#オランダ塀
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異国情緒と西洋建築 長崎
長崎は長い間、西洋諸国との交流が盛んであり、その影響を受けた異国情緒溢れる景観や洋風建築が特徴です。以下に、長崎の異国情緒と洋風建築に関する詳細を述べます。 1. 出島(でじま): 出島は、江戸時代にオランダ商館が設けられた、人工の島です。長崎港の中心に位置し、当時オランダ人が長崎に滞在していた唯一の場所でした。この島は高い塀で囲まれ、海外からの交易が行われた場所であり、西洋文化が最初に日本に入ってきた場所の一つです。 2. グラバー園: グラバー園は、英国人商人トマス・グラバーが築いた庭園と洋館です。洋風の建物が点在し、バラや樹木が植えられた美しい庭園が特徴です。海外からの情熱的な風情が感じられる場所で、現在は長崎の代表的な観光スポットの一つとなっています。 3. オランダ坂: オランダ坂は、長崎市の中心部にある石畳の坂道で、西洋風の建物やレストラン、カフェが軒を連ねるエリアです。坂道に沿って建てられた洋風の住居や店舗があり、異国情緒を感じさせる雰囲気が漂っています。 4. 洋風建築の教会: 長崎にはキリスト教の歴史的な背景もあり、洋風の教会や聖堂が多く存在します。長崎には長崎大浦天主堂や十六聖人堂など、異国情緒溢れる西洋風の建築物が多く残っています。
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Exoticism and Western architecture Nagasaki
Nagasaki has long had active exchanges with Western countries, and is characterized by its exotic landscape and Western-style architecture. Below, we will provide details about Nagasaki's exotic atmosphere and Western-style architecture. 1. Dejima: Dejima is an artificial island where a Dutch trading post was established during the Edo period. Located in the center of Nagasaki Port, it was the only place where Dutch people stayed in Nagasaki at the time. This island is surrounded by a high wall and is a place where trade from overseas took place, and is one of the places where Western culture first entered Japan. 2. Glover Garden: Glover Garden is a garden and Western-style mansion built by British merchant Thomas Glover. It is dotted with Western-style buildings and features beautiful gardens planted with roses and trees. It is a place where you can feel the passionate atmosphere from overseas, and it is now one of Nagasaki's representative tourist spots. 3. Holland Hill: Orandazaka is a cobblestone slope in the center of Nagasaki City, an area lined with Western-style buildings, restaurants, and cafes. There are Western-style residences and shops built along the slope, giving it an exotic atmosphere. 4. Western-style church: Nagasaki has a historical background of Christianity, and there are many Western-style churches and cathedrals. Nagasaki is home to many exotic Western-style buildings, such as Nagasaki Oura Cathedral and the Hall of the Sixteen Saints.
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平戸/長崎県平戸市【ウォーキング】平戸港交流広場〜オランダ塀〜オランダ埠頭〜オランダ商館〜オランダ商館通り〜寺院と教会の見える風景
