#ガ一リ一系
Explore tagged Tumblr posts
girlyholic · 1 year ago
Text
Tumblr media
New "Melancholy Ribbon Doll" blouse from pium
16 notes · View notes
trinityt2j · 1 year ago
Text
加藤 朗(かとう・あきら) 桜美林大学 1951年生。81年早稲田大学大学院政治研究 科国際政治修士修了。同年防衛庁防衛研究 所。96年桜美林大学国際学部助教授。現リ ベラル・アーツ学群教授。『入門・リアリ ズム平和学』(勁草書房,08年)他。 外務省 HP より転載。一部加筆。 平和のリアリズムとはなにか? 時論 ―ガザで想う 444 時 論(加 藤) (4) 日本原子力学会誌, Vol. 51, No. 6(2009)
ガザ紛争の停戦協議が行われていた2月はじめ,イス ラエル南部のアシュケロンに滞在し,ガザ入境の機会を 待った。人口15万人,地中海に面したリゾート地アシュ ケロンの郊外は,目も覚めるような青空,光輝く地中海 そして野には赤いポピー,まるでカリフォルニアやハワ イを思い起こさせる平和な風景が広がっていた。 しかし,日常生活は緊迫感にあふれている。一見平和 に見えるアシュケロンの街も,ガザ境界から約10キロ程 度しか離れておらず,これまでも何度かロケット弾の攻 撃を受け負傷者��出たことがある。宿泊したホテルには 一般客はほとんどおらず,エジプト側国境の国境監視を 支援す る EU の国境支援団(EUBAM : EU Border Assistance Mission)の要員が事務所を構えていた。 今回のガザ攻撃の発端は06年1月にイスラム宗教勢力 ハマスが,それまで自治政府を牛耳っていた世俗派の ファタハを破り,パレスチナ自治評議会(国会に当たる) 選挙で大勝したことにある。その後,ハマスとファタハ の間でガザの治安権限をめぐって武力抗争が勃発した。 内紛の結果,07年6月にガザは完全にハマスの支配下に 置かれることになった。一方,ヨルダン川西岸のパレス チナ自治区はファタハが抑えた。 イスラエルとの2国家共存路線をとる穏健派ファタハ と異なり,急進派ハマスはイスラエルの存在を認めな い。イスラエルはハマスにファタハ同様に,イスラエル を承認させようと,検問所を閉じ経済封鎖で圧力をかけ た。エジプトもイスラエルに同調し検問所を閉じた。ま さに陸の孤島となったガザ地区からハマスはロケット弾 や迫撃砲でイスラエルを攻撃した。これに対しイスラエ ルは07年9月にガザを「敵地」とみなし,同地への燃料や 電力の供給削減を実施した。これにハマスはさらなるロ ケット弾攻撃で反撃した。ちなみに08年にハマスが発射 したロケット弾は1,750発,迫撃砲弾は1,528発(globalsecurity. org)であった。停戦明けの12月18日からハマ スの攻撃が激化し,それに対抗してイスラエルが「ノー・ トラレンス」の方針の下で苛烈な報復攻撃をしかけたの である。 10キ ロ以上飛ぶ長距離ロケット(射 程12キロの Qassam 3,20キロの Grad,40キロの WS1E)ならとも かく,短距離ロケット弾や射程数キロの迫撃砲で攻撃し ても射程内には畑が広がり農家が点在するだけで,イス ラエル側にあまり実害はないように思われる。たしかに 住宅に命中することもあろうが,全く運が悪いとしかい いようがない。実際,何度かロケット弾攻撃を受けたア シュケロンでも週末ともなれば住民は海岸での散歩や魚 釣り,公園でのバーベキューなど,ロケット攻撃など全 く気にする風もなくのんびりと暮らしを楽しんでいる。 ただ検問所は全く様���が異なる。ガザ北部のイスラエ ル側エレズ検問所に行くと,きわめて厳重に警備されて いる。