせる
国連「男系男子」のみを皇位継承者と規定する日本の皇室典範を改定するよう勧告(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース
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XユーザーのlillilMиMиMиizluvさん:「#グローバルスタンダードだと思うものを貼る」
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。 『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とし��。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。 『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。 同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。 (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)���渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。 (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。 宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。 騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。 こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。 (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。 私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。 (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。 (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。 武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。 「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。 (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。 こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。 世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来���といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。 (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。 (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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バベルの塔と価値観
世界中で交流が起きて
コミュケーションがとれて
価値観の擦り合わせが出来ることは
素晴らしいことだと思います。
ただ最近のグローバルスタンダードを
見ていると
人権だけが先歩きしているように感じました。
生存権や自己表現はもちろん必要な権利ですが
LGBTQのことや宗教の拒絶など
神さまに対する畏れが
どんどん薄くなっているような…
昔の人がバベルの塔を建設して
神さま否定したように
今は世界レベルの人間的な価値観で
神さまを否定しようとしているのかなと
思いました。
もしくは人間が人の力で団結すると
神さまに敵対することになるのか…
人の目から見れば不平等に見えても
意味がないように思えても
神さまの全てを理解することはできないので
神さまが言われることは神さまのことばとして
畏れなければ
バベルの塔に混沌が来たように
裁きを受けるのかもしれません。
2022.11.17
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@dancing_eel(うなぎ(steel_eel))
アメリカの悪質なところはそういうアメリカの特殊な状況とか考えないで「国際基準」とか「グローバルスタンダード」とか言って出してくるところなんだよな。文字列レベルの思考しかできないと騙されてしまう。
Twitter Web Appから
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先日、NTTドコモが通信機器の調達を国内ベンダーから海外ベンダーに切り替えていくという報道があった。NTTドコモではこれまで富士通やNECといった国内ベンダーを中心に調達を行なっていたが、それをエリクソンやノキアにしていくというものだ。
まさに「ガラパゴスネットワーク」からグローバルスタンダードなネットワークに切り替えていくというわけだ。
背景にあるのは、ここ最近、指摘されているNTTドコモのネットワーク品質の低下だ。これまで電波の飛ぶ向きを調整したり、基地局を増やすといった対策を打ってきたが、抜本的な対策として、通信機器を提供するベンダーを切り替えるという手を打ってきた。
自衛隊も国産を止めれば?
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誕生日を祝う文化の起源は?古代エジプト時代には「ファラオ」即位日を祝う習慣、古代ローマ時代には一般市民がケーキに似た菓子にろうそくを灯すように:日本など世界でグローバルスタンダードになったのは19世紀産業革命以降