平戸港交流広場 2021年11月19日、この日は川内峠(かわちとうげ)を歩いた。 https://niyodogawa.org/blog/outdoor/walking/japan/45043/ そこから車で、平戸港交流広場(ひらどこうこうりゅうひろば)にやってきた。 平戸港交流広場は長崎県平戸市宮の町(ながさきけんひらどしみやのちょう)にある広場だ。 自走式の有料駐車場だが、2時間までは無料で利用できる。 平戸市観光交通ターミナル・平戸桟橋の横にある広場。 周辺に、松浦史料博物館、平戸オランダ商館、寺院と教会が見える風景、平戸ザビエル記念教会など平戸の主な観光��が固まっており、散策の拠点となる広場である。 一般車両駐車場はコインパーキングになっており、2時間までは無料。約50台停車できるが、連休・お盆・年末年始などは満車になることが多いので注意。(満車の場合は平戸市第1・2有料駐…
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#オランダ商館#オランダ商館通り#オランダ埠頭#オランダ塀#キリシタン#キリスト教#ザビエル#ソテツ#フェリー#ポルトガル#三浦按針#元寇#光明寺#国際貿易港#大砲#宮の町#寺院と教会の見える風景#平戸ザビエル記念教会#平戸城下の街並み#平戸島#平戸市#平戸港#平戸港交流広場#松浦資料博物館#砂岩板石群#観光案内所#観音地蔵堂#足湯#銅像#長崎県
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宮崎正弘メルマガ
宮崎正弘氏メルマガ
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)80年目の12月7日、ハワイ真珠湾攻撃記念日。
12月7日は、日本海軍連合艦隊空母群が、ハワイ真珠湾攻撃を記念する『Pearl Harbor Day』という日である。攻撃開始時間は、日本時間では80年前の12月8日午前3時23分、ハワイ時間では7日午前7時53分でした。
連合艦隊空母群より発進した、合計183機の急降下爆撃機と戦闘機による第1波と、それに次ぐ167機による第2波の艦載機の奇襲攻撃にアメリカ側では民間人68名を含む2,403人が亡くなり、1,178人が負傷しました。
『トラ・トラ・トラ』と真珠湾に終結していたアメリカ太平洋艦隊総攻撃が開始され、当時最高の性能が在った酸素魚雷と猛訓練のパイロット達が職人芸で、一隻ずつ確実に命中、被弾させた急降下爆撃機と雷撃機の攻撃で、アメリカ艦隊は、戦艦5隻を含めて18隻の船が沈没または大破、350機の飛行機が破壊、大破の損害を受けました。航空魚雷が何本も命中して、最も被害が大きかったのは沈没した戦艦アリゾナでした。
その火薬庫の大爆発で、真珠湾の海底に鎮座沈没で1,102名が命を失いました。
私が実感と体感でこの12月7日、日本海軍が攻撃した『ハワイ真珠湾攻撃記念日』を思い出します。
最初の実感は来たばかりに年の4��年前の12月7日の事でした。友人が共同で開店準備をしていた店の建築許可を貰いに窓口に行って、そこの担当者が申請許可を貰いに行った友人をつかまえて、『今日は何の日か知っているか?』と言う質問に、『さて・・!何の日か・・・?』と答えたら、『Pearl Harbor Day』だと教えられ、『この腕を無くした・・』と見せ付けられたと聞いて、実感として先ず感じました。
32年前に2度目の家に引越しをしてから、隣の住人が12月7日の早朝から私の左側の塀に星条旗を高々と掲揚していました。嫌がらせと直ぐに感じましたが、口先で偏見の言葉を吐き、そして差別していました。
私もそれを感じて彼が死ぬまで30年、一度も言葉を交わす事は在りませんでした。 私は現在はアメリカに帰化して、アメリカのパスポートで祖国日本を訪ねます。しかし、アメリカ人と議論する時は堂々と祖国日本を擁護致します。
私の持論は、『貴方がたアメリカ人は、大和民族の日本人を侵略者で世界制覇を狙う軍国主義国家であったと決め付ける事は如何な事かと、反論致します。』
当時、昭和14年7月、日米通商航海条約はアメリカに破棄され、日本政府は非常な圧迫と政治的な緊張下での立場を受けており、昭和15年5月頃は、アメリカの大艦隊が、ハワイに集結していたという事実を知っているかと話します。
「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を同じくして、日本企業がこれらの国で預金口座、貿易決済などの資金も全て凍結され、原料資源輸入のための支払いが不能となり、また輸出の代金も日本に送金できなく、貿易決済資金が無く、結局日本は輸出入を完全に閉ざされたのを知っているかと質問すると、大抵のアメリカ人は答えが在りません。
当時の列強が緊密に連絡と連携をして対日経済制裁を遂行され、日本が自滅の道に追い込まれた事を知っているかと質問致します。これも答えが無いか、彼等は答えに窮します。
日本はアメリカやオランダ領のボルネオ油田などからの、全てのオイル供給を望めない様な有様の窮状では、石油貯蔵もどんなに節約、統制配給しても1ヵ年で底を突き、重要産業は全て破壊され、生産停止され、国防上の備蓄船舶燃料も2年以内には完全に底を突き、海軍艦艇はただのスクラップになる事を待ち、国家経済を全て失くす様な有様で、日本人がこの地球に座して死を待ち、国家生存権をこの世界から失くす事をしなくてはならなかったか? この質問にも大抵は答えなど在りません。
当時の日本は資源と言う物は、殆ど無く、『絹と絹糸の産業』で日露、日清戦争などの戦費を捻出した様な有様で、鉄鋼資源、石油、アルミ、ゴム、錫、銅などの多くの非鉄金属、綿や羊毛など全てを供給途絶され、枯渇して国家と言う存在を否定する列強の制裁から生き残る戦いに、彼等、自ら日本を戦争に引きずり出したのではないか? それを予測して準備していたのではないか? 貴方はそれをどう考えるか?