数メートルの高さのコンクリートの分離壁が続 き,大きな建物の検問所入り口には,銃を構えた警備員 が巡回し,空にはロケット弾や迫撃砲の発射を監視して いるのか小型の気球が揚がっていた。時折,報道記者や 許可を得た NGO 関係者が入っていくだけで,人の出入 りはあまりなかった。私もイスラエル当局に NGO 書類 を提出して許可を待ったが,入境を認めたくないとの態 度がありありと見え,結局,2週間の滞在中にイスラエ ル側から許可はおりなかった。 イスラエル側の許可を待つ間にひょっとしてエジプト 側から入境できるのではないかと思い,ヨルダン経由で カイロに飛び,そこからバスで6時間シナイ半島を横断 してエジプト側の国境の町アリーシュに到着。現在,そ こから国境に行くバスはなく,タクシーを雇ってラファ の検問所に行った。エジプト側の検問はイスラエル以上 に厳しく,途中の一本道で三度も検問を受けた。そして やっとたどりついた検問所では,入り口に近寄ることさ えも拒まれ,数分いただけ引き返さざるを得なかった。 兵士が銃を構えているだけではない。土のうを積んだ銃 座には重機関銃も据えつけられ,兵士がいつでも引き金 を引ける態勢で警備していた。 ただし,エジプト川の警備の厳しさは表向きだけだと いわれている。エジプトとガザの境界線の下には何百も のトンネルが掘られ,物資や武器の密輸が行われてい る。エジプト政府はトンネルを見て見ぬ振りをしている らしい。トンネルの出入り口は見つからないように,家 の中や何かで隠されているのかと思っていたが,境界近 くには家らしい建物はほとんどなく,畑が広がっている だけである。出入り口があればすぐにわかる。今回のガ ザ攻撃の目標の一つがトンネルにあったといわれている が,完全には破壊できなかったようだ。 イスラエル,エジプトの両国からガザ周辺を見たが, 徹底した経済封鎖が実施されているようで,ガザに物資 を運搬するトラックらしき車両をほとんどみかけなかっ た。ガザでは東京都区部の約6割の面積に約150万人も の人々が暮らしている。これだけの人々の毎日の暮らし を支えるには,大量の物資を運搬しなければならないは ずだ。しかし,イスラエル,エジプトのいずれの道路で もガザ行きのトラックの姿はみかけなかった。 一方,ファタハが支配しているヨルダン川西岸地域 は,厳重な検問にもかかわらず,人々や物資の輸送は絶 えることなく続き,検問所付近は行き交う車や人々で ごった返していた。パレスチナ自治政府の首府であるラ マッ��ーの中心街は大変な活況を呈していた。街には新 車のミニバス,トヨタやベンツなどの高級車が目につ く。また観光都市ベツレヘムそして中核都市ヘブロンな ども25年前の面影がないほどに発展していた。ハマスへ のあてつけか,欧米諸国がイスラエルを承認すれば経済 発展を約束するといわんばかりに,ファタハに経済援助 をしているからだろう。 イスラエルの境界に最も近い町ネティボット郊外の丘 からはガザ市街が望見できる。ガザ攻撃当時,世界各国 の報道陣が陣取った場所に間違いない。丘からは遠くに 高いビルが立ち並び,一見すると日本の中都市のような 比較的大きな町並みが広がっている。町の大きさに正直 驚いた。イスラエルのガザ攻撃は,たとえていえば新宿 を集中攻撃したようなものである。これほどの人口稠密 地域への攻撃で,死者が1,300人,負傷者数千人とは, その程度で犠牲が収まったという印象だ。 パレスチナ問題の本質は,今や領土問題でも宗教問題 でもない。それは人口問題である。イスラエル滞在中, ちょうどイスラエルの総選挙の最中で,テレビでも連 日,選挙関連ニュースが流れていた。その時に印象に残っ たのが,人口問題がイスラエルの抱える大きな問題だと いうことである。2005年末時点で西岸とガザのパレスチ ナ人の人口は383万人,そしてイスラエル国内に113万人 がいる。一方,イスラエルのユダヤ人は06年時点で約583 万人。つまりユダヤ人とパレスチナ人はほぼ同数であ る。またパレスチナ人の特殊出生率は6~7人,ユダヤ 人のそれは3~4人といわれている。このままでいく と,いずれユダヤ人はパレスチナ人に飲み込まれてしま う。
