#エンターテインメント女帝アスカ
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進化を続けるロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンリーダー内藤哲也の次なる発信は?
ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン内藤哲也の発信力
ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの進化が止まらない
常にファンの心理を分析しファンを楽しませるエンターテイナー内藤哲也
エンターテイメントなプロレスWWEは世界で大成功している。
WWEに身を置く日本人レスラー中邑真輔や女帝アスカは常にWWEの頂点まで登り詰めたスーパースター
片言の英語と日本語のパフォーマンスでWWEユニバースを満足させる中邑真輔とアスカ
シャーロット・フレアーと対戦したアスカもシャーロット・フレアーをマイクパフォーマンスで圧倒した。誰もアスカを止められないと言って
女王VS女帝対決を盛り上げた。
今プロレスの人気レスラーになるためには発信力が重要となるのは明白である。
IWGPインターコンチネンタル選手権で鈴木軍タイチ相手に防衛した内藤哲也はタイチに一歩踏み出す勇気が欲しいとコメントした。
内藤哲也は…
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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観た
さらば、全てのエヴァンゲリオン。
映像作品としては過去にTVと旧劇場版の二度の完結を経て、三度目である新劇場版が始動してから14年。 前作のQからは9年が経ち、満を持して公開された三度目の完結編。
一切の文句もなく、本当に素晴らしい作品だったと思う。
まず、これまで難解な設定や用語、演出を数多く用いてきたエヴァという作品がここまで素直で、真摯で、正直な表現をしてきたことに驚いた。 昨年からコロナの影響で家で過ごす時間が多く、前作から間が空きすぎていることとシンの公開が迫っていることもあり、用語や設定への理解を深めるために過去作を見返したり考察を読む時間が多かったのだが、そんなことをしなくても問題ないつくりだった。
少し話は反れて、自分は最近めちゃくちゃな本数のアニメを観ている。
コロナ禍で家でダラダラと目的もなくそんなにやりたくもないソシャゲやそんなに観たくもないYoutubeなどに消えた時間があまりにも多すぎて生活にメリハリを感じなくなり、流石にまずいなと危機感を覚えたので、少しでも時間が空けばとりあえずなんでもいいから少しでも興味の湧いたアニメを垂れ流すようにした。
人に流れる時間は平等であり、限られた時間をどう使えば自分を最大限満たすことができるのかを無意識のうちに考えて行動するのが人間。 当然、つまらない作品よりかは面白い作品を観たほうがいいに決まっている。 その理念に従った結果、どの作品を観るか悩む時間が増え、アニメを観るという行為に対して腰が重くなっていた。 アニメやゲーム産業は年々拡大しており、それがスマートフォンとSNSの普及に伴ってコンテンツの増え方が数年前の比ではないのだ、なおさら限られた時間を有効活用する方法を考えなくてはならない。
私がアニメに夢中になったのは2006年に観た涼宮ハルヒの憂鬱で、それを境にそれなりの本数の作品を観てきたつもりではあるが、当たり前のように��だ観たことのない作品のほうが圧倒的に多い。 現在進行系で放送中のタイトルや過去の名作などざっと数えただけでも20本程は常に追っている状態で、色んな作品を観ていると、当然面白い作品とそうでない作品に分かれる訳で、両者の差はどこにあるのか調べたり考えたりするようになり、それらは全て縦軸と横軸で説明できることに気が付いた。
縦軸はシナリオがどう進んでいくのか、横軸はどういうジャンルやエッセンスなのか。
縦の線は、物語の出発点と着地点の距離によって長さが変わり、シンプルでストレートなほど多くの人に理解されやすい。 やっとの想いで好きな人と付き合う、死闘の末ライバルに勝つ、巨悪と闘い世界を救う。 これは、人間が本質的にそうあってほしいという願いであり、カタルシスを生む。
横の線はSF、ギャグ、恋愛、学園、スポーツ、ロボット、冒険譚、異能力バトルなど、要素が多ければ多いほど横に伸びる。 世界観の説明やキャラクターをどの程度掘り下げて描写するかによって深みも出る。