この質問にも大抵は返事が在りません。
1940年(昭和15年)アメリカや英、蘭、国防省は陸海空の一般戦備ならびにその南方諸地域での連帯と提携は緊密と強固になり、軍事拠点のアラスカ軍事根拠地の建設増加、12月には51ヶ所の飛行場増設、改修工事の予算を決定、日本を目標にした戦争準備と事前設営がなされ、またオセアニア、南太平洋での米英豪蘭其他の陸海空軍の大拡張が継続され、日本を目標とした軍備拡張がなされていた事と、それと同時に米国海軍省では1940年(昭和15年)1月以降に艦艇2831隻の建造契約をして、現在968隻を建造中なる旨発表しました。
1941年(昭和16年)10月下旬には米海軍の建造状況に関し、就役せる戦闘用艦船346隻、同じく建造中か契約済345隻、10月1日現在海軍飛行機4535機と製造中のもの5832機なる旨発表していた。
アメリカ政府は日本を経済的な麻痺状態に追い込むと同時に、米国は対日軍備の増強を続け、日本側は鉄も石油も多くの産業資源の輸入を止められ、その軍事力は日々衰弱し破滅する一方であったが、米国はその国力を傾けて各国と協力と同盟して軍備大拡張に邁進していたのであるが、貴方はそれを知っていたか?
この質問にも大抵は返事が在りませんし、知らない人ばかりです。
東京裁判では、キーナン検事が冒頭陳述で述べている事を我々日本人も考えなければなりません。
『彼ら日本人は文明に対し宣戦布告をしました。彼らは起訴状に列挙されている偉大な民主主義諸国に対し侵略戦争を計画し、準備したのです。世界の支配および統御が彼らの共同謀議の趣旨であったのです。』
『日本が世界を支配しようとしてアジア各国に侵略戦争を起こした』という戦後の東京裁判史観と、それに同調して、日本人を卑屈な立場に考える人もいる事を客観的にもう一度考える事が重要と思います。日本人にも民族自衛の立場と独立した国家としての価値観があると思います。東京裁判でインド人の判事がただ一人、国際法の立場から日本を弁護し、擁護した弁論で連合国の判事達に対抗した事を忘れてはいけないと思います。
極東国際軍事裁判判事『パール判事』の彼の主張は『無罪』でした。
貴方も移住した国で、たとえ、その国に帰化すると言うことになっても、祖国日本の大和魂までは捨てる事は無用なり。
(桑港老亀)
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UK & EUROPE
【旅日記① ✈︎】
「久しぶりに故郷のガーナに帰るのがとても楽しみなの」
そう嬉しそうに言っていたのは空港からのホテルに向かうシャトルバスで偶然一緒になった女性だった。故郷を想う彼女の気持ちがジワッと伝わって来た。
台風の影響で飛行機が大幅に遅れていたため、トランジット先のドバイで一泊する事に。もし、飛行機が予定通り飛んでいたらこの出会いは無かった。そう思うと遅延もなんだか悪くない。他にもスイスに物理の勉強に向かう学生さんや、スペインへ旅するカップル、世界中を旅するおじいさんも。みんなおんなじ境遇なだけに、自然と会話が弾んだ。出会いとは面白いものだ。
無事にスコットランドのグラスゴー空港に到着。ボーダーでのVISAの確認でだいぶ待たされたから、預けた僕のスーツケースが一つだけ、グルグルとターンテーブルで回っていた。
グラスゴー空港から、エディンバラへ向かう。たくさんの観光客が訪れる街で、メインストリートは賑やかだけど、一本路地を抜けると静かで、シンプルな道が続いている。
町並みを眺めながら、滞在先のアパートで少し休憩した。
さて、エディンバラ、グラスゴー、ベルファスト、ダブリンとスコットランド、アイルランドの4日間続くライブの始まりだ。
いつもツアーの最初は自分たちのリズムを、タイミングを、会場の空気を確かめながら演奏している。8月のノースアメリカの感覚が残っているけど、また一から探していこうと、今回は新曲や、今までやったことのない曲も取り入れてみた。
ツアーの中での課題は色々あるけれど、一つ「サウンド作り」がある。どこでもそうだと思うけど、自分たちの求めているサウンド、質感を表現できたらとても嬉しい。でも、なかなかそうはいかない。PAの人とのコミュニケーションがとても大事になってくる。その場限りの生み出す音をもっと大切にして行きたいと思う。
そして今回、初めての経験が一つあった。グラスゴーのお客さんがStuの歌を完璧に覚えていて、一緒になって歌ってくれたこと。しかもStuより大きな声で。笑 でもそれはすごく感動的で、忘れられない夜になった。一緒に口ずさむわけでもなく、一緒になって歌う。なんだか、今の「シェア」する時代の流れを感じた夜だった。
