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#カトリーヌ・マラブー
shinayakani · 1 year
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230411 差し迫る破局のなかで問われているもの
《八五年頃の危機は、つながりの危機であり、排除という言葉にその十全な意味を与えるものであった。それは、不幸と心的外傷〔トラウマ〕という概念にまぎれもない転換をもたらし、その動揺の広がりを私たちは今ようやく測り始めているところである。失業者、ホームレス、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむ患者、重度の鬱病者、自然災害の犠牲者、こうした人々の全てが、互いに似たような存在となってきた。私が『新たなる傷つきし者』でその相貌を描こうとした、新たな越境的同盟〔インターナショナル〕が生まれようとしている。ジジェクが言うように、心的外傷後の主体の形は、同一性の空虚と放棄というこれまでに見たことのない人間の姿を示しており、それはほとんどのセラピー、とりわけ精神分析の手には負えないのである。  こうした状況のなかで生活すること――だが、つきつめて言えば人は常にそのような状況のなかにあるのではないだろうか――は、外部の不在の経験に行き着くものであり、それは同時に内部の不在である。そこから逃れることは不可能で、ただその場で変貌を遂げるしかない。世界の内も外も存在しない。変化はより一層根源的で、暴力的にならざるをえない。それだけに、必ず〔存在の〕断片化が生じる。主体の主体自身に対する不和が最も亢進した場合、その葛藤が最も深刻な場合には、もはや悲劇的な像すら構成しない。それは、逆説的にも、無関心と冷淡さによって特徴づけられるのである。》
 ……カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』(鈴木智之訳)
 カトリーヌ・マラブーによれば、人間には、予期せぬ破局(偶発事)の到来によって、ある日突然これまでの同一性とは全く繋がりを持たない別の人間に生まれ変わる「破壊的可塑性」が備わっているという。認知症などの病いによって、また引用した文章にある様々な外的要因(文中では社会的要因が強調されている)によって、そして漸進的にではなく突如やってくる老いによって、人は別人のように変貌してしまう。そのとき、ひとりの人間の《自分自身に対する別れ》が、《死ではなく、生の生に対する無関心として、生のなかで生み出される》。マラブーは、この変容を「破壊的可塑性」として概念付け注視することによって、《主体性の解体》がひとりの人間(主体)にとってより根源的なものであると見なしている――《破壊的可塑性の認識は、同一性の構成それ自体の中核に、これを無化する能力が潜んでいることを明らかにする》。
 「破壊的可塑性」という概念は、それまでの同一性とは無縁な主体を発生させる特異な可塑性が人間(の脳)に備わっていることを示唆する。しかし、これまでの形而上学の伝統では、目まぐるしく姿形を変化させようと、また主体が解体されたものとして示されるとしても、それでもなお主体の同一性が前提にされている。例えば文学の変身譚においても、人間がどれだけ異形なものに姿を変えてもその内部の本質(実体)は変わることがないかのように描かれる(本文ではカフカの『変身』すら例に挙げられている――《おそらく私たちは、自らの変容にまったく無関心な、そのことに関わりをもたないグレゴールを想像してみることもできる。そこにはまったく別の物語が語られるだろう》)。そして、同一性を前提とするこれまでの形而上学の存在論を一変させてしまうような存在様態を「破壊的可塑性」として見出すことは、《暴力の現代的相貌を理解するための解釈装備として、必要不可欠》なものであると、マラブーは言う。無防備なまま偶発事に曝されている人間の存在論は、遭遇する破局が外的な要因によるものであれ、(老いや病いなどの)内的な要因によるものであれ、現代ではいっそう、これまでの同一性を前提とした議論では語りがたいものに見えるからだ。