縦軸と横軸の終点を線で結んでできた三角形の面積の広さで、その作品のスケールの大きさや密度の濃さを客観的に表すことができる。 三角形の面積が広ければ広いほど、その作品は"面白い"と感じられる。
私が今まで観てきた中で、その面積が最も大きいと思う作品はコードギアス 反逆のルルーシュだ。
世界の1/3を力で支配する超大国「神聖ブリタニア帝国」の皇子・ルルーシュが、殺された母の復讐と生き残った妹の未来のため、自分達のことを守らなかった祖国に反逆を仕掛けるというあらすじの作品。 主人公が所謂"悪役"の立場であり、ルルーシュの親友でありブリタニアの軍人・枢木スザクと互いの正義や信念のもと敵対したりと、よくある物語の構造とは逆転しており、悪役側のルルーシュの視点から世界を見ることで、単純な善悪の話ではないピカレスクロマンなのである。 他にもロボットや学園、ラブコメといった要素がこれでもかというほどに多く散りばめられており、放送当時小学生だった私の目にはとても強烈で、鮮烈に映り、瞬く間に魅了された。 毎話毎話続きが気になりすぎる引きで終わり、あれほど一週間を待ち遠しく感じたのは初めてだった。
世の中にはこんなにも面白いアニメがあるのか、他にも面白いアニメはないのかとアニメを見漁っていたタイミングで出会ったの��エヴァンゲリオンだった。 しかし、絵と映像が綺麗で、話も演出も派手でわかりやすかったコードギアスとは対極的に、自分と同い年くらいのエヴァは絵も映像も古く、話も演出もとても難解な作品だった。 間もなくして中学に進学し、深夜アニメについて語り合い、情報を共有する友達ができ、どうやらそいつらもエヴァを観ているらしく、そしてエヴァの新しい映画が始まるという時期で、そいつらと一緒に新劇場版:序を観に行った。 最新のフォーマットでリファインされた新劇場版は、それはギアスと同じように強烈で、鮮烈で、旧作とは大きく展開が変わってくる破とQではそれが更に強く突き刺さった。 同じ映画を観に劇場へ複数回足を運んだのは破が初めてだった。 こんな作品を見せられたら一刻も早く続きを見たいと思うに決まっている。
思い続けて9年が経った。 人が9年も生きれば、色々ある。
Qを観てから私が過ごした9年間で最も大きなターニングポイントとなったのはWake Up, Girls!の登場である。
2013年、高校を卒業して浪人をしていた自分に彼女ができた。 浪人といっても予備校に通うわけでもなく、かといって家で勉強をするわけでもなく、家庭環境も悪く、悪く言えばただのニートだ。 彼女はそんな落ちこぼれの足元に咲いた一輪の花だった。 しかし受験直前の冬の季節、自分の未熟さ故にそのとき唯一の支えだった彼女と別れることになり、生きることに対しての意欲が全て消え失せてしまった。 身辺整理についても調べた。
そんな中に現れたWUGは、自分をどん底から手を引っ張り、引き上げてくれたのだ。 しかもそのWUGの監督は、強烈で、鮮烈なエヴァを生み出した庵野秀明に強く影響を受け、自分のルーツとなった作品であるハルヒで演出を務めた山本寛という。
自分は運命論者ではないが、流石に運命としか思えなかった。
WUGは私に人の想い、人の願い、人が生きていくことの強さを教えてくれた。 どん底の人生はもう上がるだけ、大学へ入学しバイトで稼いだ金はほとんどWUGを応援する為に使った。 これまでまともな夢や目標を持てなかった自分が初めて明確に「アニメを作りたい」という夢を持つようになった。
そんな私の第2の人生であり、青春であり、恋だったWUGが2019年3月8日に解散した。 成人した大人が人前でこんなに声を出して泣けるのかと自分で驚いた。 今後の人生でこの日より泣く日が来ないことを願う。
そしてそのちょうど2年後である2021年3月8日。 本当に、満を持して、ついに、ようやく、やっと、完結編のエヴァンゲリオンが公開されたのだ。
話は破→Qのように14年もぶっ飛ぶということはなく、コア化��たパリを浄化し、Qのラストでコア化した大地をシンジ達が歩いていくところからそのまま続く。
Qではネルフとヴィレの関係者以外の人物はほぼ全くと言っていいほど登場しておらず、サードインパクトによって人類は滅亡寸前だと誰もが思っていたであろうに、サードインパクトを生き延び第3村と呼ばれる集落で生活するトウジ達の登場によってその予想は大きく裏切られる。