ベルファスト、ダブリンのライブ���大盛況に終わってひと段落。次はイングランドのマンチェスターへ。
と、思ったら予定していたフェリーが悪天候でキャンセルに。
僕らには少し時間がある。アイルランドの少し南にある街、キルケニーへ車を走らせた。
アイルランドのキルケニーは何かのスポーツ競技があったようで街が沢山の車で溢れていた。僕らはホテルに着いて一息つくと外をぶらぶら散歩した。少しゴツゴツした石畳み、カラフルなお店、小さなトンネル、大きなお城、そんな街並みを楽しみながらアイリッシュの音楽を聴いて食事をした。
僕らは大体、生活のリズムが似ている。 歩くペースも、起きるタイミングも、歯を磨くスピードも。笑 そして食の好みも似ているのが不思議。 この旅ではもう5回くらいベトナム料理を食べている(極端な所も似てる)
フェリーの日程を1日ずらして、ダブリンからウェールズへ。そしてイングランドのマンチェスターへと車を走らせた。
イングランドには会いたい人がたくさんいる。少しずつだけど会いたい人に実際に会って、繋がっていけている。本当にご縁というものに感謝したい。
マンチェスター、ノッティンガム、ロンドン、サウサンプトン、ブライトン。5日間で5公演の始まり。
24食分持ってきたインスタント味噌汁はあと10食ほどに…
旅の途中にて
目が合う度にウィンクしてくれるおじいちゃんと、何度も何度もハグしてくれるおばあちゃん。何にも知らなかった18歳の僕に本当に優しくしてくれました。12年経っても、お帰りと言ってくれる。
大切な時間。
あっという間に時間が過ぎて行く。気づけば、17日間で14本のライブが終わったところ。
少し前になるが アイルランドからイングランドに入りマンチェスター、ノッティンガム、ロンドン、サウサンプトン、ブライトン。 どれも満員のお客さんと一緒に熱いライブ。特に印象に残ったのはロンドンでのライブだ。いわゆるライブハウスみたいな箱だったのだけど、お客さんが、思い思いに床に座って、寛ぎながら聴いてくれた。そして僕が久しぶりに感じたことは、照明がLEDでは無かったので、どんどん室内が、ステージが、暑くなっていく。これ、すごく久しぶりに感じた。ライブハウスならではのというか、前はこういう感じだったなぁって。そしてとても良いなあと思った。
ブライトンの街と茅ヶ崎の街を重ねながら出発。トンネルを抜けてフランスへ。
エッフェル塔の近くに滞在出来たので、少し散歩をする。エッフェル塔の周りには観光客用の塀?のようなものが設けられていた。どうしてこうなっちゃうんだろうと、そんな話をしながら、みんなに愛されている塔を青空の中、クッキリと見た。
“身体をその土地に委ねてみる”
という事をこの旅では少しながら意識しているが、こういった偉大なものを間近で見た時、自分がまるでタイムスリップしたような感覚になる。ずっ���昔から愛されて続けて来ているものにはそういった、時間を超える力があるのだと思う。
フランスの公演も大盛況、僕らはベルギー、ドイツ、オランダへと向かう。
天気にも恵まれ、晴天続き。まるで夏のように暖かい。僕の名前は ”夏の樹”という意味なんだと、ここでも晴れ男っぷりをアピールしておいた。笑
ベルギー、ドイツ、オランダでの5公演を終えた。どの公演も大盛況に終わり、ライブのリズムの中に躍動感が生まれてきたように思う。リクエストなども受けたりしながら、僕らは毎日のように演奏している。
この何日間か、NYからカメラマンの友達の Sanae Ohno さんが合流してくれたので、リハーサルの様子やライブ写真を撮ってもらえる事に。とても有難い。 僕もStuも、写真が好きだけど、どうしても2人でのライブ写真や、オフショットなどは撮れない。一緒に旅してくれる仲間がいる事はなんて素晴らしいんだろうと思う。
アムステルダム公演はソールドアウト。そしてこんなに素晴らしい会場で演奏させてもらった。教会に響く自分たちの音楽を、客観的に楽しみながら聴けたような気がする
アムステルダムでは19歳の頃から一緒に演奏してる Arisa Safu が聴きに来てくれた。長い長い、バンドメンバーだ。Stuを紹介してくれたのもArisaだから、こうやって繋がって本当に嬉しい。
Arisaは生き生きといていた。自分らしくいれるっていう事はとても大切な事だと思う。そしていつも頑張っている姿に勇気をもらう。