《しかしながら、病いを同一性の破局と見るここまでの読み方は、病いの経験に関する一定数の証言と一致するとしても、まだ十分ではない。このような見方は、「同一性の核」の存在を問い直すことなく前提に置いているからである。しばしば、主体の真の同一性が存在するのだと見なされ、病いが身体的ないし心理的な試練によってこれを変形、または消失させるのだと考えられている。しかし、この初発の同一性、「本来の」同一性とはいかなるものだろうか。単純にそれは存在するのだろうか。それとも、病いによって自己を見失ってしまったと考える人の回顧的な幻想、ノスタルジックな表現にすぎないのだろうか。主体は失われてしまったのだろうか、それとも、その存在の剝き出しの姿において発見されたのだろうか、と問うことができる。主体は、習慣の覆いの力が病いによって一掃されてしまったあとに、特性も資格もないもの(特性の欠如に苦しむ存在)として見いだされるのかもしれない。この時、病いの内に、主体を破壊する力を見るべきだろうか。それとも、自己とは深く根づいた習慣によって織り上げられたもので、強い暴力が経験されればたちまち表層的虚構として姿を表すのだということを明らかにする、啓示的な存在論的経験を見るべきなのだろうか。後者であるとすれば、私たちの「真の同一性」とは、さまざまな習慣的思考や姿勢の身体化や内面化の帰結にすぎず、本性ではなく、生活の習慣でしかないことになるだろう。病いが示すもの、それはおそらく、私たちの存在様式の内に不動のものはひとつもないということなのである。それを根こそぎ覆そうする力に完全に抵抗することができるほど強固なものは、何ひとつないのだ。》
 ……クレール・マラン『病い、内なる破局』(鈴木智之訳)
 破局が近づく予感にとり憑かれている切迫した情勢のなかで、存在論のハードコアを追求するマラブーの議論はとても魅力的だ。その一方で、自身も自己免疫疾患という病いを生きる哲学者クレール・マランは、マラブーの議論を共有しつつも、想定不可能な偶発事の破局に遭遇した人間は、ほんとうにかつての同一性を完全に消失させてしまうのだろうか、と疑問を呈する。病いという「内なる破局」であれ、偶発事の破局に見舞われた人々は、マラブーの言うように、たとえ自分自身(かつての?)に対して《無関心と冷淡さ》を示しているにしても、同時にそのあり方に苦痛を感じてもいるだろう。この本のなかでマランは、病いの経験を、それまで自身の同一性を織り上げていた「習慣」が破局に曝される試練として定義する。それはまた、上に引いた文章で述べられているような「習慣」に支えられた同一性を、幾度も問い直す経験になりうる――《病いは、自分の体と思考を変形させ、それらを支え導く内なる構造の再配置を強いる。それには、非意志的なものの新たな形の創出、主体の深みに埋め込まれた暗黙の力の組織化された全体の創出が必要になる》。
 主体の同一性は、これまでの「習慣」によってかろうじて支えられている。そして、偶然やって来る破局に遭遇したとき、主体に備わる「破壊的可塑性」ゆえに、突如その同一性は変貌してしまう。しかし、それでもなおまだ問うべきことは、《この初発の同一性、「本来の」同一性とはいかなるものだろうか》ということ、つまり、《モンテーニュが言うように「私たちの行為というのは寄せ集めの断片でしかない」のだとしても、やはり何がそれらの断片をひとつにまとめているのか》ということではないか。マランは、自身の病いという「内なる破局」の経験をもとに書かれたこの本によって、一つの主体における《「本来の」同一性》の脆さと捉え難さを示そうとしている。そして、マラブーが、危機の時代を生きる人間の形象から「破壊的可塑性」を浮かび上がらせたことも、同一性についての議論のあり方を問い直すためのものだろう。
 たしかに、人間の同一性について、それが確固としたものではなく脆弱なものであるということは、これまでにも頻繁に語られてきた。しかし、ふだんの生活のなかで、私たちはそのことをあまり意識せずに生きている。たとえ破局に直面した他者を眼前にしても、実際にその状況に立たされていなければ、自分自身の連続性を保っている同一性の感覚を疑わしいものには思わない。危機の時代に現れた存在様態を、どこまでも否定的なもの(既成の言説に容易に回収されえないもの)として追及するマラブー。破局の試練を、それまでの自己の同一性を問い直すことで「新しい皮膚」を纏いうる《混沌の両義的な経験》と定義するマラン。現代に差し迫った破局――それが外部から突如やって来るものであっても、内に秘められたものであっても、私たちの存在様態がいかなるものであるのか、いかなるものに変わりつつあるのかが、つねに問われ続けている。そして、破局の渦中にいる他者とともに、いかに生き直すことができるのか、ということも。
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toshimasa-kobayashi · 2 months
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サイボーグの夏
ひとは自分の価値基準を重んじる。価値観というのは変化するものだし、どんな新しい価値観でもすぐに受け入れられるひともいるが、自分の趣味や嗜好を頭ごなしに否定されて気持ちのいいひとはいないだろうと思う。多少大げさだけども、ひとの生活とは、自らの手でなんらかの価値を作り上げていく過程だといえる。恋愛したり、旅行にいったり、サウナやジョギングに凝ったりする。愛こそがすべてだとの信念もあれば、世の中はカネがすべてとの見識もあろう。いすれにせよわたしたちは、ただ無為で無価値な生を過ごすことにはなかなか耐えられない。