イスラエルにとって人口問題解決の方策の一つは移民 の促進である。冷戦後,ソ連,東欧からのユダヤ人が多 数イスラエルに移住してきた。それを証明するようにロ シア語の標識や立て看板をよく目にした。またロシア語 や東欧系の言葉しか話せないタクシーの運転手にも出 会った。そして今一つの解決��が,分離壁を作りユダヤ 人とパレスチナを分離することである。シャロン元首相 がガザを放棄したのも,もはや人口稠密なガザではユダ ヤ人が人口的に上回ることもできず,支配できないと判 断したからだといわれている。 その結果,パレスチナ人は分離壁に取り囲まれた小さ な地域に閉じ込められことになった。特にガザでは人口 爆発によるさまざまな問題が噴出している。生活環境の 悪化,失業問題,貧困,教育の不足など,それらの問題 がパレスチナ住民の不満やイスラエルへの恨みとなり, 対イスラエル強硬派のハマスを勢いづけ,イスラエルへ の攻撃となっている。特にパレスチナの若い世代の人口 爆発を解決しない限り,彼らの不満のはけ口がイスラエ ルに向かい,パレスチナ問題を悪化させることになる。 常に銃を持たなければ安心できないイスラエルの若 者,壁の中で不自由な生活を強いられるパレスチナの若 者。不幸の連鎖はいつ断ち切ることができるのか。ガザ の分離壁を前に,暗澹たる思いしか残らなかった。 (2009年 3月19日 記)
0 notes
zaregoto1914 · 5 years ago
Text
土呂久鉱害事件に関する覚書
(2002年1月22日成稿)
土呂久鉱害事件に関する覚書
 宮崎県高千穂町の土呂久鉱山における亜砒酸製造に伴う慢性砒素中毒症は、大正期から戦後に至る長期にわたって継続した鉱害であったにもかかわらず、被害地域が僻遠の山村であったため長らくその存在が知られず、鉱山の閉山から10年近くたってから地元の教師の告発によって実態が初めて認知された特異な公害である。慢性砒素中毒症が4大公害病に続く指定公害病でありながら、現在あまり顧みられることが少ないことも考慮し、本稿では土呂久鉱害の経過を追うことで、近代日本社会の「闇」の一端に切り込みたい。
(1)土呂久鉱山の成立(1920-1933)  宮崎県岩戸村(現・高千穂町)の土呂久鉱山は、貞享年間(1684-1687)に銀山としてスタートしたものの、近代に入ってからは事実上休山状態であった。しかし、1920年、当時佐伯近郊の木浦鉱山で亜砒酸製造を行っていた鉱山師の宮城正一が土呂久鉱山から亜砒鉄鉱を採掘し、土呂久で亜砒酸の精錬を開始したことで一変した。日本の亜砒酸生産は第1次世界大戦期にドイツに代わる形で急成長し、主にアメリカに輸出されて綿花栽培の害虫駆除剤の原料などに使われていた。ところで、宮城が港町で交通の利便な佐伯から山間の土呂久へ移ったのには理由があった。地方紙『佐伯新聞』1917年4月29日付に次のような記事がある。
「懸案となり居りし当町字灘鳥越にある亜砒酸製造所の煙毒問題は今回所主宮城正一が農民に対して損害賠償をなし且つ製造所を移転する事となり、兎も角も一段落を告げるに至った」
 宮城は煙害により地元住民から補償と立ち退きを要求されていたのである。つまり宮城は佐伯を追われ、亜砒酸製造が甚大な鉱害をもたらすことを知りながら土呂久へ移転したのであった。