古代エジプトの誕生日文化:ファラオの即位日祝祭 古代エジプトの誕生日文化は、現代のお祝いとは大きく異なっていました。 エジプト文明において、誕生日の概念はファラオの即位日と密接に結びついていました。 この独特な文化は、古代エジプトの宗教観や社会構造を反映する興味深い例です。 ファラオの即位日:国家的祝祭の起源 ファラオの即位日は、単なる個人的な祝いを超えた国家的な祝祭でした。 エジプト人にとって、この日は新たな時代の幕開けを意味しました。 即位日は、エジプトの暦で重要な位置を占め、年間行事の中でも特別な日とされていました。 神格化されたファラオと祝祭の意義 古代エジプトでは、ファラオは神の化身として崇められました。 即位日の祝祭は、神聖な統治者の誕生を祝うと同時に、国家の安泰と繁栄を願う機会でもありました。 この考え方は、エジプトの宗教観と政治体制が密接に結びついていたことを示しています…
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2023/09/28 BGM: 山崎まさよし - 月明かりに照らされて
今日は休みだった。今朝、英語関係のオンラインサロンのミーティングにZOOMで参加する。そこで毎週恒例の英作文を楽しむ。ホストの方や参加されている他の方からは、常にその英語のスキルのみならずジョークを楽しむ姿勢や継続して学び続ける姿勢といった、総合的に表現するなら「人間力」とでも呼ぶべきものを感じる(僭越な響きが出てしまうけれど)。今回のミーティングでもそれは同じだった。「once in a while」や「be worried about」といった言葉を用いて英作文を作り、そこからぼくのこの日記の話に話題が移る。ぼくが昨日の日記で書いていた「マイクロアグレッション」、つまりネイティブではない日本語話者(日本語学習者ですね)の方に対して「日本語お上手ですね」と褒めることの是非について話が及び、海外の文化と日本の文化(あるいは英語圏と日本語圏)の違いについて、そして日本語圏の中の関東と関西の違いについて話が展開していく。例えば関西では(ぼくは兵庫県に住んでいるのだけれど)「アホちゃうか」という言葉が単純な「idiot」に結びつかない「褒め言葉」としても使われたりする。でも、それは他の地域の方からどう感じられるか……という話に至った��この「アホ」という言葉(あるいはそれと対を成すだろう「バカ」という言葉)、なかなか奥が深い。
これについてもう少し話を膨らませると、ぼくは関西のノリをそんなに嫌ってはいない。関西の、たとえば食べ物は薄口の味付けで食べたりたこ焼きや漫才や吉本新喜劇を愛したり、甲子園で野球を楽しんだり送り火に心をときめかせたりする文化……でもその文化の中で、言葉を額面通りに受け取ってしまう性格のぼくは(発達障害のせいか、それとも別に原因がありうるのかはわからないけれど)生きづらい思いをしたりもしたのだった。それで高校時代はいじけてしまい「みんなクラスの中でつるまないと何もできないんだ」なんて極端なことを考えて帰宅部を貫き、1人で図書館やタワーレコードに入り浸ったり毎週ビデオテープに録画した『明石家電視台』をテープが擦り切れるまで観たりして楽しんだ……何だかいつもの恨み節めいてきたので池乃めだか師匠に倣って「今日はこのあたりにしといたるわ」とこの話題は切り上げた方がよさそうだ。でも結局、どの文化にもいいところと悪いところがある、ということでいいのだろう。かたくなに「この文化に皆倣え!(例えば『とにかくグローバルスタンダードで!』)」と言ってしまっては現実を無視した、それこそ「住みにくい」空気を作り上げてしまう。関西に住む読売巨人軍ファンの気持ちになってしまう。「Take it easy」でいいのだろう。
昼、あれこれPodcastで話すネタを考えたり肝心のそのPodcastの名前を考えたりしていたのだけれど(「コミさんによろしく」「とんずら倶楽部」「あすなろラジオ」などが候補として自分の中で挙がりました)、録音しようとしても気が乗らない。なので(これは自分でも「なんでやねん」となってしまい説明がつかないのだけれど)「そうだ図書館に行こう」と思い立ちさっそく行ってそこで古井由吉の本を借りた。どうやら図書館はイオンと並んでそんな風にぼくの気分転換を促してくれるようだ……それでグループホームに戻ってみると世話人さんや他の方が帰ってこられていて、そうなるとPodcastの録音は迷惑になると思ったので「お預け」になってしまった。そういうこともある。それでしょうがないのでうだうだと過ごす。昨日日記で記した「越読る」のPodcastを楽しませてもらったり、Discordなどでチャットをしたり。そのDiscordの友だちのサーバ(グループ)でドイツから来られたという方が英語でメッセージを送られていて、ぼくがそれを通訳して日本語として伝える展開になる。図らずも、いつもぼくが言っていた「『橋』になりたい」という目標を達してしまった���いうことになってしまった。そういうこともある、そういうこと���ある……。
夜、別のミーティングにZOOMで参加する。そこで、明日に控えた中秋の名月を愛でるべく今日は月について学ぶ。月に存在する数々のクレーター、月探査の歴史、月がなければ地球の環境はどう変わるかについて、など。天文学の知識が豊富なプレゼンターの方の語りを楽しむことができ、実に充実した時間を過ごさせてもらった。ここでも「人間力」を確かに感じる……ぼくは(これこそ「アホちゃうか」「なんでやねん」という話になるのだけれど)過去に読んだ月にまつわる書物のことをあれこれ思い出してしまったので、そうなると発達障害ゆえの衝動で動く人間の悲しさでポール・オースターの『ムーン・パレス』を引っ張り出してしまったりした。過去(いまから30年も前だ)、この青春小説を読みふけった日々を思い出してしまう……がこの日記もスペースがなくなってしまった。その後ベトナムの方と日本語でチャットを楽しんだりする。ああ、あらためて「文化の違い」「個性の違い」って面白いなあ、と思った。同じ文化圏に住む似たような人間ばかりだったら世の中つまらなくなる、ということでいいんだろうかと。なら、こんなここにいてこんな文章を書いている人間(つまりぼくです)も「OK」ということになる……こう書いて、「ああ、今日の日記には『オチ』がない」とスッキリしない気持ちになってしまうのもぼくの「関西人の血」ゆえだなと思った。