「わたしは毎日生まれ変わる」という類の文句が関心を惹くのは、実のところ、わたしはわたしでしかないという現実を誰しも知��ているからだろう。ひとは自分の価値基準を尊重しつつ、一方で自分が自分であることに飽き飽きしている。この自己同一性の監獄ともいえるシチュエーションは、なかなかに手強い。”自分探し”に意味がないのは、どこにいっても自分なんて見つからないからではなく、本当の自分というのはすでにここにあるから。いまここにあるみすぼらしい自分でない、”真の自分”などいないということ。
日々ドローイングを描いている。文章も書くし、たまに歌も作る。こうしたことをルーティンとしてやりこなすために、わりと注意を払っている。自分が絵を描くことは、おそらくサウナやジョギングに近い。それがないと気分が晴れず、なんだか調子も悪い。だからそれをルーティンとして継続できるよう、日々の生活をうまく取り持っている。この”継続”に肝がある。継続とは、つまりはくり返し。ひたすら反復しながらも、そこに一定の価値を見出せるかどうか。少なくとも自分の場合、それは自己同一性の監獄に関連している。わたしはわたしの価値基準を重んじる。一方でわたしはわたしに飽き飽きしている。このコンフリクトをすり抜けるため、ルーティンを継続している。わたしはわたしでしかな��、日々同じことをくり返し、しかしそれが自分だけの価値基準を作り上げていく。好きだから描くというのとは異なる機微が、自分にはある。
このあいだ不思議な体験をした。それまで思い煩っていたある事柄が、ある日を境にまったくどうでもよくなってしまった。価値基準ががらりと反転してしまう体験。きっかけはいくつか思い当たるのだけども、それでもあまりの変化に驚いてしまった。清々しいというよりは、人間性の一部が消去されてしまったような感覚。自分はもともと喜びがあれば喜びを、悲しみがあるならなおさら、その悲しさをこそ、絶対に手放さないタイプの性分で、よくいえば信念が強く、悪くいうなら頭が固い。しかしそうしたこだわりが解除されてしまった。それまで宝物だと思っていたものがゴミくずになってしまうような、そんなパラダイムシフトが起こった。自己同一性の監獄に大きな亀裂が入る。その時ふと思い出したのが、昔読んだ一冊の本。カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか』。
その本は「脳には可塑性がある」というテーマの論文で、可塑性というのは力を加えると変形する性質のこと。たとえば粘土には可塑性がある。ずいぶん前に読んだので内容をあまり覚えていないのだけど、脳の可塑性なるキーワードから今回の体験を解釈するとこうなる。ある衝撃によって脳のニューロンネットワークに強い制限、あるいは過剰が起こる。それは一般に深い悲しみだったり、強い快楽だったりする(今回の自分のケースは前者だった)。そしてその状態が継続するにつれ、やがてそれは物理的な力として脳やそのネットワークを変形させてしまい、結果として思考の在り方を根本的に変えてしまう。
ずっと抱えていた宝物がゴミと化してしまう。それは心境の変化というよりは、情緒を失ってサイボーグになってしまったかのような気分だった。自分はおかしくなってしまったのだろうか?思い返すに予兆だったのか、生活習慣の変化はあった。しばらく前から朝食はヨーグルトのみ、昼食は抜くか、ゆでたまごのみ、夕食は糖質を抑えてごく軽め。なんの思惑も決意もなく、ごく自然に食生活がそうなった。朝と昼に食べなくとも、お腹が空かない。地球の気候変動のように、自分の身体にも変動が起こっているのだろうか?あるいはただの老化?
サイボーグの夏。お盆だ。死んだ魂を迎え入れ、ふたたび送り出す時分。今年の夏は死んでしまったかつての自分を送り出すことにしようと思う。
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honyakusho · 2 months
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2024年7月29日に発売予定の翻訳書
7月29日(月)には17点の翻訳書が発売予定です。
トンネル
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ルトゥ・モダン/著 バヴア/翻訳
サウザンブックス社
リトルブルーとあたらしいともだち
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アリス・シャートル/著 ジル・マケルマリー/原著 吉田育未/編集・翻訳
出版ワークス
光のカバラ : トラウマ×ネガティブ絶対集中領域【潜在意識の雁字搦め】はこうして解放される!