 亜砒酸は昇華点の193℃を境にして固��から気体へ、気体から固体へ変化する。この性質を利用し、亜砒鉄鋼を焙焼して砒素分を亜砒酸ガスとして流出させ、ガスを昇華点以下の空間に導き固体に戻して亜砒酸の結晶を採取する。当時、亜砒酸生産量全国一の足尾銅山では、銅の精錬の際に煙に含まれる亜砒酸をコットレル集塵器で回収する方法が採られていたが、土呂久にはそのような設備はなく、煙突に藁の覆いを被せるだけで、砒素を空気中に撒き散らし放題であった。そのため早くも1923年には亜砒酸による農業被害が地元で問題にあった。5月に行われた土呂久の部落自治組織「和合会」総会は鉱山側に「完全ナル設備ヲナシ事業ヲナサレン事」を要求することを決した。これに対し、宮城に代わって経営者となっていた川田平三郎は、1ヵ月50円の「交付金」を和合会に支払うことに応じたが、その見返りとして鉱山へ操業に必要な材料を提供することを求めた。鉱山側は要求を逆手にとったのである。
 その後鉱害は甚だしくなり、特に牛馬の奇病が相次いだ。1925年、和合会は岩戸村長の甲斐徳次郎に対策を要求し、甲斐は西臼杵郡畜産組合の獣医である池田実と鈴木日恵に奇病で死んだ牛の解剖と鉱害の調査を依頼した。4月7日、鈴木は警察官立ち会いのもと解剖を行い、「連続セル有害物ノ中毒ニアラサルヤノ疑ヲ深カラシムルモノナリ」との所見を示した。甲斐はこの牛の内臓を宮崎県警察部衛生課に持参し、鑑定を依頼したが、県側は解剖後に内蔵へ亜砒酸が混入した可能性を理由に鉱害を否定し、現地調査を行ったものの調査結果を隠蔽した。一方、池田は「岩戸村土呂久放牧場及土呂久亜砒酸鉱山ヲ見テ」と題する報告をまとめた。池田報告は当時の土呂久の実状を生々しく伝えている。
「二、三十年モ経過シタ植林ノ杉ガ萎縮シテ成長ガ止リ、或ハ枯死シテ赤葉味又竹林ハ殆ンド枯死シ」 「妙齢ノ婦女ノ声ハ塩枯声デ顔色如何ニモ蒼白デアル、久敷出稼デ居ル人ノ顔面ハ恰モ天刑病患者ノ様ニ浮腫」 「山川ノ水ハ清ク澄ミ渡ッテ居ルガ、川中ノ石ハ赤色ニ汚レテ、三年前迄居タ魚類ハ今ハ一尾モ見��ヌ」 「今ハ椎茸ノ発生デ忙シカラネバナラヌノニ、何ノ果報カ、此地ノ重要物産デアル椎茸ノ原木ヲミレバ、椎茸一ツ見ヘヌ。土呂久名物ノ蜂蜜モ、今ハ穴巣ヲ止ムルノミ」 「小鳥類ガ畑ノ中ニ死ンデ落チテ居ル事ハ年中ノ事で、何時デモ死ンダ小鳥ヲ畑ノ中ヨリ拾ッテ見セル事ガ出来ル」
 この池田報告は1972年に高千穂町史編纂室で発見されるまで封殺された。
 鉱害が拡大・悪化するに従い、農業では生計を立てられなくなった人々は鉱山で働くようになった。しかし、亜砒酸による健康被害は鉱山労働者に最も顕著であり、皮膚の亜砒負け、色素沈着、黒皮症、角膜炎、結膜炎、喘息、気管支炎、肝硬変などの症状に見舞われた。健康悪化に耐えられずに鉱山を辞め帰農する人も少なくなかったが、農業被害は増大するばかりで生活できず、結局収入を得るために再び鉱山に戻らざるをえなかった。あるいは椎茸の生えなくなった木を木材として鉱山に売却したり、完全に農業ができなくなった土地を鉱山に売却するという例もあった。鉱害はむしろ鉱山の事業を拡大する動因になったのである。
 また被害と加害の重層性も深刻であった。鉱山の地主であった佐藤喜右衛門は鉱山から地代を得るのみならず、自ら採掘を請け負い、地元住民を労働者として勧誘し、鉱害に苦しむ農民からは加害者として忌避された。しかし、一方で彼は鉱山のすぐ近くに住んでいたために砒素中毒症に罹り、1930年から32年の2年間に彼の一家7人のうち自身を含む5人が病死した。部落で鉱山から収益を受ける者が増えるに従い、鉱害反対の足並みは崩れていった。
(2)土呂久鉱山の展開と終焉(1933-1962)  大戦景気によって始動した亜砒酸製造は、戦後不況によって急速に不振になった。1926年にはアメリカの綿花不況のあおりで生産量が激減し、土呂久鉱山も生産中止・事業縮小に追い込まれた。一方、1930年代になると、航空機の材料の国産化をねらう中島飛行機が錫を求めて土呂久に目をつけた。1931年、中島門吉(中島知久平の弟)が一部の鉱業権を獲得し、33年には中島商事鉱山部が土呂久鉱山のすべての経営権を取得した(後に岩戸鉱山株式会社設立)。