ありがとう。
ロッテルダムのライブを終えてオランダからドイツに入りハンブルクへ。そしてデンマークのコペンハーゲン、ドイツに戻りベルリン、ポーランドのワルシャワへと旅路は続いた。このツアーの山場と言っても良いかもしれない。起きてすぐに出発、長い移動、演奏、寝る。この繰り返しだ。
街並みをゆっくり眺める。なんて暇は無いので、その街に感じる色や、匂いや、人の雰囲気を少しでも頭にインプットしている毎日。実際に来てみないと分からないことがたくさんある。
2人の体調はというと、僕はとても良い。8月のアメリカツアーからの教訓から、食事の量を減らし、炭水化物を控えるようにしている。Stuは8月に疲れで喉を痛めてから声の調子がいまいちで、合間合間に蜂蜜レモンジンジャーティーを飲んでいる。毎日90分以上歌い続けるからそれは疲れるよなぁと横で心配しながら見ている。
旅は、良いことばかりでは無い。
体調はもちろんのこと、ストレスも溜まってくるだろう。イライラする事だってある。
うまくいかないときはどうするか。辛そうにしてる人が隣にいたらどうするべきか。
考えるしかない。向き合うしかない。行動するしかない。
旅は自分を見つめる、そんな貴重な時間を与えてくれる。
道はオーストリアのウィーンへ。
オーストリアのウィーン、チェコのプラハ、そしてまたドイツに入ってフランクフルト、シュトゥットガルトのライブを終えた。そして明日はドイツの最後の都市ミュンヘンでのライブだ。
ハードなツアーは3週間くらいが身体的にも、集中力的にも限度かなと思っていたけど、ここにきてさらにいいライブができていると思う。一つ壁を越えることができたかな。 余計なことを考えなくなってくるし、何より経験。音響がやりにくくても、照明がチカチカ眩しくても、いい音楽を届けることだけに集中できていると思う。
そして本当に感謝したいのは、それぞれの街に僕らの音楽を好きでいてくれる人たちがいること。それは噂だったり、ラジオだったり、SNS、ネット配信からだったり、いろんなところから繋がって一つの会場で一緒に歌を歌っている。幸せな瞬間だ。
明日のミュンヘンは約400名のお客さん。
会場中に響く歌声が今から待ち遠しい
もう、いよいよここまできたかという気持ち。ライブも残すところ4本。ミュンヘンでは満杯のお客さんと一緒に歌い、素敵な町並みを歩き、眺める。そして壮大な景色を見ながらスイスへと移動した。感動の毎日だ。
前にツイッターで書いたけど、こういった心動く物事に出会った時 "家族や、友達にも見せてあげたい" という気持ちが強くなってきた。自分が感動するものを違う人の心で見たら、どう感じるだろう。子供が見たら、どう思うんだろう。強くそう思うようになった。
今は世界を旅しているけど、僕は日本をまだまだ知らない。行ったことがある場所なんて数えるほどだ。
旅の途中で、ふと、来年家族で旅をしようと思い立った。
まずは日本から。新しい感動を、家族で一緒にと。
そしていつかこのツアーで回った場所に家族で戻ってこれたら、少しは案内できるかな。
この旅は、未来に繋がる旅になっていると実感している。
今日でラスト公演。2人とも出来ることを精一杯やる。終盤になると集中するのはそれだけ。
スペイン、マドリードはソールドアウト。感謝を込めて演奏しよう。
行ってきます。
終わりに
こんな経験はなかなか出来ないと思う。
“楽しい旅はあっという間”
と、言うのが普通だと思うんだけど、今回の旅は���ごく長く、濃く感じた。楽しいことも、辛いことも、全部一緒に旅したから。その分、時間がゆっくりと過ぎていき、自分と向き合う時間をくれたんだと思う。
2人で、15カ国40日間30公演。移動距離13000キロ、全部車移動。
数はたいして重要じゃない。
楽しい事だけじゃなく、辛い事と向き合いながら、相手のことを想いながら、旅出来たこと。
苦しい時、ふと見た景色に心洗われる経験。
自分の無力さを感じること。
そしてそこから新たな自信へと繋げる道を見い出すこと。
それをこの旅の中で経験出来た事は本当に貴重だと思う。
長い間待っていてくれている家族、応援してくれた皆さん、聴いてくれたたくさんの方に本当に感謝したい。
本当にありがとう。
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オランダ塀 https://www.instagram.com/p/CbU0zVkrPP4/?utm_medium=tumblr