キャサリン・シェインバーグ/著 ミキマキコ/監修・翻訳 住友玲子/翻訳
ヒカルランド
サヴァナの王国
ジョージ・ドーズ・グリーン/著 棚橋志行/翻訳
新潮社
狂った宴
ロス・トーマス/著 松本剛史/翻訳
新潮社
ポール・マッカートニー写真集~1964年、僕たちは台風の中心にいた~
ポール・マッカートニー/写真・解説 藤本国彦/監修 荒井理子/翻訳
ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス
崩壊したソ連帝国〈増補新版〉 : 諸民族の反乱
エレーヌ・カレール=ダンコース/著 高橋武智/翻訳 袴田茂樹/著 佐藤優/著
藤原書店
体内時計の科学 : 生命をつかさどるリズムの正体
ラッセル・フォスター/著 高橋洋/翻訳
青土社
泥棒! : アナキズムと哲学
カトリーヌ・マラブー/著 伊藤潤一郎/翻訳 吉松覚/翻訳 横田祐美子/翻訳
青土社
運命のドラゴン : 泥の翼のクレイ
トゥイ・タマラ・サザーランド/著 田内志文/翻訳 山村れぇ/イラスト
平凡社
英国の邸宅遺産 : ロンドンの華麗なる館
ジェームズ・ストートン/著 フリッツ・フォン・デル・シュレンブルク/写真 ダコスタ吉村花子/翻訳
河出書房新社
私たちはどこにいるのか : 惑星地球のロックダウンを知るためのレッスン
ブルーノ・ラトゥール/著 川村久美子/翻訳
新評論
イグアノドンのツノはなぜきえた? すがたをかえる恐竜たち
ショーン・ルービン/著 千葉茂樹/翻訳
岩崎書店
核 安全性の限界 : 組織・事故・核兵器
スコット・セーガン/著 山口祐弘/翻訳
藤原書店
フィネガンズ・ウェイク Ⅰ・Ⅱ
ジェイムズ・ジョイス/著 柳瀬尚紀/翻訳
河出書房新社
フィネガンズ・ウェイク Ⅲ・Ⅳ
ジェイ��ズ・ジョイス/著 柳瀬尚紀/翻訳
河出書房新社
フィネガンズ・ウェイク Ⅰ・Ⅱ/Ⅲ・Ⅳ セット
ジェイムズ・ジョイス/著 柳瀬尚紀/翻訳
河出書房新社
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shigerunakano · 2 years
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不明化された存在ないしは問題系
とりあえず、なんとなく、情報量の少ない卵のような存在の、地球上の胎児は全員もれなく死なす(反出生主義を参照のこと)ないしは堕ろすべきだろう。その主導権を握るのは日本人だ。ロールモデルの形成。フライング的な判断であり、決して予言というわけでもないが。人類に子を作る資格はない。カトリーヌ・マラブーがそのような議論を展開している。恐らくマラブーの念頭にあるのは、合衆国における人工妊娠中絶に関わる議論だろう。しかし、合衆国と日本は思想的バックボーンはまったく異なる。日本の法律は中絶の擁護に事実上限りなく近く、アメリカとはまったく異なる。日本においては、そのような議論は通用せず、プロトコルがない。すなわち日本の民族性。「山を切り開いて建てた学校」。出産-ケガレ。なんにせよ日本人は中絶先進国としての責務を果たしてほしい。
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rakuhoku-kyoto · 3 years
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『地理哲学 ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』について』、ロドルフ・ガシェ、大久保歩 訳、装丁 北岡誠吾、月曜社、 2021年 3月刊
『持たざる者の文学史――帝国と群衆の近代』、吉田裕、造本設計 小野寺健介、月曜社、 2021年 3月刊
『真ん中の部屋――ヘーゲルから脳科学まで』、カトリーヌ・マラブー、西山雄二・星野太・吉松覚 訳、造本設計 北岡誠吾、月曜社、2021年3月刊
『私の肌の砦のなかで』、 ジョージ・ラミング、吉田裕 訳、月曜社、2019年
『デリダと文学』、 ニコラス・ロイル 、中井亜佐子・吉田裕 訳、月曜社、2014年
『〈わたしたち〉の到来――英語圏モダニズムにおける歴史叙述とマニフェスト』、中井亜佐子、月曜社、2020年
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tomtanka · 4 years
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
  僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できる���ろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力���発揮して、「生」を結びつけ���り見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
 短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。  私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。  短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。  マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「���ッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
 「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
 文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。  文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。  すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。  逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験���きる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸するこ���。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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mio3740 · 2 years