 中島は当初亜砒酸よりも錫を重視し、1936年に錫精錬の反射炉を建設したが、この反射炉は錫から分離された砒素分が煙とともに空気中に飛散するという杜撰な代物であった。翌年、和合会は反射炉の煙害防止を鉱山側に要求し、その結果遊煙タンクが作られたが、煙害対策とは名ばかりで、実際はこれを利用して亜砒酸の採取が行われたため、鉱害はむしろ悪化した。また、経営者が変わったことにより1923年の交付金契約は無効となり、中島が和合会に亜砒酸1箱精製につき12銭の補償金を支払う新契約が結ばれたが、旧契約に比べて被害者が受け取る金額は事実上半減し、しかも補償金の分配を巡り和合会内部で対立が発生した。さらに1937年の岩戸村会議員選挙で、中島側は鉱山の会計係長を出馬させ、鉱山労働者を買収した結果、中島系候補が当選し、和合会系の現職は落選した。明治以来、土呂久出身者が議席を失ったのは初めてであった。鉱山は地方自治をも破壊したのである。
 中島傘下となって土呂久鉱山は拡大し、最盛期には約400人の労働者が働いた。特に1930年代末頃から亜砒酸は毒ガスの原料として需要が急増した。「黄二号」ことルイサイト、「赤一号」ことジフェニール・シアン・アルシンが亜砒酸を元に作られ中国戦線に送られた。深まる亜砒酸鉱害に対し、ついに1941年和合会は鉱山との契約破棄を決定した。福岡鉱山監督局は和合会に説明を求め、代表6名が福岡へ行き亜砒酸製造の中止を申請したが、監督局の担当者は「非常時には、部落のひとつやふたつつぶれても鉱山が残ればよい」と言い放ったという。結局1941年11月選鉱場の火災により土呂久鉱山は休山し、所有権も中島から国策会社へ移行した。
 土呂久鉱山は戦後1948年、銅や鉛などの採掘を再開した。再び鉱業権を獲得した中島鉱山(旧岩戸鉱山)は亜砒酸製造の再開を計画した。和合会は再開反対を決議したが、宮崎県と岩戸村の斡旋により、1954年、鉱山から和合会への協力金支払を条件に改良焙焼炉建設に同意した。土呂久婦人会は岩戸村に抗議したが、村長伊木竹喜は「鉱山のおかげで、岩戸村には鉱産税がはいりよる」と取り合わなかったという。
 鉱山がその後、1958年7月の坑内出水事故により一時休山を余儀なくされ、翌年には住友金属鉱山が中島を事実上買収したが、往時の活性を取り戻すことができず、1962年経営不振により閉山した。その間も鉱害は続き、1959年には和合会が高千穂町(岩戸村吸収)に亜砒酸製造施設の廃止を陳情した。しかし、ついに閉山まで鉱害はやむことがなかった。
(3)土呂久鉱害の告発(1970-  )  1970年、宮崎県高城町の四家鉱山で集中豪雨により鉱滓堆積場のダムが決壊し、砒素を含む鉱毒が河川へ流出するという事故が起き、宮崎県は急遽県内の休廃止鉱山の調査を行った。調査の結果、土呂久川から飲料水基準の2倍の砒素が検出された。同年12月、土呂久在住の佐藤鶴江は、岐阜のカド���ウム汚染の報道を聞いて不安を抱き、宮崎地方法務局高千穂支局の人権相談に鉱毒被害を訴えた。支局は土呂久鉱山跡を調査し、彼女に鉱毒被害の事実申立書を発行したが、法務局は専門医による因果関係の証明がないことを理由に申立書を留置した。またしても行政によって鉱害は隠蔽されたのである。
 一方、高千穂町立岩戸小学校教諭の斎藤正健は、妻が土呂久出身であったことから鉱害の事実を知り、同僚とともに土呂久全世帯を対象に鉱害調査を行った。斎藤らの調査は1971年11月、宮崎県教職員組合の教研集会で報告され、新聞報道により全国的に注目された。斎藤報告は、①1913-1971年に死亡した92名の平均寿命は39歳である、②土呂久全住民の34%が呼吸器をはじめ疾患に罹っている、③土呂久の児童の体位は劣っている上に眼病が目立つ、④スギの年輪は鉱山創業期に生長が阻害されている、という驚くべき内容であった。大正期以来の鉱害がこの時はじめて公表されたのである。