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ふざけるな!日中歴史共同研究
先日、この研究会から報告書が出た。
いわゆる南京「虐殺」については、最初から「あった」と言う視点で話し合いをしている。虐殺の定義については触れていない。 南京では便衣兵(普通の市民の洋服を着て、日本兵を狙撃する)が横行。この行為は戦時国際法違反で射殺されても文句は言えない。 ところが、そんなところには触れないで、日本側は最大20万の虐殺があったと驚くべき主張をしている。
人口が20万の南京で、どうして20万全員を市街戦で殺すことが出来るか。日本軍占領後、南京の人口は30万に増えている。20万の人間を殺したのだから、死体の山で、その処理は追いつかないから死臭がただよっていただろう。そんな町に占領後、30万の中国人が移り住んで来るか。来るわけがない。 簡単な論理だ。 ところが、北京は30万殺されたと主張。20万しか住んでいないのに、何で30万殺せるのか。こうなるとバーチャルの世界。
この大いなる矛盾を「両論併記」にした。
戦争だから、戦争犯罪が絶対にないとは言えない。八路軍や国民軍も日本人を虐殺、強姦している。通州事件がそうだ。
※通州事件 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。 東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」
この研究会に参��した学者?は、この事実をどう考えるか?不思議で仕方がない。
それでいて、「天安門事件」は「中国の強い要請」で触れていない。ばからしいにも程がある。 北京政府は、文化大革命で何人の同胞を粛清したか。葉剣英が言っているが、400万人だ。当人が言うのだから、実際はその二倍か三倍粛清しているだろう。更にチベット侵略では200万人。 そして、「今、現在」も「反革命」と言う冤罪で、地獄のような牢獄に多くの人がつながれ、拷問を受けている。
※チベット侵略の実態 「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。 貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた」
大体、「歴史の共有など」出来るわけがない。北京の「共有」とは、北京に都合のいいような「共有」である。
ところが、日本政府は、何しろ「愛を24回も演説に入れる」総理だし、「相手の嫌がることは言わない」と言う、『完全に外交を理解していない』外務大臣がいる国だから、アメリカなら怒って席を立つ、くだらない論議に真剣に税金を使って参加し、自国の歴史に汚泥を塗っている。
「真の友好は、歴史の真実を見つめ・・」とか、少女のような反論が帰ってきそうだが、じゃあ、アメリカ、イギリス、オランダ、スペインなどは、旧植民地と「歴史の真実の解明」とやらをやっているか。 「反省」をしているか?していない。国際社会の常識だからだ。 ましてや、バーチャルのような、非現実���歴史観の議論など最初から相手にしない。だから、北京にアヘンを持ち込み「侵略」した、イギリスには北京は一言も文句を言っていない。 アヘンを持ち込んだのは事実だが、南京は大虐殺などあり得ない。仮に少数あったとしても、南京を放棄して逃走した国民軍司令官に責任はある。 「反省」しているのは、自虐史観のマゾと日光サル軍団くらいだ。
アメリカ占領軍に植えつけられた「自虐史観」そろそろ止めるべきだ。日本は主権国家だ。国会議員の皆さん!その意味、知っていますか? アメリカが日本に求めているのは、パートナーとしての役割だ。その責任を果たして、日米地位協定などと言う、占領政策の遺物を改定することを主権国家として「対等」に議論すべきだ。
外国人は自己主張がハッキリしている。日本的あいまいさ。わかりやすく言えば、今の総理のような人間は侮蔑の対象でしかない。自国を卑下することを税金でやっている、世界で唯一、自国を独立国・主権国家とは認めていない。
その位のこと、国会議員なら分からなければならない。何のために国際交流をしているのか。だから、昔、ビゴーと言う漫画家にバカにされた風刺画を書かれた。ビゴー知らない!明治時代に活躍?した人物。
まあ、そろそろ、まともな人間で、まともな政党をつくり、外国ではあたり前の政治、外交、教育をしようじゃあありませんか!