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現在の私の関心は、テクストのうちにあるファロス中心主義を追跡することよりも、哲学を身体的に形成する力の探究に向かっている。[...]哲学はただ整形外科的な目的によってのみ身体に働きかけるわけではない。哲学はただの調教でしかないわけではない。哲学はまた、エロティックなものを彫り込みもするのだ。このエロティックなものによって、精神のエネルギーとリビドーのエネルギーが新たに接続されるようになる。私が論じているのは、観念や隠喩としてのセクシュアリティではなく、言説がセクシュアリティに及ぼす効果なのである。哲学に入り込むことと私の身体に入り込むことは、最終的にひとつの同じ経験として混ざり合う。このように述べることができるとすれば、あきらかに、思考することを始めて以来、私はもはや同じ身体をもっていない。むしろそれ以来、私は複数の身体をもっているのである。それゆえ、こう言わなければならないのだろう。「哲学に入り込むことと私の複数の身体に入り込むことは最終的に混ざり合う」。私の欲望を流動化させ、パートナーたち——現実のパートナーのみならず、潜在的、論理上、テクスト上のパートナーたち——と私の「性的関係」を豊かにするための努力は私の性器を形成し、昇華とはまったく関係のない前代未聞の仕方で性器を振動させ、痙攣させ、実存させもしたのである。
カトリーヌ・マラブー「現実の脱自帯」『抹消された快楽 クリトリスと思考』
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dobedobedoing · 3 years
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210418
2~3週間ほど肌寒い日が続いて、今日やっとちょうどいい陽気の一日になった。午後から近所を散歩したが、日差しも空気も心地よかった。先週は風邪をひきかけた。ひきかけの段階で気づいて処置をしてこじらせずにすんだ。ジュネの恋する虜を久しぶりに本棚から取り出してぱらぱらと頁をめくっていた。ちゃんと読むには今は時間がない。他にピンチョン、プルーストを読みたいが時間がない。時間がないときに限って大作を読みたくなるのは、作品世界をバリケードにして立て籠もりたいということ。カトリーヌ・マラブーの「真ん中の部屋 ー ヘーゲルから脳科学まで」を本屋で立ち読み。千のプラトーのやばいところを引用しているのを見つけて買ってしまった。やばいところというのは「物理学者たちは言う。穴は粒子の不在ではなく。光より速く運動する分子なのだ、と。飛ぶ肛門。高速のヴァギナ。去勢など存在しない。」どんな文章なんだよ。ときどきStephan Moccioを聴いていた。難しいことはしていないように聞こえるが響き豊かで飽きない。
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takazumikuwabara · 6 years
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【思考】
カトリーヌ・マラブーの「後成説」。後のもの(2)が、先のもの(1)を規定するということ。元は発生生物学の概念。同じように、地震学においても震央(表層、2)と震源(深層、1)というように適用しうる。共に自然科学の概念だが、ドゥルーズの「反復」概念との通底性を感じないではいられない。1は2が後続することで初めて1(番目)としての意味を持ちうるようになる。2=反復が起源(2こそが1=最初である)というこの原理こそが人間社会に存在する多分野にわたる難問を理解する鍵となる概念になるのではないか。
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mio3740 · 2 years
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[...]本質(エイドス)とは、ギリシア人にとって、現前し始めたり現出したりする運動であり、力学だからである。本質は固定的な本性や審級ではまったくない。後世の形而上学的な硬直のせいで本質がそうなってしまったという事実は、本質というものの本源的な可塑性を何も変えはしないのである。
カトリーヌ・マラブー「リュス・イリガライ「女は閉じても開いてもいない」」『抹消された快楽 クリトリスと思考』西山雄二・横田裕美子訳
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01133-7.html
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rakuhoku-kyoto · 6 years
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.       『明日の前に――後成説と合理性』  カトリーヌ・マラブー/著  平野徹/訳
2018年6月刊行
四六判 並製 370頁
発行 人文書院
装幀 間村俊一
オビのことば 超越論的なものは、新たな生を開始する
カント以降の哲学を相関主義として剔抉し、哲学の〈明日〉へ向かったメイヤスーに対し、現代生物学の知見を参照しつつカント哲学の読み直しを試みた注目作。理性のあらゆる経験に先立つとされるアプリオリなものは、もはや役立たずの概念なのか。遺伝子と環境のかかわりを探求するエピジェネティクスを手掛かりに、カントに、そして哲学そのものに新たな力を賦活する。
目次などの、くわしい書誌情報は 人文書院 をご覧ください。
    下記のご本も参考になるかもしれません。
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   『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』   カンタン・メイヤスー/著   千葉雅也、大橋完太郎、星野太/訳
書誌情報は 人文書院 をご参照くださいませ。
 
 
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