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個人の資格で入会する経済同友会の代表幹事である新浪剛史サントリーHD社長は12日、ジャニー喜多川氏の性加害問題について会見で「人権侵害であり、大変遺憾」として、事務所の所属タレントについて「(広告などに)起用することはチャイルド・アビューズ(子どもに対する虐待)を企業が認めるということになり、国際的な非難の的になる」と発言した。 ポイントになるのは、グローバルでの人権に対する視座だ。ジャニーズ事務所が認めた性加害の事実を、世界はどう捉えているのか。そして、日本企業はどう理解しているのかである。少年に対する性加害は明らかな人権侵害であり、国際社会では決して許されない。 かつてビール会社は国内市場を中心に事業展開し、熾烈なシェア争いを演じていた。ところが、国内の少子高齢化への対応から、いまやグローバル企業へと変貌を遂げている。世界で戦い、先進国での常識やグローバルスタンダードと向き合っているのだ。特に、欧米系の先進国では人権は最重要のひとつだ。意識し理解していなければ、商売はできない。
「タレントに罪はない」で逃げるテレビ局とは大違い…アサヒビールが「ジャニーズ6人の起用中止」を決断したワケ 日本のテレビ業界基準では、世界で戦えない | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
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最近、自動車で国の基準と違う安全検査の結果が問題とされ認証取り消し等の問題となった時、果たして日本の基準は正しいのか?1950年代からあまり変わっていない日本の車にかかわる制度は、世界に通用するのか疑問でした。世界に車を販売している自動車メーカーの方が正しいと思いました。それと同じことが日本の独自の基準が多いと思います。農薬問題、食品の安全につながる添加物、今回取り上げられた発がん性物質の問題、黄色人種と白人等では微妙に遺伝子的または環境でかかる病気等に違いがありますが、生物学的に大きく違わないと思います。何でもグローバルスタンダードと逆行する日本独自の基準は考え直すべきです。
発がん性指摘のPFAS、水道水は安全か 高濃度の岡山では血液検査、国は全国調査着手(産経新聞)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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インバンで賑わいが戻りつつある有名観光地をいろいろと眺めておりますが、やはり人気が高いのはお仕着せの観光ルートよりも絶景や驚きを感じる「不思議の国ニッポン」のルートのようなので、最近の急速な「グローバルスタンダード化」はむしろ逆効果なんじゃないかと感じる今日この頃……
萌旅調査官@グリーンエイジの交差点2020成功感謝!さんはTwitterを使っています
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国連人権理、ジャニ性加害調査へ 作業部会、当事者聞き取り
ジャニーズ事務所のジャニー喜多川前社長(2019年死去)による性加害問題で、国連人権理事会の「ビジネスと人権」作業部会が今月下旬に来日し、被害を訴える当事者への聞き取り調査に乗り出すことが12日、関係者らへの取材で分かった。各国の人権侵害を取り上げ、改善を促す人権理の専門家が実態把握に動き出した。
作業部会は7月下旬から8月上旬にかけて来日し、東京と大阪で当事者のヒアリングを行う予定。弁護士を通じて作業部会から打診があったという。
作業部会は今回の来日で、ジャニーズの問題のほか、被雇用者の人権などについて日本政府や企業関係者らと面談する予定。調査結果を踏まえ、日本に対する勧告を含む報告書が来年6月からの人権理に提出される。
告発者の1人、元ジャニーズJr.の二本樹顕理さん(39)は「世界的に人権意識が高まる中、日本企業もグローバルスタンダードが求められている。日本の隠蔽体質でうやむやにして済ますのでなく、この問題を海外の方にも知ってほしい」と訴えた。
#国連人権理事会#「ビジネスと人権」作業部会#実態把握#ジャニー喜多川#性犯罪#U.N. Human Rights Council#Johnny & Associates#Julie Keiko Fujishima#ヒアリング#The Working Group on Business and Human Rights#勧告含む報告書#sex abuse#Johnny Kitagawa#日本の恥
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"The Snuts // Gloria (Assai Acoustic Set, 25/5/23)" を YouTube で見る
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This band got a different kick(hook) besides Brit Rock Spirit,like some sort of West Coast Rap Music.
It beautifully matches the vibes of Brit twilight and youth culture.
I like their album" W.L.". I was very inspired by their sound approaching, including the new song "Gloria."