2010年2月2日(火) No.481
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手紙2016/10/2
お元気ですか? 10月に入り、ようやく青空と再会できほっとしています。先月は都内も似た状況だったかもしれませんが、山陰地方のように傘が必要な毎日。湿気が多く大変でした。それでけではありません。気温が下がり日照率は30%を切り、そのため広島カープの如く今が全盛のはずの赤トンボは消滅してしまったのです。 そんな不順なあり様から冬の寒さは厳しいと考えてますが、安倍とプーチンの「ホット」なあり様はどうでしょうか。案外これまでの折衝で、北方領土返還の目途がついたと安倍は判断しているようでもあるし、プーチンにしてもクリミア半島奪取の悪役的イメージを北方領土返還でもって払拭したいと__。そうであれば2島返還には応じる可能性があります。 もちろん北方領土は4島返還が原則。でも安倍は弱体化するアメリカにばかり傾斜せず、将来あるかもしれない中国とロシアの同盟化にくさびを打ち込む意味からも2島返還で妥協し、あとは解散総選挙で更なる大勝をもって批判を封じる狙いかもしれません。石破が早速、北方領土返還は4島一括が望ましいと牽制してましたが、所詮は多勢に無勢。どうなる訳でもないでしょう。 むしろプーチン側にいく���かの問題があるかもしれません。例えばロシア国民の7割強は2島返還にも反対しているとか。つまりは戦勝国が敗戦国へ領土を返還するのはおかしいという訳でしょう。しかもロシア国内では北方領土は殆ど話題になっていないそうな__だから2人の会談で返還が決まったとすれば、あまりにも唐突な印象を与えるかもしれません。何が言いたいかというと、80%以上の支持率とはいえ、どんな少人数の反プーチン派の動向にも苛立ちを隠せないあり方から、実際の支持基盤はかなり小さいのではとの見方もあるからです。ともあれバラエティショーが楽しみ__でしょう? ロシアで思い出したけど、『レーニン対イギリス秘密情報部』(ジャイルズ・ミルトン著/原書房/3500円)が面白いと日経新聞書評欄に載っていたし立花隆も手に汗握る戦いの記録みたいな評をどこかに書いていました。まあこんな文章に騙される方が悪いのですが、びっくりするほど大雑把な内容で、レーニンを「悪の代表」と決めつけているため、イギリス秘密情報部はやりたい放題。 ロシア革命への軍事介入に失敗するとチャーチルは、ヒ素系ガスを放出する爆弾を投下。そうした化学兵器を5万発も使用して、ボリシェヴィキ革命を壊滅しようとしたのですから、イギリスという紳士の国も大したものであります。 だが赤軍は崩壊せずイギリスは撤退。その際に未使用のガス爆弾4万7千発余りを、イギリス軍はロシアの50キロ沖の海中に投棄。それは今なお75メートル下の海底に沈んでいるのだとか。知らなかったでしょう。 この本がなぜつまらないかというと、訳者があとがきでも触れているけど、著者は当時の諜報員が帰国後に、自らの「冒険」を回顧録や記事として残しているのを資料に書き上げたためでしょう。今では考え難いのだが、スパイ活動を公表できたのですね。だから主観的で誇張した表現があるのは避けられず、読者もそれを求めたのでありましょう。ちょうど「007」のジェームズ・ボンドのお話のように。 「知の巨人」と称された立花隆は今だに健在で、『週刊文春』の「私の読書日記」というコラムでは、ニュートン別冊『マテリアル革命』を取り上げ、 これからの数年、ここに書かれているような大変化が、世界の科学技術界、産業界、経済界のすべてにおいて相互連関しながら同時進行していくはずだ。(略)ノーベル賞もこの分野から次々に出て、その何人かはここにあげられている日本人から出ることはほぼ確実と思われる。 と断定しておられるし、下川耿史監��『刑罰変態性欲図譜』(柳沼澤介編/皓星社/2800円)の紹介では、 もとをたどると「徳川幕府刑事図譜」とか、明治の元勲大島圭介の長男がヨーロッパで集めたコレクション、大審院判事尾佐竹猛の集めた刑事事件コレクションなど、いずれも由来はたしかである。国際的に珍品として高く評価される図版が満載。(略)これは何だと目を疑う絵図が次から次に出てくる。人類は大昔からこのような残虐行為をして喜んでいたのかと思いイヤになった。アウシュヴィッツはこの延長の上に生まれたと思った。 