序盤では第3村での生活に長めに尺が割かれており、サードインパクト(=ポストアポカリプス)後の世界で一生懸命生きる人達の力強さにめちゃくちゃ心を動かされた。 何もしたくなくても、何をしていなくても生きていれば腹は減るし、一人になりたくても隣人はいるし、腹を満たすために食べ物を得ないといけないし、一人では限界がある。 私が強く影響を受けたWUGも震災後の東北で生きる少女たちの物語であり、そして今私が生きる現実もコロナ禍の真っ只中である。 Q→シンは地続きであり、話の展開的にコロナが流行したからこういうものを描こう!となったというわけではないと思うが、これをエヴァンゲリオンという作品で描き、且つこのタイミングで世に放つということに何よりエンターテインメントの真髄を垣間見てAパートでは何度も涙が出そうになった。 人間が絶望し、どん底にいるときにこそエンターテインメントが求められる、という話はWUGの作中でも描かれており、私も本当にその通りだと思う。
「アニメを作りたい」という夢の話に戻るが、アニメ制作会社を何社か面接を受け、その中で山本寛監督と面接する機会を頂いたことがある。 私はそれまでアニメ制作のセクションで一番重要なのは演出で、作画が酷かろうが脚本が面白くなかろうが演出次第でいくらでもカバーできると思っていた。 しかし山本寛監督の認識は私とは異なり、「ドラマはそもそも脚本が面白くないと駄目」と言われてから認識が変わった。 冒頭で述べた縦軸と横軸の理論はこの面接の機会がなければ、認識できていなかったと思う。
この理論にエヴァを当て嵌めてみると、この作品は縦軸はまあそれなりだが、縦軸に対して複雑で難解な設定や演出故に横軸があまりにも長すぎる作品で、わかりにくいけどそういう”ぶってる”のを楽しむ作品だと思っていたし実際に膨大な量の設定の仔細を理解できている人は視聴者の半数にも満たないと思う。
しかし、シン・エヴァンゲリオンでは縦軸が爆伸びしたのだ。 今まで抽象的な言い回ししかしてこなかったゲンドウが、終盤でとてもわかりやすい言葉で心中を吐露する。 難しい言葉で取り繕ったり理論武装する必要はない、事はシンプルでストレートなほど多くの人に理解されやすいのだ。
私も今まで散々エヴァの知識について勉強したし、説明されて��い設定は山程あるがそんなことは本当にどうでもよくて、作品を味わい深くするスパイス、おまじないのようなものでしかない。 この映画の本質は別にあった。
第3村で一生懸命に生きようとしているヒトたち ヒトでない存在でありながら人間らしさと自己を形成していくレイ(仮称) シンジと同じくエヴァの呪縛を受けながら14年のギャップがあって素直になれないアスカ ヴィレの責任者としてではなく、最後にはかつて母親の代わりになろうとしていた頃のようにシンジを想って行動したミサト 自分の息子相手にATフィールドを発動してしまい驚くゲンドウ 自分のしたことのケジメをつける為に自ら行動したシンジ
誰もがわかりやすく、結局全員人間なのだ。 全員がちゃんと人間臭くて、全員好きになった。
全てのエヴァンゲリオンが消えた後の世界で、マリがシンジの手を取り、これからの世界で生きていく。
劇中ではニアサードから14年、現実では序から14年。 ラストシーンまで観て、これが庵野秀明がエヴァンゲリオンという作品を通して伝えたかった率直で純粋なメッセージであり映像であり表現なのだと感じたし、パンフレットのメッセージを読んでそれは確信に変わった。 最初はマリを庵野秀明、シンジを視聴者と重ねて「エヴァはこれでもう本当に終わったよ、これからは君達が進んでいくんだ」というようなニュアンスで受け取っていたのだが、パンフレットのメッセージを読んだ後にラストシーンのマリを安野モヨコ、シンジを庵野秀明に置き換えたら合点がいったし泣きそうになった。
加えて、ゲンドウの心中を知ったあとで今までの新劇場版の主題歌の歌詞を読むと、どこまで計算されて作られたのかを想像して怖くなる。
庵野秀明さんを始めとする全ての関係者の皆様、今までお疲れさまでした。 素晴らしい作品をありがとう。
とりあえず初日を観終えての感想なので一旦ここまで。 自分がエヴァという作品を語るには、この映画を観て感じたことの全てを伝えるにはまず人生の話をしないと駄目だなと思って書き始めたらなんか思ってたよりもスラスラと筆が乗ってきて5000字くらい打ってるし5時間くらい経ってて引いた。
全然まだ書き足りないことある気がするしまた何か気付いたことがあったら書き足します。
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