I find similar vibes in Kids Laroi and Justin Bieber's song too. I think this kind mixture of synthe beat and 90's grunge,or west coast music and punk will be the mainstream of youth music.I mean, for coming 5 years.
But at the same time,mix of 70's and 50's will be prepared for the bridge to the dark era.
That era we wanna avoid ,the era we idolize 1 charisma with 20's Cole Porter mix with deep house beat.I feel Billie Eilish and Julian Casablancas already sense the mood of that era.
ファッション産業は既にインドの人的資源とその市場の将来性を見据えている。比較的安価な労働賃金と環境資源もそこに寄与する。GDP
成長率からもそれは証左だ。
私は資本の集中を経た後のインドの芸術観を夢想している。横溢する自然の下培われた忍従受容的性質、そこから生まれたマスナンバーな総体性の美学。最近のRRRの記録的ヒットにも見てとれるインド映画のあの大人数のセミオティックイコン表現がどう変化していくか。あの芸術観、つまりは細部描写の目も眩む横溢とそれらの眩い混沌が無統一さながらで、しかし同時に1としての総体性に美学を置いている観点は、現代のテクノロジーコミュニケーションとの親和性が高い。しかしながら、グローバル市場と融和するにつれ、消費者の視野も広がり芸術観も変容するものだ。1つの総体性で把捉されるが統一的合理性には欠いたあのインド的芸術観の歴史性は根深そうだが、グローバル化によって認識が世俗化すればそうした既成価値に相対するカウンターカルチャーの派生もあり得る。実際、SNSを見ているとコアな音楽グループの書き込みにインド人が案外多い(VRにおける人口相対比と言えばそれまでなのだが)。 インドの国政指針また、グローバル市場各国の経済格差も大きく関わってくるだろう。しかし、インドが自国消費型に移行せども忍従受容的性質はそうたやすく再定義・定着されるものではないだろう。グローバルスタンダードなイコン認識は年齢分布率とGDPの折り合わせ、スタグネーションと縮小経済などの現実から、単数化し、リアルだがリッチかつドリーミーに尖鋭化する可能性が高いと私自身は示唆する。
ここに記号化し続けるテクノロジーの流通スピードが更に関わってくる。今SNSでは2極あると私は感じている。例えていうならば、『弾いてみました動画』のようなギリシャ的男根技巧至上主義のものと。『Tiktokダンス動画』などの記号大衆文化的なもの。
同じ広告媒体にのってる以上、経済的には再生回数が物を言うが、そこにかかる文化的意味合いは少し異なる。文化的に流行として評価されやすいのはおそらく後者だ。勿論、弾いてみました動画でも俯瞰した際には文化的に認識されるが、単一の動画で可視的にそこに文化的要素を認識できるかどうかの違いは大きい。何故ならそれは、記号化し続けるテクノロジー速度の淘汰を生き抜くための耐久性(視覚的サブリミナル)を有しているかどうかという事でもある。
だからこそ、教場はそのテクノロジー速度の持つ記号的側面に淘汰されないように記号簡易化し続ける表現が必ずしも文化的意義を有するとは限らない事も教えるべきだ。事実、参加型(行為)としての興味、そのような祝祭性。一過性のサンスの還元、焼き増し的な連続性。インターネットはそういったスクラップ置き場の様相を呈している。
現行アーティストで敏感な表現者はそうした認識の変化に気づいている。多くのミュージシャンのステージアクトにおいてコール&レスポンスが増えている気がする。現代の聴衆はより参加型に近づいている。恐らくテクノロジーを会場に取り入れ、よもや楽曲までもがコール&レスポンスを越えた観客サイドのパフォーマンスなしでは成立しない形態で提示される世の中がきてもおかしくない。 (蛇足だが、いつも思うのが、様々な定点にクレーンドローンスマホをあらかじめ付設して、安価で有料化し、それぞれのスマホ映像をバーコードでお持ち帰りできるようにする。なんなら希望抽選でそのクレーンの位置を操作できるサービスタイムを入れたり。もはやブートがYouTube 映像に代替している現代、記念写真のような感覚を代替しつつ運営サイドならおいしい角度を提供できる筈だ。それでいてカメラワークや規格のしっかりとした公式映像とは差別化できる。配給コストもかからない。