 土呂久住民に不安が高まる中、宮崎県は県医師会に委託して住民の一斉健康診断を実施したが、慢性砒素中毒症に認定されたのは7名だけで、県の土呂久地区社会医学的専門委員会も健康被害と亜砒酸製造との関係性を「現在の知見では十分に説明ができない」と肯定しなかった。宮崎県知事黒木博は住友金属鉱山と認定患者に補償斡旋を提案し、1972年12月、両者間に補償協定が結ばれたが、住友の法的責任には一切触れず、補償金額は平均240万円にとどまり、しかも将来の請求権放棄を定めていた。県側は患者との交渉を外部との接触を絶った密室で行い、十分な説明をしないまま患者に調印を強要した。その後、黒木は新たな認定患者に対しても同じ内容の補償斡旋を5次にわたって続けた。しかも県は斡旋受諾者に対して公害健康被害補償法による給付を含む公的給付を中止するという「いやがらせ」まで行った。知事斡旋は補償額を抑制し、被害者の口を封じることがねらいであった。
 1973年、環境庁は慢性砒素中毒症を第4の公害病に指定したが、認定要件を皮膚障害に限定し、内臓疾患を認めなかったため、多くの被害者が認定されなかった。一方でこの頃から県外の医師による自主検診が相次いだ。同年2月には名古屋大学医学部講師大橋邦和が、74年には太田武夫ら岡山大学医学部衛生学教室が、75年5月には熊本大学体質医学研究所の堀田宣之が住民への自主検診を行った。堀田は10月にも同僚の原田正純らとともに1週間にわたる大規模な自主検診を行った。これらの検診結果は環境庁の認定要件とは裏腹に、砒素中毒による障害が皮膚に限らず、呼吸器や循環器などの内臓にまで広がっていることを示していた。
 1975年12月、5人の患者と1遺族が住友金属に損害賠償を求め宮崎地裁延岡支部に提訴した(第1次訴訟)。続く76年11月には第2次、77年12月には第3次、78年3月には第4次の訴訟が起こった。土呂久訴訟最大の問題は、1次的に賠償責任を有する鉱山師も中島鉱山もすでに存在せず、被告の住友が正式に鉱業権を得たのが閉山後の1967年で、住友自体は亜砒酸製造を行っていないことにあった。住友側は全面的に争い、訴訟は長期化し、高齢の原告が相次いで死亡していった。1984年3月に下された第1次訴訟の1審判決は「土呂久地区という山間の狭隘な一地域社会が、そのただ中ともいえる場所での本件鉱山操業により、大気、水、土壌のすべてにわたって砒素汚染され、本件被害者らはその中で居住、生活することにより、長期間にわたって四六時中間断なく、且つ経気道、経口、経皮、複合的に砒素曝露を受けたもので」あると土呂久鉱害を正確に認め、鉱業不実施を以って鉱業権者の賠償責任は免責されず、鉱業法115条の時効規定も適用されないことを理由に住友へ損害賠償を命じる画期的な内容であった。
 しかし、この1審判決をピークに土呂久鉱害は急速に風化していった。既に1980年頃には被害者の支援組織「土呂久・松尾等鉱害の被害者を守る会」が財政難による活動停滞に陥っていた。また、支援運動の中心であった総評系労組が「反公害」から「反原発」へシフトしつつあり土呂久鉱害への関心は相対的に低下した。1979年、補償斡旋を続けた黒木が受託収賄容疑で逮捕され知事を辞職し、翌年、後継知事松形祐尭は公害認定を巡る行政不服審査で県が敗訴したのを機に被害者へ公式に謝罪したが、依然として知事斡旋受諾者への公健法給付を認めなかった。一方、訴訟は住友の控訴により続き、1988年の控訴審判決は住友の賠償責任を認めたものの、補償額から公健法給付を差し引くよう命じる後退したものだった。住友はさらに上告したため、原告弁護団はついに水面下の和解交渉を行った。原告の高齢化と最高裁の状況を踏まえた苦渋の判断であった。1990年10月最高裁で原告と被告の一括和解が成立したが、住友の法的責任には触れず、賠償義務を否定し、公健法給付とは別に「見舞金」総額4億6475万円(1審判決の仮執行金と同額)を支払うという内容だった。1審判決も控訴審判決も被告の法的責任を認定したにもかかわらず、原告は訴訟の長期化に耐えることができずに訴訟自体には敗北したといえよう。