と大胆に新説を唱えておられました。これでは「知のトランプ」と__。 そのトランプですが、マスコミは「大胆な発言」が裏目に出てクリントンに差をつけられつつあると評しています。面白いことを言うだけでは、なかなか大統領の座に近づくのは難しいかもしれません。しかし「トランプ現象」の基盤は格差の拡大にあったはず。それが最早政界主流派の論議では是正不可能なほど拡大した現実に対処するため、原点に依拠して、いうなれば「一点突破」主義的に闘えば、まだ展望はあるでしょう。 それに多くの調査結果ほどは、両者の間に差はないだろうと思われます。トランプ支持のなかには、調査等で公にするのが恥ずかしいという「隠れトランプ派」も少なくないでしょう。アメリカ社会の現状からして、このままスムーズにクリントンが当選するとは__どうでしょうか。 ところで映画評論家の町山智浩の報告によると、トランプ集会の会場の外には銃で武装したいろんな集団がうろついていて、あたかも武装蜂起前夜のような感じもあるようです。彼らが人種差別的パフォーマンスとして集まっているのか、それとも権力に対する自衛としての__今の状況では前者でしょうが、社会主義者を蛇蝎のように嫌った時代は終わり、当初サンダースはそう自称していたのですからね。人種差別で格差解消にならない事実に気づいたとしたら「地球は動いている」となるかもしれません。 もう一度『週刊文春』(9/29号)です。「新家の履歴書」コーナーで竹中直人は自身が監督主演した『無能の人』に触れていました。つげ義春の原作で映画はベネツィア映画祭に出品され金獅子賞を受賞。作品化にあたり竹中直人は脚本家の丸内敏治氏に「風吹ジュンさんのふくらはぎを揉むシーンは絶対書いて」って注文したそうであります。 丸内さんについては『そうぼう』に昔から登場しているので、ご存知の人も少なくないでしょう。ボクとしては新聞や雑誌にこのように出てき��くれると、殺風景な舎房のなかが急に明るくなったように感じられ嬉しいですね。 安倍ついでに小池嬢にも触れなければと思いつつ、遅くなってしまいました。豊洲移転問題が今頃浮上したあたりに、まずこの国のジャーナリズムの下らなさがあるでしょう。都庁には記者クラブが存在するのに、彼らは何をやっていたのでしょうか。移転問題とは利権問題に他ならず、それに絡むのが自民党の古い体質__東京という「近代的」な都市で、田舎の議会でも見られなくなった体質が温存されていたのです。 巨大な金額が動くところでは、サッカーにしてもオリンピックにしてもとんでもない汚職が行われているように、それが東京都議会でも起きていたというだけの話。しかも選んだ都民のレベルも今回は問われるでしょうね。 ちなみに国際ジャーナリスト組織である「国境なき記者団」が、4/20に発表した報道の自由度では日本は72位でした。'15年が61位でしたから、更にランクを下げています。この理由は、特定秘密保護法などの影響で自己検閲状況に陥っているためだそうです。 まあこれが「空気を読む」ということでしょうか。もともとこの国はそうした国民性にありますから、もう仕方ないような気がしています。学生のレベルにしてもどんどん落ちているだけにね。で、報道の自由度の1位から3位はフィンランド、オランダ、ノルウェーの北欧3国。 もっとも日経新聞(9/11付)のコラムに 最近はテレビや出版で日本を褒める情報があふれている。「外国人が感動したニッポンの魅力」といったはやし文句が心地よく響くのは、経済規模で中国に抜かれて自信が揺らいでしまった反動だろうか。 とあります。冷静に見ている人は保守派の中にも存在します。そしてこの続きが、 それが世界認識なら、とうの昔に観光大国になっている。 というのですからお見事。 そうそう築地移転を前に、海外からの観光客目当てに小さなダルマを作って売り出したのですが、どうやら目論見は外れたらしく在庫がかなり残っているとか。塀の中に30年以上もいてこんな話をするのは気が引けるけど、訪日客はお土産にダルマを買ったりしませんよね。発想が、感覚が、時代が違うと周囲には話しましたが、それでもボクは材料が遅れたりすると文句を言ったりして、ダルマ作りに励んでいますよ。 それでは又、お元気で!! 乱暴な文章ですみません。 (2016.10.2) 鎌田俊彦
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