そうした限定性のある公式スマホ映像さえ安易に流布するだろうが、それを新たな規格のコンテンツと解釈し対応する。ある程度泳がせておくことで、あえてフォロワー稼ぎたいYoutubeブート映像の付加価値を希釈化する事も可能ではないだろうか。)
つづく
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「虚子への俳話」157
「花鳥」令和5年3月号より転載
川柳と俳句の成り立ちにおいて吟味している。とにかく人によく尋ねられるのは、俳句と川柳の相違である。これを簡単明瞭に正解を出せる俳人はそういないだろう。なぜならばそれほど現代の俳句は川柳に近づいているからである。俳句の定義は何かということになると、この読者も含めてある程度の説明はつく。すなわち、
「五七五の定型」「季語・季題」。とりあえずこんなところである。小学生でもわかるところのものであって、それより深い内容については専門の深さによって各々追求すればよろしい。
ところが、川柳もまたこの二つの要素はあるにはある。それが故に双子のような類似な作品がそれぞれにあらわれてくる。俳人はともすると川柳の世界を軽く扱う。それが故に自身の俳句がどんどん陳腐に軽���なってゆく間に川柳人たちは深化の努力をしている。私が今回において、このテーマを論ずる理由もそこにある。
俳諧の発句たるものが自分たちだけの世界に閉じこもることで俳句作品が質的変貌をとげつつあるのではなかろうか。川柳としての要件はそれは技術的な側面が強い。しかし、その内容ということになると別の問題である。何をどのように詠うのかということだ。諷詠といういいかたが適切かどうかわからぬが、この何を詠うのかは俳句より一層、川柳の世界では問題となるはずだ。
何故ならば、俳句の叙事詩たる景色を諷詠する「物性」が俳諧の歴史の中である程度確立し、短歌などとの差別化はすでに終了していると考えてもよろしいからである。同時にその写生的即物性は季題という、コアなキーワードの存在によってある程度の世界が表出する。つまり、風景を季題によって諷詠するということがスタンダードになっている。それ以外の俳句もむろんあるが、それが主体になっていないということは議論しつくされた感がある。
しかし、川柳はその成り立ちからしても、発句のような日本の自然、国土、山河などにたいする存問、挨拶を主とするものよりもっと卑近である。というより、もっと人間のこと全般であるから、そこに時代や社会なども入れれば卑近どころか広範囲になるのではないだろうか。
川柳、とくに現代川柳というと「サラリーマン川柳」のように時代や社会性を帯びた内容、すなわち、その出来事、事件、社会風刺、家庭問題、教育問題、政治・宗教について、などを主たる眼目にするものが主体であると考えられている。
しかし、それは川柳本来のあるべき姿なのだろうか。むろんそのような社会性を帯びたものも大きな主体の一部ではあるものの、それ以前の何かが欠落してやしないか。川柳というものは、柄井川柳という点者(選者)が四十歳のとき、宝暦七年(1757年)に始めた、前句付けの五七五のすがたをした短詩型の文芸である。その実作はともかく、点者として多くの江戸の庶民たちの名句を選句した結果が、厳正で公平なる内容で名高い『俳風柳多留』として後世に残っている。
そこには『武玉川』という連句の前句付けの書から続く、江戸の軽妙で洒脱な五七五がふんだんにとりいれられていた。一般にはこれらを古川柳とよばれていて、風景としての花や鳥、山川草木なども取り入れられているが、その他に家族の愛、男女の恋、町の興業や遊びの数々などが主体となっている。古川柳とはそのような一見卑近である暮らしの草草のことや人情の奥深いところの大きなテーマを含んでいるといえる。だからこそ庶民の間に隆盛をきわめたのであって、当時の庶民��芭蕉とその系譜である俳諧を実践させるには多くの努力が必要であったのだろうか。
とまれ、だからとい��て俳句と川柳に卑近の差があるものではない。むしろ、季題を主たる目的としない川柳の広範なる味を出すには多くのむずかしい庶民の感性が必要であったはずだ。「情」というものがなにしろ俳諧の中ですたれてしまった。情をあまり前面に押し出すものは、近代にはいってからの俳句においても敬遠されるものだった。しかるに、愛や恋、人情などの世界は五七五の世界でなく、五七五七七の短歌の世界だけのものになってしまったのだろうか。
社会、政治、グローバルスタンダードなどは今ではまったく俳句的な主体とはかけはなれている。しかし、問題はそれを構成する人間へのアプローチなのである。人間が自然の一部であると唱えてみても人間が作る詩が人間の心を掘り下げる仕事はまだ永遠に残っている。
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