(4)総括  土呂久鉱山は、日本経済の工業化が急速に進展した第1次世界大戦期に始まり、戦間期の停滞を挟んで���15年戦争期には新興財閥の手で重化学工業の一端を担わされ、そして高度経済成長の開始により終焉した。その歴史は終始日本資本主義の発展過程に強く制約されたと言えよう。故に土呂久鉱害事件は局地的な鉱害ではあるものの、鉱山の杜撰な鉱害対策、鉱山への抵抗と依存の間で揺れる地域社会、一貫して公害の存在を隠蔽し民衆の声を潰した行政、公害反対運動の党派的分裂等々、近代日本の鉱害の一般的特筆を余すところなく有している。そしてついに根本的解決には至らず、現在も土呂久の自然が回復していないことは、鉱害が過去の問題ではなく、依然として現在的問題であることを示していよう。
《引用・参照文献》 斎藤正健「土呂久公害の告発とその後」Ⅰ-Ⅲ 『歴史地理教育』211、212、214号 1973年 川原一之『口伝 亜砒焼き谷』岩波書店 1980年 川原一之「土呂久鉱毒史」『田中正造と足尾鉱毒事件研究』5号 1982年 土呂久を記録する会編『記録・土呂久』本多企画 1993年
2 notes · View notes
yahosimag · 7 years ago
Text
Super Black7
「『たがわ まさえ』さん なんだ。 意外と渋めな名前だね。」
外見では24、5歳くらいのキティの本名が近所のオバサン系だったので、少しおかしかった。
「ああ、あんまり好きじゃないけどね、名前。
て、いうか、お店のときより全然激しくて素敵なのね、ソノミヤタイガ。
そうやって物事に縛られてないときのオトコってアタシの大好物よ。
ねえ、もっかい抱きしめて、タ  イ  ガ。」
ホテルに入るまでは『ソノミヤサン』だったが、セックスの途中からキティに『大河』と呼ばれた。
身体を寄せて甘えるキティを正面から抱きしめると、小振りで形のいい胸が密着する。強めの冷房で冷えた僕の皮膚に彼女の体温が伝わる。
今夜何度目なのか分からないディープキスの後、僕の耳にその言葉が注がれた。
「タイガ、自由になりたいんでしょ。
アタシを抱いたことは、アンタの『自由』への第一歩になったんだよ。
その記念に、
せっかくだから、プレゼントするよ。    ト リ ガ ー。」
ベッドの照明リモコンにキティの手が伸び、部屋の電気が真っ暗になった。
僕はキティと抱き合ったまま仰向けに倒される。
またもや僕の口に暖かい舌が侵入する。
両腕の手首が彼女の手で掴れて自由を奪われた。
彼女の積極さにまたもや発情しながらも、脳の前方部分に「トリガーって何だ?」という疑問が浮んだ瞬間、体の上にある柔らかい素肌の感触が一瞬ベルベットの毛足に変わった感じがした。
「ウフフフフ」 鼻先で笑うキティの声が暗闇で聞こえる。
僕の心の中で、いや、本能の部分で、何か得体の知れない恐怖と不安が頭角を現したとき、吸い付かれて引っ張られ、僕の舌がキティの咥内に滑り込んだ。
「んあああ・・・」 言葉にならない声を上げた。
そして突然、舌全体に猛烈な刺激が!
僕は舌を食い切られたのだと思った。
驚きと恐ろしさで全身に力を入れたが、舌から伝達された刺激が僕の脳を拘束したかのように、指先一つピクリとも動かせなかった。
全身麻痺した僕の意識は、深い谷底へと落下していった。
翌朝、僕が目を覚ましたホテルの部屋には、キティの姿が消えていた。
身体に感覚が戻ったものの強い疲労感があり、僕は全裸のまま立ち上がってフラフラとバスルームへ向かった。
シャワーを浴びると動物の短い毛が多量に僕の体から流れ落ちた。訳が解らなかった。
シーツにも動物の毛、そして大量の精液の染みがあった。
僕はシーツを丸めて、ホテルのフロントにバレないように持ち出して捨てた。
3 notes · View notes